町人たち

 これはまた、辛辣なのか屈折した愛情なのか、びみょーな意見ですねえ(^^)。

 これを見て、星新一さんが書いた「町人たち」っていうショート・ショートを思い出しました。これは要するに、忠臣蔵の時代の町人は、実はあの事件を今風に言えばそれこそ劇場型の事件として楽しんでいたんだ、ということを、星さんらしくクールな筆致でさらっと書いた小説なんだけど。

 星さんはこの着想が気に入ったと見えて、同じようなテーマで普通の時代小説も書いてます。たしか、「殿さまの日」かなんかに収録されてたと思うけど。題名は忘れました。

 実はぼくも、今になってホリエモンに対して感じるのは、「若い」ってことなんですよね(^^)。彼にある種の鋭さがあったのは確かでしょう。それが脆さと紙一重だったとしても。まあ、あんな偽計取引とかを平気でやってしまうのは、どーみてもダメダメなんだけど。

 でも、若くて才能のあるヤツって、たいていそうなんですよね。伝記モノとか読んでも、よくよく考えるとつっこみどころ満載で、一歩間違えばどうなっていたかわからないような人って、結構多いと思うんです。もちろん、伝記モノでは、そこで道を間違えなかったのが、彼の真に偉いところだ、みたいなまとめかたをされるんだけど、ホントにそうなのかなあ(^^)。ぼくは、単に運がよかっただけ、というような人も多かったのではないかと思います。たまたまそこで、ふところが広くてものわかりのよい大人に出会えたから、道を間違えずにすんだ、みたいな(^^)。

 mixi なんかも若い子が多いじゃないですか。そうすると、そういう若者ならではの感受性の鋭敏さみたいなものが、危なっかしく思うと同時に、だからこそすごく可愛かったりするんですよね(^^)。まあ、そんなことを感じること自体が、自分がいかに歳をとったかってことなんだろうけど(^^)。

 きっと糸井さんも、よくよく考えると、自分も昔はただのイケイケだったところもあったよなあ、とか感じるところもあるんじゃないでしょうか。考えすぎだったらごめんなさい<m(__)m>。

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暫定評価

 ホントは、村上ファンドの問題もちゃんと論じたいのですが、とてもそんな時間はないので、現時点でわかった事実に対するぼくの暫定評価だけ書いときます。

 まず、これは前にも部分的に書きましたけど、村上さんの阪神上場という案は、変なイデオロギー的な主張を抜きにしても、純粋にアイデアとしてよくないとぼくは思っています。したがって、これを堀江さんのニッポン放送買収とくらべると、

 村上阪神上場 < 堀江ニッポン放送買収

となります。

 では、村上さんのインサイダー取引を堀江さんの偽計取引を、法的な罪の重さや国策操作云々は無視して、純粋にぼくの倫理観に照らしてどっちがより悪いかと考えると、

 村上インサイダー取引 > 堀江偽計取引 (つまり、堀江さんの方がより悪い)

じゃないかと思っています。理由はいろいろありますけど。

 そういう意味で、最近のメディアの村上さんの扱いは、ちょっと極端すぎないかなあ、と思ってるんですけどね。 (なんか、堀江さんのときよりも議論のレベルが下がってるような気がするんですけど (^^))

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ホリエモンの原点

 モリタクさんが、「ライブドア事件の原点はここにあった!」と題して、なんかすごいこと書いてますね(^^)。

 私自身が東京大学に入学して気づいたのだが、東大生の1割は桁違いに頭がいい。まるで、農耕馬とサラブレッドとの違いである。まさしく彼は、そのサラブレッドに当たる人間だった。

  おそらく、彼の出身地の久留米では「孤高の天才」であり、周囲の人間はみなバカに見えたに違いない。

  現に、つまらぬ質問をするインタビュアーの前では、何か別の仕事をしながら答えていたのだという。能力があまってしまうわけだ。

  だが、あまりにも彼は頭がよすぎた。そのために、彼には友人ができなかった……。

  実は、これこそがホリエモンのすべての原点なのだ。

  心を許せる友人のいないホリエモンを夢中にさせたのが、「時価総額世界一」という目標だった。そして、その目標はいつしか手段と化していく。

 ちょっと会っただけの印象でここまで演繹してしまうのもすごいよね(^^)。

 いや、確かにホリエモンはぼくなんかよりは遥かに頭がいいとは思うけどさ、ヤマガタさんやイナバさんほど頭がいいとも思えないんだけど(^^)。ってことは、ヤマガタさんやイナバさんにも友人がいないのかにゃあ(^^)? まあ、ぼくなんかには天才・秀才達の世界のことはよくわからないからなんとも言えないけど、それだけとも思えないんだけどなあ。。。(^^)

 まあ、モリタクさんはなんだかんだ言ってやさしい人なんでしょうね。おっしゃっていることには納得できないことも多々あるけど(^^)、人間的にチャーミングなので、テレビで拝見していてもつい引き込まれてしまうのです。はい(^^)。

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敵を欺く奴は許せるが、味方を欺く奴は、やっぱり最低だ

 もうコメントすることもあるまいと思っていたライブドア問題ですが、「ライブドアに物申す!」の有識者コメントを読んでいたら、またちょっと言いたいことが出てきたので追加します(^^)。みなさんもウンザリされていると思いますが、どうかご勘弁を(^^)。

 ぼくが今回気になったのは、

 それに対して、「株式分割」「株式交換」「投資事業組合」などいわゆるグレーゾーンの問題はまた別である。松原隆一郎東京大学教授が言うように「資本主義そのものがルールのグレーゾーンを開拓するよう動機づけられている」のであって、法やルールの“想定外”のことを真っ先に(リスクを賭けて) “想定内”にしてしまった言わば先駆者が儲かるというのが資本主義の創造性の源泉の1つである。それが違法なのか倫理違反なのか、逆によい先例を作ったと誉められるのかは事後的にしか判定されず、まずいということになればルールが改定されることになる訳で、事実、株式分割は当局の指導で制限され、また「株券のペーパーレス化」によって株価吊り上げの道具とすることは封じられた。またニッポン放送株の買収の際に問題になった「時間外取引」も法改正で今では難しくなっている(高野孟氏)。

というご意見。

 実は、ぼくもこの主張は半分ぐらいは正しいと思ってるんですが、「株式分割」や「時間外取引」には当てはまっても、やっぱり「投資事業組合」には当てはまらないと思うんですよ。前にも書いたように、「株式分割」と「投資事業組合」の間には、株主に対する情報公開や合意形成の度合いの差があります。同じように、「時間外取引」と「投資事業組合」の間には、敵を欺くか味方を欺くかの差があると思うのです。

 市場経済は競争ですから、競争相手に勝つためには、ルールの範囲内で競争相手を欺く必要があります。たとえば、企業が新しいマーケットに進出しようと思ったとき、こっそり進出しては卑怯だからと言って、ライバル企業に事前に知らせてやるなんて企業はありませんよね。そんなことをすれば、勝てる競争も勝てなくなってしまいますから。フジテレビさんだって、新しい番組の企画を立てるときに、「うちの局では、次のクールにこの時間帯でこういう番組をやる予定ですから、ライバル局のみなさんも心してかかってきなさい」なんていちいち知らせたりしないでしょう(^^)? そういう意味で、「時間外取引」なんかは、野球で言えば「隠し玉」や「二段モーション」みたいなものだと思うんですよ。

 でも、「投資事業組合」を利用した自社株売買の場合、欺かれているのは、競争相手よりもむしろ、本来味方であるはずの自社の既存株主なんですよね。そういう意味で、これは野球で言えば、野球賭博がらみの八百長みたいなもんで、ワザ負けして年俸は減ったけど、その分ヤ○ザからお金貰ったからかえって儲かった、とか言ってるようなもんだと思うんです。八百長も、少なくともプレーだけを見て厳密に判定することは極めて難しいんだけど、だからといって、「うまくやった、好プレーだ」ということには絶対になりませんよね。それは結局、敵ではなく、味方を欺いているからです。

 だから、しつこいようですけど、一口にグレーゾーンといっても、それぞれ性質は微妙に違うのであって、ぼくに言わせれば、このような行為こそ、「ルール上はセーフでも倫理的には絶対アウト」なのです。もっとも、ホリエモン本人に、そういう微妙な差を識別するセンスがなかったらしいので、いまさらこんなことを言うのもちょっと虚しいんですけどね(^^)。

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デイトレについて

 なんか、ライブドア事件以来、デイトレ批判が高まっているそうな。(^^)

 ぼく自身もデイトレーダーには割と批判的だし、自分ではまったくやる気もないんだけど、ただ、奥村さんみたいに(たしか、バフェットも似たようなこと言ってたけど(^^))短期売買のすべてを罪悪視するのはどうかと思う。

 なぜかというと、もし市場に長期投資家しかいなかったら、流動性が低下するので、偶発的な需給の不均衡はかえって増えてしまうはずなのね。だから、そういう需給の不均衡を捉えて、ちょっと安めになったら買い、適正価格に戻ったら売るというような短期投資家が一定数存在することは、株価をかえって安定させるはずなのです。

 ほら、スーパーだって、刺身が売れ残ると安く売ったりするし、その値段を見て、本来なら買う気のなかった消費者が買ったりするでしょう。おかげで、スーパー側は販売量の微妙な変動による損失を最小化できるし、消費者の側も割安で買えて得をする。あれはあれで合理的なんですよね。

(株は「非腐敗財」だからそういうことは起こらないはずだ、と思う人もいるかも知れないけど、長期投資家だって、嫁さんが病気になったり、親族がなくなったりして、予定と違うところで株を売らなきゃならなくなったりすることはあるのです。)

 ただ、これを効率的にやるには、膨大な資金と時間が必要なはずなんです。だって、いろんな銘柄の値動きを観察して、安くなったと見ればとっさに買い、戻ったと見ればとっさに売る、みたいなことしなきゃならないし、自分で買うタイミングを選べるわけではないから、常に余分な資金を確保してチャンスになったら必ず買えるようにしておく必要があるわけですから。

 株式市場でこういう役割を担っているのは、主に、証券会社のディーリング部門なわけですが、彼らの仕事は、莫大な資金力と、その仕事だけに専念できる時間があるからこそ成立しているはずなんですよね。だから、ろくな資産もない一個人がそれと同じ事をして、儲かる確率がどれほどあるか、それが、普通の仕事をして稼ぐ率より高いかどうかは、かなり疑問だと思います。

(言ってみれば、あちこちのスーパーの特売情報とかを調べておいて、走り回って一番安いものだけを買おうとするよりも、その走り回ってる時間の分、パートで働いた方が得するんじゃないの、みたいな話ですよね。ココリコの1ヶ月1万円生活とか見てるといつもそうつっこみたくなるけど(^^)。)

 むしろ、今のデイトレーダーの売買方法の問題点は、単に短期売買をしているということだけでなく、本来需給の不均衡がないところに、無理矢理不均衡を作り出したり、ちょっとの不均衡を無理矢理何倍にも拡大して儲けようとしたりすることだと思うんです。これは完全なゼロサムゲームだから、儲かるのは一部の人だけで、大多数の人は必ず損をする。それが、ギャンブルと呼ばれるゆえんです。

 だから、ぼくの定義で言えば、株価の偶発的な変動を抑える方向に働くのがまっとうな短期売買、かえって広げる方向に働くのがマネーゲームもしくはギャンブル、ということになります。

 ただ、ぼくがデイトレーダーを法律で規制せよとか言う気になれないのは、まっとうな短期売買とマネーゲームを厳密に区別するのが容易でないというだけでなく、彼らは平均すれば損してるはずだと思うからなんですよね。つまり、彼らははびこる一方ではなく、一定のレベルで淘汰されるはずだから、ほっておいても大過ない、という考え方。

 そういう考えからすると、デイトレーダーの跳梁を防ぐ一番の薬は、デイトレーダーに対して統計調査をして、何割が儲かっているか、その期待値はどのぐらいか、を正確に報道することじゃないかしら。今メディアに出てくる人は、一発当てて儲けた人ばっかりなんで、そういう幻想を抱く人も出てくるんでしょう。だから、まず正しい実態を知らしめる。それでもやるという人は、純粋なギャンブラーなのだから、まあ、止めても仕方ないでしょう (^^)。

 ただ、1 年以上デイトレーディングを続けている人、とかで統計をとると、それだけで、ある程度勝ち残った人だけが選抜されてしまうから、統計の取り方もなかなか難しいんだけど (^^)。これは想像だけど、たぶん、ちょっとだけやって大損してすぐやめちゃった人とかの、損の額を合計すると結構大きかったりするんですよ。だから、ちゃんと、トリビアの泉みたいに、統計学者の人と相談してやってください。

 ついでに言えば、ディーラーとかの市場関係者がデイトレーダーを擁護するのは、彼らにとっては、デイトレーダーがいてくれた方がおいしいからかもしれないぞ、ということも言っておいたほうがようでしょうね (^^)。

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金で買えないもの選択理論

 報ステのライブドア問題特集で、誰か「金のある奴ほと金では買えないものがあるとか言いたがる」みたいなこと言ってたけど、これって、ミクロ経済学に出てくる2財の選択理論みたいなので説明できないかなあ (^^)。

 たとえば、「金で買えるもの」の量を x 軸に、「金で買えないもの」の量を y 軸にとって、効用を表す無差別曲線を書くと、貧乏人の予算制約線(じゃなくて、努力制約線とか呼んだ方がいいのかもしれないが (^^))は、傾きが急な右下がりになるので、y 軸、つまり「金で買えないもの」を増やすより x 軸、つまり、「金で買えるもの」を増やした方が、簡単に効用を増やせる。

 でも、金持ちの予算制約線は緩やかな右下がりになるので、逆に、「金で買えるもの」より「金で買えないもの」を増やした方が、簡単に効用を増やせる、ってゆーの、だめ?(^^)

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てのひら返しってそんなに悪い?

 なんか、ひょーろんかやぶんかじんの方々には、ライブドア事件で一般庶民が手のひらを返したのがお気に召さない人が多いみたいですね (^^)。

 でも、それは、自分が言論で食ってる立場だからそう思うだけじゃないかしら。言論で食っている方々は、言論の整合性でもって評価される立場だから、他人の言論の整合性が気になるのもわかります。

 でもたぶん、一般大衆から見れば、ホントのこと言えば、堀江某がいいやつだろうが悪いやつだろうが、たいしたことではないんですよね。だって、国民のほとんどは、堀江某と個人的に付き合ったり、ライブドアという会社と利害関係を持ったりしたわけじゃないんだもの。ライブドアの株がいくら売れたっていったって、国民全体から見ればごく一部だし、ライブドアデパートで物を買ったとか、ライブドアグループのほかのサービスを利用した人とかを全部合わせたって、国民全体から見れば知れた数でしょう。

 それ以外の人は、単に、マスメディアが報じた範囲内で堀江某のことを知ってるに過ぎないんですから。そんな浅い付き合いで、彼のすべてがわかったつもりになったり、彼が何をやっても彼を信じてついて行くみたいに思いこむ人がいたら、むしろその方がよっぽど不健全だと、私なんかは思いますけどね (^^)。

 これが政治家だったらまた別ですよ。政治家は有権者が自分達の代表として送り出すわけですから、どの政治家がよいかという判断には、有権者はもっと責任を持つ必要があるでしょう。でも、堀江某は、どこまで行っても、なぜかメディアによく登場する一会社経営者に過ぎません。

 だいたい、現代の大衆は、マスメディアがものごとのごく一面しか切り取れないことをよく知ってますから、みんなある程度の距離感をもってマスメディアと付き合っているんですよ。今回の手のひら返しも、その証左だと思うんですけどね。そう考えたら、むしろ、めでぃありてらしいが高まったと喜んでもいいんじゃないかと思うんですが。(^^)

 現代の大衆にとって、メディアに露出する人物の批評をすることは、ある種の遊びみたいなもんで、そうせ遊びならノらなきゃつまらないということを彼らはよく知っているのです。だから、メディアが持ち上げているものにはとりあえず乗っかってみる。でも、本当に感情移入している人は、実はそれほどいないんじゃないですかね。(逆に、遊びと本気の区別がつかない奴の方が、よっぽど問題だと思う。たとえば、特定の芸能人が嫌いになると、たまたま街でその人に出会ったときなんかでも、平気で口に出して「バカ」とか言っちゃう奴の方がよっぽど困り者でしょう。お前に何がわかるっていうんだ。)これがもし、友人と付き合うときにもそういう態度だったら、これは問題だと思いますけど、たぶんそれは余計な心配だと思う。

