アメリカのハーフタイム

 なんか話題になってるようなので。 スーパーボールのハーフタイムに放送されたクライスラーの CM。語り手はクリント・イーストウッド。なぜ話題になってるかは自分で調べてね。

今はハーフタイムだ。

両チームはロッカールームで、後半どう戦えば試合ゲームに勝てるかを話し合っている。

アメリカもハーフタイムだ。

人々は仕事を失って苦しんでいる。

そして立ち直るためには何をすればいいのか、誰もが戸惑っている。

そして誰もが怯えている。これは遊びゲームではないから。

だがデトロイトの市民なら少しは知っているはずだ。

彼らはすべてを失いかけた。

だが我々の団結で、自動車の町モーター・シティは再び闘い始めた。

私はこれまでの人生の中で、数々の苦難の時代、数々の停滞の時代を見てきた。

お互いがお互いを理解できなかった時代。

心を失ったかのように見えることもあった。

分裂、不和、非難の霧が、前途を見極めることを難しくしたのだ。

だがそのような試練の後、我々は正義の旗の下に集い、一丸となって行動した。

それこそがアメリカ人だからだ。

我々は困難を切り抜ける道を探す。そしてもし見つからなければ、自ら道を切り開くのだ。

いま重要なのはこの先だ。

どうやって盛り返すか。

どうやって協力し合うか。

そして、どうやって勝つかだ。

それが可能なことは、デトロイトが示している。

彼らにできることは、我々にもできる。

この国は、パンチ一発でノックアウトされるような国じゃない。

我々はもう一度立ち上がる。そしてその時世界は、アメリカのエンジンの咆哮を聞くことになるのだ。

そう。アメリカはハーフタイムだ。

我々の後半戦が始まろうとしている。

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ネオ・フェミニスト映画

Neo-Feminist Cinema: Girly Films, Chick Flicks, and Consumer Culture 著者はオタゴ大学で教鞭を取るれっきとしたフェミニスト。オタゴ大学という名前は恥ずかしながら初耳だったが、Wikipedia によると、ニュージーランドでも一二を争う研究水準の大学らしい。

 本書の多くは、いわゆるガーリー・フィルム(girly film)の分析に当てられているが、ただ漫然と分析しているわけではなく、確固とした意図がある。

 それは、俗に「ポスト・フェミニズム」と呼ばれる社会風潮を、「ネオ・フェミニズム」という思想として位置づけ、その思想がガーリー・フィルムの中にどう現れているかを調べることだ。

 ポスト・フェミニズムという用語に明確な定義はないが、フェミニズムが社会運動として最盛期を過ぎて以降の社会風潮を指す言葉として使われている。アカデミックなフェミニストにとっては、フェミニズムの本来の理想を忘れ、そのスローガンを好き勝手に解釈していいとこ取りしている一般女性に対する、苦々しい心情のこもった言葉でもあるようだ。

 しかし著者は、ポスト・フェミニズムを単なるフェミニズムに対する反動としてとらえるのではなく、ネオ・フェミニズムと言うべき確固とした思想として認めるべきだと言う。ネオ・フェミニズムは第二波フェミニズムとほぼ同時期に生まれた思想であり、第二波フェミニズムの理想の(すべてではないにせよ)一部を継承しているという。

 著者の言うネオ・フェミニズムの根幹にある思想(ネオ・フェミニスト・パラダイム)は以下のようなものだ。

  • 女性の経済的自立の重視
  • 女性の消費による自己実現の肯定
  • 女性性の肯定
  • 女性の性的快楽追求の肯定
  • 家制度の相対化
  • 女性同士の友情の重視
  • 社会変革よりも、個人主義的な自己実現を重視

 これらは現代の一般人からは割と当たり前に感じられると思うが、アカデミックなフェミニズムの理想とは必ずしも一致しない。

 しかし著者は、現実の一般女性の要求に応えて来たのは、第二波フェミニズムよりもネオ・フェミニズムの方だと主張する。もちろん、ネオ・フェミニズムにもさまざまな問題点があり、そこにこそアカデミックなフェミニストの出番があるとも言っているが。

 著者によると、そもそもガーリッシュな女性という存在自体が、ネオ・フェミニズムの産物なのだという。家父長制下での女性は、常に娘・妻・母といった家制度内での役割を強制されていた。そこから解放されることにより、初めて自立した個人としての女性が生まれた。妻や母といった役割に縛られない女性は、いつまでも思春期のように性的魅力や性的快楽を追及してよいことになった。その結果、生物学的年齢から切り離されたガーリッシュな女性というものが誕生したというのだ。だからこそネオ・フェミニスト映画は必然的にガーリー・フィルムになるというわけだ。

 著者がネオ・フェミニズムのキー・パーソンとしてかなりの紙幅を割いているのが、ヘレン・ガーリー・ブラウン(Helen Gurley Brown) という人物。私は恥ずかしながら知らなかったが、"Sex and the Single Girl" というベストセラーの著者であるばかりか、雑誌「コスモポリタン」の編集長を 30 年以上も勤め、世の女性に多大な影響を与えた人物だという。

 そう聞くと私などには、フェミニズムにとって極めて重要な人物に思えるのだが、実はアカデミックなフェミニストがこの人物に注目しだしたのは割と最近のことらしい。私が所有する二冊のフェミニズム辞典(12)にも載っていないし、Google Books や Google Scholar に "Helen Gurley Brown" "feminism" などと入力して検索しても、出てくるのは最近の文献ばかりである。それじゃあアカデミックなフェミニストと一般女性の意識が乖離するのも無理ないよ、と私なんかは思ってしまうのだが。

 著者の来歴もなかなか興味深い。著者はカリフォルニアの出身なのだが、両親ともフェミニストで、フェミニストにとって「有害」なポップ・カルチャーから隔離されて育ったのだそうだ。 そして研究者になってから研究対象として初めて本格的にポップ・カルチャーに接したという。

In the course of researching popular culture for women as part of my doctoral thesis in the 1980s, I was shocked to discover not the downtrodden housewives that I had been led to expect by feminism, but a group of lusty, independent females determined to have fun, to succeed and to develop a healthy bank account, while masquerading behind a girlish demeanor. Popular culture generally, and women's magazines in particular, were not lamenting woman's fate - rather there was a mood of celebration and heated anticipation about what the present offered and what the future might bring.

