運命に対し謙虚であるということ

 山田太一氏の「頑張れば夢かなうは幻想、傲慢」という記事や、小飼弾氏の「自己責任から自己権利へ」という記事が、最近ネット界でちょっとした話題となった。この議論をなんとなく追っかけていて、一つだけ大きな違和感を感じた。それは、彼らの議論には、人間の生がはらむ避けがたい「不確実性」に対する感受性が足りないのではないかということだ。

 山田氏が言うまでもなく、努力すれば必ず成功するというのはウソである。人間の知や能力は有限であるがゆえに、努力はせいぜい成功の確率を高めることしかできない。こう言われると首を傾げる人だって、予測不能の自然災害や、原因不明の重病にかかった人を見れば、それは自己責任だとか本人の努力が足りないせいだとは、決して言わないはずである。

 にもかかわらず、なぜ人はしばしばこのような不確実性の存在を忘れがちなのであろうか 。それはたぶん、人間がしばしば確率的現象と因果律的現象を取り違え、確率の中に勝手に因果律を読み込む癖があるからだと思われる 。

 たとえば、サイコロで6を10回出し続ける確率は約6千万分の1だが、6千万人がサイコロをふれば、一人ぐらいはそういう人がいてもおかしくはない。その結果は、他の6千万人にとってはあくまで6千万分の1だが、出した当人にとってはまるで1分の1であるかのようにも感じられるわけで、その瞬間、自分にはサイコロを操る奇跡の力があると思いこんでも不思議はないだろう。

(サイコロの目だって究極的には決定論で決まるんだろう、という「ラプラスの悪魔」的な考え方をする人には、決定論的でありながら予測不可能な現象の存在を証明した「カオス理論」をご紹介しておく。)

 競馬のような予想ギャンブルをやったことのある人なら、たいてい一度は経験したことがあると思う。新しい予想法を編み出したら、とたんに馬券がズバズバ当たり続けるので、自分はひょっとして競馬の天才かもしれないと有頂天になるのだが、しばらくしたらちっとも当たらなくなって、単なる偶然だったと悟ることが。

 もちろん、こういうのは努力と無関係にほとんど偶然だけで決まる例であるが、そのような場合ですら、当人は努力の産物であると錯覚することはままあるのである。

(ちなみに、競馬は期待値が1以下だから絶対に儲からない、という俗説は必ずしも正しいとは言えない。なぜかというと、競馬のオッズというのは、あくまで人間が予想した馬の人気に過ぎず、実際に馬が勝利する確率ではないからだ。オッズが勝率と一致するというのは、金融工学でいうところの効率的市場仮説に相当する仮説であるが、おそらくこれを立証した人は誰もいないだろう。ということは、他人より予想能力のある人にとっては、競馬で儲かる可能性は否定されていないのである。閑話休題。)

 同じように、人生というものは一回きりであるから、成功者の「成功」のどこまでが努力の産物で、どこまでが単なる幸運の産物であるかを、統計的に厳密に検証することはかなり難しい。したがって、実際に努力して成功した本人は、努力が必然的に生み出した結果であると思い込みやすいし、それに文句をつけることは原理的に難しい。逆に失敗した人についても、他の人はすべてが当人の努力の欠如と思いやすいし、それに対して本人が反論することも難しいのである。

 これは前にも書いたことがあるが、たとえば、長寿世界一でギネスブックにのっていた泉重千代さんは、かなりの愛煙家だったが、もちろんこれは、タバコが身体にいいことを保証しない。 困った同僚とどうつきあうべきかという問題にしてもそうである。人間は話せばわかるというのは、統計的な一般論としては正しい。しかし、個別のケースにおいて、そこに登場する同僚が、例外的な極悪人間でないということが、なぜ簡単に断定できるのだろうか。

 山田太一氏が、成功者の伝記だけでなく、失敗者の伝記も若者に読ませたほうがよいといっているのは、そういう意味である。 それに対する批判として、失敗者の伝記には、必ず何か失敗した原因が書かれているはずだから、「可能性のよき断念」にはつながらないはず、と主張している人がいたが、これこそが人生の不確実性を無視してすべてを決定論でとらえようとする発想なのである。

  実際、世の中には、できる限りの努力をしたにもかかわらず成功できなかった人がたくさんいるはずなのだが、今の世の中では、そういう人たちの経験談が若者の目に触れやすい場所に出てくる機会が少ない。したがって、そういう人たちの経験を知らしめた方が、若者も将来についてバランスのとれた判断ができるはず、というのが山田氏の言いたいことであろう。

 小飼弾氏の主張に違和感を感じたのもそこである。他人の不幸に対して、必ず本人に原因があるはずだという決め付けには、不確実性に対する感受性が欠けている(これは実は、本人より社会や国家が原因だと決め付けている批判者も同様なのであるが)。 もちろん、原因や責任をきっちり究明した上で誰かを批判するのはかまわない。しかし、ちょっと話を聞いたぐらいで、アプリオリに本人に原因を帰するのは、傲慢の謗りを免れないと思うのだ。

 ぼくがこのような不確実性に対する感受性の欠如を感じるのは、実はこの2つの例だけではない。経済一般についての議論でも感じることがある。

 そもそも、努力や能力があれば必ず経済的に成功するのであれば、資本など不要であるとすら言えるかもしれない。金融工学の教えるところによれば、リスクとリターンは比例する。つまり、付加価値の大きい生産をしようとすれば、必然的にリスクをとらなくてはならない。言うまでもなく、リスクというのも不確実性の一種である。

 実は、努力を必要とするようなことは、たいていハイリスクである。 なぜなら、努力というのは基本的に、目先の利益を放棄するかわりに、将来により大きな利益を得ようとする行為だからだ。利益を時間的に先送りすれば、その間には不確実性が入り込むことはほとんど自明である。同じように考えれば、たぶん、目的のはっきりしている応用研究より、目的のわからない基礎研究の方がハイリスクだと思われる。こういう行為が何か「堅実」なことであるように思われているのは、社会がそういう仕組みをつくってリスクヘッジしているからなのであって、行為そのものはハイリスクなのである。

 われわれは、リスクをとらなければ社会全体のパイを大きくすることはできない。これは、成熟社会になればなるほどそうなると思われる。そこで個人はある意味、自分のためだけではなく、社会のためにリスクをとらされているのだ。

 あえて極論を言えば、不確実性のある生産というのは、1回の1の目を出すために、6人でサイコロを振るようなものだと言える。 そう考えれば、因果律的に1の目を出したのは一人だけだったとしても、確率的な意味では6人の共同作業であるとみなすこともできるだろう。

 もちろん、これは偶然性を極端に誇張した例であって、実際には、努力によって成功確率を上げられる部分もある。したがって、大きな付加価値のある生産に成功した人は、社会から一定の敬意を受けてもよい。しかし、先に述べたように、人生において努力が100%で偶然が0%ということがほとんどあり得ないとするなら、社会は、失敗した者に対しても、同じ社会で生きる者としての一定の敬意を払えるはずである。

 ぼくは、収入格差はあってもよいが、セーフティネットやベーシックインカムにはわりと賛成、という立場だが、それは、人間にとって、多少の収入の差よりも、同じ社会に生きる人間として認め合えることの方がはるかに大切だと信じているからだ。

 おそらく、昔の社会では、人生に運不運があるのは当たり前だったろう。人類は、そういう不確実性を少しでも減らし、個人が自分の意思で人生をコントロールできるような社会を目指してきた。その目標は、現代においてある程度が実現されたと言えるし、そのこと自体はよいことだったろう。しかし、その副作用として、人々は、人生のすべてを意志の力でコントロールできると過信するようになり、その結果として、不幸な人々を必要以上に蔑むようになっていないだろうか。昔の社会は、ろくな社会福祉もなく、貧乏な人もたくさんいただろうが、そういう人たちに対する人々の視線は、むしろ現代より優しかったかもしれない。

 そういう意味で、ぼくは経済的な成功者の方々がいくらフェラーリを乗り回そうと女子アナと鍋パーティをやろうとかまわないが、運命に対する謙虚さだけは持ち続けてただきたいと思うのである。

 "There, but for the grace of God, goes Sherlock Holmes."

