LibraryThing 日本語版用のブックマークレットを作ってみた

 LibraryThing 日本語版用のブックマークレットがなかったので作ってみました。

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 上のリンクをツールバーなどにドラッグすればOK。 

 今時間がないので、詳しい説明は省略。わかる人にはわかるよね(^^)。

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PLUTO 5

PLUTO 5―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (5) (ビッグコミックス) 「PLUTO 5」を購入。なんと、セブンイレブンの棚一段を完全占拠していたので、最近のマンガの中でも売れている方なのだろう。 ゲジヒトが○○○○したというネタでしばらくひっぱるのかと思ったら、そのネタは前フリにすぎなかったらしい。手塚原作キャラとしては、新たに○○○○○も登場するが、まだ登場しただけで、たいした見せ場はなし。

 この作品の成功の鍵は、「ロボットの心」をどれだけリアリティを持って描けるかだと思っているのだが、その関連で新たに出てきたキーワードが、「偏った感情の注入」。

 実はこれ、たまたま最近読んだベルクソンの自我論とか、それを批判的に引用している山崎正和氏の自我論とかに、ちょっと似てるんだよね。あと、「ほぼ日」で最近、脳科学者の池谷裕二さんの睡眠論連載してるんだけど、そこで知った「起きているときに活性化しているニューロンは 30% ぐらいなのだが、睡眠中で意識がないときには 100% 活性化している」という話も思い出した。

 そんなこともあって、これまで読んだ限りでは、浦沢氏の「ロボットの心」の描き方には、現代の哲学や AI 理論の水準を踏まえてもリアリティを感じさせるものがあるという気がしている。ぼくは、最近あまり SF を読んでいないので、ひょっとしたら先行作品があるのかもしれないし、誰か専門家のブレーンがついているのかもしれないが、ご自身で考えているとしたら、たいしたものだと思う。

 もちろん、まだ 5 巻目なので、今後の展開次第で駄作になってしまう可能性もあるのだが、5 巻読了時点でのぼくの期待値は堅調に推移、買い推奨である(^^)。

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ケータイ小説初体験

 ケータイ小説「恋空」を読んでみた(^^)。

 ケータイ小説について、賛否両論あることは知っていた。中高生には圧倒的な人気がある。しかし、従来の小説を読んできた人たちは、否定的な評価の人が多いらしい。その一方、新しい世代による新しい時代の小説として評価する人もいるようだ。どの評価が正しいのかは、つまるところ、読んで見なければわからない。それを確かめたくなったのだ。

 読了後、山田太一氏の「『オーケストラの少女』はひどい映画か?」というエッセイを思い出した。それは、指揮者の岩城宏之氏のエピソードに関するエッセイだ。岩城氏は、少年時代に「オーケストラの少女」を観て感動し、その影響で指揮者になったそうだ。ところが、大人になってからもう一度「オーケストラの少女」を観たところ、子供のときの記憶とは違って、どうしようもなくひどい映画としか思えなかった。それで氏はおおいに落ち込んでしまったという。

 このエピソードについて、山田氏はこう言う(このエッセイを収録した本は処分してしまったので、細部はうろ覚え)。おそらく、「オーケストラの少女」は、たいていの大人にとってはひどい映画なのだろう。しかし、ひどい映画だからと言って、子供に見せない方がいいとは思わない。子供というものは、大人が名作だと思うような作品で成長することはあまりなく、むしろ、俗悪な作品こそが子供を成長させることが多いからだ。現に、「オーケストラの少女」は岩城氏を指揮者にしたではないか…。(念のために補足すると、このエッセイのポイントは、名作・俗悪という価値基準自体を変更せず、にもかかわらず子供にとって俗悪は必要だ、という論法になっていることである。)

 ぼく自身も人並み以上にそうだったが、子供というのは、実にくだらないことに熱中する生き物である。マンガやテレビ番組だけのことではない。サケブタやスーパーカー消しゴムのようなよくわからないグッズ収集もそう。ぼくなんかアホだから、もっともっとくだらないこともたくさんしている。チョークを食べる。舌を三つ折にする。消しゴムのかすをまるめて練り消しゴム状にする。牛乳瓶のフタについているセロハンに穴をあけ、その穴を徐々に広げていって、しまいにはその穴をくぐる。道に落ちている刀の形をした鉄片を拾い集める…。

 どれも、文化や芸術とはなんの関係もないし、社会的な影響力もない。でもおそらく、理由はよくわからないけど、当時のぼくにとっては必要なことだったのだろう。

 「恋空」も、確かに傑作とはいいがたい。ぼく自身もそれほど感動しなかったし、客観的に観ても、後の世になって名作として再評価されるということも、おそらくないだろう。

 ただぼくは、だからと言って、この小説をそんなにムキになって批判する気にもなれないのだ。別に誰も芥川賞や直木賞をやれと言ってるわけじゃない。書きたい子が書いて、読みたい子が読んでるだけのことではないか。やれ間違った知識が書いてあるとか揚げ足とりみたいなことを言ってる人もいるけど、そんなのは大した問題とは思えない。子供を騙して金を儲けているという批判もあるが、そういう人たちだって、子供達のやることについて行けない年寄りに受けそうなことを言って金を儲けているとも言える。

 また、文学的に新しい手法とまではいかないものの、現代的な感覚を感じるところはいくつかあった。たとえば、あのリズム感を重視した行間の空け方や改行の仕方などはなかなか面白い。恋愛や友達関係の大部分がメールやケータイの会話で進行するのも、伝統的な小説ではなかったことだろう。友達同士がすぐ裏切ったりウソをついたりするのも、その後わりとあっさり仲直りするのも、ぼくの世代の感覚からするとかなり違和感があるのだが、今の子にはそれなりにリアリティを感じられるらしい。だから、これがミヤダイ先生のよくおっしゃるカジョーリュードーセーってやつなのかなあ、なんて思ったりした(^^)。

