夢を考えているのは誰だ

 先日おかしな夢を見た。なぜかクイズ番組に出演しているのだが、出題されるクイズが非常に面白い。あまりに面白いので、ブログのネタにしてやろうと考え始めた。つまり、夢の中なのに自分が夢を見ているということを自覚しているわけである。そしてクイズに回答しながら頭の中でブログの草稿を完成させた。これは会心の記事になるぞ、でも夢の内容は目が覚めると忘れがちだからなんとか忘れないようなしなきゃ、と思っているうちに目が覚めた。もちろんその時には、その面白いクイズの内容もブログの草稿もきれいさっぱり忘れていた。

 この夢で思い出したのが父のことである。父はコンピュータに対する理解にかなりの問題があって、Playstation の麻雀ゲームなどをやっていると、折にふれて「このゲームはインチキだ」と主張する。なぜかというと、対戦相手だけじゃなくて牌を積んだり配ったりしているのもコンピュータなのだから、コンピュータには相手の手牌も山の牌もわかっているはずだからだそうだ。父に言わせると、自分が捨てたいと思っている牌と違う牌を捨てるようにすると勝率が上がるそうである。これを聞いて思わず「お前は鉄壁保か」と言いそうになったことはここだけの話。

 これはコンピュータの仕組みをある程度知っている人なら一笑に付すような主張なのだが、知らない人の気持ちを想像してみれば、そういう発想が出てくるのもわからないこともない。要するに、コンピュータの中には人間と同じような知能を持つ機械が住んでいるというイメージなのだろう。そいつが対戦相手の役から洗牌から配牌から全部一人でやっていると。

 確かに人間の脳の場合、一人の人間の脳の中に複数の意識があって、互いに他の意識の思考や行動がわからない、なんてことはあまりない。あったとしても、それは多重人格とか呼ばれて病人扱いされてしまうわけである。

 でも考えてみると、夢の中ではまさにそういうことが起こっているわけだ。先ほど紹介した夢で言えば、クイズに回答しているのも自分だけれど、クイズを出題しているのも自分だ。にもかかわらず、回答している自分は、これは面白い問題だから忘れないようにしなきゃ、などとまるで出題している自分が他人であるかのように考えているわけである。

 とすると、逆に人間の脳をコンピュータシステムになぞらえてみると、意識や夢について理解する一助になるかも知れない(認知科学者の佐伯胖氏は、こういうのを擬人化ならぬ「擬コンピュータ化」と呼んだ)。 つまり、脳の中には「意識」を司るアプリケーションと、その「意識」と外界とのインターフェイスの役を司る OS 的なものが存在すると考えるのである。

 覚醒中は、この OS はトランスペアレントに機能しており、外界の入力をそのまま「意識」に渡し、「意識」からの出力もそのまま外界に渡している。そのため、覚醒中に「意識」が OS の存在を意識することはない。ところが睡眠中になると、この OS はトランスペアレントであることをやめ、外界とは無関係な入力を勝手に生成して「意識」に送り込みはじめる。もちろんその結果「意識」の生成した出力も横取りして外界には渡さない。

 この OS を「無意識」であると考えると、あら不思議、無意識と夢の関連を考えたフロイトの発想が自然に見えてくる。また「意識」だけが特別な理由を、「意識」だけが過去のイベントのデータベース、つまり「記憶」にアクセスできるからだ、と考えればベルグソンの発想に似てくる。もちろんフロイトやベルグソンの時代にはコンピュータなんて存在しなかったし、計算機の理論モデルも現在とは異なっていたから、彼らがそんな発想で自分の理論を考えたはずはないのだが。

 なんて妄想じみたことを書き連ねてしまったが、あくまで思いつきのアナロジーなので、良識ある読者のみなさまにおかれては、あまり本気にしないようにお願いします。でも夢についてあれこれ考えていると自己了解に近づくような気がして楽しい。

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髭のない世界

 仕事にかまけて伸ばしっぱなしだった無精髭を剃りながら、ふと考えた。なぜ人間にはこんなものが生えるのだろう。これは実は何かの病気だったんじゃないのか。今でこそ、男性のほどんどがこの病気にかかるようになったから誰も驚かないが、歴史上初めてこの「髭」という病気にかかった人間は、さぞや驚いたに違いない。。。

  • 「ちょっと貴史、顔どうしたの? 口のまわりにゴマ塩みたいなものがいっぱいくっついてるよ。」
  • 「え? どれどれ…うわっ、なんだこれ? (あわてて洗い落とそうとする)あれっ? とれない。とれないぞ。あ! これは毛だ! 顔から毛が生えてる! オレの顔、どうなっちゃったんだ?」

