日本列島はステークホルダーみんなの所有物です
…って言えば、保守派のみなさんにも納得していただけたんでないの(^^)。
…にしても、鳩山兄弟は発言が軽いな…。
| 固定リンク | トラックバック (0)
…って言えば、保守派のみなさんにも納得していただけたんでないの(^^)。
…にしても、鳩山兄弟は発言が軽いな…。
| 固定リンク | トラックバック (0)
アメリカの大統領選まであとわずかとなり、両陣営の論戦というか過激な中傷合戦が続いている。ぼくもヒマさえあれば CNN などでチェックしているのだが、特にマケイン陣営の演説を聞いていてつくづく思うのは、アメリカ人ってのは心底「社会主義」や「再分配」が嫌いなんだなあということ。
最近、マケイン陣営はオバマは社会主義者だというレッテル貼り攻撃をしているのだが、その中では、socialism とか redistribution とかいう言葉は完全に「悪」を表す言葉として使われているのだ。たとえば、
McCain: And that's the problem with Senator Obama's approach to our economy -- he's more interested in controlling wealth than creating it, with redistributing money instead of spreading opportunity.
マケイン: それがオバマ議員の経済に対するアプローチの問題点なのです。彼は富を生み出すことよりも富を規制することに、機会を増やすことよりお金を再分配することに興味があるのです。
McCain: Senator Obama is running to be redistributionist-in- chief. I'm running to be commander-in-chief.
マケイン: 私は最高司令官(=大統領)になるために立候補していますが、オバマ議員は最高再分配官になるために立候補しています。
Palin: And you have to really listen to our opponent's words. You have to hear what he is saying, because he's hiding his real agenda of redistributing your hard-earned money.
ペイリン: みなさんは対立候補の言葉をよくきかなくてはいけません。なぜなら、彼は、あなたが一生懸命稼いだお金を再分配するという真の政治目標を隠しているからです。
Palin: Now is not the time to experiment with socialism.
ペイリン: 今は社会主義の実験をしているときではありません。
Palin: I'm not going to call him a socialist, but as "Joe the Plumber" has suggested -- in fact, he came right out and said it -- it sounds like socialism to him. And he speaks for so many Americans, who are quite concerned now, after hearing, finally, what Barack Obama's true intentions are with his tax and economic plan. And that is to take more from small businesses, more from our families and then redistribute that according to his priorities.
ペイリン: 私はオバマ議員を社会主義者と呼ぶつもりはありませんが、「配管工のジョー」さん(ある番組の中でオバマの税制案について質問して有名になった人物)が指摘したように、ジョーさんには社会主義のように聞こえたことは事実です。ジョーさんは、オバマ議員の税制案や経済政策の真の意図について心配している多くのアメリカ人を代表しています。それは、中小企業やわたしたちの家族からより多くのお金をとって、それを彼の優先順位に従って再分配することなのです。
もし日本人がこのような演説を聞けば、多くの人が違和感を感じることと思う。「オバマは再分配をしようとしていると。それはわかった。で?」って。つまり、再分配を批判するにしても、その方法や額の多少を問題にしようとするはずだ。
しかし、アメリカ人にはこの「で?」がないのである。少なくともこの演説が受けるような共和党支持のアメリカ人にとっては、再分配そのものが「悪」なのだ。ここだけは、日本人とアメリカ人の感覚が決定的に違っていることを認めないわけにはいかない。
ぼくも、アメリカ人が基本的に自由を好み政府の介入を嫌う人たちであるということぐらい、知識としては知っていたが、今回の大統領選の議論を聞いていて、それが改めて感覚的に身にしみた。もちろん、アメリカ人にも(特にインテリには)リベラルな人はたくさんいるが、庶民レベルでの社会主義や再分配に対する感覚的な反発は根強いのである。
(もちろん、日本人にだって、モノづくりが「善」でお金を動かすだけで儲けるのは「悪」だとかなんとか、いろんな固定観念があるわけで、アメリカ人だけがおかしいと言いたいわけではまったくない。為念。)
オバマ氏が大統領に選ばれることは、アメリカ人の人種に対する意識、宗教に対する意識、社会主義や再分配に対する意識、いろんなものが変わり始めた証として捉えられるのかもしれない。大統領選の結果だけでなく、アメリカがこれからどこに向かおうとしているのかということから、しばらく目が離せそうにない。
追記: しまった、分配と配分を間違えた。ということで訂正しました(^^)。 お恥ずかしい。あと、オバマ氏の大統領としての資質については、必ずしも手放しで認めてるわけではないです。というか、まだよくわからないというのが正直なところ。確かに演説がうまい人だなとは思いますが、政策のすべてに必ずしも賛成なわけではありません。ただ、大統領選挙にとって政策がそれほど決定的かというと、必ずしもそうとも思ってないので(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
ある人のブログを読んでいたら、成果主義が失敗したのに(解雇規制の撤廃による)雇用の流動化が成功するわけない、みたいなことが書いてあって、ちょっとひっかかった。というのは、ぼく的には、成果主義と雇用の流動化は、ほとんど正反対の哲学だと思っているからだ。
そもそも、「成果主義」とうい言葉の定義自体があいまいで、字義通りの完全な成果主義なんておそらく成立しないと思うのだが、仮に思考実験として、できるだけ文字通りの意味に近い成果主義というのを考えてみよう。
成果というのは最終的には企業の利益であるから、まず、社員全員の給与の合計が、完全に企業の利益に連動するとしよう。もちろん、生産に必要な生産要素というものは労働だけではないので、生産要素間でどう利益が分配されるかも、労働・資本それぞれの寄与度や、労働市場・資本市場それぞれの需給関係によって決まってくるはずだが、ここでは話をわかりやすくするために、労働分配率は常に固定としてみよう。
言い換えれば、資本家への配当や税金を除いた利益を、すべて労働者で山分けすると考える(もちろん、通常「利益」からは人件費を除いて考えるが、ここではあえて確信犯的にそうしないのである)。そして労働者間の給与の配分は、各人の貢献度(これも厳密な定義にはいろんな議論があると思うが)に応じて重み付けするとしよう。面倒なので、年金や健康保険などの社会保障費負担などもすべて捨象して考える。
さて、こういう理想的な「成果主義」の会社がもしあったとしたら、何がおこるだろうか。ちょっと考えればわかるが、社員を解雇する必要がまったくなくなるのである。なぜかというと、このシステムでは、利益が出なければ給与を払う必要はないし、利益が少なければその分給料も少なくできるのだから、企業が社員をかかえておくリスクがほとんどないからだ。だから、企業は、必要のあるなしにかかわらずできるだけたくさん社員を雇って、抱え込んででおこうとするだろう。
逆に社員側から見ると、いくら長時間真面目に働いても、企業の業績が悪ければまったく給料がもらえないということになる。つまり、資本家が負っている業績リスクと同じものを労働者も負担することになるわけだ。だから、もし企業の業績が悪化して給料が下がったら、労働者はむしろ自分から辞めようとするだろう。
(おそらく、このことがワーキングプアの増加にも関係しているのではないか。)
ここまで説明すれば気づいた人も多いと思うが、解雇規制の撤廃による雇用の流動化というのは、この「成果主義」のように、企業の利益と給与が連動していないからこそ必要な制度なのである。ここで仮に、この「成果主義」とは逆に、企業の利益にかかわらず、労働者には常に一定の賃金が払われるという制度を「固定賃金主義」と呼んでみよう。
固定賃金主義の企業では、利益の多少にかかわらず一定の賃金を支払わなくてはならないので、必要最小限の労働者しか雇わないようにするだろう。そして、利益が減ったり増えたりした場合には、給与額で調整することができないのだから、その分労働者の数で調節しなくてはならなくなるだろう。したがって、解雇が必要になってくる。
逆に社員側から見ると、企業の業績がよかろうが悪かろうが、長時間真面目に働けば、働いた分だけの給料を必ずもらえるということになる。つまり、労働者は、資本家が背負っている業績リスクから切り離されている。したがって、労働者は、いくら企業の業績が悪くても、あまり会社を辞めたがらないということになる。
と書くと、でも、企業が倒産すればやっぱり社員も損害を受けるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、統計・確率的に考えると、世の中、起業したり倒産したりする会社は数々あれど、世の中全体で必要とされる労働者の量はほぼ一定のはずである。もちろん、社会全体の雇用の数が減る「不景気」という現象は厳然として存在するが、その幅は、個別の会社の業績の変化や倒産の数に比べれば、相対的に狭いはずである。したがってやはり、倒産時のことまで考えても、「固定賃金主義」の方が、労働者は個別企業の業績のリスクから切り離されている、と言えるだろう。
ここまで論じてきたことを一覧表にすると、こんな感じになる。
| 成果主義 | 固定賃金主義 | |||
| 資本家 | 労働者 | 資本家 | 労働者 | |
| 業績リスク | 負う | 負う | 負う | 負わない |
| 解雇・退社 | したがらない | したがる | したがる | したがらない |
このように、「成果主義」と「固定賃金主義」は、業績リスクを誰が負うかという点で、ほとんど正反対の思想である。そして、雇用の流動化というのも、「固定賃金主義」のためにこそ必要な制度なのだから、やはり成果主義とは正反対の思想だと思うのだ。
では、冒頭に書いたブログの著者は、なぜこのような正反対のものを同列に見なしたのだろう。それはおそらく、いわゆる「日本的雇用慣行」からの距離で考えたからだと思われる。だからむしろ、なぜ「日本的雇用慣行」では、「固定賃金主義」と「解雇規制」というたがいに矛盾する思想からくる制度が両立していたかを考える必要があるのだろう。
この問題をあまり深入りしている余裕はないが、大雑把に言えば、これは業績リスクの相対的に小さい右肩上りの時代のおいてのみ存続可能な制度であり、資本家に対しては付加価値の創造よりも企業自体の存続を目標とすることを強制し、労働者に対しては、必要以上に企業に依存する性質を植えつける、奥村某や佐高某の言う「会社主義」や「社畜」を生み出した制度そのものなのだと思う。そして、そこから脱却するには、「成果主義」と「雇用の流動化」という正反対の方向性がある、と考えるのが正しい歴史観ではないだろうか。
ぼく自身は、かなり前から何度か言っているように、成果主義には反対で、雇用の流動化には賛成なのだが、その理由を説明しだすと長くなるので今回は割愛する。ただ、少なくとも、企業別組合の害悪を言いながら、雇用の流動化には反対するような立場はおかしいと思うし、むしろ、雇用の流動化こそが労働者の自立につながると考えるべきだと思っている。これも詳細はまた時間のあるときに書きたい。とりあえず読者のみなさんには、「成果主義」と「雇用の流動化」は正反対の思想なのかもしれない、ということをちらっとでも思っていただければ幸いである。
これも必ずしも完全に勝手な与太を飛ばしているわけではなく、一応、経済学で言うところの「インセンティブとリスク・シェアリングのトレード・オフ」という話を下敷きにしてはいる。要するに、資本家と労働者では効用関数が違い、資本家はリスク愛好的なので期待値基準で動くが、労働者はリスク回避的で期待効用基準で動く。そのため、資本家にはハイリスクハイリターン、労働者はローリスクローリターンという分配が最適解になるというような理論が実際にある。この話は、それをちょっと大げさに誇張してマクロにつなげただけと思ってもらってもいいんじゃないかと思う。 得に、「成果」とインセンティブは違うということ、リスクを考慮すると期待値だけを考慮したときとは結果が異なってくることなどは、知っておいて損はない。
参考文献:
「MBAミクロ経済学」小島寛之著(p171-179)。これ以上わかりやすくするのは無理、というほどわかりやすい(^^)。題名の軽薄さに騙されてはなりませぬ。
「経済システムの比較制度分析 」青木昌彦、奥野正寛編著(p106-108)。ぱっと見難しそうだが、よく読むとそれほどでもない(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
タイトルからは想像つきにくいと思うけど、今回書きたいのは、例の「靖国」という映画の上映自粛問題とか、ちょっと前のプリンスホテルと日教組の問題とかについてである(^^)。
ご存知の人も多いと思うが、どちらの問題も、右翼からの圧力を怖れて、民間企業が特定の客や商品の取り扱い避けたという話。それに対して、言論の自由を守るためにもっとがんばれという意見もあれば、責任は右翼およびその損害を防げない国にあるのであって、一民間企業が甘んじて損害を受ける義務などない、という意見もあるようだ。
この手の議論を見ていつも思うのは、そもそも、「責任」という概念の定義をはっきりさせないまま、責任があるとかないとか言ってることが多いということである。最近流行の「自己責任」に関する議論もそうで、そもそも「責任」という概念自体が共有できてないから、不毛な議論になってしまう。
実は、かつて「責任論」というのが流行ったことがあって、その頃にもいろんな人(柄谷某とか奥村某とか)の責任論に目を通したが、正直、どれ一つとして納得のいくものはなかった。
このような責任論の多くでは、そもそも、責任というのが何か物理法則か何かのようにアプリオリに決まっていて、人間がやるべきことは、どこに責任があるのかを発見することだけであるかのような論法になっている。ぼくに言わせれば、そもそもこの認識が間違い。そうではなく、責任とは、社会が決めるお約束なのである。
本来なら、ここでぼく自身の「責任論」を展開しておくべきなのだろうが、残念ながらその余裕はない。しかし幸い、ぼくの考えを代弁してくれているような学者の方がいるので、今回はその権威に頼っておくことにする(^^)。
「責任」とは、「権利」や「義務」と同じように「構成的な概念」であって、石や水のように客観的に存在しているものではない。それは、社会の中で人々がなんらかの(しばしば暗黙の)合意によって組み立てられていくものである。それをどう組み立てていくかは、社会にとっての重要な課題であるが、あらかじめ客観的に所与として存在しているわけではない。
-盛山和夫「リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理」
さて、誰に責任があるかはみんなで決めるものだ、という前提は納得いただいたことにする。問題は、じゃあそれをどうやって決めたらよいかということだが、一つ有力な考え方がある。それは、社会全体のコストを最小化するように決めれば、みんなが得するはずだという考え方である。
たとえば、ある事件が起こると、世の中全体に 100 万円の損失が発生するとする。この事件を A さんが防げば 1 万円で防げるが、B さんが防げば 10 万円かかるとする。この場合、A さんに事件を防ぐ責任がある、ということにすれば、社会全体の損失が最小化されるはず、というわけだ。
実は、以前にこんにゃくゼリーについての記事で紹介した「最安価損害回避者」というのも、基本的にはこの線にそった考え方だ。こんにゃくゼリーによる死亡事故を防ぐのに、メーカーがのどにつまらないこんにゃくゼリーを開発するためにかかるコストと、ユーザーがのどにつまらないように注意するコストを比べて、少ない方に責任があるとした方が、社会全体の損失は少なくてすむだろう。
この考え方のいいところは、一律に製造者責任とか消費者の自己責任とかに決めるよりも、より合理的な責任の割り振り方を柔軟に考えられるというところにある。
ただ、この考え方だと、社会全体のコストは最小化されるかもしれないが、実際にはそのコストは特定の人が負担することになるので、不公平になるのではないか、と思う人もいるだろう。
たとえば、道に落ちているゴミを誰が拾うか、という問題を考えてみよう。これも、ゴミがあるのは捨てたヤツの責任だとか、いや道を管理している国や自治体の責任だとか、いろんな考え方がありうる。でもおそらく、社会的コストの最小化という観点から考えれば、たまたまそこに通りかかってゴミを見つけた人が拾うのが、最もコストが小さいのではないだろうか。
ところが、この方式だと、ゴミが落ちていても拾わない人がたくさんいたり、ゴミが落ちている場所が偏っていたりすると、たいへん不公平なことになる。社会全体のコストを減らすために、特定の人だけが損をするということになってしまうからだ。それでは、多くの人はバカバカしくて協力をやめてしまうだろう。
つまり、この方式がうまく機能するのは、ゴミ拾いコストの期待値が誰でもだいたい同じ場合。言い換えれば、誰でもゴミを見つける確率がほぼ同じで、しかも、見つけた人がみんなマジメに拾うような場合なのである。そのような状況であれば、昔からよく言われような「困ったときはお互い様」という論理が成り立つわけだ。
さて、そろそろぼくが何を言いたいか勘付いた人もいると思うが(^^)、そもそも、「言論の自由」にもコストがかかる。自分と違う意見を聞けばたいていの人は不快だろうし、言論をいろんなメディアで流通させるのにも金がかかるし、大音量の拡声器でわめかれた日にゃ単純にうるさい。
それでも、多くの人がそういうコスト負担に耐えているのはなぜか。まず、言論の自由を守ることは社会全体の利益になること。さらに、その利益は、一人一人が負担しているコストの合計より大きいはずだということ。そして最後に、そのコストは、特定に人だけが負担しているわけではなく、社会の全員がほぼ平等に負担しているはずだということだ。
もうおわかりになったと思うが、この負担の平等が成り立たないようにすることこそが、街宣右翼の狙いなのである。つまり、本来は社会全体で平等に負担しているはずの「言論の自由」のためのコストを、特定の人や会社にだけ偏って負担させることによって不公平感を生み出し、コストを回避した方が得だと思わせようとしているわけである。
国がもっと右翼に対する規制を厳しくすればいいという意見に対する疑問点もここにある。つまり、国が規制するのと、企業が我慢するのとでは、どっちが社会全体のコストが少ないかは微妙だと思うのだ。もともと彼らは、遵法闘争的な発想でやっているわけだから、特定の行為を禁止したらしたで、いくらでも別の嫌がらせの方法を考えてくるであろう。そして、それを防ぐためには禁止的な高コストがかかるかもしれない。
ところが、問題がコスト負担の不平等にある、というところに着目すれば、もっと簡単な解決法があることがわかる。要するに、コストを改めて社会全体でシェアすればよいのだ。
これは、先ほどのゴミの例で言えば、国や自治体で清掃をする代わりに、一般市民にゴミを拾ってもらい、それに対して報酬を出すことに相当する。本当に国や自治体で清掃するより一般市民がゴミを拾うほうが低コストなら、この方が清掃費用が安くつくだろう。
たとえば、「右翼保険」のようなものを作るなんていう手もある。右翼の被害に合いそうなホテルがみんなで保険料を積み立てておいて、実際に右翼の被害にあったホテルがそれを受け取るようにするのだ。もちろん、宿泊客に対しても、そのお金を原資にして宿泊料を値引きしたり、お詫びの品を配ったりすればよい。
そうすれば、かえって得するから右翼に来て欲しいと思う客も出てくるだろうし、あのホテルにはよく日教組が来て宿泊料が安くなるからという評判になって、かえって客が増えるかもしれない(^^)。もちろん、そんなことになれば、右翼のもくろみは崩れて嫌がらせをすること自体が無意味になるだろう。
もっとも、民間の保険だと、うちは保険料を払いたくないからやっぱり日教組なんて泊めないよ、というところも出てくるかもしれない。だから、理想的な方法は、そういうコスト負担を国が税金で補償することである。そもそも、言論の自由が守られれば国民全体が得するのだから、税金で補償したって悪いことはあるまい。もちろん、右翼の被害というものを適切に認定することにはいろいろ技術的な問題もあるだろうが、拡声器を使う場合には届出制にするとか、いくらでも方法はあると思う。
まあ、このへんは半分冗談だが(^^)、重要なことは、言論の自由が守られれば国民全体が得するんだから、問題はコスト負担の不平等だけなんだ、という認識を国民全体で共有することである。そうすれば、闘うことを強制はできなくても、闘う人を励ましても罰は当たらないということはわかるはずだし、勇気がない人をけなす必要はないかもしれないが、勇気のある人には名誉という形の報酬を与えるということだってできるだろう。
あのような事件について、企業よりも国に責任があると思う人は、少なくとも、国の規制を厳しくすることと、企業が我慢することと、どっちが低コストか、一度冷静に考えてみてほしいと思う。
もちろんこれは、右翼の問題に限ったことではない。電車内で強姦されそうになっている人を乗客が助けるのと、車掌にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。バスの中で殴られている人を乗客が助けるのと、運転手にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。かたくなに誰の責任かにこだわるより、コストをどうシェアするかを考えたほうが生産的ではないだろうか。
| 固定リンク | トラックバック (0)
サンプロを見ていたら、これからは資源戦争の時代で、日本ももっと食料自給率を上げないと資源戦争に勝てないというお話をしていたので、日本が手持ちの資源で食料戦争に勝てる可能性を探ってみた。
まず、国民一人当たりの耕地面積と食料自給率の関係を調べてみた。
| 国 | 人口(人) | 陸地面積(km2) | 耕地割合(%) | 耕地面積(km2) | 一人当たり耕地面積(m2/人) | 食料自給率(%) |
| オーストラリア | 20,434,176 | 7,617,930 | 6.15 | 468,503 | 22,927 | 237 |
| カ ナ ダ | 33,390,141 | 9,093,507 | 4.57 | 415,573 | 12,446 | 145 |
| フランス | 64,057,790 | 640,053 | 33.46 | 214,162 | 3,343 | 122 |
| ド イ ツ | 82,400,996 | 349,223 | 33.13 | 115,698 | 1,404 | 84 |
| イタリア | 58,147,733 | 294,020 | 26.41 | 77,651 | 1,335 | 62 |
| オランダ | 16,570,613 | 33,883 | 21.96 | 7,441 | 449 | 58 |
| スペイン | 40,448,191 | 499,542 | 27.18 | 135,776 | 3,357 | 89 |
| スウェーデン | 9,031,088 | 410,934 | 5.93 | 24,368 | 2,698 | 84 |
| ス イ ス | 7,554,661 | 39,770 | 9.91 | 3,941 | 522 | 49 |
| 英 国 | 60,776,238 | 241,590 | 23.23 | 56,121 | 923 | 70 |
| アメリカ | 301,139,947 | 9,161,923 | 18.01 | 1,650,062 | 5,479 | 128 |
| 日 本 | 127,433,494 | 374,744 | 11.64 | 43,620 | 342 | 40 |
人口、陸地面積、耕地割合に関しては、CIA で出してる The World Factbook、食料自給率については、農林水産省の「食料自給率資料室」 からデータを取得した。これらはウェブ上で公開されているので、誰でも検証が可能である。ただし、前者のデータは 2007 年頃のもので、後者のデータは 2003 年のものだが、これは他に資料が見つからなかったためなので勘弁いただきたい。耕地面積と一人当たり耕地面積は、これらのデータから単純に計算したものである。
このデータを見ただけでも、一人当たり耕地面積と食料自給率にはかなりの相関がありそうに見えるが、実際に横軸に一人当たりの耕地面積、縦軸に食料自給率をとって、グラフにしてみるとこうなる。
この直線は回帰直線といって、仮にこの両者が正比例の関係にある(つまりグラフ上では直線で表される)と仮定した場合に、実際のデータとの誤差が最も小さくなるような位置と傾きで引かれた直線である。青い点の方は実際の各国のデータなのだが、どの点もかなり回帰直線の近くにある。つまり、各国の食料自給率の差は、かなりの部分耕地面積の差で説明できるということである。
統計の知識のある人のために書いておくと、この両者の相関係数は 0.95 (有意水準 1% 以下で有意)であり、この回帰式の決定係数(寄与率)は 0.90 である。言い換えれば、 食料自給率の 9 割は一人当たり耕地面積で説明できると言うことだ。