 でも、これを裏返して言えば、ひょーろんかやぶんかじんの方々だって、何かあれば簡単に見放されるということを意味しています。ひょーろんかやぶんかじんの方々は、無意識のうちにそれに気づいているから、そういう態度を嫌うんじゃないかしら (^^)。

 ひょーろんかに限らず、マスメディアの側に属する人は、メディアの責任みたいなことを過大に言いたがる(そのわりに本気で反省して路線転換することはほとんどない(^^))けど、それはある意味、メディアには社会を変える力があると思いたいというメディア関係者の願望の現われであり、不遜な思い上がりに過ぎないのではないか、ということもちょっとは考えた方がよいと思いますよ。(今回、わしメッチャ意地悪やな。(^^))

 もちろん、ぼくだって、堀江某がほんとはどんな奴なのか、なんてことより、今日の夕食のパスタがアルデンテに仕上がらなかったことの方がよっぽど重大問題ですし、ひょーろんかの方々が犯罪でも犯せば、たとえ山形浩生氏であろうと、日垣隆氏であろうと、あっさり見放しますよ。だって、所詮はメディアだけで知っている他人に過ぎないんだもの。ぼくにとって本当に大切な人は、もっと他のところにいます。あなただってそうでしょう?(^^)

(はっきり書いとくけど、ぼくは今後堀江さんみたいな人間がメディアに出てきたら、また同じような調子で応援するだろうし、それが法を犯していたとか、(ぼくの基準で見て)非倫理的な行動をしていたと判明すれば、また同じような調子で非難するでしょう。その行動パターンを変える必要は認めないし、何万回繰り返しても後悔しない自信がありますね。だって、そこにいったい何の不都合がありますか? 逆に、証拠もないうちから偏見に満ち満ちた扱いをするよりよっぽどましでしょう。もちろん、当事者には違う考えがあるでしょうが、別に応援したからと言って当事者の邪魔をするわけでもなんでもないんですからね。現に、彼はプロ野球参入にもニッポン放送買収にも失敗しているんで、ぼくらが応援したからといってなんら事態は変わっていないわけですから。もちろん、そんなところで人を見る目がないと思われたって困ることなんか何もないし(^^)。)

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そもそも、あの MS にしてからが

 いい加減ライブドアネタも飽きているのですが、どうも、ソフト業界の片隅にいたものとしては、「ライブドアのポータルを見ただけで独創性がないことがわかる」みたいな利いた風な意見を聞くとなんとなくカチンとくるので、もう一言だけ (^^)。

 考えても見てくださいよ。そもそも、あの Microsoft にしたって、別にオリジナリティのある企業ではまったくなかったのですよ。Microsoft が躍進するきっかけになった MS-DOS がパソコン用 OS のデファクトになったのは、たまたま IBM-PC の OS として採用されたからであって、技術的にも、CP/M とかのマネだということは、パソコン黎明期から業界にいた者なら誰でも知ってる話です。

 Windows 95が Mac-OS のマネであるのは、最近の人だって知ってますよね。だからと言って、Windows 95 の発売時に、こんな会社が成功するわけないなどと発言していたら、大恥をかいたことでしょう。Microsoft の PowerPoint、Visio、Encarta など主要ソフトの多くも、自社開発ではなく、他社の買収によって取得した資産であることも、ちょっとこの業界のことを知っている人にとっては常識でしょう。

 だからと言って、ライブドアが Microsoft と同じぐらい技術力のある会社だと言いたいわけでもなければ、Microsoft がそれほど素晴らしい会社だと思っているわけでもありません(それどころか、個人的にはかなり批判的です (^^))。ただ、ことはそれほど単純ではない、と言いたいだけです (^^)。失礼しました。

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時価総額を目標にするということについて

 まあ、これはあくまで結果論ですが、ライブドアの「時価総額世界一を目指す」という目標自体が危うさをはらんでいる、ということは言えなくもないと思います。と言っても、「株主だけじゃなくて社会全体に貢献することが大事だ」とか「ステークホルダーは株主だけじゃない」とかいう話ではなくて、仮に、資本市場の役割が、資本の利用効率を最適化することにある、という前提だけに立っても、やはり危ういと言えるというお話です。

 というのも、本当に資本効率を表す指標として相応しいのは、ROA とか ROE であって、時価総額というのは、その将来についての予想を時間について積分し、なおかつ、資本規模について積分した値にすぎないのね。ただ、微分値が大きければ、それを積分した値も大きい、という意味では、間接的に資本効率がいいことを示す指標にならないこともないんだけど、微分値が小さくても、積分区間を大きくすれば積分値は大きくできるので、そういう意味では、資本効率がいいための十分条件には決してならないのです。

 具体的に言うと、単に時価総額を大きくするだけなら、投資家を騙して、やったらお金を集めただけでもできないことはないのね。でも、ROA や ROE は、ちゃんと事業(金融事業も含めて)で収益を上げなくちゃ高くできないのです。そういう意味で、時価総額だけを目標にするのは、危ういといえば危うい (^^)。

 ただ、資本の規模が大きくなれば、ROA や ROE は下がるのが普通なので、ROA や ROE を維持したまま資本の規模を大きくできるのであれば、それはそれでやっぱり偉い、ということは言えるんですね。だから、そう単純ではないんだけど (^^)。

 まあ、知ってる人にとっては、説明するまでもない話なんですけど、こういう状況になると、半可通の大雑把な話が流行るので一応書いてみました。よく知らないけどちゃんと厳密に考えたいという人は、このへんのキーワードから調べていくといいんじゃないでしょうか。

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アメリカでは主婦投資家の活躍を耳にしたことはない。

 「アメリカでは主婦投資家の活躍を耳にしたことはない。」って本気で言ってます(^^)? 耳にしたことなかったら、せめて、インターネットで検索でもしてから書いた方がよかったと思うんですけどね。っていうか、そもそもこの書き方が差別的だとは思わなかったのかねえ、この人は。てきとーなことでも堂々と言えばバレない、と思っているなら、ホリエモンと同レベルだって言われちゃうよ。

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グレーゾーンニ分割論

 いい加減ライブドアネタも飽きてきましたが、あの会社はもともとグレーゾーンでばっかりプレーしてたじゃないか、みたいな言い方がちょっとひっかかるので、そこだけ補足しておきます。

 このグレーゾーンというのは、違法ではないが倫理的には悪に近い領域、という意味ですよね。言い換えれば、法律と倫理という二本の線があって、その間がグレーゾーンであるというイメージ。でも、私は、このような事態を的確に認識するには、線が二本では足りないと思っているのです。

 たとえば、株主利益を基準に考えると、次のような線引きができると思います。

  1. とにかく、株主の不利益になりそうなことは一切してはならない。
  2. 株主の不利益になる可能性のあることをしてもよいが、適切な情報を開示する必要がある。
  3. 株主の不利益になることをしてもよいが、法律に違反してはならない。

 ライブドアについて言えば、同じグレーゾーンと言っても、株式分割や MSCB の発行は1 と2 の間ぐらいで、今回判明した投資事業組合を介した自社株の売買などは、2 と 3 の間ぐらいなんですよね。

 たとえば、板倉雄一郎氏なんかは、本音では 1 以外認めたくないようなんですが、実は、(もちろん、板倉氏も承知の上で言ってるんでしょうが)何が株主の不利益になるかということを客観的に判定して万人が合意に至るということはなかなか難しいんですよね。一見すると、無駄としか思えないような投資が、後で莫大な利益を生み出したなんていう事例は掃いて捨てるほどありますから。

 また逆に、3 だけを基準にしてしまうと、今回のような法の抜け穴をつくような事例は、法が改正されるまで糾弾できないということになりますよね。だから、私としては、この 2 の線にこだわりたいわけなんです。

 食品に例えるなら、1 は、農薬・合成着色料・合成保存料一切なしの自然食品以外はダメ、2 は、農薬・合成着色料・合成保存料などを使ってもよいが、適切に表示すべき、3 は、法律にさえ違反していなければ、何を使ってもよいという考え方に、それぞれ対応している、と言ってもよいかもしれません。

 それで言うと、俺は自然食品以外食べない、という人がいても、個人の信条としてはよいとは思うし、実は、私自身の投資スタイルも、どっちかというとそれに近いのですが、だからと言って、農薬・合成着色料・合成保存料を使った食品を生産している会社はすべて悪だとか、そういう食品を食べている消費者はすべてバカだとか決め付けるのは、ちょっと傲慢すぎるだろう。でも、表示義務がないからと言って、怪しげなものなんでも使い放題という会社は、やっぱりひどい会社と言ってよいのではないか、というのが私の考え方なのです。

 まあ、このたとえだと、いかにも私の考え方が一番中庸でバランスがとれてるみたいに聞こえるので、都合のよすぎる説明かも知れませんが (^^)。でも、線が二本では大雑把過ぎる、という意味は、少しは伝わったのではないでせうか。

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朝生ライブドア事件編

 昨日の朝生は「ホリエモン・ショックと日本」。急遽テーマを差し替えたということで、少しブッキングに無理があったらしく、パネラー登場の時点で「このメンバーで盛り上がるのかな?」と思っていたら、案の定盛り上がりませんでした (^^)。

 中で印象に残ったのは、板倉雄一郎氏。何が制度の問題で、何が企業の問題で、何が投資家の問題なのか、きちんと切り分けて明確に説明せきているのは、ほとんどこの人だけでした(本間氏と永沢氏は、しゃべる機会が少ないだけで、わかっていたのだとは思いますが)。板倉氏のブログはときどき拝見していて、ちょっと意地悪な人なのかという印象があったのですが、昨日拝見した限りでは、極めてまっとうな感覚と知性を持つ立派な方で、この人に対する私の中の評価は大幅アップしました。

 奥村宏氏は、著作をまとめて読ませていただいたこともあるし、一定の評価はしているのですが、残念ながら、ちょっと感覚が古すぎるのではないかと思いました。投資家と投機家の違いを言うのに、「配当目当てで買うのが投資家だ」などと発言されるのは、最近のファイナンス理論を勉強していないとしか思えません。

 投資と投機の違いというのは、けっこう微妙で面白い問題だと思うのですが、司会の田原氏自身が金融に疎くて、例によって、議論が深まりかけるたびに「そういう話はよくわからない」と言って打ち切ってしまうので、まったく盛り上がりませんでしたね。本当は、この点についてもうちょっと啓蒙効果があればよかったんでしょうけど、あれでは多くを期待できませんね。

 ひさびさ登場の管直人氏は、けっこう目だっていたし、さすがに言ってることもそんなにハズしてなかったと思います。ただ、「自民党が逆にライブドアの株価吊り上げに利用された」という主張はどうでしょう。検察も「プロ野球参入もニッポン放送買収もすべて株価吊り上げのためだ」みたいな主張をしていましたが、企業価値に対する実質的な効果を無視して、主観的に株価吊り上げの意図があれば悪だ、というようなことを言い出すと、非常に不毛な議論にしかならないので、やめたほうがよかったと思います。

 受けて立つ自民党側から来たのは平沢勝栄氏だけで、やんわりかわされてしまったので、与野党対決も盛り上がりませんでしたね。武部氏とかを呼べればよかったんでしょうけど、さすがに断られたようですね (^^)。

 ライブドアのサイトはヤフーのまねでオリジナリティがない、という主張は、ニッポン放送騒動のころからあったけど、私は必ずしも賛同しません。私のように、ソフト業界内部に多少はかかわっていた者から見ると、むしろ、この業界には、無意味にオリジナリティを出そうとする人が多くて困ると感じることが多いです。しかも結局、そのオリジナルなところが一番できが悪かったりするんだよね (^^)。

 だいたい、ウェブサイトなんて、基本的な構造はどれも大差なくて、視覚的なデザインで目先を変えているだけであることがほとんど。また、ユーザーにとっても、そのほうがすぐ使い方がわかるので便利な場合が多いのです。

 だから、できのよいデファクトがあれば、素直にマネするというのは、むしろよいセンスだと感じます(これは今でもそう思う)。だからといって、完全にマネしているわけではなくて、細かいところを見れば、(しろーとさんは気づかないかもしれないけど)けっこう独自の工夫もされています。本当は、そういう細かい工夫の方が効果的な場合が多いんですよね。

 まあ、前にもいったように、このような事件があったからといって、ライブドアのやったことがすべて間違いだったわけでもなければ、企業価値がゼロであったはずもないんですよね。ただ、現時点では、ライブドアの真の企業価値はどの程度なのかということは、まったくわかりませんが。

 結局、個人的に一番面白かったのは、須田慎一郎氏とかがしていた、暴力団とのつながりがあるんじゃないかとか、政治に金がながれているんじゃないかとかいう下世話なネタでした。でも、これは朝生本来の議論の魅力ではありませんよね (^^)。

 そんなわけで、あまり夜更かした価値はなかったですねえ。せめて、M2 か太田光でも呼んで、あえて暴論エンターテイメントを演じてもらったりした方がよかったのでは (^^)。

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マスコミのせい?

 堀江氏の件について、小泉さんが、「マスコミだって持ち上げたじゃないか」と言っておりますが、マスコミと小泉さんを比べたら、圧倒的に小泉さんの方が悪いと思いますよ。

 マスコミは、あくまで情報を伝えるのが仕事であって、善悪を勝手にフィルタリングする役ではありません。世の中にこのような人がいるとか、その人を支持するこのようなムーブメントが起こっているとかいうのだって重要な情報であって、それをそのまま伝えることだってマスコミの役割なんですから。

 もちろん、その人が実は悪い奴だったという情報だって伝えられればよいのですが、それはあくまで努力目標であって、義務ではないですよね。むしろ、証拠がない限りは推定無罪で扱うというほうが、報道機関の態度としては正しいでしょう。だから、マスコミに対して言えるのは、せいぜい努力不足という程度のことですよね。

 でも、小泉さんや自民党は、選挙でわざわざ応援したんですから、マスコミとはコミットメントの度合いが違います。党公認にしなかったのは、不幸中の幸いというか、怪我の功名だったかもしれませんが、それでも応援はしたのですからね。少なくとも、堀江さんに投票した有権者に対する一定の責任はあるでしょう。

 だから、悪さの度合いを比較すると、

 堀江氏 >> 自民党・小泉氏 > マスコミ

ぐらいの感じじゃないでしょうか。

 もっとも、それにしたって、具体的な政策に対する責任に比べたらたいした責任じゃないんだから、この件で野党があまりしつこく自民党を追及すると、かえって小泉さんの術中にはまりそうな気がします。だから、軽くイヤミを言う材料ぐらいにとどめておいたほうがいいんじゃないでせうか。追求するなら、あくまで、証券市場の制度不備を放置した責任、ライブドア事件はその結果の一例、というふうに持っていかないと。わからんけどね (^^)。

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ブレない日垣さん

 「ガッキィファイター」2006年1月23日号はこんな見出しでした。

  • 本日ライブドア堀江社長逮捕 この事件で被害者はいたのか
  • 集団ヒステリーの顛末は
  • 検察の手先に成り下がる者たちよ

日垣さんはブレない方ですね (^^)。

 まあ、企業買収も株式分割も時間外取引もすべて悪だという立場の人から見れば、堀江は最初から悪い奴だったということになるし、逆に、儲かれば何をやってもいいんだという人にとっては、堀江さんは依然としてヒーローなのかもしれないけど、ぼくなんかから見ると、今回判明した、こっそり自社株を売買するような手法と、時間外取引なんかとでは、たちの悪さが全然違うんで、評価が変わるのは当然です。

 だから、もし日垣さんのおっしゃるとおり、検察が相手を選んでやっているというのなら、逆に、こういう手法を使っている企業はがんばってすべて摘発していただきたいですね (^^)。

 「この事件で被害者はいたのか」、にもちょっと異論がありますね。株式市場を完全な博打場と見る人にとってはそうかも知れないけど、株価にはフェア・バリューというものがあって、株式市場はそれを評価する場だと思っている人にとっては違うと思うんです。

 ただ、その違いは、株価が常に企業価値を反映するという効率的市場仮説を前提にしては見ええてこないのですね。だから、たとえば PBR=1 とか PER=50 (ただ、こっちの方法だと、資産を切り売りして利益にするインチキさは見えてこない) とかいう仮定をおくことにより、いわば「仮想株価」のようなものを計算し、それを元に、投資家が正しい情報を得ていた場合と、そうでない場合との結果を比較してみることによって、誰がどれだけ得して、誰がどれだけ損したか、仮に計算してみることをお勧めしているわけです。もちろん、それがそのまま実際の被害に一致するわけではないので、その過程で慎重な分析が必要ですけれども。

