「沈黙の艦隊」電子書籍化

 かわぐちかいじ氏の傑作マンガ「沈黙の艦隊」がついに電子書籍化されたようです。

 マンガというのは、字だけの本より場所をとるので、あまり長期間保存しておけず、読んだらすぐ処分してしまうことが多いので、それだけに、電子書籍化はありがたいです。

 売るほうの立場からしても、展示スペースをとらない分、どの商品を入荷すれば最も利益率が高いかみたいなことをあまり気にしなくてよいという利点もあるんじゃないですかね。リアルの店で、こんなに昔の本ばかり置いたら、その分、現在の売れ線の本を置くスペースがなくなって、売り上げに影響するでしょうからねえ。

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Jupiter

 重いネタが続いたので、久々に軽いやつを行きます。昨日の「ヘキサゴン」で、平原綾香さんの「Jupiter」の作曲者は誰か、という問題が出ていたのですが、誰も答えられなかったのが個人的には以外でした(ちなみに、ぼくの両親と友人約一名は、この曲がヒットしたこと自体を知らなかった。これにはもっと驚いた(^^))。いうのは、この曲、これまでも結構いろんな人にカバーされてるからなんですよね。

 ぼくが一番最初にこの曲を聴いたのは、多分、シンセサイザー音楽のパイオニアの一人である冨田勲氏の「惑星 」というアルバムだったと思います。たしか、FM 放送でエアチェック(これもいい加減死語か(^^))したのかな。そのときに、原曲がクラッシックだという解説を聞いて、クラッシックらしからぬ題名に驚いたのを覚えています。

 これ、今聞いてもたいして驚かないかも知れないけど、当時としてはかなり突出した作品だったと思います。なにせ、YMO のデビューより 1 年も前の作品ですからね。もちろん、今のような MIDI シーケンサーもなければ、デジタルシンセやサンプラーもない時代に、アナログシンセと多重録音を駆使して作った作品です。個人的には、冨田さんも、もうちょっと再評価されてもいいんじゃないかと思いますね。

 あと、個人的な好みでいえば、遊佐未森さんが、平原さんと同じく「木星」だけをカバーした「a little bird told me」というのがあります。こちらは、「」というアルバムに入っています。これは、1999 年ですから、平原さんよりちょっとだけ早いですね。こっちは、平原バージョンのような壮大な感じではなく、ホントに眠れない夜に子守唄がわりに聴きたいような、しみじみと染み入るようなアレンジになっています。

 今回探したら、他にも、いろんな Jupiter を集めた「ジュピター100%」なんて CD も出てて、今紹介した 2 作品も収録されているようなので、これでいろいろ聞き比べてみるのもよろしいんじゃないでしょうか。

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認識と差別

 前にも書いたけど、人間の認識能力の限界から、自分に対する自己の認識と、他者からの認識の間には、必然的にずれが生じます。そして、完全な認識というものが不可能である以上、相手に自分をどういう表象として認識させるか、という問題が生じ、自己の認識させたい表象と、他者の認識する表象が一致しないところから、差別という問題が生まれてきます。

 人間は、常に「人間一般」として扱われたいわけでもなければ、常に「ありのままの自分」として扱われたいわけでもないので、何が差別になるかというのは、相手との関係性によって変わってきます。

 たとえば、国家対人間という関係では、多くの人が一律に人間一般として扱われることを望み、黒人だからとか、女性だからとか、なんとか党員やなんとか教徒だからとかで区別されることを望みません。これは、そもそも国家というような巨大かつ抽象的な存在が、一人一人の個性を正しく認識してそれに応じた扱いをすることなどほとんど不可能であり、なおかつ、国家は大きな権力を持っているので、わずかな認識のずれも大きな問題をひきおこすからだと考えられます。

 逆に、親しい友人同士の関係では、多くの人は、ありのままの自分の個性をできるだけ認識されることを望み、人間一般として扱われることを嫌います。これは、長期間関係を継続することより、他者的な視線が自己的な視線に近づくことによってはじめて可能になるものです。

