手のひら返しの構造

 お祭り騒ぎもようやく一息ついたようなので、封印していた亀田問題をもう一度だけ語ってみようかと思う(^^)。

 大毅 vs 内藤戦後の世論の動向に関しては、一応 YouTube なんかでフォローしていたのだが、今回は、自分の気持ちと世論との間にそれほど乖離はなかった。そこに乖離が生じたのは、興毅がやった謝罪会見のときだった。

 ぼくから見ると、あれでは謝罪になってないだろうと思えるのだが、なんと、世論の半分ぐらいはあれで亀田同情派に回ったらしく、しつこく質問していた記者のことを、やりすぎだとか何様だと思っているんだというような意見もあったという。

 謝罪という行為の社会的機能や意味については、前にも書いたので繰り返さないが、ぼくから見ればやはり、なぜ反則を指示したかという説明は最低限必要なように思える。「興奮していたから」みたいな説明をしていたが、そんなのはお話にならない。試合中なんてほとんど興奮しているはずなのだから、じゃあお前は、また試合になったら同じ反則をするんだろう、と思われても仕方ないではないか。

 そんなわけで、ぼくはどうも世論の変化に納得がいかなかった。これで納得する人というのは、いったい何を怒っていたのだろう。いままでとあの会見とで、興毅が変わったところと言えば、背広を着てやや丁寧な言葉遣い(それでも細かいところはタメ口だったが)をしたということだけだ。

 つまり、世の中の大多数は、亀田家の態度が生意気だったから怒っていただけで、もう逆らいませんと世間様に対して恭順の意を表せば、それで十分に溜飲が下がるということらしいのである(^^)。 もしそうだとすると、結局、世間にとってもこれは勝ち負けの問題だということで、亀田家の勝てば官軍主義を笑えないと思うのだが。。。(^^)

 まあ、この問題についてはこれ以上深入りしないが、この現象は、最近のいわゆる世論の「手のひら返し」の構造をよく示しているように思う。

 もともと、亀田家に対する批判というのは、以下のような複数の論点を孕んでいた。

  1. 亀田家の人間の態度の悪さに対する倫理的な批判(モラル問題)
  2. 恣意的なマッチメイク、八百長、偏った報道などによる作られたヒーロー批判(虚像問題)
  3. 反則行為やその指示に対する批判(ルール違反問題)

 メディアに出始めのころは、もっぱら1の批判が中心だった。それが戦績を重ねるにつれ、2の批判が徐々に高まってゆく。最後に、大毅 vs 内藤戦に到って3の批判が加わることにより、批判派の数が臨界点を超え、最初の「手のひら返し」が起こった。逆に、謝罪会見ではたぶん、1を批判していた人をある程度納得させることに成功した。そのため、二度目の「手のひら返し」が起こった。

 このような現象を、1の論点から批判派だった人から見ると、あいつらが悪い奴だなんてことは最初からわかってたことじゃないか、という風に見えるので、大毅 vs 内藤戦後に世論が手のひらを返したように見える。逆に、ぼくのように、2や3の論点の方を重視している人間からみると、反則で世論が反転するのは当然であり、謝罪会見で再度反転する方が「手のひら返し」に見えるわけである。

 つまり、マスコミなんかでは世論が移り気だみたいなことを安直に言うけど、たぶん、一人一人の一般庶民から見れば、自分のプリンシプルや倫理感覚にしたがって、首尾一貫した判断をしているだけなのである。ところが、そのプリンシプル自体がかなり多様化しているため、結果的に、ある臨界点を越えるような出来事があったときに、世論が一気に反転するように見えるだけなのだ。

 むしろ、かつてはあまりこういう現象が起こらなかったこと自体が、かつての世論が、マスコミや識者の誘導に流されていたことを示しているのだろう。そういう意味で、このような「手のひら返し」現象は、マスコミや識者がしたり顔で言っているような、世論の衆愚化を示しているわけでは決してなく、むしろ、世論の多様化やメディア・リテラシーの向上を示しているのだと、ぼくは思っている。

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哀れむ差別、批判する平等

 亀田問題については、当事者に対する毀誉褒貶とは別に、時代の変化みたいなものも感じる。やくみつる氏、勝谷誠彦氏など、亀田親子の礼儀や態度を批判する向きは多いが、たとえばこれが 30 年ぐらい前だったらどうだろう。

 30 年前、つまり、ぼくらが子供の頃はまだ、公立の小学校に行くと、みょーに汚い服を着てきたり、あまりお風呂に入っていないらしく、近寄ると体臭のする子供とかがいたものである。そういう子供に対しては、(子供同士のイジメとかはあっても) 少なくともタテマエ上は、汚いとか臭いとか言ってはいけないことになっていた。

