楽観主義バイアス - 不合理に楽天的な脳

The Optimism Bias: A Tour of the Irrationally Positive Brain  著者(現職母校)は心理学と神経科学の専門家で、心理学実験をしながら脳を fMRI で観察するみたいな研究が得意らしい。邦訳はまだないようだ。

 著者が言いたい事は、前書きに集約されている。 つまり、

  1. 人間は生まれつき楽観的である
  2. その楽観性は人間にとって必要である。

 この本で言う「楽観性」は、単に陽性だとか外向的だとかいう意味ではない。未来を予想する際に、自分にとって良い事が起きる確率を、実際の確率よりも高く見積もるという、極めて具体的な性質を指している。このような性質は、将来計画の精度を下げるので、一見するとデメリットが大きいように思える。しかし、それでも楽観性は人間にとって必要だというのが著者の主張だ。

 これを読んで私が即座に連想したのは、故・戸田正直氏の「感情―人を動かしている適応プログラム」という本。初めて読んだのは 20 年以上も前だが、今でも私が影響を受けた本ベスト10ぐらいには入る本である。

 戸田氏の本は、簡単に言えば、感情の合理性を主張した本である。感情というのは理性に比べて不合理だと思われがちだが、感情だって進化の結果獲得したものであるから、本来は環境に適応したものであった。ところが人類は、進化が追いつかないほど急速に環境を変化させてしまったので、現代では感情は不合理になってしまったというのだ。このような感情の合理性を、戸田氏は「野生合理性」と呼んだ。

 こういう発想は、現代ではそれほど珍しくもないのだろうが、当時はまだ、理性=合理・感性=非合理みたいな近代主義的な通念がまかり通っていたので、この発想の転換にはかなりの衝撃を受けた。

 最近の行動経済学なんかでも、人間は不合理だ不合理だと言い募っているようだが、それだけではさほど面白くない。そういう不合理もメタレベルでは合理的であるというモデルが構築できないとあまり意味はないと思うし、そのへんが行動経済学と進化心理学の接点になるんだろうと思う。

 個人の効用最大化みたいな直感的な合理性と、進化論的なメタレベルの合理性がどういう関係になっているのかを、対象化して認識することは、個人の生き方にとっても、社会のあり方にとっても、少なからぬ知見を与えることだろう。

 そんなわけで、この前書きを読んだ私は、かなり期待して本文を読んだのだが、その期待は半分満たされ半分裏切られた。確かに、前者の「楽観性は生まれつきのものである」という主張には十分な証拠が提示されているが、後者の「楽観性は人間にとって必要である」という主張は必ずしも説得的ではない。

 なぜかと言うと、楽観性が有益な例は多数挙げられているけれども、それはあくまで単発的な例であって、体系的にモデル化されていないからだ。たとえば、ストレートを待てば7割の確率でヒットを打てるが、カーブを待てば3割の確率でヒットを打てるというとき、カーブを待っていてヒットを打った例ばかり挙げられても、それだけではカーブを待つ事が合理的だとは言えない。

 確かに、楽天的な人間の方が健康で長生きするというような統計データも示されているが、それがどういうメカニズムによるものかは説明しきれていない。楽天的でないと不安とストレスで病気になるからだ、みたいな説明もあるが、それを言うなら、そもそもなぜ人類は不安やストレスで病気になるような生物に進化したかを問わなくてはならないだろう。

 もし著者が、「感情」でいうところの「野生合理性」みたいなモデルを(仮説でもいいから)提示できていれば、この本はもっと哲学的なインパクトを持てただろう。そう考えると多少物足りないところはある。

 とは言え、著者が提示しているさまざまな事例は、それだけでも十分興味深く考えさせられる。巻末の参考文献を見ると、2000 年以降の論文が結構多いので、そう感じるのは、必ずしも私が無知なせいだけではないと思う。

