イーオン・フラックス

 仕事をしながら気楽に観られそうな映画ということで、オンデマンド TV で「イーオン・フラックス」をながら視聴。もっとダメな作品かもと覚悟はしていたのだが、思っていたほどひどくはなかった。もちろん、A 級の作品としては評価できないが、最初から B 級だと思ってみれば、そこそこ観れるという感じ。

 比べるとすれば、「ターミネーター」「ロボコップ」「プレデター」「スピーシーズ」といったあたりだろうが、やっぱり「ターミネーター」や「ロボコップ」にはキャラの立ち方ではるかに劣る。

 ただ、「エイリアン」のバッタもん的な「スピーシーズ」と、「マトリックス」のバッタもん的な「イーオン」のバッタもん対決では、「スピーシーズ」ほどエログロだけでひっぱっていくわけではないという点で、「イーオン」の方が多少好感が持てる。

 この映画のわずかに捨てがたい点は、未来世界の造形のチープさが、ヴァーチャル世界の閉塞感のメタファーになっているところかもしれない。もちろん、意図的なものなのか、低予算による怪我の功名なのかはよくわからないが(^^)。そういう意味でも、宇宙人の不気味さが巧まずしてベトナム戦争の泥沼のメタファーになっている「プレデター」と比べるぐらいが適当かな(^^)。

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2008年の扉を明けて

 やっと今年の年賀状を発送しました。先に年賀状くれた方、遅くなってごめんなさい。本当は 7 日過ぎたら寒中見舞いにしなきゃいかんそうですが、勘弁してください (^^)。

 今年の絵はこんな感じになりました。

nenga2008-blog.jpg

 例年はもっと明るい感じの絵なんですが、今年は、あまり明るすぎると世の中の気分に合わないような気がしたので、多少地味目にしつつ、2008年の扉を明けて前進するという前向きなメッセージを込めたつもりであります(^^)。

 CG 作成に使ったのは、Art of Illusion MakeHuman。どちらもフリーウェアです。

 Art of Illusion は、汎用的な 3DCG ソフトで、今回初めて使ってみたのですが、インターフェースがわかりやすくて初心者向きだと思います。本当は、今年こそ Blender を習得しようと思ってたんだけど、面倒になって日和りました(^^)。

 MakeHuman は、人体モデル専用のモデリングツールです。これはまだ開発途中なんだけど、かなりリアルな人体造形が可能ですね。実は性器の造形までできちゃうんだけど、さすがに今回はその機能は使ってません(^^)。ただ、プロポーションにはぼくの好みが反映されてます。

 あと、ポーズのパラメータを決めるのにも、相当苦労しましたね。もちろん、人間の関節の構造からして不可能なポーズはとれないようになっているのですが、バランスをとって立っていられるかどうかみたいな、力学的な構造安定性まではチェックしてくれないので、せいぜい不自然にならないようにポージングしてみたつもりです。

 でも、肩の関節なんて、ホントにパラメータが多すぎてわけわかんないですよ。そうか、この柔軟性が手塚一志先生のおっしゃっていたダブルスピン打法を可能にしているんだなー、と実感いたしました(^^)。

 そんなわけで、今年もよろしくお願いいたします。

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芸術は理学、娯楽は工学

 芸術とは何か、という議論は、文明発祥のころからあるふる~い議論で、しかもいまだに万人を納得させるような結論が出ていない問題である(らしい)。今から、そういう万古普遍の問題に、ぼくみたいな凡人がこの場で結論を出してしまうという蛮勇芸をやるので、仕上げをごろうじろ(^^)。

 ぼくらの若い頃の芸術観は、基本的に、権威主義から相対主義という流れだった。その反動からか、最近の若い人たちの芸術に対する考え方は、相対主義から芸術的価値論に戻りつつあるような気配がある。

 もちろん、そのこと自体はまったく悪いとは思わないのだが、彼らの議論を見ていると、芸術的価値論を語るために必要な、美学理論の歴史や概念に対する知識が、少々不足している人が多いように感じられる。

 先日取り上げたケータイ小説の話なんかでもそうで、こんなのは小説・芸術ではないという意見を言うことはべつにいいのだが、それを根拠付けるのが、結局は、過去の名作とされる作品との比較だったりする。

 しかし、言うまでもないことだが、芸術の歴史は芸術的価値観の変化の歴史でもあるので、過去の名作に似ていないことが、単純に駄作の証明になるわけではない。だから、そういう人は、これは新しい時代の芸術であって、それが理解できない奴の方が時代遅れだという、太古の昔からある主張にすらうまく反論できなかったりする。

 したがって、芸術もエンターテイメントも同じだというような一種の相対主義を排しつつ、積極的に芸術的な価値を主張するためには、過去の一流の芸術作品との類似性などという安易な考え方ではない、もっと本質的な芸術の定義を考えなければならないのである。

 実は、これから披露するぼくの芸術に対する考え方の基本は、前にも書いたことがあるけど、山崎正和氏が「芸術・変身・遊戯」などでしている主張や、 山形浩生氏が「アート・カウンターパンチ」 でしている主張と(たぶん)だいたい同じ。もちろん、両氏はぼくのようにズボラではなく、ちゃんと美学理論の歴史を踏まえた議論をしているので、詳しく知りたい人はそちらを参照して欲しいが、両氏の主張をぼく流に大雑把にまとめれば、「芸術とは発見である」ということになる。

 発見する対象は、知覚を通じて人間に影響を与えるものなら、なんでもよい。感動するもの、美しいもの、泣けるもの、笑えるもの、怖いもの、そのどれにも分類しにくい不思議な感情を与えるもの、すべてが芸術でありうる。(したがって、人生の意味をマジメに考えるのが文学で、冒険活劇がエンターテイメント、みたいな分け方ももちろん間違い。)

 たとえば、「人を感動させるものが芸術である」、というありがちな主張があるが、これは、ぼくに言わせれば間違いである。ぼくの定義では、芸術と言えるのは、あくまでも、何が人を感動させるかを「発見する」行為の方であって、「感動」の方は、あくまでその発見の副産物にすぎないのだ。

 もちろん、何が人を感動させるかを発見すれば、その知見を利用して人を感動させることもできるようになる。したがって、そのように、芸術的行為によって発見した方法を使って、人を感動させることを目的に作られた作品がエンターテイメントである、と定義することができよう。

 この関係を科学分野に置き換えれば、芸術は理学、エンターテイメントは工学に相当するということになる。理学というのは、科学的な方法で自然界の法則を「発見」することを目的とする学問であるし、工学というのは、理学によって発見した法則を利用して、人の役に立つものを作ることを目的とする学問だからだ。

 ただ、同じ「発見」が目的と言っても、理学と芸術では方法が違う。たとえば、「感動」の原因を発見するにしても、理学では、ニューロンがどうのシナプスがこうのと、要素に還元して説明しようとするのに対し、芸術では、実際に人を感動させる作品を創作して鑑賞させるという、一種の人体実験を行うわけだ。

 ここで注意すべきは、エンターテイメントの方も、実際に人を感動させる作品を作るという点においては芸術と同じだということ。芸術とエンターテイメントの区別が、理学と工学などの区別に比べて難しいのは、これが理由であると考えられる。