 また、この両者の中間のような現象もあります。たとえば、コンビニの店員さんに品物を頼んだとき、「人間はみな平等だからお前の言うことを聞く義務はない」とか言う人や、逆に、「オレだって人間だからサボりたい日もあるよ」とか言う人はめったにいないわけで、こういう人は、自ら店員という役割を受け入れていて、それ以上もそれ以下も望んでいないわけです。

 あるいは、「自分は女性として扱われていない」と言って怒る人は、「女性」の中の「色気のないブス」というサブカテゴリーで認識されることはもちろん望んでいませんが、かと言って、「人間一般」というより大きなカテゴリーで認識されたいわけでもなく、あくまで「(男女関係の対象としての)女性」というカテゴリーで認識されたいわけです。

 こう書くと、いや私は、ありのままの自分が持つさまざまな属性の一つとして、「女性性」も認識されたいだけだ、と思う人もいるかもしれません。でも、現実の男女関係を見れば、まず異性かどうかで相手をフィルタリングすることからはじまり、つきあっていくうちに、だんだんとすべての個性を認めある関係に近づいていく、という方が多数派だと思いませんか? まあ、いったん友達になってから、たまたま相手が異性だということに気づいて関係を持つ、というようなほのぼのラブコメみたいな人も中にはいるようですが、それはあくまで少数派だと思います。というのも、そのような手順ではカップルができる確率が非常に低くなるからで、女性性が単なる生理学的性質を超えて表象される理由の一つがそこにあるわけです。

 ちなみに、フェミニズムの中にも、ジェンダーをなくそうとする一派と、逆に女性性を賛美し強調する一派がありますが、これも、もともと女性の中には、このように人間一般として認識されたいという欲望と、女性というカテゴリーで認識されたいという欲望の、両方のベクトルがあることの現れかもしれません。

 よく問題になる職場での性差別にも、細かく分析すると 2 種類のパターンがあります。たとえば、社員全員が一律の給料をもらっているのに、女性社員だけが一律に給料が安い、というのは、本来「社員一般」として認識すべきものを、「女性社員」というサブカテゴリーで認識している、ということです。逆に、能力主義の徹底した会社で、同じ能力を持った社員同士の間で女性だけ給料が安い、という場合には、本来「社員個人の能力」として認識しなければならないものを、「女性社員の能力」というより大きなカテゴリーで認識しているわけです。

 ところで、このような現象について、よく「女性は平均して能力が低いという誤った認識が差別の原因になっている」という主張がありますが、これは錯覚で、そのような認識が統計的・科学的に正しかろうが間違っていようが、能力主義の会社で個人の能力をできるだけ正しく評価しようとしないことは誤りなのです。でなかったら、身体障害者のように、公式に障害を認定されている人は、いかに能力があっても差別してよい、ということになってしまうでしょう。

 もちろん、間違った認識よりは正しい認識のほうがいいわけですから、もしあきらかに誤っていることがわかれば、それを正そうとするのはいいことには違いありません。しかし、人間の認識能力に限界がある以上、そのような誤認識が完全になくなることはあり得ない上に、これは、差別問題解消の必要条件ですらなく、逆に、もし認識が正しいことが証明されてしまったら、差別を容認するのか、という話にもなりかねないので、差別と闘う人が、この論点に拘泥することは賢明とは思えません。

 話を元に戻しますが、このように、差別と言う現象は、単に平等に扱わないということだけではなくて、自己の認識させたい表象と異なる表象を、他者が強制的に押し付けるという現象のすべてを含んでいると考えられます。

 中世以前のように、人間関係が固定されていた時代の差別は、この強制が権力によって行われるという形がほとんどだった思うのですが、近代になって、同じ人間同士の関係にも TPO によって異なる役割が持たされるようになると、差別問題ももう一段階複雑になってきます。

 たとえば、現代では、会社では上司と部下の関係であるもの同士が、アフターファイブには友人同士の関係になったり、男と女の関係 (^^) になったり、ということは珍しいことではありません。

