怪文書

 今朝、拙宅のポストに以下のような怪文書が投函されていた。

怪文書.jpg

 ここに書かれている内容自体ははっきりいってどうでもいい。その内容とは無関係に、この怪文書はぼくにとってきわめて不快であったので、そのことをここに明記しておきたい。

 第一に、拙宅のポストには「ポスティングお断り」と大書してあるのに、それを無視して投函されていたこと。この怪文書を作成・投函したものは、有権者であるぼくのライフスタイルなどより、このような怪文書を配布することが重要であると考えているらしい。

 第二に、この文書には、発行者や執筆者など、責任者の氏素性が一切記載されていないこと。書かれているのは、「NEWS VICTORY FOR XXX」なる怪しげなタイトルだけである。念のためにインターネットでも検索してみたが、この情報で発行者を特定することはできない。つまり、きわめて無責任な文書である。

 少なくともぼくは、このような不快な活動をする者がたとえ末端にでもいるような政党には、たとえどのようなすばらしい政策を主張しようとも、断じて投票する気はない。したがって、この怪文書との関連を疑われそうな政党は、自主的にこのような組織との無関係を表明し、真犯人の摘発に全面的に協力した方がよいのではないかと、老婆心ながら申し上げておく。

 この文書が公職選挙法に触れるのかどうか、現時点では確定できないが、ぼくはこの文書の違法性を確認するためにできる限りの努力をするつもりである。

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日本列島はステークホルダーみんなの所有物です

…って言えば、保守派のみなさんにも納得していただけたんでないの(^^)。

…にしても、鳩山兄弟は発言が軽いな…。

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再分配は悪

 アメリカの大統領選まであとわずかとなり、両陣営の論戦というか過激な中傷合戦が続いている。ぼくもヒマさえあれば CNN などでチェックしているのだが、特にマケイン陣営の演説を聞いていてつくづく思うのは、アメリカ人ってのは心底「社会主義」や「再分配」が嫌いなんだなあということ。

 最近、マケイン陣営はオバマは社会主義者だというレッテル貼り攻撃をしているのだが、その中では、socialism とか redistribution とかいう言葉は完全に「悪」を表す言葉として使われているのだ。たとえば、

McCain: And that's the problem with Senator Obama's approach to our economy -- he's more interested in controlling wealth than creating it, with redistributing money instead of spreading opportunity.

マケイン: それがオバマ議員の経済に対するアプローチの問題点なのです。彼は富を生み出すことよりも富を規制することに、機会を増やすことよりお金を再分配することに興味があるのです。

McCain: Senator Obama is running to be redistributionist-in- chief. I'm running to be commander-in-chief.

マケイン: 私は最高司令官(=大統領)になるために立候補していますが、オバマ議員は最高再分配官になるために立候補しています。

Palin: And you have to really listen to our opponent's words. You have to hear what he is saying, because he's hiding his real agenda of redistributing your hard-earned money.

ペイリン: みなさんは対立候補の言葉をよくきかなくてはいけません。なぜなら、彼は、あなたが一生懸命稼いだお金を再分配するという真の政治目標を隠しているからです。

Palin: Now is not the time to experiment with socialism.

ペイリン: 今は社会主義の実験をしているときではありません。

Palin: I'm not going to call him a socialist, but as "Joe the Plumber" has suggested -- in fact, he came right out and said it -- it sounds like socialism to him. And he speaks for so many Americans, who are quite concerned now, after hearing, finally, what Barack Obama's true intentions are with his tax and economic plan. And that is to take more from small businesses, more from our families and then redistribute that according to his priorities.

ペイリン: 私はオバマ議員を社会主義者と呼ぶつもりはありませんが、「配管工のジョー」さん(ある番組の中でオバマの税制案について質問して有名になった人物)が指摘したように、ジョーさんには社会主義のように聞こえたことは事実です。ジョーさんは、オバマ議員の税制案や経済政策の真の意図について心配している多くのアメリカ人を代表しています。それは、中小企業やわたしたちの家族からより多くのお金をとって、それを彼の優先順位に従って再分配することなのです。

 もし日本人がこのような演説を聞けば、多くの人が違和感を感じることと思う。「オバマは再分配をしようとしていると。それはわかった。で?」って。つまり、再分配を批判するにしても、その方法や額の多少を問題にしようとするはずだ。

 しかし、アメリカ人にはこの「で?」がないのである。少なくともこの演説が受けるような共和党支持のアメリカ人にとっては、再分配そのものが「悪」なのだ。ここだけは、日本人とアメリカ人の感覚が決定的に違っていることを認めないわけにはいかない。

 ぼくも、アメリカ人が基本的に自由を好み政府の介入を嫌う人たちであるということぐらい、知識としては知っていたが、今回の大統領選の議論を聞いていて、それが改めて感覚的に身にしみた。もちろん、アメリカ人にも(特にインテリには)リベラルな人はたくさんいるが、庶民レベルでの社会主義や再分配に対する感覚的な反発は根強いのである。

(もちろん、日本人にだって、モノづくりが「善」でお金を動かすだけで儲けるのは「悪」だとかなんとか、いろんな固定観念があるわけで、アメリカ人だけがおかしいと言いたいわけではまったくない。為念。)

 オバマ氏が大統領に選ばれることは、アメリカ人の人種に対する意識、宗教に対する意識、社会主義や再分配に対する意識、いろんなものが変わり始めた証として捉えられるのかもしれない。大統領選の結果だけでなく、アメリカがこれからどこに向かおうとしているのかということから、しばらく目が離せそうにない。

追記: しまった、分配と配分を間違えた。ということで訂正しました(^^)。 お恥ずかしい。あと、オバマ氏の大統領としての資質については、必ずしも手放しで認めてるわけではないです。というか、まだよくわからないというのが正直なところ。確かに演説がうまい人だなとは思いますが、政策のすべてに必ずしも賛成なわけではありません。ただ、大統領選挙にとって政策がそれほど決定的かというと、必ずしもそうとも思ってないので(^^)。

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政治ポジションテスト 外交編

 Yahoo! みんなの政治の「政治ポジションテスト」に「外交編」ができたので、一応やってみた。

あなたは「グローバル指向のハト派」です!

 まあそうでしょう。自分でもそう思ってますよ(^^)。

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太田光の鋭すぎる踏み込み

 「爆笑問題のニッポンの教養」を観てて、一瞬わが耳を疑った。ゲストは伊勢崎賢治。東ティモール、シエラレオネ、アフガニスタンなどの紛争処理を現場で指揮した、自称「紛争屋」さんだ。この人は、去年、マル激トーク・オン・ディマンドにも出演していて、それを観たときから面白い人だなあと思っていた。なにせ、机上の理論ではなく、実際に紛争のまっただなかに飛び込んで停戦や武装解除を実現してきた人だから、言葉に説得力がある。

 ところがなんと、こういう人に対して、太田光は、「あなた戦争が楽しいんでしょ?戦争がなかったら生きがいがないんでしょ?」てなことを言い放ったのである。

 ほとんど無礼すれすれ、いや、完全に無礼な発言に違いないのだが、伊勢崎氏は笑顔を崩さず、「いやあ、そのことは自分でも自覚してますよ。だから「紛争屋」なんて名乗っているわけでね」などとおだやかに返したのであった。

 ぼくはもちろんこのやりとりを聞いて驚いたのだが、決して不快な印象ではなかった。むしろ、太田のするどい踏み込みをギリギリで見切って受け流す伊勢崎という、一流の武道家同士の立会いを見たような気分だった。いいものを見せてもらいました、という感じ。

 もちろん、この質問のおかげで、視聴者は、リアリズムとロマンティシズムの間でバランスをとる伊勢崎の強靭なバランス感覚を感じ取ることができたであろう。ジャーナリストには、ときにこういう踏み込みが必要だが、たぶん、現在のテレビのインタビュアーで、あそこまで無礼な質問ができる人は、あと田原総一朗ぐらいしかいないのではないだろうか。

 いっそ、田原引退後は太田が朝生の司会をやればいいのではとも思ったが、よく考えると、太田が司会だったら、ゲストそっちのけで一人でしゃべりまくりそうだから、無理かもしらんね(^^)。

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政党コンビニ論

 サンデープロジェクトを見ていたら、田中康夫さんが、自民党と民主党は、高島屋とイトーヨーカ堂(固有名詞はうろ覚えです)みたいになるべきなのに、実際にはそうなってないと批判していた。

 なかなかうまい例えだとは思うが、ぼくに言わせれば、氏の認識はまだ甘い(^^)。ぼくはむしろ、二大政党は、セブンイレブンとローソンぐらいの差になっていくだろうし、そうなるべきだと思っている。

 高島屋とイトーヨーカ堂というのは、高級デパートと庶民向けデパートという意味で、有権者にわかり易い選択肢を示せという主張だろうが、今の時代、平均的な有権者の政治に対する要求にそんなに差があるはずがない。それを無理に差別化しようとすれば、結局、有権者は常に同じ政党を選ばざるおえなくなって、競争にはならないだろう。一方がシェアを独占し、もう一方がニッチ政党になるだけのことだ。

 したがって、常に競争が成立するためには、コンビニのように、どの店に行っても品揃えはだいたい一緒でなければダメなのだ。一方では弁当を売っているが、もう一方では売ってないというほど大きな差があってはならない。 そのように、基本的な前提条件はだいたい一致させた上で、ちょっとだけ駅に近いとか、牛丼の肉の量がちょっとだけ多いとか、ボールペンがちょっとだけ安いとか、店員の接客マナーがちょっとだけいいとか、もっと細かいこまかーいところで争うべきなのである(^^)。

 逆に、共産党や社民党などは、それこそ、CD や DVD 専門店のような、ニッチ政党を目指せばよろしい。CD や DVD しか売ってなくても、コンビニに勝てるはずだというような変な勘違いをせず、あくまでニッチであることを自覚した戦略をとっていれば、二大政党の間でも、それなりの存在意義を維持できるはずである。

 もっとも、昔の政治家や評論家だったら、もっと八百屋と魚屋とか言っていたはずで、田中氏はそう言わなかっただけ、まだ時代を読めている方だとは思うのだが、ぼくなんかから見ると、まだまだ政党制に対するある種の幻想というか固定観念を捨てきれてないのではないかと思ってしまう(^^)。みなさんは、どちらの歴史観が当たっているとお思いになるだろうか。

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God's Christian Warriors

     先日紹介した、CNN の God's Warriors シリーズの一つ。今度のテーマは、まさにど真ん中の直球で、アメリカの宗教右派である(^^)。

     盛りだくさんな内容で、例によって観ているだけで疲れてしまうような話も多かったが、政治に宗教を持ち込むなと訴えて支持を得ている牧師とか、環境問題でリベラル側に立つ神学者とか、少しは希望の持てそうな話もあった。

     森孝一先生なんかの本を読んでいればわかるようなことも多いが、その後のかなり過激な展開もいろいろ描かれているので、アメリカ社会とキリスト教の関係に興味のある人には観ることをお勧めしておく。

     CNN International では、この土日にあと 3 回ぐらい再放送があるはず。CNNj でも「神の戦士:キリスト教編」という題で、だいたい同じ時間にやってるみたい。

     改めて思ったけど、この問題は日本の文化保守の問題とも似てるよね。公の場所に十戒を掲載しよう運動は日の君運動みたいだし、進化論を教えるな運動は教科書問題みたいだし、過激な性教育に反対みたいなのも同じですよね。まあ、ある意味当たり前だけど(^^)。

     時間があれば、あとでもっと詳しく紹介するつもり。今日はとりあえず疲れた。。。 (番組を観てくれれば、疲れる気持ちもわかってもらえるでしょう(^^))

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ゴアさんとブッシュさんは大差ない

 ゴアさんがノーベル平和賞を受賞したというので、日本のマスコミもなんとなくゴアさんえらいえらいという雰囲気になっているようだが、ぼくはそういう現象をどうしてもあまり素直な眼で見ることができない。というのは、ゴアさんがブッシュさんに負けた 2001 年の大統領選のときのことを思い出してしまうからだ。

 あのとき、日本のマスコミはなんと言っていたか。ほとんどが、ゴアもブッシュも政策には大差ないと言っていたのだ。信じられない人は、新聞の縮刷版でもひっくりかえしてみるといい。その後、この二人がどのような道を歩んだかは、みなさんご存知の通りだ。

(もちろんそこには、冷戦の終了による共産主義の衰退とか、ネオコン/ネオリベの台頭とかにより、保守とリベラルの違いが見えにくくなっていたという背景があるのは確かなのだが)

 念のために言っておくが、ブッシュさんもゴアさんも、当選してから、あるいは、落選してから豹変したというわけでは必ずしもない。ぼくは、当時まだ若くてマジメだったから(というより、不健全な懐疑の精神に満ち満ちていたから(^^))、選挙中に両者の公約をチェックしてみたことがあるのだが、京都議定書の離脱だとか同性愛者に対するなんちゃらであるとか、その後ブッシュさんが物議をかもすことになる政策の多くは、当時からちゃんと公約に書いてあった。だからぼくは、後になって京都議定書の離脱とかで大騒ぎしているマスコミを見るたびに、「けっ、何を今頃騒いでやんでえ」とせせら笑っていたものである(性格悪くてすいません)。

 そういうわけで、以来ぼくは、日本のマスコミの海外報道というものを、あまり信用しなくなった。また、ぼくは当時からゴアさん支持だったのだが、今頃になって、ゴアはえらい、ブッシュは○○、みたいなステロタイプなイメージを喧伝している日本のマスコミの尻馬に乗る気にもあまりなれないのである(^^)。

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God's Jewish Warriors

 CNN International で "God's Jewish Warriors" というパレスチナ紛争の歴史を振り返った番組を観たのだが、あまりになんの救いもない話ばかりなので、くらーい気分になってしまった。

 ちょっと興味深かったのは、ユダヤ人とアメリカの福音派(Evangelicals)のクリスチャン・シオニストとの結びつきを描いた部分。まあ、よく言われる話ではあるのだが、知らない人のために説明すると、福音派というのは、ヨハネの黙示録とかをわりと字義通りに解釈する人たちで、その解釈によると、イスラエルの建国は最後の審判の前兆なのだそうだ。

 だから彼らはイスラエルを熱烈に支持しているのだが、おかしいのは、彼らの解釈どおりに最後の審判が実現すると、ユダヤ人は異教徒だから、最終的には地獄に落ちることになるというのだ。なんじゃそりゃ(^^)。

ここにスクリプトが書いてありますね。"It's controversial in part because in the judgment day scenario embraced by some evangelicals, Jews who don't convert to Christianity burn in hell." だそうですよ。)

 ぼくはいろんな宗教には寛容な方だと思っているのだが、もうね、このエバンジェリカルのクリスチャン・シオニストだけは、はっきり言ってキ○○イではないのか、と言いたくなることがある。キ○○イでなければ、カルトだよね。ためいき(チャーリーブラウン風に)。

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アルメニア人大虐殺

 恥ずかしながらぼくも知らなかったのだが、第一次世界大戦の頃にトルコ人によるアルメニア人虐殺という事件があったそうな。しかし、トルコ政府はこれを認めておらず、「歴史認識」に関する論争が長いこと続いているんだとか。

 で、これも日本ではあまり報道されてないから書くけど、先日、アメリカの下院が、この事件を「大虐殺(genocide)」と認定する決議案を承認したんだそうだ。

(特に、朝日が完全に無視してるのは不思議だ。読売や日経には一応出てるのに。こういうことするから、変に勘繰られるんじゃないのか)

 トルコという国は、イスラム教徒の多い国家であるにもかかわらず、イラク戦争でアメリカ軍に飛行場を提供したりして、多大な協力をしている。なのにそのアメリカにこういう決議を出されたんで、大激怒しているらしい。さらに、イラク北部に住むクルド人に対する迫害の問題もからんだりして、なんだかややこしいことになっているらしい。

 日本人なら誰でも、どっかで聞いたような話だな~、と思うだろうね(^^)。いろいろ考えさせられるけど、面倒だからここには書かない(^^)。

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ミニマックス戦略としての陰謀説

(前に、「ビジネスはプラスサムゲーム(を目指す)」というのを書いたことがあるけど、その「政治編」みたいな感じ。)

 米下院で従軍慰安婦決議とかが出て、ネット上ではまたぞろ不毛な政治論争が沸き起こっているようだが、こういう論争にはうんざりしてる向きも多いと思う。こういう、ウヨとかサヨとかカタカナで書かれてしまうような方々の言説を見ると誰でも気づくのは、陰謀説が多いことである。やれ、サヨは特定アジアと結びついて日本を売り渡そうとしているとか、ウヨは国民を洗脳して戦場に送りこもうとしているとか。。。(^^)

 では、なぜ彼らの主張にはこんなに陰謀説が多いのであろうか。それは、彼らが政治を闘争として捉えていて、政敵は常に自分にとってもっとも嫌な手を打ってくる、という考えを前提にしているからではないかと思う。

 もちろん、こういう考え方が合理的思考に基づいているとは必ずしも言えないのであるが、合理的に解釈できる方法が一つある。それは、この考え方を、ゲーム理論で言うところのミニマックス戦略として捉えることである。

 ミニマックス戦略というのは、ある種のゲームにおいて、「最適」な戦略であることが数学的に証明されている戦略なので、そういう戦略をとることに別に問題はないと思う人もいるかもしれない。しかし、実はこの「ある種のゲーム」というのには、かなり厳しい制約がついている。それは、そのようなゲームはゼロ和ゲームでなければならないということである。

 ゼロ和ゲームというのは、相手が得すれば必ず自分は損する、したがって、相手の得と自分の損を足すと常にゼロになる、というタイプのゲームのことである。たとえば、勝ちと負けしかない将棋のようなボードゲームであるとか、有限のリソースを取り合うような闘いとかはすべてこれに相当する。

 しかし、現実世界の闘争には、ゼロ和ゲームでないものも多い(むしろ、ほとんどがゼロ和でないと言ったほうがよいのかもしれない)。権力闘争にしても、特定の地位を取り合うという点だけを考えれば、ゼロ和ゲームとみなせるかもしれない。しかし、一般の有権者にとっては、ウヨが勝とうがサヨが勝とうが、結果として国がよくなればいいのであるから、こういう政治闘争はゼロ和ゲームではまったくないのである。

 こういうゼロ和でないゲームにおいては、ミニマックス戦略は必ずしも「最適」戦略ではない。言い換えれば、このようなゲームでは、決して「敵性悪説」にたたず、ある意味で「敵を信じる」ことが必要になってくる。もっとも、この「敵を信じる」というのはあくまで比喩的な表現であって、厳密にそれがどういうことを指すのかを言うのはなかなか難しいが。

 しかし、少なくとも、敵は常に最悪の手を指してくる、という前提にたっていては必ずしも最適の結果は得られない、ということは、ある種の数学的なモデルでも証明されていることなのである。そのことを、陰謀論好きな方々も、知っておいたほうがよいのではないだろうか。

 もちろん、これは陰謀説が常に誤りであるという意味ではない。実際、オウム事件や拉致事件では、陰謀説的な説明の方がむしろ真実に近かった。問題は、不確実な情報の下で、さまざまな戦略にどのようにプライオリティを置くかなのである。陰謀説論者というのは、入手した情報の確実性との相対的な関係を考えたときに、あまりにも陰謀説対策にプライオリティをおきすぎる。それは必ずしも最適戦略とはいえないということ。

 もっとも、いくら理詰めでこういう説明をされても、陰謀説的な思考法から抜け出せない人もいるだろう。おそらく、そういう人たちにとっては、政治闘争の世界が「局所的」にゼロ和ゲームのように「見えて」いるのである。その原因が、彼ら自身の見る目が歪んでいるからなのか、それとも、本当に近似的にはゼロ和ゲームになっているからなのかは、人によるだろうが。

 先に書いたように、特定の地位を争っているような人たちにとっては、権力闘争が近似的にゼロ和ゲームになってしまっているのは確かだろう。だから、こういう人たちにとっては、権力闘争がゼロ和ゲームでなくなるようなインセンティブを与えることが必要なのかもしれない。

 しかし、一般庶民にとってはそういうことはほとんどないはずなので、そういう人が陰謀論に極端にこだわっているのだとしたら、むしろゲーム盤を見る目の方が歪んでいるのである。ウヨとかサヨとかカタカナで呼ばれてしまうような人たちの言説に触れた一般庶民がなんとなく引いてしまうのは、おそらくはそれが原因なのだと思う。

(昨日書いた米長さんが失敗ばかりしているのも、ゼロ和ゲームである将棋の世界の戦略を、ゼロ和ゲームではない現実世界に持ち込もうとしているから、なのかもしれない…(^^)。)

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やっぱり自民党は終わっていた

 マル激トーク・オン・ディマンドの「データから見えてくる『やっぱり自民党は終わっていた』」は久しぶりのヒット。内容はもちろん参院選の分析なのだが、ありがちな床屋政談の延長みたいな話とは違って、「計量政治学」の専門家による統計的な分析。

 特に、浮動票頼みと思われている民主党に意外と手堅い基礎票があるとか、自民党支持層よりもむしろ社民・共産支持層から民主党に票が流れたとかの分析は目から鱗であった。

 前から思っていたのだが、これからは、政治にもマーケティング的な手法が導入されていくことは不可避のように思われる。もちろん、そこにはメリットとデメリットがあるが、「よらしむべし、しらしむべからず」みたいな政治文化が主流だった日本では、いったん極端なポピュリズムの方向に振ることは必要だと思う。そのように、政治の責任をいったん有権者に投げた上で、あらためて提案型の政治家に投げ返すという過程が必要なのだ。

 実は、ぼくが今一番注目しているのは、小沢さんの今後の行動である。誤解を招くかもしれないが、ぼくは、政治には「悪」がつきものだと思っていて、その「悪」はなるべく年長者が背負うべきものだと思っている。まあ、こういうことをあんまりおおっぴらに言うと、小悪党の自己正当化に使われてしまうので、あまり大きな声では言わないようにしているのだが(^^)。

