偶然の必然化戦法にはコストのシェアで対抗せよ

 タイトルからは想像つきにくいと思うけど、今回書きたいのは、例の「靖国」という映画の上映自粛問題とか、ちょっと前のプリンスホテルと日教組の問題とかについてである(^^)。

 ご存知の人も多いと思うが、どちらの問題も、右翼からの圧力を怖れて、民間企業が特定の客や商品の取り扱い避けたという話。それに対して、言論の自由を守るためにもっとがんばれという意見もあれば、責任は右翼およびその損害を防げない国にあるのであって、一民間企業が甘んじて損害を受ける義務などない、という意見もあるようだ。

 この手の議論を見ていつも思うのは、そもそも、「責任」という概念の定義をはっきりさせないまま、責任があるとかないとか言ってることが多いということである。最近流行の「自己責任」に関する議論もそうで、そもそも「責任」という概念自体が共有できてないから、不毛な議論になってしまう。

責任とはアプリオリに決まっているものではない

 実は、かつて「責任論」というのが流行ったことがあって、その頃にもいろんな人(柄谷某とか奥村某とか)の責任論に目を通したが、正直、どれ一つとして納得のいくものはなかった。

 このような責任論の多くでは、そもそも、責任というのが何か物理法則か何かのようにアプリオリに決まっていて、人間がやるべきことは、どこに責任があるのかを発見することだけであるかのような論法になっている。ぼくに言わせれば、そもそもこの認識が間違い。そうではなく、責任とは、社会が決めるお約束なのである。

 本来なら、ここでぼく自身の「責任論」を展開しておくべきなのだろうが、残念ながらその余裕はない。しかし幸い、ぼくの考えを代弁してくれているような学者の方がいるので、今回はその権威に頼っておくことにする(^^)。 

「責任」とは、「権利」や「義務」と同じように「構成的な概念」であって、石や水のように客観的に存在しているものではない。それは、社会の中で人々がなんらかの(しばしば暗黙の)合意によって組み立てられていくものである。それをどう組み立てていくかは、社会にとっての重要な課題であるが、あらかじめ客観的に所与として存在しているわけではない。

-盛山和夫「リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

社会全体のコストを最小化する

 さて、誰に責任があるかはみんなで決めるものだ、という前提は納得いただいたことにする。問題は、じゃあそれをどうやって決めたらよいかということだが、一つ有力な考え方がある。それは、社会全体のコストを最小化するように決めれば、みんなが得するはずだという考え方である。

 たとえば、ある事件が起こると、世の中全体に 100 万円の損失が発生するとする。この事件を A さんが防げば 1 万円で防げるが、B さんが防げば 10 万円かかるとする。この場合、A さんに事件を防ぐ責任がある、ということにすれば、社会全体の損失が最小化されるはず、というわけだ。

 実は、以前にこんにゃくゼリーについての記事で紹介した「最安価損害回避者」というのも、基本的にはこの線にそった考え方だ。こんにゃくゼリーによる死亡事故を防ぐのに、メーカーがのどにつまらないこんにゃくゼリーを開発するためにかかるコストと、ユーザーがのどにつまらないように注意するコストを比べて、少ない方に責任があるとした方が、社会全体の損失は少なくてすむだろう。

 この考え方のいいところは、一律に製造者責任とか消費者の自己責任とかに決めるよりも、より合理的な責任の割り振り方を柔軟に考えられるというところにある。

問題は不平等である

 ただ、この考え方だと、社会全体のコストは最小化されるかもしれないが、実際にはそのコストは特定の人が負担することになるので、不公平になるのではないか、と思う人もいるだろう。

 たとえば、道に落ちているゴミを誰が拾うか、という問題を考えてみよう。これも、ゴミがあるのは捨てたヤツの責任だとか、いや道を管理している国や自治体の責任だとか、いろんな考え方がありうる。でもおそらく、社会的コストの最小化という観点から考えれば、たまたまそこに通りかかってゴミを見つけた人が拾うのが、最もコストが小さいのではないだろうか。

 ところが、この方式だと、ゴミが落ちていても拾わない人がたくさんいたり、ゴミが落ちている場所が偏っていたりすると、たいへん不公平なことになる。社会全体のコストを減らすために、特定の人だけが損をするということになってしまうからだ。それでは、多くの人はバカバカしくて協力をやめてしまうだろう。

 つまり、この方式がうまく機能するのは、ゴミ拾いコストの期待値が誰でもだいたい同じ場合。言い換えれば、誰でもゴミを見つける確率がほぼ同じで、しかも、見つけた人がみんなマジメに拾うような場合なのである。そのような状況であれば、昔からよく言われような「困ったときはお互い様」という論理が成り立つわけだ。

言論の自由にもコストがかかる

 さて、そろそろぼくが何を言いたいか勘付いた人もいると思うが(^^)、そもそも、「言論の自由」にもコストがかかる。自分と違う意見を聞けばたいていの人は不快だろうし、言論をいろんなメディアで流通させるのにも金がかかるし、大音量の拡声器でわめかれた日にゃ単純にうるさい。

 それでも、多くの人がそういうコスト負担に耐えているのはなぜか。まず、言論の自由を守ることは社会全体の利益になること。さらに、その利益は、一人一人が負担しているコストの合計より大きいはずだということ。そして最後に、そのコストは、特定に人だけが負担しているわけではなく、社会の全員がほぼ平等に負担しているはずだということだ。

 もうおわかりになったと思うが、この負担の平等が成り立たないようにすることこそが、街宣右翼の狙いなのである。つまり、本来は社会全体で平等に負担しているはずの「言論の自由」のためのコストを、特定の人や会社にだけ偏って負担させることによって不公平感を生み出し、コストを回避した方が得だと思わせようとしているわけである。

 国がもっと右翼に対する規制を厳しくすればいいという意見に対する疑問点もここにある。つまり、国が規制するのと、企業が我慢するのとでは、どっちが社会全体のコストが少ないかは微妙だと思うのだ。もともと彼らは、遵法闘争的な発想でやっているわけだから、特定の行為を禁止したらしたで、いくらでも別の嫌がらせの方法を考えてくるであろう。そして、それを防ぐためには禁止的な高コストがかかるかもしれない。