 また、このたとえでもわかるように、芸術とエンターテイメントは、必ずしも価値的に上下の関係にあるわけではなく、むしろ、それぞれ別個の価値基準によって評価されるべきものだと言える。これは決して単なる価値相対主義ではない。なぜなら、どちらの価値基準でも高く評価できる作品もあれば、どちらの基準でも低くしか評価できない作品もあるのだから。

 ここまで読んで、そりゃお前が勝手に決めた定義だろう、と思う人もいるかもしれないが、この定義は、芸術やエンターテイメントに対する常識的な共通認識を整合的に理論化したものにすぎない。その証拠に、一般に芸術とエンターテイメントの違いとして認識されていることのほとんどが、この定義から導き出せる。以下それを少しやってみせよう。

 このような前提から必然的に導かれるのは、芸術作品は歴史的に一回性のものであるということだ。つまり、結果としてまったく同じ作品であっても、芸術的行為と言えるのは、歴史上初めてその作品を創作する行為だけであって、二回目以降の模倣はすべて娯楽作品になる。逆に、エンターテイメントは、現在の鑑賞者を感動させることが目的なのだから、歴史性よりも同時代性で評価される。つまり、芸術としては模倣にすぎなくても、同時代のエンターテイメントとしの価値は上ということがありうるのだ。

 例としてぼくがよく挙げるのはヒッチコックの映画。ぼくより上の世代では、ヒッチコックの映画は名作ということになっているらしいのだが、ぼくはどうしても、ヒッチコックの映画でそれほど感動することができない。なぜなら、どうしてもテレビでやっているなんとかサスペンス劇場と同じじゃん、と感じてしまうからだ(^^)。

 もちろん、ヒッチコック映画とその手のテレビドラマでは、お金や労力の掛け方がかなり違うので、ヒッチコックの方が映像が美しく、脚本もよくできている、ということぐらいはわかるのだが、それはあくまで頭で理解しているだけであって、純粋に作品を鑑賞しただけで感動することはできないのである。この話をぼくと近い世代の人にすると、たいてい同意してくれるので、これは決してぼくの独りよがりや感受性の貧困のせいではないと思う。

 この現象を、ぼくの理論で説明するとこうなる。ヒッチコックの映画は、最初に創作された時点では、新たな感動の発見であると同時に、人を感動させる方法でもあった。つまり、芸術でもありエンターテイメントでもあった。ところが、後の世になって、ヒッチコックが発見した「感動の方法」を利用したエンターテイメント作品が大量に製作された結果、多くの人がその感動に飽きてしまった。その結果、ヒッチコックの映画は、現代のエンターテイメントとしては成立しなくなってしまったというわけだ。

 またこの理論から、一般に、芸術はハイリスクであり、エンターテイメントはローリスクであるということも言える。なぜなら、芸術はまず作者を対象とした人体実験として行われるので、仮に作者自身を感動させたとしても、必ずしも万人を感動させる保証はない。それに対し、多くの人を感動させることが確認済みの技術で製作されるエンターテイメント作品は、史上初めての感動を提供する芸術作品に比べて感動の鮮度は低いかもしれないが、感動させることに失敗するリスクは低いからだ。

 したがって、先ほど、芸術とエンターテイメントに上下はないと言ったが、少なくとも、現代のような商業芸術の時代においては、芸術家よりエンターテイナーの方が安定した収入を得やすい、ということは言えそうである。たぶん、芸術家よりエンターテイナーの方が社会的地位が低いのは、その裏返しなのだろう。逆に、現代の芸術家がハイリスクに見合ったハイリターンを得るには、リスクをヘッジしてくれる資本家が必要なはずで、これで一時よく言われたパトロン待望論も説明できるわけだ。お後がよろしいようで(^^)。

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ケータイ小説初体験

 ケータイ小説「恋空」を読んでみた(^^)。

 ケータイ小説について、賛否両論あることは知っていた。中高生には圧倒的な人気がある。しかし、従来の小説を読んできた人たちは、否定的な評価の人が多いらしい。その一方、新しい世代による新しい時代の小説として評価する人もいるようだ。どの評価が正しいのかは、つまるところ、読んで見なければわからない。それを確かめたくなったのだ。

 読了後、山田太一氏の「『オーケストラの少女』はひどい映画か?」というエッセイを思い出した。それは、指揮者の岩城宏之氏のエピソードに関するエッセイだ。岩城氏は、少年時代に「オーケストラの少女」を観て感動し、その影響で指揮者になったそうだ。ところが、大人になってからもう一度「オーケストラの少女」を観たところ、子供のときの記憶とは違って、どうしようもなくひどい映画としか思えなかった。それで氏はおおいに落ち込んでしまったという。

 このエピソードについて、山田氏はこう言う(このエッセイを収録した本は処分してしまったので、細部はうろ覚え)。おそらく、「オーケストラの少女」は、たいていの大人にとってはひどい映画なのだろう。しかし、ひどい映画だからと言って、子供に見せない方がいいとは思わない。子供というものは、大人が名作だと思うような作品で成長することはあまりなく、むしろ、俗悪な作品こそが子供を成長させることが多いからだ。現に、「オーケストラの少女」は岩城氏を指揮者にしたではないか…。(念のために補足すると、このエッセイのポイントは、名作・俗悪という価値基準自体を変更せず、にもかかわらず子供にとって俗悪は必要だ、という論法になっていることである。)

 ぼく自身も人並み以上にそうだったが、子供というのは、実にくだらないことに熱中する生き物である。マンガやテレビ番組だけのことではない。サケブタやスーパーカー消しゴムのようなよくわからないグッズ収集もそう。ぼくなんかアホだから、もっともっとくだらないこともたくさんしている。チョークを食べる。舌を三つ折にする。消しゴムのかすをまるめて練り消しゴム状にする。牛乳瓶のフタについているセロハンに穴をあけ、その穴を徐々に広げていって、しまいにはその穴をくぐる。道に落ちている刀の形をした鉄片を拾い集める…。

 どれも、文化や芸術とはなんの関係もないし、社会的な影響力もない。でもおそらく、理由はよくわからないけど、当時のぼくにとっては必要なことだったのだろう。

 「恋空」も、確かに傑作とはいいがたい。ぼく自身もそれほど感動しなかったし、客観的に観ても、後の世になって名作として再評価されるということも、おそらくないだろう。

 ただぼくは、だからと言って、この小説をそんなにムキになって批判する気にもなれないのだ。別に誰も芥川賞や直木賞をやれと言ってるわけじゃない。書きたい子が書いて、読みたい子が読んでるだけのことではないか。やれ間違った知識が書いてあるとか揚げ足とりみたいなことを言ってる人もいるけど、そんなのは大した問題とは思えない。子供を騙して金を儲けているという批判もあるが、そういう人たちだって、子供達のやることについて行けない年寄りに受けそうなことを言って金を儲けているとも言える。

 また、文学的に新しい手法とまではいかないものの、現代的な感覚を感じるところはいくつかあった。たとえば、あのリズム感を重視した行間の空け方や改行の仕方などはなかなか面白い。恋愛や友達関係の大部分がメールやケータイの会話で進行するのも、伝統的な小説ではなかったことだろう。友達同士がすぐ裏切ったりウソをついたりするのも、その後わりとあっさり仲直りするのも、ぼくの世代の感覚からするとかなり違和感があるのだが、今の子にはそれなりにリアリティを感じられるらしい。だから、これがミヤダイ先生のよくおっしゃるカジョーリュードーセーってやつなのかなあ、なんて思ったりした(^^)。