  • 「貴史くん。まだマスクしてるのね。風邪治らないの?」
  • 「う、うん。なんかたちの悪い風邪らしくて。」
  • 「なんかガーゼの間から黒いものが見えるけど。」
  • 「こ、これは、食事してたらゴマ塩がくっついちゃったんだよ。オレ不器用だから。」
  • 「なんだ、そうだったの。お大事にね。」
  • (どうしよう。顔から毛が生えたと思ったら、それが成長しだして、日に日に長くなってる。このままじゃマスクでも隠し切れなくなるぞ。こんな毛だらけの顔を典子ちゃんに見られたら、ぜったいに嫌われる。いや、それどころじゃないぞ。きっとみんなから怪物扱いされてイジメられる。どうしよう…)

  • 「先生、お願いです。なんとかしてください。」
  • 「しかし、調べたところ、この毛の組織は他の体毛と変わらないようだ。つまり、頭や股間に生えるべきものが、たまたま顔に生えてしまっただけとも言える。しかも、他に身体に不都合はないのだろう? ということは、これは必ずしも病気とは言えないのではないだろうか。」
  • 「何言ってるんですか。不都合はおお有りです。こんな顔じゃイジメられるし、一生結婚もできないに決まってます。」
  • 「それだって、他の人間がたまたま顔に毛が生えていないというだけのことじゃないか。自分と違うからと言って他人を蔑むのは、悪しき偏見であり差別だ。だから君が悪いんじゃない。もっと自分に誇りを持ちたまえ。」
  • 「でもこんな顔いやです。」
  • 「しょうがないなあ。そうだ、剃刀で毛を剃ってみたらどうだ。この成長速度なら、1日1回剃れば、そんなに目立たないと思うが。」

  • 「やーい、毛人間!」「化物!」「怪物!」「怪物でもいっちょまえに彼女がいるのかあ?」
  • 「気にすることないよ、貴史くん。ちゃんと剃ってれば、ぜんぜん気にならないもの。」
  • 「でも、それはしょせん、見た目をごまかしてるだけのことだよ。ぼくは典子ちゃんや他のみんなと同じ人間じゃない。怪物なんだ。」
  • 「そんな悲しいこと言わないでよ。貴史くんは貴史くんじゃないの。」
  • 「でも、もしぼくの子供ができたら、その子供もこんな怪物になるかもしれないんだよ。典子ちゃんはそれでもぼくと結婚してくれるかい?」
  • 「………」
  • 「もういい。死んでやるっ!」
  • 「あ、貴史くん! 誰かきてーっ!」 

  • 「いやー、ごめんごめん貴史。お前のこと怪物扱いしたけど、考えてみたら、顔に毛が生えてるだけのことじゃないか。」
  • 「そうそう。オレも最初は気持ち悪かったけど、慣れてきたら気に入っちゃって。最近は剃り方を工夫するのがマイブームになってるよ。」
  • 「オレもだよ。見てくれ。この鼻の下の毛だけ残して、後は全部剃るってのはどうだい?」
  • 「うーん、なんか偉そうだなあ。演説で大衆を扇動し、戦争に駆り立てる政治家みたいな顔に見えるぞ。」
  • 「なんだそりゃ。見た目だけで人のこと決め付けるなよ。」
  • 「あはははは…」
  • 「あはははは…」

 この話を作品化したい方は、事前にご一報ください。ロイヤリティなどはご相談に応じさせていただきます。

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工事の音がうるさい

 私の住んでいるマンションは、独身用のせいか入居者の入れ替わりが激しく、そのたびに内装工事が行われます。この工事の音が、うるさくて喉に刺さった魚の骨のように気になるのであります。

 今日なども、仕事をしようとすると、トカトントン、音楽を聴いていても、トカトントン、読書をしていても、トカトントン、仮眠をとっている最中にも、トカトントン。○○○ーをしようとしても、トカトントン。

 教えてください。この音は、なんなのでしょう。そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。私はいま、実際、この音のために身動きが出来なくなっています。どうか、誰か教えてください。

 なお最後にもう一言つけ加えさせていただくなら、私がこのブログを半分も書かぬうちに、もう、トカトントンが、さかんに聞こえて来ていたのです。こんなブログを書く、つまらなさ。それでも、我慢してとにかく、これだけ書きました。そうして、あんまりつまらないから、やけになってウソばっかり書いたような気がします。翻訳の仕事なんてないし、歯痛になったわけでもないんです。その他の事も、たいがいウソのようです。

 しかし、トカトントンだけは、ウソではないようです。読みかえさず、このまま投稿します。

気取った苦悩ではなく、単に疲れているだけです)