コストをシェアすればみんなが得する

 ところが、問題がコスト負担の不平等にある、というところに着目すれば、もっと簡単な解決法があることがわかる。要するに、コストを改めて社会全体でシェアすればよいのだ。

 これは、先ほどのゴミの例で言えば、国や自治体で清掃をする代わりに、一般市民にゴミを拾ってもらい、それに対して報酬を出すことに相当する。本当に国や自治体で清掃するより一般市民がゴミを拾うほうが低コストなら、この方が清掃費用が安くつくだろう。

 たとえば、「右翼保険」のようなものを作るなんていう手もある。右翼の被害に合いそうなホテルがみんなで保険料を積み立てておいて、実際に右翼の被害にあったホテルがそれを受け取るようにするのだ。もちろん、宿泊客に対しても、そのお金を原資にして宿泊料を値引きしたり、お詫びの品を配ったりすればよい。

 そうすれば、かえって得するから右翼に来て欲しいと思う客も出てくるだろうし、あのホテルにはよく日教組が来て宿泊料が安くなるからという評判になって、かえって客が増えるかもしれない(^^)。もちろん、そんなことになれば、右翼のもくろみは崩れて嫌がらせをすること自体が無意味になるだろう。

 もっとも、民間の保険だと、うちは保険料を払いたくないからやっぱり日教組なんて泊めないよ、というところも出てくるかもしれない。だから、理想的な方法は、そういうコスト負担を国が税金で補償することである。そもそも、言論の自由が守られれば国民全体が得するのだから、税金で補償したって悪いことはあるまい。もちろん、右翼の被害というものを適切に認定することにはいろいろ技術的な問題もあるだろうが、拡声器を使う場合には届出制にするとか、いくらでも方法はあると思う。

 まあ、このへんは半分冗談だが(^^)、重要なことは、言論の自由が守られれば国民全体が得するんだから、問題はコスト負担の不平等だけなんだ、という認識を国民全体で共有することである。そうすれば、闘うことを強制はできなくても、闘う人を励ましても罰は当たらないということはわかるはずだし、勇気がない人をけなす必要はないかもしれないが、勇気のある人には名誉という形の報酬を与えるということだってできるだろう。

 あのような事件について、企業よりも国に責任があると思う人は、少なくとも、国の規制を厳しくすることと、企業が我慢することと、どっちが低コストか、一度冷静に考えてみてほしいと思う。

 もちろんこれは、右翼の問題に限ったことではない。電車内で強姦されそうになっている人を乗客が助けるのと、車掌にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。バスの中で殴られている人を乗客が助けるのと、運転手にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。かたくなに誰の責任かにこだわるより、コストをどうシェアするかを考えたほうが生産的ではないだろうか。

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結局はバランス

 こういう問題って、製造者責任 VS 自己責任みたいな構図で語られがちだけど、結局はバランスの問題だと思うんですよね。

 極端な話、コンビニの誰もが手の届く棚で「食べれば即死の青酸カリキャンデー」みたいなのを売って、間違ってそれ買って食べて死んだ人がいたとしたら、いくらパッケージに毒だって書いてあるじゃないかって言ったって、自己責任ってわけにはいかないだろうと誰でも思いますわな (^^)。

 前にも書いたけど、「法と経済学」という分野には、「最安価損害回避者」という考え方があります。これは要するに、最も低コストで損害を回避できるのは誰かということ。

 こんにゃくゼリーの問題なら、国、製造業者、保育園、親などの中で、最も低コストで窒息事故を回避できるのは誰かを考えるわけです。

 そして、その人の責任ということにすれば、その人には損害を回避するインセンティブが生じるので、社会全体として最も低コストで損害を回避でき、結果的にみんなが得するだろうというわけ。

 だからたとえば、製造業者がちょっとこんにゃくゼリーの形を変えただけで死亡率を大幅に下げられるというのだったら、それはやったほうがいいだろうし、逆に親の躾とか言ったって、毎日 8 時間ずつの訓練を 3 年間続けないとこんにゃくゼリーを安全に食べられるようにはなりませんとかいうんだったら、コストがかかりすぎてバカバカしいからやめたほうがいいわけ (^^)。

 ただし、厳密には「コースの定理」というのがあって、「取引費用」がゼロだったら、結局だれの責任にしてもいっしょです、という話もあります (^^)。

 たとえば、とにかくなにがなんでも製造者責任で、裁判になれば必ず製造者が賠償金をとられるとします。そして、実際には、親がしつけをした方が安上がりだったとします。

 そうすると、製造業者は、裁判に負けるのは最初からわかっているわけだからから、損害を最小化しようと考えたら、問題が起こる前に、事前に親に金を出して親に躾をしてもらうはずなんだよね。だから、誰の責任にしても結局同じだっていう話になるわけ。

 これが、親がイジワルで、自分で自主的に躾をするのにかかる人件費より、はるかに高い金額を製造業者に要求したりすると、この話は成立しないんだよね。取引費用がゼロってのは、要するにそういうことです。

 まあそんなわけで、なんでも自己責任にしてとか企業側の言いなりになってとか怒ってるインテリさんもいるようですが、ぼくは、この話に素直に憤慨する人たちの感覚のほうが、バランス感覚があって健全な気がするんですけどね (^^)。

 こんにゃくゼリーの改良が簡単にできるならやればいい。危険性を告知するのもいいでしょ。でも、完全禁止は行きすぎだろう、みたいな線が平均的ですよね。たぶん、コストを厳密に計算しても、そんな感じになるんじゃないですか?

