数え方の辞典

  数詞に「助数詞」をつけるというのは、英和翻訳に必須のテクニックだ。「助数詞」というのは、数を表す言葉の後に付加する「つ」「個」「匹」「羽」などのこと。英語には基本的に助数詞がないので、ビギナーは英和翻訳のときに助数詞をつけるのを忘れがちだし、忘れないにしても、前に来る言葉を無視してなんでも「個」にしてしまうといったミスをしがちだ。

 いや、他人のことばかりは言えない。一応プロを自称しているぼくだって、助数詞の選択が重要だということは重々承知していても、とっさに適切な助数詞を思い出せないことはよくある。だから、助数詞を調べるための辞典のようなものがあればよいな、ということはかねてから思っていた。

 そんなわけで、インターネットで偶然「数え方の辞典」という本の存在を知ったときには、ほとんど悩むことなく注文した。

数え方の辞典  内容は、普通の辞書と同じような感じで名詞があいうえお順に記載されていて、特定の名詞を引くと、その名詞にふさわしい助数詞がわかるという方式。たとえば、「ビル」を引くと、

数えるもの 数え方 数え方のポイント
ビル 棟、軒、本 小規模なものは「軒」で数えます。超高層ビルなど、遠くから見ると細長く見えるものは「本」でも数えます。→建物


のような記載がある。この部分が約 300 ページぐらいあって、かなり多くの単語(4600 語)に対応する助数詞が、機械的に検索するだけでわかる、というのがこの本のいいところだろう。

 さらに巻末には、「助数詞・単位一覧」というのがあって、各助数詞ごとにさらに細かい説明がある。たとえば、「棟」だったら、

とう[棟] 1.「棟」は、家の頂上を通す棟木を表し、建物や家屋を数えます。「むね」とも読みます。人が生活していない離れの小屋(手洗い所・書庫・物置)や車庫なども数えます。→棟 →軒

 のような記載がある。この部分が約 100 ページあって、たいていの助数詞はここに載っているので、自分の選んだ助数詞が適切かどうかを調べるのにも利用できる。

 著者の飯田朝子氏は、助数詞の研究がご専門らしく、ホームページでも「数え方クイズ」などを公開している。監修はかの町田健氏だが、こちらは知っている方も多いだろう。ぼくも生成文法の解説本などでお世話になったことがある。

 たぶん、この本から一番恩恵を受けられるのは翻訳者ではないかと想像するが、一般の方が文章を書く際にも役立つのではないだろうか。そういえば、本業ネタを書いたのがずいぶん久しぶりだということに今気がついた(^^)。

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粋に感じる?

 大阪府知事の橋下さんが女性職員に「あんた」呼ばわりされたという例のニュースを YouTube で見ていて気になったのだが、橋下さんがその女性について「ぼくはいきにかんじましたね」とか言っているのを、その番組では「彼女は粋に感じましたね」とテロップを当てていた。これはどーみても「意気に感じましたね」の間違いだろ(^^)。ひょっとして、今の子は「意気に感じる」という表現を知らないのかな。

 これは類語辞典だけど、「意気に感じる」というのは、

http://thesaurus.weblio.jp/content/%E6%84%8F%E6%B0%97

意気に感じる:
(~に)熱く共感する ・
肝胆相照らす ・ (~の志に接して)燃える ハッスルする ・ (いたく)刺激される やる気になる ・ (演説を聴いて)しびれる

 一方、「粋」というのは、

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BF%E8&kind=jn&mode=0&base=1&row=0

(1)気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられる・こと(さま)。粋(すい)
野暮(やぼ)
「―な格好」「―な作り」
(2)人情・世情に通じているさま。
野暮
「―な計らい」
(3)遊里・遊興に精通していること。また、遊里・花柳界のこと。
「―筋」
(4)いろごとに関すること。

という意味であるが、文脈から考えて、橋下さんはあの女性に自然な色気を感じて「粋だねぇ~」と言いたかったわけではないと思う。たぶん(^^)。

(追記: ただ、上の辞書にもあるように、「粋」は「意気」から転じた言葉らしいので、それを知っててわざと書いている逆の意味で教養のある人もいるのかも知れない(^^)。)

 それにしても、昔はこういう言葉遣いにしてもなんにしても、テレビでやってるんだから正しいのだろう、などと鵜呑みにしていたものだが、最近はうっかり聞き流しているととんでもない間違いが混じっていたりするので油断がならない。また、ぼくのような一般人よりはるかに教養がおありになるはずのコメンテータの方々も同じビデオを見てるはずなのだが、何もツッコミを入れていなかったのも不思議。

 ところで、実を言うと、会社員時代はぼくもこういうことにうるさかった。ある会社では、就業時間後に社外から講師を呼んで研修みたいなことをすることが多かったのだが、出席しろとうるさく言われるわりには残業代は出ない。それを理不尽だと感じたぼくは「残業代が出ないなら出席する義務はないでしょう」とか社長に直談判してみた。すると社長の返事は「確かに義務ではないけど、出たほうがためになると思うぞ」みたいな感じ。じゃあいいやと思って問答無用で帰ってしまったことが何度かある。まだ 20 代の若造のぺーぺーのころからそんなクソ生意気な人間だったのである(^^)。 橋下さんが上司だったら、粋に、じゃなかった、意気に感じてくれるかな(^^)。

 これは前にも書いたような気がするが、ある会社の入社試験の面接で「デートの予定がある日に突然残業を頼まれたらどうしますか」と言われて「ケースバイケースです」と答えてしまったこともある。これも自分としてはかなり妥協した答えのつもりだったのだが、後で調べえると、やっぱり言ってはいけないことらしかった(^^)。

 まあでも、一応言い訳しとくと、仕事はちゃんとしてたんですよ。残業月 100 時間オーバーなんてしょっちゅうだったし。もっとも、残業代もきっちり貰ってましたが(^^)。


