成果主義と雇用流動化は正反対の思想

 ある人のブログを読んでいたら、成果主義が失敗したのに(解雇規制の撤廃による)雇用の流動化が成功するわけない、みたいなことが書いてあって、ちょっとひっかかった。というのは、ぼく的には、成果主義と雇用の流動化は、ほとんど正反対の哲学だと思っているからだ。

 そもそも、「成果主義」とうい言葉の定義自体があいまいで、字義通りの完全な成果主義なんておそらく成立しないと思うのだが、仮に思考実験として、できるだけ文字通りの意味に近い成果主義というのを考えてみよう。

 成果というのは最終的には企業の利益であるから、まず、社員全員の給与の合計が、完全に企業の利益に連動するとしよう。もちろん、生産に必要な生産要素というものは労働だけではないので、生産要素間でどう利益が分配されるかも、労働・資本それぞれの寄与度や、労働市場・資本市場それぞれの需給関係によって決まってくるはずだが、ここでは話をわかりやすくするために、労働分配率は常に固定としてみよう。

 言い換えれば、資本家への配当や税金を除いた利益を、すべて労働者で山分けすると考える(もちろん、通常「利益」からは人件費を除いて考えるが、ここではあえて確信犯的にそうしないのである)。そして労働者間の給与の配分は、各人の貢献度(これも厳密な定義にはいろんな議論があると思うが)に応じて重み付けするとしよう。面倒なので、年金や健康保険などの社会保障費負担などもすべて捨象して考える。

 さて、こういう理想的な「成果主義」の会社がもしあったとしたら、何がおこるだろうか。ちょっと考えればわかるが、社員を解雇する必要がまったくなくなるのである。なぜかというと、このシステムでは、利益が出なければ給与を払う必要はないし、利益が少なければその分給料も少なくできるのだから、企業が社員をかかえておくリスクがほとんどないからだ。だから、企業は、必要のあるなしにかかわらずできるだけたくさん社員を雇って、抱え込んででおこうとするだろう。

 逆に社員側から見ると、いくら長時間真面目に働いても、企業の業績が悪ければまったく給料がもらえないということになる。つまり、資本家が負っている業績リスクと同じものを労働者も負担することになるわけだ。だから、もし企業の業績が悪化して給料が下がったら、労働者はむしろ自分から辞めようとするだろう。

(おそらく、このことがワーキングプアの増加にも関係しているのではないか。)

 ここまで説明すれば気づいた人も多いと思うが、解雇規制の撤廃による雇用の流動化というのは、この「成果主義」のように、企業の利益と給与が連動していないからこそ必要な制度なのである。ここで仮に、この「成果主義」とは逆に、企業の利益にかかわらず、労働者には常に一定の賃金が払われるという制度を「固定賃金主義」と呼んでみよう。

 固定賃金主義の企業では、利益の多少にかかわらず一定の賃金を支払わなくてはならないので、必要最小限の労働者しか雇わないようにするだろう。そして、利益が減ったり増えたりした場合には、給与額で調整することができないのだから、その分労働者の数で調節しなくてはならなくなるだろう。したがって、解雇が必要になってくる。

 逆に社員側から見ると、企業の業績がよかろうが悪かろうが、長時間真面目に働けば、働いた分だけの給料を必ずもらえるということになる。つまり、労働者は、資本家が背負っている業績リスクから切り離されている。したがって、労働者は、いくら企業の業績が悪くても、あまり会社を辞めたがらないということになる。

 と書くと、でも、企業が倒産すればやっぱり社員も損害を受けるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、統計・確率的に考えると、世の中、起業したり倒産したりする会社は数々あれど、世の中全体で必要とされる労働者の量はほぼ一定のはずである。もちろん、社会全体の雇用の数が減る「不景気」という現象は厳然として存在するが、その幅は、個別の会社の業績の変化や倒産の数に比べれば、相対的に狭いはずである。したがってやはり、倒産時のことまで考えても、「固定賃金主義」の方が、労働者は個別企業の業績のリスクから切り離されている、と言えるだろう。

 ここまで論じてきたことを一覧表にすると、こんな感じになる。

成果主義 固定賃金主義
資本家 労働者 資本家 労働者
業績リスク 負う 負う 負う 負わない
解雇・退社 したがらない したがる したがる したがらない


 このように、「成果主義」と「固定賃金主義」は、業績リスクを誰が負うかという点で、ほとんど正反対の思想である。そして、雇用の流動化というのも、「固定賃金主義」のためにこそ必要な制度なのだから、やはり成果主義とは正反対の思想だと思うのだ。

 では、冒頭に書いたブログの著者は、なぜこのような正反対のものを同列に見なしたのだろう。それはおそらく、いわゆる「日本的雇用慣行」からの距離で考えたからだと思われる。だからむしろ、なぜ「日本的雇用慣行」では、「固定賃金主義」と「解雇規制」というたがいに矛盾する思想からくる制度が両立していたかを考える必要があるのだろう。

 この問題をあまり深入りしている余裕はないが、大雑把に言えば、これは業績リスクの相対的に小さい右肩上りの時代のおいてのみ存続可能な制度であり、資本家に対しては付加価値の創造よりも企業自体の存続を目標とすることを強制し、労働者に対しては、必要以上に企業に依存する性質を植えつける、奥村某や佐高某の言う「会社主義」や「社畜」を生み出した制度そのものなのだと思う。そして、そこから脱却するには、「成果主義」と「雇用の流動化」という正反対の方向性がある、と考えるのが正しい歴史観ではないだろうか。

 ぼく自身は、かなり前から何度か言っているように、成果主義には反対で、雇用の流動化には賛成なのだが、その理由を説明しだすと長くなるので今回は割愛する。ただ、少なくとも、企業別組合の害悪を言いながら、雇用の流動化には反対するような立場はおかしいと思うし、むしろ、雇用の流動化こそが労働者の自立につながると考えるべきだと思っている。これも詳細はまた時間のあるときに書きたい。とりあえず読者のみなさんには、「成果主義」と「雇用の流動化」は正反対の思想なのかもしれない、ということをちらっとでも思っていただければ幸いである。

・もっとちゃんと勉強したい方へ

 これも必ずしも完全に勝手な与太を飛ばしているわけではなく、一応、経済学で言うところの「インセンティブとリスク・シェアリングのトレード・オフ」という話を下敷きにしてはいる。要するに、資本家と労働者では効用関数が違い、資本家はリスク愛好的なので期待値基準で動くが、労働者はリスク回避的で期待効用基準で動く。そのため、資本家にはハイリスクハイリターン、労働者はローリスクローリターンという分配が最適解になるというような理論が実際にある。この話は、それをちょっと大げさに誇張してマクロにつなげただけと思ってもらってもいいんじゃないかと思う。 得に、「成果」とインセンティブは違うということ、リスクを考慮すると期待値だけを考慮したときとは結果が異なってくることなどは、知っておいて損はない。

参考文献:

MBAミクロ経済学」小島寛之著(p171-179)。これ以上わかりやすくするのは無理、というほどわかりやすい(^^)。題名の軽薄さに騙されてはなりませぬ。

経済システムの比較制度分析 」青木昌彦、奥野正寛編著(p106-108)。ぱっと見難しそうだが、よく読むとそれほどでもない(^^)。

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もちろん自殺した本人が一番悪い

 自殺で誰が一番悪いかと言ったら、自殺した本人が一番悪い。尊敬する松本人志大先生に怒られたからというわけでは勿論ないが(^^)、最近の自殺事件に対するネット界の反応を見て、やっぱりこれは書いとくべきだと思った。これが大原則であって、前に書いたあれやこれやも、すべてこの前提を踏まえた先の話だ。それを忘れないでほしい。

 どうも最近は他人の文章を読んでもあまり想像力を働かせてくれない人が多いようなので、少しくどいたとえ話をする。たとえば、前回恥を忍んで自分の同僚が自殺した話を告白した。ひょっとして自分が彼女を助けられたかも、と考えてしまうということも書いた。

 しかし、冷静に考えれば、たとえタイムマシンで自殺の前の時間に戻れたとしても、おそらくぼくには彼女の自殺は防げないだろう。もちろん、自殺の現場で待ち伏せをしていて止めれば止められるだろうが、それはそういうタイミングを利用しているだけであって、単にいつか自殺するかもしれないことしか知らなければ、おそらく止めるのは難しいだろう。

 話の都合上ここから突然フィクションになるが(^^)、仮に、彼女がぼくに好意を持っていたとしよう。そしてなおかつ、ぼくには彼女が自殺するという予感があったとしよう。あなただったら、彼女の自殺を止めるためだけに彼女と付き合うだろうか? もちろん、まっとうな人間だったら、そんな不誠実なことできないだろうし、本当に好きでなかったら、そんなことしたって無駄だよね。かと言って、別に冷たくしてるわけでもないとすれば、好きでもないのに、突然過剰に優しくするのも変だよね(^^)。

 あるいは、あなたが誰かにお金を貸していたとする。そいつが期日になっても金を返さないので、きつく取立てようとしたら、そいつが「金を返せないので自殺します」とか言ったとしよう。あなたは、じゃあ返さなくていいよ、と言うだろうか?

 もちろんその答えは、貸した金の金額、あなた自身の経済的余裕、その相手との関係、いろんなものに依存するだろう。しかし、一般論としては、そう言われたからって簡単に借金の返済を免除する人はあまりいないだろうし、それで本当に相手が自殺したとしても、(違法な取立てとかをしていない限り)自分が悪いと真剣に思う人もそんなにいないだろう。

 結局、マトモな人間なら、わざわざ他人を自殺させようとして行動しているはずはないのであって、相手が自殺しようとしまいと、もともとその人なりのルールや倫理の範囲で行動しているはずなのである。したがって、常識的に考えれば、行動をそう簡単に大きく「改善」できるはずがないのだ。ああしておけばよかった、というのは、多くの場合結果論なのである。

 もちろん、可能性だけで言うなら、もっと影響力のある人間になれとか、借金を踏み倒されてもいいぐらいの経済力や度量を持てとか、そもそも貧乏人のいない社会を作ればいいんだとか、いくらでも言えるだろう。身近な人の自殺を経験した人が、自分の意思でそういう道を志すのもいいことだ。でも、それを万人に対して要求できるだろうか。他人に対してそういう過大な要求をする資格のある人間がどれほどいるか。冷静に考えればわかるはずである。

 つまるところ、自殺をしないということは、社会の基本ルールに組み込まれていて、多くの人はそれを前提にして生きている。自殺というのは、第一義的には、そのルールに対する裏切りという意味で罪なのだ。

 自殺の責任は、特に犯罪行為とか極端にアンモラルな行為とかがない限りは、まず本人。周囲の人や社会の責任はその次である。仮に自殺した人が誰かにイジメられていたとしても、それは自殺したから悪なのではなくて、イジメという行為自体がもともと悪なのであり、自殺したかしないかは結果論にすぎない。でなかったら、自殺しない奴はイジメてもいいことになってしまうではないか。

 前に社会全体に責任があるともとれるようなことを書いたのは、あくまで、この原則を踏まえた上で、それを超越したレベルの話として書いたことだ。その動機としては、最近の世の中が、あまりにも「悪者探し」や「悪者叩き」に急ぎすぎることに対する警戒心があった。安易に他人のせいにして安心するよりも、まず自分にできることは何かと考えて、自分の向上心の動機付けにした方が、世の中よくなるんじゃないの、と言いたかったわけだ。

(これを書いていて突然思いついたのだが、もっと現実的な「対策」として、成人に健康診断を義務付けるように、年に1回ぐらいメンタルヘルスの診断を義務付けるという方法もあるのではないかと思った。(^^))

 だから、ああいう言説が逆に、自殺した人の周囲を安易に叩くための言説として利用されたりするのは、ぼくにとっては不本意だ。もちろん、自分の周辺の人間が自殺したのに、そのことに何の思いも馳せないような人間は好きになれない。しかし、そういうことは、一人一人が自分の倫理観に照らして考えればよいのであって、赤の他人が安易に言うことではないと思う。

 自殺の話に限らず、最近のネット上の文章は、一見すると正義感で書いてるように見えて、実は、自分の自尊心を満たしたいとか、他人をバッシングしてカタルシスを得たいとか、そういう動機で書かれているものが多いような気がする。もちろん、別にどんな動機で書いても、書かれている内容が正論であればよいのだが、そういう文章は、強引な断定をテンションで無理やり押し切るような文章になりがちである。それが当たり前だと思うのは、ある種の倫理的退廃だと思う。

 もちろん、ぼくだって半分以上は自分のために書いているわけだが(^^)、だからこそ、あんまり偉そうになったり断定的になったりしすぎないように、一応工夫して書いているつもりである。でも、最近の若い子には、あんまりそういう配慮とかも全然伝わっていないような気がしてきて、ちょっと気持ちが萎えているところなんである(^^)。

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運命に対し謙虚であるということ

 山田太一氏の「頑張れば夢かなうは幻想、傲慢」という記事や、小飼弾氏の「自己責任から自己権利へ」という記事が、最近ネット界でちょっとした話題となった。この議論をなんとなく追っかけていて、一つだけ大きな違和感を感じた。それは、彼らの議論には、人間の生がはらむ避けがたい「不確実性」に対する感受性が足りないのではないかということだ。

 山田氏が言うまでもなく、努力すれば必ず成功するというのはウソである。人間の知や能力は有限であるがゆえに、努力はせいぜい成功の確率を高めることしかできない。こう言われると首を傾げる人だって、予測不能の自然災害や、原因不明の重病にかかった人を見れば、それは自己責任だとか本人の努力が足りないせいだとは、決して言わないはずである。

 にもかかわらず、なぜ人はしばしばこのような不確実性の存在を忘れがちなのであろうか 。それはたぶん、人間がしばしば確率的現象と因果律的現象を取り違え、確率の中に勝手に因果律を読み込む癖があるからだと思われる 。

 たとえば、サイコロで6を10回出し続ける確率は約6千万分の1だが、6千万人がサイコロをふれば、一人ぐらいはそういう人がいてもおかしくはない。その結果は、他の6千万人にとってはあくまで6千万分の1だが、出した当人にとってはまるで1分の1であるかのようにも感じられるわけで、その瞬間、自分にはサイコロを操る奇跡の力があると思いこんでも不思議はないだろう。

(サイコロの目だって究極的には決定論で決まるんだろう、という「ラプラスの悪魔」的な考え方をする人には、決定論的でありながら予測不可能な現象の存在を証明した「カオス理論」をご紹介しておく。)

 競馬のような予想ギャンブルをやったことのある人なら、たいてい一度は経験したことがあると思う。新しい予想法を編み出したら、とたんに馬券がズバズバ当たり続けるので、自分はひょっとして競馬の天才かもしれないと有頂天になるのだが、しばらくしたらちっとも当たらなくなって、単なる偶然だったと悟ることが。

 もちろん、こういうのは努力と無関係にほとんど偶然だけで決まる例であるが、そのような場合ですら、当人は努力の産物であると錯覚することはままあるのである。

(ちなみに、競馬は期待値が1以下だから絶対に儲からない、という俗説は必ずしも正しいとは言えない。なぜかというと、競馬のオッズというのは、あくまで人間が予想した馬の人気に過ぎず、実際に馬が勝利する確率ではないからだ。オッズが勝率と一致するというのは、金融工学でいうところの効率的市場仮説に相当する仮説であるが、おそらくこれを立証した人は誰もいないだろう。ということは、他人より予想能力のある人にとっては、競馬で儲かる可能性は否定されていないのである。閑話休題。)

 同じように、人生というものは一回きりであるから、成功者の「成功」のどこまでが努力の産物で、どこまでが単なる幸運の産物であるかを、統計的に厳密に検証することはかなり難しい。したがって、実際に努力して成功した本人は、努力が必然的に生み出した結果であると思い込みやすいし、それに文句をつけることは原理的に難しい。逆に失敗した人についても、他の人はすべてが当人の努力の欠如と思いやすいし、それに対して本人が反論することも難しいのである。

 これは前にも書いたことがあるが、たとえば、長寿世界一でギネスブックにのっていた泉重千代さんは、かなりの愛煙家だったが、もちろんこれは、タバコが身体にいいことを保証しない。 困った同僚とどうつきあうべきかという問題にしてもそうである。人間は話せばわかるというのは、統計的な一般論としては正しい。しかし、個別のケースにおいて、そこに登場する同僚が、例外的な極悪人間でないということが、なぜ簡単に断定できるのだろうか。

 山田太一氏が、成功者の伝記だけでなく、失敗者の伝記も若者に読ませたほうがよいといっているのは、そういう意味である。 それに対する批判として、失敗者の伝記には、必ず何か失敗した原因が書かれているはずだから、「可能性のよき断念」にはつながらないはず、と主張している人がいたが、これこそが人生の不確実性を無視してすべてを決定論でとらえようとする発想なのである。

  実際、世の中には、できる限りの努力をしたにもかかわらず成功できなかった人がたくさんいるはずなのだが、今の世の中では、そういう人たちの経験談が若者の目に触れやすい場所に出てくる機会が少ない。したがって、そういう人たちの経験を知らしめた方が、若者も将来についてバランスのとれた判断ができるはず、というのが山田氏の言いたいことであろう。

 小飼弾氏の主張に違和感を感じたのもそこである。他人の不幸に対して、必ず本人に原因があるはずだという決め付けには、不確実性に対する感受性が欠けている(これは実は、本人より社会や国家が原因だと決め付けている批判者も同様なのであるが)。 もちろん、原因や責任をきっちり究明した上で誰かを批判するのはかまわない。しかし、ちょっと話を聞いたぐらいで、アプリオリに本人に原因を帰するのは、傲慢の謗りを免れないと思うのだ。

 ぼくがこのような不確実性に対する感受性の欠如を感じるのは、実はこの2つの例だけではない。経済一般についての議論でも感じることがある。

 そもそも、努力や能力があれば必ず経済的に成功するのであれば、資本など不要であるとすら言えるかもしれない。金融工学の教えるところによれば、リスクとリターンは比例する。つまり、付加価値の大きい生産をしようとすれば、必然的にリスクをとらなくてはならない。言うまでもなく、リスクというのも不確実性の一種である。

 実は、努力を必要とするようなことは、たいていハイリスクである。 なぜなら、努力というのは基本的に、目先の利益を放棄するかわりに、将来により大きな利益を得ようとする行為だからだ。利益を時間的に先送りすれば、その間には不確実性が入り込むことはほとんど自明である。同じように考えれば、たぶん、目的のはっきりしている応用研究より、目的のわからない基礎研究の方がハイリスクだと思われる。こういう行為が何か「堅実」なことであるように思われているのは、社会がそういう仕組みをつくってリスクヘッジしているからなのであって、行為そのものはハイリスクなのである。

 われわれは、リスクをとらなければ社会全体のパイを大きくすることはできない。これは、成熟社会になればなるほどそうなると思われる。そこで個人はある意味、自分のためだけではなく、社会のためにリスクをとらされているのだ。

 あえて極論を言えば、不確実性のある生産というのは、1回の1の目を出すために、6人でサイコロを振るようなものだと言える。 そう考えれば、因果律的に1の目を出したのは一人だけだったとしても、確率的な意味では6人の共同作業であるとみなすこともできるだろう。

 もちろん、これは偶然性を極端に誇張した例であって、実際には、努力によって成功確率を上げられる部分もある。したがって、大きな付加価値のある生産に成功した人は、社会から一定の敬意を受けてもよい。しかし、先に述べたように、人生において努力が100%で偶然が0%ということがほとんどあり得ないとするなら、社会は、失敗した者に対しても、同じ社会で生きる者としての一定の敬意を払えるはずである。

 ぼくは、収入格差はあってもよいが、セーフティネットやベーシックインカムにはわりと賛成、という立場だが、それは、人間にとって、多少の収入の差よりも、同じ社会に生きる人間として認め合えることの方がはるかに大切だと信じているからだ。

 おそらく、昔の社会では、人生に運不運があるのは当たり前だったろう。人類は、そういう不確実性を少しでも減らし、個人が自分の意思で人生をコントロールできるような社会を目指してきた。その目標は、現代においてある程度が実現されたと言えるし、そのこと自体はよいことだったろう。しかし、その副作用として、人々は、人生のすべてを意志の力でコントロールできると過信するようになり、その結果として、不幸な人々を必要以上に蔑むようになっていないだろうか。昔の社会は、ろくな社会福祉もなく、貧乏な人もたくさんいただろうが、そういう人たちに対する人々の視線は、むしろ現代より優しかったかもしれない。

 そういう意味で、ぼくは経済的な成功者の方々がいくらフェラーリを乗り回そうと女子アナと鍋パーティをやろうとかまわないが、運命に対する謙虚さだけは持ち続けてただきたいと思うのである。

 "There, but for the grace of God, goes Sherlock Holmes."

- The Boscombe Valley Mystery by Arthur Conan Doyle.

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ウ○コは美しいか?

ある保健団体にて

  • 保健団体職員 A: あーっ、すっきりした。今日も快便快便。
  • 保健団体職員 B: ぼくらがこうやって健康に暮らせるのも、老廃物を毎日規則正しくウ○コとして排泄しているおかげだよな。
  • 保健団体職員 A: そうそう。それにしては、ウ○コってなぜか軽んじられているよな。
  • 保健団体職員 B: その通りだな。なにかというと汚いとか臭いとか。
  • 保健団体職員 A: そうだ、この現状を変えるために、ウ○コの大切さを大々的にキャンペーンしようじゃないか。

ある鉄道会社の広告担当部署にて

  • 保健団体職員: すいません。電車内に広告を出したいんですが。
  • 鉄道会社職員: はいはい。どんな広告でございましょうか。
  • 保健団体職員: 一応、デザインはもうできてるんです。これなんですが。
  • 鉄道会社職員: ええー? なんですかこれ? ウ○コのドアップじゃないですか。
  • 保健団体職員: そうです。ウ○コの大切さを世の中に広くアピールしようというキャンペーンなんです。どうです、美しいでしょう。
  • 鉄道会社職員: ってあなた、こんなもん電車内に貼れるわけないじゃないですか。
  • 保健団体職員: え、なぜですか?
  • 鉄道会社職員: なぜってあなた。こんなもんを見たら、乗客が不快に思うじゃないですか。
  • 保健団体職員: ウ○コが不快? じゃああなたはウ○コをしないんですか。私に明日からウ○コをするなとでも言うんですか。人類はもう何百万年もウ○コをし続けてきた。その歴史と伝統を否定するのか。
  • 鉄道会社職員: いや、誰もそんなこと言ってませんよ。ウ○コをする人が不快なんじゃなくて、ウ○コの写真を公の場所に掲示することが不快だと言ってるんです。
  • 保健団体職員: 同じことだろう。あなたは自分以外の価値観を認められない保守的な人間に違いない。だから、心の中でウ○コをする人を差別しているのだ。これは、ウ○コをする全人類に対する差別であり、リベラルな価値観に対する挑戦だ。
  • 鉄道会社職員: えーっ? (さっきは歴史と伝統とか言ったくせに…)困ったなあ。あなたちょっと落ち着いてくださいよ。
  • 保健団体職員: いや、許せない。このことはマスコミ各社にリークしてやる。覚悟しておけ。

あるリベラル系のニュース番組にて

  •  ニュースキャスター: 某鉄道会社がウ○コのポスターを拒否したことは大変な騒ぎになっています。このことに対する抗議の意を示すために、広告主の保健団体は、この地で公開ウ○コ排泄イベントを開くことになっており、多くの人が見物に詰め掛けています。
  • リポーター: あなたはなぜこのイベントを見に来たんですか?
  • 見物客: ホントのこと言うと、わたしは、今までずっとウ○コを汚いものだと思い続けてきたんです。でも、よく考えたら、それってなんの根拠もないことじゃないですか。あの、よくわからないけど、きょ、きょーどーげんそーとか、ば、ばいお・ぽりてぃっくすとかゆーのに、そう思い込まされていただけじゃないかと思うんです。だから今日は、本当にウ○コが汚いかどうか、この目で確かめにきたんです。

(保健団体職員が一斉に排便する映像。一応モザイク付き)

  • リポーター: 実際に見てどう思いましたか?
  • 見物客: ぜんぜん汚くなかったです。みんなの前で堂々としてるのはむしろ美しかった。今までコソコソしてたから汚らしく見えたんですね。わたしは間違ってました。明日からウ○コを身体中にくっつけて歩きます。

あるふつーの家庭にて

  • 夫: あーっ、すっきりした。今日も快便快便。
  • 妻: あなたはホントにウ○コするの好きねえ。いっそ家中にウ○コの写真でも飾ったらどうかしら。
  • 夫: 何をバカなことを言ってるんだよ。あははははは…。
  • 妻: やーだ、冗談だってば。ほほほほほ…。

 あまり野暮な解説はしたくないのだが、この話の肝は要するに、何が快か不快かは、特に性的な行為に関しては、社会的文脈によって大きく変わるというところにある。ぼくは女子校生の短すぎるミニスカートが不快だ不快だといい続けているが、もちろん、ベットの中でぼくだけに見せてくれるのであれば、大歓迎なのである。そんなのは、矛盾でもなんでもなく当たり前のことである。くだんの祭りの人だって、年がら年中裸でいるわけでもあるまい。

 確かに、なぜそうなるのか、というメカニズムを説明することは簡単ではない(そういう理屈は、哲学者が「性の両義性」とか言って研究してるので、興味のある人は調べて欲しい)。しかし、多くの人は、説明はできなくても、性的にふるまうべき場所とそうでない場所を自然に区別することができる。

 もちろん、その区別が永遠普遍の真理ではなく、時代や社会によって変わりうるのも確かだ。しかし、くだんの祭りについて言えば、地元だけで合意の上でやっている分には、誰も文句を言う人もいなかったはずである。それをよその場所でも宣伝しようとすれば、地元以外の価値観と衝突する可能性がでてくるのは当然である。それを無条件に受け入れろというのは、むしろ、宣伝する側がよそ様に自分の価値観を押し付けているということになってしまうだろう。

 あの祭りの宣伝に問題がないと思う人は、たとえば、川崎のかなまら祭りのような祭りの写真を、鉄道構内に貼れると考えるだろうか。もしそれがダメだとするなら、いったいどこでその線引きをするのか。考えてみてもらいたい。

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芸術は理学、娯楽は工学

 芸術とは何か、という議論は、文明発祥のころからあるふる~い議論で、しかもいまだに万人を納得させるような結論が出ていない問題である(らしい)。今から、そういう万古普遍の問題に、ぼくみたいな凡人がこの場で結論を出してしまうという蛮勇芸をやるので、仕上げをごろうじろ(^^)。

 ぼくらの若い頃の芸術観は、基本的に、権威主義から相対主義という流れだった。その反動からか、最近の若い人たちの芸術に対する考え方は、相対主義から芸術的価値論に戻りつつあるような気配がある。

 もちろん、そのこと自体はまったく悪いとは思わないのだが、彼らの議論を見ていると、芸術的価値論を語るために必要な、美学理論の歴史や概念に対する知識が、少々不足している人が多いように感じられる。

 先日取り上げたケータイ小説の話なんかでもそうで、こんなのは小説・芸術ではないという意見を言うことはべつにいいのだが、それを根拠付けるのが、結局は、過去の名作とされる作品との比較だったりする。

 しかし、言うまでもないことだが、芸術の歴史は芸術的価値観の変化の歴史でもあるので、過去の名作に似ていないことが、単純に駄作の証明になるわけではない。だから、そういう人は、これは新しい時代の芸術であって、それが理解できない奴の方が時代遅れだという、太古の昔からある主張にすらうまく反論できなかったりする。

 したがって、芸術もエンターテイメントも同じだというような一種の相対主義を排しつつ、積極的に芸術的な価値を主張するためには、過去の一流の芸術作品との類似性などという安易な考え方ではない、もっと本質的な芸術の定義を考えなければならないのである。

 実は、これから披露するぼくの芸術に対する考え方の基本は、前にも書いたことがあるけど、山崎正和氏が「芸術・変身・遊戯」などでしている主張や、 山形浩生氏が「アート・カウンターパンチ」 でしている主張と(たぶん)だいたい同じ。もちろん、両氏はぼくのようにズボラではなく、ちゃんと美学理論の歴史を踏まえた議論をしているので、詳しく知りたい人はそちらを参照して欲しいが、両氏の主張をぼく流に大雑把にまとめれば、「芸術とは発見である」ということになる。

 発見する対象は、知覚を通じて人間に影響を与えるものなら、なんでもよい。感動するもの、美しいもの、泣けるもの、笑えるもの、怖いもの、そのどれにも分類しにくい不思議な感情を与えるもの、すべてが芸術でありうる。(したがって、人生の意味をマジメに考えるのが文学で、冒険活劇がエンターテイメント、みたいな分け方ももちろん間違い。)

 たとえば、「人を感動させるものが芸術である」、というありがちな主張があるが、これは、ぼくに言わせれば間違いである。ぼくの定義では、芸術と言えるのは、あくまでも、何が人を感動させるかを「発見する」行為の方であって、「感動」の方は、あくまでその発見の副産物にすぎないのだ。