 まあ、ぼくもちゃんと計算したわけじゃないですけど、たぶん、最大の被害者は、買収された企業の株主も含めた、他ならぬライブドアの株主だったんじゃないでしょうか。それも、正しい情報がすべて公開された上でのことであれば、投資家の自己責任だとも言えるけれども(単なる株式分割とかにはこれが当てはまる)、そうではないわけですから。つまり、ぼくは、堀江さんの言っている、「株主の利益を最大限に考えてやってきた」という言葉にはウソがあると思うし、そこがもっとも責められるべきだと思っているんです。

(まあ、今になってこういうことを言うのはイヤらしいんで、あんまり言いたくなかったんですけど、ぼく自身はライブドア関連会社の株を買ったことは一回もありません。ですから、株主の感情的な意見で言っているわけではありません。為念。)

(インターネットを知らない人が、ウィルスとスパムのどっちがより悪いかわからなくて、「インターネットってなんか怪しいじゃん」みたいな話になってしまうのと同じで、金融のことがわからない人には、すべていっしょくたに怪しげに見えてしまうのもわかりますけど、その違いを意識しながら論じている人もいるのだ、ということぐらいは理解してほしいですね。また、自分が金融のことを知らないという自覚があるのだったら、その違いがわからないのは、ひょっとしたら自分が無知なせいかもしれない、ぐらいの疑いもちょっとは持って欲しいなあ。もっとも、マスコミも、もっとわかりやすく解説すべきだと思いますけどね。)

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報ステオールスターズ

 珍しや、加藤、佐山、堀田の 3 コメンテータが勢ぞろいとは。それだけ大事件だってことなんでしょうねえ。まあでも、こうしてみると、堀江さんは正しいこともたくさん言ってらっしゃいますね。当たり前だけど (^^)。今まで、堀江さん個人にはそれほど関心なかったんだけど、なんか逆に興味出てきたので、著書一冊ぐらい読んでみようかなあ。(<-意地悪)

 関係ないけど、なんで市川さんはあんなに可愛いんだろーなー。お願いですから、そんな瞳で、独身中年の心を惑わさないでくださいっ。眩しすぎますっ。(<-バカ)

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ニヒリズムの境界

 堀江氏と小泉氏を無理矢理結び付けようとする論調に組するわけではないのですが、経営者と政治家には確かに一つの共通点があります。それは、一般大衆の支持によって成功・不成功が左右され、それをまったく無視することはできないという点です。

 民主主義社会の政治家は、一般大衆がときに判断を間違えるということを知っていても、一般大衆を完全に無視することはできません。いくら (主観的には) 正しいことを言っていても、それが有権者に支持されなければ、政治家になることすらできないのですから。

 同じように、上場企業の経営者は、一般投資家がときに企業の評価を間違えるということを知りすぎるほど知っていても、それをまったく無視して経営することはできないのです。

 おそらく多くの政治家には、自分がたいしたことを言っていないのに熱狂的に支持されたり、逆に、正しいことを言っているはずなのにブーイングを浴びたりという経験があるはずです。同じように、多くの経営者にも、たいした業績を上げていないのに株価が急上昇したり、逆に、将来性のある事業を着々とすすめていて本当は何も経営に問題がないにもかかわらず、株価がずる下がりするような経験をしているはずです。

 予想外の得票を得た政治家が、「私にそんなに票が入るのはおかしいので、辞退します。」とは言えないように、予想外に株価が上がった会社の経営者だって、「その株価は間違っています。そんな値段で買わないでください。」とは言えないし、むしろ、その株価を利用して儲けようとしなかったら、株主に対する背任になる可能性すらあります。

 ここで、単に正しい政治や経営をするだけではだめで、「一般大衆に支持されなければいけない」と思うだけならいいのですが、それがいつしか「一般大衆に支持されればなんでもいい」というニヒリズムに変わってゆくというのが、このような仕事が共通に孕む落とし穴であって、それは、政治家や経営者になろうと思ったことすらない私にも、容易に想像できるのです。

 もちろん、その危険を乗り越えるのが彼らの仕事ですから、私はこのようなニヒリズムの境界を越えてしまった者に対して同情はしないけれども、このような事件をきっかけにして、投資家のほうもより慎重に企業価値を評価するようになってくれれば、少しは社会にとって意味があったということになるかもしれません。

追記: この事件についても、たとえば、株価はつねに資産価値とイコールである (PBR= 1 (const)) というような仮定をおいて、ラ社がいくら儲けていたか計算してみるとよいと思う。(ぼくが自分でやってわかりやすく解説してもよいのですが、残念ながらいまそれほどヒマではないのです (^^))。そうすると、どこが本当にインチキなのか、もっとわかりやすく理解できると思う。たぶん、ゼロではないでしょうが (だからこそ擁護できないわけだが)、言われるほど儲かってないと思うんだよね (^^)。しつこいようだが、だからと言って、このような手法を使う経営者を、私は信用しませんが。

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これはダメだね

 鈍い私にも、ライブドアのやったこと、ようやくどういうことかわかってきました。正直、投資事業組合がこんな抜け道に利用できるとは知らなかったですが (^^)、はっきり言って、こんな手法は完全にアウトです。仮に、現在の法的にはグレーだとしても、倫理的・道徳的にまったく擁護できません。堀江氏は、思っていたより、ずっと倫理観のない人物だったようです。いまだに擁護してる人、とっとと撤退した方がいいですよ。必ず恥をかきます。「ずる賢い人に騙されちゃいますよ」の「ずる賢い人」というのは、自分のことだったのですね (^^)。

追記: ホリエモンのブログのコメント欄を読んでいたら、メチャメチャ疲れた。いや、もちろん、堀江さんがまったく無能であるはずがない。少なくともぼくなんかよりははるかに有能なのは間違いないと思いますし (^^)、いい仕事もたくさんしてるでしょう。また、マスコミのコメントも、よくわかってない適当なものが多いのも確かでしょう。株の分割や買収自体は決して悪いことじゃないし、企業価値以上の株価がつくのは半分以上投資家の責任でもあります。でも、この手口はいただけないと思います。

 分割によって株価が上がると言うのは、ファンダメンタルズ的にはまったく根拠がなくて、理論的にはアノマリーに近い現象だから、上がると勝手に思っている投資家のせいだ、と言うこともできるでしょう。でも、買収によってシナジー効果が発生して株価があがるというのは、まったくファンダメンタルズ的に根拠のないことじゃありません。例えていえば、高速道路の用地を買収するのに、公務員が自分の家を買うんだと言って購入するようなもんですよね。

 もちろん、この差益を誰が受け取るべきなのか、みたいな本質論はありうると思うんですよ。高速道路を作って「やった」から地価が上がったんじゃないかとか、買収して「やった」から株価が上がったんじゃないか、だから利益は全部俺によこせ、みたいな (^^)。でも、現在の制度の精神としては、そういう差益は、元の株主と分かち合うことになっているんで、だからこそ TOB みたいな制度もある。いわばそれを搾取しているわけですよね。また仮に、そういう制度に対する異議申し立てのつもりだったとしても、こんなこそこそやっていたんでは、異議申し立てにすらなっていないわけです。

追記: それ以外の分は、実質的に増資して得た資産を切り売り (希薄化) して利益だと言ってるだけの話で、利益が増えた分資産が減ってるはずだから、巨額の利益とか言っても、別に無から有が生まれてるわけじゃないんですよね。もちろん、そういうまぎらわしい取引が、さらに株価の上昇を誘ったりする効果は狙っているんでしょうけど。まあでも、こんなややこしいことよく考えるよなあ。確かにぼくよりははるかに頭がいいです。納得してどうする (^^)。

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仕事が速い日垣さん

 昨日の今日だというのに、0 時ちょっとすぎぐらいで、もうこんなメルマガの記事が来たので驚きました。

  • 本日ライブドアに家宅捜索 証券取引法158条違反とは笑止(1)
    • ~これは「見せしめ」以外の何物でもない~   
  • 本日ライブドアに家宅捜索 証券取引法158条違反とは笑止(2)
    • ~裏も取らずに流したマシコミの責任を問え~   
  • 本日ライブドアに家宅捜索 証券取引法158条違反とは笑止(3)
    • ~家宅捜索で大騒ぎする姿こそ異様だ~

(日垣隆「ガッキィファイター」2006 年1月17 日号より)

証券取引法違反の判例も一通りチェックされたみたいで、相変わらず仕事が速いですねえ。

(当たり前だが、ぼくのような怠け者とは違うのだ (^^))

 たしかに、この場合の風説の流布というのは、かなり微妙な問題のような気がするんだけど、もう一つの、業績の水増しという方はどうなんでしょ。

 まあでも、拘束されなければ、きっとホリエモン本人が (オジャマモンよろしく (^^)) 明日からテレビでまくって反論しまくったりするんだろうから、嫌でもいろんな情報が入ってくるでしょうね (^^)。

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ライブドア強制捜査

 ライブドアの株を大量に持っているはずのフジテレビが、一番喜んで報道しているように見えるのは、気のせい (^_^)? やはり、あれだけ公共性を謡うだけあって、そういう私情に流されることはないわけですね。尊敬し直しました。はい (^^)。

 しかし、NHK の第一報では、株式分割がどうこうと言っていたのに、いつのまにか、株式交換による買収時の風説の流布という話になってますね。これ自体が風説の流布じゃん、なんてことは言わないけど (^^)、かなり混乱してますよね。

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「社長運転手論」について

 「ぼぼ日」の「ダーリンコラム」で、糸井さんが社長を運転手にたとえて会社について論じていますが、岩井本をプッシュしている「ほぼ日」らしく、法人資本主義論寄りのたとえになっているので、これを、株主資本主義の側から見るとどうなるか、という補足をしてみましょう。

 まず、バスを買い取って乗り込んできた人が、まともな判断力のないただのバカみたいに書かれていますが、乗客については平均的な判断力を想定していながら、その人だけはバカに決まっているみたいな書き方をするのは不公平で、彼だって、バスが事故を起こせば大損害だし、自分が死ぬかもしれないわけだから、そのような事態はできるだけ避けようとするに決まっています。したがって、彼が自分で運転すると決め付けているのもおかしくて、もし自分が運転手より運転が下手だと思えば、わざわざそんなことはしないでしょう。

 また、運転手の運転能力は過去の実績で担保されるが、バスを買った人の能力はまったく未知数であるように書かれていますが、そもそも、何の実績もない人に、バスぐらいは買えても、大企業を買うことなどできません。

 もし、会社を買った人が、古きよき時代の王様とか大富豪とかのドラ息子で、なんの努力もせずに受け継いだ金を使っているだけなら、そういうこともあるかもしれませんが、現代において大金を動かしている人は、ほとんどが資金運用のプロです(数少ないドラ息子の生き残りだって、自分で運用している人などまれで、ヘッジファンドのようなプロに運用させている例がほとんどでしょう)。現に、堀江氏にしろ村上氏にしろ三木谷氏にしろ、大富豪の息子などではなく、自らの実績によって大金を動かせるだけの信用を身に着けてきた人たちで、現代においては、大金を動かせるということ自体が、ある種のクレディビリティを表している、と考えるべきでしょう。

 つまり、運転手が運転のプロなら、バスを丸ごと買うような人は、運転手に後ろから指図するプロなのです。もちろん、運転手があまりに下手糞だと思ったら、クビにして別の運転手を雇うかもしれないし、これなら自分の方がマシだと思えば、自分で運転をしてしまうかもしれませんが、そういう判断を含めて判断のプロなのです。もちろん、その判断が間違うことだってあるでしょう。しかし、それは運転手の運転についてだって言えることです。

 さらに忘れて欲しくないのは、バス自体が無傷だからといって、そのバスがこれまで無事に走ってきたとは限らないということです。そもそも株主資本主義がこれだけ注目をあびたのは、過去において、バス自体さえ無事ならバスの中も外もどうなってもよいと考えるような運転手がたくさんいて、排気ガスを撒き散らしたり通行人を平気でひき殺したり、さらには、佐高さん (が嫌いなら奥村宏さんでもよいが) とかがよく言っていたように、乗客イジメみたいなことまでしてきた、という事実があったからだったはずです。

 だからこそ、バスの外の利害を代表する人が運転手に指図する必要がある、というのが、コーポレートガバナンスということの意味だったわけでしょう。そして、前にも書きましたが、コーポレートガバナンスが株の持ち合いなどによりないがしろにされてきたことによる害をどうやって防ぐか、という制度的なアイデアは、岩井本の中にはまったく書かれていないのです。(この本には、それ以外にも疑問点がたくさんあるというのも、前に書きました。)

 「感じ」を大事にしたいという糸井氏の発言について、決め付けるような言い方でたいへん申し訳ないですけど、ひょっとして、氏の「感じ」の源泉になっているのは「よい会社」だけだったりしませんか? 現にうまくいっている会社にとって、コーポレートガバナンスがさして重要に思えないのは当然なのであって、もっと、世の中にゴマンとある「ひどい会社」のこともイメージすべきではないでしょうか? (このへんに、糸井氏と自分との経歴の差を感じてしまうのは、ヒガミでしょうか(^^)?)

 たとえば、ちょっと「ヒドイ」会社なら、自分が心血を注いでやって、絶対成功すると思っていた仕事が、何もわかっていない上司や社長によって打ち切られてしまう、なんてことは珍しくないですよね。あるいは、人事異動で、自分の望まない部署や上司の下に配属されてしまうなんてことは日常茶飯事ですよね。そのときに、社員である自分がその命令を受け入れなければならない理由は、最終的には、社長が会社の金を運用している側で、その金で自分の労働時間を買われているということに尽きるんじゃないんですか? それなのに、なぜ、「仕事は担当している社員のもので、上司や経営者のものではない」みたいな「仕事社員主義」的な主張をする人がいないんでしょうか。

 単に金を持っているだけで、能力のないヤツに会社を買われてしまう危険を言うなら、単に金を持っているというだけで、能力もないのに勝手に会社を作ってオーナー社長になってしまう身の程知らずはもっとたくさんいる、ということも言わなければ不公平でしょう。株式会社を作るための資金的なハードルは、上場企業を買収するための資金的ハードルよりずっと低い、ということもお忘れなく。(そういう会社で働いていて、上場してくれたら、もっともののわかった経営者がきて、給料もよくなるかも、と思っている人だってけっこういると思いますよ。)

 結局、どこの世界でも、就くべきでない人がポジションについたり、誤った判断をしたりということは一定確率で起こるし、それがまったくなくなることもないでしょう。ただ、どうしたらそういうエラーによる被害を最小限に食い止められるか、ということが、システムを設計する側の問題だと思うのですよね。そういう意味で、法人資本主義が株主資本主義に勝っているとは、私にはどうしても思えません。

 ぼくがつくづく不思議に思うのは、仕事を切られそうになった会社員だって、「お願いです、続けさせてください!」程度のことは言えるのに、なぜ、買収されそうになった経営者の方々は、「この会社を私以上にうまく経営できる者はいません。どうか私に任せてください!」ぐらいのことも言えず、「お前みたいな部外者に口出される言われはねえ!」みたいな子供みたいな反応しかできないのか、ということです。それで資本家を説得できてこそ、プロの経営者というものじゃないんですか。でなけりゃ、結局自分だって金の力だけが頼りだってことじゃないですか。違います?

