アメリカのハーフタイム

 なんか話題になってるようなので。 スーパーボールのハーフタイムに放送されたクライスラーの CM。語り手はクリント・イーストウッド。なぜ話題になってるかは自分で調べてね。

今はハーフタイムだ。

両チームはロッカールームで、後半どう戦えば試合ゲームに勝てるかを話し合っている。

アメリカもハーフタイムだ。

人々は仕事を失って苦しんでいる。

そして立ち直るためには何をすればいいのか、誰もが戸惑っている。

そして誰もが怯えている。これは遊びゲームではないから。

だがデトロイトの市民なら少しは知っているはずだ。

彼らはすべてを失いかけた。

だが我々の団結で、自動車の町モーター・シティは再び闘い始めた。

私はこれまでの人生の中で、数々の苦難の時代、数々の停滞の時代を見てきた。

お互いがお互いを理解できなかった時代。

心を失ったかのように見えることもあった。

分裂、不和、非難の霧が、前途を見極めることを難しくしたのだ。

だがそのような試練の後、我々は正義の旗の下に集い、一丸となって行動した。

それこそがアメリカ人だからだ。

我々は困難を切り抜ける道を探す。そしてもし見つからなければ、自ら道を切り開くのだ。

いま重要なのはこの先だ。

どうやって盛り返すか。

どうやって協力し合うか。

そして、どうやって勝つかだ。

それが可能なことは、デトロイトが示している。

彼らにできることは、我々にもできる。

この国は、パンチ一発でノックアウトされるような国じゃない。

我々はもう一度立ち上がる。そしてその時世界は、アメリカのエンジンの咆哮を聞くことになるのだ。

そう。アメリカはハーフタイムだ。

我々の後半戦が始まろうとしている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ネオ・フェミニスト映画

Neo-Feminist Cinema: Girly Films, Chick Flicks, and Consumer Culture 著者はオタゴ大学で教鞭を取るれっきとしたフェミニスト。オタゴ大学という名前は恥ずかしながら初耳だったが、Wikipedia によると、ニュージーランドでも一二を争う研究水準の大学らしい。

 本書の多くは、いわゆるガーリー・フィルム(girly film)の分析に当てられているが、ただ漫然と分析しているわけではなく、確固とした意図がある。

 それは、俗に「ポスト・フェミニズム」と呼ばれる社会風潮を、「ネオ・フェミニズム」という思想として位置づけ、その思想がガーリー・フィルムの中にどう現れているかを調べることだ。

 ポスト・フェミニズムという用語に明確な定義はないが、フェミニズムが社会運動として最盛期を過ぎて以降の社会風潮を指す言葉として使われている。アカデミックなフェミニストにとっては、フェミニズムの本来の理想を忘れ、そのスローガンを好き勝手に解釈していいとこ取りしている一般女性に対する、苦々しい心情のこもった言葉でもあるようだ。

 しかし著者は、ポスト・フェミニズムを単なるフェミニズムに対する反動としてとらえるのではなく、ネオ・フェミニズムと言うべき確固とした思想として認めるべきだと言う。ネオ・フェミニズムは第二波フェミニズムとほぼ同時期に生まれた思想であり、第二波フェミニズムの理想の(すべてではないにせよ)一部を継承しているという。

 著者の言うネオ・フェミニズムの根幹にある思想(ネオ・フェミニスト・パラダイム)は以下のようなものだ。

  • 女性の経済的自立の重視
  • 女性の消費による自己実現の肯定
  • 女性性の肯定
  • 女性の性的快楽追求の肯定
  • 家制度の相対化
  • 女性同士の友情の重視
  • 社会変革よりも、個人主義的な自己実現を重視

 これらは現代の一般人からは割と当たり前に感じられると思うが、アカデミックなフェミニズムの理想とは必ずしも一致しない。

 しかし著者は、現実の一般女性の要求に応えて来たのは、第二波フェミニズムよりもネオ・フェミニズムの方だと主張する。もちろん、ネオ・フェミニズムにもさまざまな問題点があり、そこにこそアカデミックなフェミニストの出番があるとも言っているが。

 著者によると、そもそもガーリッシュな女性という存在自体が、ネオ・フェミニズムの産物なのだという。家父長制下での女性は、常に娘・妻・母といった家制度内での役割を強制されていた。そこから解放されることにより、初めて自立した個人としての女性が生まれた。妻や母といった役割に縛られない女性は、いつまでも思春期のように性的魅力や性的快楽を追及してよいことになった。その結果、生物学的年齢から切り離されたガーリッシュな女性というものが誕生したというのだ。だからこそネオ・フェミニスト映画は必然的にガーリー・フィルムになるというわけだ。