 このような点から考えても、どちらが文学的にすぐれているかという話とは別にして、ケータイ小説が、従来の小説からは得られないなにかを、今の若い子たちに与えている、ということはありそうである。

もちろん、

ぼくだって、この小説ですごく感動したとは言えない…。

でも、

だからといって、やたらムキになって悪口を言う人も、

なんだかキモいと思ってしまったんだ…。

ただ…

ひとつだけ気になること。

それは、ぼくみたいなオヤジがこんなことを書くと、

若い子にモテたいという下心がミエミエだ、

と思われそうなことなんだ…。

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菊地成孔にはまり中

大停電の夜に オリジナル・サウンドトラック  「cure jazz」が気に入ったので、菊地成孔氏の作品を(iTunesで)立て続けに購入。購入したのは現在のところ「大停電の夜に オリジナル・サウンドトラック」、「パビリオン山椒魚 オリジナル・サウンドトラック」、「南米のエリザベス・テーラー」の 3 枚。 「大停電の…」だけはワリと普通で今一つ物足りなかったが、「山椒魚」と「南米」はどちらもかなり気に入った。

 とにかく引き出しの多い人で、ジャズっぽい作品、細野晴臣的とも言えるエスニックなエキゾティシズムを感じさせる作品、フレンチポップス風の作品など、どれもそれなりによいのだが、個人的に特に気に入ったのは、ジャズと現代音楽の中間的な手法を使った作品群。

 たとえば、「南米」収録の「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」は、初期の武満徹みたいな作風で、途中で入ってくるリズムセクションがなかったら、武満徹の作品ですよと言ってもバレないんじゃないかと思うぐらい(^^)。と言っても、決して猿マネではなく、きちんと手法として咀嚼した上で独自の作品として成立させている。

(Enigma がオルフの「カルミナ・ブラーナ」をネタにしたとき、日本でも誰か武満徹リミックスとかやればいいのに、とか思ったんだけど、ようやくそういう人が出てきたとも言えますね(^^))

 また、「山椒魚」収録の「映画女優は体操服の夢を見る」は、新ウィーン楽派のアルバン・ベルク、あるいは、その遠い継承者である(とぼくが勝手に思っている(^^))半野喜弘を彷彿とさせるような作風で、これもかなり完成度が高い。

 ちなみに、「山椒魚」には、エレクトロニカ風の音作りをした作品も何作かあるので、そういう意味でも半野氏と共通点があるなと思って調べてみたら、菊地氏と半野氏は実際に競演したこともあるらしい。さもあらんという感じである。

 ぼくは正直、ジャズという音楽ジャンルはもう袋小路なんではないかと思っていたのですが、こんな人がいるんだったら、認識を改めねばならないと思いました(^^)。 この人はたぶん、ジャズをスタイルとしてではなく、あくまで手法として捉えているんでしょう。だから、純粋にジャズをやる場合でも、惰性でやってる感じがしないように新鮮に響かせることもできるし、ジャズ的な手法を自由に他の手法と組み合わせることもできるんでしょう。そういう知的な距離感があるところがいいですね。

 菊池さんといい半野さんといい、こういう現代音楽的な手法をポップス的な手法と組み合わせて使いこなせる人がどんどん出てきたようで、頼もしい限りです。しかも彼ら新世代のアーティストには、これはゲンダイオンガク的な手法なんだぜぇ~すごいだろ~控えおろう、というようなカッコつけや権威主義がなく、単にこの手法が自分の表現に必要だから使うんだ、という率直さを保っているところがいい。今後の音楽シーンがますます楽しみになってきました。

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cure jazz

cure jazz  「cure jazz」というのは、1 年ぐらい前にちょっと評判になった作品で、個性派ボーカリストとして知られる UA を、ジャズ畑のサックス・プレーヤーにして音楽評論家でもある菊池成孔氏がプロデュースしたという話題作。リリース直後からショッピング・カートに放り込んであったのだが、実際に購入したのは数日前。きっかけになったのは、「爆笑問題の日本の教養」の音楽を菊池氏が担当していることを知ったからであった(そんなんばっか(^^))。

 そんなわけなので、正直ぼくは、これまであまり菊池氏の音楽を聴いたこともなかったのだが、一聴して感心したのは、ポピュラー音楽プロデューサーとしての氏のバランス感覚のよさである。

 これはぼくの偏見もおおいに含まれていると思って読んで欲しいのだが(^^)、ジャズ畑の人というのは、だいたいロックやフォークのようなポップスを馬鹿にしていて、ジャズはそういうポップスより一段高級な音楽だというプライドを持っている人が多い。だから、他人のプロデュースをする際にも、ジャズというスタイルに固執するか、逆に開き直って、売れているポップスを真似したりするのだが、それが心からいいと思ってやっていないので、ポップスとしては二級品になってしまうことが多い。

 ところがこの作品の場合、 スタイルとしては完全なコンボジャズそのものだし、取り上げている曲も半分ぐらいがジャズのスタンダードだったりするのだが、プロディースの方法論としては、一般的なポップスの方法論が踏襲されているのである。

 そのため、作品全体としては、いわゆる「どジャズ」や「どブルース」になっていないし、もちろん、手垢の付いた「フュージョン」にもなっていない。つまり、あくまでジャズでありながら、ジャズというスタイルに安易に寄りかかることなく、幅広いリスナーに対して希求力を持つような、自立した表現になっているのである。そこに、ポップス全般を幅広く批評してきた菊池氏のバランス感覚を感じる。

 たとえば、ありがちなジャズの録音では、ライブ感覚を重視するので、(たとえ実際には同録ではないとしても)同録に聴こえるようなとり方をすることが多い。しかし、この作品では、売れ線のポップスと同じような、マルチトラック・レコーディングとその後の編集による音作りが行われている。それはたとえば、「Ordinary fool」という曲のピアノにかかっているロング・ディレイなどを聴けばよくわかるだろう。

 もちろん、そのようなプロデュース・ワークを成立させているのが、UA の半端でない歌唱力であることも忘れてはならない。彼女のような、本来ジャズ畑出身ではないシンガーがスタンダードなどを歌うと、下手糞なジャズになってしまうか、自分のスタイルに引き付けすぎてしまってジャズでなくなってしまうことが多いのだが、彼女の場合、ジャズシンガーのスタイルを真似ようとするわけでもなく、自分の得意なスタイルで誤魔化そうとするのでもなく、歌が本来表現したかったものを忠実に表現しようとしているように見える。そのような姿勢が、このような奇跡的な瑞々しさを生み出す原動力になっているのであろう。

 スタイルに安易に寄りかかることが、いかに芸術をダメにするか、逆に、スタイルに依存しない自立した表現を志すことが、いかに瑞々しい作品を生み出すかということを、これほど端的に表している作品もあまりないと思う。幅広いリスナーに一聴をお勧めしたい。