 政治家に歴史的な役割というものがあるとすれば、今の小沢さんに与えられた役割は、ある種の「悪」を引き受けることだと思う。問題は、彼自身にその自覚があるかどうかだ。もしその自覚があれば、彼は一時的には評判を落とすことになるだろうが、後世の歴史家からはある種の歴史的役割を果たした政治家として評価されるだろう。その自覚がなければ、単なる個人の名声や権力のために、政局を混乱させただけの小人物として評価されることになるだろう。…と、ぼくは密かに思っている(といいつつ、ここに書いてしまったが(^^))。

 ぼくは、小沢さんほどのキャリアを持つ政治家なら、政治と「悪」の関係について深い哲学を持っていてもおかしくないと思うので、そういう意味で、今後の政局に注目しているのである。まあ、他人のために「悪」を引き受けるなんてまっぴらごめんだとしか思っていない、典型的な小人物タイプのぼくが言うのもなんであるが(^^)。

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Outfoxed: Rupert Murdoch's War on News

Outfoxed: Rupert Murdoch's War on News (Full)  ニューズ・コーポレーション DJ を買収するらしいというので、マードック氏について勉強しようと思って取り出したのが、ずっと積読(じゃなくて積視聴か?)だったこの「Outfoxed」というビデオ。Outfox というのは、もともと「裏をかく」というような意味だが、この題名ではそれを FOX テレビ(もしくは、FOX ニュース・チャンネル)の FOX にひっかけている。FOX テレビというのは、言わずと知れた米 4 大ネットワークの 1 つで、ここで放映しているニュース番組には保守寄りのバイアスがかかっているというので問題になっていることはご存知の通り。

 最初に購入したときには、マードック氏の経歴とか政界とのコネクションとかについて描いているのかと思っていたのだが、実際に観てみると、そういう話はほとんどなくて、むしろ、FOX ニュースがイラク戦争や大統領選挙のときに、どのような印象操作を行っているかを示す実例が中心だった。

 たとえば、"Some people say..." というような表現を使うことによって、 ニュースに製作者側の意見を忍び込ませる、というような印象操作テクニックがコメンテーターによって語られた後に、実際に "Some people say..." という表現が使われている FOX ニュースのビデオクリップの例をイヤというほど並べる、という感じ。

 これは、The Daily Show なんかでもよくやる手だし、最近では、YouTube なんかに投稿された一般の方が編集したビデオ(MAD っていうらしいですね)にもよく見られる手法であるが、実際の番組の雰囲気を短時間で効果的に伝えてくれる。( もっとも、これだって一種の印象操作なので、その点には注意が必要。)

 一番おかしかったのは、「子供の教育に悪いので(正確には、有名人が子供の悪い模範になっているとか言うなら、まず自分自身が)、"shut up" と言って他人の発言をさえぎるのはやめろ」と言われたビル・オライリー氏が、「私は 6 年間で 1 回しか "shut up" と言っていない」(よく聞き取れないけど、たぶんこう言ってるんだと思う)とか言い返した後に、ビル・オライリーが "shut up" と言ってる映像が山ほど挿入されてたところ (^^)。

 この例でもわかるように、実は、このビデオの主役は、ルパート・マードック氏というより、むしろビル・オライリー氏である。ビル・オライリー氏の横柄な態度や断定口調は、み○も○た氏などを彷彿とさせるところがあり、こういう手法が決してよその国だけの話ではないと感じさせる(^^)。もちろん、ビル・オライリー氏とみ○も○た氏では思想的バックグランドはかなり違うだろうけど。

Hannity & Colmes みたいに、わざと弱気なリベラル・コメンテータを入れて、両論併記を装う手法って、日本にもあったっけ? ぼくは日テレとかフジとかのニュースをあまり見ないのでわからないのだけど(^^)。そう言えば、こないだ News 23 で桜井よしこさんと姜尚中さんがいっしょに出てたけど、あれもそういう手法かなあ、とか言ったら殴られるか(^^)。橋本徹はただの変人だろうしなあ(^^))

 ある 9.11 犠牲者遺族の人なんかは、ビル・オライリー氏がテロリストを悪者にしようとしてるのに逆らって、政府の責任を追及しようとしたがために、9.11 陰謀説論者のレッテルを貼られてしまっていた。本編中でアル・フランケン氏も言っているが、これなんかは印象操作どころか、単なるウソではないかと思うのだが(^^)。

 Wikipedia の英語版の記事によれば、この作品にも FOX 側からの批判があって、本編中で元 FOX のディレクターとか言ってる人たちが経歴詐称だとかいう疑惑もあるらしい。だけど、ぼくのような日本人から見れば、そんなのは、たとえ本当だとしても、たいした問題じゃないと思う。FOX がどういう編集を行っているかは、コメントの信憑性がどうあれ、作品中に引用された大量のビデオクリップ自体が雄弁に語っている。

 そもそも、日本人にとっては、FOX ニュースの映像を見る機会がほとんどない。FOX のドラマなんかは BS でもやっているが、ぼくの知る限り、FOX ニュースについては、一部がインターネットなどで見れるのみである。したがって、このビデオは、悪名高い「FOX ニュースの印象操作」を、日本にいながらにして観れる機会を提供してくれる貴重な作品と言える。また、リージョン・フリーなので、リージョン 1 用の DVD プレーヤを購入する必要もない。残念ながら日本語の字幕はないが。

 最近は反米が流行りのようだが、このビデオを見たら、このような放送が行われている環境で、個人がどこまで冷静な判断力を維持できるか心もとなく思う方もいるのではないだろうか。だとすれば、これは必ずしも他人事ではなく、アメリカ人を笑っていれば済むような話ではない。こういうビデオを観ることは、アメリカの抱える問題を、海の向こうの傲慢な人たちだけの問題ではなく、自分たちと地続きのより身近な問題として捉えるためにも役立つはずである。

(余談だが、サウスパークとかデイリー・ショーとかの面白さだって、本当はこういう政治やメディアにおける保守とリベラルの対立の歴史とかを知らないと理解できないのである(^^))

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核に関するいくつかの真実

 久間発言についての「New York Post」の社説。New York Post というのは、Fox テレビと同じく、ルパート・マードックのやってるニューズ・コーポレーションの発行するタブロイド紙で、かなり保守色が強いと言われています(日本で言えば夕刊フジみたいなものだと言ったらマズいかな(^^))。

 そのためか、かなり日本人の神経を逆なでする内容になっているので、まず大きく深呼吸して、覚悟を決めてから読んでね(^^)。


Some Nuclear Truths

New York Post
09 Jul 2007

核に関するいくつかの真実

太平洋戦争を終わらせた1945年の出来事について、日本の首脳部の一員が、記憶にある限りで初めて真実を語った。
そして、その発言は、彼の仕事、そしておそらくは政治キャリアまでもを犠牲とすることになった。
久間章生氏は、先週、日本の防衛大臣の職を辞することを強いられた。それは、久間氏が講演で、なぜアメリカが広島・長崎に原子爆弾を落としたかを理解できると述べた数日後のことだった。
「私は、原爆投下が戦争を終わらせと理解している。そして、それはしょうがないことだったと考えている(訳注:日本語の原文を引用するかわりに、わざと英語から直訳してみた)」と、久間氏は言った。ちなみに、久間氏は長崎出身だった。
さらに、久間氏は次のように言い添えた。「実際、この攻撃は2つの都市に大きな災厄を引き起こしたが、戦争が速やかに終結したことにより、日本は、北方領土の一部をソビエト連邦に奪われなくて済んだ。ソビエト連邦は、長崎に原爆が投下された日に宣戦布告して、日本が占領していた満州に侵攻した。」
そして案の定、政治的な大混乱が巻き起こった。
久間氏の発言は、歴史的には正しいのだが、日本の歴史修正主義者が考える第2次世界大戦における核兵器の役割とは完全に矛盾する。もちろん、日本人の核アレルギーを刺激したことは言うまでもない。
怒りに満ちた糾弾のただ中で、久間氏は謝罪を試みると同時に、公式に非難を受け入れた。しかし、抗議の声が絶えることはなかった。
久間氏は、覚悟を決めて火曜日に辞任した。それは、国政選挙に直面するその月になって、世論調査の支持率が30パーセント以下に急落したことに苦しむ安倍晋三首相にとっては、相当に有難いことだった。
もちろん、戦時中の問題で、日本が独自の見解を維持し続けているのは、原爆投下のことだけではない
ついこの3月には、安倍首相自身が、20万人のアジア人「従軍慰安婦」(訳注:という表現は正しくないとかなんとかいう議論があるのは知っているが、ここは慣例にしたがった)が性奴隷になることを、日本軍が強制したことはなかった、という主張により、国際的な批判に直面した。
久間氏の発言が、日本人の神経を逆撫でしたのは、日本がまさに、北朝鮮の大量破壊兵器の脅威による地域的な核問題を直視し始めたときでもあった。
それはまた、日中間に古くからあるライバル意識がよみがえりつつあるときであり、また、日本が世界的な経済大国としての役割にふさわしい安全保障体制をとることを求める声が高まりつつあるときでもあった。
それが現実のものになれば、日本が核武装する日も遠くないだろう
したがって、アメリカ人は、60年以上も前に使った武器について、罪や恥の意識を感じる必要はない
同じように、久間氏も、政治的には不評だろうが、否定できない真実を話したからといって、罪や恥の意識を感じる必要はないのである。

(太字、強調は訳者による)


ぼくはどっちかというと親米派なので、別に日本人の反米意識を煽ろうと思って訳したわけではありません。ただ、少なくともアメリカ人の一部にはこういう考えの人たちがいて、それはタブロイドとは言え新聞にさえのるぐらいのものである、という事実は冷静に認識しておいたほうがよいのではないかと思ったものですから。

特に注目すべきなのは、太字で強調したところでもわかるように、この記事では、久間発言に反発する人たちが、歴史修正主義者といっしょくたにされていることでしょう。これは、平和主義者の方々や、広島や長崎の方々にとってはたいへん不本意なことかもしれませんが。

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客がいつも一番好きなものを注文すると思ったら大間違いよ!

 ノートパソコンのことだが、完全におしゃかになったわけではなくて、状況によって起動したりしなかったりするので始末が悪い。何か部品を交換すれば復活しそうなのだが、どれが故障部品なのかがなかなか特定できないのだ。あまり特定に時間がかかるようなら、早々に見切りをつけて別マシンを調達したほうがよいだろうし。とりあえず、ファン・アセンブリあたりが怪しいので、一応注文だけはしてみたが、どうなることやら。

 ところで、前から思っていたけど、うまく言えなかったことを、うまく表現する方法を、また思いついたので書いておく。ほら、選挙では自分の考えに近い政党や政治家を選んで投票すべきだっていうでしょ。あれは必ずしも正しくないとぼくは思うのだ。

 もちろん、民主主義国家では、国民に主権があり、国会議員は主権者たる国民の代理人に過ぎない、という考え方があるのは、無知なぼくでもよーく知っている(^^)。でも、こういうきれいな話が成り立つのは、選好と能力のギャップがまったくない場合だけだ。いくら国民が主権者だっていったって、国際政治の問題なんかは、どっちにしろ日本の都合だけでは決められない。

 たとえば、こう考えてみてほしい。あなたが一番好きな料理がカレーだったとする。そのあなたが、最高級すし屋に行ったとしよう。あなたはカレーを注文するか? しないよね。すし屋に行ったら、すし屋が自信をもって作れるメニューの中から、もっとも好きなものを選ぶべきだ。このような場合、すし屋の能力が制約条件になるので、自分の選好だけにしたがって選択することは、必ずしも最善の解ではないのである。

 何が言いたいかわかるだろうか。ぼくは、今の日本の政治家に、「対米追従」という以外のメニューを注文しても、ろくな料理が出てくるとは思えないのだ。だから、ぼく個人としては、決してそんなに好きな料理ではないんだけど、現実的な選択しては、「対米追従」を注文せざるおえないのだ。おそらく、このような選択をしている有権者は、ぼくだけではないはずである。

 「対米追従」は、昔からあるありふれた料理だから、誰でもそこそこの味のものを作れる。しかし、それ以外の料理はそうではない。多大な能力と努力が必要だ。自分はそういう料理を作れる、と自称している政治家はいくらでもいる。しかし、本当に作れそうなヤツがいるか。。。?

 ぼくはホントは、このようなぼくの認識を覆してくれる料理屋、もとい、政治家の登場を心待ちにしているのだ。ただし、それが松岡洋右のような身の程知らずでなければよいがとも思っているが(^^)。

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朝生・日中同時生放送編

 今日の朝生は、日中同時生放送ということで、日中双方の論客が日中問題について論じたのだが、一番強く感じたのは、

中国人は話が長い!

ということでした (^^)。

 なんていうか、余計な前置きや形容詞が多くて、そのくせ、核心部分ははぐらかすから、正直言って、聴いててイライラしてしまうんだよね~(^^)。それが、スタジオに来ていた論客だけじゃなくて、北京に集まっていた中国の学生さんたちもそうなんだからなあ (^^)。

 まあでも、田原さん自身はわりといつもの調子だったのでよかった。この企画の話を最初に聴いたときには、田原さんも日中関係を気にしてビビってしまうんじゃないかという心配もあったけど。

 正直言うと、筑紫さんのクリントン番組のときみたいに、何かハプニングが起こらないかと、心配半分、いけない期待半分で観てたところもあったんだけど、特にそういうこともなかったですね。

 一番おかしかったのは、番組中に、中国の視聴者から、司会者は中立であるべきだ、みたいな文句が何度も来ていたこと。そりゃくるだろうね~。でも、おかしなもので、普段は田原さんに批判的なこともあるぼくまでが、

これこそが田原総一朗なんだ。まいったか!

などとつい自慢したい気持ちになってしまった (^^)。これは一種の「愛国心」なのだろうか? ぼくは自分では愛国心なんてほとんどないと思ってたんだけどなあ (^^)。

 まあでも、こういう企画を実現したこと自体は、やっぱり高く評価すべきであろうと思う。田原先生、もうあんたは死ぬまでその路線で行け! その路線をやめるときは死ぬときだ!(^^)  骨はぼくらが拾います (^^)。

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あなたは「リベラルかつ大きな政府を目指すタイプ」です!

 Yahoo! みんなの政治政治ポジションテストの結果。

(クリックすると、ぼくの結果が見れるようです)

 「リベラル」はその通りだと思うけど(ぼくみたいなヤツが「保守」なわきゃーないのだよ (^^))、必ずしも「大きな政府」を志向しているわけではないのだが、セーフティネットの充実にはまったく反対ではないので、そうなったのかな。でも、セーフティネットの充実なんて、竹中さんですら言ってたことだし (^^)、格差はあっていいとか公言してるのに、大きな政府派に分類してくれちゃっていいのかな (^^)。別にチャべス氏だって好きじゃないし (^^)。

 まあいいや。ホントはこんなことしてる場合じゃないのだ (^^)。仕事仕事ー!

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作りたくても作れないって、どういうこと?

 昨晩の朝生は、パネラー全員が女性で、これは朝生史上初めてのことだそうだ (^^)。もっとも、だからといって、議論の質に影響があったという感じは、いい意味でも悪い意味でも別にしなかったな (^^)。

 でもどうなんだろ、10 年ぐらい前だったら、やっぱりこうはいかなかったんじゃないかな (^^)。少なくとも、大高未貴さんとか雨宮処凛さんみたいな論客を女性の中から探すのは難しかっただろう。これは別段彼女達を高く評価しているという意味ではなくて、むしろ純粋な論客としての評価は正直高いとはいえないわけだけど、それは普段の男ばっかりでむさ苦しい朝生でも同じことだよね。ただ、ああいう論客が出てきたということは、男性論壇と女性論壇がある種相似形になってきたことの一つの証明にはなると思うのだ。

 少子化問題については、ぼくの知る限り、そもそも、価値観の変化のせいなのか環境のせいなのか、という論争にすらきちんとした決着がついていないはずなんだよね。環境のせいだと主張する方々は、よく「子供を作りたくても作れない人がたくさんいる」ということを強調するが、ぼくはこの「作りたくても作れない」という言い方にはある種のごまかしがあると思う。

 この言葉を使っている人がイメージしているのは、たぶん、収入が生活費だけでギリギリで、子供を作ると生活費すら不足してしまう、というような家庭なのだと思う。でも、こういうイメージでは、よく考えると、何も定義したことになってないのである。

 たとえば、収入は人並み以上にあるのに、毎日高級寿司やフランス料理ばかり食べていて、着る物もブランド品ばかり買っているために、生活費だけで収入を使い切ってしまって、それ以上支出を増やせないし、生活を落とすのも嫌だから子供を作れないという家庭があったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れないのか、作れるのに作らないのか、どっちだ?

 そんなのは極端すぎるって? じゃあ、質素な生活をしているのに、収入が人並み以下なので子供を作れない家庭を考えて見ましょう。でも、「1ヶ月1万円節約生活」みたいなメチャメチャな節約をして生活費を切り詰めたり、副業やパートを増やして過労死寸前まで働いたら、ギリギリ子供を作れるようになったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れなかったのか、作れるのに作らなかったのか、どっちだ?

 もうちょっと論理的に(あるいは経済学的に)考えると、子供を作るという行為には、「子供を愛する喜び」というような「効用」と、生活費の負担増、養育の労力などの「不効用」があって、効用が不効用を上回った場合に子供を作るということになる。

 そう考えれば、前者は不効用は小さいが効用もそれ以上に小さいので「作れるのに作らない人」、後者は不効用は大きいが効用がそれ以上に大きいので「作りたくても作れなかった人」、というふうにもいえそうな気がしてくる。したがって、効用が一定以上に大きいのに、不効用がそれを上回って大きい人のことを、「作りたくても作れない人」と呼べばいいと思うかもしれない。

 でも、よく考えると、こう置き換えたって、やっぱり何も定義したことにはなっていないのである。たとえば、子供の顔を見るのは大好きだが、世話をするのはそれ以上に大嫌いという人だって、この区分に当てはまるわけだが、こんな人が「作りたくても作れない人」だと思いますか? 

 じゃあ、精神的な効用と金銭的な効用を分けたら、と思うかもしれないが、精神的な効用と金銭的な効用は市場で容易に交換できるのだから、これだって同じことなのである。たとえば、「世話をするのが大嫌い」を「世話をする人を雇う金がない」と言い換えれば、形式的には、精神的な不効用ではなく金銭的な不効用になってしまうわけである。

 要するに、「子供を作りたい」などというのは個人の主観なので、第三者がその「作りたさ」の量だけを客観的に測定することは難しいし、「作りたい」と「作りたくない」の閾値を絶対的に決めることもできない。

 さらに本質的なことは、そもそも、子供を持つ喜びというものを、効用と不効用に単純に分けることができるのかいうことである。親がどれだけ不効用に耐えられるかということ自体が愛情の証であって、子供にとってはその愛情こそがもっとも必要なものかもしれないし、親にとっては、子供が自らの愛情を受け入れるということこそが子を持つことの最大の喜びかもしれないのである。だとすれば、不効用=効用という等式が成り立つことになりかねない。

 これがまた個人同士の関係であれば、個人の主観でもって、スポ根的に「お前には本当に子供を作りたいという気持ちがない! だから支援はしない!」とか言うこともできるかもしれない。しかし、政府が政策として支援を行う場合には、そんなわけにはいかないのである。したがって、政策論としては、「本当に子供を作りたいけど作れない人」だけに支援を行うことなど、おそらく不可能である。

 だからぼくは、「作りたくても作れない人」という言い方は、リベラル系の方々が、「自分達は個人の主体的な選択を尊重しますよ」というポーズを示すための、あるいは、少子化対策の名の元に所得再配分政策を行うための、一種のごまかしに過ぎないと思っている。 

 「作りたくても作れない」派の人は、某大臣の「女性にがんばっていただくしかない」みたいな発言がお気に召さないようだけれども、このように考えれば、少子化対策には、

  1. 政策によって、子供を作るという行為の不効用を減らし効用を増やす
  2. 子供を作る人の効用関数、つまり、価値観自体を変えることによって、子供を作るという行為の不効用を減らし効用を増やす

のどちらかしかない。これは、いずれにせよ、子供を作る人を優遇し、作らない人を相対的に冷遇するということなのであって(子供を作ろうが作るまいがまったく損得のない、完全に価値ニュートラルな社会、などというものも、おそらく定義不能である)、少子化対策をすると決めた以上は、口でなんと言おうが、やることはいっしょなのである。

 もちろん、実際の政策によっては、副次的な効果として、低所得層と高所得層、嫡出子と非嫡出子、初等教育と高等教育などの間で差が出るというようながあることは十分に考えられるし、そのへんがまさに政策としての考えどころではある。

 しかし、少子化対策の本質が、子供を作る人を合法的に贔屓する、ということに変わりはないのであって、それを肯定できないならば、むしろ、ぼくのように少子化対策そのものに否定的な立場をとるべきなのである。 

 本当は、保守とリベラルが対立しているのだって、むしろ、この副次的効果として何を選ぶかの方であるはずなのに、それをまるで、少子化対策としてどっちがより効果的か、という問題のように言うのは、論点のすり替えであろう。

 1 と 2 の違いにしても、リベラル系の方々は、なんとなく 1 の方がお好きなようだけど、そんなに単純にどちらがよいと決め付けられる話であろうか。極端な話、どんなに子供が嫌いな人だって、その不効用を上回るインセンティブを与えれば子供を作る可能性はあるわけだけど、子供一人当たり 10 億円ぐらいの補助金を出すというような政策が(予算のことは除いて考えても)「よい政策」だと思う? 「10 億円くれるなら子供を作ってやらあ」、みたいな家庭の子供が本当に幸せになると思う?