 このような点から考えても、どちらが文学的にすぐれているかという話とは別にして、ケータイ小説が、従来の小説からは得られないなにかを、今の若い子たちに与えている、ということはありそうである。

もちろん、

ぼくだって、この小説ですごく感動したとは言えない…。

でも、

だからといって、やたらムキになって悪口を言う人も、

なんだかキモいと思ってしまったんだ…。

ただ…

ひとつだけ気になること。

それは、ぼくみたいなオヤジがこんなことを書くと、

若い子にモテたいという下心がミエミエだ、

と思われそうなことなんだ…。

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マル激・岡田斗司夫編

 今週の「マル激トーク・オン・ディマンド」のゲストは、渦中の人、岡田斗司夫さんであった。と言っても、収録したのは先週らしく、「いいめも」事件についてはなんの言及もなかったが、お話自体はなかなか面白かった。

 もっとも、後半の「見た目主義社会」の話は、申し訳ないけど、表層的であまり深みがないように感じた。面白かったのはやはり、前半のレコーディング・ダイエットの話である。実は、ぼくはまだ「いつまでもデブと思うなよ」という本自体を読んでいないのであるが、自分の禁煙体験と照らし合わせてみても、ハタと手を打つような発言がいろいろとあった。

 そこで以下、岡田式レコーディング・ダイエットについてぼく流の解釈を書こうと思うが、その前に、やはり一言書いておかねばなるまい。ここに書いてある岡田式レコーディング・ダイエットに関する説明は、あくまでぼくの勝手な解釈であって、岡田氏の提唱するレコーディング・ダイエットを正しく伝えているとは限りません。と、これでいいよね(^^)?

 ぼくは、30 代になってからタバコを吸い始め、5 年間ぐらい吸い続けてから禁煙に成功したという、少し珍しい喫煙歴を歩んだ人間なのだが、そのときに考えたのは、岡田氏と同じく、やはり人間の欲望の構造だった。

 そもそも、禁煙したい人間というのは、意識的・理性的にはタバコを止めたいと思っているのだが、無意識的・感性的にはタバコを吸いたいと思っているものだ。この状態を俯瞰して見ると、二つの矛盾する欲望を同時に抱いているということになる。

 この状態は、理性偏重の近代主義的な考え方からすれば、理性的な欲望の方が正しく、感性的な欲望の方は間違っているということになるのだろうが、ポストモダン的な考え方からすれば、どちらが正しいとも言えないはずである。

 したがって、徹底して近代主義的な人間の場合には、理性によって感性をねじ伏せるという形で禁煙に成功することもあるのだが、ポストモダン的な人間の場合には、タバコが吸えないのに長生きしてもつまらない、どうせ人間いつかは死ぬんだし、みたいな考え方に抵抗しきれないわけである。

 しかし、よくよく考えると、そもそも同じ人間が矛盾する欲望を同時に持っているということが論理矛盾なのであって、これは、意識と無意識を別の自己として認識していることによって擬似的に発生する現象にすぎないのである。

 元をたどれば、理性的な欲望も、感性的な欲望をより深く満足させるためにあるはずだし、感性的な欲望も、理性によって誘導できるはずなのだから、問題は、両者のフィードバック関係がうまく機能していないことなのである。したがって、このような矛盾は、無意識的な欲望と意識的な欲望の関係をよく整理して正しく捉えなおせば、解消できる可能性がある。

 たとえば、禁煙について言えば、そもそも、タバコを止める人はなぜみんな完全に「スパッ」と止めなくてはいけないと考えていて、一日一本だけなら吸っていいみたいな止め方をする人がいないのかが不思議である。

 実際には、無意識的な喫煙欲は、たまにはタバコを吸いたいという欲望かもしれないし、意識的な禁煙欲も、肺癌にならない程度にタバコを減らしたいという欲望かもしれない。だとすれば、完全に禁煙するかわりに、喫煙量を減らすことによって、意識的な欲望と無意識的欲望の両方を満たせる可能性があるはずだ。

 もちろん、タバコの場合には習慣性があるという事実も見逃せないが、これはおそらく、理性によって感性をねじ伏せるという近代的な自己モデルに囚われすぎているがゆえの勘違いだと思う。

 現にぼく自身も、禁煙成功後は、普段はまったくタバコを吸っていないが、たまに飲み会に行くときだけはタバコと 100 円ライターを買っていくことがある。これは前にもどこかで書いたけど、ぼくはあまり社交的な人間ではないため、同席した人と話が盛り上がらないことがあって、そういうときにも、タバコをぷかーっと吹かしているとなんとなくカッコがつくからである。(実は、これこそが、ぼくが喫煙時代に発見した、喫煙の最大の効用である(^^)。)

 もちろん、だからと言って、その日を境にタバコを吸いだしてしまうようなことはなくて、翌日からは何事もなかったように禁煙生活を続けられている。これこそ、自分の中の無意識的な欲望と意識的欲望の間の整理がついている証拠であろう。

 岡田氏の話の中でも、ぼくが最も感心したアイデアは、食事を残せばよいという話である。ぼく自身もダイエット中によく経験するのだが、たとえば、コンビニに弁当を買いに行って、カツ丼を発見し、一瞬食べたいと思ったものの、カロリー表示を見て諦めて、代わりにもっとカロリーの少ないソバ弁当にしたりすることがある。

 これも先ほどの禁煙の話と同じことで、カツ丼を食べたいというのが無意識的な欲望、ダイエットしたいというのが意識的な欲望なのだが、よくよく考えると、カツ丼を食べたいということと、コンビニで売っているカツ丼を一個全部食べたいということはイコールではない。実は、無意識は、ちょっとでもカツ丼の味を味わえれば満足するかもしれないし、そのちょっとは、実はソバ弁当一個よりカロリーが少ないかもしれないのである。

