ネオ・フェミニスト映画

Neo-Feminist Cinema: Girly Films, Chick Flicks, and Consumer Culture 著者はオタゴ大学で教鞭を取るれっきとしたフェミニスト。オタゴ大学という名前は恥ずかしながら初耳だったが、Wikipedia によると、ニュージーランドでも一二を争う研究水準の大学らしい。

 本書の多くは、いわゆるガーリー・フィルム(girly film)の分析に当てられているが、ただ漫然と分析しているわけではなく、確固とした意図がある。

 それは、俗に「ポスト・フェミニズム」と呼ばれる社会風潮を、「ネオ・フェミニズム」という思想として位置づけ、その思想がガーリー・フィルムの中にどう現れているかを調べることだ。

 ポスト・フェミニズムという用語に明確な定義はないが、フェミニズムが社会運動として最盛期を過ぎて以降の社会風潮を指す言葉として使われている。アカデミックなフェミニストにとっては、フェミニズムの本来の理想を忘れ、そのスローガンを好き勝手に解釈していいとこ取りしている一般女性に対する、苦々しい心情のこもった言葉でもあるようだ。

 しかし著者は、ポスト・フェミニズムを単なるフェミニズムに対する反動としてとらえるのではなく、ネオ・フェミニズムと言うべき確固とした思想として認めるべきだと言う。ネオ・フェミニズムは第二波フェミニズムとほぼ同時期に生まれた思想であり、第二波フェミニズムの理想の(すべてではないにせよ)一部を継承しているという。

 著者の言うネオ・フェミニズムの根幹にある思想(ネオ・フェミニスト・パラダイム)は以下のようなものだ。

  • 女性の経済的自立の重視
  • 女性の消費による自己実現の肯定
  • 女性性の肯定
  • 女性の性的快楽追求の肯定
  • 家制度の相対化
  • 女性同士の友情の重視
  • 社会変革よりも、個人主義的な自己実現を重視

 これらは現代の一般人からは割と当たり前に感じられると思うが、アカデミックなフェミニズムの理想とは必ずしも一致しない。

 しかし著者は、現実の一般女性の要求に応えて来たのは、第二波フェミニズムよりもネオ・フェミニズムの方だと主張する。もちろん、ネオ・フェミニズムにもさまざまな問題点があり、そこにこそアカデミックなフェミニストの出番があるとも言っているが。

 著者によると、そもそもガーリッシュな女性という存在自体が、ネオ・フェミニズムの産物なのだという。家父長制下での女性は、常に娘・妻・母といった家制度内での役割を強制されていた。そこから解放されることにより、初めて自立した個人としての女性が生まれた。妻や母といった役割に縛られない女性は、いつまでも思春期のように性的魅力や性的快楽を追及してよいことになった。その結果、生物学的年齢から切り離されたガーリッシュな女性というものが誕生したというのだ。だからこそネオ・フェミニスト映画は必然的にガーリー・フィルムになるというわけだ。

 著者がネオ・フェミニズムのキー・パーソンとしてかなりの紙幅を割いているのが、ヘレン・ガーリー・ブラウン(Helen Gurley Brown) という人物。私は恥ずかしながら知らなかったが、"Sex and the Single Girl" というベストセラーの著者であるばかりか、雑誌「コスモポリタン」の編集長を 30 年以上も勤め、世の女性に多大な影響を与えた人物だという。

 そう聞くと私などには、フェミニズムにとって極めて重要な人物に思えるのだが、実はアカデミックなフェミニストがこの人物に注目しだしたのは割と最近のことらしい。私が所有する二冊のフェミニズム辞典(12)にも載っていないし、Google Books や Google Scholar に "Helen Gurley Brown" "feminism" などと入力して検索しても、出てくるのは最近の文献ばかりである。それじゃあアカデミックなフェミニストと一般女性の意識が乖離するのも無理ないよ、と私なんかは思ってしまうのだが。

 著者の来歴もなかなか興味深い。著者はカリフォルニアの出身なのだが、両親ともフェミニストで、フェミニストにとって「有害」なポップ・カルチャーから隔離されて育ったのだそうだ。 そして研究者になってから研究対象として初めて本格的にポップ・カルチャーに接したという。

In the course of researching popular culture for women as part of my doctoral thesis in the 1980s, I was shocked to discover not the downtrodden housewives that I had been led to expect by feminism, but a group of lusty, independent females determined to have fun, to succeed and to develop a healthy bank account, while masquerading behind a girlish demeanor. Popular culture generally, and women's magazines in particular, were not lamenting woman's fate - rather there was a mood of celebration and heated anticipation about what the present offered and what the future might bring.

(拙訳)私は、1980 年代に博士論文の一環として女性向けの大衆文化を研究する過程で、 フェミニズムによって予期していた虐げられた主婦ではなく、少女のような振る舞いに隠れながら、人生を楽しみ成功し健全な貯蓄を育てる決意に満ちた、自立した活力ある女性を発見して衝撃を受けた。大衆文化全般、特に女性誌は、女性の運命を嘆いてなどいなかった。むしろそこには、現在が与えてくれるものや、未来がもたらす可能性に対する、お祝いの気分や過熱した期待があった。

 ではフェミニズムやポップ・カルチャーに対するアンビバレンツな感情を表明するのかと思うとそうでもなくて、以後なに食わぬ顔で価値中立的な分析を続ける。そして最終章まで来てから、堰を切ったようにフェミニズムの現状に対する批判の声を漏らすのだ。

A further strand of feminist analysis of post-feminism is typically haunted by the specter of second-wave feminism that failed to fulfill its promise to deliver a utopian existence to those who embraced its message; such analyses tend to produce a critique of the form of lament. Subtending the feminist lament is the lost dream of feminism that was whole, unmarred by the dirty business of everyday life and by the bitter and sectarian debates that have marked feminist inquiry since its inception.

(拙訳)一般に、フェミニストのポスト・フェミニズムに対する分析は、その主張を受け入れた人々に理想郷をもたらすという約束を守れなかった、第二波フェミニズムの亡霊にとりつかれている。そのような分析から生まれる批評は嘆き節の形になりがちだ。フェミニストの嘆き節に潜んでいるのは、日々の汚れた仕事や、その探求が始まったときからフェミニストを悩ませてきた激しい党派的な議論によって傷つけられる前の、失われたフェミニズムの夢である。

 だからひょっとすると、最初から批判ばかりでは同業者に読んでもらえないと思って、わざとこういう構成にしたのかもしれない。邪推かもしれないが。

 本書で論じているのは、主に以下のような映画である。

 フェミニズム批評というと、教条的にないものねだりの難癖をつけるような批評を連想する人も多いかもしれない。確かに本書にも「主人公が目指すのは、あくまで消費社会の中での個人的な自己実現であって、社会変革ではない」みたいな分析が頻繁に出てくるが、だからその作品が駄作だとか決め付けるのではなく、あくまで事実として指摘するだけという姿勢を貫いている。だから、このへんの作品が好きな人でも、それほど不快にならずに読めると思う。

 著者は「プリティ・ウーマン」をネオ・フェミニスト映画の元祖としている。女性の自立を扱った作品なんて、もっと前からあったじゃん。それこそ連続テレビ小説とか…、と一瞬思ったのだが、著者がこの作品を元祖とするには理由がある。一つは、主人公が娼婦であることで、これが処女性・純潔性から解放された性的快楽の肯定を意味する。もう一つは、主人公が着飾って「変身」することで、これが消費による自己実現を意味する、のだそうだ。

 他の映画もそれぞれメルクマールとしての意味がある。「ロミー & ミッシェル」は恋愛より女性同士の友情を重視した映画、「キューティ・ブロンド」は恋愛より仕事を重視した映画、「メイド・イン・マンハッタン」は人種問題を取り入れてヒスパニック系に訴えようとした映画、「プラダを着た悪魔」はいわゆる「ファッション・フィルム」の代表、「セックス・アンド・ザ・シティ・ザ・ムービー」はいわゆる「イベント・フィルム」の代表、「恋愛適齢期」は中年女性の少女性を肯定した映画、ということになる。

 では日本映画でネオ・フェミニスト映画と言える作品はなんだろう、と考えて真っ先に思い浮かんだのが「下妻物語」。この映画をフェミニズム的な観点からくさしていたフェミニストの人がいたけど、この著者の言うネオ・フェミニスト・パラダイムからすれば、まさに王道を行くような映画だろう。女性性の肯定、経済的自立、消費による自己実現、女性同士の友情、すべてある。性的快楽の肯定の要素は薄いけど、篠原涼子演じる桃子の母親が一応その役回りだとも言えるだろう。