 もちろん、何が人を感動させるかを発見すれば、その知見を利用して人を感動させることもできるようになる。したがって、そのように、芸術的行為によって発見した方法を使って、人を感動させることを目的に作られた作品がエンターテイメントである、と定義することができよう。

 この関係を科学分野に置き換えれば、芸術は理学、エンターテイメントは工学に相当するということになる。理学というのは、科学的な方法で自然界の法則を「発見」することを目的とする学問であるし、工学というのは、理学によって発見した法則を利用して、人の役に立つものを作ることを目的とする学問だからだ。

 ただ、同じ「発見」が目的と言っても、理学と芸術では方法が違う。たとえば、「感動」の原因を発見するにしても、理学では、ニューロンがどうのシナプスがこうのと、要素に還元して説明しようとするのに対し、芸術では、実際に人を感動させる作品を創作して鑑賞させるという、一種の人体実験を行うわけだ。

 ここで注意すべきは、エンターテイメントの方も、実際に人を感動させる作品を作るという点においては芸術と同じだということ。芸術とエンターテイメントの区別が、理学と工学などの区別に比べて難しいのは、これが理由であると考えられる。

 また、このたとえでもわかるように、芸術とエンターテイメントは、必ずしも価値的に上下の関係にあるわけではなく、むしろ、それぞれ別個の価値基準によって評価されるべきものだと言える。これは決して単なる価値相対主義ではない。なぜなら、どちらの価値基準でも高く評価できる作品もあれば、どちらの基準でも低くしか評価できない作品もあるのだから。

 ここまで読んで、そりゃお前が勝手に決めた定義だろう、と思う人もいるかもしれないが、この定義は、芸術やエンターテイメントに対する常識的な共通認識を整合的に理論化したものにすぎない。その証拠に、一般に芸術とエンターテイメントの違いとして認識されていることのほとんどが、この定義から導き出せる。以下それを少しやってみせよう。

 このような前提から必然的に導かれるのは、芸術作品は歴史的に一回性のものであるということだ。つまり、結果としてまったく同じ作品であっても、芸術的行為と言えるのは、歴史上初めてその作品を創作する行為だけであって、二回目以降の模倣はすべて娯楽作品になる。逆に、エンターテイメントは、現在の鑑賞者を感動させることが目的なのだから、歴史性よりも同時代性で評価される。つまり、芸術としては模倣にすぎなくても、同時代のエンターテイメントとしの価値は上ということがありうるのだ。

 例としてぼくがよく挙げるのはヒッチコックの映画。ぼくより上の世代では、ヒッチコックの映画は名作ということになっているらしいのだが、ぼくはどうしても、ヒッチコックの映画でそれほど感動することができない。なぜなら、どうしてもテレビでやっているなんとかサスペンス劇場と同じじゃん、と感じてしまうからだ(^^)。

 もちろん、ヒッチコック映画とその手のテレビドラマでは、お金や労力の掛け方がかなり違うので、ヒッチコックの方が映像が美しく、脚本もよくできている、ということぐらいはわかるのだが、それはあくまで頭で理解しているだけであって、純粋に作品を鑑賞しただけで感動することはできないのである。この話をぼくと近い世代の人にすると、たいてい同意してくれるので、これは決してぼくの独りよがりや感受性の貧困のせいではないと思う。

 この現象を、ぼくの理論で説明するとこうなる。ヒッチコックの映画は、最初に創作された時点では、新たな感動の発見であると同時に、人を感動させる方法でもあった。つまり、芸術でもありエンターテイメントでもあった。ところが、後の世になって、ヒッチコックが発見した「感動の方法」を利用したエンターテイメント作品が大量に製作された結果、多くの人がその感動に飽きてしまった。その結果、ヒッチコックの映画は、現代のエンターテイメントとしては成立しなくなってしまったというわけだ。

 またこの理論から、一般に、芸術はハイリスクであり、エンターテイメントはローリスクであるということも言える。なぜなら、芸術はまず作者を対象とした人体実験として行われるので、仮に作者自身を感動させたとしても、必ずしも万人を感動させる保証はない。それに対し、多くの人を感動させることが確認済みの技術で製作されるエンターテイメント作品は、史上初めての感動を提供する芸術作品に比べて感動の鮮度は低いかもしれないが、感動させることに失敗するリスクは低いからだ。

 したがって、先ほど、芸術とエンターテイメントに上下はないと言ったが、少なくとも、現代のような商業芸術の時代においては、芸術家よりエンターテイナーの方が安定した収入を得やすい、ということは言えそうである。たぶん、芸術家よりエンターテイナーの方が社会的地位が低いのは、その裏返しなのだろう。逆に、現代の芸術家がハイリスクに見合ったハイリターンを得るには、リスクをヘッジしてくれる資本家が必要なはずで、これで一時よく言われたパトロン待望論も説明できるわけだ。お後がよろしいようで(^^)。

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マル激・岡田斗司夫編

 今週の「マル激トーク・オン・ディマンド」のゲストは、渦中の人、岡田斗司夫さんであった。と言っても、収録したのは先週らしく、「いいめも」事件についてはなんの言及もなかったが、お話自体はなかなか面白かった。

 もっとも、後半の「見た目主義社会」の話は、申し訳ないけど、表層的であまり深みがないように感じた。面白かったのはやはり、前半のレコーディング・ダイエットの話である。実は、ぼくはまだ「いつまでもデブと思うなよ」という本自体を読んでいないのであるが、自分の禁煙体験と照らし合わせてみても、ハタと手を打つような発言がいろいろとあった。

 そこで以下、岡田式レコーディング・ダイエットについてぼく流の解釈を書こうと思うが、その前に、やはり一言書いておかねばなるまい。ここに書いてある岡田式レコーディング・ダイエットに関する説明は、あくまでぼくの勝手な解釈であって、岡田氏の提唱するレコーディング・ダイエットを正しく伝えているとは限りません。と、これでいいよね(^^)?

 ぼくは、30 代になってからタバコを吸い始め、5 年間ぐらい吸い続けてから禁煙に成功したという、少し珍しい喫煙歴を歩んだ人間なのだが、そのときに考えたのは、岡田氏と同じく、やはり人間の欲望の構造だった。

 そもそも、禁煙したい人間というのは、意識的・理性的にはタバコを止めたいと思っているのだが、無意識的・感性的にはタバコを吸いたいと思っているものだ。この状態を俯瞰して見ると、二つの矛盾する欲望を同時に抱いているということになる。

 この状態は、理性偏重の近代主義的な考え方からすれば、理性的な欲望の方が正しく、感性的な欲望の方は間違っているということになるのだろうが、ポストモダン的な考え方からすれば、どちらが正しいとも言えないはずである。

 したがって、徹底して近代主義的な人間の場合には、理性によって感性をねじ伏せるという形で禁煙に成功することもあるのだが、ポストモダン的な人間の場合には、タバコが吸えないのに長生きしてもつまらない、どうせ人間いつかは死ぬんだし、みたいな考え方に抵抗しきれないわけである。

 しかし、よくよく考えると、そもそも同じ人間が矛盾する欲望を同時に持っているということが論理矛盾なのであって、これは、意識と無意識を別の自己として認識していることによって擬似的に発生する現象にすぎないのである。

 元をたどれば、理性的な欲望も、感性的な欲望をより深く満足させるためにあるはずだし、感性的な欲望も、理性によって誘導できるはずなのだから、問題は、両者のフィードバック関係がうまく機能していないことなのである。したがって、このような矛盾は、無意識的な欲望と意識的な欲望の関係をよく整理して正しく捉えなおせば、解消できる可能性がある。

 たとえば、禁煙について言えば、そもそも、タバコを止める人はなぜみんな完全に「スパッ」と止めなくてはいけないと考えていて、一日一本だけなら吸っていいみたいな止め方をする人がいないのかが不思議である。

 実際には、無意識的な喫煙欲は、たまにはタバコを吸いたいという欲望かもしれないし、意識的な禁煙欲も、肺癌にならない程度にタバコを減らしたいという欲望かもしれない。だとすれば、完全に禁煙するかわりに、喫煙量を減らすことによって、意識的な欲望と無意識的欲望の両方を満たせる可能性があるはずだ。

 もちろん、タバコの場合には習慣性があるという事実も見逃せないが、これはおそらく、理性によって感性をねじ伏せるという近代的な自己モデルに囚われすぎているがゆえの勘違いだと思う。

 現にぼく自身も、禁煙成功後は、普段はまったくタバコを吸っていないが、たまに飲み会に行くときだけはタバコと 100 円ライターを買っていくことがある。これは前にもどこかで書いたけど、ぼくはあまり社交的な人間ではないため、同席した人と話が盛り上がらないことがあって、そういうときにも、タバコをぷかーっと吹かしているとなんとなくカッコがつくからである。(実は、これこそが、ぼくが喫煙時代に発見した、喫煙の最大の効用である(^^)。)

 もちろん、だからと言って、その日を境にタバコを吸いだしてしまうようなことはなくて、翌日からは何事もなかったように禁煙生活を続けられている。これこそ、自分の中の無意識的な欲望と意識的欲望の間の整理がついている証拠であろう。

 岡田氏の話の中でも、ぼくが最も感心したアイデアは、食事を残せばよいという話である。ぼく自身もダイエット中によく経験するのだが、たとえば、コンビニに弁当を買いに行って、カツ丼を発見し、一瞬食べたいと思ったものの、カロリー表示を見て諦めて、代わりにもっとカロリーの少ないソバ弁当にしたりすることがある。

 これも先ほどの禁煙の話と同じことで、カツ丼を食べたいというのが無意識的な欲望、ダイエットしたいというのが意識的な欲望なのだが、よくよく考えると、カツ丼を食べたいということと、コンビニで売っているカツ丼を一個全部食べたいということはイコールではない。実は、無意識は、ちょっとでもカツ丼の味を味わえれば満足するかもしれないし、そのちょっとは、実はソバ弁当一個よりカロリーが少ないかもしれないのである。

 そう考えると、カツ丼を一部だけ食べて後は捨ててしまえば、意識的な欲望と無意識的な欲望の両方が満足する可能性があるわけで、この発想はさすがに鋭いと思った。

 誰でも気がつくことだと思うが、このような考え方は、最近流行りの procrastination 対策にも応用できる。ここでも、仕事をサボってダラダラしたいという感性的な欲望と、早めに仕事を終わらせないと後でヒドイ目に合うよという理性的な欲望が対立しているように見えるわけだが、だからといって理性で感性をねじ伏せようとするから、長続きしないのであろう。最近流行のライフハックで提唱している ToDo リストの作成なども、要するに、自分の真の欲望を整理して正しく認識しなおすための技法であると考えられる。

 そういう意味で、理性的な欲望と感性的な欲望の関係を整理して、正しく自己認識し直すという手法自体は、いろんな分野に応用できるスキルであると思われる。こう考えると、このような方法が最近まで普及しなかったのはむしろ不思議なぐらいだが、おそらく、理性と感性を分けて考え、理性で感性をねじふせられる奴が偉いとする、近代的なパラダイムが発想の邪魔をしていたのだろうとぼくは思っている。

(読み直してみると、実はフロイト理論とあんまり言ってること変わらんような気も(^^)。)

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「べき」と「たい」の心理学

 言うまでもなく、人間の行動には、「べき」と「たい」がある。「べき」な行動というのは、何らかの目的を実現するための手段としての行動、「たい」な行動というのは、行動自体が欲望の対象であるようなコンサマトリー(消費的)な行動と言い換えてもよい。

 ところが、山崎正和氏もよく言うように、実際には、「べき」と「たい」はそんなにきっちりわかれているわけではない。たいていの行動は、「べき」であると同時に「たい」でもあったりする。ここが問題だ。

 仕事をする人は、金を稼ぐという目的のために仕事をす「べき」だとも思っているが、同時に、やりがいのある仕事をし「たい」とも思っている。政治運動をする人は、世の中をよくするために政治運動をす「べき」だとも思っているが、同時に、仲間を増やして政敵の悪口を言い合ったりして、そういう運動自体を楽しみ「たい」とも思っていたりする。

 人間には良心というものがあるから、自分がなんらかの行動を起こし「たい」と思い立ったときにも、その行動をす「べき」なのか、という検討はたいていの人がするものである。

 ところが、一端その行動をす「べき」であるという結論が出てしまうと、人間はしばしば、その行動が、もともと自分がし「たい」行動であったということを忘れてしまう。いや、忘れてしまうというより、無意識のうちに目を背けようとするのある。そして、「べき」であるという事実を名目にして、「たい」の欲望を思う存分満たそうとするようになるのである。

 その結果、周囲から見ると、本来の「べき」の目的合理性ではとうてい説明できないような、過剰な行動が観察されることになる。しかもやっている本人は、それはあくまで「たい」ではなく「べき」の行動だと思っているから始末が悪い。

(ダウンタウンがよく言うつっこみで、「お前それ言いたいだけやろ!」というのがあるが、このいうところにも、彼らの人間観察眼の鋭さが現れていると思う。)

 政治運動などを見ていても、周囲から見ると、「そこまでやるかあ?」と思って「ひいて」しまうような運動が多々あるが、そういう現象の裏に働いている心理的メカニズムは、たぶんこのようなものではないかと推察される。

 この問題が難しいのは、単純に「たい」であるから「べき」ではない、とも言えないし、「たい」と「べき」をくっつけるべきではない、とも言えないことである。むしろ、「たい」と「べき」がくっついた状態というのは、社会的意義と本人のやりがいが理想的に結びついた状態とも言えるのだから。

 もちろん、周囲から評価する際には、単純に「たい」の部分を無視して「べき」の部分だけで評価する、というようにすればいいわけである。しかし、やっている本人にとっては、やっぱり、「べき」だけでなく「たい」の部分も重要なのであるから、なかなかそう突き放して客観的に見ることも難しいのだろう。

 そう考えると、本人にとってもっとも有効な処方箋は、その行動がもともと「べき」であると同時に「たい」でもあるということを、自分自身で自覚することだと思う。その自覚があれば、自分の行動が本当に「べき」の目的に合理的であるか、それとも、「たい」の欲望を満たすことだけが暴走しているかを、ある程度自覚的に制御することも可能だろう。

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年長者を敬う意味

 年長者を敬うことが、多くの文化で美徳とされている理由について、一つの仮説を思いついたので書いておく。もっとも、こんなこととっくに誰かが言ってそうな気もするが(^^)。

 これはたぶん著作権と同じ原理なんじゃないかと思うのだ。つまり、全プレーヤーを平等な条件で競争をさせると、世の中全体にとってはかえって損になるので、一部のプレーヤーを意図的に優遇する、という意味があるのではないか。

 そもそも、若者と年寄りでは、競争上の長所・短所が異なっている。若者にとって、競争の武器は、才能・気力・体力である。これらは、他人に分け与えたり、他人からもらったりすることはできないし、使ったせいで優位性が使い減りすることもない。一方、年寄りは、才能はともかく、気力・体力ではむしろ若者より劣る。したがって、年寄りの競争の武器は、経験によって身に着けた知識や技術になるが、これらは、比較的容易に他人に分け与えることができ、その結果確実に優位性が失われてしまう。

 こういう前提条件のもとで、若者と年寄りとを完全に平等な条件で競争させると、若者はほっといても全力を発揮しようとするだろうが、年寄りにとっては、知識や技術を小出しにして、若者に対する優位性を維持することが合理的な戦略となるだろう。しかし、年寄りがみなこのような戦略をとったんでは、社会全体にとっては損失である。

 したがって、年寄りが持つリソースを気前よく社会に提供させるためのインセンティブとして、年寄りを無条件で敬う文化というのができたのではないだろうか。徒弟制度などの合理性も、部分的には同じ論法で説明できそうである。

 仮にこの仮説が正しいとすると、現代のように年功序列がなくなって、年寄りと若者が同じ条件で競争する社会になった時代には、そのような年寄りを敬う文化が持っていた機能を、何かで代替する必要があるだろう。

 たとえば、インターネット上で知識を披露することにより、広告料が得られるなんていうシステムは、競争原理がより多くの知識を提供するためのインセンティブとして働くので、そういう代替機能の候補にはなりうると思う。だけどそれが、非常にマイナーな知識、たとえば、特定のお客に営業をかけるコツ、みたいなものの共有にどこまで役立つかを考えると、こころもとない感じがしないでもない。

 実は、ぼく自身も、昔は知識を小出しにするなんてセコいと思っていたのだが、最近は、少し知識を小出しにした方がいいかもしれないと思い始めている(^^)。だからこんな説を思いついたのかもしれない(^^)。 ぼくは前から、成果主義より能力主義の方が合理的のではないか、と主張しつづけているのだが、年寄りの優遇も一種の「能力」主義として考えてみてもよいかもしれないね。

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ミニマックス戦略としての陰謀説

(前に、「ビジネスはプラスサムゲーム(を目指す)」というのを書いたことがあるけど、その「政治編」みたいな感じ。)

 米下院で従軍慰安婦決議とかが出て、ネット上ではまたぞろ不毛な政治論争が沸き起こっているようだが、こういう論争にはうんざりしてる向きも多いと思う。こういう、ウヨとかサヨとかカタカナで書かれてしまうような方々の言説を見ると誰でも気づくのは、陰謀説が多いことである。やれ、サヨは特定アジアと結びついて日本を売り渡そうとしているとか、ウヨは国民を洗脳して戦場に送りこもうとしているとか。。。(^^)

 では、なぜ彼らの主張にはこんなに陰謀説が多いのであろうか。それは、彼らが政治を闘争として捉えていて、政敵は常に自分にとってもっとも嫌な手を打ってくる、という考えを前提にしているからではないかと思う。

 もちろん、こういう考え方が合理的思考に基づいているとは必ずしも言えないのであるが、合理的に解釈できる方法が一つある。それは、この考え方を、ゲーム理論で言うところのミニマックス戦略として捉えることである。

 ミニマックス戦略というのは、ある種のゲームにおいて、「最適」な戦略であることが数学的に証明されている戦略なので、そういう戦略をとることに別に問題はないと思う人もいるかもしれない。しかし、実はこの「ある種のゲーム」というのには、かなり厳しい制約がついている。それは、そのようなゲームはゼロ和ゲームでなければならないということである。

 ゼロ和ゲームというのは、相手が得すれば必ず自分は損する、したがって、相手の得と自分の損を足すと常にゼロになる、というタイプのゲームのことである。たとえば、勝ちと負けしかない将棋のようなボードゲームであるとか、有限のリソースを取り合うような闘いとかはすべてこれに相当する。

 しかし、現実世界の闘争には、ゼロ和ゲームでないものも多い(むしろ、ほとんどがゼロ和でないと言ったほうがよいのかもしれない)。権力闘争にしても、特定の地位を取り合うという点だけを考えれば、ゼロ和ゲームとみなせるかもしれない。しかし、一般の有権者にとっては、ウヨが勝とうがサヨが勝とうが、結果として国がよくなればいいのであるから、こういう政治闘争はゼロ和ゲームではまったくないのである。

 こういうゼロ和でないゲームにおいては、ミニマックス戦略は必ずしも「最適」戦略ではない。言い換えれば、このようなゲームでは、決して「敵性悪説」にたたず、ある意味で「敵を信じる」ことが必要になってくる。もっとも、この「敵を信じる」というのはあくまで比喩的な表現であって、厳密にそれがどういうことを指すのかを言うのはなかなか難しいが。

 しかし、少なくとも、敵は常に最悪の手を指してくる、という前提にたっていては必ずしも最適の結果は得られない、ということは、ある種の数学的なモデルでも証明されていることなのである。そのことを、陰謀論好きな方々も、知っておいたほうがよいのではないだろうか。

 もちろん、これは陰謀説が常に誤りであるという意味ではない。実際、オウム事件や拉致事件では、陰謀説的な説明の方がむしろ真実に近かった。問題は、不確実な情報の下で、さまざまな戦略にどのようにプライオリティを置くかなのである。陰謀説論者というのは、入手した情報の確実性との相対的な関係を考えたときに、あまりにも陰謀説対策にプライオリティをおきすぎる。それは必ずしも最適戦略とはいえないということ。

 もっとも、いくら理詰めでこういう説明をされても、陰謀説的な思考法から抜け出せない人もいるだろう。おそらく、そういう人たちにとっては、政治闘争の世界が「局所的」にゼロ和ゲームのように「見えて」いるのである。その原因が、彼ら自身の見る目が歪んでいるからなのか、それとも、本当に近似的にはゼロ和ゲームになっているからなのかは、人によるだろうが。

 先に書いたように、特定の地位を争っているような人たちにとっては、権力闘争が近似的にゼロ和ゲームになってしまっているのは確かだろう。だから、こういう人たちにとっては、権力闘争がゼロ和ゲームでなくなるようなインセンティブを与えることが必要なのかもしれない。

 しかし、一般庶民にとってはそういうことはほとんどないはずなので、そういう人が陰謀論に極端にこだわっているのだとしたら、むしろゲーム盤を見る目の方が歪んでいるのである。ウヨとかサヨとかカタカナで呼ばれてしまうような人たちの言説に触れた一般庶民がなんとなく引いてしまうのは、おそらくはそれが原因なのだと思う。

(昨日書いた米長さんが失敗ばかりしているのも、ゼロ和ゲームである将棋の世界の戦略を、ゼロ和ゲームではない現実世界に持ち込もうとしているから、なのかもしれない…(^^)。)

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佐藤信夫再読

レトリック感覚 思うところあって、故佐藤信夫氏の「レトリック感覚」「レトリック認識」「わざとらしさのレトリック 」「レトリックの記号論」を再読。なぜこの四冊かというと、たまたま以前からウチの本棚にあったからである。最初に買った「レトリック感覚」は講談社文庫版で、奥付を見ると「昭和 61 年 3 月 15 日の第一刷」となっている。だから、最初に読んだのはかれこれ 20 年も前だということになる。

 そんなわけで、20 年ぶりの再読だったわけだが、改めて名著だと再認識した。もちろん、当時読んだときもよい本だと思ったのだが、今になってみると、当時はまだまだ全然ちゃんと読めてなかったなあと感じるところが多々ある。

 特に感じたのは、佐藤氏のレトリック論は、実はきわめてポストモダン的だったんだなあということである。まあ、佐藤氏はバルトの「モードの体系」などを訳した人でもあるのだから、ポストモダンの影響を受けているのは、ある意味当たり前といえば当たり前なのだが、当時のぼくは、まったくそういうふうに捉えていなかったのだ。

 これは、ぼくが幼くてそういう論壇の事情などといったものに疎かったということもあるが、佐藤氏自身の文章のスタイルが、そういうことを匂わせなかったことも大きい。実際、佐藤氏の持つ学識からすれば、バルトその他を引用したり、デノテーション、コノテーション、ディスクールなどといったポストモダン/ニューアカ・ジャーゴンをちりばめたりして読者を煙に巻くといったことは、いとも容易だったはずである。

 にもかかわらず、佐藤氏は、用語系も伝統的な修辞学のものを踏襲し、表現もできるだけ平易なものを使い、考え方としてのみ、ポストモダン的なエッセンスをもりこむようにしている。「記号論」所収の「金で買えると言う意味」などというエッセイもそうで、ここでも佐藤氏は、お金を記号とみなすという、当時流行のソシュールの主張を紹介しつつも、それとは一線を画す独自の論を張っている。

レトリック認識 佐藤氏がそのようなスタイルをとらなかった理由が、学者としての美学なのか処世術なのかは定かでないが、そのおかげで、この本は、ぼくのようなど素人でも気軽に読めるような間口の広さと、20 年たっても古びない普遍性を持つことができたことは間違いないだろう。

 だから、このような本を読んでつくづく感じるのは、たとえモダンであろうとポストモダンであろうと、単に流行にのって踊っていただけではなく、佐藤氏のように自分の頭できちんとものを考えていた人の仕事は、やっぱり時代を超えて残るのだなあということである。

  ぼくは普段、ポストモダン的な思想に対して批判的であることが多いが、その態度は、世代的な経験からくるところが大きい。ぼくらの世代は、10 代の多感な時期にニューアカ/ポストモダン・ブームを経験し、20 代でオウム事件や「ゴー宣」ブームを経験した、つまり、ポストモダンから入ってモダンに回帰した世代である。

 そのため、ポストモダン的なものに対しては、いい意味でも悪い意味でも思い入れが強すぎるところがあって、実は他のどの世代よりもポストモダンの影響を強く受けているくせに、単に「モダンはダメダメ」とか言うだけで、何の対案も示せないような人たちには、反射的に反発してしまう傾向があるのだ。

(ちなみに、これはぼくと同年代の思想家・評論家の多くに共通する特徴でもあると思う。ご本人にとっては不本意かもしれないから、名前を挙げるのはやめておくが)。

レトリックの記号論 しかし、素直になってよく思い返してみれば、ポストモダン的な仕事の中にも、佐藤氏の仕事のように、単にモダンを否定するなどというレベルを超えた、ぼくらの思考の血肉となって残ったものもたくさんあったはずなのである。そういう意味で、ぼくは、誰かさんのように、「80 年代はカスだった」というふうに切り捨てる気には、必ずしもなれない。

 最近の若い子を見ると、そういうポストモダン的な素養がほとんどなくて、単にベタにモダンな人が多いように見えて、それはそれで問題だなあという気もするのである。その一方で、ポストモダンの劣化コピーみたいなスピリチュアルなんちゃらとかオカルトとかに惹かれる人も多いようで、なんか両極端に二分されてるような印象がある。これは、前の世代に対する過剰な順応と反発の現われなのかもしれないけれど。

 まあ、若者なんていつの時代もそうかもしれなくて、ポストモダン・ブームにはまっていたころのぼくらだって、年長世代から見たら、きっとすごく危うく見えたに違いないんだよね (^^)。だからまあ、これはそれこそ、坂道で踏むブレーキみたいなもので、大多数の若い子には無視されることを覚悟で言っているわけだけど、そういう若い子には、こういう良質なポストモダンの成果というものを、少し味わってみてほしいなあと、最近ちょっと思うようになってきたのだ (^^)。

 ちなみに、「感覚」と「認識」は、レトリック全般について体系的にのべた本で、「わざとらしさ」はレトリックを多用する作家数人についての作家論、「記号論」はすこしくだけたエッセイ集(と言っても、作家の書くエッセイよりはもちろん理論的だが)という感じ。だから、言葉の仕事に関わる人は、「感覚」と「認識」だけでも読んでおくといいんじゃないかな。

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裏返しの友だち観

 「タイトルの「無駄」の部分に、苦み走った気分で反応。が、帯に目をやれば「その無駄がいいのよ」。」

 というのは、佐野洋子さんの「友だちは無駄である」に対する温水ゆかりさんの書評の冒頭部分なのだが、これを読んで改めて思った。ぼくの友だち観は、おそらく、世の中の標準的な友だち観とは正反対なのだと。

 おそらく、温水さんは、基本的に友だちと言うものは価値あるものだと思っているのだけれど、実際には、必ずしもいいことばかりじゃないとも思っている。だから、 「「無駄」の部分に、苦み走った気分で反応」したのだろうし、その後の「その無駄がいいのよ」でほっとしたのであろう。

 ぼくは、この本自体読んでいないのでアレなのだが、おそらく、著者の佐野さんも、わざわざ「その無駄がいいのよ」と書くぐらいだから、「友だち→役に立つ→価値がある」という価値観を前提にしており、それに対するアンチテーゼとしてこう書いているように思われる。

 でも、ぼくの場合、そもそも「「無駄」の部分に、苦み走った気分で反応」などしない。なぜなら、そんなの最初から当たり前だと思っているから (^^)。もちろん、「その無駄がいいのよ」を読んでほっとしたりもしない。それも当たり前だから (^^)。

  つまり、ぼくの場合、最初から「友だち→役に立たない→価値がある」というのが大前提であり、役に立たない友人関係こそを理想としているのだ。ぼくに言わせれば、友だちに対して、役に立つとかたたないとかいう概念を適用すること自体が「不純」なのである。ところが実際には、不本意ながら役に立つことを求められたり求めたりしてしまうことが多くて、むしろそこが、現実の薄汚さだよなあ、とか思っているわけである。

 だから、ぼくはこの温水さんの書評を読んで、自分の友だち観と世の中の友だち観の根本的なズレがわかったような気がしたのだった。

 一応、理論武装しておくと、友人関係というのは、山崎正和氏の「柔らかい個人主義の誕生」や「社交する人間 」風に言えば、生産のための人間関係ではなく、消費のための人間関係であるべきだと、ぼくは思っているわけですね。実際、子供の頃の友だち関係って、みんなそうだったと思うんだよね。でも、大人になるとだんだん、友達同士で仕事上の便宜をはかったりするようになって、それができない奴は「使えない奴」とかいうことになったりするでしょ。それがイヤでイヤでたまらないわけ。わかるかなあ (^^)。

 そういうことを言うと、でも、友達同士が助け合うって美しいじゃん、とか言われるかも知れない。そういう人に対しては、だったら、友だちでもないのに助け合う方がもっと美しいだろう、と言っておこう (^^)。カッコつけすぎだって? でも、「友達同士が助け合う」っていう言い方がそもそもカッコつけすぎなんですよ。だから、それに対抗するには、こっちもカッコつけざるを得ないのだ (^^)。わかるかな?