 銭湯に行けば、身体中に派手な絵の描いてある (吉田戦車流に言えば「絵人間」) 人が、ぶっきらぼうな口調でいきなり話しかけてくることもあった。そういう人には、決して口答えせず、適当に話を合わせることになっていた。道端に汚い格好で座って、通行人がお金を投げてくれるのをひたすら待っている人もいた。そういう人に対して、「道端に座ってはいけません」とかお説教する人はいなかった。もちろん、なんとか狩りなどの獲物にする子供も。

 つまり、あのころはまだ、世の中には解決しようのない矛盾というものがあるという意識を、みんなが共有していた。したがって、そのような矛盾の犠牲者と見られる人に対しては、一般人と同じ常識を適用しないという暗黙のルールがあった。

 もちろんこれは、考えようによっては立派な差別である。しかし、社会に解決しようのない大きな不平等があるという認識のもとでは、その犠牲者を平等に扱わず、区別して扱うことこそが、より正義にかなっていると多くの人が考えたのだった。

(高度成長時代は一億層中流で、今よりもっと平等だったんじゃないの、とか思っている若い人。実際は、そんな単純な話じゃなかったんですよ。あの当時は、もっと歴然と差別されている人がいて、それ以外の人に限って建前上平等、というような社会だった。さらに言えば、その平等とされている人たちの間でも、はっきりと暗黙の序列みたいなものが決まっていたのです。それがそんなによい時代だったのか、知りもしないのに単純に憧れてほしくないですね。少なくともぼくは、今のほうがずっといい時代だと思います。)

 たとえば、「あしたのジョー」だって、明らかに年上の丹下段平や白木葉子に対して「おっさんよぉ」「あんたって人は」みたいなタメ口をきいていたわけだが、それを無礼だと批判する人はいなかった。もちろん、当時だってそういう行為自体は十分無礼だったのだが、無礼だと言うこと自体が無意味だという時代状況があったわけだ。

 このような時代だったら、西成区に育ち解体業を営むというあの人に対しても、多くの人が、自分とは違う世界に住む違う人種であり、自分と同じ常識が通用しなくても当たり前と思ったのではなかろうか。また、そういう人がひょんなことで有名人になったりすることがあっても、周囲の大人たちが緩衝地帯になって、そういう常識の違いによるボロが出ないようにしたであろう。 当時の有名人で、死後になってさまざまな奇行が判明した人も数多い。

 ひるがえって現代では、あのようなおっさんに対しても、多くの人が自分と同じ土俵に立っていると考えて批判しているわけである。これはある意味、世の中の人はみな同じルールの下で平等である、という意識の現れであるから、基本的には社会の進歩と言ってよいのだろうと思う。

 ただ、一つだけ気になるのは、本当に現代の日本社会は、それほど平等になっているのだろうかということ。解決しようのない社会の歪み、差別、不平等、みたいなものは、本当に無視できるほど小さくなったのか。

 たとえば、ぼくは自分が別に不幸だとは思っていないが、大企業やアカデミズムの世界に対するコンプレックスや僻みというものはいまだにあって、学者さんとかの非現実的な発言にムカつくことがある。終身雇用は日本が世界に誇るセーフティネットだ? じょーだんじゃねえ! そんなのは大企業だけに通用する話。中小企業でいくら終身雇用を標榜したって、会社自体がいつ潰れるかわかんねぇんだから意味ねえんだよ! そんなことすらわからずに、利いた風な口叩くんじゃねーよ、タコ! みたいな (^^)。

 ぼくは、詳しい事情がわからないから確たることは言えないのだが、あの親子やあの業界を批判する際にも、ひょっとしてそれと同じことをしてやしないだろうか、という想像力だけは持っておきたいと思うのである。

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偶然の証明

 たとえば、チンチロリンだって、大バリしたときに限ってピンゾロを出すとかいうヤツがいたら、いくら「サイコロには一から六の目があるんだから、ピンばっかり揃うことだってあらーな」みたいなことを言ったって、やっぱりグラサイだろうぐらいのことは思われるわけである。しかも、サイコロは持参してよくて、相手には改める権利もない、みたいなルールになっていれば。

 プロの博打場では、そういうトラブルがおこらないように、いろんな作法が決められていると聞くが、博打場と同じような方々が仕切っているらしいあの競技において、そういう対策がまったくなされていないというのは、やっぱり、ダンナ衆だと思ってナメられているのだろうか (^^)。