もっとも、回帰式が原点を通らないところはかなり気になる(耕地面積ゼロでも食料自給率がゼロにならないということだから(^^)。でも、水産資源まで考えれば辻褄合うのかも)。ひょっとすると、グラフの右の方にあるオーストラリアやカナダは、まだまだ生産効率を上げる余地があって、各国が生産効率限界まで生産すると、もっと食料自給率が上がるのかもしれない。たぶん、オーストラリアやカナダを外れ値として除外して直線を当てはめれば、傾きはもっと急になって、原点近くを通るようになるだろう。(あるいは、直線よりも限界生産性が逓減するような曲線を当てはめた方が本当はいいのかもしれない)。
言うまでもないが、日本は一番左下にある青い点である。この点は回帰直線より下にあるので、日本は確かに耕地面積が狭いことを割り引いても食料自給率が低いということは言えそうである。ただし、逆にこの回帰直線から予想される日本の食料自給率は、約 64% でしかない。
このままではどう見てもわが国には勝ち目がないので、仮に日本の国土すべてを耕作地にしたらどこまで食料自給率が上げられるかを計算してみた。つまり、一人当たり耕地面積の代わりに、一人当たり陸地面積を横軸にとって、それがこの回帰直線とぶつかる点から食料自給率を予想するわけである。もちろんこれは、山も都市もすべてつぶして農地にするということを意味するが、国家存亡の非常時であるからそんなことはかまっていられない。
| 国 | 人口(人) | 陸地面積(km2) | 一人当たり陸地面積(m2/人) | 予想食料自給率(%) |
| オーストラリア | 20,434,176 | 7,617,930 | 372,803 | 2,966 |
| カ ナ ダ | 33,390,141 | 9,093,507 | 272,341 | 2,184 |
| フランス | 64,057,790 | 640,053 | 9,992 | 139 |
| ド イ ツ | 82,400,996 | 349,223 | 4,238 | 94 |
| イタリア | 58,147,733 | 294,020 | 5,056 | 101 |
| オランダ | 16,570,613 | 33,883 | 2,045 | 77 |
| スペイン | 40,448,191 | 499,542 | 12,350 | 158 |
| スウェーデン | 9,031,088 | 410,934 | 45,502 | 416 |
| ス イ ス | 7,554,661 | 39,770 | 5,264 | 102 |
| 英 国 | 60,776,238 | 241,590 | 3,975 | 92 |
| アメリカ | 301,139,947 | 9,161,923 | 30,424 | 299 |
| 日 本 | 127,433,494 | 374,744 | 2,941 | 84 |
これをグラフにするとこうなる。
どうだろう。来るべき食料戦争に勝てそうな気になれたであろうか。
どうも日本人は、自分たちの国がいかに資源の少ない狭い国土にたくさんの人が住んでいる特異な国かということを、しばしば忘れがちであるように思える。こんな国が資源戦争に乗り出そうというのは、思想をどうこう言う前に戦略として間違っており、将棋で言うところの「筋悪」な手そのものではないだろうか。
思えば、「あの戦争」も、資源のない日本が無理矢理領土を広げて資源を確保しようとしたのが始まりではなかったか。戦後その過ちに気づいた日本人は、資源を増やすことを諦め、貿易によって富を増やすという戦略に転換することによって、奇跡の復活をとげた。なのに日本人は、かつての教訓を忘れ、ふたたび資源戦争に乗り出そうというのだろうか。
最近、サヨク系の人たちが反グローバリズムのあまりウヨク系の人たちと同じ主張をしだすという傾向が見られるが、思えば、大東亜共栄圏とかなんとかいうのだって、実質はともかく、名目上は反グローバリズムの主張だったわけで、だからこそ多くの国民が騙されたわけであろう。どうもそういうことを思い出して嫌な感じがしてしまうのはぼくだけだろうか。
これはぼくの勝手な歴史観だが、多分、冷戦が崩壊したのは、米ソがにらみ合ってるのを尻目に、アメリカの核の傘を利用して無駄な軍事費を使わず平和な商売に専念して大儲けした日本を見て、米ソがバカバカしくなってしまった(あくまで比喩的にだが)のが一因じゃないかと思っている(^^)。そういう意味で、グローバリズムこそが日本の生み出した世界に誇るべき思想なのであって、日本はこの思想に賭けるしかないと思う。
そもそも、資源のある国が資源を囲い込もうとしたり資源戦争だとか言い出したりするのはわかるが、日本のような資源のない国は、あくまでそれをさせないような外交努力をし、グローバリズムこそが世界を平和にするのだと世界に訴え、実際にグローバリズムを通じて世界の人を幸せにする努力をしていくのが本筋であろう。
仮に、そういう努力も虚しく実際に資源の囲い込みが起こったとしても、そうなれば自然に農産物の価格が上昇するはずだから、国内農業の利益率も上昇して、市場原理によって自然に国内農業生産量も増えるだろう。だからいずれにせよ、先回りして先行投資することにそれほど意味があるとも思えないのだが。
あるいは逆に、少子化対策などやめて、日本の人口を今の半分ぐらいに減らし、名実ともに小国として暮らす道を選ぶという手もあるかもね。まあ、どれぐらいの日本人がそれに賛成するかよくわかりませんが(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
山田太一氏の「頑張れば夢かなうは幻想、傲慢」という記事や、小飼弾氏の「自己責任から自己権利へ」という記事が、最近ネット界でちょっとした話題となった。この議論をなんとなく追っかけていて、一つだけ大きな違和感を感じた。それは、彼らの議論には、人間の生がはらむ避けがたい「不確実性」に対する感受性が足りないのではないかということだ。
山田氏が言うまでもなく、努力すれば必ず成功するというのはウソである。人間の知や能力は有限であるがゆえに、努力はせいぜい成功の確率を高めることしかできない。こう言われると首を傾げる人だって、予測不能の自然災害や、原因不明の重病にかかった人を見れば、それは自己責任だとか本人の努力が足りないせいだとは、決して言わないはずである。
にもかかわらず、なぜ人はしばしばこのような不確実性の存在を忘れがちなのであろうか 。それはたぶん、人間がしばしば確率的現象と因果律的現象を取り違え、確率の中に勝手に因果律を読み込む癖があるからだと思われる 。
たとえば、サイコロで6を10回出し続ける確率は約6千万分の1だが、6千万人がサイコロをふれば、一人ぐらいはそういう人がいてもおかしくはない。その結果は、他の6千万人にとってはあくまで6千万分の1だが、出した当人にとってはまるで1分の1であるかのようにも感じられるわけで、その瞬間、自分にはサイコロを操る奇跡の力があると思いこんでも不思議はないだろう。
(サイコロの目だって究極的には決定論で決まるんだろう、という「ラプラスの悪魔」的な考え方をする人には、決定論的でありながら予測不可能な現象の存在を証明した「カオス理論」をご紹介しておく。)
競馬のような予想ギャンブルをやったことのある人なら、たいてい一度は経験したことがあると思う。新しい予想法を編み出したら、とたんに馬券がズバズバ当たり続けるので、自分はひょっとして競馬の天才かもしれないと有頂天になるのだが、しばらくしたらちっとも当たらなくなって、単なる偶然だったと悟ることが。
もちろん、こういうのは努力と無関係にほとんど偶然だけで決まる例であるが、そのような場合ですら、当人は努力の産物であると錯覚することはままあるのである。
(ちなみに、競馬は期待値が1以下だから絶対に儲からない、という俗説は必ずしも正しいとは言えない。なぜかというと、競馬のオッズというのは、あくまで人間が予想した馬の人気に過ぎず、実際に馬が勝利する確率ではないからだ。オッズが勝率と一致するというのは、金融工学でいうところの効率的市場仮説に相当する仮説であるが、おそらくこれを立証した人は誰もいないだろう。ということは、他人より予想能力のある人にとっては、競馬で儲かる可能性は否定されていないのである。閑話休題。)
同じように、人生というものは一回きりであるから、成功者の「成功」のどこまでが努力の産物で、どこまでが単なる幸運の産物であるかを、統計的に厳密に検証することはかなり難しい。したがって、実際に努力して成功した本人は、努力が必然的に生み出した結果であると思い込みやすいし、それに文句をつけることは原理的に難しい。逆に失敗した人についても、他の人はすべてが当人の努力の欠如と思いやすいし、それに対して本人が反論することも難しいのである。
これは前にも書いたことがあるが、たとえば、長寿世界一でギネスブックにのっていた泉重千代さんは、かなりの愛煙家だったが、もちろんこれは、タバコが身体にいいことを保証しない。 困った同僚とどうつきあうべきかという問題にしてもそうである。人間は話せばわかるというのは、統計的な一般論としては正しい。しかし、個別のケースにおいて、そこに登場する同僚が、例外的な極悪人間でないということが、なぜ簡単に断定できるのだろうか。
山田太一氏が、成功者の伝記だけでなく、失敗者の伝記も若者に読ませたほうがよいといっているのは、そういう意味である。 それに対する批判として、失敗者の伝記には、必ず何か失敗した原因が書かれているはずだから、「可能性のよき断念」にはつながらないはず、と主張している人がいたが、これこそが人生の不確実性を無視してすべてを決定論でとらえようとする発想なのである。
実際、世の中には、できる限りの努力をしたにもかかわらず成功できなかった人がたくさんいるはずなのだが、今の世の中では、そういう人たちの経験談が若者の目に触れやすい場所に出てくる機会が少ない。したがって、そういう人たちの経験を知らしめた方が、若者も将来についてバランスのとれた判断ができるはず、というのが山田氏の言いたいことであろう。
小飼弾氏の主張に違和感を感じたのもそこである。他人の不幸に対して、必ず本人に原因があるはずだという決め付けには、不確実性に対する感受性が欠けている(これは実は、本人より社会や国家が原因だと決め付けている批判者も同様なのであるが)。 もちろん、原因や責任をきっちり究明した上で誰かを批判するのはかまわない。しかし、ちょっと話を聞いたぐらいで、アプリオリに本人に原因を帰するのは、傲慢の謗りを免れないと思うのだ。
ぼくがこのような不確実性に対する感受性の欠如を感じるのは、実はこの2つの例だけではない。経済一般についての議論でも感じることがある。
そもそも、努力や能力があれば必ず経済的に成功するのであれば、資本など不要であるとすら言えるかもしれない。金融工学の教えるところによれば、リスクとリターンは比例する。つまり、付加価値の大きい生産をしようとすれば、必然的にリスクをとらなくてはならない。言うまでもなく、リスクというのも不確実性の一種である。
実は、努力を必要とするようなことは、たいていハイリスクである。 なぜなら、努力というのは基本的に、目先の利益を放棄するかわりに、将来により大きな利益を得ようとする行為だからだ。利益を時間的に先送りすれば、その間には不確実性が入り込むことはほとんど自明である。同じように考えれば、たぶん、目的のはっきりしている応用研究より、目的のわからない基礎研究の方がハイリスクだと思われる。こういう行為が何か「堅実」なことであるように思われているのは、社会がそういう仕組みをつくってリスクヘッジしているからなのであって、行為そのものはハイリスクなのである。
われわれは、リスクをとらなければ社会全体のパイを大きくすることはできない。これは、成熟社会になればなるほどそうなると思われる。そこで個人はある意味、自分のためだけではなく、社会のためにリスクをとらされているのだ。
あえて極論を言えば、不確実性のある生産というのは、1回の1の目を出すために、6人でサイコロを振るようなものだと言える。 そう考えれば、因果律的に1の目を出したのは一人だけだったとしても、確率的な意味では6人の共同作業であるとみなすこともできるだろう。
もちろん、これは偶然性を極端に誇張した例であって、実際には、努力によって成功確率を上げられる部分もある。したがって、大きな付加価値のある生産に成功した人は、社会から一定の敬意を受けてもよい。しかし、先に述べたように、人生において努力が100%で偶然が0%ということがほとんどあり得ないとするなら、社会は、失敗した者に対しても、同じ社会で生きる者としての一定の敬意を払えるはずである。
ぼくは、収入格差はあってもよいが、セーフティネットやベーシックインカムにはわりと賛成、という立場だが、それは、人間にとって、多少の収入の差よりも、同じ社会に生きる人間として認め合えることの方がはるかに大切だと信じているからだ。
おそらく、昔の社会では、人生に運不運があるのは当たり前だったろう。人類は、そういう不確実性を少しでも減らし、個人が自分の意思で人生をコントロールできるような社会を目指してきた。その目標は、現代においてある程度が実現されたと言えるし、そのこと自体はよいことだったろう。しかし、その副作用として、人々は、人生のすべてを意志の力でコントロールできると過信するようになり、その結果として、不幸な人々を必要以上に蔑むようになっていないだろうか。昔の社会は、ろくな社会福祉もなく、貧乏な人もたくさんいただろうが、そういう人たちに対する人々の視線は、むしろ現代より優しかったかもしれない。
そういう意味で、ぼくは経済的な成功者の方々がいくらフェラーリを乗り回そうと女子アナと鍋パーティをやろうとかまわないが、運命に対する謙虚さだけは持ち続けてただきたいと思うのである。
"There, but for the grace of God, goes Sherlock Holmes."
- The Boscombe Valley Mystery by Arthur Conan Doyle.
| 固定リンク | トラックバック (1)
以前、アメリカの ABC で放送したエタノール懐疑論を紹介したことがあったが、バイオ燃料批判もやや本格化してきた模様。
ジュネーブ大学とソルボンヌ大学で教授を務めるジーグラー氏は25日、国連人権委員会で、食料ではなく農業副産物から燃料を作り出せる技術が確立するまで、バイオ燃料の生産に猶予期間を設けるよう主張。翌26日に開いた記者会見で、「農地をバイオ燃料のために捧げることは、人類に対する犯罪だと言える。一刻も早く、世界中で起こっている飢餓による大量虐殺を阻止しなければならない」と述べた。
論者は、かのジェフリー・サックス氏。
世界の食糧需要の増加、トウモロコシなどの食糧用から燃料用への転換、大きな気候変動という“三つの脅威”がそれぞれ重なり合って、数年前に予想されていた以上に世界の食糧の需給は逼迫し、価格上昇を招いている。
しかし残念なことに、今までのところ、こうした農業の変化に取り組むため、積極的に指導力を発揮した国はない。むしろ逆に、そうした動きを加速する政策が見られるのだ。たとえばアメリカでは、トウモロコシや大豆を燃料生産に転換させるために巨額の補助金を出しているが、こうした政策は方向が間違っているといわざるをえない。
| 固定リンク | トラックバック (0)
年長者を敬うことが、多くの文化で美徳とされている理由について、一つの仮説を思いついたので書いておく。もっとも、こんなこととっくに誰かが言ってそうな気もするが(^^)。
これはたぶん著作権と同じ原理なんじゃないかと思うのだ。つまり、全プレーヤーを平等な条件で競争をさせると、世の中全体にとってはかえって損になるので、一部のプレーヤーを意図的に優遇する、という意味があるのではないか。
そもそも、若者と年寄りでは、競争上の長所・短所が異なっている。若者にとって、競争の武器は、才能・気力・体力である。これらは、他人に分け与えたり、他人からもらったりすることはできないし、使ったせいで優位性が使い減りすることもない。一方、年寄りは、才能はともかく、気力・体力ではむしろ若者より劣る。したがって、年寄りの競争の武器は、経験によって身に着けた知識や技術になるが、これらは、比較的容易に他人に分け与えることができ、その結果確実に優位性が失われてしまう。
こういう前提条件のもとで、若者と年寄りとを完全に平等な条件で競争させると、若者はほっといても全力を発揮しようとするだろうが、年寄りにとっては、知識や技術を小出しにして、若者に対する優位性を維持することが合理的な戦略となるだろう。しかし、年寄りがみなこのような戦略をとったんでは、社会全体にとっては損失である。
したがって、年寄りが持つリソースを気前よく社会に提供させるためのインセンティブとして、年寄りを無条件で敬う文化というのができたのではないだろうか。徒弟制度などの合理性も、部分的には同じ論法で説明できそうである。
仮にこの仮説が正しいとすると、現代のように年功序列がなくなって、年寄りと若者が同じ条件で競争する社会になった時代には、そのような年寄りを敬う文化が持っていた機能を、何かで代替する必要があるだろう。
たとえば、インターネット上で知識を披露することにより、広告料が得られるなんていうシステムは、競争原理がより多くの知識を提供するためのインセンティブとして働くので、そういう代替機能の候補にはなりうると思う。だけどそれが、非常にマイナーな知識、たとえば、特定のお客に営業をかけるコツ、みたいなものの共有にどこまで役立つかを考えると、こころもとない感じがしないでもない。
実は、ぼく自身も、昔は知識を小出しにするなんてセコいと思っていたのだが、最近は、少し知識を小出しにした方がいいかもしれないと思い始めている(^^)。だからこんな説を思いついたのかもしれない(^^)。 ぼくは前から、成果主義より能力主義の方が合理的のではないか、と主張しつづけているのだが、年寄りの優遇も一種の「能力」主義として考えてみてもよいかもしれないね。
| 固定リンク | トラックバック (0)
(前に、「ビジネスはプラスサムゲーム(を目指す)」というのを書いたことがあるけど、その「政治編」みたいな感じ。)
米下院で従軍慰安婦決議とかが出て、ネット上ではまたぞろ不毛な政治論争が沸き起こっているようだが、こういう論争にはうんざりしてる向きも多いと思う。こういう、ウヨとかサヨとかカタカナで書かれてしまうような方々の言説を見ると誰でも気づくのは、陰謀説が多いことである。やれ、サヨは特定アジアと結びついて日本を売り渡そうとしているとか、ウヨは国民を洗脳して戦場に送りこもうとしているとか。。。(^^)
では、なぜ彼らの主張にはこんなに陰謀説が多いのであろうか。それは、彼らが政治を闘争として捉えていて、政敵は常に自分にとってもっとも嫌な手を打ってくる、という考えを前提にしているからではないかと思う。
もちろん、こういう考え方が合理的思考に基づいているとは必ずしも言えないのであるが、合理的に解釈できる方法が一つある。それは、この考え方を、ゲーム理論で言うところのミニマックス戦略として捉えることである。
ミニマックス戦略というのは、ある種のゲームにおいて、「最適」な戦略であることが数学的に証明されている戦略なので、そういう戦略をとることに別に問題はないと思う人もいるかもしれない。しかし、実はこの「ある種のゲーム」というのには、かなり厳しい制約がついている。それは、そのようなゲームはゼロ和ゲームでなければならないということである。
ゼロ和ゲームというのは、相手が得すれば必ず自分は損する、したがって、相手の得と自分の損を足すと常にゼロになる、というタイプのゲームのことである。たとえば、勝ちと負けしかない将棋のようなボードゲームであるとか、有限のリソースを取り合うような闘いとかはすべてこれに相当する。
しかし、現実世界の闘争には、ゼロ和ゲームでないものも多い(むしろ、ほとんどがゼロ和でないと言ったほうがよいのかもしれない)。権力闘争にしても、特定の地位を取り合うという点だけを考えれば、ゼロ和ゲームとみなせるかもしれない。しかし、一般の有権者にとっては、ウヨが勝とうがサヨが勝とうが、結果として国がよくなればいいのであるから、こういう政治闘争はゼロ和ゲームではまったくないのである。
こういうゼロ和でないゲームにおいては、ミニマックス戦略は必ずしも「最適」戦略ではない。言い換えれば、このようなゲームでは、決して「敵性悪説」にたたず、ある意味で「敵を信じる」ことが必要になってくる。もっとも、この「敵を信じる」というのはあくまで比喩的な表現であって、厳密にそれがどういうことを指すのかを言うのはなかなか難しいが。
しかし、少なくとも、敵は常に最悪の手を指してくる、という前提にたっていては必ずしも最適の結果は得られない、ということは、ある種の数学的なモデルでも証明されていることなのである。そのことを、陰謀論好きな方々も、知っておいたほうがよいのではないだろうか。
もちろん、これは陰謀説が常に誤りであるという意味ではない。実際、オウム事件や拉致事件では、陰謀説的な説明の方がむしろ真実に近かった。問題は、不確実な情報の下で、さまざまな戦略にどのようにプライオリティを置くかなのである。陰謀説論者というのは、入手した情報の確実性との相対的な関係を考えたときに、あまりにも陰謀説対策にプライオリティをおきすぎる。それは必ずしも最適戦略とはいえないということ。
もっとも、いくら理詰めでこういう説明をされても、陰謀説的な思考法から抜け出せない人もいるだろう。おそらく、そういう人たちにとっては、政治闘争の世界が「局所的」にゼロ和ゲームのように「見えて」いるのである。その原因が、彼ら自身の見る目が歪んでいるからなのか、それとも、本当に近似的にはゼロ和ゲームになっているからなのかは、人によるだろうが。
先に書いたように、特定の地位を争っているような人たちにとっては、権力闘争が近似的にゼロ和ゲームになってしまっているのは確かだろう。だから、こういう人たちにとっては、権力闘争がゼロ和ゲームでなくなるようなインセンティブを与えることが必要なのかもしれない。
しかし、一般庶民にとってはそういうことはほとんどないはずなので、そういう人が陰謀論に極端にこだわっているのだとしたら、むしろゲーム盤を見る目の方が歪んでいるのである。ウヨとかサヨとかカタカナで呼ばれてしまうような人たちの言説に触れた一般庶民がなんとなく引いてしまうのは、おそらくはそれが原因なのだと思う。
(昨日書いた米長さんが失敗ばかりしているのも、ゼロ和ゲームである将棋の世界の戦略を、ゼロ和ゲームではない現実世界に持ち込もうとしているから、なのかもしれない…(^^)。)
| 固定リンク | トラックバック (0)
こういう問題って、製造者責任 VS 自己責任みたいな構図で語られがちだけど、結局はバランスの問題だと思うんですよね。
極端な話、コンビニの誰もが手の届く棚で「食べれば即死の青酸カリキャンデー」みたいなのを売って、間違ってそれ買って食べて死んだ人がいたとしたら、いくらパッケージに毒だって書いてあるじゃないかって言ったって、自己責任ってわけにはいかないだろうと誰でも思いますわな (^^)。
前にも書いたけど、「法と経済学」という分野には、「最安価損害回避者」という考え方があります。これは要するに、最も低コストで損害を回避できるのは誰かということ。
こんにゃくゼリーの問題なら、国、製造業者、保育園、親などの中で、最も低コストで窒息事故を回避できるのは誰かを考えるわけです。
そして、その人の責任ということにすれば、その人には損害を回避するインセンティブが生じるので、社会全体として最も低コストで損害を回避でき、結果的にみんなが得するだろうというわけ。
だからたとえば、製造業者がちょっとこんにゃくゼリーの形を変えただけで死亡率を大幅に下げられるというのだったら、それはやったほうがいいだろうし、逆に親の躾とか言ったって、毎日 8 時間ずつの訓練を 3 年間続けないとこんにゃくゼリーを安全に食べられるようにはなりませんとかいうんだったら、コストがかかりすぎてバカバカしいからやめたほうがいいわけ (^^)。
ただし、厳密には「コースの定理」というのがあって、「取引費用」がゼロだったら、結局だれの責任にしてもいっしょです、という話もあります (^^)。
たとえば、とにかくなにがなんでも製造者責任で、裁判になれば必ず製造者が賠償金をとられるとします。そして、実際には、親がしつけをした方が安上がりだったとします。
そうすると、製造業者は、裁判に負けるのは最初からわかっているわけだからから、損害を最小化しようと考えたら、問題が起こる前に、事前に親に金を出して親に躾をしてもらうはずなんだよね。だから、誰の責任にしても結局同じだっていう話になるわけ。
これが、親がイジワルで、自分で自主的に躾をするのにかかる人件費より、はるかに高い金額を製造業者に要求したりすると、この話は成立しないんだよね。取引費用がゼロってのは、要するにそういうことです。
まあそんなわけで、なんでも自己責任にしてとか企業側の言いなりになってとか怒ってるインテリさんもいるようですが、ぼくは、この話に素直に憤慨する人たちの感覚のほうが、バランス感覚があって健全な気がするんですけどね (^^)。
こんにゃくゼリーの改良が簡単にできるならやればいい。危険性を告知するのもいいでしょ。でも、完全禁止は行きすぎだろう、みたいな線が平均的ですよね。たぶん、コストを厳密に計算しても、そんな感じになるんじゃないですか?
| 固定リンク | トラックバック (0)
昨晩の朝生は、パネラー全員が女性で、これは朝生史上初めてのことだそうだ (^^)。もっとも、だからといって、議論の質に影響があったという感じは、いい意味でも悪い意味でも別にしなかったな (^^)。
でもどうなんだろ、10 年ぐらい前だったら、やっぱりこうはいかなかったんじゃないかな (^^)。少なくとも、大高未貴さんとか雨宮処凛さんみたいな論客を女性の中から探すのは難しかっただろう。これは別段彼女達を高く評価しているという意味ではなくて、むしろ純粋な論客としての評価は正直高いとはいえないわけだけど、それは普段の男ばっかりでむさ苦しい朝生でも同じことだよね。ただ、ああいう論客が出てきたということは、男性論壇と女性論壇がある種相似形になってきたことの一つの証明にはなると思うのだ。
少子化問題については、ぼくの知る限り、そもそも、価値観の変化のせいなのか環境のせいなのか、という論争にすらきちんとした決着がついていないはずなんだよね。環境のせいだと主張する方々は、よく「子供を作りたくても作れない人がたくさんいる」ということを強調するが、ぼくはこの「作りたくても作れない」という言い方にはある種のごまかしがあると思う。
この言葉を使っている人がイメージしているのは、たぶん、収入が生活費だけでギリギリで、子供を作ると生活費すら不足してしまう、というような家庭なのだと思う。でも、こういうイメージでは、よく考えると、何も定義したことになってないのである。
たとえば、収入は人並み以上にあるのに、毎日高級寿司やフランス料理ばかり食べていて、着る物もブランド品ばかり買っているために、生活費だけで収入を使い切ってしまって、それ以上支出を増やせないし、生活を落とすのも嫌だから子供を作れないという家庭があったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れないのか、作れるのに作らないのか、どっちだ?
