政治ポジションテスト 外交編
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「爆笑問題のニッポンの教養」を観てて、一瞬わが耳を疑った。ゲストは伊勢崎賢治。東ティモール、シエラレオネ、アフガニスタンなどの紛争処理を現場で指揮した、自称「紛争屋」さんだ。この人は、去年、マル激トーク・オン・ディマンドにも出演していて、それを観たときから面白い人だなあと思っていた。なにせ、机上の理論ではなく、実際に紛争のまっただなかに飛び込んで停戦や武装解除を実現してきた人だから、言葉に説得力がある。
ところがなんと、こういう人に対して、太田光は、「あなた戦争が楽しいんでしょ?戦争がなかったら生きがいがないんでしょ?」てなことを言い放ったのである。
ほとんど無礼すれすれ、いや、完全に無礼な発言に違いないのだが、伊勢崎氏は笑顔を崩さず、「いやあ、そのことは自分でも自覚してますよ。だから「紛争屋」なんて名乗っているわけでね」などとおだやかに返したのであった。
ぼくはもちろんこのやりとりを聞いて驚いたのだが、決して不快な印象ではなかった。むしろ、太田のするどい踏み込みをギリギリで見切って受け流す伊勢崎という、一流の武道家同士の立会いを見たような気分だった。いいものを見せてもらいました、という感じ。
もちろん、この質問のおかげで、視聴者は、リアリズムとロマンティシズムの間でバランスをとる伊勢崎の強靭なバランス感覚を感じ取ることができたであろう。ジャーナリストには、ときにこういう踏み込みが必要だが、たぶん、現在のテレビのインタビュアーで、あそこまで無礼な質問ができる人は、あと田原総一朗ぐらいしかいないのではないだろうか。
いっそ、田原引退後は太田が朝生の司会をやればいいのではとも思ったが、よく考えると、太田が司会だったら、ゲストそっちのけで一人でしゃべりまくりそうだから、無理かもしらんね(^^)。
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サンデープロジェクトを見ていたら、田中康夫さんが、自民党と民主党は、高島屋とイトーヨーカ堂(固有名詞はうろ覚えです)みたいになるべきなのに、実際にはそうなってないと批判していた。
なかなかうまい例えだとは思うが、ぼくに言わせれば、氏の認識はまだ甘い(^^)。ぼくはむしろ、二大政党は、セブンイレブンとローソンぐらいの差になっていくだろうし、そうなるべきだと思っている。
高島屋とイトーヨーカ堂というのは、高級デパートと庶民向けデパートという意味で、有権者にわかり易い選択肢を示せという主張だろうが、今の時代、平均的な有権者の政治に対する要求にそんなに差があるはずがない。それを無理に差別化しようとすれば、結局、有権者は常に同じ政党を選ばざるおえなくなって、競争にはならないだろう。一方がシェアを独占し、もう一方がニッチ政党になるだけのことだ。
したがって、常に競争が成立するためには、コンビニのように、どの店に行っても品揃えはだいたい一緒でなければダメなのだ。一方では弁当を売っているが、もう一方では売ってないというほど大きな差があってはならない。 そのように、基本的な前提条件はだいたい一致させた上で、ちょっとだけ駅に近いとか、牛丼の肉の量がちょっとだけ多いとか、ボールペンがちょっとだけ安いとか、店員の接客マナーがちょっとだけいいとか、もっと細かいこまかーいところで争うべきなのである(^^)。
逆に、共産党や社民党などは、それこそ、CD や DVD 専門店のような、ニッチ政党を目指せばよろしい。CD や DVD しか売ってなくても、コンビニに勝てるはずだというような変な勘違いをせず、あくまでニッチであることを自覚した戦略をとっていれば、二大政党の間でも、それなりの存在意義を維持できるはずである。
もっとも、昔の政治家や評論家だったら、もっと八百屋と魚屋とか言っていたはずで、田中氏はそう言わなかっただけ、まだ時代を読めている方だとは思うのだが、ぼくなんかから見ると、まだまだ政党制に対するある種の幻想というか固定観念を捨てきれてないのではないかと思ってしまう(^^)。みなさんは、どちらの歴史観が当たっているとお思いになるだろうか。
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先日紹介した、CNN の God's Warriors シリーズの一つ。今度のテーマは、まさにど真ん中の直球で、アメリカの宗教右派である(^^)。
盛りだくさんな内容で、例によって観ているだけで疲れてしまうような話も多かったが、政治に宗教を持ち込むなと訴えて支持を得ている牧師とか、環境問題でリベラル側に立つ神学者とか、少しは希望の持てそうな話もあった。
森孝一先生なんかの本を読んでいればわかるようなことも多いが、その後のかなり過激な展開もいろいろ描かれているので、アメリカ社会とキリスト教の関係に興味のある人には観ることをお勧めしておく。
CNN International では、この土日にあと 3 回ぐらい再放送があるはず。CNNj でも「神の戦士:キリスト教編」という題で、だいたい同じ時間にやってるみたい。
改めて思ったけど、この問題は日本の文化保守の問題とも似てるよね。公の場所に十戒を掲載しよう運動は日の君運動みたいだし、進化論を教えるな運動は教科書問題みたいだし、過激な性教育に反対みたいなのも同じですよね。まあ、ある意味当たり前だけど(^^)。
時間があれば、あとでもっと詳しく紹介するつもり。今日はとりあえず疲れた。。。 (番組を観てくれれば、疲れる気持ちもわかってもらえるでしょう(^^))
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ゴアさんがノーベル平和賞を受賞したというので、日本のマスコミもなんとなくゴアさんえらいえらいという雰囲気になっているようだが、ぼくはそういう現象をどうしてもあまり素直な眼で見ることができない。というのは、ゴアさんがブッシュさんに負けた 2001 年の大統領選のときのことを思い出してしまうからだ。
あのとき、日本のマスコミはなんと言っていたか。ほとんどが、ゴアもブッシュも政策には大差ないと言っていたのだ。信じられない人は、新聞の縮刷版でもひっくりかえしてみるといい。その後、この二人がどのような道を歩んだかは、みなさんご存知の通りだ。