 政策目標自体の是非はさておき、それが正しいことを前提とすれば、それを実現するために、個人にインセンティブを与えるよりも、個人の価値観そのものを変えた方が、低コストで政策目標が実現できるし、社会に不自然なひずみを与えることも少ない、とも言えるんじゃないの? だとすれば、その政策目標にそった発言を大臣がすることだって、そんなに悪いことなのかと思うんですけどね。

 価値中立的に考えるために、たとえば、環境保護のためにレジ袋の使用量を減らすという政策目標を考えてみよう。もちろん、この場合、レジ袋に課税するというような具体的な政策をとるのが本筋だろう。でも、そのようなときに、大臣が「みなさん、なるべく家から買い物袋を持ってくるようにしてください」と言うのが、そんなにいけないことか。世論調査をしたら、半数以上の人が「家から買い物袋を持ってくるようにしている」と答えたときに、「それは健全だ」と言ってはそんなにいけないのか。

 もちろん、ぼくだったら、こういう場合にでも、「それは政府にとってありがたいことです」とかなんとかもっとへりくだった言い方をするだろう。でも、そんなのは言い方だけの問題で、本音はいっしょなのだ。要するに、政策目標を実現するために、その目標にとって都合のいい価値観を持った個人を増やしたいのである。それがそんなに悪いことだろうか?

 そりゃあ、隣組なんかがあった時代だったら、大臣がこういう発言をしただけで、買い物袋を持ってこない人は村八分に合って、町内会の行事に呼んでもらえなかったり、お醤油を貸してもらえなかったり、泥棒が入っても通報してもらえなかったりするかもしれない。

 でも、今はそんな時代じゃないでしょう? 大臣がいくらそんな発言をしたからって、そんなの無視すりゃいいだけで (^^)、買い物袋を持たない自由が即なくなるわけじゃないでしょう?

 だからぼくには、正直そんなことでなぜ大騒ぎしなくてはならないのか、いまだによくわからないんだよね (^^)。 

(あと、渡辺昇一さんの「大地と種」理論は今回初めて聞いたんだけど、ちょっと驚いたね。そんなの、Y 染色体理論より非科学的だし、ある意味、それこそ「女性は子供を産む機械」と言ってることいっしょだと思うんだけどなあ。機械だと駄目だけど大地なら平気なのかよ、と思ってちょっと呆れてしまった。これはもう相当なめられた発言だと思うぞ (^^)。)

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インテリジェンス 武器なき戦争

インテリジェンス 武器なき戦争インテリジェンス 武器なき戦争」手嶋 龍一、佐藤 優

 えーと、この本は、要するに、テッシーとラスプーチンの二人が男同士気持ち悪く褒めあってる本です。じゃなかった、要するに、「インテリジェンス」の本ですね。ですから、そりゃあもううんざりするくらいにインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスって書いてあります (^^)。

 と言っても、それほど体系的に解説してあるわけではなくて、実例を通してなんとなくインテリジェンスというものがわかるようになっている、という感じですけど、ぼくみたいな素人にとっては、その実例だけでも結構面白いんですよね。

 たとえば、大韓航空機事件の直後に後藤田さんのやった情報操作はインテリジェンスとしてダメダメだとか、北朝鮮のミサイル発射を官邸は事前に予知していたなんてつまんねえうそつくんじゃねーよばーか、みたいな話とか (^^)。

(ロシアの女性は週 16 回がノルマ、とかいう話もあったなあ (^^))

 さらに、そういうエピソードを通じて、日本のインテリジェンスのどこに問題があるかも、なんとなくわかるような仕掛けになっていますね。

 でも、具体的なインテリジェンスの技術については、ほとんど何も書いてないんですよね。佐藤さんなんか、「秘密情報の 98% は公開情報を整理することがら得られるという」とか書いてるんだけど、実際にこの本に出てる例は、情報源とコネがあってそこから漏れてきた、みたいな話ばっかりなんだよね (^^)。

 ぼくなんか何か自分の仕事に役立つようなこと載ってないかな、みたいなスケベ心もあったんだけど、そういう意味ではあまり役にたつ感じはしませんでした。まあ、そう簡単に教えられる話でもないんでしょうが。でも、ヒントぐらいはあったかな。あったということにしておこう。でないとアホだと思われるかもしれん (^^)。

 ところで、この本に載ってる「X55」の話って、結構重大な問題じゃないですか? なんで世間ではたいして話題になってないんでしょう。え、それこそがインテリジェンスじゃないか、空気読めって? す、すびばせん<m(__)m>。

 まあでも、このお二人の本はなかなか面白そうなので、もうちょっと他の本も読んでみよぉっと。

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ロボットは子供を産まない機械

 「PLUTO 4」を読みながら、もしこのマンガの世界に、「女性は子供を産む機械」という発言をする政治家が現れたらどうなるかを考えてみた。

 この世界では、ロボットの人権が確立されているから、人間を機械に例えることが即ネガティブな価値をもつ主張したら、逆にロボットに対する差別になるだろう。「なぜ機械に例えられるのがそんなにイヤなんです? それは、あなたの中にあるロボットに対する差別心の現われじゃないですか?」などと、「ロボット権」運動家に抗議されるかもしれない。だから、せいぜい事実と違う、というような主張しかできないはずだが、もともと例え話なのだから、事実とは違うに決まっている。

 ひょっとしたら、逆に、人間の女性だけが子供を産めると暗に主張しているととられて、ロボットの女性から「ロボットが子供を産めない機械だからと言って差別するんですか?」と言って抗議されることも考えられる。現に作中では、ロボットであるはずのゲジヒトやイプシロンは、自分の身体を創った人間の科学者に対して、深い愛情を持つ存在として描かれている。

 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、この 4 巻では御茶ノ水博士の性格が掘り下げられていて、ほとんど虫愛ずる姫君みたいに、人間とロボットとを同等に扱う博愛主義者として描かれているのが面白かった。また、科学省長官であるはずの御茶ノ水博士でも、部品を入手できないので旧式のロボットは修理できない、という描写はなかなかリアルである。これが昔の SF だったら、こんな旧式のロボットを修理するのはお茶の子さいさい、みたいな話になっただろう。(ところで、御茶ノ水博士が修理する犬型ロボットはアイボそっくりだがアイボなんだろうか)

 ちょっとネタバレになりますが、この巻ではアトムがあっさり「死」んでしまいます。でも、手塚さんの原作では、ゲジヒトやヘラクレスの方が先にやられるんですよね。それで、アトムは天馬博士に 100 万馬力に改造されるんだけど、エネルギー過剰で暴走して海底に沈んじゃう。それを、プルートゥとイプシロンが協力して助ける、という展開になるのですが、この原作をどこまで尊重し、どこからはずしていくのか。浦沢さんの腕の見せ所ですね。

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YouTube ブッシュ弾劾キャンペーン

 After Downing Street という団体が、 「YouTube Impeachment Campaign」、つまり、YouTube のビデオでブッシュさんを弾劾しましょー、というキャンペーンをやっているようです。具体的には、こんなビデオをみんなで投稿するらしいです。

 After Downing Street の Downing Street は、もちろんイギリスの首相官邸のことなんですが、別にイギリスの団体というわけではなくて、いわゆる「ダウニング・ストリート・メモ」にちなんでつけられたようですね。このメモはイギリスの政府筋から漏れてきた情報なんですが、アメリカがフセインを排除するために確信犯的にイラク戦争を起こしたという決定的な証拠だと言われているらしいです。

 YouTube がどのように政治に使われるかという点で、面白い例になるかもしれません。

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ヨーロッパ最後の封建国家が民主化へ

 無知で今日までまったく知らなかったのだが、「ヨーロッパ最後の封建国家」と呼ばれていた島が、民主化されることになったらしい。

 その島というのは、イギリス海峡のチャンネル諸島の一つであるサーク島。なんと、エリザベス一世の時代に領主に与えられた権利を、そのままずっと引き継いできたらしい。日本で言えば、江戸時代以前の体制でずっと暮らしていたようなものだよね。

 それをなぜ今さら変えることにしたかというと、圧制に耐えかねた住民が自由を求めて一斉に蜂起したとかいうことではまったくなくて (^^)、たまたまサーク島の隣にあるブレッチョウ島という小さい島に住んでいた、新聞社などを経営して有名なデビッド&フレデリック・バークレイ卿という双子の実業家が、その体制はヨーロッパ人権条約に反しているのではないかと指摘したから、というはなはだ散文的な理由だという。

 それで封建領主側も条約に反しないようにいろいろ調節を図ったのだがうまくいかず、最終的に住民投票にかけた結果、民主的な議会を設立することになったんだとか。

 イギリスのことに詳しいとはとても言えないぼくだけど、なんだかとても面白い国だとは思う (^^)。 なお、映像だけ見てるとのどかで牧歌的な島に見えるかもしれませんが、実はタックスヘイブンとしても有名な島であるということも申しそえておきます。

余談: たまたま正月に読んだ白田秀彰さんの「インターネットの法と慣習 」 にも、英米の慣習法の起源のお話が出ていて、そんなのは法学部の人にとっては常識らしいのですが、ぼくのような素人にとってはかなり興味深かったです。法と慣習の関係というのも、自分なりに整理しようと思ってヒマを見てはいろいろと理屈をこねているのですが、なかなかすっきりと理解できません。白田さんは、法制度をシステム論的に語れる数少ない人だと思っているので、今後もご活躍を期待しております。もっとも、全体として見ると、やはり本書の原型である HotWired でやっていたウェブ連載の方が内容がディープで面白かったですね。もちろん、これはあくまで個人的な好みであって、白田さんや出版社サイドにはまたいろんな思惑があるんでしょうけど。

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平和主義≠個人主義

 以前、がんばれ、理想主義的平和主義者! というエントリで、ハト派とタカ派に代わるものとして次のような分類を提案したことがあった。
  1. 理想主義的国家主義
  2. 現実的国家主義
  3. 現実的平和主義
  4. 理想主義的平和主義

 このエントリを書いた時点では、こういう枠組みを考えた理由については、まだうまく説明できる自信がなくてお茶を濁しておいたのだが、あれからかなり頭の中が整理されてきたので、今日はがんばってその続編を書いてみよう。 (長いぞ!)

平和主義だって個人を犠牲にすることはある

 そもそも、ぼくがこういうことを考えるきっかけになったのは、日本のハト派の方々に対してずっと感じていた、ある種の違和感だった。その違和感というのは、ハト派の方々は、平和を愛好しているはずなのに、なぜあんなに抑圧的に感じられるのだろうということである。その抑圧感を自己分析しているうちに、その感覚が、彼らが、国家主義=全体主義・平和主義=個人主義という図式を単純に信じていることからくることに気付いた。

 改めて考えてみればわかるが、平和主義と個人主義が両立するということは、決して自明でもなければ、論理的必然でもない。 それはおそらく、全体主義から戦争という、日本がたどって来た歴史的経緯からそう思われてきたにすぎないのである。

 もちろん、世界政府のようなものができて、究極の世界平和が達成されれば、世界の平和と、個人の人権・生命・財産を守ることが両立することは間違いないだろう。しかし、それはあくまで平和主義の理想が完全に実現した状態での話であって、そのような理想状態が実現していない段階では、平和という理想が個人の生命や財産を犠牲にするということだってありうるのである。

 たとえば、先日のレバノン紛争では、レバノン政府はイスラエルの侵攻に対してほとんど抵抗をしなかった。その結果、最終的には国際社会の救援とやらが入ったものの、その間にレバノン人やその財産は大きな被害を被った。レバノンの無抵抗が平和主義の産物かどうかは知らないが、平和主義から完全無抵抗の立場をとった場合でも、そのような犠牲が生まれる可能性があることは容易に推測できる。

 その場合、この犠牲者は、明らかに「平和主義」という「理念」の犠牲になったのであって、これは、個人を超える理念や超主体のために個人を犠牲にしているという点においては、国家主義とまったく同形なのである。例えて言えば、「大和魂」が「平和魂」になったようなものだ。

 でも、戦争をするよりは少ない犠牲で済むだろう、と思う人もいるかもしれない。しかし、そもそも、犠牲を量で判断すること自体が集団主義の論理であることを忘れないで欲しい。犠牲者自身やその家族や友人の立場に立ってみれば、どっか遠くの方で何倍もの犠牲が出たとしても、自分の愛しいその人が助かってくれるほうが、ずっと幸せかもしれないのだ。それを特定の個人より集団内の犠牲が少ない方が価値があると考えること自体が、まさに個人より集団を重視する集団主義の論理に他ならない。

 そう考えると、「国家主義 vs 平和主義」という軸と、「個人主義 vs (個人を超える)理念主義」という軸は、実は互いに独立なものとして考えなくてはならないということがわかるのである。

用語を再定義する

 ここで、もう少し厳密に用語を定義し直しておこう。 ここでいう国家主義と平和主義の違いは、国もしくは国民だけが幸せであれば、他の国はどうなってもよいと考えるか、それとも、全世界もしくは全人類が幸福になれなくてはダメだと考えるかの違いである。

 たとえば先の例で、抵抗しなかったら国民 10 人が犠牲になるが他の国の犠牲者は 0 人、抵抗すれば国民の犠牲は 0 人だが相手国に 100 人の犠牲者が出るとする。ここで前者より後者をとるのが国家主義、後者より前者をとるのが平和主義である。

 個人主義と理念主義の違いは、具体的な個人の人権・生命・財産を守ることにこだわるか、それとも、国家や世界平和といった抽象的な理念を守ることにこだわるかの違いである。

 極端に言えば、国家さえ守れれば国民にどれだけ犠牲が出てもよいと考えるのが理想的国家主義、非武装や非暴力が守れれば市民にどれだけ犠牲が出てもかわまないと考えるのが理想的平和主義である。もちろん、理想が現実化した状態、すなわち、国家を守った結果国民の人権・生命・財産が完全に守られた場合、もしくは、平和主義を守った結果市民の人権・生命・財産が完全に守られた場合には、この両者は一致する。

 日本ではよく、国家主義が現実主義で平和主義が理想主義であるかのように言われるが、実際には、どちらにも理想主義と現実主義がある。日本のハト派の問題点は、むしろ、国家主義については現実主義と理想主義が乖離する可能性を強く認識しているのに、平和主義についてはその可能性をまったく認識していない、もしくは、その現実から目を背けていることなのである。

ハト派は、自らの内なるヒロイズムを自覚せよ

 この無自覚性の原因は、おそらく、冷戦下アメリカの庇護下にあった日本が、平和主義と個人の生命・財産のどちらを選択するかを、シビアに問われるような局面に遭遇しなくてすんでいたからであろう。そして、この無自覚性こそが、ハト派が抑圧的に感じられたり、タカ派への反動が起こったりする原因の一端なのである。

 現在の右傾化の原因としては、よく言われるような、観念的な人たちの個人主義から理念主義へのバックラッシュというのももちろんあるだろうが、もっと普通の庶民たちの、ハト派について行って本当に自分たちの生命・財産が守れるのだろうか、という素朴な疑念があるんだと思う。

 たとえば、ハト派の方々は、北朝鮮問題について発言する際にも、北朝鮮なんて危なくないということをいいたがる。しかし、彼らは、平和主義と個人主義が両立することをアプリオリに信じているので、特に政治的でない一般庶民からすると、その主張も、本当に冷静に国際情勢を分析した結果というよりも、単に自分の平和主義的な主張を正当化するために言っているように見えてしまうのである。

 また、そういう主張をきいた一般庶民が、それで自分の生命・財産が守れるかと疑念を呈したとしても、ハト派は、直接それに答えずに、それはタカ派のプロパガンダだとか、戦争と平和とどっちがいいか、みたいな方向に無理矢理話を持っていってしまうことが多い。これも一般庶民からすれば、自分の生命・財産などという利己的なことよりも、平和という崇高な理念の方がはるかに大事であると言われているように感じてしまう。だから日本のハト派は抑圧的なのである。

 ハト派の方々は、ガンジーでもナウシカでもいいが、平和のために自らを犠牲にした人物に感動したことはないだろうか。もしあるとすれば、それは、ハト派の人の中にも、個人よりも崇高な理念を尊ぶ心情があることの証である。ハト派の方々は、少なくとも、そのことをもっと自覚すべきであろう。

(もちろん、ぼく自身も、「あの子は谷を守ったのじゃ」というババさまの台詞を聞きながらポロポロ涙を流した口なので、安心して欲しい。(^^))

現実政治は、あくまで個人主義に立脚すべきである

  次に問題になるのは、この2つの軸のどちらを重視すべきかということだが、私は、現実政治はあくまで個人主義に立脚すべきだと思っている。

 このブログでも何度か書いたように、私は、個人の人権・生命・財産を超える価値というものを全否定しているわけではない。それどころか、人間が自分個人のためだけに生きることなど、実際には不可能ではないかとすら思っている。しかし、そのような価値は、あくまで個人の主体的な意志で選択されるべきもので、社会や政治権力が、個人に対して、超越的な理念や超主体のために、人権・生命・財産を犠牲にすることを要求することは、決してあってはならないと考える。

 もともと、国家主義も平和主義も、個人の生命・財産を守るための手段だったはずだ。けれども、なんでもそうだが、手段自体が理想化され目的化されると、その手段に本来期待されていた効果が忘れられることになりがちである。その結果、国民を守るための国家主義によって国民が犠牲になったり、世界市民を守るための平和主義によって市民が犠牲になったりするのである。それがまた、他のあらゆる選択肢を検討した上での最善の方法であったならまだしかたがないが、理想主義に目がくらんでいる方々は、そういう検討すらろくにしていないことが多い。

 かつて、非武装中立論とか降伏論とかが流行ったことがある。まあ、今の日本を占領統治するみたいな面倒くさいことを誰がやるのかという気もするが、ぼくはこういう主張をかならずしもまったく荒唐無稽なものだとは思わない。ただ、仮に占領されて皆殺しになるようなことはないとしても、二級市民扱いされることぐらいはあるだろうということは考えて欲しい。

 このような場合にも、そのような屈辱に耐えることが個人にとっても最善の選択であるという主張を説得力を持ってできればよいが、単に平和主義という崇高な理想のためだとしか言えなければ、結局は、パレスチナのインティファーダや、かわぐちかいじが「太陽の黙示録」で書いたような武力闘争に回帰するだけだろう。そのような庶民の生への本能を理想だけで抑えこむことはおそらくできない。

 そのような立場に立って、現在の世界情勢を考えれば、日本の国政にたずさわる者が、国民個人の人権・生命・財産を守るためには、完全な国家主義に立つわけにもいかないし、完全な平和主義に立つわけにもいかないだろう。ときには国家主義的に国家主権を主張し、ときには平和主義的な国際協調を提案するというような、ご都合主義的な政策をとるしかないはずである。

 それは、「国家主義 vs 平和主義」という軸から見ればご都合主義かもしれないが、「個人主義 vs 理念主義」という軸から見れば、国民の人権・生命・財産を守ることを第一義とするという意味において、首尾一貫しているのである。

今のハト派に必要なのは、「手段としての平和主義」

 このように書くと、そんなやり方では人類はいつまでたっても戦争から解放されないとか、お前は所詮戦争を無くすことはできないと考えているニヒリストなのかとか思われるかもしれない。だから念のために書いておくが、ぼく自身はかなり楽天的な人間で、いつかきっと世界政府ができるとかして、人類は戦争から解放されるだろうと、わりと本気で信じている。ただ、現時点の日本においては、平和原理主義的政策をとるのはまだ早いと思っているだけである。

 たとえば、かの織田信長が東京ガスの CM のように現代にタイムトリップしてきて、未来の日本では民主主義という素晴らしい社会システムが機能していることを知ったとしよう。ここで戦国時代に帰った織田信長は、民主主義運動を始めるべきかと言えば、そんなことはないだろう。戦国時代の日本で民主主義が機能する確率はきわめて低く、為政者がそのような政策をとることは民衆を苦しませるだけであろう。しかし、そのことは民主主義という思想自体が間違っていることを意味しない。

 平和だってそうであって、平和は人々が願いさえすれば実現するというようなものでは残念ながらない。もちろん、だからと言って、なんの努力もしないでほっといても実現するものでもないので、平和を願わないよりは願った方がいいに決まっているが。

 何が理想主義的で何が現実的かは、時代や状況によって変化するので、未来において平和主義を実現するためには、理想を現実化するための方法を模索することは常に必要である。その意味で、平和を理想主義的に追求する人たちももちろん必要であり、ぼくはそういう方々への敬意も惜しまないつもりだ。ただ、現実の国政を動かす人たちが、個人の人権・生命・財産を省みず、平和主義の理想だけで突っ走るような人ではまずいだろうというだけである。

 近年の右傾化の流れの中で、それに反発するハト派の方々は、ますます先鋭化し理想主義的に純化して、狭いカルトに閉じこもりがちであるように見えるが、これでは、ハト派はますます一般庶民の支持を失って敵を増やすだけだろう。ましてや、ハト派同士の些細な主張の違いでウチゲバをやったりするのは最悪だ。むしろ、今のハト派に必要なのは、理想主義的に純化することではなく、個人の人権・生命・財産を守るための「手段としての平和主義」を具体的に説得力をもって主張することである。

 この稿では、理想主義的なハト派の方々ばかりに文句をつけるかたちになったが、まったく同じことが、個人より国家を優先する理想主義的な国家主義者の方々についても当てはまることは、言うまでもない。ただ、ぼく個人ははっきり言って心情的にはタカ派よりはハト派の方に親近感があるので、最近ぱっとしないハト派の方々に、少々辛口のエールを送ったつもりである。

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憎いし苦痛

 そ、それは気づかんかった。ま、まけた orz。

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乙武くんときっこさん

 なんか、秋篠宮妃の紀子さんに男の子が生まれた件にからんで、ネット上でもいろいろ騒動がおきているようですね。「五体不満足」で有名なスポーツ・ジャーナリストの乙武くんのブログが炎上したり、耐震偽装疑惑の追及で有名になった「きっこの日記」に記載された批判記事が、数時間後に削除されたことが話題になったり。

 ぼく自身は、前にも書いたけど、天皇制自体あってもなくてもよいと思っている方なので、このニュースを聞いたときの嬉しさは、一般庶民の家に赤ちゃんが生まれたことを知ったときと大差ないし、ましてや、男の子だったから嬉しいなどという気持ちはほとんどありません。