 ちなみに、ぼくはよく理屈っぽいと言われますが、それはむしろ、自分の直感を重視して、どんなに理屈に合わない直感にでも無理矢理理屈をつけようとするからなのであって、自分では自分は直感派だと思っています(^^)。生意気なことばっか書いてすみません(^^)。

 あと、感情論でないことを示す傍証として付記しておくと、ぼくは野球も好きですけど、純粋に番組の好みだけで言えば、全放送局の中でもフジテレビの番組が最も好きだと言っても過言ではありません。これは、今でもそうです。

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公共性にもいろいろある

 世論の動向を見て日和っていると思われるのもなんなので、私がなぜ LF 問題ではどちらかというとライブドア寄りの立場をとったのに、阪神上場問題については中立的な立場をとっている理由を補足しておきます。

 そもそも、どちらの問題においても、単純に市場原理に任せられない理由として、「公共性」という言葉がキーワードになっていまよね。簡単に言えば、私は、放送界と野球界では公共性のあり方が違うので、公共性を担保するため方法も違うと思っているということです。

 放送界の場合、公共性が重視される主な理由は、地上波のチャンネル数が有限かつ少数だということにあります。そのため、各チャンネルの使用権を独占している放送局は、そのチャンネルが特定の個人・企業・政治団体などのために使われないようにする必要があるわけです。

 けれども、「放送と通信の融合」が本格的に実現して、チャンネル数の制約がなくなってしまえば、個別の放送局の公共性にはばらつきがあっても、システム全体として公共性を担保することができるだろうと思うのです。それが、放送界については、市場的な解決策が有効であろうと考えている理由です。

 一方、野球界の公共性というのは、放送界のそれとは違って、主に外部効果の大きさに起因しています。詳細は前に一度書いたことがあるので、物好きな人は探してみてほしいのですが、私は、野球界の公共性を制度的に担保するためには、野球界全体での利益分配方法からはじまってかなりドラスティックな改革が必要ではないかと考えており、単に個別の球団を市場化するだけではたいした効果がないし、弊害も多いだろうと考えているのです。

 たとえば、仮に株をファンに分けるにしても、必ずしも上場する必要はなくて、地元の住民限定で私募するみたいなことをすれば、地域密着にも役立つだろうし、さらに、地方自治体や地元の商店街の業者さんなんかに優先的に持ってもらえば、球団と地域の利害を一体化させる(外部効果を内部化する)のに役立つかもしれない。今現在のことはともかく、将来的には、そういう方向性の方が理想的ではないかと思っています。

 ついでに言えば、一般論ではなく個別論としも、フジテレビという会社(だけではないけど)が、自分で言うほど公共性を重んじている会社だとはとうてい思えなかった、というのも私がライブドア寄りに立った理由の一つではあります。

 私は、もしメディアにとっての公共性ということを本当に厳しく追及するのであれば、放送局は番組制作会社とも出版社ともレコード会社とも版権管理会社とも資本関係を持たずに、単に放送時間を切り売りするというメディアの役割に徹しなければおかしいと思うんですね。

 現在のように、放送局が映画会社や出版社と組んで「XX 製作委員会」などというものを作り、製作した映画をニュース番組の枠内で宣伝するなどというのは、それこそ公共メディアの私物化以外の何者でもないんじゃないですか。

 ただ、私はそういう問題点も、将来的には多チャンネル化や市場化によって解決されうると思っているので、そういう個別論にはあまりこだわらず、制度的な原理原則を重視する立場に立ったわけです。

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機能、文化、制度

 「メディア論の中で語られるべき「放送と通信の融合」」という記事が毎日インタラクティブに掲載されているのですが、少なからず違和感がありますね。

 この記事の後半はジャーナリズム論になっていて、放送と通信は、機能的には融合しているが、(ジャーナリズムとしての)文化が異なるので、無理に融合させるべきではない、みたいな論法になっているんですが、この論法には、機能と文化の間にある「制度」という大事な要素が欠けていると思うのです。

 そもそも、LF 問題と言うのは、放送と通信は、機能的には融合できるのに、制度的な障壁があるために、実際には融合が難しくなっている、という問題だったはずで、「融合論者」が主張しているのは、その制度的な障壁をなくそう、というだけのことです。その結果、実際に文化がどのように融合するかは、文化の自律的な進化の流れにまかせればよいのです。

 つまり、「融合論者」が文化を無理矢理融合しょうとしているというよりも、むしろ、「反対論者」の方が、現在の制度を維持することによって、文化を無理矢理分離したままにしようとしていると言うべきです。もちろん、この両者は、あえて制度的に分離しておくべきなのだ、という立場もありうるとは思いますが、少なくとも、この著者はその立場ではないはずです。

 現在のジャーナリズムの文化が、放送と通信で絶対的に異なっているかのように書いているのもおかしくて、放送や出版の世界にもイエロージャーナリズムはあるし、インターネットの世界にも十分に質の高いジャーナリズムは存在します。また、インターネットの世界でも、発言者の責任を明確にするシステムや、「有害」なコンテンツを管理するシステムは十分実現可能だし、現実にさまざまな形で導入されつつあります。したがって、「正統派」のジャーナリズム文化をインターネットの世界に持ち込むことだって十分に可能であり、現にそれを実践している方々も少なくありません。

 この記事の最後には、「 機能的に融合していても文化的に融合していない状況では、文化的な融合を生み出すだけの何らかの必然性が生じてくるのを待った方が良いようにも思える。 放送と通信は、無理に融合させようとしなくても、ある日、気が付いたら融合していたということになっているように思えてならない。 」とか書いてあるんだけど、現在の制度は、その自然な融合の機会すら奪っているのであって、だからその障壁をなくしましょう、というのが「融合論者」の言っていることだと思うんだけど、この人は結局何が言いたいのか、今ひとつよくわからないと思うのは私だけでしょうか。

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ITCH

 ITCH で終わる英単語は、bitch のほかにも、ditch、glitch、hitch、itch、pitch、stitch、switch、twitch、witch などがありますね。珍しいところだと、fitch (毛長鼬)、flitch (豚の脇腹肉) なんてのも。bitch 以外は別にヤバくなさそうですね(^^)。

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有言実行

 ふと思い立って、10 年ぐらい前に読んだ、立花隆氏の「「知」のソフトウェア」を読み直してみたのですが (この本、ずいぶん熱心に読んだらしく、付箋が何十枚もはさんでありました。日垣隆氏に言わせると、こんなにたくさん付箋をはさんではいけないのだそうです(^^))、やっぱり、すごくいいこと書いてあるんですよね。たとえば、

「人は自分が信じたいことはたやすく信じてしまうものである。信じたいことなら、未確認情報でも、つい真実だと思い込んでしまう。逆に、信じたくないことなら、なんとかしてその情報が真実でない証拠をさがそうとする。誰でもそうした偏見から百パーセント逃れることは難しい。自分が信じたいことに好都合な未確認情報を得たときこそウラ取りを忘れるな、と常日頃から自分にいいきかせておくくらいしかその予防法はない。」

「この手法の記事においては、ほとんどすべての情報が、人のコメントの中にある。コメントに盛られた情報の真偽のほどは、発言者にゲタがあずけられ、筆者自身の知ったことではないこととされる。少なくとも、そういう発言があったこと自体は事実だが、発言内容が事実かどうかには、筆者は責任を持てないという形式を取る。要するにそこにあるのは、ヴァーバルな(ことばの上だけの)事実だけで、ほんとうの事実かどうかはわからないというわけだ。

 ジャーナリズムの本来のあり方は、やはり、ファクトのそのものの追求にあるはずである。その立場からは、この手法は明らかにずるい逃げであり、退廃である。 」

 これ読んでから、あらためて、「メディアソシオ・ポリティックス」を読み直してみると、どうしても首をかしげたくなってしまうのですがねえ。ホリエモンを上げるか落とすかみたいな低次元の話じゃなくて、ジャーナリズムの質の問題として。

 そう言えば、この本には、こんなことも書いてありました。

「何によらず、誰かが何かを論じているとき、果たしてその人がそのことを論じるに十分な知識と能力を持っている人かどうか、吟味してみる必要がある。」

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ところで

 ライブドアの発行した MSCB の金利についてはいまだに訂正していない、ということは、この部分は「真偽不明のガセネタ」ではない、ということですよね。これ、ぼくだけじゃなく、 公認会計士 の磯崎さんをはじめ、いろんな人が疑問を呈しているのに、なんの説明もないって、ちょっと変じゃないでしょうか。

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緊張感の効用

 asahi.com さんに「企業とは何か」という記事が出てて、株の持ち合い復活を正当化するようなことが書いてあるんだけど、これって違うと思うんですよねえ。

 前にも書いたけど、そもそも、会社を株主の「もの」ということにしたからといって、他のステークホルダーの利益が害されるとは限らないし、逆に、持ち合いを認めれば、ステークホルダーの利益が守られるという保証もなにもないと思うんですよ。

 だいたい、単に株主の力を弱め、他のステークホルダーの力を強めたいだけなんだったら、別に持ち合いを認めなくったって、法的な制限を加えるとか、他にいくらでも方法があるはずです。

 さらに言えば、この記事は、日本の株式市場は株価が低い -> 買収のリスクが大きい -> 企業防衛が必要、みたいなロジックになってるけど、逆だと思うんですよね。

 むしろ、買収のリスクがないからこそ、健全な株価形成がされにくくなっているんであって、割安になったらいつ買収があるかわからないとなったら、一般株主も簡単に株を手放せなくなるので、投機的な動きが減って、健全な株価形成が促進されると思うんです。そうなれば、買収のリスクは逆に減るはずなんですよね。

 しつこいようだけど、あんまり、誰の「もの」とかいう言葉にこだわらないで、いろんなステークホルダーの利益がバランスよく反映されるには、どういうシステムがよいか、というふうに考えた方がいいと思うんですけどねえ。

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岩井本への疑問・2

 岩井本に対するもう一つの疑問は、「企業文化」というものに対する考え方で、岩井氏は、まるで、企業はとにかく個性的であればあるほどよい、と言っているような感じがするんですね。

 たとえば、デルなんかがやっているオープン・アーキテクト化についても、「オープン・アーキテクト化は、他の会社との差異性を作り出すための単なる手段でしかない」とか言って、要するに、オープン・アーキテクト化をさまざまな差別化の手段の one of them としか見なしていないんですが、これはいくらなんでもバランスを欠いた見方なんじゃないですかねえ。

 この論法って、ポモ全盛時代の文化相対主義とちょっと似てて、ありとあらゆる文化や個性を無条件で肯定するのがいいことだ、みたいな主張でしょう? でも、世の中には、無駄に個性的ということだってあるんであって、どんな個性も、なんらかの普遍性に裏打ちされていなければ価値はないはずなんですよ。文化だって、ある程度多人数の集団が、ある程度の長期にわたって共有しているからこそ、なんらかの普遍性があるはずだ、と言えるわけで、なんの普遍性もない単なる差異に価値があるわけではありません。

 岩井本には、「利益は差異からしか生まれない」みたいなポモ的なスローガンが頻出するんだけど、本当にそうでしょうか? 著者がこの言葉をどの程度厳密に使っているかわかりませんが、仮に、まったく同一の条件でまったく同じ商品を作る生産者しか存在しない世界を想定したとしても、それで利益がゼロになるわけではないですよね。まあ、こういうのも、生産者と消費者の間の差異によって生み出された利益だ、とかなんとか言われちゃうのかもしれないけど(^^)、そんなのは屁理屈であって、企業文化の問題とは関係ないですよね。

 むしろ、「競争力は差異からしか生まれない」というのであれば、まだわかるんだけど、これにしたって、ひっくり返して「差異があるところに競争力あり」とは断じて言えなくて、実際には、その差異にどれだけ価値があるかが問われるわけじゃないですか。

 「組織特殊的な関係資産」の話にしても、「特殊的」であればあるほどいい、というわけではないでしょう? 組織の特殊な部分が競争力になるのは確かなんだけど、その特殊性にイノベーションとしての価値があればあるほど、他の企業にも速やかに取り入れられらていくので、やがて当たり前のことになっていったりするわけじゃないですか。

 つまり、個性と普遍性というのは、必ずしも完全に対立するものではなくて、長い目みれば、進化論的ダイナミズムの中で一つに収斂されていく可能性があるし、多様性と言っても、あくまで、そういう淘汰の中で構成される生態系の一部としての多様性なわけで、ニッチ企業だけで社会が成立するわけではないはずです。

(社会ダーヴィニズムとかと勘違いされないように言っておくと、必ずしも集団としてでなくて、個人レベルでも淘汰ってあるわけです。たとえば、個人のクセとか習慣だって、長い目で見れば、なんの意味もないものは淘汰されて、その人にとって意味のあるクセや習慣だけが残る、というような過程があるはずです。そういう過程を経て残ったものこそが、真の「個性」であって、まったくランダムなものは個性とすら呼べないわけです。)

 さらに、そういう組織特殊的な資産を特殊であり続けさせることが、社会全体の利益につなるがるか、という本質的な疑問を突きつけている人も最近ではいるわけですが、岩井本には、そういうマクロな視点もないわけで、そういう意味でも、「組織特殊的な関係資産」をそんなに無条件に賞賛するわけにはいかないと思います。

 まあ、いろいろ悪口を書きましたけど、労働集約的な産業の比率が高まると、資本の効率ばかりを最優先にできなくなる、という基本認識はさすがに正しいと思うんです。ただ、それを「法人実在説的な会社」の擁護に直結させるのはおかしいのではないか、というのが私の疑問です。

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編集合戦

 誰でも編集に参加できるユニークな百科事典 Wikipedia の「ライブドア」の項目が、案の定保護されてしまったようです。Wikipedia では、意見が分かれるような問題に関連する項目は、すぐ「編集合戦」になって保護されてしまうようで、「南京大虐殺論争」とか「慰安婦」とかの項目も、ずいぶん長いこと保護されたままです(^^)。

 ただ、保護されている項目の「ノート」とかを読んでみると結構面白くて、どこが論点になっているのかがわかって勉強にもなります。Wikipedia には、「中立的な観点」という方針があるのですが、これが、ギリギリのところで不毛な議論に拡散しないための、ある種の抑制装置として機能しているようなのです。

 初めてこの百科事典のしくみについて知ったときには、正直そんなんで本当にうまくいくのか、ちょっと懐疑的だったのですが、案外うまく設計されていなあと思い始めている今日この頃です。こういうものも、ある種「ジャーナリズムの未来像」の参考になるかもしれません。

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愛は勝つか?

 日経 BP に、ガ島通信の藤代裕之氏による連載が登場。LF 問題が「愛」と「金」の二元論化している、という切り口で攻めています。

 前にも言ったけど、「愛」とか「金」とか言う言葉は、ある種多義的で余計な含意がありすぎるので、もともと、冷静な議論には相応しくないと思うんですよね。それを、あえてそういう言葉を使うのは、ある種の「ワード・ポリティックス」でしかないと思うのです。

 愛というものが、そんなに無条件に正当化できるものではないのは、言うまでもないことでしょう。主観的には愛でも相手から見れば迷惑、という例は、ストーカーをはじめ数限りなくありますし、当事者同士は喜んでいても第三者から見れば迷惑、という例も、某国の某時代の「愛国心」とか、バブル以前のある種の企業の「愛社心」とか、バカっぷるの人目をはばからないイチャイチャぶりとか、それこそ枚挙にいとまがありません。

 そもそも、愛があればすべてが解決するのであれば、誰も苦労しないのであって、むしろ、愛あるがゆえに、人はときとして闘わねばならないんで、だからこそ人は悩むわけでしょ(なんか芸風とちゃうぞ(^^))。

 堀江氏にラジオに対する愛がないとか言うけど、ぼくなんかは、ないからいいんじゃないの? とか思ってしまうんですけどね(^^)。当事者というのは、どうしても愛とか情とかに流されがちなものなので、だからこそ、愛に溺れない現実的・客観的な立場からものを言う人が必要なんじゃないの?