 ちなみに、ぼくが一番気に入った曲は、「Music on the planet where dawn never breaks」で、こういう曲がもっと多かったら、ぼく個人の評価はもっと高くなっていたと思うが、それではやっぱり、セールス的に問題なのかもしれない(^^)。

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Ballads for the Atomic Age

BALLADS FOR THE ATOMIC AGE Radiq こと半野喜弘氏のニューアルバム「BALLADS FOR THE ATOMIC AGE」、これも遅まきながら入手。

 これはたぶん、半野氏の Radiq 名義の作品の中では、もっとも出来がよいのではないだろうか。半野氏が Radiq というプロジェクトで追求してきたスタイルが、かなり完成に近づいているのではないかという印象を受けた。

 Radiq 名義の作品が他の半野作品と最も違うところは、リズム隊である。半野氏は、確かにヒップホップやドラムンベースも手がけているのだが、これまでの作品では、ドラムやベースをあまり前面には出していなかった。特に、ブラック・ミュージック的なベースラインへのこだわりは、ほとんど感じられなかったと言ってよい。

 その半野さんが、この Radiq というプロジェクトでは、ブラック・ミュージック的なヒップなリズム隊に、律儀なまでに固執している。当初はそれが、半野さん独特のデカンダンスな和声感覚や官能的な音色と、いまひとつ噛み合っていないようにも思えたのだが、ここに来て、それがいわば半野式ブラック・ミュージックともいうべき、一つのスタイルとして結晶しつつあるようだ。

 これまで、半野氏の Rqdiq 名義の作品に関しては、中途半端なほめ方をしてきたぼくだが(それはあくまで、ぼくの半野氏に対する期待水準が半端でなく高いからであって、そんなことを言いつつも、どの作品もちゃんと購入して愛聴しているのであるが(^^))、この作品については、「Lido 」と「Angelus」の次ぐらいにはお勧めできるのではないかと思う。

 ただ、一つだけ後悔していのは、他の作品はすべて CD で購入しているのに、この作品だけ iTMS で購入してしまったこと(忙しかったんです(^^))。エレクトロニカ作品は一般にそうなのだが、特に半野さんの作品では、音色の官能性が芸術的な強度を支えており、その美しさは、iTMS の 128kbps のビットレートでは必ずしも十分に再現できないのである。

 ビットレート 128 kbps と 200 kbps 超では、女性にたとえて言えば、ティーンエイジャーの肌と 30 代の熟女の肌ぐらいの質感の差がある(^^)。その差は、普通のロックなんかではあまり問題にならないのだが、半野氏のような音楽では、ほとんど致命的な差となって感じられてしまうのである。

(ちなみに、前回とりあげたレイ・ハラカミ氏なんかは、エレクトロニカ・アーティストでありながら、あまり音色にこだわりのない珍しい人で、彼の作品は、128 kbps で聴いてもそれほど音楽の強度が低下する感じはしない。ただ、「EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK」のように、他のアーティストのトラックと並べて聴くと、彼のトラックだけなんとなく浮いて聴こえるのも確かなのだが(^^))

 だから、これから半野氏の作品を購入しようと思っている方は、なるべく iTMS で買わずに、CD を買うようにして欲しいと思う。ぼく自身も、もう一度 CD を買い直そうと思ってるぐらいで(^^)、そうでないと、彼の真価は理解できないと思う。

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yanokami

yanokami  エレクトロニカの鬼才レイ・ハラカミが、御大矢野顕子と組んで作ったユニット yanokami のアルバム「yanokami 」を、遅まきながら入手。

 もともとぼくがハラカミさんに注目したのは、日立の CM でかかっていた小坂明子の「あなた」の斬新なアレンジからだった。だから、彼が、エレクトロニカだけでなく、歌モノをアレンジする際にも特異なセンスを発揮することは知っていた。

 一方の矢野アッコちゃんも、ジャズの素養をベースにしたピアノで、既存のポップスを再解釈することを得意としているので、この二人が協力すればどんなものができるか、想像するだけで期待に胸が高鳴るというものだ。

 聴いてみた結果は、ほぼ期待通りだった。曲自体は、基本的に、アッコちゃん自身の曲や、アッコちゃんが好んでカバーする細野(晴臣)さんなんかの曲のカバーで、バッキングトラックをハラカミさんが作って、そこにアッコちゃんが唄とピアノをのっけるという形。

 したがって、どれもよく知っている曲ばかりのはずなのだが、驚いたことに、まったく違う曲に聴こえてしまうのである。つまり、それほどユニークな和声感覚によるリハーモナイズが成されているということで、鬼才レイ・ハラカミの面目躍如だと言える。

 しかもすごいのは、 それが難解な前衛作品になっているわけではなく、ポップスとして成立しているところである。もちろん、そんなコードに合わせて平然とピアノを弾き唄を歌うというのも、アッコちゃんだからこそできる技であることも忘れてはならないが。

 ぼくもそれなりにたくさんポップスを聴いてきた人間なのだが、少なくともぼくは、こんな歌モノのポップスを今まで聴いたことがなくて、これはある意味革命的な作品だと思うのだが、エレクトロニカから音楽に入ったような最近の子だと、ワリとふつーに聴けてしまって、あろうことか物足りなく思う子すらいるらしい(まあ、別段に悪いことではないが(^^))。

 確かに、ハラカミさんの仕事をずっと追ってきた人間から見れば、それほど突出した作品ではなく、想定の範囲内とも言えるのだが、歌モノポップスの歴史というものも考え合わせると、やはり見逃せないエポック・メーキングな作品だと言えるのではないだろうか。

 そんなわけで、このアルバムは、エレクトロニカが好きな人よりも、歌モノのポップスが好きで、しかも、最近個性的な作品に出会えなくて物足りないと思っている人にお勧めした方がよいかもしれない。歌モノポップスという概念が確実に進化しつつあることを実感できる一枚になるはずである。

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KAOSSILATOR

 コルグの新製品 KAOSSILATOR。「いままでなかった手のひらサイズの超コンパクト・サイズ・シンセサイザー」とか言ってるけど、この手のアナログ入力デバイスなんて昔からあったじゃん。シンセには何十年も前からホイールやジョイスティックとか付いていて、ビブラートやピッチベンドなんかに使えたし、テルミンなんて雑誌の付録にまでなっちゃうような時代に、タッチパネルで演奏ができるぐらいで、何を大騒ぎしてるのかな~、と最初に目にしたときは思っていた(^^)。

 ところが、YouTube にアップロードされていたデモを見て、思いっきり認識を改めた。

 何よりもやられたっ!と思ったのは、スケールが設定できること。見ればわかるように、そのおかげで、たいして音楽の知識がない人でも、適当に指を左右に動かしているだけで、それっぽいソロのアドリブができてしまうのである。

 確かに、これはデジタルのタッチパネルでしかできない機能だ。コルグさん、ごめんなさい。私があさはかでした<(_ _)>。

 昔は、即興的なアドリブというのは、高度な音楽センスを必要とする技術だったのだが、ジャズ畑からバークリーメソッドという方法論がでてきて、コードに合わせて決まるアヴェイラブル・ノート・スケールというスケールを上がったり下がったりしていれば、誰でもそれっぽいアドリブができるようになったという歴史がある。