 そう考えると、カツ丼を一部だけ食べて後は捨ててしまえば、意識的な欲望と無意識的な欲望の両方が満足する可能性があるわけで、この発想はさすがに鋭いと思った。

 誰でも気がつくことだと思うが、このような考え方は、最近流行りの procrastination 対策にも応用できる。ここでも、仕事をサボってダラダラしたいという感性的な欲望と、早めに仕事を終わらせないと後でヒドイ目に合うよという理性的な欲望が対立しているように見えるわけだが、だからといって理性で感性をねじ伏せようとするから、長続きしないのであろう。最近流行のライフハックで提唱している ToDo リストの作成なども、要するに、自分の真の欲望を整理して正しく認識しなおすための技法であると考えられる。

 そういう意味で、理性的な欲望と感性的な欲望の関係を整理して、正しく自己認識し直すという手法自体は、いろんな分野に応用できるスキルであると思われる。こう考えると、このような方法が最近まで普及しなかったのはむしろ不思議なぐらいだが、おそらく、理性と感性を分けて考え、理性で感性をねじふせられる奴が偉いとする、近代的なパラダイムが発想の邪魔をしていたのだろうとぼくは思っている。

(読み直してみると、実はフロイト理論とあんまり言ってること変わらんような気も(^^)。)

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いいメモダイエット事件について

  知っている人は知っていると思うが、いいメモダイエット事件というのがあった。詳細は検索でもして調べていただきたい(ぼくもそれ以上のことは知らない)のだが、簡単にまとめれば、岡田斗司夫氏が「いつまでもデブと思うなよ」という本で説いたレコーディング・ダイエットという手法を勝手に利用した「いいメモ」というウェブサイト(ちなみに、このサイトに利用は無料だったらしい)ができたことに対し、岡田氏が著作権の侵害を主張したという事件だ。

 それに対し、ネット上では、アイデアは著作権で保護されないのではないか、といった批判が出ていたわけだが、今日になって、岡田氏のウェブサイトに、そういう批判に対する回答とも思われる記事がアップされていた。

 部分引用は禁じられているようなので、詳細は読んでいただくしかないが、岡田氏が防ぎたいと思っているのは、権利の侵害というよりも、自分の主張がねじまげられて伝えられることらしい、ということはわかったような気がした。もちろん、それはこの記事を額面どおり受け取った解釈で、本当は自分だけで利益を独占したいだけだろ、みたいな解釈をする人は当然いるだろうけど、議論を拡散させないために、ここではあえて額面通り受け取ることにする。

 ただ、その手段として、著作権侵害を主張することが妥当であるかどうかは、やっぱり別の話だと思う。それだったらまず、「あなたがたは私の意図を間違って伝えていますよ」ということを伝えて、訂正を依頼したほうがよかったのではないだろうか。もちろん、それはあくまで依頼であって法的な強制力があるわけではないから、相手が無視すればそれまでだが。

 でも、法的な強制力がなくてもできる、もっと現実的な方法だっていろいろあるはずで、たとえば、「岡田式レコーディング・ダイエット認定証」みたいなものを勝手に作って発行してしまうという手もある。この方法なら、公権力や相手の協力がなくても自分だけの責任で行え、なおかつ、相手が自分の考えを意図通り伝えているかどうかを明確にアピールできると思うのだが、いかがであろうか(^^)。

 もちろん、これはぼくの独創でもなんでもなくて、フランスのワインとか松坂牛とかでもさんざんやっている使い古された方法にすぎないから、岡田さんともあろう人が、それに気づいていないとも思えない。ぼくがこの事件に一番違和感を感じるのもそこで、きわどいパクリや便乗商品の歴史などさんざん知り尽くしているはずの岡田さんが、まるで「純粋まっすぐ君」のような主張をしていることである。だからやっぱり、体重が減ると思考回路にも影響があるのかしら、なんて思ったりもしてしまうのだが(^^)。

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Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms

Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms  「夕凪の街桜の国」がいつの間にか英訳されていたんですね。英題は「Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms」。そのまんま、という感じですが(^^)。

 書評などでもなかなか好評なようです。

ざっと読んでみたけど、みんなわりとこの作品のポイントをわかってくれてるみたいで安心しました(^^)。

 映画のほうはまだ未見ですが、どうでしょうか。あの絵の美しさをどう実写に置き換えるかがポイントなんでしょうけど。

(吉永さんのコメントはちょっとはずしてませんか? 失礼ですが、たぶん原作読んでないんじゃないかなあ? 少なくとも、読んでからコメントした方がいいよね。読んでこのコメントだったら、ちょっと感性を疑うというか、上記のアメリカ人たちに比べても読解力がないと思ってしまうなあ。このコメントを掲載した人はそう思わなかったのだろうか。。。(^^)

 上で紹介した David Welsh 氏も書いております(^^)。

The incalculable individual cost of the bombing of Hiroshima has been handled in drama and documentary, and one can’t argue that the act of examining that kind of horror is automatically a virtuous or courageous act. The critical element is any given work’s ability to move its audience.

 どんな芸術を鑑賞しても、ステロタイプな政治的なインプリケーションしか読み取れないのでは、芸術家として失格じゃないですか? とか言われちゃうぞ~(^^)。)

(追記: 舞台挨拶でも吉永さんのコメントを読み上げたらしいけど、真面目な話、あんまり反戦映画みたいな宣伝をしない方がいいと思うぞ。そもそも、そんな大雑把な表現はこの作品に対する冒涜でしかないし、こんな繊細な世界を作り上げた作者に対しても失礼だし。営業面でいったって、反戦映画なら見ようという人と、反戦映画ならいいやと思う人とどっちが多いかも微妙だろうし。だいたい、反戦映画なら見ようなどという人は、真にこの映画を観るべき人ではない。むしろ、そういう余計な先入観のない人や、先入観にとらわれない知的誠実さや柔軟な感性を持った人こそが見るべき映画なのに。)