そんなのは極端すぎるって? じゃあ、質素な生活をしているのに、収入が人並み以下なので子供を作れない家庭を考えて見ましょう。でも、「1ヶ月1万円節約生活」みたいなメチャメチャな節約をして生活費を切り詰めたり、副業やパートを増やして過労死寸前まで働いたら、ギリギリ子供を作れるようになったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れなかったのか、作れるのに作らなかったのか、どっちだ?
もうちょっと論理的に(あるいは経済学的に)考えると、子供を作るという行為には、「子供を愛する喜び」というような「効用」と、生活費の負担増、養育の労力などの「不効用」があって、効用が不効用を上回った場合に子供を作るということになる。
そう考えれば、前者は不効用は小さいが効用もそれ以上に小さいので「作れるのに作らない人」、後者は不効用は大きいが効用がそれ以上に大きいので「作りたくても作れなかった人」、というふうにもいえそうな気がしてくる。したがって、効用が一定以上に大きいのに、不効用がそれを上回って大きい人のことを、「作りたくても作れない人」と呼べばいいと思うかもしれない。
でも、よく考えると、こう置き換えたって、やっぱり何も定義したことにはなっていないのである。たとえば、子供の顔を見るのは大好きだが、世話をするのはそれ以上に大嫌いという人だって、この区分に当てはまるわけだが、こんな人が「作りたくても作れない人」だと思いますか?
じゃあ、精神的な効用と金銭的な効用を分けたら、と思うかもしれないが、精神的な効用と金銭的な効用は市場で容易に交換できるのだから、これだって同じことなのである。たとえば、「世話をするのが大嫌い」を「世話をする人を雇う金がない」と言い換えれば、形式的には、精神的な不効用ではなく金銭的な不効用になってしまうわけである。
要するに、「子供を作りたい」などというのは個人の主観なので、第三者がその「作りたさ」の量だけを客観的に測定することは難しいし、「作りたい」と「作りたくない」の閾値を絶対的に決めることもできない。
さらに本質的なことは、そもそも、子供を持つ喜びというものを、効用と不効用に単純に分けることができるのかいうことである。親がどれだけ不効用に耐えられるかということ自体が愛情の証であって、子供にとってはその愛情こそがもっとも必要なものかもしれないし、親にとっては、子供が自らの愛情を受け入れるということこそが子を持つことの最大の喜びかもしれないのである。だとすれば、不効用=効用という等式が成り立つことになりかねない。
これがまた個人同士の関係であれば、個人の主観でもって、スポ根的に「お前には本当に子供を作りたいという気持ちがない! だから支援はしない!」とか言うこともできるかもしれない。しかし、政府が政策として支援を行う場合には、そんなわけにはいかないのである。したがって、政策論としては、「本当に子供を作りたいけど作れない人」だけに支援を行うことなど、おそらく不可能である。
だからぼくは、「作りたくても作れない人」という言い方は、リベラル系の方々が、「自分達は個人の主体的な選択を尊重しますよ」というポーズを示すための、あるいは、少子化対策の名の元に所得再配分政策を行うための、一種のごまかしに過ぎないと思っている。
「作りたくても作れない」派の人は、某大臣の「女性にがんばっていただくしかない」みたいな発言がお気に召さないようだけれども、このように考えれば、少子化対策には、
のどちらかしかない。これは、いずれにせよ、子供を作る人を優遇し、作らない人を相対的に冷遇するということなのであって(子供を作ろうが作るまいがまったく損得のない、完全に価値ニュートラルな社会、などというものも、おそらく定義不能である)、少子化対策をすると決めた以上は、口でなんと言おうが、やることはいっしょなのである。
もちろん、実際の政策によっては、副次的な効果として、低所得層と高所得層、嫡出子と非嫡出子、初等教育と高等教育などの間で差が出るというようながあることは十分に考えられるし、そのへんがまさに政策としての考えどころではある。
しかし、少子化対策の本質が、子供を作る人を合法的に贔屓する、ということに変わりはないのであって、それを肯定できないならば、むしろ、ぼくのように少子化対策そのものに否定的な立場をとるべきなのである。
本当は、保守とリベラルが対立しているのだって、むしろ、この副次的効果として何を選ぶかの方であるはずなのに、それをまるで、少子化対策としてどっちがより効果的か、という問題のように言うのは、論点のすり替えであろう。
1 と 2 の違いにしても、リベラル系の方々は、なんとなく 1 の方がお好きなようだけど、そんなに単純にどちらがよいと決め付けられる話であろうか。極端な話、どんなに子供が嫌いな人だって、その不効用を上回るインセンティブを与えれば子供を作る可能性はあるわけだけど、子供一人当たり 10 億円ぐらいの補助金を出すというような政策が(予算のことは除いて考えても)「よい政策」だと思う? 「10 億円くれるなら子供を作ってやらあ」、みたいな家庭の子供が本当に幸せになると思う?
政策目標自体の是非はさておき、それが正しいことを前提とすれば、それを実現するために、個人にインセンティブを与えるよりも、個人の価値観そのものを変えた方が、低コストで政策目標が実現できるし、社会に不自然なひずみを与えることも少ない、とも言えるんじゃないの? だとすれば、その政策目標にそった発言を大臣がすることだって、そんなに悪いことなのかと思うんですけどね。
価値中立的に考えるために、たとえば、環境保護のためにレジ袋の使用量を減らすという政策目標を考えてみよう。もちろん、この場合、レジ袋に課税するというような具体的な政策をとるのが本筋だろう。でも、そのようなときに、大臣が「みなさん、なるべく家から買い物袋を持ってくるようにしてください」と言うのが、そんなにいけないことか。世論調査をしたら、半数以上の人が「家から買い物袋を持ってくるようにしている」と答えたときに、「それは健全だ」と言ってはそんなにいけないのか。
もちろん、ぼくだったら、こういう場合にでも、「それは政府にとってありがたいことです」とかなんとかもっとへりくだった言い方をするだろう。でも、そんなのは言い方だけの問題で、本音はいっしょなのだ。要するに、政策目標を実現するために、その目標にとって都合のいい価値観を持った個人を増やしたいのである。それがそんなに悪いことだろうか?
そりゃあ、隣組なんかがあった時代だったら、大臣がこういう発言をしただけで、買い物袋を持ってこない人は村八分に合って、町内会の行事に呼んでもらえなかったり、お醤油を貸してもらえなかったり、泥棒が入っても通報してもらえなかったりするかもしれない。
でも、今はそんな時代じゃないでしょう? 大臣がいくらそんな発言をしたからって、そんなの無視すりゃいいだけで (^^)、買い物袋を持たない自由が即なくなるわけじゃないでしょう?
だからぼくには、正直そんなことでなぜ大騒ぎしなくてはならないのか、いまだによくわからないんだよね (^^)。
(あと、渡辺昇一さんの「大地と種」理論は今回初めて聞いたんだけど、ちょっと驚いたね。そんなの、Y 染色体理論より非科学的だし、ある意味、それこそ「女性は子供を産む機械」と言ってることいっしょだと思うんだけどなあ。機械だと駄目だけど大地なら平気なのかよ、と思ってちょっと呆れてしまった。これはもう相当なめられた発言だと思うぞ (^^)。)
| 固定リンク | トラックバック (0)
日垣隆氏の「ガッキィファイター」を読んでいたら、原丈人という人のこんな言葉が引用されていたので、ちょっと気になったのですが。。。
《「リスク回避」という言葉を聞いたとき、皆さんがまず思い浮かべるのは、ポートフォリオなどに代表される「リスク分散」ではないでしょうか。しかし、資源に限りのある個人もしくは小企業が、困難な目標にチャレンジする場合、「リスク分散」はリスクを拡大させるのです。少ない人材や資金を、異なる技術や地域に兵站が伸びきったような形で投下すれば、実現しない可能性が高まるのです。そして何より、「これがダメでもあれがあるからいいか」という意識を生み、「絶対に実現させる」という情熱に水を差します。〔中略〕個人や小さい企業はむしろ、一点突破で、集中的に資源を投下しなければなりません。〔中略〕このような「一点集中」型リスク対応こそが、実務家にとっての最大のリスク回避策になるのです。》(「WEDGE」2月号)
全体の趣旨はわかるし、基本的におっしゃっていることは正しいと思うのですが、ポートフォリオなどという金融工学用語を使っているわりには、言葉の使い方がいい加減で、誤解を招く書き方になっている気がしました。
一番気になったのは、「『リスク分散』はリスクを拡大させる」というところ。一見して、自己矛盾した言葉なのですが、後の文章を読むと、この「リスクの拡大」というのは、「失敗確率の拡大」もしくは「リターンの減少」ということを指しているようです。
しかし、金融工学の用語法では、リターンが減るのとリスクが増えるのでは、まったく別の現象を指します。リスクというのは、日常用語では「失敗する確率」という感じで捉えられていますが、金融工学用語では、リターン(期待値)がどれだけ確率的にばらつくか(標準偏差)を指します。
具体的に言うと、たとえば、成功すると一万円儲かるが失敗するとすべてパアになるプロジェクトがあったとして、成功確率と失敗確率が半々(50% : 50%)だったものが、成功確率が 0%・失敗確率 100% になったとしましょう。そうすると、日常用語的にはリスクが増えたような気がするかもしれませんが、金融工学用語では、これをリスクが増えたとはいいません。だって、100% 失敗ということは、確率的なばらつきはむしろ減っているんですから。この場合リスクはむしろゼロに減っているのであって、ただ、リターンもゼロになったというだけのことです。
ですから、この発言をされた方は、おそらく、「「リスク分散」は失敗確率を拡大させる」とか「「リスク分散」はリターンを減少させる」という意味で言っているのではないかと思います。だとすれば、その結論はまったく正しいと思います。
などというと、今度は金融工学の素養のある人から疑問の声が上がるかもしれません。ポートフォリオ理論では、リスクを分散させれば、リターンを減らさなくてもリスクだけを減らすことができる、と教えていたんじゃなかったのかと。現に、この発言をした方も、そのような理論を意識して、自分の発言がポートフォリオ理論に反しているかのように語っているようです。
でも、この結論は別にポートフォリオ理論に反しているわけではありません。そもそも、ポートフォリオ理論というのは、証券投資の理論です。そして、忘れられがちですが、実はこの「証券」というところがけっこう重要なのです。というのも、証券投資には、他の一般の投資にはない性質があるからです。それは、「線形性」というやつです。
「線形性」というのは、言い換えれば、投資の額とリスクやリターンが正比例するということです。たとえば、ある株を 100 円分を買ったときに 10 円の配当もしくは値上がり益があるとすると、その株を 200 円分買えば、配当や値上がり益も 20 円になりますよね。したがって、株に対する投資額と配当や値上がり益は正比例の関係にあります。説明が数学的になるので省略しますが、実は、投資額とリスクの関係も正比例の関係にあります。
これは当たり前のことに思えるかもしれませんが、実は投資一般について当てはまるわけではありません。この方にならって戦争にたとえると、100 人の兵を投入すれば突破できる戦線があったとして、50 人投入すれば、半分だけ突破できるというわけではないし、200 人投入すれば倍突破できるというわけでもないですよね。50 人だったらまったく突破できないかもしれないし、いったん突破できればそれ以上人がいたってむだなだけかもしれない。あるいは、一兆円かけないと完成しないダムを、5000 億円かけて半分だけ作ったら、利益も半分だけ得られるかといったら、そんなことはないでしょう? 半分のダムなんて、なんの役にもたちはしないですよね。
だから、投資一般で考えれば、証券のような投資とリターンやリスクの「線形性」が成り立つほうがむしろ稀なのです。そして、ポートフォリオ理論と言うのは、この証券の「線形性」を前提とした理論なので、そのような線形性のない投資一般には成り立たないのです。
ですから、分散投資が有効かどうかは、投資とリターンやリスクの間に「線形性」があるかどうか(投資する側かされる側かと言ってもいいかもしれません)の問題であって、この方の言うような投資の規模の問題ではないと思うんですね。だって、先に書いたように、一兆円のダムだって半分だけ作ることには意味はないのですから。もちろん、そのダム工事の会社の株をもっている別の会社から見れば、半分だけ投資することにも十分意味はありますが。
もちろん、資金量が多ければ、その分、線形性が問題にならないレベルまで投資できる投資プロジェクトを発見できる確率が高い、ということはいえますが、規模が小さくても線形性のあるプロジェクトだってありますし、証券化してしまえば、どんなプロジェクトだって線形化できるのですから、やっぱり、本質的なのは投資額ではなく線形性なのです。
そのように考えれば、証券というものがいかに人類史上重要な発明であるかということも、あらためて実感できると思うのですがいかがでしょうか。
(あと、関係ないけど、桜井さんじゃ反石原票がとりこみにくい気がするんですけど。そのへんはどうなんでしょ。)
| 固定リンク | トラックバック (0)
貿易もない、資本や労働力の移動もない、二つの国というのを考える。貨幣価値の影響を無視して比較するために、どちらも米を中心とする物々交換経済だとする。
話をわかりやすくするため、A 国には土地が無限にあるとすると、A 国の米生産量は労働力が多ければ多いほど増える。つまり、限界生産性が定数になる。この限界生産性を仮に 10 石とすると、労働者一人平均の生産性も、もちろん 10 石になる。
B 国は、土地が足りないので、労働力を増やしても、あまり生産量は増えない。つまり、限界生産性で言えば、1 人目 10 石、2 人目 5 石、3 人目 3 石という感じになるとする。労働者が 3 人しかいないとすると、労働者一人平均の生産性は、18/3 = 6 石である。
A 国では資本は自由財なので、当然資本家の取り分はない。したがって、A 国の賃金は一人当たり約 10 石になるだろう。
B 国の場合、資本家がいるとすれば、労働者の賃金は限界生産性以下になるので一人当たり 3 石、残り 9 石が資本家の利潤になる。田んぼが労働者の共有だとしても、一人当たりの収入は 6 石が限度である。
したがって、労働者一人当たりの平均生産性の高い A 国の方が、賃金も高くなる。
と、こんな感じの話じゃないのかなあ。。。(^^)
多分、議論の前提条件が全然違ってるんだよね (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
The Economist の「ビッグマック購買力平価」というのは有名ですが、オーストラリアのコモンウェルス・バンクという銀行が、その向こうをはってだかどうだか知らないけど (^^)、「iPod 購買力平価」というのを調べて発表したらしいです。
ロイターの記事によると、結果は以下の通り。
| 順位 | 国名 |
iPod Nano の価格 |
| 1 | ブラジル | $327.71 |
| 2 | インド | $222.27 |
| 3 | スウェーデン | $213.03 |
| 4 | デンマーク | $208.25 |
| 5 | ベルギー | $205.81 |
| 6 | フランス | $205.80 |
| 7 | フィンランド | $205.80 |
| 8 | アイルランド | $205.79 |
| 9 | イギリス | $195.04 |
| 10 | オーストリア | $192.86 |
| 11 | オランダ | $192.86 |
| 12 | スペイン | $192.86 |
| 13 | イタリア | $192.86 |
| 14 | ドイツ | $192.46 |
| 15 | 中国 | $179.84 |
| 16 | 韓国 | $176.17 |
| 17 | スイス | $175.59 |
| 18 | ニュージーランド | $172.53 |
| 19 | オーストラリア | $172.36 |
| 20 | 台湾 | $164.88 |
| 21 | シンガポール | $161.25 |
| 22 | メキシコ | $154.46 |
| 23 | アメリカ | $149.00 |
| 24 | 日本 | $147.63 |
| 25 | 香港 | $147.35 |
| 26 | カナダ | $144.20 |
| 固定リンク | トラックバック (0)
後半はすっかり、「難しいこと言ってごまかすんじゃねえよお~」みたいなアカンタレ・キャラになってます (^^)。
これも、エコノミストとしてではなく、ニューヨーク・タイムスのコラムニストとしてイラク問題を語るという感じで、かなり盛り上がってますね (^^)。 でも、クルーグマン先生はちょっとあがってるみたいだね。あがってる芸人とはからみたくない、と松ちゃんは言っておりました (^^)。
なんか、コメディ・セントラルの回し者みたいですけど、でもこのシリーズ好きですね (^^)。 コルベアはいかにもビル・オライリーが聞きそうなことを聞いているだけなんだけど、ゲストは別にふざけてるわけではなく、それを承知の上でマジメに応えてる。そこになんかちょっと、ガキの使いの「板尾が来た」をはじめとする一連の擬似ヤラセみたいな、気持ちわるーい面白さがあります (^^)。ウソなんだけど、本当よりも生々しく真実を語ってしまうという。
注: しつこいようですが、この「コルベア・リポート」という番組は、ビル・オライリーがやっている「オライリー・ファクター」という番組のパロディなのです。ホントはこういうこと書きたくないんだけど、そう思って見てもらわないと、誤解を招くかもしれないので。 為念。
| 固定リンク | トラックバック (0)
報ステから何気なく News23 に切り替えたら、ホリエモンが生でしゃべっていてびっくり。もっとも、昨日のサンプロに出たという話は聞いてはいた。風邪で寝込んでいたので観てないけど。
さらに、ホリエモンがしゃべっていることがまた、あまりにも具体性がないのでびっくり。もっとも、具体的なことをしゃべってしまえば、お前何も知らないとかいいながら結構知ってるやんけ~、ということになるのだから、しゃべれないのも無理はないが (^^)。
じゃあなんで出てきたのか、と言うと、これはもう一部の人の同情を買うためとしか思えない。言ってることがほとんどカルトの教祖みたいで、これはもう完全に、具体的な事実を検討する能力には欠けていて、信じるか信じないかだけで物事を決めるような「信者」向けのメッセージであろう。こいつほんとに、なんかカルトみたいなの作る気じゃないか? (^^)
さらに、筑紫さんのツッコミがあまりに甘いのでびっくり。もっとも、こういう質問をするなら出演しない、みたいな事前の協議があったのかもしれないが、それにしても(<-これ、筑紫さんの口癖)、こんなにホリエモンの言いたい放題を垂れ流したら、またオウムの時みたいに非難されやしないかと、他人事ながら心配になった (^^)。
あと、先入観抜きに見ても、ホリエモンの発言は質が落ちているよね。たぶん、ブレーンが変わったか、いなくなったんだろうね。誰が入れ知恵してたんだろう。別にどーでもいいけど (^^)。 それとも、わざとバカだと思わせるという高度な作戦なのかな? 裁判に勝てさえすればバカと思われてもいい企業家というのも、ど~かと思うが (^^)。
追記: コンビニで見かけた「日経エンタテイメント」で「2006 年ヒット総まくり」という特集をやっていたので、つい買ってしまう。こういう、リアルタイムで情報を追っていない人間でも知ったかぶりができてしまうような企画は、ぼく大好きです (^^)。「06 年に離婚した主なカップル」でいしだ壱成とTAKUYAの相手が匿名になっているのは素人だからいいとして、平松愛里さんの相手まで「音楽プロデューサー」になっているのが気になりました。これって清水信之さんでしょ? みんな知ってるし、たぶん本人達も隠してないと思うのですが。。。(^^)。信之さんは昔キーボード・マガジンかなんかに連載してて、愛読してたんですよね。ベイビーフェイスとか紹介してて、べんきょーになりました。
| 固定リンク | トラックバック (0)
いつもいい加減なことを書いている私ですが、今回書くのはいつもに増していい加減な思いつきで、細かい検証はまったくなされていません。そのつもりでお読みください。
前にも書いたような気がするんだけど、普通、マジメに勉強していい学校に入って、というような人生プランは、堅実で実直みたいに言われるんだけど、よく考えると違うんじゃないかと思うのね。
なぜかというと、こういう行動プランっていうのは、コストとリターンの関係が比例関係ではなくて、支払ったコストの総額を上回るリターンを得られるまでにずいぶん時間がかかるんですよね。しかも、そのリターンも必ず得られるとは限らない。
もちろん、小学生の国語や算数みたいな勉強だったら、わりとすぐ実用になるけれども、高等数学とか哲学とかの勉強がなんらかの利益に結びつくまではすごく時間がかかるし、最終的に利益に結びつかないまま終わることも多いですよね。そういう専門知識を活用できる職業について高収入を得られるのは、一部の人だけですから。
つまり、こういう行動プランっていうのは、腹が減ったからメシを食う、みたいな行動プランにくらべると、実はかなりハイリスク・ハイリターンなんです。
そうするとね、単に個人の選好順序とか効用関数に人生プランをまかせていると、リスク・テイカーしかマジメに勉強しないということになるはずなんだよね (^^)。ところが、それでは社会全体にとっては困ることになるんだなあ。
人材というのを一種の資産とみなすと、企業とか社会全体とかは、人材という資産のポートフォリオだと考えることができますね。そうすると、世の中の人材がローリスク・ローリターンの人材ばっかだと、社会的には最適なポートフォリオを組みづらくなっちゃうわけです。
したがって、社会全体でリスクとリターンのバランスをとるためには、ハイリスク・ハイリターンの人材を一定量確保する、つまり、リスク・ヘッジャーがそういうハイリスク・ハイリターンの人材になることを選択するように仕向けるような、なんらかの仕組みが必要になってくるはずなんです。
そう考えると、実は、高度経済成長時代の学歴信仰にも、そういう社会的な意味があったんじゃないかと思うのね。あの当時は、大学の勉強なんてムダなことばっかりだみたいな論調が多かったけど、実は、そういう無駄な勉強をたくさんやってる奴を社会的に高く評価することによって、社会全体の活力を維持していたんじゃないかという。
また、格差社会の問題なんかにしても、負け組をなくす、という発想より、負け組でもいいじゃないか、という発想の方が正しいような気がするんです (^^)。もっと身も蓋もない言い方をすると、負け組を無理に勝ち組にするよりも、負け組を負け組のままたくさんかかえておくことの方が社会全体にとっては利益になるので、リスクの大きい人生プランをけしかけるかわりに、失敗したときのリスクは、社会全体でシェアしましょうということじゃないでしょうか (^^)。だから、なくすべきなのは負け組の存在そのものではなく、負け組差別である。 負け組がいてくれるからこそ社会が豊かになるのだから、生活保護ぐらいでガタガタ言うんじゃねえと (^^)。
だから、ぼくがいまいちわからないのは、なんでエコノミストの人とかが完全雇用にこだわるのかということなんだよね。失業者がいっぱいいても、社会保障でセーフティネットをはればいいんだという発想の方が、社会全体としてはより最適化された状態なんじゃないかという気がするんですけど。そうすると、社会保障の水準とかも、実は、社会全体のリスク選好との兼ね合いで決めるべきなんじゃないかという気もするんですが。まあそこまで行くと与太話としてもシャレにならないので、いい加減にしときますけど (^^)。
あと、これも前に言ったような気がするけど、成果主義とか自己責任とかをやりすぎると、個人はどんどんリスクをとらない方向に動機付けられるので、結局社会全体のリターンも縮小してしまうんですよね。もともと、社会とか企業とかは個人のリスクヘッジのためにあるわけですから。
前にこのブログでも、一部の人の「夢」に対する行き過ぎたこだわりを揶揄したことがあったんですけど、実は、夢を大事にするという思想も、個人のためではなくて社会のための思想なんじゃないのかなあ、という気がするんですよね。もっとも、そういう思想が人類の遺伝子レベルに組み込まれているとすれば、やっぱり個人のためでもあるということになるんだけれども (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
池田信夫氏のブログから。「インフラただ乗り」論を解決するために従量制が提案されているが、その方法では P2P やグリッド・コンピューティングの利用が阻害され、ネットワーク全体の資源の無駄遣いにつながると。なぜなら、
従量課金はユーザーが資源の消費者だという前提にもとづいているが、実はインターネット・ユーザーはCPUやメモリなどの資源や消費者生成コンテンツの供給者でもあるのだ。
とのこと。なるほどね。単純に感心しました。って、オレが頭悪いだけか (^^)。
追記: これって要するに、ネットワーク全体のリソースが公共財化してるってことですよね。もともと、ルーターはリソースの所有者が誰かなんてことは無視して、あいてるところに勝手にトラフィックを分配するわけだから。コンテンツだって、P2P で分散して配置すれば、競合性なんてほとんどなくなるわけだ。平均すればネットワーク上のどのリソースも平等に使われているのが最適状態ということになるのでしょう。そう考えると、単純に帯域幅に比例してコストを分配するという方法は案外正しいのかもしれないですよね。問題は、誰がいくら金を払うかということですね (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
なんか、政治家に株価をつけるポスダックとかいうシステムがあるらしいですね。
この記事によると、元は韓国で生まれたシステムで、日本でも導入の準備をしているらしいのですが。。。でも、この説明を読んでも、何がいいのかイマイチわからないんですよね。
そもそも、証券市場での証券の価格って、別に投資家が恣意的に決めてるわけじゃなくて、ちゃんと理論的な適正価格というものがあるんですよね (そう思ってない人も多いみたいだけど)。株式や債券は、定期的にキャッシュフローを産み出すので、それを「現在の価値」に割り引いて合計したものが妥当な価格だということになってるし、商品先物なら、商品自体がキャッシュフローを産み出すわけじゃないけど、実際に商品と交換したときの商品自体の価格が先物の価値の裏づけになっている。為替はちょっと難しいけど、一応購買力平価とか金利平価とかが根拠になっています。
でも、政治家は別に直接キャッシュ・フローを産み出すわけじゃないし、政治家自身をキロ何円で切り売りできるでもなし (^^)、政治家の適正価格っていったいなんなのか。しかも、これを読むと、投資に使う電子マネーは、そのサイト以外では使えないという。そうなると、なおさら、恣意的な値段しかつかないんじゃないのでしょうか。
まあ、難しく考えず、世論調査を盛り上げるための趣向だと考えればいいのかもしれないけど、なまじこういうシステムをとると、それこそケインズの美人投票とかどっちの料理ショーとかといっしょで、投資家は無自分自身の意見よりも無難な多数意見にのっかろうとするから、かえってポピュリズムを煽りかねないと思うんですけどねえ。
そう考えると、わざわざこういうシステムにする意味がよくわからない。まあ、toto とかといっしょで、有権者に政治に興味を持たせるという意味ぐらいはあるかもしれませんが。
| 固定リンク | トラックバック (0)
E 田先生のブログに、ぼくがまわりくどくウダウダ書いていたようなことが、あっさり説明されてしまっているので驚いてしまいました。
ただし,ここで注意すべきなのは主流派経済学に合理的な経済人の仮定の解釈です.これは,主流は経済学の研究者の中でも考え方が二つに分かれる.