(もちろんそこには、冷戦の終了による共産主義の衰退とか、ネオコン/ネオリベの台頭とかにより、保守とリベラルの違いが見えにくくなっていたという背景があるのは確かなのだが)
念のために言っておくが、ブッシュさんもゴアさんも、当選してから、あるいは、落選してから豹変したというわけでは必ずしもない。ぼくは、当時まだ若くてマジメだったから(というより、不健全な懐疑の精神に満ち満ちていたから(^^))、選挙中に両者の公約をチェックしてみたことがあるのだが、京都議定書の離脱だとか同性愛者に対するなんちゃらであるとか、その後ブッシュさんが物議をかもすことになる政策の多くは、当時からちゃんと公約に書いてあった。だからぼくは、後になって京都議定書の離脱とかで大騒ぎしているマスコミを見るたびに、「けっ、何を今頃騒いでやんでえ」とせせら笑っていたものである(性格悪くてすいません)。
そういうわけで、以来ぼくは、日本のマスコミの海外報道というものを、あまり信用しなくなった。また、ぼくは当時からゴアさん支持だったのだが、今頃になって、ゴアはえらい、ブッシュは○○、みたいなステロタイプなイメージを喧伝している日本のマスコミの尻馬に乗る気にもあまりなれないのである(^^)。
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CNN International で "God's Jewish Warriors" というパレスチナ紛争の歴史を振り返った番組を観たのだが、あまりになんの救いもない話ばかりなので、くらーい気分になってしまった。
ちょっと興味深かったのは、ユダヤ人とアメリカの福音派(Evangelicals)のクリスチャン・シオニストとの結びつきを描いた部分。まあ、よく言われる話ではあるのだが、知らない人のために説明すると、福音派というのは、ヨハネの黙示録とかをわりと字義通りに解釈する人たちで、その解釈によると、イスラエルの建国は最後の審判の前兆なのだそうだ。
だから彼らはイスラエルを熱烈に支持しているのだが、おかしいのは、彼らの解釈どおりに最後の審判が実現すると、ユダヤ人は異教徒だから、最終的には地獄に落ちることになるというのだ。なんじゃそりゃ(^^)。
(ここにスクリプトが書いてありますね。"It's controversial in part because in the judgment day scenario embraced by some evangelicals, Jews who don't convert to Christianity burn in hell." だそうですよ。)
ぼくはいろんな宗教には寛容な方だと思っているのだが、もうね、このエバンジェリカルのクリスチャン・シオニストだけは、はっきり言ってキ○○イではないのか、と言いたくなることがある。キ○○イでなければ、カルトだよね。ためいき(チャーリーブラウン風に)。
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恥ずかしながらぼくも知らなかったのだが、第一次世界大戦の頃にトルコ人によるアルメニア人虐殺という事件があったそうな。しかし、トルコ政府はこれを認めておらず、「歴史認識」に関する論争が長いこと続いているんだとか。
で、これも日本ではあまり報道されてないから書くけど、先日、アメリカの下院が、この事件を「大虐殺(genocide)」と認定する決議案を承認したんだそうだ。
(特に、朝日が完全に無視してるのは不思議だ。読売や日経には一応出てるのに。こういうことするから、変に勘繰られるんじゃないのか)
トルコという国は、イスラム教徒の多い国家であるにもかかわらず、イラク戦争でアメリカ軍に飛行場を提供したりして、多大な協力をしている。なのにそのアメリカにこういう決議を出されたんで、大激怒しているらしい。さらに、イラク北部に住むクルド人に対する迫害の問題もからんだりして、なんだかややこしいことになっているらしい。
日本人なら誰でも、どっかで聞いたような話だな~、と思うだろうね(^^)。いろいろ考えさせられるけど、面倒だからここには書かない(^^)。
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(前に、「ビジネスはプラスサムゲーム(を目指す)」というのを書いたことがあるけど、その「政治編」みたいな感じ。)
米下院で従軍慰安婦決議とかが出て、ネット上ではまたぞろ不毛な政治論争が沸き起こっているようだが、こういう論争にはうんざりしてる向きも多いと思う。こういう、ウヨとかサヨとかカタカナで書かれてしまうような方々の言説を見ると誰でも気づくのは、陰謀説が多いことである。やれ、サヨは特定アジアと結びついて日本を売り渡そうとしているとか、ウヨは国民を洗脳して戦場に送りこもうとしているとか。。。(^^)
では、なぜ彼らの主張にはこんなに陰謀説が多いのであろうか。それは、彼らが政治を闘争として捉えていて、政敵は常に自分にとってもっとも嫌な手を打ってくる、という考えを前提にしているからではないかと思う。
もちろん、こういう考え方が合理的思考に基づいているとは必ずしも言えないのであるが、合理的に解釈できる方法が一つある。それは、この考え方を、ゲーム理論で言うところのミニマックス戦略として捉えることである。
ミニマックス戦略というのは、ある種のゲームにおいて、「最適」な戦略であることが数学的に証明されている戦略なので、そういう戦略をとることに別に問題はないと思う人もいるかもしれない。しかし、実はこの「ある種のゲーム」というのには、かなり厳しい制約がついている。それは、そのようなゲームはゼロ和ゲームでなければならないということである。
ゼロ和ゲームというのは、相手が得すれば必ず自分は損する、したがって、相手の得と自分の損を足すと常にゼロになる、というタイプのゲームのことである。たとえば、勝ちと負けしかない将棋のようなボードゲームであるとか、有限のリソースを取り合うような闘いとかはすべてこれに相当する。
しかし、現実世界の闘争には、ゼロ和ゲームでないものも多い(むしろ、ほとんどがゼロ和でないと言ったほうがよいのかもしれない)。権力闘争にしても、特定の地位を取り合うという点だけを考えれば、ゼロ和ゲームとみなせるかもしれない。しかし、一般の有権者にとっては、ウヨが勝とうがサヨが勝とうが、結果として国がよくなればいいのであるから、こういう政治闘争はゼロ和ゲームではまったくないのである。