(拙訳)私は、1980 年代に博士論文の一環として女性向けの大衆文化を研究する過程で、 フェミニズムによって予期していた虐げられた主婦ではなく、少女のような振る舞いに隠れながら、人生を楽しみ成功し健全な貯蓄を育てる決意に満ちた、自立した活力ある女性を発見して衝撃を受けた。大衆文化全般、特に女性誌は、女性の運命を嘆いてなどいなかった。むしろそこには、現在が与えてくれるものや、未来がもたらす可能性に対する、お祝いの気分や過熱した期待があった。

 ではフェミニズムやポップ・カルチャーに対するアンビバレンツな感情を表明するのかと思うとそうでもなくて、以後なに食わぬ顔で価値中立的な分析を続ける。そして最終章まで来てから、堰を切ったようにフェミニズムの現状に対する批判の声を漏らすのだ。

A further strand of feminist analysis of post-feminism is typically haunted by the specter of second-wave feminism that failed to fulfill its promise to deliver a utopian existence to those who embraced its message; such analyses tend to produce a critique of the form of lament. Subtending the feminist lament is the lost dream of feminism that was whole, unmarred by the dirty business of everyday life and by the bitter and sectarian debates that have marked feminist inquiry since its inception.

(拙訳)一般に、フェミニストのポスト・フェミニズムに対する分析は、その主張を受け入れた人々に理想郷をもたらすという約束を守れなかった、第二波フェミニズムの亡霊にとりつかれている。そのような分析から生まれる批評は嘆き節の形になりがちだ。フェミニストの嘆き節に潜んでいるのは、日々の汚れた仕事や、その探求が始まったときからフェミニストを悩ませてきた激しい党派的な議論によって傷つけられる前の、失われたフェミニズムの夢である。

 だからひょっとすると、最初から批判ばかりでは同業者に読んでもらえないと思って、わざとこういう構成にしたのかもしれない。邪推かもしれないが。

 本書で論じているのは、主に以下のような映画である。

 フェミニズム批評というと、教条的にないものねだりの難癖をつけるような批評を連想する人も多いかもしれない。確かに本書にも「主人公が目指すのは、あくまで消費社会の中での個人的な自己実現であって、社会変革ではない」みたいな分析が頻繁に出てくるが、だからその作品が駄作だとか決め付けるのではなく、あくまで事実として指摘するだけという姿勢を貫いている。だから、このへんの作品が好きな人でも、それほど不快にならずに読めると思う。

 著者は「プリティ・ウーマン」をネオ・フェミニスト映画の元祖としている。女性の自立を扱った作品なんて、もっと前からあったじゃん。それこそ連続テレビ小説とか…、と一瞬思ったのだが、著者がこの作品を元祖とするには理由がある。一つは、主人公が娼婦であることで、これが処女性・純潔性から解放された性的快楽の肯定を意味する。もう一つは、主人公が着飾って「変身」することで、これが消費による自己実現を意味する、のだそうだ。

 他の映画もそれぞれメルクマールとしての意味がある。「ロミー & ミッシェル」は恋愛より女性同士の友情を重視した映画、「キューティ・ブロンド」は恋愛より仕事を重視した映画、「メイド・イン・マンハッタン」は人種問題を取り入れてヒスパニック系に訴えようとした映画、「プラダを着た悪魔」はいわゆる「ファッション・フィルム」の代表、「セックス・アンド・ザ・シティ・ザ・ムービー」はいわゆる「イベント・フィルム」の代表、「恋愛適齢期」は中年女性の少女性を肯定した映画、ということになる。

 では日本映画でネオ・フェミニスト映画と言える作品はなんだろう、と考えて真っ先に思い浮かんだのが「下妻物語」。この映画をフェミニズム的な観点からくさしていたフェミニストの人がいたけど、この著者の言うネオ・フェミニスト・パラダイムからすれば、まさに王道を行くような映画だろう。女性性の肯定、経済的自立、消費による自己実現、女性同士の友情、すべてある。性的快楽の肯定の要素は薄いけど、篠原涼子演じる桃子の母親が一応その役回りだとも言えるだろう。

 私はもともと著者の言うネオ・フェミニズムに近い考え方なので(微妙に違うところもあるが、その点についてはこのブログに何回も書いたので省略)、本書を読んで考えが変わることはほとんどなかったが、フェミニズムの現状やフェミニストが現代の文化をどう見ているかを確認するという意味では役に立った。また、分析の過程で出てきた映画業界やファッション業界の解説は、その方面に疎い私にとっては、素直に勉強になった。このへんの感想は、読む人の思想や知識によって違ってきそうだ。

 いずれにせよ、一般女性の文化を上から目線で切って捨てるのではなく、正面から受け止めようとするフェミニストが現れ始めたことは、フェミニズムの将来にとってもよいことだと思う。

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アメリカ人はなぜ福祉が嫌いか

Why Americans Hate Welfare: Race, Media, and the Politics of Antipoverty Policy (Studies in Communication, Media, and Public Opinion) 著者はプリンストン大学の政治学の准教授。カリフォルニア大学バークリー校で社会学の博士号をとり、イェール大学や UCLA でも教鞭を取ったというから、きっと優秀なのであろう。

 政治学者や社会学者というと、虚仮脅しの専門用語を散りばめながら好き勝手な意見を書き飛ばす評論家をイメージする人も多いと思うが、この本は、律儀なまでに社会調査と統計分析に基づいており、文科系の本にありがちな衒学的なごまかしはまったくない。 その点では安心して読める。

・アメリカ人は福祉が嫌い?

 アメリカ人の福祉嫌いは有名だ。アメリカの福祉は先進国中でも最低レベルにあるし、彼らの「社会主義」や「再配分」という言葉に対する拒否反応は強く、このブログでもネタにしたことがある。何より当のアメリカ人自身が、アメリカ人は福祉嫌いだと自認しており、そのことは本書の著者も認めている。

 では、その理由を説明したのが本書なのかというと、さにあらず。なんと著者は、アメリカ人は本当は福祉が嫌いではない、という。

 著者の分析によると、アメリカ人が嫌いなのは、貧乏人全般を助けることではなく、助けるに値しない怠け者の貧乏人(undeserving poor)を助けることなのだという(ちなみに、この undeserving poor という用語を最初に提唱したのは Michael Katz)。 つまりアメリカ人は、貧乏人の多くが助けるに値しない人だと思っているのだ。

・原因は人種的偏見

 ではそれは何故か。アメリカ特有の自己責任を重視する個人主義か。それとも、税金を他人に使われたくないという利己主義か。どちらもさほど大きな要因ではない、と著者はいう。最大の要因は、なんと、白人の黒人に対する偏見(stereotype)なのだという。

 そう聞くと、「要するに保守的な白人は黒人の得になることをしたくないわけね。人種差別は相変わらずだね」などと安易に解釈する人もいるかもしれないが、さにあらず。大多数の白人は、働く気のある真面目な黒人は喜んで支援したいと思っている。それを邪魔しているのが、「黒人は怠け者」という偏見なのだという。

 そもそもアメリカ人の多くは、福祉政策の受給者のほとんどが黒人だと思っているが、この認識自体が間違っている。確かに、貧困者中の黒人の比率は高いが、それはあくまで相対的なもの。元々アメリカの人口における黒人の比率がそれほど高くないのだから、いくら相対的な比率が高くても、貧困者が黒人ばかりなどということはあり得ないのだ。