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QR コードによる栄養成分の表示について

 ぼくも一時やっていたから知ってるけど、ダイエットのためにカロリー計算をしようと思っても、外食だと、どんな材料がどれだけ使われているかわからないから、データをとるのが難しい。そのような目的のため、「外食カロリー・ブック」みたいな本も出てるんだけど、そういう本を常に持ち歩くのも正直しんどい。

 もちろん、そういう本のデータを PDA かなんかに入力しておいて、簡単に検索できるようにしておけばいいんだけど、その場合でも、店内でいちいちメニューの名前を入力するのはじゃま臭い。

 じゃあ、メニューに QR コードかなんかを印刷しておいて、それをスキャンするだけで栄養やカロリーの情報を取得できるようにすればいいんじゃないの? あ、このアイデアけっこういけるじゃん。しかも、まだだれもやってないんと違う?

 …と思って有頂天になったものの、念のためにと思って検索してみたら、マクドナルドさんがとっくにやっておりました (^^)。残念。ぼくが最近ヒッキーでマクドナルドにすらあまり行っていないことがバレてしまいましたね (^^)。

 でも、ホント言うと、これ一社だけがやってたんじゃだめなんです。もっといろんなお店でやってもらわないと。だから、データも統一フォーマットにしたほうよろしい。HTML じゃなくて XML で返すようにするとか、あるいは、QR コードは容量が 4K バイトぐらいあるので、インターネットに飛ばすんじゃなくて、QR コード自体にカロリーや栄養のデータを埋め込んでおくとか。

 もっとも、本当にいろんなお店でメニューに QR コードを印刷するようになれば、ほっといても誰かがマッシュアップ(じゃなくてアグリゲータか?)サイトを作るでしょうね。さらに、そのサイト上に個人データを蓄積できるようにして、「最近食べすぎですよ」みたいな警告を出したり、理想のカロリー目標を表示したり、関連商品を宣伝したり、アイデアはいくらでも考えられる。でも、そのためにはまず、そういうお店がもっと増えてくれないと困るから、とりあえずここで宣伝しておきます (^^)。

 この手の QR コードを使ったアイデアって、まだやられてないのがたくさんあるような気がするんだけど。たとえば、レシートに QR コードを印刷して、それをスキャンすれば、家計簿ソフトに自動的にデータを入力できるとか。もっとも、これは電子マネーが普及してしまうとあまり意味がなくなるかもしれないが (^^)。

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コルベア・リポート:ピンカーの巻

 コルベア・リポートにスティーブン・ピンカー登場。脳の仕組みを単語 5 個で説明しろとか、例によってムチャクチャなこと言われてます (^^)。

 最後のオチは、「F○○K」ですね (^^)。

 もし、赤ん坊をずっとバーチャルな世界で育てても、やっぱりピンカー氏が言ってるような生得的な認知フレームは破壊されないのかなあ。アリストテレス的な力学法則の成り立つ世界とかを無理矢理作ってしまって、その中で育てても、認知フレームがそれに適応してしまうことはないのだろうか。まあ、本当にそんな実験をしたら、幼児虐待になってしまうから無理だろうけど (^^)。

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「人に好かれる人」はなぜえらいか

 このブログでも何度か書いていますが、ぼくは非常に鈍いところのある人間で、世の中の大多数の人が若いうちに気づくようなことに、歳をとってからやっと気づくようなことが多々あります。これもそのうちの一つに数えられるかもしれません。

 世間一般の常識では、「人に好かれる」というのは、偉いと言う表現が適切かどうかはさておき、ポジティブな価値を持つことになっていますよね。ぼくはそれを、<「人に好かれる人」→好かれるような美点をたくさん持っている→ゆえに偉い>というふうに解釈していたんだけど、どうやらそれは間違いらしいということに、今日やっと気づいたのです。やっぱり遅いですか (^^)?

 つまり、他人に好かれるかどうかというのは、個人の決まった属性というよりも、むしろ、意志の問題だということです。ぼくは、誰だって基本的には他人に好かれたいと思っているに決まっているじゃないか、と長いこと思い込んでいた。でも、どうやらこれが大きな勘違いだったらしいのです。

 多分、若い人の中には、まだそう思っている人も多いと思います。でも、人間 40 才にもなると、他人に好かれるかどうかなんて、わりとどーでもよくなってくるんです。

 ほら、一時「オバタリアン」とかいって、中高年女性のずうずうしさを揶揄するのが流行りましたけど、ああいうのも、他人に好かれたいという意欲の減退の表れかもしれない。あるいは、結婚して何年もすると、女性のお化粧がいい加減になったりウェストがゆるんできたりするのもそうかもしれない。ぼくはまだですけど、多分、更年期をすぎたりすれば、この傾向はもっと加速するでしょう。