追記: これは、「武勇伝」をひけらかしているように感じる人もいるかもしれないが、本人の意識としては、むしろオリエンタルラジオ的な意味での「武勇伝」として書いてるつもりである(^^)。わかる人にはわかると思うが、ぼくは勇気があるというよりも、むしろ、空気や力関係を読む能力に重大な欠損があるのである。こういうことが平気でできてしまうのはそのせいであって、本人としては、別に勇気をふりしぼってる意識はないのである。いわば、SF に出てくる痛覚を麻痺させられた兵士みたいなもんで、見方によっては危なっかしいことこの上ない存在だと言えよう(^^)。

 あと、ぼくは社会的に地位のある人や目上の人には平気できついことを言えるのだが、そうでない人が相手になるととたんに弱気になる傾向がある。これもいいように言いすぎかもしれないが、それはたぶん、自分が傷つくことよりも相手を傷つけてしまうことを怖れる傾向があるせいだと思う。また、女性や子供にも弱いが、これは小学生の頃に同級生の女の子を泣かせてしまったことによるトラウマだと思う(^^)。そんなわけで、ぼくは基本的には気のよわーい人間なので、勘違いしてあんまりイジメないでほしい(^^)。

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YouTube とレズビアン

 昨日の「英語でしゃべらナイト」では、なんと、かの YouTube の創始者スティーブ・チェンと、レズビアンを正面から取り上げて話題となった「L の世界」というドラマで主演したジェニファー・ビールスにインタビューしていた。

 NHK だから当たり障りのないことしか聞かないのかな~、と思っていたら、YouTube での違法行為の話とか、レズの話とかも、ちゃんと聞いてましたよ。NHK さんもなかなかやりますなあ(^^)。

 ちなみに、ジェニファー・ビールズにインタビューしたのはなぜか川島なお美で、英語はそこそこうまかったけど、自分だったらあんな役は引き受けないとか言っちゃったり、自分のフィアンセについてのろけたりとかして、内容はワリとグズグズだった(^^)。

 スティーブ・チェンは、インターネットの将来について鋭い予言とかするのかな~と思って観ていたら、まさか YouTube がこんな使われ方するとは思わなかったとか正直に言っちゃってて、ワリとふつーの兄ちゃんだった(^^)。

 興味のある人は再放送でもチェックしてみてくださいな。

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LibraryThing 日本語版用のブックマークレットを作ってみた

 LibraryThing 日本語版用のブックマークレットがなかったので作ってみました。

 LibraryThing に追加

 上のリンクをツールバーなどにドラッグすればOK。 

 今時間がないので、詳しい説明は省略。わかる人にはわかるよね(^^)。

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Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms

Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms  「夕凪の街桜の国」がいつの間にか英訳されていたんですね。英題は「Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms」。そのまんま、という感じですが(^^)。

 書評などでもなかなか好評なようです。

ざっと読んでみたけど、みんなわりとこの作品のポイントをわかってくれてるみたいで安心しました(^^)。

 映画のほうはまだ未見ですが、どうでしょうか。あの絵の美しさをどう実写に置き換えるかがポイントなんでしょうけど。

(吉永さんのコメントはちょっとはずしてませんか? 失礼ですが、たぶん原作読んでないんじゃないかなあ? 少なくとも、読んでからコメントした方がいいよね。読んでこのコメントだったら、ちょっと感性を疑うというか、上記のアメリカ人たちに比べても読解力がないと思ってしまうなあ。このコメントを掲載した人はそう思わなかったのだろうか。。。(^^)

 上で紹介した David Welsh 氏も書いております(^^)。

The incalculable individual cost of the bombing of Hiroshima has been handled in drama and documentary, and one can’t argue that the act of examining that kind of horror is automatically a virtuous or courageous act. The critical element is any given work’s ability to move its audience.

 どんな芸術を鑑賞しても、ステロタイプな政治的なインプリケーションしか読み取れないのでは、芸術家として失格じゃないですか? とか言われちゃうぞ~(^^)。)

(追記: 舞台挨拶でも吉永さんのコメントを読み上げたらしいけど、真面目な話、あんまり反戦映画みたいな宣伝をしない方がいいと思うぞ。そもそも、そんな大雑把な表現はこの作品に対する冒涜でしかないし、こんな繊細な世界を作り上げた作者に対しても失礼だし。営業面でいったって、反戦映画なら見ようという人と、反戦映画ならいいやと思う人とどっちが多いかも微妙だろうし。だいたい、反戦映画なら見ようなどという人は、真にこの映画を観るべき人ではない。むしろ、そういう余計な先入観のない人や、先入観にとらわれない知的誠実さや柔軟な感性を持った人こそが見るべき映画なのに。)

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またノートパソコンが壊れた

 ひえ~、またノートパソコンが壊れた~(T_T)

 なんで忙しいときに限って壊れるのか。。。(;_:)

 もう泣けてくるよ~(涙)

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断言しない勇気

 仕事の関係で入手した、某外資系大企業のスタイルガイドを読んでいたら、こんなことが書いてあったので目の玉が飛び出そうになった。

The following shows ~(の訳)

は次のとおりです、次に~、次の~

注: 「以下」は、基本的に使用しない (ページの構成により、対象が「以下」の位置ではなくなることがあるため)

いやいやいやいや、ちょっと待てよ(松っちゃん風)。「以下」ってそういう意味じゃないだろう?  じゃあなにか? お前は縦書きの本に「以下」って書いてあるのを見たことないのか? 横書きの本は「以下」で、縦書きの本は「以左」になってたとでも言うのか? そんなわけないだろ!(^^)

 念のために辞書を引いてみると、やっぱりこう書いてある。

(文書などで)そこからあとに述べること。そこからあと。

(大辞林 第二版)

それ(そこ)よりあと. 