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レコーディング用語事典

レコーディング用語事典―Sound & recording magazine presents 仕事の資料として「レコーディング用語事典―Sound & recording magazine presents」 というのを買ったが、仕事柄この手の用語集を大量に所有しているぼくの眼から見てもなかなかよい本である。

 まず、職業柄最も特筆したいのは、英文索引がついてること。日本の用語事典類には、これがついていないものが意外と多い。店頭でなら立ち読みできるから買う前に確認できるが、通販だとわからないので、一か八か買ってみてがっかりすること多し。

 また、「ハンディ版」と書いてあるように、本のサイズは小さいのに、活字が小さくて意外と収録語数が多い。概算で 1000 語ぐらいは載ってるのではないだろうか。サイズは、日本の新書よりは微妙に大きく、オライリーの「Poket Reference」というシリーズよりは少しだけ小さいぐらいなので、本棚でも場所をとらない。

 最後に、定価が安い。なんと 800 円。ぼくは、これの何倍もの値段で、これの何倍も内容の薄い本をたくさん買った経験があるので、これは特筆しておきたい。

 ちなみに、「サウンド&レコーディングマガジン」というのは、ぼくが学生だったうん十年前に毎月のように買っていた雑誌の一つ。そのころは DTM がやりたくてしかたがなかったのだが、機材が高くてロクなシステムが組めなかった。今は逆に、機材は買えるようになったが、買った機材をいじるヒマがない(^^)。 人生とはままならないものだ(^^)。

サラウンド入門 - その歴史、鑑賞方法から制作までサラウンドのすべて [Nowbooks4]  だから、この本もきっと、そういうびんぼーな音楽好きのために意識的に安く価格設定してあるんじゃないかと思う(^^)。がんばれ、リットーミュージック!

  これと一緒に買ったのが「サラウンド入門」。ドルビーとか DTS とか 5.1ch とか 7.1ch とかややこしくなってきた「サラウンド」について、どんなバカでもわかるんじゃないかと思うぐらい丁寧に書いてあってなかなかよい(^^)。ただ、唯一の欠点は、上記の本とは逆に、索引がついてないこと。いまどき DTP だったら索引つけるぐらい簡単なんだから、索引ぐらいつけようよ。それだけで使い勝手は全然違うんだからさ。

 わ~ら~って~ご~ら~んよ~、あ~る~いて~ご~ら~んよ~、み~ぎ~から、ひ~だりから~、さ~そ~われ~るさら~うんど~。

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もういまはいないぼくへ

 アイドル海川ひとみさんが「ハッスル」でプロレスをやっているビデオを発見。

 まあ、正直言って、キャットファイトを見るときのような、スケベな好奇心半分で見始めたわけなんですが (^^)、予想に反して、見てるうちにイライラしてきて、最後まで観るのがつらかった。

 と言っても、女の子を慰み者にして、なおかつそれを見世物にするのはよくないとか、そういうイイ子ちゃんブリっ子なことが言いたいわけではなくて (^^)、そもそも、こういう芝居にもはやまったく感情移入できない自分というのを発見してしまったのだ。

 つまり、海川とか眞鍋とかが本気で怒って、アナウンサーとかもそれに同調しているのを聞いていても、「えー、だって海川だって売れないアイドルの自分が少しでも名前を売りたいからわざわざプロレスの試合なんかに出たわけだろうし、ハッスルのほうだって話題性があるから出しただけでしょ? 眞鍋だってそれ知ってるくせに、なんで本気で怒ってるフリしてんの?」みたいな、そーゆー感想しか出てこないんだよね (^^)。

 でも、考えてみたら、子供の頃猪木とか馬場を見てた自分はそうじゃなかった。タイガー・ジェット・シンアブドーラ・ザ・ブッチャーは本当にルールを守らない悪い奴だなあと思っていたし、ベビーフェイスである猪木や馬場が、出せば反則をするのをわかっていながら、自分を引き立てるために、わざわざ彼等を呼んでいるなんてことにも、まったく思いがいたらなかった。それで、善玉が悪玉に勝つというドラマを、けっこう喜んで見てたんだよね。

(まあ、立花隆さんのような頭のいい人から見れば、ああいうものを楽しめるのは、頭の悪い証拠(注:出典が見あたらないので、正確な引用ではありません。二次引用は避けてください)なのだそうですが。。。(^^))

 まあ、そんなことはどうでもいいんだけど、ぼくがちょっと考えてしまったのは、こういう感受性の変化というのは、時代の変化のせいなのか、それとも、自分個人の成熟(老化と言うべきかもしれないが)なのか、ということなんだよね。 

 もちろん、「ハッスル」の興行が成立しているということは、これを楽しんでみている人も一定数いるということなんだろうけど、その人たちはいったいどういう見方をしているのか、というのがぼくにはよくわからないわけ。

 ぼくにも、かなり熱狂的なプロレスファンの友人がいるので、彼らが単純にそういう芝居に騙されている知性の低い人たちではなくて、むしろ、相当知性がないとできないような二重三重にひねくれた鑑賞の仕方をして楽しんでいる、ということはよく知っているつもりだが、彼らにとって、あれは「あり」なのか「なし」なのか、今度会ったら聞いてみたい。

(ひょっとしたら、あのどう見ても勝ち目のなさそうな海川が無理矢理勝ってしまう、というのが、プロレスとしては正統派の展開であって、負けてしまうのは邪道である、というような見方をするのかも。。。(^^))

 一方で、北田暁大さんが言うように、現代がどんどんベタなものを嫌う方向に向かっているのも確かなので、自分がああいうベタな芝居にはついていけなくなっているのはそのせいではないか、という気もするのである。

 ぼくがこのビデオを見てると、どうしても、「だって自分最初から出たくてでてるやん」「出れば負けるのわかってるやん」見たいな(浜ちゃんの)ツッコミの声が、どこかから幻聴のように聞こえてきてしまうんだよね (^^)。こういう芝居は、そういうツッコミ付きで見ないと、なんだか気持ち悪くて仕方がない。

