もっと再放送を!by出羽の守

 何かというと「欧米では」「アメリカでは」と外国を引き合いに出して日本をこき下ろす人のことを「出羽の守」と呼ぶそうだが、そういう人はぼくもあまり好きではない。もちろん、外国に本当に優れたところがあれば、それに学ぶことが悪いはずはないのだが、実際にはそうでもないことも多いからだ。昔はそういう文化人がたくさんいて、こっちも若くて純情可憐だから感心して聞いていたものだが、今思えばウソや誇張が少なからず混ざっていたと思う。

 たぶん、当時はインターネットがないのはもちろん、海外で暮らした人もそれほど多くなかったので、ウソや誇張があってもなかなかバレなかったのだ。そのため、出羽の守的な語り口が文化人の権威を高める道具として便利に使われていたのだろう。

 …とわざわざこんな前フリをしたのは、今回だけはあえて出羽の守をやりたいからである。ネタはテレビである。

 テレビ界が不況だと言われて久しい。それが世界同時不況のせいなのか、それとも、時代の必然なのか、いろんな意見があるとは思うが、それはひとまず保留する。ぼくが疑問なのは、あれだけ予算がない予算がないと言っているわりには、なぜもっと再放送を増やさないのか、ということである。

 欧米のテレビ局では、同じ週に同じ番組を何回も繰り返して放送することも珍しくない。というか、むしろそれが普通である。今はもう日本にいながらにして視聴できる海外局がたくさんあるので、知っている人も多いはずだ。

 たとえば、アメリカ発の CNNj の場合、「ファリード・ザガリアGPS 」や「ステート・オブ・ザ・ユニオン」のような週 1 回の番組なら、再放送を含めて週に 2 回ずつ放送する。「リビールド」のような月 1 回の番組は、再放送を含めて月に 7 回放送する。「アンダーソン・クーパー360°」や「ラリー・キング・ライブ」のようなライブの帯番組は、さすがに毎日 1 回ずつしか放送しないが、どっちにしろ帯だから毎日観れる。

 イギリス発の BBC ワールドはもっと極端だ。「ハード・トーク」 という討論番組は、ほぼ毎日放送のある帯番組に近いが、同じ内容を 1 日 3 回ずつ放送する。「アワ・ワールド 世界は今」 という週 1 回の番組は、再放送を含めて週に 7 回ずつ放送する。「ワールド・ディベート」 という月 1 回の番組は、再放送を含めて月に 5 回放送する。

 ディスカバリー・チャンネルナショナル・ジオグラフィック・チャンネルのような、ドキュメンタリー系のテレビ局になると、相対的にスペシャル番組が多く、1 回製作した番組を 1 年にわたって何回も繰り返し放送することが多い。もちろん、「怪しい伝説」のようなレギュラー番組もあるが、こちらもだいたい週 2 回ぐらいのペースで放送しているようだ。

 ひるがえって日本のテレビ局を見ると、週に 1 回しか放送しない番組が極めて多い。いや、ほとんどの番組がそうであると言ってもいいくらいだ。そして、これは番組の人気ともあまり関係がない。

 たとえば、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」という番組は、 ぼくにとって絶対に見なくてはならない番組だと言っても過言ではないが、いかんせん週に 1 回しか放送がない。ということは、この時間帯には他の番組は(チューナーをもう一台買うとかしない限り)絶対に観れないということなのである。

 ところが困ったことに、最近になって町山智浩氏が 「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」 という番組を始めた。町山氏のアメリカ関係のレポートは以前から高く評価しているので、この番組も面白いに違いないと確信しているのだが、なんと放送時間がちょうど「ガキの使い」の裏なのである。しかも、この番組にも再放送がない。ということは、ぼくはこんな面白そうな番組を永遠に観れないということなのである! こんな不条理があろうか。

 そういうのは個人的な事情だからひとまずおいて、日本と海外の番組編成になぜこのような明白な差があるかを考えてみると、おそらく、視聴者側の視聴習慣の違いなのである。思い切って単純化して言えば、日本の番組編成は、毎日決まった時間にテレビの前に座って、その時間に放送している番組のうちから観る番組を選択するような視聴者に適しているのに対して、海外の番組編成は、先に観る番組を決めて、その番組の放送時間に合わせてテレビの前に座ったり録画したりするような視聴者に適しているのである。

 ぼく自身も数年前から、テレビはほとんど録画でしか観なくなった。そうすると明らかに海外テレビ局の番組編成の方が便利であることが実感されるのだ。おそらく、そういう視聴者はぼく以外にも増えているはずで、それが日本のテレビ視聴率の長期低落傾向の一因にもなっているのではないだろうか。これをちゃんと立証するのはなかなか大変なので、あくまで想像だが。

 そういう前提に立てば、同じ番組の再放送を増やすということは、おそらくテレビ局自体の利益にもつながるはずなのだ。たとえば、「ガキの使い」の再放送を 1 回増やしたとする。その結果、今の放送時間の視聴率は少し減るかもしれないが、人気番組の放送枠がほとんどコストゼロでもう一つ増えることになるわけだ。両放送時間の合計視聴者数で考えても、まさか差し引きゼロということはないはずで、全体として少しは増えるだろう。もちろん、それより視聴者数の多い番組をもう一つ別に制作できればもっと視聴者を獲得できるわけだが、今のご時世にそれがそう簡単ではないことは明らか。さらに、制作費当たりの視聴数や利益率を考えれば、再放送の有利さがさらに増すのは言うまでもない。

 こう考えると、なぜ日本のテレビ局がもっと再放送を増やさないのか、不思議に思えてくるぐらいである。これは完全に下種の勘ぐりになってしまうが、その裏には、芸能界の構造問題みたいなものがあるのかもしれない。仮にテレビ局の利益だけ考えれば、再放送を増やした方が得だとしても、出演する芸能人の立場から考えれば、それによって仕事の場が減る可能性が高い。だから、あたかも年末の道路工事のように、無駄とわかっていてもやらざるをえない事なのかもしれない。

 あるいは、ひょっとすると、テレビ局の方々はぼくなんかよりもっと志が高くて、いつの日かまた視聴者がテレビの前に戻ってきて、ゴールデンタイムには必ずテレビの前で一家団欒をすごすという日が来ることを信じて、日夜邁進しているのかもしれない。プロのみなさんがそう考えているのだとすれば、ぼくなんかが何を言っても無駄だろうが、少なくともぼくには、そんな日が来ることはとうてい考えられないのだが。

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退廃芸術

退廃芸術(たいはいげいじゅつ、独:Entartete Kunst, 英:degenerate art)とは、ナチス近代美術を、道徳的・人種的に堕落したもので、ドイツの社会や民族感情を害するものであるとして禁止するために打ち出した芸術観である。

ナチスは「退廃した」近代美術に代わり、ロマン主義写実主義に即した英雄的で健康的な芸術、より分かりやすく因習的なスタイルの芸術を「大ドイツ芸術展」などを通じて公認芸術として賞賛した。これらの公認芸術を通してドイツ民族を賛美し、危機にある民族のモラルを国民に改めて示そうとした。一方近代美術は、ユダヤ人スラブ人など「東方の人種的に劣った血統」の芸術家たちが、都市生活の悪影響による病気のため古典的な規範から逸脱し、ありのままの自然や事実をゆがめて作った有害ながらくたと非難された。

近代芸術家らは芸術院や教職など公式な立場から追われ、ドイツ全国の美術館から作品が押収されて「退廃芸術展」など全国の展覧会で晒し者にされ、多くの芸術家がドイツ国外に逃れた。一方公認芸術は、「人種的に純粋な」芸術家たちが作る、人種的に純粋な「北方民族」的な芸術であり、人間観や社会観や描写のスタイルに歪曲や腐敗のない健康な芸術とされたが、その実態は農村の大家族や生活風景、北方人種的な裸体像が主流の、19世紀の因習的な絵画・彫刻の焼き直しにすぎなかった。

皮肉なことに、近代芸術を身体的・精神的な病気の表れである「退廃」だと論じる理論を構築した人物は、マックス・ノルダウというユダヤ人知識人であった。


ノルダウはこの理論を疑似科学的な根拠として用いながら、「世紀末芸術」や「世紀末」的文化状況の「倫理的堕落」に対して幾分俗物的な立場からの批判を行った。ノルダウはロンブローゾの理論に基づき、近代の芸術家もまたロンブローゾのいう「生来的犯罪人」同様、原始からの隔世遺伝的な退廃に冒され、身体的・精神的な異常を抱えていると断言した。彼にすれば、音楽文学視覚芸術などあらゆる形式の近代芸術には、精神的不調と堕落の症状が現れていると見えた。近代芸術家たちは身体の疲労と神経の興奮の両方に苦しめられているため、すべての近代芸術は規律風紀を欠き、首尾一貫した内容がなくなっているとした。ノルダウは特に印象派絵画、フランス文学の象徴主義、イギリス文学の唯美主義に攻撃を集中した。象徴主義の中の神秘主義思想は精神病理学的な産物であり、印象派画家のペインタリネス(絵画表面のありよう)は視覚皮質病気の兆候とされた。




- Wikipedia 退廃芸術

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個性とはおおむね平凡なものです

 秋葉原の事件がらみで、はてな界隈では「承認欲求」の議論が盛り上がっていた。まあ、あの事件の犯人が本当に承認欲求に飢えていて、それが理由で事件を起こしたのかどうかはさておき、現代社会において承認欲求の問題が重要なことは間違いないと思う。でも、議論をちらちら横目で見ていると、ぼくなんかにはどうもいろいろと違和感を感じる部分があった。

 そもそも、承認という概念自体の定義がはっきりしないことが問題で、多くの人はマズローの欲求段階説を下敷きにしてるみたいなんだけど、この説自体が経験知を図式的に整理しただけで、それほど実存哲学的な深みがあるわけではない。だから、承認の欲求と呼べるものが人間にあるのは確かだと思うが、その細かい心理的なメカニズムや行動への現れ方については、必ずしもマズローが正しいとは思っていない。

 承認の欲求というのが、個として認められたい欲求だというのはその通りだと思うが、問題は、その「個」とは何かということ。ここで思ったのは、厳密には個性と個別性は別物なのに、その区別がついてないことが混乱の元になっているのではないかということである。

 個性という日本語は、現在では、他の人と比べて「変わって」いるとか、統計的な平均値からの偏差が大きいというニュアンスで使われることが多い。しかし、人間は一人一人みな違うというときの「個性」は、かならずしもそのような偏差が大きいことを意味しない。

 たとえば、真っ白い紙にランダムに点を打ち、それを碁盤目状に切り分けて、正方形の紙片をたくさん作ったとしよう。この紙片を1枚1枚仔細に比較すれば、おそらく、どれ1枚としてまったく同じ模様の紙はないだろう。しかし、遠くからぱっと見ただけだったら、どの紙片もほとんど同じように見えるはずである。

 この例でもわかるように、日常用語としての「個性」は、「個」の性質ではない。黒い紙片は白い背景の上に置けば目立つが、黒い背景の上に置けばまったく目立たなくなる。そういう意味で、黒い紙片が「個性的」なのは、白い背景という「全体性」に依存しているのであって、それ単体ではちっとも「個性的」ではない。しかし、後者の意味での「個性」は、全体がどうであろうと「個性」でありつづけるのである。

 実は、心理学用語としての個性(individuality)は、必ずしも日本語の日常用語のようなニュアンスではなく、むしろぼくが例で説明した意味に近いらしいのだが、ここでは混乱を避けるために、前者を「個性」、後者を「個別性」と呼ぶことにしよう。

 この分け方を前提としたとき、ぼくが考える承認欲求の承認の対象は、個性ではなく個別性なのである。言い換えれば、ほとんどの人は平凡な人間にすぎないのだが、にもかかわらず、まったく同じ人間は一人もおらず、一人一人が個別性を持っている。その個別性を愛でることが「承認」なのである。

 わかりやすい例で言えば、昔からよい家族を形容する「苦楽をともにする」という表現がある。最近では、「共に笑い共に誓い共に感じ共に選び共に泣き…」なんてヒット曲もありましたね。

 言うまでもないが、別に誰かが共に笑ったり泣いたりしてくれたからといって、経済的利益があるわけでもなければ、生理的欲求が満たされるわけでもない。しかし、多くの人は、自分が悲しんでいるときに一緒に悲しんでいくれ、喜んでいるときに一緒に喜んでくれる人がいるだけで、ある種の充実感を感じるのである。それはおそらく、自分の感情が「承認」されたと感じ、ひいては、ある意味自分の存在自体が「承認」されたと感じるからであろう。そしてそのためには、「個性的」に泣いたり笑ったりする必要などこれっぽっちもないのだ。

 あるいは、赤ん坊をかわいがるというのもそうだ。赤ん坊なんてのは、育てたからといって経済的な利益があるわけでもなければ、生理的な欲求が満たされるわけでもない。にもかかわらず、多くの親は赤ん坊の一挙手一投足を見て大喜びする。笑ったと言っては騒ぎ、泣いたと言っては騒ぐ。それはこれっぽっちも「個性的」なことではない。むしろ平凡極まりないことだ。にもかかわらず、人はそれを見て幸福感を味わうのである。これもある意味、親と子供が互いに「承認」し合うということであろう。

 「苦楽をともにする」という言い方に先人の知恵を感じるのは、「共通の目的のために協力する」というようなニュアンスとは微妙にずれた言い方をしているところである。実際、婚姻関係や家族関係は、わかりやすい目的を持ち目的合理的に行動するような機能集団ではない。もちろん、家族の「幸福」が目的だと言えないこともないのだが、じゃあ「幸福」ってなんだと言われたら、その正体は必ずしもはっきりしない。その正体が互いの「承認」にあることを見抜いた先人の知恵が「苦楽をともにする」という表現に現れているのではないだろうか。

 ぼくが最も違和感を感じたのは、結局、多くの人が市場価値や狭い意味での功利主義の枠組みで考えていて、承認される対象には市場価値に還元できるような価値がなければならないと思っているらしいことである。確かに、市場というのは本質的に普遍性を指向するので、一般に市場価値を生み出すのは「個性」であるか、そうでなければむしろ画一的な平凡さである。しかし、ある種の関係においては、「個性」ではなくむしろ平凡な「個別性」同士の共振が価値を生み出すことがあるのだ。

 逆に言うと、市場がこういう個別性の承認を提供するのは、おそらく原理的に難しいのではないかと思う。たとえば、金を払うとその人といっしょに泣いたり笑ったりして承認してくれる「有料承認サービス」みたいなものを作ったとしよう。でもよく考えると、そのサービスの「承認」は、金という普遍的価値に対してなされているだけなので、ちっとも個別性の承認にはなっていないのだ。もちろん、擬似的にそういう体験を提供する風俗店のようなものは星の数ほどあるが、ホステスに本気で惚れてしまえば幻滅するのは世の常だろう。逆に言えば、そのこと自体が人間にとっていかに個別性の承認が重要なものであるかを示しているとも言える。

 だから、市場で承認を得ようとすれば、むしろ個の方が普遍性に近づかなくてはならない。もちろん、それに挑戦して名声や権力を得ている人もたくさんいるわけで、そのこと自体を否定する気はない。しかし、それが可能なのは一部の人だけで、万人に心の平安をもたらす仕組みにはなり得ないと思う。現在の日本社会では、そういう「個性尊重」という名の下で行われる普遍化だけが「承認」だと思われすぎたために、本来の個別性の承認が軽視されすぎているのではないだろうか。

 ぼくは、市場経済を否定する気はまったくないが、個人がそういう個別性の承認をえる場は、市場以外の場所に確保すべきであると考える。もちろん、そういう「個別性」が価値を生み出す場というのは、家族関係や婚姻関係だけではないだろう。学生時代の利害関係のない友人関係などもそうだろうし、「あぶさん」的な飲み屋の人間関係だってそうだろうし、おそらく、「社交」と呼ばれるような関係の多くがそうなのではないだろうか。ただ、婚姻関係や家族関係には、そういう場を作るための仕掛けが伝統的に用意されているが、それ以外の場所では、そういう場を作る作法がひょっとしたら失われつつあるのかもしれない。

 実は、ぼくがこういうことを考える際に最も参考にしているのは、前にも言ったような気がするが、山崎正和氏の「社交する人間」である。山崎氏はなぜか一般に保守派と思われてるようなので、この本についても、どうせ伝統的な共同体に回帰することを勧めているんだろうと思う人もいるかもしれないが、まったく違う。むしろ、権力によって支配される組織でもなく、伝統的・情緒的な共同体でもない、第三の人間関係原理として「社交」というものを位置づけることにより、そういう反動を防ごうとしているとさえ言える。

 また、保守派の論客にありがちなひとりよがりなオレ様議論をしているわけでもなく、ちゃんとゲオルグ・ジンメル、フランシス・フクヤマ、マルセル・モース、ヨハン・ホイジンガ、クリフォード・ギアツ、ジェイン・ジェイコブス、アルバート・ハーシュマンなどの著作に依拠した議論をしているので、こういう問題に興味のある方には、ぜひ一読をお勧めする次第。その方が、ぼくの駄文なんかを読んでるより、よっぽど参考になるでしょう(^^)。

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子供のころに好きだった絵本

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これは子供の本のクセに、ちょっと恋愛物みたいな感じで、子供心になんかドキドキした。


 なんで突然こんなレビューを始めたかというと、実は例の秋葉原通り魔事件のせい。こんなこと書くと、明日から誰もまわりに寄ってこなくなるかもしれないけど(^^)、あの犯人のプロフィールって、なんか結構自分と共通するものがあるんだよね。中学までは優等生だったけど、高校で進学校に入ったとたん落ちこぼれたとか、親と仲が悪かったとか、人付き合いが下手だとか、女性にもてないとか(^^)。

 でも、ぼく自身はどう考えてもそんなに世の中を恨んでいるわけじゃなくて、結構人生を楽しんで暮らしている。その違いはいったいどこにあるのかなあ、と考えてしまったんだよね。すると、どう考えても、自分が上等な人間だからとか人格的に立派だからではなくて、結局いろんな意味で幸運だったからとしか思えなかったんだ。

 特に、子供の頃にいろんな人の愛情を受けて育ったことが、結局はいまだに自分を世の中につなぎとめているような気がする。色川武大さんの「うらおもて人生録」には、子供の頃に人に愛されたり愛したりする経験をすることが重要だと書いてある。これは何も統計的な根拠があるわけではなくて、純粋な経験論なんだろうけど、今になって自分の内面を省みてみると、その意味がわかるような気がするのである。

 ぼくの通っていた幼稚園は、キリスト教の教会が経営していた幼稚園だった。もちろん、露骨な宗教教育を受けたわけではないんだけど、今考えると間接的な影響は大きかったのだろうと思う。その幼稚園には絵本がたくさんあって、その大部分が福音館の絵本だった(これも今考えると、キリスト教の幼稚園だったからなのだろう)。上で紹介した絵本に福音館の本が多いのはそのせいである。

 もちろん、だからと言って、幼稚園をみんなキリスト教の経営にしろとか、絵本普及運動をしろとか、国の予算で日本中に絵本を配れとか言いたいわけではない。いや、すぐにそういう安易な「対策」をしてお茶を濁そうとする最近の風潮には、むしろかなり批判的だ。もちろん、不幸な幼児期を送った人間の犯罪は許してやれと言ってるわけでもない。

 世の中の善悪を誰かの責任にして解決するのは、世の理であって絶対に必要なことではあるんだけど、同時に、善悪だけにこだわっているとかえって見えにくくなってしまうもう一つの理の世界がある。ぼくは今むしろ、そちらの方に目を向けたい気分になっているのである。

追記: ただ、ぼくは雇用の流動化には賛成だし、派遣は自分も昔やってたからなおさらそう思うけど、単に日雇い派遣をやめればいいとかいう問題じゃないと思ってる。まあでも、しばらくこういう短絡的な政治が続くんでしょう。それも歴史的に仕方のないことだとは思ってるけど(^^)。

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もちろん自殺した本人が一番悪い

 自殺で誰が一番悪いかと言ったら、自殺した本人が一番悪い。尊敬する松本人志大先生に怒られたからというわけでは勿論ないが(^^)、最近の自殺事件に対するネット界の反応を見て、やっぱりこれは書いとくべきだと思った。これが大原則であって、前に書いたあれやこれやも、すべてこの前提を踏まえた先の話だ。それを忘れないでほしい。

 どうも最近は他人の文章を読んでもあまり想像力を働かせてくれない人が多いようなので、少しくどいたとえ話をする。たとえば、前回恥を忍んで自分の同僚が自殺した話を告白した。ひょっとして自分が彼女を助けられたかも、と考えてしまうということも書いた。

 しかし、冷静に考えれば、たとえタイムマシンで自殺の前の時間に戻れたとしても、おそらくぼくには彼女の自殺は防げないだろう。もちろん、自殺の現場で待ち伏せをしていて止めれば止められるだろうが、それはそういうタイミングを利用しているだけであって、単にいつか自殺するかもしれないことしか知らなければ、おそらく止めるのは難しいだろう。

 話の都合上ここから突然フィクションになるが(^^)、仮に、彼女がぼくに好意を持っていたとしよう。そしてなおかつ、ぼくには彼女が自殺するという予感があったとしよう。あなただったら、彼女の自殺を止めるためだけに彼女と付き合うだろうか? もちろん、まっとうな人間だったら、そんな不誠実なことできないだろうし、本当に好きでなかったら、そんなことしたって無駄だよね。かと言って、別に冷たくしてるわけでもないとすれば、好きでもないのに、突然過剰に優しくするのも変だよね(^^)。

 あるいは、あなたが誰かにお金を貸していたとする。そいつが期日になっても金を返さないので、きつく取立てようとしたら、そいつが「金を返せないので自殺します」とか言ったとしよう。あなたは、じゃあ返さなくていいよ、と言うだろうか?

 もちろんその答えは、貸した金の金額、あなた自身の経済的余裕、その相手との関係、いろんなものに依存するだろう。しかし、一般論としては、そう言われたからって簡単に借金の返済を免除する人はあまりいないだろうし、それで本当に相手が自殺したとしても、(違法な取立てとかをしていない限り)自分が悪いと真剣に思う人もそんなにいないだろう。

 結局、マトモな人間なら、わざわざ他人を自殺させようとして行動しているはずはないのであって、相手が自殺しようとしまいと、もともとその人なりのルールや倫理の範囲で行動しているはずなのである。したがって、常識的に考えれば、行動をそう簡単に大きく「改善」できるはずがないのだ。ああしておけばよかった、というのは、多くの場合結果論なのである。

 もちろん、可能性だけで言うなら、もっと影響力のある人間になれとか、借金を踏み倒されてもいいぐらいの経済力や度量を持てとか、そもそも貧乏人のいない社会を作ればいいんだとか、いくらでも言えるだろう。身近な人の自殺を経験した人が、自分の意思でそういう道を志すのもいいことだ。でも、それを万人に対して要求できるだろうか。他人に対してそういう過大な要求をする資格のある人間がどれほどいるか。冷静に考えればわかるはずである。

 つまるところ、自殺をしないということは、社会の基本ルールに組み込まれていて、多くの人はそれを前提にして生きている。自殺というのは、第一義的には、そのルールに対する裏切りという意味で罪なのだ。

 自殺の責任は、特に犯罪行為とか極端にアンモラルな行為とかがない限りは、まず本人。周囲の人や社会の責任はその次である。仮に自殺した人が誰かにイジメられていたとしても、それは自殺したから悪なのではなくて、イジメという行為自体がもともと悪なのであり、自殺したかしないかは結果論にすぎない。でなかったら、自殺しない奴はイジメてもいいことになってしまうではないか。

 前に社会全体に責任があるともとれるようなことを書いたのは、あくまで、この原則を踏まえた上で、それを超越したレベルの話として書いたことだ。その動機としては、最近の世の中が、あまりにも「悪者探し」や「悪者叩き」に急ぎすぎることに対する警戒心があった。安易に他人のせいにして安心するよりも、まず自分にできることは何かと考えて、自分の向上心の動機付けにした方が、世の中よくなるんじゃないの、と言いたかったわけだ。

(これを書いていて突然思いついたのだが、もっと現実的な「対策」として、成人に健康診断を義務付けるように、年に1回ぐらいメンタルヘルスの診断を義務付けるという方法もあるのではないかと思った。(^^))

 だから、ああいう言説が逆に、自殺した人の周囲を安易に叩くための言説として利用されたりするのは、ぼくにとっては不本意だ。もちろん、自分の周辺の人間が自殺したのに、そのことに何の思いも馳せないような人間は好きになれない。しかし、そういうことは、一人一人が自分の倫理観に照らして考えればよいのであって、赤の他人が安易に言うことではないと思う。

 自殺の話に限らず、最近のネット上の文章は、一見すると正義感で書いてるように見えて、実は、自分の自尊心を満たしたいとか、他人をバッシングしてカタルシスを得たいとか、そういう動機で書かれているものが多いような気がする。もちろん、別にどんな動機で書いても、書かれている内容が正論であればよいのだが、そういう文章は、強引な断定をテンションで無理やり押し切るような文章になりがちである。それが当たり前だと思うのは、ある種の倫理的退廃だと思う。

 もちろん、ぼくだって半分以上は自分のために書いているわけだが(^^)、だからこそ、あんまり偉そうになったり断定的になったりしすぎないように、一応工夫して書いているつもりである。でも、最近の若い子には、あんまりそういう配慮とかも全然伝わっていないような気がしてきて、ちょっと気持ちが萎えているところなんである(^^)。

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裏自殺サイトを作ってみたい

     最近の硫化水素自殺のニュースを見てひっかかるのは、「硫化水素による自殺を防げ」みたいな言い方である。そもそも、悪いのは「自殺」であって「硫化水素による自殺」ではない。もちろん、硫化水素による自殺は、他人を巻き添えにするということはあるが、基本的には、どんな手段であっても自殺は悪なのであって、硫化水素による自殺さえなければ、他の手段による自殺はあってもよい、ということではないはずだ。

     とすれば、問題なのは、硫化水素のせいで自殺件数そのものが増えているのかということだろう。統計的な有意性は、しばらく時間がたって見ないと判定できないかもしれないが、ぼくはなんとなく、自殺件数自体はあまり変わっていなくて、自殺手段のうちで硫化水素を使ったものが増えているだけのような気がしてならない。

    日本の年間自殺者数は約 3 万人程度らしいから、1 日当り 100 人程度は自殺していることになる。一方、硫化水素による自殺者数は、今のところ 3 日に 1 人程度であるらしい。追記:4月だけで見ると、1 日 2~3 人ぐらいらしい。)

(2008.6.20 追記:この記事によると、「5月末現在ですでに489件発生し、自殺した人の数は517人」とのことなので、やはり月 3 人ちょっとぐらいのようだ。これが、1 日当り 100 人程度の自殺者をさらに増やしているのかどうかは、まだよくわからない。

     もしこの推定が正しいとすれば、硫化水素による自殺を防ぐのは簡単だ。硫化水素よりもっと安価で苦しまずに確実に死ねる方法の情報をバンバン流してやればいいのである。そう考えると、硫化水素による自殺だけを防ぐという運動には、あまり本質的な意味がないということになろう。

     実は、自殺サイト一般の話にしてもそうである。「人間が死ぬ確率が一番高い場所は病院だ」というジョークが示すように、本当に自殺サイトのせいで自殺者が増えているのか、それとも、もともと自殺志願者の分母は一定で、それが現代ではたまたま自殺サイトに集まってくるだけなのかだって、本当はそう簡単にはわからないはずである(もちろん、だからと言って、自殺サイトを擁護する気はないが(^^))。

    (追記: と思ったら、案の定こんな発言を見つけた。「未成年の自殺率は、1950年代は10%だったが、この10年は2%程度で推移している。少年自殺は決して増えてないし、ネットはそれを助長しているとは思わない」)


     もっとも、人々がそういう発想に走りがちな理由は、ぼくにもわかるような気がする。たぶん、多くの人々は、自分たちの作っている社会が自殺者を生み出すような社会であるということを、あまり正面から認めたくないのである(もちろん、ぼくだって認めたくない)。だから、同じ自殺でも、何かわかりやすい悪役がいたり、人為的な対策がとれそうな種類のものほど、やっきになって騒ぎたくなるのだろう。

     しかし、あえて辛らつな言い方をすれば、こういうのは現実から目を背けることにもなっていると思う。もし単に自殺さえ防げればいいのなら、個人の自由など認めず、超監視社会にでもしてしまえばいいわけであるから、極論を言えば、もともと、自由な社会というのは、自殺する自由もある社会なのだ(もちろん、自殺教唆や自殺幇助は一応違法なことになっているが)。そういう自殺する自由のある社会で、多くの人が自分の意思で自殺しないことを選ぶからこそ、われわれは同じ社会でともに生きることにプライドを持てるのではないだろうか。

     なんか重すぎる話になってきたので、話を変えるが(^^)、ぼくがちょっとやって見たいと思うのは、「裏自殺サイト」を作ることである。たとえば、一見「自殺サイト」みたいに見えて、実はニセ情報ばかり掲載されているサイトとか。ほら、ブラックジャックとかで、死にたがってる患者をだましてプラシーボを飲ませたりするエピソードがあるでしょう。ああいうのをちょっとやってみたいわけ(^^)。 たとえば、「スタジオアルタ前で全裸で大股開きをしていると10秒以内に即死します」とか。誰も信じねえか(^^)。

     あるいは、硫化水素で死んだ人の死体や、後遺症が残った人の写真を集めたサイトとかもいい。専門家の話によれば、硫化水素で死ぬと、死体は結構悲惨なことになるらしいので、あえてそういうグロい写真をバンバン掲載して、自殺を思いとどまらせるわけ。もちろん、いくら善意とはいえ、おおっぴらにこんなことをしたら死体冒涜とか言われるだろうから、アングラでこっそりやるのである(^^)。

     ぼくは、誰もが褒めてくれるようなことって照れくさくてなかなかできないのだが、誰も知らないところで隠れてこっそりいいことをしてニヤニヤしたいという願望は結構あったりする。こういうのは、名誉欲とは言えないのだろうが、なんかある種のプライドを満たそうとする行為ではあるのだろう。それを素直に表に出さないところが、ぼくのいやらしいところなのかもしれない(^^)。