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#define SEIJIN_NENREI 20

 昨晩「スタメン」をぼんやりと見ていたら、例の成人年齢の引き下げ案についてあれこれ議論していました。宮崎哲弥氏は、どうせ法律ごとに成人の線引きは異なっているし、その方が合理的だという意見。それに対して、成人という区切りを重視する派は、その方が本人に成人としての自覚を持たせるきっかけになるという意見が多いようでした。

 しかし、考えてみると、単に自覚を持たせるだけだったら、何も法律で決めなくても、それこそ慣習とか儀式とかの方がよほど効果的なような気がします。もちろん、儀式を行うこと自体を法制化するという考え方もあるけど、20 才になったらバンジージャンプをしなければならないなんていう法律を作ったりしたら、それこそ人権侵害になりかねないですよね。そう考えると、宮崎氏の考え方の方に分があるような気がしました。

 むしろ、ぼくのようなソフト屋が思ったのは、「成人」という言葉を特定の法律で定義することによって、法律がよりモジュール化されポータブルになるという効用はないのだろうか、ということでした。

 ソフト屋的な発想からすると、特定のコード(法律)が適用される年齢を、コードにじかに何歳と書きこんでしまうのは、イミディエイトとかリテラルとか言って、ポータビリティの観点からして最も嫌われる行為なんですよね。こういう時、ソフト屋だったら、

#define SEIJIN_NENREI 20

#define isSeijin(n) ((n)>=SEIJIN_NENREI)

とかいうマクロをどっかのコードで定義しておいて、他のコードでは必ずそれを引用するようにしたり、あるいは、

static int sSeijinNenrei = 20;

bool isSeijin( int n )

{

return ( n >= sSeijinNenrei );

}

みたいな関数をどっかのコードで定義しておいて、他のコードからは必ずこれを呼び出すようにしたりするでしょう。

(実は、白田秀彰さんの「インターネットの法と慣習」では、こういうソフトウェア工学的な用語を使って英米法と大陸法の違いが説明してあるので、こんなことを考えたのは、それを読んだ影響もあります。)

 これは、例の教育基本法に関する論争のときにも思ったことなのですが、たとえば、教育基本法が「基本」であるということは、いったいどのような制度によって保証されているのでしょうか。

 現代のコンピュータの場合、メモリ空間や IO 空間に対するアクセスを制限する機能が用意されていて、OS のコードにはそういう空間にアクセスする権限が与えられていますが、アプリケーションからそういう空間にアクセスしようとすると、例外(一種のエラー)が発生してアクセスできないようになっています。したがって、いったん OS を起動してしまえば、アプリケーションが OS を無視して勝手にハードウェアにアクセスすることはできず、アプリケーションがハードウェアに依存しないことが自動的に保証されるんですよね。

 法律の場合も、憲法と他の法律の関係は、そういうふうになっていますよね。いわゆる違憲立法審査とか憲法判断とかいうのは、そういう憲法を無視したアクセスに対する例外処理に見立てることができるでしょう。それが実際に効果的に機能しているかどうかは別にして。

  でも、それ以外の各法同士の関係はどうなっているのかというのが、ぼくのような素人の素朴な疑問なわけです。もし、憲法だけが特権的なレイヤーで、他の法律がすべて横並びという構造だとすると、何かと不便なのではないか。それより、各法同士も何段階かの階層構造になっていた方が、見通しがよくなるのではないか、とかね (^^)。

 冒頭の成人年齢の問題にしても、成人の定義を決める「成人法」みたいなのを作っておいて、他の法律では、特に必要がない限り、成人の定義は「成人法」に従う、みたいにしておけば、法体系全体の見通しがよくなるし、成人の定義を変えたくなったら、「成人法」さえ改正すればよいということになるから、法律のバージョンアップも容易になるはず。

 というわけで、ぼくは基本的には宮崎説に賛成なのですが、法律のソフトウェア工学的な構造を改善するためには、成人年齢というのを特定のモジュールで定義する意味もあるのではないか、という立場です。もちろんこれは、完全なしろーと談義ですけど、法律にソフトウェア工学的な発想を持ち込むというのは、あながち的外れでもないのではないかなあ、と密かに思ってたりします (^^)。

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愛動物心、あるいは、公然動物虐待

 文芸春秋に呉智英氏の坂東「子猫殺し」眞砂子擁護論が載っているという噂をきいて、たまたまコンビニに文芸春秋が置いてあったのでそこだけ立ち読みしてみたら、ぼくの「続々・子猫殺し」と同じく動物裁判の話をネタにしていたので少々冷や汗が出た。もちろん、ぼくがパクったわけではまったくない。確認したわけではないが、おそらく、書いた日付はぼくの方が先だと思う。当然、呉氏がこんなブログを読んでいるわけもないので、単なる偶然の一致であろう。

 もっとも、内容的には、特に新しい論点が出ているわけではなかった。1.あくまで人間の都合として考えるのが原則、2.動物の権利=獣権には無理がある、というのが主な論点で、現行の動物愛護法の理念に疑念を呈しているが、おおむねぼくも賛成である。

 これに対して、現行の動物愛護法は、動物の権利など主張しておらず、それこそ人間の都合そのものではないか、という反論をしていた人がいたので、ぼくも改めて動物愛護法の条文をチェックしてみた。

第1章 総則

(目的)

第1条 この法律は、動物の虐待の防止、動物の適正な取扱いその他動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止することを目的とする。

 つまり、動物愛護の気風を育てれば、生命尊重や平和に結びつくので、人間のためにもなるという主張らしいのだが、この主張、何かに似ていないだろうか。

 そう、これは文字通り、愛国心ならぬ「愛動物心」のススメなのである。愛国心論争においては、愛国心自体が悪いわけではないが、愛国心を強制することはできないとか、何が愛国心のある行為かは他人が勝手に決められないという主張が多かったはずだが、「愛動物心」になると、愛動物心のない行為を他人が勝手に定義して罰則付きの法律で強制することにも抵抗はないのだろうか。

 この問題は、猥褻法の議論にも少し似ていると思う。猥褻法の議論でも、「確かに公然猥褻は多くの人にとって不快かもしれないが、だからといって刑法で罰する必要はない」という主張があったはずである。 同じように、動物の虐待が多くの人にとって不快だからといって、法律で禁ずる必要があるとは限らない。仮に禁ずるとしたって、行為自体を禁ずるのではなく、そういう行為を見たくない人が見なくてすむ権利さえ守られれば十分なのではないか。

 公然猥褻を刑法で罰しないという主張の根拠となるのは、被害者がいないことである。そして、動物の権利を認めないという前提に立てば、自分の飼っている動物の虐待にも、直接の被害者はいない。強いて被害者を挙げれば、見て不快に思う第三者ということになるが、その権利を守ることだけが目的なら、行為自体を禁ずる必要はないのである。