追記: 「柔らかい個人主義の誕生」で検索してみたら、ロクな紹介がないので驚いてしまった。お前らホントに読んだんか? 読んでないか読めてないかのどっちかとしか思えんぞ (^^)。バブル時代の消費礼賛の本で、バブル崩壊によって影響力を失ったとかさあ、いったいどっからそういう読みが出てくるの(^^)? 影響力を失うどころか、今のオタク全盛時代を予言していたとさえ言えると思うんだけど (^^)。まあ、ぼくみたいなのが褒めると、かえってネガティブな先入観を与えちゃうのかも知れないね。でも、批判するなら、ちゃんと読んで理解してからにしてくださいね (^^)。ぼくはいいけど、山崎さんがかわいそうだからさ (^^)。

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西部・宮台対談

 「マル激トーク・オン・ディマンド」で西部邁氏と宮台真司氏が対談するという驚きの企画をやっていました。このお二人はながらく対立関係にあって、テレビの生放送中に宮台氏に論破された西部氏が席を立って帰ってしまったという有名なエピソードがあるほど。そんなお二人が対談したとあって、つい、野次馬的興味で観てしまいました (^^)。

(といいつつ、ぼくは残念ながらその決定的瞬間を観てないのですが(^^)、見ていた友人の話によると、西部氏が退席する姿を見て哄笑する宮台さんの姿はまるで悪魔のようだったそうです (^^)。その友人は、今度の都知事選で共産党候補に投票しろとかいうような人で、西部氏とは思想的にほど遠いはずなのですが、宮台氏の哄笑する姿があまりに怖すぎて、まったく宮台氏に共感できなかったそうです (^^)。見てみたいなあ。ようつべとかにアップされないかしら(^^))

 で、結論から言うと、はっきり言って気色悪かったです (^^)。いったい、宮台サンはなぜ西部さんを持ち上げようと思ったのか。申し訳ないのですが、何をたくらんでいるとしか思えない (^^)。だいたい、あれだけフェミニズムに対するバックラッシュを批判していた宮台さんが、「バックラッシュがあるのは当然だ」はないでしょうが (^^)。あの人は結局、自分が頭がいいということを見せたいだけなのかなあ思ってしまいましたよ。まあ、柳沢発言問題のところだけはちょっと共感したけど。

 西部さんの話も、言ってること自体は基本的に間違ってるとは思いませんよ。でも、新しい話や独自性のある考えはほとんどないですよね。きつい言い方をすれば、二周三周遅れの話だけしかしていない。そんなことはとっくにみんな承知していて、そこから先を悩んでいるんじゃないかと思うのですが、それをさも自分だけが気づいていることであるかのように、しかも酔っぱらいのような口調で延々と喋るので、正直ウンザリしました。

 それじゃあ、そのへんの議論好きオヤジの独演会とかいっしょで、その程度の話なら、ぼくだってできるって (^^)。それで知識人批判とかされてもねえ。じゃあ、知識人としてもたいして価値のある話もできなけりゃ、一般庶民でもないという西部氏自身のスタンスはなんなんだと思ってしまう (^^)。

 西部さんは、全面的な改革を否定し、漸進的な改革を主張するのが保守だみたいに言ってたけど、全面的と漸進的の間にはっきりした線なんかひけっこないじゃないですか。だいたい、人類はすべて 40 億年前の DNA を引き継いでいるし、人間個体だって、常に一瞬前の肉体や記憶を引き継いでいるんで、そういう意味では、人間や生物は基本的に保守なんですよ。

 つまり、極端に言えば、人間のやることに「全面的」な改革なんてありゃしない。あるとすれば、人間であること自体をやめるとか、生物であること自体をやめるとかしかないけど、それだって、「人間が」人間であることをやめるという以上は、人間であるという連続性はどこかに残っているんだよね。

 だから、私はむしろ逆で、保守より目((c) バザロバ・ナタリア)、じゃなかった、人間は完全に保守的になることもできなければ、完全に革新的になることもできなくて、保守と革新の差なんて、所詮は程度の差にすぎないはずなんだよね。そういう意味では、日和見主義で場当たり的な政策をとっている政治屋さんたちのほうがよっぽど現実的であって、どっちがより「真の保守」か、なんて言ってる方が、よっぽど観念的だと思う (^^)。

 今書いた意見だって、十年ぐらい前に橋爪大三郎さんが書いてた意見を、ぼくが自分なりに言い換えただけであって、ちっとも新しくもなんともありゃしないんだけどね (^^)。そんなことを、一般向けのメディアならまだしも、丸激のようなメディアで今さらきかされても、うんざりするだけだよね (^^)。

 ぼくは、坂道で踏むブレーキとしての保守には存在意義があると思うけど、もともと、完全にノーブレーキで突っ走ってる奴なんか誰もいないし、一部の自称保守は、むしろ、坂の途中を目指してバックして逆走しようとするでしょう? それは、ぼくに言わせれば、革新のメンタリティなんだよね (^^)。真の保守なるものがいるとすれば、それは、最終的には坂の下にずり落ちることを承知で、ブレーキを踏み続ける人、言い換えれば、負けを承知で闘い続ける人だと思う。

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ポストモダンの亡霊を排す

 若い世代はあまり知らないのかもしれないが、ぼくらポスト・ポストモダン/ニューアカ/フェミニズム世代(「クーリエ・ジャポン」の記事によると、アメリカはもう「ポスト・フェミニズム」らしいぞ(^^))からすると、この手の議論は正直もううんざりという感じなんだよね。

 もちろん、この手の議論というのは、特定の価値を賞賛すると、それ以外の価値を相対的に貶めることになる。だから、多様な価値を尊重するためには、特定の価値を賞賛してはならないってやつね。やれ、「立派なご両親が揃っていてよかったね」というのは母子家庭に対する差別であるとか、「五体満足な赤ちゃんでよかったね」というのは障害児に対する差別であるとか、「ミスコン」はブスに対する差別だとか、もうさんざ聞かされたよ。

 でも、ぼくの中ではこの手の議論はとっくに終わっているし、ポストモダンを通過した多くの人たちの間でも、とっくに終わった議論だったはずだ。

 結論から言ってしまえば、価値相対主義というのは、価値の否定とは違う。そもそも、人間はなんの価値観を持たずに生きていくことなどできやしない。民主主義の価値相対主義というのは、個人が自由に価値形成を行った結果として、ある種進化論的・弁証法的によりすぐれた価値に到達することを狙いとしているのであって、そのために、権力によって特定の価値観を一方的に押し付けるのは(なるべく)やめましょう、ということにすぎない。だから、あらゆる価値を平準化してなくしてしまいましょう、というのとは、ほとんど正反対の思想なのである。

 そして、人間同士が価値形成を行うためには、当然のことながら、何が自分にとって価値があるかを他人に対して表現することが必要なのである。批評だってなんだって、そのために存在しているのだ。(もっとも、実際には、権力闘争や個人のストレス解消のためだとでも思っている人も多いようだが (^^)。)

 「五体満足な赤ちゃんでよかったね」と言ってはいけないと主張する人たちは、じゃあ自分が明日から障害者になってもいいと思っているのか? 世の中の人が全員障害者になった方がいいと思っているのか? そうじゃないだろう? だとすれば、否定するのはそういった価値観そのものではなく、あくまで表現の問題にすぎないはずだ。

 もちろん、障害者の目の前でわざわざそういうことを言う必要はないだろう。でも、いついかなるところでもそういう発言をしてはいけない、などという主張は、市民同士の自由な価値形成そのものを疎外することになってしまう。

 市民同士の関係ではそうだとしても、政治権力者がそれを口にするのは、権力による価値観の押し付けになるのではないか、というのも極論である。そもそも「権力による強制」とは何か、というのがなかなか難しい問題で、フーコーのようにむやみと拡大解釈する人がいることももちろん知っている (^^)。

 しかし現実的には、ある種のインセンティブによって、特定の価値観を促進しようという法律は、健康増進法とか動物愛護法とかいくらでもあるのだ。だから、民主主義運用の現実に即して考えれば、完全な強制は許されなくても、ある程度のインセンティブによる誘導は許される、と考えるしかない。

(「タバコを吸うのはよくない」とか「動物をいじめてはいけない」みたいな価値観を、政治権力によって促進しようとしている人たちが、一方では「子供をたくさん作った方がいい」という価値観の促進に反対している、と決め付けるわけではもちろんないが (^^))

 少子化対策というのが、民主主義的な手続きにのっとった国民的合意である以上、それを推進する人間が、その価値観にコミットするのはむしろ当然のことである。また、特定の価値観に対するある種のインセンティブとして働くような発言を全否定することも極論だと思う。ただ、もちろん表現の巧拙というのはある。

 ちなみに、ぼく自身は、「少子化対策もいいけど」という記事でも書いたように、少子化対策よりもむしろ移民を促進したほうがいいという立場だし、「伝統の在り処」や「文化は制度化では守れない」 でも書いたように、天皇制はなくなってもいいとか言ってるような人間ですから、実際には、現政権の考え方とかかなり距離があると思うんですよ (^^)。

 でも、ぼくは筋金入りの価値相対論者なので (^^)、そういう個人の価値観によって、主張の是非を判定されるのは嫌なのね。だから、そういうエクスキューズをあえて最後に持ってきた次第。

 もしこの問題が純粋に表現だけの問題であるならば、表現の問題に相応しい取り上げ方の軽重というものがあるはずだし、逆に、表現に現れた価値観や思想の方が問題であるというのなら、徹底的に価値観の戦いを繰り広げればよいのである。けれども、(たぶんそのような論戦になれば泥沼になり足並みが乱れることをおそれているのだろうけど)実際には、あえて思想論には踏み込まず、あくまで表現の問題であるが、表現の問題はすご~~~~~~く重要なんだよ、という論法によって、無理矢理当事者を引きずり下ろそうとしているように見える。この問題について、最も「不健全」に感じるのはその点である。

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「人に好かれる人」はなぜえらいか

 このブログでも何度か書いていますが、ぼくは非常に鈍いところのある人間で、世の中の大多数の人が若いうちに気づくようなことに、歳をとってからやっと気づくようなことが多々あります。これもそのうちの一つに数えられるかもしれません。

 世間一般の常識では、「人に好かれる」というのは、偉いと言う表現が適切かどうかはさておき、ポジティブな価値を持つことになっていますよね。ぼくはそれを、<「人に好かれる人」→好かれるような美点をたくさん持っている→ゆえに偉い>というふうに解釈していたんだけど、どうやらそれは間違いらしいということに、今日やっと気づいたのです。やっぱり遅いですか (^^)?

 つまり、他人に好かれるかどうかというのは、個人の決まった属性というよりも、むしろ、意志の問題だということです。ぼくは、誰だって基本的には他人に好かれたいと思っているに決まっているじゃないか、と長いこと思い込んでいた。でも、どうやらこれが大きな勘違いだったらしいのです。

 多分、若い人の中には、まだそう思っている人も多いと思います。でも、人間 40 才にもなると、他人に好かれるかどうかなんて、わりとどーでもよくなってくるんです。

 ほら、一時「オバタリアン」とかいって、中高年女性のずうずうしさを揶揄するのが流行りましたけど、ああいうのも、他人に好かれたいという意欲の減退の表れかもしれない。あるいは、結婚して何年もすると、女性のお化粧がいい加減になったりウェストがゆるんできたりするのもそうかもしれない。ぼくはまだですけど、多分、更年期をすぎたりすれば、この傾向はもっと加速するでしょう。

(ちなみに、このへんの性と人間性の関係というのは、もっと追及されるべきだと思うよ。(^^))

 つまり、「人に好かれる人」がなぜ偉いかというと、人に好かれる美点を持っているということ以前に、人に好かれようとする意志を持ち続けているということが偉いのです。そして多分、強い意志さえあれば、ある程度結果はついてくるのです。だから、明石家さんまさんのように、50 才にもなって他人に受けたくて仕方がないと思っているような人は、それだけで十分偉大なのです。このことに、若いうちは気づかなかった。

 ついでに言うと、よくテレビなんかで、「お年寄りなのに生きがいを持って元気で生き生きと生きている人」みたいな人をフューチャーするでしょ? ああいう人も、多分、半分ぐらいはサービス精神でやってるんだと思う。

 つまり、若い人からみたら、お年寄りがあまりみじめったらしい暮らしをしていたら、自分も将来そうなるのかなあと思って、ウンザリしちゃうじゃないですか。若者にはお年寄りのことはわからないけど、お年寄りはみんな昔は若者だったわけですから、そういう若者の気持ちはわかってるはずなんですよ。だから、若者をがっかりさせないために、生き生きと生きているフリをしているんだと思うんです。もちろん、ある程度は本当に元気でないと、元気なフリもできないから、そういう意味では本当に元気でもあるんでしょうけど。

 ぼくも、この年になるとだんだん人付き合いが面倒になるんですよ、ということを、周囲の人にそれとなくうまく伝えたいんだけど、これがけっこう難しいんですよね。「友だちなんていらねーよ」みたいな言い方では、傲慢に響くし、虚勢を張っているともとられかねない。かといって、逆に謙遜して、「友だちが少なくて…」みたいなことを言うと、やさしい子たちが本気で心配してくれちゃったりする (^^)。そういうわけで、いかに傲慢にもならず、心配もされず、適度にほっとかれる方法はないか、といろいろ試しては失敗している今日この頃なのです (^^)。

(「負け犬の遠吠え」という本、まだ読んでないんだけど、あれもたぶんそういうコンセプトなんじゃないのかなあ、と勝手に想像してます (^^)。)

 そういうわけなので、ぼくがなんか変なことを書いていても、あまり本気にしないで、またあいつバカなことをやってるな~、と読み流していただければ幸いです (^^)。

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ダウンタウンの「擬似ヤラセ」に見る「演技する精神」

 山崎正和氏の「演技する精神」を久しぶりに読み返していたら、この本の理論を援用して、ダウンタウンの「擬似ヤラセ」の面白さがうまく説明できることに気づいた。(われながらいったいどういう連想回路をしているのかと思うが…(^^))

 「擬似ヤラセ」というのは、ダウンタウンがよくやるある種の企画に対して、ぼくが勝手につけた名前で、「ガキの使いやあらへんで」という番組の「板尾が来た」というシリーズがその代表例である。この企画について、番組を観た事のない人のために簡単に説明すると、こんな感じである。

ダウンタウンとスタッフが楽屋で打ち合わせをしていると(外でロケをしていると、etc.)、板尾創路が予告もなくやってきて、新しい企画を考えたから(偶然カメラに映ったから、etc.)金をくれと言い出す。 あまりに理不尽な言い分なのでダウンタウンとスタッフは抵抗するが、板尾のごり押しに負けて、しぶしぶ金を払ってしまう。

 こういうのを完全にドキュメンタリー調でやるのだが、板尾が貧乏で金に汚い人間だという設定はもちろんウソである。この映像がもし、本当に板尾が貧乏で金に汚い人間だということを信じさせようとして作っているのならヤラセそのものだが、この企画の場合、話が大袈裟すぎたり不自然すぎたりして、視聴者は観ているうちにこれはウソだと気づくような仕掛けになっている。

 つまり、普通のヤラセが、ウソを信じさせるとい目的のために作られた映像だとすれば、この「擬似ヤラセ」は、ウソを信じさせるとい目的をカッコに入れて、映像の作り方だけを忠実にマネた模倣なのである。

 さて、山崎理論によれば、模倣というのは、行動の目的をカッコに入れることによって、見るものの注意を行動の目的から過程に移す効果があるという。

 この擬似ヤラセを見た視聴者も、それがウソだと気づいた時点で、この映像が語ろうとする「目的」から映像そのものへと、強制的に注意を向けさせられることになる。そして、怖ろしいことに気づかされることになるのだ。

 この企画の映像はいかにもウソっぽい映像だが、よく考えてみると、板尾がスタジオやロケ地に来てそういう行動をとったということ自体はウソでもなんでもない。「本当」の映像との違いは、板尾が現実的な要請に基づいて自発的に行動をしているか、事前に打ち合わせをした上でその通りに行動しているかだけにすぎない。しかも、番組の中では、打ち合わせのシーンを流すわけでもなけでば、「板尾は金に困っています」というテロップやナレーションが入るわけでもなく(最近はテロップを入れることもあるようだ。無粋なことである)、板尾の行動を淡々と流しているだけである。ということは、実は、

 あの映像自体はウソでもなんでもなく、まごうことなき真実なのである!

 お気づきの通り、この構造は、印象操作を行うために編集されたニュース映像などとまったく同じである。つまり、この擬似ヤラセは、テレビ映像というものの本質的な欺瞞性を、凡百のメディア論なんかよりはるかに鮮やかに暴いてしまっているのである。これが、この企画のアイデアが第一にすごい点である。

 さらに、このアイデアにはもう一つの効果がある。この企画を、擬似ヤラセではなく、純粋なフィクションとしてやったときのことを想像してほしい。板尾が貧乏なタレントの役、ダウンタウンが冠番組を持っている売れっ子タレントの役をやっているコントだと考えてみるのだ。

 我々がフィクションを観るときには、たとえコントであっても、登場人物に感情移入して観ようとするものだ。したがって、板尾が貧乏だという設定はフィクションだとわかっていても、「もし板尾が本当に貧乏だとしたら」という仮定のもとで観ることになるだろう。そうすると、貧乏人が必死でやっていることを笑いものにしていいのかとか、ダウンタウンは売れてるからって傲慢じゃないのかとかいう、余計な想念が湧き上がってきて、素直に笑えないに違いない。

 しかし、この擬似ヤラセの場合、視聴者はそれがウソだと気づいた時点で(松ちゃんが「ガキの使い」のトークで激怒していたように、本気にしてしまう視聴者もいるようだが)、「板尾が貧乏かどうか」という問い自体が無意味になり、板尾が貧乏だとは仮定としてですらも思えなくなるのだ。その結果、登場人物の行動だけに注意が集中するようになり、追いつめられた人間の行動のおかしさ、みたいなものを純粋に笑えるようになるのである。前に書いた、「ウソなんだけど、本当よりも真実を語ってしまう」というのはそういうことである。

 余談になるが、ぼくがダウンタウンのこの手の擬似ヤラセ企画を観たのは、かれこれ十年も前にやっていた「ごっつええ感じ」という番組が最初である。ちょうどまだ「電波少年」などもやっていた頃で、猿岩石のヤラセ疑惑などが話題になっていた時期でもあった。したがって、その企画を見たとき、なんとすごい発想かと思い、松本人志という人はまごうことなき天才であると確信したのであるが、そのころはまだ、何がすごいかを理屈で説明することはできなかった。それを十年以上たってやっと理論化できたので、余は満足である (^^)。

 もっとも、松本人志という人の頭の中には、このような高度なお笑い方程式がまだまだたくさん隠されていると思う。ぼくか松ちゃんのどちらかが死ぬまでの間に、なんとかその全貌を明らかにしたいというのがぼくの密かな野望である (^^)。(なお、文中の敬称を一部略させていただきました。)

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ピーター・シンガーがコルベア・リポートに…

 かの哲学者のピーター・シンガーが「コルベア・リポート」に出たらしくてびっくり。コメディ・セントラルの番組は、ホントに勉強になるね (^^)。
speciesist ですか。それは human being じゃなくて、キリスト教徒もしくは近代人のことじゃないのかなあ?(^^) 少なくとも、虫愛ずる姫君とかナウシカとかは違うんじゃ (^^)。

注: 野暮な解説ですいませんが、この「コルベア・リポート」というのは、ビル・オライリーがやっている「オライリー・ファクター」という番組のパロディなのです。ホントはこういうこと書きたくないんだけど、そう思って見てもらわないと、誤解を招くかもしれないので。

だから、このキャスターなんか○○○だな、と感じたら、それはたぶんビル・オライリーの○○○なところをマネしているんだし、この客はなんでこんな発言で盛り上がっているんだろう、と感じたら、それは、客もビル・オライリーの○○○なところをうまくマネしていると感じたからなのですし、ピーター・シンガーはこんなこと言われてなんでニコニコしているのか、と感じたら、それはピーター・シンガーもコルベアがビル・オライリーのマネをしてることを知ってるからなのです。そこんとこよろしく (^^)。

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平和主義≠個人主義

 以前、がんばれ、理想主義的平和主義者! というエントリで、ハト派とタカ派に代わるものとして次のような分類を提案したことがあった。
  1. 理想主義的国家主義
  2. 現実的国家主義
  3. 現実的平和主義
  4. 理想主義的平和主義

 このエントリを書いた時点では、こういう枠組みを考えた理由については、まだうまく説明できる自信がなくてお茶を濁しておいたのだが、あれからかなり頭の中が整理されてきたので、今日はがんばってその続編を書いてみよう。 (長いぞ!)

平和主義だって個人を犠牲にすることはある

 そもそも、ぼくがこういうことを考えるきっかけになったのは、日本のハト派の方々に対してずっと感じていた、ある種の違和感だった。その違和感というのは、ハト派の方々は、平和を愛好しているはずなのに、なぜあんなに抑圧的に感じられるのだろうということである。その抑圧感を自己分析しているうちに、その感覚が、彼らが、国家主義=全体主義・平和主義=個人主義という図式を単純に信じていることからくることに気付いた。

 改めて考えてみればわかるが、平和主義と個人主義が両立するということは、決して自明でもなければ、論理的必然でもない。 それはおそらく、全体主義から戦争という、日本がたどって来た歴史的経緯からそう思われてきたにすぎないのである。

 もちろん、世界政府のようなものができて、究極の世界平和が達成されれば、世界の平和と、個人の人権・生命・財産を守ることが両立することは間違いないだろう。しかし、それはあくまで平和主義の理想が完全に実現した状態での話であって、そのような理想状態が実現していない段階では、平和という理想が個人の生命や財産を犠牲にするということだってありうるのである。

 たとえば、先日のレバノン紛争では、レバノン政府はイスラエルの侵攻に対してほとんど抵抗をしなかった。その結果、最終的には国際社会の救援とやらが入ったものの、その間にレバノン人やその財産は大きな被害を被った。レバノンの無抵抗が平和主義の産物かどうかは知らないが、平和主義から完全無抵抗の立場をとった場合でも、そのような犠牲が生まれる可能性があることは容易に推測できる。

 その場合、この犠牲者は、明らかに「平和主義」という「理念」の犠牲になったのであって、これは、個人を超える理念や超主体のために個人を犠牲にしているという点においては、国家主義とまったく同形なのである。例えて言えば、「大和魂」が「平和魂」になったようなものだ。

 でも、戦争をするよりは少ない犠牲で済むだろう、と思う人もいるかもしれない。しかし、そもそも、犠牲を量で判断すること自体が集団主義の論理であることを忘れないで欲しい。犠牲者自身やその家族や友人の立場に立ってみれば、どっか遠くの方で何倍もの犠牲が出たとしても、自分の愛しいその人が助かってくれるほうが、ずっと幸せかもしれないのだ。それを特定の個人より集団内の犠牲が少ない方が価値があると考えること自体が、まさに個人より集団を重視する集団主義の論理に他ならない。

 そう考えると、「国家主義 vs 平和主義」という軸と、「個人主義 vs (個人を超える)理念主義」という軸は、実は互いに独立なものとして考えなくてはならないということがわかるのである。

用語を再定義する

 ここで、もう少し厳密に用語を定義し直しておこう。 ここでいう国家主義と平和主義の違いは、国もしくは国民だけが幸せであれば、他の国はどうなってもよいと考えるか、それとも、全世界もしくは全人類が幸福になれなくてはダメだと考えるかの違いである。

 たとえば先の例で、抵抗しなかったら国民 10 人が犠牲になるが他の国の犠牲者は 0 人、抵抗すれば国民の犠牲は 0 人だが相手国に 100 人の犠牲者が出るとする。ここで前者より後者をとるのが国家主義、後者より前者をとるのが平和主義である。

 個人主義と理念主義の違いは、具体的な個人の人権・生命・財産を守ることにこだわるか、それとも、国家や世界平和といった抽象的な理念を守ることにこだわるかの違いである。

 極端に言えば、国家さえ守れれば国民にどれだけ犠牲が出てもよいと考えるのが理想的国家主義、非武装や非暴力が守れれば市民にどれだけ犠牲が出てもかわまないと考えるのが理想的平和主義である。もちろん、理想が現実化した状態、すなわち、国家を守った結果国民の人権・生命・財産が完全に守られた場合、もしくは、平和主義を守った結果市民の人権・生命・財産が完全に守られた場合には、この両者は一致する。

 日本ではよく、国家主義が現実主義で平和主義が理想主義であるかのように言われるが、実際には、どちらにも理想主義と現実主義がある。日本のハト派の問題点は、むしろ、国家主義については現実主義と理想主義が乖離する可能性を強く認識しているのに、平和主義についてはその可能性をまったく認識していない、もしくは、その現実から目を背けていることなのである。

ハト派は、自らの内なるヒロイズムを自覚せよ

 この無自覚性の原因は、おそらく、冷戦下アメリカの庇護下にあった日本が、平和主義と個人の生命・財産のどちらを選択するかを、シビアに問われるような局面に遭遇しなくてすんでいたからであろう。そして、この無自覚性こそが、ハト派が抑圧的に感じられたり、タカ派への反動が起こったりする原因の一端なのである。

 現在の右傾化の原因としては、よく言われるような、観念的な人たちの個人主義から理念主義へのバックラッシュというのももちろんあるだろうが、もっと普通の庶民たちの、ハト派について行って本当に自分たちの生命・財産が守れるのだろうか、という素朴な疑念があるんだと思う。

 たとえば、ハト派の方々は、北朝鮮問題について発言する際にも、北朝鮮なんて危なくないということをいいたがる。しかし、彼らは、平和主義と個人主義が両立することをアプリオリに信じているので、特に政治的でない一般庶民からすると、その主張も、本当に冷静に国際情勢を分析した結果というよりも、単に自分の平和主義的な主張を正当化するために言っているように見えてしまうのである。

 また、そういう主張をきいた一般庶民が、それで自分の生命・財産が守れるかと疑念を呈したとしても、ハト派は、直接それに答えずに、それはタカ派のプロパガンダだとか、戦争と平和とどっちがいいか、みたいな方向に無理矢理話を持っていってしまうことが多い。これも一般庶民からすれば、自分の生命・財産などという利己的なことよりも、平和という崇高な理念の方がはるかに大事であると言われているように感じてしまう。だから日本のハト派は抑圧的なのである。

 ハト派の方々は、ガンジーでもナウシカでもいいが、平和のために自らを犠牲にした人物に感動したことはないだろうか。もしあるとすれば、それは、ハト派の人の中にも、個人よりも崇高な理念を尊ぶ心情があることの証である。ハト派の方々は、少なくとも、そのことをもっと自覚すべきであろう。

(もちろん、ぼく自身も、「あの子は谷を守ったのじゃ」というババさまの台詞を聞きながらポロポロ涙を流した口なので、安心して欲しい。(^^))

現実政治は、あくまで個人主義に立脚すべきである

  次に問題になるのは、この2つの軸のどちらを重視すべきかということだが、私は、現実政治はあくまで個人主義に立脚すべきだと思っている。

 このブログでも何度か書いたように、私は、個人の人権・生命・財産を超える価値というものを全否定しているわけではない。それどころか、人間が自分個人のためだけに生きることなど、実際には不可能ではないかとすら思っている。しかし、そのような価値は、あくまで個人の主体的な意志で選択されるべきもので、社会や政治権力が、個人に対して、超越的な理念や超主体のために、人権・生命・財産を犠牲にすることを要求することは、決してあってはならないと考える。

 もともと、国家主義も平和主義も、個人の生命・財産を守るための手段だったはずだ。けれども、なんでもそうだが、手段自体が理想化され目的化されると、その手段に本来期待されていた効果が忘れられることになりがちである。その結果、国民を守るための国家主義によって国民が犠牲になったり、世界市民を守るための平和主義によって市民が犠牲になったりするのである。それがまた、他のあらゆる選択肢を検討した上での最善の方法であったならまだしかたがないが、理想主義に目がくらんでいる方々は、そういう検討すらろくにしていないことが多い。

 かつて、非武装中立論とか降伏論とかが流行ったことがある。まあ、今の日本を占領統治するみたいな面倒くさいことを誰がやるのかという気もするが、ぼくはこういう主張をかならずしもまったく荒唐無稽なものだとは思わない。ただ、仮に占領されて皆殺しになるようなことはないとしても、二級市民扱いされることぐらいはあるだろうということは考えて欲しい。

 このような場合にも、そのような屈辱に耐えることが個人にとっても最善の選択であるという主張を説得力を持ってできればよいが、単に平和主義という崇高な理想のためだとしか言えなければ、結局は、パレスチナのインティファーダや、かわぐちかいじが「太陽の黙示録」で書いたような武力闘争に回帰するだけだろう。そのような庶民の生への本能を理想だけで抑えこむことはおそらくできない。