(三省堂 デイリーコンサイス国語辞典)

 つまり、以下というのは、あくまで前後関係であって、物理的・空間的に上か下かという意味ではないのである。普通はページの構成を変えたって前後関係までは変わらないから、「次」と「以下」の間にそういう意味での差があるわけもない。

 ところが、こういうのが困りもので、ぼくのような一下請け業者がいくらこれは間違っていると言っても、その声が某外資系大企業にまで伝わって、彼らがスタイルガイドを書き直すという確率は決して高くない。そして、これほどの大企業がスタイルガイドにそう書いてあれば、それを鵜呑みにして本当だと信じてしまう奴が必ず出てくる。あげくのはてに、オレの方が間違ってると言われて仕事切られたりするのである (^^)。

 コピペ文化全盛時代になってからというもの、こういう現象はちょくちょく目にするが、なんとかしてほしいものだ。何、そういうバカにならない方法なんて簡単なのである。このブログでも何度も書いているけど、確信のないことは断言しなければいいのだ。逆にもし断言したいならば、それなりに二重三重にチェックして調べればいいのだ。要は、自分の確信度に合わせて、表現の確信度も変えればいいだけのことである。

 こっから先は印象批評になるが、だから真の問題は、なぜ今の世の中、確信もないことを断言したがるヤツがこんなに多いのか、ということだろう。先日書いた、質問をしない若者という話にも共通するが、今の人は無知だと思われることを恐れすぎじゃないかという気がするのだが、いかがであろうか。まあ、ぼくみたいに露悪的なヤツも別の意味で問題だとは思うけど (^^)。

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横文字の多用について

 せっかく地デジの工事の人が来てくれたのに、部屋の片づけが間に合わなくて、一日延期してもらった不届き者の studio-rain です (^^)。

 歳のせいかもしれないが、最近のネット上の議論を見ると、そんなの昔から言われていることじゃん、みたいに感じることが多い。しかも、昔の議論よりも少しでも進んでいればまだよいが、そこからさらに一歩後退したところから議論が始まっていたりするのでイライラする。

 もっとも、自分の若い頃を考えても、昔の哲学者がさんざやっていたような議論を何倍にも劣化させたような議論を、さも深遠で本質的な議論であるかのように思い込んで友達同士でやっていたりしたのだから、人のことは言えないのだろう (^^)。

 ただ、今の時代には、そういう友達同士レベルの議論までがネット上に公表されてしまったりするから、昔の自分のことを忘れてしまったおじさんたちが勝手にそれを覗き見て、「今の若者ってひょっとして○○なのでは?」みたいに思ったりするというすれ違いが起こりやすい、ということは言えるのかもしれない (^^)。

 この「横文字多用はコミュニケーション下手? 「ひろゆき」ブログに賛同者多数」という記事もそうで、ぼくのようなおじさんからすると、今更という感じのする議論だし、この四條さんという方の言っているように、そんなことは一律に言える話じゃないという結論につきるのであるが、いくつか思いついた論点を補足しておきたい。

 一つは、横文字の多用というのは、必ずしも自慢したくてしているとは限らない、ということ。これは、ぼく自身が洋書を読むようになってはじめて気づいたことだが、洋書から直接専門知識を吸収する機会が増えると、いちいち専門用語の日本語訳を調べるということが、だんだん面倒になってくるのである。また、新しい述語には、定訳の定まっていないものも多く、そういう述語にわかり易い日本語訳を与えるというのも、それほど簡単なことではない。

 もちろん、ちゃんと日本語訳を調べて(あるいは考えて)書いた方がわかりやすいのは事実なので、横文字の残る文章を書く人は不親切だとは言えるが、必ずしもそこに自慢するという意図があるとは限らないのである (^^)。

 ぼくも昔は、横文字を多用する学者の文章とかを読むと、「なんで日本語で書かねえんだよ。英語を知ってることを自慢しやがって。けっ」とか思っていたクチなのであるが (^^)、今では、この「自慢しやがって」というのは偏見である可能性もあると思っている。そのへん、洋書をあまり読まない人は気がつきにくいのではないかと思う。

 もう一つは、横文字に対する意識過剰という問題は、聞く側にもあるのではないか、ということ。これは、ぼくの身の回り数メートルの経験論にすぎないので、どこまで一般化できるかわからないが、ぼく個人はむしろ、最近の子は、自分が知らない言葉を聞かされても、さも知っているかのようにフンフンとうなずいて聞く子が多くて困るというイメージを持っている。

  ばく自身は、知識の多寡に重きをおく人間ではまったくないので、ぼくが横文字を使っているときには、単に専門用語を知っている同士なら専門用語を使ったほうが効率的に伝達ができるからか、あるいは、単により適切な言い回しを思いつかないからか、あるいは、専門用語を無意味に多用する人間に対するイヤミとしてわざと使っているか (^^)、ぐらいのことが多い。

 知っていることを自慢したくて使うということもないではないが、それはむしろ、知っている人間同士が「おお同士! あなたもあの本読みましたね?」みたいに共感し合うことが目的なのであって、知らない人間を馬鹿にしたいということではあまりない。

 だから、聞いててわからない言葉があれば、素直にそういってくれれば、わかりやすく言い直したり説明したりする気は人並み以上にあるつもりなのである。そういう相手に対しても、わからなくても質問しないというのはなぜなのか。この場合、横文字を知ってるとか知らないとかいうことに、過剰な意識を持ってるのは、むしろ聞いている側の人間ではないのか。

 もちろん、先輩同士のミーティングに一人だけ参加している新人とかだったら、進行を妨げないために、質問を控えるという配慮をするのもわかる。でも、ぼく一人が講師役で、若い人数人に対して何かを教える、というような場でもそうなのである。これはおかしいのではないか?

 話す側が相手の知識に合わせるという努力も大事だけれども、これだけ世代ギャップの大きい時代に、相手が何を知っていて何を知らないかを完全に予測することなど不可能である。ぼくらの世代から見ると、いまの若い子は、ある面では驚くほど知識があり、またある面では驚くほど知識がないと感じる。そのパターンも人それぞれで予測がつかない。

 上の話とはまったく逆だが、若者に対して何かを一生懸命説明したら、そのときはフンフンと感心して聞いていたのに、後で聞いたら、そんなのは全部最初から知ってました、みたいに言われてズッコケたこともある (^^)。こっちからすると、わかってんならそう言えよ、そうすれば、もっとレベルの高い話をしたのに、と思うのであるが、若者的思考だと、せっかくこっちが一生懸命しゃべっているのだから、知っていても知らないフリをして感心して聞いてあげるのが気配りだ、ということになるらしい。ぼく的には、なんかずれた気配りだとしか思えないのだが (^^)。