 私はもともと著者の言うネオ・フェミニズムに近い考え方なので(微妙に違うところもあるが、その点についてはこのブログに何回も書いたので省略)、本書を読んで考えが変わることはほとんどなかったが、フェミニズムの現状やフェミニストが現代の文化をどう見ているかを確認するという意味では役に立った。また、分析の過程で出てきた映画業界やファッション業界の解説は、その方面に疎い私にとっては、素直に勉強になった。このへんの感想は、読む人の思想や知識によって違ってきそうだ。

 いずれにせよ、一般女性の文化を上から目線で切って捨てるのではなく、正面から受け止めようとするフェミニストが現れ始めたことは、フェミニズムの将来にとってもよいことだと思う。

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一人称を「私」に変えた理由

 気づいた人がいるだろうか。このブログの一人称が、最近「ぼく」から「私」に変わったことを。これはいつもの気まぐれではなくて、かなり自覚的な方針変更である。その理由は二つ。

 一つは、ネット上での表現の問題。有名人やプロと無名の素人が平等に発言できるのがネットの特徴だが、この両者の表現のスタイルは違ってしかるべきだと、私は長年考えてきた。

 前にも書いたが、無名の素人の表現というのは、例えるなら、家の周囲を掃除したり水を撒いたりするようなものだと思う。なのにネット上では、掃除をする以上は全国掃除大会の優勝を目指すべきだ、みたいな議論が平気で行われていたりする。これは私から見ると、ずいぶんと異様で奇怪な現象に見える。

 では素人の表現はどうあるべきか。重要な点の一つとして、文脈への依存性があると思う。

 有名人やプロの表現は、表現者のアイデンティティという文脈に依存している。有名人やプロの言ったことは、内容とは必ずしも無関係に「あの人が言ったことだから信じる/信じない」という受け止め方をされるし、表現者自身もそういう受け止め方をされることを自覚的に引き受けている。

 しかし無名の素人はそうでない。無名人の表現は、その人個人のアイデンティティという文脈とは無関係に、内容だけで判断される(コテハンや筆名はとりあえず除外)。とすれば、無名人の表現において、アイデンティティを文脈として提示することに、必ずしも意味はないはずだ。

 そう考えると、「ぼく」という一人称には、「私」と比べると、明らかに余分なアイデンティティが情報として加わっていることが気になる。

 まず性別。最近は「ぼくっ娘」などというのも居るようだが、「紙切れなんかに私たちの未来は決められないぜー!」なんて言葉遣いをする田井中律ちゃんでさえ、一人称は「私」なのだ。だから「ぼく」という一人称が、現代日本において男性を連想させるというのは否定しがたい事実だ。

 そして年齢。これも団塊世代以降は、年配になっても「ぼく」を使い続ける人が増えたけれど、どちらかと言えば、若者もしくは若ぶりたい年寄りを連想させるのも事実だろう。(ちなみに、言語学専攻で修士を取った友人は、「わし」と言ってる奴は若い頃から「わし」だったに決まってる、と言っていたが、学会の通説なのか個人の説なのかは不明。今度詳しく聞いてみたい。)

 さらに言えば、「私」がフォーマルな一人称であるという教育を受けているにも関わらず「ぼく」を使い続ける心性から、反抗期的な幼児性やムード的な反社会性を感じ取る人すらいるかもしれない。

 つまり、「ぼく」という言葉を使った瞬間に、その発言には、特定の年代の男性の意見であるという余計な色がついてしまい、下手すると発言者の性格まで推測されてしまうのだ。

 もちろん、文脈からまったく独立した表現などというものは、存在しない絵空事だし、文脈から独立すればするほどよい、というわけでもない。逆に文脈に意識的に頼ることによって効果を挙げている表現も多い。

 しかし、自分の表現がどのような文脈に依存しているかには自覚的でありたい。そういう自覚こそが表現のスタイルに結びつくという事が、この歳になってようやくわかってきたのだ。上でも「田井中律」などというハイ・コンテキストな固有名詞をいきなり放り込んだりしているが、そういう遊びも、思いつきで自堕落にやるのではなく、意識してやりたいのである。

 無名なのに一人称が「ぼく」や「オレ」だったりするのは、表現スタイルとしてちぐはぐなのだ。名を伏せているくせに、なんでわざわざアイデンティティをアピールしているんだよ、という感じ。端的に言えば「寒い」。無名の表現にも、読み人知らずの和歌や二条河原の落書のような美学が欲しい。

 もう一つは、性の表現の問題。性の表現には TPO が重要だというのは、このブログに何度も書いた主張である。簡単に繰り返すと、性の表現は常に善でもなければ常に悪でもない。公的な場では性の表現を抑制し、私的な場では自由に表現するというような、使い分けが大事だ、と言ってきた。

 しかしよく考えると、この主張と「ぼく」という一人称は整合していない。この論法で言えば、公的な場では性を連想させない「私」という一人称を使い、性を連想させる「ぼく」を使うのは私的な場に限定すべき、ということになるはずではないか。考えてみれば当然だが、私はつい最近までここに考えが及ばなかった。反省せねばなるまい。

 検索してみると、斉藤美奈子さんが似たようなことを書いていたらしい。原文を読んだわけではないのでこれ以上の論評は避けるが、おそらく斉藤さんの主張はかなり正しいのだろう。このブログでは斉藤さんを酷評したこともあるが、そんなこととは無関係に、正しいものは正しいと認めたい。当たり前だけど。

 念のために言っておくが、私は、あらゆる場面で「ぼく」より「私」を使う方が正しい、と言っているわけではない。私は今後も、私的な場では「ぼく」を使い続けるだろう。ただそれは、無名の素人の表現や公的な場での表現にはふさわしくない、と言っているだけである。

 このように文脈を使い分けるという意識が芽生えたのは、おそらく、年齢に関係があるんだと思う。

 子供にはおそらく文脈の意識はないし、文脈を識別する能力すらないかもしれない。子供の前には、あらゆる情報が同一線上に、あるいは、大人とは違う距離感で並んでいる。大人には理解できないものが子供に流行したりするのも、おそらくそのせいだ。

 「そんなのかんけーねー!」が一過性の流行なのか長期的に残る文化なのか、子供には区別がつかない。もちろん、大人だってすべて正確に予想できるわけではないし、私だってよく間違えるけれど。

 女子学生の超ミニスカートにも同じことが言えるかもしれない。彼らにはおそらく、自分の服装がどのような文脈で解釈されるかという意識がない、もしくは、大人とは違う文脈で解釈しているのだろう。その証拠に、大多数の女子学生は、大人になるとミニスカートを止めてしまう。もちろん、だからと言ってリベラルぶって野放しにしていいというわけではなく、だからこそ大人の世界の文脈を辛抱強く教えるべきだと思うのだが、これはまた別の話。

 私がこの歳まで「ぼく」という表現を使い続けた背景にも、無自覚な自堕落な相対主義みたいなものがあったと思う。つまり、一人称なんてどうせ時代や場所によって変わるんだから、こだわったってしょうがない。使いたいものを自然に使えばよい、みたいな発想だ。

 故・星新一氏は、自分の文章が古びるのを避けるため、時代を感じさせる言葉を極力使わないようにしていた。たとえば、貨幣価値だって変わる可能性があるから、「100 円」を「安い金」に書き換える、なんてことすらしていたそうだ。

 正直この話を初めて聞いた頃は、あまり共感できなかった。どんなに頑張ったって、今の古文や古英語みたいになってしまえば自然には読めなくなるんだし、そもそも、死後の読者のことなんてどうでもいいじゃん、とか。

 でも最近になってようやく少しわかるような気がしてきた。たぶん、星氏が求めていたのは、死後の名声なんかじゃないのだ。少しでも文脈依存性をなくし普遍性に近づくということなんだ。

 前にもちらっと書いたことがあるが、最新の流行はすべて「新しい」と思われがちだ。でも実は、それが一過性の流行で終わってしまうなら、新しくはないのだ。だって、未来に残らないのだから。それは絶えず「過去」に過ぎ去ってしまう「現在」の一部でしかない。未来に残る普遍性のある変化こそが、本当に新しいのだ。ここに保守と革新の接点がある。

 古いものすべてを盲目的に有難がっているような保守や、新しいものすべてを盲目的に有難がっているような革新は、実はどうでもよい。未来に残る普遍的な価値を求めているのであれば、保守と革新に本質的な差はない。探す方向が違うだけだ。

 そういう意味で、「私」と「ぼく」の使い分けは、単なる伝統回帰でもないし、一過性の流行への追従でもない。それを超える普遍性があると、私は考える。

 たぶんこういうことは、もっと頭のいい人なら、別に他人に教わらなくても自分で考えてもっと若いうちから実践していることなのだと思う。そのへんの成長が私は異様に遅いということは、自分でもわかっている。これを読んだ若い人は、私のような年寄りにならないように、若いうちからそういうことを考えておくとよいと思う。