 繰り返すが、それは感性が老化したせいなのか、それとも、正しい鑑賞の仕方がわかっていないせいなのか、それとも、やっぱりあれに感情移入しろということ自体に最初から無理があるのか、ぼくにはよくわからないのである。今後の研究課題としたい (^^)。

おまけ

 今のと微妙に関係があるようなないような話だが、サイゾー 4 月号の山形道場に「人類の大規模な宇宙進出はありえない」という原稿が載っていて、正直かなり意表をつかれた。(でも、意表をつかれたということは、すでに半分ぐらいその主張に説得されかけているということなんだよね。)

 山形さんは、「ポスト・ヒューマン誕生」という本を読んだ感想として書いているので、この文だけでは正確な真意はわからないのだが、読んでわかる範囲だと、1.人類の人口がこのまま増え続けるということはない。いずれ頭打ちになる、2.地球の環境も、多くの人が地球を捨てたくなるほど悪くなりそうもない、というような理由らしい。 (これは、そう「悟った」山形さん自身にも多少意外なことであったらしく、最後は「つまんないの。」と結んでいる (^^)。)

 前にも書いたけど、ぼくら子供の頃に「未知との遭遇 」 とか「E.T.」とか観ちゃった世代だし、その頃は、カール・セーガンみたいな学者までが、宇宙人のいる可能性について真面目に議論して SETI だのドレークの式だの言ってわけだからね。だから、ぼくらも、そういうのに影響を受けすぎている可能性はあって、一歩引いてみると、なんでそんなことを信じこんだりしたんだろう、という気もしないでもない (^^)。

 でも、やっぱり「宇宙人」がいるかどうかで、かなり結論は違ってくるような気がするんだけどなあ。もっとも、最近は、宇宙にいる知的生命は人間だけのようだ、というような議論もちらほらされているみたいだからなあ。つまんないの (^^)。

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佐藤信夫再読

レトリック感覚 思うところあって、故佐藤信夫氏の「レトリック感覚」「レトリック認識」「わざとらしさのレトリック 」「レトリックの記号論」を再読。なぜこの四冊かというと、たまたま以前からウチの本棚にあったからである。最初に買った「レトリック感覚」は講談社文庫版で、奥付を見ると「昭和 61 年 3 月 15 日の第一刷」となっている。だから、最初に読んだのはかれこれ 20 年も前だということになる。

 そんなわけで、20 年ぶりの再読だったわけだが、改めて名著だと再認識した。もちろん、当時読んだときもよい本だと思ったのだが、今になってみると、当時はまだまだ全然ちゃんと読めてなかったなあと感じるところが多々ある。

 特に感じたのは、佐藤氏のレトリック論は、実はきわめてポストモダン的だったんだなあということである。まあ、佐藤氏はバルトの「モードの体系」などを訳した人でもあるのだから、ポストモダンの影響を受けているのは、ある意味当たり前といえば当たり前なのだが、当時のぼくは、まったくそういうふうに捉えていなかったのだ。

 これは、ぼくが幼くてそういう論壇の事情などといったものに疎かったということもあるが、佐藤氏自身の文章のスタイルが、そういうことを匂わせなかったことも大きい。実際、佐藤氏の持つ学識からすれば、バルトその他を引用したり、デノテーション、コノテーション、ディスクールなどといったポストモダン/ニューアカ・ジャーゴンをちりばめたりして読者を煙に巻くといったことは、いとも容易だったはずである。

 にもかかわらず、佐藤氏は、用語系も伝統的な修辞学のものを踏襲し、表現もできるだけ平易なものを使い、考え方としてのみ、ポストモダン的なエッセンスをもりこむようにしている。「記号論」所収の「金で買えると言う意味」などというエッセイもそうで、ここでも佐藤氏は、お金を記号とみなすという、当時流行のソシュールの主張を紹介しつつも、それとは一線を画す独自の論を張っている。

レトリック認識 佐藤氏がそのようなスタイルをとらなかった理由が、学者としての美学なのか処世術なのかは定かでないが、そのおかげで、この本は、ぼくのようなど素人でも気軽に読めるような間口の広さと、20 年たっても古びない普遍性を持つことができたことは間違いないだろう。

 だから、このような本を読んでつくづく感じるのは、たとえモダンであろうとポストモダンであろうと、単に流行にのって踊っていただけではなく、佐藤氏のように自分の頭できちんとものを考えていた人の仕事は、やっぱり時代を超えて残るのだなあということである。

  ぼくは普段、ポストモダン的な思想に対して批判的であることが多いが、その態度は、世代的な経験からくるところが大きい。ぼくらの世代は、10 代の多感な時期にニューアカ/ポストモダン・ブームを経験し、20 代でオウム事件や「ゴー宣」ブームを経験した、つまり、ポストモダンから入ってモダンに回帰した世代である。

 そのため、ポストモダン的なものに対しては、いい意味でも悪い意味でも思い入れが強すぎるところがあって、実は他のどの世代よりもポストモダンの影響を強く受けているくせに、単に「モダンはダメダメ」とか言うだけで、何の対案も示せないような人たちには、反射的に反発してしまう傾向があるのだ。

(ちなみに、これはぼくと同年代の思想家・評論家の多くに共通する特徴でもあると思う。ご本人にとっては不本意かもしれないから、名前を挙げるのはやめておくが)。

レトリックの記号論 しかし、素直になってよく思い返してみれば、ポストモダン的な仕事の中にも、佐藤氏の仕事のように、単にモダンを否定するなどというレベルを超えた、ぼくらの思考の血肉となって残ったものもたくさんあったはずなのである。そういう意味で、ぼくは、誰かさんのように、「80 年代はカスだった」というふうに切り捨てる気には、必ずしもなれない。