 繰り返しになるが、坂東氏のやったことは、たとえて言えば、

「人間はみなセ○○スをしなければ生きていけないのに、現代人はみな人前では○器を隠して暮らしている。しかしわたしは、自分がセ○○スをしているという事実から目をそむけないために、堂々と○器をさらけ出して歩くことにしている」

とか

「人間はみなウ○コをしなければ生きていけないのに、現代人はみな人前では自分はウ○コなんかしないというような顔をして暮らしている。しかしわたしは、自分がウ○コをするという事実から目をそむけないために、毎日自分のしたウ○コを皿にのせてナイフで切って断面を観察することにしている(注)」

というような主張を新聞に載せるようなものである。もちろん、部分的には真実を含んでいるが、一読して不快であり、全体として多くの人が共感し説得されるとはとても思えない主張である。したがって、こういう主張を新聞に載せたこと自体は愚かなこととしか言いようがない。

 ただ、しつこいようだが、だからといって、そういう行為を法律で禁ずる必要があるかというのは、また別の話だと思うのである。

 猥褻を法律で禁じた結果日本で起こったのは、猥褻概念の形骸化であり、法律にさえ違反していなければなんでもありという性的モラルのさらなる退廃ではなかったか。愛国心を強制した結果戦前の日本に起こったのは、愛国心の形骸化と、危険なファナティズムの蔓延ではなかったか。愛動物心の強制や公然動物虐待の禁止が、同じような自体を招くことは、真の動物好きの方々にとってすら本意ではないはずである。

注: 筒井康隆氏は、「最高級有機質肥料」という小説を書くために実際にこういうことをしたらしい。ファンの間では有名なエピソードである。

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続々・子猫殺し

 この件について、mixi である人と議論した内容を一部転載。長いです (^^)。

確かにこの作家も○○だけど、それに対してあまりムキになって人非人みたいに言う方々にも、正直違和感がありますね。

自分の飼っている猫に対して残酷なことをされたくないという気持ちはよくわかりますが、その愛情を猫という種全体に拡大して、他人の飼っている猫の飼い方にまでけちをつけるという行動に移すところには、ある種の飛躍がありますよね。

要するに、ペットはあくまで人間の所有物であって、その取り扱いは飼い主の美意識だけに任せるべきなのか、それとも、ペットは、人間と同一ではないが、ある種の権利を持つ存在であり、その権利は飼い主を問わず適用されるべきなのか。

猫好きの人は、無意識のうちに後者を仮定しているみたいだし、フランスの法律も、おそらくはそういう思想なんでしょうけど。

でも、これってやりすぎると、余計偽善的になるところもありますよね。例えて言えば、奴隷制を布いている国で、奴隷愛護法を作るようなもので、そういうことをやればやるほど、それ以前に奴隷制自体をやめれば? みたいな感じになってくる (^^)。

だから、本質論で言えば、法律で規制するより、個人の美意識に任せる方がいいような気がするんですけどね。。。

愛猫家っていうのは、結局、自分が猫と友だちだという幻想、と言ってはいいすぎですが、そういう意識を持ちたいわけですよね。その意識がさらに進むと、人類が種として猫という種と友だちであると思いたいということになるんでしょう。だから、他の猫が虐待されているところも見たくなくなる、という順番だと思いますけど。

このロジックが正しいとすれば、目の前で虐待されるのももちろんイヤですが、影でこっそり虐待していたとしても、その事実がわかった以上看過できない、ということになるんじゃないですかね。

そういうふうに考える人が多ければ、猫にある種の権利を与えるということも、まさにそういう「人間の都合」に合致するということで正当化される可能性もあると思います。

 ただ、そうやってペットを飼うという行為のハードルを上げていくと、逆にペットを飼うという行為の意味がどんどん無化されていくというところもあるんですよね。

つまり、もともとペットというのは、人間の彼女や友だちの代用品であるという要素もあるでしょう? 動物は、人間のように人を振ったりしないし、監禁しても犯罪にならないし、食費も安いし、健康管理の責任も少ない。そういう、人間を世話するのに比較したときにお手軽さが、動物を飼う理由の一つであることは否定できないでしょう。

ですから、あまりペットにいろいろな権利を与えてしまうと、ペットを飼う責任が重くなり高コストになりすぎて、よっぽど金や時間やいろんなものに余裕のある人しかおいそれと飼えなくなってしまうでしょう。これもある意味本末転倒だと思うんですよね。

そう考えると、結局は、所有物路線も友だち路線も完全に徹底することはできなくて、ほどほどのところで妥協するしかないはずなんですよね (^^)。

まあでも、愛猫家の多くが、自分が猫を愛しているということに誇りを持っているのは当たり前といえば当たり前ですよね。もともと、そういう誇りを持ちたいがためにペットを飼うわけですから。。。(^^)

そういう意味で、この作家の書いていることは、まさにそういう愛猫家の神経を逆撫でする行為なわけですよね。そのわりに、「他の愛猫家の猫の飼い方は間違ってる!」みたいなはっきりした主張があるわけでもないし。

この人のやっていることは、SM やスカトロとかと同じで、単にこの人の好みという域を出ることはおそらくないでしょう。だから、ぼくは別に SM やスカトロでもいいけど、わざわざ人の前でやるなよ、っていう感じですね (^^)。

ただ、そういう人はあくまで例外だと思うんですよね。そのへんが、普通の刑法犯とかとは違うと思うんです。

たとえば、泥棒とかだったら、法律がなかったら歯止めなく増加するということも考えられますが、人間は毎日食事をしなければならない、というような法律を作る必要はあまりないわけですよね。人間はもともと食事をするのが好きですから (^^)。

同じように、大多数の人は、もともと猫が好きなので、ある程度自主性にまかせてもいいような気がするんですけどね。。。

人間の子供の場合、当たり前ですけど子供はペットと違って人間ですから、大人なみの権利を与えることに本質的な困難はないんですよね。子供という存在は、親が「飼う」ことが前提条件となって成立しているわけでもないから、親がその権利負担に耐えられなければ、国家その他が負担したっていいんだし。