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楽観主義バイアス - 不合理に楽天的な脳

The Optimism Bias: A Tour of the Irrationally Positive Brain  著者(現職母校)は心理学と神経科学の専門家で、心理学実験をしながら脳を fMRI で観察するみたいな研究が得意らしい。邦訳はまだないようだ。

 著者が言いたい事は、前書きに集約されている。 つまり、

  1. 人間は生まれつき楽観的である
  2. その楽観性は人間にとって必要である。

 この本で言う「楽観性」は、単に陽性だとか外向的だとかいう意味ではない。未来を予想する際に、自分にとって良い事が起きる確率を、実際の確率よりも高く見積もるという、極めて具体的な性質を指している。このような性質は、将来計画の精度を下げるので、一見するとデメリットが大きいように思える。しかし、それでも楽観性は人間にとって必要だというのが著者の主張だ。

 これを読んで私が即座に連想したのは、故・戸田正直氏の「感情―人を動かしている適応プログラム」という本。初めて読んだのは 20 年以上も前だが、今でも私が影響を受けた本ベスト10ぐらいには入る本である。

 戸田氏の本は、簡単に言えば、感情の合理性を主張した本である。感情というのは理性に比べて不合理だと思われがちだが、感情だって進化の結果獲得したものであるから、本来は環境に適応したものであった。ところが人類は、進化が追いつかないほど急速に環境を変化させてしまったので、現代では感情は不合理になってしまったというのだ。このような感情の合理性を、戸田氏は「野生合理性」と呼んだ。

 こういう発想は、現代ではそれほど珍しくもないのだろうが、当時はまだ、理性=合理・感性=非合理みたいな近代主義的な通念がまかり通っていたので、この発想の転換にはかなりの衝撃を受けた。

 最近の行動経済学なんかでも、人間は不合理だ不合理だと言い募っているようだが、それだけではさほど面白くない。そういう不合理もメタレベルでは合理的であるというモデルが構築できないとあまり意味はないと思うし、そのへんが行動経済学と進化心理学の接点になるんだろうと思う。

 個人の効用最大化みたいな直感的な合理性と、進化論的なメタレベルの合理性がどういう関係になっているのかを、対象化して認識することは、個人の生き方にとっても、社会のあり方にとっても、少なからぬ知見を与えることだろう。

 そんなわけで、この前書きを読んだ私は、かなり期待して本文を読んだのだが、その期待は半分満たされ半分裏切られた。確かに、前者の「楽観性は生まれつきのものである」という主張には十分な証拠が提示されているが、後者の「楽観性は人間にとって必要である」という主張は必ずしも説得的ではない。

 なぜかと言うと、楽観性が有益な例は多数挙げられているけれども、それはあくまで単発的な例であって、体系的にモデル化されていないからだ。たとえば、ストレートを待てば7割の確率でヒットを打てるが、カーブを待てば3割の確率でヒットを打てるというとき、カーブを待っていてヒットを打った例ばかり挙げられても、それだけではカーブを待つ事が合理的だとは言えない。

 確かに、楽天的な人間の方が健康で長生きするというような統計データも示されているが、それがどういうメカニズムによるものかは説明しきれていない。楽天的でないと不安とストレスで病気になるからだ、みたいな説明もあるが、それを言うなら、そもそもなぜ人類は不安やストレスで病気になるような生物に進化したかを問わなくてはならないだろう。

 もし著者が、「感情」でいうところの「野生合理性」みたいなモデルを(仮説でもいいから)提示できていれば、この本はもっと哲学的なインパクトを持てただろう。そう考えると多少物足りないところはある。

 とは言え、著者が提示しているさまざまな事例は、それだけでも十分興味深く考えさせられる。巻末の参考文献を見ると、2000 年以降の論文が結構多いので、そう感じるのは、必ずしも私が無知なせいだけではないと思う。

 例えば「楽観的な鳥」の話。「楽観的な鳥」というのが本当にいるのだそうだ。鳥が楽観的なんてどうやってわかるのかと思うが、それを調べる巧妙な実験があるのだ。さらに面白いのは、同じ種の鳥でも住む環境によって楽観性は違うのだという。なんと、幸せな環境の鳥は楽観主義者になり、不幸せな環境の鳥は現実主義者になるのだそうだ。「貧すりゃ鈍す」は鳥にすらあるということらしい。

 あるいは、過去の記憶と未来の想像には同じ脳の回路が使われているという話。記憶にとって海馬が重要な役割を果たしているのは有名だが、海馬を損傷すると、過去の記憶ができなくなるだけでなく、未来を想像することもできなくなるのだそうだ。

 私は、保守派と革新派は実は思考パターンはよく似ていて、革新派が未来に理想を求めるのに対し、保守派は過去に理想を求めているだけだ、みたいなことを考えたことがあるので、このあたりはすごく腑に落ちる話であった。

 だから、特にこの分野に詳しくない一般の人にとっては、こういう事例を読むだけでもある程度楽しめるのではないかと思う。

 私自身もいろんなことを考えさせられた。私はどちらかと言うと、物事を正確に表現しようとするあまり他人の意欲に水を掛けてしまうタイプなので、少し反省すべきかと思ったり。先日の津波で逃げそこなった人たちについても、○○バイアスとかさんざ言われていたけど、そういうバイアスもそう簡単に不合理とは断定できないのではと思ったり。原発事故の際にも、楽観論ばかり主張した学者が後でさんざ批判されていたけど、(もちろん批判すべきところは多々あろうけど)ある程度の楽観性は必要だったんじゃないかと思ったり。

 結論としては、贅沢を言えば多少詰めの甘いところはあるものの、いろいろ考える材料を与えてくれたという意味では、読んでよかったと思える本であった。

 文体は学者とは思えないほど口語的でキビキビしている。英語を読みなれていない人にもお勧めできる文体である。ただし、不必要なエピソードで水増ししているような感じもあって、飛行機事故やバスケットボールや 9.11 やヒットラーのソビエト侵攻やシドニーのオペラハウスの話をあんなに長く書く必要があるのか、という気はちょっとするが、それもご愛嬌で済む範囲だろう。

 

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コメントしないという美学

 ネット上によく見られる言動で、前から醜悪だと思っている事が一つある。

 社会の変化が激しく予測の難しい昨今、社会的評価の高かった人物や団体の評価が、突然転落することは珍しくない。我々はここ十年そういった例を数え切れないほど見てきた。 したがって、自分がブログなどで高く評価していた相手の社会的評価が、突然転落することも珍しくない。

 そういうとき、今まで自分が評価していた相手を、口を極めて罵り出す人がいる。これが実に醜悪だと思う。

 なぜ醜悪なのか。そもそも批評という行為には、相手のため、社会のため、自分のためという三つの側面があるが、そういう罵倒は主に自分のためでしかないからだ。

 そのような相手の社会的な評価は、すでに十分下がっているので、自分がそれに賛同しても、屋上屋を架すことにしかならない場合が多い。つまりたいして社会のためにはならない。

 なのにこれ見よがしに罵倒して見せるのは、自分のためなのだ。私はこんな奴の仲間じゃありませんよ。一緒にしないでください。迷惑です。エンガチョ。

 罵倒の言葉が過剰になりがちなのは、そういう利己的な動機を無意識的に自覚していて隠そうとするからだろう。私は自分の評価なんか気にしていません、あくまで正義感からです、とアピールしたいわけだ。実に醜悪である。

 私自身も、このブログで高く評価した相手が、後で犯罪者になったり、評価できない仕事をしてしまったり、過激な思想に染まったり、トンデモな主張をしだしたり、ネットで喧嘩を売りまくって総スカンに合ったり、という経験をしてきた。

 このブログは過疎ブログなので、そんな人は多くないと思うが、私がそういう相手に対して今どう思っているかが気になる人も中にはいるかもしれない。

 しかし、私は必要がない限り、そういう相手についてわざわざコメントはしない。そういうコメントは醜くて汚くて卑しいと思っているからだ。

 私がそういうことを気にするようになったのには、きっかけがある。

 かれこれ 20 年ほど前であろうか。芸能人の「ホモ疑惑」が話題になったことがある。そのとき、ある芸能人はわざわざ記者会見を開いて「ホモ疑惑」を否定したのだ。

 表向きは、自分がゲイではないという「事実」を発表しただけかもしれない。しかし、そのためにわざわざ記者会見をすること自体が、ゲイに対する差別的なメッセージを発していた。