- The Boscombe Valley Mystery by Arthur Conan Doyle.

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ウ○コは美しいか?

ある保健団体にて

  • 保健団体職員 A: あーっ、すっきりした。今日も快便快便。
  • 保健団体職員 B: ぼくらがこうやって健康に暮らせるのも、老廃物を毎日規則正しくウ○コとして排泄しているおかげだよな。
  • 保健団体職員 A: そうそう。それにしては、ウ○コってなぜか軽んじられているよな。
  • 保健団体職員 B: その通りだな。なにかというと汚いとか臭いとか。
  • 保健団体職員 A: そうだ、この現状を変えるために、ウ○コの大切さを大々的にキャンペーンしようじゃないか。

ある鉄道会社の広告担当部署にて

  • 保健団体職員: すいません。電車内に広告を出したいんですが。
  • 鉄道会社職員: はいはい。どんな広告でございましょうか。
  • 保健団体職員: 一応、デザインはもうできてるんです。これなんですが。
  • 鉄道会社職員: ええー? なんですかこれ? ウ○コのドアップじゃないですか。
  • 保健団体職員: そうです。ウ○コの大切さを世の中に広くアピールしようというキャンペーンなんです。どうです、美しいでしょう。
  • 鉄道会社職員: ってあなた、こんなもん電車内に貼れるわけないじゃないですか。
  • 保健団体職員: え、なぜですか?
  • 鉄道会社職員: なぜってあなた。こんなもんを見たら、乗客が不快に思うじゃないですか。
  • 保健団体職員: ウ○コが不快? じゃああなたはウ○コをしないんですか。私に明日からウ○コをするなとでも言うんですか。人類はもう何百万年もウ○コをし続けてきた。その歴史と伝統を否定するのか。
  • 鉄道会社職員: いや、誰もそんなこと言ってませんよ。ウ○コをする人が不快なんじゃなくて、ウ○コの写真を公の場所に掲示することが不快だと言ってるんです。
  • 保健団体職員: 同じことだろう。あなたは自分以外の価値観を認められない保守的な人間に違いない。だから、心の中でウ○コをする人を差別しているのだ。これは、ウ○コをする全人類に対する差別であり、リベラルな価値観に対する挑戦だ。
  • 鉄道会社職員: えーっ? (さっきは歴史と伝統とか言ったくせに…)困ったなあ。あなたちょっと落ち着いてくださいよ。
  • 保健団体職員: いや、許せない。このことはマスコミ各社にリークしてやる。覚悟しておけ。

あるリベラル系のニュース番組にて

  •  ニュースキャスター: 某鉄道会社がウ○コのポスターを拒否したことは大変な騒ぎになっています。このことに対する抗議の意を示すために、広告主の保健団体は、この地で公開ウ○コ排泄イベントを開くことになっており、多くの人が見物に詰め掛けています。
  • リポーター: あなたはなぜこのイベントを見に来たんですか?
  • 見物客: ホントのこと言うと、わたしは、今までずっとウ○コを汚いものだと思い続けてきたんです。でも、よく考えたら、それってなんの根拠もないことじゃないですか。あの、よくわからないけど、きょ、きょーどーげんそーとか、ば、ばいお・ぽりてぃっくすとかゆーのに、そう思い込まされていただけじゃないかと思うんです。だから今日は、本当にウ○コが汚いかどうか、この目で確かめにきたんです。

(保健団体職員が一斉に排便する映像。一応モザイク付き)

  • リポーター: 実際に見てどう思いましたか?
  • 見物客: ぜんぜん汚くなかったです。みんなの前で堂々としてるのはむしろ美しかった。今までコソコソしてたから汚らしく見えたんですね。わたしは間違ってました。明日からウ○コを身体中にくっつけて歩きます。

あるふつーの家庭にて

  • 夫: あーっ、すっきりした。今日も快便快便。
  • 妻: あなたはホントにウ○コするの好きねえ。いっそ家中にウ○コの写真でも飾ったらどうかしら。
  • 夫: 何をバカなことを言ってるんだよ。あははははは…。
  • 妻: やーだ、冗談だってば。ほほほほほ…。

 あまり野暮な解説はしたくないのだが、この話の肝は要するに、何が快か不快かは、特に性的な行為に関しては、社会的文脈によって大きく変わるというところにある。ぼくは女子校生の短すぎるミニスカートが不快だ不快だといい続けているが、もちろん、ベットの中でぼくだけに見せてくれるのであれば、大歓迎なのである。そんなのは、矛盾でもなんでもなく当たり前のことである。くだんの祭りの人だって、年がら年中裸でいるわけでもあるまい。

 確かに、なぜそうなるのか、というメカニズムを説明することは簡単ではない(そういう理屈は、哲学者が「性の両義性」とか言って研究してるので、興味のある人は調べて欲しい)。しかし、多くの人は、説明はできなくても、性的にふるまうべき場所とそうでない場所を自然に区別することができる。

 もちろん、その区別が永遠普遍の真理ではなく、時代や社会によって変わりうるのも確かだ。しかし、くだんの祭りについて言えば、地元だけで合意の上でやっている分には、誰も文句を言う人もいなかったはずである。それをよその場所でも宣伝しようとすれば、地元以外の価値観と衝突する可能性がでてくるのは当然である。それを無条件に受け入れろというのは、むしろ、宣伝する側がよそ様に自分の価値観を押し付けているということになってしまうだろう。

 あの祭りの宣伝に問題がないと思う人は、たとえば、川崎のかなまら祭りのような祭りの写真を、鉄道構内に貼れると考えるだろうか。もしそれがダメだとするなら、いったいどこでその線引きをするのか。考えてみてもらいたい。

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芸術は理学、娯楽は工学

 芸術とは何か、という議論は、文明発祥のころからあるふる~い議論で、しかもいまだに万人を納得させるような結論が出ていない問題である(らしい)。今から、そういう万古普遍の問題に、ぼくみたいな凡人がこの場で結論を出してしまうという蛮勇芸をやるので、仕上げをごろうじろ(^^)。

 ぼくらの若い頃の芸術観は、基本的に、権威主義から相対主義という流れだった。その反動からか、最近の若い人たちの芸術に対する考え方は、相対主義から芸術的価値論に戻りつつあるような気配がある。

 もちろん、そのこと自体はまったく悪いとは思わないのだが、彼らの議論を見ていると、芸術的価値論を語るために必要な、美学理論の歴史や概念に対する知識が、少々不足している人が多いように感じられる。

 先日取り上げたケータイ小説の話なんかでもそうで、こんなのは小説・芸術ではないという意見を言うことはべつにいいのだが、それを根拠付けるのが、結局は、過去の名作とされる作品との比較だったりする。

 しかし、言うまでもないことだが、芸術の歴史は芸術的価値観の変化の歴史でもあるので、過去の名作に似ていないことが、単純に駄作の証明になるわけではない。だから、そういう人は、これは新しい時代の芸術であって、それが理解できない奴の方が時代遅れだという、太古の昔からある主張にすらうまく反論できなかったりする。

 したがって、芸術もエンターテイメントも同じだというような一種の相対主義を排しつつ、積極的に芸術的な価値を主張するためには、過去の一流の芸術作品との類似性などという安易な考え方ではない、もっと本質的な芸術の定義を考えなければならないのである。