こういうゼロ和でないゲームにおいては、ミニマックス戦略は必ずしも「最適」戦略ではない。言い換えれば、このようなゲームでは、決して「敵性悪説」にたたず、ある意味で「敵を信じる」ことが必要になってくる。もっとも、この「敵を信じる」というのはあくまで比喩的な表現であって、厳密にそれがどういうことを指すのかを言うのはなかなか難しいが。
しかし、少なくとも、敵は常に最悪の手を指してくる、という前提にたっていては必ずしも最適の結果は得られない、ということは、ある種の数学的なモデルでも証明されていることなのである。そのことを、陰謀論好きな方々も、知っておいたほうがよいのではないだろうか。
もちろん、これは陰謀説が常に誤りであるという意味ではない。実際、オウム事件や拉致事件では、陰謀説的な説明の方がむしろ真実に近かった。問題は、不確実な情報の下で、さまざまな戦略にどのようにプライオリティを置くかなのである。陰謀説論者というのは、入手した情報の確実性との相対的な関係を考えたときに、あまりにも陰謀説対策にプライオリティをおきすぎる。それは必ずしも最適戦略とはいえないということ。
もっとも、いくら理詰めでこういう説明をされても、陰謀説的な思考法から抜け出せない人もいるだろう。おそらく、そういう人たちにとっては、政治闘争の世界が「局所的」にゼロ和ゲームのように「見えて」いるのである。その原因が、彼ら自身の見る目が歪んでいるからなのか、それとも、本当に近似的にはゼロ和ゲームになっているからなのかは、人によるだろうが。
先に書いたように、特定の地位を争っているような人たちにとっては、権力闘争が近似的にゼロ和ゲームになってしまっているのは確かだろう。だから、こういう人たちにとっては、権力闘争がゼロ和ゲームでなくなるようなインセンティブを与えることが必要なのかもしれない。
しかし、一般庶民にとってはそういうことはほとんどないはずなので、そういう人が陰謀論に極端にこだわっているのだとしたら、むしろゲーム盤を見る目の方が歪んでいるのである。ウヨとかサヨとかカタカナで呼ばれてしまうような人たちの言説に触れた一般庶民がなんとなく引いてしまうのは、おそらくはそれが原因なのだと思う。
(昨日書いた米長さんが失敗ばかりしているのも、ゼロ和ゲームである将棋の世界の戦略を、ゼロ和ゲームではない現実世界に持ち込もうとしているから、なのかもしれない…(^^)。)
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マル激トーク・オン・ディマンドの「データから見えてくる『やっぱり自民党は終わっていた』」は久しぶりのヒット。内容はもちろん参院選の分析なのだが、ありがちな床屋政談の延長みたいな話とは違って、「計量政治学」の専門家による統計的な分析。
特に、浮動票頼みと思われている民主党に意外と手堅い基礎票があるとか、自民党支持層よりもむしろ社民・共産支持層から民主党に票が流れたとかの分析は目から鱗であった。
前から思っていたのだが、これからは、政治にもマーケティング的な手法が導入されていくことは不可避のように思われる。もちろん、そこにはメリットとデメリットがあるが、「よらしむべし、しらしむべからず」みたいな政治文化が主流だった日本では、いったん極端なポピュリズムの方向に振ることは必要だと思う。そのように、政治の責任をいったん有権者に投げた上で、あらためて提案型の政治家に投げ返すという過程が必要なのだ。
実は、ぼくが今一番注目しているのは、小沢さんの今後の行動である。誤解を招くかもしれないが、ぼくは、政治には「悪」がつきものだと思っていて、その「悪」はなるべく年長者が背負うべきものだと思っている。まあ、こういうことをあんまりおおっぴらに言うと、小悪党の自己正当化に使われてしまうので、あまり大きな声では言わないようにしているのだが(^^)。
政治家に歴史的な役割というものがあるとすれば、今の小沢さんに与えられた役割は、ある種の「悪」を引き受けることだと思う。問題は、彼自身にその自覚があるかどうかだ。もしその自覚があれば、彼は一時的には評判を落とすことになるだろうが、後世の歴史家からはある種の歴史的役割を果たした政治家として評価されるだろう。その自覚がなければ、単なる個人の名声や権力のために、政局を混乱させただけの小人物として評価されることになるだろう。…と、ぼくは密かに思っている(といいつつ、ここに書いてしまったが(^^))。
ぼくは、小沢さんほどのキャリアを持つ政治家なら、政治と「悪」の関係について深い哲学を持っていてもおかしくないと思うので、そういう意味で、今後の政局に注目しているのである。まあ、他人のために「悪」を引き受けるなんてまっぴらごめんだとしか思っていない、典型的な小人物タイプのぼくが言うのもなんであるが(^^)。
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ニューズ・コーポレーションが DJ を買収するらしいというので、マードック氏について勉強しようと思って取り出したのが、ずっと積読(じゃなくて積視聴か?)だったこの「Outfoxed」というビデオ。Outfox というのは、もともと「裏をかく」というような意味だが、この題名ではそれを FOX テレビ(もしくは、FOX ニュース・チャンネル)の FOX にひっかけている。FOX テレビというのは、言わずと知れた米 4 大ネットワークの 1 つで、ここで放映しているニュース番組には保守寄りのバイアスがかかっているというので問題になっていることはご存知の通り。
最初に購入したときには、マードック氏の経歴とか政界とのコネクションとかについて描いているのかと思っていたのだが、実際に観てみると、そういう話はほとんどなくて、むしろ、FOX ニュースがイラク戦争や大統領選挙のときに、どのような印象操作を行っているかを示す実例が中心だった。
たとえば、"Some people say..." というような表現を使うことによって、 ニュースに製作者側の意見を忍び込ませる、というような印象操作テクニックがコメンテーターによって語られた後に、実際に "Some people say..." という表現が使われている FOX ニュースのビデオクリップの例をイヤというほど並べる、という感じ。