 つまり、言っている内容自体は間違っていなくても、あえてコメントするという行為自体がネガティブなメッセージになることがあるのだ。しかも内容自体は間違っていないので、形式的には差別ではないという言い訳が成り立つわけである。実に卑劣な行為だ。

 人の倫理や美学は、コメントの内容だけでなく、あえてコメントするという行為の選択にも現れるということは、そのとき学んだ。 

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政治はバイナリサーチ

 政治に関して、長年抱いていた素朴な疑問が一つある。それは、なぜ政治の世界には必ず右翼・左翼とか保守・革新といった二項対立が存在するのか、ということだ。素朴すぎて唖然とした人もいるかもしれないが、よく考えると結構不思議なことだとは思いませんか。

 もちろん単に分類上の都合というならわかる。でもそれだけでは説明のつかない現象が多すぎる。

 たとえば、自分がどの陣営に属するのかが本人のプライドの問題になったり、他人に対して立場をはっきりさせろと迫ったり、「自称中立」が馬鹿にされたり、というような現象は、単に分類上の都合というだけでは説明がつかない。

 普通に考えれば、右(左)に行けばいくほど正しいとか、保守(革新)であればあるほど正しいということは考えられない(証明略)ので、最適な政策というのは是々非々でしかありえないのはわかりきっている。

 だとすれば、単に政治的主張をすることだけが目的なら、その是々非々の政策をピンポイントで過不足なく主張すればいいだけの話で、それを右翼・左翼とか保守・革新とかわざわざ大雑把に分類する必要は何もないはずだ。

 私は素人にしてはその手の本も結構読んでいる方だと思うが、こういう素朴な疑問に対する答えを目にした覚えがない。しょうがないので自分で考えた。

 私がまず思いついた説明は、権力闘争上の都合だろうということ。私はこれを勝手に「制服説」と呼んでいるのだが、要するに、政治の世界は一種の戦場であって、戦場に私服でウロチョロしている奴がいると、敵か味方か区別がつかなくて目障りだというわけだ。

 これはこれでいろんな現象の説明になっていると思う。私が「旗色不鮮明主義」を唱えているのも、こういう認識が元になっている。

 でも、「有権者は民意を知らない」という認識を前提にすると、もう一つ違う説が考えられる。それが「バイナリサーチ説」だ。

 バイナリサーチというのは、計算機科学上の概念で、何かを探すときに使うアルゴリズムの名前である。

 たとえば、ここに不透明な箱が 10 個あったとしよう。その中の 1 個だけに欲しいものが入っていたとする。最小限の労力で欲しいものを発見するにはどうすればよいだろうか。

 片っ端から箱を開けて調べる、という原始的な方法だと、運がよければ 1 個開けただけで見つかるが、運が悪ければ 10 個全部開けなければ見つからない。平均すると、箱の数に比例する時間と労力がかかることになる(計算量の理論ではこれを O(n) と表記する)。

 ところが、箱の中の物に序列があって、箱自体もその序列で並んでいるとすれば話は変わってくる。

 たとえば、箱の中にあるのがトランプのハートのカードで、探しているのが ♥5 だったとしよう。この場合、まず真ん中付近にある 5 個目の箱を開けてみる。仮にこれが ♥7 だったとしよう。この場合、♥5 は全体の左半分の箱の中にある。今度は、左半分の真ん中付近にある 3 個目の箱を開けてみる。仮にこれが ♥3 だったとしよう。この場合、♥5 は左半分のさらに右半分の中にある。つまり、4 番目の箱の中にある。

 これがバイナリサーチである。この方法を使うと、探索にかかる時間や労力は、箱の数の対数に比例する量ですむ(計算量の理論ではこれを O(log n) と表記する)。対数と言われてもピンとこない人は、大雑把に桁数だと考えればいい。つまり、100 必要だったものが 2 ですみ、1000 必要だったものが 3 ですむわけで、かなり劇的な改善だということがわかるだろう。

(バイナリサーチに限らず、一次元軸上の最適化にしても、解がまるっきりランダムに並んでいたのでは探索効率は悪くなる。探索効率を良くするには、解の間の連続性など、なんらかの制約を導入する必要がある。)

 政治の世界においても、やるべき政策がやる前からわかっていれば、単にそれを行えばいいだけだ。しかし、政策の良し悪しがやってみるまでわからないとなると、話は変わってくる。

 先の箱の例と同様、ありとあらゆる政策を片っ端から試したのでは効率が悪すぎるだろう。しかし、政策同士の間になんらかの基準で序列が導入されていれば、最適な政策を発見するまでの過程をはるかに短縮できる可能性がある。

 政治の世界に二項対立があるのも、そのためではないか。二項対立というのは、要するに、一次元の基準を導入して政策を直線上に並べるということだ。これにより有権者は、「前回の政策は右すぎたから、もうちょっと左にしようか」というような大雑把な選択が可能になるというわけだ。

 だとすれば、政治の世界に二項対立が存在すること自体が、有権者は民意を知らず、政策は試行錯誤で決定するしかない、という事実の傍証になっているとも言えるだろう。

 おそらく、実際には「制服説」と「バイナリサーチ説」の両方の要素があるのだと思うが、いずれにせよ、私のような一般庶民は「旗色不鮮明」でよいのだ、という信念はますます揺るがぬものになったのである。お後がよろしいようで。

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有権者は民意を知らない

 「政治家は」の間違いではない。有権者は民意を知らないのだ。別に皮肉でもなんでもなく。

 なのに、マニフェスト論・社会選択理論直接民主制論など、民主主義に関する政治理論の多くは、民意を最もよく反映する政治こそが正しい政治である、という暗黙の前提を置いている。この固定観念こそが、政治制度に関する議論を不毛なものにしている最大の原因だと私は考えている。

 このような考え方は、実は政治以外の分野では特に珍しい考え方ではない。

 たとえばマーケティング。かつては消費者の需要を知りそれを満たすことが目標だったが、最近ではむしろ「需要の創造」などと言われるようになった。これは、消費者自身も気づいていなかった隠れた需要を、生産者の方が発見して提案するという意味だ。

 あるいはソフトウェア工学(私自身がこの事を最初に学んだのはこの分野を通じてだった)。かつてはユーザーがソフトウェアに求めるものをできるだけ正確に知って、その通りのソフトウェアを作ることを目標にしていた。要求分析とか要求定義とかが重視されたのはそのためだ。

 しかしやがて、この方法は十分に機能しないことが明らかになる。その最大の原因は、ユーザー自身がソフトウェアに何を求めているかわかっていないということだった。たとえ完璧に仕様通りのソフトウェアを納品しても、ユーザーは必ずと言っていいほど、思っていたものとは違うとか、ここを変えて欲しいとか、追加機能が欲しいとか言い出す。そのことが知られてから、ソフトウェア開発の方法論は、仕様の柔軟な変更を前提としたものに変わっていった。

 念のために言っておくが、これは別に消費者やユーザーを馬鹿にして言ってるわけではない。そうじゃなくて、人間は誰でも自分が何を求めているか本当には知らないのが普通なのである。

 生まれて初めてある料理を食べるとき、人はその料理が美味いかどうか知らないで食べている。最初から美味いとわかっているものしか食べなかったら、一生貧しい食生活が続くことになるだろう。自分でも価値のわからないものを求めるからこそ、幸福の地平は広がってゆくのである。

 実は、私の「民意」に対する固定観念を決定的に打ち砕いたのは、他ならぬ社会選択理論そのものであった。アローの不可能性定理やセンのリベラル・パラドックスは、素朴な意味で「民意」を満たす決定方法が存在しないことを教えてくれる。

 要するに「民意」というのは、神によって与えられた自然権などと同じく、民主主義を支えるフィクション(擬制)なのだ。「民意」とは選挙によって表されるところのものであって、それ以上でもそれ以下でもない。それ以外の「真の民意」などを求めても不毛な結果しかもたらさないだろう。

 理屈からすれば直接民主制の方が正しいように見えるのに、実際には間接民主制が主流になっているのも、おそらくそこに理由がある。建前のフィクションでは説明できない知恵が制度に隠されていたからこそ、民主主義はここまで存続して来れたのだ。

 政治の真の目標は、「民意」を実現することではなく、人々を幸せにすることであり、そのための最善の制度を考えることだったはずだ。「民意」への不必要なこだわりは、むしろその邪魔にすらなっているのではないか。民主主義にとって真に必要なのは、有権者が最終的なガバナンスを握っていること。それだけだ。

 たとえば、料理屋で自分が食べたい料理を食べるためには、レシピをできるだけ正確に詳しく書かせてそれを守らせるべきだとか、料理屋の情報公開が不可欠だとか、料理屋に任せずに自分で料理すべきたとか、客の料理能力以上の料理を食べることは不可能だとか言う人はあまりいない。料理屋同士を競争させて、その中から適当に店を選ぶだけで、ぼくらは十分に食べたい料理を食べることができている。なのに、こと政治の話になると、なぜかそういう話になるのは不思議なことだとは思いませんか?