 そのような立場に立って、現在の世界情勢を考えれば、日本の国政にたずさわる者が、国民個人の人権・生命・財産を守るためには、完全な国家主義に立つわけにもいかないし、完全な平和主義に立つわけにもいかないだろう。ときには国家主義的に国家主権を主張し、ときには平和主義的な国際協調を提案するというような、ご都合主義的な政策をとるしかないはずである。

 それは、「国家主義 vs 平和主義」という軸から見ればご都合主義かもしれないが、「個人主義 vs 理念主義」という軸から見れば、国民の人権・生命・財産を守ることを第一義とするという意味において、首尾一貫しているのである。

今のハト派に必要なのは、「手段としての平和主義」

 このように書くと、そんなやり方では人類はいつまでたっても戦争から解放されないとか、お前は所詮戦争を無くすことはできないと考えているニヒリストなのかとか思われるかもしれない。だから念のために書いておくが、ぼく自身はかなり楽天的な人間で、いつかきっと世界政府ができるとかして、人類は戦争から解放されるだろうと、わりと本気で信じている。ただ、現時点の日本においては、平和原理主義的政策をとるのはまだ早いと思っているだけである。

 たとえば、かの織田信長が東京ガスの CM のように現代にタイムトリップしてきて、未来の日本では民主主義という素晴らしい社会システムが機能していることを知ったとしよう。ここで戦国時代に帰った織田信長は、民主主義運動を始めるべきかと言えば、そんなことはないだろう。戦国時代の日本で民主主義が機能する確率はきわめて低く、為政者がそのような政策をとることは民衆を苦しませるだけであろう。しかし、そのことは民主主義という思想自体が間違っていることを意味しない。

 平和だってそうであって、平和は人々が願いさえすれば実現するというようなものでは残念ながらない。もちろん、だからと言って、なんの努力もしないでほっといても実現するものでもないので、平和を願わないよりは願った方がいいに決まっているが。

 何が理想主義的で何が現実的かは、時代や状況によって変化するので、未来において平和主義を実現するためには、理想を現実化するための方法を模索することは常に必要である。その意味で、平和を理想主義的に追求する人たちももちろん必要であり、ぼくはそういう方々への敬意も惜しまないつもりだ。ただ、現実の国政を動かす人たちが、個人の人権・生命・財産を省みず、平和主義の理想だけで突っ走るような人ではまずいだろうというだけである。

 近年の右傾化の流れの中で、それに反発するハト派の方々は、ますます先鋭化し理想主義的に純化して、狭いカルトに閉じこもりがちであるように見えるが、これでは、ハト派はますます一般庶民の支持を失って敵を増やすだけだろう。ましてや、ハト派同士の些細な主張の違いでウチゲバをやったりするのは最悪だ。むしろ、今のハト派に必要なのは、理想主義的に純化することではなく、個人の人権・生命・財産を守るための「手段としての平和主義」を具体的に説得力をもって主張することである。

 この稿では、理想主義的なハト派の方々ばかりに文句をつけるかたちになったが、まったく同じことが、個人より国家を優先する理想主義的な国家主義者の方々についても当てはまることは、言うまでもない。ただ、ぼく個人ははっきり言って心情的にはタカ派よりはハト派の方に親近感があるので、最近ぱっとしないハト派の方々に、少々辛口のエールを送ったつもりである。

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「イジメられっ子は悪くない」が…

 最近のいじめに関する議論を読んでいると、「いじめは悪い」派と「いじめられる方も悪い」派の両極端に分かれているところが気になります。以前は「いじめられる方も悪い」派がわりと優勢だった記憶があって、それに比べれば議論が健全になったとは言えると思うのですが、今度はちょっと逆の極端にふれすぎてる気もするのですね。

 たとえば、泥棒に入る方と入られる方では、泥棒に入る方が悪いに決まっていますが、だからと言って、みんな鍵を閉めなくていいということにはならないでしょう? 「誰も鍵を閉めなくても泥棒に入られないのが理想の社会なのだから、鍵を閉めろなんてことは絶対に言うべきじゃない」なんていう主張は、極論だと思う人が多いはずなんですよね。でも、昨今のいじめに関する議論は、それに近いものになってないでしょうか。

 もちろん、いじめる方といじめられる方では、どんな理由があるにせよ、いじめる方が「悪い」に決まっています。先生も見てみぬフリをしている同級生も、止めさせられるものなら止めさせた方がいいに決まっています。

 でも、いじめる奴が悪いとか見てみぬフリをする奴が悪いとか言ってればいじめがなくなるんなら、とっくになくなってるはずだと思うんですよ。だから、それはそれとして、やっぱり子供にもいじめと闘う最低限の方法ぐらいは身につけさせる努力をした方がよいと思うのです。結局は、それがいじめを減らす最も効果的な抑止力にもなるだろうし、自殺したりする子供を減らすことにもなるでしょう。それは、従来の家庭観からすれば、親の役割ということになるんでしょうけど。

 ここで大事なのは、「悪い」のはあくまでいじめる方であっていじめられているわが子ではない、という態度を崩さないことです。安易に「自分にも悪いところあるんじゃないの」みたいなことを言ってはいけません。人間には誰しも欠点があるものであって、それはいじめを正当化化する理由には決してならないのですから。でも、世の中に出てもそういういやな奴はたくさんいるのだから、今のうちにそういう奴らと闘う方法は覚えておいた方がいいと思うんだけど。少しがんばってみない? という感じで言うべきだと思います。

 もちろん、その後も定期的に状況の変化や子供の精神状態をモニタして、精神的にへしおれそうになっていると思えばフォローし、いじめの域をこえて犯罪みたいになっていればしかるべきところに訴えるというように、適切なアフターケアをする必要があります。

 ただ、こういうことを言われてすぐに納得するような親なら、言われる前からマトモな対処をしているはずなので、実際には、こういう主張をすることによって救われるのもごく一部の子供でしかないんですよね。そう考えると、やはり、先生とは独立した権限を持ったカウンセラーを導入するといった制度的な対策も必要ではないかと思います。

 あと、某有名人の痴漢事件があったときに、女子高生があんな短いスカートをはいているのが悪いと言って叩かれてた人がいましたけど、あれも同じような話だと思うのね。もちろん、どんな短いスカートをはいていようが、痴漢する方が「悪い」に決まってるんだけど、それはそれとして、やっぱり女子高生のスカートは短すぎるだろ、という批判はあっていいはずであってね。ぼくもよくしてる主張だけど (^^)。

 まあなんか、いろんな意味で極論の流行る世の中だな、と思います。 


(以下、mixi の投稿から転載)

いや、ぼくはわりと同感ですけど (^^)。ただ、支配・被支配の関係を基盤としている、というより、正統化されない支配・被支配の関係を作り出そうとする行為、と言った方が正しような気がしますけど。

つまり、教師は確かに生徒に対して権力を持ってますけど、この権力が、正統化された範囲で正しく行使されている分には、別にイジメにはならないわけでしょう。

授業中の私語をやめさせるとか、遅刻した生徒を叱るとかいうのは、教師の職務を遂行するために与えられた正統な権限の行使であって、その範囲を守っていればイジメにはなりませんよね。

ところが、自分の気に食わない生徒は内申書の点を悪くしてやろうみたいな教師がいると、生徒は本来必要もないのにその教師の機嫌をとらなくてはならなくなるわけで、こういうのがまさに、正統化されない支配・被支配の関係を作り出そうとする行為であり、イジメそのものだと思うのです。

生徒同士の関係でもそうで、本来生徒同士の間には正統な権力関係はないはずですよね。そこに腕力の差とか人気の差とかによって権力関係を作り出そうとするのがイジメだと思うんです。

したがって、「移動」によって関係を解消するという方法ももちろん、そういう正統化されない権力を無化する一つの方法ではあるんですが、それだけが唯一の方法ではないと思うんですね。

たとえば、「シカト」みたいな関係性攻撃が、なぜイジメの手段として機能するかといえば、イジメられる方にも相手と仲良くしたいという気持ちがあるからなんですよね。だから、そんなバカなことをするアホとは付き合う必要がない、と割り切れれば、別に無視されたって平気なはずなんですよ。

つまり、民主的な社会における権力というのは、相互承認によってのみ正統化されるわけですから、当事者の一方が承認しなければ無化できるはずなんですよね。

だから、ぼくが前から言っているのは、親とか教師とかが子供に「仲良くしなさい」と言うのをやめたらどうかということなんです。

だって、自由な社会において、個人が誰と仲良くし誰とは仲良くしないかということは、個人の自由意志で決めてよいことのはずなんですよ。それを、「仲良くしなくてはならない」という命令にしてしまうからこそ、意図的に仲良くしないことが関係性攻撃として機能してしまうわけでしょう。

もちろん、暴力とかカツアゲとかはまた別の話で、こういうのはれっきとした犯罪ですから、法律にしたがって処罰すればいいだけの話ですよね。

会社の場合でも、上司が部下を評価する権限をもつこと自体は正統ですよね。たとえ、その評価がときに間違っていたとしても、意図的なものでなければ、必ずしもそこに不当な権力があるということにはならない。

問題なのは、その評価権限を、自分の私的な権力を強化するために不当に利用するということですよね。たとえば、ゴルフに付き合わないとか引越しの手伝いに来ないとかいう理由で、考課を悪くするとか。

そういう意味で、成果主義というのは、そういう不当な裁量を紛れ込ませにくくする一つの方法ではあるけれども、それもやはり唯一の方法ではない、というように思いますね。

(ぼくは、完全な成果主義というのは、企業のリスクヘッジ機能を無化しまうのであまり意味がないと思っています。)

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「夢」ってほんとに個人のためのものなの

 いつもいい加減なことを書いている私ですが、今回書くのはいつもに増していい加減な思いつきで、細かい検証はまったくなされていません。そのつもりでお読みください。

 前にも書いたような気がするんだけど、普通、マジメに勉強していい学校に入って、というような人生プランは、堅実で実直みたいに言われるんだけど、よく考えると違うんじゃないかと思うのね。

 なぜかというと、こういう行動プランっていうのは、コストとリターンの関係が比例関係ではなくて、支払ったコストの総額を上回るリターンを得られるまでにずいぶん時間がかかるんですよね。しかも、そのリターンも必ず得られるとは限らない。

 もちろん、小学生の国語や算数みたいな勉強だったら、わりとすぐ実用になるけれども、高等数学とか哲学とかの勉強がなんらかの利益に結びつくまではすごく時間がかかるし、最終的に利益に結びつかないまま終わることも多いですよね。そういう専門知識を活用できる職業について高収入を得られるのは、一部の人だけですから。

 つまり、こういう行動プランっていうのは、腹が減ったからメシを食う、みたいな行動プランにくらべると、実はかなりハイリスク・ハイリターンなんです。

 そうするとね、単に個人の選好順序とか効用関数に人生プランをまかせていると、リスク・テイカーしかマジメに勉強しないということになるはずなんだよね (^^)。ところが、それでは社会全体にとっては困ることになるんだなあ。

 人材というのを一種の資産とみなすと、企業とか社会全体とかは、人材という資産のポートフォリオだと考えることができますね。そうすると、世の中の人材がローリスク・ローリターンの人材ばっかだと、社会的には最適なポートフォリオを組みづらくなっちゃうわけです。

 したがって、社会全体でリスクとリターンのバランスをとるためには、ハイリスク・ハイリターンの人材を一定量確保する、つまり、リスク・ヘッジャーがそういうハイリスク・ハイリターンの人材になることを選択するように仕向けるような、なんらかの仕組みが必要になってくるはずなんです。

 そう考えると、実は、高度経済成長時代の学歴信仰にも、そういう社会的な意味があったんじゃないかと思うのね。あの当時は、大学の勉強なんてムダなことばっかりだみたいな論調が多かったけど、実は、そういう無駄な勉強をたくさんやってる奴を社会的に高く評価することによって、社会全体の活力を維持していたんじゃないかという。

 また、格差社会の問題なんかにしても、負け組をなくす、という発想より、負け組でもいいじゃないか、という発想の方が正しいような気がするんです (^^)。もっと身も蓋もない言い方をすると、負け組を無理に勝ち組にするよりも、負け組を負け組のままたくさんかかえておくことの方が社会全体にとっては利益になるので、リスクの大きい人生プランをけしかけるかわりに、失敗したときのリスクは、社会全体でシェアしましょうということじゃないでしょうか (^^)。だから、なくすべきなのは負け組の存在そのものではなく、負け組差別である。 負け組がいてくれるからこそ社会が豊かになるのだから、生活保護ぐらいでガタガタ言うんじゃねえと (^^)。

 だから、ぼくがいまいちわからないのは、なんでエコノミストの人とかが完全雇用にこだわるのかということなんだよね。失業者がいっぱいいても、社会保障でセーフティネットをはればいいんだという発想の方が、社会全体としてはより最適化された状態なんじゃないかという気がするんですけど。そうすると、社会保障の水準とかも、実は、社会全体のリスク選好との兼ね合いで決めるべきなんじゃないかという気もするんですが。まあそこまで行くと与太話としてもシャレにならないので、いい加減にしときますけど (^^)。

 あと、これも前に言ったような気がするけど、成果主義とか自己責任とかをやりすぎると、個人はどんどんリスクをとらない方向に動機付けられるので、結局社会全体のリターンも縮小してしまうんですよね。もともと、社会とか企業とかは個人のリスクヘッジのためにあるわけですから。

 前にこのブログでも、一部の人の「夢」に対する行き過ぎたこだわりを揶揄したことがあったんですけど、実は、夢を大事にするという思想も、個人のためではなくて社会のための思想なんじゃないのかなあ、という気がするんですよね。もっとも、そういう思想が人類の遺伝子レベルに組み込まれているとすれば、やっぱり個人のためでもあるということになるんだけれども (^^)。

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エロコト

エロコト 2006年 11月号 [雑誌]  坂本龍一編集、「エロい女は、その存在そのものがエコである。」がキャッチフレーズの「エロコト」という雑誌をコンビニの女性誌のコーナーで発見。中を見ると、大人のオモチャの写真とかもバンバン載ってんだけど、成人雑誌コーナーじゃなくていいんだろうか (^^)。

 これからの世の中は、エロスがもっと積極的に表現されるだろうし、されるべきだ、ということは、ぼくも前から思ってたし、このブログのどっかにも書いたはずなので、問題意識としては近いかもしれない。と言っても、今さら性の解放とかタブーの消滅とかフリーセックスとかそんなことを言ってるんではなくて、あくまで表現の問題なので、お間違えのないよう (^^)。

 大雑把に言うと、伝統社会というのは、どこでどのように性を表現し、どこでどのように性行為を行うべきかというのがだいたい決まっていたと思うんだよね。それが、性の解放によって、性行為も性の表現も個人の自由ということになった。その結果、本来は異性のコミニュケーションの手段だったはずの性の表現が、性行為と切り離されて独立した商品として流通するようになり、逆に、コミニュケーションとしてのエロをいつどこでどのように表現すべきかという文化とかスキルとかが失われてしまった、というのが現状だと思うの。だから、現代という時代に合ったエロスの表現を再構築しよう、ということじゃないかな。

 表現で重要なのは TPO だから、逆に、学校や職場みたいなところでは、意味もなくお色気を出さないで欲しいんですよね。特に女子高生は、むやみと短いスカートをはくのをやめてほしい。まあ、ぼく自身はあんまり女子高生とかと遭遇しない生活をしているからいいけど、男子高校生とか高校の先生とかはかわいそうだよね。ぼくが今の時代に高校生だったら、絶対欲求不満でおかしくなって何かよからぬことをしてたと思うんだけど (^^)。

(なんか、そういうときの説教も偽善的で、自分は興味ないけどはしたないからやめなさいとか、逆に、自分は本当は見たいんだけど規則だからやめなさいとか言ったりするでしょ。そうじゃなくて、男はみんなスケベで劣情を催してしまうからやめなさい、って素直に言えばいいと思うんだよね。それが一番合理的かつ説得的な説明でしょう (^^)。)

 でも、この雑誌を作ってる人たちが、そこまで自覚的なのかどうかはよくわかんないですね。性行為を奨励してんのか、性の表現を奨励してるのかも不分明だし。単に、「ソトコト」を読むようなマジメっぽい子たちをもっとスケベにしよう、というあざとい陰謀のような気もしないでもない (^^)。

 しかし、最近の教授はドスケベさを隠さなくなりましたね (^^)。なんかこの雑誌も、自分のドスケベさを正当化するためにやってるような気もしないでもないけど。 でもマジメな話、教授みたいにスケベな人って、案外少ないんだと思うんですよね。特に男はスケベ自慢したがるから (^^)、実態がわかりずらいところあるけど。ほんと、みんながみんな教授みたいにスケベになれると思ったら、その考えは甘いと思うぞ (^^)。

 そういう意味では、エロい表現というのは、スケベでない人にもやさしくなくちゃいけないと思うのね。でないと、単なる 60 年代的なオブセッションと変わらなくなっちゃうから (^^)。そのへんにもっと自覚的であってほしいと、個人的には思います。

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愛動物心、あるいは、公然動物虐待

 文芸春秋に呉智英氏の坂東「子猫殺し」眞砂子擁護論が載っているという噂をきいて、たまたまコンビニに文芸春秋が置いてあったのでそこだけ立ち読みしてみたら、ぼくの「続々・子猫殺し」と同じく動物裁判の話をネタにしていたので少々冷や汗が出た。もちろん、ぼくがパクったわけではまったくない。確認したわけではないが、おそらく、書いた日付はぼくの方が先だと思う。当然、呉氏がこんなブログを読んでいるわけもないので、単なる偶然の一致であろう。

 もっとも、内容的には、特に新しい論点が出ているわけではなかった。1.あくまで人間の都合として考えるのが原則、2.動物の権利=獣権には無理がある、というのが主な論点で、現行の動物愛護法の理念に疑念を呈しているが、おおむねぼくも賛成である。

 これに対して、現行の動物愛護法は、動物の権利など主張しておらず、それこそ人間の都合そのものではないか、という反論をしていた人がいたので、ぼくも改めて動物愛護法の条文をチェックしてみた。

第1章 総則

(目的)

第1条 この法律は、動物の虐待の防止、動物の適正な取扱いその他動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止することを目的とする。

 つまり、動物愛護の気風を育てれば、生命尊重や平和に結びつくので、人間のためにもなるという主張らしいのだが、この主張、何かに似ていないだろうか。

 そう、これは文字通り、愛国心ならぬ「愛動物心」のススメなのである。愛国心論争においては、愛国心自体が悪いわけではないが、愛国心を強制することはできないとか、何が愛国心のある行為かは他人が勝手に決められないという主張が多かったはずだが、「愛動物心」になると、愛動物心のない行為を他人が勝手に定義して罰則付きの法律で強制することにも抵抗はないのだろうか。

 この問題は、猥褻法の議論にも少し似ていると思う。猥褻法の議論でも、「確かに公然猥褻は多くの人にとって不快かもしれないが、だからといって刑法で罰する必要はない」という主張があったはずである。 同じように、動物の虐待が多くの人にとって不快だからといって、法律で禁ずる必要があるとは限らない。仮に禁ずるとしたって、行為自体を禁ずるのではなく、そういう行為を見たくない人が見なくてすむ権利さえ守られれば十分なのではないか。

 公然猥褻を刑法で罰しないという主張の根拠となるのは、被害者がいないことである。そして、動物の権利を認めないという前提に立てば、自分の飼っている動物の虐待にも、直接の被害者はいない。強いて被害者を挙げれば、見て不快に思う第三者ということになるが、その権利を守ることだけが目的なら、行為自体を禁ずる必要はないのである。

 繰り返しになるが、坂東氏のやったことは、たとえて言えば、

「人間はみなセ○○スをしなければ生きていけないのに、現代人はみな人前では○器を隠して暮らしている。しかしわたしは、自分がセ○○スをしているという事実から目をそむけないために、堂々と○器をさらけ出して歩くことにしている」

とか

「人間はみなウ○コをしなければ生きていけないのに、現代人はみな人前では自分はウ○コなんかしないというような顔をして暮らしている。しかしわたしは、自分がウ○コをするという事実から目をそむけないために、毎日自分のしたウ○コを皿にのせてナイフで切って断面を観察することにしている(注)」

というような主張を新聞に載せるようなものである。もちろん、部分的には真実を含んでいるが、一読して不快であり、全体として多くの人が共感し説得されるとはとても思えない主張である。したがって、こういう主張を新聞に載せたこと自体は愚かなこととしか言いようがない。

 ただ、しつこいようだが、だからといって、そういう行為を法律で禁ずる必要があるかというのは、また別の話だと思うのである。

 猥褻を法律で禁じた結果日本で起こったのは、猥褻概念の形骸化であり、法律にさえ違反していなければなんでもありという性的モラルのさらなる退廃ではなかったか。愛国心を強制した結果戦前の日本に起こったのは、愛国心の形骸化と、危険なファナティズムの蔓延ではなかったか。愛動物心の強制や公然動物虐待の禁止が、同じような自体を招くことは、真の動物好きの方々にとってすら本意ではないはずである。

注: 筒井康隆氏は、「最高級有機質肥料」という小説を書くために実際にこういうことをしたらしい。ファンの間では有名なエピソードである。

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乙武くんときっこさん

 なんか、秋篠宮妃の紀子さんに男の子が生まれた件にからんで、ネット上でもいろいろ騒動がおきているようですね。「五体不満足」で有名なスポーツ・ジャーナリストの乙武くんのブログが炎上したり、耐震偽装疑惑の追及で有名になった「きっこの日記」に記載された批判記事が、数時間後に削除されたことが話題になったり。

 ぼく自身は、前にも書いたけど、天皇制自体あってもなくてもよいと思っている方なので、このニュースを聞いたときの嬉しさは、一般庶民の家に赤ちゃんが生まれたことを知ったときと大差ないし、ましてや、男の子だったから嬉しいなどという気持ちはほとんどありません。

 ただ、それはあくまでぼく個人の価値観であって、ぼくは同時に、天皇制を愛している方々の価値観にもそれなりの敬意を払っているので、わざわざ彼らの価値観を批判するような発言をするつもりはないのです。これは、例えて言えば、自分はイスラム教徒でないので豚を食べることに躊躇はないが、わざわざイスラム教徒の前で豚を虐待したりはしない、というのと同じことです。

 そういう立場からすると、きっこの日記のように、真偽も定かでないような情報を理由に天皇家やそれを祝う人々に罵詈雑言を浴びせるのはどうかと思いますね。だれから見ても明らかな悪人ならともかく、単に自分と価値観が違う相手を批判するのに、相手に対してまったく敬意がないという態度は人間として不遜でしょう。もちろん、情報のソースなどを明示していないことや、数時間だけ掲載して削除理由も履歴も残さず削除するようなやり方も無責任としか言いようがありません。

(ついでに言えば、この記事の中で、この件を非難しないヤツを腰抜け扱いしているのも、正直「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 のビフなみにムカつきますね (^^)。まあ、ぼくはあの映画でちゃんと学習しましたので、"Nobody calls me chicken (or yellow)" なんて言ってつっかかったりしないですけどね (^^)。)

 では、乙武くんはどうかと言うと、彼の記事にも、天皇制もしくは男系相続を支持している人たちを批判するニュアンスが感じられるので、その点において、批判した相手から逆批判を受けるのは、ある程度仕方ないと思います(もちろん、だからと言って身体障害を嘲笑したりする表現が許されるわけではないのは当然です)。

 しかし、そんなぼくでも、天皇家の慶事を喜ばないのは日本人としておかしい、というような批判は、ちょっと行き過ぎだと感じます。

 このブログでも何度か書いたように、象徴天皇制は、制度と言うより文化に近いものだと思います。文化というのは、制度と違って、権力によって強制されることなく存続するところにこそ価値があります。

 この手の議論でどうもよく錯覚が見られるのは、文化の存続と価値の関係です。つまり、現在から見れば、

存続している → 価値がある

という図式が成り立ちますが、同時代から見れば、あくまで

価値がある → 存続させる

なのであって、各時代の人がそういう意思決定をしているからこそ、上の式だって成立するのだということを忘れてはなりません。

 したがって、天皇制に対する支持が、権力によって強制されることなく、人々の主体的な意思によって存続するという限りにおいて、ぼくも天皇制を支持する方々に対し一定の敬意を払うつもりですが、もしこれが強制されるようになったら、ぼくはむしろ天皇制廃止を訴えることでしょう。

 ですから、天皇制を支持する方々が天皇制に対する支持を広げようと思う際にも、超越的な文化決定論を押し付けるのではなく、天皇制が持つ内在的な価値をこそ主張すべきであるし、その価値を評価しない人に対しても寛容であるべきだと思うのです。そのことは、天皇制を支持することと、決して矛盾しないはずです。

(権力によって強制されることなく、それ自身の価値のみによって存続している伝統文化なんて、民謡や伝統工芸をはじめいくらでもあります。そういう文化を支持する方々が、「伝統は存続するがゆえに価値がある」みたいな超越論に訴えたり、「この文化の価値がわからないやつは日本人じゃない」みたいに恫喝したりしている、という話はあまり聞いたことがありません。だから、天皇制が本当に日本人にとって必要な文化であるなら、それ自体の魅力だけで存続できないはずがないと思うんですよね。なのになぜ、「ぼくがこんな立派な人間になれたのも、天皇制によって精神的支柱が得られたおかげなんですよ。つらいときにも、陛下のことを考えると、もりもり力がわいてきちゃうんだよね。いいぞー、天皇制は。君も支持しない?」みたいな言い方をする人がいないのか。そのへんが、天皇制を支持する方々に対して、ぼくがどうしてもうさん臭さを感じてしまう点なんですよね (^^))

追記: ちなみに、同じことは「愛国心」の教育についても言えます。つまり、愛国心を押し付けるのでもなく、愛国心についてはまったく触れないのでもなく、「国家には価値がある」という事実を知識として伝える、という立場がありうるはずだと思うのです。大雑把に言えば、ぼくもその立場ですし、山形さんが言いたかったのも、そういうことなんじゃないかと思うんですけど (^^)。

追記: ある友人が、「どの生命の誕生も同じように喜ばしい」という主張をしているのが、他ならぬ乙武くんであることの重みをもっと考えるべきだ、と言っていたことも付記しておきます。

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続々・子猫殺し

 この件について、mixi である人と議論した内容を一部転載。長いです (^^)。

確かにこの作家も○○だけど、それに対してあまりムキになって人非人みたいに言う方々にも、正直違和感がありますね。

自分の飼っている猫に対して残酷なことをされたくないという気持ちはよくわかりますが、その愛情を猫という種全体に拡大して、他人の飼っている猫の飼い方にまでけちをつけるという行動に移すところには、ある種の飛躍がありますよね。

要するに、ペットはあくまで人間の所有物であって、その取り扱いは飼い主の美意識だけに任せるべきなのか、それとも、ペットは、人間と同一ではないが、ある種の権利を持つ存在であり、その権利は飼い主を問わず適用されるべきなのか。

猫好きの人は、無意識のうちに後者を仮定しているみたいだし、フランスの法律も、おそらくはそういう思想なんでしょうけど。

でも、これってやりすぎると、余計偽善的になるところもありますよね。例えて言えば、奴隷制を布いている国で、奴隷愛護法を作るようなもので、そういうことをやればやるほど、それ以前に奴隷制自体をやめれば? みたいな感じになってくる (^^)。

だから、本質論で言えば、法律で規制するより、個人の美意識に任せる方がいいような気がするんですけどね。。。

愛猫家っていうのは、結局、自分が猫と友だちだという幻想、と言ってはいいすぎですが、そういう意識を持ちたいわけですよね。その意識がさらに進むと、人類が種として猫という種と友だちであると思いたいということになるんでしょう。だから、他の猫が虐待されているところも見たくなくなる、という順番だと思いますけど。

このロジックが正しいとすれば、目の前で虐待されるのももちろんイヤですが、影でこっそり虐待していたとしても、その事実がわかった以上看過できない、ということになるんじゃないですかね。

そういうふうに考える人が多ければ、猫にある種の権利を与えるということも、まさにそういう「人間の都合」に合致するということで正当化される可能性もあると思います。

 ただ、そうやってペットを飼うという行為のハードルを上げていくと、逆にペットを飼うという行為の意味がどんどん無化されていくというところもあるんですよね。

つまり、もともとペットというのは、人間の彼女や友だちの代用品であるという要素もあるでしょう? 動物は、人間のように人を振ったりしないし、監禁しても犯罪にならないし、食費も安いし、健康管理の責任も少ない。そういう、人間を世話するのに比較したときにお手軽さが、動物を飼う理由の一つであることは否定できないでしょう。

ですから、あまりペットにいろいろな権利を与えてしまうと、ペットを飼う責任が重くなり高コストになりすぎて、よっぽど金や時間やいろんなものに余裕のある人しかおいそれと飼えなくなってしまうでしょう。これもある意味本末転倒だと思うんですよね。

そう考えると、結局は、所有物路線も友だち路線も完全に徹底することはできなくて、ほどほどのところで妥協するしかないはずなんですよね (^^)。

まあでも、愛猫家の多くが、自分が猫を愛しているということに誇りを持っているのは当たり前といえば当たり前ですよね。もともと、そういう誇りを持ちたいがためにペットを飼うわけですから。。。(^^)