     いずれにせよ、本当の意味で他人を救うなんてことは、口で言うほど簡単なことじゃないと思う。そう言えば、元文化庁長官で心理学者の故河合隼雄氏がこんなことを書いていた。ある宗教家のところに自殺志願者が来たので、わざと自殺の方法を微に入り細にわたって教えてやると、その人は怖気づいて自殺をやめてしまった。これに味をしめた宗教家が、別の自殺志願者に対しても同じことをしたところ、今度は教えたとおりの方法で死んでしまったという(「こころの処方箋」)。

     この話について河合氏は、おそらく、一回目のときにはその宗教家は全身全霊をかけて語ったからうまくいったが、二回目のときには慢心して小手先だけで語ったから失敗したのだろう、というような解釈をしている。その解釈が妥当かどうかについてはいろんな意見があるだろうが、いずれにせよ、こういう話に比べると、自殺サイトをなくすかどうかなどというのは、極めて表層的で浅い話のようにぼくには思える。

     かの松本人志氏が、ガキの使いのトークであるミュージシャン(甲本ヒロトとの説あり)の自殺を思いとどまらせたという、ファンの間では有名な話がある。もちろん彼はトークの中で「自殺してはいけない」というような陳腐な説教をしたわけではない。ただ、彼がいつもしているような「すべらない話」をしただけである。

     この話でもわかるように、実際には、わかりやすい「自殺対策」よりも、社会全体をよくする政策努力とか、単純な失業対策とか、一人一人が自分の仕事を一生懸命やるとか、他人に対してできるだけ誠意を持って接するとかいうことの方が、本当の自殺対策になっているという可能性もあるのではないだろうか。

     実は、ぼくが二十代の頃に働いていた会社でも、同僚の女の子が自殺したことがある。ぼくはそのことを思い出すと、ひょっとしたら自分の言動によってはその子は死ななくてすんだかもしれない、と考えてしまうことがある。もちろん、そんないい子ぶったことを考えること自体が彼女に対する冒涜のようにも思われるので、あまり他人には言わないようにしているが。まあでも、そんな自分に偉そうなこと書く資格あんのかよという気もしてきたので、このへんで、この小文にもすっきりした結論をつけずに終わることにする(^^)。

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偶然の必然化戦法にはコストのシェアで対抗せよ

 タイトルからは想像つきにくいと思うけど、今回書きたいのは、例の「靖国」という映画の上映自粛問題とか、ちょっと前のプリンスホテルと日教組の問題とかについてである(^^)。

 ご存知の人も多いと思うが、どちらの問題も、右翼からの圧力を怖れて、民間企業が特定の客や商品の取り扱い避けたという話。それに対して、言論の自由を守るためにもっとがんばれという意見もあれば、責任は右翼およびその損害を防げない国にあるのであって、一民間企業が甘んじて損害を受ける義務などない、という意見もあるようだ。

 この手の議論を見ていつも思うのは、そもそも、「責任」という概念の定義をはっきりさせないまま、責任があるとかないとか言ってることが多いということである。最近流行の「自己責任」に関する議論もそうで、そもそも「責任」という概念自体が共有できてないから、不毛な議論になってしまう。

責任とはアプリオリに決まっているものではない

 実は、かつて「責任論」というのが流行ったことがあって、その頃にもいろんな人(柄谷某とか奥村某とか)の責任論に目を通したが、正直、どれ一つとして納得のいくものはなかった。

 このような責任論の多くでは、そもそも、責任というのが何か物理法則か何かのようにアプリオリに決まっていて、人間がやるべきことは、どこに責任があるのかを発見することだけであるかのような論法になっている。ぼくに言わせれば、そもそもこの認識が間違い。そうではなく、責任とは、社会が決めるお約束なのである。

 本来なら、ここでぼく自身の「責任論」を展開しておくべきなのだろうが、残念ながらその余裕はない。しかし幸い、ぼくの考えを代弁してくれているような学者の方がいるので、今回はその権威に頼っておくことにする(^^)。 

「責任」とは、「権利」や「義務」と同じように「構成的な概念」であって、石や水のように客観的に存在しているものではない。それは、社会の中で人々がなんらかの(しばしば暗黙の)合意によって組み立てられていくものである。それをどう組み立てていくかは、社会にとっての重要な課題であるが、あらかじめ客観的に所与として存在しているわけではない。

-盛山和夫「リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

社会全体のコストを最小化する

 さて、誰に責任があるかはみんなで決めるものだ、という前提は納得いただいたことにする。問題は、じゃあそれをどうやって決めたらよいかということだが、一つ有力な考え方がある。それは、社会全体のコストを最小化するように決めれば、みんなが得するはずだという考え方である。

 たとえば、ある事件が起こると、世の中全体に 100 万円の損失が発生するとする。この事件を A さんが防げば 1 万円で防げるが、B さんが防げば 10 万円かかるとする。この場合、A さんに事件を防ぐ責任がある、ということにすれば、社会全体の損失が最小化されるはず、というわけだ。

 実は、以前にこんにゃくゼリーについての記事で紹介した「最安価損害回避者」というのも、基本的にはこの線にそった考え方だ。こんにゃくゼリーによる死亡事故を防ぐのに、メーカーがのどにつまらないこんにゃくゼリーを開発するためにかかるコストと、ユーザーがのどにつまらないように注意するコストを比べて、少ない方に責任があるとした方が、社会全体の損失は少なくてすむだろう。

 この考え方のいいところは、一律に製造者責任とか消費者の自己責任とかに決めるよりも、より合理的な責任の割り振り方を柔軟に考えられるというところにある。

問題は不平等である

 ただ、この考え方だと、社会全体のコストは最小化されるかもしれないが、実際にはそのコストは特定の人が負担することになるので、不公平になるのではないか、と思う人もいるだろう。

 たとえば、道に落ちているゴミを誰が拾うか、という問題を考えてみよう。これも、ゴミがあるのは捨てたヤツの責任だとか、いや道を管理している国や自治体の責任だとか、いろんな考え方がありうる。でもおそらく、社会的コストの最小化という観点から考えれば、たまたまそこに通りかかってゴミを見つけた人が拾うのが、最もコストが小さいのではないだろうか。

 ところが、この方式だと、ゴミが落ちていても拾わない人がたくさんいたり、ゴミが落ちている場所が偏っていたりすると、たいへん不公平なことになる。社会全体のコストを減らすために、特定の人だけが損をするということになってしまうからだ。それでは、多くの人はバカバカしくて協力をやめてしまうだろう。

 つまり、この方式がうまく機能するのは、ゴミ拾いコストの期待値が誰でもだいたい同じ場合。言い換えれば、誰でもゴミを見つける確率がほぼ同じで、しかも、見つけた人がみんなマジメに拾うような場合なのである。そのような状況であれば、昔からよく言われような「困ったときはお互い様」という論理が成り立つわけだ。

言論の自由にもコストがかかる

 さて、そろそろぼくが何を言いたいか勘付いた人もいると思うが(^^)、そもそも、「言論の自由」にもコストがかかる。自分と違う意見を聞けばたいていの人は不快だろうし、言論をいろんなメディアで流通させるのにも金がかかるし、大音量の拡声器でわめかれた日にゃ単純にうるさい。

 それでも、多くの人がそういうコスト負担に耐えているのはなぜか。まず、言論の自由を守ることは社会全体の利益になること。さらに、その利益は、一人一人が負担しているコストの合計より大きいはずだということ。そして最後に、そのコストは、特定に人だけが負担しているわけではなく、社会の全員がほぼ平等に負担しているはずだということだ。

 もうおわかりになったと思うが、この負担の平等が成り立たないようにすることこそが、街宣右翼の狙いなのである。つまり、本来は社会全体で平等に負担しているはずの「言論の自由」のためのコストを、特定の人や会社にだけ偏って負担させることによって不公平感を生み出し、コストを回避した方が得だと思わせようとしているわけである。

 国がもっと右翼に対する規制を厳しくすればいいという意見に対する疑問点もここにある。つまり、国が規制するのと、企業が我慢するのとでは、どっちが社会全体のコストが少ないかは微妙だと思うのだ。もともと彼らは、遵法闘争的な発想でやっているわけだから、特定の行為を禁止したらしたで、いくらでも別の嫌がらせの方法を考えてくるであろう。そして、それを防ぐためには禁止的な高コストがかかるかもしれない。

コストをシェアすればみんなが得する

 ところが、問題がコスト負担の不平等にある、というところに着目すれば、もっと簡単な解決法があることがわかる。要するに、コストを改めて社会全体でシェアすればよいのだ。

 これは、先ほどのゴミの例で言えば、国や自治体で清掃をする代わりに、一般市民にゴミを拾ってもらい、それに対して報酬を出すことに相当する。本当に国や自治体で清掃するより一般市民がゴミを拾うほうが低コストなら、この方が清掃費用が安くつくだろう。

 たとえば、「右翼保険」のようなものを作るなんていう手もある。右翼の被害に合いそうなホテルがみんなで保険料を積み立てておいて、実際に右翼の被害にあったホテルがそれを受け取るようにするのだ。もちろん、宿泊客に対しても、そのお金を原資にして宿泊料を値引きしたり、お詫びの品を配ったりすればよい。

 そうすれば、かえって得するから右翼に来て欲しいと思う客も出てくるだろうし、あのホテルにはよく日教組が来て宿泊料が安くなるからという評判になって、かえって客が増えるかもしれない(^^)。もちろん、そんなことになれば、右翼のもくろみは崩れて嫌がらせをすること自体が無意味になるだろう。

 もっとも、民間の保険だと、うちは保険料を払いたくないからやっぱり日教組なんて泊めないよ、というところも出てくるかもしれない。だから、理想的な方法は、そういうコスト負担を国が税金で補償することである。そもそも、言論の自由が守られれば国民全体が得するのだから、税金で補償したって悪いことはあるまい。もちろん、右翼の被害というものを適切に認定することにはいろいろ技術的な問題もあるだろうが、拡声器を使う場合には届出制にするとか、いくらでも方法はあると思う。

 まあ、このへんは半分冗談だが(^^)、重要なことは、言論の自由が守られれば国民全体が得するんだから、問題はコスト負担の不平等だけなんだ、という認識を国民全体で共有することである。そうすれば、闘うことを強制はできなくても、闘う人を励ましても罰は当たらないということはわかるはずだし、勇気がない人をけなす必要はないかもしれないが、勇気のある人には名誉という形の報酬を与えるということだってできるだろう。

 あのような事件について、企業よりも国に責任があると思う人は、少なくとも、国の規制を厳しくすることと、企業が我慢することと、どっちが低コストか、一度冷静に考えてみてほしいと思う。

 もちろんこれは、右翼の問題に限ったことではない。電車内で強姦されそうになっている人を乗客が助けるのと、車掌にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。バスの中で殴られている人を乗客が助けるのと、運転手にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。かたくなに誰の責任かにこだわるより、コストをどうシェアするかを考えたほうが生産的ではないだろうか。

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ケータイ小説初体験

 ケータイ小説「恋空」を読んでみた(^^)。

 ケータイ小説について、賛否両論あることは知っていた。中高生には圧倒的な人気がある。しかし、従来の小説を読んできた人たちは、否定的な評価の人が多いらしい。その一方、新しい世代による新しい時代の小説として評価する人もいるようだ。どの評価が正しいのかは、つまるところ、読んで見なければわからない。それを確かめたくなったのだ。

 読了後、山田太一氏の「『オーケストラの少女』はひどい映画か?」というエッセイを思い出した。それは、指揮者の岩城宏之氏のエピソードに関するエッセイだ。岩城氏は、少年時代に「オーケストラの少女」を観て感動し、その影響で指揮者になったそうだ。ところが、大人になってからもう一度「オーケストラの少女」を観たところ、子供のときの記憶とは違って、どうしようもなくひどい映画としか思えなかった。それで氏はおおいに落ち込んでしまったという。

 このエピソードについて、山田氏はこう言う(このエッセイを収録した本は処分してしまったので、細部はうろ覚え)。おそらく、「オーケストラの少女」は、たいていの大人にとってはひどい映画なのだろう。しかし、ひどい映画だからと言って、子供に見せない方がいいとは思わない。子供というものは、大人が名作だと思うような作品で成長することはあまりなく、むしろ、俗悪な作品こそが子供を成長させることが多いからだ。現に、「オーケストラの少女」は岩城氏を指揮者にしたではないか…。(念のために補足すると、このエッセイのポイントは、名作・俗悪という価値基準自体を変更せず、にもかかわらず子供にとって俗悪は必要だ、という論法になっていることである。)

 ぼく自身も人並み以上にそうだったが、子供というのは、実にくだらないことに熱中する生き物である。マンガやテレビ番組だけのことではない。サケブタやスーパーカー消しゴムのようなよくわからないグッズ収集もそう。ぼくなんかアホだから、もっともっとくだらないこともたくさんしている。チョークを食べる。舌を三つ折にする。消しゴムのかすをまるめて練り消しゴム状にする。牛乳瓶のフタについているセロハンに穴をあけ、その穴を徐々に広げていって、しまいにはその穴をくぐる。道に落ちている刀の形をした鉄片を拾い集める…。

 どれも、文化や芸術とはなんの関係もないし、社会的な影響力もない。でもおそらく、理由はよくわからないけど、当時のぼくにとっては必要なことだったのだろう。

 「恋空」も、確かに傑作とはいいがたい。ぼく自身もそれほど感動しなかったし、客観的に観ても、後の世になって名作として再評価されるということも、おそらくないだろう。

 ただぼくは、だからと言って、この小説をそんなにムキになって批判する気にもなれないのだ。別に誰も芥川賞や直木賞をやれと言ってるわけじゃない。書きたい子が書いて、読みたい子が読んでるだけのことではないか。やれ間違った知識が書いてあるとか揚げ足とりみたいなことを言ってる人もいるけど、そんなのは大した問題とは思えない。子供を騙して金を儲けているという批判もあるが、そういう人たちだって、子供達のやることについて行けない年寄りに受けそうなことを言って金を儲けているとも言える。

 また、文学的に新しい手法とまではいかないものの、現代的な感覚を感じるところはいくつかあった。たとえば、あのリズム感を重視した行間の空け方や改行の仕方などはなかなか面白い。恋愛や友達関係の大部分がメールやケータイの会話で進行するのも、伝統的な小説ではなかったことだろう。友達同士がすぐ裏切ったりウソをついたりするのも、その後わりとあっさり仲直りするのも、ぼくの世代の感覚からするとかなり違和感があるのだが、今の子にはそれなりにリアリティを感じられるらしい。だから、これがミヤダイ先生のよくおっしゃるカジョーリュードーセーってやつなのかなあ、なんて思ったりした(^^)。

 このような点から考えても、どちらが文学的にすぐれているかという話とは別にして、ケータイ小説が、従来の小説からは得られないなにかを、今の若い子たちに与えている、ということはありそうである。

もちろん、

ぼくだって、この小説ですごく感動したとは言えない…。

でも、

だからといって、やたらムキになって悪口を言う人も、

なんだかキモいと思ってしまったんだ…。

ただ…

ひとつだけ気になること。

それは、ぼくみたいなオヤジがこんなことを書くと、

若い子にモテたいという下心がミエミエだ、

と思われそうなことなんだ…。

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金儲けの福音

    あなたはできる 運命が変わる7つのステップ  昨日の「ラリー・キング・ライブ」のゲストは、ジョエル・オスティーン(Joel Osteen)という宗教家。ぼくは不勉強にして知らなかったのだが、毎週 5 万人もの信者が集まる全米でも最大級のメガチャーチを運営し、処女作の「Your Best Life Now: 7 Steps to Living at Your Full Potential あなたはできる 運命が変わる7つのステップ)」は 500 万部を売り上げ、バーバラ・ウォルタースからも「2006 年の最も魅力的な人物ベスト 10」に選ばれた人物だという。そう聞けば、かねてからキリスト教とアメリカ社会の関係に興味があった私としては、調べてみないわけにはいかない(^^)。

     聞いていてひっかかったのは、この本のタイトルからもわかるように、彼の教義が宗教というより自己啓発セミナー的であることだ。調べてみると、このような教義は、「ワード・オブ・フェイス(Word of Faith)」運動の流れを汲んでいるらしい。

     ワード・オブ・フェイス運動については、検索してみてもほとんど日本語の資料が見当たらないのだが、唯一、映画秘宝という雑誌の「高橋ヨシキの悪魔の映画史」という連載の中にわかりやすい説明がある。 (この連載は、バックナンバーも非常に興味深く、キリスト教とアメリカ社会の関係に興味がある人は必読である。)

     この運動の特徴的な教義の一つとして、"Prosperity Gospel" というのがあるらしい。これは、直訳すれば「繁栄の福音」ということになるが、特に "financial prosperity" を強調しているということなので、表題のように「金儲けの福音」と訳してもあながち間違いではあるまい。要するに、信仰すれば、健康になって社会的にも成功するよ、という話で、完全に現世利益的なのである。

     上記の高橋ヨシキ氏も書いているように、これは、キリスト教本来の教義とはかなりかけ離れているように見える。もっとも、キリスト教の教義というのは、別にイエス・キリストがすべて考えたわけではなくて、キリストの死後に弟子たちがよってたかってでっちあげたようなものだし、キリスト教の歴史自体が、宗教改革をはじめとした派閥争いの歴史と言ってもよいくらいだから、何が本来の教義だかなんだかわかりゃしないという話もある(^^)。

     しかし、キリスト教の根幹に近い部分には、現世利益を無視し、死後の救済を求めるという教義があるということは、大方の一致するところではないだろうか。「予定説」などはその典型的な例で、誰が救済されるかはあらかじめ決まっていて、現世で何を努力しようが「そんなの関係ねえ!」というある意味ぶっとんだ話だ(^^)。また、金儲けを擁護しているともとれる、あの有名なウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」ですら、資本主義を生み出したエートスは、現世で金を使って楽しむことを考えず、ひたすら勤勉に働いて資本を蓄積する精神である、ということだったはずだ。

     そういう意味で、この教派は、同じキリスト教内部からもいろんな批判を受けているらしい。また、この教派は、「原罪」みたいなキリスト教のおもたい部分はあまり教えず、軽くて口当たりのいいことばっかりいうので、"Gospel lite" とか "Christianity lite" とか揶揄されているらしい(この lite はマルボロライトとかのライトで、要するに「軽いキリスト教」という意味らしい)。しかし、そんな宗教がこれだけ多くの人を動かしているということは、今後のアメリカ社会の行方を占う意味でも注視すべき現象であろう。

     まあ、ぼくは金儲け自体は別に悪いことだとは思ってないのだが(^^)、それが宗教の目的だと言われると、さすがにちょっと違うのではないかと言いたくなる。宗教の目的の一つは、ある次元で幸せになる方法を教えることだと思うが、お金というのは、幸せになる手段としては使えるけど、幸せになる方法は教えてくれない。いくらお金が儲かっても、それをどう使えば幸せになれるかを教えてくれなければ、本末転倒だと思うのだが(^^)。

    (追記:言葉足らずでわかりにくかったかもしればいが、別に、単なる処世術なら処世術でよいのである。ぼくが言いたいのは、単なる処世術に過ぎないものを、神の名において絶対化することの危険性なのである(^^)。それは、疑似科学と同じで、「擬似処世術」「擬似自己啓発」みたいなものにすぎないのではないだろうか。)

     ぼく自身は無神論者なのだが、必ずしも社会に宗教が不要だとは思っていない。今みたいに科学全盛の時代に宗教を信じている人は単純に頭が悪いみたいに思っている人もいるようだが、もともと近代以前には、科学も哲学も宗教の一部だった。それが近代になって、科学や哲学が宗教から分かれて、独自の文化として自立したわけだが、じゃあ、科学や哲学が完全に宗教の代わりを果たしているかと言えば、必ずしもそうは思えない。なにかとりこぼされたものがあるような気がするのである。頭のいい人は、その隙間を自分の考えで埋めていくこともできるのだが、誰もがそれほど頭がいいわけではない。だからこそ、いつまでたってもカルトみたいなものがなくならないのではないだろうか。

     そう考えると、現代に求められている宗教というのは、民主主義や科学のような近代市民社会の原理と決して対立せず、なおかつ、科学や哲学が取りこぼしたものだけを扱うような宗教(というより宗教性と言ったほうがいいかもしれないが)ではないかと思うのだが、肝心の宗教家は、相変わらず科学に対抗し否定することばかりを考えているように見える。そんな考え方では、いつまでたっても二流の科学(疑似科学)や処世術を垂れ流して世の中を混乱させるだけではないかと、ぼくなんかには思えてしまうのだが。。。

    余談:この話とは別に、ちょっと面白かったのは、ブリトニー・スピアーズやパリス・ヒルトンに言及した部分(トランスクリプトを参照)。

   

        KING: Yes. That's what many think, that this whole group, these youngsters, are basically good.
       
        V. OSTEEN: Oh, yes.
       
        J. OSTEEN: Oh, yes.
       
        KING: They've just had too much, too soon.
   

    ぼくはこの部分を読んで、ついカメダさんやサワジリさんのことを思い出してしまい、"They've just had too much, too soon." というのは、まったくその通りだと、宗教とは無関係に共感したのでありました(^^)。ある意味、日本でもアメリカでも同じことが起こっているんだろうなあ(^^)。

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別に…

 そうそう、高橋幸宏さんの「A Day In The Next Life」に収録されてる「BETSUNI」っていう曲があってさー、ってそんなことが言いたいのではなかった(^^)。例の若手女優さんの話だった。

 ぼくは「パッチギ」も見てないし、この人のことほとんど何も知らなくて、YouTube で会見の動画とかを見ただけなのだが、正直なんか可愛そうになってしまった。

 たとえば、もしあの MC が浜田雅功だったら、「お前何やその態度は~!」と言いながら彼女につっかかって行って、どつき回していたであろう。さらに、どつきながら放送禁止用語を叫びまくって、ビデオが録画されていても放送できないようにするぐらいのことはしたかもしれない。その結果として、逆に彼女の名誉は守られたであろう。ところが、実際にはほとんど放置プレーだったわけだ。

 つまり、そういう気配りのできる本当のオトナというものが少なくなった結果として、若者は社会に出てすぐのときから成熟したオトナとして振舞うことを求められるようになっているわけだ。

 これはおそらく、世の中から年功序列の文化が薄れた結果、若者と年寄りがほとんど平等な条件で競争することを強いられるようになった結果なんだろうね。昔だったら、二十歳過ぎればオトナだとは言いつつも、実際にはまだまだ子供だからというんで甘えることが許される部分があった。

 それは、年寄りが無条件に尊敬されていたことの裏返しだ。だって、今のように、自分より年下の奴が上司で給料もたくさん貰っていることも珍しくない、というような社会では、若者だからといって、そんなに甘やかす気持ちになれないのも無理ないではないか。

 だけどさあ、オトナぶって偉そうにコメントしてる連中を見ると、お前ら自分が二十歳のころとか思い出して見ろよ、そんなにオトナだったか? 二十歳かそこらで、日本中で女王様だのなんとか会だの言われて、街を歩いていても当然「あ、○○会だ、クスクス…」みたいなことを言われたりしてただろうし、それでそんなに平然としてられるのか、と聞いてみたい気もするんだよね(^^)。少なくとも、ぼくにはとうてい無理だったろうね(^^)。

 それから、これはこの事件に限ったことではないが、芸能マスコミという奴はどうしてあんなに偽善的なんだろうね。誰かの飲酒事件のときにも書いたけど、「社会的な影響が大きい」とか言うのやめてくれよ~。お前らが面白がって報道するから影響が大きくなるんだろーが。ホントに影響が広がるのが嫌なら、報道しなけりゃいいんだからさあ(^^)。

 まあ、あんた方もそれでオマンマ食べてるんだろうから、報道するなとまでは言わないけど、せめて、「わたしらも、本当は視聴率がとれておいしいから報道してるだけですけどね」ぐらいの自虐ネタをかましてみたらどうだ(^^)。まるで自分たちは純粋に善意で行動してるんです、みたいな顔されると、正直ムカムカするんだよ。

 もちろん、ファンの人や映画を見に来た人、あるいは、同じ映画のスタッフが怒るのは当然だけどね。でもそれは、頑固な職人がやってる無愛想な寿司屋みたいなもんで、客が怒って二度と行かないとかいうのはわかるけど、客でもなんでもない奴が「あたしがあの職人シメてやるよ」とかいう話じゃねーだろ? そんな店、行かなきゃいいだけの話なんだからさ。もっとも、ぼく自身は、もったいぶった頑固職人の店より、誰にでもわけへだてなくスマイルしてくれるファミレスとかの方が好きだけどね(^^)。

 まあ、結論としては、怒るのはいいけど、怒る方ももっとオトナになれば? でないとみっともないよ、ってことだね。


 なんか最近の世の中って、近視眼的に見ると理屈は通ってるんだけど、ひいて見るとバランスがおかしい、みたいなことが多いよね。。。でも、そういうのを理屈で批判しようとすると、やろうと思えばできることはできるんだけど、すごく手間がかかるんで、ちょっとアイロニカルなレトリックでごまかしてみましたって感じなんだけど、ぼくはもともと理屈の人なんで、あんましうまくなかったかも(^^)。

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「べき」と「たい」の心理学

 言うまでもなく、人間の行動には、「べき」と「たい」がある。「べき」な行動というのは、何らかの目的を実現するための手段としての行動、「たい」な行動というのは、行動自体が欲望の対象であるようなコンサマトリー(消費的)な行動と言い換えてもよい。

 ところが、山崎正和氏もよく言うように、実際には、「べき」と「たい」はそんなにきっちりわかれているわけではない。たいていの行動は、「べき」であると同時に「たい」でもあったりする。ここが問題だ。

 仕事をする人は、金を稼ぐという目的のために仕事をす「べき」だとも思っているが、同時に、やりがいのある仕事をし「たい」とも思っている。政治運動をする人は、世の中をよくするために政治運動をす「べき」だとも思っているが、同時に、仲間を増やして政敵の悪口を言い合ったりして、そういう運動自体を楽しみ「たい」とも思っていたりする。

 人間には良心というものがあるから、自分がなんらかの行動を起こし「たい」と思い立ったときにも、その行動をす「べき」なのか、という検討はたいていの人がするものである。

 ところが、一端その行動をす「べき」であるという結論が出てしまうと、人間はしばしば、その行動が、もともと自分がし「たい」行動であったということを忘れてしまう。いや、忘れてしまうというより、無意識のうちに目を背けようとするのある。そして、「べき」であるという事実を名目にして、「たい」の欲望を思う存分満たそうとするようになるのである。

 その結果、周囲から見ると、本来の「べき」の目的合理性ではとうてい説明できないような、過剰な行動が観察されることになる。しかもやっている本人は、それはあくまで「たい」ではなく「べき」の行動だと思っているから始末が悪い。

(ダウンタウンがよく言うつっこみで、「お前それ言いたいだけやろ!」というのがあるが、このいうところにも、彼らの人間観察眼の鋭さが現れていると思う。)

 政治運動などを見ていても、周囲から見ると、「そこまでやるかあ?」と思って「ひいて」しまうような運動が多々あるが、そういう現象の裏に働いている心理的メカニズムは、たぶんこのようなものではないかと推察される。

 この問題が難しいのは、単純に「たい」であるから「べき」ではない、とも言えないし、「たい」と「べき」をくっつけるべきではない、とも言えないことである。むしろ、「たい」と「べき」がくっついた状態というのは、社会的意義と本人のやりがいが理想的に結びついた状態とも言えるのだから。

 もちろん、周囲から評価する際には、単純に「たい」の部分を無視して「べき」の部分だけで評価する、というようにすればいいわけである。しかし、やっている本人にとっては、やっぱり、「べき」だけでなく「たい」の部分も重要なのであるから、なかなかそう突き放して客観的に見ることも難しいのだろう。

 そう考えると、本人にとってもっとも有効な処方箋は、その行動がもともと「べき」であると同時に「たい」でもあるということを、自分自身で自覚することだと思う。その自覚があれば、自分の行動が本当に「べき」の目的に合理的であるか、それとも、「たい」の欲望を満たすことだけが暴走しているかを、ある程度自覚的に制御することも可能だろう。

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年長者を敬う意味

 年長者を敬うことが、多くの文化で美徳とされている理由について、一つの仮説を思いついたので書いておく。もっとも、こんなこととっくに誰かが言ってそうな気もするが(^^)。

 これはたぶん著作権と同じ原理なんじゃないかと思うのだ。つまり、全プレーヤーを平等な条件で競争をさせると、世の中全体にとってはかえって損になるので、一部のプレーヤーを意図的に優遇する、という意味があるのではないか。

 そもそも、若者と年寄りでは、競争上の長所・短所が異なっている。若者にとって、競争の武器は、才能・気力・体力である。これらは、他人に分け与えたり、他人からもらったりすることはできないし、使ったせいで優位性が使い減りすることもない。一方、年寄りは、才能はともかく、気力・体力ではむしろ若者より劣る。したがって、年寄りの競争の武器は、経験によって身に着けた知識や技術になるが、これらは、比較的容易に他人に分け与えることができ、その結果確実に優位性が失われてしまう。

 こういう前提条件のもとで、若者と年寄りとを完全に平等な条件で競争させると、若者はほっといても全力を発揮しようとするだろうが、年寄りにとっては、知識や技術を小出しにして、若者に対する優位性を維持することが合理的な戦略となるだろう。しかし、年寄りがみなこのような戦略をとったんでは、社会全体にとっては損失である。

 したがって、年寄りが持つリソースを気前よく社会に提供させるためのインセンティブとして、年寄りを無条件で敬う文化というのができたのではないだろうか。徒弟制度などの合理性も、部分的には同じ論法で説明できそうである。

 仮にこの仮説が正しいとすると、現代のように年功序列がなくなって、年寄りと若者が同じ条件で競争する社会になった時代には、そのような年寄りを敬う文化が持っていた機能を、何かで代替する必要があるだろう。

 たとえば、インターネット上で知識を披露することにより、広告料が得られるなんていうシステムは、競争原理がより多くの知識を提供するためのインセンティブとして働くので、そういう代替機能の候補にはなりうると思う。だけどそれが、非常にマイナーな知識、たとえば、特定のお客に営業をかけるコツ、みたいなものの共有にどこまで役立つかを考えると、こころもとない感じがしないでもない。

