イギリスから売掛金を回収する方法

 ウチのようなスモール・ビジネスが海外の企業と取引する際に、まず考えなくてはならないのは売掛金の回収方法だ。

 これがある程度規模の大きい企業なら、海外に支社があったり現地の法律事務所と契約していたりするから、法的手段に訴えることも容易だろうし、取引金額自体が大きいから、その一部を回収費用に当てることも可能だろう。

 しかし、うちのようなスモール・ビジネスでは、法的手段に訴える金や時間もバカにならないし、可能だとしても取引金額と比べたら明らかに割に合わない場合が多い。

 ところが、英米など一部の先進国には、このような問題を解決する極めて便利なシステムがある。それが Collection Agency (債権回収業者)である。

  Collection Agency は債権回収を代行してくれる会社だ。報酬は債権額の一定割合(通常 3 割程度)なので、回収したせいでかえって損するようなことはない。しかも完全成功報酬の会社が多い。つまり債権回収に失敗した場合には、報酬を払わなくてもよいのだ。そして、催促の手紙を書くことから裁判まで回収に必要なことはすべてやってくれる。

 国によって法制度が異なるので、どの国にも通じる一般論はないが、私は以前、イギリスのある Collection Agency を使って売掛金の回収に成功したことがあるので、そのときの手順を参考までに紹介しよう。

1.業界団体を探す

 まず大事なことは、ある程度信頼できる Collection Agency を見つけることだ。そのためには、業界団体の名簿から探すのが手っ取り早い。こういう団体には倫理規定みたいなのがあって、あまりひどい会社は除名されるようになっているから、ゼロから探すよりはリスクが少ないだろう。

 イギリスの場合、CSA (Credit Service Association) という債権回収業者の業界団体があるので、まずそのウェブサイト(http://www.csa-uk.com/welcome) の UK Member List というページを開く。

 このページでは、債権回収業者をサービスや地域別に検索できるようになっているので、[Search by Service] から [Business to Business Debt Collection] を選び、[Search by Region] から回収先の企業に最も近い地域を選んで、[Search] をクリックする。

 すると、検索条件に該当する Collection Agency の一覧が表示される。この一覧だけでもかなりの情報が入手できるが、ほとんどの会社にウェブサイトへのリンクが記載されているので、詳しくは該当企業のウェブサイトで調べたほうがよい。

2.業者を選ぶ

 各社のウェブサイトを調べて、さまざまな条件を比較し、自分のニーズに最も合った債権回収業者を選ぶ。私の場合は、以下のような条件に留意した。

  • 料金体系
    • 料金体系をウェブサイトに公開している業者と要見積の業者がある。当然公開している業者の方が安心感がある。料金はだいたい債権額の三割程度で業者によってそれほど差はないが、完全成功報酬であるかどうかは要チェックだ。
  • 回収手段
    • 事務的な回収しかできない業者と、弁護士がいていざとなったら裁判までやってくれる業者とがある。Skip Trace と言って、逃亡した債務者の捜索までしてくれる業者もある。
  • 国際取引
    • 国外の顧客を受け入れることを明示している業者も少なくない。明示していなくても、頼めばやってくれるかもしれないが。
  • ネットサービス
    • 連絡がネットだけで済むか、電話や手紙が必要かも重要な点。メールの方がコストも安いし、私のような会話の苦手な人間にとっては、メールの方が誤解が少ないし証拠も残るので安心感がある。
  • 歴史
    • あまり歴史の浅い業者は避けた方が無難。

3.依頼フォームを送信する

  ネットサービスの充実している業者の場合、オンラインで回収の依頼ができる。ウェブサイト上のフォームに債権の詳細を記入して送信するだけだ。必要があればメールのログなどを添付する。

4.応答を待つ

 あとは相手からの応答をじっと待つだけである。私の場合、フォーム受信確認の自動送信メールが来た後、一週間ほどなんの連絡もなかった。

 このような業者を利用するのは初めてだったので、本当にちゃんと話が進んでいるのか心配になりかけたころ、回収先の企業から売掛金全額が振り込まれてきた。

 実にあっけなかった。それまで何百回メールを出しても埒が開かなかった相手だったので、こんなに簡単なのかと思って拍子抜けしたのを覚えている。

 後は、規定の料金をクレジットカードで支払うだけ。なんの後腐れもなく取引は終了した。

・参考文献

Collection Techniques for a Small Business  債権回収テクニック全般に関する資料は JETRO のウェブサイトを含めて多数あるが、スモール・ビジネスの海外債権を対象とした資料となると実に少ない。

 そういった中で、この Collection Techniques for a Small Business という本は数少ない例外である。もともとアメリカのスモール・ビジネスを対象にした本だが、イギリスでもかなりの部分が通用する。

 内容も、Collection Agency ばかりでなく、信用管理・催促・小額訴訟の方法まで幅広く網羅されているし、Collection Agency に関しても、その仕組・選び方・使い方など、上では紹介しきれなかったことまで詳述されている。 是非参考にされたし。

・免責

 この記事は、個人的な一事例を紹介したに過ぎず、同じ方法による成功を保証するものではまったくない。参考にされる方はくれぐれも自己責任で。

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アメリカ人はなぜ福祉が嫌いか

Why Americans Hate Welfare: Race, Media, and the Politics of Antipoverty Policy (Studies in Communication, Media, and Public Opinion) 著者はプリンストン大学の政治学の准教授。カリフォルニア大学バークリー校で社会学の博士号をとり、イェール大学や UCLA でも教鞭を取ったというから、きっと優秀なのであろう。

 政治学者や社会学者というと、虚仮脅しの専門用語を散りばめながら好き勝手な意見を書き飛ばす評論家をイメージする人も多いと思うが、この本は、律儀なまでに社会調査と統計分析に基づいており、文科系の本にありがちな衒学的なごまかしはまったくない。 その点では安心して読める。

・アメリカ人は福祉が嫌い?

 アメリカ人の福祉嫌いは有名だ。アメリカの福祉は先進国中でも最低レベルにあるし、彼らの「社会主義」や「再配分」という言葉に対する拒否反応は強く、このブログでもネタにしたことがある。何より当のアメリカ人自身が、アメリカ人は福祉嫌いだと自認しており、そのことは本書の著者も認めている。

 では、その理由を説明したのが本書なのかというと、さにあらず。なんと著者は、アメリカ人は本当は福祉が嫌いではない、という。

 著者の分析によると、アメリカ人が嫌いなのは、貧乏人全般を助けることではなく、助けるに値しない怠け者の貧乏人(undeserving poor)を助けることなのだという(ちなみに、この undeserving poor という用語を最初に提唱したのは Michael Katz)。 つまりアメリカ人は、貧乏人の多くが助けるに値しない人だと思っているのだ。

・原因は人種的偏見

 ではそれは何故か。アメリカ特有の自己責任を重視する個人主義か。それとも、税金を他人に使われたくないという利己主義か。どちらもさほど大きな要因ではない、と著者はいう。最大の要因は、なんと、白人の黒人に対する偏見(stereotype)なのだという。