 実は、これから披露するぼくの芸術に対する考え方の基本は、前にも書いたことがあるけど、山崎正和氏が「芸術・変身・遊戯」などでしている主張や、 山形浩生氏が「アート・カウンターパンチ」 でしている主張と(たぶん)だいたい同じ。もちろん、両氏はぼくのようにズボラではなく、ちゃんと美学理論の歴史を踏まえた議論をしているので、詳しく知りたい人はそちらを参照して欲しいが、両氏の主張をぼく流に大雑把にまとめれば、「芸術とは発見である」ということになる。

 発見する対象は、知覚を通じて人間に影響を与えるものなら、なんでもよい。感動するもの、美しいもの、泣けるもの、笑えるもの、怖いもの、そのどれにも分類しにくい不思議な感情を与えるもの、すべてが芸術でありうる。(したがって、人生の意味をマジメに考えるのが文学で、冒険活劇がエンターテイメント、みたいな分け方ももちろん間違い。)

 たとえば、「人を感動させるものが芸術である」、というありがちな主張があるが、これは、ぼくに言わせれば間違いである。ぼくの定義では、芸術と言えるのは、あくまでも、何が人を感動させるかを「発見する」行為の方であって、「感動」の方は、あくまでその発見の副産物にすぎないのだ。

 もちろん、何が人を感動させるかを発見すれば、その知見を利用して人を感動させることもできるようになる。したがって、そのように、芸術的行為によって発見した方法を使って、人を感動させることを目的に作られた作品がエンターテイメントである、と定義することができよう。

 この関係を科学分野に置き換えれば、芸術は理学、エンターテイメントは工学に相当するということになる。理学というのは、科学的な方法で自然界の法則を「発見」することを目的とする学問であるし、工学というのは、理学によって発見した法則を利用して、人の役に立つものを作ることを目的とする学問だからだ。

 ただ、同じ「発見」が目的と言っても、理学と芸術では方法が違う。たとえば、「感動」の原因を発見するにしても、理学では、ニューロンがどうのシナプスがこうのと、要素に還元して説明しようとするのに対し、芸術では、実際に人を感動させる作品を創作して鑑賞させるという、一種の人体実験を行うわけだ。

 ここで注意すべきは、エンターテイメントの方も、実際に人を感動させる作品を作るという点においては芸術と同じだということ。芸術とエンターテイメントの区別が、理学と工学などの区別に比べて難しいのは、これが理由であると考えられる。

 また、このたとえでもわかるように、芸術とエンターテイメントは、必ずしも価値的に上下の関係にあるわけではなく、むしろ、それぞれ別個の価値基準によって評価されるべきものだと言える。これは決して単なる価値相対主義ではない。なぜなら、どちらの価値基準でも高く評価できる作品もあれば、どちらの基準でも低くしか評価できない作品もあるのだから。

 ここまで読んで、そりゃお前が勝手に決めた定義だろう、と思う人もいるかもしれないが、この定義は、芸術やエンターテイメントに対する常識的な共通認識を整合的に理論化したものにすぎない。その証拠に、一般に芸術とエンターテイメントの違いとして認識されていることのほとんどが、この定義から導き出せる。以下それを少しやってみせよう。

 このような前提から必然的に導かれるのは、芸術作品は歴史的に一回性のものであるということだ。つまり、結果としてまったく同じ作品であっても、芸術的行為と言えるのは、歴史上初めてその作品を創作する行為だけであって、二回目以降の模倣はすべて娯楽作品になる。逆に、エンターテイメントは、現在の鑑賞者を感動させることが目的なのだから、歴史性よりも同時代性で評価される。つまり、芸術としては模倣にすぎなくても、同時代のエンターテイメントとしの価値は上ということがありうるのだ。

 例としてぼくがよく挙げるのはヒッチコックの映画。ぼくより上の世代では、ヒッチコックの映画は名作ということになっているらしいのだが、ぼくはどうしても、ヒッチコックの映画でそれほど感動することができない。なぜなら、どうしてもテレビでやっているなんとかサスペンス劇場と同じじゃん、と感じてしまうからだ(^^)。

 もちろん、ヒッチコック映画とその手のテレビドラマでは、お金や労力の掛け方がかなり違うので、ヒッチコックの方が映像が美しく、脚本もよくできている、ということぐらいはわかるのだが、それはあくまで頭で理解しているだけであって、純粋に作品を鑑賞しただけで感動することはできないのである。この話をぼくと近い世代の人にすると、たいてい同意してくれるので、これは決してぼくの独りよがりや感受性の貧困のせいではないと思う。

 この現象を、ぼくの理論で説明するとこうなる。ヒッチコックの映画は、最初に創作された時点では、新たな感動の発見であると同時に、人を感動させる方法でもあった。つまり、芸術でもありエンターテイメントでもあった。ところが、後の世になって、ヒッチコックが発見した「感動の方法」を利用したエンターテイメント作品が大量に製作された結果、多くの人がその感動に飽きてしまった。その結果、ヒッチコックの映画は、現代のエンターテイメントとしては成立しなくなってしまったというわけだ。

 またこの理論から、一般に、芸術はハイリスクであり、エンターテイメントはローリスクであるということも言える。なぜなら、芸術はまず作者を対象とした人体実験として行われるので、仮に作者自身を感動させたとしても、必ずしも万人を感動させる保証はない。それに対し、多くの人を感動させることが確認済みの技術で製作されるエンターテイメント作品は、史上初めての感動を提供する芸術作品に比べて感動の鮮度は低いかもしれないが、感動させることに失敗するリスクは低いからだ。

 したがって、先ほど、芸術とエンターテイメントに上下はないと言ったが、少なくとも、現代のような商業芸術の時代においては、芸術家よりエンターテイナーの方が安定した収入を得やすい、ということは言えそうである。たぶん、芸術家よりエンターテイナーの方が社会的地位が低いのは、その裏返しなのだろう。逆に、現代の芸術家がハイリスクに見合ったハイリターンを得るには、リスクをヘッジしてくれる資本家が必要なはずで、これで一時よく言われたパトロン待望論も説明できるわけだ。お後がよろしいようで(^^)。

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マル激・岡田斗司夫編

 今週の「マル激トーク・オン・ディマンド」のゲストは、渦中の人、岡田斗司夫さんであった。と言っても、収録したのは先週らしく、「いいめも」事件についてはなんの言及もなかったが、お話自体はなかなか面白かった。

 もっとも、後半の「見た目主義社会」の話は、申し訳ないけど、表層的であまり深みがないように感じた。面白かったのはやはり、前半のレコーディング・ダイエットの話である。実は、ぼくはまだ「いつまでもデブと思うなよ」という本自体を読んでいないのであるが、自分の禁煙体験と照らし合わせてみても、ハタと手を打つような発言がいろいろとあった。

 そこで以下、岡田式レコーディング・ダイエットについてぼく流の解釈を書こうと思うが、その前に、やはり一言書いておかねばなるまい。ここに書いてある岡田式レコーディング・ダイエットに関する説明は、あくまでぼくの勝手な解釈であって、岡田氏の提唱するレコーディング・ダイエットを正しく伝えているとは限りません。と、これでいいよね(^^)?