 実は、ぼく自身も、昔は知識を小出しにするなんてセコいと思っていたのだが、最近は、少し知識を小出しにした方がいいかもしれないと思い始めている(^^)。だからこんな説を思いついたのかもしれない(^^)。 ぼくは前から、成果主義より能力主義の方が合理的のではないか、と主張しつづけているのだが、年寄りの優遇も一種の「能力」主義として考えてみてもよいかもしれないね。

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Homeless

完全にゾンビ扱いです(^^)。ようやるなあ~と思いつつ、大爆笑してしまいました(^^)。もちろん、これが笑えるのは、われわれが直視したくないある種の真実をついているからなんだよね。最後の台詞は "It's completely overrun with these things!" ですからね(^^)。その前のシーンに出てくるタウンミーティングでは、ホームレスをタイヤ代わりにすればリサイクルになるとか、もうメチャクチャな提案ばかりしてたりして。やってくれるよな~(^^)。

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雑弁亜目の昆虫被害の件について

  さて今回は、動物界節足動物門昆虫綱直翅目雑弁亜目のある昆虫の話である。この昆虫がいかに恐ろしいか、ぼくは子供の頃「大草原の小さな家」シリーズで読んだから知っているのだが、確かインガルス一家はこの昆虫のせいで家を引越す羽目になってしまうのである。もっとも、単にこのお父さんが堪え性がなくて引越し魔なだけだという人もいるが。

 先日も、ある大学の先生が丹精込めて作っている畑に、この昆虫が大量に襲来して荒らしまわったからさあ大変。激怒した先生は、昆虫の産地と思われる「疑問符」という農園に、ちょっとこの昆虫は品位がなさすぎるからなんとかしろと苦情を出した。それに対して、団子屋の団子会さんとか、餅屋の梅田餅さんとかがコメントを出して、町はちょっとした騒ぎになっている。

 この話は何度も書いたのでいい加減飽きているのだが、自分の立場を確認するために、言い方を変えてもう一度だけ書く。私は、リベラリストであり、かつモラリストである。リベラリズムとモラリズムが矛盾するとは思っていない。リベラリズムと矛盾するのは、リーガル・モラリズムであって、リーガル・モラリズムとモラリズムは違うのだ。これ以上説明するのは面倒なので、以上、立場説明終わり。

 で、この立場からすると、先生が昆虫の一匹一匹に、もっと行儀よくしなさい、と苦情を言うのは当然だと思うのだが、その苦情を「疑問符」に持ち込むのはどうかと思う。むしろ問題は、昆虫がどこでも好きなところに飛んでいけることにある。リベラリズムの立場にたてば、昆虫の品位や行儀などというものは、法律で規制するのではなく、ローカル・ルールや昆虫同士の相互監視によって守るべきものである。そのようなメカニズムが働くためには、ある程度閉じた空間が必要なのである。

(だいたい、この先生は確か、農場で発生した昆虫などについて、農場主にかかる責任は、なるべく軽くしたほうがいいという立場だったと思ったのだが。)

 このへんは、人間界だって同じことだろう。この先生は、こんな昆虫がいるのでは、真面目に畑を耕す人などいなくなるというが、人間界でだって、学術的に高度な話を駅前で不特定多数の人に向かって話している人などいない。そういう話をする人は、学会であるとか、なんとかシンポジウムであるとか、それなりの場を選ぶものであるし、そういう場にはそれぞれローカル・ルールがあって、そのルールにしたがう聴衆だけが集まる仕組みになっている。こういう仕組みは、リベラリズムとなんら矛盾しない。

 現在の網の仕組みに問題があるとすれば、そういう多様なローカル・ルールを作れる仕組みが、まだまだ未発達なことであろう。理想を言えば、「疑問符」は「疑問符」なりのローカル・ルールを設定すればよいし、他の農場は他の農場で別のローカル・ルールを設定すればいい。そして、どの農場がより栄えるか、自然の淘汰にまかせればよいのである。そうすれば、行儀のいい昆虫だけが集まる農場と、下品だけど活気のある農場との棲み分けなども自然にできていくだろう。下品な昆虫の嫌いな人は、そういう農場に行けばいいだけの話だ。

 一方、団子会さんや梅田餅さんは、たかが昆虫に大騒ぎするな、もっと強くなれ、みたいなことを言っているが、これもなんだかスポ根マンガみたいでついていけない。まあ、企業の新人研修とか芸人の罰ゲームとかだったら、わざわざ駅前で恥をかかせるような訓練もありかもしれないが、網の中にいる昆虫の大多数が、必要も無いのにわざわざ不快さに耐えながら暮らすことを選ぶなんてことがあるはずもない。そういうのが嫌な人は、上品な昆虫だけが集まる農場に流れるか、さもなければ、最初から網の中になんて入ってこないだろう。

 もし、そんな昆虫がたくさんいるなら、人間界にも、街頭ライブや辻説法をやって、「ヘタクソー」「うるさいぞー」とか言われて、「一般庶民の声が直接聞けてよかったです」とか言って喜んでいる人がもっとたくさんいるはずである。しかし、実際には、そういう人はごく一部の、特殊な目的をもった人たちだけにすぎない。大多数の人にとって、それは、不効用が効用を上回る、単純に損な行為でしかないのである。したがって、「みんな強くなれ」というのは、昆虫問題の解決策としては意味が無い。

 もっとも彼らは、みんな強くなれと言いたいのではなく、自分はこんなに強いんだぞと自慢したいだけなのかもしれない (^^)。それならそれで、別にどんどん自慢なさってくれてかまわないわけだが、私は、必要も無いのにそんなに強くなりたくないし、多分、今後そうなる必要に迫られることも一生ないと思う (^^)。

追記: 戦争になれば平気で人を殺せる人間の方が有利だ、っていうのと、戦争と平和とどっちがいいか、っていうのはぜんぜん違う問題だと思うんだけどね。人を殺せる人間を正当化するために、これからは必ず戦争になるって言ってるんじゃなきゃいいけど。まあ、自分で言ってるほどスルー力ないじゃん、みたいなことは言わないけどね(あ、言ってるか(^^))。ぼくはホントは、戦争になってもわりと死なない自身あるけどね (^^)。

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VA Tech & Gun Control

 先週のアメリカのメディアは、VA Tech Massacre (or Shooting)、つまり、バージニア工科大学の銃乱射事件のニュースで持ちきりであった。ぼくは、 CNN Pipeline ABC News Now の画面を2つ並べて観ていた(このへんもIP放送のいいところ(^^))のだが、どちらも事件が起こった月曜日から水曜日ぐらいまで、ほとんど一日中この事件のニュースばかりやっていた。どこかのえらい人が、社会面に出るような事件報道を延々とやるのは日本のテレビだけだ、とか言っていたけど、このぐらいの事件になると、さすがに違うようである (^^)。

 ぼくが一番気にしていたのは、この事件が銃規制の問題にどのような影響を与えるのかということだが、どうやら、精神疾患歴のある人に対する銃販売の規制を強化する、あたりに落ち着きそうで、全面的な銃禁止などという方向に行くことは、自民党が共産主義を主張するぐらい有り得ない話のようだ (^^)。

 どうも、犯人に精神疾患歴があったことが、銃規制に反対する側にとっては、逆に逃げ道になった感もある。犯人が NBC に送ったビデオが公開される前は、社会から isolate (疎外)された人たちを inclusion (包摂)するような社会にしなくてはいけません、みたいな議論を真面目にしていて、個人的にはちょっとひいてしまったのだが (^^)、あのビデオを観てからは、さすがにそんな議論をする気も吹っ飛んでしまったらしく、あまりやらなくなった。

 それにしても、アメリカという国にとって、銃規制の問題は相当根深い問題らしい。ぼくはこの問題に詳しいわけでもなんでもなくて、チャールトン・ヘストンが会長だった全米ライフル協会のロビイングのおかげで銃規制ができないのだ、みたいなステレオタイプな認識しかないので、これはあくまで印象批評にすぎないのだけれど、今回のニュース報道を見ていた限りでは、どうもそういう表層的な話だけではないような気がした。

 方向性はほとんど正反対だし、たとえとしては不穏当かもしれないが、合衆国憲法修正第2条は、ほとんど日本人にとっての憲法第九条みたいなものかもしれないと思った。つまり、彼らにとっては、合衆国憲法修正第2条を変える事は、アメリカと言う国のよって立つ理念的な基盤を変えてしまうことなのだ。だから、ちょっとやそっと小賢しい理屈を並べても、そう簡単に意見が変わることはないのではないかと思う。要するに、一種のタブーなのである。

 どうでもいい話だが、前にこの問題をニューヨーク在住のペンパルと議論していて、ぼくが冗談で、「『十戒』には『Violence begets violence』みたいなことは書いてないらしいな」みたいなことを書いたら、えらく受けてくれた。だからこれは多分、ぼくがこれまで英語で書いた冗談の中でも、一番上出来なのではないかと思う。(そんなのが上出来なのかって言われそうだが(^^))。

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作りたくても作れないって、どういうこと?

 昨晩の朝生は、パネラー全員が女性で、これは朝生史上初めてのことだそうだ (^^)。もっとも、だからといって、議論の質に影響があったという感じは、いい意味でも悪い意味でも別にしなかったな (^^)。

 でもどうなんだろ、10 年ぐらい前だったら、やっぱりこうはいかなかったんじゃないかな (^^)。少なくとも、大高未貴さんとか雨宮処凛さんみたいな論客を女性の中から探すのは難しかっただろう。これは別段彼女達を高く評価しているという意味ではなくて、むしろ純粋な論客としての評価は正直高いとはいえないわけだけど、それは普段の男ばっかりでむさ苦しい朝生でも同じことだよね。ただ、ああいう論客が出てきたということは、男性論壇と女性論壇がある種相似形になってきたことの一つの証明にはなると思うのだ。

 少子化問題については、ぼくの知る限り、そもそも、価値観の変化のせいなのか環境のせいなのか、という論争にすらきちんとした決着がついていないはずなんだよね。環境のせいだと主張する方々は、よく「子供を作りたくても作れない人がたくさんいる」ということを強調するが、ぼくはこの「作りたくても作れない」という言い方にはある種のごまかしがあると思う。

 この言葉を使っている人がイメージしているのは、たぶん、収入が生活費だけでギリギリで、子供を作ると生活費すら不足してしまう、というような家庭なのだと思う。でも、こういうイメージでは、よく考えると、何も定義したことになってないのである。

 たとえば、収入は人並み以上にあるのに、毎日高級寿司やフランス料理ばかり食べていて、着る物もブランド品ばかり買っているために、生活費だけで収入を使い切ってしまって、それ以上支出を増やせないし、生活を落とすのも嫌だから子供を作れないという家庭があったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れないのか、作れるのに作らないのか、どっちだ?

 そんなのは極端すぎるって? じゃあ、質素な生活をしているのに、収入が人並み以下なので子供を作れない家庭を考えて見ましょう。でも、「1ヶ月1万円節約生活」みたいなメチャメチャな節約をして生活費を切り詰めたり、副業やパートを増やして過労死寸前まで働いたら、ギリギリ子供を作れるようになったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れなかったのか、作れるのに作らなかったのか、どっちだ?

 もうちょっと論理的に(あるいは経済学的に)考えると、子供を作るという行為には、「子供を愛する喜び」というような「効用」と、生活費の負担増、養育の労力などの「不効用」があって、効用が不効用を上回った場合に子供を作るということになる。

 そう考えれば、前者は不効用は小さいが効用もそれ以上に小さいので「作れるのに作らない人」、後者は不効用は大きいが効用がそれ以上に大きいので「作りたくても作れなかった人」、というふうにもいえそうな気がしてくる。したがって、効用が一定以上に大きいのに、不効用がそれを上回って大きい人のことを、「作りたくても作れない人」と呼べばいいと思うかもしれない。

 でも、よく考えると、こう置き換えたって、やっぱり何も定義したことにはなっていないのである。たとえば、子供の顔を見るのは大好きだが、世話をするのはそれ以上に大嫌いという人だって、この区分に当てはまるわけだが、こんな人が「作りたくても作れない人」だと思いますか? 

 じゃあ、精神的な効用と金銭的な効用を分けたら、と思うかもしれないが、精神的な効用と金銭的な効用は市場で容易に交換できるのだから、これだって同じことなのである。たとえば、「世話をするのが大嫌い」を「世話をする人を雇う金がない」と言い換えれば、形式的には、精神的な不効用ではなく金銭的な不効用になってしまうわけである。

 要するに、「子供を作りたい」などというのは個人の主観なので、第三者がその「作りたさ」の量だけを客観的に測定することは難しいし、「作りたい」と「作りたくない」の閾値を絶対的に決めることもできない。

 さらに本質的なことは、そもそも、子供を持つ喜びというものを、効用と不効用に単純に分けることができるのかいうことである。親がどれだけ不効用に耐えられるかということ自体が愛情の証であって、子供にとってはその愛情こそがもっとも必要なものかもしれないし、親にとっては、子供が自らの愛情を受け入れるということこそが子を持つことの最大の喜びかもしれないのである。だとすれば、不効用=効用という等式が成り立つことになりかねない。

 これがまた個人同士の関係であれば、個人の主観でもって、スポ根的に「お前には本当に子供を作りたいという気持ちがない! だから支援はしない!」とか言うこともできるかもしれない。しかし、政府が政策として支援を行う場合には、そんなわけにはいかないのである。したがって、政策論としては、「本当に子供を作りたいけど作れない人」だけに支援を行うことなど、おそらく不可能である。

 だからぼくは、「作りたくても作れない人」という言い方は、リベラル系の方々が、「自分達は個人の主体的な選択を尊重しますよ」というポーズを示すための、あるいは、少子化対策の名の元に所得再配分政策を行うための、一種のごまかしに過ぎないと思っている。 

 「作りたくても作れない」派の人は、某大臣の「女性にがんばっていただくしかない」みたいな発言がお気に召さないようだけれども、このように考えれば、少子化対策には、

  1. 政策によって、子供を作るという行為の不効用を減らし効用を増やす
  2. 子供を作る人の効用関数、つまり、価値観自体を変えることによって、子供を作るという行為の不効用を減らし効用を増やす

のどちらかしかない。これは、いずれにせよ、子供を作る人を優遇し、作らない人を相対的に冷遇するということなのであって(子供を作ろうが作るまいがまったく損得のない、完全に価値ニュートラルな社会、などというものも、おそらく定義不能である)、少子化対策をすると決めた以上は、口でなんと言おうが、やることはいっしょなのである。

 もちろん、実際の政策によっては、副次的な効果として、低所得層と高所得層、嫡出子と非嫡出子、初等教育と高等教育などの間で差が出るというようながあることは十分に考えられるし、そのへんがまさに政策としての考えどころではある。

 しかし、少子化対策の本質が、子供を作る人を合法的に贔屓する、ということに変わりはないのであって、それを肯定できないならば、むしろ、ぼくのように少子化対策そのものに否定的な立場をとるべきなのである。 

 本当は、保守とリベラルが対立しているのだって、むしろ、この副次的効果として何を選ぶかの方であるはずなのに、それをまるで、少子化対策としてどっちがより効果的か、という問題のように言うのは、論点のすり替えであろう。

 1 と 2 の違いにしても、リベラル系の方々は、なんとなく 1 の方がお好きなようだけど、そんなに単純にどちらがよいと決め付けられる話であろうか。極端な話、どんなに子供が嫌いな人だって、その不効用を上回るインセンティブを与えれば子供を作る可能性はあるわけだけど、子供一人当たり 10 億円ぐらいの補助金を出すというような政策が(予算のことは除いて考えても)「よい政策」だと思う? 「10 億円くれるなら子供を作ってやらあ」、みたいな家庭の子供が本当に幸せになると思う?

 政策目標自体の是非はさておき、それが正しいことを前提とすれば、それを実現するために、個人にインセンティブを与えるよりも、個人の価値観そのものを変えた方が、低コストで政策目標が実現できるし、社会に不自然なひずみを与えることも少ない、とも言えるんじゃないの? だとすれば、その政策目標にそった発言を大臣がすることだって、そんなに悪いことなのかと思うんですけどね。

 価値中立的に考えるために、たとえば、環境保護のためにレジ袋の使用量を減らすという政策目標を考えてみよう。もちろん、この場合、レジ袋に課税するというような具体的な政策をとるのが本筋だろう。でも、そのようなときに、大臣が「みなさん、なるべく家から買い物袋を持ってくるようにしてください」と言うのが、そんなにいけないことか。世論調査をしたら、半数以上の人が「家から買い物袋を持ってくるようにしている」と答えたときに、「それは健全だ」と言ってはそんなにいけないのか。

 もちろん、ぼくだったら、こういう場合にでも、「それは政府にとってありがたいことです」とかなんとかもっとへりくだった言い方をするだろう。でも、そんなのは言い方だけの問題で、本音はいっしょなのだ。要するに、政策目標を実現するために、その目標にとって都合のいい価値観を持った個人を増やしたいのである。それがそんなに悪いことだろうか?

 そりゃあ、隣組なんかがあった時代だったら、大臣がこういう発言をしただけで、買い物袋を持ってこない人は村八分に合って、町内会の行事に呼んでもらえなかったり、お醤油を貸してもらえなかったり、泥棒が入っても通報してもらえなかったりするかもしれない。

 でも、今はそんな時代じゃないでしょう? 大臣がいくらそんな発言をしたからって、そんなの無視すりゃいいだけで (^^)、買い物袋を持たない自由が即なくなるわけじゃないでしょう?

 だからぼくには、正直そんなことでなぜ大騒ぎしなくてはならないのか、いまだによくわからないんだよね (^^)。 

(あと、渡辺昇一さんの「大地と種」理論は今回初めて聞いたんだけど、ちょっと驚いたね。そんなの、Y 染色体理論より非科学的だし、ある意味、それこそ「女性は子供を産む機械」と言ってることいっしょだと思うんだけどなあ。機械だと駄目だけど大地なら平気なのかよ、と思ってちょっと呆れてしまった。これはもう相当なめられた発言だと思うぞ (^^)。)

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内藤朝雄@マル激

  マル激内藤朝雄氏のイジメ論を視聴。意外とぼくの考えに近かったので、特にここに書くほどの感想はありませんでした。「仲良くよくしろと言うのをやめろ」と書いたときには、誤解を招くかもと思ったのですが、イジメの専門家も同じようなことを考えているらしいので安心ですね (^^)。

 念の為補足すると、「仲良くしない」というのは、何も喧嘩をしろと言ってるわけではまったくなくて、暴力で他人に何かを強制しないというような社会人としての最低限のルールは守るし、学校という機能集団が本来の機能を果たすための最低限の協力もするのです。つまり、実験や実習で同じ班になったときとか、体育で同じチームになったときとかは、たとえ仲が悪い同士でも協力するし、できれば、朝晩の挨拶ぐらいもするのです。ただ、自由時間や放課後に誰とおしゃべりし誰と遊ぶか、というようなことは、決して強制しないというだけのことです。

 もちろん、それだと誰とも遊んでもらえない子も出てくるかもしれませんが、この場合には、その子はイジメられているのではなく、純粋に他の子に好かれていないというだけですからね (^^)。これは、オトナの世界だって同じことで、一次会には誘われても、二次会三次会には誘われない人とかいるでしょ。あれはイジメとまでは言えないですからね。

 逆に言えば、このように、自分の自由意志で友だちを選ぶのが当然という状態において、はじめて、イジメという行為自体が自己目的化しているのではなく、純粋に他の子から好かれていないだけということがはっきりするわけです。そうなれば、好かれないのはその子自身にも原因があるかもしれない、ということも言えるかもしれない (^^)。

 もちろん、他人に好かれない、ということ自体は必ずしも「悪」とは言えないので、そうなったときにどうするかも、最終的には本人の選択です。しかしもちろん、本当に自分がつき合う価値があると思っている人に付き合ってもらえないときに、自分の意志で自己変革に向かうというのも、悪いことであるはずがありません。

 いじめる側に立って考えてみても、不快や人間と付き合うことを強制されるからこそ、その不快さをさけるために、その人間に私的な「罰」を与えたり、その人間を「いじる」ことによって不快さを笑いに転換しなくてはならなくなったり、ということもあるはずなんですね。だから、仲良くすることを強制するのをやめれば、そういう行為の必要もなくなるはずなんです。

 このように、お互いが自由意志で付き合うということを前提とすれば、サービス精神であえて道化キャラを演じたり、それを「いじって」あげたり「つっこんで」あげたりするということも、むしろ、本来相性の悪い人間同士を結びつけるための知恵としてみることもできるでしょう。

 そういうことをすべてひっくるめて、「自分の付き合う相手は個人の自由な意志で決めるという原則」を徹底することが、すべての鍵ではないかと思うわけです。

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「イジメられっ子は悪くない」が…

 最近のいじめに関する議論を読んでいると、「いじめは悪い」派と「いじめられる方も悪い」派の両極端に分かれているところが気になります。以前は「いじめられる方も悪い」派がわりと優勢だった記憶があって、それに比べれば議論が健全になったとは言えると思うのですが、今度はちょっと逆の極端にふれすぎてる気もするのですね。

 たとえば、泥棒に入る方と入られる方では、泥棒に入る方が悪いに決まっていますが、だからと言って、みんな鍵を閉めなくていいということにはならないでしょう? 「誰も鍵を閉めなくても泥棒に入られないのが理想の社会なのだから、鍵を閉めろなんてことは絶対に言うべきじゃない」なんていう主張は、極論だと思う人が多いはずなんですよね。でも、昨今のいじめに関する議論は、それに近いものになってないでしょうか。

 もちろん、いじめる方といじめられる方では、どんな理由があるにせよ、いじめる方が「悪い」に決まっています。先生も見てみぬフリをしている同級生も、止めさせられるものなら止めさせた方がいいに決まっています。

 でも、いじめる奴が悪いとか見てみぬフリをする奴が悪いとか言ってればいじめがなくなるんなら、とっくになくなってるはずだと思うんですよ。だから、それはそれとして、やっぱり子供にもいじめと闘う最低限の方法ぐらいは身につけさせる努力をした方がよいと思うのです。結局は、それがいじめを減らす最も効果的な抑止力にもなるだろうし、自殺したりする子供を減らすことにもなるでしょう。それは、従来の家庭観からすれば、親の役割ということになるんでしょうけど。

 ここで大事なのは、「悪い」のはあくまでいじめる方であっていじめられているわが子ではない、という態度を崩さないことです。安易に「自分にも悪いところあるんじゃないの」みたいなことを言ってはいけません。人間には誰しも欠点があるものであって、それはいじめを正当化化する理由には決してならないのですから。でも、世の中に出てもそういういやな奴はたくさんいるのだから、今のうちにそういう奴らと闘う方法は覚えておいた方がいいと思うんだけど。少しがんばってみない? という感じで言うべきだと思います。

 もちろん、その後も定期的に状況の変化や子供の精神状態をモニタして、精神的にへしおれそうになっていると思えばフォローし、いじめの域をこえて犯罪みたいになっていればしかるべきところに訴えるというように、適切なアフターケアをする必要があります。

 ただ、こういうことを言われてすぐに納得するような親なら、言われる前からマトモな対処をしているはずなので、実際には、こういう主張をすることによって救われるのもごく一部の子供でしかないんですよね。そう考えると、やはり、先生とは独立した権限を持ったカウンセラーを導入するといった制度的な対策も必要ではないかと思います。

 あと、某有名人の痴漢事件があったときに、女子高生があんな短いスカートをはいているのが悪いと言って叩かれてた人がいましたけど、あれも同じような話だと思うのね。もちろん、どんな短いスカートをはいていようが、痴漢する方が「悪い」に決まってるんだけど、それはそれとして、やっぱり女子高生のスカートは短すぎるだろ、という批判はあっていいはずであってね。ぼくもよくしてる主張だけど (^^)。

 まあなんか、いろんな意味で極論の流行る世の中だな、と思います。 


(以下、mixi の投稿から転載)

いや、ぼくはわりと同感ですけど (^^)。ただ、支配・被支配の関係を基盤としている、というより、正統化されない支配・被支配の関係を作り出そうとする行為、と言った方が正しような気がしますけど。

つまり、教師は確かに生徒に対して権力を持ってますけど、この権力が、正統化された範囲で正しく行使されている分には、別にイジメにはならないわけでしょう。

授業中の私語をやめさせるとか、遅刻した生徒を叱るとかいうのは、教師の職務を遂行するために与えられた正統な権限の行使であって、その範囲を守っていればイジメにはなりませんよね。

ところが、自分の気に食わない生徒は内申書の点を悪くしてやろうみたいな教師がいると、生徒は本来必要もないのにその教師の機嫌をとらなくてはならなくなるわけで、こういうのがまさに、正統化されない支配・被支配の関係を作り出そうとする行為であり、イジメそのものだと思うのです。

生徒同士の関係でもそうで、本来生徒同士の間には正統な権力関係はないはずですよね。そこに腕力の差とか人気の差とかによって権力関係を作り出そうとするのがイジメだと思うんです。

したがって、「移動」によって関係を解消するという方法ももちろん、そういう正統化されない権力を無化する一つの方法ではあるんですが、それだけが唯一の方法ではないと思うんですね。

たとえば、「シカト」みたいな関係性攻撃が、なぜイジメの手段として機能するかといえば、イジメられる方にも相手と仲良くしたいという気持ちがあるからなんですよね。だから、そんなバカなことをするアホとは付き合う必要がない、と割り切れれば、別に無視されたって平気なはずなんですよ。

つまり、民主的な社会における権力というのは、相互承認によってのみ正統化されるわけですから、当事者の一方が承認しなければ無化できるはずなんですよね。

だから、ぼくが前から言っているのは、親とか教師とかが子供に「仲良くしなさい」と言うのをやめたらどうかということなんです。

だって、自由な社会において、個人が誰と仲良くし誰とは仲良くしないかということは、個人の自由意志で決めてよいことのはずなんですよ。それを、「仲良くしなくてはならない」という命令にしてしまうからこそ、意図的に仲良くしないことが関係性攻撃として機能してしまうわけでしょう。

もちろん、暴力とかカツアゲとかはまた別の話で、こういうのはれっきとした犯罪ですから、法律にしたがって処罰すればいいだけの話ですよね。

会社の場合でも、上司が部下を評価する権限をもつこと自体は正統ですよね。たとえ、その評価がときに間違っていたとしても、意図的なものでなければ、必ずしもそこに不当な権力があるということにはならない。

問題なのは、その評価権限を、自分の私的な権力を強化するために不当に利用するということですよね。たとえば、ゴルフに付き合わないとか引越しの手伝いに来ないとかいう理由で、考課を悪くするとか。

そういう意味で、成果主義というのは、そういう不当な裁量を紛れ込ませにくくする一つの方法ではあるけれども、それもやはり唯一の方法ではない、というように思いますね。

(ぼくは、完全な成果主義というのは、企業のリスクヘッジ機能を無化しまうのであまり意味がないと思っています。)

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「夢」ってほんとに個人のためのものなの

 いつもいい加減なことを書いている私ですが、今回書くのはいつもに増していい加減な思いつきで、細かい検証はまったくなされていません。そのつもりでお読みください。

 前にも書いたような気がするんだけど、普通、マジメに勉強していい学校に入って、というような人生プランは、堅実で実直みたいに言われるんだけど、よく考えると違うんじゃないかと思うのね。

 なぜかというと、こういう行動プランっていうのは、コストとリターンの関係が比例関係ではなくて、支払ったコストの総額を上回るリターンを得られるまでにずいぶん時間がかかるんですよね。しかも、そのリターンも必ず得られるとは限らない。

 もちろん、小学生の国語や算数みたいな勉強だったら、わりとすぐ実用になるけれども、高等数学とか哲学とかの勉強がなんらかの利益に結びつくまではすごく時間がかかるし、最終的に利益に結びつかないまま終わることも多いですよね。そういう専門知識を活用できる職業について高収入を得られるのは、一部の人だけですから。

 つまり、こういう行動プランっていうのは、腹が減ったからメシを食う、みたいな行動プランにくらべると、実はかなりハイリスク・ハイリターンなんです。

 そうするとね、単に個人の選好順序とか効用関数に人生プランをまかせていると、リスク・テイカーしかマジメに勉強しないということになるはずなんだよね (^^)。ところが、それでは社会全体にとっては困ることになるんだなあ。

 人材というのを一種の資産とみなすと、企業とか社会全体とかは、人材という資産のポートフォリオだと考えることができますね。そうすると、世の中の人材がローリスク・ローリターンの人材ばっかだと、社会的には最適なポートフォリオを組みづらくなっちゃうわけです。

 したがって、社会全体でリスクとリターンのバランスをとるためには、ハイリスク・ハイリターンの人材を一定量確保する、つまり、リスク・ヘッジャーがそういうハイリスク・ハイリターンの人材になることを選択するように仕向けるような、なんらかの仕組みが必要になってくるはずなんです。

 そう考えると、実は、高度経済成長時代の学歴信仰にも、そういう社会的な意味があったんじゃないかと思うのね。あの当時は、大学の勉強なんてムダなことばっかりだみたいな論調が多かったけど、実は、そういう無駄な勉強をたくさんやってる奴を社会的に高く評価することによって、社会全体の活力を維持していたんじゃないかという。

 また、格差社会の問題なんかにしても、負け組をなくす、という発想より、負け組でもいいじゃないか、という発想の方が正しいような気がするんです (^^)。もっと身も蓋もない言い方をすると、負け組を無理に勝ち組にするよりも、負け組を負け組のままたくさんかかえておくことの方が社会全体にとっては利益になるので、リスクの大きい人生プランをけしかけるかわりに、失敗したときのリスクは、社会全体でシェアしましょうということじゃないでしょうか (^^)。だから、なくすべきなのは負け組の存在そのものではなく、負け組差別である。 負け組がいてくれるからこそ社会が豊かになるのだから、生活保護ぐらいでガタガタ言うんじゃねえと (^^)。