 例えば「楽観的な鳥」の話。「楽観的な鳥」というのが本当にいるのだそうだ。鳥が楽観的なんてどうやってわかるのかと思うが、それを調べる巧妙な実験があるのだ。さらに面白いのは、同じ種の鳥でも住む環境によって楽観性は違うのだという。なんと、幸せな環境の鳥は楽観主義者になり、不幸せな環境の鳥は現実主義者になるのだそうだ。「貧すりゃ鈍す」は鳥にすらあるということらしい。

 あるいは、過去の記憶と未来の想像には同じ脳の回路が使われているという話。記憶にとって海馬が重要な役割を果たしているのは有名だが、海馬を損傷すると、過去の記憶ができなくなるだけでなく、未来を想像することもできなくなるのだそうだ。

 私は、保守派と革新派は実は思考パターンはよく似ていて、革新派が未来に理想を求めるのに対し、保守派は過去に理想を求めているだけだ、みたいなことを考えたことがあるので、このあたりはすごく腑に落ちる話であった。

 だから、特にこの分野に詳しくない一般の人にとっては、こういう事例を読むだけでもある程度楽しめるのではないかと思う。

 私自身もいろんなことを考えさせられた。私はどちらかと言うと、物事を正確に表現しようとするあまり他人の意欲に水を掛けてしまうタイプなので、少し反省すべきかと思ったり。先日の津波で逃げそこなった人たちについても、○○バイアスとかさんざ言われていたけど、そういうバイアスもそう簡単に不合理とは断定できないのではと思ったり。原発事故の際にも、楽観論ばかり主張した学者が後でさんざ批判されていたけど、(もちろん批判すべきところは多々あろうけど)ある程度の楽観性は必要だったんじゃないかと思ったり。

 結論としては、贅沢を言えば多少詰めの甘いところはあるものの、いろいろ考える材料を与えてくれたという意味では、読んでよかったと思える本であった。

 文体は学者とは思えないほど口語的でキビキビしている。英語を読みなれていない人にもお勧めできる文体である。ただし、不必要なエピソードで水増ししているような感じもあって、飛行機事故やバスケットボールや 9.11 やヒットラーのソビエト侵攻やシドニーのオペラハウスの話をあんなに長く書く必要があるのか、という気はちょっとするが、それもご愛嬌で済む範囲だろう。

 

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夢を考えているのは誰だ

 先日おかしな夢を見た。なぜかクイズ番組に出演しているのだが、出題されるクイズが非常に面白い。あまりに面白いので、ブログのネタにしてやろうと考え始めた。つまり、夢の中なのに自分が夢を見ているということを自覚しているわけである。そしてクイズに回答しながら頭の中でブログの草稿を完成させた。これは会心の記事になるぞ、でも夢の内容は目が覚めると忘れがちだからなんとか忘れないようなしなきゃ、と思っているうちに目が覚めた。もちろんその時には、その面白いクイズの内容もブログの草稿もきれいさっぱり忘れていた。

 この夢で思い出したのが父のことである。父はコンピュータに対する理解にかなりの問題があって、Playstation の麻雀ゲームなどをやっていると、折にふれて「このゲームはインチキだ」と主張する。なぜかというと、対戦相手だけじゃなくて牌を積んだり配ったりしているのもコンピュータなのだから、コンピュータには相手の手牌も山の牌もわかっているはずだからだそうだ。父に言わせると、自分が捨てたいと思っている牌と違う牌を捨てるようにすると勝率が上がるそうである。これを聞いて思わず「お前は鉄壁保か」と言いそうになったことはここだけの話。

 これはコンピュータの仕組みをある程度知っている人なら一笑に付すような主張なのだが、知らない人の気持ちを想像してみれば、そういう発想が出てくるのもわからないこともない。要するに、コンピュータの中には人間と同じような知能を持つ機械が住んでいるというイメージなのだろう。そいつが対戦相手の役から洗牌から配牌から全部一人でやっていると。

 確かに人間の脳の場合、一人の人間の脳の中に複数の意識があって、互いに他の意識の思考や行動がわからない、なんてことはあまりない。あったとしても、それは多重人格とか呼ばれて病人扱いされてしまうわけである。