 ただ、それはあくまでぼく個人の価値観であって、ぼくは同時に、天皇制を愛している方々の価値観にもそれなりの敬意を払っているので、わざわざ彼らの価値観を批判するような発言をするつもりはないのです。これは、例えて言えば、自分はイスラム教徒でないので豚を食べることに躊躇はないが、わざわざイスラム教徒の前で豚を虐待したりはしない、というのと同じことです。

 そういう立場からすると、きっこの日記のように、真偽も定かでないような情報を理由に天皇家やそれを祝う人々に罵詈雑言を浴びせるのはどうかと思いますね。だれから見ても明らかな悪人ならともかく、単に自分と価値観が違う相手を批判するのに、相手に対してまったく敬意がないという態度は人間として不遜でしょう。もちろん、情報のソースなどを明示していないことや、数時間だけ掲載して削除理由も履歴も残さず削除するようなやり方も無責任としか言いようがありません。

(ついでに言えば、この記事の中で、この件を非難しないヤツを腰抜け扱いしているのも、正直「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 のビフなみにムカつきますね (^^)。まあ、ぼくはあの映画でちゃんと学習しましたので、"Nobody calls me chicken (or yellow)" なんて言ってつっかかったりしないですけどね (^^)。)

 では、乙武くんはどうかと言うと、彼の記事にも、天皇制もしくは男系相続を支持している人たちを批判するニュアンスが感じられるので、その点において、批判した相手から逆批判を受けるのは、ある程度仕方ないと思います(もちろん、だからと言って身体障害を嘲笑したりする表現が許されるわけではないのは当然です)。

 しかし、そんなぼくでも、天皇家の慶事を喜ばないのは日本人としておかしい、というような批判は、ちょっと行き過ぎだと感じます。

 このブログでも何度か書いたように、象徴天皇制は、制度と言うより文化に近いものだと思います。文化というのは、制度と違って、権力によって強制されることなく存続するところにこそ価値があります。

 この手の議論でどうもよく錯覚が見られるのは、文化の存続と価値の関係です。つまり、現在から見れば、

存続している → 価値がある

という図式が成り立ちますが、同時代から見れば、あくまで

価値がある → 存続させる

なのであって、各時代の人がそういう意思決定をしているからこそ、上の式だって成立するのだということを忘れてはなりません。

 したがって、天皇制に対する支持が、権力によって強制されることなく、人々の主体的な意思によって存続するという限りにおいて、ぼくも天皇制を支持する方々に対し一定の敬意を払うつもりですが、もしこれが強制されるようになったら、ぼくはむしろ天皇制廃止を訴えることでしょう。

 ですから、天皇制を支持する方々が天皇制に対する支持を広げようと思う際にも、超越的な文化決定論を押し付けるのではなく、天皇制が持つ内在的な価値をこそ主張すべきであるし、その価値を評価しない人に対しても寛容であるべきだと思うのです。そのことは、天皇制を支持することと、決して矛盾しないはずです。

(権力によって強制されることなく、それ自身の価値のみによって存続している伝統文化なんて、民謡や伝統工芸をはじめいくらでもあります。そういう文化を支持する方々が、「伝統は存続するがゆえに価値がある」みたいな超越論に訴えたり、「この文化の価値がわからないやつは日本人じゃない」みたいに恫喝したりしている、という話はあまり聞いたことがありません。だから、天皇制が本当に日本人にとって必要な文化であるなら、それ自体の魅力だけで存続できないはずがないと思うんですよね。なのになぜ、「ぼくがこんな立派な人間になれたのも、天皇制によって精神的支柱が得られたおかげなんですよ。つらいときにも、陛下のことを考えると、もりもり力がわいてきちゃうんだよね。いいぞー、天皇制は。君も支持しない?」みたいな言い方をする人がいないのか。そのへんが、天皇制を支持する方々に対して、ぼくがどうしてもうさん臭さを感じてしまう点なんですよね (^^))

追記: ちなみに、同じことは「愛国心」の教育についても言えます。つまり、愛国心を押し付けるのでもなく、愛国心についてはまったく触れないのでもなく、「国家には価値がある」という事実を知識として伝える、という立場がありうるはずだと思うのです。大雑把に言えば、ぼくもその立場ですし、山形さんが言いたかったのも、そういうことなんじゃないかと思うんですけど (^^)。

追記: ある友人が、「どの生命の誕生も同じように喜ばしい」という主張をしているのが、他ならぬ乙武くんであることの重みをもっと考えるべきだ、と言っていたことも付記しておきます。

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ポスダック

 なんか、政治家に株価をつけるポスダックとかいうシステムがあるらしいですね。

 この記事によると、元は韓国で生まれたシステムで、日本でも導入の準備をしているらしいのですが。。。でも、この説明を読んでも、何がいいのかイマイチわからないんですよね。

 そもそも、証券市場での証券の価格って、別に投資家が恣意的に決めてるわけじゃなくて、ちゃんと理論的な適正価格というものがあるんですよね (そう思ってない人も多いみたいだけど)。株式や債券は、定期的にキャッシュフローを産み出すので、それを「現在の価値」に割り引いて合計したものが妥当な価格だということになってるし、商品先物なら、商品自体がキャッシュフローを産み出すわけじゃないけど、実際に商品と交換したときの商品自体の価格が先物の価値の裏づけになっている。為替はちょっと難しいけど、一応購買力平価とか金利平価とかが根拠になっています。

 でも、政治家は別に直接キャッシュ・フローを産み出すわけじゃないし、政治家自身をキロ何円で切り売りできるでもなし (^^)、政治家の適正価格っていったいなんなのか。しかも、これを読むと、投資に使う電子マネーは、そのサイト以外では使えないという。そうなると、なおさら、恣意的な値段しかつかないんじゃないのでしょうか。

 まあ、難しく考えず、世論調査を盛り上げるための趣向だと考えればいいのかもしれないけど、なまじこういうシステムをとると、それこそケインズの美人投票とかどっちの料理ショーとかといっしょで、投資家は無自分自身の意見よりも無難な多数意見にのっかろうとするから、かえってポピュリズムを煽りかねないと思うんですけどねえ。

 そう考えると、わざわざこういうシステムにする意味がよくわからない。まあ、toto とかといっしょで、有権者に政治に興味を持たせるという意味ぐらいはあるかもしれませんが。

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な、なんでいまごろ?

 小泉さんがいまごろになって、加藤紘一実家放火事件に言及。な、なんでいまごろ (^^)?

 朝日の若宮さんが書いた「放火への沈黙 「テロとの戦い」はどうした」への答えなのかなあ。

 じゃ、若宮さんはなんでいまごろ。。。?

 ま、いずれにせよ、言及しないよりはよいことだと思いますが。。。

 なんか、この事件に対する世間の扱いって、軽すぎないか?

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がんばれ、理想主義的平和主義者!

 最近、タカ派とハト派という分類がどうも現実をうまく現せていないと感じているので、より現実に即した分類法の試案として、こういうのを考えた。

  1. 理想主義的国家主義
  2. 現実的国家主義
  3. 現実的平和主義
  4. 理想主義的平和主義

 この 4 者、政策的には 2 と 3 が似ていて、1 と 4 は両極にあるわけだが、精神類型としては、1 と 4 はむしろよく似ていると思う。これについては、いずれ詳しく論じてみたい。

 おそらく、大多数の人は、1 や 4 にはなろうと思ってもなれなくて、2 か 3 のどちらかになるはずである。

 ただ、最近の傾向としては、1 がわりと地歩を得ているのに比べて、4 が妙に肩身の狭い状態になっているわけだが、これはややバランスを欠いているのではないかと思うのだ。

 というわけで、私としては、4 をもっと応援したい気分になっている。もっとも、実際にそういう人にあったりすると、付き合いきれないと思うことも多いし、私自身は、せいぜい 3 にしかなれないことはわかっているのだけれど (^^)。

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憲法問題非論理派宣言^_^;

 憲法改正問題について、やっと考えがまとまったので、書いときます(また友だち減るかも^_^;)。

 まず、基本認識として、もともと民主主義や憲法には逆説的なところがある、というのをおさえておく必要があると思います。たとえば、民主主義社会の質は、市民の質で決まるけれども、その民主主義的な市民を育てるのにいちばんよい方法は、実際に民主主義の社会で育つことだったりする。憲法についてもそうで、憲法は市民の合意の下に成立したということになっているけれども、その合意とは何かを決めているのが、憲法をはじめとする法制度だったりします。

 つまり、憲法と言う上部構造が下部構造を決める面と、市民の質と言う下部構造が上部構造を決めるという両面があって、これはサブシステムレベルでは顕在化しないけれども、憲法のようなメタシステムのレベルになると顕在化してくるので無視できない。これが大前提。

 さらに言えば、自分の国のことを規定する条項はまだよいのですが、他所の国が関与する問題については、もともと拘束力がないわけだから、せいぜい「国際平和を誠実に希求し…」てなことしか言えない。それ以上のことを書いたって、どこまで実現性があるかわからないわけです。他所の国から戦争を仕掛けられたら、粘り強く平和的に交渉する、でもいいし、実力で撃退する、でもいいし、無抵抗で降伏する、でもいいんですけど、そういうことを憲法に書いといたからといって、実際に実践できるかどうかは、そのときの国際情勢と国民や政府の質というパラメータに依存しているわけです。

 自衛隊の存在の是非についてそうです。仮に、世界平和を目指すというのが、メタ理論として日本人共通の合意だったとしても、その実現方法は一つではありません。自衛隊があった方が、国際社会で地位が得られるから、世界平和も実現しやすいという考え方の人と、いや、逆に軍備を持たないという立場を貫くことによって、国際社会で独自の地位を締めることができ、世界平和に貢献できるのだという考え方の人がいますよね。ぼくは、このどちらが正しいかと言うのは、メタ理論で一律に決めるべきものではないと思うのです。

 たとえば、もし海江田四郎みたいな、軍事的な才能が豊富でなおかつ世界平和に対する強い信念を持つ日本人がたくさんいれば、前者の方が実効性があるかもしれないし、軍事的な才能はまったくないけど、ネゴシエーション能力が高い日本人がたくさんいれば、後者の方が実効性があるかもしれない。逆に、戦争が好きなだけど軍事的な才能がないヤツばっかりだったら、前者を選んでもあまり意味ないだろうし、自分が死ぬのがイヤなだけで、他所の国の人はいくら死んでもいいと思っているヤツばっかりだったら、後者を選んでもあまり意味ないでしょう。

 シビリアン・コントロールの問題についてもそうです。憲法と自衛隊の不整合をほったらかしにしているから、モラル・ハザードが起きるんだというのも一理あるし、もともと憲法を守るという意識が無いから、不整合がほったらかしなのだという考え方もできる。このどっちが正しいかと言うのは、なんらかのメタ理論で決められるもんじゃないと思うのです。

 あるいは、こんなたとえをしてもよいかもしれません。泳げるかどうかは、実際に泳いでみなければわからない。畳の上の水練ではダメ、とよくいいますよね。もちろんそれは正しいのですが、だからと言って、生まれたばかりの幼児を鳴門の渦潮の中に叩き込むのは無謀でしょう。かと言って、絶対に溺れないという保証ができるまで泳がせなければ、いつまでたっても泳げるようにならないでしょう。結局、適当な時期を見計らって、泳がせてみるしかない。

 仮に、世界を平和に導くメタ理論があったとしても、それが実現するのが一千年後であるならば、今すぐに全面採用すべきではないでしょう。逆に、10 年後ぐらいであって、そこに至る道筋に確かな戦略を描ける人材がいるなら、世界に先駆けて採用すべきかもしれない。そういうことです。

 つまり、憲法を改正してよいかどうかは、なんらかのメタ理論で決めるべきものというよりも、実際に憲法を改正してもうまくやっていける人材がいるか、言い換えれば、国民が政治家や官僚を信頼できるかどうかで決めるべきだと考えます。この政治家や官僚なら、憲法改正後の海で泳がせても泳げる、と信じられれば、憲法改正に賛成してもよいし、信じられないなら反対する。

 もちろん、政策を実行する立場の人は、なんらかのメタ理論を持っていなけりゃ困るんですよ。そういう立場の人から見れば、自分や自分の仲間の能力というのも内生変数になるわけだから。でも、ぼくらみたいな、単に支持するかしないか決める立場の人から見れば、そのメタ理論を主張する人の能力というのも、外生変数の一つなわけです。

 そういうわけで、ぼくは、この問題の答えを理論的には決めないことにしました。ですから、政治家や官僚の皆さんは、憲法改正したかったら、ぜひとも私の信頼が得られるように行動してくださいませ。理論的に決めないという理由自体が理屈っぽいところが、いかにもボクらしくてよいでしょ(^^)。

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アメリカで左右ごちゃごちゃ

 フランシス・フクヤマ氏って、いつのまにかアンチ・ネオコンに転向していたのね。知らんかった(^^)。 (辛辣をもって鳴る、ミチコ・カクタニ氏の書評でございます。)

Repairing American credibility will not be a matter of better public relations; it will require a new team and new policies.

アメリカに対する信頼を取り戻すことは、PR の問題じゃない。新たな政権と政策が必要なのだ。

だって。もう左右両方から同じことを言われております(^^)。

 そう言えば、日本ではあんまやらないけど、アラブ首長国連邦のドバイ・ポート・ワールドという会社が、アメリカの港を買収するとかしないとかいう話もかなり面白いですね。保守派のブッシュが賛成して、リベラル系と見られがちな New York Times のコラムニストが反対したりして ("The answer, in a word, is incompetence." 「その答えは、一言で言えば、無能だということだ。」ってとこはいいなあ(^^))、かなり左右入り乱れてわけわかんなくなっているようです。あのビル・オライリーとかも賛成らしい。まあ、彼は保守派というより、単なる御用評論家なのかも知れないけど(^^)。

 このまま、もっとゴチャゴチャになってくれると、次の選挙が面白くなるんだけどなあ(^^)。

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ずるずるずる。。。

 み、民主党はいったい何をやってるんですか。なんだか、主張がどんどん後退する一方じゃないですか。そんなになるんだったら、たて直しを図るときに、この線で踏みとどまろう、みたいな計算をして、一気にそこまで後退しとけばよかったのに。こんなに何度も前言を翻してたら、ますます○○に見えてくるじゃないですか。

 ナガタさんが謝る以前に、「まさか国会議員がそんなに○○だとも思えないんだよね」と言っていた友人も、辞任会見キャンセル以降のドタバタを見て、怒りを通り越して呆れてはてているようであります。無理ないよね。

 このままコーナーまで追い詰められてタコ殴りか? 立て、立つんだ、民主党! 敵は弱点だらけだということを忘れたのか!^_^;

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民主主義はまだ国境を越えていない

 中国の反日デモのときに、「確かに日本の歴史教科書や靖国参拝はいけないかもしれないけど、でも暴力はよくない」みたいな主張をした人は、ムハンマドの風刺画問題についても、「でも暴力はいけない」と言わないとスジが通らないよなあ、と思っていたら、案の定、前原さんが同じような発言をしてたらしいですね(^^)。

 まあ、ぼくは靖国参拝全面賛成派でも断固反対派でもなくて、「そんなに意地になんなくても、とりあえず止めといた方がいいんじゃないの」派だから(^^)、風刺画問題についても、最初のはいいとしても、その後も意地になって挑発を繰り返すのは、ちょっと大人気ないんじゃないの、とは思いますけどね(^^)。

 もちろん、ぼくは民主主義の諸価値を断然擁護する者ですけど、民主主義はまだ全世界の国境を越えてはいないのだ、ということは忘れてはならないと思うし、民主主義の原則を貫こうとすることが国際問題につながるときには、一定の妥協をする必要もあると思っているのです。そのときには、原則論ではなく、極めて現実的な判断が必要だと思うのね。ただ、この場合相手は政治家ではなく、一般庶民だから、その点ではこの 2 つの問題は微妙に違うけど。。。

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民主主義者の矜持

 ここ連日の朝日さんの社説では、皇室典範の改正に関する皇族の発言を問題にしていますが、民主主義者の私としては、リベラルの守護神(^^)たる朝日さんがこのような発言をするのに納得のいかないものを感じます。

 私たちが2日の社説で寛仁さまに「もう発言を控えては」と求めたのは、皇族としての制約を超えると考えたからだ。皇室の総意であるかのような誤解も与えかねない。細田氏の言うように、政治に具体的な影響を及ぼしているとしたら、なおさら見過ごすわけにいかない。(2006年02月04日付朝日新聞社説

 よく言われるように、義務や責任は権利や権力があるからこそ生じます。ですから、皇族であるというだけで発言が制約されるのであれば、皇族であるというだけで、自動的に政治的権力を持つということを意味します。つまり、この発言は、皇族が政治的権力を持つと言うことを認めてることになります。それが、リベラルの守護神たる(しつこい(^^))朝日さんの言うことでしょうか。もし皇族に影響力があるとしても、それは制度的なものではなく、文化的なものだし、また、民主主義社会においては、断じてそうでなくてはならないはず。

 文化的な影響力を持つものは皆政治的発言を控えなくてはならないなら、タレントやロックスターや「みのもんた」さんや他ならぬ朝日新聞のエディターさえも、みんな政治的発言を控えなきゃならないことになる。民主主義者であるならば、その人が政治的権力を持っていない限りは、立場にかかわらず、あくまで発言の内容に対して批判していくべきでしょう。

 天皇制は政治を超えた歴史と伝統の問題だという意見もある。だが、いまの天皇制は戦前と違い、国民の強い支持がなければ成り立たない。茶道や華道などの家元制度とは異なり、政治の土台にかかわる問題なのだ。(2006年02月04日付朝日新聞社説

 ここでもまた、天皇制が政治の土台にかかわる、などということを認めてしまっています。それが、リベラルの守護神たる(しつこい(^^))朝日さんの言うことでしょうか。憲法を素直に解釈すれば、日本の政治にとって必要なのは、国民の総意に基づく天皇が存在して、内閣の助言と承認のもとに国事行為を行ってくれることだけです。つまり、制度的に言えば、天皇は、国民の総意に反しない者で、国事行為を行える者であれば誰でもいいはずで、それ以上の細かいことは政治的な要請ではないはず。

 これがもし逆に、誰が天皇になるかによって、政治に大きな影響が出るようであれば、そんなのは民主国家とは言えないし、たとえ現実的には影響があるとしても、民主主義者であるならば断じてそんなことを認めてはならないと思います。

私たちは、一般論としては皇族であっても自由に発言するのが望ましいと思う。だが、戦後の憲法で国民統合の象徴とされた天皇には、政治的行為や発言に大きな制約がある。皇族もこれに準じると解釈すべきだろう。(2006年02月04日付朝日新聞社説

 前にも書いたけど、そもそも、象徴天皇制というのは、医学的生物学的には人間である方々の人権を剥奪する制度です。近代国家でこのような制度が成り立っているのは、天皇家の方々がそれを快く受け入れてくれているからです。したがって、将来の天皇制だって、天皇家の方々が快く受け入れてくれるような制度でなかったら存続できないのです。それを、当人の意思を無視して制度的に強制するようになれば、ますます人権侵害の程度が増すことになるでしょう。そのような人権侵害を肯定するような発言をするなんて、リベラルの守護神たる(しつこい(^^))朝日さんのやることでしょうか。

 朝日さんが、右翼的な暗黙の権力の影におびえるのはわからないでもないのですが、民主主義者であるならば、そんなものは断じて無視すべきです。以上、皮肉でも逆説でもアイロニーでもなく、直球勝負で真面目に書いたつもり。

(たとえば、これを一般庶民の話として考えて、長男は親の仕事を継がなければならないという時代遅れの法律があったとして、それを、長男と長女のうち先に生まれた方というふうに改正したとして、それが男女平等だと言えますか。百歩譲って形式的には言えたとしても、それで女性の権利が向上したとはどう考えたって言えないでしょう?)

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女帝論と左翼の関係

 松尾匡先生が、「反天皇制側の女帝反対論者は改憲案を出せ」とおっしゃっています。つまり、左翼が天皇制を存続させたくないがために女帝論に反対するのは本末転倒だ、というご意見。たしかに、「サイゾー」でも宮台氏が冗談めかして似たようなことを言ってましたよね。まあ、宮台氏は左翼ではないらしいですが (^^)。

 まあ、ぼくは自分が左翼かどうかもよく知らないし、どっちに分類されようが知ったこっちゃないと思っていますが (^^)、ぼくもこのブログに似たようなことを書いたことがあります。でも、そのときには、最終的に女帝に賛成とも反対とも書かなかったんですね。

 ほら、一時「野球を愛していない人に野球に口出しして欲しくない」とか「放送を愛していない人に放送に関わって欲しくない」みたいな言い方が流行りましたけど、あれと同じようなもんだと思ってもらえばいいです。つまり、野球を知らない人が、「棒で球をひっぱたくのをみんなで見て何が面白いんだ、やめてしまえ」みたいなことを言っても、野球改革に対してなんら実効性がないのといっしょで、天皇制を「愛していない」人が天皇制の将来に口出ししても、あんまり実効性がないような気がするからなのですね (^^)。

 だから、天皇制を愛している人が、男性だか男系でなければ天皇じゃないと思うなら、がんばってそうすればよいし、女性でもいいやと思っているなら、それもいいんじゃないと思っているだけの話でね。もちろん、保守派が一生懸命男系を維持しようとして四苦八苦する姿を見てみたい、という意地悪な気持ちもまったくないわけじゃないけど、むしろどっちでもいいという気持ちの方が強いのです (^^)。

 そういう社会に縁遠いからかも知れないけど、実は天皇制は日本社会に絶大な影響を及ぼしているのだ、みたいな話もあまりピンとこないんですね。聖性とかなんとか言われても、そんなもん感じたこともないので。むしろ、某宗教学会の方がよっぽど影響あるんじゃないか、という感じ。ひょっとしたら違うのかも知れないけど。

 ぼくが唯一心苦しく思うのは、むしろ天皇家の方々に対してで、あんな人権もない不自由な暮らしを強いられてイヤじゃないのかなあ、ということなんだけど、今のところ、本人達からの不満の声も聞こえてこないので、これもまあいいかという感じ。

 もちろん、1.男系維持、2.女帝容認、3.共和制、みたいな三択だったら、ぼくは間違いなく共和制を選びますよ。でも、大多数の日本人の反対を押し切ってまで、その政策を推進しようとするほど、プライオリティやモチベーションが高くないというだけなのね。認識甘かったらすいません (^^)。

追記: もうちょっと論理的に言うと、ぼくは民主主義は愛してやまないが、天皇制は愛していないので、天皇制か共和制かにはこだわるが、男性か女性かにはこだわらないということです。そもそも、人間を天皇という地位につけること自体が人権侵害なのだから、男女平等もクソもないでしょう。しかも、天皇より皇后の方が人権侵害の程度が低いと考えられるから、女性が差別されているというより、むしろ、女性の方が優遇されていると言うべきですよね。まあ、そんな屁理屈はどうでもいいけど、その人権侵害負担を平等にすることにさして意味があるとは思えません。もちろん、天皇制に存続して欲しいとも思ってないのだから、この点においても、男系女系にこだわる理由はない。結局、こだわる理由は見当たらない。

追記: 私がこういう態度をとる思想的理由はこうです。前にも書いたように、私は、象徴天皇制は制度というより文化だと考えており、文化の存在価値というのは、外側からの論理ではなく、文化自体のバイアビリティによって判断されるべきだと考えているのです。ですから、文化の将来は、その文化を愛し支持する人たち自身の手によって決めさせるべきであり、アウトサイダーは、民主主義の基本原則に反しない限りにおいて、できるだけ手を出さずに見守るべきだと思っているのです。彼らが古い形にこだわるにせよ、新しい道を選択するにせよ、その文化が結果的に滅びてしまうのなら、その文化はすでに歴史的な存在意義を終えたのだろうし、生き延びるのであれば、その文化はやはり日本人にとって存在価値があったのだと認めてもよいでしょう。それは結局、彼ら自身が決めることです。

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マスコミのせい?