 言うまでもないことだが、コミュニケーションというのは共同作業であり、報酬をもらって話をする教師や塾の講師とかならともかく、同僚同士の話とかだったら、聞く側だって少しは努力した方がいいのではないだろうか。その方が、結局は全体のコストの節約になるのだから。

 実は、ぼくの本業の翻訳論においても、カタカナ言葉をどう使うかというのは大きなテーマの一つなのであるが、ここでも、必ずしも使わなければ使わないほどいい、とは言えないのである。

 一例を挙げれば、マーケティング系の文章がある。広告用のリーフレットなどの場合、原文自体にバズワードを多用してあって、バズワードで眼晦ましをかけようという意図がみえみえの文章がある。異論もあると思うが、ぼくは、このような文章の場合、カタカナ言葉を多用してなんか新しそうに見せるという翻訳こそが、原文の意図を正しく反映した翻訳だと思っている。

 だから、ぼくがそういう文章を訳すときには、必要以上にカタカナ言葉を多用するようにしている。もっとも、やっていてなんかむなしくなるので、ぼく個人の嗜好からすれば、そういう仕事はあまり好きではない (^^)。しかし、だからと言って、そういう文章をカタカナ言葉を使わずに意訳するというのは、職業倫理として正しいとは思えないので、我慢して軽薄な広告文を意図的に真似て訳すようにしている。

 ぼくは、弁護士にとって、たとえどんなに共感しがたい凶悪犯でも、全力で弁護するのが職業倫理であるように、翻訳者も、どんなに自分の思想信条に合わない文章であっても、著者の意図を全力で汲み取ってそれを反映して訳すのが職業倫理だと思っている。文章が正しいか間違っているかを判断するのは、翻訳者ではなく、読者の役目なのである。もっとも、出版翻訳で訳者も印税をとっている場合には、ちょっと事情が違うような気もするが。

 ちなみに、SF 翻訳の大家であった故矢野徹氏は、「悪文は悪文に訳すべきである」と言っていた。ぼくも今になってその意味がよくわかる気がする。

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ユニテック、用語集に載る(^^)

 このブログのログをチェックしてて発見したんだけど、ぼくも何度か書いたユニテックという翻訳会社が、ついにアクトワードさんの用語集にまで載ってしまったようです (^^)。

 記述内容はだいたいあってますけど (^^)、所在地は板橋区じゃなくて世田谷区だったのでは(少なくとも登記上はそうなってる)? あと、「社長野口と社員山内が結託して」と書いちゃってますけど、これは向こうの公式見解とは違っているような (^^)。いや、その疑いは濃厚だとぼくも思ってますけど (^^)。

 最近また変な情報をいろいろ入手してるんだよね~。正直もうこれ以上あいつらに時間とられたくないんだけどさ~、でも、まだまだ被害に会ってる人いっぱいいるみたいなんだよね~ (^^)。どうしようかな~。

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伸長、展開、復元、解凍…

  翻訳をしていると、何度訳してもなかなかしっくりと日本語に訳せない言葉というのがいろいろとあって、IT 分野で頻出する decompression という単語もその一つ。この言葉はもちろん、compression の逆を意味するわけだが、compression の方は「圧縮」がほぼ定訳になっているのに対し、decompression の方は、「伸長」「復元」「展開」「解凍」などさまざまな訳語があって、かなり恣意的に使い分けられている。

 なぜこんなにいろんな訳語が使われているのか、自分なりに考えてみると、どうやら、もともと decompression という単語には、

  1. 小さくなっていたものを大きくする。
  2. 変換されていたものを元に戻す。
  3. 書庫ファイルから複数のファイルを取り出す。

という微妙に異なるニュアンスが含まれており、文脈によって、どの意味に重点が置かれるかが変わってくるかららしい。

 たとえば、動画や音声のmpeg 圧縮などを decompression する場合には、1 のニュアンスが強いので「伸長」という訳語が似合うが、 ZIP などの圧縮ファイルを decompression するという場合には、2 や 3 のニュアンスが強いのでむしろ「展開」や「解凍」という訳語が似合う、といった具合だ。

 整理してみるとこんな感じだろうか。

1 の意味

2 の意味

3 の意味

伸長

×

×

復元

展開

解凍

×



これを見れば、どれをとっても帯に短し襷に長しで、どんな文脈でも安心して使える訳がない感じがわかっていただけると思う。

 参考までに、インターネット上にはどんな意見があるかも、少し検索してみた。

  • ちなみに 圧縮 の反対語でテクニカルタームとして用いられるのは伸張という語が一般的です。(AOLブログトーク
  • 「解凍」とは直感的には分かりやすい言葉だが,これは本来「冷凍」したものを常温に復元する事を意味し,圧縮したものを元に戻すのは「膨張,伸長,展開」などの言葉を使うべきであろう。(聖泉大学情報社会学科・田中三千彦氏の公開講義
  •  英語だと、 圧縮 は「 compression 」、解凍は「extractionかdecompression」ですから、「解凍」ではなく「展開」、「伸張」と言うべきだという意見もあります(Microsoftは「展開」という表現を使っています)。(ひとりで使うPC

 うーん、さっきも書いたけど、確かに純粋なデータ圧縮の場合には「伸長(もしくは伸張)」でもいいと思うんですけど、複数のファイルを圧縮してアーカイブ化したものを decompression する場合に、「伸長」と言ってしまうと、そのままでは読めないファイルが元のファイルに復元されると言うニュアンスや、一つのファイルから複数のファイルが生成されるというニュアンスは、ほとんどなくなってしまうんですよね。だから、必ずしも手放しで褒められる訳ではないと思うんです (^^)。

 そーか、そうだったんですか。でも、圧縮ファイルの decompression を指す言葉としては、イメージが沸くいい訳だと思うんですよね。ただ、逆に純粋なデータ圧縮にあてはめると、縮んでいたものが大きくなると言うニュアンスがまったくないので、なんかピンとこないわけです。(水だったら、解凍すると体積は減っちゃうわけだし (^^))

 ちなみに、JIS を見てみると、

やっぱりバラバラやんけ!