 当事者がどんなにラジオをふかくふか~く愛していたとしても、社会全体からラジオ業界に割けるリソースというのは有限なわけで、その配分がどの程度がふさわしいか、というのを決めるのが、資本市場の役割の一つなわけですから、その判断がラジオが好きな人にとって心地よいものばかりであるはずがないのです。(そういう意味では、「本当の愛」とか、堀江氏の「みんながハッピー」というのも、ある種の「ワードポリティックス」だと思いますけどね。)

 だいたい、「愛」とか言い出すと、結局、既得権のあるもの勝ちになっちゃうんですよ(だから、保守派と言われがちなフジサンケイグループ側がこれを主張するのは、ある種納得できるところもある)。だって、何が「本当の愛」かなんて、客観的に判定する方法なんてないんですから。俺はこれを愛しているんだから奪うな、って言えばなんでも通っちゃうってことでしょ。

 ぼくには逆に、「愛」がある人たちが、なんで俺たちは「愛」があるんだぞ、ってイバってばかりいるのかがよくわからないんですけどね。自分の「愛」を社会に認めてもらうのにだって、誠意と努力が必要なんじゃないかと思うんですけど。

 もちろん逆に、改革派を気取る人たちにも、改革と言うのはある種残酷なものなのだ、という意識を持ってほしいですね。自分のやっていることは、本当に人の「愛」を奪ってまでやる価値のあることなのかと。まあ、こういう言い方もある種偽善的なので、あまり好きではないんですが。

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内と外の境界線

 ぼくが、ニッポン放送とかフジテレビの関係者の方々を見ていて、どーしても感覚的に違和感を感じてしまうのは、彼らの内と外との線引きの仕方なんですよね。つまり、社内と社外、グループ内とグループ外、業界内と業界外、などの線引き意識が強すぎるように感じるんです。

 もっとも、ぼくはサラリーマンのころから、最終的な目的は、社会に貢献することであって、そのためにたまたま特定の会社に所属しているにすぎない、みたいな意識でいましたし、けじめがいい加減といわれる XX 型でもありますので(^^)、これはぼくの方が特殊なのかもしれませんが。

 でも、会社内にいたって、何もわかってない上司が配属されてきたり、本当に愛情込めてやっていた仕事を打ち切られたりすることはあるわけでしょう? それが、会社の上司とか経営者の命令だと納得できて、株主だと納得できないということに、それほど合理的な理由があるのでしょうか。 ぼくには、それはある種の文化の問題のようにしか思えないのですが。そして、そういう文化が、本当に今後の社会にふさわしいものであるかを、疑問に感じています。

 もちろん、本当に堀江氏が無能であるとか、間違った経営をしているということに対して具体的に批判するというのはわかるのです。それは、相手が上司だろうが経営者だろうが株主だろうが、おおいにやればいいと思うんですよ。でも、それ以前に、単に身内でないから、という理由で拒否反応を示している例が多すぎるような気がするんですよね。

 あえて極論を言えば、仮に堀江氏に経営を任せてみて、もし本当に彼が無能だったら、ニッポン放送の株価は暴落するはずですから、そこでフジテレビがあらためて TOB を仕掛ける、ということだってできるはずですし(そうすれば、今回の TOB 価格より安く子会社化することができるかもしれない)、そこでもし堀江氏が往生際悪く抵抗したなら、そのころにはいい加減ライブドアの株価も下がっているはずですから、ライブドア本体に TOB を仕掛けて、堀江氏を経営陣から追い出すことだってできるでしょう(^^)。(そこまで余裕が持てないのは、逆にフジ側が堀江氏の手腕を怖れている証拠ではないか、と勘ぐりたくもなります。)

 抵抗している方々には、いったい誰のために抵抗しているのか、というはっきりした意識があるんでしょうかねえ。それが、単に「身内」のためでしかなく、そのためには社会や第三者に損害を与えてもよい、というような意識であるなら、第三者の共感を得られなくても仕方ないと思うんですけどね。

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分化の効用

 企業価値というのは、株主価値とイコールではないのではないか、という議論がありましたが、これについても、ぼくはあんまりややこしく考えるべきではないのではないかと思っています。

 そもそも、なぜ複雑なシステムをサブシステムに分けて考えるかと言えば、変数が減るとか、いろんな意味でシステムが単純になるので、最適化とかがしやすくなるからなんですよね。

 だから、資本の効率は資本市場で評価し、商品の価値は商品市場で評価し、労働者に対する待遇は労働市場で評価する、という形にすっきり分化させて、なおかつシステム全体がうまく動くのが理想だと思うのです。言い換えれば、株主に貢献している企業は、必ず、消費者にも労働者にも貢献しているはずだ、と言えるようなシステムを作るのが本筋だと思うんですよね。

 もちろん、これはある種の理想論で、実際には市場の失敗とかがあって、そんなにうまくはいかないから、運営する人がいろいろと配慮する必要はあるんだけど、少なくとも、システムを設計する側では、それを目指すべきだと思うんです。

 モラルとルールという観点で考えても、社会が複雑になればなるほど、本当の意味で何が正しいかを判断するのは難しくなりますが、単にルールを決めてそれに従わせるだけならわりと簡単なわけです。したがって、実際にはモラルがまったく不要になるということはありえないんだけれど、にもかかわらず、システム設計側の目標としては、あまりモラルに頼らず、ルールだけで運営できるようなシステムを目指すべきだと思うんですね。

 かつては、資本家が労働者を「搾取」したり、企業が消費者を犠牲にしたりというような現象が当たり前のように起こっていたので、そのようなシステムが本当に(近似的にも)成立するのかと疑う人が少なくないのも、わからないではないのですが、現在の市民社会の成熟度とか、社会科学の水準とかを考えれば、決して非現実的な目標ではないと思うんですね。

 余談ですが、前に紹介した、山崎正和さんの「柔らかい個人主義の誕生」のすごいところは、単に生産と消費は実は同じようなものだ、というような価値相対化をするだけにとどまらず、本来同じようなものが、なぜ二つに分化したのか、という理由までが射程に入っているところです。だからこそ、生産と消費のバランスのとれた社会とは何か、ということが、単なる懐古趣味にならずに議論できるわけです。

 この、変化と見えるものを分化とみなす、という発想法は、山崎さんの癖みたいで、他にもいろんなところに出てくるので、そう思って読み直してみると面白いかもしれません。

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多義性と文脈

 前に、戦後民主主義の人権とか個人尊重という概念は、あくまで制度と個人との関係において使うべきもので、個人がどう生きるべきか、ということとは別だ、みたいなことを書いたことがありますが、「会社は誰のものか論争」についても、それと同じようなことを感じますね。

 もともと、多くの言葉には多義性があり、解釈する方が文脈によって正しい意味を選択する必要があります。それが「所有」とか「…のもの」とかになると、日常用語としても使われる言葉なので、ついそういうある種象徴的な解釈をしがちなんだろうとは思いますが、たとえば、「おまえは俺の女」みたいな演歌の歌詞があったとしても、それが法律的な所有権という意味だとは誰も思わないですよね。

(余談ですが、IT 用語にも、日常用語から転用されたものが多いので、誤読をさけるために、あえてカタカナで訳すことがあります。たとえば、オブジェクト指向の object を「もの」とか訳したら、なにがなんだかわからなくなる怖れがありますよね(^^)。IT 関係の翻訳にカタカナが多いのは、そういう理由もあるのです(^^)。)

 株主資本主義者が、「会社は株主のものだ」というときの「ものだ」にだって、株主が会社に対してある種の権利を持つ、という以上の意味はないんですよね。しかも、その「ある種の権利」にしたって、他の物質的なものに対する権利と同じである必要もないし、さらに言えば、すべての会社について同じである必要もありません。

 現に、会社の形態としては、有限会社のように株式を発行しない形態もあれば、株式を発行しても公開しない形態、公開しても上場しない形態など、さまざまな形態が可能であり、株主がもつ権利だって、それぞれ違っているわけです。

 さらに言えば、「権利」という言葉には、権利を与えられる人だけが一方的に得するようなイメージを持つ人もいるかも知れませんが、これも現実の半面でしかありません。たとえば、奴隷解放で奴隷に人権を与えたのは、奴隷だけのためだったのか? 女性に男性と平等な権利を与えたのは、女性だけのためだったのか? などと考えれば、すぐわかることです。

 だから、「会社は誰のものか」という問題は、上場している会社については、株主にどのような権利を与えれば、社会全体がハッピーになるか、というだけの問題なんで、わざわざ多義的に解釈しても議論を混乱させるだけだと思うんですね。

 むしろ、言葉の多義性っていうのは、このように、同じ文脈に違う解釈を持ち込んで話を混乱させるのではなく、文脈自体を多様化するという方向に活用すべきなんで、たとえば、法律的には会社は株主のものかも知れないけど、現実的にしきっているのは俺だ、と思う経営者や社員がいたっていいわけだし、いや、実際に支えているのは商品を買っている私たちでしょう、と思う消費者がいたっていいわけで、そういうふうに多義的に物事を解釈すれば、社会的な秩序を維持しつつ、精神世界を豊かにすることもできるだろうと思うのです。

(たしか、「星の王子様」に、星は自分のものだと思って一生懸命数えている人とか出てきましたけど、ああいうのだって、現実に所有権を行使しようとすればいろいろ問題があるでしょうが、そう思っているだけなら、別になんの害もないわけですし、逆に、主人公みたいに、星が自分に微笑みかけている、と思うのももちろん自由なわけです(^^)。)

 だいたい、若い人っていうのは、ものごとを教条的・理念的に考えがちなもので、子供に「信号無視しちゃだめだよ」って言われたりするのは珍しいことじゃないと思うんですよね。そこで、「お前は人の気持ちがわからない」みたいにムキになって言い返すのが、本当にオトナの態度なんでしょうかねえ。ぼくにはあんまりそうは思えないんですけどね。

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The Economist にホリエモン登場

 いつのまにか、The Economistホリエモンが写真入ででかでかと登場していたんですね。さわりの部分だけ訳すと、こんな感じかなあ。

 (経済産業省の) 役人たちは、改革者の旗を振っているが、味方からの誤爆を浴びせられる中で、せっかくの進展をだいなしにしてしまう危険がある。というのは、経産省は、企業買収の規制に「ライツ・プラン」、すなわち、ポイズンピルを導入しようとしているからだ。

(中略)

 ポイズンピルの導入により、経営者たちは、買収騒動の中でも、あらゆるオファーを冷静に比較検討することができ、その結果、最も買収価格の高い買収者を惹きつけることにより、株主に貢献することができる、と経産省の役人たちは主張する。

 しかし、この主張はインチキだ。確かに、株主にやさしいと言われる米英でさえ、経営者が変化に対する障壁を張り巡らせて、経営権市場を機能不全にしてしまうこともできるが、それが明らかに株主に損害を与えた事例も少なくないないのである。このような規制が投資家の利益になるかどうかは、少なくとも議論の余地があると思うが、仮に、総合的に見れば利益になるとしても、それは、米英には、長年の間に確立された、株主の利益を守るための法律や制度があるからなのだ。たとえば、米英の取締役会には、株主に対する明確な信認義務 (fiduciary duty) がある。

 日本にはそういう法律や制度がなく、それが根付くまでには、時間と絶え間ない圧力が必要だ。つまり、経産省の提案は、アングロサクソン型の企業統治の悪いところばかりをマネようとしているようなものなのだ。日本の経営者は、この悪いところはすぐとり入れるだろうが、良いところの方を取り入れるまでには、地道で時間のかかる努力が必要だ。

 この信認義務というのは、確か、岩井本でも強調していたところですから、読み直してみるのも面白いかも。

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土足

 たとえ話というのは、諸刃の剣で、確かに、複雑な事象をわかりやすく説明するのにも役立つんだけど、その分、細部の厳密さはどうしても失われるので、誤解のもとにもなります。また、最近は、そういうミスリーディングを意図的にやろうとする、ある種頭のいい人も多いですよね。

 「他人の家に土足で」という例えにしても、そもそも誰の家なのか、という認識自体が、株主資本主義派と法人(従業員)資本主義派とでは違っているわけですから、その点についての議論をさけて通っていながら、こういうたとえ話を出してくるのはかなり「ずるい」やり方だと思います。

 そもそも、株主資本主義派から見れば、前の家主が寛容で、鍵をかけずに近所の子供とかに勝手に使わせていた家を買い取って、鍵をかけようとしたら、勝手に鍵をかけるなって怒られた、みたいな状況なんですから。そういう立場からすれば、勝手に土足で入っているのはそっちだろ、とも言えるわけですからね。

 もちろん、今までずっとうまくやってきたわけだし、よその家だってみんなそうしてるし、みたいな主張がありえることはわかりますよ。でも、そういう主張だって、株主資本主義派から見れば、「赤信号、みんなでわたれば怖くない」みたいな主張にしか思えない、ということもわかってほしいですね。

 また、実際には株主資本主義と法人資本主義のどちらが正しいか、ということについて議論があるのもわかります。でも、少なくとも、その対立をこの新しい家主さんだけが引き受けるのはおかしな話で、本来なら、金融ビックバンや会社法の「現代化」を進めた人たちが引き受けるべきことのはずですからね。

 さらに言えば、やっぱり法人資本主義が正しいのだ、と主張する人は、奥村さんなんかがさんざん指摘している法人資本主義の弊害と言われるものをどうやったら防げるのか、ということにも解答を示さねばならないはずですよ。

 この家主が、本来なら容赦なく鍵をかければすむだけのところを、子供の気持ちを配慮して、「おねがいだから協力してくれないか」みたいなことを言ったら、逆に態度が豹変した、みたいに非難されたりするのをみてると、なんかかわいそうになってきますね。株主からお金をあずかっていながら、意思決定の場からは特定の株主を排除しようと画策することだって、十分「ずるい」と言えるんですからね。

 だから、あんまりそういう感情論にばかり走らないで、もっと本質的な議論をしてほしいですね。

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よい敵対、わるい友好

 ニッポン放送問題についてのいろんな人の意見を見ていると、「敵対的」という言葉に対する反応が、世代によって大きく違うような気がしますね。そういう意味では、ぼくは両者の中間的な世代で、どちらの気持ちもある程度わかるような気がするので、ちょっと書いてみましょう。

 結論から言うと、最終的には、敵対的が正しいか友好的が正しいかというのは、一律には決めるのではなく、どちらが世の中全体を幸せにする(言い換えれば、社会的厚生を向上させる)かで決めるべきだと思うのです。

 日本語の「敵対」ということばには、ネガティブなコノテーションがあるので、そこで感情的に反発する人もいるんだと思うんですが、実際には、「敵対的」であることが、社会をよくすることもあるし、「友好的」であることが、社会を悪くすることもある。

 たとえば、市場におけるフェアな競争というのは、基本的には、敵対的であるがゆえに、社会全体の厚生の向上に結びつくと言われているし、スポーツの試合なんかだって、本気で戦ってくれなきゃつまらない。逆に、株の持ち合い、談合、カルテル、コネ、八百長などは、みんな、一部の人たちが友好的であることが、社会全体の不利益に結びついているわけです。

 あるいは、他にもっと安くて質のよいサービスを提供してくれる人がいるにもかかわらず、友人だからといって優先的に仕事を回したりするみたいなことも、美談みたいに言われがちですが、これだって、社会全体の生産性からみればマイナスなんですよね。もちろん、気心が知れているから、能力だけ見れば劣っていても、総合的に見ればむしろ効率がいい(一種の「取引費用」の問題)、みたいな場合はまた別ですが。

 あるいは、「話し合いで決める」というのも、言葉だけ聞くといいことのように聞こえがちですが、現実社会では、一見話し合いという形はとっているけれども、実は、当事者同士の力関係で決まっている、みたいなことが結構多くないですか? 「君がそうしたいんだったら、好きにすればいいんじゃないですか。こちらには強制する権利はないし。にこっ」みたいなやつね(^^)。

 そう考えると、明示的に対価を提示して、これだけ払うから協力してくれませんか、みたいな方が、そういう暗黙の権力みたいなものが生まれないし、よりよい条件に最適化される機会も多いし、むしろフェアだとも言えるわけです。もちろん、敵対的は敵対的なんだから、当事者同士に仲良くしろと言ってもしょうがないのですが、第三者までが当事者的な視点で判断する必要はないと思うのですね。

 ただ、ここで問題なのは、どのようなシステムが「社会的な厚生の向上」に結びつくかというのは、実際にはそう簡単には決められない、ということなんです。そうすると、前にも書いた絶対的な正義か合意の正義かという話になって、民主主義的な方法論で行くなら、どのシステムがより「社会的な厚生の向上」に結びつくかという合意を事前に形成し、社会的な意思決定する必要があります。

 この意思決定は、法律のレベルでやるのは簡単なのですが、実際には、どのような社会システムも、個人がそれに適応的な倫理観を持って協力的に行動しないと機能しないわけですから、制度と個々人の倫理観との間には、常にギャップが生じることは避けられません。(ほんとは、法律を決めた時点で、その理念的な意味とか、その制度に適応的な倫理観とはどんなものか、というのをもっと広めるべきだったとは思うんですけどね(^^)。)

 上に上げた「害のある友好」の例だって、今でこそ多くの人がその害を認めるようになっていますが、かつてはそれほど悪いことと思われていなかったわけで、上の世代の人には、そういう行動様式が倫理として身体に染み付いているのかもしれません。逆に、今の社会科学の水準だと、そういう行動様式の弊害が、ある程度理論的に分析できてしまうのですが、若い世代はそういうものを学校で習っているし、宮台真司さんも言うように、今の若い子は、感覚的にも流動性の高い人間関係に慣れているので、「敵対的」であることを上の世代ほどには倫理的な悪だととは感じていないのかもしれません。

 そうなると、これは単にどちらがよりよいシステムか、ということを超えた、倫理観同士の対立になってしまうわけです。もちろん、こういう対立は、その倫理観が前提とするシステムのどちらが優れているかを、理性的に分析することによって解消すべきだとは思うんだけど、それでみんなが納得するなら、そもそも合意の正義か絶対的な正義かなんて悩む必要もないわけですから、最終的には、実際にやってみて、どちらがより世の中をよくするかで決めるしかないところもあると思うんですね。