ところが、ペットの場合には、人間並みの権利、というのが本質的な上限になってしまうんですよね。少なくとも、飼い主を選ぶ権利とか、飼われることを拒否する権利、自由に逃亡する権利、などは、ペットという概念に本質的に反してますから (^^)。

ペットを飼いたいという「人間の都合」には、動物を自分の自由にしたいという欲望と、動物を人間並みに扱いたいという欲望という、本質的に相矛盾する欲望が入り混じっているわけで。そこを自覚しておかないと、変な極論に陥ってしまう危険があると思うわけです。

本当にペットに人間並みの権利を与えるというのなら、ペットが人間に束縛されないで暮らせるペットランドみたいなのをつくって、ペットを飼いたい人間はそこに出向いていって、ペット自身の意思を確認した上でペット契約を結び、ペットになっていただく、というふうにしなければだめなんだけど、これはどう考えたって実現性はないですよね (^^)。

(ぼくは、ペットはもともと人間に飼われるようにできてる、というような主張を聞くと、どうしても、黒人はもともと白人の奴隷になるために神様によって作られた、みたいな主張を想い出してしまうんですよね (^^))

そう考えれば、結局は、愛猫家が持つ「猫と人類は仲良しである」という共同幻想を崩すような行為だけは最低限やめなさい、みたいな程度の規制しかできないはずなんですよね。

愛猫家が非難する理由は、おそらくさっき書いたように、「猫と人類は仲良しである」という愛猫家の共同幻想が崩されるからだと思うんですね。

ただ、この理由が、他人に何かを法的に強制するほどの理由なのか、というところには多少の疑問があるんですよすね。

もともと、その共同幻想というのは、猫族たちの主体的な選択によるものではない、たぶんに愛猫家たちの自己満足的なものですから、万人に強制するような普遍性があるのかどうかも疑問ですし。

単に幻想をこわされるのがいやなら、わざわざ見せびらかすようなマネだけ禁止すればいいのかもしれないし。

たとえば、イスラム教徒は「豚は神聖な生き物である」という共同幻想を持っているわけだから、イスラム教徒の前でわざわざ豚を虐待してみせるのはよくないでしょう。

でも、だからといって、そのルールを全人類に強制する必然性があるのかと言われたら、イスラム教徒以外の人の多くは疑問に感じるんじゃないですか? だって、そう思ってるのはイスラム教徒だけなんですからね。

猫自身の自由な選択によるものでもない、人間の勝手な都合による「正しい猫の愛し方」というものが、万人に強制するほど普遍性のあるものなのか。そこが疑問だと思うわけです。

まあ、猫族を友だち扱いするのは、わりと世界的 (一部アジア地域では猫料理とかもあるらしいが) かもしれないけど、クジラ族は日本では高級食材、欧米では友だち、牛族はスペインでは闘って殺すのが愛情、ヒンズー教徒にとっては神聖な生物、日本では主に食材、というぐらいの差があるわけですからねえ (^^)。

これだけ価値観に差があるものに、統一的な基準を作ろうとするのはかえって不自然ではないかと思うのですが。

ご存知の通り、ぼくも合意による正義というものを重視していますが、この場合、一方の当事者であるペット自身の自由な意思を確認する方法はないわけで、合意に至ったとしても、あくまで人間同士の合意にすぎないんですよね。にもかかわらず、どちらがよりペットのためであるか、という観点で議論されていることには不健全なものを感じてしまうんですね。

ぼくもかつて、佐倉統さんの「現代思想としての環境問題」という本で「環境を守るのはあくまで人間のためなんだ」という主張を読んで、目からウロコが落ちたことがありましたけど (今ではたいして珍しい主張でもなくなりましたが (^^))、同じように、ペットを飼うのは、あくまで人間のためなんだ、という視点を忘れないようにしないと、かつての環境問題みたいにおかしな議論がはびこる危険があると思いますね。

フランスの刑法っていうのは、やっぱりキリスト教的な発想なんじゃないでしょうかねえ。日本の動物愛護法も、もともと日本の文化に根ざしたものではなく、西洋から野蛮だと言われて仕方なくつくったみたいなところがあるようですし (^^)。

中世キリスト教圏では、「動物裁判」とか言って、動物の「犯罪」を裁判にかけて「死刑」にしたりしてたらしいですからね。こういう観念は、やっぱり文化依存的で、全人類的な普遍性があるかどうかはたいへん疑問だと思います。

まあ、こういう人々の意識だって、時代の技術的制約によって変わるかもしれないんですよね。どんな食材の味も忠実に模倣できるすっごくおいしい合成蛋白質みたいなものや、自分の代わりにペットの世話をしてくれる格安ロボットや、動物の意思を確実に確認できる進化したバウリンガルみたいなものや、動物の脳を進化させるサイボーグ技術みたいなものができれば、またみんなが合意できるポイントが変わってくる可能性もありますよね (^^)。

要するに、世の中の大多数の人が、「動物と言えば友だちでしょう。食べるなんてとんでもない」みたいに思う時代になれば、動物の権利を法制化する必然性も出てくる可能性はあると思います。

でも、現時点ではまだそこまで行ってないんだから、そんなにムキになって正義感ぶることないだろ、という感じです (^^)。

彼らが主観的にどう思っているかはわかりませんが、動物に権利を与えることこそが、まさに人間のためである、というロジック自体はそれほど変でもないと思います。

人間同士だってそうで、近代民主主義の「人間は生まれながらにして平等」というスローガンだって、よく言われるように、もともとは政治的フィクションだったんですよね。

だって、生まれながらにして平等だったら、古代文明のころから民主制ができたっていいはずなんですから。もちろん、ギリシャの民主制はありますが、あれは奴隷制をベースにしたものですからね。

それが近代になって実現したのは、単なる正義感だけじゃなくて、民主制である方が、多くの人にとって都合がいいという社会的な条件がととのったからでしょう。たとえば、商工業みたいな分権的な統治を必要とする産業の発達とか、メディアの発達や教育の普及により、高度な政治についての議論を一般庶民もできるようになったりとか。

ドイツみたいな後発民主主義国がいい例で、極端に言えば、民主化されたフランスに戦争で勝てないから民主化したわけですよね (^^)。ある意味日本だってそうかもしれないし。