 というわけで、私の結論: decompression の訳は、文脈によって使い分けるべし (^^)。

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佐藤信夫再読

レトリック感覚 思うところあって、故佐藤信夫氏の「レトリック感覚」「レトリック認識」「わざとらしさのレトリック 」「レトリックの記号論」を再読。なぜこの四冊かというと、たまたま以前からウチの本棚にあったからである。最初に買った「レトリック感覚」は講談社文庫版で、奥付を見ると「昭和 61 年 3 月 15 日の第一刷」となっている。だから、最初に読んだのはかれこれ 20 年も前だということになる。

 そんなわけで、20 年ぶりの再読だったわけだが、改めて名著だと再認識した。もちろん、当時読んだときもよい本だと思ったのだが、今になってみると、当時はまだまだ全然ちゃんと読めてなかったなあと感じるところが多々ある。

 特に感じたのは、佐藤氏のレトリック論は、実はきわめてポストモダン的だったんだなあということである。まあ、佐藤氏はバルトの「モードの体系」などを訳した人でもあるのだから、ポストモダンの影響を受けているのは、ある意味当たり前といえば当たり前なのだが、当時のぼくは、まったくそういうふうに捉えていなかったのだ。

 これは、ぼくが幼くてそういう論壇の事情などといったものに疎かったということもあるが、佐藤氏自身の文章のスタイルが、そういうことを匂わせなかったことも大きい。実際、佐藤氏の持つ学識からすれば、バルトその他を引用したり、デノテーション、コノテーション、ディスクールなどといったポストモダン/ニューアカ・ジャーゴンをちりばめたりして読者を煙に巻くといったことは、いとも容易だったはずである。

 にもかかわらず、佐藤氏は、用語系も伝統的な修辞学のものを踏襲し、表現もできるだけ平易なものを使い、考え方としてのみ、ポストモダン的なエッセンスをもりこむようにしている。「記号論」所収の「金で買えると言う意味」などというエッセイもそうで、ここでも佐藤氏は、お金を記号とみなすという、当時流行のソシュールの主張を紹介しつつも、それとは一線を画す独自の論を張っている。

レトリック認識 佐藤氏がそのようなスタイルをとらなかった理由が、学者としての美学なのか処世術なのかは定かでないが、そのおかげで、この本は、ぼくのようなど素人でも気軽に読めるような間口の広さと、20 年たっても古びない普遍性を持つことができたことは間違いないだろう。

 だから、このような本を読んでつくづく感じるのは、たとえモダンであろうとポストモダンであろうと、単に流行にのって踊っていただけではなく、佐藤氏のように自分の頭できちんとものを考えていた人の仕事は、やっぱり時代を超えて残るのだなあということである。

  ぼくは普段、ポストモダン的な思想に対して批判的であることが多いが、その態度は、世代的な経験からくるところが大きい。ぼくらの世代は、10 代の多感な時期にニューアカ/ポストモダン・ブームを経験し、20 代でオウム事件や「ゴー宣」ブームを経験した、つまり、ポストモダンから入ってモダンに回帰した世代である。

 そのため、ポストモダン的なものに対しては、いい意味でも悪い意味でも思い入れが強すぎるところがあって、実は他のどの世代よりもポストモダンの影響を強く受けているくせに、単に「モダンはダメダメ」とか言うだけで、何の対案も示せないような人たちには、反射的に反発してしまう傾向があるのだ。

(ちなみに、これはぼくと同年代の思想家・評論家の多くに共通する特徴でもあると思う。ご本人にとっては不本意かもしれないから、名前を挙げるのはやめておくが)。

レトリックの記号論 しかし、素直になってよく思い返してみれば、ポストモダン的な仕事の中にも、佐藤氏の仕事のように、単にモダンを否定するなどというレベルを超えた、ぼくらの思考の血肉となって残ったものもたくさんあったはずなのである。そういう意味で、ぼくは、誰かさんのように、「80 年代はカスだった」というふうに切り捨てる気には、必ずしもなれない。

 最近の若い子を見ると、そういうポストモダン的な素養がほとんどなくて、単にベタにモダンな人が多いように見えて、それはそれで問題だなあという気もするのである。その一方で、ポストモダンの劣化コピーみたいなスピリチュアルなんちゃらとかオカルトとかに惹かれる人も多いようで、なんか両極端に二分されてるような印象がある。これは、前の世代に対する過剰な順応と反発の現われなのかもしれないけれど。

 まあ、若者なんていつの時代もそうかもしれなくて、ポストモダン・ブームにはまっていたころのぼくらだって、年長世代から見たら、きっとすごく危うく見えたに違いないんだよね (^^)。だからまあ、これはそれこそ、坂道で踏むブレーキみたいなもので、大多数の若い子には無視されることを覚悟で言っているわけだけど、そういう若い子には、こういう良質なポストモダンの成果というものを、少し味わってみてほしいなあと、最近ちょっと思うようになってきたのだ (^^)。

 ちなみに、「感覚」と「認識」は、レトリック全般について体系的にのべた本で、「わざとらしさ」はレトリックを多用する作家数人についての作家論、「記号論」はすこしくだけたエッセイ集(と言っても、作家の書くエッセイよりはもちろん理論的だが)という感じ。だから、言葉の仕事に関わる人は、「感覚」と「認識」だけでも読んでおくといいんじゃないかな。

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WhiteSmoke の謎

 WhiteSmoke というちょっと面白いソフトを発見しました。英文スペルチェックソフトにちょっと似ていますが、スペルだけではなく文法(三単現の s がついてるか、みたいな)のチェックもしてくれる上に、「emrichment」、すなわち、文書中の形容詞や副詞を置換して、文章をよりプロっぽくかっこよくしてくれるソフトです。

 ベンダーのホームページにある Flash かなんかでできたアニメーションのデモを見た瞬間、「これはいい!」と思いました。だって、ぼくが英文メールを書くときにも、いつもコロケーション辞典を引いたり、ビジネスレターの文例集を見ながら、この名詞に合う形容詞はどれか、この動詞に合う副詞はどれか、いちいち調べながら書いていますからね。それとまったく同じことを自動でやってくれるなら大助かりと思ったからです。