 もっとも、誰でもできると言っても、この理論はそれなりに複雑なので、使いこなすためには、スケールを構成する音程を覚え、スケールとコードの関係を覚え、それを瞬時に思い出して弾く練習をしという具合に、かなり「お勉強」をしなくてはならない。だからこそ、バークリー帰りのジャズ・ミュージシャンがもてはやされたりしたわけだが、一方で、あまりにもバークリーの権威が強くなりすぎて、ジャズというと誰がやっても同じようなアドリブになってしまうという弊害も出た。

 だが、こういう製品があれば、そういうスケールを憶えて弾けるようになる必要すらなくなるわけだ。もっとも、コードとスケールの関係だけは憶える必要がありそうだが、伴奏を MIDI で同期しているような場合だったら、MIDI 信号で自動的にプログラム・チェンジしてしまえばよいのだから、それすら憶える必要がなくなるだろう。

(でも、写真で見ると、MIDI 端子が見当たらないな~(^^)。MIDI でのスケールやキーの変更は絶対できた方がいいと思うけど、どうなのかな。)

 ぼくなんかは、理論を「お勉強」するだけで創造性がなくてもできるようなことは、どんどん機械にやらせてしまえばいいと思っているので、こういう製品は大歓迎である。もちろん、こんなものでそれほど高級な音楽ができるとも思えないが、こういう製品のおかげで、素人でもそれっぽいアドリブができるようになれば、今まで単に理論を憶えて演奏していただけの音楽家は、いやでも理論だけではできない創造性を発揮せざるおえなくなるであろう。それは、結果的に、音楽全体のレベル向上につながると思うのだ。

 それに、高級な音楽ができないと言っても、ダンス・パフォーマンスなんかと組み合わせれば、それなりに面白いことができそうなきはする。ただ、この形だと、動きながらでは演奏しにくいだろうから、Wii のリモコンなんかで演奏できればもっと使い勝手がよくなるのではないだろうか。っていうか、これってそのまま Wii のソフトにはできないのかな? Wii のスペックをよく知らないのでわからないけど(^^)。

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EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK

EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK(DVD付)  士郎正宗原作、ジョン・ウープロデュース、ミウッチャ・プラダ衣装デザインのアニメーション映画「EX MACHNA」のサウンドトラック(「EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK」)を購入。

 と言っても、ぼくは映画の方は観てなくて、今のところそれほど観る気もないのであるが(^^)、このサントラ、参加アーティストがハンパでなくすごいのである。

 細野晴臣(監修)、HASYMO(≒YMO)、半野喜弘、Rei Harakami、Tei Towa、Cornelius、Aoki Takamasa、m-flo、etc.

 ぼくなどは、このメンバーを見ただけでワクワクしてしまうのであるが、実際の音も、期待を裏切らないできであった。特に、HASYMO や細野さん名義の作品は、Sketch Show などに比べると、基本線は同じエレクトロニカでありながら、かつてのトロピカル三部作時代を髣髴とさせるようなエスニック風味のリズムが導入されているのが、彼らの今後の方向性を占う上でも興味深い。

 ちょっと面白いのは、このアルバム、エレクトロニカのファン層にはおおむね好評のようなのだが、あくまでアニメが好きでそのサントラとして買った層には、必ずしも評価が高くないらしいことである(^^)。

 もちろん、音だけ聴くとよくても映像に合っていない、というような理由も考えられないではないが、このメンバーのほとんどが単独でも映画音楽を手がけている方々で、中には映画音楽で賞をとっている方までいるので、あまりそういうことも考えにくいのだが。。。

 まあ、映像を見てもいないのにアニメファンの音楽嗜好の問題に触れることはあえて避けるが(^^)、単体のアルバムとして聴けば、上記アーティストのファンやエレクトロニカのファンには安心してお勧めできる作品だろうと思う。

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「メロンパンのうた」について

 コンビニの有線でかわいい女の子がメロンパンの不条理について切々と歌っていたのが気になって、早速検索してみたところ、こういうことらしい。この中で言及している、YouTube にアップされたプロモーションビデオというのが下の動画。このビデオ自体も、「みんなの歌」や「ポンキッキ」みたいな子供番組風で、なかなかよくできてるよね。

 ところで、このビデオを検索してる途中で偶然見つけてしまったんだけど、早速この歌詞が嘉門達夫の何かのパクリだみたいに言ってる人がいて、うんざりしてしまった。

 この手の安易なパクリ指摘については、以前にもくだくだ書いたので繰り返さないけど、そもそも、こんなものはアイデアというほどの話じゃなくて、誰でも思いつくようなことでしょ? それをいちいちパクリだとかっていうのは、「パンダは何食ってんだ、パンだ」という洒落は林家三平のパクリだから絶対に言ってはいけない、とか言うようなもんであって、そんなもんぜんぜん意味ないんですよ。

 著作権を絶対化するな、という話は、いろんな人がもっと理論的に精緻に述べているので、興味のある人は調べて欲しいけど、こんなの、そういう理屈以前に、直感的におかしいと思わんか? そういうイジワルな風紀委員みたいな行動パターン、いい加減やめてくれよな~。ホントに息苦しくて窒息しそうになる。

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芸術におけるアマチュアリズムの意義

 柄にもなく初音ミクの記事など書いたところ、各所でリンクしていただいたらしく、突然トラフィックが増えてしまい、たくさんの方に読んでいただけるのは誠にありがたいことですと建前的にお礼を書きつつ、心の中ではややプレッシャーを感じている Studio RAIN です(^^)。

 もっとも、あの記事は必ずしも意をつくしたものとは言いがたく、特に、アマチュアリズムの意義については、一般に意義があると思われている例をあげただけで、なぜ意義があるのかについての価値論な説明を省いているので、あれだけではアマチュアリズムの意義について納得できない読者も多かろうと思う。そこで、芸術一般におけるアマチュアリズムの意義について、少し補足しておきたい。

 初音ミクがらみの CGM に関する議論を眺めてみると、CGM の存在意義の判定基準として、CGM はプロの商業作品に匹敵するような芸術的価値を生み出せるか否か、ということをなんの疑いもなく尺度にしている方が多いように思われる。また、これより多少 CGM の意義を積極的に評価している人でも、それはあくまである種の遊びとしての価値であって、プロの芸術とはまったく無関係である、と認識している方が多いように思われる。

 しかし、ぼくが認識する、芸術におけるアマチュアリズムの意義というのは、このどちらでもない。 アマチュアリズムの意義は、アマチュアが自ら芸術作品の製作に携わるというその行為自体にあり、結果として生まれてくる作品の質には関係がない(あえてわざわざ「下手糞な」と書いたのはそのためだ)。

 また、アマチュアが芸術作品の製作に携わるという行為は、アマチュアの鑑賞力を高めることにつながり、その結果、プロの芸術家がより質の高い作品を生み出す誘引になるはずである。したがって、アマチュアリズムは決してプロの芸術と無関係ではなく、プロの芸術を含む芸術文化全体に貢献するはずだ。これがぼくの主張である。

 たとえば、厳密な意味では芸術とは違うが、スポーツについて考えてみよう。プロ野球の商業的価値が、観客の存在によって生み出されていることは言うまでもないが、観客が試合をどれだけ楽しめるかが、観客が持つ野球の知識に依存していることは明らかだろう。もし、遅い球より速い球の方が打ちにくいとか、ど真ん中の球よりコーナーぎりぎりいっぱいの球の方が打ちにくいという知識がなければ、投手と打者の間のかけひきを楽しめないのはほとんど自明だ。