 ぼくは、30 代になってからタバコを吸い始め、5 年間ぐらい吸い続けてから禁煙に成功したという、少し珍しい喫煙歴を歩んだ人間なのだが、そのときに考えたのは、岡田氏と同じく、やはり人間の欲望の構造だった。

 そもそも、禁煙したい人間というのは、意識的・理性的にはタバコを止めたいと思っているのだが、無意識的・感性的にはタバコを吸いたいと思っているものだ。この状態を俯瞰して見ると、二つの矛盾する欲望を同時に抱いているということになる。

 この状態は、理性偏重の近代主義的な考え方からすれば、理性的な欲望の方が正しく、感性的な欲望の方は間違っているということになるのだろうが、ポストモダン的な考え方からすれば、どちらが正しいとも言えないはずである。

 したがって、徹底して近代主義的な人間の場合には、理性によって感性をねじ伏せるという形で禁煙に成功することもあるのだが、ポストモダン的な人間の場合には、タバコが吸えないのに長生きしてもつまらない、どうせ人間いつかは死ぬんだし、みたいな考え方に抵抗しきれないわけである。

 しかし、よくよく考えると、そもそも同じ人間が矛盾する欲望を同時に持っているということが論理矛盾なのであって、これは、意識と無意識を別の自己として認識していることによって擬似的に発生する現象にすぎないのである。

 元をたどれば、理性的な欲望も、感性的な欲望をより深く満足させるためにあるはずだし、感性的な欲望も、理性によって誘導できるはずなのだから、問題は、両者のフィードバック関係がうまく機能していないことなのである。したがって、このような矛盾は、無意識的な欲望と意識的な欲望の関係をよく整理して正しく捉えなおせば、解消できる可能性がある。

 たとえば、禁煙について言えば、そもそも、タバコを止める人はなぜみんな完全に「スパッ」と止めなくてはいけないと考えていて、一日一本だけなら吸っていいみたいな止め方をする人がいないのかが不思議である。

 実際には、無意識的な喫煙欲は、たまにはタバコを吸いたいという欲望かもしれないし、意識的な禁煙欲も、肺癌にならない程度にタバコを減らしたいという欲望かもしれない。だとすれば、完全に禁煙するかわりに、喫煙量を減らすことによって、意識的な欲望と無意識的欲望の両方を満たせる可能性があるはずだ。

 もちろん、タバコの場合には習慣性があるという事実も見逃せないが、これはおそらく、理性によって感性をねじ伏せるという近代的な自己モデルに囚われすぎているがゆえの勘違いだと思う。

 現にぼく自身も、禁煙成功後は、普段はまったくタバコを吸っていないが、たまに飲み会に行くときだけはタバコと 100 円ライターを買っていくことがある。これは前にもどこかで書いたけど、ぼくはあまり社交的な人間ではないため、同席した人と話が盛り上がらないことがあって、そういうときにも、タバコをぷかーっと吹かしているとなんとなくカッコがつくからである。(実は、これこそが、ぼくが喫煙時代に発見した、喫煙の最大の効用である(^^)。)

 もちろん、だからと言って、その日を境にタバコを吸いだしてしまうようなことはなくて、翌日からは何事もなかったように禁煙生活を続けられている。これこそ、自分の中の無意識的な欲望と意識的欲望の間の整理がついている証拠であろう。

 岡田氏の話の中でも、ぼくが最も感心したアイデアは、食事を残せばよいという話である。ぼく自身もダイエット中によく経験するのだが、たとえば、コンビニに弁当を買いに行って、カツ丼を発見し、一瞬食べたいと思ったものの、カロリー表示を見て諦めて、代わりにもっとカロリーの少ないソバ弁当にしたりすることがある。

 これも先ほどの禁煙の話と同じことで、カツ丼を食べたいというのが無意識的な欲望、ダイエットしたいというのが意識的な欲望なのだが、よくよく考えると、カツ丼を食べたいということと、コンビニで売っているカツ丼を一個全部食べたいということはイコールではない。実は、無意識は、ちょっとでもカツ丼の味を味わえれば満足するかもしれないし、そのちょっとは、実はソバ弁当一個よりカロリーが少ないかもしれないのである。

 そう考えると、カツ丼を一部だけ食べて後は捨ててしまえば、意識的な欲望と無意識的な欲望の両方が満足する可能性があるわけで、この発想はさすがに鋭いと思った。

 誰でも気がつくことだと思うが、このような考え方は、最近流行りの procrastination 対策にも応用できる。ここでも、仕事をサボってダラダラしたいという感性的な欲望と、早めに仕事を終わらせないと後でヒドイ目に合うよという理性的な欲望が対立しているように見えるわけだが、だからといって理性で感性をねじ伏せようとするから、長続きしないのであろう。最近流行のライフハックで提唱している ToDo リストの作成なども、要するに、自分の真の欲望を整理して正しく認識しなおすための技法であると考えられる。

 そういう意味で、理性的な欲望と感性的な欲望の関係を整理して、正しく自己認識し直すという手法自体は、いろんな分野に応用できるスキルであると思われる。こう考えると、このような方法が最近まで普及しなかったのはむしろ不思議なぐらいだが、おそらく、理性と感性を分けて考え、理性で感性をねじふせられる奴が偉いとする、近代的なパラダイムが発想の邪魔をしていたのだろうとぼくは思っている。

(読み直してみると、実はフロイト理論とあんまり言ってること変わらんような気も(^^)。)

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「べき」と「たい」の心理学

 言うまでもなく、人間の行動には、「べき」と「たい」がある。「べき」な行動というのは、何らかの目的を実現するための手段としての行動、「たい」な行動というのは、行動自体が欲望の対象であるようなコンサマトリー(消費的)な行動と言い換えてもよい。

 ところが、山崎正和氏もよく言うように、実際には、「べき」と「たい」はそんなにきっちりわかれているわけではない。たいていの行動は、「べき」であると同時に「たい」でもあったりする。ここが問題だ。

 仕事をする人は、金を稼ぐという目的のために仕事をす「べき」だとも思っているが、同時に、やりがいのある仕事をし「たい」とも思っている。政治運動をする人は、世の中をよくするために政治運動をす「べき」だとも思っているが、同時に、仲間を増やして政敵の悪口を言い合ったりして、そういう運動自体を楽しみ「たい」とも思っていたりする。

 人間には良心というものがあるから、自分がなんらかの行動を起こし「たい」と思い立ったときにも、その行動をす「べき」なのか、という検討はたいていの人がするものである。

 ところが、一端その行動をす「べき」であるという結論が出てしまうと、人間はしばしば、その行動が、もともと自分がし「たい」行動であったということを忘れてしまう。いや、忘れてしまうというより、無意識のうちに目を背けようとするのある。そして、「べき」であるという事実を名目にして、「たい」の欲望を思う存分満たそうとするようになるのである。

 その結果、周囲から見ると、本来の「べき」の目的合理性ではとうてい説明できないような、過剰な行動が観察されることになる。しかもやっている本人は、それはあくまで「たい」ではなく「べき」の行動だと思っているから始末が悪い。

(ダウンタウンがよく言うつっこみで、「お前それ言いたいだけやろ!」というのがあるが、このいうところにも、彼らの人間観察眼の鋭さが現れていると思う。)

 政治運動などを見ていても、周囲から見ると、「そこまでやるかあ?」と思って「ひいて」しまうような運動が多々あるが、そういう現象の裏に働いている心理的メカニズムは、たぶんこのようなものではないかと推察される。

 この問題が難しいのは、単純に「たい」であるから「べき」ではない、とも言えないし、「たい」と「べき」をくっつけるべきではない、とも言えないことである。むしろ、「たい」と「べき」がくっついた状態というのは、社会的意義と本人のやりがいが理想的に結びついた状態とも言えるのだから。

 もちろん、周囲から評価する際には、単純に「たい」の部分を無視して「べき」の部分だけで評価する、というようにすればいいわけである。しかし、やっている本人にとっては、やっぱり、「べき」だけでなく「たい」の部分も重要なのであるから、なかなかそう突き放して客観的に見ることも難しいのだろう。