 このような関係が流動化した時代になると、自己が認識されたい役割と、他者が認識する役割とのずれも、必然的に起こりやすくなるので、自分が認識されたい役割を、自らコード化して発信する必要が出てきます。たとえば、会社や学校の制服などもそうですし、普段はカジュアルな格好をしているが、仕事のときは背広を着るとか、女性の場合には、職場ではユニセックス的な色気を感じさせない服装をしているが、社交の場ではフェミニンな色っぽい服を着る、というようなことがあります。

 そして、コードというのは、より多くの人が共有ほど便利になるので、いったん社会的に確立されたコードは、必ずみんなが便乗して利用するようになり、コード自体が自律化するという現象が起こります。これは、コードの本来的な性質からそうなるのであって、もちろん、差別に利用されることもありますが、かならず差別につながるわけではありません。

 たとえば、「俺は確かにニンジンとキャベツと何と何を売っているが、自分の好きなものを売っていたらたまたまそうなっただけなので、決して八百屋ではない。だから、俺を絶対八百屋と呼ぶな」みたいな主張をわざわざする人がめったにいないのは、別に誰かに強制されてるからではなくて、そんなことをしても宣伝はしにくいし同業者組合にも入れてもらえないし、不便なだけでほとんど何のメリットもないからにすぎません。

 そして、このような社会的コードのやりとりが一般的になると、今度は、コードの誤認識という新たな問題が生じてきます。たとえば、別にそんな気はないのに、ちょっと開放的な格好をして会社に行ったらセクハラされたとか、逆に、挑発的な格好をしてるのにお目当ての相手が食いついてこないとか(こんな例ばっかりですいません)いうことが問題になります。

 さらに、このようなコードの誤認識もが一般的になると、これを逆に差別に利用する人もでてきます。つまり、わざと挑発されたふりをしてセクハラして居直ったりとか、わざと挑発的な格好をして、「場をわきまえなさい」とか言われると、「それは見るほうの目がヤらしいからです」とか言って逆に相手をイジメたりというような現象が派生してきて、ますます話がややこしくなるわけです。

 かつてような、権力を背景にして特定の役割を一方的に押し付ける、という形の差別は、少なくとも先進諸国では、かなり下火になったと言ってもよくて、現代ではむしろ、このようなコードの誤認識による一種の擬似差別が増えてきています。フェミニストなどがしばしば反発を買うのは、このような悪意のない誤認識と意図的な差別を、区別せずに糾弾したり、本人が自分の意思で選択している役割まで、それは自分の意思だと思いこまされているだけで、そのこと自体が権力の陰謀だとか言ったりするからで、そういうトラブルに疲れた人が、逆に保守化して役割の固定した社会に戻そうとしたりするのも、故のないことではありません。

 したがって、現代のような差別の混迷状況を打破するには、まず、権力をバックにした差別と、コードの誤認識による擬似差別をきちんと区別することが重要です。さらに、擬似差別については、まず、1.洗練されたコードの体系を確立して、社会全体で共有するよう努力すること、2.自分の認識されたい役割を、積極的にコードとして発信するようにすること、3.それでも発生する意図的でないコードの誤認識については、なるべく寛容になること、が必要でしょう。逆に、もっとも避けるべきなのは、自らは何のコードも発信しようとしないのに、誤認識されると、鬼の首をとったように相手を糾弾する、というような態度でしょう。

 ちなみに、ジェンダーというのは、男女関係における性役割、親子関係における性役割、職場における性役割、政治的な性役割などがすべて一体化したものだと考えられます。(間違った?)ジェンダーフリーというのは、この役割をすべてなくすことによって差別を解消しようという発想だと思われますが、これは、八百屋という職業をなくさなければ八百屋差別はなくならないとか、朝鮮文化をなくさなければ朝鮮人に対する差別はなくならないと言っているのと同じぐらい間違った発想だと思います。

 なぜなら、先にものべたように、女性には(もちろん男性にも)、人間一般として認識されたいという欲望と、女性という役割で認識されたいという欲望と、ありのままの自分として認識されたいという欲望のすべてがあるはずで、現代のような流動性の高い社会では、これらを TPO によって使い分けることによって、すべての役割のいいとこどりをすることが可能なはずだからです。