 この誤った認識に、黒人は怠け者だという偏見と、怠け者は助けるに値しないという価値観が結びつくことにより、福祉政策に対する反感が生まれたというのだ。つまり、

  • 福祉政策の受給者は黒人ばかり(誤った認識)+
  • 黒人は怠け者ばかり(偏見)+
  • 怠け者は助ける価値なし(価値観)
  • = 福祉政策に対する反感

というわけだ。

 でも、黒人に対する全般的な差別意識が原因ではなくて、「黒人は怠け者」という偏見だけが原因だ、なんてどうして言える? と思う人もいるだろうが、そのへんは著者も綿密に調べている。

 たとえば、世論調査によって、福祉政策に対する反感と黒人に対するさまざまな偏見の相関関係を調べると、「黒人は怠け者」という偏見とは強い相関関係があるが、「黒人は無能」とか「黒人は暴力的」というような偏見とはほとんど相関関係がないという。また、福祉政策に対する反感をさらに細かく調べると、働き者の黒人だけが利益を受ける政策(マイノリティだけを対象とした職業訓練や奨学金など)に対する反感もあまり強くないという。

・無意識の洗脳

 では、「黒人は怠け者」という偏見はどのようにして生まれたのだろう。この偏見はもともと、白人が奴隷制を正当化するために生み出したものだが、現在のアメリカ人が依然としてそのような偏見を持ち続けている原因は、マスメディアだという。そして著者は一種のメディア・スタディを行うのだが、この部分がひょっとしたら一番面白いかもしれない。

 著者は、主要な報道雑誌3誌を選び、1950 年代~1990 年代に発行された雑誌の中から、貧困関係の記事をすべてピックアップした。そして、その記事中の写真に出てくる人物が、白人か黒人かを調べ、その比率を計算したのだ。

 その結果、雑誌記事の写真の選択にはさまざまな偏りがあることが判明する。まず、貧困者中の黒人の写真の比率が、実際の比率より明らかに高い。さらに、貧困者に同情的な記事と批判的な記事を分けてみると、同情的な記事には白人の写真が使われる率が高く、批判的な記事には黒人の写真が使われる率が高いのだそうだ。

 そう聞くと、「保守的なマスゴミの連中が、都合のいい人種的偏見を垂れ流して大衆を洗脳しているんだな」と思う人もいるかもしれない。しかし、それも違うと著者はいう。

 そもそも、アメリカのメディアはリベラル寄りで有名で、だからこそアン・コールターやラッシュ・リンボーにさんざん攻撃されたり、FOX ニュースが人気になったりしたわけだ。だから、2000 年以前はなおさらそうだったろう。

 著者は、研究対象となった雑誌の編集者についても実際に会って調べており、彼らがリベラルな人物であることを確認している。ただし、意識の上では、だ。

 このようなリベラルな人物であっても、無意識のうちに「黒人は怠け者」という偏見に影響されており、それが写真の選択に反映されている、と著者は言う。実際に彼らは、自分の選んだ写真にそのような偏りがあることすら気づいていなかった。

 実はこのような無意識的な人種的偏見を調べる心理学実験がある。その実験によれば、被験者を意識的な人種的偏見の強いグループと弱いグループに分けても、無意識的な偏見にはあまり差がないそうだ。

 そして、そのような無意識的な偏見の影響下で選ばれた写真が報道されることにより、社会全体の黒人に対する無意識的な偏見が強化されるというわけだ。まさに悪循環だ。

・正しい認識が重要

 ここまで読んで、「著者はそうまでして『白人は黒人を差別してない』と言いたいのか?」なんて思った人もいるかもしれないけど、多分違うと思う。著者はただ、現実をより正しく認識することが、より正しい解決を導くと思っているだけだ。

 福祉政策への反発の原因が、「黒人は怠け者」という偏見であるならば、それを解消すれば、黒人の差別解消にも福祉政策の推進にも役立つかもしれない。また、そのような偏見の原因が、メディアの無意識的な偏向であるならば、それを改善すれば偏見もなくなるかもしれない。

 実際に著者の研究結果を受けて、一部の雑誌社では、記事中の写真の偏りをチェックする仕組みを導入したそうである。

 ちなみに、本書には話の流れで公民権運動の歴史を紹介する部分がある。全般にイデオロギー的にならないように努めて冷静に書かれた本だが、その部分の描写だけ微妙に力が入っていて、この人は実は公民権運動に結構思い入れがあるな、と感じた。勝手な想像かもしれないが。

・自己認識を覆す

 本書の読後感は、山岸俊男氏の一連の著作にちょっと似ている。山岸氏の本が、日本人が自らに対して持つ自己認識=「日本人は集団主義」を覆そうとしているのに対し、本書は、アメリカ人が自らに対して持つ自己認識=「アメリカ人は福祉が嫌い」を覆そうとしているわけだ。

 ただ大きく違うのは、山岸氏の使うのが主に心理学実験なのに対し、本書の著者の使うのは社会調査と統計分析であるということだ。

 著者の統計分析は極めて入念であり、考えうるさまざまな反論にも丹念に反証している。たとえば、世論調査ではキレイゴトを答えているだけで、本音は全然違うのでは、とか、写真が偏っているのは、貧困者全体を平均すると黒人は少なくても、ニュースになるような事例に関係する人には、実際に黒人が多かったのでは、とか。 

 そのため、著者の主張には説得力があり、適当に数字をひねくり回して珍説をでっち上げるような類の本とはレベルが違うという印象を受けた。

(ただ一応指摘しておくと、「貧困者は黒人ばかり」も「黒人は怠け者ばかり」もメディアの影響だとすると、メディアが変わっても「貧困者は怠け者ばかり」になるだけで、福祉政策に対する反感はなくならない可能性も否定できないと思う。これが日本の話だったらきっとそう思っただろう。アメリカの場合はもっと差別が根深いのかもしれないが。)

 あと本書は、人間の性は基本的に善であるという、極めて健全な人間観が底流にあり、その点でも山岸氏の著作に似ていると感じた。全体に快く読めたのはそのせいでもあろう。

・決めつけてはいけない

 本書を読んで強く感じたのは、国民性や民族性のようなものを、安易に決め付けてはいけないということ。私自身のアメリカ人に対する思い込みも少なからず影響を受けた。

 考えてみれば、ほんの数百年前には黒人奴隷の国だったアメリカが、奴隷解放や公民権運動を経て、今や黒人が大統領や国務長官になるところまで来た。

 あるいは、ほんの数百年前にはホーソーンの「緋文字」(読んでないけど)みたいなピューリタンの国だったアメリカが、性の解放を経てポルノ大国となり、SATC やデス妻みたいなドラマがゴールデンタイムに放映されるところまで来た。