 堀江氏の件について、小泉さんが、「マスコミだって持ち上げたじゃないか」と言っておりますが、マスコミと小泉さんを比べたら、圧倒的に小泉さんの方が悪いと思いますよ。

 マスコミは、あくまで情報を伝えるのが仕事であって、善悪を勝手にフィルタリングする役ではありません。世の中にこのような人がいるとか、その人を支持するこのようなムーブメントが起こっているとかいうのだって重要な情報であって、それをそのまま伝えることだってマスコミの役割なんですから。

 もちろん、その人が実は悪い奴だったという情報だって伝えられればよいのですが、それはあくまで努力目標であって、義務ではないですよね。むしろ、証拠がない限りは推定無罪で扱うというほうが、報道機関の態度としては正しいでしょう。だから、マスコミに対して言えるのは、せいぜい努力不足という程度のことですよね。

 でも、小泉さんや自民党は、選挙でわざわざ応援したんですから、マスコミとはコミットメントの度合いが違います。党公認にしなかったのは、不幸中の幸いというか、怪我の功名だったかもしれませんが、それでも応援はしたのですからね。少なくとも、堀江さんに投票した有権者に対する一定の責任はあるでしょう。

 だから、悪さの度合いを比較すると、

 堀江氏 >> 自民党・小泉氏 > マスコミ

ぐらいの感じじゃないでしょうか。

 もっとも、それにしたって、具体的な政策に対する責任に比べたらたいした責任じゃないんだから、この件で野党があまりしつこく自民党を追及すると、かえって小泉さんの術中にはまりそうな気がします。だから、軽くイヤミを言う材料ぐらいにとどめておいたほうがいいんじゃないでせうか。追求するなら、あくまで、証券市場の制度不備を放置した責任、ライブドア事件はその結果の一例、というふうに持っていかないと。わからんけどね (^^)。

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相対位置

 今日の多事争論にはちょっとウケました。実は、「最近、世の中全体が右傾化しているので、昔は右だと思っていた人が左に見える」みたいなことを口癖のように言う友人がいるのですが、筑紫さんがそいつと同じようなことを言ってたもんですから(^^)。

 そいつもよく、「後藤田さん(合掌)は今やハト派扱いだ」「加藤紘一もまるでサヨク扱いだ」「小沢一郎も前原さんと比べるとまるで中道みたいだ」みたいなことボヤいてるんですよね。彼自身は、「自分ではやや左ぐらいのつもりだったのに、今の基準で言ったらもはや極左だ」そうです。(そう言えば、松尾匡先生も自分は極左だと言ってましたね。ぼくの語感だと、極左っていうのは、単に極端に左なだけじゃなくて、暴力革命を志向してなきゃいけないようなイメージがあるのですが。。。(^^))

 ぼくが、太田光さんはインターネット上では反日サヨク扱いだと教えてあげる(彼はインターネットとかをやらない)と、「ほら、やっぱりおかしい。太田なんて、どう見ても中道やや左ぐらいだろう」と言って憤慨します。(ちなみに彼は太田さんの大ファンです。)

 彼も、心の中ではきっと、ぼくが右翼やタカ派に甘すぎると思ってんだろうなあ…(^^)。すいません。もしぼくの読みが甘くて、日本が本格的にファッショ化したら、ザンゲして死ぬ気で平和運動に身を投じますから、どうか許してください (^^)。

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ニヒリズムの境界

 堀江氏と小泉氏を無理矢理結び付けようとする論調に組するわけではないのですが、経営者と政治家には確かに一つの共通点があります。それは、一般大衆の支持によって成功・不成功が左右され、それをまったく無視することはできないという点です。

 民主主義社会の政治家は、一般大衆がときに判断を間違えるということを知っていても、一般大衆を完全に無視することはできません。いくら (主観的には) 正しいことを言っていても、それが有権者に支持されなければ、政治家になることすらできないのですから。

 同じように、上場企業の経営者は、一般投資家がときに企業の評価を間違えるということを知りすぎるほど知っていても、それをまったく無視して経営することはできないのです。

 おそらく多くの政治家には、自分がたいしたことを言っていないのに熱狂的に支持されたり、逆に、正しいことを言っているはずなのにブーイングを浴びたりという経験があるはずです。同じように、多くの経営者にも、たいした業績を上げていないのに株価が急上昇したり、逆に、将来性のある事業を着々とすすめていて本当は何も経営に問題がないにもかかわらず、株価がずる下がりするような経験をしているはずです。

 予想外の得票を得た政治家が、「私にそんなに票が入るのはおかしいので、辞退します。」とは言えないように、予想外に株価が上がった会社の経営者だって、「その株価は間違っています。そんな値段で買わないでください。」とは言えないし、むしろ、その株価を利用して儲けようとしなかったら、株主に対する背任になる可能性すらあります。

 ここで、単に正しい政治や経営をするだけではだめで、「一般大衆に支持されなければいけない」と思うだけならいいのですが、それがいつしか「一般大衆に支持されればなんでもいい」というニヒリズムに変わってゆくというのが、このような仕事が共通に孕む落とし穴であって、それは、政治家や経営者になろうと思ったことすらない私にも、容易に想像できるのです。

 もちろん、その危険を乗り越えるのが彼らの仕事ですから、私はこのようなニヒリズムの境界を越えてしまった者に対して同情はしないけれども、このような事件をきっかけにして、投資家のほうもより慎重に企業価値を評価するようになってくれれば、少しは社会にとって意味があったということになるかもしれません。

追記: この事件についても、たとえば、株価はつねに資産価値とイコールである (PBR= 1 (const)) というような仮定をおいて、ラ社がいくら儲けていたか計算してみるとよいと思う。(ぼくが自分でやってわかりやすく解説してもよいのですが、残念ながらいまそれほどヒマではないのです (^^))。そうすると、どこが本当にインチキなのか、もっとわかりやすく理解できると思う。たぶん、ゼロではないでしょうが (だからこそ擁護できないわけだが)、言われるほど儲かってないと思うんだよね (^^)。しつこいようだが、だからと言って、このような手法を使う経営者を、私は信用しませんが。

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シャロン首相重態

 もっとタカ派の奴が出てきて、さらに右傾化したりしないことを祈ります…。

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ポピュリズム批判に効果がないわけ

 ポピュリズム批判っていうのは、どうも、「人間は外見じゃない、中身だ」みたいな台詞と似たところがあって、言ってること自体は間違ってないのかもしれないけど、あんまり実効性がないんですよね。

 もちろん、外見がよくても中身がなかったらダメでしょうけど、じゃあ、外見が悪ければ中身が悪くてもいいのかと言ったら、そんなことはなくて、それはなおさらダメダメなわけでしょう。っていうことは、もともと、外見がいいか悪いかというのはつけたりで、中身のことだけ言えばいいはずなんですよね。

 美女やイケメン男性を使うのが悪いのなら、刑事コロンボみたいなヨレヨレのおっさんばかりだったらいいの? わかりやすいスローガンがダメなら、わかりにくいことを長々としゃべればいいの? それだって、わざとやれば逆の意味でポピュリズムになるだけでしょう? だから、結局、政策の内容を具体的に批判していくしかないんですよね。

 もちろん、おしゃれにも、素材のよさを引き出すような洗練されたおしゃれと、無理矢理飾り立てるようなやぼったいおしゃれがあるんだけど、それすらもやっぱり、モデルに着せてみてはじめてわかることですからね。服だけを見て論じても意味がないわけ。

 気取って言えば、ポピュリズム批判は、ポピュリズムと同じぐらい表層的になる宿命を負っている、とでも言いましょうか。

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小選挙区制ってそんなにダメかなあ・続

 小選挙区制がなかなか奥深いと思うのは、形式的にはあくまで政治家個人を選ぶようになっているところです。つまり、二大政党制になりやすいとか、マニフェスト選挙だとかいうのは、あくまでデファクト・スタンダードであって、制度的にそうしなければならないと規定されているわけではないわけです。

 そうすると実は、有権者は、緊急のイッシューがあるときには、直接政策を選択するようなマニフェスト選挙にのっかることもできますが、そうでないときには、政治家個人の見識に選択をゆだねるような選択をすることもできるはずなんです。

 つまり、小選挙区制だと、オートマチック・モードとマニュアル・モードをユーザー自身が切り替えるような使い方ができるわけです。このカスタマイズ性というのも、小選挙区制の大きな利点の一つだと思うのです。

 その伝でいくと、中選挙区制は、オートマチック・モードだけでマニュアルのない車のようなものだと言えるかもしれません。そう考えれば、右肩上がりの時代にはそれほど問題なく機能したということも納得できそうです。

 小泉氏の「郵政解散」なんかも、「マニュアル・モードに切り替えろ」というシステムからのアラートにみたててみると面白いかもしれませんね。ここで重要なのは、アラートというのは、あくまで警告にすぎず、実際にマニュアルに切り替えるかどうかの判断は、あくまでユーザー (=有権者) に委ねられているということです。そして、多くの有権者は (私も含めて (^^)) それにのったのでした。

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小選挙区制ってそんなにダメかなあ

 なんか、ひところは「政治改革」の代名詞だった小選挙区制が、小泉自民党の大勝利のせいでえらく評判を落としているようですが、小選挙区制ってそんなにダメですかねえ。ぼくにはあんまりそうとは思えないのですが。

 社会選択理論の本なんかを見ても、結局、理想の選挙制度みたいなものはないわけでしょう? つまり、民意をもっともよく反映するのが最善の選挙制度である、みたいな問題の立て方をしても、最適解は求められないというのはわかっているわけだから、これは民主主義的なフィクションの一つと考えるべきでしょう。とすれば、むしろ、どのような選挙制度にすれば社会システムが安定するか、というシステム論的な観点で考えたほうがよいのではないでしょうか。

 前に書いた自動車の例で言えば、憲法とか法制度とかは、車で言えば車体やフレームに相当するもので、フィードバックシステム自体を維持している要素だから、ハンドルを切りすぎたら車がバラバラになったなんてことにならないように、言い換えれば、ポピュリズムに流されないようにがっちり作っておかなくちゃいけないでしょう。

 でも、選挙制度というのは、主権者たる国民がシステムを操作するためのハンドルに相当する部分のはずだから、わざわざ感度を悪くするという発想はおかしいと思うのです。前にも書いたように、右に曲がりすぎれば崖にぶつかるかもしれないし、左に曲がりすぎれば海に落っこちるかもしれないからと言って、右にも左にも曲がれないようなハンドルをつくれば、カーブを曲がることさえできなくて正面の障害物にぶつかるだけなんですから。

 さらに言えば、この運転手は、固定されたシステムではなく、自ら学習する能力を持った成長するシステムなので、学習を促進するような信号がフィードバックされる必要があります。つまり、ハンドル操作と車の挙動との相関がはっきりしている必要があるわけです。そのように考えれば、小選挙区制は、車で言えばパワステみたいなものとして正当化できるんじゃないかと思うのです。

 もちろん、これはヒューマン・エラーの危険と隣りあわせなので、もっと自動化して危険を防ぐほうがいいという考え方もあって、これも部分的には正しいと思います。ただ、どこまで自動化できるかというのは、システムの予測可能性みたいなものに依存しているので、たとえば、同じ交通機関でも、決まった軌道を走る鉄道ならわりと簡単に自動化できますが、いろんな環境を走らなくてはならない自動車の自動化はむずかしいわけですよね。だから、安定したシステムの中のサブシステムみたいなものは自動化できても、外乱のある外部環境に直接さらされるシステムの全自動化は難しいということになるわけです。

 国家というシステムも、やはり、不安定な外部環境に直接さらされるシステムですから、どこまで行っても全自動化はできなくて、最終的には国民が運転手として乗っている必要があるんじゃないかと思うんですね。もちろん、運転手が直接ハンドルを握るのか、何か突発事件が発生したときに指示するだけでよいのか、みたいな差はあるでしょう。でも、単に感度がよすぎるからダメというような批判はおかしいと思うのです。

 だいたい、知識人や文化人の方々は、選挙で自分の望むような結果が出ると、「国民は賢い選択をした」とかいうくせに、自分の望まない結果だと、ポピュリズムだとか選挙制度がおかしいとか言い出すものですが、前にも書いたように、国民は一定確率でヒューマン・エラーを犯すものですから、実際には、望ましい方向にふれるのも逆にふれるのも「たまたま」そうなっただけかもしれないわけですよね。もちろん、そうやって一般庶民を上げたり落としたりするのも、一つの批評のためのレトリックだとは思いますが、もはやそういう手法も陳腐化しているような気がしますね。だから、あんまり効果ないんじゃないですか(^^)。

 まあ、ぼくは最近の論壇の情勢とかよく知らないので、実はもっと説得力のある反論がでてきてるのかもしれないので、単にべんきょー不足だったらごめんなさいですが(^^)、今のところはそういう風に考えています。

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文化は制度化では守れない

 前にも書いたような気がするのですが、制度と文化というのは存続の仕組みが違っていて、制度というのは、基本的にお約束だから存続しているわけですが、文化というのは、もともと多くの人がそれ自体の価値を認めるからこそ存続してきた習慣なんですね。だから、文化が存続できるかどうかは、その文化に価値を感じる人の自発的な努力にかかっているわけです。

 ある種の保守派の人たちは、西洋近代の理性主義に対抗して、日本文化や東洋文化の暗黙知的な部分を主張するわけだけど、その考え方自体は別に間違ってないと思うんですね。ただ、彼らがおかしいと思うのは、その暗黙知的な部分を守るために、文化を制度化しようとすることで、制度化された文化はもはや暗黙知ではないわけだから、彼ら自身の定義に従えば、もはや文化ではなく制度になってしまっているわけです。

 だから、こういう人たちは、ご本人がどう思っているかわかりませんが、本質的には近代主義者だと思うんですね。ただ、採用するシステムとしては、西欧のシステムよりも日本のシステムが優れていると主張しているだけで。まあ、別にそれはそれでいいと思うんですけど、それだったら、「伝統」などと思考停止の用語を使わず、日本システムの優越性を、純粋に理性的に論じて欲しいと思うわけです。

 象徴天皇制なんかも、半分以上は文化だと思うんですね。天皇家の嫁不足問題なんかにしても、昔の王政みたいな国家だったら、命令して強制的に嫁にするなんてこともできるわけだけど、民主国家ではそんなことをしたら人権侵害になるのでできません。

 かと言って、お金でつれるかと言えば、これも難しい。なぜかと言うと、そもそも、お金の価値というのは、自分の意思でいつでも好きなときに好きなものが買える自由とセットになっているわけですが、皇室の人にはそういう自由がないからです。だから、仮に皇室に入ればいくらでも金を使えるとしても、その金でブランド物のバックを買って合コンしたり鍋パーティをするわけにはいかないのですから、金があってもたいして意味がないわけです。もちろん、食うに困っているような人にとっては、衣食住が保証されるだけでも天国でしょうが、皇室の嫁がそんなヤツばっかりだったら、おそらく、天皇制という文化を支持する人はいなくなるでしょう。

 だから、象徴天皇制が持続できるかどうかは、結局、制度よりもむしろ、天皇制という文化を支持する人たちの、天皇家を魅力的なものにし、天皇家を敬愛するという習慣を守るという、自発的な努力にかかっているわけです (もちろん、合法的な範囲内でそういう努力をすることは、民主主義社会でも認められている正当な行為です)。

 ぼく自身は、そういう文化にはあまりコミットしていなくて、むしろ、民主主義という価値の方に強くコミットしている人間なので、別に天皇制がなくなってもかまわないと思っています。ただ、ぼくが天皇制を廃止しろと強く主張しないのは、

  • 現に天皇制という文化を支持している人たちが存在する
  • 天皇家がたいした権力を及ぼしているようには見えない
  • 天皇家の方々には人権がないと思うが、本人たちがそれを不満に思っている様子がない

というような消極的な理由に過ぎないので、このような条件が成立しなくなったときには、即座に天皇制廃止を主張するつもりです。

 繰り返しますが、そうなるかどうかは、制度よりもむしろ、天皇制という文化にコミットして価値を感じている人たちの自発的な努力にかかっていると思うんですね。それを何か国民全体のせいにしたり、雅子さんの性格のせいにしたりするのはおかしいと思うのです。世の中、制度的な支援などなくても存続している伝統文化はいくらでもあるので、象徴天皇制が本当に日本人にとって必要な文化であるならば、純粋に文化的な努力だけでも存続できないわけがないと思います。というわけで、ご健闘をお祈りいたします。

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プログラマ的文化・制度論

 ぼくは出身がプログラマなので、なんでもコンピュータのことに置き換えて考える癖があるんですが、文化と制度の関係についても、こういうふうに考えればよいのではないかと思いました。

 コンピュータの歴史を振り返ってみると、史上初のコンピュータ (ここで言うコンピュータというのは、バベッジの階差機関とかインカ人がロープでつくった「キープ」とかじゃなくて、いわゆるノイマン型のコンピュータのこと (^^)) ができたときには、もちろん、先にプログラムがあって、それに合わせて計算機が作られたわけではなくて、まずハードウェアとしての計算機があって、それに合わせてプログラムを書いていたのです。

 その頃はまだ、オペレーティング・システム (OS) というものがなかったので、プログラマは計算させたい問題ごとに毎回ゼロから違うプログラムを書いていました。しかし、やがてそれではあまりにも非効率だということになって、プログラムのロード・実行など、ほとんどのプログラムに必要な処理をアプリケーションから切り離して共有しようという発想が生まれました。それが OS の始まりだったわけです。

 そのころの OS はまだ、特定の機種のコンピュータ上でしか動きませんでした。ところが、ハードウェアの種類が少なく、進化もゆるやかな時代はそれでもよかったのですが、ハードウェアの進化が速くなって、どんどん新しいハードウェアが登場する時代になると、今度は、そのたびに OS 自体を開発し直すという非効率が問題になってきます。そして、ハードウェアに依存しない (専門用語ではポータブルという) 現在のような OS が生まれたわけです。

 その結果、ハードウェアと OS の間にある種の関係の逆転が起こります。それまで、ハードウェアというのは、その名の通り、あまり変化しないもので、ソフトウェアの方はすぐ変化するものとして捉えられていました。ところが、どのハードウェアでも同じ OS を利用できるようになると、むしろ、OS の方があまり変化しないもので、ハードウェアは相対的にすぐ進化するものとして捉えられるようになります。そうすると、最初期のコンピュータでは、完全にハードウェアに合わせてソフトウェアを作っていたものが、むしろ、ソフトウェア (OS) に合わせてハードウェア (厳密には、その間にデバイス・ドライバというソフトウェアが介在するが) が作られるようになってくるわけです。

 もちろん、OS の方はまったく変化しなくなったかと言えば、そんなことはなくて、今まで想定していなかったまったく新しいハードウェアが登場すれば、それに合わせて OS の方も進化します。つまり、ハードウェアと OS は、それぞれ独自に進化する柔軟性を手に入れると同時に、互いに相手の進化に合わせて共進化できるようになり、システムとしての安定性と環境への適応性を両立できるようになったのです。

 なぜそんな都合のいいことが可能になったのかと言えば、その秘密は、「ブラックボックス化」という原理にあります。現代のコンピュータ・システムでは、ハードウェアから見た OS も、OS から見たハードウェアもブラックボックスで、互いの内容を規定していません。ただ、相互にやりとりする時のインターフェイスだけが定められているだけです。そのことが、これだけの柔軟性を生み出しているわけです。

 さて、長々と OS の歴史をおさらいしましたが、本題は文化と制度の関係の話でした。国家というのも、元々は文化的な共通性をベースにして成立したもので、制度というのはその上に構築されたというのは確かでしょう。それは、最初期のコンピュータ・システムでは、ハードウェアに合わせて OS を開発していたのと同じようなものだと言えます。

 私が言いたいのは、制度が文化を基盤としているという説は、起源論としては正しいとしても、だからと言って、国家を安定させるには文化の内容を固定する必要がある、という保守派的な発想が正しいとは限らない、ということです。