 そう考えると、本人にとってもっとも有効な処方箋は、その行動がもともと「べき」であると同時に「たい」でもあるということを、自分自身で自覚することだと思う。その自覚があれば、自分の行動が本当に「べき」の目的に合理的であるか、それとも、「たい」の欲望を満たすことだけが暴走しているかを、ある程度自覚的に制御することも可能だろう。

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年長者を敬う意味

 年長者を敬うことが、多くの文化で美徳とされている理由について、一つの仮説を思いついたので書いておく。もっとも、こんなこととっくに誰かが言ってそうな気もするが(^^)。

 これはたぶん著作権と同じ原理なんじゃないかと思うのだ。つまり、全プレーヤーを平等な条件で競争をさせると、世の中全体にとってはかえって損になるので、一部のプレーヤーを意図的に優遇する、という意味があるのではないか。

 そもそも、若者と年寄りでは、競争上の長所・短所が異なっている。若者にとって、競争の武器は、才能・気力・体力である。これらは、他人に分け与えたり、他人からもらったりすることはできないし、使ったせいで優位性が使い減りすることもない。一方、年寄りは、才能はともかく、気力・体力ではむしろ若者より劣る。したがって、年寄りの競争の武器は、経験によって身に着けた知識や技術になるが、これらは、比較的容易に他人に分け与えることができ、その結果確実に優位性が失われてしまう。

 こういう前提条件のもとで、若者と年寄りとを完全に平等な条件で競争させると、若者はほっといても全力を発揮しようとするだろうが、年寄りにとっては、知識や技術を小出しにして、若者に対する優位性を維持することが合理的な戦略となるだろう。しかし、年寄りがみなこのような戦略をとったんでは、社会全体にとっては損失である。

 したがって、年寄りが持つリソースを気前よく社会に提供させるためのインセンティブとして、年寄りを無条件で敬う文化というのができたのではないだろうか。徒弟制度などの合理性も、部分的には同じ論法で説明できそうである。

 仮にこの仮説が正しいとすると、現代のように年功序列がなくなって、年寄りと若者が同じ条件で競争する社会になった時代には、そのような年寄りを敬う文化が持っていた機能を、何かで代替する必要があるだろう。

 たとえば、インターネット上で知識を披露することにより、広告料が得られるなんていうシステムは、競争原理がより多くの知識を提供するためのインセンティブとして働くので、そういう代替機能の候補にはなりうると思う。だけどそれが、非常にマイナーな知識、たとえば、特定のお客に営業をかけるコツ、みたいなものの共有にどこまで役立つかを考えると、こころもとない感じがしないでもない。

 実は、ぼく自身も、昔は知識を小出しにするなんてセコいと思っていたのだが、最近は、少し知識を小出しにした方がいいかもしれないと思い始めている(^^)。だからこんな説を思いついたのかもしれない(^^)。 ぼくは前から、成果主義より能力主義の方が合理的のではないか、と主張しつづけているのだが、年寄りの優遇も一種の「能力」主義として考えてみてもよいかもしれないね。

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ミニマックス戦略としての陰謀説

(前に、「ビジネスはプラスサムゲーム(を目指す)」というのを書いたことがあるけど、その「政治編」みたいな感じ。)

 米下院で従軍慰安婦決議とかが出て、ネット上ではまたぞろ不毛な政治論争が沸き起こっているようだが、こういう論争にはうんざりしてる向きも多いと思う。こういう、ウヨとかサヨとかカタカナで書かれてしまうような方々の言説を見ると誰でも気づくのは、陰謀説が多いことである。やれ、サヨは特定アジアと結びついて日本を売り渡そうとしているとか、ウヨは国民を洗脳して戦場に送りこもうとしているとか。。。(^^)

 では、なぜ彼らの主張にはこんなに陰謀説が多いのであろうか。それは、彼らが政治を闘争として捉えていて、政敵は常に自分にとってもっとも嫌な手を打ってくる、という考えを前提にしているからではないかと思う。

 もちろん、こういう考え方が合理的思考に基づいているとは必ずしも言えないのであるが、合理的に解釈できる方法が一つある。それは、この考え方を、ゲーム理論で言うところのミニマックス戦略として捉えることである。

 ミニマックス戦略というのは、ある種のゲームにおいて、「最適」な戦略であることが数学的に証明されている戦略なので、そういう戦略をとることに別に問題はないと思う人もいるかもしれない。しかし、実はこの「ある種のゲーム」というのには、かなり厳しい制約がついている。それは、そのようなゲームはゼロ和ゲームでなければならないということである。

 ゼロ和ゲームというのは、相手が得すれば必ず自分は損する、したがって、相手の得と自分の損を足すと常にゼロになる、というタイプのゲームのことである。たとえば、勝ちと負けしかない将棋のようなボードゲームであるとか、有限のリソースを取り合うような闘いとかはすべてこれに相当する。

 しかし、現実世界の闘争には、ゼロ和ゲームでないものも多い(むしろ、ほとんどがゼロ和でないと言ったほうがよいのかもしれない)。権力闘争にしても、特定の地位を取り合うという点だけを考えれば、ゼロ和ゲームとみなせるかもしれない。しかし、一般の有権者にとっては、ウヨが勝とうがサヨが勝とうが、結果として国がよくなればいいのであるから、こういう政治闘争はゼロ和ゲームではまったくないのである。

 こういうゼロ和でないゲームにおいては、ミニマックス戦略は必ずしも「最適」戦略ではない。言い換えれば、このようなゲームでは、決して「敵性悪説」にたたず、ある意味で「敵を信じる」ことが必要になってくる。もっとも、この「敵を信じる」というのはあくまで比喩的な表現であって、厳密にそれがどういうことを指すのかを言うのはなかなか難しいが。

 しかし、少なくとも、敵は常に最悪の手を指してくる、という前提にたっていては必ずしも最適の結果は得られない、ということは、ある種の数学的なモデルでも証明されていることなのである。そのことを、陰謀論好きな方々も、知っておいたほうがよいのではないだろうか。

 もちろん、これは陰謀説が常に誤りであるという意味ではない。実際、オウム事件や拉致事件では、陰謀説的な説明の方がむしろ真実に近かった。問題は、不確実な情報の下で、さまざまな戦略にどのようにプライオリティを置くかなのである。陰謀説論者というのは、入手した情報の確実性との相対的な関係を考えたときに、あまりにも陰謀説対策にプライオリティをおきすぎる。それは必ずしも最適戦略とはいえないということ。

 もっとも、いくら理詰めでこういう説明をされても、陰謀説的な思考法から抜け出せない人もいるだろう。おそらく、そういう人たちにとっては、政治闘争の世界が「局所的」にゼロ和ゲームのように「見えて」いるのである。その原因が、彼ら自身の見る目が歪んでいるからなのか、それとも、本当に近似的にはゼロ和ゲームになっているからなのかは、人によるだろうが。

 先に書いたように、特定の地位を争っているような人たちにとっては、権力闘争が近似的にゼロ和ゲームになってしまっているのは確かだろう。だから、こういう人たちにとっては、権力闘争がゼロ和ゲームでなくなるようなインセンティブを与えることが必要なのかもしれない。

 しかし、一般庶民にとってはそういうことはほとんどないはずなので、そういう人が陰謀論に極端にこだわっているのだとしたら、むしろゲーム盤を見る目の方が歪んでいるのである。ウヨとかサヨとかカタカナで呼ばれてしまうような人たちの言説に触れた一般庶民がなんとなく引いてしまうのは、おそらくはそれが原因なのだと思う。

(昨日書いた米長さんが失敗ばかりしているのも、ゼロ和ゲームである将棋の世界の戦略を、ゼロ和ゲームではない現実世界に持ち込もうとしているから、なのかもしれない…(^^)。)