 でも考えてみると、夢の中ではまさにそういうことが起こっているわけだ。先ほど紹介した夢で言えば、クイズに回答しているのも自分だけれど、クイズを出題しているのも自分だ。にもかかわらず、回答している自分は、これは面白い問題だから忘れないようにしなきゃ、などとまるで出題している自分が他人であるかのように考えているわけである。

 とすると、逆に人間の脳をコンピュータシステムになぞらえてみると、意識や夢について理解する一助になるかも知れない(認知科学者の佐伯胖氏は、こういうのを擬人化ならぬ「擬コンピュータ化」と呼んだ)。 つまり、脳の中には「意識」を司るアプリケーションと、その「意識」と外界とのインターフェイスの役を司る OS 的なものが存在すると考えるのである。

 覚醒中は、この OS はトランスペアレントに機能しており、外界の入力をそのまま「意識」に渡し、「意識」からの出力もそのまま外界に渡している。そのため、覚醒中に「意識」が OS の存在を意識することはない。ところが睡眠中になると、この OS はトランスペアレントであることをやめ、外界とは無関係な入力を勝手に生成して「意識」に送り込みはじめる。もちろんその結果「意識」の生成した出力も横取りして外界には渡さない。

 この OS を「無意識」であると考えると、あら不思議、無意識と夢の関連を考えたフロイトの発想が自然に見えてくる。また「意識」だけが特別な理由を、「意識」だけが過去のイベントのデータベース、つまり「記憶」にアクセスできるからだ、と考えればベルグソンの発想に似てくる。もちろんフロイトやベルグソンの時代にはコンピュータなんて存在しなかったし、計算機の理論モデルも現在とは異なっていたから、彼らがそんな発想で自分の理論を考えたはずはないのだが。

 なんて妄想じみたことを書き連ねてしまったが、あくまで思いつきのアナロジーなので、良識ある読者のみなさまにおかれては、あまり本気にしないようにお願いします。でも夢についてあれこれ考えていると自己了解に近づくような気がして楽しい。

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「べき」と「たい」の心理学

 言うまでもなく、人間の行動には、「べき」と「たい」がある。「べき」な行動というのは、何らかの目的を実現するための手段としての行動、「たい」な行動というのは、行動自体が欲望の対象であるようなコンサマトリー(消費的)な行動と言い換えてもよい。

 ところが、山崎正和氏もよく言うように、実際には、「べき」と「たい」はそんなにきっちりわかれているわけではない。たいていの行動は、「べき」であると同時に「たい」でもあったりする。ここが問題だ。

 仕事をする人は、金を稼ぐという目的のために仕事をす「べき」だとも思っているが、同時に、やりがいのある仕事をし「たい」とも思っている。政治運動をする人は、世の中をよくするために政治運動をす「べき」だとも思っているが、同時に、仲間を増やして政敵の悪口を言い合ったりして、そういう運動自体を楽しみ「たい」とも思っていたりする。

 人間には良心というものがあるから、自分がなんらかの行動を起こし「たい」と思い立ったときにも、その行動をす「べき」なのか、という検討はたいていの人がするものである。

 ところが、一端その行動をす「べき」であるという結論が出てしまうと、人間はしばしば、その行動が、もともと自分がし「たい」行動であったということを忘れてしまう。いや、忘れてしまうというより、無意識のうちに目を背けようとするのある。そして、「べき」であるという事実を名目にして、「たい」の欲望を思う存分満たそうとするようになるのである。

 その結果、周囲から見ると、本来の「べき」の目的合理性ではとうてい説明できないような、過剰な行動が観察されることになる。しかもやっている本人は、それはあくまで「たい」ではなく「べき」の行動だと思っているから始末が悪い。

(ダウンタウンがよく言うつっこみで、「お前それ言いたいだけやろ!」というのがあるが、このいうところにも、彼らの人間観察眼の鋭さが現れていると思う。)