 それも結局は、有権者が民意を正確に知っていて、それを実現するのが正しい政治である、という誤った固定観念のせいだと思う。

 だから政治制度を考える際には、有権者が民意を正確に知らないことを前提にして、それでもうまく機能するシステムを考えるべきだ。そのとき参考になるのはむしろ、プリンシパル・エージェント理論とか自動制御論とか、そういった理論ではないだろうか。

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理屈倒れと結果論の狭間で

 私は理解力に先天的な欠陥でもあるのか、何かを理解するのにすごく時間がかかる。その代わり、理解した後はかなり自信をもって語れるようになるのだが、そうなるまでに 10 年ぐらいかかったりする。これまで 40 数年生きてきたが、本当に心から悟ったと自信をもって言えることは、実は二つぐらいしかない。だから他の人はなぜあんなにいろんなことを自信をもって語れるのだろうと、不思議になったり嫉妬したりすることがある。

 そんな私だが、最近久しぶりに「悟った」と感じたことがある。それは、世の中は「理屈倒れ」と「結果論」の間を行ったり来たりしながら進む、ということだ。

 これは一見すると、よくある「理想主義」と「現実主義」の二元論と同じように感じられるかもしれない。実際、思想を観念的なものと現実的なものに分けるという点ではまったく同じなのだが、一つ大きく違う点がある。

 この二元論の場合、両者は必ずしも対等ではなく、多くの場合、理想主義にはロマンティシズムが、現実主義にはシニシズムが結び付けられていたりする。つまり、本当は理想主義の方がいいのだが、現実には不可能なので、仕方なく現実主義になる、みたいなニュアンスで語られることが多い。

 私が悟ったのは、この両者は、どちらか片方だけでは成立せず、どちらも必要だということだ。だから、どちらか一方の優位を主張したりするのは無意味なのである。「理想主義」と「現実主義」と言わずに、あえて「理屈倒れ」と「結果論」と表現するのは、そのニュアンスを伝えるためだ。

 なぜそう言えるのかを、ここで誰もが納得するように説明するのは無理だ。なにせ私が 10 年以上も考え続けて辿り着いた結論なのだから。まあでも、わかる人にはわかるかもしれない、という程度の大筋を強いて説明すればこうなる。

 そもそも、人間が現実を正確に認識することができれば、人類の抱えるあらゆる問題は消滅するだろう。「現実主義」の目指すところはそれだ。しかし、人間は原理的に現実そのものを認識することはできないのだ。人間はなんらかの観念を通してしか現実を認識できない。その意味で人間は「理想主義」を捨てられない。しかし観念と現実とが完全に一致することはなく、この両者にはかならずズレがある。したがって観念は絶えず現実によって修正されなければならない。

 自称「現実主義者」だって、実は現実そのものを認識してなどいない。主観的に現実だと思っている観念を信じているにすぎないのだ。逆に自称「理想主義者」も、現実から完全に背を向けることなどできない。

 これはおそらく、知性というものの本質的な限界に起因するものである。人類は歴史が始まったときから「理屈倒れ」と「結果論」の間を揺れ動いて来たし、おそらく歴史が終わるまでこの両者の間で行ったり来たりを続けることだろう。

 もっとも、だからと言って何も絶望する必要はない。観念と現実が完全に一致する日は永遠に来ないにせよ、この両者の間の距離を縮めるための知識は歴史的に蓄積されてきたし、たとえば最近流行のベイズ推定なんてのは、この両者の間の往復をスマートに無駄なくやるための方法論だとも言えよう。

 もちろん、このような認識がただちに何かを解決するわけではない。ただ、こう思っていれば、理想と現実とどっちが大事か、なんてのは擬似問題にすぎないことがわかるし、どちらを選ばねばならない、というような強迫観念からも解放される。そして世の中が実際に理屈倒れと結果論の間を揺れ動いていても、冷静に観察しながら判断することができるだろう。陳腐な言い方になるが、大事なのは、どちらか片方を選ぶことではなく、両者のバランスをとることなのである。

 現実と観念の対立はいたるところにあるので、少し強引に拡張すれば、実にさまざまな思想的二項対立がこの枠組みで捉えられることがわかる。「理想主義」と「現実主義」、「法治主義」と「人知主義」、「徳倫理学」と「帰結主義」、「運」と「実力」、「偶然」と「必然」、「能力主義」と「成果主義」なども、「理屈倒れ」と「結果論」の一種と考えられないこともない。

 最近、ファミリー劇場で「銀河英雄伝説」のアニメ版をやっているが、考えてみると、この作品も「理屈倒れ」と「結果論」の対立が軸になっている。(「銀英伝」の小説自体は刊行直後に読んでいるのだが、アニメの方は見たことがなくて、今回たまたまファミリー劇場でまとめて放映しているのを観た次第。)

 ラインハルトは結果論の人だ。彼は専制下で生まれ、その制度を倒すことを志す人間なので、手続き的な正当性によってたつことは原理的にできない。だから結果で人々を納得させるしかない。もちろん彼にも理念や倫理はあるが、結果に結びつかないならそんなものは糞食らえだと思っているだろう。実際彼は、良く言えば臨機応変、悪く言えばごマキャベリスティックな行動も辞さない。(もっとも、マキャベリズムの方はオーベルシュタインが一手に引き受けているので、あまり目立たないが。)

 一方、ヤン・ウェンリーは理屈倒れの人だ。彼は民主主義制下で生まれ、その理念を守ることを志す人間なので、手続き的正当性を何よりも重視する。彼にも結果で人々を納得させるだけの能力は十分にあるが、彼はしばしば理念を守るために結果を犠牲にする。

 この両者の対立構造を極端に図式的に表現したのが例のバーミリオン星域会戦でる。私は 「銀英伝」の魅力は結局バーミリオンに尽きると思っているのだが、この両者の対立が「引き分け」に終わるところが、ある種普遍的な物語原型に結びついており、この物語が多くの人の琴線を捉えた理由ではないかと思う。

 今世の中は、震災や原発事故という大きな「結果」に直面した直後なので、「結果論」の方に大きく傾いているが、それは自然なことだ。そして時間がたてばまた「理屈倒れ」の方に傾いていくだろうが、それもまた自然なことだ。

 繰り返しになるが、大事なのは、どちらかを選ぶことではなく、両者の間のバランスをとることである。それさえわかっていれば、何も絶望することはないと思う。

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政治を良くするたった一つの方法

 ぼくはかなり前から(民主党に政権交代する前から)、政治の質を制度的に保証する方法は、最終的には一つしなかいのでは思っていた。それは、政治家の給料を上げることである。

 この方法を口にすることは、おそらくマスコミにとっても政治家自身にとっても、一種のタブーなのだろう。だから真面目に議論されている処すら見たことがないが、ぼくより頭がよくて常識もあり、いつもぼくのアホなアイデアに容赦なく突っ込みを入れてくれる友人に話したら、珍しく同意してくれたので、まったく現実性のない方法でもないのだと思う。

 ぼくがそういう確信に至った理路は、いずれ機会があれば詳しく説明するが、要は、今の政治の問題は政治家の思想よりも質にあるということだ。政治家の質は、かつては国民からの尊敬や役得や賄賂などによって担保されていたが、これらは時代の変化によりすべて消滅しつつある(そしてその方向性自体は正しい)。だから制度的なインセンティブによって質を担保する必要があるというわけ。

 ただ、この方法には一つ大きな問題がある。それは、政治家の給料を上げるのはいいとしても、どの程度上げればいいのかを決めるのが難しいということだ。

 政治家の給料にはもちろん市場原理は働かないし、成果主義的な発想に立つとしても、政治の成果を量的に評価すること自体が困難だ。

 そのあたりでぼくの思考は長年停滞していたのだが、やっと一つアイデアを思いついた。

 要するに、自己申告制にしてしまえばよいのではないか。

 つまり、選挙に立候補する人に、自分の希望年収を公表することを義務付けてしまうのである。その年収は 300 万円でも 10 億円でもかまわない。そしてもし当選したら、必ずその給料をもらえることにする。もちろん、有権者もその自己申告の年収込みで候補者を評価することになる。

 するとどうなるか。自分の能力に自信のある人は高い年収を申告するだろうが、それで結果を出せなければ大恥をかくことになろう。逆に能力より誠実さを売りにする人は、あえて安い年収を申告して有権者にアピールすることもできる。どちらを選ぶかは有権者の判断だ。