 もちろん、国家というシステムがすべてであって外部がないとか、国家というシステムが所属するスーパー・システムが完全に静的なシステムであって、まったく変化がないというのであれば、それもまた国家を安定させるための一つの解である、とは言えます。

 しかし、現実には、国際社会は安定には程遠いし、仮に、安定した世界システムができたとしても、その外には、人類が決して完全には制御できない、宇宙とか環境とか呼ばれるスーパー・システムが残っているわけです。このような、外乱のあるダイナミックなシステムの中において、文化と制度がともにガチガチに固まっているような国家システムを作っても、持続可能なシステムになるとは思えません。

 元々、文化というものは、完全に静的なものではなく、不安定な環境に合わせて進化する動的な安定性が生命線です。それを、制度によって文化の内容まで規定すれば、文化を守るどころか、 (保守派の思惑とは反対に) 文化の生命力を破壊し、ひいては国家の生命力まで失わせることになるでしょう。

 確かに、文化と制度は相互に依存していますが、だからと言って、相互の内容を規定してしまえば安定したシステムができるというのは錯覚であって、むしろ、それぞれ独立して進化する余地を残すことによって、スパイラル的な共進化が可能になると同時に、動的な世界の中で安定して持続することが可能になるのだと思います。

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朝生改憲編

 改憲論がテーマだというので、つい朝ナマを最後まで見てしまい、寝不足になってしまいました。でも、結局議論としては最後までたいして盛り上がらなかったですね。

 その最大の理由は、武見氏も認めるように、自民党案の完成度があまりにも低かったということにつきるようです。特に、「国を愛する責務」などというのは、保守派の学者連からもたいして支持されない始末で、一人で自民党の公式見解をしゃべっている中谷氏がほとんど○○に見え、ある意味お気の毒でした(^^)。

 結局、ああいう文句っていうのは、一部右翼支持層向けのウケ狙いで、「本当は入れたかったんだけど、民主党の○○共が反対するんで入れられなかったんだよ」って言うために入れてあるだけなんじゃないかと (実際、村田氏や森本氏もそれを匂わすような発言をしていた)、ぼくなんかは邪推してるんですけど(^^)。

 そんなわけで、自民党は戦後ずっと自主憲法制定を党是としてやってきたわけだけど、何十年たってそれが実現しそうになったときには、彼らがずっと考えていたことはすでに時代遅れになっていた、みたいな感じがしました。民主党の枝野氏なんかも、「自民党は自分たちが戦後やってきたことにもっと自信を持て」みたいなこと言っちゃってましたけどね。

 だから、あれはもはや右翼的なロマンティシズムにすぎないんじゃないのかなあ。右翼だからってリアリストだとは限らないわけですからね。 自衛「隊」を自衛「軍」にするみたいなところにこだわるのだって、そう考えれば納得がいくじゃないですか。ちょっと北田さんちっくだけど(^^)。

 昔は、憲法というと、西部さんみたいに、国家が先か民主主義が先か、みたいな本質論に持ち込むのが好きな人がいましたけど、今回はそういう人もいなかったようです。いい加減、保守派の人も、文化的な共同体としての国家、みたいな発想の限界に気づき始めたのかもしれません(^^)。

 そう言えば、昔は田原さんから見て左がサヨクで右がウヨクという感じだったのが、今回は視聴者から見て左がサヨク (じゃなくて今はリベラルと言ったほうがいいかもしれませんが) で右がウヨクという配置になっていたのは、何か理由があるんでしょうかねえ。田原さんのすぐ隣が定位置だった、森本・姜両氏も真ん中辺に移動していたし。ま、どーでもいいことですけど(^^)。

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知識人の役割

 知識人や文化人と呼ばれる方々が、一般庶民の無知や頭の悪さにいらだちを見せる、ということがしばしばあります。またこれが、自分は頭がいいと任じる読者の共感を誘うというような効果を発揮することもあり、それはそれで一つの職業技術かとも思うのですが、あまりムキになってこれをやられると、少々見苦しく感じます。

 もともと、知識人とか文化人という言葉自体が、一般庶民より知識がある人たちのことを指す言葉なのですから、知識人と一般庶民との間に知識の差があるのは当たり前なのです。こういうことを言うと、また庶民を馬鹿した発言だと思う人もいるかもしれませんが、人々の知識量に統計的なばらつきがある限り、知識の多い人と少ない人というのは歴然として存在するのですから、統計的な偏差がゼロという超均質集団 (それこそファシズムでもなければ実現できないような) にならない限り、知識人と一般庶民との間の知識の差は決してなくならないというのは、ほとんどトートロジーといってもよいぐらいで、単なる事実を言っているにすぎません。

 つまり、知識人から見れば、一般庶民というのは常に (程度の差こそあれ) バカなのであって、だからこそ知識人という職業も成り立っているわけですから、その事実にあまりムキになるのは滑稽だと思うのです。もちろん、知識人の方々の努力によって、集団の知識量の平均値が上がるということはおおいにありえるし、それこそが知識人の役割だとも思うのですが、それは、知識人と一般庶民の差がなくなるということとは、まったく別の話なわけです。

 これは、政治家などについても言えることであって、民主主義社会において、政治家は市民の代理人にすぎない、というのは一つの理想ではありますが、実際には、政治家と一般庶民との政治意識のギャップが完全になくなることはないと思うのです。

 最近、政治における「宣伝」のあり方が問題になっているようですが、そういう意味で、政治「宣伝」の必要性がまったくなくなることなどあり得ない、と私は思います。

 もちろん、だからと言って、どんな宣伝でもいいというわけではありません。たとえば、まったく事実に反するウソの宣伝はもちろんダメだろうし、いろいろ項目を決めて情報公開を義務付けるとか、タバコの箱みたいに、「一党独裁はファシズムをもたらす危険があります」と書いて、小泉さんのとなりにヒトラーの写真を貼ることを義務付けるとか、金融商品の宣伝みたいに、「小泉政権になると、アジア諸国との関係がなおさら悪化する危険があります」「小泉政権になると、憲法が改悪されて軍国主義国家になる危険があります」「小泉政権になると、弱肉強食の市場原理主義社会になる危険があります」などというふうに潜在的なリスクを箇条書きすることを義務付ける、みたいなことしてもいいかもしれません。でも、そういう努力を重ねれば、「宣伝」的な要素を完全に排除できるかといったら、そんなこともあり得ないと思うのです。

 asahi.com で斉藤美奈子氏が「政治宣伝がなべて「劇場」に近づくのだとすれば、識者と呼ばれる人々の役目は「民主党も自民党に学べ」とあおることではなく『人々よ、宣伝に踊らされるな』と説くことじゃねーの?」とおっしゃっているのですが、そんなわけで、ぼくはこの意見には半分しか賛成できないのです。もちろん、「宣伝に騙されるな」と言うことも必要でしょうが、と同時に、「民主党、もっとうまく宣伝しろよ」と言うこともやっぱり必要なのです。そうやって、現実的な政治力だけではなく、宣伝力でも競い合っていくことにより、それを見る有権者の政治リテラシーも高まっていくはずです。

 思えば、商業広告だって、昔はもっとわざとらしい売り文句だったものが、それこそ糸井さん川崎さん仲畑さんなどの努力により、宣伝の要素を残しつつも、ある種の自己批判を取り入れることによって、ウソくささを消していく、みたいな手法が一般化してきたわけで、そういう意味での表現の洗練が進んでいけば、政治家と有権者との間のギャップはなくならないとしても、平均値としての政治リテラシーは向上して、有権者はより真実に近づきやすくなっていくのではないでしょうか。むしろそういうところに可能性を見出したほうがよいと、私は思います。

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安全なシステムとは

 たとえば、自動車なんかを考えてみてもそうですが、ハンドルが硬くて右にも左にもなかなかハンドルが切れない車と、ハンドルが軽くてどちらの方向にも素早くハンドルが切れる車では、どちらが安全でしょうか。誰がどう見ても後者ですよね。あるいは、エンジンとブレーキの関係でもそうです。加速も悪けりゃブレーキの効きも悪いという車と、素早く加速しブレーキもよく効くという車と、どっちがより安全か。答えは言うまでもないですよね。

 さらに言えば、あまり変化に対する抵抗が大きいと、逆に、やっと右に曲がったんだから、また左に曲がったりしたらもったいない、みたいな変な反動が生まれて、なおさらシステムの制動性が悪くなる可能性もあります。

 だから、ぼくは、一般庶民はもっともっと軽薄でよいと思っています。あまり一つの判断に時間をかけて絶対に間違えないようにしようとするよりも、間違えたら間違えたで、すぐそれに気づいて反省し、軌道修正できる方が、ずっと安全なのですから。本当に大事なのは、一つ一つの判断の正しさよりも、そういうフィードバック機構自体が正常に機能しているかどうかなんで、マスコミの方も、そこのところをこそ注視すべきではないでしょうか。

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なんでアンクル・サムやねん

 E 田先生のブログで見つけたアドルノの F 尺度のページ、自分でも測定してみました。結果は、2.56666666666666…「あなたは『自由主義者』です。 自己中心的、相対主義、即時志向、感覚主義、快楽志向が特徴です。」 やったー、オレは E 田先生より自由主義者だぞ、なんて、自慢することじゃないか(^^)。

 内訳は、

  • 因襲主義: 3
  • 権威主義的従属: 2.8
  • 権威主義的攻撃: 2.571428571428
  • 反内省性: 2.75
  • 迷信とステレオタイプ: 2.5
  • 権力と「剛直」: 2.125
  • 破壊性とシニシズム: 3
  • 投影性: 2.6
  • 性: 2.33333333333…

わりと平均して低いです。

 もっとも、設問には結構どう答えてよいか悩むものが多かったです。たとえば、

  • 権威に対する尊敬と従属は、子供が学ぶべき最も重要な美徳である。

従属はしなくてもいいけど、多少の尊敬は必要じゃない? というオレは、どっちなの?

  • 実業家や工場経営者は芸術家や大学教授より社会にとってはるかに重要な存在である。

「社会にとって重要」の定義は? 人数で言えば、前者の方がはるかに多い (ん、今はそうでもないか?) だろうから、そういう意味では前者の方が「重要」だろうし、逆に、一人当たりの重要性で言えば、後者の方が「重要」ってことになるし…

  • この世には人間の頭脳では決して解明されないようなことが沢山ある。

「沢山」って、どのぐらいだったら沢山なの? そもそも問題として認識されていないようなものとか、原理的に解けないと「わかった」問題とかはどうなるの?

  • 若者たちは、時として反抗的な考えを抱くものだ。 しかし、彼らも大人になるにつれて、そうした考えを乗り越えて自己を確立しなければならない。

反抗的な考えのまま、反体制的な人間としての自己を確立する、ということもあると思うんだけど、それはそれでいいの?

  • 人間には、弱者と強者の二種類しかいない。

そりゃ、なんらかの尺度で「弱者」と「強者」に分類すれば二種類になるだろうし、「弱者」と「中間」と「強者」に分ければ三種類になるだろうし、もっといろんな観点で分類すればもちろんいろんな分類ができるだろうし、だからなんなの?

  • 戦争や社会問題は、大地震や大洪水など他の要因によって全世界が崩壊することで終止符がうたれるだろう。

なんとなく聞きたいことはわかるけど、崩壊 (して人類が滅亡) すれば終止符がうたれる、っていう命題は、論理的には間違ってないですよねえ。ただ、実際には崩壊しないかもしれないし、他の方法によっても終止符がうたれうるかもしれない、ってだけで。

  • 混乱を防ぎ、秩序を保つには、ナチスのように何らかの伝統的権威を利用するのが一番よいことだ。

「ナチスのように」っていうのがまた曖昧。ナチスのやったのとそっくり同じことをやれば「ナチスのように」なのか、それとも、伝統的な権威を利用することは、すべて「ナチスのよう」なのか。伝統的な権威をまったく利用しない、ということもありえないと思うんですけど。

  • 人間の本質が今日のようなものである限り、常に戦争と対立は存在しつづけるであろう。

「武力による国家間の戦争」はいつかなくなるだろうと思っているけど、対立のすべてがなくなるとはまったく思っていないオレはどっち?

  • 慣れすぎは侮りのもとである。

慣れ「すぎ」という言葉自体が、なんらかの閾値を前提としているのだから、どんなに慣れても絶対に侮りは発生しない、という人以外は、すべて賛成になっちゃうのでは?

  • 真の日本文化を守るには、なんらかの強い力が必要である。

これも、強い力で守らなきゃなくなっちゃうようなものは、真の日本文化とは言えねえだろう、とかそういう疑問はあるんだけど、仮に、カッコづきの「真の日本文化」を (無理矢理) 守るという前提を正しいと認めるなら、それは「強い力」が必要かもしれないなあ、とは思うよ。あと、「強い力」ってのも曖昧。権力? 暴力? それとも単なる個人の努力まで含まれるの? 個人が文化を守ろうとして努力するのはいくらなんでも個人の自由だと思うんだけど?

まあ、これがアドルノさんのせいなのか、翻訳者さんのせいなのかはよくわかりませんが。(すんません。「自由主義者」なんで、アドルノさんの「権威」を尊敬する気もたいしてないです。はい。)

 それにしても、なんでイラストがアンクル・サムやねん! しかも、これはアメリカで志願兵を募集するときに使った、「アメリカは君を必要としている!」みたいなポスターのやつでしょ? このサイトを作った人も、そうとうシニカルな人なんだろうね(^^)。

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ほらみろ

 「「いつまで首相を続けてほしいか」を聞くと、「任期いっぱいまで」が50%で、「任期を超えて」の28%を上回った。」だそうですよ。だーから言わんこっちゃない(^^)。有権者は、ひょーろんかの皆様が思ってるより、ずっと冷静だってことでしょう。

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勝手に決めるな

 選挙が終わりましたね(一応、予想が当った、と自慢してよいのでしょうか(^^))。もちろん、今回は投票に行きましたよ。

 ところで、田原さんやなんかが、「こうなった以上、任期を延長して総理を続けろ。それが有権者の意思だ。」みたいなことを言ってけしかけているようですが、自民党に投票した有権者の一人して言わせてもらいたい。勝手に決めるな

 ぼくは、あくまで任期いっぱいで辞めるという小泉さんの言葉を信じて投票したのだから、ちゃんと公約どおりに辞めてもらわなくてはこまるのです。だいたい、ぼくは郵政民営化に賛成なだけで、小泉さんのやることなすことすべて支持するわけではまったくありません。真面目な話、年金問題なんかは、どう見ても民主党のほうがやる気ありそうじゃないですか(^^)?

 なんなら、任期切れの時点で、また解散してもらってもかまわないよん(^^)。だって、筋を通すという意味では、その方が筋が通ってるんじゃない(^^)? 選挙に何百億円かかるとかなんとか文句を言っている人もいるけど、そういう人に限って、自分はケインジアンだとか言って、景気対策とやらいう名目でお金をばらまくのが好きなように見えるのは、気のせいでしょうかねえ(^^)。

 コメンテータのみなさんも、自民党の勝利を予測もできなかったくせに(選挙直前になって予測を変えて辻褄を合わせた人はたくさん知っているが(^^))、有権者の気持ちがすべてわかっているようなことを言わないでほしいですねえ。もちろん、有権者すべてがぼくと同じ気持ちだとも思わないですけどね(^^)。

(だいたい、コメンテータとか評論家とか言う人たちは、自分はアタマがいいと思われたがっているがために墓穴を掘るのだと、ぼくのように馬鹿に居直って文章を書いている人間は思います(^^)。もっとも、馬鹿だと思われては商売にならないのでしょうから、そういう意味では、お気の毒だと思いますけどね(^^)。)

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争点

 今度の選挙は、争点が争点です。なんちゃって~(さぶっ!)

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「国萌え」の作法

 前に紹介した北田さんの本とか、「国に萌える」人たちに対する批判(というか揶揄)する意見が少し増えてきたようですが、これもある程度時代の必然だと思うのです。

 (なんかこれも前にも書いたような気がするが(^^))そもそも、個の尊重とか基本的人権の尊重というのは、近代社会システムを維持するためのフィクションだと思うんですね。だから、国家の側が個人に自己犠牲を強いることは決して許されないけれども、個人が自分の意思で利他的にふるまうのは別に悪いことじゃないと思うんです。

 だいたい、人間って、純粋に自分のためだけに生きることなんか、やろうと思ってもできないんですよね。そもそも、愛情というもの自体が、他者の喜びが自己にとっても喜びであるという、利己とも利他とも言えない状態ですから。

 それを何か、「利己」が善で「利他」が悪だ、というような、一種の倒錯的な倫理にまで高めてしまったのが、戦後民主主義のおかしなところだ、という一部の認識は正しいと思います。

 また、最近では、その利他の対象が、家族や友人や地域共同体だったらいいけど、国家はだめ、みたいなこと言う人がいますけど、そんなに決定的な差ではないと思うんですよね。

 もちろん、「国萌え」にも迷惑なところはいろいろとありますが、やり方を間違えれば迷惑なのは、国萌えに限ったことではなく、会社萌え、スポーツチーム萌え、家族萌え、恋人萌え、子供萌え、平和萌え、弱者萌えなど、どれもやり方を間違えれば迷惑なのは同じことでしょう。

 そういう意味で、「国萌え」というのは必ずしも悪いことではないと思うのですが、戦時中みたいな抑圧的な社会にならないために、少なくとも、以下のような点は守ってもらいたいと思います。

 まず、「国」が唯一の「萌えアイテム」ではない、ということを認めること。利他の対象は人によってさまざまで、家族や友人に向かう人もいれば、世界平和というようなもっと抽象的な対象に向かう人もいるので、どれかが唯一絶対に正しいなどとは言えないのですから。

 それから、国に萌える「萌え方」についても、人それぞれさまざまなスタイルがある、ということを認めること。国を愛しているんだったら、こうしなければならない、みたいな安易な押し付けをしないこと。

(もっとも、このへんはサヨクとかハト派の方々も似たようなもので、平和を愛しているなら靖国参拝に反対しなくてはならないとか(いや、ぼくは実際反対なんですけどね(^^))、弱者の味方なら郵政民営化に反対しなくてはならないとか、勝手に決めるなよ、といいたくなることは多々ありますよね(^^)。)

 まあ、このぐらいの点を守っていただけるのであれば、「国に萌える」というのも決して悪いことではない、というか、奨励してもいいぐらいかもしれない(^^)。少なくとも、ロリや鬼畜に萌えるのより、国に萌えるのが悪いことだ、とは言えないでしょう(^^)。もっとも、残念ながら、ぼくとはあまり趣味合いそうもないですけどね(^^)。

追記 (2007/1/8): 姜尚中氏が「愛国の作法」という似たような題名の本を出していらっしゃいましたが、発表はこの記事の方が先ですので念の為 (^^)。もちろん、ぼく自身は、どっちが先かを争うほどのことだとは思っていませんが。一応念の為。

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形式だけを論じたって、何も変わらない

 8 月 15 日が近づいて、また靖国参拝問題が再燃しそうな雰囲気ですね。この問題については、このブログでも過去 2 回ぐらい言及したのですが、もう一度だけパラフレーズしておくと、参拝というのは形式であって、それ自体に絶対的な意味があるわけではなく、その意味付けは人間がある程度恣意的に行うことができるのだから、形式だけを論じても何も解決しない、というのが私の結論です。

 極端な話、仮に無宗教の追悼施設を作ったところで、ウヨクやタカ派の方々が、勝手に施設の意味を再定義して、心の中では靖国神社だと思って参拝するかもしれないわけです。そうなれば、外交問題としては、一時的に改善されるかもしれませんが、それで、日本が、ハト派の方々の望むような、より平和な国になったと言えますか?

 そんなのは結局、キリシタンに無理矢理踏み絵を踏ませるようなものであって、たとえ踏ませることに成功したとしても、それはせいぜいがとこ権力闘争に勝ったという事実を象徴するトロフィーに過ぎず、信仰そのものは、地下にもぐってより陰湿な形ではびこるのがオチでしょう。逆に、日本が本当に心からアジア諸国の信頼を得れば、たとえ首相が軍服着て靖国神社を参拝したって、単なる形式の問題として許されるんじゃないですか?