主流派経済学の基本発想は… "自分の消費・労働のみから効用を得る個人"がその効用を最大化しようとして行動し,その結果経済厚生が最大化される.市場が十分にその機能を果たせないときには,政策による補完が有用な「こともある」.
というものです.ここでのポイントは"自分の消費・労働のみから効用を得る個人"という点.
この基本発想のひとつの理解は,"自分の消費・労働のみから効用を得る個人"は目指すべき個人主義の姿である(したがって<自律による経済成長>個人主義の確立が必要)というものになるでしょう.
しかし,もう一つの解釈は個人が何を目的関数としているかは実証的な課題であり,"自分の消費・労働のみから効用を得る個人"を想定するのは,どうもその仮定から出発すると予測力のある結論がえられる.故に,現代の経済主体の行動は,"自分の消費・労働のみから効用を得る個人"と考えてよい.時代が変われば"自分の消費・労働のみではなくいろいろな社会的状況から効用を得る個人"を想定して議論をするべきで,どちらの個人主義がよいかといった話題は経済学の問題ではない(場合によっては人が決められることではない)というものです.
僕自身は後者の立場.そして,後者の解釈に従うとネオリベは社会を変化させるイデオロギーではなく,社会情勢をあらわす分類名(?)ということになるのではないでしょうか.
そうか、「自分の消費・労働のみから効用を得る個人」って言えばよかったのか。。。さすが、頭のいい人は違うわ。
そうすると、ぼくの主張は、その仮定は近似的には正しいが、完全には正しくない、とでも言えばいいのかなあ。
また E 田先生の本買おうっと (^^)。小田中先生の本もね。
| 固定リンク | トラックバック (0)
若者は歴史を憎む、みたいな言い方があります。若者は年寄りに比べて歴史を知らないし、経験も少ない。したがって、経験や古い知識について年寄りと競っても、圧倒的に分が悪い。だからこそ、若者は年寄りが知らない新しいものを好むのだと。
もちろん、これついては逆のことも言えて、年寄りは、新しい知識について若者と競ってもアドバンテージがない、むしろ、体力がない分不利である。だからこそ、年寄りは若者に対してアドバンテージを誇れる歴史を好むのだと。
まあ、こういう言い方はどちらも一面的であって、ほんとうは、歴史を知るためにも新しい知識は必要ですし、新しい知識を知るためにも歴史は必要である、というのが正しいのでしょう。
実は今、岩田規久男さんの「日本経済を学ぶ」という本を読んでいます。この本は、それこそ日本経済の歴史を、最新の経済理論でブラッシュアップするというような本なのですが、その中に、ちょっと面白い例がありました。
よく、日本の会社は株主を軽視しているといわれますが、岩田さんは、必ずしもそうではなかったのではないか、というのです。なぜかというと、実は、高度成長期の日本の株価は、平均すれば年率 17% で上昇していた。したがって、株主は、インカムゲインは少なくても、キャピタルゲインで見れば十分に報われていた。株主を軽視するというのは、あくまで現場の経営者の主観にすぎない、というものです。
この仮説の妥当性についてはここでは論じないとして、ここで言いたいのは、実は、こういう仮説は、ただ漫然と歴史を見直すだけでは出てこないということです。
なぜかというと、そもそも、昔の株価理論では、株価は配当利回りと金利の裁定で決まる、言い換えれば、株価は配当利回りが金利に一致するような水準に収束すると言われていました。したがって、インカムゲインは少なくても、キャピタルゲインは多いというような現象は、理論的にはあり得ない話で、株主に価値を還元するには、配当利回りを増やすしかない。
現に、昔の奥村宏さんの本とかはそういう感じで書いてあって、日本の会社は配当利回りが低いにも関わらず、株式の持ち合いによる高株価経営でどんどん株価が上がっている。これこそがまさに法人資本主義の異常性の現れであって、それを打破するためには、日本の会社はもっと配当率を上げて株主に価値を還元しなくてはならない、みたいなことが言われていたわけです。
(今奥村さんの本が手元にないので、このへんは記憶だけで書いてます。もし誤った表現があれば、お知らせいただければ幸いです。)
ところが、最近のファイナンス理論では、余剰利益を配当として株主に還元せずに内部留保したとしても、その分株価が上がるはずなので、株主の損得には関係ない、ということになり、株価を評価する指標としても、配当利回りよりも PER が重視されるようになりました。この岩田さんのような仮説は、そういう理論をふまえたときに、初めて意味を持ってくるわけです。
つまり、歴史というのは、まず最初は、同時代の人間の記録を元に導き出されるわけですが、言うまでもないく、同時代の人間が主観的に認識している世界というのが、本当にその時代の「真の姿」を映しているとは限らないわけですね。だから、歴史というのは、常に最新の理論をふまえた上で見直されなければならないのでしょう。
これは余談ですが、テレビとかで年配の評論家の方を見ると、もっと最新の経済学とか勉強すればいいのに、と思うことが少なくありません。おそらく、彼らの若い頃は、経済学を勉強するには「資本論」や「一般理論」を全巻読破しなくちゃいけなくて、しかも、そういう経済学は現場の役にはたたない、みたいなことが言われていた時代だったんだろうと思います。でも、今はもうそういう時代じゃない。ちょっと学部生向きの経済学のテキストでも読んでみれば、今の経済学が、単に難解さを競うだけで、現場の役にたたないような学問ではないことは、すぐわかるはずだと思うんですが (^^)。
追記: 別に、昭和天皇のメモについて含むところがあるわけではありません。たまたまのタイミングです。為念。(^^)
| 固定リンク | トラックバック (0)
| 固定リンク | トラックバック (0)
自分の言葉で書いている時間がないので、偉い人の議論にのっかりますが(^^)、私は、この問題については bewaad 氏ノリです。山形 vs 田中は山形ノリです。 興味のある方は、以上のエントリをご覧になれば、私の駄弁を読むより遥かに勉強になるでしょう(^^)。あと、ふぉーりん・あとにーさんのも参考に。
| 固定リンク | トラックバック (0)
ぼくが経済について言ってる事と、愛とかなんとか言ってることが矛盾するんじゃないかと思ってる人もいるかもしれないけど、ぼくは、市場経済を方法論的功利主義の産物だと思ってるんですね。言い換えれば、市場というのは、欲のある人もない人も欲があるフリをしてプレーするゲームだと思ってるんです。 (これはぼくが勝手につくった言葉だけど(^^))
あと、これは前にも何度も書きましたけど、近代社会の基本的人権やなんかも、もちろん方法論的個人主義の産物だと思っているわけです。
つまり、人間が利己的に私利私欲だけで生きているというのは、あくまで社会をうまく回して行くためのお約束であって、人間の本性とは微妙にずれてると思ってるんですね。
そういうのを聞くと、性善説だとか楽天的だとか思う人もいるかもしれないけど、そういう良い悪いの話じゃなくて、単に事実としてそうなんだと思っているだけです。むしろ、「エイリアン」の台詞じゃないけど、人間が自分の生存や繁殖のことしか考えてなかったら、その方がある意味幸せかもしれない。でも、人間はなろうと思ってもそうはなれないだろう、ということ。
ところが、人間は思い込みの生物だから、この「方法論的」のところを忘れて、人間は本当に利己的な生物なんだと勝手に自分で思い込んでしまい、ある種の使命感を持って無理をしてまで利己的にふるまおうとし、それでかえって不幸になるような人がでてきた。だからあえて「愛」とかなんとか言わなくちゃならなくなってきたんだと思うのね。でも、それは、社会システムの設計とは別問題だと考えるべきであって、ここを混同すると、単なるバックラッシュになる。言ってることわかるかなあ。また今度ヒマなとき書きます。
| 固定リンク | トラックバック (0)
ホントは、村上ファンドの問題もちゃんと論じたいのですが、とてもそんな時間はないので、現時点でわかった事実に対するぼくの暫定評価だけ書いときます。
まず、これは前にも部分的に書きましたけど、村上さんの阪神上場という案は、変なイデオロギー的な主張を抜きにしても、純粋にアイデアとしてよくないとぼくは思っています。したがって、これを堀江さんのニッポン放送買収とくらべると、
村上阪神上場 < 堀江ニッポン放送買収
となります。
では、村上さんのインサイダー取引を堀江さんの偽計取引を、法的な罪の重さや国策操作云々は無視して、純粋にぼくの倫理観に照らしてどっちがより悪いかと考えると、
村上インサイダー取引 > 堀江偽計取引 (つまり、堀江さんの方がより悪い)
じゃないかと思っています。理由はいろいろありますけど。
そういう意味で、最近のメディアの村上さんの扱いは、ちょっと極端すぎないかなあ、と思ってるんですけどね。 (なんか、堀江さんのときよりも議論のレベルが下がってるような気がするんですけど (^^))
| 固定リンク | トラックバック (1)
いえ、いいことです(^^)。
ぼくももっと稼ぎたいのですが、才能根性人間性その他もろもろに欠けているので稼げません(^^)。
みなさんどうかぼくの分まで稼いでください。ジャマだけはしないように気をつけますんで(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
金曜日の朝生のテーマは「テレビに明日はあるか」で、放送と通信の融合問題や NHK 問題が中心。「電波利権」で話題になった池田信夫氏や、元電波少年プロデューサーの土屋敏男氏、テレ朝会長にして民放連新会長の広瀬道貞氏などが出演していて、メンバー的には割と期待したのですが、思ったほど議論が深まらなかったですね。
この間 NHK でやった懺悔特集の時にも同じことを思ったのですが、結局みんな、放送には公共性が大事だということを強調するんだけど、じゃあその公共性って何かということが、まるで定義できてないのね。だから議論が深まらないんだと思います。
そういう大雑把なイメージだけで考えると、視聴率に流されない質の高い番組とか (その質が高いって誰が決めるの)、特定の企業や政治団体に左右されない不偏不党な番組とかばかりが公共性のある番組だと思われがちですよね。
でも、個々の番組としては偏っていても、いろんな立場を反映した番組がたくさんあれば、システム全体としては公共性があるとも言えるし、娯楽番組だって、多くの人の厚生を高めるという意味で公共的だとも言えるでしょう。
だから、こういう大雑把なイメージで論じていると、あれもいいしこれもいいよね、みたいな議論はできるけど、何がもっと必要で、何はもっと減らしてもよいか、というような制度設計の議論はできませんよね。
ぼくが思うに、問題の核心は、1) 単に情報を経済財とみなして、社会厚生が最適化されるような生産・分配の方法を考えればよいのか、それとも、2) 情報は単なる財ではなく、市場を含む民主主義社会の制度自体を支えるインフラだから、単に個人の厚生の最適化だけを目標にすればよいというものではないのか、ということだと思います。
もし、前者が正しいのであれば、おそらくは、市場を利用するのが、最も低コストかつ個人の厚生を最適化するような生産・分配を実現するの方法でしょう。ただ、ぼく個人の直感としては、どうもそれだけではダメなような気がしますし、評論家諸氏の多くも、そう思っているのでしょう。
でもそれって結局、需要のある情報のかわりに、多くの人が積極的に欲しいと思わない情報を、需要の高い情報を生産するためのコストをその分減らしてもいいから、あえて強制的に流通させなくてはならない、ということですよね。(これを仮に、「狭い意味での公共情報」と呼ぶことにします)
だとすれば、そういう公共放送は、義務教育と同じように、ある種合法的な洗脳 (もっとも、教育と違って、見ることを強制はできませんが) になります。そういう洗脳を行う権利を私的な団体や個人に与えるわけにはいきませんから、これは必然的に、国民の合意のもとに税金を使って行うしかないですよね。
もしこれを、私企業にいろんな法的な制約を課してやらせようとすると、その企業は余計なコスト負担を強いられることになるわけだから、その分競争上不利になりますよね。今の民放に対する放送法の縛りというのは、この負担を強いる代わりに、市場を寡占する特権をあげましょう、というやり方なんでしょうけど、この方式だと、負担と特権とのプラスマイナスのバランスがとれている保証がない (とゆうか、多分プラスの方がぜんぜん大きいでしょう(^^)) という問題がある。つまり、必然的に特定の私企業を優遇 (もしくは冷遇) することになりますよね。 しかも、国民が余分に負担しているコストがどれくらいかということもはっきりしません。 かと言って、すべての放送業者に同じような負担を課してコスト削減競争を即すというのも、全国的に放送することができる事業者がこれだけ増えてしまうと、あまり現実的ではないですよね。
だとすれば、同じ狭い意味での公共情報を提供するにしても、直接税金で負担してしまった方が、結果として国民全体の負担は減ることになるでしょうし、国民負担に対する透明性も確保できるんじゃないかと思うんですよね。もちろん、だからといって、今の NHK ほどの規模が必要かどうかも、今の NHK の運営方法でよいかどうかも疑問ですが。
たとえば、今の NHK のガバナンスは国会が行っているわけですが、国民の合意のもとに運営するからと言って、国会や行政がガバナンスを行わなくてはならないとは限らないですよね。メディアは第四権力なんていわれるくらいで、ジャーナリズムの役割は、司法・立法・行政の三権すべてを監視することにあるんだから、組織的にも、他の三権とは独立した組織にして、直接国民のガバナンスの元におく、というような方法だってありうるんじゃないかと思うんですけど。(裁判所なんかには、国会の予算審議でコントロールされないような工夫があるそうですね。)
そして、最後に残る一番大きな問題は、他のあらゆる公共事業と同じく、どの程度の規模が最適なのかを判断することですよね(^^)。これは結局、なんか公共経済学的な手法で決めるしかないんでしょうけど。
もし、このような「狭い意味での公共情報」というものを明確に定義できれば、それ以外の情報は、たとえ公共性のあるものでも、市場メカニズムに任せておけば十分な量が生産される、ということになりますから、この両者を曖昧にすることによって温存されてきた利権のようなものを解体することも可能になりますよね。
今回の朝生で一番印象的だったのは、むしろ、そういう議論よりも、NHK 対朝日の問題について、田原さんが、「NHK はウソばっかりついてる」とか「本田記者はテープを録ってるはずだ」とか断言しちゃってたところですね(^^)。もっとやれやれ~、とか思ったんだけど、また黙殺されちゃうのかしら(^^)。
池田氏は、テレビ界から追放されてるとか自分おっしゃってて、ぼくもはじめて拝見したのですが、お書きになる文章のキツさとくらべると、しゃべりは意外とソフトな感じでしたね。もっとも、のってくると、「そういう下らない議論は別として…」みたいなことをポロっと言ってしまうので、やっぱり根はキツい人なんでしょうけど(^^)。もっとも、この番組には他にもっとキツい人がいくらでもいるので、それほど目立たなかったですけど。
| 固定リンク | トラックバック (0)
例の未公開株業者から入電。いきなり、
「この会社は○○年○○月にジャスダックに上場することになっているんですが」
と言ってきたので、「しめた」と思って、
「でも、この会社では、いつ上場するかは決まっていないと言っていますが」
と答える。もちろん、はったりでもなんでもなく、その企業のホームページにも書いてあるし、ちゃんと広報担当者にも電話で確認してあるのだ。すると、相手は明らかに動揺した様子で、
「ああ、そうですか」
とか言ったのがおかしかった。あんた、自分の言ったことを真っ向から否定されてるのに、「そうですか」はないでしょ。お前はウソつきだって言われてるのと同じことだぞ(^^)。
後は、形式的に二言三言言葉を交わしただけであっさり切られた。ざまあみろ。
しつこく続けるようだったら、証券業登録はしてますかとか、財務諸表の分析結果とかをぶつけてやろうとてぐすねひいていたのに、ちょっと拍子抜けという気も(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
例の未公開株の業者が資料を送ってきたので目を通してみました。ツッコミどころがたくさんあったら、ここで名指しでさらしてやろうかと思ったのですが、さすがに、明らかにおかしいと言えるほど露骨なツッコミどころはなかったです。
(法人登記はしているが、証券業登録はひょっとしたらしてないかも知れない。なかったらさらしてもいいのかなあ(^^)。)
前に同じような経緯で来たのは、もっと穴が多かったので(資本金も発行株式総数も何も書いてないとか、なんの根拠もない成長予想グラフが書いてあったりとか(^^))、こういう手法も少しは洗練したのかもしれませんね(^^)。
ただ、創業以来一回も黒字になったこともなければ、売り上げが順調に増えてきているわけでもなく、何度も減資して繰り越し損を補填したりしていて、一株当たりの資産が 1 万円ぐらいの会社の株を、50 万円も出して買う気にはなれないなあ(^^)。
いや、もちろんそれが絶対に間違いだとは言えないですよ。将来、成長して 50 万円の価値を持つようになることが絶対にないとは言えない(だからこそ、ここでさらすわけにはいかないのだが(^^))。でも、そのためには、PER 50 倍としても、2 億円ぐらいの利益を出さなきゃならないんだけど、現状では、売り上げが 2 億円そこそこぐらいだもんね(^^)。
ぼくはそもそも、IT 企業の株ってあんまり買う気がしないんだよね(^^)。ぼくは IT 業界内部にいたから、あの業界がいかに不安定なものかというのは骨身にしみて知っておりますので。インフラを握っているか、よっぽど他社が追いつけないような技術的アドバンテージがないと。1 つや 2 つブランド確立したぐらいじゃ、もって 5 年ぐらいだもの。
だいたい、本当に公開して大化けするんなら、わざわざ人に売ったりしないだろうと思うんだけど、そうつっこむと、またもっともらしい理由を言ってくるんだよね、たぶん(^^)。
ということで、今回は、「未公開株詐欺の手口を暴く!」というのは断念しました(^^)。でも、ぼくはやっぱり買わないけどね(^^)。もっと金の有り余ってるギャンブラーの所へ行ってくれ。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
また未公開株のうんちゃらかんちゃらの電話が。しょうがないので、相槌もなにも入れずに、必要最小限の返事だけしていたら、勝手に説明だけしてすぐ切ったけど(^^)。まーだやってたのか、そんなこと。
っていうか、そんなに美味しい話なら、なぜわざわざオレのところへなぞ電話してくるのだ。絶対確実に儲かるんだったら、借金してでもいいから自分でありったけ買ってみろよ。
こういう奴にどうして○○の○○○○が○○○○○○と訊ねて見ると、○○○○○○で○○しましたとか言われるんだよねー。だから、○○○○○○に○○○○を○○するのは○なんだよ。まあ、お金があって秘書とか雇える人だったらいいのかもしれないけど、ぼくみたいな零細個人事業者にとっては、その程度のことでも、結構馬鹿にならない損害なのだ。
そんなこともあって、前にも書いたように、この○○○○○○は決して○○じゃないんだけど、簡単には○○○○が○○○○○ようになっているのである。いや、実は簡単なんですけどね(^^)。
(○○についても、だんだん考えがまとまってきたので、そのうちきっちりと「責任をもって」論じましょう! お、大きく出たな。)
めんどくさいので改めて書いておくが、自慢じゃないがウチには余ってる金なぞなぁい! いくらあいてぃーかんけーの仕事してよーが海外と取引してよーが意外とふぁいなんすに詳しかったりしよーが、零細は零細なのだ! それどころか、ウン十万円の売掛金が焦げ付いてぴーぴー言っているのだ。わかったか!