これは、The Daily Show なんかでもよくやる手だし、最近では、YouTube なんかに投稿された一般の方が編集したビデオ(MAD っていうらしいですね)にもよく見られる手法であるが、実際の番組の雰囲気を短時間で効果的に伝えてくれる。( もっとも、これだって一種の印象操作なので、その点には注意が必要。)
一番おかしかったのは、「子供の教育に悪いので(正確には、有名人が子供の悪い模範になっているとか言うなら、まず自分自身が)、"shut up" と言って他人の発言をさえぎるのはやめろ」と言われたビル・オライリー氏が、「私は 6 年間で 1 回しか "shut up" と言っていない」(よく聞き取れないけど、たぶんこう言ってるんだと思う)とか言い返した後に、ビル・オライリーが "shut up" と言ってる映像が山ほど挿入されてたところ (^^)。
この例でもわかるように、実は、このビデオの主役は、ルパート・マードック氏というより、むしろビル・オライリー氏である。ビル・オライリー氏の横柄な態度や断定口調は、み○も○た氏などを彷彿とさせるところがあり、こういう手法が決してよその国だけの話ではないと感じさせる(^^)。もちろん、ビル・オライリー氏とみ○も○た氏では思想的バックグランドはかなり違うだろうけど。
(Hannity & Colmes みたいに、わざと弱気なリベラル・コメンテータを入れて、両論併記を装う手法って、日本にもあったっけ? ぼくは日テレとかフジとかのニュースをあまり見ないのでわからないのだけど(^^)。そう言えば、こないだ News 23 で桜井よしこさんと姜尚中さんがいっしょに出てたけど、あれもそういう手法かなあ、とか言ったら殴られるか(^^)。橋本徹はただの変人だろうしなあ(^^))
ある 9.11 犠牲者遺族の人なんかは、ビル・オライリー氏がテロリストを悪者にしようとしてるのに逆らって、政府の責任を追及しようとしたがために、9.11 陰謀説論者のレッテルを貼られてしまっていた。本編中でアル・フランケン氏も言っているが、これなんかは印象操作どころか、単なるウソではないかと思うのだが(^^)。
Wikipedia の英語版の記事によれば、この作品にも FOX 側からの批判があって、本編中で元 FOX のディレクターとか言ってる人たちが経歴詐称だとかいう疑惑もあるらしい。だけど、ぼくのような日本人から見れば、そんなのは、たとえ本当だとしても、たいした問題じゃないと思う。FOX がどういう編集を行っているかは、コメントの信憑性がどうあれ、作品中に引用された大量のビデオクリップ自体が雄弁に語っている。
そもそも、日本人にとっては、FOX ニュースの映像を見る機会がほとんどない。FOX のドラマなんかは BS でもやっているが、ぼくの知る限り、FOX ニュースについては、一部がインターネットなどで見れるのみである。したがって、このビデオは、悪名高い「FOX ニュースの印象操作」を、日本にいながらにして観れる機会を提供してくれる貴重な作品と言える。また、リージョン・フリーなので、リージョン 1 用の DVD プレーヤを購入する必要もない。残念ながら日本語の字幕はないが。
最近は反米が流行りのようだが、このビデオを見たら、このような放送が行われている環境で、個人がどこまで冷静な判断力を維持できるか心もとなく思う方もいるのではないだろうか。だとすれば、これは必ずしも他人事ではなく、アメリカ人を笑っていれば済むような話ではない。こういうビデオを観ることは、アメリカの抱える問題を、海の向こうの傲慢な人たちだけの問題ではなく、自分たちと地続きのより身近な問題として捉えるためにも役立つはずである。
(余談だが、サウスパークとかデイリー・ショーとかの面白さだって、本当はこういう政治やメディアにおける保守とリベラルの対立の歴史とかを知らないと理解できないのである(^^))
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久間発言についての「New York Post」の社説。New York Post というのは、Fox テレビと同じく、ルパート・マードックのやってるニューズ・コーポレーションの発行するタブロイド紙で、かなり保守色が強いと言われています(日本で言えば夕刊フジみたいなものだと言ったらマズいかな(^^))。
そのためか、かなり日本人の神経を逆なでする内容になっているので、まず大きく深呼吸して、覚悟を決めてから読んでね(^^)。
太平洋戦争を終わらせた1945年の出来事について、日本の首脳部の一員が、記憶にある限りで初めて真実を語った。
そして、その発言は、彼の仕事、そしておそらくは政治キャリアまでもを犠牲とすることになった。
久間章生氏は、先週、日本の防衛大臣の職を辞することを強いられた。それは、久間氏が講演で、なぜアメリカが広島・長崎に原子爆弾を落としたかを理解できると述べた数日後のことだった。
「私は、原爆投下が戦争を終わらせと理解している。そして、それはしょうがないことだったと考えている(訳注:日本語の原文を引用するかわりに、わざと英語から直訳してみた)」と、久間氏は言った。ちなみに、久間氏は長崎出身だった。
さらに、久間氏は次のように言い添えた。「実際、この攻撃は2つの都市に大きな災厄を引き起こしたが、戦争が速やかに終結したことにより、日本は、北方領土の一部をソビエト連邦に奪われなくて済んだ。ソビエト連邦は、長崎に原爆が投下された日に宣戦布告して、日本が占領していた満州に侵攻した。」
そして案の定、政治的な大混乱が巻き起こった。
久間氏の発言は、歴史的には正しいのだが、日本の歴史修正主義者が考える第2次世界大戦における核兵器の役割とは完全に矛盾する。もちろん、日本人の核アレルギーを刺激したことは言うまでもない。
怒りに満ちた糾弾のただ中で、久間氏は謝罪を試みると同時に、公式に非難を受け入れた。しかし、抗議の声が絶えることはなかった。
久間氏は、覚悟を決めて火曜日に辞任した。それは、国政選挙に直面するその月になって、世論調査の支持率が30パーセント以下に急落したことに苦しむ安倍晋三首相にとっては、相当に有難いことだった。
もちろん、戦時中の問題で、日本が独自の見解を維持し続けているのは、原爆投下のことだけではない。