 この方法の利点は、人材配置の動的な最適化が可能になることである。

 そもそも、政治家にどの程度の人材が必要かは、相対的にしか決まらないものだ。高度成長期のように世の中が安定していて政治的課題が少ない時期には、政治家に優秀な人材を割り当てる必要はそれほどないかもしれないし、逆に動乱期で政治的課題が多い時期には、政治家にもっと優秀な人材を割り当てる必要があるかもしれない。 政治家・官僚・法律家・企業家その他のどこに優秀な人材を割り当てるべきかの優先順位も、相対的にしか決まらない。

 この方法なら、制度自体を変更することなく、その時代のニーズに応じた人材配置が可能になる。

 ついでに言うと、これは確か橋爪大三郎氏なども提案していたと思うが、得票数が次点の人にも一定の報酬を払ったほうがいいと思う。これはもちろん、二大政党制を前提として、常に主流派を脅かす勢力を確保するためである。これは当選者の申告額から一定割合を割り引いた金額でよいのではないか。

 あと、これはぼくではなくその友人のアイデアなのだが、政治家になんらかのテストを受けさせ、その結果を公開することを義務付けるのもいいと思う。もちろん、テストの成績が悪くても立候補できないわけではないので、参政権の侵害にはならない。資格試験ではなく単なる情報公開という位置づけである。

 素直に知性や教養のある人物を選んでもいいし、知性や教養には欠けるが、人柄のいい人物を選んでもいい。テストの成績をどう評価するかは、あくまで有権者に委ねるというわけだ。

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多様性を強制する全体主義(草稿)

  • 多様性を正当化する論理の素朴さ
    • 多様な方が全体のためになる、というのが一般的な論法
    • この論理はよく考えると大雑把過ぎる
    • ここでは、多様性が個人のためであることは自明視されている
    • しかし、本当に常にそう言えるだろうか。 
  • 「津波てんでんこ」に潜む非情な論理
    • 個人が助かる確率と全体が助かる確率(人数の割合)は、期待値では同じだが、確率分布や分散は同じではない。
    • 他がまったく同一条件であれば、助かる確率を最大化する最適解は誰が考えても同じになるはず
    • しかし全員が同じ解を選択すれば、最悪の場合、全滅する可能性がある
    • 逆に、互いに独立な解であれば、それぞれが助かる確率は多少低くても、全滅する可能性は低くなる
    • そのような独立解を選択した人は、種の存続確率を高めるために、個人の生存確率をむしろ下げていることになる。
    • この解は、個人主義の論理からは必ずしも正当化されない。むしろ全体主義の論理である。

てんでんこ.JPG

  • 危機に瀕した人間が感情的になる理由
    • 感情の合理性
    • 感情が非合理に見えるのは、文明社会だからであって、野生環境においては感情は合理的である(戸田正直の説)
    • 危機に瀕した人間がパニックに陥るのは、一見非合理に見えるが、そうではない。
    • その合理性としてまず挙げられるのが時間制約。
    • 危機的状況においては、最適解を求める時間がない。
    • しかし、もう一つ理由があるのではないか。
    • つまり、助かる確率が一定以下になると、個人の生存確率を高めるより、種全体の存続確率を高める方が、包括適応度的にも合理的になるのではないか。
    • そのためには、合理的に考えた最適解よりも、ランダムな解を選んでもらった方がいい。
    • だから、種の保存のために個人はパニックに陥らされているのではないか。
  • 多様性は個人のためとは限らない
    • 多様性は、全体のためにはなっても、必ずしも個人のためにはならない場合がありうる。
    • それでも多様性が正当化されるのは、それが個人の選択だから。
    • つまり、個人の生命を尊重するという狭い意味での個人主義には反するが、個人の選択を尊重するという広い意味での個人主義には反していないから。
    • 個人主義の立場からは、多様なら多様なほどいいという単純な論理は成り立たない。
    • 逆に全体主義の立場からも、画一的なほどいいという単純な論理は成り立たない。
  • なぜ個人は多様性を求めるのか
    • 進化のメカニズム
      • 進化は遺伝的アルゴリズムによる最適解の追求
      • 多様化の仕組みが組み込まれている
    • 市場のメカニズム
      • 分業社会では多様性が全体の生産性を増す。
      • 貨幣は多様な価値の間の交換を可能にする。
      • 多様になるほど全体のパイが大きくなり、それを再配分することにより、みなが豊かになることが可能
    • 逆に言えば、このような制約に支配されないところでは、個人は必ずしも多様性を求めないのでは。
  • 選択の自由が多様性を促進するとは限らない
    • 「金では買えないもの」は交換不可能
    • 交換不可能なものは再配分できない
    • 先の例で言えば「命」。
      • 命はウルトラマンや筋肉マンのように、たくさん作ってみんなで分けたりできない。
      • だから、個人の生存確率と種全体の存続確率は、厳密には交換不可能。
    • あるいは「愛」
      • セックスが金で買えるかどうかは置いておくとして。。。
      • 「愛」は金では買えない。ゆえに「愛」を何かと交換することはできない。
      • その証拠に、いくら多様性が重要だからと言って、整形してわざわざブスになる人は(宍戸錠とかは除いて)あまりいない。
    • 市場が豊かになると、金で買えないものの価値が相対的に高まる。
    • それが多様性の追求に歯止めをかけるのではないか。
    • 豊かになる自由があれば、大多数の人は豊かになろうとするだろう。美形になる自由があれば、大多数の人は美形になろうとするだろう。頭がよくなる自由があれば、大多数の人は頭がよくなろうとするだろう。健康になる自由があれば、大多数の人は健康になろうとするだろう。
  • 自由の極限は画一化?
    • あらゆるものが選択可能になったとき、個人はむしろ画一化を求めるかもしれない。
    • そのとき、個人主義=多様性、全体主義=画一性という関係は逆転するかもしれない。
    • 某都知事のような保守主義者が、「最近の若者は画一的でイカン。お国のためにもっと多様になりなさい」と言う時代になるかも。
    • そして国家が個人に多様性を強制する全体主義社会が到来するかも。
  • 結論
    • 社会が豊かになり、選択の自由が極限まで可能になったとき、個人主義=多様性、全体主義=画一性という単純な図式は成り立たなくなる
    • そのとき、我々は「何のための多様性か」ということを再考せねばならない。
    • そのとき、多様なら多様なほどいいというような、粗雑な考えは成立しない。
    • おそらく、自由は多様性に優越する
    • そして、多様性と普遍性が均衡する点が自律分散的に探索されることになるだろう。

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三割打者では三割は打てない

 珍しく釣りっぽいタイトルをつけたが、本稿の主題は「実力」と「運」(あるいは「偶然」と「必然」)である。人生は実力と運の両方に左右されるが、この両者を厳密に区別できる人は少ない。人は成功した事は実力だと思いたがるし、失敗した事は運だと思いたがる。 「実力」や「運」という言葉自体は気軽に使われていて、誰もがその意味を理解したような気になっているが、実際には言語ゲーム的に使われているに過ぎなくて、きちんと意味を定義して使われていることは少ない。

 「実力」と「運」の区別は思想にすら影響を与える。たとえば「機会の平等」という考え方があるが、これは運の影響を最小化して、できるだけ実力(や努力)が反映されるようにすべきという思想だろう。ロールズの「無知のベール」も似た思想かもしれない。あるいは、一時期流行したカッコ付きの「自己責任」は、運の影響を無視してすべてを実力に還元しようとする考え方とも言える。このような思想は、そもそも「実力」と「運」の区別がつくことが前提となっている。

 本稿では、「実力」と「運」についてぼくらが誤解しがちな点を、野球を例として示してみたい。読んでいただければ、読者がよりリアルな現実認識を持つための一助になると信ずる。

 なおタイトルはただの釣りではない。かなり省略した表現ではあるが、ある前提条件を置けば「三割打者では三割は打てない」ということが本当に言えるのだ。だからタイトルに釣られた人も、ぜひ最後まで読んでみてほしい。

・ 「実力」は理想的要素

  まず、「実力」という言葉に対し、ぼくらが経験的に持っているイメージから考えてみよう。

 たとえば、ある試合で選手 A はノーヒット、選手 B は 4 安打固め打ちだったとする。ぼくらは普通これだけでは「選手 B の実力は選手 A より上」だとは判断しない。なぜかというと、一試合だけの結果では、好不調・対戦相手との相性・試合場のコンディションなどいろんなものに大きく左右されることを知っているからだ。これが言わば「運」に相当すると言える。