 考えてみれば、現代では中世のような階級制がなくなったと言っても、職場ではやっぱり他人からの命令を受けているわけで、実際に変わったのは、世襲制ではなく自分で職業を選べるようになったことや、職業的な役割はあくまで勤務時間だけで、中世の家来のように 24 時間 365 日体制ではなくなったことだけです。それでも、多くの人が十分に自由になったと感じているのだとすれば、性役割にも同じことが言えるはずです。

 たとえば、政治的な性役割は完全になくしてもかまわないと思うし、職場における性役割も、特にセクシュアリティを売りにする職業を除いては、必要ないでしょう。でも、逆に男女関係における性役割は、まだまだ利用価値が残っているのではないでしょうか。(親子関係については、子供がいないので正直よくわからない(^^))。

 もちろん、伝統的な性役割の時代に合わなくなった部分を修正するのもよいでしょう。ただし、それは権力によってではなく、文化の自律的な進化の流れの中で行われるべきです。なぜなら、そのように自分の意思で選択できる役割と言うのは、権力ではなく文化の産物であって、文化の欠点を正すことは、文化を強制的に消滅させることではなく、よりよい文化を作ることによってのみ可能だからです。もちろん、文化の中から不当な権力が発生して、そこから本来の意味の差別が生まれることもあるので、それは監視しなくちゃいけませんけど。

 そう言えば、テコと呼ぶかコテと呼ぶかは地方によって違うのに、どちらかを強制するのはおかしいとか言っていた人がいましたが、確かに強制する必要はないかも知れませんが、逆に、どちらの名前も教えないとか、まったく別の名前を勝手に作って教えるとかしたら、それは教育ではなく洗脳になってしまうわけです(コードの恣意性というのはそういうものです)。ですから、「進歩的」な教育としてできるのは、せいぜい、現在はコテとテコの二種類の呼び方があることと、それぞれの長所と短所を教えた上で、将来は第三の呼び名が生まれるかもしれない、ということを示唆するぐらいでしかないわけです。もちろん、そういう教育を受けた子供が、大人になってから新しい呼び名を流行らせることはいっこうにかまいません。

 そのような流れの中から生まれた洗練された社会的コード体系があれば、さまざまな役割を自分の好きなように使い分けることが可能になるはずです。そして、そのような社会は、ジェンダーや役割のない社会よりも、はるかに豊かな生をもたらすのではないかと思うのです。

 実は、Amazon.co.jp のレビューで、小倉千賀子さんの本とか、加藤秀一さんの本を酷評したときから、こんなことを考えていたのですが、800 字の制限字数ではとても書ききれなかったので、代わりにここに書いてみた次第です。うまくかけてるといいんですが。

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「法と経済学」的に考えると

 森ビル回転ドア事故で、森ビル側の関係者が書類送検されたそうですが、この事件に対するちまたの意見は結構割れているようですね。

 こういうのを「法と経済学」的に考えると、どちらの責任にすれば、社会的費用が最小になるかが問題になるんですね。

 つまり、子供のしつけを厳しくしたり子供と歩くときには親が十分な注意を払ったり、というような手段で事故を回避するのにかかる費用と、ビル側が回転ドアに安全対策をして事故を回避する費用のどちらが小さいかによって、安く済むほう (これを、最安価損害回避者という) の対策をとったほうが、社会全体としては得をする、という発想をするわけです。

 このとき、もし、事故の前に加害者と被害者が取り引きをすることが可能で、その取り引き費用がゼロであるならば、どちらの責任にしたとしても、事前に取り引きが行われて、社会的費用最小の状態が実現する、という定理があって、これをコースの定理といいます。

 しかし、現実にはこのような取り引きが可能であるとは限らないので、そのときには、加害者側が最安価損害回避者である場合には過失責任ありとし、被害者側が最安価損害回避者である場合には過失責任なしとすればよい。そうすれば、ビル側も、簡単にできて効果の高い対策は進んでするようになるだろうし、歩行者側も、簡単にできる注意はするようになる。したがって、社会的費用最小の状態が実現する、というのが「法と経済学」的な解答になるわけです。

 こういう見方をすると、価値観の対立を相対化しつつ、いろんな方法を定量的に比較でき、いい意味での折衷案が作れるのがいいところだと思うのですね。(もちろん過信は禁物ですが)