 だから、ぼくがいまいちわからないのは、なんでエコノミストの人とかが完全雇用にこだわるのかということなんだよね。失業者がいっぱいいても、社会保障でセーフティネットをはればいいんだという発想の方が、社会全体としてはより最適化された状態なんじゃないかという気がするんですけど。そうすると、社会保障の水準とかも、実は、社会全体のリスク選好との兼ね合いで決めるべきなんじゃないかという気もするんですが。まあそこまで行くと与太話としてもシャレにならないので、いい加減にしときますけど (^^)。

 あと、これも前に言ったような気がするけど、成果主義とか自己責任とかをやりすぎると、個人はどんどんリスクをとらない方向に動機付けられるので、結局社会全体のリターンも縮小してしまうんですよね。もともと、社会とか企業とかは個人のリスクヘッジのためにあるわけですから。

 前にこのブログでも、一部の人の「夢」に対する行き過ぎたこだわりを揶揄したことがあったんですけど、実は、夢を大事にするという思想も、個人のためではなくて社会のための思想なんじゃないのかなあ、という気がするんですよね。もっとも、そういう思想が人類の遺伝子レベルに組み込まれているとすれば、やっぱり個人のためでもあるということになるんだけれども (^^)。

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エロコト

エロコト 2006年 11月号 [雑誌]  坂本龍一編集、「エロい女は、その存在そのものがエコである。」がキャッチフレーズの「エロコト」という雑誌をコンビニの女性誌のコーナーで発見。中を見ると、大人のオモチャの写真とかもバンバン載ってんだけど、成人雑誌コーナーじゃなくていいんだろうか (^^)。

 これからの世の中は、エロスがもっと積極的に表現されるだろうし、されるべきだ、ということは、ぼくも前から思ってたし、このブログのどっかにも書いたはずなので、問題意識としては近いかもしれない。と言っても、今さら性の解放とかタブーの消滅とかフリーセックスとかそんなことを言ってるんではなくて、あくまで表現の問題なので、お間違えのないよう (^^)。

 大雑把に言うと、伝統社会というのは、どこでどのように性を表現し、どこでどのように性行為を行うべきかというのがだいたい決まっていたと思うんだよね。それが、性の解放によって、性行為も性の表現も個人の自由ということになった。その結果、本来は異性のコミニュケーションの手段だったはずの性の表現が、性行為と切り離されて独立した商品として流通するようになり、逆に、コミニュケーションとしてのエロをいつどこでどのように表現すべきかという文化とかスキルとかが失われてしまった、というのが現状だと思うの。だから、現代という時代に合ったエロスの表現を再構築しよう、ということじゃないかな。

 表現で重要なのは TPO だから、逆に、学校や職場みたいなところでは、意味もなくお色気を出さないで欲しいんですよね。特に女子高生は、むやみと短いスカートをはくのをやめてほしい。まあ、ぼく自身はあんまり女子高生とかと遭遇しない生活をしているからいいけど、男子高校生とか高校の先生とかはかわいそうだよね。ぼくが今の時代に高校生だったら、絶対欲求不満でおかしくなって何かよからぬことをしてたと思うんだけど (^^)。

(なんか、そういうときの説教も偽善的で、自分は興味ないけどはしたないからやめなさいとか、逆に、自分は本当は見たいんだけど規則だからやめなさいとか言ったりするでしょ。そうじゃなくて、男はみんなスケベで劣情を催してしまうからやめなさい、って素直に言えばいいと思うんだよね。それが一番合理的かつ説得的な説明でしょう (^^)。)

 でも、この雑誌を作ってる人たちが、そこまで自覚的なのかどうかはよくわかんないですね。性行為を奨励してんのか、性の表現を奨励してるのかも不分明だし。単に、「ソトコト」を読むようなマジメっぽい子たちをもっとスケベにしよう、というあざとい陰謀のような気もしないでもない (^^)。

 しかし、最近の教授はドスケベさを隠さなくなりましたね (^^)。なんかこの雑誌も、自分のドスケベさを正当化するためにやってるような気もしないでもないけど。 でもマジメな話、教授みたいにスケベな人って、案外少ないんだと思うんですよね。特に男はスケベ自慢したがるから (^^)、実態がわかりずらいところあるけど。ほんと、みんながみんな教授みたいにスケベになれると思ったら、その考えは甘いと思うぞ (^^)。

 そういう意味では、エロい表現というのは、スケベでない人にもやさしくなくちゃいけないと思うのね。でないと、単なる 60 年代的なオブセッションと変わらなくなっちゃうから (^^)。そのへんにもっと自覚的であってほしいと、個人的には思います。

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ポスダック

 なんか、政治家に株価をつけるポスダックとかいうシステムがあるらしいですね。

 この記事によると、元は韓国で生まれたシステムで、日本でも導入の準備をしているらしいのですが。。。でも、この説明を読んでも、何がいいのかイマイチわからないんですよね。

 そもそも、証券市場での証券の価格って、別に投資家が恣意的に決めてるわけじゃなくて、ちゃんと理論的な適正価格というものがあるんですよね (そう思ってない人も多いみたいだけど)。株式や債券は、定期的にキャッシュフローを産み出すので、それを「現在の価値」に割り引いて合計したものが妥当な価格だということになってるし、商品先物なら、商品自体がキャッシュフローを産み出すわけじゃないけど、実際に商品と交換したときの商品自体の価格が先物の価値の裏づけになっている。為替はちょっと難しいけど、一応購買力平価とか金利平価とかが根拠になっています。

 でも、政治家は別に直接キャッシュ・フローを産み出すわけじゃないし、政治家自身をキロ何円で切り売りできるでもなし (^^)、政治家の適正価格っていったいなんなのか。しかも、これを読むと、投資に使う電子マネーは、そのサイト以外では使えないという。そうなると、なおさら、恣意的な値段しかつかないんじゃないのでしょうか。

 まあ、難しく考えず、世論調査を盛り上げるための趣向だと考えればいいのかもしれないけど、なまじこういうシステムをとると、それこそケインズの美人投票とかどっちの料理ショーとかといっしょで、投資家は無自分自身の意見よりも無難な多数意見にのっかろうとするから、かえってポピュリズムを煽りかねないと思うんですけどねえ。

 そう考えると、わざわざこういうシステムにする意味がよくわからない。まあ、toto とかといっしょで、有権者に政治に興味を持たせるという意味ぐらいはあるかもしれませんが。

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がんばれ、理想主義的平和主義者!

 最近、タカ派とハト派という分類がどうも現実をうまく現せていないと感じているので、より現実に即した分類法の試案として、こういうのを考えた。

  1. 理想主義的国家主義
  2. 現実的国家主義
  3. 現実的平和主義
  4. 理想主義的平和主義

 この 4 者、政策的には 2 と 3 が似ていて、1 と 4 は両極にあるわけだが、精神類型としては、1 と 4 はむしろよく似ていると思う。これについては、いずれ詳しく論じてみたい。

 おそらく、大多数の人は、1 や 4 にはなろうと思ってもなれなくて、2 か 3 のどちらかになるはずである。

 ただ、最近の傾向としては、1 がわりと地歩を得ているのに比べて、4 が妙に肩身の狭い状態になっているわけだが、これはややバランスを欠いているのではないかと思うのだ。

 というわけで、私としては、4 をもっと応援したい気分になっている。もっとも、実際にそういう人にあったりすると、付き合いきれないと思うことも多いし、私自身は、せいぜい 3 にしかなれないことはわかっているのだけれど (^^)。

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哀れむ差別、批判する平等

 亀田問題については、当事者に対する毀誉褒貶とは別に、時代の変化みたいなものも感じる。やくみつる氏、勝谷誠彦氏など、亀田親子の礼儀や態度を批判する向きは多いが、たとえばこれが 30 年ぐらい前だったらどうだろう。

 30 年前、つまり、ぼくらが子供の頃はまだ、公立の小学校に行くと、みょーに汚い服を着てきたり、あまりお風呂に入っていないらしく、近寄ると体臭のする子供とかがいたものである。そういう子供に対しては、(子供同士のイジメとかはあっても) 少なくともタテマエ上は、汚いとか臭いとか言ってはいけないことになっていた。

 銭湯に行けば、身体中に派手な絵の描いてある (吉田戦車流に言えば「絵人間」) 人が、ぶっきらぼうな口調でいきなり話しかけてくることもあった。そういう人には、決して口答えせず、適当に話を合わせることになっていた。道端に汚い格好で座って、通行人がお金を投げてくれるのをひたすら待っている人もいた。そういう人に対して、「道端に座ってはいけません」とかお説教する人はいなかった。もちろん、なんとか狩りなどの獲物にする子供も。

 つまり、あのころはまだ、世の中には解決しようのない矛盾というものがあるという意識を、みんなが共有していた。したがって、そのような矛盾の犠牲者と見られる人に対しては、一般人と同じ常識を適用しないという暗黙のルールがあった。

 もちろんこれは、考えようによっては立派な差別である。しかし、社会に解決しようのない大きな不平等があるという認識のもとでは、その犠牲者を平等に扱わず、区別して扱うことこそが、より正義にかなっていると多くの人が考えたのだった。

(高度成長時代は一億層中流で、今よりもっと平等だったんじゃないの、とか思っている若い人。実際は、そんな単純な話じゃなかったんですよ。あの当時は、もっと歴然と差別されている人がいて、それ以外の人に限って建前上平等、というような社会だった。さらに言えば、その平等とされている人たちの間でも、はっきりと暗黙の序列みたいなものが決まっていたのです。それがそんなによい時代だったのか、知りもしないのに単純に憧れてほしくないですね。少なくともぼくは、今のほうがずっといい時代だと思います。)

 たとえば、「あしたのジョー」だって、明らかに年上の丹下段平や白木葉子に対して「おっさんよぉ」「あんたって人は」みたいなタメ口をきいていたわけだが、それを無礼だと批判する人はいなかった。もちろん、当時だってそういう行為自体は十分無礼だったのだが、無礼だと言うこと自体が無意味だという時代状況があったわけだ。

 このような時代だったら、西成区に育ち解体業を営むというあの人に対しても、多くの人が、自分とは違う世界に住む違う人種であり、自分と同じ常識が通用しなくても当たり前と思ったのではなかろうか。また、そういう人がひょんなことで有名人になったりすることがあっても、周囲の大人たちが緩衝地帯になって、そういう常識の違いによるボロが出ないようにしたであろう。 当時の有名人で、死後になってさまざまな奇行が判明した人も数多い。

 ひるがえって現代では、あのようなおっさんに対しても、多くの人が自分と同じ土俵に立っていると考えて批判しているわけである。これはある意味、世の中の人はみな同じルールの下で平等である、という意識の現れであるから、基本的には社会の進歩と言ってよいのだろうと思う。

 ただ、一つだけ気になるのは、本当に現代の日本社会は、それほど平等になっているのだろうかということ。解決しようのない社会の歪み、差別、不平等、みたいなものは、本当に無視できるほど小さくなったのか。

 たとえば、ぼくは自分が別に不幸だとは思っていないが、大企業やアカデミズムの世界に対するコンプレックスや僻みというものはいまだにあって、学者さんとかの非現実的な発言にムカつくことがある。終身雇用は日本が世界に誇るセーフティネットだ? じょーだんじゃねえ! そんなのは大企業だけに通用する話。中小企業でいくら終身雇用を標榜したって、会社自体がいつ潰れるかわかんねぇんだから意味ねえんだよ! そんなことすらわからずに、利いた風な口叩くんじゃねーよ、タコ! みたいな (^^)。

 ぼくは、詳しい事情がわからないから確たることは言えないのだが、あの親子やあの業界を批判する際にも、ひょっとしてそれと同じことをしてやしないだろうか、という想像力だけは持っておきたいと思うのである。

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バーチャルとリアルの区別がつかないオトナたち

 若者の犯した犯罪や大人から見て「おかしな」行為に対して、バーチャルがどうこう言って切り捨てるのは、もはや思考停止の常套句にすぎなくなってきていますが、それにしてもこれはひどすぎるだろうという例を発見。

少年少女の放火事件 なぜ急増なのか

ストレスケア日比谷クリニック院長で精神科医の酒井和夫氏の見立てはこうだ。

「ムシャクシャしている少年は今も昔もいます。ただ、ひと昔前は暴力に走りがちだった。他人を殴るというのは、相手が目の前にいる現実的な行為です。とっさに殴ったとしても、責任の所在が自分にあることもはっきりしている。気力も必要です。最近は現実感に乏しい無責任で無気力な若者が増え、暴力には走れなくなった。一方、放火は、被害者が出るにしても直接的に手を下すわけではないから、無責任でいられる。『後は野となれ』のバーチャルな犯罪というわけで、一線を越えやすいのです」

 そもそも、バーチャルがリアルと違うのは、感覚的にはリアルと同じぐらい現実的に感じられるのに、実際に起こる結果は、現実世界の因果律に必ずしも従っていないということでしょ。だから、バーチャル世界になれた人間は、現実世界で行うと重大な結果を招きかねない行為でも平気で行ってしまう危険があると言われる。まあ、この説明だって、まだ仮説段階にすぎないと思うんだけど、一応説得力のある仮説だと言ってもよいでしょう。

 でも、放火の場合、放火という行為がある種のストレス発散になるのは、放火の結果誰かの生命・財産が失われる可能性があるという因果律を、放火犯が認識しているからこそでしょう? だから、ぜんぜんバーチャル的でもなんでもないと思うんですけど。 それとも、彼らは単に「あー、燃えてるー、きれいー」みたいなことしか考えてないとでも言うのかな (^^)。

 放火が暴力よりハードルが低いのだって、放火は誰も見てないところでやり逃げできるけど、目も前にいる他人を殴れば殴り返されたりする可能性が高いという因果律を意識しているからじゃないですか? だとすれば、そういう人は、単に感情にまかせて後先考えずに暴力を働く人よりも、むしろ、計算高いリアリストであるとも言えると思うんですが。

 こんなのがバーチャルと言えるんだったら、結局、人間は古事記・日本書紀のころからバーチャルだった、みたいなクソの役にもたたない結論になるだけじゃないのかなあ。

 とにかく、こういうとってつけたようなてきとーな解説をしようとするの、いい加減やめたらと思うんですけどね。まあでも、憎まれっ子世にはばかる、浜の真砂は尽きるとも、世にこういう安直コメンテータの種はつきまじ、なんだよなあ。それこそ現実法則そのものですからね (^^)。 そういう意味では、このコメンテータも記事を書いた人も、放火をして喜んでるようなワカモノよりは、はるかにリアリストなのには違いないんでしょうね (^^)。

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人が人を評価するということ

 ぼくは滅多にそういう場所には行かないのだが、先日珍しくもある翻訳業界団体の研究会に出席した。そのときの講師がけっこう辛口の人で、「こんな翻訳者はウチにはいらない」みたいなことをバシバシ言うものだから、いっしょに言った若手の翻訳者の方々は、かなり気分を害していたようであった。

 もっとも、ぼくぐらいの歳になると、どんな「偉い人」の言う事でもやや斜めから聞いているので、「あ、そう。あなたはそういう考え方なのね。それはそれでいいんじゃないの」ぐらいにしか思わないのだが (^^)、自分だって、二十代で翻訳者志望で業界の「偉い人」からあんなこと言われたら、やっぱりかなり傷ついていたのだろうと思う。そこで、その人の言っていたことの是非について、ちょっとコメントしておきたい。

 たとえば、その人は、履歴書の趣味の欄に「アロマセラピー」とか「ワイン」とか書いている人はだいたいダメ、みたいなことを言っていて、これは偏見といえば偏見そのものである。しかし、そういう偏見は一切排除すべきなのか、というと、ぼくは必ずしもそうは思わないのである。なぜかというと、そこには、人が人を評価するということの本質的な困難があるからだ。

 もちろん、理想を言えば、人を評価するときには、あらゆる偏見を排除することが望ましい。しかし、現実的には、人を正確に評価しようとすればするほど、時間とコストがかかる。特に、ビジネスの現場では、その正確さとコストの間にはトレードオフの関係があるので、ほどほどの正確さで妥協することの方が、むしろ合理的なことが多いのである。

 世の中、その手の常識的な評価というのはいろいろあって、たとえば、服装がだらしない人は使えないとか、机の上が汚い人は仕事ができないとか、いろんなことが言われる。そしてその多くは、おそらく、統計的にはある程度正しいのである。

 もちろん、統計的には正しいということは、例外もあるということだ。しかし、現実問題としては、個別の例をいちいち検証して、例外かどうかを見極めるなどという作業は、コスト的に割があわないことが多いのである。

 もちろん、このような考え方は、差別につながる可能性もあるので、注意深く適用しなくてはならない。特に、女性は○○だとか、なんとか人種は○○だとかいうデータは、たとえ統計的な根拠があったとしても差別につながるので、注意深く利用しなくてはならない。

 しかし、だからといって、常にあらゆる予断を排除して、個々人の真の姿を正確に見極めるなどということは、実は、人間に可能なことではないのである。

 ぼくはけっこう原理主義者的なところがあるので、若い頃は、差別や偏見を絶対にしないようにと思いながら行動していた。しかし、実際に同じようなことをやってみた人ならわかるはずだが、こういう行動は、実はけっこういろんなトラブルを引き起こすのである。

 もちろん、ぼくは自分の責任の範囲でやっていたから、そういうトラブルの結果も自分で引き受ければいいと思っていたので別に平気だった。しかし、組織のために働いている人がそういうトラブルを被れば、自分だけの問題ではすまないのだから、そういうリスクを回避したいと考えるのは、ある意味当然と言える。

 というような前提を受け入れたとすると、残る選択肢は二つしかない。自分はあらゆる人を公平に評価しますよと口ではいいながら、実はご都合主義でそ知らぬふりをして偏見を交えた評価をするか、それとも、自分の評価能力には限界があることを認めた上で偏見を交えた評価をし、その評価に対する責任を引き受けるかである。そしてぼくは、後者の方が人間として誠実な態度だと思うのだ。

 そういう意味では、その講師はそういう見方があくまで自分だけの見方であるということを明言していたので、ぼく的にはそんなに悪印象を持たなかったのだった (別に、某団体をヨイショしているわけではない。というか、実は普段は悪口ばっかり言っていたりする (^^))。私の経験から言えば、むしろ、自分は人を見る目があって絶対に評価を間違えない、とか思っている奴の方がはるかにタチが悪いことが多いと思う。もっとも、その人といっしょに働きたいともあまり思わなかったけれど (^^)。まあ、ああいう人と働くのがイヤなら、また別のビジネスチャンスを探せばいいじゃん、という感じである。 それこそがリベラルな社会のよさなのだから。

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動物化する 19 世紀

芸術をかりに二流の理性に高めたところで、その戦果はしれたものであり、所詮は理性そのものの営みである学問の地位を脅かすことはできない。自尊心の強い芸術家が安直に誇りを満足させようとすれば、自分を感性の側に置いて、積極的に理性に対する反逆の旗を挙げたくなるのは当然だといえるだろう。しかも、この欲望は時代の個人主義的な風潮に裏打ちされ、実際の芸術活動のなかで一種のイデオロギー的な力を持つことになった。理性は普遍的なものであって社会の日常生活を支配しているが、感性は個性的なものであって、通俗の日常生活に反逆する拠り所になると信じられた。その際、芸術至上主義者は、感性もまた生理現象として普遍的なものであり、感性的な熱狂はかえって個性を動物的な一般性のなかに埋没させてしまうかもしれない、ということを忘れていたのである。

(「人生としての芸術」山崎正和) 読み返していてなんとなくメモ。

 英会話の先生の話だと、インド英語は、他の国のネイティブにとっても聞き取りづらいらしいですね。concentrate する必要があるって言ってました。最近は、インドからオーストラリアにテレマーケティングの電話がかかってくることもあるそうです。日本で言えば、東京に東北弁や九州弁のセールスの電話がくるようなもんですよね。

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盗作とは、価値の問題なのだ

 以前にも、なっちやオレンジレンジの盗作問題についてコメントしたことがありましたが、和田義彦氏の盗作騒ぎをきっかけに、改めてこの問題について考えてみました。

 もちろんぼくは、ちょっとでも似てたらすべてダメとか、逆に、芸術はすべて模倣だとかいう極論に組するものではありません。私の感覚からすれば、どう見ても、なっちや和田義彦はアウトだと思うし、オレンジレンジはセーフだと思うんです。ただ、なぜ自分がそう感じるかということを、少し分析的に考えみたら、一つ気がついたことがあります。

 それは、盗作問題というのは、似てるかどうかとか、オリジナリティがあるかどうかという観点で論じられがちなのですが、実は価値の問題なのではないかということです。

 考えてみればわかりますが、過去の事例から見ても、盗作が一番問題になるのは、

  1. あまり有名でない作品を
  2. 売れているアーティストがパクって
  3. 思いっきり売れてしまう

というケースです。

 なぜこれが、多くの人から見てズルいと感じられるかと言うと、もとも 90 の価値があるものを盗ってきて、10 だけ価値を付け加えて、100 以上の利益を得てしまう、というようなことをしているからでしょう。しかも、このような場合、オリジナルの作者は、その 90 の利益さえ得ていないように見えてしまう。

 逆に、売れてない作品を、売れていないアーティストがパクって、やっぱり売れなかった、というようなケースは、たとえ明々白々なパクリであっても、たいして問題にもならなかったりする。それは、もともとの価値が 10 ぐらいしかなさそうな作品だから、その上に積み重ねた価値が 10 しかないとしても、たいしてズルいことをしているようには感じられないからでしょう。

 それでは、売れている作品を、売れているアーティストがパクって、やっぱり売れたという場合は? というと、そういうのはパクってもすぐバレてしまうから、最初からオマージュとかカバーとかいう形式でやることが多いわけですね。この場合、利益もシェアする約束になっていることが多いので、やっぱりあまり問題にならない。

 つまり、盗作が悪質だと見なされるかどうかというのは、必ずしも、パクった側が積み重ねたプラス・アルファが多いか少ないかというだけの問題ではなく、盗作元の土台となる価値が多いか少ないかというのも、無視できない重要なファクターだということです。もともと、著作権というのは、価値のある表現を死蔵させず、社会で共有するためのインセンティブであると考えられますから、ある意味当然ですけどね。

 この説が正しいとすれば、たとえば、もともと 100 の価値のある作品をパクっても、さらに 100 ぐらいの価値を付け加えていれば、たぶん、それほど悪い印象はないんじゃないかと思うんですけど(^^)。

 ただ、それを客観的に判定するのは現実的には難しいので、極端なケースだけが訴訟になり、グレーゾーンの場合には、あいつなんかパクリっぽいのが多いよね~、みたいな世間的評価に任される、ということになるのでしょう。これはある程度やむ終えないことのような気がするんですよね。

 先の例にしても、もともと 90 の価値があったのに、不当に売れなかったのか、それとも、もともと 10 の価値しかなかったものに、90 の価値を付け加えたのかということが、簡単に判定できる方が珍しいぐらいで。そういう意味では、なっちや和田義彦の例は、かなり珍しい例ですよね~(^^)。

 もっと根源的なことを言うと、そもそも、オリジナリティとか差異とかっていう概念自体が、なんらかの価値観の産物なんですよね。そういう意味で、価値と無関係なオリジナリティなんてない。もちろん、それが値段と一致するとは限らないですよ。でも、「私にとっては、この絵はかけがえのない絵なんです」みたいなことを言われたからって、どんな作品にもオリジナリティを認めちゃったら収拾がつかなくなってしまう。したがって、それが値段に換算されるかどうかは別にして、なんらかの共通の価値観による評価というものを模索せざるおえないわけで。

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批判と規制

 「サイゾー」の 5 月号を買ったら、「ニートって言うな!」のお二人と M2 の対談が載ってまして、興味深く拝見したんですけど、なんか違和感があるんですね。まあ、ぼくは「ニートって言うな!」自体読んでないし(^^)、お二人の言う最近の若者バッシングの実態とかもよく知らないんで、的外れな認識かも知れないんですが。

 その違和感と言うのは、必ずしも若者批判問題だけじゃなくて、成人マンガやゲームの問題とか、いろんな問題にも共通するんですが、要するに、「批判」と「規制」や「差別」の関係をどう考えるかということなのね。

 お二方の発言を読むと、若者批判が高まる -> 若者に対する規制や差別が生まれる -> リベラルでない社会になる、みたいな因果関係が必然的なものととらえていて、だから、若者批判はよくない、というふうに考えているようなんですが、ぼくは、こういう捉え方だと、かえってリベラリズムの可能性を狭めてしまうんじゃないかという気がしてならないんです。

 そもそも、民主主義というのは、「言論の自由」という概念が柱あることでもわかるように、言論によって互いの価値観に影響を与え合う、ということ自体は、否定するどころか、むしろ奨励していたはずでしょう。この言論による価値観・世界観の変更可能性を否定すれば、後は、既存の価値観を前提とした上で、罰やインセンティブを与えることしか、世の中を制御したり変革したりする方法はなくなってしまうじゃないですか。そうなれば、民主主義社会の可能性というのはかえってやせ細ってしまうんじゃないでしょうか。だから、ぼくが思うに、批判は遠慮なくするけど、規制や差別はできるだけしない、というのが民主主義社会の理想だと思うんですよ。

 もちろん、日本のように「和」を尊ぶとか言われる社会だと、言葉による批判だけでも深刻な対立関係を引き起こして、実質的には差別状態を生み出すようなこともあったでしょう。だから、批判自体を抑制すべきだという考えもでてきたんでしょうけど、もうそんな時代じゃないし、そんな時代をいつまでも引きずるべきではないと思います。

 むしろ、規制や差別をできるだけ少なくしようとするなら、なおのことぼくらはもっと相互批判を積極的にすべきじゃないでしょうか。「若いのにブラブラしてるヤツは好きじゃない」とか「最近の成人マンガの鬼畜さには不健全なものを感じる」とか「いくらなんでも小学生のジュニアアイドルはねえだろう」みたいな批判は、それが統計的に犯罪と相関関係があろうがなかろうが、あっていいと思うんです。 だって、本当にそれが自分の価値観なんだから。

(思いっきり屁理屈に聞こえるかも知れないけど、そういうことを言い出すと、右翼的言説の流行と防衛費には有意な相関は証明されていないから右翼的言説を批判すべきでない、みたいなことだって言えちゃうんだからね(^^))

 そういう批判をしない人は、若いのに親の金でブラブラしてるヤツとか、鬼畜なマンガばっかり読んでいるヤツとか、小学生の水着写真集とか平気で出しちゃうヤツとか、本当に心の底から好きになれますか? 積極的にお友だちになりたいと思いますか?(もちろん、そういう人もいるかもしれないけど)違うんでしょう? だったら、なぜ他人の価値観にばかり気を使って、自分のそういう価値観をもっと素直に主張しないのでしょう。

 もちろん、そうやって相手の価値観を聞いているうちに、自分の価値観の方が変化して、「ソレもありだな」と思うかもしれません。ぼくは、それこそが本当な「多様な価値観に対する寛容」だと思うんですよ。でも、実際には、「多様性にたいする寛容」という一見耳障りのよいフレーズは、そういう言論による価値観のぶつけ合いによる相互理解からの逃げにしかなっていないことが多いんじゃないでしょうか。また、そういうフレーズで批判を封じ込めれば、不満を持つ人はますます罰やインセンティブを支持するしかなくなるんだから、なおさら世の中を保守化させる危険だってあるだろうし。

 ぼくはよく思うんですけど、民主主義社会においては、制度として正しいことと、個人として正しいことは、多くの場合逆なんです。国家は個人の内面に干渉すべきではない。しかし、個人同士が相手の人権を侵害しない範囲で内面に干渉し合うのは別に勝手 (むしろ、そういう個人同士の干渉が権力関係になるのを防ぐために国家がある)。制度設計は個人の倫理観に依存しないほどよいが、個人の倫理観は制度に左右されないほどよい、とかね。 だから、国家としてどうすべきか、ということと、個人としてどうすべきか、ということを区別して論じないと、必ずいろんな矛盾が生じるんですよ。

 だから、ぼくは「ニートって言うな!」って聞くと、「別に言うのは勝手だろ」とか思っちゃうんですよね(^^)。もちろん、そういう批判の中には、的外れなものあるでしょうから、そういうものに対してはどんどん逆批判していけばいいし、安易な規制や差別には断固反対ですけど。たかが言葉の批判に対して、ちょっと過敏に反応しすぎじゃないか、という気がするんですよね(^^)。はずしてたらゴメンなさい(^^)。

(関係ないけど、「女子アナマトリックス」とかいうのが出ててさあ、「アイドル性」と「知性」が同じ座標軸のプラマイ逆方向になってるんだけど、これだと、「アイドル性」があってなおかつ「知性」がある女子アナはいないことになっちゃうよねえ。いいのかなあ(^^)。) 

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メイドの意味

 つまんないことだけど、「メイドカフェに行くと、メイドさんがサービスしてくれる」みたいな台詞を聞くと、なんか違和感ないですか。だって、「メイド」っていうのは職業名でしょう? カフェで給仕する職業の名前はメイドじゃなくてウエイトレスとかなんだから、あくまで、「メイドの格好をしたウェイトレスがサービスしてくれる」と言うべきなんじゃないのかなあ(^^)?  メイドヘアサロンとかメイドエステとかも、よく考えると矛盾した言葉ですよね(^^)。

 この用法からすると、もはや、メイドという日本語は、職業じゃなくてコスチュームを指す言葉になっちゃってるってことですよね。きっと、日本ではこの用法がこのまま定着しちゃうんでしょうねえ(^^)。ま、いいですけど。

 ぼく自身はメイドフェチってあんまわかんないんで(^^)、たぶん世代的なもんじゃないかと思ってたんだけど、さっき「スタメン」見てたら、けっこう歳の近そうな人も来てましたね(^^)。気のせいかもしれないけど、なんか、メイドとかジュニアアイドルとか、方向性が片寄ってないですか。これでほんとうに革命が起こるのかどうか、本田透さんに聞いてみたい(^^)。

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宗教からよむ「アメリカ」

宗教からよむ「アメリカ」  森孝一氏の「宗教からよむ「アメリカ」」、ずっと積ん読だったけど、やっと読めました。よい本です。

 この本は、題名が示すとおり、アメリカの宗教について論じた本で、「アメリカの見えない国教」という概念を軸にして、アメリカの宗教を読み解くという構成になっています。そのため、モルモン教やアーミッシュから福音派や原理主義までさまざまな教派が出てきますが、単なる教派のカタログ的な説明に堕することなく、アメリカ全体の宗教的構造のようなものを描き出すことに成功しています。

 アメリカのことをよく知らない私達日本人が抱く素朴な疑問、たとえば、

  • アメリカは政教分離の国なのに、なぜキリスト教の影響力が強いのか
  • アメリカは自由を標榜する国なのに、なぜ他の国に対してはあんなにおせっかいなのか
  • アメリカは高度な科学力を持つ文明国なのに、なぜ進化論を教えるかどうかでもめたりするのか
  • アメリカは民主主義の先進国のはずなのに、なぜあんな○○っぽい人が大統領になれるのか

に対する答えは、半分ぐらいこの本に書いてあると言っても過言ではありません。 特に、第 3 章の「アメリカのファンダメンタリズム」は、9.11 以降のアメリカを読み解くためには必読といえるでしょう。

 この本を読むと、帝国とか覇権国家とか言って揶揄されるアメリカを動かしているのも、当たり前ですが、夢もあれば悩みもある普通の人々であることがよくわかります。 池内恵氏の「現代アラブの社会思想」が、イスラム原理主義者が実はそれほど素朴な人たちではないということを書いた本だとするなら、この本は、覇権国家アメリカの市民も、実は結構素朴な人たちであるということを書いた本だと言ってもよいかもしれません。

 もちろん、だからと言って、(宗教がテロリズムを免罪しないのと同じように)彼らの罪が免罪されるわけではないでしょう。しかし、彼らを批判するにしても、少なくともこの本に書いてあるぐらいのことを知った上で批判しなければ、その批判の矢が、彼らの心の底まで届くことはないでしょう。そういう意味で、対話による問題解決を信じる人なら、なおのこと、この本の内容ぐらいはおさえておくべきだと思います。

 なお、この本の初版は 1996 年ですが、著者が 2003 年に出した「「ジョージ・ブッシュ」のアタマの中身―アメリカ「超保守派」の世界観」では、この本の問題意識を敷衍して現ブッシュ政権を論じています。題名も装丁も軽薄な本ですが、他のブッシュ本とは一味違う出来になっていて、こちらもお勧めです。

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まだやってたの?