(ちなみに、このへんの性と人間性の関係というのは、もっと追及されるべきだと思うよ。(^^))

 つまり、「人に好かれる人」がなぜ偉いかというと、人に好かれる美点を持っているということ以前に、人に好かれようとする意志を持ち続けているということが偉いのです。そして多分、強い意志さえあれば、ある程度結果はついてくるのです。だから、明石家さんまさんのように、50 才にもなって他人に受けたくて仕方がないと思っているような人は、それだけで十分偉大なのです。このことに、若いうちは気づかなかった。

 ついでに言うと、よくテレビなんかで、「お年寄りなのに生きがいを持って元気で生き生きと生きている人」みたいな人をフューチャーするでしょ? ああいう人も、多分、半分ぐらいはサービス精神でやってるんだと思う。

 つまり、若い人からみたら、お年寄りがあまりみじめったらしい暮らしをしていたら、自分も将来そうなるのかなあと思って、ウンザリしちゃうじゃないですか。若者にはお年寄りのことはわからないけど、お年寄りはみんな昔は若者だったわけですから、そういう若者の気持ちはわかってるはずなんですよ。だから、若者をがっかりさせないために、生き生きと生きているフリをしているんだと思うんです。もちろん、ある程度は本当に元気でないと、元気なフリもできないから、そういう意味では本当に元気でもあるんでしょうけど。

 ぼくも、この年になるとだんだん人付き合いが面倒になるんですよ、ということを、周囲の人にそれとなくうまく伝えたいんだけど、これがけっこう難しいんですよね。「友だちなんていらねーよ」みたいな言い方では、傲慢に響くし、虚勢を張っているともとられかねない。かといって、逆に謙遜して、「友だちが少なくて…」みたいなことを言うと、やさしい子たちが本気で心配してくれちゃったりする (^^)。そういうわけで、いかに傲慢にもならず、心配もされず、適度にほっとかれる方法はないか、といろいろ試しては失敗している今日この頃なのです (^^)。

(「負け犬の遠吠え」という本、まだ読んでないんだけど、あれもたぶんそういうコンセプトなんじゃないのかなあ、と勝手に想像してます (^^)。)

 そういうわけなので、ぼくがなんか変なことを書いていても、あまり本気にしないで、またあいつバカなことをやってるな~、と読み流していただければ幸いです (^^)。

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愛のカタチ

 上原さくら、すごい番組やってんなあ(^^)。正月にやってた番組で、太田光相手に、温泉の醍醐味はオモチャだ、と強硬に主張していたのを思い出してしまった(^^)。タダモノじゃないね。

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喫煙者少数派時代

 愛煙 vs 嫌煙みたいな論争をインターネット上で目にする機会があったので、自分なりにいろいろ考えてみました。昨今の喫煙者に厳しい風潮をファシズム的だと捉える喫煙者側の気持ちもわからないではないのですが、ぼくはむしろ、このような現象は、愛煙家が多数派から少数派に転落したことによる社会構造の変化が必然的に生み出した軋轢ではないか、という気がしました。

 もちろん、女性や未成年まで計算に入れれば、昔から喫煙者は少数派であったとも言えるのですが、少なくとも、職場で多数派を占める成人男性の間では、長いこと喫煙者は多数派だったわけです。ところが、最近になって (厚生労働省国民栄養調査によれば平成 11 年、JT全国喫煙者率調査によれば、平成 14 年以降)、成人男性に限っても喫煙率が 50% を切ったわけで、名実ともに喫煙者は少数派になったわけです。

 ぼくは基本的に、他人に迷惑をかけなければ、喫煙も個人の自由であるという立場ですが、この「他人に迷惑」というのがクセモノです。何を迷惑と考えるかは、その人の価値観によって違うので、自分の土地にビルを建てて何が悪いと思う人もいれば、景観や陽当りの悪くなることを迷惑だと思う人もいる。極端になると、ぼくみたいに、女子高生のスカートの短さですら一種の景観の破壊であると思っている奴すらいる(^^)。

 喫煙の迷惑も、愛煙家同士の間ではあまり迷惑に感じないものが多いので、喫煙者が多数派である場合にはあまり問題にならずに見過ごされることが多かったと思うんですね。もちろん、当時の少数派であった非喫煙者の中には、そういう迷惑に内心腹をたてていたにもかかわらず、口に出してもあまり相手にされないので憤慨していた人もたくさんいたことは想像に難くなく、当時はむしろ彼らの方が迫害されていたに違いないんです。

 もちろん、だからと言って、喫煙者が健康を害することにより、社会全体の生産力に悪影響を与え、GDP が低下するとか、そんなことまで「喫煙の迷惑」に勘定しようとはぼくも思いません。それはそれこそ、愛煙家側の言うとおり、民主主義の理念に反するファシズム的な主張でしょう。