 そういう意味で、新撰組みたいな人たちが、自分の信念に殉じるのだって、必ずしも悪いことだとは言えなくて、一生懸命説得してもしょうがない、という現実も厳然としてあると思うのです。だから、世の中を変えようとする人たちは、そういう抵抗に正面からぶつかって、実際によりよい世の中を作って見せるしかない。それができないのだったら、しょせんはその程度の信念だったというしかないと思うのです。

(以前に、「歴史を動かすのは悪人だ」と書いたのは、そういう意味もあるんですが、やっぱり説明しずらかったなあ(^^)。) 

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あれれっ

 日経 BP に、あの立花隆氏が「メディア ソシオ-ポリティクス」という連載を開始したようで、いきなりライブドアねたをやっています。このネタもいい加減飽きてきたので、個人的にはもう書くのはやめようかと思っていたのですが、ちょっと気になるところがあるので、そこだけ指摘しておきます。

 第5回の中で、

一つは堀江社長に用立てた800億円の資金の金利(それがどのような約定になっているか確かなところはわからないが、相当な高金利と推定してまちがいないだろう)である。

書いてあるところですが、この MSCB は金利ゼロということはいろんな人が指摘していることで、EDINET にライブドアが提出した臨時報告書(トレイコード:00509SLP)にも、

(iv)  利率

本社債には利息を付さない。

と書いてあるはずなのですが、ここで立花氏が書いているのは、この「利率」のことではないのでしょうか。あるいは、ぼくの知らない新情報があるとか、公にはしていない裏の利率みたいなものがあるとかいうことなのか、よくわかりません。(間違ってたら教えてください(^^))

 さらに、リーマンは MSCB のカラ売りで絶対儲かる、という耳タコの話が書いてあるのですが、これがそう単純な話じゃない、というのは、このブログでも何度か指摘したので省略。

 しかし、立花氏ほどの人が、なんでこんな言い古された話を今頃出してきたのか、正直よくわかりませんね。

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あれっ

 Oracle が PeopleSoft に敵対的買収を仕掛けたのは、そんな前だったっけか。いや、そうじゃなくて、あれは失敗だったってことなんだろうな。専門家が言うんだから、間違いない(^^)。

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ロングインタビュー

 ついに「丸激トークオンデマンド」に堀江さんご本人が登場。90分もしゃべっていました。たぶん、ぼくがこれまで見た堀江インタビューの中では、一番内容が濃かったと思います。

 このブログでも、(かなり遠まわしにではありましたが) ニッポン放送問題は何度かネタにしたんですが、実は、ぼくは堀江さんの本を読んだこともなけりゃ、まともなサーベイもしたことなくて、ほとんど想像だけで書いてたんですよね。だから、堀江さんをダシにして、自分の意見を書いてたようなところもあったんだけど、このインタビューを見たら、意外とポイントはずしてないじゃん、と思いました。なんて書くと自慢してるみたいだけど、単にほっとしただけです(^^)。

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職業に貴賎はないって、教わらなかった?

 どうして、「M&A 業者」というのを、あからさまに蔑みの目で見る人が多いのか、今ひとつ理解できないんですけど、合理的な理由がないんだったら、これも一種の職業差別ですよねえ(^^)。

 前にも書いたけど、M&A って、社会的になんら価値を生み出さない虚業でもないし、ただ金さえあれば誰にでもできるような、濡れ手に粟の大儲けでもないですよ。市場が過小評価している企業の隠された価値を発見するとか、企業同士を組み合わせることによって新たな価値を生み出すとかするのだって、いろんな「技術」が必要だし、それは、基本的には社会全体を豊かにする行為でもあるのです。

 それでなかったら、金のある奴はみな M&A しまくってるはずですし、やった奴はみな成功して大儲けしてるはずですが、別にアメリカだってそんなことにはなってないですよね。資本があっても M&A をしない会社はいくらでもありますし、やって失敗する会社もたくさんある。

 かつてアメリカで M&A が流行ったのは、企業価値を評価する方法論が未発達で、市場で過小評価されている企業が多かったことや、独占に対する規制が甘かったので、買収により容易に独占利益が得られたりしたことが理由にあると言われています(ちなみに、コングロマリットというのは、水平統合でも垂直統合でもない、異業種同士が集まった企業集団を指す言葉で、トラストみたいな独占指向の企業集団とは区別して使われます。これも勘違いしている人がいるようですが)。

 でもそれは、他の商売だって同じ事であって、ダイエーの中内さんだって、松下幸之助さんだって、紀伊国屋文左衛門さんだって、みんな今から見れば当たり前みたいなことで大儲けしているわけで、そういう先駆者が大儲けするのを見て、みんながマネする。みんながマネすると、だんだんうまみがなくなって当たり前になる。という過程の繰り返しによって、ビジネスの世界は進歩してきたわけですから。

 それでも、こういう仕事に価値がないと言い張るのであれば、隠れた天然資源を発見するような仕事とか、骨董品の中から掘り出し物を見つけたり、中古品をリニューアルして売り出したりという仕事には、どうして価値があると言えるのか。あるいは、そういう人は、お百姓さんは自分でお米を育ててるから偉いけど、漁師さんは自分で勝手に育った魚をとってるだけだからダメだ、みたいなことを言うのか。そんなこと言うなら、お米だって、実際に育ててるのは太陽であって、お百姓さんは太陽さんが一生懸命育てたお米を横取りしているだけだ、みたいなことだって言えるじゃないか(^^)。

 もちろん、世の中には、何の価値も生み出さない M&A とか、かえって、世の中に害を与える M&A とかもあると思いますよ。でも、そんなのはどんな職業に対しても言えることなんだから、 M&A 業者という職業自体に対する評価とは分けて考えないとね(^^)。

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おーっと、実は楽天が!?

 「ライブドア騒動の陰で潜行するメディア進出、楽天がフジサンケイに接近」などという記事が、日経ビジネスに。

  • 楽天も放送メディアとの合併を考えていた
  • 楽天は村上ファンドからニッポン放送株のオファーを受けていた
  • 楽天はフジサンケイグループとの提携を図っていた
  • 楽天はニッポン放送のホワイトナイトになることを検討していた

などという、ちょっと耳寄りな情報が書かれておりますぞ(^^)。

 

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西垣氏のホリエモン評

 ビデオニュース・ドットコムの「丸激・トークオンデマンド」で、情報学者の西垣通氏をゲストにライブドアとメディアの問題をやってました。

 ぼくは「デジタル・ナルシス」のころからの西垣ファンなので、西垣氏のホリエモン評を聞きたいだけのために、有料会員になって見てみましたが(^^)、さすがに面白かったです。500 円ぐらいの価値は十分あったと思いますね。宮台さんも、昔とくらべると、ずいぶん考え方が変わってきていて、それも面白かったです。

 「メディアの公共性」とかいう議論も、みんな最低限このぐらいのレベルでやってほしいなあ、と思うのは、ゼイタクでしょうか(^^)。

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法人資本主義論

 ニッポン放送問題について、岩井克人さんの法人資本主義論を論拠にした批判が、意外と見当たらないのがちょっと不思議ですよね。

 岩井さんの議論は、やれハゲタカがどうのアメリカニズムがどうのアングロサクソンがどうのというムード的 (あるいは、あえて文化相対主義的と言ってもいいですが) な批判よりは、ずっと論理的なので、その点では評価するのですが、でも、よくよく読むと、論理的におかしな点がいろいろあるような気がするんですよね。

 まあ、ぼくは素人なんで、ぼくのほうが勘違いしている可能性もおおありなんですけど(^^)、株主資本主義派の専門家の人は、あの「会社はこれからどうなるのか」についてどう思っているのでしょうねえ。一般向けなので無視しているのか、反論する価値もないと思っているのか、それとも、本当に反論できないのか、ちょっと興味あります(^^)。

 身の程知らずかも知れないけど、そのうち時間の余裕のあるときに、反論を書いてみようかなあ(^^)。

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曖昧な用語によるすれ違い論争

 日枝氏と堀江氏の「テレビがインターネットを飲み込む」いや「インターネットがテレビを飲み込む」という論争?も、彼らが「テレビ」や「インターネット」という用語でいったい何をいわんとしているのか、いまいちはっきりしないですよね。

 ぼくの勝手な想像だと、日枝氏は、「テレビ」=「テレビ番組」、「インターネット」=「ホームページ」というふうに、コンテンツのカテゴリで考えているのではないでしょうか。一方、堀江氏の方は、「インターネット」=「TCP/IP」、「テレビ」=「地上波」という、メディアあるいは通信方式のカテゴリで考えているような気がします。

 だとすれば、どっちが正しいなどと争うことには意味がなく、ある意味どっちも正しいですよね。コンテンツの面では、インターネットにおいても、現在の HTML というテキストや静止画中心のものから、より動画を駆使したものに発展していくだろうし、通信方式の面では、地上波においてもデジタル化や IP 化が進行していくでしょう。

 「テレビ番組」を放送できるのは地上波だけではないし、インターネットで提供できるコンテンツは「ホームページ」だけではない、という当たり前の認識があれば、こんなのはそもそも議論にすらならないはずですが、お二人ともどこまで計算して発言しているのか、ある意味興味深いです。わざとわかりやすい対立軸を作っているような気がしないでもないのですが(^^)。

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マスメディアが地上波である必然性は?

 マスメディアがなくなるかなくならないかと言えば、ぼくもなくならないに決まっていると思うのですが(^^)、ぼくが最も疑問なのは、それが現在の(アナログ)地上波である必然性があるのか、ということなんですよね。

 つまり、アナログ地上波という放送方法が、本質的にインターネット放送より低コストの放送方法であるならば、アナログ地上波だけがマスメディアとして扱われてもおかしくないと思うのです。けれども、(きちんと計算したことがないので断言はできませんが) IP マルチキャストとかだったら、インフラさえ普及すれば、地上波放送より低コストで送信できるん可能性もあるんじゃないでしょうか。(VOD とかは、もともとアナログ地上波では不可能なので、比較しても仕方がない)。そしてもし、コストや利便性の面で対等以上であれば、別に地上波以外のメディアがマスメディアになってもいいはずだと思うんですよね。

 現在の地上波の一番の問題点は、双方向性とかなんとかいう以前に、チャンネルの割り当てが固定で、新規参入ができないというところにあると思うのです。したがって、活字メディアなどでは、単に読者が多いものがマスメディアになるだけで、何がマスメディアかは情報の受信側が決めているのですが、映像メディアでは、それを送信側が決めています。また、メディアとコンテンツの力関係でも、基本的にメディアの方が強くなるし、メディアの方がある種の寡占利益を得ることになってしまいます。

 これまでは、こういう制約は、技術的制約によるものなので、仕方のないことでした。だから、放送法や電波法によって公共性・公益性を担保するしかなかったのでしょう。しかし、IP 技術の利用により、その技術的制約をなくせるのだとしたら、ここで、より自由なメディアのあり方というのを考え直してもよいはずです。だから、なにも地上波という手段を否定しているわけでもなくて、地上波のまま IP 化するという手だってあるでしょう。

 もちろん、インターネット放送が普及した後も、純粋に企業努力によって、地上波放送局がマスメディアの地位を守り続ける、という可能性も十分ありますし、何も放送局に恨みがあるわけではないのですから(^^)、それはいっこうにかまいません。ただ、ほっておいてもよいコンテンツが集まってくる現在の状況に比べれば、優秀なコンテンツ製作者をつなぎとめるにも努力が必要になってくるでしょうし、広告代理店との関係も変わってくるでしょう。もちろん、それが本来の対等な競争ということなのですが。

 重要なのは、マスメディアだからみんなが見る、という関係を、みんなが見るものがマスメディアなんだ、という関係に変えていくことだと思うのです。それにより、マスメディア自体も低コスト化するだろうし、マスメディア以外のミディアムメディアやオタクメディアも豊かになり、みんながよりハッピーになる (^^) のではないでしょうか。そして、その手段として最もふさわしいのがインターネットなのではないかと思うんですが、いかがでしょう。

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鶏と卵

 「放送の未来像:ライブドア・堀江社長から挑戦状…、融合は進むのか?」という毎日インタラクティブの記事は、放送と通信の融合の問題について、要領よくまとめたいい記事だと思います。

(なんで Asahi.com にはこういう切り口からの記事があんまりないんでしょうねえ。本誌の方には出てるのかな?)

 ただ、この高コストの問題は、鶏と卵のようなもので、高コストだから普及しないという面と、普及しないから高コストになるという両面があるはずですよね。

 もちろん、そういうリスクがあるのに、現在成立しているビジネスモデルを、わざわざ自ら崩していくようなことをしたくない、という放送局側の判断もよくわかるんです。

 だからぼくは、インターネットテレビが普及するにつれて、徐々に視聴率が取れる番組が少なくなってきて、それまでのビジネスモデルが成立しなくなり、仕方なくコンテンツ製作者中心のビジネスモデルに移行していく、という形になるのかなあ、と想像していました。

 でも、堀江さんは、どうせいつかそういう時代が来るのなら、それを時代に半歩先んじてやれば、先駆者利益が得られるはずだ、という発想ですよね。

 結局こういうのは、早すぎてもダメだし、遅すぎてもダメ。タイミングの問題だと思うんですよね。そういう意味では、どっちが正しいとは簡単には決められないとは思います。

 ただ、フジテレビなどの対応を見ていると、どーしても組織防衛・既得権維持が先にたっているように見えるのが気になるところですね。本当に時期が来たらやるべきことをやるのか。系列維持を目的とした締め付けを行ったりして抵抗しないのか、という点に注目していきたいと思います。

付記:

 あと、放送局主導でやると、衛星放送や地上波デジタルと同じように、インターネット放送も囲いこまれてしまうんじゃないか、という心配もありますね。たとえば、メーカーと組んで、特定の放送局にしか接続できないようなセットトップボックスを作り、それ経由でないとデコードできないようなストリームばっかり流すとか。こういう、オープンエンドでない閉じたネットワークは、たとえ回線はインターネットのものを使っていたとしても、インターネットとは名ばかりのものになってしまい、インターネットのよさは死んでしまいます。そんなものなら、やらないほうがましです。i-mode でも、当初はそういうことが試みられたが、松永さんらの努力により、現在のように勝手サイトにも接続できるシステムになった、という話は有名です。

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堀江式ジャーナリズム論再び

 「ニュース23」で筑紫・堀江対談をやっていました。後半の方しか見てないけど、この2人のジャーナリズムに対する認識のずれが、ちょっとわかってきたような気がしました。

 ぼくは、堀江氏が「無色透明なジャーナリズム」という言葉を使ったので、そんなのありえねえだろう、と思ったのですが、彼が本当に考えているのは、むしろ、「無色透明のメディア」なのではないでしょうか。

 つまり、筑紫さんとかがイメージしてるのは、あくまで、チャンネル数は有限で、各放送局に報道部みたいなのがあって、そこが情報を選別して送る、というイメージですよね。このイメージだと、メディアとジャーナリズム(=情報を選別する主体)が一体化しているので、メディア論とジャーナリズム論がいっしょになってしまうわけです。

 もちろん、こういうモデルだと、ユーザーは自分でニュースを選択することができないので、送信者側の方に、ある程度バランスのいいメニューを作って情報を送信する責任が出てきます。

 ところが、堀江氏はたぶん、そもそもメディア=ジャーナリズムだとは思っていないのです。だから、自由なジャーナリズムを媒介する無色透明なメディア、という絵が描ける。もちろん、従来型のテレビでは、こんなことは不可能で、これはあくまで、送信チャンネルの制限がなく、双方向性を持つインターネットを前提にしてのみ可能なモデルです。

 このモデルでは、ジャーナリストはみな自由に情報を編集して発信でき、メディアがそれに制限を加えることはありません。そして、ユーザーは常にオンデマンドで情報を取得するから、一次情報源に直接接続することもできれば、固有のエディターシップを持った特定のジャーナリストに接続することも可能なわけです。さらに、対話性を生かすと、ユーザーの批評に基づいてニュースを選別したり、ユーザー自身がニュースを発信したりということまで可能になっていきます。

 堀江氏が地上波テレビに求めているのは、あくまで、こういう世界への入口だけであって、詳しくしりたい人はインターネットにアクセスしてください、みたいにして最終的にはインターネットに誘導するのが目的なのでしょう。これこそが、地上波の免許を既得権だと思い、コンテンツを出し惜しみしている従来のテレビ局が絶対にやりたがらないことであり、堀江氏が「強引な手段」をとらざるおえなかった理由なのではないでしょうか。