追伸:なんとかメキシコ戦には勝ちましたね。次は韓国か。韓国強いからなあ。心配だなあ。
| 固定リンク | トラックバック (0)
モリタクさんが、「ライブドア事件の原点はここにあった!」と題して、なんかすごいこと書いてますね(^^)。
私自身が東京大学に入学して気づいたのだが、東大生の1割は桁違いに頭がいい。まるで、農耕馬とサラブレッドとの違いである。まさしく彼は、そのサラブレッドに当たる人間だった。
おそらく、彼の出身地の久留米では「孤高の天才」であり、周囲の人間はみなバカに見えたに違いない。
現に、つまらぬ質問をするインタビュアーの前では、何か別の仕事をしながら答えていたのだという。能力があまってしまうわけだ。
だが、あまりにも彼は頭がよすぎた。そのために、彼には友人ができなかった……。
実は、これこそがホリエモンのすべての原点なのだ。
心を許せる友人のいないホリエモンを夢中にさせたのが、「時価総額世界一」という目標だった。そして、その目標はいつしか手段と化していく。
ちょっと会っただけの印象でここまで演繹してしまうのもすごいよね(^^)。
いや、確かにホリエモンはぼくなんかよりは遥かに頭がいいとは思うけどさ、ヤマガタさんやイナバさんほど頭がいいとも思えないんだけど(^^)。ってことは、ヤマガタさんやイナバさんにも友人がいないのかにゃあ(^^)? まあ、ぼくなんかには天才・秀才達の世界のことはよくわからないからなんとも言えないけど、それだけとも思えないんだけどなあ。。。(^^)
まあ、モリタクさんはなんだかんだ言ってやさしい人なんでしょうね。おっしゃっていることには納得できないことも多々あるけど(^^)、人間的にチャーミングなので、テレビで拝見していてもつい引き込まれてしまうのです。はい(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
なんか、ライブドア事件以来、デイトレ批判が高まっているそうな。(^^)
ぼく自身もデイトレーダーには割と批判的だし、自分ではまったくやる気もないんだけど、ただ、奥村さんみたいに(たしか、バフェットも似たようなこと言ってたけど(^^))短期売買のすべてを罪悪視するのはどうかと思う。
なぜかというと、もし市場に長期投資家しかいなかったら、流動性が低下するので、偶発的な需給の不均衡はかえって増えてしまうはずなのね。だから、そういう需給の不均衡を捉えて、ちょっと安めになったら買い、適正価格に戻ったら売るというような短期投資家が一定数存在することは、株価をかえって安定させるはずなのです。
ほら、スーパーだって、刺身が売れ残ると安く売ったりするし、その値段を見て、本来なら買う気のなかった消費者が買ったりするでしょう。おかげで、スーパー側は販売量の微妙な変動による損失を最小化できるし、消費者の側も割安で買えて得をする。あれはあれで合理的なんですよね。
(株は「非腐敗財」だからそういうことは起こらないはずだ、と思う人もいるかも知れないけど、長期投資家だって、嫁さんが病気になったり、親族がなくなったりして、予定と違うところで株を売らなきゃならなくなったりすることはあるのです。)
ただ、これを効率的にやるには、膨大な資金と時間が必要なはずなんです。だって、いろんな銘柄の値動きを観察して、安くなったと見ればとっさに買い、戻ったと見ればとっさに売る、みたいなことしなきゃならないし、自分で買うタイミングを選べるわけではないから、常に余分な資金を確保してチャンスになったら必ず買えるようにしておく必要があるわけですから。
株式市場でこういう役割を担っているのは、主に、証券会社のディーリング部門なわけですが、彼らの仕事は、莫大な資金力と、その仕事だけに専念できる時間があるからこそ成立しているはずなんですよね。だから、ろくな資産もない一個人がそれと同じ事をして、儲かる確率がどれほどあるか、それが、普通の仕事をして稼ぐ率より高いかどうかは、かなり疑問だと思います。
(言ってみれば、あちこちのスーパーの特売情報とかを調べておいて、走り回って一番安いものだけを買おうとするよりも、その走り回ってる時間の分、パートで働いた方が得するんじゃないの、みたいな話ですよね。ココリコの1ヶ月1万円生活とか見てるといつもそうつっこみたくなるけど(^^)。)
むしろ、今のデイトレーダーの売買方法の問題点は、単に短期売買をしているということだけでなく、本来需給の不均衡がないところに、無理矢理不均衡を作り出したり、ちょっとの不均衡を無理矢理何倍にも拡大して儲けようとしたりすることだと思うんです。これは完全なゼロサムゲームだから、儲かるのは一部の人だけで、大多数の人は必ず損をする。それが、ギャンブルと呼ばれるゆえんです。
だから、ぼくの定義で言えば、株価の偶発的な変動を抑える方向に働くのがまっとうな短期売買、かえって広げる方向に働くのがマネーゲームもしくはギャンブル、ということになります。
ただ、ぼくがデイトレーダーを法律で規制せよとか言う気になれないのは、まっとうな短期売買とマネーゲームを厳密に区別するのが容易でないというだけでなく、彼らは平均すれば損してるはずだと思うからなんですよね。つまり、彼らははびこる一方ではなく、一定のレベルで淘汰されるはずだから、ほっておいても大過ない、という考え方。
そういう考えからすると、デイトレーダーの跳梁を防ぐ一番の薬は、デイトレーダーに対して統計調査をして、何割が儲かっているか、その期待値はどのぐらいか、を正確に報道することじゃないかしら。今メディアに出てくる人は、一発当てて儲けた人ばっかりなんで、そういう幻想を抱く人も出てくるんでしょう。だから、まず正しい実態を知らしめる。それでもやるという人は、純粋なギャンブラーなのだから、まあ、止めても仕方ないでしょう (^^)。
ただ、1 年以上デイトレーディングを続けている人、とかで統計をとると、それだけで、ある程度勝ち残った人だけが選抜されてしまうから、統計の取り方もなかなか難しいんだけど (^^)。これは想像だけど、たぶん、ちょっとだけやって大損してすぐやめちゃった人とかの、損の額を合計すると結構大きかったりするんですよ。だから、ちゃんと、トリビアの泉みたいに、統計学者の人と相談してやってください。
ついでに言えば、ディーラーとかの市場関係者がデイトレーダーを擁護するのは、彼らにとっては、デイトレーダーがいてくれた方がおいしいからかもしれないぞ、ということも言っておいたほうがようでしょうね (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
報ステのライブドア問題特集で、誰か「金のある奴ほと金では買えないものがあるとか言いたがる」みたいなこと言ってたけど、これって、ミクロ経済学に出てくる2財の選択理論みたいなので説明できないかなあ (^^)。
たとえば、「金で買えるもの」の量を x 軸に、「金で買えないもの」の量を y 軸にとって、効用を表す無差別曲線を書くと、貧乏人の予算制約線(じゃなくて、努力制約線とか呼んだ方がいいのかもしれないが (^^))は、傾きが急な右下がりになるので、y 軸、つまり「金で買えないもの」を増やすより x 軸、つまり、「金で買えるもの」を増やした方が、簡単に効用を増やせる。
でも、金持ちの予算制約線は緩やかな右下がりになるので、逆に、「金で買えるもの」より「金で買えないもの」を増やした方が、簡単に効用を増やせる、ってゆーの、だめ?(^^)
| 固定リンク | トラックバック (0)
(この一文は、食事中には読まないほうがよいかもしれません(^^))
何度か書きましたが、私は、「お金で買えるもの」と「お金で買えないもの」のどっちが大切だというのではなく、人間にとっては両方が必要であり、大事なのは、この両者の線引きだ、と思っています。
この問題については、金儲けに淫して、必要以上にお金を稼ぐ人を例にして考えられることが多いのですが、そういう人は社会のごく一部であり、そこだけ見ていては、かえって問題の本質を見失ってしまうと思います。
たとえば、ゴミの収集とか、公衆トイレの掃除とかを職業にしている方を考えてみましょう。ちょっと差別的に聞こえるかもしれませんが、ぼくは、彼らが、そういう仕事が本当に好きでやっているとは、あまり思えないんですね。
もちろん、やる以上はそれなりに仕事を楽しんでやっている方もたくさんいらっしゃるでしょう。でも、「分別していないゴミから手で汚物を掻き分るのが好きで好きでしょうがない」とか、「便器の壁にこびりついたウ○コをきれいにこそぎ落とせたときの快感がたまらない」みたいな人が、そんなにたくさんいるとは、ぼくにはどうしても思えないのです。
これはあくまで想像ですけど、彼らが仕事自体に生き甲斐を感じるとすれば、それは、仕事自体の内容が好きというよりも、あくまで、それが社会に役立っていると思うからこそではないでしょうか。だとすれば、ぼくは、そういう想いというのは、「自分の好きなことができればお金なんか要らない」みたいな太平楽なことをほざいてる奴の想いより、ずっとずっと尊いと思うのです。そして、そういう「社会にとって役に立っている」という感覚が、単なる自己満足に終わらないことを担保しているのは、やっぱりお金なんですね。あるいは、家族の生活を支え、何かを買ってあげて喜ぶ顔を見たいとか、自分の趣味にお金を投じたいというのが、主な理由だったりするかもしれません。それを担保しているのだって、やっぱりお金なのです。
矛盾するように聞こえるかもしれませんが、ぼく自身は、どっちかというと、「自分のやりたくないことをやるぐらいなら、お金なんかいらない」と考えがちな人間で、また、自由な社会の人間には、そういう生き方をする権利もあると思っていますが、少なくとも、それが偉いことだとはまったく思っていないのです。だって、それは自分のためなんだもん。
(ついでに言えば、こういう生き方が成立するのも、世の中に、必要以上に働いてお金を沢山稼ぐ人が存在してくれるからだということも、ちゃんとわきまえてるつもり。だから、総中流社会には反対しているのです。もっと、欲張りな、もとい、勤勉な人が沢山いてくれないと、私は困るのだ(^^)。)
やはり、働くということの原型は、人のために役に立つことをして、お金をもらうというところにあり、本当に好きだの適性だの自分探しだのというのは、余裕のある社会に暮らし、能力に余裕のある人だからこそ言える、一種のぜいたくだと思うのですね。(そういうことは、趣味でもできるのですからね)
要するに、金を儲けすぎてかえって生き甲斐を見失っている人も、金を儲けるだけなら簡単だから本当にやりたいことだけをやりたいとか思っている人も、社会全体から見れば恵まれた人なんであって、そのどっちの選択肢もない人だってたくさんいるんだ、ということを忘れてほしくないのです。
最近の風潮は、拝金主義だの何だの言われていますが、ぼくらの若い頃は、むしろ、「お金では買えないもの」が過度に持ち上げられた傾向があるので、その反動として、ある程度必要なことだったのではないかと今でも思っています。まあ、多少の行き過ぎはあるのかも知れないけど、そういうのは、何についてもあることですしね。
最近ではまた、逆の反動が起こって「お金では買えないもの」ということが言われ出しているようで、それはそれで間違ってはいませんが、少なくとも、「お金では買えないもの」を過度に美化したり、「お金で買えるもの」を過度に貶めたりすべきではないと思うのです。やっぱり、社会にとっては、「お金で買えるもの」も「お金で買えないもの」もどっちも必要なのですから。
もっと話そうよ 目前の明日の事も (「光」宇多田ヒカル)
| 固定リンク | トラックバック (0)
Wikipedia のマネックス証券の項目の説明、ひどいね (^^)。
2000年8月の新規上場前の1ヶ月半の短期間に1株1円で3回増資を行い、2万株あった株式を128万株まで増やし、126万円の増資で126万株×現株価:17.3万=2180億円を得る錬金術を行った企業としても有名。
126 万円の増資で、1 円の株を126 万株増やして、(ここが重要なのだが)既存株主に平等に割り当ててるんだから、希薄化でもなんでもない、純粋な株式分割じゃんか、しかも、それに現在の株価をかけてどーすんじゃ。「2180億を得る」って、だれが得てるんだよ。マネックスが得てるわけじゃないじゃん。しかも、上場前なんだから、某社のように流動性に影響を与えてるわけでもない。
「マネックス・ショック」で損した奴が書いたのかなんか知らんけど、誰か書き直した方がいいんじゃないでしょうか。ぼくがやってもいいけど、残念ながら今それどころじゃないんです。(っていうか、ホントは、こんな短い記事を書いてるだけでも殴られそうな状況なんです(^^)。とほほ)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
いい加減ライブドアネタも飽きているのですが、どうも、ソフト業界の片隅にいたものとしては、「ライブドアのポータルを見ただけで独創性がないことがわかる」みたいな利いた風な意見を聞くとなんとなくカチンとくるので、もう一言だけ (^^)。
考えても見てくださいよ。そもそも、あの Microsoft にしたって、別にオリジナリティのある企業ではまったくなかったのですよ。Microsoft が躍進するきっかけになった MS-DOS がパソコン用 OS のデファクトになったのは、たまたま IBM-PC の OS として採用されたからであって、技術的にも、CP/M とかのマネだということは、パソコン黎明期から業界にいた者なら誰でも知ってる話です。
Windows 95が Mac-OS のマネであるのは、最近の人だって知ってますよね。だからと言って、Windows 95 の発売時に、こんな会社が成功するわけないなどと発言していたら、大恥をかいたことでしょう。Microsoft の PowerPoint、Visio、Encarta など主要ソフトの多くも、自社開発ではなく、他社の買収によって取得した資産であることも、ちょっとこの業界のことを知っている人にとっては常識でしょう。
だからと言って、ライブドアが Microsoft と同じぐらい技術力のある会社だと言いたいわけでもなければ、Microsoft がそれほど素晴らしい会社だと思っているわけでもありません(それどころか、個人的にはかなり批判的です (^^))。ただ、ことはそれほど単純ではない、と言いたいだけです (^^)。失礼しました。
| 固定リンク | トラックバック (0)
まあ、これはあくまで結果論ですが、ライブドアの「時価総額世界一を目指す」という目標自体が危うさをはらんでいる、ということは言えなくもないと思います。と言っても、「株主だけじゃなくて社会全体に貢献することが大事だ」とか「ステークホルダーは株主だけじゃない」とかいう話ではなくて、仮に、資本市場の役割が、資本の利用効率を最適化することにある、という前提だけに立っても、やはり危ういと言えるというお話です。
というのも、本当に資本効率を表す指標として相応しいのは、ROA とか ROE であって、時価総額というのは、その将来についての予想を時間について積分し、なおかつ、資本規模について積分した値にすぎないのね。ただ、微分値が大きければ、それを積分した値も大きい、という意味では、間接的に資本効率がいいことを示す指標にならないこともないんだけど、微分値が小さくても、積分区間を大きくすれば積分値は大きくできるので、そういう意味では、資本効率がいいための十分条件には決してならないのです。
具体的に言うと、単に時価総額を大きくするだけなら、投資家を騙して、やったらお金を集めただけでもできないことはないのね。でも、ROA や ROE は、ちゃんと事業(金融事業も含めて)で収益を上げなくちゃ高くできないのです。そういう意味で、時価総額だけを目標にするのは、危ういといえば危うい (^^)。
ただ、資本の規模が大きくなれば、ROA や ROE は下がるのが普通なので、ROA や ROE を維持したまま資本の規模を大きくできるのであれば、それはそれでやっぱり偉い、ということは言えるんですね。だから、そう単純ではないんだけど (^^)。
まあ、知ってる人にとっては、説明するまでもない話なんですけど、こういう状況になると、半可通の大雑把な話が流行るので一応書いてみました。よく知らないけどちゃんと厳密に考えたいという人は、このへんのキーワードから調べていくといいんじゃないでしょうか。
| 固定リンク | トラックバック (0)
| 固定リンク | トラックバック (0)
いい加減ライブドアネタも飽きてきましたが、あの会社はもともとグレーゾーンでばっかりプレーしてたじゃないか、みたいな言い方がちょっとひっかかるので、そこだけ補足しておきます。
このグレーゾーンというのは、違法ではないが倫理的には悪に近い領域、という意味ですよね。言い換えれば、法律と倫理という二本の線があって、その間がグレーゾーンであるというイメージ。でも、私は、このような事態を的確に認識するには、線が二本では足りないと思っているのです。
たとえば、株主利益を基準に考えると、次のような線引きができると思います。
ライブドアについて言えば、同じグレーゾーンと言っても、株式分割や MSCB の発行は1 と2 の間ぐらいで、今回判明した投資事業組合を介した自社株の売買などは、2 と 3 の間ぐらいなんですよね。
たとえば、板倉雄一郎氏なんかは、本音では 1 以外認めたくないようなんですが、実は、(もちろん、板倉氏も承知の上で言ってるんでしょうが)何が株主の不利益になるかということを客観的に判定して万人が合意に至るということはなかなか難しいんですよね。一見すると、無駄としか思えないような投資が、後で莫大な利益を生み出したなんていう事例は掃いて捨てるほどありますから。
また逆に、3 だけを基準にしてしまうと、今回のような法の抜け穴をつくような事例は、法が改正されるまで糾弾できないということになりますよね。だから、私としては、この 2 の線にこだわりたいわけなんです。
食品に例えるなら、1 は、農薬・合成着色料・合成保存料一切なしの自然食品以外はダメ、2 は、農薬・合成着色料・合成保存料などを使ってもよいが、適切に表示すべき、3 は、法律にさえ違反していなければ、何を使ってもよいという考え方に、それぞれ対応している、と言ってもよいかもしれません。
それで言うと、俺は自然食品以外食べない、という人がいても、個人の信条としてはよいとは思うし、実は、私自身の投資スタイルも、どっちかというとそれに近いのですが、だからと言って、農薬・合成着色料・合成保存料を使った食品を生産している会社はすべて悪だとか、そういう食品を食べている消費者はすべてバカだとか決め付けるのは、ちょっと傲慢すぎるだろう。でも、表示義務がないからと言って、怪しげなものなんでも使い放題という会社は、やっぱりひどい会社と言ってよいのではないか、というのが私の考え方なのです。
まあ、このたとえだと、いかにも私の考え方が一番中庸でバランスがとれてるみたいに聞こえるので、都合のよすぎる説明かも知れませんが (^^)。でも、線が二本では大雑把過ぎる、という意味は、少しは伝わったのではないでせうか。
| 固定リンク | トラックバック (0)
しつこいようだけど、みんなホントにそんなに「勝ち組」になりたいのかなあ。ぼくは正直、勝ち組になりたいとほとんど思ったことがないんで、いまいち納得いかないんですよね。
ぼくが唯一「負け組」がイヤだと思うのは、勝ち組でないというだけでバカにされたりとか、勝ち組でないというだけでモテなかったりとか、そういうことだけであって、お金がないこと自体じゃないんですよね。だから、そういうことさえなければ、負け組であってもいっこうにかまわない、というか、むしろその方が心が安らぐのです (^^)。それって、いけないことですか?