そういう意味で、この作家の書いていることは、まさにそういう愛猫家の神経を逆撫でする行為なわけですよね。そのわりに、「他の愛猫家の猫の飼い方は間違ってる!」みたいなはっきりした主張があるわけでもないし。

この人のやっていることは、SM やスカトロとかと同じで、単にこの人の好みという域を出ることはおそらくないでしょう。だから、ぼくは別に SM やスカトロでもいいけど、わざわざ人の前でやるなよ、っていう感じですね (^^)。

ただ、そういう人はあくまで例外だと思うんですよね。そのへんが、普通の刑法犯とかとは違うと思うんです。

たとえば、泥棒とかだったら、法律がなかったら歯止めなく増加するということも考えられますが、人間は毎日食事をしなければならない、というような法律を作る必要はあまりないわけですよね。人間はもともと食事をするのが好きですから (^^)。

同じように、大多数の人は、もともと猫が好きなので、ある程度自主性にまかせてもいいような気がするんですけどね。。。

人間の子供の場合、当たり前ですけど子供はペットと違って人間ですから、大人なみの権利を与えることに本質的な困難はないんですよね。子供という存在は、親が「飼う」ことが前提条件となって成立しているわけでもないから、親がその権利負担に耐えられなければ、国家その他が負担したっていいんだし。

ところが、ペットの場合には、人間並みの権利、というのが本質的な上限になってしまうんですよね。少なくとも、飼い主を選ぶ権利とか、飼われることを拒否する権利、自由に逃亡する権利、などは、ペットという概念に本質的に反してますから (^^)。

ペットを飼いたいという「人間の都合」には、動物を自分の自由にしたいという欲望と、動物を人間並みに扱いたいという欲望という、本質的に相矛盾する欲望が入り混じっているわけで。そこを自覚しておかないと、変な極論に陥ってしまう危険があると思うわけです。

本当にペットに人間並みの権利を与えるというのなら、ペットが人間に束縛されないで暮らせるペットランドみたいなのをつくって、ペットを飼いたい人間はそこに出向いていって、ペット自身の意思を確認した上でペット契約を結び、ペットになっていただく、というふうにしなければだめなんだけど、これはどう考えたって実現性はないですよね (^^)。

(ぼくは、ペットはもともと人間に飼われるようにできてる、というような主張を聞くと、どうしても、黒人はもともと白人の奴隷になるために神様によって作られた、みたいな主張を想い出してしまうんですよね (^^))

そう考えれば、結局は、愛猫家が持つ「猫と人類は仲良しである」という共同幻想を崩すような行為だけは最低限やめなさい、みたいな程度の規制しかできないはずなんですよね。

愛猫家が非難する理由は、おそらくさっき書いたように、「猫と人類は仲良しである」という愛猫家の共同幻想が崩されるからだと思うんですね。

ただ、この理由が、他人に何かを法的に強制するほどの理由なのか、というところには多少の疑問があるんですよすね。

もともと、その共同幻想というのは、猫族たちの主体的な選択によるものではない、たぶんに愛猫家たちの自己満足的なものですから、万人に強制するような普遍性があるのかどうかも疑問ですし。

単に幻想をこわされるのがいやなら、わざわざ見せびらかすようなマネだけ禁止すればいいのかもしれないし。

たとえば、イスラム教徒は「豚は神聖な生き物である」という共同幻想を持っているわけだから、イスラム教徒の前でわざわざ豚を虐待してみせるのはよくないでしょう。

でも、だからといって、そのルールを全人類に強制する必然性があるのかと言われたら、イスラム教徒以外の人の多くは疑問に感じるんじゃないですか? だって、そう思ってるのはイスラム教徒だけなんですからね。

猫自身の自由な選択によるものでもない、人間の勝手な都合による「正しい猫の愛し方」というものが、万人に強制するほど普遍性のあるものなのか。そこが疑問だと思うわけです。

まあ、猫族を友だち扱いするのは、わりと世界的 (一部アジア地域では猫料理とかもあるらしいが) かもしれないけど、クジラ族は日本では高級食材、欧米では友だち、牛族はスペインでは闘って殺すのが愛情、ヒンズー教徒にとっては神聖な生物、日本では主に食材、というぐらいの差があるわけですからねえ (^^)。

これだけ価値観に差があるものに、統一的な基準を作ろうとするのはかえって不自然ではないかと思うのですが。

ご存知の通り、ぼくも合意による正義というものを重視していますが、この場合、一方の当事者であるペット自身の自由な意思を確認する方法はないわけで、合意に至ったとしても、あくまで人間同士の合意にすぎないんですよね。にもかかわらず、どちらがよりペットのためであるか、という観点で議論されていることには不健全なものを感じてしまうんですね。

ぼくもかつて、佐倉統さんの「現代思想としての環境問題」という本で「環境を守るのはあくまで人間のためなんだ」という主張を読んで、目からウロコが落ちたことがありましたけど (今ではたいして珍しい主張でもなくなりましたが (^^))、同じように、ペットを飼うのは、あくまで人間のためなんだ、という視点を忘れないようにしないと、かつての環境問題みたいにおかしな議論がはびこる危険があると思いますね。

フランスの刑法っていうのは、やっぱりキリスト教的な発想なんじゃないでしょうかねえ。日本の動物愛護法も、もともと日本の文化に根ざしたものではなく、西洋から野蛮だと言われて仕方なくつくったみたいなところがあるようですし (^^)。

中世キリスト教圏では、「動物裁判」とか言って、動物の「犯罪」を裁判にかけて「死刑」にしたりしてたらしいですからね。こういう観念は、やっぱり文化依存的で、全人類的な普遍性があるかどうかはたいへん疑問だと思います。

まあ、こういう人々の意識だって、時代の技術的制約によって変わるかもしれないんですよね。どんな食材の味も忠実に模倣できるすっごくおいしい合成蛋白質みたいなものや、自分の代わりにペットの世話をしてくれる格安ロボットや、動物の意思を確実に確認できる進化したバウリンガルみたいなものや、動物の脳を進化させるサイボーグ技術みたいなものができれば、またみんなが合意できるポイントが変わってくる可能性もありますよね (^^)。

要するに、世の中の大多数の人が、「動物と言えば友だちでしょう。食べるなんてとんでもない」みたいに思う時代になれば、動物の権利を法制化する必然性も出てくる可能性はあると思います。

でも、現時点ではまだそこまで行ってないんだから、そんなにムキになって正義感ぶることないだろ、という感じです (^^)。

彼らが主観的にどう思っているかはわかりませんが、動物に権利を与えることこそが、まさに人間のためである、というロジック自体はそれほど変でもないと思います。

人間同士だってそうで、近代民主主義の「人間は生まれながらにして平等」というスローガンだって、よく言われるように、もともとは政治的フィクションだったんですよね。

だって、生まれながらにして平等だったら、古代文明のころから民主制ができたっていいはずなんですから。もちろん、ギリシャの民主制はありますが、あれは奴隷制をベースにしたものですからね。

それが近代になって実現したのは、単なる正義感だけじゃなくて、民主制である方が、多くの人にとって都合がいいという社会的な条件がととのったからでしょう。たとえば、商工業みたいな分権的な統治を必要とする産業の発達とか、メディアの発達や教育の普及により、高度な政治についての議論を一般庶民もできるようになったりとか。

ドイツみたいな後発民主主義国がいい例で、極端に言えば、民主化されたフランスに戦争で勝てないから民主化したわけですよね (^^)。ある意味日本だってそうかもしれないし。

ロボットだって、最初は人間の所有物から出発するでしょうけど、どんどん知能が高くなってくれば、かれらに「人権」を持たせた方が、人間にとっても都合がいい、という議論も出てくると思いますね。そうすれば、アトムや PLUTO のような世界が実現する可能性もある。これはある意味、動物の権利よりも実現性があるんじゃないかなあ (^^)。

そんなわけで、ぼくの場合、今はまだ時機尚早である、という立場ですね。

追記:

 もう一つだけいい忘れたことを。この作家を非難する意見でに欠けていると感じることの一つに、生命を絶つことのマイナス価値ばかりを言い立てて、生命を生むことのプラス価値をほとんど勘定に入れていないことがある。

 たとえば、先天性の病気などをテーマにしたドラマで、「短い人生だったけど生まれてきてよかった」みたいな結末で終わるものがあるが、ああいう話が感動を呼ぶことからしても、短い生涯であっても生を受けること自体に価値がある、と思っている人は多いはずなのである。

 その短い生涯を終わらせているのが、病気や運命であれば完全な美談で終わるわけだが、人為的な選択であると、その価値が相殺されてしまうわけである。

 しかし、先に書いたように、社会的責任を放棄して子猫をすてたとして、誰も拾ってくれなかったら、結局保健所につかまって殺処分になる可能性が高いわけであるが、まさか、この保健所のやることまで動物虐待と言う人は少ないだろう。

 なぜ保健所は猫を殺さなくてはならないかと言えば、それは、飼い手のいない猫族の総数をそんなに増やすことはできないという、人類全体の都合に他ならない。いわば、人類全体が共謀して猫を殺しているわけであり、他に選択肢がないとするなら、猫にとってはそれも一種の運命である。この作家のやっていることは、その保健所の役割を代行しているだけとも言える。

 そもそも、少なく産んで大切に育てるというのは人類独特の進化戦略であって、人類の倫理もこれに合わせて作られたものであるが、生物の中には、最初から一部が死ぬことを織り込み済みで、たくさん産んで産みっぱなしにするという種だってたくさんいるのであって、そういう種にとっての倫理は、当然人類のものとは違ってくるはずである。猫だって、マンボウほどではないにしろ、人間に比べれば多産な生物である。

 ぼくだって、もしこの作家のやっていることが単なる無意味な殺戮だったら、もっと非難しているだろうが、自分なりに考えた限りでは、去勢や不妊手術が、この作家のやっていることに比べてそれほど絶対的な道徳的優位性を持っているとは思えないのである。

 ただ、何度も書いているように、多くの愛猫家は猫が可愛くて飼うのだから、この人のような「猫の愛し方」をするぐらいなら、猫を飼うのをやめるだろう。この作家はそのことを知っていながら、得々として全国紙にそのことを書いているわけで、ぼくが気に入らないのはむしろその性格である。

 自分と価値観の違う相手に堂々と論戦を挑んで相手の価値観を変えさせようとするのはまっとうな行為である。人類が根源的に持つ業のようなものを文学的に表現するのもまっとうな行為である。この作家には、このどちらの選択肢をとる能力もあるはずである。しかるに、この作家は、斜に構えて自分もろとも世間の人を引きずり下ろして冷笑しているに過ぎず、彼女が世間の怒りを買うことは至当であると言うほかはない。

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続・子猫殺し

 坂東氏のエッセイについての続報。坂東氏のこんなコメントが出ていた。

タヒチ島に住んで8年。人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。『子猫殺し』はその線上にある。動物にとって生きるとはなにかという姿勢から、私の考えを表明した。人間の生、豊穣(ほうじょう)性にも通じ、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからだ。(毎日新聞)

 つまり、単に嫌がらせではなく、信念をもって書いた、と言いたいらしい。

 しかし、どう考えても中途半端の感が否めない。彼女はこういう文章を書いて、いったい何がしたいのだろうか。

 まさか、自分以外の愛猫家にも、去勢や避妊をやめて子猫を殺せと言いたいのか。そんなのに実現性があるわきゃない。だって、猫を飼っている人は、猫が可愛いから飼ってるんだもん。それを自分で殺さなきゃならないんなら、そもそも猫を飼うのを止める方を選ぶでしょ。

 あのね、確かにペットを飼うということは、人間に対しては許されない「押し付け愛」を、動物を利用して実現するという行為でしょうよ。そういう意味で、これが自分の愛し方だ、という勝手な主張は、人間に対しては通用しなくても、ペットに対しては通用しないでもないでしょう。

 でもね、その「押し付け愛」がずっと「押し付け愛」のままだったら、どんなバカな飼い主だってしらけちゃうでしょ。だからこそ、それが少しでも「本当の愛」であると感じられるように、飼い主は日々努力しているのであってね。重要なのは、飼い主にとって、自分とペットとの関係が、主観的に「本当の愛」であると感じられるかどうかなんですよ。

 それとも、去勢や避妊をするか子猫を殺すかの選択権を、飼い主に与えろと言いたいのか。これならまだわかるけどね。要するに、ペットの愛し方は人それぞれ、みたいなコイズミさん的な主張でしょう。でも、それだけのことなら、わざわざ全国紙に人の神経を逆なでするような文章を書く必要はないはず。先に書いたように、みつからないようにこっそりやったっていいし、あるいは、飼い主によるペットの殺処分権みたいなオブラートにくるんだ主張をしてもいいんだし。

追記: なにげなく「コイズミさん的な主張」と書いてから、この問題の構造が、靖国参拝問題とちょっと似ていることに気づいた。つまり、どちらも、「死者」とか「動物」とか、自分の意思を表明できない対象に対して、勝手に「追悼の意」だの「愛情」だのをささげる人たちがいて、互いにどっちのやり方が正しいかと争っている、という構図である。こういう構造だと、当の本人の意見がないから、わりと主観で押し通せちゃうんだよね (^^)。だから、理性的に合意に至ることが難しい。ぼくは、どっちも、相手のためでなく、自分のためにやるんだと考えた方がいいと思いますけどね。

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子猫殺し

 坂東眞砂子氏が日経新聞に書いた「子猫殺し」というエッセイが、一部で話題になっているらしい。その内容の一部はこの記事などでも読め、これを読めば、だいたいどんな内容だったかは想像がつく。

 まあ、ぼくはこの人の言いたい事もわからないではない。「きっこの日記」で有名なきっこさんは、

「これじゃあ、人間が、避妊してセックスするのも、避妊しないでセックスして、できちゃった子供を人工中絶するのも『同じこと』って言ってるワケじゃん。それどころか、こいつのやってることは、生まれて来た赤ちゃんを殺してるワケだから、人工中絶よりもタチが悪い」

と言っているけれど、まず、避妊と去勢は違う。避妊は快楽を奪わないが、去勢はセックスの快楽自体を奪ってしまうものであり、坂東氏はその残酷性を重視しているわけだろう。また、一部のキリスト教徒などのように、避妊は中絶と同じくらい罪悪であると主張する人だっているのであって、避妊が中絶よりマシという価値観に絶対的な普遍性があるとも限らない。 また、仮に里親を探せたとしても、その里親が坂東氏と同じように去勢をさせない確率は低いだろう。

 そもそも、この問題を普遍的な正義という観点で論ずるには、猫自身の意思が問題になろうが、彼らが一生屈辱的な奴隷状態で生きるよりも尊厳ある死を選ばないとは誰にも言えないだろう。

 もちろん、ぼくだって、子猫を殺すよりは、「お前セックスもさせられなくてごめんな~」などと偽善的なことを言いながら去勢手術をする方を選ぶに決まっているが、それは、正義感というより、ぼく自身が子猫を殺す自分とか死んだ子猫とかを見たくないからである。

(もし子供ができちゃって里親が見つからなかったら、「社会的責任なんぞクソ食らえ!」と言ってどっかにこっそり捨ててくるだろうね、ぼくだったら。それはそれで非難の対象になるんだろうけど、どうせ非難されるなら、そっちで非難されることを選ぶでしょう (^^)。それはまあ、ぼくの勝手な生命観みたいなものによるんだろうけど。)

 そういう意味で、これは普遍的な正義と言うよりは、人間の主観的な価値観や快・不快の問題であり、坂東氏は、単に自分にとって少しでも快い方を選んだというだけのことなのだろう。そう考えると、ぼくは、坂東氏を声高に批判する人に対して、「クジラは他の動物と違って頭がよくて人間と友だちになれるんだから、殺して食べるなんて残酷だ」みたいなことを言う人と同じような独善性を感じなくもないのである。

 少なくとも、普遍的な生命尊重主義からすれば、クジラは殺していいが子猫は殺していけないなどという理由はない。理由があるとすれば、それは、クジラは美味しく、子猫は可愛いということ以外にはないのであって、どちらも人間側の勝手な都合なのである。そして、彼女の場合、その勝手さが他の人とはちょっと違っているというだけだろう。そのことだけは一応指摘しておきたい。

 ただ、坂東氏の決定的いやらしいところは、彼女は子猫を殺すのが正しいと主張しているのではなく、選択の問題にすぎないと言っており、なおかつ、自分の選択が大多数の人には不快なものであるということを知っていながら、わざわざ自分の選択をエッセイにして人に読ませているところである。

 そこから、多くの人は、この人は選択の問題だと言ってるけど、本当は自分の選択の方が正しく他の人は偽善的なだけだと言いたいんじゃないのと思ったり、自分は一般庶民とは違うのだという旧時代の作家の自意識みたいなものを感じ取ったりして、反発するんだろうと思う。

 だから、この人がどうしても子猫を殺したいのなら、エッセイになど書かず、自分の業を一身に感じながら一人でこっそり殺し続ければよかったのである。逆に、人間の根源的な偽善性みたいなものを告発したいのなら、筒井康隆氏の「改札口」とか「池猫」みたいな小説を書けばよかったのだ。ぼくはそういうわけで、この件を「重要な問題提起である」などと考える気はさらさらなくて、わざわざ人の嫌がることをしてみせるやなやつ、と思うだけである。

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謝罪の社会的機能

 「謝罪」という行為が、なんのためにあるかを考えたことがあるだろうか。「処罰」や「補償」ではない「謝罪」である。「処罰」や「補償」については、「処罰」は悪事を働かせないためのインセンティブだろうとか、「補償」は被害者の損害を回復するのが目的だろうというのは、誰もが直観的に思いつくことだろう。

 しかし、「謝罪」というのは、基本的に表現や形式だけの問題なので、一見、どのような社会的機能があるかわかりにくいかもしれない。実は、ぼくには自分なりの理論があって、多分誰もがそう考えているのだろうと思っていたのだが、意外とそうでもないみたいで、戦争被害者に対する謝罪論とかを読んでも、謝罪と処罰や補償を混同していたり、謝罪の意味をわかっていないと思われる例が多いので、一応自分の考えを書いておきたい。

 結論から言えば、「謝罪」の目的は、加害者が被害者と同じ価値観を持っているということを示すことにある。人間が罪を犯す場合、そもそも、価値観自体が被害者や社会全般と異なっていて、確信犯的に罪を犯した場合と、価値観自体は被害者と同じだが、ミスや一時の気の迷いや出来心で罪を犯した場合がある。後者の場合には、再び同じ罪を犯す確率は低いが、前者の場合には、再び同じ罪を犯す率が高い。したがって、容易に社会復帰させうるか、今後も付き合いを継続しうるか、といったことを判断するためには、加害者が被害者と同じ価値観を持っているかを判定することが重要なのである。

 よく知られるように、罪刑法定主義というのは、加害者の内面を問わず、あくまで、行為に対して処罰が決定される。したがって、法治主義の社会では、処罰を受けたり補償をしたりしたからといって、その加害者が心から反省しているという保証はない。また、人間は、内面を偽って表現することができる動物なので、外面的な表現だけを見て、内面を判定することも難しい。

 ところが、誰にも言われることなく、加害者が自分から謝罪するためには、少なくともその行為が悪だという認識がなければならないのである。したがって、加害者が自分から謝罪した場合、少なくとも、自分のした行為が悪であると認識している確率が高いということの大雑把な証明になるのである。謝罪というのは、被害者から要請される前に、自主的に行うのがよいとされるのも、このためであろう。他人から指摘されてから謝罪するのでは、その加害者が、善悪の判定能力があることの証明にはならないからだ。

 したがって、私に言わせれば、「いったいどう謝れば許してくれるんだ」というような台詞は愚問もいいところである。なぜなら、そもそも謝罪の意味というのは、どのようにどの程度謝れば許されるかを、被害者に言われることなく、自分で判断できる能力があるということを示すことにあるからだ。

 つまり、謝罪というのは、そのまま取り出して見せることのできない人間の内面というものを、間接的に取り出してみせるためのさまざまな工夫の一つに他ならない。お手本を見てそのまま真似るのは内面がともなわなくてもできるが、隠されたお題の答えを自分で考えて表現するということは、内面がともなわなければできない。ゆえに、間接的に内面が表現されるわけである。

 このことから言えるのは、お題が「赤いもの」だったら、「リンゴ」とか「チューリップ」とか複数の答えがありうるように、正しい謝罪の方法は一つではないが、にもかかわらず、正しい謝罪と間違った謝罪というのは厳然としてあるということだ。そして、その答えは人に聞かずに自分で探さねばならないが、だからと言って、自分勝手に答えを作っていいというものでもない。

 ぼくからみると、こういう認識は、単に常識を言語化したにすぎなくて、誰でも無意識的にやっていることではないかと思うのだが、戦争被害者に対する謝罪論には、あまりこういう認識をベースにしたものがないように見える。それが、ぼくにとっては不思議なことではある。

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歴史と理論の関係についてのちょっとした考察

 若者は歴史を憎む、みたいな言い方があります。若者は年寄りに比べて歴史を知らないし、経験も少ない。したがって、経験や古い知識について年寄りと競っても、圧倒的に分が悪い。だからこそ、若者は年寄りが知らない新しいものを好むのだと。

 もちろん、これついては逆のことも言えて、年寄りは、新しい知識について若者と競ってもアドバンテージがない、むしろ、体力がない分不利である。だからこそ、年寄りは若者に対してアドバンテージを誇れる歴史を好むのだと。

 まあ、こういう言い方はどちらも一面的であって、ほんとうは、歴史を知るためにも新しい知識は必要ですし、新しい知識を知るためにも歴史は必要である、というのが正しいのでしょう。

 実は今、岩田規久男さんの「日本経済を学ぶ」という本を読んでいます。この本は、それこそ日本経済の歴史を、最新の経済理論でブラッシュアップするというような本なのですが、その中に、ちょっと面白い例がありました。

 よく、日本の会社は株主を軽視しているといわれますが、岩田さんは、必ずしもそうではなかったのではないか、というのです。なぜかというと、実は、高度成長期の日本の株価は、平均すれば年率 17% で上昇していた。したがって、株主は、インカムゲインは少なくても、キャピタルゲインで見れば十分に報われていた。株主を軽視するというのは、あくまで現場の経営者の主観にすぎない、というものです。

 この仮説の妥当性についてはここでは論じないとして、ここで言いたいのは、実は、こういう仮説は、ただ漫然と歴史を見直すだけでは出てこないということです。

 なぜかというと、そもそも、昔の株価理論では、株価は配当利回りと金利の裁定で決まる、言い換えれば、株価は配当利回りが金利に一致するような水準に収束すると言われていました。したがって、インカムゲインは少なくても、キャピタルゲインは多いというような現象は、理論的にはあり得ない話で、株主に価値を還元するには、配当利回りを増やすしかない。

 現に、昔の奥村宏さんの本とかはそういう感じで書いてあって、日本の会社は配当利回りが低いにも関わらず、株式の持ち合いによる高株価経営でどんどん株価が上がっている。これこそがまさに法人資本主義の異常性の現れであって、それを打破するためには、日本の会社はもっと配当率を上げて株主に価値を還元しなくてはならない、みたいなことが言われていたわけです。

(今奥村さんの本が手元にないので、このへんは記憶だけで書いてます。もし誤った表現があれば、お知らせいただければ幸いです。)

 ところが、最近のファイナンス理論では、余剰利益を配当として株主に還元せずに内部留保したとしても、その分株価が上がるはずなので、株主の損得には関係ない、ということになり、株価を評価する指標としても、配当利回りよりも PER が重視されるようになりました。この岩田さんのような仮説は、そういう理論をふまえたときに、初めて意味を持ってくるわけです。

 つまり、歴史というのは、まず最初は、同時代の人間の記録を元に導き出されるわけですが、言うまでもないく、同時代の人間が主観的に認識している世界というのが、本当にその時代の「真の姿」を映しているとは限らないわけですね。だから、歴史というのは、常に最新の理論をふまえた上で見直されなければならないのでしょう。

 これは余談ですが、テレビとかで年配の評論家の方を見ると、もっと最新の経済学とか勉強すればいいのに、と思うことが少なくありません。おそらく、彼らの若い頃は、経済学を勉強するには「資本論」や「一般理論」を全巻読破しなくちゃいけなくて、しかも、そういう経済学は現場の役にはたたない、みたいなことが言われていた時代だったんだろうと思います。でも、今はもうそういう時代じゃない。ちょっと学部生向きの経済学のテキストでも読んでみれば、今の経済学が、単に難解さを競うだけで、現場の役にたたないような学問ではないことは、すぐわかるはずだと思うんですが (^^)。

追記: 別に、昭和天皇のメモについて含むところがあるわけではありません。たまたまのタイミングです。為念。(^^)

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人が人を評価するということ

 ぼくは滅多にそういう場所には行かないのだが、先日珍しくもある翻訳業界団体の研究会に出席した。そのときの講師がけっこう辛口の人で、「こんな翻訳者はウチにはいらない」みたいなことをバシバシ言うものだから、いっしょに言った若手の翻訳者の方々は、かなり気分を害していたようであった。

 もっとも、ぼくぐらいの歳になると、どんな「偉い人」の言う事でもやや斜めから聞いているので、「あ、そう。あなたはそういう考え方なのね。それはそれでいいんじゃないの」ぐらいにしか思わないのだが (^^)、自分だって、二十代で翻訳者志望で業界の「偉い人」からあんなこと言われたら、やっぱりかなり傷ついていたのだろうと思う。そこで、その人の言っていたことの是非について、ちょっとコメントしておきたい。

 たとえば、その人は、履歴書の趣味の欄に「アロマセラピー」とか「ワイン」とか書いている人はだいたいダメ、みたいなことを言っていて、これは偏見といえば偏見そのものである。しかし、そういう偏見は一切排除すべきなのか、というと、ぼくは必ずしもそうは思わないのである。なぜかというと、そこには、人が人を評価するということの本質的な困難があるからだ。

 もちろん、理想を言えば、人を評価するときには、あらゆる偏見を排除することが望ましい。しかし、現実的には、人を正確に評価しようとすればするほど、時間とコストがかかる。特に、ビジネスの現場では、その正確さとコストの間にはトレードオフの関係があるので、ほどほどの正確さで妥協することの方が、むしろ合理的なことが多いのである。

 世の中、その手の常識的な評価というのはいろいろあって、たとえば、服装がだらしない人は使えないとか、机の上が汚い人は仕事ができないとか、いろんなことが言われる。そしてその多くは、おそらく、統計的にはある程度正しいのである。

 もちろん、統計的には正しいということは、例外もあるということだ。しかし、現実問題としては、個別の例をいちいち検証して、例外かどうかを見極めるなどという作業は、コスト的に割があわないことが多いのである。

 もちろん、このような考え方は、差別につながる可能性もあるので、注意深く適用しなくてはならない。特に、女性は○○だとか、なんとか人種は○○だとかいうデータは、たとえ統計的な根拠があったとしても差別につながるので、注意深く利用しなくてはならない。

 しかし、だからといって、常にあらゆる予断を排除して、個々人の真の姿を正確に見極めるなどということは、実は、人間に可能なことではないのである。

 ぼくはけっこう原理主義者的なところがあるので、若い頃は、差別や偏見を絶対にしないようにと思いながら行動していた。しかし、実際に同じようなことをやってみた人ならわかるはずだが、こういう行動は、実はけっこういろんなトラブルを引き起こすのである。

 もちろん、ぼくは自分の責任の範囲でやっていたから、そういうトラブルの結果も自分で引き受ければいいと思っていたので別に平気だった。しかし、組織のために働いている人がそういうトラブルを被れば、自分だけの問題ではすまないのだから、そういうリスクを回避したいと考えるのは、ある意味当然と言える。

 というような前提を受け入れたとすると、残る選択肢は二つしかない。自分はあらゆる人を公平に評価しますよと口ではいいながら、実はご都合主義でそ知らぬふりをして偏見を交えた評価をするか、それとも、自分の評価能力には限界があることを認めた上で偏見を交えた評価をし、その評価に対する責任を引き受けるかである。そしてぼくは、後者の方が人間として誠実な態度だと思うのだ。

 そういう意味では、その講師はそういう見方があくまで自分だけの見方であるということを明言していたので、ぼく的にはそんなに悪印象を持たなかったのだった (別に、某団体をヨイショしているわけではない。というか、実は普段は悪口ばっかり言っていたりする (^^))。私の経験から言えば、むしろ、自分は人を見る目があって絶対に評価を間違えない、とか思っている奴の方がはるかにタチが悪いことが多いと思う。もっとも、その人といっしょに働きたいともあまり思わなかったけれど (^^)。まあ、ああいう人と働くのがイヤなら、また別のビジネスチャンスを探せばいいじゃん、という感じである。 それこそがリベラルな社会のよさなのだから。

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方法論的功利主義

 ぼくが経済について言ってる事と、愛とかなんとか言ってることが矛盾するんじゃないかと思ってる人もいるかもしれないけど、ぼくは、市場経済を方法論的功利主義の産物だと思ってるんですね。言い換えれば、市場というのは、欲のある人もない人も欲があるフリをしてプレーするゲームだと思ってるんです。 (これはぼくが勝手につくった言葉だけど(^^))