 ところが、実際に試用版をダウンロードして使ってみてガックリ。まあ、機能自体は期待していた通りのものだったのですが、遅すぎる! 別のアプリケーション(メーラーなど)の中でテキストを選択して F2 キーを押すと WhiteSmoke のウィンドウが開くようになっているのですが、開くまでに数分(数秒の間違いじゃないですよ)かかります。これなら、自分で辞書引いた方が早いよ。

 この手の処理には大量のデータが必要なはずですが、インストールサイズは数 MB 程度なので、おそらく、インストールされているのはクライアントだけのソフトで、実際の処理はインターネット上のサーバーで行っているものと思われます。でも、それならそれで、「現在サーバーと通信中です」みたいなメッセージを出せばいいものを、考えてるんだか暴走してるんだかわからないような状態で数分間待たされるわけです。しかも、その間は呼び出し元のアプリケーションまでロックされて使えなくなってしまう始末。

 ユーザーインターフェースのデザインも、一昔前の感覚で、いまどきのビジネスソフトでは考えられない野暮ったさ。まあ、ベンダーはイスラエルの企業らしいので、欧米とはセンスが違うのかもしれませんが。CNET の紹介記事によると、5万人も顧客がいるらしいのですが、信じられません。

 アイデア自体はいいと思うのに、惜しいなあ。ひょっとしたら、ぼくがテストしたときたまたまサーバーの負荷が高くなっていたのかもしれないし、これから改善されるのかもしれませんが。(もし間違ったことを書いてたら、プロフィールのメールアドレスからメールで指摘してくださいませ。)

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PC-Transer で TM に対訳文を一括登録する方法

 ウチで使っている PC-Transer という翻訳ソフトで、ある裏技のようなものを発見したので、メモしておきます。バージョンは、PC-Transer 翻訳Studio II です。

 通常、PC-Transer で TM に対訳文を登録するには、対訳文を一つ一つ選択して、手作業で登録しなくてはなりません。もちろん、いくら機械翻訳と言っても、まったく人の手で修正する必要のない場合はほとんどないし、逆に TM と完全一致している文であれば、その文はもともと TM に登録されているということなのだから、普通の使い方なら、これで問題ないと思うかもしれません。

 けれども、特定の対訳ファイル内の対訳文をすべて一括して登録したい場合もあるのです。たとえば、

  • 手作業で翻訳を修正した後で、登録操作を行うのを忘れてしまった場合。
  • 原文と機械翻訳の相性がよくて、あまり修正する必要がない場合。
  • なんらかの理由(多くは実験的な)で、機械翻訳のままで TM を作りたい場合。

 このような場合でも、PC-Transer には、特定の対訳ファイル内の対訳文をすべて一括で TM に登録する機能が見当たらないので、これまでは手作業で一つ一つ登録していました。

 ところが、この問題が実に簡単に解決できることに気づきました。インポート機能を使えばよかったのです。PC-Transer のインポートでは、当然のことながら対訳ファイルからのインポートをサポートしていますから、対訳ファイルをそのまま保存して、インポートしてしまえばよかったのです。

 わかってしまえばバカみたいに簡単なことですが、ぼくはこれでずいぶん長いこと悩んでいたので、他の方のお役に立つかもしれないと思うので、ここに書いておく次第です。え、そんなことに気づかないのはお前だけだって? や、やっぱし? (^^)

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VNC による家庭内シンクライアントの勧め

 パソコンでの翻訳作業に関して、以前から悩んでいたことがありました。それは、参考資料をどうやって表示するかということです。 翻訳対象の文書自体は、もちろん作業用の PC の画面に表示するわけですが、文書を翻訳ソフトや翻訳支援ソフトに取り込むと、元の文書のレイアウトは再現されないことが多いので、元のレイアウトを確認したい場合には、印刷イメージのに近い形で表示できる WYSIWYG のソフトでも文書を表示したいわけです。あるいは、元の文書に関係する別の参考資料を見ながら作業したいこともあります。

 このような場合に、参考資料を表示する方法としては、次のようなものが考えられます。

  1. 翻訳対象文書と同じ PC の同じディスプレイの中に表示する
  2. デスクトップを拡張し、ディスプレイを増設して、翻訳対象文書と同じ PC の拡張ディスプレイに表示する
  3. 翻訳対象文書とは別の PC のディスプレイに表示する
  4. 文書をプリントアウトして閲覧する

 1の場合、全画面表示ではウィンドウを切り替える手間が生じますし、ウィンドウを小さくして並べて表示すると、画面上の作業領域が狭くなってしまうのが欠点です。2の場合、画面上の作業範囲は広がりますが、PC 上のメモリその他のリソースはニ文書分とられるので、画面を切り替えてスクロールなどをするたびにメモリスワップが起こって余計な時間をとられる可能性があります。3の場合、PC 上のリソースの負担は分散されますが、画面を操作したい場合に、操作中のキーボードやマウスからいったん手を離して別のキーボードやマウスに移動しなければならないので、作業効率が悪くなりますし、翻訳文書中の特定の単語を検索したい場合などに、コピー&ペーストを行うこともできません。4の場合、特定のページに移動するのに手間がかかりますし、単語を検索したりすることもできません。

 というわけで、どの方法も帯に短し襷に長しだなあとずっと思っていたのですが、先日、このような問題をすべて解決する素晴らしい方法を発見しました。それは、LAN で接続された別の PC に表示して、VNC を使って表示・遠隔操作することです。

 この方法なら、アプリケーション自体は別の PC で動いていますから、ウィンドウを切り替えてもそれほどリソースはとられませんし、ウィンドウを切り替えるのが嫌なら、別の PC の画面をそのまま見ることもできます。また、画面の操作もキーボードやマウスから手を離さなくてもできますし、翻訳対象文書からのコピー&ペーストももちろん可能です。つまり、先にあげた問題点のすべてが見事にクリアされるのです。

 この方法を試してみてつくづく思ったのは、こんな簡単なことを、なぜ今まで思いつかなかったのかということ。デスクトップとノートブックは前から LAN でつながっていましたし、VNC というソフト自体の存在も数年前から知っていて、折にふれて使っていたのに。