 もちろん、これはあくまで私の想像ですから、それが当っているかどうかは、みなさんのご想像におまかせします(^^)。

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ジャーナリズムの未来

 また堀江氏ネタで恐縮ですが(今回の顛末はどうあれ、この人のおかげでいろんなことを考えさせられたことだけは感謝しないといけないでしょうね(^^))、彼が言ってる「無色透明なジャーナリズム」ってのはどうなんでしょうね。

 もちろん、ジャーナリズムの役割が変わってくるのは確かだと思うんですよ。特に、これまでのジャーナリズムの存在意義は、まずは一次情報の収集にあったと思うけど、インターネット時代には、一次情報なんて、(堀江氏もやっているように)当事者や関係者自身が自分で発表できちゃったりするので、わざわざ収集する必要が少なくなってくるのは確かでしょう。

 でも、そのように一次情報が氾濫すると、逆にエディターシップの重要性が高まってくるので、これからのジャーナリズムは、むしろそっちの方に存在意義を見出していくのではないかという気がするんですけど。それも、単に情報を分野別に分類整理するなんてことは、ある程度自動化できるようになってしまうので、独自の価値観を持った人間にしかできない、より高度なエディターシップが求められるようになるのではないでしょうか。

 また、情報のチャンネルが増えると、公正中立な報道を目指す、ということの意味も変わってくるはずですよね。もちろん、まったくのウソはどっちにしろいけないんだけど、取り上げ方が片寄ってる、みたいな批判は、チャンネルが限定されていた時代の産物で、チャンネルがたくさんあれば、ユーザーが自分でいろんなチャンネル比較してバランスをとれるので、そういう批判はあまり意味をなさなくなってくるはず。

 堀江氏は、自分で情報を見て判断すればいいというけれど、そりゃ、ぼくも自分の専門分野についてはそうしてますけど、他の分野については、いちいちそんなことしてるヒマなんかとてもないですからね。堀江氏同様、ぼくも新聞はとっていないのですが、日垣隆氏のメルマガとかには金を払っています。それは、一次情報を得るためと言うよりも、むしろ、日垣氏のエディターシップを評価しているからです。堀江氏が既存のジャーナリスムに不満を持っているのは、エディターシップが存在することに対してはなく、むしろ、そのレベルが低いことに対してじゃないんですかねえ。そういう不満なら、ぼくにもありますし(^^)。

 さらに、高度なエディターシップを前提にすると、一次情報の収集という作業にも、また別の意義が出てきますよね。つまり、情報の山を、なんらかの問題意識で切り取れば、いわゆるミッシング・リングになるような部分とか、あるいは、他の情報と照らし合わせると信憑性の低い部分が出てくるはずです。そういう部分の情報を収集するとか、裏トリをするとかっていうのは、問題意識をもたずに、ただ漫然と情報を集めていてもできることじゃありませんからね。

 ですから、ぼくはむしろ、今後のジャーナリズムは、無色透明とは真逆の、それぞれ独自の視点を持った高度なエディターシップを前提としたものに変わっていくんじゃないかと思うんですけどね。いわば、新聞型から週刊誌型に変わっていくというか。また、そうでないと生き残れないでしょうしねえ。

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ぶりっこ疑惑

 フジテレビの日枝会長は、「インターネットがテレビに取って代わることなどあり得ない」みたいなこと言ってましたが、ほんとにそんなこと思ってるんでしょうかねえ。ぼくには、とてもそうは思えないのですが。

 たとえば、4th MEDIA みたいに、セットトップボックスとテレビをつなぐだけで番組を見られるという状態になったら、ユーザーは、途中のメディアが地上波だろうがインターネットだろうが、別に意識しなくなって、とにかくコンテンツが面白い方を見るだけだと思うんですよね。その上で、i-mode みたいに、勝手サイトならぬ、勝手放送局みたいなのにも接続できるようになって、課金システムまで整備されたらどうなるか。

 民放の経営は基本的に広告料で成り立っているわけですから、インターネット放送に時間をとられて地上波番組を見る時間が少しでも減れば、その分広告料が減り、広告料が減れば、番組にかけられる予算も減り、予算が減れば、番組はその分つまらなくなり、番組がつまらなくなれば、その分さらに地上波番組を見る時間が減るという悪循環に陥ります。

 こういう流れは、最初は微々たるものでしかないでしょうが、徐々に加速していって、どこかで一気にフェイズ・シフトが起きるんじゃないでしょうかね。そして、いったんフェイズ・シフトが起これば、広告料が地上波テレビ局にだけ集中するという構造はなくなって、テレビ局主導の時代から、コンテンツ製作者主導の時代に移行するでしょう。

 だから、そのフェイズ・シフトが起きる直前までは、コンテンツを地上波だけに出し惜しみして時間をかせいでおいて、フェイズ・シフトが起きた瞬間に、コンテンツ中心の新しいビジネスモデルに移行して、インターネット放送界のトップになろうとしているのが、実は日枝会長じゃないかという気がするんですけどね。

 だって、日枝氏はこんなこと言ってるんですよ。(出典はこちら

  • 「インターネットは最大の脅威になりつつある」(日本経済新聞 2000年4月25日)
  • 「メディアを押さえなかったら、コンテンツをいくら作ってもダメ。蛇口を押さえないと番組を作っても流せない」(週刊東洋経済 2000年4.29-5.6号)
  • 「私は社内に対し、放送も通信に打って出ようと言っている。打って出ないと勝てない」(週刊東洋経済 2000年4.29-5.6号)

 もちろん、逆にその程度のことを考えてなかったら、経営者として失格だと思いますし、フジテレビの会長にまでなった人が、そんなに無能だとはどうしても思えないんですよね。だから、どうもテレビを見てるとぶりっこを演じているように見えて仕方ありませんが、それを非難する気はまったくありません。ただ、それほど同情する気にもなれない、というだけで(^^)。

 だって、別に、インターネット時代になったって、コンテンツ制作事業そのものがなくなるわけじゃないし、そういう意味では、全体として失業者が増えるわけでもなんでもないんですからね。第三者としては、競争が公平に行われてさえいれば、よりよいサービスを提供してくれる方を支持するだけのことで、それ以上でも以下でもありません。

 どっちでもいいから、早くインターネットで見たいものがいつでも見れる体制を作ってくれ!(^^)

付記:毎日インタラクティブを見たら、こんな言葉ものってました。

「ネットがテレビをのみ込むんじゃなくて、(将来的には)テレビがネットをのみ込むんだと思う。テレビは最も大衆に近いメディアだから。 」

ね。やっぱりこれが本音なんですよ。この場合の「テレビ」というのは、地上波というメディアのことではなく、「テレビ番組」というコンテンツのことでしょう。要するに、コンテンツ制作での優位性を利用して、インターネットの世界でも頂点に立ちたいと思っているんでしょう? ぼくもその通りだと思いますよ。だから、両方とも必死なわけでしょ(^^)?

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時間は非情である

 池田信夫氏のブログにこんな記事が。「AMラジオに未来があると思っているのだろうか」というのは、池田氏らしいきつーい言い方で、引く人もいると思うけど、でも、重要な指摘だと思います。

 たぶん、堀江氏には、ラジオ事業そのものを発展させようという気など、はっきり言ってほとんどないと、ぼくも思います。そういう意味では、「愛情が感じられない」という指摘は、その通りでしょう。彼が考えているのは、テレビ+ラジオ+インターネット全体でバランスをとっていくことでしょう。もちろん、既存株主の利益は、最終的には株式交換かなんかで担保する気なのでしょう。そういう意味では、堀江氏は、放言しているように見えて、意外と考えてしゃべっているようにも思えます。

 もちろん、これが、純粋にテレビやラジオの仕事が好きな人にとっては、受け入れがたいことだというのはよくわかります。また、堀江氏の手腕のほども、まだまだ未知数です。けれども、ひょっとしたら、10 年 20 年たったら、買収された企業のほうが、早めに買収されておいてよかった、と思うような未来があるかも知れません。実際の買収の顛末はどうあれ、放送業界の人は、そういう可能性についても、この機会に少しは考えておいたほうがよいのではないか、という気もします。

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あのー

 Asahi.com さんの「株価を意識した経営」というコラムについて、どーしても一言言いたくなりました。別に、朝日さんに恨みがあるわけじゃなくて、今後も朝日さんにはリベラルの守護神としてがんばっていただきたいと思っているのですが(皮肉じゃなく)、なんか、経済関係の記事については、どーかと思うものが多いので。。。

 この記事では、

一方古い体質の経営や経営マインドでは今の世の中、もう通用しないことも意味しているように思える。

と言っていて、その認識自体は正しいと思うのですが、その後こう書いています。

 これからは株価を意識した経営が一層重要である。例えば多額の資本剰余金を持ち、かつ十分収益をあげているにもかかわらず、わずかな配当しかしていない企業が数%でも配当を増やせば、個人預金から株式への資金シフトが起き株価も上昇し、配当を受け取った株主は消費へも金を回し、経済にとってもプラスに働こう。この影響で金利も上昇するかもしれない。

 でも、ぼくに言わせれば、こういう、配当と金利の関係で企業価値を捉える認識がすでにして古いのです。これは、ぼくだけの勝手な意見じゃなくて、(前にも書いたことがあるのですが)最近の金融工学をふまえたファイナンス理論の本を見れば、そう書いてあるはずです。

 要するに、市場が効率的で企業価値を正しく評価するなら、配当せずに内部留保すると、確かにインカムゲインは減りますが、その分株価が上がってキャピタルゲインが増えるので、株主は損も得もしないのです。

 ですから、配当するかしないかは、単なる利益の還元だけではなく、その利益を効率的に運用できる投資案件があるかどうかで決めるべきなのです。つまり、成長期にあって、投資案件がたくさんある場合には内部留保すべきですし、逆に、安定期に入って、投資案件がない場合には配当すべきなのです。

(なんか、偉そうに書いてますけど、こんなの常識だと思うんですよねー。正直、書いてるほうも恥ずかしいです(^^)。もし、奥村宏さんの本とかしか読んでないのだったら、その後の金融工学の本も、少しは読むべきだと思いますよ。)

 ご指摘の通り、企業の買収と言うのは、市場の評価と、買収側の評価の間にギャップがある場合に起こります。したがって、無意味な買収劇を避けるには、市場の評価がより適正である必要があります。ですから、朝日さんにも、そのへんをもっとしっかり啓蒙してただきたいと思うのですが、いかがでしょうか。

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これはなかなか

 フジ対ライブドアについて、毎日インタラクティブこんな記事が出ています。これは、ぼくが今まで読んだ中では、一番重要なポイントを押さえた記事だと思います。学芸部の記者さんなのに、経済のこともよく勉強しているみたいで、ぼくなんかが言うのもなんですが、えらいです。

 特に、

 「放送と通信の融合」と放送局幹部が言う場合、収益構造や制作システムは今のままで、ネットと連動した商売をするという意味でしかない。しかし、衛星放送やネットの世界では、より細かな視聴者ニーズに向けて格段に低いコストで番組を作っている事業者たちがひしめき合っている。本来の意味での「融合」は放送局に、優越的地位からの脱却と制作費や人件費の大幅削減を含む抜本的な経営改革を求めることになる。

というのは、このブログでも遠まわしに言及してきたけど、重要なポイントだと思います。

 つまり、はっきり言って、放送局が本格的にインターネットに進出しても、必ずしも得にならないばかりか、むしろ、既得権を失って自分で自分の首を絞めることになる可能性が高い。だからぼくは、放送局が自ら進んでそういう道を選ぶかについては、非常に懐疑的でした。たぶん、もし選ぶとしても、失った既得権以上の売り上げや利益を、インターネット業界でも得られる場合だけなんじゃないでしょうか。

 つまり、もしテレビ局が本気でインターネットに進出しようとするなら、テレビを握っているという優位性を十分に生かしつつ、少しずつコンテンツを小出しにしながら、インターネット事業での利益を増やしていき、インターネット事業だけでも放送事業と同等の利益と雇用を確保できる、という見極めがついた時点で一気にシフトする、というやり方をしたいはずです。

 でもそれは、最初からインターネット業界でやっている方から見れば、「じょーだんじゃねえよ、後から来た奴にそんなに美味しい所ばっか持ってかれてたまるかよ」っていう話なんですよ。しかも、「自分の本業は法律で保護されてるくせによ」みたいな。

 つまり、放送業界からはインターネット事業に参入できるが、インターネット業界からは放送事業に参入できない、という状態で、テレビ局のインターネット本格参入を許してしまえば、イコールフッティングでないハンデ付きの競争になってしまうわけで、これだって相当アンフェアなんですよ(どうも、多くの人は、この不公平さを過小評価してるように見える)。だから、むこうがそうくるなら、先手を打ってファウルぎりぎりのプレイででも反撃してやるぞ、という発想が出てきてもおかしくないと思います。

(ついでに言えば、ファウルぎりぎりのプレーは、ブーイングの対象にはなっても、ファウルそのものではありません。ブーイングがあるからと言って、ファウルぎりぎりのプレーをファウルにしてしまえば、ルールはメチャメチャになってしまいます。)

 だから、そういう仁義なき闘いを避けるためには、放送局側にも、放送事業とコンテンツ制作事業を切り離して、たとえ放送事業では損することになっても、コンテンツをインターネットを含めて幅広く解放し、コンテンツ事業で元をとっていく、という態度が必要だと思うんだけど、はてさて、現在の放送局に、そこまでの度量があるかどうか。見守っていきたいと思います。

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闘いと仁義

 市場経済というのは、確かに競争でもありますが、それは、社会全体のパイを大きくするという点においてのみ正当化されるわけだから、なんでもありというわけではありません。わかりやすく言えば、自分が前に出ようとするのはいいけど、単なる足の引っ張り合いはいけない。それでも、競争である以上は、すべての利害が一致するわけはないので、妥協なき闘いをしなければいけない局面も当然出てきます。

 フジ対ライブドアの対決において、フジ側は、「人間関係は金で買えない」という、ある種道徳的な主張をしていたわけですが、フジテレビがニッポン放送(あるいはポニーキャニオン)へのコンテンツ供給を打ち切ると言った時、あれーと思ったひとは多いと思うんですよね。だって、たとえライブドアが支配株主になったとしって、現場で働いている人が総入れ替えになるわけじゃないんですよ。なのに、それだけでこれまで築いてきた信頼関係がいきなり完全消滅するわけないじゃないですか。だったら、ライブドアの入っていない株主総会で取締役が更迭されても、やっぱり取り引きを打ち切るんですか? っていう話になってしまいますよね。だとすれば、それは結局、ライブドアと同じ「資本の論理」にすぎないじゃないですか。

 言うまでもないことですが、もともと、「人間関係を大切にする」という論理は、一歩間違えれば、「コネのない奴は、たとえ実力があっても排除する」という論理になりかねない面があるわけで、フジ側が「人間関係は金で買えない」みたいなことを言ったとき、多くの人は、その点こそを注視していたはずです。にもかかわらず、フジ側は、結局はよそ者排除としか思えないようなことを、平気でやってしまった。

 ぼくはもともと、放送業界とインターネット業界の利害は完全には一致しないのだから、旧 NTT に対する NTT DoCoMo みたいなのができないと、インフラの移行はスムーズに進まないんじゃないかと思っていたのですが、今回の事件は、結果としてそういう想像を裏付ける方向に進んでいるように見えます。つまり、フジの社長は、金づくでない話し合いには応じるようなことを言っていますが、堀江氏から見れば、これは最初から仁義なき闘いだったのではないか、という気がしてくるのです。

 まあ、ぼくもこういう愉快でない想像が当ってほしいと思っているわけではないので、フジさんが自分で言うほど「公益性」を考えているならば、たとえば、「トレソーラ」を通じてのコンテンツ供給などを、もっと積極的に進めてほしいと思います。今後も、どちらが正しいと簡単に決めずに、じっと見守っていますので(^^)。

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コンピュータとは何か

と松下幸之助氏が部下に質問したところ、満足できる答えが返ってこなかったので、松下はパソコン事業から撤退した(その結果、松下はパソコン市場で大きく出遅れた)、という業界では有名な逸話があります。この話を見てもわかるように、なんの役に立つのか、うまく説明できない、というのは、この業界のわりと昔からの課題だったのです(^^)。