 あと、これは前にも何度も書きましたけど、近代社会の基本的人権やなんかも、もちろん方法論的個人主義の産物だと思っているわけです。

 つまり、人間が利己的に私利私欲だけで生きているというのは、あくまで社会をうまく回して行くためのお約束であって、人間の本性とは微妙にずれてると思ってるんですね。

 そういうのを聞くと、性善説だとか楽天的だとか思う人もいるかもしれないけど、そういう良い悪いの話じゃなくて、単に事実としてそうなんだと思っているだけです。むしろ、「エイリアン」の台詞じゃないけど、人間が自分の生存や繁殖のことしか考えてなかったら、その方がある意味幸せかもしれない。でも、人間はなろうと思ってもそうはなれないだろう、ということ。

 ところが、人間は思い込みの生物だから、この「方法論的」のところを忘れて、人間は本当に利己的な生物なんだと勝手に自分で思い込んでしまい、ある種の使命感を持って無理をしてまで利己的にふるまおうとし、それでかえって不幸になるような人がでてきた。だからあえて「愛」とかなんとか言わなくちゃならなくなってきたんだと思うのね。でも、それは、社会システムの設計とは別問題だと考えるべきであって、ここを混同すると、単なるバックラッシュになる。言ってることわかるかなあ。また今度ヒマなとき書きます。

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フェミニズム理論辞典

フェミニズム理論辞典  ちょっとフェミニズム関係の用語を調べたくて、マギー・ハムの「フェミニズム理論辞典」を購入(リサ・タトルのも注文したのですが、まだ手に入らない)。理論辞典というだけあって、説明は詳しいですが、厚さの割に収録語数は多くありません。いわゆる中項目主義ですね。

 だから、たとえば、ダナ・ハラウェイは載ってるけど、サイボーグ・フェミニズムは載ってないとか、第一波、第二波は載ってるのに、第三波は載ってないとか、Misogyny は載ってるのに Misandry は載ってないとか、載ってる用語にやや偏りがあって、調べもの向きというより勉強向き。

 訳は、昔の「学者訳」に比べればがんばってるとは思うけど、ぼくなんかから見ると、やっぱり、あともう一工夫すればもっと読みやすくなるのになあ、と思ってしまいますね。だから、最近の本みたいな読みやすさを期待すると、ちょっと読みにくく感じるかもしれません。もちろん、これは内容の難しさとは別の話ですよ。まったく同じ内容でも、もっと読みやすく書けるはずだという話。いちおうその道の「専門家」に言わせてもらえれば(^^)。

 なんか手前ミソになるけど、訳文のことだけで言えば、こういう本も、プロの翻訳者に下訳をさせて、学者さんが監修するというやり方の方が、絶対いい訳ができると思うんですけどねえ。翻訳って、ほんのちょっとしたテクニックでずいぶん読みやすくなるんですけど、そういうのって、数訳さないとなかなか身につかない。でも、学者さんはそんなことしてるヒマないでしょ? てか、そんな修行をしてるヒマあったら、もっと本業の教育や研究に精出してほしいし(^^)。

 これは偏見かもしれないけど、学者さんってもともと頭がいいから、逆に読みやすい文章を書く意欲が低い人が多いんじゃないかという気もしないでもないんですけど。ぼくは頭よくないからよくわかんないけど、ひょっとすると、学者さんはとっちらかった文書を読んでも、素早く行間を読んだりして理解できてしまうから、それ以上わかりやすく整理しようという意欲がおきないのかもしれない。そんなことないかな(^^)。まあ、このへんは邪推。

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批判と規制

 「サイゾー」の 5 月号を買ったら、「ニートって言うな!」のお二人と M2 の対談が載ってまして、興味深く拝見したんですけど、なんか違和感があるんですね。まあ、ぼくは「ニートって言うな!」自体読んでないし(^^)、お二人の言う最近の若者バッシングの実態とかもよく知らないんで、的外れな認識かも知れないんですが。

 その違和感と言うのは、必ずしも若者批判問題だけじゃなくて、成人マンガやゲームの問題とか、いろんな問題にも共通するんですが、要するに、「批判」と「規制」や「差別」の関係をどう考えるかということなのね。

 お二方の発言を読むと、若者批判が高まる -> 若者に対する規制や差別が生まれる -> リベラルでない社会になる、みたいな因果関係が必然的なものととらえていて、だから、若者批判はよくない、というふうに考えているようなんですが、ぼくは、こういう捉え方だと、かえってリベラリズムの可能性を狭めてしまうんじゃないかという気がしてならないんです。

 そもそも、民主主義というのは、「言論の自由」という概念が柱あることでもわかるように、言論によって互いの価値観に影響を与え合う、ということ自体は、否定するどころか、むしろ奨励していたはずでしょう。この言論による価値観・世界観の変更可能性を否定すれば、後は、既存の価値観を前提とした上で、罰やインセンティブを与えることしか、世の中を制御したり変革したりする方法はなくなってしまうじゃないですか。そうなれば、民主主義社会の可能性というのはかえってやせ細ってしまうんじゃないでしょうか。だから、ぼくが思うに、批判は遠慮なくするけど、規制や差別はできるだけしない、というのが民主主義社会の理想だと思うんですよ。

 もちろん、日本のように「和」を尊ぶとか言われる社会だと、言葉による批判だけでも深刻な対立関係を引き起こして、実質的には差別状態を生み出すようなこともあったでしょう。だから、批判自体を抑制すべきだという考えもでてきたんでしょうけど、もうそんな時代じゃないし、そんな時代をいつまでも引きずるべきではないと思います。

 むしろ、規制や差別をできるだけ少なくしようとするなら、なおのことぼくらはもっと相互批判を積極的にすべきじゃないでしょうか。「若いのにブラブラしてるヤツは好きじゃない」とか「最近の成人マンガの鬼畜さには不健全なものを感じる」とか「いくらなんでも小学生のジュニアアイドルはねえだろう」みたいな批判は、それが統計的に犯罪と相関関係があろうがなかろうが、あっていいと思うんです。 だって、本当にそれが自分の価値観なんだから。

(思いっきり屁理屈に聞こえるかも知れないけど、そういうことを言い出すと、右翼的言説の流行と防衛費には有意な相関は証明されていないから右翼的言説を批判すべきでない、みたいなことだって言えちゃうんだからね(^^))

 そういう批判をしない人は、若いのに親の金でブラブラしてるヤツとか、鬼畜なマンガばっかり読んでいるヤツとか、小学生の水着写真集とか平気で出しちゃうヤツとか、本当に心の底から好きになれますか? 積極的にお友だちになりたいと思いますか?(もちろん、そういう人もいるかもしれないけど)違うんでしょう? だったら、なぜ他人の価値観にばかり気を使って、自分のそういう価値観をもっと素直に主張しないのでしょう。

 もちろん、そうやって相手の価値観を聞いているうちに、自分の価値観の方が変化して、「ソレもありだな」と思うかもしれません。ぼくは、それこそが本当な「多様な価値観に対する寛容」だと思うんですよ。でも、実際には、「多様性にたいする寛容」という一見耳障りのよいフレーズは、そういう言論による価値観のぶつけ合いによる相互理解からの逃げにしかなっていないことが多いんじゃないでしょうか。また、そういうフレーズで批判を封じ込めれば、不満を持つ人はますます罰やインセンティブを支持するしかなくなるんだから、なおさら世の中を保守化させる危険だってあるだろうし。

 ぼくはよく思うんですけど、民主主義社会においては、制度として正しいことと、個人として正しいことは、多くの場合逆なんです。国家は個人の内面に干渉すべきではない。しかし、個人同士が相手の人権を侵害しない範囲で内面に干渉し合うのは別に勝手 (むしろ、そういう個人同士の干渉が権力関係になるのを防ぐために国家がある)。制度設計は個人の倫理観に依存しないほどよいが、個人の倫理観は制度に左右されないほどよい、とかね。 だから、国家としてどうすべきか、ということと、個人としてどうすべきか、ということを区別して論じないと、必ずいろんな矛盾が生じるんですよ。

 だから、ぼくは「ニートって言うな!」って聞くと、「別に言うのは勝手だろ」とか思っちゃうんですよね(^^)。もちろん、そういう批判の中には、的外れなものあるでしょうから、そういうものに対してはどんどん逆批判していけばいいし、安易な規制や差別には断固反対ですけど。たかが言葉の批判に対して、ちょっと過敏に反応しすぎじゃないか、という気がするんですよね(^^)。はずしてたらゴメンなさい(^^)。

(関係ないけど、「女子アナマトリックス」とかいうのが出ててさあ、「アイドル性」と「知性」が同じ座標軸のプラマイ逆方向になってるんだけど、これだと、「アイドル性」があってなおかつ「知性」がある女子アナはいないことになっちゃうよねえ。いいのかなあ(^^)。) 

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「性愛論」再読

 橋爪大三郎氏の「性愛論」の再読を終了。やはり、優れた論考だとは思うものの、出版から 10 年もたってから再読すると、少々物足りないところも出てきますね。

 最も限界を感じるのは、この論文で描いているのは、あくまで、「性空間」が「権力空間」や「言語空間」と交わったところに生じた投影像にすぎず、「性空間」そのものを律する自律的な論理までは説明しきれていないということですね。もちろん、明晰な著者のことですから、論理的な明晰さの水準を維持するために、あえてそういう方法論をとったのだとは思いますが。

 ただ、おそらくそのせいで、性の機能論的ないし目的合理的な側面が強調され、欲望論的ないし消費論的な側面が軽視されているようにも見えます。たとえば、

こうした生殖技術の発展によって、多くの女性たちが妊娠→出産することをやめ、代わりの方法で子供をうるようになったらなら(機能的性別が無化されたなら)、性別がイデオロギーにすぎなかったことが、誰の目にも明らかになる(無出産社会の到来)。そして、幾世代か経るあいだには、性分化が変容し、性別それ自体が解体に向かうであろう 。

などという記述は、まるで、1 個食べるだけで身体に必要なあらゆる栄養を補給できる万能食品ができたら、誰も手の込んだ料理など食べなくなる、というような論法と同じように聞こえます。もちろん、その後にはちゃんと、

そして、昔ながらの男性/女性として行動する人々は、古典的な性別を生きるという、一種のライフスタイルを選択したという意味になる。男女の性別は、これまで自動的に人びとにそなわるものだった。それが無出産社会では、古典的な性別として、選択の対象になるのである。

と書いてあって、単純に性が消滅するわけではないことを示唆してはいますが。ただ、「解体」とかいう表現だと、どうしてもだんだん性別がフェードアウトして無くなっていくような印象がありますよね。

 でもぼくは、確かにそのような社会になれば、職場のような機能集団や目的合理的な力学の働く場においては、性の表現は抑制されて中性化されていくと思いますが、逆に、コンサマトリーな力学の働くある種の場においては、むしろ、セクシュアリティが過剰に表現されるようになると思います。

 これは、先ほどの食事の例で言えば、残業のときにはカロリーメイトやサプリメントばっかり食べている人も、休日になるとグルメなレストランに行ったりするようなものです。ぼくは、たとえば最近の「エロカワ」や「見せ下着」みたいなものも、こういう変化の兆候ではないかと思っているのです。

 もちろん、機能的な制約が弱くなれば、その分、性表現のバラツキは大きくなるでしょうし、そういう意味では「多様化」するでしょうが、だからといって単純にホワイトノイズのような分布になるのではなく、むしろ、偏りも大きく分散も大きい、つまり、裾野も広いが頂上も高い山が2つある、というような分布になると思います。

 料理だって、伝統の制約がなくなった結果、和洋中の手法をごちゃまぜにする料理人もたくさん出てきましたが、だからといって、和洋中それぞれのアイデンティティが消滅するわけではなく、むしろ、よりそれぞれの特徴が強調されるようになっていってるでしょう? それと同じことだと思います。

 もっとも、こういう論法はどこまで言ってもアナロジーでしかないところが難点で、このような現象に内在する論理を説明するには、「性空間論」というより、必ずしも目的合理性では語れない「消費」という現象を語るための「消費空間論」みたいなものが必要だと思うんですよね。それをうまく進化論や創発性の理論とくっつけられないかな、なんていう妄想はしてるんですけどね。。。(^^)

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懐疑について

 またコンビニでサイゾーを買ったところ、中に筑紫哲也さんと元噂真の岡留安則さんの対談が載ってて、筑紫さんが「今の若者は『疑う』ということを知らなさ過ぎる」みたいな発言をしていました。まあ、こういうユルい発言にいちいちマジメにつっかかるのも大人気ないとは思うけど(^^)、「人を殺してなぜ悪い」というような懐疑論を突きつけた少年に対してあれだけ大騒ぎした筑紫さんが、今さらこういうことを言うのは、なんだかなあ、という気がしました。

 ぼく自身は、あのときも、ちょっとヒネくれた餓鬼だったらあの程度の発言はするよなあ、と思っていたので、実はそれほど驚かなかったんですよね(確か、小浜逸郎さんも同じようなことを言ってたと思うけど)。だいたい、自分自身も、中学・高校ぐらいの時はかなりの懐疑論者で、倫理や道徳からはじまって自然の法則に至るまであらゆるものを疑っていましたし。まあ、ちょうど時期的にポストモダンブームだったりしたんで、その影響もあったんだとは思いますが、一番大きな理由は、結局ぼくがバカだったからなんでしょうね(^^)。でも、世の中ボク程度にバカな子供は結構いると思うのです(^^)。

 実は、ホリエモンの「金で買えないものはない」発言のときにも、同じような印象を持ちました。もちろん、ぼく自身は、その発言は明らかに間違っていると思いましたけど、彼の年齢を考えたらね。30 才そこそこで、ちょっと才気があって、現実に世の中をブイブイ言わせてる奴だったら、その程度のことは言うだろうと思うんですよ。ぼく自身も、自分の倫理観を再構築して、そういうことがすべて間違っていると言い切れるようになったのは、30 才ぐらいになってからでしたもん。 まあ、批判する方々は、ボクみたいにバカじゃなくて、若い頃からもっと人間ができていらしたんでしょうけどね(^^)。

 もちろん、だからといって、そういう間違った発言を黙認しろといってるわけではありません。ただ、そういう奴に口でいくら説教したってたいした効果はないのであって、本当にそういう発言の非現実性みたいなものを悟るには、現実社会での経験に裏打ちされた自己了解みたいなものが必要だと思うんですね。逆に言えば、大多数の人は、時期が来れば自然とまっとうな道に回帰していくものだと思う。もちろん、ホリエモンのように、どんどん道を外れていってしまう子もいるんだけど、そういう子は、もともと理屈だけでは止められないのです。

 だから、例えて言えば、今の世の中の対応というのは、子供の屁理屈に対して、いちいちムキになって反論するくせに、子供が本当におイタをしても止められない、みたいな感じがするんですね。でも、本当に年長世代がやるべきことはその逆で、言葉自体は話半分に聞き流してていいから、致命的な暴走は確実に阻止するということでしょう。もっとも、それができるのは、ぼくらのような野次馬じゃなくて、もっと身近にいた当事者だったはずなんですけどね。

 だから、ぼくなんかが見ると、そういう現象というのは、何か今の大人の自信のなさを示しているように見えてしょうがなくて、ホリエモンや「人を殺してなぜ悪い」の子たちより、むしろそっちのほうが病理的なんじゃないかと思ってしまうんですよね(^^)。

 特に、筑紫さんの言うような懐疑というのは、情報としては、欠けているどころか、ある種陳腐化した形で世の中にあふれているわけですよね。その癖、筑紫さんだって、自分にとって都合の悪い、もっと本質的な懐疑は受け入れられないわけでしょう(^^)。彼らは、そういう「自動化された安直な懐疑」に対してノーを突きつけているのかも知れないし、そういう意味で、やっぱり反体制的なのかも知れないじゃないですか(^^)。

(言うまでもありませんが、若者にとって反抗すべき体制的なものというのは、別に政治権力とは限らなくて、大人が作った社会のシステムすべてが体制なのです。ですから、その中には当然マスコミというものも含まれるわけです。この図式を一番認識していないのが、ひょっとしたらマスコミの方々なのかも知れませんが、だとしたらちょっと認識が甘いといわざるを得ないと思います。)

 それでなくても、今の子は、そういう相矛盾する情報の中で自分の価値観を確立しなけりゃならないんだから、疑う以前に、何を信ずべきかを判断するので精一杯なんじゃないでしょうか。だから、それにある程度時間がかかっても仕方ないし、もっと疑えなどと言うのは過大な要求のような気がするんですけどね。

 ついでに言えば、筑紫さんは、News 23 での顔と、こういう雑誌とか週刊金曜日のコラムとかの書き方に、ちょっとギャップがありすぎるところが今ひとつ好感が持てないんだよね。まあ、イメージ戦略なのか、職業倫理なのか、よくわからないけど。こういうのを読むと、テレビではなんかいい子ぶってるように見えてしまうのですが、そのへん、ご本人はどう考えているのでしょうか(^^)。

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ID 狩り

 インテリジェント・デザイン論に関する Wikipedia の記事(この記事はどう見てもあまり「中立」ではないので、よい子のみなさんにもお勧めできます (^^)) を読んでいたら、山田正紀氏の「神狩り」という SF を思い出しました。

 原本がないのでうろ覚えですが、確かこの小説でも、遺跡で見つかった言語の関係代名詞の入れ子が人間が理解するには複雑すぎるというロジックを、神が存在するという根拠に使っていたと思います。

 ただ、山田作品の登場人物がID の提唱者たちと違うところは、彼らは、神を崇めるどころか、神を「狩」って倒そうとするところです (^^)。

 ID の提唱者も、知的存在を仮定するのは別にいいけど、だったら、その存在がどんなハードウェアとソフトウェアで計算を行い、どのような手段で我々の宇宙に干渉しているのかを、明らかにしようとすべきでしょうね。もし、それができるのであれば、それは単に新しい宇宙論のスキーマができただけの話で、別にそれほど科学哲学に衝撃を与えるような話じゃないですよね (^^)。サイエンスというのはそういうディシプリンですから、それをやる気がないのであれば、やっぱり科学じゃなくて宗教だと言わざるをえないんじゃないかな (^^)。

 研究の結果、その知的存在が、キリスト教の神とは似ても似つかない邪悪な存在だったら、彼らはどうするんでしょうね。その存在に合わせてキリスト教の教義を書き直すのか、それとも、山田作品の登場人物のように、その存在を倒そうと決意するのか、興味深いところです。あ、またイジワルなこと書いちゃった (^^)。

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努力と選択

 「努力」という言葉は、通常、精神力とか根性とかに結び付られることが多くて、精神力や根性のある人=努力できる人=偉い人、みたいに捉えてる人が多いと思うのですが、ほんとうにそうでしょうか。

 たとえば、子供の頃はできなかった努力が、大人になるとできるようになることがありますよね。ぼくなんかもそうでしたが、夏休みの宿題をギリギリまでやらない子供は多いですよね。でも、大人になると、たいていの人が、スケジュール通りに仕事をするようになります。ああいうのは、精神力や根性で説明のつくことなのか。

 ぼくはむしろ、地道な努力が苦手な子供が多いのは、子供には見えてないことが多いからだと思うのです。つまり、子供はあらゆることに対して経験不足ですから、自分が一日にできる量がどのくらいなのか、それをギリギリになってまとめてやることがどれほど大変なのか、みたいなことが実感としてわかっていない。だからこそ、平気でサボれるんだと思うんですね。一方、オトナになると、サボればどんな目にあうかが実感としてわかっているから、なかなかサボれない。

 たとえば、ここにマラソンの才能のある子供がいたとしましょう。仮に、この子が毎日 12 時間づつ 10 年間練習を続ければ、必ずオリンピックで金メダルがとれて、その金メダルをとったことにより得るものは、10 年間の練習の苦痛よりもはるかに大きくて、その子がマラソン以外の道を選んでも、マラソンほどには成功できないということが、100% 確実にわかっていたら、どんなにその練習が苦しいものだとしても、その子はその練習をすると思うのです。

 逆に、その子はどんなに練習をしても金メダルがとれなくて、金メダルをとれなかった場合にマラソンから得られるものは、練習により失うものよりもはるかに小さくて、マラソン以外の道を選べばもっと成功できるということが、100% 確実にわかっていたら、その子はどんなに根性があったとしても、マラソンの練習をしないでしょう。

 つまり、そこまでいろんなことがはっきりわかっていれば、練習をするかしないかというのは、努力というより、単なる選択の問題になってくるわけですね。だから、努力というのは、自分の本当の能力とか、やりたいこととかがわかっていないという、不確実性の産物だと思うのです。

 最近実感としてわかってきたのですが、人間歳をとると、少なくとも、自分の能力や嗜好については嫌でもデータが蓄積されてくるので、いろんなことが努力というより選択の問題になってくるのですね。周囲の人には、「あの人も成長したね」みたいに言ってもらえることもあるのですが、実は、当人にしてみれば、「こんなもんやらんとしゃーないやろ」という感じで、たいして面白くもなかったりするのです(^^)。

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自己選択の果て

 「生物都市」で思い出しましたけど、ぼくは最近、人間のありとあらゆる属性が選択可能になっていった場合、その極限にはどういう世界が到来するのか、ということをよく思考実験として考えるんですが、おそらく「生物都市」みたいな世界になるんじゃないかという気がするんですね(^^)。

 自己選択の自由が広がると、人間がより個性的になると思う人もいるかもしれませんが、それはおそらく錯覚で、知的能力から肉体的能力から容姿から遺伝子からすべて選択可能 (それが具体的にどのようなテクノロジーで可能になるか、という問題は保留します。あくまで思考実験ですから(^^)) になれば、むしろ、個人の自我よりも環境のほうが個体差を決める境界条件として効いてくるようになるはずです。そうすると、人間の自我はだんだん溶解していって、個人の属性も社会システムの構造によって決まる、というふうになっていくのではないでしょうか。

 (これは、今流行りの「ソフトな管理」とか、そんなことを言ってるわけじゃなくて、もっと本質的に、自由が増せば増すほど、実は、主体的な自我というものは必然的に消滅していくであろうということを言っているのです。為念。それはまあ、考えようによっては「己の欲するところに従って則を超えず」みたいな一種の理想状態なのかもしれないんだけど、それがよーわからんと言っておるわけです(^^))

 ぼくがいまだによくわからないのは、マンガと同じで、果たして人類は、本当にそういう状態になることを望むのだろうか、ということなんですね。前に書いた、経済原則と愛情原則という話も、ある意味、自我とシステムとの闘いであるとも言えます。この両者の相克がどう高次元で調和しうるのか、というのは、最近一番興味のあるテーマですね。

 昨今のナショナリズム、アンチ・グローバリズム、アンチ市場主義などにしても、政治や経済の問題のように言われてますが、本質的には自我の問題で、「選択の自由」に疲れた自我が、「俺たちはもう選択なんかしたくない」「選択や交換によって変わらない確固とした自我の基盤になるものが欲しいんだ!」と叫んでいるだけのことではないか、という気もするのです(^^)。

 今散歩しながらふと思ったのですが、ぐるっと一巡すると、逆にシステムの創発性みたいなものを維持するために、システムの方から個人に対して乱数で個性を割り当てる、みたいな世界になるのかもしれませんね(^^)。

 あるいは、「キャラ選択画面」みたいなのが出てきて (どこに?)、定期的に自分の意思で自分のキャラを選択させられるとか(^^)。「明日からは、頭はいいけど病弱で気が弱くて引っ込み思案、というキャラで生活してください」みたいな(^^)。

(絵だけ見ると、「遊星からの物体 X」とか「リヴァイアサン」みたいなのだと思うかもしれないけど、ぜんぜん違いますから(^^))

 

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「国萌え」の作法

 前に紹介した北田さんの本とか、「国に萌える」人たちに対する批判(というか揶揄)する意見が少し増えてきたようですが、これもある程度時代の必然だと思うのです。

 (なんかこれも前にも書いたような気がするが(^^))そもそも、個の尊重とか基本的人権の尊重というのは、近代社会システムを維持するためのフィクションだと思うんですね。だから、国家の側が個人に自己犠牲を強いることは決して許されないけれども、個人が自分の意思で利他的にふるまうのは別に悪いことじゃないと思うんです。

 だいたい、人間って、純粋に自分のためだけに生きることなんか、やろうと思ってもできないんですよね。そもそも、愛情というもの自体が、他者の喜びが自己にとっても喜びであるという、利己とも利他とも言えない状態ですから。

 それを何か、「利己」が善で「利他」が悪だ、というような、一種の倒錯的な倫理にまで高めてしまったのが、戦後民主主義のおかしなところだ、という一部の認識は正しいと思います。

 また、最近では、その利他の対象が、家族や友人や地域共同体だったらいいけど、国家はだめ、みたいなこと言う人がいますけど、そんなに決定的な差ではないと思うんですよね。

 もちろん、「国萌え」にも迷惑なところはいろいろとありますが、やり方を間違えれば迷惑なのは、国萌えに限ったことではなく、会社萌え、スポーツチーム萌え、家族萌え、恋人萌え、子供萌え、平和萌え、弱者萌えなど、どれもやり方を間違えれば迷惑なのは同じことでしょう。

 そういう意味で、「国萌え」というのは必ずしも悪いことではないと思うのですが、戦時中みたいな抑圧的な社会にならないために、少なくとも、以下のような点は守ってもらいたいと思います。

 まず、「国」が唯一の「萌えアイテム」ではない、ということを認めること。利他の対象は人によってさまざまで、家族や友人に向かう人もいれば、世界平和というようなもっと抽象的な対象に向かう人もいるので、どれかが唯一絶対に正しいなどとは言えないのですから。

 それから、国に萌える「萌え方」についても、人それぞれさまざまなスタイルがある、ということを認めること。国を愛しているんだったら、こうしなければならない、みたいな安易な押し付けをしないこと。

(もっとも、このへんはサヨクとかハト派の方々も似たようなもので、平和を愛しているなら靖国参拝に反対しなくてはならないとか(いや、ぼくは実際反対なんですけどね(^^))、弱者の味方なら郵政民営化に反対しなくてはならないとか、勝手に決めるなよ、といいたくなることは多々ありますよね(^^)。)

 まあ、このぐらいの点を守っていただけるのであれば、「国に萌える」というのも決して悪いことではない、というか、奨励してもいいぐらいかもしれない(^^)。少なくとも、ロリや鬼畜に萌えるのより、国に萌えるのが悪いことだ、とは言えないでしょう(^^)。もっとも、残念ながら、ぼくとはあまり趣味合いそうもないですけどね(^^)。

追記 (2007/1/8): 姜尚中氏が「愛国の作法」という似たような題名の本を出していらっしゃいましたが、発表はこの記事の方が先ですので念の為 (^^)。もちろん、ぼく自身は、どっちが先かを争うほどのことだとは思っていませんが。一応念の為。

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TS にして AGF (Anti-Gender-Free)

 面白い HP を見つけました。神名龍子さんという、MTF (Male-To-Female) の TS (Transsexual) でありながらアンチ・ジェンダー・フリー論者であるという方の HP

 意外に思う人もいるかもしれませんが、本人もおっしゃっているように、論理的に考えればちっともおかしくないんですよね。だって、TS っていうのは、男性でも女性でもないものになりたい、とか思っているわけじゃなくて、はっきりと女性になりたい、という欲望を持っているわけだし、女装とかをしたがることを考えれば、その性というのは、明らかにフィジカルな性よりもむしろジェンダーなわけです。だから、ジェンダーがなくなってしまったら、彼らの欲望の対象自体が消滅してしまうことになるわけですよね。

 この人の主張はぼくとすごく似てて、たとえば、

 このことから「男女平等」というのは一般に、「あらゆる意味で男女が同じであるべきだ」という意味ではなく、「ある分野においては同じであるべきだが同じでなくてもよい分野もある」と考えられていることがわかる。ほとんどの人は、「男女平等」をそういう意味で理解していて、だからしぐさの違いを「男女不平等」だとは思わない(男女が同じであるべきだと思わない)のである。

 では、私達はどういう分野において「男女は同じであるべきだ」と考えているのだろうか。これは大雑把にいえば「経済の領域」と「政治の領域」についてである。これを人間同士の関係という側面で見れば、経済の領域は「契約によって成立する関係」であり、政治の領域は「ルールによって成立する関係」である。これは近代社会に共通するルールであって、このルールがなかったら近代社会とはいえない。

(中略)

 しかし「平等」というのはそういう意味ではなくて、「違い(差異)があるにも関わらず」平等であるという事が要点である。例えば西欧であれば、カトリックであってもプロテスタントであっても市民(国民)として同等の権利を持つ。人種が違っても同等、性別が違っても同等。だが、江原の(つまりラジカルフェミニズムの)主張を敷衍するならば、差別をなくすためには、性差の否定だけではなく、人間は宗教的にも、人種としても統一されなくてはならないということになる。これは、とても「危険な思想」になるのだ。

(以上、「でたらめてジェンダーフリー」より)