 ただ、公共施設に設置された喫煙所や分煙装置のコストとか、喫茶店や食堂に用意された灰皿や空気清浄機のコストとか、喫煙者が病気になりやすいことによる健康保険料のコストとか、もちろん受動喫煙の害によるコストとかは、これまで社会全体で負担することが当然にように思われてきたわけですが、それは「多数派≒社会の総意」という近似計算によって許されてきたにすぎないと思うんですね。だから、喫煙者が少数派に転落した以上、こういうことが通用しにくくなるのはある意味当然だと思うのです。

 もうちょっと経済学風に言うと、喫煙には確かにコストとベネフィットがあると思いますが、そのベネフィットはほとんど喫煙者だけのもので、コストの方は社会全体が (それも市場を経由せずに) 負担しているという構図があるわけです。こういう状態だと、コストとベネフィットをバランスしようとするインセンティブが働きにくいという問題があるのですが、喫煙者が多数派だと、そういう問題もあまり顕在化しないわけです。

 もちろん、世の中もっと迷惑な習慣や文化がいくらでもあるじゃないか、という反論もわからないではないですが、それは、闘い方としては場外乱闘みたいなもので、ストロングスタイルではないのではないでしょうか。つまり、喫煙に限らず、そのような社会的コストは、なるべく個人の責任で負担する方が本筋であって、他がそうしているから自分もそうしていいんだ、みたいな主張の仕方では、泥仕合になるだけではないでしょうか。

 だから、愛煙家はむしろ、喫煙による社会的な負担をなるべく喫煙者だけで負担するような運動を、自ら推進すべきだと思います。たとえば、煙草税は目的税にして、公共空間の完全分煙の実現などに使うとか、JT なんかも率先して喫煙者向けの食堂や喫茶店を経営するとか、会社に喫煙所や分煙設備を設置するときには、そのコストは喫煙者の給料からさっぴくとか、空港や駅の喫煙所は有料制にするとか、喫茶店の灰皿はレンタル制にするとか、喫煙席は灰皿や空気清浄機のコスト分割高にするとかしたらいかがでしょう。健康保険料にしても、喫煙は、他の病気と違って自分で選択できる習慣ですから、喫煙者の保険料は健康リスクの分高くしてもよいと思うのですが。

 そのように、喫煙者少数派時代に合わせた社会構造の変革を経て、はじめて、愛煙家はマイノリティとしての正当な地位を得るのではないかと思うのですが、どうでしょう。

 ちなみに、ぼく自身は、30 歳ぐらいから煙草を吸い始めて、35 歳ぐらいでやめたという、ちょっと変わった喫煙歴をたどっているので、煙草を吸う人の気持ちも吸わない人の気持ちもある程度わかるつもりです。

 ぼくが煙草を吸う前は、今ほど喫煙者に対する風当たりが強くなかったので、当時はむしろ、煙草を吸う人ってなんか得だなあ、みたいな気持ちがありましたね。昔いたある会社では、開発室の横が全面ガラス張りで、その外がちょっとした広さのテラスになっていて、喫煙者はそこで煙草を吸うわけです。そうすると、コードを書くのに疲れたときにちらっと窓の外を見ると、同僚が煙草をぷかーっとふかしながら雑談してたりして、なんか楽しそうだなあと思うわけです(^^)。ぼくら非喫煙者が息抜きにできるのは、自動販売機にジュースを買いに行くことぐらいで、ジュースではそんなにダベれないし、ちょっと帰りが遅いと上司に文句言われるし、なんか不公平だなあと(^^)。そういう非喫煙者の感情とかも、あんまりわかってない喫煙者の人も多いんじゃないかな(^^)。

 ぼくが煙草をやめたのは、いろんな理由があるけど、なんか煙草を吸いだしてから自分の性格が変化して、短気になったり被害妄想的になったりしたんじゃないか、と自覚したのが一番の理由ですね。まあこれは自分の主観にすぎなくて、科学的に検証したわけでもなんでもないから、それをもって他人に煙草をやめろと主張する気はまったくないですが。(でも、ウルトラセブンの「狙われた街」っていうのは、案外当っているかも、なんて思ったりもしました(^^))

 逆に、これが煙草を吸う最大のメリットだと思ったのは、飲み会とかでたまたま隣に座った人と話が盛り上がらなくても、煙草をぷかーっとふかしてると、なんか格好がつくこと(^^)。だから、煙草をやめた今でも、飲み会に行くときだけ煙草持参で行ったりします。と言っても、ぼくが飲み会に行く回数なんて年に数回というレベルだし、その後からまた吸い出しちゃうなんてこともまったくないですけどね(^^)。

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気まずっ!