 ただ、実際にはどちらが最安価損害回避者であるかはっきりしない場合も多く、また、情報や経済力の非対称性とか外部効果の有無とかを考慮に入れると、無過失責任という立場をとった方がよい場合もあるそうです。

 この事件の場合も、目分量で考えると、どちらが最安価損害回避者であるか、結構微妙な感じがするので、無過失責任として考えたほうがいいのでは、という気もしますが、専門外で情報も不足しているので、これ以上は踏み込まないことにします。

 参考文献:「「法と経済学」入門」小林 秀之 、神田 秀樹著

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iTMS が日本でも使える?

 Apple が出している iTunes という音楽再生ソフトがあって、これ自体は日本でも使えるのですが、このソフトと連動するようになっている iTunes Music Store (iTMS)という音楽のダウンロード販売サイトは、日本からアクセスしても購入できないようになっていました。

 iTunes と iTMS を連動させると、非常に快適な音楽生活が送れるようになる、と風の噂に聞いていたので、これまでずっと悔しい思いをしていたのですが、今日コンビニで見つけた「週刊アスキー」の 2005 年 2 月 8 日号には、なんと、日本から iTMS を利用する方法が書いてあるではありませんか。

 まだ試してないのですが、ざっと目を通したところでは、iTMS カードというプリペイドカードを使うのがミソらしいです。Google で検索すると、このプリペイドカードをユーザー有志で共同購入する計画が、去年の中ごろから進行したようです。みなさん、がんばっていたんですねー。うるうる。(^^)

 こうなったら、誰か、Realplayer Music Storeを合法的に利用する方法も考えてくれないかしら。(^^)

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自衛隊ってそういう意味だったのか

 日垣隆氏のやってる「ガッキィファイター」という有料メルマガの 1 月 23 日号に出てた、「イラクの自衛隊」の定義というのが、ちょっと面白かったです。

「これがほんとの自衛隊だ!」という自虐的冗句を先日、防衛庁で聞いた。

 これ以上の引用はフェアじゃないの思うので、知りたい人はメルマガ会員になりましょう。(^^)

 (はなしの持っていき方によっては、会費をまけてくれることもあるみたい。)

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いのちのねだん

 今、小島寛之氏の書いた「確率的発想法」という本を読んでいるのですが、その中に、生命の市場価値、つまり、ぶっちゃけて言えば「いのちのねだん」をどうやって計算すればよいか、という話が出てきます。

 人非人扱いされる前に、なぜそんなものを計算しなくてはならないかをあわてて説明しておくと(^^)、たとえば化学物質などが環境に与える影響を考えるときに、リスクとベネフィットを量的に評価して比較しないと、社会に利益ももたらすけれども同時に危険も与える、というものと、なんの利益もなくて危険だけを与えるものとの間で、優先順位づけが正しくできなくなるからです。したがって、生命のリスクを評価するためには、いのちの値段を計算する必要がある、というわけです。

 著者は、このいのちの値段の計算方法について、先行研究をいろいろとりあげて批判していて、非常に面白いのですが、それは違うのでは、と思うところもいくつかあります。

 たとえば、著者は、中西準子氏の「損失余命」(失われる余命の平均値) を生命リスクの尺度とする考え方について、「4万人の命が 8.8 時間ずつ縮むことと、平均余命 40 年の人が一人死亡することを同列に扱えるだろうか」という批判をしています。

 でも、この問題は、余命と効用の関係を線形だとみなしていることから生まれているのであって、限界効用逓減型の関係を仮定して、損失余命の代わりに余命の効用を尺度にすれば、解決できるのではないでしょうか。

 つまり、上の例で言えば、余命 40 年の人が余命 0 年になる (つまり死亡する) ことの不効用は、39 年と 364 日と 15.2 時間になることの不効用を 4 万倍したものよりはるかに大きい、と考えればよいわけです。この仮定は、おそらく、多くの人の常識的感覚と一致しているのではないかと思うのですが、いかがでしょう。