 また未公開株のうんちゃらかんちゃらの電話が。しょうがないので、相槌もなにも入れずに、必要最小限の返事だけしていたら、勝手に説明だけしてすぐ切ったけど(^^)。まーだやってたのか、そんなこと。

 っていうか、そんなに美味しい話なら、なぜわざわざオレのところへなぞ電話してくるのだ。絶対確実に儲かるんだったら、借金してでもいいから自分でありったけ買ってみろよ。

 こういう奴にどうして○○の○○○○が○○○○○○と訊ねて見ると、○○○○○○で○○しましたとか言われるんだよねー。だから、○○○○○○に○○○○を○○するのは○なんだよ。まあ、お金があって秘書とか雇える人だったらいいのかもしれないけど、ぼくみたいな零細個人事業者にとっては、その程度のことでも、結構馬鹿にならない損害なのだ。

 そんなこともあって、前にも書いたように、この○○○○○○は決して○○じゃないんだけど、簡単には○○○○が○○○○○ようになっているのである。いや、実は簡単なんですけどね(^^)。

(○○についても、だんだん考えがまとまってきたので、そのうちきっちりと「責任をもって」論じましょう! お、大きく出たな。)

 めんどくさいので改めて書いておくが、自慢じゃないがウチには余ってる金なぞなぁい! いくらあいてぃーかんけーの仕事してよーが海外と取引してよーが意外とふぁいなんすに詳しかったりしよーが、零細は零細なのだ! それどころか、ウン十万円の売掛金が焦げ付いてぴーぴー言っているのだ。わかったか!  

追伸:なんとかメキシコ戦には勝ちましたね。次は韓国か。韓国強いからなあ。心配だなあ。

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エリートの壁

 人間が本当に他人の立場を理解するということが、口で言うほど簡単ではないのはわかっているが、日本のエリート階層やエスタブリッシュメント階層の人々の、庶民の気持ちに対する鈍感さには、ときどき殺意に近いものを感じるときがある。まあ、ぼくは夜間大学を 7 年もかかって通いながら、中小企業ばかりを渡り歩いてきた人間だから、ヒガミも混じっているとは思うが、少しはこういうことを言う資格があると思う。

 彼らが「友情というのは、お互いが切磋琢磨し尊敬しあえるような関係だと思う」みたいなことを言ってるのを聞いても、機嫌のいいときには聞き流せるが、機嫌の悪いときにはほとんど殴りたくなることがある。あのさあ、あんたらは、周囲にいる人だってみんな優秀な人間だから、そんな暢気なことを言ってられるんですよ。あなた、新入社員のほとんどが高卒かせいぜい専門学校卒みたいな会社に勤めている人の世界がどんな世界かわかりますか。そこで働いている人のほとんどは、著しく能力に欠けるか、能力はあっても性格が著しくゆがんでいるかのどちらかで、この両方を兼ね備えた人だって決して珍しくない。

 そういう世界では、自分の尊敬できる人だけと付き合いたいと思っても、そういう人が(哀れんでくれることはあっても)本気で自分の方を振り向いてくれることは決してない。振り向いてくれるのは、能力がないか、性格が歪んでいるか、なんかしら著しい欠点のある人ばかりだ。それでも辛抱強く関係をきらずに付き合っていくというのが、庶民の友情というものなのだ。

 彼らが「自分は決してずるいことはしない。他の人もそうすればいいのに」みたいなことを言うのを聞くと、「パンがないならクロワッサンを食べればいいのに」と言ったマリー・アントワネットかと思うことがある。だいたい、金も能力も社会的ステータスもある奴がずるいことをしないなんてのは当たり前なのだ。悪意のある奴に騙されたり、悪意はなくても無能な奴に足を引っ張られたり、みたいなことが日常茶飯事の世界で、エリートたちと正面から正々堂々と競争して勝てるはずなどない。しかたなく、エリートの目の届かないところでやっと切り開いたささやかなマーケットすら、後からやってきたエリートに「正々堂々と」奪われたりする。

 高度成長期の日本が一億層中流社会だったなんてのも、半分はウソだ。確かに、収入には大きな差はなかったかも知れないが、大卒と高卒以下、一流大卒と二流三流大卒では、社会的ステータスなどにことごとく差があったことは、山田太一氏の「不揃いのリンゴたち」などを見ればわかる。いくら収入に差がなくったって、平準化された価値観の中では、他人や異性の尊敬を得る立場の者は常に決まっており、かと言って、金以外の自分だけの価値観の世界に逃げ込むこともできず、誰もがラットレースを強制される。そんな世界がそんなによかったか?

 なぜ一番わりを食ってるはずの低所得層の若者が、市場原理主義・新自由主義の小泉政権を支持するのか、不思議でしょうがないとか言っている方々に教えてあげよう。彼らは、あなた方の考えるうす甘い妄想の世界が、決して自分達のためのユートピアではなく、やっぱりエリートのための世界でしかないということに、本能的に勘付いているのだ。

 …すんません。今日はかなり虫の居所が悪いようです(^^)。でも、まったくデタラメを書いてるわけでもないんですよ。エリート街道まっしぐらで、なおかつ、自分は弱者にやさしいいい人だと思い込んでる人、あなたは本当にその「弱者」が何を望み何を悩んで生きているか、わかっていますか?

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伝統の在り処

 昨夜の朝生は「激論!天皇」で、要するに、先月ライブドア事件でふっとんでしまった女帝・女系天皇論をやったわけですが、あんまり面白くなかったですね。まあ、(何度か書いたように)ぼく自身が天皇制に別に執着がないという理由もあると思いますけど、保守派の方々の伝統というものの捉え方にも問題があるような気がします。つまり、彼らが天皇制の存在理由を示すのに、とにかく伝統だから、という以上の理由をほとんど示せていないのね。だから、結局思考停止状態になってしまって、それ以上議論が深まりようがない。

 宮崎哲弥さんは、「理由を問えないから正統性 (legitimacy) なんだ」、とおっしゃっていましたけど、それは、政治権力の話でしょう? 政治権力の場合には、正統性に疑いが生じると権力闘争の原因になるから、権力闘争を防ぐためには、正統性に疑義が生じない決定方法がよいのだ、というのはよく言われることですよね。でも、現代の日本の象徴天皇制には、(少なくともタテマエ上は(^^))政治権力はないことになっているはず。

 たとえば、スポーツのルールなんかでも、なんでそういうルールなのかと言われても、そう決まっているからだ、としか答えようがない、というのも一面の真実です。でも、もう少し深く考えると、そういうルールにした方が、選手や観客がよりゲームを楽しめるから、という隠れた理由があるはずなんですよね。それは、身体化された暗黙知のようなもので、必ずしも論理的には語れないのだけれども、理由がないわけじゃない。むしろ、その理由は、選手や観客の心の中に隠れている、と言うべきでしょう。

 同じように、なぜ天皇制が必要か、それがどういう形でなければならないか、という理由は、天皇制を支持する保守派の心の中にこそ隠れているはずだと思うんですよ。彼らには、それこそを語ってほしかった。

 いや、天皇制に限らず、伝統の存在価値というのは、みなそういうものだと思うんですよね。単に、知識としてそれが伝統だから、というだけではなくて、それが自分の内部にある身体性や暗黙知と結びついたときに、初めて意味のあるものとなる。

 たとえば、子供の頃に海外で親と生き別れになって、外国人に育てられた日本人の子がいたとしましょう。その子が大人になって、自分が日本人だと教えられても、そのままでは単なる知識でしかないでしょう。でも、その子が生まれて初めて味噌汁を飲んで、それが自分にぴったりの味だと感じたとすれば、その味噌汁はその子のアイデンティティの基盤を構成する伝統としての意味を持ってくるかもしれない。

 逆に、いくら和食が日本の伝統だからと言っても、自分は日本人だから味噌汁を飲むべきだ、みたいに観念的に思い込んで、嫌いな味噌汁を無理して飲んだってしょうがないでしょう。だったら、もし学説が変わって、日本人は昔はパンを食べていたということになったら、お前はその日からパンを食い出すのか? それだったら、西洋かぶれでパンを食ってる奴の行動パターンとなんら変わらないじゃないか、ということになっちゃうわけ。

(もっとも、「伝統=物語」派にとっては、みんなが信じられる物語があればよいので、その物語の内容などなんでもよい、ということなのかも知れない。でもそれだと、歴史教育を操作して、日本人はアングロサクソンの子孫だった、ということに無理矢理してしまって、アングロサクソン文化万歳みたいな主張をしてもいいということになりますよね。「伝統=物語」派の方は、教育のためなら歴史を捻じ曲げても良いと思っていらっしゃるようだから。(^^))

 だから、天皇制についても、保守派の方々が揃いも揃って頭でっかちの変な理屈ばかりこねてるのは、失礼ながら、保守派の方々の精神の衰弱を示しているようにしか思えないのね。たとえば、Y 染色体が重要だとおっしゃる方は、知識ではなく、自分の実感として、天皇家の Y 染色体を持っている人と持っていない人の区別がつくのか。そういう人の前に立つと、自然と尊敬の念が沸き起こってくるが、そうでない人の前にたっても何も感じない、みたいなことがあるのか。それこそを語るべきでしょう。

 そういう内発的な理由が語られないから、とにかく天皇家を存続させること自体が自己目的化したような議論になってしまう。でも、それは、博物館のガラスケースの中の保存された遺跡のようなもので、もはや、同時代の生きた文化としては死んだも同然かも知れないでしょう。そこまでしなければ保存できないような文化を無理に生きながらえさせるために、多くの人の人権を踏みにじったりする必然性があるのでしょうか。

 結局、多くの日本人の間に、天皇の存在理由についての合意が自然と生まれるような状況でなければ、天皇制を存続させる意味などないのです。だから、保守派の方々は、くだらない技術論などやめて、あなた自身の内側に身体化された天皇の存在理由をこそ語るべきだと思います。そうすれば、天皇制の進むべき道も、おのずから見えてくるのではないでしょうか。

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お金で買えないものは確かにある。が…

 (この一文は、食事中には読まないほうがよいかもしれません(^^))

 何度か書きましたが、私は、「お金で買えるもの」と「お金で買えないもの」のどっちが大切だというのではなく、人間にとっては両方が必要であり、大事なのは、この両者の線引きだ、と思っています。

 この問題については、金儲けに淫して、必要以上にお金を稼ぐ人を例にして考えられることが多いのですが、そういう人は社会のごく一部であり、そこだけ見ていては、かえって問題の本質を見失ってしまうと思います。

 たとえば、ゴミの収集とか、公衆トイレの掃除とかを職業にしている方を考えてみましょう。ちょっと差別的に聞こえるかもしれませんが、ぼくは、彼らが、そういう仕事が本当に好きでやっているとは、あまり思えないんですね。

 もちろん、やる以上はそれなりに仕事を楽しんでやっている方もたくさんいらっしゃるでしょう。でも、「分別していないゴミから手で汚物を掻き分るのが好きで好きでしょうがない」とか、「便器の壁にこびりついたウ○コをきれいにこそぎ落とせたときの快感がたまらない」みたいな人が、そんなにたくさんいるとは、ぼくにはどうしても思えないのです。

 これはあくまで想像ですけど、彼らが仕事自体に生き甲斐を感じるとすれば、それは、仕事自体の内容が好きというよりも、あくまで、それが社会に役立っていると思うからこそではないでしょうか。だとすれば、ぼくは、そういう想いというのは、「自分の好きなことができればお金なんか要らない」みたいな太平楽なことをほざいてる奴の想いより、ずっとずっと尊いと思うのです。そして、そういう「社会にとって役に立っている」という感覚が、単なる自己満足に終わらないことを担保しているのは、やっぱりお金なんですね。あるいは、家族の生活を支え、何かを買ってあげて喜ぶ顔を見たいとか、自分の趣味にお金を投じたいというのが、主な理由だったりするかもしれません。それを担保しているのだって、やっぱりお金なのです。

 矛盾するように聞こえるかもしれませんが、ぼく自身は、どっちかというと、「自分のやりたくないことをやるぐらいなら、お金なんかいらない」と考えがちな人間で、また、自由な社会の人間には、そういう生き方をする権利もあると思っていますが、少なくとも、それが偉いことだとはまったく思っていないのです。だって、それは自分のためなんだもん。

(ついでに言えば、こういう生き方が成立するのも、世の中に、必要以上に働いてお金を沢山稼ぐ人が存在してくれるからだということも、ちゃんとわきまえてるつもり。だから、総中流社会には反対しているのです。もっと、欲張りな、もとい、勤勉な人が沢山いてくれないと、私は困るのだ(^^)。)

 やはり、働くということの原型は、人のために役に立つことをして、お金をもらうというところにあり、本当に好きだの適性だの自分探しだのというのは、余裕のある社会に暮らし、能力に余裕のある人だからこそ言える、一種のぜいたくだと思うのですね。(そういうことは、趣味でもできるのですからね)

 要するに、金を儲けすぎてかえって生き甲斐を見失っている人も、金を儲けるだけなら簡単だから本当にやりたいことだけをやりたいとか思っている人も、社会全体から見れば恵まれた人なんであって、そのどっちの選択肢もない人だってたくさんいるんだ、ということを忘れてほしくないのです。

 最近の風潮は、拝金主義だの何だの言われていますが、ぼくらの若い頃は、むしろ、「お金では買えないもの」が過度に持ち上げられた傾向があるので、その反動として、ある程度必要なことだったのではないかと今でも思っています。まあ、多少の行き過ぎはあるのかも知れないけど、そういうのは、何についてもあることですしね。

 最近ではまた、逆の反動が起こって「お金では買えないもの」ということが言われ出しているようで、それはそれで間違ってはいませんが、少なくとも、「お金では買えないもの」を過度に美化したり、「お金で買えるもの」を過度に貶めたりすべきではないと思うのです。やっぱり、社会にとっては、「お金で買えるもの」も「お金で買えないもの」もどっちも必要なのですから。

 もっと話そうよ 目前の明日の事も (「光」宇多田ヒカル)

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男性心理

 例の一夫多妻男の読んでいた催眠術の本について。

容疑者の催眠術をマネするためか、ネット書籍大手「アマゾン」で出品されていた同書の古本6冊は、あっという間に売り切れ。都内の精神世界を専門に扱う古書店でも「あの事件以来、催眠術関係の本が全部売れてしまい、在庫がない状態」と、早くもナンパ師が動き始めている状況だ(ZAKZAK より)。

あはははは。ばっかだなあ (^^)。でも、残念ながら、その気持ちはまったくわからないでもないぞ (^^)。くれぐれも、悪用しないでね (^^)。

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女帝論と左翼の関係

 松尾匡先生が、「反天皇制側の女帝反対論者は改憲案を出せ」とおっしゃっています。つまり、左翼が天皇制を存続させたくないがために女帝論に反対するのは本末転倒だ、というご意見。たしかに、「サイゾー」でも宮台氏が冗談めかして似たようなことを言ってましたよね。まあ、宮台氏は左翼ではないらしいですが (^^)。

 まあ、ぼくは自分が左翼かどうかもよく知らないし、どっちに分類されようが知ったこっちゃないと思っていますが (^^)、ぼくもこのブログに似たようなことを書いたことがあります。でも、そのときには、最終的に女帝に賛成とも反対とも書かなかったんですね。

 ほら、一時「野球を愛していない人に野球に口出しして欲しくない」とか「放送を愛していない人に放送に関わって欲しくない」みたいな言い方が流行りましたけど、あれと同じようなもんだと思ってもらえばいいです。つまり、野球を知らない人が、「棒で球をひっぱたくのをみんなで見て何が面白いんだ、やめてしまえ」みたいなことを言っても、野球改革に対してなんら実効性がないのといっしょで、天皇制を「愛していない」人が天皇制の将来に口出ししても、あんまり実効性がないような気がするからなのですね (^^)。

 だから、天皇制を愛している人が、男性だか男系でなければ天皇じゃないと思うなら、がんばってそうすればよいし、女性でもいいやと思っているなら、それもいいんじゃないと思っているだけの話でね。もちろん、保守派が一生懸命男系を維持しようとして四苦八苦する姿を見てみたい、という意地悪な気持ちもまったくないわけじゃないけど、むしろどっちでもいいという気持ちの方が強いのです (^^)。

 そういう社会に縁遠いからかも知れないけど、実は天皇制は日本社会に絶大な影響を及ぼしているのだ、みたいな話もあまりピンとこないんですね。聖性とかなんとか言われても、そんなもん感じたこともないので。むしろ、某宗教学会の方がよっぽど影響あるんじゃないか、という感じ。ひょっとしたら違うのかも知れないけど。

 ぼくが唯一心苦しく思うのは、むしろ天皇家の方々に対してで、あんな人権もない不自由な暮らしを強いられてイヤじゃないのかなあ、ということなんだけど、今のところ、本人達からの不満の声も聞こえてこないので、これもまあいいかという感じ。

 もちろん、1.男系維持、2.女帝容認、3.共和制、みたいな三択だったら、ぼくは間違いなく共和制を選びますよ。でも、大多数の日本人の反対を押し切ってまで、その政策を推進しようとするほど、プライオリティやモチベーションが高くないというだけなのね。認識甘かったらすいません (^^)。

追記: もうちょっと論理的に言うと、ぼくは民主主義は愛してやまないが、天皇制は愛していないので、天皇制か共和制かにはこだわるが、男性か女性かにはこだわらないということです。そもそも、人間を天皇という地位につけること自体が人権侵害なのだから、男女平等もクソもないでしょう。しかも、天皇より皇后の方が人権侵害の程度が低いと考えられるから、女性が差別されているというより、むしろ、女性の方が優遇されていると言うべきですよね。まあ、そんな屁理屈はどうでもいいけど、その人権侵害負担を平等にすることにさして意味があるとは思えません。もちろん、天皇制に存続して欲しいとも思ってないのだから、この点においても、男系女系にこだわる理由はない。結局、こだわる理由は見当たらない。

追記: 私がこういう態度をとる思想的理由はこうです。前にも書いたように、私は、象徴天皇制は制度というより文化だと考えており、文化の存在価値というのは、外側からの論理ではなく、文化自体のバイアビリティによって判断されるべきだと考えているのです。ですから、文化の将来は、その文化を愛し支持する人たち自身の手によって決めさせるべきであり、アウトサイダーは、民主主義の基本原則に反しない限りにおいて、できるだけ手を出さずに見守るべきだと思っているのです。彼らが古い形にこだわるにせよ、新しい道を選択するにせよ、その文化が結果的に滅びてしまうのなら、その文化はすでに歴史的な存在意義を終えたのだろうし、生き延びるのであれば、その文化はやはり日本人にとって存在価値があったのだと認めてもよいでしょう。それは結局、彼ら自身が決めることです。

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負け組ってイケナイことですか?

 しつこいようだけど、みんなホントにそんなに「勝ち組」になりたいのかなあ。ぼくは正直、勝ち組になりたいとほとんど思ったことがないんで、いまいち納得いかないんですよね。

 ぼくが唯一「負け組」がイヤだと思うのは、勝ち組でないというだけでバカにされたりとか、勝ち組でないというだけでモテなかったりとか、そういうことだけであって、お金がないこと自体じゃないんですよね。だから、そういうことさえなければ、負け組であってもいっこうにかまわない、というか、むしろその方が心が安らぐのです (^^)。それって、いけないことですか?

 もちろん、生存権を脅かされるほど貧乏な人は別ですよ。だから、セーフティネットとか社会福祉の充実とかには大賛成。また、ぼくが貧乏なせいで、子供の選択肢までが限定されるのも可哀想だから、子供の教育レベルが親の経済力に依存しない制度の整備もすすめてほしい。

 でも、これだけ価値観の多様性とか言っている時代に、「貧乏でいる自由」だけ認められないというのは変じゃないでしょうか (^^)。これはアイロニーでもなんでもなくホントにマジメな話、一億総中流社会に戻ると、そういう感情が抑圧されそうでイヤなんですよね。

 片山虎之助氏が、「しかし、なかなか勝ち組になれない人には救いの手を差し伸べ、みんながよくなる共存共栄が望ましいと思う」とか言ったらしいけど、ぼくなんかの価値観からしてみたら、この「勝ち組になれない人には救いの手」とかいう言い方の方がよっぽどムカつくわけです (^^)。わかるかなあ。

 まあ、やっぱりボクみたいなのは、本質的に反社会的な人間なんだろうね。なんか最近、勝ち組になりたいと思えないこと自体がコンプレックスになってきちゃったよ。悲しいなあ (^^)。

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国風派

 WBS で「国風派」の特集をやっていて、この言葉自体は初めて聞いたのですが、あの和風柄の洋服みたいなのは、アメリカのセレブも着てたような気がするんだけど。。。もっとも、OK! Magazine とかで写真を見ただけですけどね (^^)。つまんないもの見ててすんません。

後記: その記事が見つかりました。なんか、このトレンドは Memoirs of a Geisha の影響なんだって。クリスティーナ・アギレラが Geisha といっしょに扇子持ってる写真とか、Banana Republic の Satin Kimono Dress とか Quilted Geisha Bag とかが紹介されてます (^^)。

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法務省オンライン申請システム

 登記事項証明書を取得する必要があって、法務局に行くのが面倒だったので、「法務省オンライン申請システム」というのを利用してみましたが、いやー、ひどいです。呆れました。

 月曜日(23日)の 14:300 ぐらいに申請書を送信したのですが、その後、処理状況をオンラインで表示してみると、火曜日の午後になっても「審査中」、水曜日の午後になっても「審査中」。

 いー加減しびれをきらしてヘルプデスクに電話してみると、担当の法務局には届いているはずなので、法務局に問い合わせてくれという返事。そこで、東京法務局に電話してみると、「しばらくお待ちください」と言って保留音に切り替わったまま、いつまでたっても出てこない。

 お~い、電話料金だって馬鹿にならないんんだぞ~、と思いながら待っていると、かれこれ 10 分ぐらいしてようやく担当者が出てきて、「登記事項証明書の申請ですね、来てます来てます」。

 あのなー、おととい送ったんだから、来てるに決まってんだろーが。それとも、インターネットとは名ばかりで、途中で飛脚でも使ってんのか。いい加減にしやがれ。

 さらに、「今からこちらで処理しますんで、しばらくしたら納付情報が表示されると思いますんで」とかいう返事。じゃあ、電話がなかったら永遠に処理されなかったのかよ。どこがオンラインじゃ。完全な人力じゃねーか。ふざけるな。

 だいたい、登記事項証明書なんて、直接法務局の窓口に行けば 10 分ぐらいで取得できるのに、なんでこんなに時間くわなきゃなんねーんだよ。こんなんだったら、オンラインでやる意味ねーだろーが。しかも、速達で送付、みたいなオプションがついてて、つい指定しちゃったけど、途中の処理でこんなに時間かかってたら、郵便だけ速達にしたって金の無駄じゃん。

 ユーザーインターフェースも、ただボタンを押すだけなのに、無意味にアプレットとか使っているので、ロードに時間はかかるし、しかも、Java のくせに FireFox では動かないし、ダサダサの極みだし。

 いっつも思うんだけどさー、公務員試験とかに合格していい給料をもらっているエリートが、なんでこんな仕事しかできないんですか? これだったら、ぼくが昔勤めてた会社にいた、専門学校卒の A 君とか、高校卒の B 君とかのほうが、よっぽどいい仕事してましたよ。なんだったら、紹介してあげようか? どーせ、バカ高い金で発注して、ガバガバ中間搾取された上で、弱小ソフトハウスに丸投げでもされてんでしょーが。そんなにやる気がないんだったら、とっととやめてしまえ

 結局、その後数十分して「納付情報」が表示されたので、すぐオンラインで送金したら、また「審査中」になって、いまだにそのままです。いったいいつになったら送ってくれんだよお。こんなんだったら、最初から自分でとりに行けばよかったよ。まったく。

おまけ1: 翌朝になって、速達で送ってくれるという電話をいただきました。それはいいのですが、証明書 2 通なので 2 千円かかるが千円しか振り込まれていないというお話。もちろん、私も変だと思ったのですが、納付書の請求金額が千円で、オンラインではそれ以外の金額は入金できないようになっているのだから、しかたないじゃないですか。っていうか、なんでこの程度のバグもチェックされてないんですか? やっぱりひどすぎると思います。

おまけ2: やっと届いたけど、結局、登記印紙か郵便小為替でもう千円送ってくれってさ。やれやれ。そーゆーのが面倒だからオンラインを使うんじゃないのかなー。まあきっと、こんなシステム誰も使ってないんだろーね。間違いない(古いか)。

おまけ3: そんなに慌てなくてもいいじゃないか、と思う人もいるかも知れませんが、登記関係の情報というのは、けっこう緊急の用途があるのです。登記を専門に扱っている人間が、それを知らないはずはないでしょう(もし知らないとかいうんなら、そんな奴が登記所で働いてる方が許せん)。

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ピンとこない格差社会論争

 格差社会関係の議論は、わりとチェックしている方だと思うんだけど、どうもピンときません。まあ、ぼく程度で下流と言ってしまっては逆にずうずうしいのかもしれないけど、少なくとも上流ではないと思うので、下流側の意見として書きますけど、たとえば、こういう意見ってないのかなあ。

 ぼくがなぜ中流社会がイヤかっていうと、その方がしんどそう、というか、ぶっちゃけサボれなさそうだからなんですよね (^^)。だって、実際には個人の能力には差があるのに、金銭的待遇はだいたい同じだとすれば、その分絶対精神的プレッシャーが大きいはずじゃないですか。言い換えれば、頭のいい奴とか体力のある奴とかに、「おまえもっと頑張れよ」みたいなうっとーしーこと言われてイビられなきゃなんないわけでしょ? で、結局そーゆう能力格差を補うためには、その分「努力」ってやつをするしかないわけじゃん。そんなのやだもん (^^)。

 逆に格差社会だったら、サボっていても、本人が低所得に甘んじているだけで許されるわけじゃないですか (^^)。「おまえもっと頑張れよ」と言われたら、「こんな収入でそんなに頑張れるかいっ!」って言い返せるし。そんで、ぼくがサボっている分も、能力のある人が寝食を惜しんで働いてくれて、社会に必要な生産をしてくれて、税金もたくさん払ってくれるわけでしょ。しかも彼らは、ぼくのような怠け者に文句を言うこともなく、高級車に乗ったり大邸宅に住んだり、美男美女と鍋パーティをやるぐらいで満足してくれるんだもの。シメシメ、じゃなかった、こんなにありがたいことはないじゃないですか。

 …みたいなこと考えてる能天気な怠け者って、ぼくだけなのかなあ (^^)。え、そんなことはみんな知ってるのに、わざと言わないようにしていたんじゃないかって? ごめんごめん。いや、もちろん負け惜しみですよ (^^)。

 というのは半分冗談ですけど、格差社会に関する議論って、なんかみんなピントがはずれてるような気がしてしょうがないんですよね。もうちょっと議論を整理する必要があるんじゃないかなあ。

 少なくとも、金を持っている人が、その分市場からたくさん財を購入できるというだけなら、格差なんてたいしたことないと思うんですよね。だいたい、限界効用逓減の法則が正しいとすれば、金持ちっていうのはもともと割に合わない種族なんですよ (^^)。ただ実際には、金のあるところに権力や愛 (つまり美男美女) も集まってきたりするから、問題があるとすればそっちの方でしょう。でも、最近の子は、そういうイヤらしいところも意外とないように見えるんで、外車乗り回して喜んでるくらいならいっそ微笑ましい、とか思ってしまう私は、やっぱり能天気過ぎるのかしら (^^)。

 でも、前にも書いたけど、社会問題をみんなお金の問題に還元してしまうのは、裏返しの拝金主義に過ぎないと思いますよ。ほんとにお金より大事なものがあると思っているなら、金の差の問題でそんなに大騒ぎするのはおかしいでしょ? 違うかなあ。これも何度も書いたけど、一番大切なことは、金で買える領域と買えない領域の線引きだと思う。