 日本プロ野球史上、生涯 1 度しか打席に立たず、なおかつホームランを打った選手が 1 人だけいる。野球の記録マニアには有名だが塩瀬盛道という選手だ。もしどんなに短期間でも高いアベレージを残した打者が実力のある打者だとするなら、この塩瀬が日本プロ野球史上最高の打者ということになってしまう。

 では逆に記録を集計する期間を長くして、たとえば生涯打率を「実力」と考えればどうかと考えると、この方法にもいろいろ問題があることがわかる。なぜかというと、人間は長い間に成長したり老化したり怪我をしたりする生物だからだ。

 たとえば、日本プロ野球の通産打率(四千打数以上)のトップに立っているのは、レロン・リーであり、多くの人が打撃の天才と認める落合博満は第 9 位に留まっている。しかしこれを理由にリーの方が落合より実力が上だと言う人はそう多くないだろう。落合の通算成績がリーを下回っているのは、あくまで落合の方が現役期間が長かったからであって、全盛期の「実力」は落合の方が上だと考える人が多いだろう。

 つまり、「実力」という言葉でぼくらがイメージするのは、あくまで選手の特定の時点での能力なのだ。しかし、能力は結果を観察しなければ知ることはできない。短期間の結果は「運」に左右されるので、「実力」を知るにはある程度長期間の結果を観察しなければならない。ところが観察期間が長くなると、今度は逆に時間経過によって「実力」自体が変化してしまうのだ。

 こう考えると、「実力」というのは、長期の観察結果から逆算でイメージされる、ある種仮想の概念であり、数学で言えば「微分」に近いものだということがわかる。このような概念を現実世界で直接測定することは難しいが、理論的に仮想することにより現実の把握が容易になるわけだ。数学ではこういう概念を「理想的要素」と呼んだりするが、人間が世界を整合的に認識するための、ある種理想化されたモデルなのである。ここに現実世界で「実力」を「運」と峻別する際の難しさがある。

・ 理想の三割打者 

  そこで今度は逆に、極限まで理想化された選手を考えてみよう。好不調・対戦相手・試合場のコンディションなどに関わらず、常に三割を打つ打者を想定するのだ。そしてこの打者の成績がどれだけ「運」に左右されるかを考えてみる。そうすれば、それは間違いなく「運」の影響だということになるはずだ。

 ここで「常に三割を打つ打者」の成績は常に三割でしょ? と思ったら大間違いである。「常に三割を打つ打者」というのは、数学的には、歪んだコインをトスするのと同じことだ。コインを 1 回トスした結果は表か裏。表の場合は 1 打数 1 安打に相当するから打率十割でその実現確率は 0.3。裏の場合は 1 打数 0 安打に相当するから打率ゼロ割でその実現確率は 0.7。 この時点でもう「常に三割」とは言えない。

 では 2 打席の場合はどうか。(ヒット、ヒット)の場合には打率十割でその実現確率は 0.3*0,3 =  0.09、 (ヒット、アウト)または(アウト、ヒット)の場合には打率五割でその実現確率は 0.3*0.7 + 0.7*0.3 = 0.42、(アウト、アウト)の場合には打率ゼロ割でその実現確率は 0.7*0.7 = 0.49 である。

1打席目 2打席目 打数 安打 打率 確率
ヒット ヒット 2 2 1.000 0.09
ヒット アウト 2 1 0.500 0.21
アウト ヒット 2 1 0.500 0.21
アウト アウト 2 0 0.000 0.49
同様に、3 打席の場合はこうなる。
1打席目 2打席目 3打席目 打数 安打 打率 確率 確率
ヒット ヒット ヒット 3 3 1.000 0.027 0.027
ヒット ヒット アウト 3 2 0.667 0.063 0.189
ヒット アウト ヒット 3 2 0.667 0.063
アウト ヒット ヒット 3 2 0.667 0.063
ヒット アウト アウト 3 1 0.333 0.147 0.441
アウト ヒット アウト 3 1 0.333 0.147
アウト アウト ヒット 3 1 0.333 0.147
アウト アウト アウト 3 0 0.000 0.343 0.343
 ご覧のように、打率は三割に近い(0.333)可能性が高いとは言えるが、「常に三割」とは言えず、ゼロ割から十割の間に幅広く分布していることがわかる。

  このような分布は、確率論では
二項分布と呼ばれており、計算方法も確立されているので、その方法を利用すれば何百打席分でも計算できる。もちろん、紙と鉛筆で計算しようとしたら大変だが、パソコンのスプレッドシートを使えばいとも簡単だ。試しに 100~500 打数まで計算してグラフにすると以下のようになる。

理想の三割打者の打率分布.JPG

 500 打数(これは現在の日本プロ野球のシーズン規定打席に近い)にもなると、さすがにゼロ割や十割はほとんどなくなり、打率三割の周囲に分布するようになるが、それでも一定の確率でゆらいでいることがわかるだろう。「常に三割」を打つ理想的な三割打者でも二割八分だったり三割二分だったりすることがあるのだから、これこそ「運」だとしか言いようがないだろう。

 勘のいい方ならお気づきだと思うが、逆に「実力」三割二分の打者が運悪く三割を打ったり、「実力」二割八分の打者が運良く三割を打ったりすることもありうる。ここまでは「実力」三割の打者が実際に何割打つかを計算してきたわけだが、発想を逆にして、実際に三割以上打った打者の「実力」が何割である可能性が高いかを計算することもできる。これを 500 打数について計算してグラフにすると以下のようになる。

打率三割以上に必要な「実力」.JPG

(このような関数を統計学では尤度関数と呼ぶので「尤度」と書いてあるが、知らない人はあまり気にする必要はない。)

 このグラフを見ると、90% 以上の確率で打率三割以上を打つには、三割三分以上の「実力」が必要なことがわかる。これがタイトルで「三割打者では三割は打てない」と書いた第一の理由だ。

 こう書いたのにはもう一つ理由がある。ここまで「実力」三割の打者が実際には三割打つとは限らないことを説明してきたが、では逆に、実際に常に三割ピッタリ(端数は除く)打てる打者がいるとしたら、それはどういう打者だろうか。

 その打者は、打率が三割を少しでも下回ったら「必ず」ヒットを打ち、打率が三割を少しでも上回ったら「必ず」アウトにならなければならない。言い換えれば、任意の打席でヒットとアウトを自由に選択できなければならない。そのような打者は、実は三割どころか、打とうと思えば十割だって打てるだろう。

 つまり、常に三割ピッタリを打とうと思ったら、実際には十割打つ「実力」が必要なのである。これがタイトルで「三割打者では三割は打てない」と書いた第二の理由だ。

・理想と現実

 ここまで読んだ人はこう思うかもしれない。「現実のバッターは何もちょうど三割を打とうとして打席に入っているわけじゃない。すべての打席においてヒットを打とうとしているが、結果としては意思に反して三割になっているにすぎない。野球は本質的には決定論的な現象であって、結果として確率的な現象に見えるにすぎない。それをこのようにモデル化するのは、人間の主体的な意志を矮小化する行為ではないか。」

 そうだろうか。たとえばサイコロだって、運動自体は決定論的な物理現象だが、通常は確率論的な現象として捉えられている。ぼくらは博打でサイコロを振るとき、1~6 の目を確率 1/6 で平等に出したい、などとは思っていない。特定の目を出そうと思って振っている。しかし結果はちゃんと確率 1/6 になっている。もし事実に反して、自分は好きな目が出せると思い込んでいる人がいたとしたら、その人は博打に負けるだろう。そのことはサイコロの運動が決定論的な現象であることと矛盾しない。

 同じように、打者自身が主観的には毎回ヒットを打とうとしているとしても、実際の結果が確率的にゆらいでいる場合には、確率的現象として捉えた方が、より適切な現実認識につながることもあるのだ。

 たとえば、イチローが大リーグに移籍して以降の月間打率の分布をグラフにすると、以下のようになる。

イチローの月間打率分布.JPG

(イチローを選んだのは、大リーグの方が記録をインターネットから入手するのが容易だからであり、月間成績を選んだのは、年間成績だとサンプル数が少なすぎるからであって、他意はない。なお、3 月と 10 月は打数が極端に少ないので省略した。)

 月間打数は通常 100 打数程度なので、このグラフを上の「理想の三割打者の打率分布」の 100 打数の曲線と比較してみて欲しい。イチローの平均打率は 3 割を越えているので、分布の中心が少し右に寄っていることを除けば、分布の形状もゆらぎの幅もあまり変わらないことがわかるだろう。

 野球ファンは、やれ「イチローは春先は調子が悪い」だのやれ「イチローは夏場に強い」だのと大騒ぎするが、そういうのも実はただの「偶然」かもしれないのである。

(ただし、二割八分近辺にある山はぼくも少々気になる。これこそおそらく「偶然」ではなく「必然」による何かであろう。しかしその原因はこれだけではわからない。) 