ロボットだって、最初は人間の所有物から出発するでしょうけど、どんどん知能が高くなってくれば、かれらに「人権」を持たせた方が、人間にとっても都合がいい、という議論も出てくると思いますね。そうすれば、アトムや PLUTO のような世界が実現する可能性もある。これはある意味、動物の権利よりも実現性があるんじゃないかなあ (^^)。

そんなわけで、ぼくの場合、今はまだ時機尚早である、という立場ですね。

追記:

 もう一つだけいい忘れたことを。この作家を非難する意見でに欠けていると感じることの一つに、生命を絶つことのマイナス価値ばかりを言い立てて、生命を生むことのプラス価値をほとんど勘定に入れていないことがある。

 たとえば、先天性の病気などをテーマにしたドラマで、「短い人生だったけど生まれてきてよかった」みたいな結末で終わるものがあるが、ああいう話が感動を呼ぶことからしても、短い生涯であっても生を受けること自体に価値がある、と思っている人は多いはずなのである。

 その短い生涯を終わらせているのが、病気や運命であれば完全な美談で終わるわけだが、人為的な選択であると、その価値が相殺されてしまうわけである。

 しかし、先に書いたように、社会的責任を放棄して子猫をすてたとして、誰も拾ってくれなかったら、結局保健所につかまって殺処分になる可能性が高いわけであるが、まさか、この保健所のやることまで動物虐待と言う人は少ないだろう。

 なぜ保健所は猫を殺さなくてはならないかと言えば、それは、飼い手のいない猫族の総数をそんなに増やすことはできないという、人類全体の都合に他ならない。いわば、人類全体が共謀して猫を殺しているわけであり、他に選択肢がないとするなら、猫にとってはそれも一種の運命である。この作家のやっていることは、その保健所の役割を代行しているだけとも言える。

 そもそも、少なく産んで大切に育てるというのは人類独特の進化戦略であって、人類の倫理もこれに合わせて作られたものであるが、生物の中には、最初から一部が死ぬことを織り込み済みで、たくさん産んで産みっぱなしにするという種だってたくさんいるのであって、そういう種にとっての倫理は、当然人類のものとは違ってくるはずである。猫だって、マンボウほどではないにしろ、人間に比べれば多産な生物である。

 ぼくだって、もしこの作家のやっていることが単なる無意味な殺戮だったら、もっと非難しているだろうが、自分なりに考えた限りでは、去勢や不妊手術が、この作家のやっていることに比べてそれほど絶対的な道徳的優位性を持っているとは思えないのである。

 ただ、何度も書いているように、多くの愛猫家は猫が可愛くて飼うのだから、この人のような「猫の愛し方」をするぐらいなら、猫を飼うのをやめるだろう。この作家はそのことを知っていながら、得々として全国紙にそのことを書いているわけで、ぼくが気に入らないのはむしろその性格である。

 自分と価値観の違う相手に堂々と論戦を挑んで相手の価値観を変えさせようとするのはまっとうな行為である。人類が根源的に持つ業のようなものを文学的に表現するのもまっとうな行為である。この作家には、このどちらの選択肢をとる能力もあるはずである。しかるに、この作家は、斜に構えて自分もろとも世間の人を引きずり下ろして冷笑しているに過ぎず、彼女が世間の怒りを買うことは至当であると言うほかはない。

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続・子猫殺し

 坂東氏のエッセイについての続報。坂東氏のこんなコメントが出ていた。

タヒチ島に住んで8年。人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。『子猫殺し』はその線上にある。動物にとって生きるとはなにかという姿勢から、私の考えを表明した。人間の生、豊穣(ほうじょう)性にも通じ、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからだ。(毎日新聞)

 つまり、単に嫌がらせではなく、信念をもって書いた、と言いたいらしい。

 しかし、どう考えても中途半端の感が否めない。彼女はこういう文章を書いて、いったい何がしたいのだろうか。

 まさか、自分以外の愛猫家にも、去勢や避妊をやめて子猫を殺せと言いたいのか。そんなのに実現性があるわきゃない。だって、猫を飼っている人は、猫が可愛いから飼ってるんだもん。それを自分で殺さなきゃならないんなら、そもそも猫を飼うのを止める方を選ぶでしょ。

 あのね、確かにペットを飼うということは、人間に対しては許されない「押し付け愛」を、動物を利用して実現するという行為でしょうよ。そういう意味で、これが自分の愛し方だ、という勝手な主張は、人間に対しては通用しなくても、ペットに対しては通用しないでもないでしょう。

 でもね、その「押し付け愛」がずっと「押し付け愛」のままだったら、どんなバカな飼い主だってしらけちゃうでしょ。だからこそ、それが少しでも「本当の愛」であると感じられるように、飼い主は日々努力しているのであってね。重要なのは、飼い主にとって、自分とペットとの関係が、主観的に「本当の愛」であると感じられるかどうかなんですよ。

 それとも、去勢や避妊をするか子猫を殺すかの選択権を、飼い主に与えろと言いたいのか。これならまだわかるけどね。要するに、ペットの愛し方は人それぞれ、みたいなコイズミさん的な主張でしょう。でも、それだけのことなら、わざわざ全国紙に人の神経を逆なでするような文章を書く必要はないはず。先に書いたように、みつからないようにこっそりやったっていいし、あるいは、飼い主によるペットの殺処分権みたいなオブラートにくるんだ主張をしてもいいんだし。

追記: なにげなく「コイズミさん的な主張」と書いてから、この問題の構造が、靖国参拝問題とちょっと似ていることに気づいた。つまり、どちらも、「死者」とか「動物」とか、自分の意思を表明できない対象に対して、勝手に「追悼の意」だの「愛情」だのをささげる人たちがいて、互いにどっちのやり方が正しいかと争っている、という構図である。こういう構造だと、当の本人の意見がないから、わりと主観で押し通せちゃうんだよね (^^)。だから、理性的に合意に至ることが難しい。ぼくは、どっちも、相手のためでなく、自分のためにやるんだと考えた方がいいと思いますけどね。

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子猫殺し

 坂東眞砂子氏が日経新聞に書いた「子猫殺し」というエッセイが、一部で話題になっているらしい。その内容の一部はこの記事などでも読め、これを読めば、だいたいどんな内容だったかは想像がつく。