 考えてみると、やはり、いろんな固定観念が邪魔していたんですね。

  • ネットワーク間での情報転送は遅い
  • ビットマップ転送は必要なところだけを再描画するより遅い
  • リモート操作は、離れた場所にある PC 間で使うものだ

 ぼくはインターネットならモデムの速度が 9800 bps ぐらいの時代から使ってますし、イーサネットだって昔は 10BaseT、つまり 10 Mbps が最高速度でしたから、ネットワークというのはボトルネックになるという意識が染み付いてるんですね。だから、ネットワーク経由でビットマップ転送を行うようなソフトが速い訳がないという先入観がありました。でも、今では無線 LAN ですら 50 Mbps 出る時代ですからね。

 また、ぼくはグラフィック関係のプログラミングを専門にやっていたので、グラフィック関係の処理は計算量を食うというイメージが頭に染み付いているんですね。ぼくが初めて書いたグラフィック関係のプログラムは、BIOS の点を描画するという機能を呼び出して長方形を描くというもので、当時は PC 自体が遅かったせいもありますが、長方形 1 個描くのに何秒もかかったものです。それではあまりに遅いというので、アセンブラを覚えてフレームバッファを直接書き換えて、少しずつ少しずつ処理を高速化するというようなことを長年やってきた人間なので、しつこいようですが、描画命令だけを転送するならまだしも、ビットマップ自体をネットワーク経由で転送するようなソフトが速いわけないと思ってた (^^)。

(昔 NTT とかが一生懸命やってたにもかかわらずまーーーったく普及しなかった、ビデオテックスとかキャプテンとかいうのだって、いかにビットマップ転送せずに、描画命令だけをやりとりして画面を再現するか、というのが一つのテーマでしたからね。)

 また、VNC のような遠隔操作ソフトを、わざわざ目の前にある PC に対して使うというのも盲点でした。でも、そうしたおかげで、キーボードやマウスを2セットならべてとっかえひっかえ使うことによるストレスがあっさりなくなったのです。

 つまり、イノベーションの障害になるのはやっぱり先入観や固定観念である、という当たり前の結論なんですけどね (^^)。

 この経験から思ったんですけど、最近のウェブ・アプリケーションで流行りの Ajax なんかも、画面全体を再レンダリングしなくても、必要なところだけ再描画できるというのが一つの利点じゃないですか。でも、光ファイバーが普及して、途中の回線の速度がメチャメチャ速くなったら、そういうのもみんな無意味になる可能性もありますよね (^^)。そんなややこしいことしなくても、画面全体ビットマップ転送した方が速いよ、なんて (^^)。

 ともあれ、この方法、予想以上に作業効率を改善できますし、翻訳以外の業務にも応用できると思うんで、家庭内や SOHO 内で LAN を組んでいる方は、一度試してみてはいかがでしょうか (^^)。

追記: Windows の場合、UltraVNC の最新版で [Video Hook Driver] (NANASI さんの日本語版では [ビデオフックドライバ])というオプションをオンにして使うことをお勧めします。このオプションを使うと、サーバーの負荷が劇的に減ります(少なくともウチの環境では)。これ以外の VNC を使用したり、このオプションを有効にしないと、 やっぱりまだまだ重いかもしれません。なお、UltraVNC の場合、なんらかの日本語パッチを当てないと、(UI が英語なのはいいとしても)全角・半角キーが効かないという致命的な欠点があります。

余談: Ajax を使ったサイトは、YouTube にしろ del.icio.us にしろ、同期のタイミングがよくわからないものが多い。YouTube のプレイリストなんかも、削除しても消えないことがあって、何度も何度も削除操作を繰り返していると、やっと消えたりするし、del.icio.us のコメントなんかも、書き換えてからしばらくして再表示すると元に戻っていたりする。あれってなんなんだ? ただのバグ?(^^)

 

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イライラ

  • right angle - 正しい角度
  • segment of a circle - 円の線分
  • not generally possible - 基本的に不可能

 このド素人がぁ~、こんなんで金とっていいと思ってんのかっ! やめてしまえっ!

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訛り吹き替え

 英語圏のテレビを見ていて気になることの一つが、英語以外の言語を英語に吹き替えたときの英語が、必ずと言っていいほど訛っていることです。たとえば、元の言葉がフランス語ならフランス語訛りの英語に、ドイツ語ならドイツ語訛りの英語になってるわけ。日本のテレビ局ではこんなことやんないですよね。中国人の台詞を「○○あるヨ」と吹き替えたり、韓国人の言葉を「○○ニダ」と吹き替えたりしたら、差別だとか言われかねないでしょう。なぜ英語圏ではこれが普通になっているのか、機会があれば調べてみたいです。

 なぜ突然こんなことを思い出したかというと、昨日テレビで「エアフォース・ワン」を見ていたら、ゲイリー・オールドマンがなんか訛った英語をしゃべっていたから。たしか、「レオン」や「フィフス・エレメント」ではあんな訛ってなかったから、わざとやってるんでしょうね。そのせいか、切れっぷりが「レオン」ほどではなかったような気がするんだけど (^^)。

 しかし、「エアフォース・ワン」はどうなんでしょうねえ (^^)。インターネットで検索してみると、アメリカ万歳的なところはともかく、エンターテイメントとしてはそこそこ面白いみたいな評価が多いんだけど、エンターテイメントとしても演出が散漫ではないかなあ。

 たとえば、事務やってるような太ったおばさんがパラシュートで飛び降りるときに、なんの躊躇もしないなんてことはありえないでしょ。そこで、怖がっているのをなんとかなだめすかして飛ばせる、みたいな演出がなぜないのか。あるいは、大統領からファックスが届いたのを見てニヤリとするみたいなシーンはなぜないのか。給油機やエアフォース・ワンの盾になって死んだ戦闘機のパイロットにも、実は娘がいて、みたいな演出はなぜないのか。最後に大統領がワイヤーで移動するところだって、人間ドラマとしては葛藤があって一番おいしいところなのに、裏切り者を出して誤魔化しちゃうし。