 もっとも、平均余命自体が死亡率から逆算されているものだとすると、不効用の平均値はいったいどうやって計算したらよいのか、という問題はあって(^^)、ひょっとすると、著者が本当に言いたいのはそういうことなのかも知れません。でも、だとしても、それは生の一回性というような思想的問題ではなく、技術的な問題と言うべきでしょう。

 さらに、著者は、自動車の与える生命リスクを計算するのに、ホフマン方式と呼ばれるものと、宇沢弘文氏が「自動車の社会的費用」で提唱したものとを比較しています。前者は、「その人が生きていたとしたら稼いだはずの所得」から計算するのですが、宇沢氏は、「もともと決して失われてはならず、法的に保証されているものに、貨幣的な価値などを計上することは原理的に誤っている」と考え、自動車がないのと同レベルのリスクの状態に回復するための費用から計算していて、著者は、この宇沢方式の方を支持します。

 でも、ぼくはこの議論にも論点のすり替えがあるような気がします。つまり、確かに、他人が勝手に人の生命を奪うことは、いくら金を払おうが決して許されないでしょうが、自分の意思で、一定の対価の下に生命のリスクを犯すことは、本人の自由だという面があるはずだからです。

 これはなにも、生命に限らず、普通に市場で取引されているモノだって同じことであって、市場価格と同額の金を置いていけば、所有者の意思を無視してモノを盗んでもいい、ということにはなっていないわけです。モノの価格は市場で決まりますが、特定の所有者がその価格で売るかどうかは本人の勝手なのであって、安物だけど、思い出の品だからいくらもらっても売らない、なんてことはいくらでもあるわけです。

 現実社会では、所有者が生命そのものを売りに出す市場というものは存在しないわけですが、たとえば、格闘家や F1 レーサーやスタントマンを職業に選ぶ人などは、間接的に生命リスクを取り引きをしているのではないでしょうか。そして、そのように所有者が自分の意思で選択する価格を「いのちのねだん」とみなすことは、現在のリベラリズムと整合的なのではないでしょうか。ただ、実際にこれを定量的に計算をしようとすると、直接的な市場がないために、技術的に困難である、ということはあると思うのですが。

 つまり、ホフマン方式の本質的な問題点は、周囲に与える外部効果だけしか計算してなくて (しかも、親しい人たちに与える精神的な影響なども考慮していない)、生命の所有者自身が生命をリスクにさらすことの不効用を計算に入れていない、ということであって、生命のリスクを前提としていること自体ではないのではないでしょうか。

 もともと、このような方法の利点は、できるだけ制約条件を少なくして、自由度の多いパラメータ空間の中で最適解を探せるところにあるのですから、生命のリスクを増やすことを完全に禁じ手にしてしまう (=制約条件にする) のは、ときに自らの意思で生命のリスクを犯すことが許されている社会の中で、必要以上に制約を厳しくして、ローカルミニマムから脱出できない事態を招くことになりはしませんか。

 最も、実際には、環境破壊による生命のリスクというのは、個人が選んで買うことが困難な場合が多いので、平均値とかで評価してしまうと、その人固有の生命リスク評価額より安い価格で強制的に買わされるというようなことが起こりえます。したがって、そういう事態がリベラリズムの原理に照らして不当なのは間違いないでしょう。でもそれは、あくまで本人の意思を無視して強制されるところに問題があるのであって、何があっても生命のリスクを犯してはならない、ということとは違うと思うのですが。

 なんか、ケチばっかりつけてるみたいですが、全体としては、非常に密度高くアイデアがつまっていて、いろんな考えを触発される面白い本です。もうちょっと読みこなしたら、きちんとレビューしてみたいと思います。

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レッシグ VS ゲイツ

 なんか、レッシグたんがゲイツたんに失望しているようです。(^^)

 内容の是非はさておき、アメリカではいまだに communist という言葉が悪の権化みたいに使われるのはどーかと思います。

 まあ、日本にもウヨとかサヨとかうるさい人もいるから、人のこと言えないか。(^^)

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探しにくい電子書籍

 あえて言い切ってしまいますが(^^)、本というものの最大の欠点は、場所をとることです。私は、もともと読書オタク的なところもあるのですが、仕事上の資料としても必要な本がたくさんあるので、どうしても部屋中に本が溜まっていくことになります。そんなわけで、電子書籍、あるいは、eBook というものの普及には結構期待しているのです。