 …まあでも、この文章を読んでもわかるように、金銭欲の少ない奴というのは、実はけっこうやな奴であって、金銭欲のある奴の方が、社会的には「いいやつ」であることが多いと思いますね (^^)。金銭欲と言うのは社会的な欲望ですが、金で買えないものに対する欲望と言うのは、どっちかというと個人的な欲望ですからね (^^)。でも、人間は結局、個人的な欲望を完全に捨て去ることはできない、ということなんだと思うんです。

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態度不鮮明のススメ

 最近はそれほど言われなくなったようだが、一時、芸能マスコミとかで「ホモ疑惑」という言葉が流行ったことがあって、すごく嫌だった。そもそも「ホモ疑惑」って何だと。「疑惑」という言葉がついている時点で、「ホモ」がネガティブな価値を持つと認めちゃってるようなもんじゃないかと。

 また、「ホモ疑惑」をかけられた芸能人が、「別にホモを差別する気はありませんが、自分はホモじゃありません」みたいなコメントをするのも何か嫌だった。

 もちろん、形式的には事実をそのまま言って悪いわけがない。しかし、自分がホモじゃないからホモだと思われたくない、という気持ちと、ホモが嫌いだからホモと思われたくない、という気持ちとの差はかなり微妙なので、実際には、何割かの人は後者の気持ちで発言しているだろうし、わざわざそういうことを訊ねるほうだって、大部分は、もしホモだとすれば、それにネガティブな価値を付与してやろうとてぐすね挽きながら訊ねているに違いないのである。ぼくは、そういう暗黙の了解の中で差別が温存されるという構造が、なんか嫌であった。

 もっとも、アイドルなんかは、そういう分類が商品価値に直結するので、そういう態度になるのも無理もないとは思うが、歌手や俳優の場合には、職業適性とホモであるかどうかという属性との間にはほとんど関係がないはずだ。にも関わらず、そういう質問が平気でなされ、それに答えなければならないような雰囲気があること自体が、その裏に差別が存在することの表れである可能性が高い。しかも、タテマエ上は「単なる好奇心です」とか「○○のファンは○○のことならなんでも知りたいと思ってるんです」とか「恥だと思ってないならなんで隠すんですか」みたいな中立っぽい理由付けもできるところが、この手の質問のたちの悪いところなのである。

 このような構造を破壊するには、回答自体を拒否するしかない。しかも、それはネガティブな属性を付与される側の人だけがやったのではダメで、どちらに分類されるかにかかわらず、そういうくだらない質問は拒否するという態度をとってはじめて効果があるのだ。

  だから、ぼくは、(親しい人は別として) お前はホモかとか童貞かとか早漏かとか短小かとかバツいくつかとか貧乏かとか在日朝鮮人かとか被差別部落出身かとか聞かれたら、たとえ本人的にはなんの支障もない質問であっても、あえて「ノーコメント」とか「なんでそんなことを答えなきゃいけないんですか」とか答えてやろうと思って、長年てぐすねを挽いているのであるが、残念ながら、誰もぼくなんぞにそんなことを聞いてくれないのである (^^)。

 そんなわけで、せめて、いつか尊敬する木村拓也君あたりが、かっこよくそういう発言をしてくれないかなあ、と思っている。もっとも、これは社会に差別が残っているからこそ意味を持つ行動なので、もはや、そんな時代でもなくなったような気もするが (^^)。

(言うまでもないことだが、この文の中でも、ぼくは自分がホモであるともないとも一切言及していない。断言するが、そんなことは翻訳の能力ともプログラミングの能力とも人間性の良し悪しとも一切関係がないからである。もちろん、ぼくと結婚したいというような人にとっては重要なポイントであろうが、そういう人には、理由を説明した上で別途問い合わせてくれれば快くお答えするつもり (^^)。したがって、この態度には何の問題もない (^^)。)

 これとはちょっと違う話だけど、一般庶民は政治信条なんかも、もっとあいまいにすべきじゃないかなあと思っている。よく、政治家でもなければ思想家でもないくせに、ウヨクかサヨクか、タカ派かハト派か、支持政党はどこか、みたいなことを自慢げにしゃべっている人がいるか、なんか違うんではないかという気がしてならない。

 だいたい、民主主義社会の一番よいところは、一般庶民が権力闘争から距離をおけるところなのに、何を好き好んでわざわざ自分から政治権力に利用されようとするのであろうか。選挙だって、ギリギリまで誰が誰に投票するかわからない方が、政治家だって真剣になるに決まっている。

 もちろん、有権者は政治に関心は持ったほうがよい。しかし、関心があるからといって、党派的になる必要はまったくないのであって、関心はあるが何を支持しているのかは不鮮明、というような「アクティブな」無党派層が増えるというのは、健全な民主主義を築くためにはまったく正しいことだと思う。

(ジャーナリストなんかもそうで、政治信条が明確なジャーナリストというのは、本人的にはかっこよいつもりかも知れないが、それがジャーナリストとしての優秀性に結びつくとは限らない。そういう意味で、古舘さんの煽りインタビューとかアサ秘ジャーナルの浅草キッドみたいな態度をぼくは支持する。)

 そういうわけで、いろんな領域で、意図的に態度を不鮮明にするということを考えたほうがよいのでは、というおススメでありました。もっとも、こんなこと、やってる人は勧められるまでもなくやってることだからなあ。むしろ、そんなことすら気づかないで自分が頭がよいと勘違いしている頭の固い人は、そういう態度不鮮明な人の真価をもっと認めてあげなさいのススメ、というべきか (^^)。

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愛情格差社会の予感

 年末のテレビで「模倣犯」をチラ見しました (実は二回目)。大島ミチルのサントラはかっこいいなあとか、中居君はよくこんな役引き受けたよなあ、それがまたみょーに似合ってるとこがいいよなあとか、いろんな感想があるんですが、一番印象に残ったのは、山崎努が中居君に「お前は愛を知らない哀れな人間だ」とか言って説教するシーンでした。と言っても、「その通り。いくら頭がよくて金があっても、愛を知らなければダメだ」とかって素直に納得したからじゃなくて、逆に、なんかこの台詞に違和感を感じたからなんです。

 もちろん、こういう台詞はこの映画の独創でもなんでもなくて、むしろ陳腐化した台詞と言えます。ただ、これまでこういう台詞は、「金や身分は誰にでも手に入るわけじゃないが、愛はまっとうな人間なら誰にでも手に入る」という前提のもとで、金持ちが偉いという価値観を相対化する台詞として語られていたはずです。でも、この映画でこの台詞を聴いたときには、あまりそういう風に聴こえなかったんですよね。

 ひょっとして、現代では、誰でも平等に手に入ると思われていた「愛」が、一部の幸運な人にしか手に入らない貴重品になりつつあるのではないでしょうか。仮に、それが本人の性格のせいだとしても、その性格自体が遺伝や幼児期の環境で大方決まってしまうものだとすれば、やはり、本人の意思によって選択可能な対象ではないということになります。現に、この映画の中でも、「子供の時に愛を与えられないとダメなんだ」みたい台詞が言われていますよね。

 もし、この想像が正しいとすれば、「お前は愛を知らない哀れな人間だ」という台詞は、先に書いたような価値相対化の台詞ではなく、むしろ、金持ちが貧乏人を蔑んだり、貴族が一般庶民を蔑んだりするのと同じような、単に、持てるものが持たざるものを蔑む極めて残酷な台詞にすぎない、ということになります。ぼくがこの台詞を聴いたときに感じたのも、そういうある種の寒々しさだったのかもしれません。

(だからと言って、誰ぞやのように、「犯罪は本人じゃなくて社会の責任だ」とか言いたいわけじゃありません。それはまた別の問題です。為念。)

 現代では、「銭金」のような番組があることからもわかるように、金がないということをカミングアウトすることに対する抵抗は薄れつつあるように思いますが、愛に飢えているということをカミングアウトすることに対するハードルは、むしろ上がっていて、迂闊にそのような告白をすれば、小谷野さんみたいに「それはお前の性格が悪いせいだ」と叩かれるのがオチなので、「愛情格差」の実態はわかりにくくなっている。それが、私たちの従来の感覚では理解しがたい犯罪の増加などに表れているのかもしれない、なんてことを思ったりします。

 なぜそういうことになったのかとか、じゃあどうすればよいのかとかについても、いろいろと考えてはいるのですが、まだあまり考えがまとまっていないので、もう少しまとまってからとうことで。

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住基カードゲット!

 所得税の電子申告の下準備として、住基カードをゲットしてきました。今頃くらいからやらないと間に合わないんだよね~。手続きは (自治体によって微妙に違うのかもしれないけど) ワリと簡単で、30 分足らずですみました。費用も、電子証明書込みで 1000 円程度。後は、できるだけ安っすい IC カードリーダーを買って、地元の税務署に電子申告の申請を出して…、まだまだ先は長いぞ~ (^^)。

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喫煙者少数派時代・補足

 前に書いた「喫煙者少数派時代」という記事、時間と筆力の不足であんまりうまく書けていないようなので、ちょっと補足しておきます。

 注意して読めばわかってもらえると思うんですけど、この記事には、喫煙者の方を攻撃する意図はまったくありません。ぼくは基本的に、近代社会の個人は自己責任で自分をリスクにさらす自由があると思っているので、喫煙者の方のそういう自由も断じて守られるべきだと思っており、むしろ、この論争がこじれることによって、喫煙以外の健康リスクに対しても同じような論法が適用されるのを防ぎたいと思っているわけです。

 ただ、実際には、喫煙者が多数派だったという歴史的経緯のせいで、喫煙による社会的なコスト (負の効用) が、必ずしも喫煙者の自己負担だけになっていなくて、社会全体で負担されている。喫煙者が少数派になった今となっては、このことが、喫煙者に対する風当たりを強くする方向にはたらいているのではないか。だから、喫煙による不効用をできる限り喫煙者だけで負担するような社会にしたほうが、喫煙者と非喫煙者の双方にとっていいのではないかと提案しているわけです。

 誤解しないで欲しいのですが、これは断じて、喫煙者に対する「懲罰」を意図したものではありません。ぼくはあくまで、公害による外部効果を内部化するのと同じように、喫煙の効用と不効用の双方を喫煙者の負担にすることで、理想の喫煙量という均衡点に収束することを狙っているのであって、これは喫煙者自身のためにもなることだと思っているのです。わかるかなあ。

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「萌える男」と「脱オタクファッションガイド」

萌える男」本田透著

 この本は、一言で言えば、「萌える男」は恋愛資本主義社会の崩壊が必然的に生み出したものであり、萌えは正しい、という主張をあの手この手で述べたもので、その情熱的な口調にはつい引き込まれますが、全体に萌えを正当化しようとするあまりの強引な論法が目立つように思います。

 そもそも、著者は十把一絡げに恋愛資本主義と言っていますが、受験産業と裏口入学が違うように、恋愛や性そのものを商品化することと、その手段を商品化することとは同じではありません。たとえ、受験産業発展のために学歴を持ち上げるような動きがあったり、塾や予備校に金をかければかけるほど合格率が上がるという事実があったとしても、それだけで受験が無意味になったとは言えないように、恋愛の手段がいくら商品化されても、それだけで世の恋愛のすべてが功利主義的になったとは言えないでしょう。著者は、男性が「萌える男」と「萌えない男」に二極分化したと主張していますが、ひょっとすると、恋愛市場からドロップアウトした著者には、その中間の普通の男女の存在が見えていないのではないかと危惧します。

 また本書では、萌えの意義を、1.恋愛資本主義社会から締め出された人々を個人的・精神的に救済する、2.萌えから生み出された思想を恋愛資本主義社会にフィードバックする、という 2 点において評価しているようですが、この両者は必ずしも両立しないはずです。著者は萌えをストライキのようなものだと言っていますが、たとえストライキだったとしても、本人がそれで精神的に自足できるのであれば、それほど社会に影響を与えるとは思えません。そもそも、萌えの対象となる商品だって、市場から供給されているのですから、そういう意味では、「萌える男」だってしっかり資本主義社会に組み込まれているのであって、そんな奴は丁重にほっとかれるだけでしょう。逆に、ストライキのせいで本人が餓死しそうになれば、社会から救済の手がのびるかもしれませんが、その場合、萌えによって個人的救済が果たされるという1の主張には当てはまらないことになります。著者は、このどちらをよしとしているのでしょうか。

 実は、一夫一婦制の崩壊や性の商品化が社会を不安定化するという著者の認識自体は私も共有するところなのですが、「萌える男」がそのような状況に影響を与えうるとすれば、それは、萌えに自閉することよりも、萌えの志を持ったまま現実社会の中で闘うことによってではないでしょうか。もちろん、本書自体をそのような試みとして見ることもできるでしょうが、このような書き方だと、むしろ、より多くの若者を自閉の方向に導いてしまうことが危惧されます。そういう意味では、本書より、「脱オタクファッションガイド」に見られるような「健全オタク路線」の方が評価できると私は思います。

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モラル・ハザードと悪者探しの関係

 nikkeibp.jp の「耐震強度の偽装問題は偶発的事件か、業界の構造問題か」という記事を読ませていただきました。不動産の専門家の方がお書きになっているということで、かなり期待して読んだのですが、どうも、お疲れになって感情的になっているのか、論旨が不明瞭なように思われます。

 この主張をわからないなりに無理して要約すると、

  1. 大多数の業界人は良心的である
  2. しかし、一部に、安全性を犠牲にしてまでコストダウンをはかる業者がいる
  3. したがって、競争に勝つためには、良心的な業者までがコストダウン競争をせざるおえない
  4. つまり、これは社会全体の問題である
  5. だから、悪者探しをやめよう

という感じみたいなのですが、なんか矛盾してませんか?

 だって、安全性を犠牲にしてまでコストダウンをはかる業者がいるから、モラル・ハザードが起きて良心的な業者までおかしくなってしまうのなら、その「悪者」を探して排除すれば、問題は解決するじゃないですか。だとすれば、仮にこれが「構造問題」であるとしても、それはせいぜい、「悪者」をすばやく発見して排除することのできない業界の「構造」に問題があると言えるくらいでしょう? だから、それを解決するには、やっぱり「悪者探し」をするしかないんじゃないでしょうか。

 逆にこれが、そもそもこの業界は良心的では誰もやっていけないんだとか、そもそも悪者を発見すること自体が原理的に難しいんだとかいうんなら、それは社会全体の問題かもしれないけど、ご自分で、そうではない、とおっしゃっているわけですから。どうもご主旨がいまいち納得できない感じがします。

 なんか、むかーしの左翼で、泥棒がいるのは資本主義社会の矛盾だから、泥棒は悪くない、みたいなこと言ってた人がいましたけど、ほとんどそれに近い論法のような気がするんですけどねえ。違いますかねえ。

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朝生少子化編

 昨晩の朝生のテーマは少子化。パネリストの大多数 (12 人中 8 人) が女性、観覧客も全員女性という演出で行われました。いつもイジメられ役みたいになっている福島さんが、みょーに生き生きしていたのが印象的 (^^)。また、森永さんは、どうも本田透氏の著作を読んだらしく、オタク擁護を繰り返していました (かなり私怨も混ざっている感じで、ここに小谷野さんがいたら面白かったろうなあ、と思いましたね(^^))。途中で田原さんが、「三十代で大儲けしている奴にロクな奴はいない。この上 (つまりヒルズ) あたりにもいっぱいいるけど」などと言う一幕もあり。いつもの挑発なのか、本気で嫌いなのかは定かではありませんが(^^)。

(余談ですが、ヒルズ族に対する反感というのは、実は、会社を金で買うという行為よりも、彼らの生活態度みたいなものに起因するところが大きいのではないのではないかという気がしています。そういう意味では、ビートたけし氏が言っていた「品がない」という批判の方が的を得ているような気がしますね。ぼくも、M&A にはたいして腹はたたないのですが、「レオン」はなんか気に食わないもんねー(^^)。)

 ただ、「少子化の何が悪い?!」というサブテーマの割には、少子化の何が悪いかはほとんど論じられず、少子化の原因は何かとか、少子化対策のことばかりが論じられていたのが、少々物足りなかったですね。

 前に書いたように、ぼくは、まず移民政策をしっかりとるべきだという考え方ですが、番組中の議論を見て改めて感じたのは、「子供を育てるのに金がかかる」という言い方がクセモノなのだということです。

 つまり、実際には、教育費用というのはピンキリのはずなんですよね。だって、義務教育はともかく、高校や大学には行かせる義務はないし、塾に行かせるかどうかも各家庭の選択なんですから。それを、「子供の教育に金がかかるようになった」と言えば経済の問題のように聞こえますが、「子供の教育に金をかけなくてはいけないとみんなが思うようになった」と言えば、個人の意識の変化の問題のように聞こえるわけ。

 そして、このどちらの見方をするかというのは、実は、事実認識というより思想の問題だと思うのですね。つまり、「子供の教育を親の経済力に左右されるのは当然だ」という文化保守主義的な立場に立てば、子供の教育に金をかけなくてはいけないと思い込んでいる親の方がおかしいので、別に義務じゃないのだから自分のできる範囲でやりなさい、みたいな考え方を広めればよいということになりますよね。 逆に、「子供の教育が親の経済力に左右されてはいけない」というある種リベラルな立場に立てば、子供の教育費を親に負担させている社会の方がおかしいので、教育費をもっと社会で負担しろということになる。

(「ある種リベラル」と書いたけれども、この立場は実は、親の経済力には格差があってもよいのだ、ということを容認する立場でもあるのだ、ということも付記しておきます。)

 そうすると、少子化の裏にある問題は、親たちは無意識のうちに後者の立場に親和性を示しつつあるのに、社会制度は依然として前者のままである、というズレだということになりそうです。

 念のために言っておきますが、ぼく自身は、日本社会は最終的には後者の道を選ぶべきなんだろうと思っています。ただ、ぼくが気になるのは、後者の道を選ぶということは、単なる「少子化対策」という技術的な問題だけではすまず、確実に社会構造の変革をもたらすはずなんですが、そういう主張をする人たちは、このことをちゃんと考えているだろうかということなんですね。

 だって、なけなしの金をはたいてでも子供を学校に行かせるという覚悟をもって子供をつくった親の家庭と、国が金を出してくれるんならとりあえず子供つくっとくかという感じで子供をつくった親の家庭とが、まったく同じだと思いますか? この政策は、悪く言えば、そういう覚悟のない親にも子供を作るチャンスを与えようという政策でもあるのです。もちろん、金をだそうがだすまいが、子供に対する愛情は変わらないという立派な親御さんもたくさんいらっしゃるでしょう。でも、いつの時代も例外は例外であって、統計的に見れば、平均的な家庭の像というものは変質していくはずです。

 もちろん、仮にそうなったとしても、社会総体としてはよい方向に向かうとぼくは信じていますが、おそらく、ぼくらがノスタルジーをこめてイメージするような、古きよき家庭像というものがだんんだん失われていくことは間違いないと思うのです。

 つまり、この政策はある意味、移民政策なんかよりはるかに大きな社会構造の変革を日本にもたらすかもしれないんですよね。だから、やるんだったら、そこまでの覚悟を持ってやる必要がある。でないと、やっぱやめときゃよかったね、みたいな反動が起きて、いらぬ混乱を招くだけだと思うのですが、いかがでしょう。

(佐藤さんの本とかにいまいち共感できなかったのにもこのへんの理由があって、じゃああなたはどうすりゃいいと思っているのだと。ここまでする覚悟があるのかと。ちょっと言いたい気持ちがあるわけ(^^)。)

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子供の名前

 子供の名前をシリーズ化する親御さんっていますよね。ふと思ったんですが、あれって、一人目、二人目はいいけど、子供の数が増えるにつれて、だんだんネタがなくなって苦しくなっていきますよね。そのせいで、子供がヒネくれたりしないのかなあ(^^)。

 お笑いとかの繰り返しギャグだと、最後に大オチがくるとわかっているので、途中に多少苦しいネタがあっても許される傾向にありますよね。でも、いくらなんでも、子供の名前にオチはつけられないので、やっぱり、あの方法はあまり得策ではないのではないだろうか(^^)。

 もしやるんだったら、何人子供を作るかという家族計画をしっかりたててからやるべきだと思いますが、男女比がどのくらいになるかは予測できないので、男性名と女性名を両方考えておく必要もありますよね。あるいは逆に、「男性と女性で名前が違うなどというのは時代遅れだ!」などと言って、ユニセックスな名前だけで押し通すか。

 もっとも、今は少子化の時代ですから、先にもっと心配することがありそうですけど(^^)。

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喫煙者少数派時代

 愛煙 vs 嫌煙みたいな論争をインターネット上で目にする機会があったので、自分なりにいろいろ考えてみました。昨今の喫煙者に厳しい風潮をファシズム的だと捉える喫煙者側の気持ちもわからないではないのですが、ぼくはむしろ、このような現象は、愛煙家が多数派から少数派に転落したことによる社会構造の変化が必然的に生み出した軋轢ではないか、という気がしました。

 もちろん、女性や未成年まで計算に入れれば、昔から喫煙者は少数派であったとも言えるのですが、少なくとも、職場で多数派を占める成人男性の間では、長いこと喫煙者は多数派だったわけです。ところが、最近になって (厚生労働省国民栄養調査によれば平成 11 年、JT全国喫煙者率調査によれば、平成 14 年以降)、成人男性に限っても喫煙率が 50% を切ったわけで、名実ともに喫煙者は少数派になったわけです。

 ぼくは基本的に、他人に迷惑をかけなければ、喫煙も個人の自由であるという立場ですが、この「他人に迷惑」というのがクセモノです。何を迷惑と考えるかは、その人の価値観によって違うので、自分の土地にビルを建てて何が悪いと思う人もいれば、景観や陽当りの悪くなることを迷惑だと思う人もいる。極端になると、ぼくみたいに、女子高生のスカートの短さですら一種の景観の破壊であると思っている奴すらいる(^^)。

 喫煙の迷惑も、愛煙家同士の間ではあまり迷惑に感じないものが多いので、喫煙者が多数派である場合にはあまり問題にならずに見過ごされることが多かったと思うんですね。もちろん、当時の少数派であった非喫煙者の中には、そういう迷惑に内心腹をたてていたにもかかわらず、口に出してもあまり相手にされないので憤慨していた人もたくさんいたことは想像に難くなく、当時はむしろ彼らの方が迫害されていたに違いないんです。

 もちろん、だからと言って、喫煙者が健康を害することにより、社会全体の生産力に悪影響を与え、GDP が低下するとか、そんなことまで「喫煙の迷惑」に勘定しようとはぼくも思いません。それはそれこそ、愛煙家側の言うとおり、民主主義の理念に反するファシズム的な主張でしょう。

 ただ、公共施設に設置された喫煙所や分煙装置のコストとか、喫茶店や食堂に用意された灰皿や空気清浄機のコストとか、喫煙者が病気になりやすいことによる健康保険料のコストとか、もちろん受動喫煙の害によるコストとかは、これまで社会全体で負担することが当然にように思われてきたわけですが、それは「多数派≒社会の総意」という近似計算によって許されてきたにすぎないと思うんですね。だから、喫煙者が少数派に転落した以上、こういうことが通用しにくくなるのはある意味当然だと思うのです。

 もうちょっと経済学風に言うと、喫煙には確かにコストとベネフィットがあると思いますが、そのベネフィットはほとんど喫煙者だけのもので、コストの方は社会全体が (それも市場を経由せずに) 負担しているという構図があるわけです。こういう状態だと、コストとベネフィットをバランスしようとするインセンティブが働きにくいという問題があるのですが、喫煙者が多数派だと、そういう問題もあまり顕在化しないわけです。

 もちろん、世の中もっと迷惑な習慣や文化がいくらでもあるじゃないか、という反論もわからないではないですが、それは、闘い方としては場外乱闘みたいなもので、ストロングスタイルではないのではないでしょうか。つまり、喫煙に限らず、そのような社会的コストは、なるべく個人の責任で負担する方が本筋であって、他がそうしているから自分もそうしていいんだ、みたいな主張の仕方では、泥仕合になるだけではないでしょうか。

 だから、愛煙家はむしろ、喫煙による社会的な負担をなるべく喫煙者だけで負担するような運動を、自ら推進すべきだと思います。たとえば、煙草税は目的税にして、公共空間の完全分煙の実現などに使うとか、JT なんかも率先して喫煙者向けの食堂や喫茶店を経営するとか、会社に喫煙所や分煙設備を設置するときには、そのコストは喫煙者の給料からさっぴくとか、空港や駅の喫煙所は有料制にするとか、喫茶店の灰皿はレンタル制にするとか、喫煙席は灰皿や空気清浄機のコスト分割高にするとかしたらいかがでしょう。健康保険料にしても、喫煙は、他の病気と違って自分で選択できる習慣ですから、喫煙者の保険料は健康リスクの分高くしてもよいと思うのですが。

 そのように、喫煙者少数派時代に合わせた社会構造の変革を経て、はじめて、愛煙家はマイノリティとしての正当な地位を得るのではないかと思うのですが、どうでしょう。

 ちなみに、ぼく自身は、30 歳ぐらいから煙草を吸い始めて、35 歳ぐらいでやめたという、ちょっと変わった喫煙歴をたどっているので、煙草を吸う人の気持ちも吸わない人の気持ちもある程度わかるつもりです。

 ぼくが煙草を吸う前は、今ほど喫煙者に対する風当たりが強くなかったので、当時はむしろ、煙草を吸う人ってなんか得だなあ、みたいな気持ちがありましたね。昔いたある会社では、開発室の横が全面ガラス張りで、その外がちょっとした広さのテラスになっていて、喫煙者はそこで煙草を吸うわけです。そうすると、コードを書くのに疲れたときにちらっと窓の外を見ると、同僚が煙草をぷかーっとふかしながら雑談してたりして、なんか楽しそうだなあと思うわけです(^^)。ぼくら非喫煙者が息抜きにできるのは、自動販売機にジュースを買いに行くことぐらいで、ジュースではそんなにダベれないし、ちょっと帰りが遅いと上司に文句言われるし、なんか不公平だなあと(^^)。そういう非喫煙者の感情とかも、あんまりわかってない喫煙者の人も多いんじゃないかな(^^)。

 ぼくが煙草をやめたのは、いろんな理由があるけど、なんか煙草を吸いだしてから自分の性格が変化して、短気になったり被害妄想的になったりしたんじゃないか、と自覚したのが一番の理由ですね。まあこれは自分の主観にすぎなくて、科学的に検証したわけでもなんでもないから、それをもって他人に煙草をやめろと主張する気はまったくないですが。(でも、ウルトラセブンの「狙われた街」っていうのは、案外当っているかも、なんて思ったりもしました(^^))

 逆に、これが煙草を吸う最大のメリットだと思ったのは、飲み会とかでたまたま隣に座った人と話が盛り上がらなくても、煙草をぷかーっとふかしてると、なんか格好がつくこと(^^)。だから、煙草をやめた今でも、飲み会に行くときだけ煙草持参で行ったりします。と言っても、ぼくが飲み会に行く回数なんて年に数回というレベルだし、その後からまた吸い出しちゃうなんてこともまったくないですけどね(^^)。

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プログラマ的文化・制度論

 ぼくは出身がプログラマなので、なんでもコンピュータのことに置き換えて考える癖があるんですが、文化と制度の関係についても、こういうふうに考えればよいのではないかと思いました。

 コンピュータの歴史を振り返ってみると、史上初のコンピュータ (ここで言うコンピュータというのは、バベッジの階差機関とかインカ人がロープでつくった「キープ」とかじゃなくて、いわゆるノイマン型のコンピュータのこと (^^)) ができたときには、もちろん、先にプログラムがあって、それに合わせて計算機が作られたわけではなくて、まずハードウェアとしての計算機があって、それに合わせてプログラムを書いていたのです。

 その頃はまだ、オペレーティング・システム (OS) というものがなかったので、プログラマは計算させたい問題ごとに毎回ゼロから違うプログラムを書いていました。しかし、やがてそれではあまりにも非効率だということになって、プログラムのロード・実行など、ほとんどのプログラムに必要な処理をアプリケーションから切り離して共有しようという発想が生まれました。それが OS の始まりだったわけです。

 そのころの OS はまだ、特定の機種のコンピュータ上でしか動きませんでした。ところが、ハードウェアの種類が少なく、進化もゆるやかな時代はそれでもよかったのですが、ハードウェアの進化が速くなって、どんどん新しいハードウェアが登場する時代になると、今度は、そのたびに OS 自体を開発し直すという非効率が問題になってきます。そして、ハードウェアに依存しない (専門用語ではポータブルという) 現在のような OS が生まれたわけです。

 その結果、ハードウェアと OS の間にある種の関係の逆転が起こります。それまで、ハードウェアというのは、その名の通り、あまり変化しないもので、ソフトウェアの方はすぐ変化するものとして捉えられていました。ところが、どのハードウェアでも同じ OS を利用できるようになると、むしろ、OS の方があまり変化しないもので、ハードウェアは相対的にすぐ進化するものとして捉えられるようになります。そうすると、最初期のコンピュータでは、完全にハードウェアに合わせてソフトウェアを作っていたものが、むしろ、ソフトウェア (OS) に合わせてハードウェア (厳密には、その間にデバイス・ドライバというソフトウェアが介在するが) が作られるようになってくるわけです。

 もちろん、OS の方はまったく変化しなくなったかと言えば、そんなことはなくて、今まで想定していなかったまったく新しいハードウェアが登場すれば、それに合わせて OS の方も進化します。つまり、ハードウェアと OS は、それぞれ独自に進化する柔軟性を手に入れると同時に、互いに相手の進化に合わせて共進化できるようになり、システムとしての安定性と環境への適応性を両立できるようになったのです。

 なぜそんな都合のいいことが可能になったのかと言えば、その秘密は、「ブラックボックス化」という原理にあります。現代のコンピュータ・システムでは、ハードウェアから見た OS も、OS から見たハードウェアもブラックボックスで、互いの内容を規定していません。ただ、相互にやりとりする時のインターフェイスだけが定められているだけです。そのことが、これだけの柔軟性を生み出しているわけです。

 さて、長々と OS の歴史をおさらいしましたが、本題は文化と制度の関係の話でした。国家というのも、元々は文化的な共通性をベースにして成立したもので、制度というのはその上に構築されたというのは確かでしょう。それは、最初期のコンピュータ・システムでは、ハードウェアに合わせて OS を開発していたのと同じようなものだと言えます。

