エウメネス行軍マップ

 「ヒストリエ」に触発されて「対比列伝」とか読み始めたんだけど、一つ問題がでてきた。それは、今と違う昔の地名をずらずら並べられてもどうもイメージがわかないということ。

 それならというので、Google Maps のマイマップ機能を利用して、ディアドコイ戦争におけるエウメネスの行軍経路が一目でわかる、「エウメネス行軍マップ」というのを作ってみた。

 私は歴史学に無知なので、調べていく途中で気づいたんだけど、こういう歴史書に出てくる地名の中には、当然ながら現在の位置がよくわかってない場所も多い。

 このマップの中でも、オルキュニア、ノラ、パラエタケネ、ガビエネあたりは正確な位置がわかっていないらしい。行軍の正確な進路もそう。そのへんは大雑把な推定位置で描いてある。

 ネット上のいろんな資料を参考にしたんだけど、特に役にたったのは、たまたま見つけたこの本。

 前書きを読んでみると、どうも 19 世紀の歴史学者が書いた歴史地図帳みたいなものらしいんだけど、私が欲しい地図がばっちり載っていた。 

AtlasAntiquus-small.jpg

 本来ならこれをそのまま紹介すれば済む話なんだが、このままでは日本人には読みにくいし、自分にとっても勉強になるので Google Maps に移し変えてみた次第。

 あと主に参考にしたのは以下のサイト。

 もちろん、プルタルコスその他の史書自体や Wikipedia なども参考にしたのは言うまでもない。

 ここまで描いてみたら、アンティゴノスその他の将軍の行軍経路も書き込みたくなったが、それをやりだすと何時間かかるかわからないので、とりあえずこの辺で公開してみる。

 歴史に詳しくて私にやらせればもっといいマップにしてやるという自信のある方は、メールでご連絡ください。Google Maps の「共同編集」機能にご招待いたしますので。

 あと、カッパドキアとかパフラゴニアとかキリキアとか、そういう地方の名前も書き込みたかったんだけど、Google Maps にそれに適した機能が見当たらなかったので断念した。何かうまい方法を知ってる人がいたら教えてください。

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ペンギン版プルタルコス「対比列伝」人物一覧表

 プルタルコスの「対比列伝」には、言うまでもなくいろんな英訳がある。インターネット上に無料で公開されているものも多数あるが、著削権切れの翻訳なので、当然ながら訳が少し古めかしくて読みにくい。

 もっと読みやすい訳はないかと探すと、ペーパーバックで有名なペンギン・ブックスでも「対比列伝」の英訳を出版している。これは最近の訳なので比較的読みやすい。値段も手ごろで電子書籍版もあるので日本からの入手も容易だ。

 ただ、ペンギン版の場合、「対比列伝」の各人物のエピソードを別々の本に分けて編集し直しているので、どの本にどの人物のエピソードが収録されているか探しにくい。

 というわけで、ペンギン版「対比列伝」のどの本にどの人物のエピソードが収録されているかが一目でわかる一覧表を、Google Docs で作成してみた。

 特定の人物のエピソードが収録されている本を探すのが主目的だが、それ以外にも Wikipedia へのリンクとかインターネット上の英訳へのリンクとか、自分にとって役に立ちそうな情報を若干付加してある。他の人の都合はあまり考えてないが、万が一誰かの役に立つかもしれないので一応公開しておく。

英訳の略号:

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Kindle で「ぼく東綺譚」を読む方法

 いつの間にか青空文庫で永井荷風の「ぼく東綺譚」が公開されていたことに気づき、さっそく青空 Kindle で PDF に変換しようとしたのだが、こんなメッセージが出てしまった。

「よくわかんないけど、処理に失敗しました、すみません。」

 タダで使わせてもらってるのに「すみません」などと言われるとこちらが恐縮してしまうが、それはまあいいとして。

 こちらのテキスト入力ページでいろいろ試してみたところ、どうもタイトルの「ぼく」の字だけの問題らしい(作者さんにお知らせしようと思ったが、Twitter でしか連絡がとれないようで、当方 Twitter をやってないのでどうしたものか)。

 自分で変換するのも面倒だし、どうしたものかと案じていたが、試しに ChainLP で変換してみたらうまく行った。ChainLP は自分でスキャンした文書の変換にも使えるし、設定を細かく調節できるのでなにかと便利である。作者さんに感謝。

追記: 青空 Kindle では、坂口安吾の「わが思想の息吹」や「第二芸術論について」もうまく変換できないようだ。こちらの場合、ファイル自体は生成されるのだが、その中身がほとんど空っぽなのだ。理由は不明。どうしたものか。

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ネオ・フェミニスト映画

Neo-Feminist Cinema: Girly Films, Chick Flicks, and Consumer Culture 著者はオタゴ大学で教鞭を取るれっきとしたフェミニスト。オタゴ大学という名前は恥ずかしながら初耳だったが、Wikipedia によると、ニュージーランドでも一二を争う研究水準の大学らしい。