 そう聞くと、「要するに保守的な白人は黒人の得になることをしたくないわけね。人種差別は相変わらずだね」などと安易に解釈する人もいるかもしれないが、さにあらず。大多数の白人は、働く気のある真面目な黒人は喜んで支援したいと思っている。それを邪魔しているのが、「黒人は怠け者」という偏見なのだという。

 そもそもアメリカ人の多くは、福祉政策の受給者のほとんどが黒人だと思っているが、この認識自体が間違っている。確かに、貧困者中の黒人の比率は高いが、それはあくまで相対的なもの。元々アメリカの人口における黒人の比率がそれほど高くないのだから、いくら相対的な比率が高くても、貧困者が黒人ばかりなどということはあり得ないのだ。

 この誤った認識に、黒人は怠け者だという偏見と、怠け者は助けるに値しないという価値観が結びつくことにより、福祉政策に対する反感が生まれたというのだ。つまり、

  • 福祉政策の受給者は黒人ばかり(誤った認識)+
  • 黒人は怠け者ばかり(偏見)+
  • 怠け者は助ける価値なし(価値観)
  • = 福祉政策に対する反感

というわけだ。

 でも、黒人に対する全般的な差別意識が原因ではなくて、「黒人は怠け者」という偏見だけが原因だ、なんてどうして言える? と思う人もいるだろうが、そのへんは著者も綿密に調べている。

 たとえば、世論調査によって、福祉政策に対する反感と黒人に対するさまざまな偏見の相関関係を調べると、「黒人は怠け者」という偏見とは強い相関関係があるが、「黒人は無能」とか「黒人は暴力的」というような偏見とはほとんど相関関係がないという。また、福祉政策に対する反感をさらに細かく調べると、働き者の黒人だけが利益を受ける政策(マイノリティだけを対象とした職業訓練や奨学金など)に対する反感もあまり強くないという。

・無意識の洗脳

 では、「黒人は怠け者」という偏見はどのようにして生まれたのだろう。この偏見はもともと、白人が奴隷制を正当化するために生み出したものだが、現在のアメリカ人が依然としてそのような偏見を持ち続けている原因は、マスメディアだという。そして著者は一種のメディア・スタディを行うのだが、この部分がひょっとしたら一番面白いかもしれない。

 著者は、主要な報道雑誌3誌を選び、1950 年代~1990 年代に発行された雑誌の中から、貧困関係の記事をすべてピックアップした。そして、その記事中の写真に出てくる人物が、白人か黒人かを調べ、その比率を計算したのだ。

 その結果、雑誌記事の写真の選択にはさまざまな偏りがあることが判明する。まず、貧困者中の黒人の写真の比率が、実際の比率より明らかに高い。さらに、貧困者に同情的な記事と批判的な記事を分けてみると、同情的な記事には白人の写真が使われる率が高く、批判的な記事には黒人の写真が使われる率が高いのだそうだ。

 そう聞くと、「保守的なマスゴミの連中が、都合のいい人種的偏見を垂れ流して大衆を洗脳しているんだな」と思う人もいるかもしれない。しかし、それも違うと著者はいう。

 そもそも、アメリカのメディアはリベラル寄りで有名で、だからこそアン・コールターやラッシュ・リンボーにさんざん攻撃されたり、FOX ニュースが人気になったりしたわけだ。だから、2000 年以前はなおさらそうだったろう。

 著者は、研究対象となった雑誌の編集者についても実際に会って調べており、彼らがリベラルな人物であることを確認している。ただし、意識の上では、だ。

 このようなリベラルな人物であっても、無意識のうちに「黒人は怠け者」という偏見に影響されており、それが写真の選択に反映されている、と著者は言う。実際に彼らは、自分の選んだ写真にそのような偏りがあることすら気づいていなかった。

 実はこのような無意識的な人種的偏見を調べる心理学実験がある。その実験によれば、被験者を意識的な人種的偏見の強いグループと弱いグループに分けても、無意識的な偏見にはあまり差がないそうだ。

 そして、そのような無意識的な偏見の影響下で選ばれた写真が報道されることにより、社会全体の黒人に対する無意識的な偏見が強化されるというわけだ。まさに悪循環だ。

・正しい認識が重要

 ここまで読んで、「著者はそうまでして『白人は黒人を差別してない』と言いたいのか?」なんて思った人もいるかもしれないけど、多分違うと思う。著者はただ、現実をより正しく認識することが、より正しい解決を導くと思っているだけだ。

 福祉政策への反発の原因が、「黒人は怠け者」という偏見であるならば、それを解消すれば、黒人の差別解消にも福祉政策の推進にも役立つかもしれない。また、そのような偏見の原因が、メディアの無意識的な偏向であるならば、それを改善すれば偏見もなくなるかもしれない。

 実際に著者の研究結果を受けて、一部の雑誌社では、記事中の写真の偏りをチェックする仕組みを導入したそうである。

 ちなみに、本書には話の流れで公民権運動の歴史を紹介する部分がある。全般にイデオロギー的にならないように努めて冷静に書かれた本だが、その部分の描写だけ微妙に力が入っていて、この人は実は公民権運動に結構思い入れがあるな、と感じた。勝手な想像かもしれないが。

・自己認識を覆す

 本書の読後感は、山岸俊男氏の一連の著作にちょっと似ている。山岸氏の本が、日本人が自らに対して持つ自己認識=「日本人は集団主義」を覆そうとしているのに対し、本書は、アメリカ人が自らに対して持つ自己認識=「アメリカ人は福祉が嫌い」を覆そうとしているわけだ。

 ただ大きく違うのは、山岸氏の使うのが主に心理学実験なのに対し、本書の著者の使うのは社会調査と統計分析であるということだ。

 著者の統計分析は極めて入念であり、考えうるさまざまな反論にも丹念に反証している。たとえば、世論調査ではキレイゴトを答えているだけで、本音は全然違うのでは、とか、写真が偏っているのは、貧困者全体を平均すると黒人は少なくても、ニュースになるような事例に関係する人には、実際に黒人が多かったのでは、とか。 

 そのため、著者の主張には説得力があり、適当に数字をひねくり回して珍説をでっち上げるような類の本とはレベルが違うという印象を受けた。

(ただ一応指摘しておくと、「貧困者は黒人ばかり」も「黒人は怠け者ばかり」もメディアの影響だとすると、メディアが変わっても「貧困者は怠け者ばかり」になるだけで、福祉政策に対する反感はなくならない可能性も否定できないと思う。これが日本の話だったらきっとそう思っただろう。アメリカの場合はもっと差別が根深いのかもしれないが。)

 あと本書は、人間の性は基本的に善であるという、極めて健全な人間観が底流にあり、その点でも山岸氏の著作に似ていると感じた。全体に快く読めたのはそのせいでもあろう。

・決めつけてはいけない

 本書を読んで強く感じたのは、国民性や民族性のようなものを、安易に決め付けてはいけないということ。私自身のアメリカ人に対する思い込みも少なからず影響を受けた。

 考えてみれば、ほんの数百年前には黒人奴隷の国だったアメリカが、奴隷解放や公民権運動を経て、今や黒人が大統領や国務長官になるところまで来た。

 あるいは、ほんの数百年前にはホーソーンの「緋文字」(読んでないけど)みたいなピューリタンの国だったアメリカが、性の解放を経てポルノ大国となり、SATC やデス妻みたいなドラマがゴールデンタイムに放映されるところまで来た。