 今は誰が見ても福祉後進国であるアメリカが、何十年何百年したら福祉先進国になっていないと誰が言えるだろうか。

 同じことは日本についても言えるだろう。日本人は日本がこんな国だと思い込んでいるが、その思い込みによって自らが縛られてはいないか。

 本書が出版されたのは、まだクリントン政権でアメリカが好景気だった 2000 年である。その後のオバマ大統領の誕生やティーパーティ-の台頭やリーマンショックなどにより、アメリカ人の意識はどう変化しただろう。 知りたいところである。

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有権者は民意を知らない

 「政治家は」の間違いではない。有権者は民意を知らないのだ。別に皮肉でもなんでもなく。

 なのに、マニフェスト論・社会選択理論直接民主制論など、民主主義に関する政治理論の多くは、民意を最もよく反映する政治こそが正しい政治である、という暗黙の前提を置いている。この固定観念こそが、政治制度に関する議論を不毛なものにしている最大の原因だと私は考えている。

 このような考え方は、実は政治以外の分野では特に珍しい考え方ではない。

 たとえばマーケティング。かつては消費者の需要を知りそれを満たすことが目標だったが、最近ではむしろ「需要の創造」などと言われるようになった。これは、消費者自身も気づいていなかった隠れた需要を、生産者の方が発見して提案するという意味だ。

 あるいはソフトウェア工学(私自身がこの事を最初に学んだのはこの分野を通じてだった)。かつてはユーザーがソフトウェアに求めるものをできるだけ正確に知って、その通りのソフトウェアを作ることを目標にしていた。要求分析とか要求定義とかが重視されたのはそのためだ。

 しかしやがて、この方法は十分に機能しないことが明らかになる。その最大の原因は、ユーザー自身がソフトウェアに何を求めているかわかっていないということだった。たとえ完璧に仕様通りのソフトウェアを納品しても、ユーザーは必ずと言っていいほど、思っていたものとは違うとか、ここを変えて欲しいとか、追加機能が欲しいとか言い出す。そのことが知られてから、ソフトウェア開発の方法論は、仕様の柔軟な変更を前提としたものに変わっていった。

 念のために言っておくが、これは別に消費者やユーザーを馬鹿にして言ってるわけではない。そうじゃなくて、人間は誰でも自分が何を求めているか本当には知らないのが普通なのである。

 生まれて初めてある料理を食べるとき、人はその料理が美味いかどうか知らないで食べている。最初から美味いとわかっているものしか食べなかったら、一生貧しい食生活が続くことになるだろう。自分でも価値のわからないものを求めるからこそ、幸福の地平は広がってゆくのである。

 実は、私の「民意」に対する固定観念を決定的に打ち砕いたのは、他ならぬ社会選択理論そのものであった。アローの不可能性定理やセンのリベラル・パラドックスは、素朴な意味で「民意」を満たす決定方法が存在しないことを教えてくれる。

 要するに「民意」というのは、神によって与えられた自然権などと同じく、民主主義を支えるフィクション(擬制)なのだ。「民意」とは選挙によって表されるところのものであって、それ以上でもそれ以下でもない。それ以外の「真の民意」などを求めても不毛な結果しかもたらさないだろう。

 理屈からすれば直接民主制の方が正しいように見えるのに、実際には間接民主制が主流になっているのも、おそらくそこに理由がある。建前のフィクションでは説明できない知恵が制度に隠されていたからこそ、民主主義はここまで存続して来れたのだ。

 政治の真の目標は、「民意」を実現することではなく、人々を幸せにすることであり、そのための最善の制度を考えることだったはずだ。「民意」への不必要なこだわりは、むしろその邪魔にすらなっているのではないか。民主主義にとって真に必要なのは、有権者が最終的なガバナンスを握っていること。それだけだ。

 たとえば、料理屋で自分が食べたい料理を食べるためには、レシピをできるだけ正確に詳しく書かせてそれを守らせるべきだとか、料理屋の情報公開が不可欠だとか、料理屋に任せずに自分で料理すべきたとか、客の料理能力以上の料理を食べることは不可能だとか言う人はあまりいない。料理屋同士を競争させて、その中から適当に店を選ぶだけで、ぼくらは十分に食べたい料理を食べることができている。なのに、こと政治の話になると、なぜかそういう話になるのは不思議なことだとは思いませんか?

 それも結局は、有権者が民意を正確に知っていて、それを実現するのが正しい政治である、という誤った固定観念のせいだと思う。

 だから政治制度を考える際には、有権者が民意を正確に知らないことを前提にして、それでもうまく機能するシステムを考えるべきだ。そのとき参考になるのはむしろ、プリンシパル・エージェント理論とか自動制御論とか、そういった理論ではないだろうか。

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情報ゲームの錬金術に溺れるマスコミ

 最近はそうでもないが、一時期、マネーゲーム批判は大流行だった。ホリエモンこと堀江貴史や村上ファンドの村上世彰に対するバッシングから始まり、リーマンショックに始まる世界的金融危機がトドメを刺した。

 当時、マスコミの多くは口をきわめて彼らを罵った。やれ「マネーゲーム」だ、やれ「錬金術」だ。彼らのやっていることは「虚業」であって、社会になんら利益をもたらすものではなく、むしろ害悪ですらある、という論調がマスコミの大勢を占めていたように見えた。

 そういう批判がどの程度妥当だったかはひとまずおこう。ここで一言いいたいのは、マスコミってそんな偉そうなことを言える立場なんですか、ということ。最近のマスコミのやっていることだって、「情報ゲーム」による「錬金術」にすぎないんじゃないですか?

 ぼくは、マネーゲームのような「虚業」的な投資と、社会の役に立つ「まっとうな」投資を分けるものは、いわゆる「フェア・バリュー」、つまり投資対象の適正な価値を想定しているか否かだと思っている。

 投資家がみな適正な価値を意識して投資していれば、人によって多少の誤差はあっても、その平均によって決まる市場価格も適正価格に収束する。市場価格が適正価格であれば、より生産性の高い企業が資金を調達しやすくなり、より正確に企業を評価する能力を持った投資家に資本が集まるという、資本主義にとって健全な循環が実現する。

 マネーゲームが批判されるのは、適性価格かどうかを無視して、無理矢理価格差を作り出して儲けようとするからだ。投資というのは、短期的には価格差さえあれば儲かるように見える。安いものを高く売り、高いものを安く売ることが儲けの源だ。

 しかし、このような投資からは何も生み出されない。単にプレーヤー同士が金を奪い合うだけのゼロサムゲームであり、ギャンブルと同じだ。だからこそゲームであり錬金術なのだ。

 今のマスコミのやっていることは、これと同じではないだろうか。何が事実であるか、何が適正な評価であるか、彼らに興味はない。興味があるのは、無理矢理評価に落差を作りだして、情報を生産することだけだ。高く評価されている者がいればバッシングし、低く評価されている者がいれば持ち上げる。その一回一回の落差が新たな情報を生み出し、利益を生み出す。まさに情報ゲームによる錬金術だ。