もちろん、生存権を脅かされるほど貧乏な人は別ですよ。だから、セーフティネットとか社会福祉の充実とかには大賛成。また、ぼくが貧乏なせいで、子供の選択肢までが限定されるのも可哀想だから、子供の教育レベルが親の経済力に依存しない制度の整備もすすめてほしい。
でも、これだけ価値観の多様性とか言っている時代に、「貧乏でいる自由」だけ認められないというのは変じゃないでしょうか (^^)。これはアイロニーでもなんでもなくホントにマジメな話、一億総中流社会に戻ると、そういう感情が抑圧されそうでイヤなんですよね。
片山虎之助氏が、「しかし、なかなか勝ち組になれない人には救いの手を差し伸べ、みんながよくなる共存共栄が望ましいと思う」とか言ったらしいけど、ぼくなんかの価値観からしてみたら、この「勝ち組になれない人には救いの手」とかいう言い方の方がよっぽどムカつくわけです (^^)。わかるかなあ。
まあ、やっぱりボクみたいなのは、本質的に反社会的な人間なんだろうね。なんか最近、勝ち組になりたいと思えないこと自体がコンプレックスになってきちゃったよ。悲しいなあ (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
昨日の朝生は「ホリエモン・ショックと日本」。急遽テーマを差し替えたということで、少しブッキングに無理があったらしく、パネラー登場の時点で「このメンバーで盛り上がるのかな?」と思っていたら、案の定盛り上がりませんでした (^^)。
中で印象に残ったのは、板倉雄一郎氏。何が制度の問題で、何が企業の問題で、何が投資家の問題なのか、きちんと切り分けて明確に説明せきているのは、ほとんどこの人だけでした(本間氏と永沢氏は、しゃべる機会が少ないだけで、わかっていたのだとは思いますが)。板倉氏のブログはときどき拝見していて、ちょっと意地悪な人なのかという印象があったのですが、昨日拝見した限りでは、極めてまっとうな感覚と知性を持つ立派な方で、この人に対する私の中の評価は大幅アップしました。
奥村宏氏は、著作をまとめて読ませていただいたこともあるし、一定の評価はしているのですが、残念ながら、ちょっと感覚が古すぎるのではないかと思いました。投資家と投機家の違いを言うのに、「配当目当てで買うのが投資家だ」などと発言されるのは、最近のファイナンス理論を勉強していないとしか思えません。
投資と投機の違いというのは、けっこう微妙で面白い問題だと思うのですが、司会の田原氏自身が金融に疎くて、例によって、議論が深まりかけるたびに「そういう話はよくわからない」と言って打ち切ってしまうので、まったく盛り上がりませんでしたね。本当は、この点についてもうちょっと啓蒙効果があればよかったんでしょうけど、あれでは多くを期待できませんね。
ひさびさ登場の管直人氏は、けっこう目だっていたし、さすがに言ってることもそんなにハズしてなかったと思います。ただ、「自民党が逆にライブドアの株価吊り上げに利用された」という主張はどうでしょう。検察も「プロ野球参入もニッポン放送買収もすべて株価吊り上げのためだ」みたいな主張をしていましたが、企業価値に対する実質的な効果を無視して、主観的に株価吊り上げの意図があれば悪だ、というようなことを言い出すと、非常に不毛な議論にしかならないので、やめたほうがよかったと思います。
受けて立つ自民党側から来たのは平沢勝栄氏だけで、やんわりかわされてしまったので、与野党対決も盛り上がりませんでしたね。武部氏とかを呼べればよかったんでしょうけど、さすがに断られたようですね (^^)。
ライブドアのサイトはヤフーのまねでオリジナリティがない、という主張は、ニッポン放送騒動のころからあったけど、私は必ずしも賛同しません。私のように、ソフト業界内部に多少はかかわっていた者から見ると、むしろ、この業界には、無意味にオリジナリティを出そうとする人が多くて困ると感じることが多いです。しかも結局、そのオリジナルなところが一番できが悪かったりするんだよね (^^)。
だいたい、ウェブサイトなんて、基本的な構造はどれも大差なくて、視覚的なデザインで目先を変えているだけであることがほとんど。また、ユーザーにとっても、そのほうがすぐ使い方がわかるので便利な場合が多いのです。
だから、できのよいデファクトがあれば、素直にマネするというのは、むしろよいセンスだと感じます(これは今でもそう思う)。だからといって、完全にマネしているわけではなくて、細かいところを見れば、(しろーとさんは気づかないかもしれないけど)けっこう独自の工夫もされています。本当は、そういう細かい工夫の方が効果的な場合が多いんですよね。
まあ、前にもいったように、このような事件があったからといって、ライブドアのやったことがすべて間違いだったわけでもなければ、企業価値がゼロであったはずもないんですよね。ただ、現時点では、ライブドアの真の企業価値はどの程度なのかということは、まったくわかりませんが。
結局、個人的に一番面白かったのは、須田慎一郎氏とかがしていた、暴力団とのつながりがあるんじゃないかとか、政治に金がながれているんじゃないかとかいう下世話なネタでした。でも、これは朝生本来の議論の魅力ではありませんよね (^^)。
そんなわけで、あまり夜更かした価値はなかったですねえ。せめて、M2 か太田光でも呼んで、あえて暴論エンターテイメントを演じてもらったりした方がよかったのでは (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
堀江氏の件について、小泉さんが、「マスコミだって持ち上げたじゃないか」と言っておりますが、マスコミと小泉さんを比べたら、圧倒的に小泉さんの方が悪いと思いますよ。
マスコミは、あくまで情報を伝えるのが仕事であって、善悪を勝手にフィルタリングする役ではありません。世の中にこのような人がいるとか、その人を支持するこのようなムーブメントが起こっているとかいうのだって重要な情報であって、それをそのまま伝えることだってマスコミの役割なんですから。
もちろん、その人が実は悪い奴だったという情報だって伝えられればよいのですが、それはあくまで努力目標であって、義務ではないですよね。むしろ、証拠がない限りは推定無罪で扱うというほうが、報道機関の態度としては正しいでしょう。だから、マスコミに対して言えるのは、せいぜい努力不足という程度のことですよね。
でも、小泉さんや自民党は、選挙でわざわざ応援したんですから、マスコミとはコミットメントの度合いが違います。党公認にしなかったのは、不幸中の幸いというか、怪我の功名だったかもしれませんが、それでも応援はしたのですからね。少なくとも、堀江さんに投票した有権者に対する一定の責任はあるでしょう。
だから、悪さの度合いを比較すると、
堀江氏 >> 自民党・小泉氏 > マスコミ
ぐらいの感じじゃないでしょうか。
もっとも、それにしたって、具体的な政策に対する責任に比べたらたいした責任じゃないんだから、この件で野党があまりしつこく自民党を追及すると、かえって小泉さんの術中にはまりそうな気がします。だから、軽くイヤミを言う材料ぐらいにとどめておいたほうがいいんじゃないでせうか。追求するなら、あくまで、証券市場の制度不備を放置した責任、ライブドア事件はその結果の一例、というふうに持っていかないと。わからんけどね (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
「ガッキィファイター」2006年1月23日号はこんな見出しでした。
日垣さんはブレない方ですね (^^)。
まあ、企業買収も株式分割も時間外取引もすべて悪だという立場の人から見れば、堀江は最初から悪い奴だったということになるし、逆に、儲かれば何をやってもいいんだという人にとっては、堀江さんは依然としてヒーローなのかもしれないけど、ぼくなんかから見ると、今回判明した、こっそり自社株を売買するような手法と、時間外取引なんかとでは、たちの悪さが全然違うんで、評価が変わるのは当然です。
だから、もし日垣さんのおっしゃるとおり、検察が相手を選んでやっているというのなら、逆に、こういう手法を使っている企業はがんばってすべて摘発していただきたいですね (^^)。
「この事件で被害者はいたのか」、にもちょっと異論がありますね。株式市場を完全な博打場と見る人にとってはそうかも知れないけど、株価にはフェア・バリューというものがあって、株式市場はそれを評価する場だと思っている人にとっては違うと思うんです。
ただ、その違いは、株価が常に企業価値を反映するという効率的市場仮説を前提にしては見ええてこないのですね。だから、たとえば PBR=1 とか PER=50 (ただ、こっちの方法だと、資産を切り売りして利益にするインチキさは見えてこない) とかいう仮定をおくことにより、いわば「仮想株価」のようなものを計算し、それを元に、投資家が正しい情報を得ていた場合と、そうでない場合との結果を比較してみることによって、誰がどれだけ得して、誰がどれだけ損したか、仮に計算してみることをお勧めしているわけです。もちろん、それがそのまま実際の被害に一致するわけではないので、その過程で慎重な分析が必要ですけれども。
まあ、ぼくもちゃんと計算したわけじゃないですけど、たぶん、最大の被害者は、買収された企業の株主も含めた、他ならぬライブドアの株主だったんじゃないでしょうか。それも、正しい情報がすべて公開された上でのことであれば、投資家の自己責任だとも言えるけれども(単なる株式分割とかにはこれが当てはまる)、そうではないわけですから。つまり、ぼくは、堀江さんの言っている、「株主の利益を最大限に考えてやってきた」という言葉にはウソがあると思うし、そこがもっとも責められるべきだと思っているんです。
(まあ、今になってこういうことを言うのはイヤらしいんで、あんまり言いたくなかったんですけど、ぼく自身はライブドア関連会社の株を買ったことは一回もありません。ですから、株主の感情的な意見で言っているわけではありません。為念。)
(インターネットを知らない人が、ウィルスとスパムのどっちがより悪いかわからなくて、「インターネットってなんか怪しいじゃん」みたいな話になってしまうのと同じで、金融のことがわからない人には、すべていっしょくたに怪しげに見えてしまうのもわかりますけど、その違いを意識しながら論じている人もいるのだ、ということぐらいは理解してほしいですね。また、自分が金融のことを知らないという自覚があるのだったら、その違いがわからないのは、ひょっとしたら自分が無知なせいかもしれない、ぐらいの疑いもちょっとは持って欲しいなあ。もっとも、マスコミも、もっとわかりやすく解説すべきだと思いますけどね。)
| 固定リンク | トラックバック (0)
ななんと、News23 にナベツネ氏が。案の定、小泉さんのワンフレーズ・ポリティックスを批判していたけど、でも、あなたの「市場原理主義」というのも、大雑把過ぎるくくりであって、いわばワンフレーズ・クリティックスなのではありませんか(^^)?
まあでも、結局、現代のような大衆化した情報化社会では、そういうレトリックを完全に避けることはできないと思うんですよね。だから、おたがい心の中に良心を秘めつつレトリックを磨き合うしかないんだと思うんです。
ぼくなんかは、ライブドア事件でみんながあっさり手のひらを返したのを見て、かえって安心しましたけどね。これなら、小泉さんがやりすぎたときにも、みなさんあっさり手のひらを返してくれるんじゃないでしょうか (^^)。前にも書いたけど、ぼくは、ファシズム回避の希望を、むしろ、そういうところに見出しているんですよね (^^)。これを、犯罪者を繰り返し当選させるような、保守的メンタリティからの脱却、と言ったら怒られるでしょうか (^^)。
マジメな話、知識や判断力と信念の強さが比例していない、知識や判断力には欠けているのに、信念だけは強固、みたいな人が一番困るわけです。そういうのは、変動の少ない伝統社会には向いているのかもしれませんが、現代のような変動の激しい時代には向いていないと思います。知識や判断力のなさは、フィードバックの回数で補えばよいのです。それを過度に恥じないほうがよいと思いますよ。孔子様も「君子豹変す」といっております(違ったっけ(^^))。
豹変して困るのは、政治家・思想家・評論家など、主に判断力を他人から評価される立場の人で、それも、一番困るのは、社会的評価の下がるその人自身なんですよね(しかも、周囲から見れば、すみやかに軌道修正してくれたほうが助かることが多いはず)。だから、「一般庶民は」としつこく言ってるわけですけれども。
誰が読んでるのかもわからないブログで、強固な信念を披瀝してる人がいますけれども、多分、あなたがこっそり信念を変えたって、誰も気づかないと思いますよ。どーしても自分だけが恥をかくのがイヤなら、ぼくがいっしょにかいてあげるから。なんつったりして (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
珍しや、加藤、佐山、堀田の 3 コメンテータが勢ぞろいとは。それだけ大事件だってことなんでしょうねえ。まあでも、こうしてみると、堀江さんは正しいこともたくさん言ってらっしゃいますね。当たり前だけど (^^)。今まで、堀江さん個人にはそれほど関心なかったんだけど、なんか逆に興味出てきたので、著書一冊ぐらい読んでみようかなあ。(<-意地悪)
関係ないけど、なんで市川さんはあんなに可愛いんだろーなー。お願いですから、そんな瞳で、独身中年の心を惑わさないでくださいっ。眩しすぎますっ。(<-バカ)
| 固定リンク | トラックバック (0)
堀江氏と小泉氏を無理矢理結び付けようとする論調に組するわけではないのですが、経営者と政治家には確かに一つの共通点があります。それは、一般大衆の支持によって成功・不成功が左右され、それをまったく無視することはできないという点です。
民主主義社会の政治家は、一般大衆がときに判断を間違えるということを知っていても、一般大衆を完全に無視することはできません。いくら (主観的には) 正しいことを言っていても、それが有権者に支持されなければ、政治家になることすらできないのですから。
同じように、上場企業の経営者は、一般投資家がときに企業の評価を間違えるということを知りすぎるほど知っていても、それをまったく無視して経営することはできないのです。
おそらく多くの政治家には、自分がたいしたことを言っていないのに熱狂的に支持されたり、逆に、正しいことを言っているはずなのにブーイングを浴びたりという経験があるはずです。同じように、多くの経営者にも、たいした業績を上げていないのに株価が急上昇したり、逆に、将来性のある事業を着々とすすめていて本当は何も経営に問題がないにもかかわらず、株価がずる下がりするような経験をしているはずです。
予想外の得票を得た政治家が、「私にそんなに票が入るのはおかしいので、辞退します。」とは言えないように、予想外に株価が上がった会社の経営者だって、「その株価は間違っています。そんな値段で買わないでください。」とは言えないし、むしろ、その株価を利用して儲けようとしなかったら、株主に対する背任になる可能性すらあります。
ここで、単に正しい政治や経営をするだけではだめで、「一般大衆に支持されなければいけない」と思うだけならいいのですが、それがいつしか「一般大衆に支持されればなんでもいい」というニヒリズムに変わってゆくというのが、このような仕事が共通に孕む落とし穴であって、それは、政治家や経営者になろうと思ったことすらない私にも、容易に想像できるのです。
もちろん、その危険を乗り越えるのが彼らの仕事ですから、私はこのようなニヒリズムの境界を越えてしまった者に対して同情はしないけれども、このような事件をきっかけにして、投資家のほうもより慎重に企業価値を評価するようになってくれれば、少しは社会にとって意味があったということになるかもしれません。
追記: この事件についても、たとえば、株価はつねに資産価値とイコールである (PBR= 1 (const)) というような仮定をおいて、ラ社がいくら儲けていたか計算してみるとよいと思う。(ぼくが自分でやってわかりやすく解説してもよいのですが、残念ながらいまそれほどヒマではないのです (^^))。そうすると、どこが本当にインチキなのか、もっとわかりやすく理解できると思う。たぶん、ゼロではないでしょうが (だからこそ擁護できないわけだが)、言われるほど儲かってないと思うんだよね (^^)。しつこいようだが、だからと言って、このような手法を使う経営者を、私は信用しませんが。
| 固定リンク | トラックバック (0)
鈍い私にも、ライブドアのやったこと、ようやくどういうことかわかってきました。正直、投資事業組合がこんな抜け道に利用できるとは知らなかったですが (^^)、はっきり言って、こんな手法は完全にアウトです。仮に、現在の法的にはグレーだとしても、倫理的・道徳的にまったく擁護できません。堀江氏は、思っていたより、ずっと倫理観のない人物だったようです。いまだに擁護してる人、とっとと撤退した方がいいですよ。必ず恥をかきます。「ずる賢い人に騙されちゃいますよ」の「ずる賢い人」というのは、自分のことだったのですね (^^)。
追記: ホリエモンのブログのコメント欄を読んでいたら、メチャメチャ疲れた。いや、もちろん、堀江さんがまったく無能であるはずがない。少なくともぼくなんかよりははるかに有能なのは間違いないと思いますし (^^)、いい仕事もたくさんしてるでしょう。また、マスコミのコメントも、よくわかってない適当なものが多いのも確かでしょう。株の分割や買収自体は決して悪いことじゃないし、企業価値以上の株価がつくのは半分以上投資家の責任でもあります。でも、この手口はいただけないと思います。
分割によって株価が上がると言うのは、ファンダメンタルズ的にはまったく根拠がなくて、理論的にはアノマリーに近い現象だから、上がると勝手に思っている投資家のせいだ、と言うこともできるでしょう。でも、買収によってシナジー効果が発生して株価があがるというのは、まったくファンダメンタルズ的に根拠のないことじゃありません。例えていえば、高速道路の用地を買収するのに、公務員が自分の家を買うんだと言って購入するようなもんですよね。
もちろん、この差益を誰が受け取るべきなのか、みたいな本質論はありうると思うんですよ。高速道路を作って「やった」から地価が上がったんじゃないかとか、買収して「やった」から株価が上がったんじゃないか、だから利益は全部俺によこせ、みたいな (^^)。でも、現在の制度の精神としては、そういう差益は、元の株主と分かち合うことになっているんで、だからこそ TOB みたいな制度もある。いわばそれを搾取しているわけですよね。また仮に、そういう制度に対する異議申し立てのつもりだったとしても、こんなこそこそやっていたんでは、異議申し立てにすらなっていないわけです。
追記: それ以外の分は、実質的に増資して得た資産を切り売り (希薄化) して利益だと言ってるだけの話で、利益が増えた分資産が減ってるはずだから、巨額の利益とか言っても、別に無から有が生まれてるわけじゃないんですよね。もちろん、そういうまぎらわしい取引が、さらに株価の上昇を誘ったりする効果は狙っているんでしょうけど。まあでも、こんなややこしいことよく考えるよなあ。確かにぼくよりははるかに頭がいいです。納得してどうする (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
| 固定リンク | トラックバック (0)
昨日の今日だというのに、0 時ちょっとすぎぐらいで、もうこんなメルマガの記事が来たので驚きました。
(日垣隆「ガッキィファイター」2006 年1月17 日号より)
証券取引法違反の判例も一通りチェックされたみたいで、相変わらず仕事が速いですねえ。
(当たり前だが、ぼくのような怠け者とは違うのだ (^^))
たしかに、この場合の風説の流布というのは、かなり微妙な問題のような気がするんだけど、もう一つの、業績の水増しという方はどうなんでしょ。
まあでも、拘束されなければ、きっとホリエモン本人が (オジャマモンよろしく (^^)) 明日からテレビでまくって反論しまくったりするんだろうから、嫌でもいろんな情報が入ってくるでしょうね (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
ライブドアの株を大量に持っているはずのフジテレビが、一番喜んで報道しているように見えるのは、気のせい (^_^)? やはり、あれだけ公共性を謡うだけあって、そういう私情に流されることはないわけですね。尊敬し直しました。はい (^^)。
しかし、NHK の第一報では、株式分割がどうこうと言っていたのに、いつのまにか、株式交換による買収時の風説の流布という話になってますね。これ自体が風説の流布じゃん、なんてことは言わないけど (^^)、かなり混乱してますよね。
| 固定リンク | トラックバック (2)
格差社会関係の議論は、わりとチェックしている方だと思うんだけど、どうもピンときません。まあ、ぼく程度で下流と言ってしまっては逆にずうずうしいのかもしれないけど、少なくとも上流ではないと思うので、下流側の意見として書きますけど、たとえば、こういう意見ってないのかなあ。
ぼくがなぜ中流社会がイヤかっていうと、その方がしんどそう、というか、ぶっちゃけサボれなさそうだからなんですよね (^^)。だって、実際には個人の能力には差があるのに、金銭的待遇はだいたい同じだとすれば、その分絶対精神的プレッシャーが大きいはずじゃないですか。言い換えれば、頭のいい奴とか体力のある奴とかに、「おまえもっと頑張れよ」みたいなうっとーしーこと言われてイビられなきゃなんないわけでしょ? で、結局そーゆう能力格差を補うためには、その分「努力」ってやつをするしかないわけじゃん。そんなのやだもん (^^)。
逆に格差社会だったら、サボっていても、本人が低所得に甘んじているだけで許されるわけじゃないですか (^^)。「おまえもっと頑張れよ」と言われたら、「こんな収入でそんなに頑張れるかいっ!」って言い返せるし。そんで、ぼくがサボっている分も、能力のある人が寝食を惜しんで働いてくれて、社会に必要な生産をしてくれて、税金もたくさん払ってくれるわけでしょ。しかも彼らは、ぼくのような怠け者に文句を言うこともなく、高級車に乗ったり大邸宅に住んだり、美男美女と鍋パーティをやるぐらいで満足してくれるんだもの。シメシメ、じゃなかった、こんなにありがたいことはないじゃないですか。
…みたいなこと考えてる能天気な怠け者って、ぼくだけなのかなあ (^^)。え、そんなことはみんな知ってるのに、わざと言わないようにしていたんじゃないかって? ごめんごめん。いや、もちろん負け惜しみですよ (^^)。
というのは半分冗談ですけど、格差社会に関する議論って、なんかみんなピントがはずれてるような気がしてしょうがないんですよね。もうちょっと議論を整理する必要があるんじゃないかなあ。
少なくとも、金を持っている人が、その分市場からたくさん財を購入できるというだけなら、格差なんてたいしたことないと思うんですよね。だいたい、限界効用逓減の法則が正しいとすれば、金持ちっていうのはもともと割に合わない種族なんですよ (^^)。ただ実際には、金のあるところに権力や愛 (つまり美男美女) も集まってきたりするから、問題があるとすればそっちの方でしょう。でも、最近の子は、そういうイヤらしいところも意外とないように見えるんで、外車乗り回して喜んでるくらいならいっそ微笑ましい、とか思ってしまう私は、やっぱり能天気過ぎるのかしら (^^)。
でも、前にも書いたけど、社会問題をみんなお金の問題に還元してしまうのは、裏返しの拝金主義に過ぎないと思いますよ。ほんとにお金より大事なものがあると思っているなら、金の差の問題でそんなに大騒ぎするのはおかしいでしょ? 違うかなあ。これも何度も書いたけど、一番大切なことは、金で買える領域と買えない領域の線引きだと思う。
…まあでも、この文章を読んでもわかるように、金銭欲の少ない奴というのは、実はけっこうやな奴であって、金銭欲のある奴の方が、社会的には「いいやつ」であることが多いと思いますね (^^)。金銭欲と言うのは社会的な欲望ですが、金で買えないものに対する欲望と言うのは、どっちかというと個人的な欲望ですからね (^^)。でも、人間は結局、個人的な欲望を完全に捨て去ることはできない、ということなんだと思うんです。
| 固定リンク | トラックバック (1)
経済学の「新古典派 (Neoclassical economics)」と「新しい古典派 (New classical economics)」ってまぎらわしいですよね。「日本においては、専門家以外の間ではあまりそのような区別は行われていない。」「日本ではこの呼称は十分認知されておらず、広い意味で新古典派に分類される」とか言うんだから、ますますまぎらわしい (^^)。
ぶっちゃけ、マルクス以降の古典派が「新古典派」で、ケインズ以降の古典派が「新しい古典派」っていう理解じゃだめなのかなあ。限界革命だの合理的期待だのという内容はともかく (^_^;)、歴史的な意味合いとしてはそういうことではないんでしょうか。専門家の方、どっかでわかりやすく教えてください (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
「辞書にない英語」のアクセス解析を見て、みょーなとこからアクセスがあるなと思って調べてみたら、ジャンク SPORTS で有名な、株好き競輪選手長塚氏のオフィシャルサイトにこんな記事が… (この方、株の本まで出しちゃったんですね (^^))。でも、はっきり言ってほめすぎです (^^)。
ポイント 否定的な言葉はもっとほめろというサイン。(「大人養成講座
」 石原 壮一郎著)
| 固定リンク | トラックバック (0)
朝日新聞さんの 2005 年12月16日付の社説で、 例のジェイコム株の誤発注について、「一義的には責任あるみずほ、東証の両社が損失をかぶるのが筋だ」と書いてあるんだけど、これにはちょっと異論があります。
まず第一に、もちろんこの取り引きで損失を被った人 (各種インデックスが下がったとか、逆にストップ安時点で投売りしてしまった人とか) もいるだろうけど、それ以上に得をした人もたくさんいるということ。第二に、こちらの方が重要なポイントですが、みずほがこの取り引きで被った損は、かならずしも、市場が被った損害とは一致しないはずだということです。実際、他の投資家が、わざわざミスにつけ込むような取り引きをしなければ、みずほの損害はもっとはるかに少なくてすんだでしょう。
そもそも、株式市場がなんのためにあるかと言えば、資本という貴重な財を、社会からの需要の大きい産業や企業に、優先的に割り当てることによって、より社会にとって効率的に活用するためのはずでしょう。そして、そのためには、産業や企業の価値というものをできるだけ正確に見積もることが必要なので、投資家同士に見積もり競争をさせて、より正確に見積もった投資家に、インカムゲインやキャピタルゲインというごほうびを与えるしくみになっている。株式市場を単なる博打場だと思っている人もいるようですが (^^)、投資家同士の競争というのは、本来そういう目的のためにあったはずです。そして、今回のような相手のミスにつけこむような取り引きが、株式市場本来の目的にほとんど貢献していないのは明らかです。
ただ、ここで問題なのは、相手のミスにつけこんだ人と、単なる善意の第三者とを、厳密に区別するのはほとんど不可能だということです。そもそも、誰が誤発注に気づいていたかを調べるのも困難ですし、仮に、誤発注の情報を知っていたということが証明できたとしても、「ウチは最初からジェイコム株をできるだけ安く買う予定になっていた」と言えばすむ話なんですから。たとえて言えば、嫌いな奴の落としたコンタクトレンズをわざと踏んずけるようなもので、「たまたま歩いていたところにコンタクトが落ちてきたから踏んでしまったんで、そんなところに落とした奴が悪い」と言えばすむことではあるんだけど、でもやっぱりわざと踏む必要はないだろう、というようなことなんですよね。
ぼくが「こころ温まる話キボンヌ」と言ったのは、ただのセンチメンタリズムや、濡れ手に粟で儲けた人に対するやっかみなどではなくて、この状況を冷静に考えれば考えるほど、「身に覚えのある人は自主的に返還した方がいいんじゃないですか」みたいな言い方しかできないと思うからです。
補償すべき損害の量と罰の重さが常に一致するとは限らないので、補償は補償、罰は罰としてきっちり考えるべきでしょう。そういう高級な判断を自主的にした人たちを「美しい」と呼ぶことは、別に悪いことではまったくないと思うのですが。
(これはスポーツなんかでもそうで、スポーツを観る人は本来、全力同士のぶつかり合いを観たいんで、伯仲した勝負がエラーで決着することなど好まないですよね。でも、だからと言って、ミスだったらやり直す、みたいなルールにすればよいかと言うと、これもやっぱり意図的なプレーと本当のエラーの区別をつけることができないので、無理なのです。でも、だからこそ、足を怪我しているピッチャーにあえてバントをしない、みたいなことが美談になったりもするわけですよね (^^)。だから、ルール改正はできないとしても、拍手やブーイングぐらいはあっていいと思うんです。)
| 固定リンク | トラックバック (0)
| 固定リンク | トラックバック (0)
前に書いた「喫煙者少数派時代」という記事、時間と筆力の不足であんまりうまく書けていないようなので、ちょっと補足しておきます。
注意して読めばわかってもらえると思うんですけど、この記事には、喫煙者の方を攻撃する意図はまったくありません。ぼくは基本的に、近代社会の個人は自己責任で自分をリスクにさらす自由があると思っているので、喫煙者の方のそういう自由も断じて守られるべきだと思っており、むしろ、この論争がこじれることによって、喫煙以外の健康リスクに対しても同じような論法が適用されるのを防ぎたいと思っているわけです。
ただ、実際には、喫煙者が多数派だったという歴史的経緯のせいで、喫煙による社会的なコスト (負の効用) が、必ずしも喫煙者の自己負担だけになっていなくて、社会全体で負担されている。喫煙者が少数派になった今となっては、このことが、喫煙者に対する風当たりを強くする方向にはたらいているのではないか。だから、喫煙による不効用をできる限り喫煙者だけで負担するような社会にしたほうが、喫煙者と非喫煙者の双方にとっていいのではないかと提案しているわけです。
誤解しないで欲しいのですが、これは断じて、喫煙者に対する「懲罰」を意図したものではありません。ぼくはあくまで、公害による外部効果を内部化するのと同じように、喫煙の効用と不効用の双方を喫煙者の負担にすることで、理想の喫煙量という均衡点に収束することを狙っているのであって、これは喫煙者自身のためにもなることだと思っているのです。わかるかなあ。
| 固定リンク | トラックバック (0)
「未公開株の勧誘にご注意 金融庁がネットで呼びかけ」という記事。ウチにもだいぶ前 (たぶん一年以上前) に来ました。あまりにも話がウソ臭かったので無視しましたが。まだやってたんですね (^^)。みなさん気をつけましょう。
どこがウソ臭かったのか、よく憶えていませんが、確か、ちょっと株の仕組みがわかってる人だったらすぐ気づくようなことだったと思います。まあだから、自分のよくわからないことにはうかつに手を出すもんじゃないってことだよね (^^)。陳腐な説教になってしまってすみません (^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
会社法が認めていること全てを上場企業に認めるべきだとの論議は、私には逆立ちしているように見えます。上場企業はもちろん会社法の要請を全て満たさなければいけませんが、逆は真ではないのではないでしょうか。(「松本大のつぶやき」マネックスメール第1548号)
黄金株 上場会社には禁じ手だ (朝日新聞 2005 年 11 月 23 日(水曜日)付社説)
| 固定リンク | トラックバック (0)
今はどんなに美人か知らないが、どうせすぐオバハンになってしまうような女性にそんなに入れあげるのはセンスが悪い、みたいなことを言っている人がいるようですが、本当にそうでしょうかねえ。
この女性が、単に純情でプライドの高いお嬢様ならその通りかもしれません。しかし、このお嬢様が実はけっこう狡猾で、家柄からくる人脈を駆使しながら、いろんな男に色目を使って誤解させつつ、結局誰にも心を許さずに、多くの男性に対して影響力を持つお局様みたいになる可能性だってあるのです。仮に、今は本当に純情だとしても、歳を重ねて容色の衰えを自覚すれば、追い詰められて狡猾な女性に変貌を遂げる可能性は十分にありますからね。
この女性と結婚するということは、そういう古い支配階級を取り込んで、十分な見返りを与えることによって、彼らの反発を押さえ込むと同時に、そういう影響力を自分のためだけに使わせることによって、他の男性に差をつけるという意味があるはずで、だからこそ、他の男性も、「そんな男と結婚することないよ」とか「おれに言えば追い払ってやるよ」みたいなことを言い出してるわけでしょう?