 もちろん、形式がまったく無意味とは言わないけど、それはせいぜい就職活動にどんな服を着ていくか程度の話であって、自分のアピール戦略に合わせて、無難にコXカやアXXマのリクルートスーツを着たってもいいし、ちょっと気取ってアルマーニのスーツ(古いか(^^))を着たっていいわけで、そんなことが本質的な問題じゃないはずです。

 それがまた、すでに信仰にコミットしている側がこだわるならともかく、信仰を持っていない側が、わざわざ新たに「教義」や「戒律」みたいなものを作ってみたって、話をややこしくするだけでしょう。そんなことを何十年やってたって、和解の日なんて来ないと思うんですよね。 

 ぼくが靖国参拝反対論者の一部に感ずる強烈な違和感というのは、彼らが単に参拝に反対するだけならまだしも、その理由が、妙に精緻な理論体系になってて、「反靖国教」みたいになっちゃってることです。

 あなた方はそもそも何をやりたかったわけ? あなた方にとっての問題は、日本にを戦争に導き、アジア諸国に多大な苦痛を与えた、いわば「邪悪な宗教」の信者が、いまだ信仰を捨てていないのではないか、ということでしょう? そして、現代において、江戸時代のような宗教弾圧ができないとするなら、この問題は、単に信者に踏み絵を踏ませるだけでは解決しないはずなんですよ。

 そりゃ、「邪悪な宗教」の被害者から見れば、踏み絵を踏まない奴が憎らしいのは当然なのだから、とりあえず踏んどけよ、っていう話ならわかりますよ。

 それがなんか、やれ踏み絵に描かれているのは悪の象徴だから踏まなければいけないとか、やれ豚肉にはビタミン B 群が豊富で身体にいいから 1 日 1 回食べなければいけないとか、そんな議論ばっかりやってるように見えるわけです。そんな神学論争で、何か問題が進展しますか? ぼくにはどうしてもそうは思えないんですよね。

 逆に靖国を信奉する方の中でも、戦中からご存命の方や子供の頃からそういう家庭教育を受けてきた方ならともかく、オトナになってからなんかの本を読んだくらいで、「靖国は日本人のアイデンティティだ」とか言い出す奴はもっとどうかと思うけど。

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血判状

 報ステに出た荒井広幸さんが、例の「ステルス作戦」参加者の血判状みたいなものを見せてくれたのですが、事情があって、とかなんとか言って、三人分ぐらいしか見せてくれない。テレビ観てるこっちは、あれー? なんで? と思ったのですが、古舘さんはつっこまずじまい。いや、そこはつっこみどころだろう、と古館さんに向かってつっこんだのは、私だけでしょうか(^^)。

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 おや、雷まで鳴り出したぞ(^^)。昔だったら、天のお怒りだ、とか言われたんだろうなあ(^^)。

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運命の瞬間

 ある意味、運命の瞬間が近づいています。しかし、これが日本の命運を左右するのか、というと、あまりそういう気はしません。むしろ、結果がどっちに転んでも、大きな流れはすでにほぼ定まっていて、その現実から一生懸命目を背けていた人たちが、改めて現実を直視させられる、ということになるだけのような気がします。さて、どうなることやら。

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NHK番組改変問題の総括

 例のNHK番組改変問題の総括が、今頃になって asahi.com に掲載。ほったらかしかと思ってたら、ちゃんとやってたんですね。失礼しました。じっくり読ませていただきますとも(^^)。

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宗教的行為と意味

 人間の行為には、物理的に直接作用するものと、人間の感覚器官に働きかけることによって、人間の脳を介して間接的に作用するものとがあります。表現と呼ばれるものはだいたい後者で、言語表現はその代表的なものですが、儀式やセレモニーと呼ばれるような行為も、物理的な結果よりも、その行為が意味するものの方が重要な行為です。

 このような表現行為の持つ意味というのは、コード体系を共有する集団の中でしか伝わりません。いや、伝わらないだけならまだしも、別のコード体系によって別の意味付けをされることさえあります。したがって、このような表現行為の善悪を論ずるためには、誰と誰がどのようなコード体系を共有しているかを考える必要があります。

 イラクで亡くなった橋田信介さんの奥さんがイラクへ行くところをテレビで見ていたら、ちゃんとスカーフを巻いて髪を隠していたので感心しました。ぼくは橋田夫人のことをたいして知らないので、これは勝手な想像ですが、あれは別に橋田夫人がイスラム教徒に帰依しているというわけではなくて、イスラム教徒であるイラク人に敬意を表してやっているわけでしょう。

 この場合、イラク人たちと橋田夫人は、完全にはコード体系を共有していなくて、イラク人にとってのスカーフは「女性のすべき当然のたしなみ」というような意味を持っているのに対し、橋田夫人にとっては「イスラム教徒であるイラク人に対する礼儀」というような意味をもっているわけです。

 このような状況は、墓参などについてもよく見られます。どのように葬られるかというのは、亡くなった人の宗教によって決まるので、墓参する人が、自分の宗教がキリスト教だからといって、亡くなった仏教徒をキリスト教式に弔う、というようなことはしないわけです。

 勘のいい人は、そろそろぼくが何を言いたいか気づいただろうと思うのですが、念のため、ある意味これとは逆の例を挙げましょう。

 地下鉄サリン事件の後、オウム真理教の教徒が、未だに麻原を尊師と呼んでいるとかいうことに対し、事件を反省していないのではないか、という批判がありましたよね。それは、外部の者から見れば、そういう行為の一つ一つが、大量殺人を肯定するようなコード体系の一部をなす表現に見えるからです。

 でも、このような場合に、外部の者が、たとえば「麻原を尊師を呼んではいけない」みたいなルールを作って信者に守らせれば問題が解決するかといえば、そうではないでしょう。それは、信者の共有するコード体系から生まれた行為に対して、別のコード体系から勝手に意味付けをしているだけで、言わば、オウム真理教に対抗するために、反オウム教という別の宗教を作っているようなものです。

 この場合に問題なのは、あくまで、信者自身が自分の行為にどのような意味付けをしているかということであり、その意味付けが、外部の社会から見ても反社会的なものでないかということです。したがって、外部の者がやるべきことは、信者の真意をただすことであり、信者のやるべきことは、自分の真意をコード体系を共有しない者に理解できるように説明し、外部の信頼を得ることです。

 ぼくは、以上のような理由で、必ずしも軍国主義的な思想に共鳴しない首相が、純粋に戦死者に対する追悼の念だけで靖国神社に参拝するということもあり得ないことではないし、絶対的に否定すべきことではないと思っています。ただし、オウムの例と同じように、靖国神社の過去の歴史などを見れば、軍国主義の復活を懸念する方々が首相の真意を必ずしも信じられなかったり、いろんな悪影響を心配するのも無理はありません。

 ただ、そこで軍国主義の復活を懸念する方々の方が、いろいろ理屈をこねて「靖国参拝=軍国主義の復活」みたいな意味付けをするのは、「靖国教」に対抗するために「反靖国教」を作ることでしかなく、どこまで言っても不毛な争いの道だと思うのです。

 そうではなくて、軍国主義の復活を懸念する人たちは、素直に「首相の真意を信じられない」と言えばよいのだし、首相もそれに対して木で鼻をくくったような返答をせず、素直に信頼を得るための努力をすればよいのです(もちろん、参拝をやめてもいいが(^^))。分祀とか別の追悼施設とかいうのも、結局は、そういう信頼を得るための手段にすぎないのであって、どれが最も正しい方法か、などとゴチャゴチャ議論することは、文字通り不毛な神学論争にすぎないのではないでしょうか。

 実は、「日の君」問題についても同じようなことを感じているのですが、それはまた稿を改めて。

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Ideology of Hate

 ブッシュさんやライスさんが、"Ideology of Hate" とか "Ideology of Hope" みたいな表現を多用してましたね。新しいキャッチフレーズにする気なのかなあ。直訳すれば、「憎悪の思想」「希望の思想」った感じ?

 あと、これはブレアさんもそうだけど、「話者の強い意志を表す Shall」をやたら使ってましたね。"We shall prevail." とか。江川泰一郎先生の本には「めったに使われない」と書いてあるんだけど、9.11 以降の政治家の発言について言えば、そうでもないですね(^^)。

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懺悔

 都議選の投票率が 43.99% で、過去二番目の低投票率だったとか。

 ごめんなさ~い。ぼくも行きませんでした。だって、納品直後で疲れ果ててへろへろだったんだもん、なんて言い訳にはなりませんね。わかっております。

 これをたまたま読んでるお若い方、決してマネしてはいけませんぞ。こんなのは、人生に疲れたヘタレオヤジの言う事です(^^)。

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靖国参拝論のダブスタ

 ぼくは前から、小泉首相の靖国問題に対する発言には、どうも納得いかないものがあると感じていたのですが、その理由がやっと少しわかってきました。それはつまり、小泉氏の発言には実は矛盾があり、その奥にダブルスタンダードが隠されているということです。

 そもそも、なぜ信教の自由というものがあるのかを、原理論的に考えてみると、要するに、人間の知性には限界があるという認識の表れだと思うのです。つまり、個人のあらゆる意思決定を合理的に誰もが納得する形でできればいいのですが、現実には人間誰しも、必ずしも合理的かどうかわからない信念にしたがわなければならないときがある。それを保証するのが信教や思想・信条の自由だと思うのですね。

 この原理は、近代社会の合意による社会的決定の原理と表裏一体になっているわけですが、こちらの原理を表しているのが政教分離です。つまり、政教分離は、近代社会はなるべく合理的にみんなの合意に基づいて運営すべきであり、一部の人だけが信じている必ずしも合理的とは言えない信念によって運営すべきではない、という認識の表れだと思うのです。

 つまり、この2つの原理を、私的な領域と公的な領域で使い分けることによって、近代社会というものは成り立っているわけですね。

  そう考えたときに、小泉氏の発言がおかしいと思うのは、氏は、国内に向けては「戦没者に感謝の意をささげるのは当然だ」みたいなことを言っているくせに、国外に向けては「戦没者をどのように追悼するかについて外国に口をはさまれるいわれはない」みたいなことを言っていることです。

 つまり、小泉氏は、国内に向けては、靖国参拝は宗教的行為ではなく、誰もが合意できる可能性のある当然の行為であると言っているのに、国外に向けては、靖国参拝は宗教的行為だから、同じ宗教的信念を持たない奴には理解できない、と言っているということになる。

 この中間的解釈として、外国人にはわからないかもしれないが、日本人なら必ずわかる、みたいな解釈を主張する人もいるかも知れませんが、そもそも国内でだって、靖国参拝が戦没者を追悼する唯一の方法である、などという合意はできてないわけ。だから、小泉さんの発言は、わざわざ国内の対立をあおり、国内とアジア諸国の分断を煽っているように見えてしまう。

 したがって、私の結論は、もし小泉首相が、靖国参拝がだれもが納得できる正しい追悼の方法だと思っているなら、少なくとも、それについて国内外の合意を形成する努力をするべきだろうし(それが実際に成功するかどうかはまた別の話(^^))、逆に、もし靖国参拝が一部の人にしか理解されないことであり、また理解されなくてよいと思っているのであれば、それは個人の宗教的信念なのだから、小泉純一郎個人としていくべきじゃないだろうか、ということです。

 もちろん、こういう発言すべてが、国内外の複雑な政治力学を計算した上で、あえて二つのスタンダードを使い分けているんだよ、という意見もあるかもしれませんが、それならば、前に書いたように、政治は結果責任ですから、結果を出してくれなきゃ評価できないよ、と言うしかないですね(^^)。

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生意気さがかわいい(^^)

 TBS の「企画工場なりあがり」でやっている「ガキ国会」という番組、なにげに数日続けて観てしまったのですが、意外とよくないですか?

 企画としては単純で、現職の国会議員の人が、「ガキ国会」に法案(それもかなり無茶目の)を提出して審議するというだけの番組。「ガキ国会」のメンバーは、「いまどきの」若者40人ぐらいで、早稲田大学生とかもいるけど、失礼ながら決して平均的教養レベルが高そうには見えない方々。

 そんな単純な企画のどこがいいかというと、この「ガキ」の方々がいい感じに生意気なんですよね。相手が国会議員だなんてことは意に介さず、ズケズケ意見を言うんだけど、決して斜に構えた感じじゃなくて、結構マジメにぶつかっていく。それが見ててなんか気持ちいいんですね。

 もちろん、意見自体はハズしてるなあと思うものも多々あるんだけど、借り物の思想じゃなくて、生活実感的なレベルで本音でしゃべってるから、あまりイヤな感じがしないんだよね。一方の国会議員の方も、権威を傘に着て高いところから見下ろすという感じはまったくなく、「ガキ」の方々と同じ目線の高さで議論をしていて、それもいい感じです。

 正直、議論の内容自体は決してレベルが高いとは言えないと思うけど、なんか見てて気持ちいいんですよね。ある種、新種の「癒し系」というか(^^)。

 この番組、わりと素直に撮ったらそうなっただけなのか、実は演出や編集の手練手管でそういうふうに見せているのかよくわかりませんが、たとえ後者だとしても、なかなか面白い狙い目だと思いますね。

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パッケージ

 政治は結果責任だとよく言いますが、外交においては、法治主義が未完成な国際社会を相手にしなくてはならないのですから、なおさらそうでしょう。

 ぼく自身は不信心者なので、感情的にはそれほど共感できないのですが、それでも、首相が靖国神社に参拝することが絶対的な悪だとは必ずしも思っていないのです。ただ、そのことが現実的に国際関係を悪化させているとすれば、看過できないと考える人が増えるのもやはり当然でしょう。

 ただ、外交政策というのは、パッケージとして成功していればいいのだから、靖国参拝をやめなくてもても、その分他のところで努力することにより、アジアとの関係を良好に維持できるんであれば、それはそれでアリだとも思うのです。現に、日中関係や日韓関係がこれほど悪化していない時には、首相が靖国参拝をしても、今ほどは騒がれず、わりと見逃されてきたわけですからね。

 A 級戦犯が合祀されているとか、遊就館は明らかに東京裁判史観を否定しているんじゃないかとかいう問題にしても、首相が参拝することによって、即その思想が公式に肯定されたということには必ずしもならないとは思うのです。

 ただ、それもやっぱり結果責任がとれていての話ですよね。こんなたとえをすると怒られるかもしれないけど、キムタクの HERO みたいな茶髪でジーンズの検事がいたとしても、もちろん絶対的な悪だとはいえないし、仕事ができりゃいいじゃないか、というのも一つの考え方としてあるでしょう。でも、少なくとも現在の社会では、それによって自分の評判が悪くなるかもしれない、という覚悟は必要ですよね。だから問題は、それを覚悟した上で、自分の流儀を押し通せる自信と計算があるのか、ってことですよね。

 また、同僚の評判なんか悪くてもいいけど、自分の好きな娘に言われると、少々納得いかなくてもきいてしまう、みたいなことだってありますよね。それが、好きな娘に言われても、他の人と同じ対応だったら、好意が疑われてもしょうがないわけだしね。仮に、その娘の好意は失いたくないけど、これだけは理解してほしい、というような信念があったら、それを伝えるたけには、それなりの努力をするのも当然じゃないですか。もちろん、やりすぎて尻に敷かれるということもありますけど(^^)。

 だから、この問題については、形而上学的な議論をゴチャゴチャやってもあまり意味ないような気がするんですよね~。まあ、この靖国カードを利用して常任理事国入りを決める、みたいなウルトラCをやられたら、みんな黙ってしまうと思いますけど(^^)。

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保守と革新の微妙な差

 「保守」と「革新」というのは、思想的な分類によく使われる言葉でありますが、つきつめて考えれば、これは程度の差でしかないと思います。なぜなら、本質論で考えれば、人間は、絶対的な保守にも絶対的な革新にもなれないからです。

 そもそも、人類という種自体が、遺伝という種の性質を「保守」する仕組みによって維持されているわけですし、個々の人間にしても、ホメオスタシスという個体の性質を「保守」する仕組みによって維持されているわけですから、人間が保守性を完全に捨てることなどどだい無理なのです。

 もちろん、環境に適応するためには保守性だけでもだめなので、突然変異とか学習とかいう「革新」の仕組みも備わっているわけですが、それは保守性が基本にあって、それを守るためのものなので、どっちにしろ程度の差でしかないのです。

 たとえば、弱者を守ろうという政治運動があったとして、その弱者は日本国内では弱者かも知れませんが、世界レベルで見たら、日本という豊かな国に生まれたという既得権を享受している強者でしかないかもしれない。じゃあ、どこまでその範囲を広げたらいいかと言われたら、無限に広げていくわけにはいかないから、どこかで止めるしかないわけ。あるいは、格差をなくすためなら自分は損してもよい、と言える人でも、友人や家族が犠牲になるとしたらどうか、自分の属する会社が損するとしたらどうか、などと考えていくと、そのうち日本の国益が、みたいな話になっちゃうわけ。

 また、その範囲にしても、広げたり狭めたりすることはできるけど、自分がその中にまったく含まれていない範囲をとるわけにもいきません。たとえば、人類だけでなく生物すべてを平等に扱いましょう、みたいな思想は、現時点では無理でも、はるか遠い未来にはひょっとしたら成り立つかもしれません。でも、人間「よりも」炭素菌や岩を大事にしましょう、みたいな思想を人間がとなえることは、思考実験としては可能かもしれませんが、それが思想としての効力をもつことは決してないでしょう。

 だから、保守にしても革新にしても、その範囲を微妙に広げるか広げないかみたいなところで争っているにすぎないんで(もちろん、その微妙な差で範囲に入るかどうかが分かれる立場の人にとっては重大な問題なんだけど(^^))、結局は現実的に可能かどうかというところで決着するしかないわけです。だからぼくは、自分だけがまともな良心を持っているかのごとき主張をする人が好きになれないのです。(^^)

 もちろん、権力闘争の場では、立場をはっきりさせることもポリティックスの一部なんだろうから、そういう微妙な差を誇張してみせることも必要なんでしょうけど、一般庶民がそれにいちいちのっかる必要はないと思うのね。

 ぼくはむしろ、一般庶民は、意識して立場をあいまいにして、油断するとどっちに転ぶかわからないような姿勢を見せといたほうがいいんじゃないかと思っています。そのほうが、政治エリートに対するプレッシャーにもなるし、変なファナティズムやラジカリズムに対するブレーキにもなる。

 ぼくは、小林よしのりさんが「脱正義論」で言いたかったのは、結局そういうことじゃないかと思うんですよね~。本人が今でもそう思っているかどうかは知らないけど(^^)。

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少子化対策もいいけど

 ぼくは、少子化対策もいいけど、この際もっと移民政策を真剣に検討したらどうかと思っています。

 もちろん、来たい人はみんな入国させろなんていう非現実的なことを言ってるわけじゃありません。ちゃんと、日本人としてやっていける資格があるかを審査して入国させればいいと思うのです。その審査の一環として、学力、職能、日本の文化に対する知識、倫理観などの試験を行えば、その試験の難易度次第で、入国する人のレベルも人数もいかようにも調整できるでしょう。そうして、合格した人には、ちゃんとした日本の市民権(シチズンシップ)を与えるようにします。

 うまくすれば、日本に優秀な人材が入ってくるわけだからそれ自体が日本の国益になるだろうし、その人たちが日本と母国との架け橋になってくれれば外交的な資産にもなるし、日本で質の高い教育やスキルを身につけた人が母国に帰って母国のために働けば、南北格差の解消につながって世界平和にすら役立つかもしれない。

 だいたい、日本だけ見れば少子化かもしれないけど、世界全体で見れば、依然として人口は増え続けているわけでしょう? そしたら、移民の方が、世界の人口には影響を与えず日本の人口だけ増やせるんだから、少子化対策よりいいと思うんですけどねえ。

 それに、子供をたくさん作る文化の人が日本に入ってくれば、日本人も影響を受けて、また子供を作り出すなんていう可能性もあるんじゃないかな。

 今の世の中では子供を作りたくても作れない、っていう意見もあるようだけど、それは半分ぐらいは嘘じゃないかと思ってるんです。だって、昔の日本人は、今の日本人の平均よりはるかに経済的な余裕のない人ですら、やたらと子供を作って、ひーひー言いながら育ててたんですから。それが、経済的には明らかに豊かになっているのに子供を作らなくなったっていうことは、どう考えても、そんな苦労やリスクを背負ってまで子育てをしたいと思わなくなったという、家庭や子供に対する意識の変化も考えないと説明がつかないと思うんですよね。

 でも、共産党支持を公言してるぐらいリベラルな友人ですら、この話にはあまりのってくれないんだよなあ。なんでだろう(^^)。

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内政干渉

 ぼくは、政治家や評論家の方々がテレビで言っている「内政干渉」という言葉の使い方が、何かおかしいような気がします。

 「個人の自由」だってそうだけど、あくまで、暴力や脅迫によって行動を強制されない、という社会的なお約束にすぎなくて、本当に字義通りあらゆる影響から自由である、なんてことはあり得ないわけでしょう。だから、いくら個人の自由だからと言って、気に食わない人はいろいろ言うだろうし、言われたほうだって影響は受けますよね。ただ、その影響を受けるのも受けないのも「個人の自由」だってことになってるだけで(^^)。

 国際関係だって同じことで、いくら国家主権は尊重されなくちゃいけないと言ったって、最終的な決定権はその国にあるっていうだけであって、外国だって言うだけならいろいろ言うでしょう。ただ、その通りにしないからと言って、宣戦布告されたり経済制裁されないっていうだけで。でも、宣戦布告や経済制裁をされないからと言って、そういう声をまったく聞かなくていいのかって言ったら、必ずしもそうではないでしょう。ただ、聞くも聞かないも、最終的にはその国の判断だ、ってことになってるだけですよね。

 だから、「XX したら宣戦布告するぞ」とか言ってるんなら、内政干渉といってもいいと思うけど、たんに「不快感がある」とかなんとか言ってるのを、いちいち内政干渉だというレッテルを貼っても、現実的にはほとんど意味ないと思うんですよね。

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朝生反日中国編

 録画しておいた「朝生」を鑑賞。テーマは「反日デモと日中新時代」。中国人もしくは中国系の論客がたくさん参加していたのがちょっと面白かったです。特に、葉千栄という人はすごく目立っていて、おそらく、番組を通しての発言時間が一番長かったのではないかなあ。もちろん、日本の番組であるということも計算して発言されていたのでしょうけど、意外とみなさん中国政府や中国国民のことを冷静に見ているなあ、という感じがしました。

 他の論客の方々も、以前と比べるとものわかりがよくなったのか、昔みたいな「中国人は純粋に傷ついているんですっ! 傷口を広げるようなこと言わないで下さいっ!」みたいな主張をする人はまったくなし。もちろん、中国民衆と手を結んで、中国の抑圧的な政権から民衆を解放し、民主的な中国を作るべきだ、みたいなネオコン的な主張をする人もなし。おかげで、不毛な論争にはなりませんでしたが、対立点があまりはっきりしなくて、今ひとつ議論が深まることもなかったという印象です。

 そういう極端な主張が減ったというのは、なんだかんだ言って、グローバリゼーションや情報化によるところが大なんでしょうねえ。一時期、「やっぱり国家はなくならない」みたいな議論が流行って、それはそれで現実の一面をついているとは思うけど、一方で、国家単位の一元的なパワーゲームだけでは国際情勢を論じられなくなっている、という大きな流れも厳然としてあるわけで、改めてそれを感じましたね。

 余談ですが、「なぜあなたは靖国に行かないんだ!」とか言って福島瑞穂さんイジメをしてた田原さんを見て、自分の過去の発言からしたら、そんなことを偉そうに言える立場か? と思ったのは私だけでしょうか(^^)。