 しかし、このような情報は、長い目で見れば何も生み出さない虚の情報にすぎない。最初から冷静な評価をしている者から見れば情報量ゼロ。そんなマスコミに、偉そうにマネーゲームを批判する資格があるのだろうか。

 このようなマネーゲームや情報ゲームのタチの悪いところは、積極的に興味のない人でも参加しないと損するような気がしてしまうところにある。適正価格より低いと思っていても、その株を持ち続けていれば評価損になるし、不当にバッシングされていると思っていても、その人を擁護すれば自分も批判されるだろう。そういう感情が、結果的にマネーゲームや情報ゲームの存続に加担しているのだ。

 結局、マスコミの情報ゲームに巻き込まれないためには、その情報に興味を持たないことが一番だ。参加すれば錬金術のおこぼれにありつけるなとという、甘い期待をしないことだ。多くの人がそう思うようになれば、少しはマスコミも反省することだろう。

 ぼくは、いつかそういう日が来ることを期待しつつ、自分の RSS リーダーからくだらない情報のフィードを大量に削除しまくったのだった。

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もっと再放送を!by出羽の守

 何かというと「欧米では」「アメリカでは」と外国を引き合いに出して日本をこき下ろす人のことを「出羽の守」と呼ぶそうだが、そういう人はぼくもあまり好きではない。もちろん、外国に本当に優れたところがあれば、それに学ぶことが悪いはずはないのだが、実際にはそうでもないことも多いからだ。昔はそういう文化人がたくさんいて、こっちも若くて純情可憐だから感心して聞いていたものだが、今思えばウソや誇張が少なからず混ざっていたと思う。

 たぶん、当時はインターネットがないのはもちろん、海外で暮らした人もそれほど多くなかったので、ウソや誇張があってもなかなかバレなかったのだ。そのため、出羽の守的な語り口が文化人の権威を高める道具として便利に使われていたのだろう。

 …とわざわざこんな前フリをしたのは、今回だけはあえて出羽の守をやりたいからである。ネタはテレビである。

 テレビ界が不況だと言われて久しい。それが世界同時不況のせいなのか、それとも、時代の必然なのか、いろんな意見があるとは思うが、それはひとまず保留する。ぼくが疑問なのは、あれだけ予算がない予算がないと言っているわりには、なぜもっと再放送を増やさないのか、ということである。

 欧米のテレビ局では、同じ週に同じ番組を何回も繰り返して放送することも珍しくない。というか、むしろそれが普通である。今はもう日本にいながらにして視聴できる海外局がたくさんあるので、知っている人も多いはずだ。

 たとえば、アメリカ発の CNNj の場合、「ファリード・ザガリアGPS 」や「ステート・オブ・ザ・ユニオン」のような週 1 回の番組なら、再放送を含めて週に 2 回ずつ放送する。「リビールド」のような月 1 回の番組は、再放送を含めて月に 7 回放送する。「アンダーソン・クーパー360°」や「ラリー・キング・ライブ」のようなライブの帯番組は、さすがに毎日 1 回ずつしか放送しないが、どっちにしろ帯だから毎日観れる。

 イギリス発の BBC ワールドはもっと極端だ。「ハード・トーク」 という討論番組は、ほぼ毎日放送のある帯番組に近いが、同じ内容を 1 日 3 回ずつ放送する。「アワ・ワールド 世界は今」 という週 1 回の番組は、再放送を含めて週に 7 回ずつ放送する。「ワールド・ディベート」 という月 1 回の番組は、再放送を含めて月に 5 回放送する。

 ディスカバリー・チャンネルナショナル・ジオグラフィック・チャンネルのような、ドキュメンタリー系のテレビ局になると、相対的にスペシャル番組が多く、1 回製作した番組を 1 年にわたって何回も繰り返し放送することが多い。もちろん、「怪しい伝説」のようなレギュラー番組もあるが、こちらもだいたい週 2 回ぐらいのペースで放送しているようだ。

 ひるがえって日本のテレビ局を見ると、週に 1 回しか放送しない番組が極めて多い。いや、ほとんどの番組がそうであると言ってもいいくらいだ。そして、これは番組の人気ともあまり関係がない。

 たとえば、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」という番組は、 ぼくにとって絶対に見なくてはならない番組だと言っても過言ではないが、いかんせん週に 1 回しか放送がない。ということは、この時間帯には他の番組は(チューナーをもう一台買うとかしない限り)絶対に観れないということなのである。

 ところが困ったことに、最近になって町山智浩氏が 「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」 という番組を始めた。町山氏のアメリカ関係のレポートは以前から高く評価しているので、この番組も面白いに違いないと確信しているのだが、なんと放送時間がちょうど「ガキの使い」の裏なのである。しかも、この番組にも再放送がない。ということは、ぼくはこんな面白そうな番組を永遠に観れないということなのである! こんな不条理があろうか。

 そういうのは個人的な事情だからひとまずおいて、日本と海外の番組編成になぜこのような明白な差があるかを考えてみると、おそらく、視聴者側の視聴習慣の違いなのである。思い切って単純化して言えば、日本の番組編成は、毎日決まった時間にテレビの前に座って、その時間に放送している番組のうちから観る番組を選択するような視聴者に適しているのに対して、海外の番組編成は、先に観る番組を決めて、その番組の放送時間に合わせてテレビの前に座ったり録画したりするような視聴者に適しているのである。

 ぼく自身も数年前から、テレビはほとんど録画でしか観なくなった。そうすると明らかに海外テレビ局の番組編成の方が便利であることが実感されるのだ。おそらく、そういう視聴者はぼく以外にも増えているはずで、それが日本のテレビ視聴率の長期低落傾向の一因にもなっているのではないだろうか。これをちゃんと立証するのはなかなか大変なので、あくまで想像だが。

 そういう前提に立てば、同じ番組の再放送を増やすということは、おそらくテレビ局自体の利益にもつながるはずなのだ。たとえば、「ガキの使い」の再放送を 1 回増やしたとする。その結果、今の放送時間の視聴率は少し減るかもしれないが、人気番組の放送枠がほとんどコストゼロでもう一つ増えることになるわけだ。両放送時間の合計視聴者数で考えても、まさか差し引きゼロということはないはずで、全体として少しは増えるだろう。もちろん、それより視聴者数の多い番組をもう一つ別に制作できればもっと視聴者を獲得できるわけだが、今のご時世にそれがそう簡単ではないことは明らか。さらに、制作費当たりの視聴数や利益率を考えれば、再放送の有利さがさらに増すのは言うまでもない。