 政治運動などを見ていても、周囲から見ると、「そこまでやるかあ?」と思って「ひいて」しまうような運動が多々あるが、そういう現象の裏に働いている心理的メカニズムは、たぶんこのようなものではないかと推察される。

 この問題が難しいのは、単純に「たい」であるから「べき」ではない、とも言えないし、「たい」と「べき」をくっつけるべきではない、とも言えないことである。むしろ、「たい」と「べき」がくっついた状態というのは、社会的意義と本人のやりがいが理想的に結びついた状態とも言えるのだから。

 もちろん、周囲から評価する際には、単純に「たい」の部分を無視して「べき」の部分だけで評価する、というようにすればいいわけである。しかし、やっている本人にとっては、やっぱり、「べき」だけでなく「たい」の部分も重要なのであるから、なかなかそう突き放して客観的に見ることも難しいのだろう。

 そう考えると、本人にとってもっとも有効な処方箋は、その行動がもともと「べき」であると同時に「たい」でもあるということを、自分自身で自覚することだと思う。その自覚があれば、自分の行動が本当に「べき」の目的に合理的であるか、それとも、「たい」の欲望を満たすことだけが暴走しているかを、ある程度自覚的に制御することも可能だろう。

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コルベア・リポート:ピンカーの巻

 コルベア・リポートにスティーブン・ピンカー登場。脳の仕組みを単語 5 個で説明しろとか、例によってムチャクチャなこと言われてます (^^)。

 最後のオチは、「F○○K」ですね (^^)。

 もし、赤ん坊をずっとバーチャルな世界で育てても、やっぱりピンカー氏が言ってるような生得的な認知フレームは破壊されないのかなあ。アリストテレス的な力学法則の成り立つ世界とかを無理矢理作ってしまって、その中で育てても、認知フレームがそれに適応してしまうことはないのだろうか。まあ、本当にそんな実験をしたら、幼児虐待になってしまうから無理だろうけど (^^)。

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脳科学関係ニュースをいくつか

 脳科学関係で面白いニュースがいくつかあったので、簡単に要約してご紹介。

パーキンソン病に針治療が効くかも?(news@nature.com)

 パーキンソン病というのは、脳内のドーパミンレベルの低下に関係すると言われているが、このドーパミンレベルの低下針治療によってが抑制できることを、韓国の研究者がマウスの実験で実証したという。

 その実験の概略はこうである。まず、マウスに MPTP という物質を注射して、ドーパミンを生成する細胞を殺す。その後、マウスを 3 つのグループに分け、それぞれ異なる治療を施して、ドーパミンレベルの低下を観察する。

 1 番目のグループには、筋肉の動きに関係のあるツボだとされる、ヒザの裏と足の上に 2 日に 1 回針を打つ。2 番目のグループには、ツボとは関係のないところに針を打つ。3 番目のグループにはなにもしない。

 一週間後、2 番目と 3 番目のグループでは、ドーパミンレベルは半減したが、1 番目のグループでは、約 8 割程度が残ったという。

 もっとも、韓国ではすでにパーキンソン病の治療に針治療を取り入れているところがあり、薬物の効果を長続きさせる程度の効果は期待できるが、有為な差が出るほどのサンプル数はなく、それで「治る」とはまだとても言えないとのこと。

 また、この方法をパーキンソン病の治療に応用するには、かなり早期に診断して病気を発見する必要があるという。なぜなら、パーキンソン病の症状が現れるころにはすでにドーパミンのレベルはかなり低下しているので、それから低下を抑制しても遅いからだ。

 とは言え、この研究が、針治療の科学的根拠を解明する上で重要であることは、専門家も認めているという。

 マイケル・J・フォックスもびっくり?