 著者がネオ・フェミニズムのキー・パーソンとしてかなりの紙幅を割いているのが、ヘレン・ガーリー・ブラウン(Helen Gurley Brown) という人物。私は恥ずかしながら知らなかったが、"Sex and the Single Girl" というベストセラーの著者であるばかりか、雑誌「コスモポリタン」の編集長を 30 年以上も勤め、世の女性に多大な影響を与えた人物だという。

 そう聞くと私などには、フェミニズムにとって極めて重要な人物に思えるのだが、実はアカデミックなフェミニストがこの人物に注目しだしたのは割と最近のことらしい。私が所有する二冊のフェミニズム辞典(12)にも載っていないし、Google Books や Google Scholar に "Helen Gurley Brown" "feminism" などと入力して検索しても、出てくるのは最近の文献ばかりである。それじゃあアカデミックなフェミニストと一般女性の意識が乖離するのも無理ないよ、と私なんかは思ってしまうのだが。

 著者の来歴もなかなか興味深い。著者はカリフォルニアの出身なのだが、両親ともフェミニストで、フェミニストにとって「有害」なポップ・カルチャーから隔離されて育ったのだそうだ。 そして研究者になってから研究対象として初めて本格的にポップ・カルチャーに接したという。

In the course of researching popular culture for women as part of my doctoral thesis in the 1980s, I was shocked to discover not the downtrodden housewives that I had been led to expect by feminism, but a group of lusty, independent females determined to have fun, to succeed and to develop a healthy bank account, while masquerading behind a girlish demeanor. Popular culture generally, and women's magazines in particular, were not lamenting woman's fate - rather there was a mood of celebration and heated anticipation about what the present offered and what the future might bring.

(拙訳)私は、1980 年代に博士論文の一環として女性向けの大衆文化を研究する過程で、 フェミニズムによって予期していた虐げられた主婦ではなく、少女のような振る舞いに隠れながら、人生を楽しみ成功し健全な貯蓄を育てる決意に満ちた、自立した活力ある女性を発見して衝撃を受けた。大衆文化全般、特に女性誌は、女性の運命を嘆いてなどいなかった。むしろそこには、現在が与えてくれるものや、未来がもたらす可能性に対する、お祝いの気分や過熱した期待があった。

 ではフェミニズムやポップ・カルチャーに対するアンビバレンツな感情を表明するのかと思うとそうでもなくて、以後なに食わぬ顔で価値中立的な分析を続ける。そして最終章まで来てから、堰を切ったようにフェミニズムの現状に対する批判の声を漏らすのだ。

A further strand of feminist analysis of post-feminism is typically haunted by the specter of second-wave feminism that failed to fulfill its promise to deliver a utopian existence to those who embraced its message; such analyses tend to produce a critique of the form of lament. Subtending the feminist lament is the lost dream of feminism that was whole, unmarred by the dirty business of everyday life and by the bitter and sectarian debates that have marked feminist inquiry since its inception.

(拙訳)一般に、フェミニストのポスト・フェミニズムに対する分析は、その主張を受け入れた人々に理想郷をもたらすという約束を守れなかった、第二波フェミニズムの亡霊にとりつかれている。そのような分析から生まれる批評は嘆き節の形になりがちだ。フェミニストの嘆き節に潜んでいるのは、日々の汚れた仕事や、その探求が始まったときからフェミニストを悩ませてきた激しい党派的な議論によって傷つけられる前の、失われたフェミニズムの夢である。

 だからひょっとすると、最初から批判ばかりでは同業者に読んでもらえないと思って、わざとこういう構成にしたのかもしれない。邪推かもしれないが。

 本書で論じているのは、主に以下のような映画である。

 フェミニズム批評というと、教条的にないものねだりの難癖をつけるような批評を連想する人も多いかもしれない。確かに本書にも「主人公が目指すのは、あくまで消費社会の中での個人的な自己実現であって、社会変革ではない」みたいな分析が頻繁に出てくるが、だからその作品が駄作だとか決め付けるのではなく、あくまで事実として指摘するだけという姿勢を貫いている。だから、このへんの作品が好きな人でも、それほど不快にならずに読めると思う。

 著者は「プリティ・ウーマン」をネオ・フェミニスト映画の元祖としている。女性の自立を扱った作品なんて、もっと前からあったじゃん。それこそ連続テレビ小説とか…、と一瞬思ったのだが、著者がこの作品を元祖とするには理由がある。一つは、主人公が娼婦であることで、これが処女性・純潔性から解放された性的快楽の肯定を意味する。もう一つは、主人公が着飾って「変身」することで、これが消費による自己実現を意味する、のだそうだ。