 最近の若い子を見ると、そういうポストモダン的な素養がほとんどなくて、単にベタにモダンな人が多いように見えて、それはそれで問題だなあという気もするのである。その一方で、ポストモダンの劣化コピーみたいなスピリチュアルなんちゃらとかオカルトとかに惹かれる人も多いようで、なんか両極端に二分されてるような印象がある。これは、前の世代に対する過剰な順応と反発の現われなのかもしれないけれど。

 まあ、若者なんていつの時代もそうかもしれなくて、ポストモダン・ブームにはまっていたころのぼくらだって、年長世代から見たら、きっとすごく危うく見えたに違いないんだよね (^^)。だからまあ、これはそれこそ、坂道で踏むブレーキみたいなもので、大多数の若い子には無視されることを覚悟で言っているわけだけど、そういう若い子には、こういう良質なポストモダンの成果というものを、少し味わってみてほしいなあと、最近ちょっと思うようになってきたのだ (^^)。

 ちなみに、「感覚」と「認識」は、レトリック全般について体系的にのべた本で、「わざとらしさ」はレトリックを多用する作家数人についての作家論、「記号論」はすこしくだけたエッセイ集(と言っても、作家の書くエッセイよりはもちろん理論的だが)という感じ。だから、言葉の仕事に関わる人は、「感覚」と「認識」だけでも読んでおくといいんじゃないかな。

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インテリジェンス 武器なき戦争

インテリジェンス 武器なき戦争インテリジェンス 武器なき戦争」手嶋 龍一、佐藤 優

 えーと、この本は、要するに、テッシーとラスプーチンの二人が男同士気持ち悪く褒めあってる本です。じゃなかった、要するに、「インテリジェンス」の本ですね。ですから、そりゃあもううんざりするくらいにインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスって書いてあります (^^)。

 と言っても、それほど体系的に解説してあるわけではなくて、実例を通してなんとなくインテリジェンスというものがわかるようになっている、という感じですけど、ぼくみたいな素人にとっては、その実例だけでも結構面白いんですよね。

 たとえば、大韓航空機事件の直後に後藤田さんのやった情報操作はインテリジェンスとしてダメダメだとか、北朝鮮のミサイル発射を官邸は事前に予知していたなんてつまんねえうそつくんじゃねーよばーか、みたいな話とか (^^)。

(ロシアの女性は週 16 回がノルマ、とかいう話もあったなあ (^^))

 さらに、そういうエピソードを通じて、日本のインテリジェンスのどこに問題があるかも、なんとなくわかるような仕掛けになっていますね。

 でも、具体的なインテリジェンスの技術については、ほとんど何も書いてないんですよね。佐藤さんなんか、「秘密情報の 98% は公開情報を整理することがら得られるという」とか書いてるんだけど、実際にこの本に出てる例は、情報源とコネがあってそこから漏れてきた、みたいな話ばっかりなんだよね (^^)。

 ぼくなんか何か自分の仕事に役立つようなこと載ってないかな、みたいなスケベ心もあったんだけど、そういう意味ではあまり役にたつ感じはしませんでした。まあ、そう簡単に教えられる話でもないんでしょうが。でも、ヒントぐらいはあったかな。あったということにしておこう。でないとアホだと思われるかもしれん (^^)。

 ところで、この本に載ってる「X55」の話って、結構重大な問題じゃないですか? なんで世間ではたいして話題になってないんでしょう。え、それこそがインテリジェンスじゃないか、空気読めって? す、すびばせん<m(__)m>。

 まあでも、このお二人の本はなかなか面白そうなので、もうちょっと他の本も読んでみよぉっと。

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ぷれじでんとふぁみりぃ?

 うー、さっきコンビニで「プレジデント Family」とかいう雑誌を見てドン引きしてしまった。思わず「ぷれじでんとふぁみりぃ?」って声を出してつぶやいちゃいましたよ (^^)。いや、題名だけで、中身はまったく読んでないんですけどね。「TBS「報道テロ」全記録 」を見つけたときの三倍ぐらい引いた (^^)。やはり、言葉の表現というのは大事かもしれない (^^)。

 なんかでも、コンビニだけで情報収集してると、とんでもなく片寄った思想が形成される可能性もあるような気がしてきた (^^)。

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うぇぶせれぶ 25

 あの Forbes 誌が、「Web Celeb 25」、つまり、ウェブ上で影響力のある有名人ベスト 25 人を発表。日本じゃよくネット・アイドルとか言うけど、ウェブ・セレブというのは初めて聞く言葉ですね。でも、正直知らない人ばっかりです (^^)。トップの女の子は the girl next door という感じでちょっと可愛いですね(あ、この子が YouTube で有名な lonlygirl15 か。噂には聞いてたけど初めて見た (^^))。これから、どんな方々なのか研究してみようと思います (^^)。

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もっといい Drupal 本はないのかよお

Drupal: Creating Blogs, Forums, Portals, And Community Websites  前に書いたように、新しく契約したホスティング・サービスはかなりハイスペックで、やたらといろんな CMS(Content Management System の略)をインストールできるようになっていました。ちなみに、名前を挙げると、

DragonflyCivicSpaceDrupal E107GeeklogJetboxJoomlaMamboPHPNukePostNukeTypo3XoopsphpWebSite

という感じ。このへんはいわゆる純粋な CMS ですが、他にもブログ系が WordPress を含む 8 種類、グループウェア系が eGroupWare を含む 4 種類、Wiki 系が MediaWiki を含む 3 種類という感じで、とにかくてんこ盛りに入っています。

 もっとも、こういうシステムはみんなオープンソースで、かつ、Linux、Apache、MySQL、PHP の組み合わせで動く、いわゆる LAMP というやつなので、実際には、LinuxApacheMySQLPHP が使える環境さえあれば、誰でも無料で利用できるんですけどね (^^)。