「幻肢痛」がバーチャル・リアリティで治る?(National Geographic) 

 「幻肢痛」というのは、四肢の切断手術を受けた患者がしばしば経験する症状で、患者は、あたかも失われた手足がまだ存在していて、ありえない形に捻じ曲がっていたり、指が掌に食い込んでいたりするような感覚とともに、激しい痛みを覚えるのだという。

 この症状については、16 世紀頃から知られているが、その原因はまだはっきり解明されておらず、鎮痛剤や脳に電極を埋め込んで刺激するなどの療法がとられてきた。

 カリフォルニア大学のラマチャンドランによれば、そもそも幻肢痛が知覚神経終末に起因すると考えるのが間違いなのだという。彼によれば、真の原因は脳にある。脳の中には、失われた四肢からの信号を受け取るはずの場所があり、四肢が失われることによって、その場所は身体の別の部分からの信号を間違って受け取るようになる。そのため、顔の動きなどが痛みとして感じられるのだという。そして彼は、この理論を元に、鏡を使った治療法を考案していた。

 このラマチャンドランの治療法をバーチャル・リアリティを使ってより発展させたのが、ミシガン大学のペティファーである。彼の治療法では、まず、患者にヘッドマウント・ディスプレイとデータグローブを装着させる。ディスプレイには仮想現実が映し出されるので、患者には、その世界の中で、データグローブを使って仮想的な運動をしてもらう。

 その運動は、現実の世界では、もちろんまだ存在している方の四肢によって行われるのだが、仮想現実の中では、あたかも失われた四肢が行っているように変換されて表示される。

 ペティファーの研究によれば、この治療を受けた 5 人の患者は、その後 2 日間程度にわたって症状が緩和されたという。

 ラマチャンドランによれは、彼やペティファーの研究は、脳神経学界に 50 年以上も続いてきた、脳と身体が固定的に結びついているという概念を覆すものだという。そして、「幻肢痛」以外の神経学的な機能不全も、このような方法で「リセット」できる可能性があると主張している。

 いやー、まるで「マトリックス」の世界ですなあ。「そこにスプーンはない」ではなく「そこに四肢はない」ですよ (^^)。

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Blank Slate

 突然思い出したけど、"Blank Slate" を「空白の石版か」っていうのは、どうなんでしょうねえ。これって、英語圏でよく使われる一種の慣用句なんだけど、もろ直訳してますよね。あと、"Embracing Defeat" を「敗北を抱きしめて」っていうのどうなんかなあと思ったんですよね。enbrace っていうのは、新しい思想や宗教などを「受け入れる」という意味でわりと普通に使われる言葉で、別に比喩表現じゃないでしょう? っていうか、まあ、もともとは比喩表現だったんだろうけど、今ではその比喩性はほとんど失われているのでは? まあいいや。人の揚げ足取りばっかりしてると、自分が墓穴掘るからね(^^)。やめようやめよう。

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確率に対する違和感

 テレ朝のドスペ2でやってた「確率検証バラエティ・運命の数字」という番組、大して期待しないでなにげに見ていたら、意外と面白かったですね。

 もともと、統計的に計算した確率って、人間の直感的判断と必ずしも一致しないことが多いんだけど、そのずれをいじって遊んでみよう、という企画はありそでなかったんじゃないでしょうか。

 先ごろノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマンという人も、トバスキーという人といっしょになって、人間の直感的確率判断がいかにあてにならないか、ということを示す実験をたくさんやっています。たとえば、

  • ある街でタクシーによる轢き逃げ事故があった。
  • その街で走るタクシーの 85% は緑色のタクシーであり、15% が青色のタクシーである。
  • 目撃者は、轢き逃げタクシーは青色タクシーであったと証言した。
  • その証人がタクシーを正しく識別する確率は 80% である。

この場合に、事故を起こしたタクシーが青色のタクシーである確率は、という問題を出して、多くの人の直感的な回答を集計したところ、平均値は約 80% だったそうです。

(これをお読みになっているあなたは、直感的にはどのぐらいの確率だと思いますか?)

 ところが、ベイズの定理にしたがって計算すると、この確率は 41% で、なんと半分以下なのです。

 なぜこんな直感に反する結果になるのか、ということにも、いろいろ理屈があるのですが、興味のある方は、たとえば佐伯胖氏の「認知科学の方法」などを参照してみてください。(「きめ方の論理」もいいけど、この本も結構面白いですよ。)

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