 まあ、ぼくはこの人の言いたい事もわからないではない。「きっこの日記」で有名なきっこさんは、

「これじゃあ、人間が、避妊してセックスするのも、避妊しないでセックスして、できちゃった子供を人工中絶するのも『同じこと』って言ってるワケじゃん。それどころか、こいつのやってることは、生まれて来た赤ちゃんを殺してるワケだから、人工中絶よりもタチが悪い」

と言っているけれど、まず、避妊と去勢は違う。避妊は快楽を奪わないが、去勢はセックスの快楽自体を奪ってしまうものであり、坂東氏はその残酷性を重視しているわけだろう。また、一部のキリスト教徒などのように、避妊は中絶と同じくらい罪悪であると主張する人だっているのであって、避妊が中絶よりマシという価値観に絶対的な普遍性があるとも限らない。 また、仮に里親を探せたとしても、その里親が坂東氏と同じように去勢をさせない確率は低いだろう。

 そもそも、この問題を普遍的な正義という観点で論ずるには、猫自身の意思が問題になろうが、彼らが一生屈辱的な奴隷状態で生きるよりも尊厳ある死を選ばないとは誰にも言えないだろう。

 もちろん、ぼくだって、子猫を殺すよりは、「お前セックスもさせられなくてごめんな~」などと偽善的なことを言いながら去勢手術をする方を選ぶに決まっているが、それは、正義感というより、ぼく自身が子猫を殺す自分とか死んだ子猫とかを見たくないからである。

(もし子供ができちゃって里親が見つからなかったら、「社会的責任なんぞクソ食らえ!」と言ってどっかにこっそり捨ててくるだろうね、ぼくだったら。それはそれで非難の対象になるんだろうけど、どうせ非難されるなら、そっちで非難されることを選ぶでしょう (^^)。それはまあ、ぼくの勝手な生命観みたいなものによるんだろうけど。)

 そういう意味で、これは普遍的な正義と言うよりは、人間の主観的な価値観や快・不快の問題であり、坂東氏は、単に自分にとって少しでも快い方を選んだというだけのことなのだろう。そう考えると、ぼくは、坂東氏を声高に批判する人に対して、「クジラは他の動物と違って頭がよくて人間と友だちになれるんだから、殺して食べるなんて残酷だ」みたいなことを言う人と同じような独善性を感じなくもないのである。

 少なくとも、普遍的な生命尊重主義からすれば、クジラは殺していいが子猫は殺していけないなどという理由はない。理由があるとすれば、それは、クジラは美味しく、子猫は可愛いということ以外にはないのであって、どちらも人間側の勝手な都合なのである。そして、彼女の場合、その勝手さが他の人とはちょっと違っているというだけだろう。そのことだけは一応指摘しておきたい。

 ただ、坂東氏の決定的いやらしいところは、彼女は子猫を殺すのが正しいと主張しているのではなく、選択の問題にすぎないと言っており、なおかつ、自分の選択が大多数の人には不快なものであるということを知っていながら、わざわざ自分の選択をエッセイにして人に読ませているところである。

 そこから、多くの人は、この人は選択の問題だと言ってるけど、本当は自分の選択の方が正しく他の人は偽善的なだけだと言いたいんじゃないのと思ったり、自分は一般庶民とは違うのだという旧時代の作家の自意識みたいなものを感じ取ったりして、反発するんだろうと思う。

 だから、この人がどうしても子猫を殺したいのなら、エッセイになど書かず、自分の業を一身に感じながら一人でこっそり殺し続ければよかったのである。逆に、人間の根源的な偽善性みたいなものを告発したいのなら、筒井康隆氏の「改札口」とか「池猫」みたいな小説を書けばよかったのだ。ぼくはそういうわけで、この件を「重要な問題提起である」などと考える気はさらさらなくて、わざわざ人の嫌がることをしてみせるやなやつ、と思うだけである。

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ユニテックの債権者の方へ

 このブログでも何度か書きましたが、私が取引を行い、売掛債権をもっていた有限会社ユニテック (会社法人等番号 0109-02-015873) という翻訳会社が、私的整理を行うことを発表しました。報告書によれば、債権者への配当率は、たった 0.0623 であることが明らかになっています。

 すでに、債権者の方は、私が受け取ったものと同じ報告書を受け取っているはずですが (もし受け取っていない方がいれば、それは悪質な背信行為であると考えられるので、ぜひご一報ください)、私は、この報告書には、納得できない点が多々あると考えます。

たとえば、

  1. なぜ、特定の債権者にだけ優先的に弁済が行われているのか
  2. 上記特定の債権者が、ユニテックの顧客を引き継いで新会社を設立するとあるが、これは実質的にユニテックの後継会社ではないのか
  3. ユニテックの資産にしろ、それを証明するような書類は何も提示されていない

 これはほんの一例であり、他にも不審な点はたくさんあり、私は、この報告書は、わたしたち債権者への弁済が 1 割以下に棒引きれるような状況に対する説明としては、まったく不十分と考えます。

 また、代表取締役の野口雅昭氏をはじめとする経営陣が、完全に所在をくらませてしまい、債権者に対して自らの肉声で説明や謝罪をしようとしない態度も、きわめて不誠実なものと考えます。

 もちろん、有限会社の破産は法的に認められた権利ではありますが、その処理は公正な手続きの上で行われなければならないことは言うまでもありません。そして、このような状況を放置していれば、必要な公正さが保証されない危険は低くないと思われます。

 現在、私を含め数人の債権者が、担当の六番町総合法律事務所の秋廣道郎弁護士に対して債権者会議の開催を要求していますが、弁護士はとりあってくれる気配はありません。 このような状況で債権者会議を開かないというのは、常識に反した行為であり、そこにはなんらかの意図があると勘ぐられても仕方ないと思うのですが。

 そこで、私は、複数の債権者による連名で債権者会議の開催を求めることを提案したいと思います。また、ユニテック側が要求に応じない最悪の場合には、破産申し立てを申請することも視野に入れています。