 他の映画もそれぞれメルクマールとしての意味がある。「ロミー & ミッシェル」は恋愛より女性同士の友情を重視した映画、「キューティ・ブロンド」は恋愛より仕事を重視した映画、「メイド・イン・マンハッタン」は人種問題を取り入れてヒスパニック系に訴えようとした映画、「プラダを着た悪魔」はいわゆる「ファッション・フィルム」の代表、「セックス・アンド・ザ・シティ・ザ・ムービー」はいわゆる「イベント・フィルム」の代表、「恋愛適齢期」は中年女性の少女性を肯定した映画、ということになる。

 では日本映画でネオ・フェミニスト映画と言える作品はなんだろう、と考えて真っ先に思い浮かんだのが「下妻物語」。この映画をフェミニズム的な観点からくさしていたフェミニストの人がいたけど、この著者の言うネオ・フェミニスト・パラダイムからすれば、まさに王道を行くような映画だろう。女性性の肯定、経済的自立、消費による自己実現、女性同士の友情、すべてある。性的快楽の肯定の要素は薄いけど、篠原涼子演じる桃子の母親が一応その役回りだとも言えるだろう。

 私はもともと著者の言うネオ・フェミニズムに近い考え方なので(微妙に違うところもあるが、その点についてはこのブログに何回も書いたので省略)、本書を読んで考えが変わることはほとんどなかったが、フェミニズムの現状やフェミニストが現代の文化をどう見ているかを確認するという意味では役に立った。また、分析の過程で出てきた映画業界やファッション業界の解説は、その方面に疎い私にとっては、素直に勉強になった。このへんの感想は、読む人の思想や知識によって違ってきそうだ。

 いずれにせよ、一般女性の文化を上から目線で切って捨てるのではなく、正面から受け止めようとするフェミニストが現れ始めたことは、フェミニズムの将来にとってもよいことだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

God's Christian Warriors

     先日紹介した、CNN の God's Warriors シリーズの一つ。今度のテーマは、まさにど真ん中の直球で、アメリカの宗教右派である(^^)。

     盛りだくさんな内容で、例によって観ているだけで疲れてしまうような話も多かったが、政治に宗教を持ち込むなと訴えて支持を得ている牧師とか、環境問題でリベラル側に立つ神学者とか、少しは希望の持てそうな話もあった。

     森孝一先生なんかの本を読んでいればわかるようなことも多いが、その後のかなり過激な展開もいろいろ描かれているので、アメリカ社会とキリスト教の関係に興味のある人には観ることをお勧めしておく。

     CNN International では、この土日にあと 3 回ぐらい再放送があるはず。CNNj でも「神の戦士:キリスト教編」という題で、だいたい同じ時間にやってるみたい。

     改めて思ったけど、この問題は日本の文化保守の問題とも似てるよね。公の場所に十戒を掲載しよう運動は日の君運動みたいだし、進化論を教えるな運動は教科書問題みたいだし、過激な性教育に反対みたいなのも同じですよね。まあ、ある意味当たり前だけど(^^)。

     時間があれば、あとでもっと詳しく紹介するつもり。今日はとりあえず疲れた。。。 (番組を観てくれれば、疲れる気持ちもわかってもらえるでしょう(^^))

| | トラックバック (0)

金儲けの福音

    あなたはできる 運命が変わる7つのステップ  昨日の「ラリー・キング・ライブ」のゲストは、ジョエル・オスティーン(Joel Osteen)という宗教家。ぼくは不勉強にして知らなかったのだが、毎週 5 万人もの信者が集まる全米でも最大級のメガチャーチを運営し、処女作の「Your Best Life Now: 7 Steps to Living at Your Full Potential あなたはできる 運命が変わる7つのステップ)」は 500 万部を売り上げ、バーバラ・ウォルタースからも「2006 年の最も魅力的な人物ベスト 10」に選ばれた人物だという。そう聞けば、かねてからキリスト教とアメリカ社会の関係に興味があった私としては、調べてみないわけにはいかない(^^)。

     聞いていてひっかかったのは、この本のタイトルからもわかるように、彼の教義が宗教というより自己啓発セミナー的であることだ。調べてみると、このような教義は、「ワード・オブ・フェイス(Word of Faith)」運動の流れを汲んでいるらしい。

     ワード・オブ・フェイス運動については、検索してみてもほとんど日本語の資料が見当たらないのだが、唯一、映画秘宝という雑誌の「高橋ヨシキの悪魔の映画史」という連載の中にわかりやすい説明がある。 (この連載は、バックナンバーも非常に興味深く、キリスト教とアメリカ社会の関係に興味がある人は必読である。)

     この運動の特徴的な教義の一つとして、"Prosperity Gospel" というのがあるらしい。これは、直訳すれば「繁栄の福音」ということになるが、特に "financial prosperity" を強調しているということなので、表題のように「金儲けの福音」と訳してもあながち間違いではあるまい。要するに、信仰すれば、健康になって社会的にも成功するよ、という話で、完全に現世利益的なのである。