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佐藤信夫再読

レトリック感覚 思うところあって、故佐藤信夫氏の「レトリック感覚」「レトリック認識」「わざとらしさのレトリック 」「レトリックの記号論」を再読。なぜこの四冊かというと、たまたま以前からウチの本棚にあったからである。最初に買った「レトリック感覚」は講談社文庫版で、奥付を見ると「昭和 61 年 3 月 15 日の第一刷」となっている。だから、最初に読んだのはかれこれ 20 年も前だということになる。

 そんなわけで、20 年ぶりの再読だったわけだが、改めて名著だと再認識した。もちろん、当時読んだときもよい本だと思ったのだが、今になってみると、当時はまだまだ全然ちゃんと読めてなかったなあと感じるところが多々ある。

 特に感じたのは、佐藤氏のレトリック論は、実はきわめてポストモダン的だったんだなあということである。まあ、佐藤氏はバルトの「モードの体系」などを訳した人でもあるのだから、ポストモダンの影響を受けているのは、ある意味当たり前といえば当たり前なのだが、当時のぼくは、まったくそういうふうに捉えていなかったのだ。

 これは、ぼくが幼くてそういう論壇の事情などといったものに疎かったということもあるが、佐藤氏自身の文章のスタイルが、そういうことを匂わせなかったことも大きい。実際、佐藤氏の持つ学識からすれば、バルトその他を引用したり、デノテーション、コノテーション、ディスクールなどといったポストモダン/ニューアカ・ジャーゴンをちりばめたりして読者を煙に巻くといったことは、いとも容易だったはずである。

 にもかかわらず、佐藤氏は、用語系も伝統的な修辞学のものを踏襲し、表現もできるだけ平易なものを使い、考え方としてのみ、ポストモダン的なエッセンスをもりこむようにしている。「記号論」所収の「金で買えると言う意味」などというエッセイもそうで、ここでも佐藤氏は、お金を記号とみなすという、当時流行のソシュールの主張を紹介しつつも、それとは一線を画す独自の論を張っている。

レトリック認識 佐藤氏がそのようなスタイルをとらなかった理由が、学者としての美学なのか処世術なのかは定かでないが、そのおかげで、この本は、ぼくのようなど素人でも気軽に読めるような間口の広さと、20 年たっても古びない普遍性を持つことができたことは間違いないだろう。

 だから、このような本を読んでつくづく感じるのは、たとえモダンであろうとポストモダンであろうと、単に流行にのって踊っていただけではなく、佐藤氏のように自分の頭できちんとものを考えていた人の仕事は、やっぱり時代を超えて残るのだなあということである。

  ぼくは普段、ポストモダン的な思想に対して批判的であることが多いが、その態度は、世代的な経験からくるところが大きい。ぼくらの世代は、10 代の多感な時期にニューアカ/ポストモダン・ブームを経験し、20 代でオウム事件や「ゴー宣」ブームを経験した、つまり、ポストモダンから入ってモダンに回帰した世代である。

 そのため、ポストモダン的なものに対しては、いい意味でも悪い意味でも思い入れが強すぎるところがあって、実は他のどの世代よりもポストモダンの影響を強く受けているくせに、単に「モダンはダメダメ」とか言うだけで、何の対案も示せないような人たちには、反射的に反発してしまう傾向があるのだ。

(ちなみに、これはぼくと同年代の思想家・評論家の多くに共通する特徴でもあると思う。ご本人にとっては不本意かもしれないから、名前を挙げるのはやめておくが)。

レトリックの記号論 しかし、素直になってよく思い返してみれば、ポストモダン的な仕事の中にも、佐藤氏の仕事のように、単にモダンを否定するなどというレベルを超えた、ぼくらの思考の血肉となって残ったものもたくさんあったはずなのである。そういう意味で、ぼくは、誰かさんのように、「80 年代はカスだった」というふうに切り捨てる気には、必ずしもなれない。

 最近の若い子を見ると、そういうポストモダン的な素養がほとんどなくて、単にベタにモダンな人が多いように見えて、それはそれで問題だなあという気もするのである。その一方で、ポストモダンの劣化コピーみたいなスピリチュアルなんちゃらとかオカルトとかに惹かれる人も多いようで、なんか両極端に二分されてるような印象がある。これは、前の世代に対する過剰な順応と反発の現われなのかもしれないけれど。

 まあ、若者なんていつの時代もそうかもしれなくて、ポストモダン・ブームにはまっていたころのぼくらだって、年長世代から見たら、きっとすごく危うく見えたに違いないんだよね (^^)。だからまあ、これはそれこそ、坂道で踏むブレーキみたいなもので、大多数の若い子には無視されることを覚悟で言っているわけだけど、そういう若い子には、こういう良質なポストモダンの成果というものを、少し味わってみてほしいなあと、最近ちょっと思うようになってきたのだ (^^)。

 ちなみに、「感覚」と「認識」は、レトリック全般について体系的にのべた本で、「わざとらしさ」はレトリックを多用する作家数人についての作家論、「記号論」はすこしくだけたエッセイ集(と言っても、作家の書くエッセイよりはもちろん理論的だが)という感じ。だから、言葉の仕事に関わる人は、「感覚」と「認識」だけでも読んでおくといいんじゃないかな。

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裏返しの友だち観

 「タイトルの「無駄」の部分に、苦み走った気分で反応。が、帯に目をやれば「その無駄がいいのよ」。」

 というのは、佐野洋子さんの「友だちは無駄である」に対する温水ゆかりさんの書評の冒頭部分なのだが、これを読んで改めて思った。ぼくの友だち観は、おそらく、世の中の標準的な友だち観とは正反対なのだと。

 おそらく、温水さんは、基本的に友だちと言うものは価値あるものだと思っているのだけれど、実際には、必ずしもいいことばかりじゃないとも思っている。だから、 「「無駄」の部分に、苦み走った気分で反応」したのだろうし、その後の「その無駄がいいのよ」でほっとしたのであろう。

 ぼくは、この本自体読んでいないのでアレなのだが、おそらく、著者の佐野さんも、わざわざ「その無駄がいいのよ」と書くぐらいだから、「友だち→役に立つ→価値がある」という価値観を前提にしており、それに対するアンチテーゼとしてこう書いているように思われる。

 でも、ぼくの場合、そもそも「「無駄」の部分に、苦み走った気分で反応」などしない。なぜなら、そんなの最初から当たり前だと思っているから (^^)。もちろん、「その無駄がいいのよ」を読んでほっとしたりもしない。それも当たり前だから (^^)。

  つまり、ぼくの場合、最初から「友だち→役に立たない→価値がある」というのが大前提であり、役に立たない友人関係こそを理想としているのだ。ぼくに言わせれば、友だちに対して、役に立つとかたたないとかいう概念を適用すること自体が「不純」なのである。ところが実際には、不本意ながら役に立つことを求められたり求めたりしてしまうことが多くて、むしろそこが、現実の薄汚さだよなあ、とか思っているわけである。

 だから、ぼくはこの温水さんの書評を読んで、自分の友だち観と世の中の友だち観の根本的なズレがわかったような気がしたのだった。

 一応、理論武装しておくと、友人関係というのは、山崎正和氏の「柔らかい個人主義の誕生」や「社交する人間 」風に言えば、生産のための人間関係ではなく、消費のための人間関係であるべきだと、ぼくは思っているわけですね。実際、子供の頃の友だち関係って、みんなそうだったと思うんだよね。でも、大人になるとだんだん、友達同士で仕事上の便宜をはかったりするようになって、それができない奴は「使えない奴」とかいうことになったりするでしょ。それがイヤでイヤでたまらないわけ。わかるかなあ (^^)。

 そういうことを言うと、でも、友達同士が助け合うって美しいじゃん、とか言われるかも知れない。そういう人に対しては、だったら、友だちでもないのに助け合う方がもっと美しいだろう、と言っておこう (^^)。カッコつけすぎだって? でも、「友達同士が助け合う」っていう言い方がそもそもカッコつけすぎなんですよ。だから、それに対抗するには、こっちもカッコつけざるを得ないのだ (^^)。わかるかな?