(だから、敵対的とか友好的とか言ってますけども、どっちがほんとに敵対的なのかも微妙だと思うんですよね。権力闘争はやめて、正々堂々と戦場で戦いましょう、みたいな話でしょう(^^)? なんか、言ってることが、銀英伝のオーベルシュタインみたいで自分でもヤなんですけど(^^)。)
そういうことを承知の上でわざとカマトトぶってるならいざしらず、本気でそういうことをおっしゃっているのなら、むしろこの人の方がセンスが悪いんじゃないかと、ぼくなんかは思うんですけどね(^^)。
(これはあくまでたとえ話で、ぼく自身は女性には誠実ですから、誤解しないでくださいね(^^))
| 固定リンク | トラックバック (0)
愛煙 vs 嫌煙みたいな論争をインターネット上で目にする機会があったので、自分なりにいろいろ考えてみました。昨今の喫煙者に厳しい風潮をファシズム的だと捉える喫煙者側の気持ちもわからないではないのですが、ぼくはむしろ、このような現象は、愛煙家が多数派から少数派に転落したことによる社会構造の変化が必然的に生み出した軋轢ではないか、という気がしました。
もちろん、女性や未成年まで計算に入れれば、昔から喫煙者は少数派であったとも言えるのですが、少なくとも、職場で多数派を占める成人男性の間では、長いこと喫煙者は多数派だったわけです。ところが、最近になって (厚生労働省国民栄養調査によれば平成 11 年、JT全国喫煙者率調査によれば、平成 14 年以降)、成人男性に限っても喫煙率が 50% を切ったわけで、名実ともに喫煙者は少数派になったわけです。
ぼくは基本的に、他人に迷惑をかけなければ、喫煙も個人の自由であるという立場ですが、この「他人に迷惑」というのがクセモノです。何を迷惑と考えるかは、その人の価値観によって違うので、自分の土地にビルを建てて何が悪いと思う人もいれば、景観や陽当りの悪くなることを迷惑だと思う人もいる。極端になると、ぼくみたいに、女子高生のスカートの短さですら一種の景観の破壊であると思っている奴すらいる(^^)。
喫煙の迷惑も、愛煙家同士の間ではあまり迷惑に感じないものが多いので、喫煙者が多数派である場合にはあまり問題にならずに見過ごされることが多かったと思うんですね。もちろん、当時の少数派であった非喫煙者の中には、そういう迷惑に内心腹をたてていたにもかかわらず、口に出してもあまり相手にされないので憤慨していた人もたくさんいたことは想像に難くなく、当時はむしろ彼らの方が迫害されていたに違いないんです。
もちろん、だからと言って、喫煙者が健康を害することにより、社会全体の生産力に悪影響を与え、GDP が低下するとか、そんなことまで「喫煙の迷惑」に勘定しようとはぼくも思いません。それはそれこそ、愛煙家側の言うとおり、民主主義の理念に反するファシズム的な主張でしょう。
ただ、公共施設に設置された喫煙所や分煙装置のコストとか、喫茶店や食堂に用意された灰皿や空気清浄機のコストとか、喫煙者が病気になりやすいことによる健康保険料のコストとか、もちろん受動喫煙の害によるコストとかは、これまで社会全体で負担することが当然にように思われてきたわけですが、それは「多数派≒社会の総意」という近似計算によって許されてきたにすぎないと思うんですね。だから、喫煙者が少数派に転落した以上、こういうことが通用しにくくなるのはある意味当然だと思うのです。
もうちょっと経済学風に言うと、喫煙には確かにコストとベネフィットがあると思いますが、そのベネフィットはほとんど喫煙者だけのもので、コストの方は社会全体が (それも市場を経由せずに) 負担しているという構図があるわけです。こういう状態だと、コストとベネフィットをバランスしようとするインセンティブが働きにくいという問題があるのですが、喫煙者が多数派だと、そういう問題もあまり顕在化しないわけです。
もちろん、世の中もっと迷惑な習慣や文化がいくらでもあるじゃないか、という反論もわからないではないですが、それは、闘い方としては場外乱闘みたいなもので、ストロングスタイルではないのではないでしょうか。つまり、喫煙に限らず、そのような社会的コストは、なるべく個人の責任で負担する方が本筋であって、他がそうしているから自分もそうしていいんだ、みたいな主張の仕方では、泥仕合になるだけではないでしょうか。
だから、愛煙家はむしろ、喫煙による社会的な負担をなるべく喫煙者だけで負担するような運動を、自ら推進すべきだと思います。たとえば、煙草税は目的税にして、公共空間の完全分煙の実現などに使うとか、JT なんかも率先して喫煙者向けの食堂や喫茶店を経営するとか、会社に喫煙所や分煙設備を設置するときには、そのコストは喫煙者の給料からさっぴくとか、空港や駅の喫煙所は有料制にするとか、喫茶店の灰皿はレンタル制にするとか、喫煙席は灰皿や空気清浄機のコスト分割高にするとかしたらいかがでしょう。健康保険料にしても、喫煙は、他の病気と違って自分で選択できる習慣ですから、喫煙者の保険料は健康リスクの分高くしてもよいと思うのですが。
そのように、喫煙者少数派時代に合わせた社会構造の変革を経て、はじめて、愛煙家はマイノリティとしての正当な地位を得るのではないかと思うのですが、どうでしょう。
ちなみに、ぼく自身は、30 歳ぐらいから煙草を吸い始めて、35 歳ぐらいでやめたという、ちょっと変わった喫煙歴をたどっているので、煙草を吸う人の気持ちも吸わない人の気持ちもある程度わかるつもりです。
ぼくが煙草を吸う前は、今ほど喫煙者に対する風当たりが強くなかったので、当時はむしろ、煙草を吸う人ってなんか得だなあ、みたいな気持ちがありましたね。昔いたある会社では、開発室の横が全面ガラス張りで、その外がちょっとした広さのテラスになっていて、喫煙者はそこで煙草を吸うわけです。そうすると、コードを書くのに疲れたときにちらっと窓の外を見ると、同僚が煙草をぷかーっとふかしながら雑談してたりして、なんか楽しそうだなあと思うわけです(^^)。ぼくら非喫煙者が息抜きにできるのは、自動販売機にジュースを買いに行くことぐらいで、ジュースではそんなにダベれないし、ちょっと帰りが遅いと上司に文句言われるし、なんか不公平だなあと(^^)。そういう非喫煙者の感情とかも、あんまりわかってない喫煙者の人も多いんじゃないかな(^^)。
ぼくが煙草をやめたのは、いろんな理由があるけど、なんか煙草を吸いだしてから自分の性格が変化して、短気になったり被害妄想的になったりしたんじゃないか、と自覚したのが一番の理由ですね。まあこれは自分の主観にすぎなくて、科学的に検証したわけでもなんでもないから、それをもって他人に煙草をやめろと主張する気はまったくないですが。(でも、ウルトラセブンの「狙われた街」っていうのは、案外当っているかも、なんて思ったりもしました(^^))
逆に、これが煙草を吸う最大のメリットだと思ったのは、飲み会とかでたまたま隣に座った人と話が盛り上がらなくても、煙草をぷかーっとふかしてると、なんか格好がつくこと(^^)。だから、煙草をやめた今でも、飲み会に行くときだけ煙草持参で行ったりします。と言っても、ぼくが飲み会に行く回数なんて年に数回というレベルだし、その後からまた吸い出しちゃうなんてこともまったくないですけどね(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (1)
さっきたまたま WBS を見ていたら、楽天が TBS 株を買うために受けた融資の金利より、TBS 株の配当の方が多いので、楽天は儲かっているという話をしていて、まるでそれが濡れ手に粟のぼろ儲け (というのはちょっと大袈裟だけど(^^)) みたいに説明しているので呆れてしまいました。
前にも書いたけど、基本的に、融資というのはローリスク・ローリターン、株というのはハイリスク・ハイリターンなファイナンス方法です。まず、楽天は基本的に何があっても融資の金利を払わなくてはなりませんが、TBS 株の配当は TBS の業績によっていかようにも変わりえるわけで、ほとんどなんの保証もないわけです。また、銀行が楽天に融資している金額の額面は、よほどのことがなければ変わりませんが、TBS の株価は毎日のように変動しますから、楽天にはキャピタルロスの危険もあります。さらに、会社が潰れたときも、楽天に融資している銀行は、優先的に債権を回収できますが、TBS 株を持っている楽天の資金は、有限責任ですから、ほとんどすべてぱーになってしまうのです。
つまり、TBS 株と楽天への融資との間にはリスクの差があって、その間のリスク差を吸収しているのが楽天なのだから、その分プレミアムを受け取るのはむしろ当たり前であって、何の不思議もないのです。でなかったら、銀行からの融資を元に起業するなんてことは、そもそもナンセンスだということになってしまうではないですか。
もちろん、TBS の配当が高すぎるとか、楽天への融資の金利がリスクと比べても安すぎるという意見はあると思いますけど、リスク差のあるところにプレミアムが発生するということ自体は、ファイナンスの基本原則にすぎないはずで、今さら大騒ぎするようなことじゃないでしょう。
WBS は経済には強いはずなんだから、あんまりドキッとするようなこと言わないでくださいね~。
どうも、ファイナンスというものをあまり理解せずにいろいろ言ってる人が多いようなので、ついでに説明しますが、TBS の時価総額は今大体 6000 億円くらいで、そのうち株主資本は 3000 億円くらいですから (ちなみに、楽天の時価総額は 9000 億円ぐらいで、株主資本は 500 億円ぐらいですから、楽天が潰れれば、単純計算では株の価値は 1 割以下になる)、もし TBS がつぶれれば、TBS 株の価値は、最低でも半額になってしまうということになります。つまり、その分の差額が、「人的資本」をはじめとするさまざまな無形の資産の価値だということです。(もちろん、それは現在の市場がそう評価しているというだけで、本当はもっと価値のある可能性もありますが)
ですから、仮に TBS が乗っ取られたとして、その乗っ取った資本家がヘマをして TBS の人的資本を毀損すれば、彼の持っている株の価値は、約半分になってしまう可能性があるわけで、少なくとも主観的には、彼はわざわざそんなことはしないはずなのです。つまり、現状の資本市場の制度でも、そのような形である程度は人的資本の価値を守るインセンティブが存在しているわけです。
ここで注意して欲しいのは、このような人的資本を守るインセンティブが機能するのは、資本家が金以外のことも考える「いい人」だからではなくて、むしろ、とことん金にガメツイ人であるからだこそだ、ということです。
もちろん、私の現在の資本市場にまったく問題がないと言っているわけではありませんが、その多くは、前にも書いたように、市場価値と企業価値の乖離からくるものなので、改善をはかるなら、むしろこの点でありましょう。
私が一つ考えているのは、今の配当制度をなんとかできないだろうか、ということです。配当というのは、本来、一定期間株を所有するという行為のリスクに比例した額であるべきなのですが、今の制度だと、権利確定日近辺に株を所有していれば配当がもらえてしまうので、これが株価が企業価値と無関係に乱高下する一因になっていると思うのです。
だから、日垣隆氏も示唆するように、いっそ配当なんぞやめて内部留保一本槍にするというのも一つの手だと思うのですが、私はむしろ、一年間株を所有し続けなければ配当がもらえないとか、配当額を実際に株を所有していた日数に比例した額にするとかしてもよいと思うのです。
今までそういう制度になっていなかったのは、おそらく、事務手続きがあまりに煩雑で現実的ではないという理由からじゃないかと思うのですが、現在のようにコンピュータ化されれば、必ずしも非現実的とも言えないような気がするのですが。
もっとも、理論上は、配当によるインカムゲインの変化は、株価によるキャピタルゲインの変化によって相殺されるはずだから、あんまり関係ないはずなんですけどね。でも、実際の市場を見ると、あんまりそうなってるように見えないから(^^)。まあ、このへんは私の勝手な思いつきなので、あまり本気にしないで、話半分で読んでくださいね(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (1)
今みたいなたかびーな態度がとれるんじゃないのかな~。時期尚早でなくなったときには、誰も高値で買ってくれなくなるかもよ。今は自分の方が高値が付いてるかもしれないけど、自分の値段ははどんどん下がっていき、相手の値段はどんどん上がっていく、のかもしれないんだからねぇ(^^)。選り好みしすぎて婚期を逸した人みたいにならないように、なんて、もちろん余計なお世話ですよね(^^)。
真面目な話、才色兼備のお二人が結婚してくれれば、世の中全体にとってもいいことだとぼくなんかは思うのですが、だからと言って強制するわけにもいかないし、余計なことを言われれば言われるほどかたくなになるプライドの高いお嬢さんだから、こっちも気を使うのです。
「迫り方が強引過ぎていやだ」みたいなことを言われて、「強引に迫らなかったら振り向いてもくれないだろう」なんてことは一言も言わず、ひたすら迫り続ける男を見ると、つい応援したくもなるしね(^^)。社会の生産力を高めるために結婚を奨励する結婚奨励金みたいな制度もあるのですが、本人が「お金なんかいらない。イヤなものはイヤ。家柄も趣味も性格も何もかも違うのに、うまくやっていけるはずないわ」とか言われてしまえば、それ以上無理強いはできないし。
まあ結局は、「あいつもうるさい事ばかり言ってないで、早く結婚すればいいのにな~」みたいな陰口をたたかれながら、だんだん魅力を失ってゆく、みたいなことになるのかもしれません。もちろん、だからといって悪いとは言えないし、その男と結婚していれば必ず幸せになっていたかといえば、そんな保証もできません。また、彼女は単に優柔不断なのではなくて、本当は心に秘めた人がいる、とか、実は密かに若返り法みたいなものを研究していて、永遠に老け込まない自信がある、という可能性もないではないので、野次馬としてはこれ以上は踏み込みません。だけど、こっちだってよかれと思って勧めてるのだから、あんまり人を悪者扱いしないでくださいね(^^)。(オレは見合い斡旋好きのおバハンか(^^))
| 固定リンク | トラックバック (0)
| 固定リンク | トラックバック (0)
ZAKZAK さんの記事に出てたんだけど、この「絶対資本主義」って言葉、ぼくは不勉強なせいかあまり聞いたことないんですけど、ちゃんとした定義があるんでしょうか(^^)。Google で検索すると、32 件ぐらいはヒットしますが (ちなみに、"absolute capitalism" だと 543 件) 。ちゃんとした定義があるんだったら、勉強しとかないといけないですね(^^)。
「絶対」という言葉の雰囲気で言うと、映画の「エイリアン」に出てくる、"perfect organism" みたいなもんなのかもしれない(^^)。でも、そういう意味では、アメリカ人だって perfect にはほど遠いと思いますけどね。だからこそ、人間って面白いんじゃないでしょうか。
そういや、asahi.com さんによると、「量的緩和、来春にも解除」だそうですが。でも、他の新聞のサイトにはそんな話出てないんだよね。どーゆーこと?
| 固定リンク | トラックバック (0)
asahi.com さんの経済気象台で、現金 (自己資本) で企業を買収するのはいいが、借金で買収するのはよくないみたいなことを書いてますが、ぼくは、これは論理が逆ではないかと思います。
むしろ、余ったキャッシュで買うほうが、使途の制約が少ない分、恣意的にいい加減に使われやすいんであって、企業の「公益性」を重視するなら、パフォーマンスに厳しい制約のある融資金のほうがよい結果につながると思うんですが。(まあ、ライブドアの時の MSCB みたいなのはちょっと微妙な問題なので別にして。)
デットとエクイティの違いは、資本家側から見れば、デットの方がローリスク・ローリターンで、エクイティの方が、ハイリスク・ハイリターンであるということですよね。だから、逆に経営者から見れば、デットの方がハイリスクで、エクイティの方がローリスクということになる(このリスクという言葉の使い方はあまり厳密ではありませんが(^^))。だから、経営者にとっては、デットの方があまり危ない使い方はできなくて、堅実な運用を迫られるということになるはず。
この記事を書かれた方は、おそらく、LBO みたいなことを危惧されているのだと思いますが、LBO が濡れ手に粟の大儲けになるのは、市場価値と実際の企業価値との間に乖離がある場合だけでしょう。だいたい、担保分しか価値のないような企業ではしょうがないんで、それでは、みなさんのお好きな「人的資本」はほとんど企業価値に寄与していないということになってしまうではないですか。(もっとも、確かに放送局ってみんな PBR あんま高くないですよね。1~2 倍ってとこですか。まあ、借入金が少ない(財務レバレッジが低い)、ということかもしれませんが。)
どうも、まだまだ企業価値と市場価値に大きな乖離のあった時代の感覚で考えていられる方が多いような気がしますが、この乖離はだんだん狭まっていますし、また、狭まっていくような政策をとっていくべきだと思います。それが、健全な市場への一番の早道だと思うのですが。
| 固定リンク | トラックバック (0)
「ぼぼ日」の「ダーリンコラム」で、糸井さんが社長を運転手にたとえて会社について論じていますが、岩井本をプッシュしている「ほぼ日」らしく、法人資本主義論寄りのたとえになっているので、これを、株主資本主義の側から見るとどうなるか、という補足をしてみましょう。
まず、バスを買い取って乗り込んできた人が、まともな判断力のないただのバカみたいに書かれていますが、乗客については平均的な判断力を想定していながら、その人だけはバカに決まっているみたいな書き方をするのは不公平で、彼だって、バスが事故を起こせば大損害だし、自分が死ぬかもしれないわけだから、そのような事態はできるだけ避けようとするに決まっています。したがって、彼が自分で運転すると決め付けているのもおかしくて、もし自分が運転手より運転が下手だと思えば、わざわざそんなことはしないでしょう。
また、運転手の運転能力は過去の実績で担保されるが、バスを買った人の能力はまったく未知数であるように書かれていますが、そもそも、何の実績もない人に、バスぐらいは買えても、大企業を買うことなどできません。
もし、会社を買った人が、古きよき時代の王様とか大富豪とかのドラ息子で、なんの努力もせずに受け継いだ金を使っているだけなら、そういうこともあるかもしれませんが、現代において大金を動かしている人は、ほとんどが資金運用のプロです(数少ないドラ息子の生き残りだって、自分で運用している人などまれで、ヘッジファンドのようなプロに運用させている例がほとんどでしょう)。現に、堀江氏にしろ村上氏にしろ三木谷氏にしろ、大富豪の息子などではなく、自らの実績によって大金を動かせるだけの信用を身に着けてきた人たちで、現代においては、大金を動かせるということ自体が、ある種のクレディビリティを表している、と考えるべきでしょう。
つまり、運転手が運転のプロなら、バスを丸ごと買うような人は、運転手に後ろから指図するプロなのです。もちろん、運転手があまりに下手糞だと思ったら、クビにして別の運転手を雇うかもしれないし、これなら自分の方がマシだと思えば、自分で運転をしてしまうかもしれませんが、そういう判断を含めて判断のプロなのです。もちろん、その判断が間違うことだってあるでしょう。しかし、それは運転手の運転についてだって言えることです。
さらに忘れて欲しくないのは、バス自体が無傷だからといって、そのバスがこれまで無事に走ってきたとは限らないということです。そもそも株主資本主義がこれだけ注目をあびたのは、過去において、バス自体さえ無事ならバスの中も外もどうなってもよいと考えるような運転手がたくさんいて、排気ガスを撒き散らしたり通行人を平気でひき殺したり、さらには、佐高さん (が嫌いなら奥村宏さんでもよいが) とかがよく言っていたように、乗客イジメみたいなことまでしてきた、という事実があったからだったはずです。
だからこそ、バスの外の利害を代表する人が運転手に指図する必要がある、というのが、コーポレートガバナンスということの意味だったわけでしょう。そして、前にも書きましたが、コーポレートガバナンスが株の持ち合いなどによりないがしろにされてきたことによる害をどうやって防ぐか、という制度的なアイデアは、岩井本の中にはまったく書かれていないのです。(この本には、それ以外にも疑問点がたくさんあるというのも、前に書きました。)
「感じ」を大事にしたいという糸井氏の発言について、決め付けるような言い方でたいへん申し訳ないですけど、ひょっとして、氏の「感じ」の源泉になっているのは「よい会社」だけだったりしませんか? 現にうまくいっている会社にとって、コーポレートガバナンスがさして重要に思えないのは当然なのであって、もっと、世の中にゴマンとある「ひどい会社」のこともイメージすべきではないでしょうか? (このへんに、糸井氏と自分との経歴の差を感じてしまうのは、ヒガミでしょうか(^^)?)