 しかし、実はこのような知識も、単に知識として知っているだけでは十分とは言えないのである。実際のスポーツはすべて応用問題であって、真ん中の速い球とコーナーの遅い球ではどっちが有効か、といった複雑な問題の集合体だ。このような問題に答えを与えるのは、実際に試合の中で体験しているプレーヤーの肉体感覚以外にない。

 したがって、そのような技術的な問題を観客が本当に理解しようと思ったら、たとえバッティングセンターでもよいから、120 km の球を打ってみるといった経験が必要なのである。そのような経験があってはじめて、それより 30 km も速い球を打つのがどれだけ難しいかということが、実感としてわかってくるはずだ。

 つまり、プロ野球というのは、あくまでも、草野球やバッティングセンターで下手なプレーを続けているアマチュア・プレーヤーの延長線上にあり、そのようなアマチュアリズムが存在するからこそ、存在意義を失われずにいられるのだと考えられる。したがって、プロスポーツの価値も、アマチュアスポーツの価値も、スポーツ文化全体の中で考えてこそ、初めて適切に位置づけられるのである。

 芸術を鑑賞するという行為の意味は、スポーツよりは少し説明が難しいが、ぼくはやはり、作り手の製作過程を追体験することが鍵だと考えている。たとえば、音楽にしてもそうだ。ぼく自身も子供の頃はそうだったが、今では音楽に一家言あって、オーケストラのどのパートでもきちんと聞き分けられる人でも、かつては、パートの聞き分けができない時期もあったはずである。

 ところが、そのような段階で認識されている楽音というのは、単なるフーリエ変換のスペクトルのようなものにすぎないので、対位法やコードとメロディの絡み合いの面白さなどわかるはずもない。そのようなスペクトルからさまざまなパートを聞き分けることによって、初めて音楽の面白さがわかってくるわけだ。つまり、音楽を鑑賞するということは、音楽が製作される過程を逆算して追体験することと同じなのである。

(直接スペクトルを操作して創作を行うという、スペクトル楽派のような方法論が存在することも知っているが、たとえこのような音楽であっても、鑑賞者にとっては、やはり製作者がロジカルに行っている製作過程を追体験することが重要であるとぼくは考えている。)

 だからこそ、音楽の鑑賞力を高めるためには、楽器を操ってみたり、作曲の真似事をしてみたりして、自ら製作の過程に携わってみることが決定的に重要なのである。 ぼく自身も、(最近は忙しくてやっていないが)キーボード演奏や DTM を趣味にしていたことがある。もちろん、他人様にお聞かせできるような水準の作品はほとんど生まれなかったが、このような経験によって、芸術を見る眼は明らかに変わったことを実感している。

 このように考えると、芸術におけるアマチュアリズムの重要性というのは、ほとんど自明なようにも思えるのだが、なぜその重要性が多くの人から忘れられてしまったのだろうか。それはおそらく、産業革命以降の社会の分業化に理由があると考えられる。

 もともと、中世以前の社会では、生産者と消費者の区別は、それほど明確ではなかったはずである。王侯貴族はともかく、一般庶民にとっては生活必需品のほとんどが自家製でまかなわれ、市場で購入されるのは、一部の特殊な商品だけであったに違いない。

 「大草原の小さな家」シリーズの前半なども、時代的には中世とは言えないが、生活必需品のほとんどがが自家製であったことがうかがえる。中でも印象深いのは、この家のお父さんがバイオリンの演奏を愛好し、その演奏を一家で楽しんでいることであり、この頃には、芸術もまさに自家製であったことがうかがえるのである。

 その後、産業革命や分業化により、生産者と消費者は商品ごとにはっきりと分かれることになったが、芸術分野においてプロとアマチュアが明確に分化したのも、おそらくこのときではなかっただろうか。さらに決定的な出来事は、複製芸術の普及である。これにより、少数の天才芸術家が作り出した作品を、多くの一般大衆が購入して鑑賞するということが可能になり、芸術作品が市場で他の商品と同じように流通するようになったわけだ。それとともに、自家製芸術に対するニーズも失われていったのだろう。

 しかし、勘のいい人はすでにお気づきのように、芸術作品と他の商品では、その効用の認識過程に決定的な違いがある。芸術作品では、先に述べたように、製作の過程を追体験することによって効用が生み出されるが、一般の商品はそうではない。たとえば、歯ブラシの価値を知るために、歯ブラシの製造工程を知る必要があるかと言ったら、そんなことはまるでないわけで、歯ブラシの価値は使ってみて便利かどうかだけでほぼ決まる。

 それが証拠に、歯ブラシ界には、下手糞だけれども趣味で歯ブラシを作り続けるアマチュア歯ブラシ職人などほとんどいないし、そのようなアマチュアの存在に業界が依存しているなどという話も聞いたことがない。つまり、歯ブラシ業界は、実用的な歯ブラシの使用価値だけで十分存続しうるのであって、そこが、スポーツや芸術と根本的に異なるところなのである。 

 もちろん、工芸品などになると、生産過程を知ることによってさらなる付加価値がわかってくるということもあるのだが、それはむしろ、使う側の見方の問題で、使う側があえて、商品を単なる道具ではなく芸術作品として認識しているということになるわけだ。

 つまり、芸術活動は本来、完全には生産側と消費側に分離できないはずなのだが、近代以降、擬似的に一般商品と同じように扱われるようになった。その結果として、芸術におけるアマチュアリズムの意義が、軽視されるようになったのではないかと考えられるわけである。

 このことにはもちろん功罪があって、だからこそ、多くの庶民が天才芸術家の作品に直接触れることができるようになったわけだが、その一方で、鑑賞力の低下による商業芸術の通俗化を招くことにもなった。たとえば、家元制をとっているような伝統芸能では、現在でも製作と鑑賞が分業化されていないところが多々ある。もちろん、それが商業的な成功をもたらしているとは言いがたいかもしれないが、だからこそ通俗に堕することが防がれているとも言える。

 ぼくは必ずしも Web2.0 マンセー派ではないのだが、CGM というものを、近代以降軽視されていたアマチュアリズムの復権として位置づけることは可能ではないかと思うのだ。おそらく、多くの人が指摘するように、CGM で生み出される作品のほとんどはくだらない作品であるに違いない。しかし、それを恐れる必要はないのであって、くだらない作品を生み出すという活動の集積こそが、芸術文化全体を下支えし、結果としてより高度な芸術作品の誕生に貢献するのはずなのである。

 ちなみに、初音ミクを開発したクリプトン・フューチャー・メディア社長の伊藤博之氏もぼくと同じような歴史観をお持ちのようなので、最後に引用させてもらうことにする。

 人間はそもそもプロシューマだと思うんです。原始時代から、自分たちでモノを作り、消費しているわけですから。しかし、個人ですべてを行うのは効率が悪いので、分業が進み、都市が形成され、経済システムが構築されました。