     上記の高橋ヨシキ氏も書いているように、これは、キリスト教本来の教義とはかなりかけ離れているように見える。もっとも、キリスト教の教義というのは、別にイエス・キリストがすべて考えたわけではなくて、キリストの死後に弟子たちがよってたかってでっちあげたようなものだし、キリスト教の歴史自体が、宗教改革をはじめとした派閥争いの歴史と言ってもよいくらいだから、何が本来の教義だかなんだかわかりゃしないという話もある(^^)。

     しかし、キリスト教の根幹に近い部分には、現世利益を無視し、死後の救済を求めるという教義があるということは、大方の一致するところではないだろうか。「予定説」などはその典型的な例で、誰が救済されるかはあらかじめ決まっていて、現世で何を努力しようが「そんなの関係ねえ!」というある意味ぶっとんだ話だ(^^)。また、金儲けを擁護しているともとれる、あの有名なウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」ですら、資本主義を生み出したエートスは、現世で金を使って楽しむことを考えず、ひたすら勤勉に働いて資本を蓄積する精神である、ということだったはずだ。

     そういう意味で、この教派は、同じキリスト教内部からもいろんな批判を受けているらしい。また、この教派は、「原罪」みたいなキリスト教のおもたい部分はあまり教えず、軽くて口当たりのいいことばっかりいうので、"Gospel lite" とか "Christianity lite" とか揶揄されているらしい(この lite はマルボロライトとかのライトで、要するに「軽いキリスト教」という意味らしい)。しかし、そんな宗教がこれだけ多くの人を動かしているということは、今後のアメリカ社会の行方を占う意味でも注視すべき現象であろう。

     まあ、ぼくは金儲け自体は別に悪いことだとは思ってないのだが(^^)、それが宗教の目的だと言われると、さすがにちょっと違うのではないかと言いたくなる。宗教の目的の一つは、ある次元で幸せになる方法を教えることだと思うが、お金というのは、幸せになる手段としては使えるけど、幸せになる方法は教えてくれない。いくらお金が儲かっても、それをどう使えば幸せになれるかを教えてくれなければ、本末転倒だと思うのだが(^^)。

    (追記:言葉足らずでわかりにくかったかもしればいが、別に、単なる処世術なら処世術でよいのである。ぼくが言いたいのは、単なる処世術に過ぎないものを、神の名において絶対化することの危険性なのである(^^)。それは、疑似科学と同じで、「擬似処世術」「擬似自己啓発」みたいなものにすぎないのではないだろうか。)

     ぼく自身は無神論者なのだが、必ずしも社会に宗教が不要だとは思っていない。今みたいに科学全盛の時代に宗教を信じている人は単純に頭が悪いみたいに思っている人もいるようだが、もともと近代以前には、科学も哲学も宗教の一部だった。それが近代になって、科学や哲学が宗教から分かれて、独自の文化として自立したわけだが、じゃあ、科学や哲学が完全に宗教の代わりを果たしているかと言えば、必ずしもそうは思えない。なにかとりこぼされたものがあるような気がするのである。頭のいい人は、その隙間を自分の考えで埋めていくこともできるのだが、誰もがそれほど頭がいいわけではない。だからこそ、いつまでたってもカルトみたいなものがなくならないのではないだろうか。

     そう考えると、現代に求められている宗教というのは、民主主義や科学のような近代市民社会の原理と決して対立せず、なおかつ、科学や哲学が取りこぼしたものだけを扱うような宗教(というより宗教性と言ったほうがいいかもしれないが)ではないかと思うのだが、肝心の宗教家は、相変わらず科学に対抗し否定することばかりを考えているように見える。そんな考え方では、いつまでたっても二流の科学(疑似科学)や処世術を垂れ流して世の中を混乱させるだけではないかと、ぼくなんかには思えてしまうのだが。。。

    余談:この話とは別に、ちょっと面白かったのは、ブリトニー・スピアーズやパリス・ヒルトンに言及した部分(トランスクリプトを参照)。

   

        KING: Yes. That's what many think, that this whole group, these youngsters, are basically good.
       
        V. OSTEEN: Oh, yes.
       
        J. OSTEEN: Oh, yes.
       
        KING: They've just had too much, too soon.
   

    ぼくはこの部分を読んで、ついカメダさんやサワジリさんのことを思い出してしまい、"They've just had too much, too soon." というのは、まったくその通りだと、宗教とは無関係に共感したのでありました(^^)。ある意味、日本でもアメリカでも同じことが起こっているんだろうなあ(^^)。

| | トラックバック (0)