 私が言いたいのは、制度が文化を基盤としているという説は、起源論としては正しいとしても、だからと言って、国家を安定させるには文化の内容を固定する必要がある、という保守派的な発想が正しいとは限らない、ということです。

 もちろん、国家というシステムがすべてであって外部がないとか、国家というシステムが所属するスーパー・システムが完全に静的なシステムであって、まったく変化がないというのであれば、それもまた国家を安定させるための一つの解である、とは言えます。

 しかし、現実には、国際社会は安定には程遠いし、仮に、安定した世界システムができたとしても、その外には、人類が決して完全には制御できない、宇宙とか環境とか呼ばれるスーパー・システムが残っているわけです。このような、外乱のあるダイナミックなシステムの中において、文化と制度がともにガチガチに固まっているような国家システムを作っても、持続可能なシステムになるとは思えません。

 元々、文化というものは、完全に静的なものではなく、不安定な環境に合わせて進化する動的な安定性が生命線です。それを、制度によって文化の内容まで規定すれば、文化を守るどころか、 (保守派の思惑とは反対に) 文化の生命力を破壊し、ひいては国家の生命力まで失わせることになるでしょう。

 確かに、文化と制度は相互に依存していますが、だからと言って、相互の内容を規定してしまえば安定したシステムができるというのは錯覚であって、むしろ、それぞれ独立して進化する余地を残すことによって、スパイラル的な共進化が可能になると同時に、動的な世界の中で安定して持続することが可能になるのだと思います。

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知識人の役割

 知識人や文化人と呼ばれる方々が、一般庶民の無知や頭の悪さにいらだちを見せる、ということがしばしばあります。またこれが、自分は頭がいいと任じる読者の共感を誘うというような効果を発揮することもあり、それはそれで一つの職業技術かとも思うのですが、あまりムキになってこれをやられると、少々見苦しく感じます。

 もともと、知識人とか文化人という言葉自体が、一般庶民より知識がある人たちのことを指す言葉なのですから、知識人と一般庶民との間に知識の差があるのは当たり前なのです。こういうことを言うと、また庶民を馬鹿した発言だと思う人もいるかもしれませんが、人々の知識量に統計的なばらつきがある限り、知識の多い人と少ない人というのは歴然として存在するのですから、統計的な偏差がゼロという超均質集団 (それこそファシズムでもなければ実現できないような) にならない限り、知識人と一般庶民との間の知識の差は決してなくならないというのは、ほとんどトートロジーといってもよいぐらいで、単なる事実を言っているにすぎません。

 つまり、知識人から見れば、一般庶民というのは常に (程度の差こそあれ) バカなのであって、だからこそ知識人という職業も成り立っているわけですから、その事実にあまりムキになるのは滑稽だと思うのです。もちろん、知識人の方々の努力によって、集団の知識量の平均値が上がるということはおおいにありえるし、それこそが知識人の役割だとも思うのですが、それは、知識人と一般庶民の差がなくなるということとは、まったく別の話なわけです。

 これは、政治家などについても言えることであって、民主主義社会において、政治家は市民の代理人にすぎない、というのは一つの理想ではありますが、実際には、政治家と一般庶民との政治意識のギャップが完全になくなることはないと思うのです。

 最近、政治における「宣伝」のあり方が問題になっているようですが、そういう意味で、政治「宣伝」の必要性がまったくなくなることなどあり得ない、と私は思います。

 もちろん、だからと言って、どんな宣伝でもいいというわけではありません。たとえば、まったく事実に反するウソの宣伝はもちろんダメだろうし、いろいろ項目を決めて情報公開を義務付けるとか、タバコの箱みたいに、「一党独裁はファシズムをもたらす危険があります」と書いて、小泉さんのとなりにヒトラーの写真を貼ることを義務付けるとか、金融商品の宣伝みたいに、「小泉政権になると、アジア諸国との関係がなおさら悪化する危険があります」「小泉政権になると、憲法が改悪されて軍国主義国家になる危険があります」「小泉政権になると、弱肉強食の市場原理主義社会になる危険があります」などというふうに潜在的なリスクを箇条書きすることを義務付ける、みたいなことしてもいいかもしれません。でも、そういう努力を重ねれば、「宣伝」的な要素を完全に排除できるかといったら、そんなこともあり得ないと思うのです。

 asahi.com で斉藤美奈子氏が「政治宣伝がなべて「劇場」に近づくのだとすれば、識者と呼ばれる人々の役目は「民主党も自民党に学べ」とあおることではなく『人々よ、宣伝に踊らされるな』と説くことじゃねーの?」とおっしゃっているのですが、そんなわけで、ぼくはこの意見には半分しか賛成できないのです。もちろん、「宣伝に騙されるな」と言うことも必要でしょうが、と同時に、「民主党、もっとうまく宣伝しろよ」と言うこともやっぱり必要なのです。そうやって、現実的な政治力だけではなく、宣伝力でも競い合っていくことにより、それを見る有権者の政治リテラシーも高まっていくはずです。

 思えば、商業広告だって、昔はもっとわざとらしい売り文句だったものが、それこそ糸井さん川崎さん仲畑さんなどの努力により、宣伝の要素を残しつつも、ある種の自己批判を取り入れることによって、ウソくささを消していく、みたいな手法が一般化してきたわけで、そういう意味での表現の洗練が進んでいけば、政治家と有権者との間のギャップはなくならないとしても、平均値としての政治リテラシーは向上して、有権者はより真実に近づきやすくなっていくのではないでしょうか。むしろそういうところに可能性を見出したほうがよいと、私は思います。

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気まずっ!

 最近、体力維持とダイエットのため、毎朝、近所の河原を自転車で一回りしてくることにしているのですが、今朝ものこのこ出て行ったら、近所の人たちがみんなでゴミ拾いや草刈りをしていたので驚いてしまいました。どうやら、町内会かなんかが主催する、クリーンキャンペーンの日だったらしいのです。

 どうせぼくの顔なんか憶えてる人いないだろうと思って、いかにも通りすがりのような顔をして、「ご苦労さまでぇ~す」などと蚊の鳴くような声でつぶやきながら通り過ぎたのですが、気まずかったなあ(^^ゞ。

 それにしても、見たところ結構お歳を召された方が多くて、やはり、若い人はこんな活動には興味がないのかなあ、などと、自分のことを棚にあげて地域社会の崩壊を憂えたりした私でした。

 時節柄、国会議員に立候補された方なんかも参加しているかと思って、さりげなく探してみたのですが、さすがに来てないようでした。まあ、ぼくはそういう見え透いた人気取りは嫌いなので、別にいいけど(^^)。

 真面目な話、人々が利己的になっていると嘆く人は多いのですが、ホントにそうなのでしょうかねえ。たとえば、2ちゃんをはじめとして、ネットで延々とコンサマトリーなコミニュケーションを続けている人たちだって、ある意味、自分に意思で自発的に情報という公共財を提供しているわけなので、必ずしも、人々からそういう意思が失われたわけでもないように思うんですよ。

 むしろ、失われたのは、人間がどこで利己的にふるまい、どこで利他的にふるまうべきかという、社会的な切り分けに対する合意なのではないかなあ。だから、そういうローカルルールの確立されているところでは、人々はいくらでも利他的にふるまえるわけでしょう。

 だから、社会科学者とか知識人の方々がやるべきことは、人々が利己的になったとか嘆く前に、私利私欲の領域と公的な領域をどのような切り分ければうまくいくかというモデルを考えたり、人々に自発的に公共財や社会資本を提供することをうながす仕組みを提案することだと思うんですけどね。

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鮮明になった?

 asahi.com に「若い男性、年収少ないと結婚率低い」という記事が出てて、パート・派遣など非正規雇用者や年収の低い男性の結婚率が低いことから、「晩婚化や非婚化は若者の価値観だけの問題ではないことが鮮明になった。」などと書いてあるんだけど、このデータだけからホントにそんなこと言えると思う?

 そもそも、あせって正規雇用につかず非正規雇用に甘んじながら「自分の本当にやりたいこと」を探したり、収入が低くてもいいから自分の好きな職業を選んだり、という傾向自体が、現代の若者の価値観の反映だと言われているわけでしょ? だとすれば、雇用形態や収入自体が価値観によって変わる可能性があるのだから、それだけで「価値観だけの問題ではないことが鮮明」になどならないんじゃないですか?

 さらに言えば、この記事には最近のデータだけで過去のデータがないし、ぼくも数字を持っているわけではないから断言はできないけど、おそらく、昔から、低収入の人の結婚率は高収入の人にくらべて低かったはずで、問題は、その比率が時代によって変わっているかどうかということであるはずです。

 たとえば、もし物価調整後の収入と結婚率の関係が、時代によってほとんど変化がないとすれば、低収入の人が増えたことにより結婚率が下がった、ともいえると思いますよ。でも、逆にもし現代のほうが昔に比べて、より収入による結婚率の差が広がっているとしたら、それはやはり、低収入で苦労してまで子育てをしたくないとか、低収入の奴とは結婚したくないとかいうような、価値観の変化の現れなんじゃないですか?

 要するに、晩婚「化」や非婚「化」というのは、絶対値ではなく相対的な変化の問題だから、時代による変化との相関関係を見なければ、なにもいえないはずなんだよね。

 どうも、この記事を書いている人は、結論先にありきで書いてるような気がするんだけど、そう簡単な話じゃないと思いますよ。もう少し冷静に分析したほうがよいのでは。

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TS にして AGF (Anti-Gender-Free)

 面白い HP を見つけました。神名龍子さんという、MTF (Male-To-Female) の TS (Transsexual) でありながらアンチ・ジェンダー・フリー論者であるという方の HP

 意外に思う人もいるかもしれませんが、本人もおっしゃっているように、論理的に考えればちっともおかしくないんですよね。だって、TS っていうのは、男性でも女性でもないものになりたい、とか思っているわけじゃなくて、はっきりと女性になりたい、という欲望を持っているわけだし、女装とかをしたがることを考えれば、その性というのは、明らかにフィジカルな性よりもむしろジェンダーなわけです。だから、ジェンダーがなくなってしまったら、彼らの欲望の対象自体が消滅してしまうことになるわけですよね。

 この人の主張はぼくとすごく似てて、たとえば、

 このことから「男女平等」というのは一般に、「あらゆる意味で男女が同じであるべきだ」という意味ではなく、「ある分野においては同じであるべきだが同じでなくてもよい分野もある」と考えられていることがわかる。ほとんどの人は、「男女平等」をそういう意味で理解していて、だからしぐさの違いを「男女不平等」だとは思わない(男女が同じであるべきだと思わない)のである。

 では、私達はどういう分野において「男女は同じであるべきだ」と考えているのだろうか。これは大雑把にいえば「経済の領域」と「政治の領域」についてである。これを人間同士の関係という側面で見れば、経済の領域は「契約によって成立する関係」であり、政治の領域は「ルールによって成立する関係」である。これは近代社会に共通するルールであって、このルールがなかったら近代社会とはいえない。

(中略)

 しかし「平等」というのはそういう意味ではなくて、「違い(差異)があるにも関わらず」平等であるという事が要点である。例えば西欧であれば、カトリックであってもプロテスタントであっても市民(国民)として同等の権利を持つ。人種が違っても同等、性別が違っても同等。だが、江原の(つまりラジカルフェミニズムの)主張を敷衍するならば、差別をなくすためには、性差の否定だけではなく、人間は宗教的にも、人種としても統一されなくてはならないということになる。これは、とても「危険な思想」になるのだ。

(以上、「でたらめてジェンダーフリー」より)

 また、人間は自分の「あり得る」の大部分を、既に存在しているモデルを参考にして思い描く。だが、それを「自分らしさ」の放棄とは考える必要はない。そうでなければ、自分のあらゆる「あり得る」を、すべて自分で完全なオリジナルとして創出しなければならないという話になってしまう。そうしたい人はそれでもよいが、ほとんど何もできない内に人生を終えるだろう。たとえば、火を起こすことを考えてみよう。火を起こすにも、先例を参照することなしに、その方法を考えつくのは、大変な困難が伴う。そして、このような困難が、生活のありとあらゆる場面に伴うものだとしたら、「自分らしさ」どころか、事実上、人間らしい暮らしが不可能になることは明らかである。

 つまり、自分が何かをしようと思ったら、既存のモデルの中から良さそうなものを選ぶというのは、効率がよくて合理的な方法なのだ。そして私達は、長い歴史の中で多くの人々がさまざまなモデルを蓄積してきた。もちろんその中には、時代遅れで使えなくなったものもある。しかし私達が、多様なモデルの蓄積の恩恵に預かって生きているということは、疑い得ない事実である。そして多くの場合、私達はそのことを、誰かに支配されているとか抑圧されているとは感じない。むしろ私達は、過去の幾多のモデルを活用することによって、内容豊かな生を送ることを可能にしているのである。

(「『自分らしさ』とジェンダー」より)

 私の考えを総論的に述べれば、ジェンダーは決してなくなることはない。ジェンダーがなくならないということは、一定以上の男女がジェンダーを維持し続けるということである。ただし、ジェンダーの中身は時代と共に変化する。これはフェミニストやジェンダーフリー論者が何も言わなくても(また、そういう人たちが存在しなくても)、必ず変化する。これは言語と同じこと。古典と現代文を見比べればわかる通り、言語というのは、改革論者がいなくても、日本語なら日本語という基本骨格を残しつつ、しかし固定不可能なものとして変化する。

(「ジェンダーフリーは性差否定である」より)

というあたりは、ぼくが前にこのブログで書いた主張とほとんど同じ。もっとも、神名さんの文章の方がはるかにうまくて説得力があるのは言うまでもありません(^^)。

 この人、そのへんの三流フェミニストよりも(もちろん、単に頭が固いだけの保守派よりも)はるかに性について深く考えていると思うので、性の問題に興味のある人はぜひ読んでみませう。

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やさしくない男で何が悪いっ!

 All About の「結婚生活ガイド」に掲載された「やさしい男で何が悪いっ!」という記事を読んでいたら、なんかウンザリしてしまいました(^^)。

「男は強く、たくましく、頼りがいがなくてはならない」という観念が、我が国には残っています。一昔前の『もてる男』は、男らしいタイプの人が多かったと記憶しています。「男気のある奴」、古くから誉め言葉として使われますね。しかし最近の『もてる男』は、「やさしい男」「面白い男」が浮上しているように思えますが、皆さまは、そんな気がしませんか?

とか書いてあって、「たくましい男」から「やさしい男」へのトレンドの変化みたいなことが話かと思ったんだけど、読み進めてみると、

女性側のちょっとむかつく言葉や仕草に遭遇しても、ワンクッション・一呼吸。 「自分がされてイヤなことは人にしてはいけないよ」と、怒ることなく、話してくれる男性。パートナーがもっと素敵な女性になるよう導いてくれる男性は、本物だと思います。

これって、結局、男性が高い目線から女性を引っ張り上げる、ということを期待しているわけですよね。ぼくなんかは、

男性側のちょっとむかつく言葉や仕草に遭遇しても、ワンクッション・一呼吸。 「自分がされてイヤなことは人にしてはいけませんよ」と、怒ることなく、話してくれる女性。パートナーがもっと素敵な男性になるよう導いてくれる女性。

がいいなあ、と思っているんだけど、そんなことを考えている男性はお呼びじゃないってことでしょうね(^^)。

でも逆にこういった男性は普通にしていると見つけることは困難です。このような男性を見つけるには女性も日々努力する必要があります。女性が努力していると、とても高い確率で見つけることができるようになります。

そういう努力をする気があるんだったら、言われなくてもむかつく言葉や仕草をしないような努力とか、ちょっとぐらい怒られても我慢する努力とかはしてくれないんでしょうか(^^)。

そうして、この諭しのお話し合いの繰り返しが何度も続けば、女性は「うちの彼といっしょにいると私はやさしくなれる。私ももっと彼にやさしくしてあげよう」この好循環サークルを創造することが可能なのです。

そういうサークルを作ること自体は賛成だけど、最初に循環を始めるのは、やっぱり男性の方なのね(^^)。

 てことは、結局、表現の形が変わっただけで、「やさしい男」=「たくましい男」なんじゃないの(^^)? まあ、ぼくは「ジェンダーはなくならない」論者だから、別にいいけど(^^)。どーせ俺はやさしくねーよ(とすぐスネるのが包容力のない証拠である)。 

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宗教的行為と意味

 人間の行為には、物理的に直接作用するものと、人間の感覚器官に働きかけることによって、人間の脳を介して間接的に作用するものとがあります。表現と呼ばれるものはだいたい後者で、言語表現はその代表的なものですが、儀式やセレモニーと呼ばれるような行為も、物理的な結果よりも、その行為が意味するものの方が重要な行為です。

 このような表現行為の持つ意味というのは、コード体系を共有する集団の中でしか伝わりません。いや、伝わらないだけならまだしも、別のコード体系によって別の意味付けをされることさえあります。したがって、このような表現行為の善悪を論ずるためには、誰と誰がどのようなコード体系を共有しているかを考える必要があります。

 イラクで亡くなった橋田信介さんの奥さんがイラクへ行くところをテレビで見ていたら、ちゃんとスカーフを巻いて髪を隠していたので感心しました。ぼくは橋田夫人のことをたいして知らないので、これは勝手な想像ですが、あれは別に橋田夫人がイスラム教徒に帰依しているというわけではなくて、イスラム教徒であるイラク人に敬意を表してやっているわけでしょう。

 この場合、イラク人たちと橋田夫人は、完全にはコード体系を共有していなくて、イラク人にとってのスカーフは「女性のすべき当然のたしなみ」というような意味を持っているのに対し、橋田夫人にとっては「イスラム教徒であるイラク人に対する礼儀」というような意味をもっているわけです。

 このような状況は、墓参などについてもよく見られます。どのように葬られるかというのは、亡くなった人の宗教によって決まるので、墓参する人が、自分の宗教がキリスト教だからといって、亡くなった仏教徒をキリスト教式に弔う、というようなことはしないわけです。

 勘のいい人は、そろそろぼくが何を言いたいか気づいただろうと思うのですが、念のため、ある意味これとは逆の例を挙げましょう。

 地下鉄サリン事件の後、オウム真理教の教徒が、未だに麻原を尊師と呼んでいるとかいうことに対し、事件を反省していないのではないか、という批判がありましたよね。それは、外部の者から見れば、そういう行為の一つ一つが、大量殺人を肯定するようなコード体系の一部をなす表現に見えるからです。

 でも、このような場合に、外部の者が、たとえば「麻原を尊師を呼んではいけない」みたいなルールを作って信者に守らせれば問題が解決するかといえば、そうではないでしょう。それは、信者の共有するコード体系から生まれた行為に対して、別のコード体系から勝手に意味付けをしているだけで、言わば、オウム真理教に対抗するために、反オウム教という別の宗教を作っているようなものです。

 この場合に問題なのは、あくまで、信者自身が自分の行為にどのような意味付けをしているかということであり、その意味付けが、外部の社会から見ても反社会的なものでないかということです。したがって、外部の者がやるべきことは、信者の真意をただすことであり、信者のやるべきことは、自分の真意をコード体系を共有しない者に理解できるように説明し、外部の信頼を得ることです。

 ぼくは、以上のような理由で、必ずしも軍国主義的な思想に共鳴しない首相が、純粋に戦死者に対する追悼の念だけで靖国神社に参拝するということもあり得ないことではないし、絶対的に否定すべきことではないと思っています。ただし、オウムの例と同じように、靖国神社の過去の歴史などを見れば、軍国主義の復活を懸念する方々が首相の真意を必ずしも信じられなかったり、いろんな悪影響を心配するのも無理はありません。

 ただ、そこで軍国主義の復活を懸念する方々の方が、いろいろ理屈をこねて「靖国参拝=軍国主義の復活」みたいな意味付けをするのは、「靖国教」に対抗するために「反靖国教」を作ることでしかなく、どこまで言っても不毛な争いの道だと思うのです。

 そうではなくて、軍国主義の復活を懸念する人たちは、素直に「首相の真意を信じられない」と言えばよいのだし、首相もそれに対して木で鼻をくくったような返答をせず、素直に信頼を得るための努力をすればよいのです(もちろん、参拝をやめてもいいが(^^))。分祀とか別の追悼施設とかいうのも、結局は、そういう信頼を得るための手段にすぎないのであって、どれが最も正しい方法か、などとゴチャゴチャ議論することは、文字通り不毛な神学論争にすぎないのではないでしょうか。

 実は、「日の君」問題についても同じようなことを感じているのですが、それはまた稿を改めて。

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エロスの TPO

 「気になる『景観』」というのは、自分としてはすごくわかりやすく説明したつもりなのですが、説明というのは、あまりわかりやすいとかえって誤解の元になるので、今度はあえて理屈っぽくわかりにくくパラフレーズしてみます(^^)。

 前にも書きましたが、ぼくは、ジェンダーというのはなくならないしなくす必要もないと思っていますが、社会が男女平等になったのに合わせて、ジェンダーを変える必要はあると思っています。その中でも特に重要なのは、女性(だけではないかもしれないが)がいつどこでどのようにエロスを表現するかだと思うのです。

 伝統社会においては、女性がいつどこで肌を見せるか、みたいなことも、ジェンダーの一部として決まっていたので、男性も「あれは挑発だろうか」みたいなことをあまり悩む必要はなかったわけですね。それが、男女平等社会になって、女性が自分の意思で自由にエロスを表現できるようになったのはいいんだけど、いかんせんまだ歴史が浅いので、その表現が男性のセクシュアリティを十分配慮したものになっていなくて、男性に余計なストレスをかけているのではないでしょうか。

 考えてみると、かつて男性中心社会において、女性のセクシュアリティがジェンダーによって覆い隠されていたように、男性のセクシュアリティもジェンダーによって覆い隠されていた部分があったと思うのですね。

 だから、男性自信も、男性はみなスケベであって、エロいものを見ると単純に喜ばなくてはならない、みたいな、男性中心社会のジェンダーに縛られてしまっているし、もともと、女性自身は、自分のエロスの表現が男性にどういう効果を与えるか、間接的にしかわからないので、男性が表面上喜んでいれば、たいして問題はないと思ってしまうのでしょう。

 また、伝統社会においては、そういうエロい表現を禁じるのに「はしたない」とか「ふしだらな」とかいう理由付けをしてきたわけですが、それも実は古いジェンダーによって捻じ曲げられた理由付けであって、真の理由は、人間にとってエロスというのは両義的であって、欲望の対象であると同時に不快な対象でもあるからだ、ということだと思うのです。

 したがって、実際には、男性だってエロい格好を不快に思うことは厳然としてあるのだから、はっきりそう言うべきだと思うのですね。それに対して「本当はうれしいくせに」みたいなことを言うのは、ほとんど、レイプされた娘に「本当は気持ちよかったくせに」というのと同じような論法なんだ、ということを女性も知るべきだと思うのです。

 結論としては、男性諸君は無理してスケベなふりをするな! そして、女性のみなさんもそれを素直に受け止めて、TPO に合ったより洗練されたエロスの表現を考えてみてください、ということですね。(それは、保守派の台頭を防ぐためにも必要なことなんですよ。)

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気になる「景観」

 景観の問題というのは、なかなか難しい問題ですよね。この問題も、ある種囚人のジレンマ的なところがあって、個人が自分の効用を向上させようとして自由に装うと、公共財としての「景観」の効用が低下してしまうというふうになっていますよね。誰か、この構造を数理的に分析した人とかいないのかなあ(^^)。

 まあ、建物なんかはまだ、短時間で位置を変えたりしないから、公共空間と私的空間という「場」によって切り分けるという手が考えられるけど、服装なんかは必ずしもそういうわけにはいかなくて、渋谷で遊ぶのにわざわざ渋谷に行ってから着替える、という人はあまりいないから、余計話がややこしくなってきます。

 ぼくが最近個人的に一番気になっている「景観」は、実は、あの、(言いにくいなあ(^^))一部の女子校生のスカートの短さなんですよね(^^)。あれ、迷惑だと思いませんか?

 向こうからすれば、見せてやっている、というつもりなのかも知れませんが、男の子だって、年がら年中エッチなことを考えているわけじゃなくて、今日は心穏やかに思索にふけりたい(^^)とか思っていることだってあるわけですよね。なのに、あんな生足を見せられたら、嫌でも発情させられてしまうじゃないですか。しかも、それを悟られないように一生懸命視線を逸らせようとしたりして、なんでこんな想いをさせられなきゃいけないのかと、情けなくなってくるんですよねー。

 これが相手がオトナの女性ならまだ、本人覚悟してやってんだろうからガン見してしまえっ、ていう手もあると思うんだけど(^^)、学生さんの場合は、そのへんが微妙なわけですよ。だから、女子高の男の先生とかは大変だと思うよね~。たてまえ上は、そういうことは考えてないことになってるわけだろうし、でもやっぱり少しは考えてるだろうし(^^)。

 また、この道は絶対女子校生の通らない道、みたいなのがあれば、生足を見たくないときにはそっちを通り、見たいときには別の道を通る(^^)、という方法もありうるけど、女子校生なんてそこらじゅう歩いてるから、そーゆーことすらできない(^^)。

 そんなのはお前がスケベだからだろう、と言われそうですが、そんなことを言い出せば、どんな騒音でも悪臭でも、精神力さえあれば耐えられるはず、みたいな話になってくるんであって、たいした必然性もないのにわざわざ人の精神力にストレスをかけるようなことするなよ、と私は強く言いたい訳です(^^)。

 だいたい、いまどき女子高の制服をスカートにする必要があるんでしょうかねえ。パンツスーツみたいなのでいいじゃん、とかいう主張はないのかなあ(^^)。最近流行の「エロカワ」みたいなのは、まだエロスと日常性を高次元で融合しよう、みたいな洗練が感じられるんだけど、単にスカートを短くして生足を出すなんて、ベタベタのベタであって、洗練のカケラもないじゃないですか。

 話がそれるけど、ぼくは最近感性が少し壊れかけているのか、女性がなんでスカートを履いているのか、不思議でしょうがなくなってくるときがあるんですよね。だって、みんなあの下にはパンツしか履いてないんですよ。えぇーっ? なんで? って思いません(^^)?

 そう言えば、忙しくてレビュー書いてるヒマなかったけど、森岡さんの「感じない男」というのはかなり面白かったです。男性諸君、もっと自分のセクシュアリティを直視しましょう、ということですね(^^)。

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オブジェクトの比較

 ここ数回、暴論シリーズが続いたけど、さらに続けます(^^)。

 オブジェクト指向のプログラムを書いたことのある人なら知っていると思うけど、オブジェクトの比較には 2 種類の方法があります。一つは、オブジェクトの属性(メンバとかプロパティとかいろんな呼びかたがある)を一つ一つ比較して、すべて一致すれば同一とみなすというやり方。もう一つは、オブジェクトのポインタやハンドルを比較して、一致すれば同一とみなすやり方。

 人間に例えるなら、前者は、身長も体重も顔も体型も性格もすべて一致するので、マナちゃんとカナちゃんは同じだ、とみなす方法。後者は、どんなにそっくりでも、マナちゃんとカナちゃんは別人だ、とみなす方法、ということになります。

 そうすると、前者は経済原理に対応し、後者は愛情原理に対応している、と言えるのではないでしょうか。そして、この両者をどう切り分けるかが、社会設計においても、個人の生き方においても、重要なポイントなのではないかと思うのです。

 経済原理の世界では、生産のための合理性を重視するので、代替可能なものはどんどん代替して、もっとも低コスト高生産性の組み合わせを見つけ出そうとする。同じものを買うなら、少しでも安い店に行く。というのが経済合理性の世界ですね。

 一方、愛情原理の世界は、関係性重視の世界です。たとえ他の属性がまったく同じであっても、固有名詞が違えば別人とみなすということは、その人自体よりも、その人と他者との関係性を重視しているということです。

 もちろん、経済原理の世界でも、他との差別化をはかることにより、代替不可能な存在になり、固有名詞として認知されるようになった人や会社もあります。

 ぼくが、ニートの人とかの将来の夢とかを聞いて感じるのは、彼らのなりたい職業というのは、そういう固有名詞として認知される職業が多いということです。そうすると、彼らが求めているのは、実は、経済的な成功といよりも、代替不可能な存在になりたいということではないか、という気がするのですね。しかし、それを経済の世界で実現できる人はごく一部ですし、また、必ずしも経済の世界で実現すべきことでもないのではないでしょうか。

 ぼくは、島田紳助さんの本を一冊だけ読んだことがあるのですが、その中で最も感心したのは、「友だち同士は助け合わない」という言葉でした。本当だかどうだか知りませんが、彼は、たとえ友人の会社が潰れて借金取りに追われていても、金銭的な援助をしたりはしないそうです。

 これは、経済原理の世界と、愛情原理の世界を切り分けるための、一つの知恵だと思うのですね。もちろん、たとえ友だちであっても、貸した金は高利貸しのように取り立てる、という方法もあると思うのですが、人間なかなか同じ人間相手にそういうふうには態度を使い分けられないですからね。

 ぼくが LF 問題のときにフジテレビやニッポン放送に対して感じた不満は、彼らには、この両者をどこで切り分けるかという哲学が感じられないということ。にも関わらず「愛情」などという煽情的な言葉を振り回して、周囲の同情を買おうとしていたことです。

 先日、ケイレツの復活傾向が報じられていましたけど、これも別に、長期的な取引関係にメリットがあるのは当たり前だし、そのこと自体が悪いわけじゃないと思うんですね。むしろ問題は、ルールが不明瞭で、ほんとうに長期的な取引関係が望ましいからやっているのか、それとも、人情の次元でやっているのかがはっきりしないことじゃないんでしょうか。だから、使っている方も、都合が悪くなると一方的に取り引きを打ち切ったりするし、使われている方も、感情的に切りにくくするために余計なコストを払っていたりする。こういうのも、ぼくなんかから見ると、経済原理と愛情原理の切り分けができていなように見えるわけです。

 もともと、経済原理と愛情原理には相容れない部分があるので、それをどこで切り分けるかについては、社会倫理としてある程度の合意があるべきだと思うのですが、少なくとも、個人の生き方としてこの両者をどう使い分けるかぐらいは考えておくべきだと思うし、ぼくはそういう人が好きです。

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プロテスタンティズムの倫理

 これはぼくの勝手な暴論にすぎないんだけども、例の「プロテスタンティズムの倫理」というのも、カルヴィニズムがどうこう言う以前に、実は、キリスト教圏のある種特殊な家庭観とか愛情観の影響も大きいんじゃないかという気がしないでもないのね。イスラム圏が近代化に苦しんでいるのも、ひょっとしたら、一夫多妻制のせいじゃないか、とかね(^^)。

 キリスト教圏の性に対する考え方がいかにへんてこりんかというのは、主に最近のフェミニストが書いた洋書で面白いのがいっぱいあるので、そのうち紹介してみようかと思っています(^^)。フロイト理論とか「性の解放」の本当の意義というのも、多分、その辺を知ってないとわからないと思うのね。

 前に「ぼぼ日」で「日本人はエッチか」という投票をやって、たしか「そりゃあもう本当にエッチである」ということになったと思うんだけど、ぼくの感じでは、日本人のエッチとキリスト教圏のエッチでは、同じエッチでもエッチの質が全然違うと思うの。つまり、日本には、もともと対して性的抑圧がないから、日本人は単におおらかにエッチなんだけど、キリスト教圏のエッチは、すさまじい抑圧を乗り越えてのエッチだから、妙に力の入ったエッチなのね(^^)。

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金と愛

 最近、中流崩壊とか意欲格差社会うんぬんの本を、ちょっとまとめて読んでいるのですが、何かポイントをはずしているのでは、という気がしてなりません。

 仮に、世の中を、経済原理の支配する領域と愛情原理の支配する領域に分けたとすると、世界的には経済格差とかの方が断然問題でしょうが、日本の国内に限って言えば、愛情原理に支配される領域、つまり、性とか家庭とかの問題のほうが重要な気がしてなりません。もちろん、単なる直感ですけど。

 最近のリベラリストは、性とか家庭とかの問題についてはリベラルだけど、経済の問題については、新自由主義とかグローバリズムに対する反発からか、むしろ保守的な人が多いような気がするんだけど、ぼくはむしろ逆で、経済的にはもっと自由化を進めてもいいと思うんだけど、性とか家庭とかについてはもう少し保守的になったほうがいいんじゃないかと思ってるんですね。まあ、これも半分直感だけど。

 なぜかっていうと、経済の世界では、競争によって全体のパイが増えるという効果があるのに対し、愛情の世界では、競争を厳しくしてモテるヤツは何人彼氏/彼女をつくってもいい、みたいにしたからといって、社会全体の愛情の総量が増えるわけではないでしょう? 