  ただ、この一連の人間社会の発展は、CGM(消費者生成メディア)の登場で折れ曲がったような印象を持っています。そもそもプロシューマだった人間が、生産者と消費者に分かれ、なぜかそこには大きな溝までできてしまっています。

 その違和感が顕在化し始めており、CGMの登場をきっかけとして、人類の歴史をさかのぼるというような動きが生まれているのではないでしょうか。例えば、著作権というテーマで考えれば、「クリエイティブコモンズ」のようなものができ、生産者と消費者の切り分けを気にせずに著作物を活用していこうというような流れです。

 こうした流れは都市の見直し、さらには経済システムの見直しというところまで進むのではないでしょうか。おそらくCGMの本質は、「みんなで何かを作って楽しいよね」というところにあるのではなく、社会全体の在り方を変えていくというところにあると、わたしは思っています。

(追記: 以前に斉藤美奈子氏の「文章読本さん江」を批判したときにも同じような論法でアマチュアリズムを擁護していたのを思い出したのでリンクしておく。歯切れが悪く見えるかもしれないけど、このように、意外としつこく首尾一貫してるのである(^^)。)

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Quidditch

 やっとわかった。この問題の答え。Quidditch だな(^^)。

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こんなの、読んでなきゃわかるわけねーよなー(^^)。辞書にも載ってないし。ぼくがハリー・ポッターにたいして興味がないことがばれてしまった(^^)。 そうだ、「辞書にない英語」に追加しとこう(^^)。

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「写真家の女たち」の正しい見方

写真家の女たち  「写真家の女たち」というのは、サンダンスの映画祭で最優秀脚本賞を獲得したほどの映画なのだが、一般の知名度はそれほど高くないかもしれない。ぼくはこの作品の英語版が DVD になった直後に、Amazon から個人輸入して観た。といっても、そういうマイナーな名作も抜け目なくチェックしているような熱心な映画ファンというわけでもなんでもなくて、なんとなく直感で面白そうだと思ったに過ぎない。結果的にはその直感は当たりで、なかなかの佳作だったが、その後長いことこの作品のことは忘れていた。

 ところが、先日 Amazon の購入履歴から LibraryThing にインポートを行ったとき、久しぶりにこの映画のことを思い出し、短いレビューをつけた。その際、他の人の感想も少々気になったので、検索をかけてみたところ、ぼくとは全然違う見方をしている人が大勢いることに気づいた。

 私見では、その見方は間違っていると思うので、この機会にその理由を書いておくことにしたい。もし、読者の中にこの映画を見たことのある方がいらっしゃったら、どっちの見方が正しいと思うか、判定していただければさいわいである。なお、以後の記述はネタバレを含むのでご注意。

・あらすじ

 この映画のあらすじはこうである。主人公は、上流階級の娘であるハーパー。ハーパーの家族は、父親も姉も弁護士で、彼女自身もハーバードの法学部に進学することを当然のように思われている。しかし、ハーパーの家庭は冷たい家庭であり、父親は彼女の姉だけを溺愛し、母親も姉も彼女を愛してはおらず、むしろ彼女は家庭内でバカにされている。そんな家庭に反発していたハーパーは、あるきっかけで中年の写真家コニーと恋に落ちる。コニーは芸術家肌で、ハーパーには芸術家としての才能があるといい、彼女に芸術家としてのイロハを教え込む。やがて、成長したハーパーはコニーの元を離れ、写真家として自立する。。。

 このあらすじだけ読んだ人は、上流階級に育った娘が、俗物的な価値観にとらわれない真の愛情を与えてくれる男を見出し、その男からの愛の力によって成長した結果、男を乗り越えてしまい、そのことを悟った男は、彼女のためを思って自分から身を引く、というような、ありがちなラブストーリーを思い浮かべるかもしれない。

 実際、この作品をとりあげたインターネット上のレビューにも、そのような見地にたったものが多い。「映画瓦版」氏のこのレビューなども、その代表的なものと言える。ぼくはこの方に対してなんの他意もないが、このレビューは反論のたたき台として都合がよいので、以後、これを元に反論を試みる。

・コニーは本当におちぶれたのか?

この物語は『スタア誕生』の変種です。海のものとも山のものともつかない小娘が、才能と経験を持つ大人の男性と知り合い、彼の手助けで才能に磨きをかける。ふたりは愛し合うようになるが、女性が成功へのキャリアを一歩一歩確実に歩んでいくのと対照的に、彼女をリードしていたはずの男性側は酒と不摂生な生活に溺れ、仕事も減り、過去の栄光はどこへやらという風体になってくる。

 まず、このコニーが「才能と経験を持つ大人の男性」だったが「酒と不摂生な生活に溺れ、仕事も減り、過去の栄光はどこへやらという風体になってくる」という見方が間違いだと思う。そうではなく、コニーは最初から「ヘタレ」だったのである(^^)。

 その証拠はいくつもある。そもそも、ハーパーがコニーに出会ったときでさえ、コニーは芸術写真ではなく結婚式の写真を撮っていたのだし、その後に撮っているのも、一般人の肖像写真などばかりだ。コニーが会いに行ったロスの美術収集家は、10 年来の付き合いだと言っているにもかかわらず、コニーの写真をたった 3 枚しか買っていない。コニーの過去の女だったビリーは、ハーパーに「コニーに金をせびられなかったか?」と言っているし、実際コニーにはハーパーを食わしていく程度の収入もなく、ハーパーは食堂でバイトをするハメになっている。

 唯一「コニーの過去の栄光」を示すのは、彼が過去に出した本である。しかし、ハーパーに「You didn't tell me you have a book.(本を出してるなんて、教えてくれなかったじゃない)」と言われたときの、コニーの複雑な表情に注目してほしい。あの表情が語っているのは、この本は、彼の過去の栄光というより、唯一の栄光というべきものだということだろう。彼は芸術家ぶっているだけで、実際には芸術写真家というより、町の写真屋さんに近い存在だったと見るべきだ。(もちろん、コニーが芸術家ぶっているからイヤミなだけで、「町の写真屋さん」一般が恥ずべき職業だと言っているわけではない。為念。)

 では、コニーが後半酒びたりになって病院に入ったりしたのはなぜなのか。それは彼が、プライドだけは分不相応に高いが、自分がヘタレであることすら素直に認めることのできない、弱い人間だからだ。

 それを示すシーンもいくつもある。ハーパーの母親に図星をつかれて逆切れするシーンしかり、ハーパーが自分で部屋を借りると言っただけでうろたえてしまうシーンしかり、歯が折れたのを隠そうとするシーンしかり。。。

・ハーパーは本当に成長したのか?