 今は誰が見ても福祉後進国であるアメリカが、何十年何百年したら福祉先進国になっていないと誰が言えるだろうか。

 同じことは日本についても言えるだろう。日本人は日本がこんな国だと思い込んでいるが、その思い込みによって自らが縛られてはいないか。

 本書が出版されたのは、まだクリントン政権でアメリカが好景気だった 2000 年である。その後のオバマ大統領の誕生やティーパーティ-の台頭やリーマンショックなどにより、アメリカ人の意識はどう変化しただろう。 知りたいところである。

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情報ゲームの錬金術に溺れるマスコミ

 最近はそうでもないが、一時期、マネーゲーム批判は大流行だった。ホリエモンこと堀江貴史や村上ファンドの村上世彰に対するバッシングから始まり、リーマンショックに始まる世界的金融危機がトドメを刺した。

 当時、マスコミの多くは口をきわめて彼らを罵った。やれ「マネーゲーム」だ、やれ「錬金術」だ。彼らのやっていることは「虚業」であって、社会になんら利益をもたらすものではなく、むしろ害悪ですらある、という論調がマスコミの大勢を占めていたように見えた。

 そういう批判がどの程度妥当だったかはひとまずおこう。ここで一言いいたいのは、マスコミってそんな偉そうなことを言える立場なんですか、ということ。最近のマスコミのやっていることだって、「情報ゲーム」による「錬金術」にすぎないんじゃないですか?

 ぼくは、マネーゲームのような「虚業」的な投資と、社会の役に立つ「まっとうな」投資を分けるものは、いわゆる「フェア・バリュー」、つまり投資対象の適正な価値を想定しているか否かだと思っている。

 投資家がみな適正な価値を意識して投資していれば、人によって多少の誤差はあっても、その平均によって決まる市場価格も適正価格に収束する。市場価格が適正価格であれば、より生産性の高い企業が資金を調達しやすくなり、より正確に企業を評価する能力を持った投資家に資本が集まるという、資本主義にとって健全な循環が実現する。

 マネーゲームが批判されるのは、適性価格かどうかを無視して、無理矢理価格差を作り出して儲けようとするからだ。投資というのは、短期的には価格差さえあれば儲かるように見える。安いものを高く売り、高いものを安く売ることが儲けの源だ。

 しかし、このような投資からは何も生み出されない。単にプレーヤー同士が金を奪い合うだけのゼロサムゲームであり、ギャンブルと同じだ。だからこそゲームであり錬金術なのだ。

 今のマスコミのやっていることは、これと同じではないだろうか。何が事実であるか、何が適正な評価であるか、彼らに興味はない。興味があるのは、無理矢理評価に落差を作りだして、情報を生産することだけだ。高く評価されている者がいればバッシングし、低く評価されている者がいれば持ち上げる。その一回一回の落差が新たな情報を生み出し、利益を生み出す。まさに情報ゲームによる錬金術だ。

 しかし、このような情報は、長い目で見れば何も生み出さない虚の情報にすぎない。最初から冷静な評価をしている者から見れば情報量ゼロ。そんなマスコミに、偉そうにマネーゲームを批判する資格があるのだろうか。

 このようなマネーゲームや情報ゲームのタチの悪いところは、積極的に興味のない人でも参加しないと損するような気がしてしまうところにある。適正価格より低いと思っていても、その株を持ち続けていれば評価損になるし、不当にバッシングされていると思っていても、その人を擁護すれば自分も批判されるだろう。そういう感情が、結果的にマネーゲームや情報ゲームの存続に加担しているのだ。

 結局、マスコミの情報ゲームに巻き込まれないためには、その情報に興味を持たないことが一番だ。参加すれば錬金術のおこぼれにありつけるなとという、甘い期待をしないことだ。多くの人がそう思うようになれば、少しはマスコミも反省することだろう。

 ぼくは、いつかそういう日が来ることを期待しつつ、自分の RSS リーダーからくだらない情報のフィードを大量に削除しまくったのだった。

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日本列島はステークホルダーみんなの所有物です

…って言えば、保守派のみなさんにも納得していただけたんでないの(^^)。

…にしても、鳩山兄弟は発言が軽いな…。

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再分配は悪

 アメリカの大統領選まであとわずかとなり、両陣営の論戦というか過激な中傷合戦が続いている。ぼくもヒマさえあれば CNN などでチェックしているのだが、特にマケイン陣営の演説を聞いていてつくづく思うのは、アメリカ人ってのは心底「社会主義」や「再分配」が嫌いなんだなあということ。

 最近、マケイン陣営はオバマは社会主義者だというレッテル貼り攻撃をしているのだが、その中では、socialism とか redistribution とかいう言葉は完全に「悪」を表す言葉として使われているのだ。たとえば、

McCain: And that's the problem with Senator Obama's approach to our economy -- he's more interested in controlling wealth than creating it, with redistributing money instead of spreading opportunity.

マケイン: それがオバマ議員の経済に対するアプローチの問題点なのです。彼は富を生み出すことよりも富を規制することに、機会を増やすことよりお金を再分配することに興味があるのです。

McCain: Senator Obama is running to be redistributionist-in- chief. I'm running to be commander-in-chief.

マケイン: 私は最高司令官(=大統領)になるために立候補していますが、オバマ議員は最高再分配官になるために立候補しています。

Palin: And you have to really listen to our opponent's words. You have to hear what he is saying, because he's hiding his real agenda of redistributing your hard-earned money.

ペイリン: みなさんは対立候補の言葉をよくきかなくてはいけません。なぜなら、彼は、あなたが一生懸命稼いだお金を再分配するという真の政治目標を隠しているからです。

Palin: Now is not the time to experiment with socialism.

ペイリン: 今は社会主義の実験をしているときではありません。

Palin: I'm not going to call him a socialist, but as "Joe the Plumber" has suggested -- in fact, he came right out and said it -- it sounds like socialism to him. And he speaks for so many Americans, who are quite concerned now, after hearing, finally, what Barack Obama's true intentions are with his tax and economic plan. And that is to take more from small businesses, more from our families and then redistribute that according to his priorities.