追記: 「柔らかい個人主義の誕生」で検索してみたら、ロクな紹介がないので驚いてしまった。お前らホントに読んだんか? 読んでないか読めてないかのどっちかとしか思えんぞ (^^)。バブル時代の消費礼賛の本で、バブル崩壊によって影響力を失ったとかさあ、いったいどっからそういう読みが出てくるの(^^)? 影響力を失うどころか、今のオタク全盛時代を予言していたとさえ言えると思うんだけど (^^)。まあ、ぼくみたいなのが褒めると、かえってネガティブな先入観を与えちゃうのかも知れないね。でも、批判するなら、ちゃんと読んで理解してからにしてくださいね (^^)。ぼくはいいけど、山崎さんがかわいそうだからさ (^^)。

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西部・宮台対談

 「マル激トーク・オン・ディマンド」で西部邁氏と宮台真司氏が対談するという驚きの企画をやっていました。このお二人はながらく対立関係にあって、テレビの生放送中に宮台氏に論破された西部氏が席を立って帰ってしまったという有名なエピソードがあるほど。そんなお二人が対談したとあって、つい、野次馬的興味で観てしまいました (^^)。

(といいつつ、ぼくは残念ながらその決定的瞬間を観てないのですが(^^)、見ていた友人の話によると、西部氏が退席する姿を見て哄笑する宮台さんの姿はまるで悪魔のようだったそうです (^^)。その友人は、今度の都知事選で共産党候補に投票しろとかいうような人で、西部氏とは思想的にほど遠いはずなのですが、宮台氏の哄笑する姿があまりに怖すぎて、まったく宮台氏に共感できなかったそうです (^^)。見てみたいなあ。ようつべとかにアップされないかしら(^^))

 で、結論から言うと、はっきり言って気色悪かったです (^^)。いったい、宮台サンはなぜ西部さんを持ち上げようと思ったのか。申し訳ないのですが、何をたくらんでいるとしか思えない (^^)。だいたい、あれだけフェミニズムに対するバックラッシュを批判していた宮台さんが、「バックラッシュがあるのは当然だ」はないでしょうが (^^)。あの人は結局、自分が頭がいいということを見せたいだけなのかなあ思ってしまいましたよ。まあ、柳沢発言問題のところだけはちょっと共感したけど。

 西部さんの話も、言ってること自体は基本的に間違ってるとは思いませんよ。でも、新しい話や独自性のある考えはほとんどないですよね。きつい言い方をすれば、二周三周遅れの話だけしかしていない。そんなことはとっくにみんな承知していて、そこから先を悩んでいるんじゃないかと思うのですが、それをさも自分だけが気づいていることであるかのように、しかも酔っぱらいのような口調で延々と喋るので、正直ウンザリしました。

 それじゃあ、そのへんの議論好きオヤジの独演会とかいっしょで、その程度の話なら、ぼくだってできるって (^^)。それで知識人批判とかされてもねえ。じゃあ、知識人としてもたいして価値のある話もできなけりゃ、一般庶民でもないという西部氏自身のスタンスはなんなんだと思ってしまう (^^)。

 西部さんは、全面的な改革を否定し、漸進的な改革を主張するのが保守だみたいに言ってたけど、全面的と漸進的の間にはっきりした線なんかひけっこないじゃないですか。だいたい、人類はすべて 40 億年前の DNA を引き継いでいるし、人間個体だって、常に一瞬前の肉体や記憶を引き継いでいるんで、そういう意味では、人間や生物は基本的に保守なんですよ。

 つまり、極端に言えば、人間のやることに「全面的」な改革なんてありゃしない。あるとすれば、人間であること自体をやめるとか、生物であること自体をやめるとかしかないけど、それだって、「人間が」人間であることをやめるという以上は、人間であるという連続性はどこかに残っているんだよね。

 だから、私はむしろ逆で、保守より目((c) バザロバ・ナタリア)、じゃなかった、人間は完全に保守的になることもできなければ、完全に革新的になることもできなくて、保守と革新の差なんて、所詮は程度の差にすぎないはずなんだよね。そういう意味では、日和見主義で場当たり的な政策をとっている政治屋さんたちのほうがよっぽど現実的であって、どっちがより「真の保守」か、なんて言ってる方が、よっぽど観念的だと思う (^^)。

 今書いた意見だって、十年ぐらい前に橋爪大三郎さんが書いてた意見を、ぼくが自分なりに言い換えただけであって、ちっとも新しくもなんともありゃしないんだけどね (^^)。そんなことを、一般向けのメディアならまだしも、丸激のようなメディアで今さらきかされても、うんざりするだけだよね (^^)。

 ぼくは、坂道で踏むブレーキとしての保守には存在意義があると思うけど、もともと、完全にノーブレーキで突っ走ってる奴なんか誰もいないし、一部の自称保守は、むしろ、坂の途中を目指してバックして逆走しようとするでしょう? それは、ぼくに言わせれば、革新のメンタリティなんだよね (^^)。真の保守なるものがいるとすれば、それは、最終的には坂の下にずり落ちることを承知で、ブレーキを踏み続ける人、言い換えれば、負けを承知で闘い続ける人だと思う。

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ポストモダンの亡霊を排す

 若い世代はあまり知らないのかもしれないが、ぼくらポスト・ポストモダン/ニューアカ/フェミニズム世代(「クーリエ・ジャポン」の記事によると、アメリカはもう「ポスト・フェミニズム」らしいぞ(^^))からすると、この手の議論は正直もううんざりという感じなんだよね。

 もちろん、この手の議論というのは、特定の価値を賞賛すると、それ以外の価値を相対的に貶めることになる。だから、多様な価値を尊重するためには、特定の価値を賞賛してはならないってやつね。やれ、「立派なご両親が揃っていてよかったね」というのは母子家庭に対する差別であるとか、「五体満足な赤ちゃんでよかったね」というのは障害児に対する差別であるとか、「ミスコン」はブスに対する差別だとか、もうさんざ聞かされたよ。

 でも、ぼくの中ではこの手の議論はとっくに終わっているし、ポストモダンを通過した多くの人たちの間でも、とっくに終わった議論だったはずだ。

 結論から言ってしまえば、価値相対主義というのは、価値の否定とは違う。そもそも、人間はなんの価値観を持たずに生きていくことなどできやしない。民主主義の価値相対主義というのは、個人が自由に価値形成を行った結果として、ある種進化論的・弁証法的によりすぐれた価値に到達することを狙いとしているのであって、そのために、権力によって特定の価値観を一方的に押し付けるのは(なるべく)やめましょう、ということにすぎない。だから、あらゆる価値を平準化してなくしてしまいましょう、というのとは、ほとんど正反対の思想なのである。

 そして、人間同士が価値形成を行うためには、当然のことながら、何が自分にとって価値があるかを他人に対して表現することが必要なのである。批評だってなんだって、そのために存在しているのだ。(もっとも、実際には、権力闘争や個人のストレス解消のためだとでも思っている人も多いようだが (^^)。)

 「五体満足な赤ちゃんでよかったね」と言ってはいけないと主張する人たちは、じゃあ自分が明日から障害者になってもいいと思っているのか? 世の中の人が全員障害者になった方がいいと思っているのか? そうじゃないだろう? だとすれば、否定するのはそういった価値観そのものではなく、あくまで表現の問題にすぎないはずだ。