この映画のユニークなところは、この男がたったひとりの女性を世に出すのではなく、数年ごとに次々と新しい女性をナンパしては自分の恋人にし、徹底的に仕事を仕込み、才能を磨き上げていくことだ。まるで女性芸術家製造器。アゲマンならぬアゲチン男なのだ。

 このような、ハーパーがコニーによって芸術的な才能を開花させられ成長した、という見方も間違いだと思う。ハーパーは最終的には写真家として自立したが、それはコニーの直接的な教えによるものではない。ハーパーはコニーといっしょにいる間、芸術家としてはほとんど何も学べなかったのだ。

 それを端的に示すのは、二人がロスの収集家に会いに行った帰り道の「I never took a picture.(私、写真を一枚も撮ってない)」という台詞である。これと同じような台詞は、中盤で二人が喧嘩したときにも、ハーパーがザックに小便をかけられたときにも言っているので、作り手がこの点を意識的に強調していることは明らかだ。

 そう思って前半を見直してみれば、ハーパーはファインダーを覗かされたり、照明を持たされてコケたりしてるだけで、実際にシャッターを押しているシーンなど一つもないことに気づくだろう。

 もちろん、芸術家になるために必要なのは、そういう表面的な技術の習得だけではないだろうが、いくらなんでも、写真の一枚も撮らせてもらっていない人間が、芸術家として「徹底的に仕事を仕込まれ、才能を磨き上げられた」などとはとても言えまい。

 コニーがハーパーの才能を見出したという話だってかなり怪しい。むしろ、コニーは脈のありそうな女性全員にそう言っていた可能性すらある。それは、彼が関係した女性の中に、お針子のような芸術とは直接関係ない職業の女性がいることからも推察される。

・では、あの別れのシーンはなんなのか?

 このように、作り手の提示している材料を正しく受け止めれば、この作品が描きたかったものは明らかだ。それは、芸術家気取りでプライドだけは高いヘタレ中年と、そのヘタレの見え見えのポーズにすら気づかず手もなく騙されてしまう、コンプレックスのかたまりで世間知らずの小娘の間の、勘違い恋愛なのである。それ以外に考えられない。

 では、一見ハーパーの成長の結果に見える、最後の別れのシーンは何なのか。それは、コニーがヘタレであるということにハーパーが気づいた、というだけのことに他ならない。

 それを示すのが、ハーパーがコニーの写真を撮りまくるシーンである(これも、フイルムは入っていなくて、撮るマネをしているだけの可能性が高い)。最後にコニーの顔をファインダーごしにアップで見たハーパーが落ち込んでしまうのは、コニーがただのしょぼい中年オヤジであることに彼女が気がついたからとしか考えられないではないか。

 ぼくが一番驚いたのは、コニーがもっと美形だったらよかったのに、と書いている人が少なからずいたことである。ここまで読んでくれた人には言うまでもないことだが、コニーは美形であってはならないのだ。あくまで、しょぼい中年オヤジであってくれなければ、この話は成立しない。

 だから、ぼくから見れば、

ところがスティーブン・レイは、最初に登場したときからくたびれていて、まったく格好良くないのだ。ヒロインの憧れの君だった頃の姿と、尾羽うち枯らしたときの姿に、ほとんど落差がないのだから困ってしまう。

というのは、おかしくもなんともない。最初からくたびれているものがヒロインからはそう見えないという勘違いこそが、作り手の描きたかったことなのだから。

 別れのシーンで、コニーがハーパーになけなしの札を渡すのはコニーの精一杯の優しさで、ハーパーがその札を握り締めて泣いているのは、コニーの優しさに感動しているからだ、と思った人もいるかもしれないが、これもまったく違う。

 コニーが本当にハーパーを愛しているなら、プライドを捨てて、素直にハーパーの世話になればよかったのだ。あるいは、自分も酒をやめてバイトしてでも金を稼げばよかったのだ。それを、なけなしの金を渡して別れるなんてことしかできないのは、彼の救いがたい破綻した見栄でしかない。

 それに気づいたからこそ、ハーパーは泣いたのである。そんなちっぽけな見栄のために、自分を愛することすらできないヘタレを、そうと気づかずに愛してしまった自分の弱さ。あの涙は、今までかけがえがないと思っていたものが、ただの勘違いにすぎないと気づいた喪失感と、いったんそうと気づいた以上、元の関係には戻れないと悟った悲しみによる涙だったのだ。

 もし、ハーパーが成長したと言えるとすれば、それは芸術家としての成長ではなくて、自分が愛していたのがただのヘタレ中年だったことに気づいたという、精神的な成長なのである。

・この作品が本当に描こうとしたものとは?

 このように説明すると、逆にこの作品を、ダメ男にひっかかって捨てられた不幸な娘という、別の意味でありがちな作品だと思う人も出てくるかもしれない。

 しかし、注意してほしいのは、この作品では、やっぱり上流階級で出世コースを歩んだ方がいいんだとか、芸術家気取りのボヘミアンなんてダメダメだとかいうことは、まったく言っていないということだ。ハーパーの家庭がひどい家庭だという事実はまったく変わっていないし、結果としてハーパーが写真家として自立したというのも事実なのである。

 ここで冒頭のハーパーのモノローグを思い出して欲しい。 

He was the worst man I ever met. Or maybe the best. I'm still not sure. If you're supposed to learn from your mistakes, then he was the best mistake I ever made.

(彼は、私が出会った最悪の男だった。いや、最高だったのかもしれない。私にはいまだによくわからない。人が過ちから学ぶべきだとするなら、彼は私の犯した最高の過ちだった。)

そうすれば、このモノローグにこの作品のすべてが集約されていたことに気づくはずである(いや、気づくべきである。)

 たとえば、昔の日本人の感覚からすれば、女性を守るのは男性の役割であり、その役割を果たさないコニーはダメ男である、と一方的に断罪するだけで終わっただろう。しかし、この作品の作り手は、決してそのような立場をとっていない。コニーはたしかにヘタレだったが、そのヘタレに気づかなかったハーパーにも心の弱さがあった。ダメ男はたしかにダメであるが、そんなダメ男を選んだ女もダメなのである。そのような意味で、この作品では男女を対等に扱っているのだ。

 仮に、この話の男女の役割を入れ替えてみれば、両家のボンボンがミステリアスな悪女にひっかかって大人になるという、実に古典的なストーリーに過ぎないということに気づくはずである。それをあえて男女逆にして描いたところに、フェミニスト的な思想を読み取るのも、あながち穿ち過ぎではないと思う。(そういう意味で言えば、「アゲマンならぬアゲチン男なのだ。」というのは当たっている(^^)。)

 そして、そのようなダメ男との出会いが結果として女性を成長させることがあるという、皮肉な事実を描こうとしたところに、この作品のステロタイプには収まりきらない含蓄があると考えるべきだろう。

 コニーの最後の台詞に注目して欲しい。

Instructions ? For you ? You don't need instructions.

(指示? 君にかい? 君には指示なんて不要だろう。)

これこそ、コニーがハーパーといっしょにいたときには決して言えなかった台詞だろう。コニーは死の間際になって、ようやく自分のプライドを捨てて、ハーパーを一人の人間として認めることができたのだ。だから、ハーパー(とこの作品の作り手)は、最終的にコニーを(愛するのではなく)許したのである。ここには、キリスト教の告解と赦しのイメージを見るのは、決して穿ち過ぎではあるまい。

 ちなみに、ぼくが見つけた中で、もっともぼくの見方に近いレビューは、この「ネット映画館主・F」さんのレビューである。 ぼくは最初、みんなの見方が自分と違うのは、字幕翻訳の出来が悪いせいかと思っていたのだが、こういう人もいるのだから、あながち字幕のせいだけとも思えない。

 たぶん、多くの人は、恋愛映画という先入観に影響されて、自分の持つ恋愛映画のステロタイプに合わせて、作品の方をねじまげながら鑑賞してしまっ