 また、人間は自分の「あり得る」の大部分を、既に存在しているモデルを参考にして思い描く。だが、それを「自分らしさ」の放棄とは考える必要はない。そうでなければ、自分のあらゆる「あり得る」を、すべて自分で完全なオリジナルとして創出しなければならないという話になってしまう。そうしたい人はそれでもよいが、ほとんど何もできない内に人生を終えるだろう。たとえば、火を起こすことを考えてみよう。火を起こすにも、先例を参照することなしに、その方法を考えつくのは、大変な困難が伴う。そして、このような困難が、生活のありとあらゆる場面に伴うものだとしたら、「自分らしさ」どころか、事実上、人間らしい暮らしが不可能になることは明らかである。

 つまり、自分が何かをしようと思ったら、既存のモデルの中から良さそうなものを選ぶというのは、効率がよくて合理的な方法なのだ。そして私達は、長い歴史の中で多くの人々がさまざまなモデルを蓄積してきた。もちろんその中には、時代遅れで使えなくなったものもある。しかし私達が、多様なモデルの蓄積の恩恵に預かって生きているということは、疑い得ない事実である。そして多くの場合、私達はそのことを、誰かに支配されているとか抑圧されているとは感じない。むしろ私達は、過去の幾多のモデルを活用することによって、内容豊かな生を送ることを可能にしているのである。

(「『自分らしさ』とジェンダー」より)

 私の考えを総論的に述べれば、ジェンダーは決してなくなることはない。ジェンダーがなくならないということは、一定以上の男女がジェンダーを維持し続けるということである。ただし、ジェンダーの中身は時代と共に変化する。これはフェミニストやジェンダーフリー論者が何も言わなくても(また、そういう人たちが存在しなくても)、必ず変化する。これは言語と同じこと。古典と現代文を見比べればわかる通り、言語というのは、改革論者がいなくても、日本語なら日本語という基本骨格を残しつつ、しかし固定不可能なものとして変化する。

(「ジェンダーフリーは性差否定である」より)

というあたりは、ぼくが前にこのブログで書いた主張とほとんど同じ。もっとも、神名さんの文章の方がはるかにうまくて説得力があるのは言うまでもありません(^^)。

 この人、そのへんの三流フェミニストよりも(もちろん、単に頭が固いだけの保守派よりも)はるかに性について深く考えていると思うので、性の問題に興味のある人はぜひ読んでみませう。

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宗教的行為と意味

 人間の行為には、物理的に直接作用するものと、人間の感覚器官に働きかけることによって、人間の脳を介して間接的に作用するものとがあります。表現と呼ばれるものはだいたい後者で、言語表現はその代表的なものですが、儀式やセレモニーと呼ばれるような行為も、物理的な結果よりも、その行為が意味するものの方が重要な行為です。

 このような表現行為の持つ意味というのは、コード体系を共有する集団の中でしか伝わりません。いや、伝わらないだけならまだしも、別のコード体系によって別の意味付けをされることさえあります。したがって、このような表現行為の善悪を論ずるためには、誰と誰がどのようなコード体系を共有しているかを考える必要があります。

 イラクで亡くなった橋田信介さんの奥さんがイラクへ行くところをテレビで見ていたら、ちゃんとスカーフを巻いて髪を隠していたので感心しました。ぼくは橋田夫人のことをたいして知らないので、これは勝手な想像ですが、あれは別に橋田夫人がイスラム教徒に帰依しているというわけではなくて、イスラム教徒であるイラク人に敬意を表してやっているわけでしょう。

 この場合、イラク人たちと橋田夫人は、完全にはコード体系を共有していなくて、イラク人にとってのスカーフは「女性のすべき当然のたしなみ」というような意味を持っているのに対し、橋田夫人にとっては「イスラム教徒であるイラク人に対する礼儀」というような意味をもっているわけです。

 このような状況は、墓参などについてもよく見られます。どのように葬られるかというのは、亡くなった人の宗教によって決まるので、墓参する人が、自分の宗教がキリスト教だからといって、亡くなった仏教徒をキリスト教式に弔う、というようなことはしないわけです。

 勘のいい人は、そろそろぼくが何を言いたいか気づいただろうと思うのですが、念のため、ある意味これとは逆の例を挙げましょう。

 地下鉄サリン事件の後、オウム真理教の教徒が、未だに麻原を尊師と呼んでいるとかいうことに対し、事件を反省していないのではないか、という批判がありましたよね。それは、外部の者から見れば、そういう行為の一つ一つが、大量殺人を肯定するようなコード体系の一部をなす表現に見えるからです。

 でも、このような場合に、外部の者が、たとえば「麻原を尊師を呼んではいけない」みたいなルールを作って信者に守らせれば問題が解決するかといえば、そうではないでしょう。それは、信者の共有するコード体系から生まれた行為に対して、別のコード体系から勝手に意味付けをしているだけで、言わば、オウム真理教に対抗するために、反オウム教という別の宗教を作っているようなものです。

 この場合に問題なのは、あくまで、信者自身が自分の行為にどのような意味付けをしているかということであり、その意味付けが、外部の社会から見ても反社会的なものでないかということです。したがって、外部の者がやるべきことは、信者の真意をただすことであり、信者のやるべきことは、自分の真意をコード体系を共有しない者に理解できるように説明し、外部の信頼を得ることです。

 ぼくは、以上のような理由で、必ずしも軍国主義的な思想に共鳴しない首相が、純粋に戦死者に対する追悼の念だけで靖国神社に参拝するということもあり得ないことではないし、絶対的に否定すべきことではないと思っています。ただし、オウムの例と同じように、靖国神社の過去の歴史などを見れば、軍国主義の復活を懸念する方々が首相の真意を必ずしも信じられなかったり、いろんな悪影響を心配するのも無理はありません。

 ただ、そこで軍国主義の復活を懸念する方々の方が、いろいろ理屈をこねて「靖国参拝=軍国主義の復活」みたいな意味付けをするのは、「靖国教」に対抗するために「反靖国教」を作ることでしかなく、どこまで言っても不毛な争いの道だと思うのです。

 そうではなくて、軍国主義の復活を懸念する人たちは、素直に「首相の真意を信じられない」と言えばよいのだし、首相もそれに対して木で鼻をくくったような返答をせず、素直に信頼を得るための努力をすればよいのです(もちろん、参拝をやめてもいいが(^^))。分祀とか別の追悼施設とかいうのも、結局は、そういう信頼を得るための手段にすぎないのであって、どれが最も正しい方法か、などとゴチャゴチャ議論することは、文字通り不毛な神学論争にすぎないのではないでしょうか。

 実は、「日の君」問題についても同じようなことを感じているのですが、それはまた稿を改めて。

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ホモ用浴場の設計

 以前、一つの思考実験として、ホモの方向けの浴場はどう設計すればよいか(^^)、という問題を考えてみたことがありましたが、これが結構難しいんですよね。

 仮に、浴場設計の制約条件として、

  • 互いに欲情する(洒落に非ず)可能性のある者同士を同じ浴室に入れてはいけない

という条件を設定したとします。

 すると、とりあえず、ヘテロの男女はそれぞれ(ヘテロ)男湯と(ヘテロ)女湯にご案内すればよいとして、ホモの男女をどの浴室に入れるかが問題です。

 たとえば、ホモの男性を(ヘテロ)男湯に入れればホモの男性がヘテロの男性に欲情する可能性があるし、かと言って(ヘテロ)女湯に入れれば、逆に、ヘテロの女性がホモの男性に欲情する可能性があります。

 じゃあ、ホモ専用の男湯を作ればよいかというと、ホモの男性同士は平気で欲情してしまいますから、これはもう全然ダメ(^^)。

 結局、「何も起こらない」組み合わせというのは、ホモの男性とホモの女性(つまりレズ)という組み合わせしかないわけですが、これでも 1 対 1 でないとだめで、どちらかが複数になると、ホモ専用の男湯(もしくは女湯)と同じことになってしまうので、結局、家族風呂みたいな個室にご案内するしかないわけです。

 だから、ホモとヘテロというのは、対称性があるように語られがちなんですけど、カップルの組み合わせという観点から考えると、実は、ホモとヘテロの間にはかなりの非対称性があるんですね。

 そう考えると、exclusive な homosexual かそうでないかというのは、結構本質的な問題ではないか、という気もするんです(^^)。

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オブジェクトの比較

 ここ数回、暴論シリーズが続いたけど、さらに続けます(^^)。

 オブジェクト指向のプログラムを書いたことのある人なら知っていると思うけど、オブジェクトの比較には 2 種類の方法があります。一つは、オブジェクトの属性(メンバとかプロパティとかいろんな呼びかたがある)を一つ一つ比較して、すべて一致すれば同一とみなすというやり方。もう一つは、オブジェクトのポインタやハンドルを比較して、一致すれば同一とみなすやり方。

 人間に例えるなら、前者は、身長も体重も顔も体型も性格もすべて一致するので、マナちゃんとカナちゃんは同じだ、とみなす方法。後者は、どんなにそっくりでも、マナちゃんとカナちゃんは別人だ、とみなす方法、ということになります。

 そうすると、前者は経済原理に対応し、後者は愛情原理に対応している、と言えるのではないでしょうか。そして、この両者をどう切り分けるかが、社会設計においても、個人の生き方においても、重要なポイントなのではないかと思うのです。

 経済原理の世界では、生産のための合理性を重視するので、代替可能なものはどんどん代替して、もっとも低コスト高生産性の組み合わせを見つけ出そうとする。同じものを買うなら、少しでも安い店に行く。というのが経済合理性の世界ですね。

 一方、愛情原理の世界は、関係性重視の世界です。たとえ他の属性がまったく同じであっても、固有名詞が違えば別人とみなすということは、その人自体よりも、その人と他者との関係性を重視しているということです。

 もちろん、経済原理の世界でも、他との差別化をはかることにより、代替不可能な存在になり、固有名詞として認知されるようになった人や会社もあります。

 ぼくが、ニートの人とかの将来の夢とかを聞いて感じるのは、彼らのなりたい職業というのは、そういう固有名詞として認知される職業が多いということです。そうすると、彼らが求めているのは、実は、経済的な成功といよりも、代替不可能な存在になりたいということではないか、という気がするのですね。しかし、それを経済の世界で実現できる人はごく一部ですし、また、必ずしも経済の世界で実現すべきことでもないのではないでしょうか。

 ぼくは、島田紳助さんの本を一冊だけ読んだことがあるのですが、その中で最も感心したのは、「友だち同士は助け合わない」という言葉でした。本当だかどうだか知りませんが、彼は、たとえ友人の会社が潰れて借金取りに追われていても、金銭的な援助をしたりはしないそうです。

 これは、経済原理の世界と、愛情原理の世界を切り分けるための、一つの知恵だと思うのですね。もちろん、たとえ友だちであっても、貸した金は高利貸しのように取り立てる、という方法もあると思うのですが、人間なかなか同じ人間相手にそういうふうには態度を使い分けられないですからね。

 ぼくが LF 問題のときにフジテレビやニッポン放送に対して感じた不満は、彼らには、この両者をどこで切り分けるかという哲学が感じられないということ。にも関わらず「愛情」などという煽情的な言葉を振り回して、周囲の同情を買おうとしていたことです。

 先日、ケイレツの復活傾向が報じられていましたけど、これも別に、長期的な取引関係にメリットがあるのは当たり前だし、そのこと自体が悪いわけじゃないと思うんですね。むしろ問題は、ルールが不明瞭で、ほんとうに長期的な取引関係が望ましいからやっているのか、それとも、人情の次元でやっているのかがはっきりしないことじゃないんでしょうか。だから、使っている方も、都合が悪くなると一方的に取り引きを打ち切ったりするし、使われている方も、感情的に切りにくくするために余計なコストを払っていたりする。こういうのも、ぼくなんかから見ると、経済原理と愛情原理の切り分けができていなように見えるわけです。

 もともと、経済原理と愛情原理には相容れない部分があるので、それをどこで切り分けるかについては、社会倫理としてある程度の合意があるべきだと思うのですが、少なくとも、個人の生き方としてこの両者をどう使い分けるかぐらいは考えておくべきだと思うし、ぼくはそういう人が好きです。

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保守と革新の微妙な差

 「保守」と「革新」というのは、思想的な分類によく使われる言葉でありますが、つきつめて考えれば、これは程度の差でしかないと思います。なぜなら、本質論で考えれば、人間は、絶対的な保守にも絶対的な革新にもなれないからです。

 そもそも、人類という種自体が、遺伝という種の性質を「保守」する仕組みによって維持されているわけですし、個々の人間にしても、ホメオスタシスという個体の性質を「保守」する仕組みによって維持されているわけですから、人間が保守性を完全に捨てることなどどだい無理なのです。

 もちろん、環境に適応するためには保守性だけでもだめなので、突然変異とか学習とかいう「革新」の仕組みも備わっているわけですが、それは保守性が基本にあって、それを守るためのものなので、どっちにしろ程度の差でしかないのです。

 たとえば、弱者を守ろうという政治運動があったとして、その弱者は日本国内では弱者かも知れませんが、世界レベルで見たら、日本という豊かな国に生まれたという既得権を享受している強者でしかないかもしれない。じゃあ、どこまでその範囲を広げたらいいかと言われたら、無限に広げていくわけにはいかないから、どこかで止めるしかないわけ。あるいは、格差をなくすためなら自分は損してもよい、と言える人でも、友人や家族が犠牲になるとしたらどうか、自分の属する会社が損するとしたらどうか、などと考えていくと、そのうち日本の国益が、みたいな話になっちゃうわけ。

 また、その範囲にしても、広げたり狭めたりすることはできるけど、自分がその中にまったく含まれていない範囲をとるわけにもいきません。たとえば、人類だけでなく生物すべてを平等に扱いましょう、みたいな思想は、現時点では無理でも、はるか遠い未来にはひょっとしたら成り立つかもしれません。でも、人間「よりも」炭素菌や岩を大事にしましょう、みたいな思想を人間がとなえることは、思考実験としては可能かもしれませんが、それが思想としての効力をもつことは決してないでしょう。

 だから、保守にしても革新にしても、その範囲を微妙に広げるか広げないかみたいなところで争っているにすぎないんで(もちろん、その微妙な差で範囲に入るかどうかが分かれる立場の人にとっては重大な問題なんだけど(^^))、結局は現実的に可能かどうかというところで決着するしかないわけです。だからぼくは、自分だけがまともな良心を持っているかのごとき主張をする人が好きになれないのです。(^^)

 もちろん、権力闘争の場では、立場をはっきりさせることもポリティックスの一部なんだろうから、そういう微妙な差を誇張してみせることも必要なんでしょうけど、一般庶民がそれにいちいちのっかる必要はないと思うのね。

 ぼくはむしろ、一般庶民は、意識して立場をあいまいにして、油断するとどっちに転ぶかわからないような姿勢を見せといたほうがいいんじゃないかと思っています。そのほうが、政治エリートに対するプレッシャーにもなるし、変なファナティズムやラジカリズムに対するブレーキにもなる。

 ぼくは、小林よしのりさんが「脱正義論」で言いたかったのは、結局そういうことじゃないかと思うんですよね~。本人が今でもそう思っているかどうかは知らないけど(^^)。

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概念の歴史

 すごいサイトを見つけました。"The Dictionary of the History of Ideas"、つまり、「概念の歴史辞書」。

 コンセプトとしては、中村雄二郎氏の「術語集」とか、小田中直樹氏の「ライブ・経済学の歴史」とか。(あと、山形浩生さんの訳してる「経済思想の歴史」とか)に近くて、 "JUSTICE" だの " EXISTENTIALISM " だのという概念が、歴史の中でどのように発展してきたかを示した辞書のようです。

 人文系の用語、特に哲学用語とかは、特定の思想家にひっつけて語られやすくて、いい加減な使い方をすると、「誰々はそんなこと言ってない」みたいな不毛な議論になりやすいですよね。かと言って、普通の哲学用語辞典みたいなものだと、一つ一つの項目の分量が少ないし、書き方も無難な書き方になるので、その概念が生み出された動機とか歴史的背景とか見えにくくなりがちです。

 ところが、この辞書は、各項目がかなり詳しいので、そういった経緯もよくわかるし、それでいて、項目数もけっこう多い。分野も、数学 (INFINITY など) や 政治学 (UTILITARIANISM など) から、自然学 (EVOLUTIONISMなど) や芸術 (IRONY など) まで幅広いです。

 ぼくはブショー者で、「なんとかを読んでない奴にはなんとかを論じる資格はない」みたいなことを言う奴が大嫌いなので(^^)、こういうサイトはひじょーにありがたいです。

 検索してみると、日本でもけっこう知る人ぞ知るサイトらしく、書籍版には日本語訳(「西洋思想大事典」)もあるようです。

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教養の差

 稲葉振一郎氏の読書ノート、ひさびさの更新。感心したので長いけどちょっと引用。

実のところ社会学というのは――少なくともデュルケムからこっち、20世紀のあらかたは――まさにこの「型」の科学であった。デュルケムの「社会的事実」もポスト構造主義の「エクリチュール」も、更にはルーマンの「システム」もブルデューの「ハビトゥス」も、みんなみんなこの「型」、つまり「構造」理論にはまりこむか、あるいは積極的にはまってはいなくとも結局足をとられてしまったか、であった。

 そのどこがおかしいのか。どの辺でこうした潮流は、かつての威信を失ってしまったのか。思うにそれは「構造」の「再生産」という理論構図にあったのではないか。大雑把に言えばこれらの「型」においては、個別的な実践主体としての人とその社会集団に先立って、人々の思考と行為をかたどり方向付け拘束する「構造」が存在し、その「構造」は人々の社会的な生の実践を通じて再生産されていく――という構図があった。しかしながら「ドーキンス革命」以後の我々には、ここに抜け落ちていたものが何かは明らかである――「状況」あるいは「環境」だ。

 実はドーキンスの理論も、ある意味では「型」を継承してはいる。実のところ、彼の言う「遺伝子」も「ミーム」も「型」「構造」の一種だ。では一体ドーキンスのどこが新しかった(というのは正確な言い方ではないが)のか? 「進化」ではない。より正確に言えば「構造」の変異のメカニズムとしての「突然変異」ではない(むしろそこはブラックボックスだ)。そうではなく、「構造」というマトリクスを実現する生き物個体や社会的実践が、そこにおいて適応の善し悪しを自然選択のテストにかけられるフィールド、すなわち「環境」というファクターが入っているところが、ドーキンスの理論のポイントである。

 ところが従来の「型」にはまった「構造」社会学のほとんどは、「構造」と「環境」の区別を見失っていたのではないか。ドゥルーズ&ガタリの構造主義批判や、あるいはルーマンのシステム論なども、この辺の問題に気づいていたが、どういうわけか一種の袋小路に入っていった――ありていに言えば、外界との生産的な対話のルートが意図してかせずしてか断ち切られ、カルト的に自閉していった。その結果が今日の、進化的認知科学による社会科学包囲の始まりにつながっているのではなかろうか。

 そうそうそう、ぼくもそういうことが言いたかったんだよぉ~、でも、教養のないアホだから言おうと思ってもうまく言えなかったんだよぉ~(^^)。くすん。

 ルーマンって、つまらなそうだから読んでなかったんだけど、西垣通氏の「基礎情報学」を読んで、やっぱり読んどいたほうがいいかと思って、馬場靖雄氏の「ルーマンの社会理論」をちょうど買ってきたところなんだよね。でも、これ見たら、やっぱり読む気がなくなってしまった。(そんなんだからダメなんだよね(^^))

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多義的存在としての人間

 人間とは何か、という問いは、簡単そうで、実は、さまざまな定義が考えられます。

 たとえば、物理的な「かたち」に注目して、四肢を持ち直立歩行する動物の一種である、というような定義もできますし、あるいは、「人格」に注目して、特定の情報処理能力を持つオートマトンである、という定義もできますし、あるいは、ジーン(遺伝子)を保持し交配するキャリアである、というような定義もあるでしょうし、あるいは、ミームを受け取り、加工して、伝達するキャリアである、というような定義もあるでしょうし、あるいは、人類社会、という有機体を構成する一要素である、というような定義もあるでしょう。

 このうちのどれが「正しい」、などと議論することにはあまり意味がなくて、どの意味付けにもそれぞれ固有の価値があるはずです。たとえば、人間が少しでも長生きしたいと思うのは、物理的な存在としての人間を大事だと思っているからだろうし、肉体は滅んでも人々の記憶の中に残りたい、などと思うのは、人格としての人間を大事にしているからでしょうし、セックスして子孫を残したいと思うのは、ジーンのキャリアとしての人間を大事にしているからでしょうし、後の世に残るようなものを作りたいと思うのは、ミームのキャリアとしての人間を大事にしているからでしょうし、社会に貢献したいと思うのは、人類社会の要素としての人間を大事にしているからでしょう。

 利己的遺伝子論みたいに、このうちの一つだけを本質的なものとみなして、他をそれに従属するものとみなすような理論も成り立たないわけじゃないけど、そのことと、人間が何に幸せを感じるかということは、必ずしも直結しないですよね。人間は、野球を見て、XX がんばれー、とか言っているときに、これもめぐりめぐって自分の遺伝子の存続に役立つはずだ、とか考えているわけじゃないし、考えたからって、その「幸福感」自体に変化があるわけじゃありません。

 じゃあ逆に、「幸福感」とか「一瞬一瞬の生の充実感」みたいなものが生の本質なのかというと、そうとも言い切れなくて、実際には、そのような幸福感や充実感だって、それ自体を目標にしようとすると、単に刹那的になるだけで、何か別の目標を目指していなければ長持ちしなかったりします。

 ただし、社会的にこのうちのどれが重視されるか、と言うのは、社会的文脈によって決まってきて、歴史的な段階や社会的な「場」によって違ってきます。たとえば、全体主義的な社会というのは、「人類社会の要素としての人間」だけが重視され、「物理的存在としての人間」や「人格としての人間」が軽視された時代だったのでしょうし、近代民主主義社会では、むしろ後者の方が重視されているわけです。

 おそらく、古代社会においては、このような社会的文脈がもっと混沌としていて、「パンとカーニバル」の話みたいに、世俗的な権力者が、同時に、宗教的な生の意味付けを行う存在でもあったりしたわけです。ところが、近代になると、権力の目標は、物理的な個体や人格を守るということに限定され、その代わり、個人が自由に幸福を追求することを許すことにした。つまり、人間存在の意味付けが、社会的文脈によって「分化」したわけです。

 ぼくは、人類社会が進化したと言えるとすれば、それは、意味付けが混沌としていた時代には不可能だった、人間存在のいろんな面を「いいとこどり」できるようになったことだと思うのです。変なたとえかもしれませんが、スパイスだって、混ぜて「カレー粉」にしてしまうと、カレーライスやカレーうどんにしか使えなくなりますが、 ターメリック、パプリカ 、 ペッパー などに分けておけば、もっといろんな料理に使うことができるし、もちろん、混ぜてカレー粉として使うことだってできるわけです。

 近代民主主義が個人を大切にするのも、あくまで「政治権力」という特殊な文脈についてだけのことであって、ありとあらゆる文脈において、人間存在の意味付け統一する必要はどこにもないし、そんなことをすれば、むしろ、人間の生を貧しくするだけだと思うのです。むしろ、政治権力以外の場では、積極的に社会的文脈を多様化して、人間存在の多義性を生かしていったほうが、人間の生は豊かになるはずです。

 そう考えると、たとえば、行き過ぎた個人主義の問題とか、少子化の問題とか、高齢化社会の問題とかも、人間存在の社会的意味付けが貧しいことの現れなのではないか、という気がしてきます。しつこいようですが、人間と言うのは、多義的な存在であって、常に政治的文脈による意味付けに義理立てする必要はどこにもないはずなのです。

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「外乱」のあるシステム

 宮台真司氏が「思想塾」開講の告知をされています。

 この設立趣意書の中で、ちょっと興味をひかれたのは、「 〈世界〉の根源的な規定不能性 」という話。というのも、たぶん宮台氏とはぜんぜん違う文脈だろうけど、ぼくが最近考えていることと、なんか似たようなことをおっしゃっているような気がするからです。

 前にこのブログでも書いたけど、「ラプラスの悪魔」的な決定論的な世界観と、人間の自由意志とが矛盾するのではないか、という考えは、全知全能の神の視点と、有限の知しか持たない人間の視点の混同による錯覚だと思うのです。

 つまり、「ラプラスの悪魔」のような、宇宙のあらゆる粒子の状態を知り、宇宙のあらゆる現象を予測できるような知性というのは、いくら人類のテクノロジーが発達しても、原理的に実現不可能なので(なぜ実現できないかは、渡辺慧氏の名著「知るということ―認識学序説」を参照)、特定の人間というオートマトンが、世界から受け取る情報を完全に予測することは、本人か他人かにかかわらず、人間にはできないのです。したがって、別に、人間の脳内にカオス的な予測不能性を想定せずとも、人間の行動を、人間が完全に予測することは不可能なので、そういう意味では、自由意志は存在する、と言えます。

 言い換えれば、人間とか社会というシステムは、情報的には完全に「閉じた」システムではなく、自動制御論的に言えば、「外乱」のあるシステムなんですね。

 ただ、人類の歴史というのは、さまざまなフィードバックループを導入することにより、この「外乱」のあるシステムの中に、相対的に安定したサブシステムを作り出そうという試みの歴史でもあったわけです。その試みが、近代以降思いのほか成功を収めてしまったので、ポストモダンブームの頃には、完全に外乱のない極限状態を想定してパラドクシカルなことを言う思想家が現れたり、反対に、外乱は決してなくならないのだから何やってもムダだ的なことを言う人が現れたりしたんだけど、これは、どっちも極論だったと思うのです。

 実際には、外乱が完全に無くすことは決してできないけれども、外乱の中でも相対的に安定したサブシステムを作り、人類が管理できる領域を広げていくことはできるわけで、文化とか制度とか 、ある意味では、人類とか生物そのものも、進化の過程で自律的に発生した、安定化のためのシステムだと考えることができます。進化論的なパラダイムが社会科学にインパクトを与えたのも、進化論というものが、もともと、そういう外乱のある開いた系の中で、自律的に発生する秩序、というものを扱える方法論だったからでしょう。

 ただ、こういうフレームワークに立って考えると、「 主意主義の本義は、主体ではなく、〈世界〉の根源的な規定不能性に関わっている。 」というだけでは不十分で、個々の主体が世界がら受け取る情報は、完全に同じではないけれども、相互のコミニュケーションを可能にする程度の相関性は持っている、というところが重要になってくると思います。(そう考えないと、主体がランダムでも、世界がランダムでも、大差ねえだろ? ということになってしまう(^^)。)

 このような、社会を構成するエージェントが、完全に同一ではないが、一定の相関のある情報を受け取りながら相互作用しているというモデルをうまくつくれれば、社会科学をもう一歩深化させることができるような気がするんですけど、ダメかなあ(^^)。

(北川悦吏子さんがよく書くんだけど、恋人同士が電話で話してて、実際には離れた場所にいるんだけど、同じ月を見てその感想を伝えあっている、みたいなイメージね(^^)。余計わかんねえか(^^)。)

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消費は大事だよ

 経済関係のニュースでは、消費しょーひと簡単に言うけれど、実は、経済の中でも一番よくわかっていないのが「消費」なのではないか、という気がします。

 門外漢がこんなことを言うと、専門化の方に怒られるかもしれないけど、確かに、経済学では、人間の消費に対する好みを表す「効用関数」というものを設定するのだけど、これは、最終的には消去される補助線のようなものだという気がします。

 つまり、こういう効用関数を仮定すると、こういうモデルが導けます。このモデルは、現実のこのような現象をうまく説明しています。よくできました、ちゃんちゃん。という感じで、本当にその効用関数が正しいのかとか、人間性とどのような関わりがあるのかとかは、それ以上追求されていない感じがするんですよね。

 おそらく、人間の「価値観」というもっと扱いにくい概念を、そのようにブラックボックス化できたことが、社会科学の中で経済学が最も成功した理由に違いないのですが、それだけに、「消費の意味」みたいなことを考えるときに、経済学の本は意外と役にたたない気がします。

 そういう意味で、ぼくが最も影響を受けた消費論は、今もって、山崎正和氏の「柔らかい個人主義の誕生」で、世代的になんとなく悪いイメージを持たされていた「消費」に、「生産」と同じぐらいの意味がある、ということをぼくに教えてくれた本です。ただ、これもいい加減古い本なのに、いまだにこれを超えるような論考が見当たらない(ぼくが知らないだけかもしれないけど(^^))、というのが個人的にはちょっと物足らない。

 糸井重里さんなんかも、よく、「消費のクリエイティブ」とかいってるので、ひょっとしたら、これと似たようなことを考えていらっしゃるのではないか、という気がします。ただ、この人は忙しい人なので、なかなかまとまった論考を発表してくれないんですよねー。「インターネット的」みたいな本をまた書いてくれたらいいなあ、と思っているんですが(^^)。

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好感度アップ

 宮台真司氏が、ブログにこんな記事を。思わず目を疑いました。

 

■事件後の95年6月、オウムに惹かれる若者を論じた「終わりなき日常を生きろ」を出しました。主題は成熟社会の「つまらなさ」です。でも当時の僕は、問題の深刻さを見通せていませんでした