 こう考えると、なぜ日本のテレビ局がもっと再放送を増やさないのか、不思議に思えてくるぐらいである。これは完全に下種の勘ぐりになってしまうが、その裏には、芸能界の構造問題みたいなものがあるのかもしれない。仮にテレビ局の利益だけ考えれば、再放送を増やした方が得だとしても、出演する芸能人の立場から考えれば、それによって仕事の場が減る可能性が高い。だから、あたかも年末の道路工事のように、無駄とわかっていてもやらざるをえない事なのかもしれない。

 あるいは、ひょっとすると、テレビ局の方々はぼくなんかよりもっと志が高くて、いつの日かまた視聴者がテレビの前に戻ってきて、ゴールデンタイムには必ずテレビの前で一家団欒をすごすという日が来ることを信じて、日夜邁進しているのかもしれない。プロのみなさんがそう考えているのだとすれば、ぼくなんかが何を言っても無駄だろうが、少なくともぼくには、そんな日が来ることはとうてい考えられないのだが。

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退廃芸術

退廃芸術(たいはいげいじゅつ、独:Entartete Kunst, 英:degenerate art)とは、ナチス近代美術を、道徳的・人種的に堕落したもので、ドイツの社会や民族感情を害するものであるとして禁止するために打ち出した芸術観である。

ナチスは「退廃した」近代美術に代わり、ロマン主義写実主義に即した英雄的で健康的な芸術、より分かりやすく因習的なスタイルの芸術を「大ドイツ芸術展」などを通じて公認芸術として賞賛した。これらの公認芸術を通してドイツ民族を賛美し、危機にある民族のモラルを国民に改めて示そうとした。一方近代美術は、ユダヤ人スラブ人など「東方の人種的に劣った血統」の芸術家たちが、都市生活の悪影響による病気のため古典的な規範から逸脱し、ありのままの自然や事実をゆがめて作った有害ながらくたと非難された。

近代芸術家らは芸術院や教職など公式な立場から追われ、ドイツ全国の美術館から作品が押収されて「退廃芸術展」など全国の展覧会で晒し者にされ、多くの芸術家がドイツ国外に逃れた。一方公認芸術は、「人種的に純粋な」芸術家たちが作る、人種的に純粋な「北方民族」的な芸術であり、人間観や社会観や描写のスタイルに歪曲や腐敗のない健康な芸術とされたが、その実態は農村の大家族や生活風景、北方人種的な裸体像が主流の、19世紀の因習的な絵画・彫刻の焼き直しにすぎなかった。

皮肉なことに、近代芸術を身体的・精神的な病気の表れである「退廃」だと論じる理論を構築した人物は、マックス・ノルダウというユダヤ人知識人であった。


ノルダウはこの理論を疑似科学的な根拠として用いながら、「世紀末芸術」や「世紀末」的文化状況の「倫理的堕落」に対して幾分俗物的な立場からの批判を行った。ノルダウはロンブローゾの理論に基づき、近代の芸術家もまたロンブローゾのいう「生来的犯罪人」同様、原始からの隔世遺伝的な退廃に冒され、身体的・精神的な異常を抱えていると断言した。彼にすれば、音楽文学視覚芸術などあらゆる形式の近代芸術には、精神的不調と堕落の症状が現れていると見えた。近代芸術家たちは身体の疲労と神経の興奮の両方に苦しめられているため、すべての近代芸術は規律風紀を欠き、首尾一貫した内容がなくなっているとした。ノルダウは特に印象派絵画、フランス文学の象徴主義、イギリス文学の唯美主義に攻撃を集中した。象徴主義の中の神秘主義思想は精神病理学的な産物であり、印象派画家のペインタリネス(絵画表面のありよう)は視覚皮質病気の兆候とされた。




- Wikipedia 退廃芸術

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個性とはおおむね平凡なものです

 秋葉原の事件がらみで、はてな界隈では「承認欲求」の議論が盛り上がっていた。まあ、あの事件の犯人が本当に承認欲求に飢えていて、それが理由で事件を起こしたのかどうかはさておき、現代社会において承認欲求の問題が重要なことは間違いないと思う。でも、議論をちらちら横目で見ていると、ぼくなんかにはどうもいろいろと違和感を感じる部分があった。

 そもそも、承認という概念自体の定義がはっきりしないことが問題で、多くの人はマズローの欲求段階説を下敷きにしてるみたいなんだけど、この説自体が経験知を図式的に整理しただけで、それほど実存哲学的な深みがあるわけではない。だから、承認の欲求と呼べるものが人間にあるのは確かだと思うが、その細かい心理的なメカニズムや行動への現れ方については、必ずしもマズローが正しいとは思っていない。

 承認の欲求というのが、個として認められたい欲求だというのはその通りだと思うが、問題は、その「個」とは何かということ。ここで思ったのは、厳密には個性と個別性は別物なのに、その区別がついてないことが混乱の元になっているのではないかということである。

 個性という日本語は、現在では、他の人と比べて「変わって」いるとか、統計的な平均値からの偏差が大きいというニュアンスで使われることが多い。しかし、人間は一人一人みな違うというときの「個性」は、かならずしもそのような偏差が大きいことを意味しない。

 たとえば、真っ白い紙にランダムに点を打ち、それを碁盤目状に切り分けて、正方形の紙片をたくさん作ったとしよう。この紙片を1枚1枚仔細に比較すれば、おそらく、どれ1枚としてまったく同じ模様の紙はないだろう。しかし、遠くからぱっと見ただけだったら、どの紙片もほとんど同じように見えるはずである。

 この例でもわかるように、日常用語としての「個性」は、「個」の性質ではない。黒い紙片は白い背景の上に置けば目立つが、黒い背景の上に置けばまったく目立たなくなる。そういう意味で、黒い紙片が「個性的」なのは、白い背景という「全体性」に依存しているのであって、それ単体ではちっとも「個性的」ではない。しかし、後者の意味での「個性」は、全体がどうであろうと「個性」でありつづけるのである。

 実は、心理学用語としての個性(individuality)は、必ずしも日本語の日常用語のようなニュアンスではなく、むしろぼくが例で説明した意味に近いらしいのだが、ここでは混乱を避けるために、前者を「個性」、後者を「個別性」と呼ぶことにしよう。

 この分け方を前提としたとき、ぼくが考える承認欲求の承認の対象は、個性ではなく個別性なのである。言い換えれば、ほとんどの人は平凡な人間にすぎないのだが、にもかかわらず、まったく同じ人間は一人もおらず、一人一人が個別性を持っている。その個別性を愛でることが「承認」なのである。

 わかりやすい例で言えば、昔からよい家族を形容する「苦楽をともにする」という表現がある。最近では、「共に笑い共に誓い共に感じ共に選び共に泣き…」なんてヒット曲もありましたね。