たとえば、ちょっと「ヒドイ」会社なら、自分が心血を注いでやって、絶対成功すると思っていた仕事が、何もわかっていない上司や社長によって打ち切られてしまう、なんてことは珍しくないですよね。あるいは、人事異動で、自分の望まない部署や上司の下に配属されてしまうなんてことは日常茶飯事ですよね。そのときに、社員である自分がその命令を受け入れなければならない理由は、最終的には、社長が会社の金を運用している側で、その金で自分の労働時間を買われているということに尽きるんじゃないんですか? それなのに、なぜ、「仕事は担当している社員のもので、上司や経営者のものではない」みたいな「仕事社員主義」的な主張をする人がいないんでしょうか。
単に金を持っているだけで、能力のないヤツに会社を買われてしまう危険を言うなら、単に金を持っているというだけで、能力もないのに勝手に会社を作ってオーナー社長になってしまう身の程知らずはもっとたくさんいる、ということも言わなければ不公平でしょう。株式会社を作るための資金的なハードルは、上場企業を買収するための資金的ハードルよりずっと低い、ということもお忘れなく。(そういう会社で働いていて、上場してくれたら、もっともののわかった経営者がきて、給料もよくなるかも、と思っている人だってけっこういると思いますよ。)
結局、どこの世界でも、就くべきでない人がポジションについたり、誤った判断をしたりということは一定確率で起こるし、それがまったくなくなることもないでしょう。ただ、どうしたらそういうエラーによる被害を最小限に食い止められるか、ということが、システムを設計する側の問題だと思うのですよね。そういう意味で、法人資本主義が株主資本主義に勝っているとは、私にはどうしても思えません。
ぼくがつくづく不思議に思うのは、仕事を切られそうになった会社員だって、「お願いです、続けさせてください!」程度のことは言えるのに、なぜ、買収されそうになった経営者の方々は、「この会社を私以上にうまく経営できる者はいません。どうか私に任せてください!」ぐらいのことも言えず、「お前みたいな部外者に口出される言われはねえ!」みたいな子供みたいな反応しかできないのか、ということです。それで資本家を説得できてこそ、プロの経営者というものじゃないんですか。でなけりゃ、結局自分だって金の力だけが頼りだってことじゃないですか。違います?
ちなみに、ぼくはよく理屈っぽいと言われますが、それはむしろ、自分の直感を重視して、どんなに理屈に合わない直感にでも無理矢理理屈をつけようとするからなのであって、自分では自分は直感派だと思っています(^^)。生意気なことばっか書いてすみません(^^)。
あと、感情論でないことを示す傍証として付記しておくと、ぼくは野球も好きですけど、純粋に番組の好みだけで言えば、全放送局の中でもフジテレビの番組が最も好きだと言っても過言ではありません。これは、今でもそうです。
| 固定リンク | トラックバック (0)
世論の動向を見て日和っていると思われるのもなんなので、私がなぜ LF 問題ではどちらかというとライブドア寄りの立場をとったのに、阪神上場問題については中立的な立場をとっている理由を補足しておきます。
そもそも、どちらの問題においても、単純に市場原理に任せられない理由として、「公共性」という言葉がキーワードになっていまよね。簡単に言えば、私は、放送界と野球界では公共性のあり方が違うので、公共性を担保するため方法も違うと思っているということです。
放送界の場合、公共性が重視される主な理由は、地上波のチャンネル数が有限かつ少数だということにあります。そのため、各チャンネルの使用権を独占している放送局は、そのチャンネルが特定の個人・企業・政治団体などのために使われないようにする必要があるわけです。
けれども、「放送と通信の融合」が本格的に実現して、チャンネル数の制約がなくなってしまえば、個別の放送局の公共性にはばらつきがあっても、システム全体として公共性を担保することができるだろうと思うのです。それが、放送界については、市場的な解決策が有効であろうと考えている理由です。
一方、野球界の公共性というのは、放送界のそれとは違って、主に外部効果の大きさに起因しています。詳細は前に一度書いたことがあるので、物好きな人は探してみてほしいのですが、私は、野球界の公共性を制度的に担保するためには、野球界全体での利益分配方法からはじまってかなりドラスティックな改革が必要ではないかと考えており、単に個別の球団を市場化するだけではたいした効果がないし、弊害も多いだろうと考えているのです。
たとえば、仮に株をファンに分けるにしても、必ずしも上場する必要はなくて、地元の住民限定で私募するみたいなことをすれば、地域密着にも役立つだろうし、さらに、地方自治体や地元の商店街の業者さんなんかに優先的に持ってもらえば、球団と地域の利害を一体化させる(外部効果を内部化する)のに役立つかもしれない。今現在のことはともかく、将来的には、そういう方向性の方が理想的ではないかと思っています。
ついでに言えば、一般論ではなく個別論としも、フジテレビという会社(だけではないけど)が、自分で言うほど公共性を重んじている会社だとはとうてい思えなかった、というのも私がライブドア寄りに立った理由の一つではあります。
私は、もしメディアにとっての公共性ということを本当に厳しく追及するのであれば、放送局は番組制作会社とも出版社ともレコード会社とも版権管理会社とも資本関係を持たずに、単に放送時間を切り売りするというメディアの役割に徹しなければおかしいと思うんですね。
現在のように、放送局が映画会社や出版社と組んで「XX 製作委員会」などというものを作り、製作した映画をニュース番組の枠内で宣伝するなどというのは、それこそ公共メディアの私物化以外の何者でもないんじゃないですか。
ただ、私はそういう問題点も、将来的には多チャンネル化や市場化によって解決されうると思っているので、そういう個別論にはあまりこだわらず、制度的な原理原則を重視する立場に立ったわけです。
| 固定リンク | トラックバック (0)
ぼくは、堀江さんや村上さんが言うように、球団を上場することが制度的によい結果を保証するかについては (LF 問題のときとは違って) わりと懐疑的なんですけど、少なくとも、現在プロ野球機構側にいる方々が、球団上場という案が原理的に間違っている、というような批判をするのは、いくらなんでも変だと思うんですね。
だって、どこの馬の骨かもわからない投機家が大株主になって、日本の貴重な公共財であるところの野球文化を破壊する可能性がある、ということであれば、何も、球団単体での上場に限らず、親会社が上場されていてもそういう可能性は十分あるわけでしょう。現に、村上さんの登場により、そういうことが危ぶまれているんじゃないですか?
だから、そういうことを言い出すと、そもそも上場企業たる阪神電鉄が球団を持っていること自体が間違いだ、ということになってしまうわけで、上場企業は一切球団を持てない、ということにしなければ筋が通らないはずです。
確かに、野球協約の第 28 条や第 31 条は (日本プロ野球機構のサイトには野球協約が見当たらないのに、選手会のサイトには公開されているというのも、両者の意識の違いを表しているようで面白いですね(^^))、明らかに球団がプライベート・カンパニーであることを前提としているように読めますが、村上さんの言うように、持株会社にしてしまえば、このような規定は技術的にクリアできてしまうんですよね。だって、そのような持株会社と、現阪神電鉄のような上場された親会社の間に、際立って形式的な違いがあるわけではないのですから。
したがって、もし日本球界や阪神球団がこれまでうまくやってこれた(かどうかも必ずしも万人が納得はしないとは思いますが) とすれば、それは制度よりも、日本球界の文化や伝統であるとか、阪神電鉄の社内文化の連続性みたいなもののおかげなんだから、もし上場に反対するのであれば、その事実性に立脚して、だから今の体制をむやみ変えるべきではない、というふうに主張すべきだと思うのです。
(あのー、ぼくは、制度より文化的連続性が優先されるべきだ、などとは、一言も言ってませんからね。もし反対するのであれば、そういう論法でなければ筋が通らないはずだ、と言っているだけです。誤解のないように。)
また、そういった文化的な遺産もいい加減食い潰されかけている現在において、新しい制度的な提案をするというのは、決して悪いことではないのだから、そういう人を「偽善者」呼ばわりするなどというのは明らかに行き過ぎで、程度の低い誹謗中傷合戦を誘発するだけでしょう。ま、それが狙いなのかもしれないけど(^^)。
もっとも、現在のように、事実性において球界を半私物化している方々に対抗するための武器として、上場が役立つことは否定できないと思いますが、その武器は、野球界にとって、必ずしもよい方向にだけではなく、悪い方向にも使われうるんで、繰り返しになりますが、純粋に制度の問題としては、必ずしもよい結果を保証しないのではないかな、と今のところは思っています。
逆に、制度的な良し悪しなんてどうでもよくて、ただ今現在その「武器」を使いたいだけなんだ、という意見もあるかもしれませんけど、その場合には、その「武器」を持つ奴が、事実性として野球界の味方なのか敵なのか、ということが問題になってくるわけですよね。ぼくには、さすがにそこまでは責任持てないので、なんだか煮え切らない言い方で逃げておくことにします(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (7)
あのー、asahi.com さま、毎度ケチつけて恐縮なんですけど…(でも、それだけいつも見てるってことですからね。産経さんなんか、何か特別な理由がない限り読みませんから。)。この「『四球より打たれたほうがまし』に異論 神大教授が分析」っていう記事、ちょっとひどくないですか?
そもそも、この人、この通説(というか格言と言ったほうがよいと思うが)の意味自体わかってないですよねえ。もともと、この格言で問題にしてるのは、ピッチャーの意識であって、結果だけではないはず。
つまり、ピッチャーには勝負するのと逃げるのの 2 つの選択肢があって、逃げれば四球を出す確率が高いけど、勝負したからといって必ずしも打たれるとは限らないし、むしろ、意外と討ち取れる確率が高いから、勝負したほうがいいよ、ていうことでしょう? そりゃ、結果だけ見れば、安打だって四球だって同じランナー一塁なのだから、その後の展開に大差ないのはむしろ当たり前でしょう。
だから、この格言を本当に検証しようと思ったら、ピッチャーが勝負にいった場合と逃げた場合で分けて統計をとらなきゃダメでしょう。つまり、
勝負:安打の確率=Ha、四球の確率=Ba、討ち取る確率=Oa
逃げる:安打の確率=Hn、四球の確率=Bn、討ち取る確率=On
としたとき、Ha+Ba < Hn+Bn だったら、この格言は正しいし、逆だったら間違ってる、ってことじゃないですか? もっとも、実際には、勝負と逃げるのと、そんなにはっきり分けられるわけでもないだろうし、そんな統計をとること自体難しいだろうけど(でも、「トリビアの種」だったらやりそう(^^))。
ぼくの言ってること、おかしいかなあ。まあ、この先生も行動ファイナンスの大家らしいですけど、少なくとも、この研究についてはピントずれてると思うんですけどねえ。
| 固定リンク | トラックバック (0)
「ほぼ日」には、糸井さんが週一回エッセイのようなものを掲載する「ダーリンコラム」というコーナーがあって愛読しているのですが、今週の「勝負に全力を尽くす、そのやり方」という話には、ちょっと考えさせられたのでコメントしてみます。
ぼくがこういう話でいつも考えるのは、それはゼロサム・ゲームかそうでないか、そうでないとすれば、社会全体のパイは大きくなる(プラスサム・ゲーム)か、ということなんですね。ゼロサム・ゲームなら、やる以上は勝つことを目指すしかないし、それができないなら、最初から参加しないほうがいい。プラスサム・ゲームなら、単に勝つだけでなく、どうしたらより社会全体のパイを増やせるか、ということを考えなくてはなりません。そういう観点からすると、まず、スポーツとビジネスは分けて考えたほうがいいと思います。
スポーツの利得行列には、一見すると勝ちと負けの 2 つの値しかなくて、そういう意味では、完全にゼロサム・ゲームのように見えます。でも、よく考えると、いくら試合に勝っても怪我をしたら損だとか、試合に負けてもその分勉強した方が実社会では得をするとか、観客にとっては、同じ試合でも面白い試合とつまらない試合があるとか、他にもいろんな利得があるように思えてきます。
けれども、糸井さん自身も冷静に指摘しているように、スポーツの場合、プレーヤーがいかにもゼロサム・ゲームである「かのように」プレーすることが重要で、そうでないと、観客にとっての面白さとか、プレーヤーに身につく身体的なスキルのような、スポーツの「名目上の利得行列」にはカウントされない利得もかえって低下してしまうという特徴があります。
スポーツというのは、何か勝ち負け以外の価値を体現しているわけではないので、剛速球で討ち取るのと、配球で討ち取るのでは、どっちが正しいか、などということを一義的に決めることはできないのです。だって、もしできるなら、最初からスピードガンで測定して速いほうが勝ち、ということにしてしまえばいいわけですからね。つまり、そういうことは、プレーヤーや観客個人が、胸の内で密かに感じとればいいのであって、そういう多義的な解釈が可能なのも、スポーツが名目上勝ち負けだけに特化しているからこそなんですね。そこに、スポーツ独特の逆説があります。
ですから、外部から見たときのスポーツの利得を向上させるには、プレーヤー自身の価値観に変更をせまるよりも、F1 のレギュレーションのように、ルール自体を変更する方が適切である、ということになるわけです。
これが、プロスポーツになると、少し事情が変わってきます。なぜなら、プロと名のつく以上、明らかに勝ち負けだけでなく、収益とか人気というものも利得の中にカウントされてくるからです。昔はよく、プロスポーツはアマから見ると不純である、と言われたものですが、この「不純」というのは、よく考えると、アマのように勝ち負けだけに特化せず、勝ち負け以外のこともいろいろ考えなくてはならないので、「純粋ではない」という意味だったのですね。それが今では、純粋でないことがかえって奨励されているように見えるのは、ちょっと皮肉なことだと思います。
一方、ビジネスの方は、本来プラスサム・ゲームを目指すものであって、それが社会全体のパイを増やすという前提の下に、存在を許されているわけです。ですから、ゲームのルール自体にも、うまく社会全体のパイを増やすような方向に誘導するインセンティブを組み込むべきであるし、プレーヤー自身も、自分の利得を増やすだけでなく、社会全体のパイを増やすようなプレーを尊び、そうでないプレーを避けるというような価値観・倫理観を持つ必要があります。
スポーツと違って、ビジネスの利得行列の値は勝ちと負けだけではないので、極端に言えば、ビジネスでは必ずしも「勝つ」必要すらない。実際、シェアトップでなくても十分存続できて、社会にとって存在価値のある企業はいくらでもあるわけですからね。
もちろん、社会全体のパイを増やしつつ、他のプレーヤーの誰にも損をさせないという「パレート最適」みたいなプレーをするのが理想ですが、他の競争相手には損をさせても、社会全体のパイが増えればまあ合格、逆に、競争相手に損をさせた上、社会全体にも不利益を与えるようなプレーは最悪、ということが一応はいえるでしょう。
糸井さんが例に挙げている選挙にしても、政策に対する認識を深化させるような政策論争などは、もちろんパイを大きくする競争に含まれるだろうし、相手の批判にしても、政治家としての信頼性に関わる根拠ある批判などは大いに奨励すべきでしょう。逆に、根拠のないデマや中傷、政治と無関係な私生活の暴露などは、パイを小さくする競争に含まれそうです。もっとも、こういう行為が実際にどういう効果をもたらすかは、「観客」の見る目にも関わってくるので、一概には言えませんが。
ぼく自身は、他人の足をひっぱらなければやっていけないような仕事なら、とっとと辞めてやる、と滑稽なぐらいに思いつめてやってきたし、株の取り引きをするときですら、ゼロサム・ゲームになりがちなデイ・トレードは避けて(同じ短期取引でも、証券会社のディーラーの方がやられているようなのは、かえって株価の安定に貢献していると思いますが)、長期ホールドに勤めてきた方なので、糸井さんのような社会的影響力のある人に、そういうことが子供っぽいみたいな書き方をされると、少々心外ではあるのです(^^)。
まあ、ぼくはわりと付き合いが狭い方なので、断言はできませんが、少なくともぼくの周囲の人は、そんなに勝つことだけを考えているようには思えないし、たとえば、ホリエモン騒動があれだけ大きくなったのだって、いかに世の中に、勝つことだけを潔しとしない人が多いかということを示していると思うのですが(もっとも、あの事件については、ぼくは今でも、ホリエモンの仕掛けたことはゼロサム・ゲームではなかったと思っていますが)、いかがでしょう(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (2)
マネックス・ビーンズ証券のカスタムメニュー機能は、松本 CEO が自慢なさっているように、確かによくできているし便利だと思うのですが、カスタマイズのデータをクライアントサイド、つまり Cookie に保存しているのはどうなんでしょう (具体的には、custom_num = "42+22+49+0+51+53+58+59+0+66+97+0+128+129" みたいな感じでアイテム番号が保存されている)。
これだと、同じユーザーアカウントでログインしても、マシンやブラウザが異なるとメニューがリセットされてしまうという問題がありますよね。おそらく、マシンやブラウザごとに違う設定で使いたいユーザーより、同じ設定で使いたいユーザーの方が多いと思うし、なんなら、サーバーサイドに複数の設定を保存できるようにして、その設定の ID だけを Cookie に保存するようにすれば、マシンやブラウザに関わらず同じ設定を使うことも、マシンやブラウザごとに設定を変えることも簡単にできますよね。
あと考えられる問題は、動作の軽快さやサーバーの負荷なんかでしょうけど、動作については、最大のボトルネックは回線速度だから、回線が高速化されればあまり問題にならなくなりますよね。サーバーの負荷については、データがないので確たることは言えませんが、My Yahoo! とかでも最近はみんなサーバーサイドでやってますから、できないことはないと思うんですけど(^^)。
だから、やっぱりこれはサーバーサイドに保存すべきではないでしょうか、と、機会があったらメールしてみようっと(^^)。
| 固定リンク | トラックバック (0)
| 固定リンク | トラックバック (0)
郵政民営化に関連して、安全な預金先が必要だという話がよく出てきますよね。だけど、考えてみると、コインロッカーだって、貸金庫だって、預けた方が保管料を払うのが普通なわけですよね。それなのに、なぜお金だけは預けた方が利子をもらえるのでしょう。
結局それは、預けたお金を運用することによって利益が出るからですよね。そして、運用益というものは、常にリスクに反比例します。したがって、リスクがなくて利子が付くということは、本来あり得ないはずなのです。
(では、なぜ今まではこの不可能が可能になっているように見えたかと言えば、いわば国が借金の連帯保証人みたいなものになっていて、貸し倒れになると税金から補填するようになっているからですよね。)
だから、どうしても安全な預金先がほしいというなら、逆に、保管料をとる預金、つまり、マイナスの金利をとる金融商品というのを作ればいいと思うんですね。そのかわり、金利分以外の元本は、無限責任で何があっても保証してくれるわけ(^^)。
これだったら、合理性があるから、金融商品として設計可能なんじゃないかと思うんですけど。もっとも、そんな商品をホントに利用する人がいるかどうかは知らないけど(^^)。
(結局、公的金融機関の問題点というのは、営利の部分と税金でやる部分との切り分けができてないことだと思うのです。言ってみれば、世のため人のためになる有益な事業に投資するから金を貸してくれ、なんてこと言ってる奴に金を貸したら、山師みたいな奴にばっかり投資して散財しちゃって、しかも、本人の連帯保証人も投資先の連帯保証人も、結局自分の嫁さんだった、みたいな話になってるわけでしょう。それだったら、変な奴に貸すよりも、自分の判断で有益だと思う事業に直接寄付したほうがまだまし、ってことじゃないでしょうか。だから、税金なら税金、営利なら営利、って分けなきゃだめだと思うのね。)
| 固定リンク | トラックバック (0)
ここ数回、暴論シリーズが続いたけど、さらに続けます(^^)。
オブジェクト指向のプログラムを書いたことのある人なら知っていると思うけど、オブジェクトの比較には 2 種類の方法があります。一つは、オブジェクトの属性(メンバとかプロパティとかいろんな呼びかたがある)を一つ一つ比較して、すべて一致すれば同一とみなすというやり方。もう一つは、オブジェクトのポインタやハンドルを比較して、一致すれば同一とみなすやり方。
人間に例えるなら、前者は、身長も体重も顔も体型も性格もすべて一致するので、マナちゃんとカナちゃんは同じだ、とみなす方法。後者は、どんなにそっくりでも、マナちゃんとカナちゃんは別人だ、とみなす方法、ということになります。
そうすると、前者は経済原理に対応し、後者は愛情原理に対応している、と言えるのではないでしょうか。そして、この両者をどう切り分けるかが、社会設計においても、個人の生き方においても、重要なポイントなのではないかと思うのです。
経済原理の世界では、生産のための合理性を重視するので、代替可能なものはどんどん代替して、もっとも低コスト高生産性の組み合わせを見つけ出そうとする。同じものを買うなら、少しでも安い店に行く。というのが経済合理性の世界ですね。
一方、愛情原理の世界は、関係性重視の世界です。たとえ他の属性がまったく同じであっても、固有名詞が違えば別人とみなすということは、その人自体よりも、その人と他者との関係性を重視しているということです。
もちろん、経済原理の世界でも、他との差別化をはかることにより、代替不可能な存在になり、固有名詞として認知されるようになった人や会社もあります。
ぼくが、ニートの人とかの将来の夢とかを聞いて感じるのは、彼らのなりたい職業というのは、そういう固有名詞として認知される職業が多いということです。そうすると、彼らが求めているのは、実は、経済的な成功といよりも、代替不可能な存在になりたいということではないか、という気がするのですね。しかし、それを経済の世界で実現できる人はごく一部ですし、また、必ずしも経済の世界で実現すべきことでもないのではないでしょうか。
ぼくは、島田紳助さんの本を一冊だけ読んだことがあるのですが、その中で最も感心したのは、「友だち同士は助け合わない」という言葉でした。本当だかどうだか知りませんが、彼は、たとえ友人の会社が潰れて借金取りに追われていても、金銭的な援助をしたりはしないそうです。
これは、経済原理の世界と、愛情原理の世界を切り分けるための、一つの知恵だと思うのですね。もちろん、たとえ友だちであっても、貸した金は高利貸しのように取り立てる、という方法もあると思うのですが、人間なかなか同じ人間相手にそういうふうには態度を使い分けられないですからね。
ぼくが LF 問題のときにフジテレビやニッポン放送に対して感じた不満は、彼らには、この両者をどこで切り分けるかという哲学が感じられないということ。にも関わらず「愛情」などという煽情的な言葉を振り回して、周囲の同情を買おうとしていたことです。
先日、ケイレツの復活傾向が報じられていましたけど、これも別に、長期的な取引関係にメリットがあるのは当たり前だし、そのこと自体が悪いわけじゃないと思うんですね。むしろ問題は、ルールが不明瞭で、ほんとうに長期的な取引関係が望ましいからやっているのか、それとも、人情の次元でやっているのかがはっきりしないことじゃないんでしょうか。だから、使っている方も、都合が悪くなると一方的に取り引きを打ち切ったりするし、使われている方も、感情的に切りにくくするために余計なコストを払っていたりする。こういうのも、ぼくなんかから見ると、経済原理と愛情原理の切り分けができていなように見えるわけです。
もともと、経済原理と愛情原理には相容れない部分があるので、それをどこで切り分けるかについては、社会倫理としてある程度の合意があるべきだと思うのですが、少なくとも、個人の生き方としてこの両者をどう使い分けるかぐらいは考えておくべきだと思うし、ぼくはそういう人が好きです。
| 固定リンク | トラックバック (0)