 また、経済の世界は、ミカンよりリンゴの好きな人でも、リンゴ 1 個対ミカン 5 個なら交換に応ずる、みたいな、ある種の代替性があることが前提になっているけれども、愛情にはそういう代替性もあまりないでしょう? というか、より正確に言えば、エロスとかアガペーとかいろいろある中で、そういう代替性のない愛情というものを、人間はどこかで必要としているのではないかと思うわけです。

 そうすると、愛情の世界にまで完全自由競争を持ち込むのは間違いで、経済原則の領域と愛情原則の領域は分けとかなくてはいけないんじゃないかという気がするんですよね。

 日本で経済格差が問題になっているのも、実は、格差そのものが問題だというよりも、むしろ、愛情の世界にまで自由競争原理が忍び込んできたために、愛情原理の通用する領域が狭くなり、経済的な弱者が愛情の世界でも弱者になってしまう例が増えてしまったからではないでしょうか。そのため、「金なんかなくても愛されあれば」とか、「ボロは来てても心は錦」みたいに、経済的な弱者がそれなりにプライドを持って生きることが難しくなっているということはないでしょうか。

 逆に、愛情原理の領域がしっかりしていれば、多少貧しくたって、大多数の人は平気なのではないかなあ。ぼくは、人間にはあえて(経済的には)貧しく暮らす自由、っていうのもあると思うし、生存権に影響しないような細かい経済格差にあまりこだわるのは、かえって裏返しの拝金主義のような気がするんですよね。

 疑似科学とかにはまる人が本当に求めているのも、実は「愛」なのではないかなあという気がしないでもないですね。本人たちにもあまりそういう自覚はないみたいだけれども(^^)。

 「電車男」ならぬ「電波男」は読んでないけれども(実は「電車男」も読んでない(^^))、何を言いたいかは想像がつかないでもない。でも、そういうオタクの人たちも、結局、無償の愛を注いでくれる萌えキャラを金で買っているわけですよ。つまり、これもある種、金より愛が問題なんだということを示す例証ではないでしょうかねえ。でも、それで本当に満足できるんなら、「無償の愛」は「萌えキャラ」で代替可能であるということになるので、経済原理一辺倒でいける、ということになっちゃうかも知れないんだけど(^^)。

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コンビニにサイゾーが

 近くのコンビニで「ザイゾー」を売っていたので買ってみました(昨日は「Windows 100%」を買ったし、前には「週刊東洋経済」を買ったこともあるし、コンビニで売る雑誌もだんだんマニアックになってきたような気がしますね(^^))。もっとも、サイゾーに連載している山形浩生さん自身は、サイゾーはグラビアしか読まないとか書いてたけど(いいのか(^^)?)。

 月刊誌なので、今頃になって少女監禁ネタとかが話題になってるんだけど、その中でも、「オタキング」岡田斗司夫氏が「mixi 日記」で書いてる意見が面白かったので、ちょっと引用。

ずいぶん昔だけど、連続幼女殺害事件、いわゆる宮崎勤事件の時にも思ったんだけど、「こんな奴はオタクじゃない!」とか、「こいつはオタクでダメな奴だけど、俺は違う!」とか、そういうの、無駄だと思う。もう、はっきり認めようよ。「萌え」という感情は、「鬼畜」と表裏一体の関係にあるんだよね?

(中略)

同じように「僕たち善良なオタク」だって、いつ「鬼畜」へと裏返るかもわからない。そのギリギリまで妄想を高める、高度な精神的ゲームをやっているわけじゃない? その中で、ゲームのルールや主旨を取り違える奴が出てきても、そりゃ仕方ないよ。いろいろ報じられてるけど、それに対して「いや、あんな奴は特別で」って言えるのは、一回だけだと思うよ。もう無理。その防衛線は。少なくとも、「こういう監禁事件と、萌え系ゲームは関係ない!」とは、もう言い張れないと思う。じゃあどの辺を防衛線にするのか、そして、その意見をどいつに代表して言わせるのか。そういう政治的な判断が、そろそろ僕たちには必要なんじゃない?

 やっぱり、いまだに表現の自由論とか振り回している人にくらべると、岡田さんははるかにアタマがいいですね。

 相関関係が立証されていない、という意見もあるけど、立証されるまで待っていられないということだってあるんで、そんなことを言うなら、首相の靖国参拝と戦争の間には有意な相関がないから首相は靖国に行ってよいとか、あるいは、ギャルゲー禁止論とファシズムの間には有意な相関がないからギャルゲー禁止論を唱える人はファッショじゃない、みたいなことだって言えなくもない。だから、すぐに法的規制に走るのは勇み足だとしても、少なくとも、そこに何かしら関係があるのでは、ということを論ずる価値はあると思うのです。

 よく言われるけど、今の時代の特徴っていうのは、文化的な規制力が弱まって、あらゆる価値観が同一平面上に配置されてしまったことだと思うんですね(宮台さん風に言えば、「島宇宙化」ってことになるのかしら。使い方間違ってたらゴメンなさい)。もちろん、そのおかげで多様な価値が許容されているわけだけれど、それが、反社会的な価値観が温存される土壌にもなっている。そして、それをコントロールしようとすると、法的に規制するしかない、みたいになっちゃってるわけです。

 もちろん、市場での淘汰というのもあるんだけど、前にも書いたように、市場の競争というのは消費者の価値観に対してはわりと中立的であって、競争に適応的でない価値観を持つ生産者は淘汰されるんだけど、特定の価値観を持つ消費者を淘汰するような方向にはあまり働かない。もちろん、フォーディズムによる大量生産時代には、生産者の都合で消費者が淘汰されるということもけっこうあったと思いますが、多品種少量生産の時代になると、そういう傾向はますますなくなってきている。その一方で、市場外での文化的な淘汰力というのはむしろゆるくなって、淘汰よりも棲み分けでやりすごすような方向に向かっている。

 だから、法的な規制を防ぐためには、逆に、文化的な淘汰の力を強化する、つまり「やっぱり鬼畜って変じゃない?」みたいなことをもっと言論の場ではっきり言う必要があると思うんです。それによって、鬼畜がメジャーな感性なのかマイナーな感性なのか、いい鬼畜とわるい鬼畜の違いはどこかをはっきりさせる。マイナーな価値観だということがはっきりしていれば、それでも俺には鬼畜しかない、みたいな人しか入ってこないだろうし、そういう人にはそれなりの覚悟や理論武装があるはずだから、かえって安全かも知れない。

 これは半分冗談だけど、たとえば、鬼畜の好きな人が集まって、「全日本鬼畜連盟」みたいな自主団体を作り、「鬼畜免許」を発行するというのはどうでしょう。そして、正しい鬼畜道を歩んでいる人だけが鬼畜グッズを買えるようにするわけ(^^)。もちろん、鬼畜免許は定期的に更新し、そのたびに鬼畜のダークサイドに堕ちた人の実録映画とかを観てもらいます(^^)。

 なんか矛盾したことを言ってるように聞こえるかも知れないけど、一応ちゃんと考えてるつもりです。つまり、成熟社会においては、思想信条の自由があるから、鬼畜の人だからと言って政治的権利が奪われることはないし、市場も価値中立的だから、コンビニで商品が売ってもらえなかったりすることもない。だからこそ、言論の場では忌憚なく批判し合うことができるわけです。逆に、前近代社会では、そういう役割分化が未熟で、言論の場の対立がそのまま権力闘争の場や市場に持ち込まれてしまうおそれがあるので、言論が抑圧的にならないように気を使わなくちゃならなくなる。

 こういう役割分化した社会で、言論の場で価値形成を図らなかったら、いったいどこで価値形成を図ればいいのか、っていう話ですよね。まったく淘汰圧のない社会では、あらゆる個人的な欲望が自堕落な成長を遂げてしまい、他者との衝突、それも猟奇犯罪のような最悪の衝突を生んで、初めてその奇怪さに気づくようなことになりがちなのではないでしょうか。それを考えれば、言論の場での適度な淘汰圧というのは、やっぱり必要だと思います。

 そのために求められるのは、決して差別や社会的地位の低下を意図するものではなく、むしろ、個人の価値形成を助けるような、率直な批判の言葉だと思うので、そういう時代にふさわしい批判言語というものを考えてみたいですね。

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少子化対策もいいけど

 ぼくは、少子化対策もいいけど、この際もっと移民政策を真剣に検討したらどうかと思っています。

 もちろん、来たい人はみんな入国させろなんていう非現実的なことを言ってるわけじゃありません。ちゃんと、日本人としてやっていける資格があるかを審査して入国させればいいと思うのです。その審査の一環として、学力、職能、日本の文化に対する知識、倫理観などの試験を行えば、その試験の難易度次第で、入国する人のレベルも人数もいかようにも調整できるでしょう。そうして、合格した人には、ちゃんとした日本の市民権(シチズンシップ)を与えるようにします。

 うまくすれば、日本に優秀な人材が入ってくるわけだからそれ自体が日本の国益になるだろうし、その人たちが日本と母国との架け橋になってくれれば外交的な資産にもなるし、日本で質の高い教育やスキルを身につけた人が母国に帰って母国のために働けば、南北格差の解消につながって世界平和にすら役立つかもしれない。

 だいたい、日本だけ見れば少子化かもしれないけど、世界全体で見れば、依然として人口は増え続けているわけでしょう? そしたら、移民の方が、世界の人口には影響を与えず日本の人口だけ増やせるんだから、少子化対策よりいいと思うんですけどねえ。

 それに、子供をたくさん作る文化の人が日本に入ってくれば、日本人も影響を受けて、また子供を作り出すなんていう可能性もあるんじゃないかな。

 今の世の中では子供を作りたくても作れない、っていう意見もあるようだけど、それは半分ぐらいは嘘じゃないかと思ってるんです。だって、昔の日本人は、今の日本人の平均よりはるかに経済的な余裕のない人ですら、やたらと子供を作って、ひーひー言いながら育ててたんですから。それが、経済的には明らかに豊かになっているのに子供を作らなくなったっていうことは、どう考えても、そんな苦労やリスクを背負ってまで子育てをしたいと思わなくなったという、家庭や子供に対する意識の変化も考えないと説明がつかないと思うんですよね。

 でも、共産党支持を公言してるぐらいリベラルな友人ですら、この話にはあまりのってくれないんだよなあ。なんでだろう(^^)。

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お金は大事だよ

 お金というのは不思議なもので、ほとんどの人がお金を欲しがっているのは間違いないのですが、その一方で、金目当てで行動する人が蔑まれたり、金銭欲がなくて質素な生活をしている人が尊敬されたりします。つまり、人間は明らかにお金に対してアンビバレンツな感情を持っています。これはなぜなのでしょう。

 そもそも、人がお金を払うのは、自分にとって価値のある財やサービスを得るためですから、お金というのが何らかの価値を体現しているのは間違いないわけです。ところが、その価値の元になる価値観は、人によって違うし、同じ人の中でも、場合によって違っています。だから、ノーベルさんみたいに、ダイナマイトを作って儲けたお金を世界平和のために使ったりすることもできるわけです。

 つまり、お金というのは、人間にとってある種の価値を体現しているものであると同時に、ある種没価値的でもある(むしろ汎価値的と言った方がいいのかもしれませんが)わけで、これが、多くの人がお金に対してアンビバレンツな感情を抱く理由なのだと思います。

 けれども、実はこれこそがまさにお金の強みでもあって、この没価値性が価値観の変換装置として働くことにより、異なる価値観や技術を持つ人たちが、互いに協力し合うことが可能になっているのです。特に、近代民主主義の掲げる「自由」という価値は、市場とお金がなければ、絵に描いた餅でしかなくなることでしょう。

 前にも紹介しましたが、「帰って来たウルトラマン」の中に「怪獣使いと少年」という伝説的なエピソードがあります。その中で、村八分にされている少年がパン屋に門前払いを喰うのですが、後からパン屋の娘がパンを持って追いかけてきます。 そこで少年が「同情なんてしてもらいたくないな」と言うと、「同情なんかしてないわ。売ってあげるだけよ。だってうちパン屋だもん」 と答える有名なシーンがありますが、これなんかも、市場と自由の関係を象徴的に示しているシーンだと思います。

 そのように考えれば、社会の総生産が増えるということは、人間にとってなんらかの意味で価値のある財やサービスが増えるということとイコールなのですから、基本的にはよいことだというしかありません。もちろん、囚人のジレンマによる市場の失敗などが示すように、個々人にとっての効用の増加が社会全体の不効用の増加に結びつびついてしまうとか、一部の人の利益が他の人の不利益に結びつくとかいうこともありますが、すべての交換が正当な等価交換になっていないというシステムの問題なのであって、お金自体が本質的に悪いものだからではありません。

 したがって、そういうシステムの欠陥をすべて除去してもなお、お金が「悪いこと」に使われるとすれば、それは、そういうお金の使い方をする人間の価値観の方が間違っているのだというしかないはずです。もっとも、世の中の大多数の人が価値があると思っているものを、誰がどういう権利で間違っていると言えるのか、というのはかなり難しい問題ですが(^^)。

 金儲けに汲々とする人が蔑まれてきたのも、その中に必ずしも社会全体の富を豊かにしないような人や、一部の人に不当に不利益を与える人が含まれていたからでしょう。しかし、繰り返しますが、それはシステムの問題であって、市場経済のシステムというのは、もともと、自分が豊かになりたいという欲望をインセンティブにして社会全体を豊かにするするという戦略なのですから、金を儲けたいと思うこと自体を責めるのは、矛盾しているというしかありません。

 たとえば、たくさんお金を稼いで、自分に必要な分だけ残して全部寄付をするという人と、最初から自分に必要な分しか稼がないで質素な生活をするという人の、どちらが社会により貢献しているかと言ったら、明らかに前者です。(特に、日本のように累進課税の国ならなおさらです。)

 実は、ぼく自身はどちらかというと後者で、自分さえ喰っていければ、それ以上無理して稼ぐより、好きなことして気楽に暮らしたほうがいいやと思ってしまうタイプなんです。だからこそ、自分に対する戒めもこめて、自分一人では使い切れないくらいたくさんお金をかせぎ、たくさん財やサービスを生産し、たくさん税金を払ってくれている人たちに対する尊敬の気持ちを忘れたくないと思うのです。

 こんなに豊かな社会なのに、それ以上豊かな生活を求めてどうする、みたいな意見もありますが、現在、豊かさを求めなくていいと思えるほど豊かなのは、まだまだ日本を含めた先進国の一部でしかありません。したがって、そんなに豊かなのがいやなら、質素な生活などせず、金を稼ぎまくった上で、余分な金を全部最貧国に寄付なり投資なりすりゃいいのです。もちろん、ぼくだってそんなことできないけど(^^)、理屈の上ではそういうことになるはずです。

 そういうわけで、豊かさの追求をやめるのは、少なくとも、南北格差がなくなってからでも遅くないと思うのです。斎藤貴男さん風に言うなら、「そのせいで最貧国の人がより豊かになる可能性がなくなるんだったら、質素な生活なんてしたかないですよ。」と言ったところか。ちょっと挑発的すぎますかね(^^)。もちろん、最終的には個人の自由ではありますが、まっとうにお金を稼いでる人は、もっと社会的に評価されていいと思うのです。

 そして、そのようにして生産された財やサービスがくだらないものばかりであるとすれば、それは、生産する側よりも、むしろ、消費する側の責任なのであって、そのような消費文化の貧困を解消するためにこそ、山崎正和さんや糸井重里さんの言うような、「消費のクリエイティブ」が考えられなければならないと思うのです。ちょっと強引なまとめですが(^^)。

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Edy カード

 近所のコンビニで Edy カードを売っていたので、どのぐらい使えそうか、ちょっと調べてみたけど、お店でチャージして使うんじゃあまり意味がないような気がするし、かと言って、ケータイは大嫌いなので、そのためだけにおサイフケータイなんて買いたくないし、やっぱり、Felica 用のカードリーダー・ライターであるパソリを買って、自宅でチャージしたほうがいいんでしょうね。これ、3千円ぐらいで、Suica とかのデータも読めるらしい。

 クレジットカードと比較したときの利点は、1.支払いが素早くできる、2.セキュリティ、3.ポイントやマイレージの分得かもしれない、といったところでしょうが、個人的には今ひとつ魅力がない感じですね。まあ、子供のおこづかい代わりに渡すとか、治安の悪いところに遊びに行くときに持っていくとか、そういう特殊な用途には使えるかも知れませんが(^^)。あとは、社員食堂とか、社用の交通費とかの支払いとかにも使えるのかもしれないけど、いまいちピンとこないですね。

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堅実さに好感

 「出会い系サイトと若者たち」渋井哲也著

 本書の内容は、

  • 出会い系サイトの歴史、分類、統計などの、基本的データ
  • 出会い系サイト利用者へのインタビュー
  • 出会い系サイト関連事件のルポ
  • 出会い系サイト規制法の成立経緯と問題点

から構成されています。

 一般に、ノンフィクションというものには、著者の主観的な感想の多いエッセイ的なものと、事実中心のドキュメンタリーとがありますが、この本は圧倒的に後者で、著者自身の主観的な意見は最低限に抑制され、あくまでファクトの積み重ねにより構成されています。

 そのせいか、印象的にはかなり地味ですが、「出会い系サイト」というテーマの性質上、煽情的な筆致の本や、生煮えの仮説を振り回すような本が多いの中にあって、その堅実な筆致にはかえって好感が持てました。

 したがって、まず出会い系サイトの問題に関する基本的な事実をきちんと押さえたい、という人には、わりとお勧めできる本ではないかと思います。

 ただ、児童を売春の処罰対象にすることに対する著者の反対論については、必ずしも納得しませんでした。これについては、時間があればあらためて論じてみたいと思います。

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世代 VS 年代

 統計を年齢層別に分析したものってよく見ますけど、特定の時点でとったスナップショット的なデータの場合、年齢層による差は、年代的な差によるものと、世代的な差によるものの、二通りの可能性があるはずですよね。たとえば、

  • 10 代 : C
  • 20 代 : B
  • 30 代 : A

というふうに分かれたとすると、それが年代的な差であるなら、10 年後に調べても、

  • 10 代 : C
  • 20 代 : B
  • 30 代 : A

となるだろうけど、それが世代的な差であるなら、10 年後は、

  • 10 代 : D
  • 20 代 : C
  • 30 代 : B

というふうになるはずで、同じようなデータでも、将来の予測はぜんぜん違ってくるはずなんですよね。

 先日、小中学生はパソコンのメールを使う割合が多いが、高校生になると携帯メールの割合のが増えるとかいう統計データを見たのですが、このどっちにあてはまるのだろう、とちょっと疑問に思ったのでした。まあ、実際に子供と接している人には、直感的にわかることなのかもしれないけど。

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教養の差

 稲葉振一郎氏の読書ノート、ひさびさの更新。感心したので長いけどちょっと引用。

実のところ社会学というのは――少なくともデュルケムからこっち、20世紀のあらかたは――まさにこの「型」の科学であった。デュルケムの「社会的事実」もポスト構造主義の「エクリチュール」も、更にはルーマンの「システム」もブルデューの「ハビトゥス」も、みんなみんなこの「型」、つまり「構造」理論にはまりこむか、あるいは積極的にはまってはいなくとも結局足をとられてしまったか、であった。

 そのどこがおかしいのか。どの辺でこうした潮流は、かつての威信を失ってしまったのか。思うにそれは「構造」の「再生産」という理論構図にあったのではないか。大雑把に言えばこれらの「型」においては、個別的な実践主体としての人とその社会集団に先立って、人々の思考と行為をかたどり方向付け拘束する「構造」が存在し、その「構造」は人々の社会的な生の実践を通じて再生産されていく――という構図があった。しかしながら「ドーキンス革命」以後の我々には、ここに抜け落ちていたものが何かは明らかである――「状況」あるいは「環境」だ。

 実はドーキンスの理論も、ある意味では「型」を継承してはいる。実のところ、彼の言う「遺伝子」も「ミーム」も「型」「構造」の一種だ。では一体ドーキンスのどこが新しかった(というのは正確な言い方ではないが)のか? 「進化」ではない。より正確に言えば「構造」の変異のメカニズムとしての「突然変異」ではない(むしろそこはブラックボックスだ)。そうではなく、「構造」というマトリクスを実現する生き物個体や社会的実践が、そこにおいて適応の善し悪しを自然選択のテストにかけられるフィールド、すなわち「環境」というファクターが入っているところが、ドーキンスの理論のポイントである。

 ところが従来の「型」にはまった「構造」社会学のほとんどは、「構造」と「環境」の区別を見失っていたのではないか。ドゥルーズ&ガタリの構造主義批判や、あるいはルーマンのシステム論なども、この辺の問題に気づいていたが、どういうわけか一種の袋小路に入っていった――ありていに言えば、外界との生産的な対話のルートが意図してかせずしてか断ち切られ、カルト的に自閉していった。その結果が今日の、進化的認知科学による社会科学包囲の始まりにつながっているのではなかろうか。

 そうそうそう、ぼくもそういうことが言いたかったんだよぉ~、でも、教養のないアホだから言おうと思ってもうまく言えなかったんだよぉ~(^^)。くすん。

 ルーマンって、つまらなそうだから読んでなかったんだけど、西垣通氏の「基礎情報学」を読んで、やっぱり読んどいたほうがいいかと思って、馬場靖雄氏の「ルーマンの社会理論」をちょうど買ってきたところなんだよね。でも、これ見たら、やっぱり読む気がなくなってしまった。(そんなんだからダメなんだよね(^^))

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Diploma Mill

 今日のクローズアップ現代は、いわゆる Diploma Mill (番組中では「学位工場」と訳してました)の特集でした。

 Diploma Mill からのメールは、ウチにも毎日のように来るのですが、ナイジェリアの大富豪からのメールとか、おめでとう宝くじに当りましたメールとかと同じように、すべてスパム扱いです(^^)。でも、番組では、日本から応募している人もいると言ってましたね。

 番組中では、Diploma Mill と普通の大学との線引きが難しい、とかいってましたが、そりゃそーだろうと思います。だって、大学の権威っていうのは、形式ではなく、実績の積み重ねによるものですからね。カリキュラムだって自由に作れるし、教授になるのだって資格があるわけじゃない。そこが大学のいいところで、あまり型にはめてしまったら、本来大学に求められる先端的な教育ができなくなってしまうでしょう。

 もちろん、あまりにも学校の体を成してないものは規制できるでしょうが、非常に野心的な教育を行っている大学と、非常に質の悪い大学と、純然たる詐欺との線引きはかなり難しいので、学位をとる人や評価する人が自己責任でやるしかないんじゃないですかねえ。せいぜい、第三者の格付けを利用するくらいで。

 検索したら、こんなの見つけました。こりゃ完全にジョークだね(^^)。本気にしたらアカンよ(^^)。

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内面を裁くときの作法

 「ボウリング問題」に対するマスコミの姿勢について、前回はやや搦め手から批判してみましたが、今度は、もう少し本質的な問題点について考えてみたいと思います。

 そもそも、マスコミがこの「ボウリング問題」を取り上げる理由としては、以下の 3 つがあると思います。

  1. 組織の体質を示す傍証
  2. 道徳的によろしくない
  3. 被害者や遺族に不快感を与える

 1 は、事故の原因を検証する活動の一環ですから、他の取材との軽重を考えるべきである、ということは前回指摘したので、今回は、2 と 3 について考えて見ます。

 事故の直後にボウリングに行くことが、なぜ道徳的によろしくないとみなされるかというと、ボウリングというのは娯楽であり、本気で反省している人間が娯楽に興じられるはずがないので、反省していないはずだ、というロジックだと思われます。

 しかし、反省というのは、あくまで個人の内面の問題なんですよね。そして、内面の表現方法というのは、人によっても文化によっても違うし、第三者が他人の内面を知ることのできる範囲にも一定の限界があるはずです。

 たとえば、お葬式の場で誰が本当に悲しんでいるかということだって、そう簡単にはわからないことでしょう。一番悲しいはずの人が、わざと気丈に振舞って笑顔を見せていることもあれば、たいして悲しくもないのに、泣き崩れている人もいる。それを、お前は本当に悲しんでいるのか、などと問いただしてもきりがないし、逆に、泣いていない人は悲しんでいない、みたいに決め付けても、形式主義になって、形だけ泣いてみせる技術、みたいなのが流行るだけでしょう。

 JR 西日本の問題でも、二次会などでお酒を飲んだことが問題になっているようですが、通夜振る舞いとか精進落としだってお酒を飲むわけだし、彼らがお酒の席でしみじみと事故について語り合っていた可能性だってないではないわけです。

 こんなことを書くと、その席でも馬鹿笑いの声がしていた、みたいなことまで取材されそうな勢いですが、そんなことを言いたいわけではなくて、私が言いたいのは、他人の内面と言うのは、第三者が軽々しく決め付けることはできないということです。

 もちろん、長年いっしょに暮らしている家族、付き合いの長い友人、学校の部活仲間、企業内の小集団などの中には、あきらかにこいつ反省してない、と言い合えるような関係もあるでしょう。しかし、それは、お互いに利害を共有していて、相手の反論も許しながらとことんまで話し合うことができるような関係だから成り立つことで、第三者が軽々しくできるようなことではありません。

 それを無理に追求しようとすると、JR 西の職員一人一人の生活を朝から晩まで監視するみたいなことになりかねないし、それも、都合のいいところだけ切り貼りしたんでは不公平だから、一日中カメラ回しっぱなしで撮ったものをそのまま放送して、視聴者の評価を仰ぐみたいな、ほとんど人権侵害みたいなことをしなきゃならなくなるでしょう。

 かと言って、なんらかの判定基準をもうけようとすれば、宴会がダメなら食事はどうか、食事の金額を制限する必要はないのか、お笑い番組を見てもいいのか、バラエティとお笑い番組はどうちがうのか、お笑い番組でもつまらなければいいのか、バナナはおやつに入るのか、みたいなどんどんくだらない形式主義になっていくだけでしょう。

 つまり、いずれにせよ、他人の内面を裁くことには一定の限界があるし、特に、不特定多数の第三者が公の場で裁く際には、なおさら慎重であるべきだということです。

 もちろん、当人の内面はどうあれ、被害者や遺族の立場から見れば不快そのものである、という観点はあって、上の分類で 2 と 3 をわざわざ区別しているのもそのためです。 つまり、3 は 2 と違って、道徳と言うよりマナーの問題ですから、社会慣習として不謹慎とみなされていることはしないようにしよう、というような形式主義でもそれなりに有効なわけです。また、報道する側からしても、私的なことについては、わかっていても、あえて報道しないでおこう、という考え方もできるでしょう。

 そう考えると、これはやはり節度の問題で、ボウリングをしたということを報道するだけなら、社会慣習に反するという形式主義の観点で説明できるでしょうが、二次会のレシートまで公表したりすることには、(個人の内面を公の場で裁くことにつながるので)もっと慎重であるべきだと思うのです。

 誤解を恐れずに言えば、そういう内面と外面の区別がなくなった一つの極限が、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」みたいな標語が蔓延し、女の子の化粧や野球の英語にまで文句をつけた戦時中の社会でしょう。今のマスコミの報道を見ていると、マスコミでよく言う戦争の記憶の風化がこんなところにも表れているんだなあ、などと皮肉の一つも言いたくなってしまいます。

 もちろん、遺族や被害者の方は、JR 西の社員の内面まで信用できるようにならない限り、彼らを心から許すことはないでしょう。しかし、それはあくまで当事者同士の問題であって、第三者が恣意的に干渉すべきことではない、と思います。

追記:「報道ステーション」を観ていたら、また、JR 西の職員が JR という名前を隠して宴会をしていた、なんてことまで「摘発」されていましたが、そういうことを続けていって、いったい何がやりたいんですか? JR 西の職員が、決して宴会をせず、人前で笑顔を見せないようになったら、それで満足です