ついこの3月には、安倍首相自身が、20万人のアジア人「従軍慰安婦」(訳注:という表現は正しくないとかなんとかいう議論があるのは知っているが、ここは慣例にしたがった)が性奴隷になることを、日本軍が強制したことはなかった、という主張により、国際的な批判に直面した。
久間氏の発言が、日本人の神経を逆撫でしたのは、日本がまさに、北朝鮮の大量破壊兵器の脅威による地域的な核問題を直視し始めたときでもあった。
それはまた、日中間に古くからあるライバル意識がよみがえりつつあるときであり、また、日本が世界的な経済大国としての役割にふさわしい安全保障体制をとることを求める声が高まりつつあるときでもあった。
それが現実のものになれば、日本が核武装する日も遠くないだろう。
したがって、アメリカ人は、60年以上も前に使った武器について、罪や恥の意識を感じる必要はない。
同じように、久間氏も、政治的には不評だろうが、否定できない真実を話したからといって、罪や恥の意識を感じる必要はないのである。
(太字、強調は訳者による)
特に注目すべきなのは、太字で強調したところでもわかるように、この記事では、久間発言に反発する人たちが、歴史修正主義者といっしょくたにされていることでしょう。これは、平和主義者の方々や、広島や長崎の方々にとってはたいへん不本意なことかもしれませんが。
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ノートパソコンのことだが、完全におしゃかになったわけではなくて、状況によって起動したりしなかったりするので始末が悪い。何か部品を交換すれば復活しそうなのだが、どれが故障部品なのかがなかなか特定できないのだ。あまり特定に時間がかかるようなら、早々に見切りをつけて別マシンを調達したほうがよいだろうし。とりあえず、ファン・アセンブリあたりが怪しいので、一応注文だけはしてみたが、どうなることやら。
ところで、前から思っていたけど、うまく言えなかったことを、うまく表現する方法を、また思いついたので書いておく。ほら、選挙では自分の考えに近い政党や政治家を選んで投票すべきだっていうでしょ。あれは必ずしも正しくないとぼくは思うのだ。
もちろん、民主主義国家では、国民に主権があり、国会議員は主権者たる国民の代理人に過ぎない、という考え方があるのは、無知なぼくでもよーく知っている(^^)。でも、こういうきれいな話が成り立つのは、選好と能力のギャップがまったくない場合だけだ。いくら国民が主権者だっていったって、国際政治の問題なんかは、どっちにしろ日本の都合だけでは決められない。
たとえば、こう考えてみてほしい。あなたが一番好きな料理がカレーだったとする。そのあなたが、最高級すし屋に行ったとしよう。あなたはカレーを注文するか? しないよね。すし屋に行ったら、すし屋が自信をもって作れるメニューの中から、もっとも好きなものを選ぶべきだ。このような場合、すし屋の能力が制約条件になるので、自分の選好だけにしたがって選択することは、必ずしも最善の解ではないのである。
何が言いたいかわかるだろうか。ぼくは、今の日本の政治家に、「対米追従」という以外のメニューを注文しても、ろくな料理が出てくるとは思えないのだ。だから、ぼく個人としては、決してそんなに好きな料理ではないんだけど、現実的な選択しては、「対米追従」を注文せざるおえないのだ。おそらく、このような選択をしている有権者は、ぼくだけではないはずである。
「対米追従」は、昔からあるありふれた料理だから、誰でもそこそこの味のものを作れる。しかし、それ以外の料理はそうではない。多大な能力と努力が必要だ。自分はそういう料理を作れる、と自称している政治家はいくらでもいる。しかし、本当に作れそうなヤツがいるか。。。?
ぼくはホントは、このようなぼくの認識を覆してくれる料理屋、もとい、政治家の登場を心待ちにしているのだ。ただし、それが松岡洋右のような身の程知らずでなければよいがとも思っているが(^^)。
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今日の朝生は、日中同時生放送ということで、日中双方の論客が日中問題について論じたのだが、一番強く感じたのは、
中国人は話が長い!
ということでした (^^)。
なんていうか、余計な前置きや形容詞が多くて、そのくせ、核心部分ははぐらかすから、正直言って、聴いててイライラしてしまうんだよね~(^^)。それが、スタジオに来ていた論客だけじゃなくて、北京に集まっていた中国の学生さんたちもそうなんだからなあ (^^)。
まあでも、田原さん自身はわりといつもの調子だったのでよかった。この企画の話を最初に聴いたときには、田原さんも日中関係を気にしてビビってしまうんじゃないかという心配もあったけど。
正直言うと、筑紫さんのクリントン番組のときみたいに、何かハプニングが起こらないかと、心配半分、いけない期待半分で観てたところもあったんだけど、特にそういうこともなかったですね。
一番おかしかったのは、番組中に、中国の視聴者から、司会者は中立であるべきだ、みたいな文句が何度も来ていたこと。そりゃくるだろうね~。でも、おかしなもので、普段は田原さんに批判的なこともあるぼくまでが、
これこそが田原総一朗なんだ。まいったか!
などとつい自慢したい気持ちになってしまった (^^)。これは一種の「愛国心」なのだろうか? ぼくは自分では愛国心なんてほとんどないと思ってたんだけどなあ (^^)。
まあでも、こういう企画を実現したこと自体は、やっぱり高く評価すべきであろうと思う。田原先生、もうあんたは死ぬまでその路線で行け! その路線をやめるときは死ぬときだ!(^^) 骨はぼくらが拾います (^^)。
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(クリックすると、ぼくの結果が見れるようです)
「リベラル」はその通りだと思うけど(ぼくみたいなヤツが「保守」なわきゃーないのだよ (^^))、必ずしも「大きな政府」を志向しているわけではないのだが、セーフティネットの充実にはまったく反対ではないので、そうなったのかな。でも、セーフティネットの充実なんて、竹中さんですら言ってたことだし (^^)、格差はあっていいとか公言してるのに、大きな政府派に分類してくれちゃっていいのかな (^^)。別にチャべス氏だって好きじゃないし (^^)。
まあいいや。ホントはこんなことしてる場合じゃないのだ (^^)。仕事仕事ー!