 最近、体力維持とダイエットのため、毎朝、近所の河原を自転車で一回りしてくることにしているのですが、今朝ものこのこ出て行ったら、近所の人たちがみんなでゴミ拾いや草刈りをしていたので驚いてしまいました。どうやら、町内会かなんかが主催する、クリーンキャンペーンの日だったらしいのです。

 どうせぼくの顔なんか憶えてる人いないだろうと思って、いかにも通りすがりのような顔をして、「ご苦労さまでぇ~す」などと蚊の鳴くような声でつぶやきながら通り過ぎたのですが、気まずかったなあ(^^ゞ。

 それにしても、見たところ結構お歳を召された方が多くて、やはり、若い人はこんな活動には興味がないのかなあ、などと、自分のことを棚にあげて地域社会の崩壊を憂えたりした私でした。

 時節柄、国会議員に立候補された方なんかも参加しているかと思って、さりげなく探してみたのですが、さすがに来てないようでした。まあ、ぼくはそういう見え透いた人気取りは嫌いなので、別にいいけど(^^)。

 真面目な話、人々が利己的になっていると嘆く人は多いのですが、ホントにそうなのでしょうかねえ。たとえば、2ちゃんをはじめとして、ネットで延々とコンサマトリーなコミニュケーションを続けている人たちだって、ある意味、自分に意思で自発的に情報という公共財を提供しているわけなので、必ずしも、人々からそういう意思が失われたわけでもないように思うんですよ。

 むしろ、失われたのは、人間がどこで利己的にふるまい、どこで利他的にふるまうべきかという、社会的な切り分けに対する合意なのではないかなあ。だから、そういうローカルルールの確立されているところでは、人々はいくらでも利他的にふるまえるわけでしょう。

 だから、社会科学者とか知識人の方々がやるべきことは、人々が利己的になったとか嘆く前に、私利私欲の領域と公的な領域をどのような切り分ければうまくいくかというモデルを考えたり、人々に自発的に公共財や社会資本を提供することをうながす仕組みを提案することだと思うんですけどね。

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液体絆創膏

 液体バンソウ膏というものを初体験しました。先日、海水浴に行ったとき、岩場で足の裏を切ってしまったのですが、放っておいたらちょっと膿んできて、しかも、普通の絆創膏を貼ってもすぐ剥がれてしまう。何かよさげなものをコンビニで物色していたら、「メンソレータム キズぴったりカバージェル」という商品を発見。メンソレータム キズぴったりカバージェル 10g

 見た目や匂いは、子供の頃プラモデルの組み立てに使った「セメダイン」そっくりで、一瞬、こんなんでいいのかよ、と思ってしまうのですが(^^)、使ってみるとこれがなかなか。水にも伸縮にも強いので、水仕事をする指先や関節周辺のように、絆創膏の剥がれやすい部分に塗ってもなかなか剥がれないようです。

 ネットで検索してみると、水産加工や渓流釣りをやる人の間では、すでに知る人ぞ知るという感じの商品になっているらしいですね。

 こういうふうに、世の中いつの間にか着実に進歩しているなあ、と感じさせてくれる瞬間が、ぼくはけっこう好きです。

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暑いっ!

 まったくなんて暑さなの。冷房は嫌いなので、人間は扇風機で耐えしのいでいるのですが、CPU の温度が上がってしまって大変です。下記 CD をMP3 化していたら、ドライブから発生する熱のせいで、あろうことか、システムが緊急シャットダウンしてしまいましたよ。水冷式 CPU クーラーでも買おうかなあ。

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やっぱりうらやましい

 「ほぼ日」の「今日のダーリン」で、なんか頭の悪いやつを励ましてくれるようなことを言っています。ぼくも、どうしようもなく頭が悪くて、とまで言うとウソになるかもしれませんが、友人で頭の回転の速い人と喋っていると、よく劣等感を感じます。

 そういうやつは、たいして本とか読まないくせに、こちらが何か言うと、すぐさま鋭いツッコミをしてくるので、ある意味シャクにさわるのですが、冷静に考えると的確な批評なので、結局言い返せなくて納得させられてしまうのです。

 でも、たしかに、そういうヤツって、あまり本も読まないし、読み始めても数ページぐらいですぐ「下らない」とか言ってやめてしまったりしますよね。たぶん、たいていの本は、読む前から内容がわかってしまうから読むまでもない、という感じなのでしょう。

 ぼくなんかは、むしろ、どんなに下らない本でも、最後まで読まないとその下さなさに気づかなかったりするし、いろいろ本を読んだり試行錯誤を繰り返したりしながら十年ぐらい延々考え続けないと、気の効いたこと一つ言えません。