 本書の多くは、いわゆるガーリー・フィルム(girly film)の分析に当てられているが、ただ漫然と分析しているわけではなく、確固とした意図がある。

 それは、俗に「ポスト・フェミニズム」と呼ばれる社会風潮を、「ネオ・フェミニズム」という思想として位置づけ、その思想がガーリー・フィルムの中にどう現れているかを調べることだ。

 ポスト・フェミニズムという用語に明確な定義はないが、フェミニズムが社会運動として最盛期を過ぎて以降の社会風潮を指す言葉として使われている。アカデミックなフェミニストにとっては、フェミニズムの本来の理想を忘れ、そのスローガンを好き勝手に解釈していいとこ取りしている一般女性に対する、苦々しい心情のこもった言葉でもあるようだ。

 しかし著者は、ポスト・フェミニズムを単なるフェミニズムに対する反動としてとらえるのではなく、ネオ・フェミニズムと言うべき確固とした思想として認めるべきだと言う。ネオ・フェミニズムは第二波フェミニズムとほぼ同時期に生まれた思想であり、第二波フェミニズムの理想の(すべてではないにせよ)一部を継承しているという。

 著者の言うネオ・フェミニズムの根幹にある思想(ネオ・フェミニスト・パラダイム)は以下のようなものだ。

  • 女性の経済的自立の重視
  • 女性の消費による自己実現の肯定
  • 女性性の肯定
  • 女性の性的快楽追求の肯定
  • 家制度の相対化
  • 女性同士の友情の重視
  • 社会変革よりも、個人主義的な自己実現を重視

 これらは現代の一般人からは割と当たり前に感じられると思うが、アカデミックなフェミニズムの理想とは必ずしも一致しない。

 しかし著者は、現実の一般女性の要求に応えて来たのは、第二波フェミニズムよりもネオ・フェミニズムの方だと主張する。もちろん、ネオ・フェミニズムにもさまざまな問題点があり、そこにこそアカデミックなフェミニストの出番があるとも言っているが。

 著者によると、そもそもガーリッシュな女性という存在自体が、ネオ・フェミニズムの産物なのだという。家父長制下での女性は、常に娘・妻・母といった家制度内での役割を強制されていた。そこから解放されることにより、初めて自立した個人としての女性が生まれた。妻や母といった役割に縛られない女性は、いつまでも思春期のように性的魅力や性的快楽を追及してよいことになった。その結果、生物学的年齢から切り離されたガーリッシュな女性というものが誕生したというのだ。だからこそネオ・フェミニスト映画は必然的にガーリー・フィルムになるというわけだ。

 著者がネオ・フェミニズムのキー・パーソンとしてかなりの紙幅を割いているのが、ヘレン・ガーリー・ブラウン(Helen Gurley Brown) という人物。私は恥ずかしながら知らなかったが、"Sex and the Single Girl" というベストセラーの著者であるばかりか、雑誌「コスモポリタン」の編集長を 30 年以上も勤め、世の女性に多大な影響を与えた人物だという。

 そう聞くと私などには、フェミニズムにとって極めて重要な人物に思えるのだが、実はアカデミックなフェミニストがこの人物に注目しだしたのは割と最近のことらしい。私が所有する二冊のフェミニズム辞典(12)にも載っていないし、Google Books や Google Scholar に "Helen Gurley Brown" "feminism" などと入力して検索しても、出てくるのは最近の文献ばかりである。それじゃあアカデミックなフェミニストと一般女性の意識が乖離するのも無理ないよ、と私なんかは思ってしまうのだが。

 著者の来歴もなかなか興味深い。著者はカリフォルニアの出身なのだが、両親ともフェミニストで、フェミニストにとって「有害」なポップ・カルチャーから隔離されて育ったのだそうだ。 そして研究者になってから研究対象として初めて本格的にポップ・カルチャーに接したという。

In the course of researching popular culture for women as part of my doctoral thesis in the 1980s, I was shocked to discover not the downtrodden housewives that I had been led to expect by feminism, but a group of lusty, independent females determined to have fun, to succeed and to develop a healthy bank account, while masquerading behind a girlish demeanor. Popular culture generally, and women's magazines in particular, were not lamenting woman's fate - rather there was a mood of celebration and heated anticipation about what the present offered and what the future might bring.