ペイリン: 私はオバマ議員を社会主義者と呼ぶつもりはありませんが、「配管工のジョー」さん(ある番組の中でオバマの税制案について質問して有名になった人物)が指摘したように、ジョーさんには社会主義のように聞こえたことは事実です。ジョーさんは、オバマ議員の税制案や経済政策の真の意図について心配している多くのアメリカ人を代表しています。それは、中小企業やわたしたちの家族からより多くのお金をとって、それを彼の優先順位に従って再分配することなのです。

 もし日本人がこのような演説を聞けば、多くの人が違和感を感じることと思う。「オバマは再分配をしようとしていると。それはわかった。で?」って。つまり、再分配を批判するにしても、その方法や額の多少を問題にしようとするはずだ。

 しかし、アメリカ人にはこの「で?」がないのである。少なくともこの演説が受けるような共和党支持のアメリカ人にとっては、再分配そのものが「悪」なのだ。ここだけは、日本人とアメリカ人の感覚が決定的に違っていることを認めないわけにはいかない。

 ぼくも、アメリカ人が基本的に自由を好み政府の介入を嫌う人たちであるということぐらい、知識としては知っていたが、今回の大統領選の議論を聞いていて、それが改めて感覚的に身にしみた。もちろん、アメリカ人にも(特にインテリには)リベラルな人はたくさんいるが、庶民レベルでの社会主義や再分配に対する感覚的な反発は根強いのである。

(もちろん、日本人にだって、モノづくりが「善」でお金を動かすだけで儲けるのは「悪」だとかなんとか、いろんな固定観念があるわけで、アメリカ人だけがおかしいと言いたいわけではまったくない。為念。)

 オバマ氏が大統領に選ばれることは、アメリカ人の人種に対する意識、宗教に対する意識、社会主義や再分配に対する意識、いろんなものが変わり始めた証として捉えられるのかもしれない。大統領選の結果だけでなく、アメリカがこれからどこに向かおうとしているのかということから、しばらく目が離せそうにない。

追記: しまった、分配と配分を間違えた。ということで訂正しました(^^)。 お恥ずかしい。あと、オバマ氏の大統領としての資質については、必ずしも手放しで認めてるわけではないです。というか、まだよくわからないというのが正直なところ。確かに演説がうまい人だなとは思いますが、政策のすべてに必ずしも賛成なわけではありません。ただ、大統領選挙にとって政策がそれほど決定的かというと、必ずしもそうとも思ってないので(^^)。

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成果主義と雇用流動化は正反対の思想

 ある人のブログを読んでいたら、成果主義が失敗したのに(解雇規制の撤廃による)雇用の流動化が成功するわけない、みたいなことが書いてあって、ちょっとひっかかった。というのは、ぼく的には、成果主義と雇用の流動化は、ほとんど正反対の哲学だと思っているからだ。

 そもそも、「成果主義」とうい言葉の定義自体があいまいで、字義通りの完全な成果主義なんておそらく成立しないと思うのだが、仮に思考実験として、できるだけ文字通りの意味に近い成果主義というのを考えてみよう。

 成果というのは最終的には企業の利益であるから、まず、社員全員の給与の合計が、完全に企業の利益に連動するとしよう。もちろん、生産に必要な生産要素というものは労働だけではないので、生産要素間でどう利益が分配されるかも、労働・資本それぞれの寄与度や、労働市場・資本市場それぞれの需給関係によって決まってくるはずだが、ここでは話をわかりやすくするために、労働分配率は常に固定としてみよう。

 言い換えれば、資本家への配当や税金を除いた利益を、すべて労働者で山分けすると考える(もちろん、通常「利益」からは人件費を除いて考えるが、ここではあえて確信犯的にそうしないのである)。そして労働者間の給与の配分は、各人の貢献度(これも厳密な定義にはいろんな議論があると思うが)に応じて重み付けするとしよう。面倒なので、年金や健康保険などの社会保障費負担などもすべて捨象して考える。

 さて、こういう理想的な「成果主義」の会社がもしあったとしたら、何がおこるだろうか。ちょっと考えればわかるが、社員を解雇する必要がまったくなくなるのである。なぜかというと、このシステムでは、利益が出なければ給与を払う必要はないし、利益が少なければその分給料も少なくできるのだから、企業が社員をかかえておくリスクがほとんどないからだ。だから、企業は、必要のあるなしにかかわらずできるだけたくさん社員を雇って、抱え込んででおこうとするだろう。

 逆に社員側から見ると、いくら長時間真面目に働いても、企業の業績が悪ければまったく給料がもらえないということになる。つまり、資本家が負っている業績リスクと同じものを労働者も負担することになるわけだ。だから、もし企業の業績が悪化して給料が下がったら、労働者はむしろ自分から辞めようとするだろう。

(おそらく、このことがワーキングプアの増加にも関係しているのではないか。)

 ここまで説明すれば気づいた人も多いと思うが、解雇規制の撤廃による雇用の流動化というのは、この「成果主義」のように、企業の利益と給与が連動していないからこそ必要な制度なのである。ここで仮に、この「成果主義」とは逆に、企業の利益にかかわらず、労働者には常に一定の賃金が払われるという制度を「固定賃金主義」と呼んでみよう。

 固定賃金主義の企業では、利益の多少にかかわらず一定の賃金を支払わなくてはならないので、必要最小限の労働者しか雇わないようにするだろう。そして、利益が減ったり増えたりした場合には、給与額で調整することができないのだから、その分労働者の数で調節しなくてはならなくなるだろう。したがって、解雇が必要になってくる。

 逆に社員側から見ると、企業の業績がよかろうが悪かろうが、長時間真面目に働けば、働いた分だけの給料を必ずもらえるということになる。つまり、労働者は、資本家が背負っている業績リスクから切り離されている。したがって、労働者は、いくら企業の業績が悪くても、あまり会社を辞めたがらないということになる。

 と書くと、でも、企業が倒産すればやっぱり社員も損害を受けるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、統計・確率的に考えると、世の中、起業したり倒産したりする会社は数々あれど、世の中全体で必要とされる労働者の量はほぼ一定のはずである。もちろん、社会全体の雇用の数が減る「不景気」という現象は厳然として存在するが、その幅は、個別の会社の業績の変化や倒産の数に比べれば、相対的に狭いはずである。したがってやはり、倒産時のことまで考えても、「固定賃金主義」の方が、労働者は個別企業の業績のリスクから切り離されている、と言えるだろう。

 ここまで論じてきたことを一覧表にすると、こんな感じになる。

成果主義 固定賃金主義
資本家 労働者 資本家 労働者
業績リスク 負う 負う 負う 負わない
解雇・退社 したがらない したがる したがる したがらない


 このように、「成果主義」と「固定賃金主義」は、業績リスクを誰が負うかという点で、ほとんど正反対の思想である。そして、雇用の流動化というのも、「固定賃金主義」のためにこそ必要な制度なのだから、やはり成果主義とは正反対の思想だと思うのだ。

 では、冒頭に書いたブログの著者は、なぜこのような正反対のものを同列に見なしたのだろう。それはおそらく、いわゆる「日本的雇用慣行」からの距離で考えたからだと思われる。だからむしろ、なぜ「日本的雇用慣行」では、「固定賃金主義」と「解雇規制」というたがいに矛盾する思想からくる制度が両立していたかを考える必要があるのだろう。

 この問題をあまり深入りしている余裕はないが、大雑把に言えば、これは業績リスクの相対的に小さい右肩上りの時代のおいてのみ存続可能な制度であり、資本家に対しては付加価値の創造よりも企業自体の存続を目標とすることを強制し、労働者に対しては、必要以上に企業に依存する性質を植えつける、奥村某や佐高某の言う「会社主義」や「社畜」を生み出した制度そのものなのだと思う。そして、そこから脱却するには、「成果主義」と「雇用の流動化」という正反対の方向性がある、と考えるのが正しい歴史観ではないだろうか。