※映像は記事とは無関係です。

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報道と宣伝のはざまで

 そもそも、スポーツ・ジャーナリズムというものには、他のジャーナリズムと比べて、根本的に異質な点があると思う。ニュース・ショー番組などでも、スポーツのコーナーになると、明らかにトーンが変わるのがその証拠だ。スポーツ・ジャーナリズムというのは、許しがたい悪事や悲惨な事件の報道が「ケ」だとすれば、それと対照的な「ハレ」の役割を担わされているのである。

 なぜ、スポーツ・ジャーナリズムがそのような役割を担うことが可能なのかというと、スポーツという分野自体が、人工的に純化された世界だからだと思う。

 本来、人生には明確な目的はない。多くの人は、そこに生きがいという目的を想定することによって、快楽や充実感を得ようとするが、生きがいには絶対的な正さの証明があるわけではないので、多くの人は人生の意味付けに悩みながら生きることになる。もちろん、そこから人生の味わいのようなものも生まれるわけであるが、そのことが、人間の日常を不明瞭なものにしている原因でもある。

 ところが、スポーツの世界では、目的はルールにしたがって勝つということに単純化されているし、競技自体が、現実的な目的に直接役立たないものが多いので、何のために勝つのかという意味を問うことも無意味化されている。その結果、スポーツの選手は、目的自体の意味や価値について悩むことなく、目的を実現するための努力だけに純粋に専念できることになる。おそらく、だからこそ、スポーツを観戦する人は、「ケ」の日常の不明瞭さから解放され、「ハレ」の爽快感を味わうことができるのである。

(このへんの立論は、筆者のオリジナルではなく、山崎正和氏の説を参考にしている。オリジナルを知りたい人は「近代の擁護」などを参照。ただし、細かいところは筆者流にアレンジしており、その部分についての文責は筆者が負うものとする。)

 スポーツ・ジャーナリズムがさらに特異なところは、基本的に、報道が試合の結果に影響を与えることはないということである。

 これが政治だったら、どの政治家をどのような論調でどのぐらいの頻度で取り上げるかというのは、政治の結果にまで影響を与える可能性がある。ビジネスにしても、どの企業のどんな製品をとりあげるかで、企業の業績に影響を与える可能性がある。事件報道ですら、取り上げ方によっては、当事者の人生そのものに影響を与える可能性がある。したがって、ジャーナリストは、嫌でも公正さやバランスというものを意識せざるを得ない。意識しなければ、報道は信用性を失い、単なる宣伝と化してしまうからだ。

 ところが、スポーツの場合には、試合の結果は客観的なルールによって決まり、報道のされ方によって影響を受けることはほとんどない。「なんとか選手強いっ!」といくら連呼しても、そのせいでその選手が試合に勝つことはない。この事実と、先にのべた、スポーツ・ジャーナリズムが持つ「ハレ」の役割を考え合わせると、おそらく、スポーツ報道を多少大袈裟に行うことが正当化されるのであろう。

 この姿勢は、おそらく、アマチュア・スポーツについてはかなりの程度で正しいのだが、プロスポーツになると、事情が微妙に変わってくる。

 なぜなら、プロスポーツでは、お金という別の目的 があるので、アマチュア・スポーツのようには、勝つことだけを目的にしにくいからだ。もちろん、多くのスポーツでは、勝つことによってのみ金が手に入るというような仕組みを作ることによって、選手に金銭面でも勝つインセンティブを与え、そのことによって、スポーツに内在する独自の価値論理を守ろうとしている。

 しかし、ここで忘れてはならないのは、いくらそのような仕組みを作ったとしても、選手に分配する金の原資は、結局は興行収入で得るしかないということだ。言うまでもないことだが、この興行収入というのは、必ずしも選手の実力だけで決まるものではなく、ルックスやパフォーマンスなどによって左右されがちな「人気」であるとか、資金力がものを言う「宣伝」とかに大きな影響を受ける。

 この話にこれ以上深入りすることは避けるが、要するに、プロスポーツというものは、もともと、スポーツと興行の危ういバランスの上に成り立っているビジネスであり、当事者がこのバランスを常に意識していなければ、容易に破綻して単なる見世物に堕してしまう危険を孕んだ文化であるということだ。

 同じことは、スポーツ・ジャーナリズムにも言える。スポーツ報道は、確かに試合の結果には影響を与えないかもしれないが、興行の結果には大いに影響を与えうる。つまり、スポーツ・ジャーナリズムが、いくら事実を選択的に報道しているだけであっても、それが結果として、文化としてのプロスポーツをスポイルする可能性はあるのである。