 堀江氏のプランに具体性がない、という批判を見ていて、なんか、あまりそういうところは変わっていないなあ、と改めて感じてしまいました。もちろん、だからと言って、彼が説明義務を果たさなくていいとか、無条件に信用しろとか言ってるわけじゃありませんが(^^)。

 たとえば、マイクロソフトや IBM のテレビ CM を見ても、いったい両社の商品に何のメリットがあるんだかさっぱりわからないようなものが多いですよね。最近は開き直っているのか、そのわけのわからなさを逆手にとってギャグにしてたりして(^^)。かと言って、「なんとか奉行におまかせあれ」みたいなのを見ても、空辣なキャッチフレーズが踊っているだけで、具体性に乏しいことには変わりないし(^^)。

 ソフトウェア工学なんかでも、昔は、要求分析とか言って、顧客のニーズをいかに正しく掴むかが重要だといわれていたんですが、最近は、RAD とか言って、ようするに、「うだうだ言ってる間に実物を作って見せたほうが早いよ」みたいな方法論が流行っていたりします。

 もちろん、それは単にソフト屋が怠慢なわけではなくて、それなりに理由があるのですが、その理由すらも、門外漢の方にもわかるように簡単に説明するのはけっこう難しかったりします。そんなわけで、心情的にはちょっと堀江氏に同情してしまいました(^^)。

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MSCB の問題点

 ぼくも、MSCB に何の問題もないと思っているわけではありません。ただ、その問題点を、うまく表現する言葉が見つからなかっただけなのですが、なるべく正確な言葉で表現しようとすると、こういうふうになるのではないでしょうか。

 企業への投資には、株に代表されるエクイティファイナンスと、融資に代表されるデットファイナンスがあります。そして、もともと、エクイティに投資する人の多くは、効率的市場仮説を信じて投資しているわけではなく、自分の投資した会社が、市場の予測を上回ってアウトパフォームすることを期待して投資しています。逆に、デットに融資する人は、企業のパフォーマンスがどうであれ、一定の金利を得ることを期待して融資しています。

 ところが、MSCB の場合、一見エクイティファイナンスの形をとっていますが、その利益は、企業のパフォーマンスとはあまり関係ありません。アンダーパフォームしようが損しないかわりに、アウトパフォームしても得しないわけです。つまり、MSCB というのは、形式的にはエクイティファイナンスなのですが、実質的にはデットファイナンスに近いのです。

 MSCB に問題があるとすれば、この鵺的な性質の中にあるんだと思いますが、つづきはまた、時間のあるときに。

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がくっ

 また asahi.com さんがこんな記事を…。

 だーかーら、何度も書いたけど、そんな単純な話じゃないと思いますよ。って、向こうがこんなブログを読んでるわけないから、それほど力入れてもしょうがないけど(^^)。

 これを読めばよくわかるけど、むしろ、普通の転換社債のほうが、コールオプションとしての価値があるから、オプション料を差っぴかないとおかしいんじゃないか、という話になるんです。

 MSCB にはオプションとしての価値はあまりないわけだから、ふつーに考えれば、(10% のディスカウントが妥当かどうかを除けば) ただの転換社債に比べても、有利発行になる可能性は低いんはずなんですよ。

 もちろん、仮屋先生も指摘しているように、効率的市場仮説が本当に成り立つのか、みたいな問題はあるんだけど。

 っていうか、ネットではこんな議論かなり前からしてたのに、なんで今頃記事にしたの? それも、本当の専門家にチェックを受けた形跡もないし。(してたら、「効率的市場」のこの字ぐらいは出てくるはずだと思うんだよねー。ここが一番の肝なんだから。)

 NHK 問題とかでもいろいろヘマしてんだからさー、もっとしっかりしてくださいよー。頼みますよー。

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プチ情報

 Space Town Books という電子書籍書店に、

ジュリスト1220号特集「商法等の改正平成13年臨時国会」

というのが売っていて、中に、

新株予約権・新株予約権付社債――有利発行の問題を中心に 仮屋広郷

という新株予約権の有利発行についての論点を簡潔にまとめた論文があるのを見つけました。

 たった 630 円ですので、新株予約権について手軽にウンチクをたれたい人にはお手ごろだと思います。(^^)

(ただし、ある程度予備知識がないと、理解するのは難しいかもしれません)

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メディアと資本

 トラックバックもいただいたことですし、ここでちょっと、メディアと資本の関係についても考えて見たいと思います。私は、以下のようなポイントが重要だと考えます。

  1. アナログ地上波だけが映像放送メディアではなくなる
  2. メディアの公共性は、資本だけを制限しても確保できない
  3. 放送局=メディアではない

1.アナログ地上波だけが映像メディアではなくなる

 このブログでも何度か言及しましたが、かつては、アナログ地上波というのは、映像を広範囲に放送できる、ほとんど唯一のメディアでした。したがって、そのような公共財が公共の利益に反する目的に使われないように、放送法で制限をかけることには合理性があったと思います。

 しかし、ブロードバンド、衛星放送、ケーブルテレビなどの登場によって、この状況は大きく変わり、アナログ地上波は、映像放送メディアの One of them でしかなくなりました。

 さらに、従来のメディアでは、各メディアに固定したチャンネルを割り当てる必要があったのですが、インターネットでは、チャンネルにこだわらずアドホックに放送局を立ち上げることも可能になりました。

 もちろん、現在はまだ、アナログ地上波にしかアクセスできない人も多いでしょう。しかし、そのような状況は徐々に変わっていくはずです。そうなったときに、一部の企業に寡占を認める今の放送法が合理的でありつづけるかどうかには疑問があります。

2.メディアの公共性は、資本だけを制限しても確保できない

 メディアの公共性は、資本に制限を加えるだけで、自動的に確保されるというようなものではありません。

 たとえば、多くのコマーシャルメディアは、常にスポンサーからの圧力を受けていると言われますし、視聴者からの視聴料と国家による予算チェックで運営されている NHK の中立性にも疑問符がついています。また、スポンサーからの影響を排除しようとして、読者からの購読料だけで運営されることをうたった「週刊金曜日」などという雑誌もありますが、この雑誌がそれほど不偏不党かと言えば、首をかしげる人も多いでしょう。

 結局、メディアの公共性というのは、多用なメディアの共存を許し、互いに質を競い合うことでしか確保できないと考えられます。少なくとも、資本を制限すれば公共性が確保できるというほど単純なものでないのは確かでしょう。

3.放送局=メディアではない

 もう一つ重要な点は、現在の放送局というのは、単に放送事業だけを行っている企業ではないということです。

 たとえば、ニッポン放送は、コンテンツの企画製作事業、音楽・映像出版事業、関連商品販売事業、広告代理店事業などを行っています。

 したがって、仮に、放送事業そのものは放送法で保護するに値するとしても、このすべての事業を一律に保護するべきかどうかは疑問です。

 さらに、この記事などを見てもわかるように、フジテレビは、インターネット事業にも進出しようとしています。

「私は社内に対し、放送も通信に打って出ようと言っている。打って出ないと勝てない」

日枝社長:週刊東洋経済 2000年4.29-5.6号)

 つまり、純粋に放送事業をだけを行っている企業に対する資本参入を規制するならまだわかるのですが、一部で放送事業を行っているからと言って、その企業集団全体を保護してしまうと、それが逆に不公正な競争に利用されてしまう可能性もあると思うのです。

 あえて結論は書きませんが、少なくとも、このような点を考えておかないと、この問題にはマトモな答えは出せないと思います。

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ふぃーりんぐくりてぃっく

 asahi.com にこんな記事が出てるんですが、これってちょっとおかしくないですか?

 この「現在話題を集めているインターネット系企業」というのは「あの企業」しかあり得ないと思うんですが、それをわざとぼかして書いているところもそもそも卑怯なんですけど(^^)、それはおいとくにしても。

 「あの企業」が今やっているのは、デットファイナンスではなくエクイティファイナンスですし、仮にデットファイナンスとみなしたとしても、レバレッジ率せいぜい3~4 倍といったところですし、デットのままなら金利 0 ですからねえ。

(「この会社」の財務レバレッジ率が高いのは、連結子会社として金融会社や証券会社を持っているせいもあります。銀行などは、レバレッジ率 10 倍以上もざらですからね(^^))

 デットファイナンスの場合、貸し倒れリスクを除けば、貸し手側にはリスクはありませんが、エクイティファイナンスの場合には、出資した側だってそれなりにリスクを負うわけですからね。

 もちろん、それはそれでいろいろ問題あるんですが、こういういい加減な書き方で論じるのはいかがなものかと思いますけど。

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転換後のライブドア資本構成

 野次馬的興味でずいぶんいろいろ調べたついでに、こんなん作ってみました(^^)。

 データは、EDINET からとってきた、平成16年12月27日提出の第9期有価証券報告書、および、平成17年2月8日提出の臨時報告書を元にしています。また、転換前のリーマンのライブドア株保有数はゼロと仮定しています。

 この計算によると、リーマンが堀江氏を超えて保有株数トップになるのは、転換時の株価が

≦402 円

になったときであり、さらに、リーマンの保有率が 33.3% を超えるのは

≦276 円

になったときです。

 転換下限価格は 157 円なので、この転換分だけでリーマンの保有率が 50% を超えることはあり得ません。(ただし、報告義務のない範囲でもともと所有したり、その後に買いましたりした場合にはこの限りではない)

注1: これはあくまで概算であり、計算を間違えているかも知れないので、二次使用は自己責任で行ってください。

注2: 筆者はライブドアの株を所有していません。この小文は、投資判断に使われることを意図していません。投資は自己責任で行ってください。

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MSCB 補足

 こういう書き方だと、詭弁を弄しているように思われる人もいるかも知れないので、もうちょっとだけ補足します。

 確かに、増資(転換)した瞬間には、一株あたりの純資産(株主資本)は確実に減るので、株主の利益が損なわれたように感じるのかも知れません。しかし、言うまでもなく、企業価値というのは、純資産の直接的な評価額だけできまるのではなく、その資産が未来永劫にわたって生み出す収益の予想によって決まるのです。そして、増資をすれば資産の構成も変わる(ライブドアの場合で言えば、ニッポン放送株が加わっている)ので、収益率の予想も当然変わってくるはずなのです。

 私がしつこく「効率的市場仮説に立てば」と言っているのは、この収益率の予想値として市場株価(収益率)を使えばという意味であって、もちろん、市場の予想の代わりに、当事者同士の主観的な予想で評価額を決めたっていいわけです。しかし、それが市場の評価より絶対に正しい、と言える者は神しかいません。そうである以上、たとえ効率的市場仮説が成立していないとしても、収益率の予想値として市場時価を使うことがそれほど間違ったことだとは言えないだろう、ということが言いたかったわけですが、おわかりいただけたでしょうか。

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MSCB 続

 前に MSCB 書いたのを読み直してみたら、ちょっとわかりにくかったので、もう少し論理的にすっきり書き直します。今回は、必要以上の混乱を招かないために、ファンダメンタルズの話に限定します。つまり、市場では効率的市場仮説が成立しており、株価は常に企業価値を正しく反映しているとします。

 私の言いたいのは、このような仮定が成り立つ場合に、MSCB の転換価格が市場株価と同一であるなら、その転換自体はファンダメンタルズに対してニュートラルな影響しか与えないはずだ、ということです。

 株価が下がったところで、MSCB の転換が行われると、既存株主は損した気分になるかも知れませんが、効率的市場仮説に立てば、実際の企業価値は、株価が下がった時点ですでに下がっているのであって、MSCB の転換は、それを追認しているにすぎません。

 ただし、ライブドアの場合で言えば、転換価格に 10% のディスカウントがあるので、この分は確実に資本コストとしてのしかかってきます。しかし、ファイナンスには、多かれ少なかれ資本コストがつきものなので、問題は、その資本コストと引き換えに、バランスシートの借り方に追加された資産、つまり、ライブドアの場合で言えば、ニッポン放送株と残りのキャッシュが、資本コストを埋め合わせるだけの利益率を上げられるかどうかです。もしイエスなら、ファンダメンタルズはよくなるし、ノーなら悪化する。単純化して言えば、そういうことだと思います。

注: 筆者はライブドアの株等を保持していません。この小文は、投資判断に使われることを意図していません。投資は自分の判断で行ってください。

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MSCB

 MSCB について、みなさん興味深い議論をしていらっしゃって、すごく面白くて勉強にもなるんだけど、納得いかないところもあります。

 つまり、きわめて教条主義的に効率的市場仮説に立ちますとですね(^^)、市場価格というのは、どの時点をとっても高すぎるとか安すぎるとかいうことはないわけでしょ(^^)? っていうことは、MSCB というのは、いつでも請求できる時価発行増資みたいなものにすぎないのではないか、という気もするのです。

 空売りのことが問題になるんだけど、ライブドアだって賃借銘柄なんだから、堀江氏から借りなくたって、やろうと思えば空売りなんかいつでもできるわけですよね。それで、株価が下がってから市場時価で買い取って現渡しするのと、それほど違うのかと(^^)。もちろん、市場から調達しようとすると、そのせいで株価が上がってしまう可能性があるが、時価増資ではその心配はない、という差はありますが。

 空売りすると株価が下がると決め付けてるような論調もあるんですけど、それで必ず株価が下がるんなら、みんな空売りしますよね(^^)。空売りする奴もいれば、信用買いで買い支える奴もいる。それが市場ですよね。しかも、時価といっても、3 日ぐらいの VWAP かなんかでしょう。そうすると、一時的な市場操作の有効性も限定されてきますよね。

 そうすると、本質的な問題は、むしろ、発行量が市場の需給を操作しうるほど大量であることと、10% のディスカウントなのかなあと。でも、デットファナンスでも金利はとられるんだからねえ。その代わりと思えば、10% は多いには違いないけど、とるチャンスが 1 回しかないことを考えれば、そんなもんかも、という気もします。(^^)

 MSCB の損益についての、ちゃんとした理論モデルってあるんですかねえ。もっとマジメに探せばでてくるのかなあ。今そこまでヒマないけど。

 ぼくはあくまでしろーとですから、とんでもなくはずしたことを書いてるかもしれないので、よい子のみなさんは、もっとちゃんとした専門家の方の意見を聞いて、自分で判断してくださいね(^^)。

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「金で買えないもの」はあるか

 まず、そもそもマーケットを設定することができないもの、つまり、法律とか倫理の面から、売買することの許されていないものがありますね。人身売買とか、売春とか。また、そもそも所有権自体が設定できないものも売買できないわけだけど、何に所有権を設定できるかというもの、結局、社会の合意によって決まるわけだから、ある種の倫理の問題だと言えます。

 たとえば、よく「人の心は金で買えない」と言うけれど、サービス業なんかでは、心のこもってないサービスより心のこもっているサービスの方が高く評価されますし、支払われる対価も一般に後者の方が多いですよね。つまり、サービス業のとっては、ある意味、心を金で売ることの方が美徳とされているわけです。だから、これはあくまで社会倫理の問題なんです。

(企業買収なんかでもそうで、株式を公開するということは、「どうぞうちの会社を金で買ってください」と言っているのと同じことなんですね。だから、公開企業の従業員は、「だれが株主になっても、その株主の利益のために働きます」という倫理観を持つことが前提とされているし、だからこそ、金を集めやすくなるとか、そういういろんな恩恵も受けられる。そうでなければ、客を選ぶ店とかと同じになってしまうわけで、それだったらわざわざ公開したり上場したりしないで、プライベート・カンパニーでやればいいじゃない? ということになってしまうわけです。(岩井さんの言うような、「法人資本主義的」な会社についてもちょっと異論があるのですが、それはまたいずれ。))

 つまり、「金で買えないもの」以前に、「金で売り買いすべきではないもの」というのがあるわけ。

 では、それ以外の「金で売り買いしてよいもの」は何でも買えるのか、というと、これも必ずしもそうではない。なぜかというと、たとえマーケットがあったとしても、実際に売買するかどうかは、所有者の自由だからです。

 特に、天然資源や大量生産品のように、誰から買っても大差ないものなら、特定の人が売りたくないと思っても、マーケット全体を探せば、誰か売ってくれる人が見つかる可能性が高いと言えますが、商品一つ一つに個別性のあるような芸術品とかになると、話は違ってきます。こういうものは、理論的にはマーケットが存在するといえますが、実際には、その所有者以外に売り手はいないわけだから、その人が合意しなければ買うことはできません。

 そういう意味では、「金で売り買いしてよいもの」の中にも、現実問題としては「金で買えないもの」も存在すると言えます。

 あ、これはあくまで一般論で、誰かを批判したいとかそういう意図はありませんので、念のため。(^^)

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