 ぼく自身は、かなり前から何度か言っているように、成果主義には反対で、雇用の流動化には賛成なのだが、その理由を説明しだすと長くなるので今回は割愛する。ただ、少なくとも、企業別組合の害悪を言いながら、雇用の流動化には反対するような立場はおかしいと思うし、むしろ、雇用の流動化こそが労働者の自立につながると考えるべきだと思っている。これも詳細はまた時間のあるときに書きたい。とりあえず読者のみなさんには、「成果主義」と「雇用の流動化」は正反対の思想なのかもしれない、ということをちらっとでも思っていただければ幸いである。

・もっとちゃんと勉強したい方へ

 これも必ずしも完全に勝手な与太を飛ばしているわけではなく、一応、経済学で言うところの「インセンティブとリスク・シェアリングのトレード・オフ」という話を下敷きにしてはいる。要するに、資本家と労働者では効用関数が違い、資本家はリスク愛好的なので期待値基準で動くが、労働者はリスク回避的で期待効用基準で動く。そのため、資本家にはハイリスクハイリターン、労働者はローリスクローリターンという分配が最適解になるというような理論が実際にある。この話は、それをちょっと大げさに誇張してマクロにつなげただけと思ってもらってもいいんじゃないかと思う。 得に、「成果」とインセンティブは違うということ、リスクを考慮すると期待値だけを考慮したときとは結果が異なってくることなどは、知っておいて損はない。

参考文献:

MBAミクロ経済学」小島寛之著(p171-179)。これ以上わかりやすくするのは無理、というほどわかりやすい(^^)。題名の軽薄さに騙されてはなりませぬ。

経済システムの比較制度分析 」青木昌彦、奥野正寛編著(p106-108)。ぱっと見難しそうだが、よく読むとそれほどでもない(^^)。

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偶然の必然化戦法にはコストのシェアで対抗せよ

 タイトルからは想像つきにくいと思うけど、今回書きたいのは、例の「靖国」という映画の上映自粛問題とか、ちょっと前のプリンスホテルと日教組の問題とかについてである(^^)。

 ご存知の人も多いと思うが、どちらの問題も、右翼からの圧力を怖れて、民間企業が特定の客や商品の取り扱い避けたという話。それに対して、言論の自由を守るためにもっとがんばれという意見もあれば、責任は右翼およびその損害を防げない国にあるのであって、一民間企業が甘んじて損害を受ける義務などない、という意見もあるようだ。

 この手の議論を見ていつも思うのは、そもそも、「責任」という概念の定義をはっきりさせないまま、責任があるとかないとか言ってることが多いということである。最近流行の「自己責任」に関する議論もそうで、そもそも「責任」という概念自体が共有できてないから、不毛な議論になってしまう。

責任とはアプリオリに決まっているものではない

 実は、かつて「責任論」というのが流行ったことがあって、その頃にもいろんな人(柄谷某とか奥村某とか)の責任論に目を通したが、正直、どれ一つとして納得のいくものはなかった。

 このような責任論の多くでは、そもそも、責任というのが何か物理法則か何かのようにアプリオリに決まっていて、人間がやるべきことは、どこに責任があるのかを発見することだけであるかのような論法になっている。ぼくに言わせれば、そもそもこの認識が間違い。そうではなく、責任とは、社会が決めるお約束なのである。

 本来なら、ここでぼく自身の「責任論」を展開しておくべきなのだろうが、残念ながらその余裕はない。しかし幸い、ぼくの考えを代弁してくれているような学者の方がいるので、今回はその権威に頼っておくことにする(^^)。 

「責任」とは、「権利」や「義務」と同じように「構成的な概念」であって、石や水のように客観的に存在しているものではない。それは、社会の中で人々がなんらかの(しばしば暗黙の)合意によって組み立てられていくものである。それをどう組み立てていくかは、社会にとっての重要な課題であるが、あらかじめ客観的に所与として存在しているわけではない。

-盛山和夫「リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

社会全体のコストを最小化する

 さて、誰に責任があるかはみんなで決めるものだ、という前提は納得いただいたことにする。問題は、じゃあそれをどうやって決めたらよいかということだが、一つ有力な考え方がある。それは、社会全体のコストを最小化するように決めれば、みんなが得するはずだという考え方である。

 たとえば、ある事件が起こると、世の中全体に 100 万円の損失が発生するとする。この事件を A さんが防げば 1 万円で防げるが、B さんが防げば 10 万円かかるとする。この場合、A さんに事件を防ぐ責任がある、ということにすれば、社会全体の損失が最小化されるはず、というわけだ。

 実は、以前にこんにゃくゼリーについての記事で紹介した「最安価損害回避者」というのも、基本的にはこの線にそった考え方だ。こんにゃくゼリーによる死亡事故を防ぐのに、メーカーがのどにつまらないこんにゃくゼリーを開発するためにかかるコストと、ユーザーがのどにつまらないように注意するコストを比べて、少ない方に責任があるとした方が、社会全体の損失は少なくてすむだろう。

 この考え方のいいところは、一律に製造者責任とか消費者の自己責任とかに決めるよりも、より合理的な責任の割り振り方を柔軟に考えられるというところにある。

問題は不平等である

 ただ、この考え方だと、社会全体のコストは最小化されるかもしれないが、実際にはそのコストは特定の人が負担することになるので、不公平になるのではないか、と思う人もいるだろう。

 たとえば、道に落ちているゴミを誰が拾うか、という問題を考えてみよう。これも、ゴミがあるのは捨てたヤツの責任だとか、いや道を管理している国や自治体の責任だとか、いろんな考え方がありうる。でもおそらく、社会的コストの最小化という観点から考えれば、たまたまそこに通りかかってゴミを見つけた人が拾うのが、最もコストが小さいのではないだろうか。

 ところが、この方式だと、ゴミが落ちていても拾わない人がたくさんいたり、ゴミが落ちている場所が偏っていたりすると、たいへん不公平なことになる。社会全体のコストを減らすために、特定の人だけが損をするということになってしまうからだ。それでは、多くの人はバカバカしくて協力をやめてしまうだろう。

 つまり、この方式がうまく機能するのは、ゴミ拾いコストの期待値が誰でもだいたい同じ場合。言い換えれば、誰でもゴミを見つける確率がほぼ同じで、しかも、見つけた人がみんなマジメに拾うような場合なのである。そのような状況であれば、昔からよく言われような「困ったときはお互い様」という論理が成り立つわけだ。

言論の自由にもコストがかかる

 さて、そろそろぼくが何を言いたいか勘付いた人もいると思うが(^^)、そもそも、「言論の自由」にもコストがかかる。自分と違う意見を聞けばたいていの人は不快だろうし、言論をいろんなメディアで流通させるのにも金がかかるし、大音量の拡声器でわめかれた日にゃ単純にうるさい。

 それでも、多くの人がそういうコスト負担に耐えているのはなぜか。まず、言論の自由を守ることは社会全体の利益になること。さらに、その利益は、一人一人が負担しているコストの合計より大きいはずだということ。そして最後に、そのコストは、特定に人だけが負担しているわけではなく、社会の全員がほぼ平等に負担しているはずだということだ。

 もうおわかりになったと思うが、この負担の平等が成り立たないようにすることこそが、街宣右翼の狙いなのである。つまり、本来は社会全体で平等に負担しているはずの「言論の自由」のためのコストを、特定の人や会社にだけ偏って負担させることによって不公平感を生み出し、コストを回避した方が得だと思わせようとしているわけである。