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昨晩の朝生は、パネラー全員が女性で、これは朝生史上初めてのことだそうだ (^^)。もっとも、だからといって、議論の質に影響があったという感じは、いい意味でも悪い意味でも別にしなかったな (^^)。
でもどうなんだろ、10 年ぐらい前だったら、やっぱりこうはいかなかったんじゃないかな (^^)。少なくとも、大高未貴さんとか雨宮処凛さんみたいな論客を女性の中から探すのは難しかっただろう。これは別段彼女達を高く評価しているという意味ではなくて、むしろ純粋な論客としての評価は正直高いとはいえないわけだけど、それは普段の男ばっかりでむさ苦しい朝生でも同じことだよね。ただ、ああいう論客が出てきたということは、男性論壇と女性論壇がある種相似形になってきたことの一つの証明にはなると思うのだ。
少子化問題については、ぼくの知る限り、そもそも、価値観の変化のせいなのか環境のせいなのか、という論争にすらきちんとした決着がついていないはずなんだよね。環境のせいだと主張する方々は、よく「子供を作りたくても作れない人がたくさんいる」ということを強調するが、ぼくはこの「作りたくても作れない」という言い方にはある種のごまかしがあると思う。
この言葉を使っている人がイメージしているのは、たぶん、収入が生活費だけでギリギリで、子供を作ると生活費すら不足してしまう、というような家庭なのだと思う。でも、こういうイメージでは、よく考えると、何も定義したことになってないのである。
たとえば、収入は人並み以上にあるのに、毎日高級寿司やフランス料理ばかり食べていて、着る物もブランド品ばかり買っているために、生活費だけで収入を使い切ってしまって、それ以上支出を増やせないし、生活を落とすのも嫌だから子供を作れないという家庭があったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れないのか、作れるのに作らないのか、どっちだ?
そんなのは極端すぎるって? じゃあ、質素な生活をしているのに、収入が人並み以下なので子供を作れない家庭を考えて見ましょう。でも、「1ヶ月1万円節約生活」みたいなメチャメチャな節約をして生活費を切り詰めたり、副業やパートを増やして過労死寸前まで働いたら、ギリギリ子供を作れるようになったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れなかったのか、作れるのに作らなかったのか、どっちだ?
もうちょっと論理的に(あるいは経済学的に)考えると、子供を作るという行為には、「子供を愛する喜び」というような「効用」と、生活費の負担増、養育の労力などの「不効用」があって、効用が不効用を上回った場合に子供を作るということになる。
そう考えれば、前者は不効用は小さいが効用もそれ以上に小さいので「作れるのに作らない人」、後者は不効用は大きいが効用がそれ以上に大きいので「作りたくても作れなかった人」、というふうにもいえそうな気がしてくる。したがって、効用が一定以上に大きいのに、不効用がそれを上回って大きい人のことを、「作りたくても作れない人」と呼べばいいと思うかもしれない。
でも、よく考えると、こう置き換えたって、やっぱり何も定義したことにはなっていないのである。たとえば、子供の顔を見るのは大好きだが、世話をするのはそれ以上に大嫌いという人だって、この区分に当てはまるわけだが、こんな人が「作りたくても作れない人」だと思いますか?
じゃあ、精神的な効用と金銭的な効用を分けたら、と思うかもしれないが、精神的な効用と金銭的な効用は市場で容易に交換できるのだから、これだって同じことなのである。たとえば、「世話をするのが大嫌い」を「世話をする人を雇う金がない」と言い換えれば、形式的には、精神的な不効用ではなく金銭的な不効用になってしまうわけである。
要するに、「子供を作りたい」などというのは個人の主観なので、第三者がその「作りたさ」の量だけを客観的に測定することは難しいし、「作りたい」と「作りたくない」の閾値を絶対的に決めることもできない。
さらに本質的なことは、そもそも、子供を持つ喜びというものを、効用と不効用に単純に分けることができるのかいうことである。親がどれだけ不効用に耐えられるかということ自体が愛情の証であって、子供にとってはその愛情こそがもっとも必要なものかもしれないし、親にとっては、子供が自らの愛情を受け入れるということこそが子を持つことの最大の喜びかもしれないのである。だとすれば、不効用=効用という等式が成り立つことになりかねない。
これがまた個人同士の関係であれば、個人の主観でもって、スポ根的に「お前には本当に子供を作りたいという気持ちがない! だから支援はしない!」とか言うこともできるかもしれない。しかし、政府が政策として支援を行う場合には、そんなわけにはいかないのである。したがって、政策論としては、「本当に子供を作りたいけど作れない人」だけに支援を行うことなど、おそらく不可能である。
だからぼくは、「作りたくても作れない人」という言い方は、リベラル系の方々が、「自分達は個人の主体的な選択を尊重しますよ」というポーズを示すための、あるいは、少子化対策の名の元に所得再配分政策を行うための、一種のごまかしに過ぎないと思っている。
「作りたくても作れない」派の人は、某大臣の「女性にがんばっていただくしかない」みたいな発言がお気に召さないようだけれども、このように考えれば、少子化対策には、
のどちらかしかない。これは、いずれにせよ、子供を作る人を優遇し、作らない人を相対的に冷遇するということなのであって(子供を作ろうが作るまいがまったく損得のない、完全に価値ニュートラルな社会、などというものも、おそらく定義不能である)、少子化対策をすると決めた以上は、口でなんと言おうが、やることはいっしょなのである。
もちろん、実際の政策によっては、副次的な効果として、低所得層と高所得層、嫡出子と非嫡出子、初等教育と高等教育などの間で差が出るというようながあることは十分に考えられるし、そのへんがまさに政策としての考えどころではある。
しかし、少子化対策の本質が、子供を作る人を合法的に贔屓する、ということに変わりはないのであって、それを肯定できないならば、むしろ、ぼくのように少子化対策そのものに否定的な立場をとるべきなのである。
本当は、保守とリベラルが対立しているのだって、むしろ、この副次的効果として何を選ぶかの方であるはずなのに、それをまるで、少子化対策としてどっちがより効果的か、という問題のように言うのは、論点のすり替えであろう。
1 と 2 の違いにしても、リベラル系の方々は、なんとなく 1 の方がお好きなようだけど、そんなに単純にどちらがよいと決め付けられる話であろうか。極端な話、どんなに子供が嫌いな人だって、その不効用を上回るインセンティブを与えれば子供を作る可能性はあるわけだけど、子供一人当たり 10 億円ぐらいの補助金を出すというような政策が(予算のことは除いて考えても)「よい政策」だと思う? 「10 億円くれるなら子供を作ってやらあ」、みたいな家庭の子供が本当に幸せになると思う?