 言うまでもないが、別に誰かが共に笑ったり泣いたりしてくれたからといって、経済的利益があるわけでもなければ、生理的欲求が満たされるわけでもない。しかし、多くの人は、自分が悲しんでいるときに一緒に悲しんでいくれ、喜んでいるときに一緒に喜んでくれる人がいるだけで、ある種の充実感を感じるのである。それはおそらく、自分の感情が「承認」されたと感じ、ひいては、ある意味自分の存在自体が「承認」されたと感じるからであろう。そしてそのためには、「個性的」に泣いたり笑ったりする必要などこれっぽっちもないのだ。

 あるいは、赤ん坊をかわいがるというのもそうだ。赤ん坊なんてのは、育てたからといって経済的な利益があるわけでもなければ、生理的な欲求が満たされるわけでもない。にもかかわらず、多くの親は赤ん坊の一挙手一投足を見て大喜びする。笑ったと言っては騒ぎ、泣いたと言っては騒ぐ。それはこれっぽっちも「個性的」なことではない。むしろ平凡極まりないことだ。にもかかわらず、人はそれを見て幸福感を味わうのである。これもある意味、親と子供が互いに「承認」し合うということであろう。

 「苦楽をともにする」という言い方に先人の知恵を感じるのは、「共通の目的のために協力する」というようなニュアンスとは微妙にずれた言い方をしているところである。実際、婚姻関係や家族関係は、わかりやすい目的を持ち目的合理的に行動するような機能集団ではない。もちろん、家族の「幸福」が目的だと言えないこともないのだが、じゃあ「幸福」ってなんだと言われたら、その正体は必ずしもはっきりしない。その正体が互いの「承認」にあることを見抜いた先人の知恵が「苦楽をともにする」という表現に現れているのではないだろうか。

 ぼくが最も違和感を感じたのは、結局、多くの人が市場価値や狭い意味での功利主義の枠組みで考えていて、承認される対象には市場価値に還元できるような価値がなければならないと思っているらしいことである。確かに、市場というのは本質的に普遍性を指向するので、一般に市場価値を生み出すのは「個性」であるか、そうでなければむしろ画一的な平凡さである。しかし、ある種の関係においては、「個性」ではなくむしろ平凡な「個別性」同士の共振が価値を生み出すことがあるのだ。

 逆に言うと、市場がこういう個別性の承認を提供するのは、おそらく原理的に難しいのではないかと思う。たとえば、金を払うとその人といっしょに泣いたり笑ったりして承認してくれる「有料承認サービス」みたいなものを作ったとしよう。でもよく考えると、そのサービスの「承認」は、金という普遍的価値に対してなされているだけなので、ちっとも個別性の承認にはなっていないのだ。もちろん、擬似的にそういう体験を提供する風俗店のようなものは星の数ほどあるが、ホステスに本気で惚れてしまえば幻滅するのは世の常だろう。逆に言えば、そのこと自体が人間にとっていかに個別性の承認が重要なものであるかを示しているとも言える。

 だから、市場で承認を得ようとすれば、むしろ個の方が普遍性に近づかなくてはならない。もちろん、それに挑戦して名声や権力を得ている人もたくさんいるわけで、そのこと自体を否定する気はない。しかし、それが可能なのは一部の人だけで、万人に心の平安をもたらす仕組みにはなり得ないと思う。現在の日本社会では、そういう「個性尊重」という名の下で行われる普遍化だけが「承認」だと思われすぎたために、本来の個別性の承認が軽視されすぎているのではないだろうか。

 ぼくは、市場経済を否定する気はまったくないが、個人がそういう個別性の承認をえる場は、市場以外の場所に確保すべきであると考える。もちろん、そういう「個別性」が価値を生み出す場というのは、家族関係や婚姻関係だけではないだろう。学生時代の利害関係のない友人関係などもそうだろうし、「あぶさん」的な飲み屋の人間関係だってそうだろうし、おそらく、「社交」と呼ばれるような関係の多くがそうなのではないだろうか。ただ、婚姻関係や家族関係には、そういう場を作るための仕掛けが伝統的に用意されているが、それ以外の場所では、そういう場を作る作法がひょっとしたら失われつつあるのかもしれない。

 実は、ぼくがこういうことを考える際に最も参考にしているのは、前にも言ったような気がするが、山崎正和氏の「社交する人間」である。山崎氏はなぜか一般に保守派と思われてるようなので、この本についても、どうせ伝統的な共同体に回帰することを勧めているんだろうと思う人もいるかもしれないが、まったく違う。むしろ、権力によって支配される組織でもなく、伝統的・情緒的な共同体でもない、第三の人間関係原理として「社交」というものを位置づけることにより、そういう反動を防ごうとしているとさえ言える。

 また、保守派の論客にありがちなひとりよがりなオレ様議論をしているわけでもなく、ちゃんとゲオルグ・ジンメル、フランシス・フクヤマ、マルセル・モース、ヨハン・ホイジンガ、クリフォード・ギアツ、ジェイン・ジェイコブス、アルバート・ハーシュマンなどの著作に依拠した議論をしているので、こういう問題に興味のある方には、ぜひ一読をお勧めする次第。その方が、ぼくの駄文なんかを読んでるより、よっぽど参考になるでしょう(^^)。

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子供のころに好きだった絵本

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これは子供の本のクセに、ちょっと恋愛物みたいな感じで、子供心になんかドキドキした。


 なんで突然こんなレビューを始めたかというと、実は例の秋葉原通り魔事件のせい。こんなこと書くと、明日から誰もまわりに寄ってこなくなるかもしれないけど(^^)、あの犯人のプロフィールって、なんか結構自分と共通するものがあるんだよね。中学までは優等生だったけど、高校で進学校に入ったとたん落ちこぼれたとか、親と仲が悪かったとか、人付き合いが下手だとか、女性にもてないとか(^^)。

 でも、ぼく自身はどう考えてもそんなに世の中を恨んでいるわけじゃなくて、結構人生を楽しんで暮らしている。その違いはいったいどこにあるのかなあ、と考えてしまったんだよね。すると、どう考えても、自分が上等な人間だからとか人格的に立派だからではなくて、結局いろんな意味で幸運だったからとしか思えなかったんだ。

 特に、子供の頃にいろんな人の愛情を受けて育ったことが、結局はいまだに自分を世の中につなぎとめているような気がする。色川武大さんの「うらおもて人生録」には、子供の頃に人に愛されたり愛したりする経験をすることが重要だと書いてある。これは何も統計的な根拠があるわけではなくて、純粋な経験論なんだろうけど、今になって自分の内面を省みてみると、その意味がわかるような気がするのである。

 ぼくの通っていた幼稚園は、キリスト教の教会が経営していた幼稚園だった。もちろん、露骨な宗教教育を受けたわけではないんだけど、今考えると間接的な影響は大きかったのだろうと思う。その幼稚園には絵本がたくさんあって、その大部分が福音館の絵本だった(これも今考えると、キリスト教の幼稚園だったからなのだろう)。上で紹介した絵本に福音館の本が多いのはそのせいである。