 国がもっと右翼に対する規制を厳しくすればいいという意見に対する疑問点もここにある。つまり、国が規制するのと、企業が我慢するのとでは、どっちが社会全体のコストが少ないかは微妙だと思うのだ。もともと彼らは、遵法闘争的な発想でやっているわけだから、特定の行為を禁止したらしたで、いくらでも別の嫌がらせの方法を考えてくるであろう。そして、それを防ぐためには禁止的な高コストがかかるかもしれない。

コストをシェアすればみんなが得する

 ところが、問題がコスト負担の不平等にある、というところに着目すれば、もっと簡単な解決法があることがわかる。要するに、コストを改めて社会全体でシェアすればよいのだ。

 これは、先ほどのゴミの例で言えば、国や自治体で清掃をする代わりに、一般市民にゴミを拾ってもらい、それに対して報酬を出すことに相当する。本当に国や自治体で清掃するより一般市民がゴミを拾うほうが低コストなら、この方が清掃費用が安くつくだろう。

 たとえば、「右翼保険」のようなものを作るなんていう手もある。右翼の被害に合いそうなホテルがみんなで保険料を積み立てておいて、実際に右翼の被害にあったホテルがそれを受け取るようにするのだ。もちろん、宿泊客に対しても、そのお金を原資にして宿泊料を値引きしたり、お詫びの品を配ったりすればよい。

 そうすれば、かえって得するから右翼に来て欲しいと思う客も出てくるだろうし、あのホテルにはよく日教組が来て宿泊料が安くなるからという評判になって、かえって客が増えるかもしれない(^^)。もちろん、そんなことになれば、右翼のもくろみは崩れて嫌がらせをすること自体が無意味になるだろう。

 もっとも、民間の保険だと、うちは保険料を払いたくないからやっぱり日教組なんて泊めないよ、というところも出てくるかもしれない。だから、理想的な方法は、そういうコスト負担を国が税金で補償することである。そもそも、言論の自由が守られれば国民全体が得するのだから、税金で補償したって悪いことはあるまい。もちろん、右翼の被害というものを適切に認定することにはいろいろ技術的な問題もあるだろうが、拡声器を使う場合には届出制にするとか、いくらでも方法はあると思う。

 まあ、このへんは半分冗談だが(^^)、重要なことは、言論の自由が守られれば国民全体が得するんだから、問題はコスト負担の不平等だけなんだ、という認識を国民全体で共有することである。そうすれば、闘うことを強制はできなくても、闘う人を励ましても罰は当たらないということはわかるはずだし、勇気がない人をけなす必要はないかもしれないが、勇気のある人には名誉という形の報酬を与えるということだってできるだろう。

 あのような事件について、企業よりも国に責任があると思う人は、少なくとも、国の規制を厳しくすることと、企業が我慢することと、どっちが低コストか、一度冷静に考えてみてほしいと思う。

 もちろんこれは、右翼の問題に限ったことではない。電車内で強姦されそうになっている人を乗客が助けるのと、車掌にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。バスの中で殴られている人を乗客が助けるのと、運転手にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。かたくなに誰の責任かにこだわるより、コストをどうシェアするかを考えたほうが生産的ではないだろうか。

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日本は食糧戦争に勝てるか

 サンプロを見ていたら、これからは資源戦争の時代で、日本ももっと食料自給率を上げないと資源戦争に勝てないというお話をしていたので、日本が手持ちの資源で食料戦争に勝てる可能性を探ってみた。

 まず、国民一人当たりの耕地面積と食料自給率の関係を調べてみた。

クニ 人口ジンコウニン 陸地リクチ面積メンセキ(km2) 耕地コウチ割合ワリアイ(%) 耕地コウチ面積メンセキ(km2) 一人ヒトリたり耕地コウチ面積メンセキ(m2/ニン 食料ショクリョウ自給率ジキュウリツ(%)
オーストラリア 20,434,176 7,617,930 6.15 468,503 22,927 237
カ ナ ダ 33,390,141 9,093,507 4.57 415,573 12,446 145
フランス 64,057,790 640,053 33.46 214,162 3,343 122
ド イ ツ 82,400,996 349,223 33.13 115,698 1,404 84
イタリア 58,147,733 294,020 26.41 77,651 1,335 62
オランダ 16,570,613 33,883 21.96 7,441 449 58
スペイン 40,448,191 499,542 27.18 135,776 3,357 89
スウェーデン 9,031,088 410,934 5.93 24,368 2,698 84
ス イ ス 7,554,661 39,770 9.91 3,941 522 49
エイ  コク 60,776,238 241,590 23.23 56,121 923 70
アメリカ 301,139,947 9,161,923 18.01 1,650,062 5,479 128
日  本 127,433,494 374,744 11.64 43,620 342 40


 人口、陸地面積、耕地割合に関しては、CIA で出してる The World Factbook、食料自給率については、農林水産省の「食料自給率資料室」 からデータを取得した。これらはウェブ上で公開されているので、誰でも検証が可能である。ただし、前者のデータは 2007 年頃のもので、後者のデータは 2003 年のものだが、これは他に資料が見つからなかったためなので勘弁いただきたい。耕地面積と一人当たり耕地面積は、これらのデータから単純に計算したものである。

 このデータを見ただけでも、一人当たり耕地面積と食料自給率にはかなりの相関がありそうに見えるが、実際に横軸に一人当たりの耕地面積、縦軸に食料自給率をとって、グラフにしてみるとこうなる。

arable-area-and-food-self-sufficiency.jpg

 この直線は回帰直線といって、仮にこの両者が正比例の関係にある(つまりグラフ上では直線で表される)と仮定した場合に、実際のデータとの誤差が最も小さくなるような位置と傾きで引かれた直線である。青い点の方は実際の各国のデータなのだが、どの点もかなり回帰直線の近くにある。つまり、各国の食料自給率の差は、かなりの部分耕地面積の差で説明できるということである。

 統計の知識のある人のために書いておくと、この両者の相関係数は 0.95 (有意水準 1% 以下で有意)であり、この回帰式の決定係数(寄与率)は  0.90 である。言い換えれば、 食料自給率の 9 割は一人当たり耕地面積で説明できると言うことだ。

 もっとも、回帰式が原点を通らないところはかなり気になる(耕地面積ゼロでも食料自給率がゼロにならないということだから(^^)。でも、水産資源まで考えれば辻褄合うのかも)。ひょっとすると、グラフの右の方にあるオーストラリアやカナダは、まだまだ生産効率を上げる余地があって、各国が生産効率限界まで生産すると、もっと食料自給率が上がるのかもしれない。たぶん、オーストラリアやカナダを外れ値として除外して直線を当てはめれば、傾きはもっと急になって、原点近くを通るようになるだろう。(あるいは、直線よりも限界生産性が逓減するような曲線を当てはめた方が本当はいいのかもしれない)。

 言うまでもないが、日本は一番左下にある青い点である。この点は回帰直線より下にあるので、日本は確かに耕地面積が狭いことを割り引いても食料自給率が低いということは言えそうである。ただし、逆にこの回帰直線から予想される日本の食料自給率は、約 64% でしかない。