 でも、実際に自分でインストールするのは結構面倒くさいし、いろいろトラブったりすることも多いので、自動でセッティングできるのはやはり便利には違いありません。

(話はそれますが、中小企業や SOHO レベルのウェブサイト構築だったら、たぶん、このへんのシステムを組み合わせれば楽勝でいけますよね。だから、MS 系のサーバーとか導入するのは損だと思うぞ~、なんつったりして (^^))

 というわけで、いろんな CMS を片っ端から試した結果、とりあえず Drupal が一番面白そうに見えたので(Joomla というのもなかなかよさそうだけど、残念ながらインストールに失敗しました。こういうことがあるから、このホスティング・サービスもいまいちお勧めしきれないんですよね。会社の名前を出していないのはそのためです。)、Drupal を使ってサイトを再構築してみることにしたんですが、付属のヘルプやオンラインのハンドプックを読んでもいまいち仕組みよくわかりません。そこで、Packt 社のウェブサイトから電子書籍で入手できる Drupal: Creating Blogs, Forums, Portals, And Community Websites という本を購入してみたんですね。

 でも、読んでみてがっかり。だって、Drupal の肝と言うべき taxonomy の説明がたった 1 章だけで、しかも、vocabulary や term を追加する方法は書いてあるけど、特定の term の story だけを表示するノードが「?q=taxonomy/term/1/」とかになることすら書いてないんですよ。それじゃ意味ないでしょ (^^)。初心者向けにしても、玄関から入口の土間に入ったぐらいで終わってる感じ。なんでこんな本が Amazon.com で星4つになってるのか、さっぱり理解できません。

 しかも、そんなこと言ってるうちに Drupal 5.0 が出ちゃったから、すでに内容古くなってるし。金返せ~(^^)。

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ダウンタウンの「擬似ヤラセ」に見る「演技する精神」

 山崎正和氏の「演技する精神」を久しぶりに読み返していたら、この本の理論を援用して、ダウンタウンの「擬似ヤラセ」の面白さがうまく説明できることに気づいた。(われながらいったいどういう連想回路をしているのかと思うが…(^^))

 「擬似ヤラセ」というのは、ダウンタウンがよくやるある種の企画に対して、ぼくが勝手につけた名前で、「ガキの使いやあらへんで」という番組の「板尾が来た」というシリーズがその代表例である。この企画について、番組を観た事のない人のために簡単に説明すると、こんな感じである。

ダウンタウンとスタッフが楽屋で打ち合わせをしていると(外でロケをしていると、etc.)、板尾創路が予告もなくやってきて、新しい企画を考えたから(偶然カメラに映ったから、etc.)金をくれと言い出す。 あまりに理不尽な言い分なのでダウンタウンとスタッフは抵抗するが、板尾のごり押しに負けて、しぶしぶ金を払ってしまう。

 こういうのを完全にドキュメンタリー調でやるのだが、板尾が貧乏で金に汚い人間だという設定はもちろんウソである。この映像がもし、本当に板尾が貧乏で金に汚い人間だということを信じさせようとして作っているのならヤラセそのものだが、この企画の場合、話が大袈裟すぎたり不自然すぎたりして、視聴者は観ているうちにこれはウソだと気づくような仕掛けになっている。

 つまり、普通のヤラセが、ウソを信じさせるとい目的のために作られた映像だとすれば、この「擬似ヤラセ」は、ウソを信じさせるとい目的をカッコに入れて、映像の作り方だけを忠実にマネた模倣なのである。

 さて、山崎理論によれば、模倣というのは、行動の目的をカッコに入れることによって、見るものの注意を行動の目的から過程に移す効果があるという。

 この擬似ヤラセを見た視聴者も、それがウソだと気づいた時点で、この映像が語ろうとする「目的」から映像そのものへと、強制的に注意を向けさせられることになる。そして、怖ろしいことに気づかされることになるのだ。

 この企画の映像はいかにもウソっぽい映像だが、よく考えてみると、板尾がスタジオやロケ地に来てそういう行動をとったということ自体はウソでもなんでもない。「本当」の映像との違いは、板尾が現実的な要請に基づいて自発的に行動をしているか、事前に打ち合わせをした上でその通りに行動しているかだけにすぎない。しかも、番組の中では、打ち合わせのシーンを流すわけでもなけでば、「板尾は金に困っています」というテロップやナレーションが入るわけでもなく(最近はテロップを入れることもあるようだ。無粋なことである)、板尾の行動を淡々と流しているだけである。ということは、実は、

 あの映像自体はウソでもなんでもなく、まごうことなき真実なのである!

 お気づきの通り、この構造は、印象操作を行うために編集されたニュース映像などとまったく同じである。つまり、この擬似ヤラセは、テレビ映像というものの本質的な欺瞞性を、凡百のメディア論なんかよりはるかに鮮やかに暴いてしまっているのである。これが、この企画のアイデアが第一にすごい点である。

 さらに、このアイデアにはもう一つの効果がある。この企画を、擬似ヤラセではなく、純粋なフィクションとしてやったときのことを想像してほしい。板尾が貧乏なタレントの役、ダウンタウンが冠番組を持っている売れっ子タレントの役をやっているコントだと考えてみるのだ。

 我々がフィクションを観るときには、たとえコントであっても、登場人物に感情移入して観ようとするものだ。したがって、板尾が貧乏だという設定はフィクションだとわかっていても、「もし板尾が本当に貧乏だとしたら」という仮定のもとで観ることになるだろう。そうすると、貧乏人が必死でやっていることを笑いものにしていいのかとか、ダウンタウンは売れてるからって傲慢じゃないのかとかいう、余計な想念が湧き上がってきて、素直に笑えないに違いない。