 だから、結果としては、確かにこっちの方がいろんな本を読んだり経験を積んだりすることになるので、ウサギとカメみたいに長い目で見れば逆転していた、ということになればいいんだけど、あんまりそういう気もしないんだよね(^^)。こっちが十年かけて何か言っても、テキは、それはそうだね、とか言ってすぐ吸収しちゃうわけだしさ(^^)。

 まあ、そんなにシリアスに羨んでいるわけでもないんだけど、やっぱり向こうの方が得だと思うぞ(^^)。

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XXX の権利

 南アフリカ共和国で、囚人に性行為をする権利を与えるかどうか、真面目な議論になっているそうです。

 どういうことかというと、つまり、刑務所内の治安が悪くて、レイプとかがしょっちゅうおこるので、それだったら、合法的な性行為を認めたほうが、レイプも減るし、エイズとかの予防にもなる、というお話らしいです(^^)。でも、反対する方は、それじゃ罰にならんだろう、と言ってるらしい。そりゃそーだよね(^^)。

 でも、それって「ショーシャンクの空に」なんかよりもっとひどい状態だってことで、よく考えると、笑いごとじゃないよね。

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腰痛の方へ

 腰痛が出たときにいつも使っているのが、このキネシオテープキネシオ KT-050 50mm幅 

私も、腰痛持ちのご多分にもれず、いろいろ試しましたが、これはホントに効きます。

テープは、筋肉と同じ伸縮率を持つという柔軟性のあるテープで、貼ると、疲労や痛みで身体をうまく支えられなくなっている筋肉の代わりに身体を支えてくれるような感じがします。

 とりあえず、座っているだけでつらいという状態だけは、すぐ解消されるので、忙しくて寝てられないときにはホントに助かります。

アーロンチェアBサイズ・ランバーサポート【カーボン・フル装備・グラファイト色】★送料込み【... 決してサクラではありませんので、腰痛の人は、だまされたと思って一度お試しください。

 ちなみに、仕事場の椅子はもう何年も前からアーロンチェアです。これに慣れると、普通のオフィスチェアでは耐えられなくなります。とくに、座る面がリクライニングするのが、こんなに具合がよいとは、使ってみるまでわからなかったですね。

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弱り目にたたり目

 久しぶりに腰痛が出てしまいました。かなり前から腰痛持ちではあったのですが、ここ数年はわりと調子がよくなっていたので、油断していい加減な姿勢で長時間仕事をしていたのがいけなかったのかもしれません。

 おまけに、仮眠している間に停電があったらしく、いろんな機器のデータがリセットされていました。やっぱ、UPS ぐらい買っとかないといけないですね。

 だいたい、忙しいときに限ってこういうことになるんですよね~。これも普段の心がけが悪いからですね。反省します(^^)。

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四十にして…

 思想とか社会科学とかいうものに対して、前から不満に思っていたこととして、人間の経年変化みたいなものをうまくモデル化できていないということがあります。この歳になるとはっきるわかるのですが、人間は、歳をとるにつれ、肉体的にだけではなく、考え方も変わってきます。そして、その変わり方には、人によらず共通のものがかなりあると思うのですね。

 たとえば、テリー伊藤氏が何かの番組で「この歳になると、世のため人のためを考えることぐらいしか楽しみがなくなるんですよ」というようなことを言っていましたが、これは、たんなるカッコつけとか韜晦じゃなくて、年齢による心境の変化をわりと素直に表現した言葉なんじゃないかと思うんですよね。

 いわゆる「戦後民主主義」では、全体主義の反動として、「自分を大切に」ということを妙に強調した時期がありました。でも、そういう人権思想というのは、あくまで、社会システムを支えるための擬制であって、社会が個人に自己犠牲を強いては絶対にいけないけれど、個人が自分の意思で利他的な思想を持ち、利他的に行動するのは、それこそ勝手だと思うんですよね(^^)。だからそこには、社会思想と、個人がよりよく生きるための実存哲学の混同があったと思います。

 特に、若いうちは自分のことを考えるだけで精一杯の人も多いでしょうけど、歳をとってくると、自分の寿命にも先が見えてくるし、その寿命の範囲でできることもだいたい見えてきてしまうので、自分のことだけ考えていてもつまらなくなってくるんですよね(ホントだよ)。

 一時は、親の子供に対する干渉とかまで、「自分の欲望を他人に投影しているだけだ」みたい言って悪者視する風潮がありましたよね。でも、歳をとるにつれて、自分の人生とか将来とかを考えることが、欲望の対象として成立しにくくなってくるのは当り前だと思うんです。