 もちろん、公正な破産処理が行われれば、弁済配当率が上昇する可能性もありますが、私が求めるのは、目先のお金よりも、むしろ、一部の人が不当な利益を享受することがないような公正な破産処理であり、もしその裏に不正な行為があるとすれば、そのような行為が二度と繰り返されないための、関係者に対する適切な処罰です。この趣旨に賛同されるユニテックの債権者の方は、ぜひ当方までご一報ください。

 なお、私的整理はあくまで私的な整理であって、債権者の同意がなければ法的効力を持たないことを申し添えておきます。

2006 年 7 月 2 日

Studio RAIN 保住有信

E-mail: studio_rain@nifty.com

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憲法問題非論理派宣言^_^;

 憲法改正問題について、やっと考えがまとまったので、書いときます(また友だち減るかも^_^;)。

 まず、基本認識として、もともと民主主義や憲法には逆説的なところがある、というのをおさえておく必要があると思います。たとえば、民主主義社会の質は、市民の質で決まるけれども、その民主主義的な市民を育てるのにいちばんよい方法は、実際に民主主義の社会で育つことだったりする。憲法についてもそうで、憲法は市民の合意の下に成立したということになっているけれども、その合意とは何かを決めているのが、憲法をはじめとする法制度だったりします。

 つまり、憲法と言う上部構造が下部構造を決める面と、市民の質と言う下部構造が上部構造を決めるという両面があって、これはサブシステムレベルでは顕在化しないけれども、憲法のようなメタシステムのレベルになると顕在化してくるので無視できない。これが大前提。

 さらに言えば、自分の国のことを規定する条項はまだよいのですが、他所の国が関与する問題については、もともと拘束力がないわけだから、せいぜい「国際平和を誠実に希求し…」てなことしか言えない。それ以上のことを書いたって、どこまで実現性があるかわからないわけです。他所の国から戦争を仕掛けられたら、粘り強く平和的に交渉する、でもいいし、実力で撃退する、でもいいし、無抵抗で降伏する、でもいいんですけど、そういうことを憲法に書いといたからといって、実際に実践できるかどうかは、そのときの国際情勢と国民や政府の質というパラメータに依存しているわけです。

 自衛隊の存在の是非についてそうです。仮に、世界平和を目指すというのが、メタ理論として日本人共通の合意だったとしても、その実現方法は一つではありません。自衛隊があった方が、国際社会で地位が得られるから、世界平和も実現しやすいという考え方の人と、いや、逆に軍備を持たないという立場を貫くことによって、国際社会で独自の地位を締めることができ、世界平和に貢献できるのだという考え方の人がいますよね。ぼくは、このどちらが正しいかと言うのは、メタ理論で一律に決めるべきものではないと思うのです。

 たとえば、もし海江田四郎みたいな、軍事的な才能が豊富でなおかつ世界平和に対する強い信念を持つ日本人がたくさんいれば、前者の方が実効性があるかもしれないし、軍事的な才能はまったくないけど、ネゴシエーション能力が高い日本人がたくさんいれば、後者の方が実効性があるかもしれない。逆に、戦争が好きなだけど軍事的な才能がないヤツばっかりだったら、前者を選んでもあまり意味ないだろうし、自分が死ぬのがイヤなだけで、他所の国の人はいくら死んでもいいと思っているヤツばっかりだったら、後者を選んでもあまり意味ないでしょう。

 シビリアン・コントロールの問題についてもそうです。憲法と自衛隊の不整合をほったらかしにしているから、モラル・ハザードが起きるんだというのも一理あるし、もともと憲法を守るという意識が無いから、不整合がほったらかしなのだという考え方もできる。このどっちが正しいかと言うのは、なんらかのメタ理論で決められるもんじゃないと思うのです。

 あるいは、こんなたとえをしてもよいかもしれません。泳げるかどうかは、実際に泳いでみなければわからない。畳の上の水練ではダメ、とよくいいますよね。もちろんそれは正しいのですが、だからと言って、生まれたばかりの幼児を鳴門の渦潮の中に叩き込むのは無謀でしょう。かと言って、絶対に溺れないという保証ができるまで泳がせなければ、いつまでたっても泳げるようにならないでしょう。結局、適当な時期を見計らって、泳がせてみるしかない。

 仮に、世界を平和に導くメタ理論があったとしても、それが実現するのが一千年後であるならば、今すぐに全面採用すべきではないでしょう。逆に、10 年後ぐらいであって、そこに至る道筋に確かな戦略を描ける人材がいるなら、世界に先駆けて採用すべきかもしれない。そういうことです。

 つまり、憲法を改正してよいかどうかは、なんらかのメタ理論で決めるべきものというよりも、実際に憲法を改正してもうまくやっていける人材がいるか、言い換えれば、国民が政治家や官僚を信頼できるかどうかで決めるべきだと考えます。この政治家や官僚なら、憲法改正後の海で泳がせても泳げる、と信じられれば、憲法改正に賛成してもよいし、信じられないなら反対する。

 もちろん、政策を実行する立場の人は、なんらかのメタ理論を持っていなけりゃ困るんですよ。そういう立場の人から見れば、自分や自分の仲間の能力というのも内生変数になるわけだから。でも、ぼくらみたいな、単に支持するかしないか決める立場の人から見れば、そのメタ理論を主張する人の能力というのも、外生変数の一つなわけです。

 そういうわけで、ぼくは、この問題の答えを理論的には決めないことにしました。ですから、政治家や官僚の皆さんは、憲法改正したかったら、ぜひとも私の信頼が得られるように行動してくださいませ。理論的に決めないという理由自体が理屈っぽいところが、いかにもボクらしくてよいでしょ(^^)。

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The Icelandic Phallological Museum

 この The Icelandic Phallological Museum というのはちょっとすごいですね。これは 18 禁にしなくていいのかな。いいんだろうね、たぶん。意外と日本語のページでは話題になってないのが不思議なくらい (google の日本語検索だと 6 件しかヒットしない)。

 ぼくの中では、アイスランドと言えばビョーク、みたいな感じで、ほとんど何も知らなかったんですけど、なんかこれを見たら、ちょっとアイスランド人に親近感沸いてきましたね(^^)。日本の寄生虫博物館の人と対決させてみたい(^^)。

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