 このままではどう見てもわが国には勝ち目がないので、仮に日本の国土すべてを耕作地にしたらどこまで食料自給率が上げられるかを計算してみた。つまり、一人当たり耕地面積の代わりに、一人当たり陸地面積を横軸にとって、それがこの回帰直線とぶつかる点から食料自給率を予想するわけである。もちろんこれは、山も都市もすべてつぶして農地にするということを意味するが、国家存亡の非常時であるからそんなことはかまっていられない。

クニ 人口ジンコウニン 陸地リクチ面積メンセキ(km2) 一人ヒトリたり陸地リクチ面積メンセキ(m2/ニン 予想ヨソウ食料ショクリョウ自給率ジキュウリツ(%)
オーストラリア 20,434,176 7,617,930 372,803 2,966
カ ナ ダ 33,390,141 9,093,507 272,341 2,184
フランス 64,057,790 640,053 9,992 139
ド イ ツ 82,400,996 349,223 4,238 94
イタリア 58,147,733 294,020 5,056 101
オランダ 16,570,613 33,883 2,045 77
スペイン 40,448,191 499,542 12,350 158
スウェーデン 9,031,088 410,934 45,502 416
ス イ ス 7,554,661 39,770 5,264 102
エイ  コク 60,776,238 241,590 3,975 92
アメリカ 301,139,947 9,161,923 30,424 299
日  本 127,433,494 374,744 2,941 84

 これをグラフにするとこうなる。

self-sufficiency-projected.jpg

 どうだろう。来るべき食料戦争に勝てそうな気になれたであろうか。  


 とまあ、少し思わせぶりに書いてみたが、私の本音は、だから日本は近隣アジア諸国を侵略して領土と資源を増やすべし、というのではもちろんなくて(^^)、そもそもこんな戦争勝てるわけねーだろー! やれ経済大国だのジャパン・アズ・ナンバーワンだのと言われ続けた記憶がいまだに忘れられないのかもしれないが、何を勘違いしとんじゃ、目を覚ませー! ということである(^^)。

 どうも日本人は、自分たちの国がいかに資源の少ない狭い国土にたくさんの人が住んでいる特異な国かということを、しばしば忘れがちであるように思える。こんな国が資源戦争に乗り出そうというのは、思想をどうこう言う前に戦略として間違っており、将棋で言うところの「筋悪」な手そのものではないだろうか。

 思えば、「あの戦争」も、資源のない日本が無理矢理領土を広げて資源を確保しようとしたのが始まりではなかったか。戦後その過ちに気づいた日本人は、資源を増やすことを諦め、貿易によって富を増やすという戦略に転換することによって、奇跡の復活をとげた。なのに日本人は、かつての教訓を忘れ、ふたたび資源戦争に乗り出そうというのだろうか。

 最近、サヨク系の人たちが反グローバリズムのあまりウヨク系の人たちと同じ主張をしだすという傾向が見られるが、思えば、大東亜共栄圏とかなんとかいうのだって、実質はともかく、名目上は反グローバリズムの主張だったわけで、だからこそ多くの国民が騙されたわけであろう。どうもそういうことを思い出して嫌な感じがしてしまうのはぼくだけだろうか。

 これはぼくの勝手な歴史観だが、多分、冷戦が崩壊したのは、米ソがにらみ合ってるのを尻目に、アメリカの核の傘を利用して無駄な軍事費を使わず平和な商売に専念して大儲けした日本を見て、米ソがバカバカしくなってしまった(あくまで比喩的にだが)のが一因じゃないかと思っている(^^)。そういう意味で、グローバリズムこそが日本の生み出した世界に誇るべき思想なのであって、日本はこの思想に賭けるしかないと思う。

 そもそも、資源のある国が資源を囲い込もうとしたり資源戦争だとか言い出したりするのはわかるが、日本のような資源のない国は、あくまでそれをさせないような外交努力をし、グローバリズムこそが世界を平和にするのだと世界に訴え、実際にグローバリズムを通じて世界の人を幸せにする努力をしていくのが本筋であろう。

 仮に、そういう努力も虚しく実際に資源の囲い込みが起こったとしても、そうなれば自然に農産物の価格が上昇するはずだから、国内農業の利益率も上昇して、市場原理によって自然に国内農業生産量も増えるだろう。だからいずれにせよ、先回りして先行投資することにそれほど意味があるとも思えないのだが。

 あるいは逆に、少子化対策などやめて、日本の人口を今の半分ぐらいに減らし、名実ともに小国として暮らす道を選ぶという手もあるかもね。まあ、どれぐらいの日本人がそれに賛成するかよくわかりませんが(^^)。

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運命に対し謙虚であるということ

 山田太一氏の「頑張れば夢かなうは幻想、傲慢」という記事や、小飼弾氏の「自己責任から自己権利へ」という記事が、最近ネット界でちょっとした話題となった。この議論をなんとなく追っかけていて、一つだけ大きな違和感を感じた。それは、彼らの議論には、人間の生がはらむ避けがたい「不確実性」に対する感受性が足りないのではないかということだ。

 山田氏が言うまでもなく、努力すれば必ず成功するというのはウソである。人間の知や能力は有限であるがゆえに、努力はせいぜい成功の確率を高めることしかできない。こう言われると首を傾げる人だって、予測不能の自然災害や、原因不明の重病にかかった人を見れば、それは自己責任だとか本人の努力が足りないせいだとは、決して言わないはずである。

 にもかかわらず、なぜ人はしばしばこのような不確実性の存在を忘れがちなのであろうか 。それはたぶん、人間がしばしば確率的現象と因果律的現象を取り違え、確率の中に勝手に因果律を読み込む癖があるからだと思われる 。

 たとえば、サイコロで6を10回出し続ける確率は約6千万分の1だが、6千万人がサイコロをふれば、一人ぐらいはそういう人がいてもおかしくはない。その結果は、他の6千万人にとってはあくまで6千万分の1だが、出した当人にとってはまるで1分の1であるかのようにも感じられるわけで、その瞬間、自分にはサイコロを操る奇跡の力があると思いこんでも不思議はないだろう。

(サイコロの目だって究極的には決定論で決まるんだろう、という「ラプラスの悪魔」的な考え方をする人には、決定論的でありながら予測不可能な現象の存在を証明した「カオス理論」をご紹介しておく。)

 競馬のような予想ギャンブルをやったことのある人なら、たいてい一度は経験したことがあると思う。新しい予想法を編み出したら、とたんに馬券がズバズバ当たり続けるので、自分はひょっとして競馬の天才かもしれないと有頂天になるのだが、しばらくしたらちっとも当たらなくなって、単なる偶然だったと悟ることが。

 もちろん、こういうのは努力と無関係にほとんど偶然だけで決まる例であるが、そのような場合ですら、当人は努力の産物であると錯覚することはままあるのである。

(ちなみに、競馬は期待値が1以下だから絶対に儲からない、という俗説は必ずしも正しいとは言えない。なぜかというと、競馬のオッズというのは、あくまで人間が予想した馬の人気に過ぎず、実際に馬が勝利する確率ではないからだ。オッズが勝率と一致するというのは、金融工学でいうところの効率的市場仮説に相当する仮説であるが、おそらくこれを立証した人は誰もいないだろう。ということは、他人より予想能力のある人にとっては、競馬で儲かる可能性は否定されていないのである。閑話休題。)