 あるいは、老人になっても、将来に夢を持って前のめりに生きているひとを妙に持ち上げるような風潮もあったけど、本当にそんな生き方にそれほど普遍性があるんでしょうかねえ。むしろ、孫の喜ぶ顔が見たいとか、近所の掃除をして近所の人が喜ぶ顔が見たいとか、そういう方が普通なんじゃないでしょうか。

 だから、「自分の欲望として他人のことを考える」という気持ちの存在自体は認めてあげないと可愛そうだなと思うようになりました。

 三谷幸喜の「新撰組!」の一回目で、佐久間象山が「十代のうちは自分のことだけ考え、二十代になったら家族のことを考え、三十代になったら日本のことを考え、四十代になったら世界のことを考えろ」(細かいところはウロ覚えです)とか言うのを聞いたときには、これぞ名言と思いました。(ホントに佐久間象山が言った言葉なのか、三谷さんの創作なのかは知らないけど。)ぼくの実感としては、孔子の「四十にして惑わず」よりもよっぽど響く言葉です。

 だから、利己主義とか利他主義とか一律に切り分けるんじゃなくて、歳をとるにつれて考え方が変わるということを肯定する実存哲学みたいなものがあった方が、高齢者の精神衛生のためにもいいんじゃないかと思うんですけど(^^)。いかがでしょう。

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認識とアイデンティティ

 人間の認識には、根本的に異なる 2 種類の原理があると思うのです。

 たとえば、人間が見知らぬ人間に出会ったときには、「楕円柱に 4 つの円柱と 1 つの球がくっついた物体が動いているぞ」などとは思わず (仮にそう思ったとしても、網膜に一定時間映った図形を「物体」として認識するというようなパターン認識はすでにして行われているわけですが)、「人間だ」「女性だ」「若い」「歳いくつ?」「お茶のみに行こう」とかいう風になるわけです。

 これは、未知の対象に対して、自分が過去さまざまな対象と出会ったときに蓄積した、「人間」「女性」といった既知のパターンを当てはめていくという一種のパターン認識と言えます。それによって、人間はみな飯を食うので、こいつも飯を食うに違いないとか、いろんな推定が可能になるわけです。(これがまた差別の原因にもなるわけですが、それについては後日再論。)

 一方、人間が自分自身を認識する際には、これとはまったく異なる認識原理が働きます。たとえば、自分が飯を食うと空腹がおさまる、というようなことは、別に他の人間を観察しなくても、自分自身の経験からわかるわけです。

 前者を仮に「他者的視線による認識」、後者を「自己的視線による認識」と呼ぶことにしましょう。(他者的な視線は共時的なパターン認識、自己的な視線は通時的なパターン認識に関係しているような気もするのですが、このへんはまだ考えが詰めきれてないので後日再論。)

 たとえば、ある人の腕が千切れかかっているときに、自分で腕を動かそうとしても動かないから切れている、と考えるのは自己的視線による認識だし、同じような症例を何度も観察している医者が、このように神経が切れている場合はみな腕が動かなくなるから、こいつも動かせないはずだ、と考えるのは他者的視線による認識だということになります。

 もちろん、自分に対してあえて他者的な視線を向けることも可能だし、他者に対して自己的な視線を向けることも可能です。

 たとえば、上の例なら、人間だから飯を食うはずだ、とあえて決め付けずに、ずっと観察を続けることによって、確かに飯を食うということを確認することもできます。あるいは、自分が何を食べるかを決めるときに、他人がおいしそうに食べているから、自分にとってもおいしいはずだ、と判断することもあるわけです。

 そうすると、アイデンティティの問題と言うのは、単に主観と客観を一致させるというような問題ではなくて、この自己的視線による自己認識と、他者的視線による自己認識の間の整合をどうとるか、という問題ではないかと思われるのです。そうすると、この問題は、必然的に、「表現」とか「装う」とか「演技」とかいうキーワードと関わってくるはずです。

 このような考え方は、別に私だけのものではなくて、たとえば、「自己と他者」の R・D・レイン氏などもこう言っています。

「<アイデンティティ>にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己と言うアイデンティティは現実化されるのである。」 

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got a bad cold!

 少し仮眠をとってから目が覚めたら、思いっきり風邪を引いていた。

 頭がクラクラして、胸がムカムカする。まるで二日酔いのときみたい。

(咳や洟はほとんど出ないので、風邪と断定するのは危険かも。)

 「新選組!」を見始めたが、とても見続けていられず、ベッドにもぐりこむ。

 

 …まる 24 時間近く寝続けたら、やっと少し気分がよくなった。

 メールの返事などどーしても書かねばならないものがあるので、ベッドにノートパソコンを持ち込む。

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