・ 「大数」は意外と大きい

 ここまで「実力」が変わらなくても結果は一定の幅でゆらぐという話を延々としてきたが、そのゆらぎの幅は、先のグラフでもわかるように、打数が増えるほど狭くなってゆく。これが実はかの有名な大数の法則に他ならない。

 大数の法則という言葉や、無限に試行を繰り返すと結果は平均値に限りなく近づくという結論を知っている人は多いが、何回ぐらい繰り返せばどの程度近づくのかを、感覚的・量的に把握している人は意外と少ないのではないだろうか。

 そこで今度は打数を横軸にとって、ゆらぎの幅の変化をグラフにしてみよう。

打率偏差の収束の速さ.JPG

 図中の「10% 以下」、「5% 以下」、「1% 以下」は、この線から外側の打率が実現する確率がそれぞれ 0.1、0.05、0.01 であることを示している。

 ご覧の通り、ゆらぎの幅は、最初の 100 打数ぐらいで一気に減るが、その後はいくら打数が増えてもなかなか減らないことがわかる。つまり「大数の法則」が現実化するにはかなり時間がかかるのだ。「長い目で見れば自分が勝つはずだ」と思って博打を続けているうちに成す術もなく負けることがは珍しくない。

 この現象は数式を使うと簡単に説明できるので、少しお付き合い願いたい。ゆらぎの幅を示す量として標準偏差があるのはご存知だろう。実は二項分布の標準偏差は、次のような公式で簡単に計算できる。

 

 式中の n はここで言う打数、p は「実力」に相当する。ただし、このままだと安打数の標準偏差になってしまうので、打率の標準偏差にするために、これを打数 n で割ってみよう。

  この式の分子は「実力」だけで決まる量であり、分母は打数だけで決まる量である。つまり、打率の標準偏差は、打数の平方根に反比例するということだ。たとえば、百打数の時点での打率の標準偏差が一分だったとしたら、それを一厘まで減らすには一万打数必要だということになる。

 日本プロ野球史上で現役通算一万打数を越えているのは、3000 試合出場、実働 26 年の野村克也ただ一人であり、ほとんどの選手が千打数に達することもなく現役を終える。つまり、ぼくらが通常接する打率の記録には、一分から二分程度のゆらぎがあって当然だということになる。

・ 「運」を量的に捉える意義

 このように「運」を量的に捉える事の利点は、「世の中すべて実力だ」とか「世の中すべて運だ」といった両極端な主張に惑わされず、実力と運が複雑にからみあった世界の実態をよりリアルに認識できることである。

 たとえば、上のグラフを理解していれば、シーズン開始時の四月中の打率が二割五分でもあまり気にする必要はないが、シーズン終了時の打率が二割五分ではさすがに言い訳できないだろう、というようなことが言える。

 スポーツの難しさの一つに「実力」と「運」をはっきり区別できないことがある。結果が「実力」か「運」かで、正しい対応はしばしば正反対になる。成績が悪化したのが「実力」のせいならフォームの改造などなんらかの対策をした方がよいだろうが、「運」のせいなら対策したりするとかえってフォームを崩す恐れがある。スポーツではよく「好調の後ほどスランプになり易い」と言われるが、その理由はおそらくこういうことではないか。

 うろ覚えだが、イチローは何試合か不調が続いた後で突然固め打ちしたときに、「昨日から一日しかたっていないのに、技術的にそんなに大きく変わるはずないんですよね」と言っていた。その真意を想像するに、「これは実力ではなく運なので、その結果に振り回されてしまっては、かえってバッティングを崩すことになる」ということではなかろうか。

 一方、ID 野球で有名な野村克也は「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉を座右の銘にしていた。これは本稿の言葉で言えば、「『運』で勝つことはあるが、『運』で負けることはない。負けはすべて『実力』だ」という意味であろう。

 でも、ぼくは負けにも不思議の負けがあると思う。ただ安易にそう思ってしまうと向上心が失われるので、向上心を維持するための精神訓として「負けに不思議の負けなし」と言っているだけではないだろうか。

 しかし、先に言ったように、敗因でないものを敗因と勘違いして対策をとれば、結果は向上どころか悪化する可能性もある。だから野村的な現実認識よりもイチロー的な現実認識の方が優れているとぼくは思う。

 「運」に振り回されない方法の一つは、「実力」を結果以外で判断することである。おそらくイチローのように長期にわたって安定した成績を維持できる一流選手はみな、結果以外で自分の調子を判断するバロメータ(フォームのチェックポイントとか)を持っているのではないかと、ぼくは想像している。  

・敗者にも優しさを 

 スポーツではよく紙一重の勝負が行われる。野球で言えば、1991 年の古田対落合の首位打者争いとか 1976 年の谷沢張本の首位打者争いなどは最早伝説と化している。ぼくも記録マニアの友達がいるのでこの手のドラマは大好きだ。

 しかしここまでの議論でわかるように、このような勝負の結果はかなりの部分が「運」できまる。ちなみに、本稿の理論的な枠組みを利用すると、両選手の「実力」がシーズン打率に等しいと仮定して、勝負の結果が「運」によって逆転する確率を求めることもできる。ぼくはこの確率を仮に「逆転率」と呼んでいる。

(数学に詳しい人のために方法を説明すると、打率の二項分布を正規分布で近似し、正規分布の差が正規分布になるという定理を利用して打率の差の分布を求め、その累積分布関数から差がマイナスになる確率を求めればよい。)

 試しに 1991 年のセ・リーグ打率ベストテンについて「逆転率」を計算すると、以下のようになる。
選 手 打率 打数 安打 逆転率
古田 敦也 0.340 412 140 0.500
落合 博満 0.340 374 127 0.496
高木 豊 0.333 490 163 0.415
野村 謙二郎 0.324 524 170 0.305
レイノルズ 0.316 468 148 0.227
駒田 徳広 0.314 510 160 0.203
パチョレック 0.310 442 137 0.176
オマリー 0.307 476 146 0.149
山崎 隆造 0.301 402 121 0.118
レイ 0.299 415 124 0.104

 2 位の落合の逆転率がほとんど五割近いのは当然としても、三位の高木や四位の野村ですら三割以上の逆転率があることがわかる。

 このように勝負はかなりの部分が「運」に左右されるにも関わらず、勝者と敗者では扱いに天と地の差がある。これは社会の仕組みとしては仕方がないだろう。しかし敗者の中にも勝者と同じぐらい「実力」があったり努力したりしている人は少なくないのだ。

 だからぼくらは心の中では敗者にも暖かい拍手を贈ることを忘れないようにしたい。これは経済的な弱者についてもある程度同じ事が言えるのではないかと、ぼくは思っている。


Curve Ball: Baseball, Statistics, and the Role of Chance in the Game追記: セイバーメトリクスの基本文献の一つとされる「Curve Ball」(邦訳:「メジャーリーグの数理科学」)を読んでいたら、まるまる 1 章を割いてこの記事とほとんど同じ議論をしていて、かなりあせった。

 もちろん、この記事は数理的な事実を書いているだけだし、読んでから書いたわけではないので、パクリではないが、オリジナリティに欠けることは否定できない。 このへんがちゃんとサーベイをしない素人のダメなところである。もっとも、逆にぼくが口から出任せの与太を飛ばしているわけではない、という傍証になっているとも言えるが。

 両者の最大の違いは、こっちは二項分布を使って確率分布を厳密に計算しているのに対して、あっちはモンテカルロ・シミュレーションを使って誤魔化している、もとい、数学に馴染みのない読者にもわかり易く説明しているところである。

(あと、あっちは信頼区間を使って区間推定をしているが、こっちはしていない。もちろんその発想もあったのだが、区間推定の方法を数学的に厳密に説明するのは面倒だし、90% とか 95% とか恣意的な信頼度を設定する意味も説明しずらいのでやめたのである。この本では、区間推定の考え方だけをシミュレーションを使って大雑把に説明し、実際の計算式は天下り的に導入している。 )

メジャーリーグの数理科学〈上〉 (シュプリンガー数学リーディングス)  本書は他にも、確率モデルをゲームに例えたりして、数学的記述に深入りしない工夫が随所に見られる。「メジャーリーグの数理科学」などと偉そうな邦題がついているが、おそらく原書は、専門書ではなく一般向けの啓蒙書として書かれたのではないだろうか。

 だから、ぼくの記事を読んでもよくわからなかった人は、ひょっとしたらこの本を読んだ方が理解できるかもしれない。ただし、ぼくが読んだのは英語版の原書なので、邦訳版の質に関してはなんの保証もできないことをお断りしておく。

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