 しかし、この擬似ヤラセの場合、視聴者はそれがウソだと気づいた時点で(松ちゃんが「ガキの使い」のトークで激怒していたように、本気にしてしまう視聴者もいるようだが)、「板尾が貧乏かどうか」という問い自体が無意味になり、板尾が貧乏だとは仮定としてですらも思えなくなるのだ。その結果、登場人物の行動だけに注意が集中するようになり、追いつめられた人間の行動のおかしさ、みたいなものを純粋に笑えるようになるのである。前に書いた、「ウソなんだけど、本当よりも真実を語ってしまう」というのはそういうことである。

 余談になるが、ぼくがダウンタウンのこの手の擬似ヤラセ企画を観たのは、かれこれ十年も前にやっていた「ごっつええ感じ」という番組が最初である。ちょうどまだ「電波少年」などもやっていた頃で、猿岩石のヤラセ疑惑などが話題になっていた時期でもあった。したがって、その企画を見たとき、なんとすごい発想かと思い、松本人志という人はまごうことなき天才であると確信したのであるが、そのころはまだ、何がすごいかを理屈で説明することはできなかった。それを十年以上たってやっと理論化できたので、余は満足である (^^)。

 もっとも、松本人志という人の頭の中には、このような高度なお笑い方程式がまだまだたくさん隠されていると思う。ぼくか松ちゃんのどちらかが死ぬまでの間に、なんとかその全貌を明らかにしたいというのがぼくの密かな野望である (^^)。(なお、文中の敬称を一部略させていただきました。)

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田中圭一初体験

 久しぶりにコンビニで「サイゾー」を買ってしまう。いつの間にか爆笑問題の連載がなくなっていてガッカリ。この連載がないと、この雑誌もかなり魅力が減ることを再認識。M2 もこの号で連載終了とか。この二人、ほんとうに仲いいんだろうか。どうもお互いに戦略的な思惑で結びついているだけ、という気がしないでもないのですが、まあ実はそういうのはたいして興味ないからどうでもいいっす (^^)。特集はジャニーズと天皇制だけど、どっちもたいして興味なし (^^)。もっとも、キムタクだけはなんだかんだ言ってカッコいいよなー、と見るたび思ってしまうんだよね (^^)。山形道場は本人も一枚かんでいる著作権延長の話。

 というわけで、今回買ってよかったと思ったのは、噂に聞く田中圭一氏のマンガを初めて読めたこと。いや~、ほんと手塚さんそっくりだね~。こりゃ夏目さんも真っ青だね。いや、夏目さんだったら、「これは丸ペンを使っていたころの初期の手塚の絵ではなく、かぶらペンに変えてからの後期の手塚である」とかなんとか言うのかな (^^)。「夏目の目」でやってほしいですね (^^)。

 まあでも、こういう人が出てきたのは、ある意味、手塚時代が終わった証拠かもしれないですね。昔のマンガ家は多かれ少なかれみんな手塚さんの影響を受けていたから、その頃に手塚さんのマネをしたとしても、何のインパクトもなかったでしょうからね。こうやって手塚調というのを一つの様式美として受け取れるというのも、没後ある程度時間がたって、それだけ手塚治虫を相対化して見れるようになったせいなのでしょう。

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谷川俊太郎が聞く、武満徹の素顔

 「谷川俊太郎が聞く、武満徹の素顔」を購入。坂本教授のインタビューが載っているという話を聞いて購入したのですが、全体としてもいい本でした。

 武満徹という音楽家は、すでに神格化されてしまっているので、批評もやたら持ち上げる批評が多いのですが、このインタビュー集は、生前の武満さんの友人でもある谷川さんが聴き手であるにもかかわらず、武満さんを一方的に持ち上げるだけではない、いろんな人の率直な意見が聞けています。そこがすごくよいですね。

 前書きを読んでみると、武満徹全集の付録として行われたインタビューがもとになっているらしいですね。ぼくは全集を買ってないので知らなかったのですが (^^)。全集というのは主役を持ち上げがちですから、そう考えるとなおさら優れた企画だったと思うし、谷川さんの聞き方もうまかったんだろうなあと思います。

 教授はいつもそうですが、いろんなこと配慮しつつも嘘のない率直な物言いをしていて、武満徹の音楽は百年後も残るだろうとか、でも武満作のポップスは少し「甘い」とか、まったく同感だなあと思いました。高橋悠治さんのインタビューも、「音楽より人が好きだった」と批判的なところはありつつも愛情が感じられていい感じです。 小澤征爾さんのインタビューは、武満さんの海外進出時の事情が垣間見えて面白いし、娘さんの真樹さんインタビューは、家族だからこそ言えるいろんな欠点なども率直に語っていて微笑ましいです。

 個人的には、前に紹介した「武満徹-没後 10 年、鳴り響く音楽」 よりずっと面白かったですね。

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高橋悠治と安倍晋三の共通点とは

 Amazon で高橋悠治さんの「クセナキス:ピアノ作品集(紙ジャケット仕様)」の「関連商品」を見ていたら、最後の最後に、安倍晋三さんの「美しい国」が出てきたので、思いっきりズッコケてしまった。。。

 高橋悠治と安倍晋三にいったいどんな接点があんのよ? と思って Google で検索してみたら、「9 月 21 日が誕生日の人」だって (^^)。

 まあ、世の中には、批判目的で本を買う人もいるからなあ。ぼくはぜったいそんな面倒くさいことしないけど (^^)。だからこそ、読みたくもないつまらない本を心ならずも読まされてしまったときには、怒りのレビューを書いてしまったりもするわけですが。。。

 もっとも、つまらない本ならつまらないなりに 5 分で読み飛ばしてきっちり一行コメントを言う、みたいな人の方が、ホントは出世するんだよね (^^)。そういう才能を持って生まれたかったという気もしないでもないような気もしないでもないような、まあ、たいしてどうでもいいか (^^)。 

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西洋音楽史―「クラシック」の黄昏

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 「西洋音楽史―「クラシック」の黄昏」岡田暁生著

 この本の特長は、著者自身が前書きで書いている通りです。つまり、バロックから印象派、バッハからドビュッシーまでが「クラシック」だと思