 

■90年代前半から拡がる「ブルセラ・援交」の子たちに僕は「軽々と生きる」新世代の可能性を感じました。社会の流動性が高まっても、「やりようで」若者たちが感情的安全を得られると思いました。

 

見込み違いでした彼女らの多くは、疲れ、メンヘラー(精神科に通う人)になりました。人づきあいが苦手というより、つまらないから退却するタイプの引きこもりも増えました。僕は、成熟社会のつまらなさの問題をより深刻に受け止める必要に迫られました。流動性の高いコミュニケーションが与える殺伐さをどうするかです。この10年でそれが明瞭になりました。

あのプライドの高い宮台氏が、こんなに率直に自分の見込み違いを認めている文章を、私は初めて読みました。やはり、年齢を重ねることにより、心境の変化があったんでしょうかねえ。

 今まで、宮台氏の本は、数冊読んだだけで敬遠していたのですが、これを見て、また読んでみようかという気になりました。もともと、能力はすごくある人で、ただ、性格的にちょっとひねくれているのが玉に瑕、という感じだったので、一皮剥けたら、(さらに)すごい思想家になるかもしれません。

 本人が見たら、失礼に感じるかもしれないので、あえてトラックバックはしません。偶然見つかっちゃったら仕方ないけど。生意気ですみません。

追記: この記事にリンクしてくれた方(http://erka.jugem.cc/?eid=290)がいらっしゃったので、少々補足しておきます。その後、彼の著作を何冊か読み、丸激トークオンデマンドなどでも彼の話を何度か聞いたぼくの暫定的な結論は、やっぱりこの人の言うことは信用ならない、です(^^)。彼は結局いつも思いつきでもっともらしいことを言ってるだけで、しかも言うことがコロコロ変わります。それだけならまだしも、変わったことに対する自己批判がないから、彼の発言のどの部分を信用してよいかもわからない。

ぼくが丸激を見ているのは、他のメディアにはあまり登場しないゲストが出てくるからであって、宮台氏の見識を評価しているからでは残念ながらありません。彼の支持者は、いったい彼の発言のどこに価値を見出しているのか不思議でなりません。まあ、たまにはマトモなことも言いますが、それは彼でなくても言えるようなことばかりですし。そういう意味で、彼の言説に実用的な価値はほとんどないというのがぼくの現在の評価です。

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ご都合主義的伝統

 自民党の憲法改正案に「日本の歴史や伝統の明確化」を盛り込もうという話になっているらしいのですが、この「伝統」という言葉はどうも曲者で、かなりご都合主義的な使い方をされる傾向があるようです。

 たとえば、欧米の制度を取り入れるかどうかを検討する際に、それは日本の伝統に合わない、と言って反対する人は、伝統というものを、完全に理性的にはコントロールできない、暗黙知的なものとして捉えているわけで

伝統 > 制度

という立場に立っているわけですよね。

 逆に、憲法で伝統を明確化しようという人は、伝統は制度によって理性的にコントロールしうると考えているわけで、

伝統 < 制度

という立場に立っているはずです。

 ところが、いわゆる保守派伝統主義者の中には、この両方の主張を同時にしている人が少なくないようです。

 もうちょっと用語法を整理して、仮に、社会に昔から受け継がれてきた知の中で、理性では完全に制御できない暗黙知的な部分を伝統と呼ぶことにしたとすると、もちろん、実際には伝統に合った制度を設計するというのは大事なことだし、逆に、制度によって伝統が影響を受けるということもあります。

 しかし、制度が伝統の内容自体を直接規定するというのは自己矛盾であって、制度に規定された伝統というのは、もはや、ここで定義したような意味での伝統ではなく、純然たる制度にすぎなくなっているわけです。したがって、その採用の是非には、あくまでも制度的な検討が必要なはずです。

 もちろん、大雑把に伝統と呼ばれているものの中には、そういう暗黙知的なものだけではなく、理性的に分析可能な部分もあるはずなので、そういうものを制度に組み入れようとするのは必ずしも間違いではありません。ただし、それは、あくまで合理的に優劣を(伝統との適合性を含めて)検討した上で取り込む、というのでなければ意味がないのであって、伝統という言葉を、そういう検討をしないでごまかすための思考停止の道具として使うのはいかがなものかと思います。

 たとえば、「和をもって尊しとなす」は日本の伝統だから、争わなくても問題を解決できるような制度を作ろう、というのは論理としてもおかしくないのだけれど、日本人は「和をもって尊しとなす」と思わなくてはならない、なぜならそれは日本の伝統だからだ、というのは論理が転倒していて、伝統を守ることだけが自己目的化しているわけです。

 もっとも、伝統主義者の本音は、無理矢理

伝統 = 制度

にしてしまうことによって、理性的な制度によらず、無意識的な慣習だけに従って暮らす社会に回帰させてしまうことなのかもしれません。まあ、そんなことがいまさら可能だとも思えないので、そのプランにはなおさらのれませんが(^^)。

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四十にして…

 思想とか社会科学とかいうものに対して、前から不満に思っていたこととして、人間の経年変化みたいなものをうまくモデル化できていないということがあります。この歳になるとはっきるわかるのですが、人間は、歳をとるにつれ、肉体的にだけではなく、考え方も変わってきます。そして、その変わり方には、人によらず共通のものがかなりあると思うのですね。

 たとえば、テリー伊藤氏が何かの番組で「この歳になると、世のため人のためを考えることぐらいしか楽しみがなくなるんですよ」というようなことを言っていましたが、これは、たんなるカッコつけとか韜晦じゃなくて、年齢による心境の変化をわりと素直に表現した言葉なんじゃないかと思うんですよね。

 いわゆる「戦後民主主義」では、全体主義の反動として、「自分を大切に」ということを妙に強調した時期がありました。でも、そういう人権思想というのは、あくまで、社会システムを支えるための擬制であって、社会が個人に自己犠牲を強いては絶対にいけないけれど、個人が自分の意思で利他的な思想を持ち、利他的に行動するのは、それこそ勝手だと思うんですよね(^^)。だからそこには、社会思想と、個人がよりよく生きるための実存哲学の混同があったと思います。

 特に、若いうちは自分のことを考えるだけで精一杯の人も多いでしょうけど、歳をとってくると、自分の寿命にも先が見えてくるし、その寿命の範囲でできることもだいたい見えてきてしまうので、自分のことだけ考えていてもつまらなくなってくるんですよね(ホントだよ)。

 一時は、親の子供に対する干渉とかまで、「自分の欲望を他人に投影しているだけだ」みたい言って悪者視する風潮がありましたよね。でも、歳をとるにつれて、自分の人生とか将来とかを考えることが、欲望の対象として成立しにくくなってくるのは当り前だと思うんです。

 あるいは、老人になっても、将来に夢を持って前のめりに生きているひとを妙に持ち上げるような風潮もあったけど、本当にそんな生き方にそれほど普遍性があるんでしょうかねえ。むしろ、孫の喜ぶ顔が見たいとか、近所の掃除をして近所の人が喜ぶ顔が見たいとか、そういう方が普通なんじゃないでしょうか。

 だから、「自分の欲望として他人のことを考える」という気持ちの存在自体は認めてあげないと可愛そうだなと思うようになりました。

 三谷幸喜の「新撰組!」の一回目で、佐久間象山が「十代のうちは自分のことだけ考え、二十代になったら家族のことを考え、三十代になったら日本のことを考え、四十代になったら世界のことを考えろ」(細かいところはウロ覚えです)とか言うのを聞いたときには、これぞ名言と思いました。(ホントに佐久間象山が言った言葉なのか、三谷さんの創作なのかは知らないけど。)ぼくの実感としては、孔子の「四十にして惑わず」よりもよっぽど響く言葉です。

 だから、利己主義とか利他主義とか一律に切り分けるんじゃなくて、歳をとるにつれて考え方が変わるということを肯定する実存哲学みたいなものがあった方が、高齢者の精神衛生のためにもいいんじゃないかと思うんですけど(^^)。いかがでしょう。

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「金で買えないもの」はあるか

 まず、そもそもマーケットを設定することができないもの、つまり、法律とか倫理の面から、売買することの許されていないものがありますね。人身売買とか、売春とか。また、そもそも所有権自体が設定できないものも売買できないわけだけど、何に所有権を設定できるかというもの、結局、社会の合意によって決まるわけだから、ある種の倫理の問題だと言えます。

 たとえば、よく「人の心は金で買えない」と言うけれど、サービス業なんかでは、心のこもってないサービスより心のこもっているサービスの方が高く評価されますし、支払われる対価も一般に後者の方が多いですよね。つまり、サービス業のとっては、ある意味、心を金で売ることの方が美徳とされているわけです。だから、これはあくまで社会倫理の問題なんです。

(企業買収なんかでもそうで、株式を公開するということは、「どうぞうちの会社を金で買ってください」と言っているのと同じことなんですね。だから、公開企業の従業員は、「だれが株主になっても、その株主の利益のために働きます」という倫理観を持つことが前提とされているし、だからこそ、金を集めやすくなるとか、そういういろんな恩恵も受けられる。そうでなければ、客を選ぶ店とかと同じになってしまうわけで、それだったらわざわざ公開したり上場したりしないで、プライベート・カンパニーでやればいいじゃない? ということになってしまうわけです。(岩井さんの言うような、「法人資本主義的」な会社についてもちょっと異論があるのですが、それはまたいずれ。))

 つまり、「金で買えないもの」以前に、「金で売り買いすべきではないもの」というのがあるわけ。

 では、それ以外の「金で売り買いしてよいもの」は何でも買えるのか、というと、これも必ずしもそうではない。なぜかというと、たとえマーケットがあったとしても、実際に売買するかどうかは、所有者の自由だからです。

 特に、天然資源や大量生産品のように、誰から買っても大差ないものなら、特定の人が売りたくないと思っても、マーケット全体を探せば、誰か売ってくれる人が見つかる可能性が高いと言えますが、商品一つ一つに個別性のあるような芸術品とかになると、話は違ってきます。こういうものは、理論的にはマーケットが存在するといえますが、実際には、その所有者以外に売り手はいないわけだから、その人が合意しなければ買うことはできません。

 そういう意味では、「金で売り買いしてよいもの」の中にも、現実問題としては「金で買えないもの」も存在すると言えます。

 あ、これはあくまで一般論で、誰かを批判したいとかそういう意図はありませんので、念のため。(^^)

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フーコー的権力に勝つ方法

 表題には「フーコー的」と書きましたが、ここに書き留めておきたいのは、フーコー個人の考えに対する反論ではなく、ある種の文化決定論というか、個人の行動や思考は、その個人が属する文化によって決まる、というような考え方一般に対する反論です。

 思想家の中には、このような文化の力をかなり過大視する人もいますが、私には、文化の力が、個人がその影響から脱するのがまったく不可能なほど強いものだとは思えないのです。

 話を単純化するために、人間のかわりにロボットを考えて見ましょう。ロボットというのは、人間がプログラムしたものだから、その行動は完全に読めると思っている人がいるかも知れません。しかし、これは錯覚なのです。

 ロボットの知能のモデルとなるオートマトンには、行動が入力によって完全に決まる決定性オートマトンと、確率的なゆらぎがある非決定性オートマトンがありますが、私は、非決定性だから読めない、と言っているわけではありません。実は、たとえ決定性であっても、行動が読めない可能性はあるのです。なぜかと言うと、人間はロボットに対する入力を完全にコントロールすることはできないからです。

 ロボットと言うのは、パソコンのように、人間からだけ入力を受とっているわけではなく、自然界から直接さまざまなシグナルを受け取っています。したがって、この入力をすべて予測もしくはモニタできない限り、完全に行動を予測することはできないのです。このことは、ロボットコンテストなどを見ていれば、すぐ実感できると思います。

 これは、人間についても同じことであって、人間は、人間から発信された情報もたくさん受け取っていますが、自然界からの情報もそれ以上にたくさん受け取っています。そして、その自然界から受け取る情報は、一人一人みな違っています。したがって、どんなにフーコー的権力が強力であっても、それだけで個人の行動を完全に制御することはそれほど簡単なことではないのです。

(だからこそ、現在のロボットの多くは、工場のような人工的に管理された環境で使われているわけです、これが、惑星探査とかに使うと、行方不明になってしまったりすることがあるのはご存知の通り。)

 その傍証は、歴史の中からも見出すことができます。たとえば、かのガリレオは、アリストテレスの自然学という、当時の支配的な知の枠組みの根幹をなす言説である、落体の法則を否定したわけですが、彼は、レヴィ・ストロースのように、非西洋的な世界に行って何かを教えてもらったわけではなく、自ら実験することによってより現実に合った法則を発見したにすぎません。

 もちろん、彼がそういう実験を思いついたこと自体が、すでにパラダイムがシフトしかけていたことの現われである、という面もあるでしょう。しかし、そのようなパラダイムシフトに先鞭をつけたコペルニクスやティコ・ブラーエにしても、やはり、精密な観測に導かれて、パラダイムの呪縛から抜け出していったのです。むしろ、本当に当時の人々をしばっていたのは、ガリレオを宗教裁判にかけるような実体的な権力の方だったのではないでしょうか。

 そういう意味で、自分の五感で世界を観察し、自分の力で考えようとする人なら、誰でもフーコー的権力に勝てる可能性がある、と私は思います。

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「正しい日本語」は手段にすぎない

 いつの時代もそうなのかも知れませんが、最近また、「日本語の乱れ」が少し話題になっているようですね。

 言葉にはもともと、進化が必要という面と、共有が大事だという面の両面があって、言葉の問題というのは結局、この両面に向かうベクトルをどうバランスするかという問題だと思うのです。

 もちろん、言葉と言うのは、世の中の現象を記述する道具ですから、世の中の変化に合わせて変化させる必要があるのは当然です。その一方で、いまさらソシュールとかをひっぱり出すまでもなく、言葉というのは恣意的な名前にすぎないので、それが通じるのは、多くの人が言葉と意味の結びつきを共有しているということだけにかかっているわけです。したがって、共有を図る努力を継続しなければ、道具としての有効性も薄れてしまうんですよね。

 これは、ソフトウェアにも似たところがあって、機能はバージョンアップの度に増やしたいのですが、そのせいで以前のバージョンとの互換性がなくなってしまうと、既存のユーザーから見ればかえって不便になってしまうという問題があります。

 ソフトウェアの場合には、この問題を通常、上位互換性の維持という形で解決します。つまり、既存のユーザーに対して、新しい機能の恩恵を受けられない可能性はあるが、少なくとも、これまで使っていた機能が使えなくなることはない、ということを保証するわけです。そうすると、既存のユーザーから見ても、バージョンアップしても(料金以外に)損をする心配はなくなるので、後は、新機能がバージョンアップ料金に見合うかどうかだけで購入を判断できる。そうやって、ユーザーにできるだけスムーズに自分の意思でバージョンアップしてもらい、大部分のユーザーがついてきたことを見計らって、旧バージョンを廃止する、というやりかたをするわけですね。

 「どうせ言葉は変わっていくものだから」というような意見にやや不足していると思われるのは、このような共有を大事にする方のベクトルだと思うのです。

 ぼくが以前に紹介した「女子高生」というマンガを初めて読んだときにも、中に出てくる言葉がさっぱりわからなくて、インターネット上のコギャル用語集みたいなものを調べながら読まなければならなかったのですが、自分の若い頃の経験からしても、おそらく、喋っている方は、自分の言葉がそのように一部の人にしか通じないものである、ということをあまり意識していないと思うのです。

 実は、本当に問題なのは、「何が正しい日本語か」ということよりも、この一種の排他性というか、自分の言葉をより多くの人に正しく伝えたい、という意識の欠如だと思うんですね。

 もし、そういう意識があれば、自分の仲間内以外の人や、不特定多数の人に向かって話をするときには、より多くの人が理解できる言葉で話そうとするはずで、その結果、必然的に「正しい日本語」とされる表現を参照する必要もでてくるはずです。また、新しい言葉を導入しようと思ったときにも、性急に一人よがりでやらずに、多くの人がついてこれるかどうかを確認しながら、少しづつ導入しようとするはずです。また、そういう意識があれば、過去の言葉も、それぞれ時代の要求にこたえて登場し、歴史の淘汰を受けつつ生き残ってきたものなのだ、という事実を正当に受け止めることができるでしょう。

 逆に、日本語の乱れを批判する側にも、そういう意識があれば、仲間内の他愛ないバカ話にまでいちいちケチをつけて煙たがられるというようなこともなくなるでしょう。

 結局、進化と共有のバランスをとるために必要なのは、そういう意識なのであって、「正しい日本語」はそのための手段に過ぎません。その点を押さえておかないと、言葉の議論は不毛な議論になってしまうと思うのです。

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「べき」にもいろいろあるはず

  内閣府が 5 日付で発表した「男女共同参画社会に関する世論調査」によると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方が、初めて多数派になったとのことです。

 まあ、ぼくはどっちが多数派かにはたいして興味がないのですが、この手のアンケートでいつも気になるのは、「…べき」という質問が大雑把すぎやしないか、ということなんですよね。

 つまり、実際には、自分の家庭では、妻に仕事を持って欲しくないと思っているが、他所様の家庭に関してはどうでもいいと思っている人もいるだろうし、逆に、日本の家庭はすべてそうあってほしいと思っている人もいるはずなのに、この質問だとその区別がよくわからないからです。

 前者は個人的価値観ないし信条の問題であるのに対し、後者は社会倫理の問題ですから、この違いは社会政策を考える上でも重大はずなのですが、こういうアンケートを作る人は、そのへんの区別に無頓着な傾向があるようです。

 ぼく自身は、個人的価値観としても、社会倫理としても「妻は家庭を守るべきである」とはまったく思っていないのですが、仮に、個人的信条としてそう思い、それを実践している家庭があったとしても、別に勝手だと思うんですよね。

 なぜなら、世の中には、主婦としては非常に有能であるが、他の仕事にはあまり向いていないという女性もいるはずだし、逆に、仕事では非常に有能であるが、家事や教育に関してはまったく無能という男性もいるはずなので、そういう男女が協力し合う仕組みがあったほうが、社会のためになると思うからです。

 もちろん、主夫としては非常に有能であるが、他の仕事にはあまり向いていないという男性や、仕事では非常に有能であるが、家事や教育に関してはまったく無能という女性だっているかもしれないので、そういう男女がカップルになるもの、社会にとってはいいことかもしれません。

 こういう問題を考えるときに重要なのは、そもそも、社会倫理でしばる必要があることかどうかということなんですよね。つまり、社会現象には、倫理や法律でしばっておかないと、モラル・ハザードを起こして堰を切ったように悪い方向に流れていくような現象と、ほおっておいても、自然によい状態に均衡するような現象があって、前者については倫理をうるさく言う必要もありますが、後者については別にそうでもないからです。ぼくは、この問題に関しては、ほおっておいてもそんなに悪い状態になるとは思えないんですよね。

 もちろん、そういう性役割は選択可能なものなのだ、という意識を広める必要はあったと思うのですが、それが広まってしまえば、後はわざわざどっちかに強制する必要はないし、するべきでもない、というふうにぼくは思うのです。

 このへんの違いを意識した方がいい問題は、他にもいろいろあると思われるのですが、それはまたいずれ。

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民主主義のブートストラップ (イラクの選挙を見て)

 イラクの選挙の投票率が 60% 程度になりそうだとのことで、投票に行った人もテロで数十人亡くなっているし、スンニ・トライアングル地域ではほとんど誰も投票に来なかったところもあるそうなので、もちろん手放しでは喜べませんが、なんとか選挙を終えられたということや、生命の危険を犯してまで投票に来たイラクの人たちの勇気には、やはり敬意を表したいと思います。

 もっとも、これでブッシュ政権がますます頭に乗るのではないかと思うと、かなり複雑な気持ちなのは確かです。ただ、私たちは、心理的にはブッシュ政権のある種の無能さに救われている面もあって、ブッシュ政権がもっと有能だったら、もっと深刻な思想的な問題に直面していたのではないか、という気もするのです。

 人類の歴史を見ても、「正義」には、絶対的な正義がある、という考え方と、当事者が合意したものが正義である、という考え方の二種類があります。もちろん、合意の正義だって、当事者の絶対的な正義を求める心に根ざしているわけだし、絶対的な正義だって、当事者の合意がなければ効力を発揮しないわけですから、これはどっちの考え方が絶対に正しいというものではなく、相補的なものでししかありません。ただ、歴史の流れを見ると、合意による正統性というものをより重視する方向に進んでいることは確かだと思うのです。

 合意による正義は、まず、法による支配と言う形で成立したと思われますが、現実的に法秩序を維持するためにはなんらかの権力が必要です。そして、この権力が腐敗すると、合意の正義と、各個人の思う絶対的な正義が乖離するという現象が起こります。

 この乖離を是正しようと思ったときに、権力者が諫言とかを聞いてくれればいいのですが、多くの場合には、法によって許されている手段の範囲内でそれができるとは限らないわけです。つまり、正統性の基盤自体を変更しようとすると、正統化できない手段が必要になる、というパラドックスがあって、だからこそ、かつての政権交代の多くは、武力という非道徳的な手段で行われてきたのだろうと思うわけです。

 民主主義というのは、投票という手段を導入することにより、このような政権交代の手段自体までもを正統性の枠内に取り込んで、合意による正義をもう一段階徹底することに成功した制度なわけで、ある意味、この制度の登場によって初めて、あらゆる武力闘争を間違っていると言える道が開かれたのではないかと思うのです。

 ただ、この民主主義にも弱点が残っています。それは、今現在民主主義ではない社会をどうやって民主主義に変えられるか、ということです。民主主義を成立させるには、個人が自分の意思を自由に表明できる社会が必要ですが、このような社会は、単に支配権力がなくなれば成立するというようなものではありません。

 実際に人間社会を何も権力のない状態でほおっておけば、ちょっと腕力の強いヤツとか人気のあるヤツとかが、ヤクザの親分みたいに勝手にどんどん権力を作ってしまうのであって、そういう細かい差異を無視して、あらゆる人間を無理矢理平等とみなすような特殊な権力によって、こういう正統化されない権力を強引に駆逐しなければ、民主主義は成立しないのです。つまり、民主主義を成立させるためには、ある種の倫理の相転移みたいなものが必要だということです。

 フランス革命なんかだって、自分を直接支配している領主は倒してもよいけれど、他人のことにはちょっかいを出すな、みたいなことを言っていたら、成立しなかったはずで、みんなで協力して支配階級を打倒したからこそ成立したわけですね。だから、革命を起こす権利はその民族だけにある、みたいな発想は、ある意味、同じ民族は殺して/助けてもいいけど、他の民族は殺して/助けてはいけないという、民族主義あるいは民族差別みたいな論理を孕んでいるわけで、必ずしも普遍主義ではないわけです。

 そんなわけで、この深刻な矛盾をどう解決するかというのは、原理的にかなり難しい問題だと思うのです。しかし、だからと言って、ブッシュ政権のような方法には問題を感じる人が多いでしょう。だとすれば、私たちはなおのこと、この矛盾を解決する方法を真剣に考えなければならないと思うのです。

 より正統性のある方法として思いつくのは、国連で罰則つきの人権条項みたいなのをどんどん増やしていって、加盟国に民主化をじわじわと強制していくというやり方です。国連への加盟というのは、強制ではなく国家の意思で行われるものなので、この方法はその意味では正統性のある方法だと思います。ただ、実際には、中国やロシアのような国が拒否権を発動する可能性もあるし、国際的村八分を受けながら延々存続している国もありますし、制裁といったって、国家に対する制裁の被害を実際に受けるのは、守るべき当の国民だったりするし、いろんな問題があることは否めません。

 ただ、このような問題に絶対的な切り札はないと思うので、少しでもより穏健かつより正統性のある方法を積み重ねて、より相転移が起こりやすい状態に持っていくしかないと思うのです。そういう意味では、私たちもブッシュ政権をバカにしてばかりはいられません。

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e メールはホントに不安か?

 また、「確率的発想法」の話なんですけど、この「コモン・ノレッジ」の説明ってちょっとおかしくないですか?

 たとえば、電子メールで誰かと待ち合わせの約束をするとき、単に待ち合わせ場所を伝えるだけでなく、「「「「相手が待ち合わせ場所を知っている」ということを自分が知っている」ということを相手が知っている」ということを…」というふうに、無限のメタ認識が成立しないと、その約束は「コモン・ノレッジ」にならない、っていうんですけど。。。

 実は、こういう話は人工知能論とかでもよく出てくるんですよね。たとえば、ゲームのキャラの思考アリゴリズムを設計するときに、敵キャラの動きを読んで、それに応じて動くようなアルゴリズムにする、っていうのはよくあることです。ここで、どうやって敵キャラの動きを読むかを考えたときに、敵キャラの思考アルゴリズムがわかっていれば完全に読めるはずなのですが、その敵キャラの思考アルゴリズムも、相手(つまり自分)の動きを呼んでそれに応じて動くというものだったらどうなるか。

 実際にこのアルゴリズムを動かすと、敵キャラの動きを読む( 自分の動きを読む ( 敵キャラの動きを読む ( … ))) という無限の再帰呼び出しになってしまうわけです。

 ただ、こういう場合、いくら計算が速くても、あるいは、有限の時間内に無限回の計算ができたとしても、このステールメイトが解決する保証ははないような気がするのですが。

 この待ち合わせメールの例でも、両者ともが、「相手が確実に待ち合わせ場所に来るという確信がなければ待ち合わせ場所に行かない」という意思決定方式をとっていて、なおかつ、お互いが相手がそういう意思決定方式をとっている、ということを知っているからこうなるわけで、数列で表せば、

Xn = Xn-1

みたいになっているということでしょう。だから、X0=「行く」なら

Xn = 行く、行く、行く、行く、行く、行く、…

lim Xn = 行く

になるけど、逆に、X0=「行かない」だったら、

Xn = 行かない、行かない、行かない、行かない、行かない、行かない、…

lim Xn = 行かない

になるだけで、別に、無限に繰り返したからって、どう転んでも「行く」方には収束しないと思うんですが。

 だから、これが「行く」方に収束するためには、どちらか一方でも、「相手が来ようがこまいが、行くといった以上は待ち合わせ場所に行く」とか、「相手が来るといったら、それをそのまま信用する」とかいう意思決定方式をとる必要があって、そうすれば、メールのやりとりは数回ですむはずです。

 その後の倒産の例もそうで、別に公的情報かどうかではなく、情報を信用するかしないかの問題じゃないのか? という気がちょっとするのですが。

 たぶん、わかりやすく説明してくれようとして、その分厳密さがなくなっているだけだと思うんですけど、やっぱり、オーマン氏の原典を読まないとだめなのかな(^^)。

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歴史学ってなんだ?

 先日、例の南京大虐殺の問題について考えようとして、自分が、歴史そのものはまだしも、歴史学の方法論については、まったく無知であることに気づきました。

 それで、歴史学の基礎を簡単に学べる本はないかと探していたら、「ライブ・経済学の歴史」の田中直樹ならぬ小田中直樹さんが、「歴史学ってなんだ?」という格好の本を書いてくれていたので、正月休みを利用して読んでみました。

 結論から言えば、たいへん親切で読みやすい本でした。(構造主義からポストモダンの影響というあたりの議論は、予想通りという感じで、個人的にはちょっと食傷気味でしたが、これはもちろん入門書には欠かせない記述ですから、著者の責任ではありません。)

 しかし、史実を本当に明らかにできるのか、という点については、結局、歴史家の間でも合意に至っていないらしく、少し拍子抜けしました。もっとも、そういうことを変に高尚ぶらずに率直に書いている点が、この本のいいところであり、この著者の美点でもあると思います。

 また、この問題に対する著者自身の意見としては、合意の形成を重視する「コミニュケーショナルに正しい認識」という解答が提示されており、これには全面的に賛成です。

 ただ、南京大虐殺のような問題を考えると、著者の言うように「どうもあったというのが今のところ通説らしい、というだけで十分」というわけにはいかなくなります。なぜなら、南京大虐殺のいわゆる否定論者という人たちの多くは、まったく殺人がなかったなどと言っているわけではなく、「虐殺」と呼べるような国際法違反の行為は、他の国の軍隊などに比べて特に多いわけではなく、したがって「虐殺」と呼ぶべきではない、と主張しているにすぎないからです。

 したがって、この問題を解決するには、さらに、なんらかの量的評価とか、それに対する価値判断が必要になってきます。(そのようなフレームワークについても、自分なりの試案がまとまりつつあるので、いずれ時間のあるときにまとめたいと思います。)

 また、歴史の解釈についても、著者は、「間違っていない解釈の間では優劣はつけられない」と言っていますが、私は、間違っているとは言えないが、弱い相関しかないものと、強い相関のあるものとの間でも、やはり優劣をつけるべきではないか、という気がします。この考えが正しいとすれば、ここにも量的評価というものが必要になってくるはずです。

 とまあ、いろいろと文句はつけましたが、現在の歴史学の水準を飾らずに示してくれたという点で、非常にありがたい本でしたし、中で紹介されている歴史書も、面白そうな本ばかりで、非常に勉強になったことは間違いありません。

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