政策目標自体の是非はさておき、それが正しいことを前提とすれば、それを実現するために、個人にインセンティブを与えるよりも、個人の価値観そのものを変えた方が、低コストで政策目標が実現できるし、社会に不自然なひずみを与えることも少ない、とも言えるんじゃないの? だとすれば、その政策目標にそった発言を大臣がすることだって、そんなに悪いことなのかと思うんですけどね。
価値中立的に考えるために、たとえば、環境保護のためにレジ袋の使用量を減らすという政策目標を考えてみよう。もちろん、この場合、レジ袋に課税するというような具体的な政策をとるのが本筋だろう。でも、そのようなときに、大臣が「みなさん、なるべく家から買い物袋を持ってくるようにしてください」と言うのが、そんなにいけないことか。世論調査をしたら、半数以上の人が「家から買い物袋を持ってくるようにしている」と答えたときに、「それは健全だ」と言ってはそんなにいけないのか。
もちろん、ぼくだったら、こういう場合にでも、「それは政府にとってありがたいことです」とかなんとかもっとへりくだった言い方をするだろう。でも、そんなのは言い方だけの問題で、本音はいっしょなのだ。要するに、政策目標を実現するために、その目標にとって都合のいい価値観を持った個人を増やしたいのである。それがそんなに悪いことだろうか?
そりゃあ、隣組なんかがあった時代だったら、大臣がこういう発言をしただけで、買い物袋を持ってこない人は村八分に合って、町内会の行事に呼んでもらえなかったり、お醤油を貸してもらえなかったり、泥棒が入っても通報してもらえなかったりするかもしれない。
でも、今はそんな時代じゃないでしょう? 大臣がいくらそんな発言をしたからって、そんなの無視すりゃいいだけで (^^)、買い物袋を持たない自由が即なくなるわけじゃないでしょう?
だからぼくには、正直そんなことでなぜ大騒ぎしなくてはならないのか、いまだによくわからないんだよね (^^)。
(あと、渡辺昇一さんの「大地と種」理論は今回初めて聞いたんだけど、ちょっと驚いたね。そんなの、Y 染色体理論より非科学的だし、ある意味、それこそ「女性は子供を産む機械」と言ってることいっしょだと思うんだけどなあ。機械だと駄目だけど大地なら平気なのかよ、と思ってちょっと呆れてしまった。これはもう相当なめられた発言だと思うぞ (^^)。)
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「インテリジェンス 武器なき戦争」手嶋 龍一、佐藤 優
えーと、この本は、要するに、テッシーとラスプーチンの二人が男同士気持ち悪く褒めあってる本です。じゃなかった、要するに、「インテリジェンス」の本ですね。ですから、そりゃあもううんざりするくらいにインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスって書いてあります (^^)。
と言っても、それほど体系的に解説してあるわけではなくて、実例を通してなんとなくインテリジェンスというものがわかるようになっている、という感じですけど、ぼくみたいな素人にとっては、その実例だけでも結構面白いんですよね。
たとえば、大韓航空機事件の直後に後藤田さんのやった情報操作はインテリジェンスとしてダメダメだとか、北朝鮮のミサイル発射を官邸は事前に予知していたなんてつまんねえうそつくんじゃねーよばーか、みたいな話とか (^^)。
(ロシアの女性は週 16 回がノルマ、とかいう話もあったなあ (^^))
さらに、そういうエピソードを通じて、日本のインテリジェンスのどこに問題があるかも、なんとなくわかるような仕掛けになっていますね。
でも、具体的なインテリジェンスの技術については、ほとんど何も書いてないんですよね。佐藤さんなんか、「秘密情報の 98% は公開情報を整理することがら得られるという」とか書いてるんだけど、実際にこの本に出てる例は、情報源とコネがあってそこから漏れてきた、みたいな話ばっかりなんだよね (^^)。
ぼくなんか何か自分の仕事に役立つようなこと載ってないかな、みたいなスケベ心もあったんだけど、そういう意味ではあまり役にたつ感じはしませんでした。まあ、そう簡単に教えられる話でもないんでしょうが。でも、ヒントぐらいはあったかな。あったということにしておこう。でないとアホだと思われるかもしれん (^^)。
ところで、この本に載ってる「X55」の話って、結構重大な問題じゃないですか? なんで世間ではたいして話題になってないんでしょう。え、それこそがインテリジェンスじゃないか、空気読めって? す、すびばせん<m(__)m>。
まあでも、このお二人の本はなかなか面白そうなので、もうちょっと他の本も読んでみよぉっと。
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「PLUTO 4」を読みながら、もしこのマンガの世界に、「女性は子供を産む機械」という発言をする政治家が現れたらどうなるかを考えてみた。
この世界では、ロボットの人権が確立されているから、人間を機械に例えることが即ネガティブな価値をもつ主張したら、逆にロボットに対する差別になるだろう。「なぜ機械に例えられるのがそんなにイヤなんです? それは、あなたの中にあるロボットに対する差別心の現われじゃないですか?」などと、「ロボット権」運動家に抗議されるかもしれない。だから、せいぜい事実と違う、というような主張しかできないはずだが、もともと例え話なのだから、事実とは違うに決まっている。