 たとえば、実力のない選手を報道によって人気者にしてしまえば、その選手は、一番強い選手より大きな収入を得られるようになる可能性がある。そのような選手がたくさん登場すれば、実力より人気を大事にする選手が増え、勝つことだけを目的とするというスポーツの純粋性は破壊されることになろう。また、興行側は、そのような選手を「勝たせる」ことによって興行収入を増やし、関係者全員を豊かにするという誘惑にかられることになるだろう。

 もっとも、本来、スポーツ・ジャーナリズムはスポーツがなければ成り立たないことを考えれば、このような危険を回避することはそれほど難しいことではない。スポーツ・ジャーナリストが、目先の欲望にとらわれず、自分たちの存在を支えているスポーツという文化に対し、正しい認識と愛情をもって、自らペンを律すればよいだけの話だ。そして、この問題には、それ以外に特効薬はないと思う。

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ボクシング素人の妄想

 ぼくはボクシングのことはよく知らない。試合を見た回数も数えるほどで、もちろん、リングサイドで見たことなど一度もない。ボクシング以外の格闘技のことも、それほど詳しいとはいえない。友人に格闘技好きがいるし、格闘マンガも結構好きなので、言葉だけは多少知っているが、その程度のものである。

 そういう人間ですら、昨日のボクシングの試合では、いろんなことを考えさせられたので、少し感想を書いてみたい。もちろん、これは素人の意見に過ぎず、思いっきり的外れかもしれないことをお断りしておく。

 まず、ボクシングの判定について、こんなことを考えた。

 たとえば、メチャクチャに打たれ強いボクサーがいたとする。こいつは、どんな強打をくらっても、何回打たれても、まったくダメージを受けない。ただし、自分のパンチの威力やスピード、防御のテクニックなどはイマイチだとする。

 そうすると、このボクサーは、KO するまで続けるというルールだったら、かなりの高率で勝つと思われるが、逆に、判定にもちこまれれば、かなりの高率で負けるだろう。自分は相手に「有効打」を浴びせられず、相手の「有効打」はたくさん浴びてしまうわけだから。でも、その「有効打」は、実は彼にとっては有効打でもなんでもないのである。これっておかしくないか?

 ボクシングというのは、本来、相手が闘えなくなるまでダメージを与えることを目的とする、格闘技の中でもやや特異な種目だ。レスリングなら、必ずしも相手に与えたダメージが大きくなくても、なんとが固めを決めて一瞬にして逆転勝というようなことが可能だ。柔道でも、相手より疲れている選手が、一本を決めて勝つということはありうる。つまり、こういう種目では、もともと、相手にダメージを与えることよりも、技を決めるということに高い価値がおかれているわけだ。(もちろん、防具なしでやっていたときには、そういう技はすべて必殺に近い技だったのであろうが。)

 それに対して、ボクシングは、本来、技を決めることは手段に過ぎず、相手に与えたダメージによって評価される種目だったはずである。ところが、判定になると、一転してこの本来の価値基準ではなく、決めた技によって評価されることになるのだ。最後にはフラフラになっていたヤツが、判定で勝つということに対する違和感の理由は、ここにあるのだろう。

 では、相手に与えたダメージそのものを、見ているだけで客観的に判定する方法があるのかというと、それはよくわからない。専門家ならある程度わかるのだろうか。それとも、そんなものを判定しようとすると、なおさら判定が主観的になって不正確になってしまうのだろうか。

 もちろん、ヤオチョウだとかなんだとかいう話があることも知っているが、ここではあえてボクシングのルールの本質についてだけ考えてみた。ひょっとしたら、あの対戦相手は、自分が勝てないことは承知の上で、相手に最も恥をかかせる負け方というのを考えていたのかもしれない。

追記: などと勝手なことを書いていたら、早速こんな記事が。

一般的に、ダメージに基づくクリーンヒット(有効打)の数が重視され、そこに差がない場合は次に手数や攻勢点が評価対象となる。

ということで、ダメージがなければ「有効打」にはならないらしい (^^)。

でも、もしそうだとするとですよ、やっぱり、中盤に日本人が一生懸命打っていたパンチは効いていなくて、ベネズエラ人がポコポコ打っていたパンチの方が効いていた、ということになりませんか。でなけりゃ、あそこまで差はつかないんじゃないですか。となると、やっぱり中盤でそんなに差がつくの判定がおかしいということに。。。(^^)。

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