 もちろん、障害者の目の前でわざわざそういうことを言う必要はないだろう。でも、いついかなるところでもそういう発言をしてはいけない、などという主張は、市民同士の自由な価値形成そのものを疎外することになってしまう。

 市民同士の関係ではそうだとしても、政治権力者がそれを口にするのは、権力による価値観の押し付けになるのではないか、というのも極論である。そもそも「権力による強制」とは何か、というのがなかなか難しい問題で、フーコーのようにむやみと拡大解釈する人がいることももちろん知っている (^^)。

 しかし現実的には、ある種のインセンティブによって、特定の価値観を促進しようという法律は、健康増進法とか動物愛護法とかいくらでもあるのだ。だから、民主主義運用の現実に即して考えれば、完全な強制は許されなくても、ある程度のインセンティブによる誘導は許される、と考えるしかない。

(「タバコを吸うのはよくない」とか「動物をいじめてはいけない」みたいな価値観を、政治権力によって促進しようとしている人たちが、一方では「子供をたくさん作った方がいい」という価値観の促進に反対している、と決め付けるわけではもちろんないが (^^))

 少子化対策というのが、民主主義的な手続きにのっとった国民的合意である以上、それを推進する人間が、その価値観にコミットするのはむしろ当然のことである。また、特定の価値観に対するある種のインセンティブとして働くような発言を全否定することも極論だと思う。ただ、もちろん表現の巧拙というのはある。

 ちなみに、ぼく自身は、「少子化対策もいいけど」という記事でも書いたように、少子化対策よりもむしろ移民を促進したほうがいいという立場だし、「伝統の在り処」や「文化は制度化では守れない」 でも書いたように、天皇制はなくなってもいいとか言ってるような人間ですから、実際には、現政権の考え方とかかなり距離があると思うんですよ (^^)。

 でも、ぼくは筋金入りの価値相対論者なので (^^)、そういう個人の価値観によって、主張の是非を判定されるのは嫌なのね。だから、そういうエクスキューズをあえて最後に持ってきた次第。

 もしこの問題が純粋に表現だけの問題であるならば、表現の問題に相応しい取り上げ方の軽重というものがあるはずだし、逆に、表現に現れた価値観や思想の方が問題であるというのなら、徹底的に価値観の戦いを繰り広げればよいのである。けれども、(たぶんそのような論戦になれば泥沼になり足並みが乱れることをおそれているのだろうけど)実際には、あえて思想論には踏み込まず、あくまで表現の問題であるが、表現の問題はすご~~~~~~く重要なんだよ、という論法によって、無理矢理当事者を引きずり下ろそうとしているように見える。この問題について、最も「不健全」に感じるのはその点である。

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「人に好かれる人」はなぜえらいか

 このブログでも何度か書いていますが、ぼくは非常に鈍いところのある人間で、世の中の大多数の人が若いうちに気づくようなことに、歳をとってからやっと気づくようなことが多々あります。これもそのうちの一つに数えられるかもしれません。

 世間一般の常識では、「人に好かれる」というのは、偉いと言う表現が適切かどうかはさておき、ポジティブな価値を持つことになっていますよね。ぼくはそれを、<「人に好かれる人」→好かれるような美点をたくさん持っている→ゆえに偉い>というふうに解釈していたんだけど、どうやらそれは間違いらしいということに、今日やっと気づいたのです。やっぱり遅いですか (^^)?

 つまり、他人に好かれるかどうかというのは、個人の決まった属性というよりも、むしろ、意志の問題だということです。ぼくは、誰だって基本的には他人に好かれたいと思っているに決まっているじゃないか、と長いこと思い込んでいた。でも、どうやらこれが大きな勘違いだったらしいのです。

 多分、若い人の中には、まだそう思っている人も多いと思います。でも、人間 40 才にもなると、他人に好かれるかどうかなんて、わりとどーでもよくなってくるんです。

 ほら、一時「オバタリアン」とかいって、中高年女性のずうずうしさを揶揄するのが流行りましたけど、ああいうのも、他人に好かれたいという意欲の減退の表れかもしれない。あるいは、結婚して何年もすると、女性のお化粧がいい加減になったりウェストがゆるんできたりするのもそうかもしれない。ぼくはまだですけど、多分、更年期をすぎたりすれば、この傾向はもっと加速するでしょう。

(ちなみに、このへんの性と人間性の関係というのは、もっと追及されるべきだと思うよ。(^^))

 つまり、「人に好かれる人」がなぜ偉いかというと、人に好かれる美点を持っているということ以前に、人に好かれようとする意志を持ち続けているということが偉いのです。そして多分、強い意志さえあれば、ある程度結果はついてくるのです。だから、明石家さんまさんのように、50 才にもなって他人に受けたくて仕方がないと思っているような人は、それだけで十分偉大なのです。このことに、若いうちは気づかなかった。

 ついでに言うと、よくテレビなんかで、「お年寄りなのに生きがいを持って元気で生き生きと生きている人」みたいな人をフューチャーするでしょ? ああいう人も、多分、半分ぐらいはサービス精神でやってるんだと思う。

 つまり、若い人からみたら、お年寄りがあまりみじめったらしい暮らしをしていたら、自分も将来そうなるのかなあと思って、ウンザリしちゃうじゃないですか。若者にはお年寄りのことはわからないけど、お年寄りはみんな昔は若者だったわけですから、そういう若者の気持ちはわかってるはずなんですよ。だから、若者をがっかりさせないために、生き生きと生きているフリをしているんだと思うんです。もちろん、ある程度は本当に元気でないと、元気なフリもできないから、そういう意味では本当に元気でもあるんでしょうけど。

 ぼくも、この年になるとだんだん人付き合いが面倒になるんですよ、ということを、周囲の人にそれとなくうまく伝えたいんだけど、これがけっこう難しいんですよね。「友だちなんていらねーよ」みたいな言い方では、傲慢に響くし、虚勢を張っているともとられかねない。かといって、逆に謙遜して、「友だちが少なくて…」みたいなことを言うと、やさしい子たちが本気で心配してくれちゃったりする (^^)。そういうわけで、いかに傲慢にもならず、心配もされず、適度にほっとかれる方法はないか、といろいろ試しては失敗している今日この頃なのです (^^)。

(「負け犬の遠吠え」という本、まだ読んでないんだけど、あれもたぶんそういうコンセプトなんじゃないのかなあ、と勝手に想像してます (^^)。)

 そういうわけなので、ぼくがなんか変なことを書いていても、あまり本気にしないで、またあいつバカなことをやってるな~、と読み流していただければ幸いです (^^)。

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ダウンタウンの「擬似ヤラセ」に見る「演技する精神」

 山崎正和氏の「演技する精神」を久しぶりに読み返していたら、この本の理論を援用して、ダウンタウンの「擬似ヤラセ」の面白さがうまく説明できることに気づいた。(われながらいったいどういう連想回路をしているのかと思うが…(^^))

 「擬似ヤラセ」というのは、ダウンタウンがよくやるある種の企画に対して、ぼくが勝手につけた名前で、「ガキの使いやあらへんで」という番組の「板尾が来た」というシリーズがその代表例である。この企画について、番組を観た事のない人のために簡単に説明すると、こんな感じである。

ダウンタウンとスタッフが楽屋で打ち合わせをしていると(外でロケをしていると、etc.)、板尾創路が予告もなくやってきて、新しい企画を考えたから(偶然カメラに映ったから、etc.)金をくれと言い出す。 あまりに理不尽な言い分なのでダウンタウンとスタッフは抵抗するが、板尾のごり押しに負けて、しぶしぶ金を払ってしま