 ところが、この電子書籍というヤツ、登場して以来、何度もブレイクするするといわれながら、今ひとつブレイクしない。理由としては、いま一つ読みやすくて使い勝手のいい端末がないとか、フォーマットの不統一とかいろいろあると思うのですが、ここでは、検索のしにくさという問題をとりあげてみたいと思います。

 まず、電子書籍には、従来の書籍のような統一されたデータベースがありません。おそらく、書籍の販売点数だけで言えば、老舗のパピレス (投稿時点で 12,985 点) が一番だと思うのですが、どういうわけか、ここには、電子文庫パプリ(投稿時点で 6,278 点) では売っている筑摩書房の本とか、ebookJapan (投稿時点で 6,990 点) とかで売っている平凡社の本とかが見当たりません。Digipa (投稿時点で 6,443 点) にはどういうわけか翔泳社の本が見当たりませんし、ビットウェイブックス (投稿時点で 9,176 点) には岩波書店の本がありません。これがまだ、普通の書店のように、得意分野で分かれているならいいのですが、電子書籍の場合には、どの本がどこの店にあるのか、実際に探してみないとほとんど見当がつきません。

 したがって、ある本が電子書籍で出ているかどうかを確認しようと思ったら、結局、あっちこっちのサイトを検索して回らなくてはなりません(まあ、一括検索用のスクリプトとかを書いちゃえばいいんですけどね)。その上、どの書店も、紙の書籍を売っているオンライン書店に比べると、書籍の分類が大雑把だったりして、基本的に探しにくいという問題もあります。そんなわけで、紙の書籍を買ってしまった後で、電子書籍版が出ていることに気づいてがっかりするということがしばしばです。

 ちなみに、洋書の電子書籍の場合だと、主なフォーマットが Adobe ebookMicrosoft Reader の 2 種類に絞られていて、それぞれ、一括で検索できるサイト (Adobe eBooksMicrosoft Reader) があるし、Amazon.com なんかだと、通常の紙の書籍を検索したときに、電子書籍バージョンがあればいっしょに表示してくれるので、見落とすこともありません。(もっとも、紙の書籍に比べると分類が大雑把なのは日本といっしょ)

 個人的には、電子書籍固有の問題以前に、このへんの使いにくさが電子書籍に普及を阻んでいるような気がしてなりません。ぎょうーかい的な事情があるのかなんか知りませんけど(^^)、こういうのは、電子書籍でも紙の本と同じようにできるはずのことなので、ぜひなんとかしてほしいです。

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誰の金だと思っているのだ

 地方自治体がいかにシステム開発に無駄金をかけてるかを描いた、18 日の「クローズアップ現代」、「自治体 vs IT ゼネコン」は結構衝撃的でしたね。

 個人的には、役所と取り引きしたことはないのですが、漏れ聞く情報からすると、きっとそんな感じなんだろう、と想像してはいました。でも、実態は想像よりはるかにひどかったですね。

 いまどき、たいしたシステムでもないのに、高価なメインフレームを使っているのも驚きなのですが、ソースコードのライセンスを開発企業に握られてて、他の企業にメンテを依頼することもできず、相手の見積もりを鵜呑みにするしかない状態で、もう、オープンソースオープンアーキテクチャインターオペラビリティといった技術トレンドに、あらゆる意味で逆行しているから、コストがかさむのはあたり前。あぜーん。

 あえて断言しないけど、業界人の感覚として言わせてもらえば、そんなのどーせ、何分の一かの値段で、中小ソフトハウスに丸投げしてるだけだと思うんだよねー(^^)。

 もし、業者からリベートとかもらってるんだったら、もう論外ですが、たとえ善意でやってたとしても、民間企業でそんなに相手の言うことばっか鵜呑みにしてたら、即 IT 担当者失格ですよね。そんなピンハネさせるために税金払っているわけじゃないんだからさー、少しはコスト削減意識を持ってくださいよー。ホント、頼みますよー。(^^)

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