 同じように、人生というものは一回きりであるから、成功者の「成功」のどこまでが努力の産物で、どこまでが単なる幸運の産物であるかを、統計的に厳密に検証することはかなり難しい。したがって、実際に努力して成功した本人は、努力が必然的に生み出した結果であると思い込みやすいし、それに文句をつけることは原理的に難しい。逆に失敗した人についても、他の人はすべてが当人の努力の欠如と思いやすいし、それに対して本人が反論することも難しいのである。

 これは前にも書いたことがあるが、たとえば、長寿世界一でギネスブックにのっていた泉重千代さんは、かなりの愛煙家だったが、もちろんこれは、タバコが身体にいいことを保証しない。 困った同僚とどうつきあうべきかという問題にしてもそうである。人間は話せばわかるというのは、統計的な一般論としては正しい。しかし、個別のケースにおいて、そこに登場する同僚が、例外的な極悪人間でないということが、なぜ簡単に断定できるのだろうか。

 山田太一氏が、成功者の伝記だけでなく、失敗者の伝記も若者に読ませたほうがよいといっているのは、そういう意味である。 それに対する批判として、失敗者の伝記には、必ず何か失敗した原因が書かれているはずだから、「可能性のよき断念」にはつながらないはず、と主張している人がいたが、これこそが人生の不確実性を無視してすべてを決定論でとらえようとする発想なのである。

  実際、世の中には、できる限りの努力をしたにもかかわらず成功できなかった人がたくさんいるはずなのだが、今の世の中では、そういう人たちの経験談が若者の目に触れやすい場所に出てくる機会が少ない。したがって、そういう人たちの経験を知らしめた方が、若者も将来についてバランスのとれた判断ができるはず、というのが山田氏の言いたいことであろう。

 小飼弾氏の主張に違和感を感じたのもそこである。他人の不幸に対して、必ず本人に原因があるはずだという決め付けには、不確実性に対する感受性が欠けている(これは実は、本人より社会や国家が原因だと決め付けている批判者も同様なのであるが)。 もちろん、原因や責任をきっちり究明した上で誰かを批判するのはかまわない。しかし、ちょっと話を聞いたぐらいで、アプリオリに本人に原因を帰するのは、傲慢の謗りを免れないと思うのだ。

 ぼくがこのような不確実性に対する感受性の欠如を感じるのは、実はこの2つの例だけではない。経済一般についての議論でも感じることがある。

 そもそも、努力や能力があれば必ず経済的に成功するのであれば、資本など不要であるとすら言えるかもしれない。金融工学の教えるところによれば、リスクとリターンは比例する。つまり、付加価値の大きい生産をしようとすれば、必然的にリスクをとらなくてはならない。言うまでもなく、リスクというのも不確実性の一種である。

 実は、努力を必要とするようなことは、たいていハイリスクである。 なぜなら、努力というのは基本的に、目先の利益を放棄するかわりに、将来により大きな利益を得ようとする行為だからだ。利益を時間的に先送りすれば、その間には不確実性が入り込むことはほとんど自明である。同じように考えれば、たぶん、目的のはっきりしている応用研究より、目的のわからない基礎研究の方がハイリスクだと思われる。こういう行為が何か「堅実」なことであるように思われているのは、社会がそういう仕組みをつくってリスクヘッジしているからなのであって、行為そのものはハイリスクなのである。

 われわれは、リスクをとらなければ社会全体のパイを大きくすることはできない。これは、成熟社会になればなるほどそうなると思われる。そこで個人はある意味、自分のためだけではなく、社会のためにリスクをとらされているのだ。

 あえて極論を言えば、不確実性のある生産というのは、1回の1の目を出すために、6人でサイコロを振るようなものだと言える。 そう考えれば、因果律的に1の目を出したのは一人だけだったとしても、確率的な意味では6人の共同作業であるとみなすこともできるだろう。

 もちろん、これは偶然性を極端に誇張した例であって、実際には、努力によって成功確率を上げられる部分もある。したがって、大きな付加価値のある生産に成功した人は、社会から一定の敬意を受けてもよい。しかし、先に述べたように、人生において努力が100%で偶然が0%ということがほとんどあり得ないとするなら、社会は、失敗した者に対しても、同じ社会で生きる者としての一定の敬意を払えるはずである。

 ぼくは、収入格差はあってもよいが、セーフティネットやベーシックインカムにはわりと賛成、という立場だが、それは、人間にとって、多少の収入の差よりも、同じ社会に生きる人間として認め合えることの方がはるかに大切だと信じているからだ。

 おそらく、昔の社会では、人生に運不運があるのは当たり前だったろう。人類は、そういう不確実性を少しでも減らし、個人が自分の意思で人生をコントロールできるような社会を目指してきた。その目標は、現代においてある程度が実現されたと言えるし、そのこと自体はよいことだったろう。しかし、その副作用として、人々は、人生のすべてを意志の力でコントロールできると過信するようになり、その結果として、不幸な人々を必要以上に蔑むようになっていないだろうか。昔の社会は、ろくな社会福祉もなく、貧乏な人もたくさんいただろうが、そういう人たちに対する人々の視線は、むしろ現代より優しかったかもしれない。

 そういう意味で、ぼくは経済的な成功者の方々がいくらフェラーリを乗り回そうと女子アナと鍋パーティをやろうとかまわないが、運命に対する謙虚さだけは持ち続けてただきたいと思うのである。

 "There, but for the grace of God, goes Sherlock Holmes."

- The Boscombe Valley Mystery by Arthur Conan Doyle.

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バイオ燃料批判本格化か

 以前、アメリカの ABC で放送したエタノール懐疑論を紹介したことがあったが、バイオ燃料批判もやや本格化してきた模様。

バイオ燃料は世界中で飢餓を増長、国連専門家が警告(CNN)

ジュネーブ大学とソルボンヌ大学で教授を務めるジーグラー氏は25日、国連人権委員会で、食料ではなく農業副産物から燃料を作り出せる技術が確立するまで、バイオ燃料の生産に猶予期間を設けるよう主張。翌26日に開いた記者会見で、「農地をバイオ燃料のために捧げることは、人類に対する犯罪だと言える。一刻も早く、世界中で起こっている飢餓による大量虐殺を阻止しなければならない」と述べた。

食糧をエネルギーに、この転換は正しいのか(東洋経済)

 論者は、かのジェフリー・サックス氏。

 世界の食糧需要の増加、トウモロコシなどの食糧用から燃料用への転換、大きな気候変動という“三つの脅威”がそれぞれ重なり合って、数年前に予想されていた以上に世界の食糧の需給は逼迫し、価格上昇を招いている。

  しかし残念なことに、今までのところ、こうした農業の変化に取り組むため、積極的に指導力を発揮した国はない。むしろ逆に、そうした動きを加速する政策が見られるのだ。たとえばアメリカでは、トウモロコシや大豆を燃料生産に転換させるために巨額の補助金を出しているが、こうした政策は方向が間違っているといわざるをえない。

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