 結局、この映画が追っかけてるのは、大統領(とその家族)が助かるか助からないかだけで、あとははっきし言ってどーでもいいわけね。演出がそうなっとる (^^)。だからゲーム的にストーリーをなぞるだけで終わっていて、あんましふくらみがないんだよね。これをエンターテイメントとしては面白い、といってしまうのは、エンターテイメントをなめた発言ではないかなあ (^^)。

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ごめんよ、ジョージ・クルーニー

 ちょっと古い記事だけど、ガーディアンはワシントン・ポストとほとんど正反対のこと言ってますね。

 (この表題はもちとん、「ダルフールに最終的に必要なのは西側の軍隊だ」ではなくて「ダルフールに西側の軍隊を送るのは最後の手段だ」ってことですね (^^)。)


Sorry George Clooney, but the last thing Darfur needs is western troops

The Guardian
19 Sep 2006


 スーダンの西部地方にあるダルフールに国連軍を送り込むことを求める、最近の運動の盛り上がりの周囲には、偽善とは言わないまでも、非現実的な雰囲気が漂っている。俳優ジョージ・クルーニーは、国連の安全保障理事会の壇上に上がり行動を訴えた。トニー・ブレアも、この問題に飛びついて他の EU 指導者に手紙を出した。世界の多くの都市では、迫りくる大量虐殺を警告する抗議団体によって、「世界ダルフールの日」が開催された。けれども、イラクやアフガニスタンへの介入によって痛い目に合った西側の政府が、またさらに別のイスラム国家に対して軍事力を行使するなどということが、本当に可能だろうか。

 西側の団体は、ハルツーム政権を転覆させる運動を長いこと続けてきた。アメリカのキリスト教右派や親イスラエル派の人々は、この政権をイスラム原理主義政権であると主張していた。人権擁護運動家は、奴隷制の問題をとりあげ、アラブ人の略奪者は、政府の支援を受けながら、日常的にアフリカ人を誘拐して、生きた所有物として利用していることを示唆していた。クリントン政権は、かつてウサマ・ビンラディンがそこに住んでいたという理由で、スーダンをテロ支援国家として挙げていた。

 このような背景に鑑みれば、3 年前にダルフールで内戦が勃発したときに、公平な報道を期待することは最初から困難であった。この地域には、さまざまな部族や地域の対立が渦巻き、政府側に立つ者と反政府側に立つ者が入り混じっているにもかかわらず、農民と遊牧民とを敵対関係に追い込んだ不平不満は、アラブ人対アフリカ人という単純すぎる図式で紹介されたのである。

 非対称の戦争でありがちなように、反乱軍の攻撃に対するスーダン政府の実力行使が、過剰反応だったことは確かである。ハルツームによって組織され武装された、ジャンジャウィードと呼ばれる民兵組織は、一般市民とゲリラ戦士の区別をしなかった。彼らは、小屋を燃やし、女性を犯し、何万もの一般市民をチャド国境の外側やダルフール内の難民キャンプに強制的に追いやった。けれども、実際には反乱軍も残虐行為を行っていたのである。この事実は、編集者の多くが好む白黒はっきしりた単純な倫理観を揺るがすので、ほとんど報告されていないが。

 多くの戦争では、政府側は情報操作を行い、メディアは真実を追究する(ことが多い)。ところが、ダルフール問題についてはこの逆であり、各国政府の方がより真実をつかんでいるのに、メディアが情報操作を行ったのだ。ダルフールでの殺人を大量虐殺として描こうとする努力にもかかわらず、この説には国連も EU も同調しなかった。これは、彼らの道徳的な視野が狭いためではなく、残虐な内戦と、意図的な民族浄化政策の違いを理解していたからだ。ダルフールは、ルワンダではないのだ。アメリカだけは、この大量虐殺説を受け入れたようだが、それは、説得されたというより国内のロビー運動に譲歩しただけだろう。国際法のもとでダルフールに強制的に介入するには、実際に大量虐殺が発覚することが必要なので、ワシントンが実際に介入に乗り出すことは決してなかった。

 その代わり、アメリカは、西側政府がアフリカ連合(AU)にハルツームと反乱軍の間の和平会談を仲介させることを支援した。この努力は、5 月に作成された、ジャンジャウィードが反乱軍より先に武装解除するという合意に実を結んだ。この合意はさらに、反乱軍の指導者たちに、この地域を自ら統治する権限を与えていた。なのになんということか、反乱軍うち 2 つのグループは、この調印を拒んだのである。したがって、公平なレポートはすべて、この夏の戦争再燃の責任のほとんどは、政治指導者がエリトレアの首都アスマラの安全地帯で口げんかをしている間に、戦場指令官が派閥に分裂してしまった反乱軍の方にあるとしている。

 彼らが、和平協定の条件が不十分だったと主張することには、正当な理由があるかもしれない。難民家族の中には、ハルツームは金銭的な補償を払うべきだと言う者もいる。また、この和平協定には強制手段がないので、村に戻って再建しようとする人々を守ることができないだろうと言う者もいる。しかし、正しい対応は、戦争を再開することではなく、さらに対話を続けることである。アフリカや西側の外交家は、反乱軍に再考を求めようとしているが、反乱軍同士の確執にうんざりしている。ダルフールについてのブレアの手紙にしても、ほとんどのメディアが事態を一方的にしか見ようとしていないにもかかわらず、反乱軍とハルツームの両方に圧力をかけること求めるように注意を払っている。

 ダルフールに国際平和監視団を派遣して、キャンプの避難民を保護することは不可欠であった。 2 年前、ハルツーム政府はこれを受け入れ、AU が 7,000人の軍隊を配備することを認めた。けれども、今年の初めになって、AU は資金やヘリコプターその他の装備不足のため、西側政府と歩調を合わせて、国連に主導権を引き継ぐことを求めるようになった。これこそが、今現在、議論すべき点である。西側でスーダンに軍隊を派遣したい国など、どこにもないのだ。レバノンへの国連軍の増援が行われるまでには何週もかかったし、アフガニスタンでは、NATO 諸国のほとんどが、失敗しつつある戦争に軍隊を送ることを躊躇している。実際には、たとえ国連軍を送ったとして