 もちろん、だからと言って、幼稚園をみんなキリスト教の経営にしろとか、絵本普及運動をしろとか、国の予算で日本中に絵本を配れとか言いたいわけではない。いや、すぐにそういう安易な「対策」をしてお茶を濁そうとする最近の風潮には、むしろかなり批判的だ。もちろん、不幸な幼児期を送った人間の犯罪は許してやれと言ってるわけでもない。

 世の中の善悪を誰かの責任にして解決するのは、世の理であって絶対に必要なことではあるんだけど、同時に、善悪だけにこだわっているとかえって見えにくくなってしまうもう一つの理の世界がある。ぼくは今むしろ、そちらの方に目を向けたい気分になっているのである。

追記: ただ、ぼくは雇用の流動化には賛成だし、派遣は自分も昔やってたからなおさらそう思うけど、単に日雇い派遣をやめればいいとかいう問題じゃないと思ってる。まあでも、しばらくこういう短絡的な政治が続くんでしょう。それも歴史的に仕方のないことだとは思ってるけど(^^)。

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もちろん自殺した本人が一番悪い

 自殺で誰が一番悪いかと言ったら、自殺した本人が一番悪い。尊敬する松本人志大先生に怒られたからというわけでは勿論ないが(^^)、最近の自殺事件に対するネット界の反応を見て、やっぱりこれは書いとくべきだと思った。これが大原則であって、前に書いたあれやこれやも、すべてこの前提を踏まえた先の話だ。それを忘れないでほしい。

 どうも最近は他人の文章を読んでもあまり想像力を働かせてくれない人が多いようなので、少しくどいたとえ話をする。たとえば、前回恥を忍んで自分の同僚が自殺した話を告白した。ひょっとして自分が彼女を助けられたかも、と考えてしまうということも書いた。

 しかし、冷静に考えれば、たとえタイムマシンで自殺の前の時間に戻れたとしても、おそらくぼくには彼女の自殺は防げないだろう。もちろん、自殺の現場で待ち伏せをしていて止めれば止められるだろうが、それはそういうタイミングを利用しているだけであって、単にいつか自殺するかもしれないことしか知らなければ、おそらく止めるのは難しいだろう。

 話の都合上ここから突然フィクションになるが(^^)、仮に、彼女がぼくに好意を持っていたとしよう。そしてなおかつ、ぼくには彼女が自殺するという予感があったとしよう。あなただったら、彼女の自殺を止めるためだけに彼女と付き合うだろうか? もちろん、まっとうな人間だったら、そんな不誠実なことできないだろうし、本当に好きでなかったら、そんなことしたって無駄だよね。かと言って、別に冷たくしてるわけでもないとすれば、好きでもないのに、突然過剰に優しくするのも変だよね(^^)。

 あるいは、あなたが誰かにお金を貸していたとする。そいつが期日になっても金を返さないので、きつく取立てようとしたら、そいつが「金を返せないので自殺します」とか言ったとしよう。あなたは、じゃあ返さなくていいよ、と言うだろうか?

 もちろんその答えは、貸した金の金額、あなた自身の経済的余裕、その相手との関係、いろんなものに依存するだろう。しかし、一般論としては、そう言われたからって簡単に借金の返済を免除する人はあまりいないだろうし、それで本当に相手が自殺したとしても、(違法な取立てとかをしていない限り)自分が悪いと真剣に思う人もそんなにいないだろう。

 結局、マトモな人間なら、わざわざ他人を自殺させようとして行動しているはずはないのであって、相手が自殺しようとしまいと、もともとその人なりのルールや倫理の範囲で行動しているはずなのである。したがって、常識的に考えれば、行動をそう簡単に大きく「改善」できるはずがないのだ。ああしておけばよかった、というのは、多くの場合結果論なのである。

 もちろん、可能性だけで言うなら、もっと影響力のある人間になれとか、借金を踏み倒されてもいいぐらいの経済力や度量を持てとか、そもそも貧乏人のいない社会を作ればいいんだとか、いくらでも言えるだろう。身近な人の自殺を経験した人が、自分の意思でそういう道を志すのもいいことだ。でも、それを万人に対して要求できるだろうか。他人に対してそういう過大な要求をする資格のある人間がどれほどいるか。冷静に考えればわかるはずである。

 つまるところ、自殺をしないということは、社会の基本ルールに組み込まれていて、多くの人はそれを前提にして生きている。自殺というのは、第一義的には、そのルールに対する裏切りという意味で罪なのだ。

 自殺の責任は、特に犯罪行為とか極端にアンモラルな行為とかがない限りは、まず本人。周囲の人や社会の責任はその次である。仮に自殺した人が誰かにイジメられていたとしても、それは自殺したから悪なのではなくて、イジメという行為自体がもともと悪なのであり、自殺したかしないかは結果論にすぎない。でなかったら、自殺しない奴はイジメてもいいことになってしまうではないか。

 前に社会全体に責任があるともとれるようなことを書いたのは、あくまで、この原則を踏まえた上で、それを超越したレベルの話として書いたことだ。その動機としては、最近の世の中が、あまりにも「悪者探し」や「悪者叩き」に急ぎすぎることに対する警戒心があった。安易に他人のせいにして安心するよりも、まず自分にできることは何かと考えて、自分の向上心の動機付けにした方が、世の中よくなるんじゃないの、と言いたかったわけだ。

(これを書いていて突然思いついたのだが、もっと現実的な「対策」として、成人に健康診断を義務付けるように、年に1回ぐらいメンタルヘルスの診断を義務付けるという方法もあるのではないかと思った。(^^))

 だから、ああいう言説が逆に、自殺した人の周囲を安易に叩くための言説として利用されたりするのは、ぼくにとっては不本意だ。もちろん、自分の周辺の人間が自殺したのに、そのことに何の思いも馳せないような人間は好きになれない。しかし、そういうことは、一人一人が自分の倫理観に照らして考えればよいのであって、赤の他人が安易に言うことではないと思う。

 自殺の話に限らず、最近のネット上の文章は、一見すると正義感で書いてるように見えて、実は、自分の自尊心を満たしたいとか、他人をバッシングしてカタルシスを得たいとか、そういう動機で書かれているものが多いような気がする。もちろん、別にどんな動機で書いても、書かれている内容が正論であればよいのだが、そういう文章は、強引な断定をテンションで無理やり押し切るような文章になりがちである。それが当たり前だと思うのは、ある種の倫理的退廃だと思う。

 もちろん、ぼくだって半分以上は自分のために書いているわけだが(^^)、だからこそ、あんまり偉そうになったり断定的になったりしすぎないように、一応工夫して書いているつもりである。でも、最近の若い子には、あんまりそういう配慮とかも全然伝わっていないような気がしてきて、ちょっと気持ちが萎えているところなんである(^^)。

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