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中国におけるインターネット・フィルタリング

 Yomiuri Online の「中国のネット検閲」という記事で紹介されていた、OpenNet Initiative の "Internet Filtering in China" という論文を発見。中国の国家によるインターネット・フィルタリングの実態が、かなり詳細に書かれています。58 ページの PDF です。

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世界の民の声

 木走さんのブログで知ったのですが、BBC日中問題について、世界中の一般市民からコメントを集めて掲載しています。当事者的な視点を相対化するのに、なかなか役立つ記事だと思います。

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中国の歴史認識

 ワシントンポストに、日中問題について、かなり日本に好意的(というか、中国に手厳しい)コラムがのってますね。日本人が歴史から目を背けているというなら、中国はどうなんだ。もっとヒドイじゃないか。という感じの論調。

 日本人が南京大虐殺の 30 万の犠牲者を軽く見ているというなら、毛沢東の「大躍進」による 3000 万の犠牲者はどうなるんだ。中国の教科書にはまったく書いてないじゃないか。

 内政ではなく外交が問題だというかもしれないが、中国の子供は、1950 年のチベット侵攻や 1979 年のベトナム侵攻だって教わってないじゃいか。だいたい、第二次世界大戦だって、共産党のゲリラだけで勝ったことになっていて、真珠湾も硫黄島もミッドウェーも出てこないじゃないか。

みたいなことが書いてあるんだけど、その論調はさておき、ここに書いてある「愛国教育」の内容にはちょっと驚きますね。そんなことも教えてないのかあ、という感じ。だって、「大躍進」なんて、まだ 50 年もたってないんだから、実際に体験してる人だってたくさん生きてるはずなのに。

 偏向しているという噂だけはよく聞くけど、その具体的内容については、日本ではあまり情報が流れていないような気がするんだけど、気のせいかなあ。ひょっとして、中国について知るにも、日本語の本を読むより洋書を読んだ方がいい、なんてことになってると、ちょっとマズいのでは(^^)。

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多義的存在としての人間

 人間とは何か、という問いは、簡単そうで、実は、さまざまな定義が考えられます。

 たとえば、物理的な「かたち」に注目して、四肢を持ち直立歩行する動物の一種である、というような定義もできますし、あるいは、「人格」に注目して、特定の情報処理能力を持つオートマトンである、という定義もできますし、あるいは、ジーン(遺伝子)を保持し交配するキャリアである、というような定義もあるでしょうし、あるいは、ミームを受け取り、加工して、伝達するキャリアである、というような定義もあるでしょうし、あるいは、人類社会、という有機体を構成する一要素である、というような定義もあるでしょう。

 このうちのどれが「正しい」、などと議論することにはあまり意味がなくて、どの意味付けにもそれぞれ固有の価値があるはずです。たとえば、人間が少しでも長生きしたいと思うのは、物理的な存在としての人間を大事だと思っているからだろうし、肉体は滅んでも人々の記憶の中に残りたい、などと思うのは、人格としての人間を大事にしているからでしょうし、セックスして子孫を残したいと思うのは、ジーンのキャリアとしての人間を大事にしているからでしょうし、後の世に残るようなものを作りたいと思うのは、ミームのキャリアとしての人間を大事にしているからでしょうし、社会に貢献したいと思うのは、人類社会の要素としての人間を大事にしているからでしょう。

 利己的遺伝子論みたいに、このうちの一つだけを本質的なものとみなして、他をそれに従属するものとみなすような理論も成り立たないわけじゃないけど、そのことと、人間が何に幸せを感じるかということは、必ずしも直結しないですよね。人間は、野球を見て、XX がんばれー、とか言っているときに、これもめぐりめぐって自分の遺伝子の存続に役立つはずだ、とか考えているわけじゃないし、考えたからって、その「幸福感」自体に変化があるわけじゃありません。

 じゃあ逆に、「幸福感」とか「一瞬一瞬の生の充実感」みたいなものが生の本質なのかというと、そうとも言い切れなくて、実際には、そのような幸福感や充実感だって、それ自体を目標にしようとすると、単に刹那的になるだけで、何か別の目標を目指していなければ長持ちしなかったりします。

 ただし、社会的にこのうちのどれが重視されるか、と言うのは、社会的文脈によって決まってきて、歴史的な段階や社会的な「場」によって違ってきます。たとえば、全体主義的な社会というのは、「人類社会の要素としての人間」だけが重視され、「物理的存在としての人間」や「人格としての人間」が軽視された時代だったのでしょうし、近代民主主義社会では、むしろ後者の方が重視されているわけです。

 おそらく、古代社会においては、このような社会的文脈がもっと混沌としていて、「パンとカーニバル」の話みたいに、世俗的な権力者が、同時に、宗教的な生の意味付けを行う存在でもあったりしたわけです。ところが、近代になると、権力の目標は、物理的な個体や人格を守るということに限定され、その代わり、個人が自由に幸福を追求することを許すことにした。つまり、人間存在の意味付けが、社会的文脈によって「分化」したわけです。

 ぼくは、人類社会が進化したと言えるとすれば、それは、意味付けが混沌としていた時代には不可能だった、人間存在のいろんな面を「いいとこどり」できるようになったことだと思うのです。変なたとえかもしれませんが、スパイスだって、混ぜて「カレー粉」にしてしまうと、カレーライスやカレーうどんにしか使えなくなりますが、 ターメリック、パプリカ 、 ペッパー などに分けておけば、もっといろんな料理に使うことができるし、もちろん、混ぜてカレー粉として使うことだってできるわけです。

 近代民主主義が個人を大切にするのも、あくまで「政治権力」という特殊な文脈についてだけのことであって、ありとあらゆる文脈において、人間存在の意味付け統一する必要はどこにもないし、そんなことをすれば、むしろ、人間の生を貧しくするだけだと思うのです。むしろ、政治権力以外の場では、積極的に社会的文脈を多様化して、人間存在の多義性を生かしていったほうが、人間の生は豊かになるはずです。

 そう考えると、たとえば、行き過ぎた個人主義の問題とか、少子化の問題とか、高齢化社会の問題とかも、人間存在の社会的意味付けが貧しいことの現れなのではないか、という気がしてきます。しつこいようですが、人間と言うのは、多義的な存在であって、常に政治的文脈による意味付けに義理立てする必要はどこにもないはずなのです。

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「外乱」のあるシステム

 宮台真司氏が「思想塾」開講の告知をされています。

 この設立趣意書の中で、ちょっと興味をひかれたのは、「 〈世界〉の根源的な規定不能性 」という話。というのも、たぶん宮台氏とはぜんぜん違う文脈だろうけど、ぼくが最近考えていることと、なんか似たようなことをおっしゃっているような気がするからです。

 前にこのブログでも書いたけど、「ラプラスの悪魔」的な決定論的な世界観と、人間の自由意志とが矛盾するのではないか、という考えは、全知全能の神の視点と、有限の知しか持たない人間の視点の混同による錯覚だと思うのです。

 つまり、「ラプラスの悪魔」のような、宇宙のあらゆる粒子の状態を知り、宇宙のあらゆる現象を予測できるような知性というのは、いくら人類のテクノロジーが発達しても、原理的に実現不可能なので(なぜ実現できないかは、渡辺慧氏の名著「知るということ―認識学序説」を参照)、特定の人間というオートマトンが、世界から受け取る情報を完全に予測することは、本人か他人かにかかわらず、人間にはできないのです。したがって、別に、人間の脳内にカオス的な予測不能性を想定せずとも、人間の行動を、人間が完全に予測することは不可能なので、そういう意味では、自由意志は存在する、と言えます。

 言い換えれば、人間とか社会というシステムは、情報的には完全に「閉じた」システムではなく、自動制御論的に言えば、「外乱」のあるシステムなんですね。

 ただ、人類の歴史というのは、さまざまなフィードバックループを導入することにより、この「外乱」のあるシステムの中に、相対的に安定したサブシステムを作り出そうという試みの歴史でもあったわけです。その試みが、近代以降思いのほか成功を収めてしまったので、ポストモダンブームの頃には、完全に外乱のない極限状態を想定してパラドクシカルなことを言う思想家が現れたり、反対に、外乱は決してなくならないのだから何やってもムダだ的なことを言う人が現れたりしたんだけど、これは、どっちも極論だったと思うのです。

 実際には、外乱が完全に無くすことは決してできないけれども、外乱の中でも相対的に安定したサブシステムを作り、人類が管理できる領域を広げていくことはできるわけで、文化とか制度とか 、ある意味では、人類とか生物そのものも、進化の過程で自律的に発生した、安定化のためのシステムだと考えることができます。進化論的なパラダイムが社会科学にインパクトを与えたのも、進化論というものが、もともと、そういう外乱のある開いた系の中で、自律的に発生する秩序、というものを扱える方法論だったからでしょう。

 ただ、こういうフレームワークに立って考えると、「 主意主義の本義は、主体ではなく、〈世界〉の根源的な規定不能性に関わっている。 」というだけでは不十分で、個々の主体が世界がら受け取る情報は、完全に同じではないけれども、相互のコミニュケーションを可能にする程度の相関性は持っている、というところが重要になってくると思います。(そう考えないと、主体がランダムでも、世界がランダムでも、大差ねえだろ? ということになってしまう(^^)。)

 このような、社会を構成するエージェントが、完全に同一ではないが、一定の相関のある情報を受け取りながら相互作用しているというモデルをうまくつくれれば、社会科学をもう一歩深化させることができるような気がするんですけど、ダメかなあ(^^)。

(北川悦吏子さんがよく書くんだけど、恋人同士が電話で話してて、実際には離れた場所にいるんだけど、同じ月を見てその感想を伝えあっている、みたいなイメージね(^^)。余計わかんねえか(^^)。)

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12 億の反日

 China Daily という中国の英字新聞の漫画欄を発見。言葉はよくわからないが、日本ネタばっかりだ、ということだけはわかる(^^)。なんて、(^^) マークを書いてみたけど、笑い事じゃないよね。

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ニュースバリュー

 なんか、キルギスタンで革命だかクーデターだか(どっち?)が起きているようですが、意外と報道の量が少ないですねえ。アメリカがパキスタンに F-16 の供給を再開したとかいうのも、見ようによってはかなり怖いニュースではないかと思うのですが、みんなホリエモンにふっとばされてしまったか(^^)。

 そういえば、NHK vs 朝日のバトルも、いつの間にかすっかり忘れ去られていますが、それでいいんでしょうかねえ。だって、誰かが確実にウソをついてるってことでしょう? それが誰かをはっきりさせないで、メディアの信頼性とか公共性とか、維持できると思ってるのかなあ。

 もともと NHK が政治に弱いという話はよく言われていたことで、私のような世間知らずの人間ですらきいたことがあるぐらいなのだから、マスコミ関係者の間では、それこそ暗黙の了解とか公然の秘密とかいうたぐいのことだったんじゃないですか。でも、今までは、確実な証拠がないから攻め込めなかったわけでしょう。それを攻め始めた以上は、最後まで詰めきれなかったら意味がないと思うんですよね。今さら、そういう構造が問題だ、みたいな構造論に逃げても、そんなのは前からわかっていたことなんですから。違うかなあ。

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XXX の権利

 南アフリカ共和国で、囚人に性行為をする権利を与えるかどうか、真面目な議論になっているそうです。

 どういうことかというと、つまり、刑務所内の治安が悪くて、レイプとかがしょっちゅうおこるので、それだったら、合法的な性行為を認めたほうが、レイプも減るし、エイズとかの予防にもなる、というお話らしいです(^^)。でも、反対する方は、それじゃ罰にならんだろう、と言ってるらしい。そりゃそーだよね(^^)。

 でも、それって「ショーシャンクの空に」なんかよりもっとひどい状態だってことで、よく考えると、笑いごとじゃないよね。

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e-Tax 見送り

 今年は e-Tax で申告しようかと思っていたのですが、なんか意外と面倒臭そうだし、今からでは間に合いそうもないので、去年と同じく「確定申告書等作成コーナー」を利用することにしました。

 しっかし、なんでこんな面倒なシステムになってしまうのかなー。どうも、少しでもユーザーにとって使いやすい便利なシステムを開発しようという気がそもそもない、としか思えないのですが(^^)。しょーがない、来年はもっと早目に準備しよう(^^)。

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ご都合主義的伝統

 自民党の憲法改正案に「日本の歴史や伝統の明確化」を盛り込もうという話になっているらしいのですが、この「伝統」という言葉はどうも曲者で、かなりご都合主義的な使い方をされる傾向があるようです。

 たとえば、欧米の制度を取り入れるかどうかを検討する際に、それは日本の伝統に合わない、と言って反対する人は、伝統というものを、完全に理性的にはコントロールできない、暗黙知的なものとして捉えているわけで

伝統 > 制度

という立場に立っているわけですよね。

 逆に、憲法で伝統を明確化しようという人は、伝統は制度によって理性的にコントロールしうると考えているわけで、

伝統 < 制度

という立場に立っているはずです。

 ところが、いわゆる保守派伝統主義者の中には、この両方の主張を同時にしている人が少なくないようです。

 もうちょっと用語法を整理して、仮に、社会に昔から受け継がれてきた知の中で、理性では完全に制御できない暗黙知的な部分を伝統と呼ぶことにしたとすると、もちろん、実際には伝統に合った制度を設計するというのは大事なことだし、逆に、制度によって伝統が影響を受けるということもあります。

 しかし、制度が伝統の内容自体を直接規定するというのは自己矛盾であって、制度に規定された伝統というのは、もはや、ここで定義したような意味での伝統ではなく、純然たる制度にすぎなくなっているわけです。したがって、その採用の是非には、あくまでも制度的な検討が必要なはずです。

 もちろん、大雑把に伝統と呼ばれているものの中には、そういう暗黙知的なものだけではなく、理性的に分析可能な部分もあるはずなので、そういうものを制度に組み入れようとするのは必ずしも間違いではありません。ただし、それは、あくまで合理的に優劣を(伝統との適合性を含めて)検討した上で取り込む、というのでなければ意味がないのであって、伝統という言葉を、そういう検討をしないでごまかすための思考停止の道具として使うのはいかがなものかと思います。

 たとえば、「和をもって尊しとなす」は日本の伝統だから、争わなくても問題を解決できるような制度を作ろう、というのは論理としてもおかしくないのだけれど、日本人は「和をもって尊しとなす」と思わなくてはならない、なぜならそれは日本の伝統だからだ、というのは論理が転倒していて、伝統を守ることだけが自己目的化しているわけです。

 もっとも、伝統主義者の本音は、無理矢理

伝統 = 制度

にしてしまうことによって、理性的な制度によらず、無意識的な慣習だけに従って暮らす社会に回帰させてしまうことなのかもしれません。まあ、そんなことがいまさら可能だとも思えないので、そのプランにはなおさらのれませんが(^^)。

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中東停戦合意

 予想ではなく、希望として、なんとか少しでもよいほうに動いて欲しいですね。。。

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民主主義のブートストラップ (イラクの選挙を見て)

 イラクの選挙の投票率が 60% 程度になりそうだとのことで、投票に行った人もテロで数十人亡くなっているし、スンニ・トライアングル地域ではほとんど誰も投票に来なかったところもあるそうなので、もちろん手放しでは喜べませんが、なんとか選挙を終えられたということや、生命の危険を犯してまで投票に来たイラクの人たちの勇気には、やはり敬意を表したいと思います。

 もっとも、これでブッシュ政権がますます頭に乗るのではないかと思うと、かなり複雑な気持ちなのは確かです。ただ、私たちは、心理的にはブッシュ政権のある種の無能さに救われている面もあって、ブッシュ政権がもっと有能だったら、もっと深刻な思想的な問題に直面していたのではないか、という気もするのです。

 人類の歴史を見ても、「正義」には、絶対的な正義がある、という考え方と、当事者が合意したものが正義である、という考え方の二種類があります。もちろん、合意の正義だって、当事者の絶対的な正義を求める心に根ざしているわけだし、絶対的な正義だって、当事者の合意がなければ効力を発揮しないわけですから、これはどっちの考え方が絶対に正しいというものではなく、相補的なものでししかありません。ただ、歴史の流れを見ると、合意による正統性というものをより重視する方向に進んでいることは確かだと思うのです。

 合意による正義は、まず、法による支配と言う形で成立したと思われますが、現実的に法秩序を維持するためにはなんらかの権力が必要です。そして、この権力が腐敗すると、合意の正義と、各個人の思う絶対的な正義が乖離するという現象が起こります。

 この乖離を是正しようと思ったときに、権力者が諫言とかを聞いてくれればいいのですが、多くの場合には、法によって許されている手段の範囲内でそれができるとは限らないわけです。つまり、正統性の基盤自体を変更しようとすると、正統化できない手段が必要になる、というパラドックスがあって、だからこそ、かつての政権交代の多くは、武力という非道徳的な手段で行われてきたのだろうと思うわけです。

 民主主義というのは、投票という手段を導入することにより、このような政権交代の手段自体までもを正統性の枠内に取り込んで、合意による正義をもう一段階徹底することに成功した制度なわけで、ある意味、この制度の登場によって初めて、あらゆる武力闘争を間違っていると言える道が開かれたのではないかと思うのです。

 ただ、この民主主義にも弱点が残っています。それは、今現在民主主義ではない社会をどうやって民主主義に変えられるか、ということです。民主主義を成立させるには、個人が自分の意思を自由に表明できる社会が必要ですが、このような社会は、単に支配権力がなくなれば成立するというようなものではありません。

 実際に人間社会を何も権力のない状態でほおっておけば、ちょっと腕力の強いヤツとか人気のあるヤツとかが、ヤクザの親分みたいに勝手にどんどん権力を作ってしまうのであって、そういう細かい差異を無視して、あらゆる人間を無理矢理平等とみなすような特殊な権力によって、こういう正統化されない権力を強引に駆逐しなければ、民主主義は成立しないのです。つまり、民主主義を成立させるためには、ある種の倫理の相転移みたいなものが必要だということです。

 フランス革命なんかだって、自分を直接支配している領主は倒してもよいけれど、他人のことにはちょっかいを出すな、みたいなことを言っていたら、成立しなかったはずで、みんなで協力して支配階級を打倒したからこそ成立したわけですね。だから、革命を起こす権利はその民族だけにある、みたいな発想は、ある意味、同じ民族は殺して/助けてもいいけど、他の民族は殺して/助けてはいけないという、民族主義あるいは民族差別みたいな論理を孕んでいるわけで、必ずしも普遍主義ではないわけです。

 そんなわけで、この深刻な矛盾をどう解決するかというのは、原理的にかなり難しい問題だと思うのです。しかし、だからと言って、ブッシュ政権のような方法には問題を感じる人が多いでしょう。だとすれば、私たちはなおのこと、この矛盾を解決する方法を真剣に考えなければならないと思うのです。

 より正統性のある方法として思いつくのは、国連で罰則つきの人権条項みたいなのをどんどん増やしていって、加盟国に民主化をじわじわと強制していくというやり方です。国連への加盟というのは、強制ではなく国家の意思で行われるものなので、この方法はその意味では正統性のある方法だと思います。ただ、実際には、中国やロシアのような国が拒否権を発動する可能性もあるし、国際的村八分を受けながら延々存続している国もありますし、制裁といったって、国家に対する制裁の被害を実際に受けるのは、守るべき当の国民だったりするし、いろんな問題があることは否めません。

 ただ、このような問題に絶対的な切り札はないと思うので、少しでもより穏健かつより正統性のある方法を積み重ねて、より相転移が起こりやすい状態に持っていくしかないと思うのです。そういう意味では、私たちもブッシュ政権をバカにしてばかりはいられません。

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歴史学ってなんだ?

 先日、例の南京大虐殺の問題について考えようとして、自分が、歴史そのものはまだしも、歴史学の方法論については、まったく無知であることに気づきました。

 それで、歴史学の基礎を簡単に学べる本はないかと探していたら、「ライブ・経済学の歴史」の田中直樹ならぬ小田中直樹さんが、「歴史学ってなんだ?」という格好の本を書いてくれていたので、正月休みを利用して読んでみました。

 結論から言えば、たいへん親切で読みやすい本でした。(構造主義からポストモダンの影響というあたりの議論は、予想通りという感じで、個人的にはちょっと食傷気味でしたが、これはもちろん入門書には欠かせない記述ですから、著者の責任ではありません。)

 しかし、史実を本当に明らかにできるのか、という点については、結局、歴史家の間でも合意に至っていないらしく、少し拍子抜けしました。もっとも、そういうことを変に高尚ぶらずに率直に書いている点が、この本のいいところであり、この著者の美点でもあると思います。

 また、この問題に対する著者自身の意見としては、合意の形成を重視する「コミニュケーショナルに正しい認識」という解答が提示されており、これには全面的に賛成です。

 ただ、南京大虐殺のような問題を考えると、著者の言うように「どうもあったというのが今のところ通説らしい、というだけで十分」というわけにはいかなくなります。なぜなら、南京大虐殺のいわゆる否定論者という人たちの多くは、まったく殺人がなかったなどと言っているわけではなく、「虐殺」と呼べるような国際法違反の行為は、他の国の軍隊などに比べて特に多いわけではなく、したがって「虐殺」と呼ぶべきではない、と主張しているにすぎないからです。

 したがって、この問題を解決するには、さらに、なんらかの量的評価とか、それに対する価値判断が必要になってきます。(そのようなフレームワークについても、自分なりの試案がまとまりつつあるので、いずれ時間のあるときにまとめたいと思います。)

 また、歴史の解釈についても、著者は、「間違っていない解釈の間では優劣はつけられない」と言っていますが、私は、間違っているとは言えないが、弱い相関しかないものと、強い相関のあるものとの間でも、やはり優劣をつけるべきではないか、という気がします。この考えが正しいとすれば、ここにも量的評価というものが必要になってくるはずです。

 とまあ、いろいろと文句はつけましたが、現在の歴史学の水準を飾らずに示してくれたという点で、非常にありがたい本でしたし、中で紹介されている歴史書も、面白そうな本ばかりで、非常に勉強になったことは間違いありません。

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