ひょっとしたら、逆に、人間の女性だけが子供を産めると暗に主張しているととられて、ロボットの女性から「ロボットが子供を産めない機械だからと言って差別するんですか?」と言って抗議されることも考えられる。現に作中では、ロボットであるはずのゲジヒトやイプシロンは、自分の身体を創った人間の科学者に対して、深い愛情を持つ存在として描かれている。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが、この 4 巻では御茶ノ水博士の性格が掘り下げられていて、ほとんど虫愛ずる姫君みたいに、人間とロボットとを同等に扱う博愛主義者として描かれているのが面白かった。また、科学省長官であるはずの御茶ノ水博士でも、部品を入手できないので旧式のロボットは修理できない、という描写はなかなかリアルである。これが昔の SF だったら、こんな旧式のロボットを修理するのはお茶の子さいさい、みたいな話になっただろう。(ところで、御茶ノ水博士が修理する犬型ロボットはアイボそっくりだがアイボなんだろうか)
ちょっとネタバレになりますが、この巻ではアトムがあっさり「死」んでしまいます。でも、手塚さんの原作では、ゲジヒトやヘラクレスの方が先にやられるんですよね。それで、アトムは天馬博士に 100 万馬力に改造されるんだけど、エネルギー過剰で暴走して海底に沈んじゃう。それを、プルートゥとイプシロンが協力して助ける、という展開になるのですが、この原作をどこまで尊重し、どこからはずしていくのか。浦沢さんの腕の見せ所ですね。
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After Downing Street という団体が、 「YouTube Impeachment Campaign」、つまり、YouTube のビデオでブッシュさんを弾劾しましょー、というキャンペーンをやっているようです。具体的には、こんなビデオをみんなで投稿するらしいです。
After Downing Street の Downing Street は、もちろんイギリスの首相官邸のことなんですが、別にイギリスの団体というわけではなくて、いわゆる「ダウニング・ストリート・メモ」にちなんでつけられたようですね。このメモはイギリスの政府筋から漏れてきた情報なんですが、アメリカがフセインを排除するために確信犯的にイラク戦争を起こしたという決定的な証拠だと言われているらしいです。
YouTube がどのように政治に使われるかという点で、面白い例になるかもしれません。
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無知で今日までまったく知らなかったのだが、「ヨーロッパ最後の封建国家」と呼ばれていた島が、民主化されることになったらしい。
その島というのは、イギリス海峡のチャンネル諸島の一つであるサーク島。なんと、エリザベス一世の時代に領主に与えられた権利を、そのままずっと引き継いできたらしい。日本で言えば、江戸時代以前の体制でずっと暮らしていたようなものだよね。
それをなぜ今さら変えることにしたかというと、圧制に耐えかねた住民が自由を求めて一斉に蜂起したとかいうことではまったくなくて (^^)、たまたまサーク島の隣にあるブレッチョウ島という小さい島に住んでいた、新聞社などを経営して有名なデビッド&フレデリック・バークレイ卿という双子の実業家が、その体制はヨーロッパ人権条約に反しているのではないかと指摘したから、というはなはだ散文的な理由だという。
それで封建領主側も条約に反しないようにいろいろ調節を図ったのだがうまくいかず、最終的に住民投票にかけた結果、民主的な議会を設立することになったんだとか。
イギリスのことに詳しいとはとても言えないぼくだけど、なんだかとても面白い国だとは思う (^^)。 なお、映像だけ見てるとのどかで牧歌的な島に見えるかもしれませんが、実はタックスヘイブンとしても有名な島であるということも申しそえておきます。
余談: たまたま正月に読んだ白田秀彰さんの「インターネットの法と慣習 」 にも、英米の慣習法の起源のお話が出ていて、そんなのは法学部の人にとっては常識らしいのですが、ぼくのような素人にとってはかなり興味深かったです。法と慣習の関係というのも、自分なりに整理しようと思ってヒマを見てはいろいろと理屈をこねているのですが、なかなかすっきりと理解できません。白田さんは、法制度をシステム論的に語れる数少ない人だと思っているので、今後もご活躍を期待しております。もっとも、全体として見ると、やはり本書の原型である HotWired でやっていたウェブ連載の方が内容がディープで面白かったですね。もちろん、これはあくまで個人的な好みであって、白田さんや出版社サイドにはまたいろんな思惑があるんでしょうけど。
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このエントリを書いた時点では、こういう枠組みを考えた理由については、まだうまく説明できる自信がなくてお茶を濁しておいたのだが、あれからかなり頭の中が整理されてきたので、今日はがんばってその続編を書いてみよう。 (長いぞ!)
そもそも、ぼくがこういうことを考えるきっかけになったのは、日本のハト派の方々に対してずっと感じていた、ある種の違和感だった。その違和感というのは、ハト派の方々は、平和を愛好しているはずなのに、なぜあんなに抑圧的に感じられるのだろうということである。その抑圧感を自己分析しているうちに、その感覚が、彼らが、国家主義=全体主義・平和主義=個人主義という図式を単純に信じていることからくることに気付いた。
改めて考えてみればわかるが、平和主義と個人主義が両立するということは、決して自明でもなければ、論理的必然でもない。 それはおそらく、全体主義から戦争という、日本がたどって来た歴史的経緯からそう思われてきたにすぎないのである。
もちろん、世界政府のようなものができて、究極の世界平和が達成されれば、世界の平和と、個人の人権・生命・財産を守ることが両立することは間違いないだろう。しかし、それはあくまで平和主義の理想が完全に実現した状態での話であって、そのような理想状態が実現していない段階では、平和という理想が個人の生命や財産を犠牲にするということだってありうるのである。
たとえば、先日のレバノン紛争