(拙訳)私は、1980 年代に博士論文の一環として女性向けの大衆文化を研究する過程で、 フェミニズムによって予期していた虐げられた主婦ではなく、少女のような振る舞いに隠れながら、人生を楽しみ成功し健全な貯蓄を育てる決意に満ちた、自立した活力ある女性を発見して衝撃を受けた。大衆文化全般、特に女性誌は、女性の運命を嘆いてなどいなかった。むしろそこには、現在が与えてくれるものや、未来がもたらす可能性に対する、お祝いの気分や過熱した期待があった。

 ではフェミニズムやポップ・カルチャーに対するアンビバレンツな感情を表明するのかと思うとそうでもなくて、以後なに食わぬ顔で価値中立的な分析を続ける。そして最終章まで来てから、堰を切ったようにフェミニズムの現状に対する批判の声を漏らすのだ。

A further strand of feminist analysis of post-feminism is typically haunted by the specter of second-wave feminism that failed to fulfill its promise to deliver a utopian existence to those who embraced its message; such analyses tend to produce a critique of the form of lament. Subtending the feminist lament is the lost dream of feminism that was whole, unmarred by the dirty business of everyday life and by the bitter and sectarian debates that have marked feminist inquiry since its inception.

(拙訳)一般に、フェミニストのポスト・フェミニズムに対する分析は、その主張を受け入れた人々に理想郷をもたらすという約束を守れなかった、第二波フェミニズムの亡霊にとりつかれている。そのような分析から生まれる批評は嘆き節の形になりがちだ。フェミニストの嘆き節に潜んでいるのは、日々の汚れた仕事や、その探求が始まったときからフェミニストを悩ませてきた激しい党派的な議論によって傷つけられる前の、失われたフェミニズムの夢である。

 だからひょっとすると、最初から批判ばかりでは同業者に読んでもらえないと思って、わざとこういう構成にしたのかもしれない。邪推かもしれないが。

 本書で論じているのは、主に以下のような映画である。

 フェミニズム批評というと、教条的にないものねだりの難癖をつけるような批評を連想する人も多いかもしれない。確かに本書にも「主人公が目指すのは、あくまで消費社会の中での個人的な自己実現であって、社会変革ではない」みたいな分析が頻繁に出てくるが、だからその作品が駄作だとか決め付けるのではなく、あくまで事実として指摘するだけという姿勢を貫いている。だから、このへんの作品が好きな人でも、それほど不快にならずに読めると思う。

 著者は「プリティ・ウーマン」をネオ・フェミニスト映画の元祖としている。女性の自立を扱った作品なんて、もっと前からあったじゃん。それこそ連続テレビ小説とか…、と一瞬思ったのだが、著者がこの作品を元祖とするには理由がある。一つは、主人公が娼婦であることで、これが処女性・純潔性から解放された性的快楽の肯定を意味する。もう一つは、主人公が着飾って「変身」することで、これが消費による自己実現を意味する、のだそうだ。

 他の映画もそれぞれメルクマールとしての意味がある。「ロミー & ミッシェル」は恋愛より女性同士の友情を重視した映画、「キューティ・ブロンド」は恋愛より仕事を重視した映画、「メイド・イン・マンハッタン」は人種問題を取り入れてヒスパニック系に訴えようとした映画、「プラダを着た悪魔」はいわゆる「ファッション・フィルム」の代表、「セックス・アンド・ザ・シティ・ザ・ムービー」はいわゆる「イベント・フィルム」の代表、「恋愛適齢期」は中年女性の少女性を肯定した映画、ということになる。

 では日本映画でネオ・フェミニスト映画と言える作品はなんだろう、と考えて真っ先に思い浮かんだのが「下妻物語」。この映画をフェミニズム的な観点からくさしていたフェミニストの人がいたけど、この著者の言うネオ・フェミニスト・パラダイムからすれば、まさに王道を行くような映画だろう。女性性の肯定、経済的自立、消費による自己実現、女性同士の友情、すべてある。性的快楽の肯定の要素は薄いけど、篠原涼子演じる桃子の母親が一応その役回りだとも言えるだろう。

 私はもともと著者の言うネオ・フェミニズムに近い考え方なので(微妙に違うところもあるが、その点についてはこのブログに何回も書いたので省略)、本書を読んで考えが変わることはほとんどなかったが、フェミニズムの現状やフェミニストが現代の文化をどう見ているかを確認するという意味では役に立った。また、分析の過程で出てきた映画業界やファッション業界の解説は、その方面に疎い私にとっては、素直に勉強になった。このへんの感想は、読む人の思想や知識によって違ってきそうだ。

 いずれにせよ、一般女性の文化を上から目線で切って捨てるのではなく、正面から受け止めようとするフェミニストが現れ始めたことは、フェミニズムの将来にとってもよいことだと思う。

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アメリカ人はなぜ福祉が嫌いか

Why Americans Hate Welfare: Race, Media, and the Politics of Antipoverty Policy (Studies in Communication, Media, and Public Opinion) 著者はプリンストン大学の政治学の准教授。カリフォルニア大学バークリー校で社会学の博士号をとり、イェール大学や UCLA でも教鞭を取ったというから、きっと優秀なのであろう。

 政治学者や社会学者というと、虚仮脅しの専門用語を散りばめながら好き勝手な意見を書き飛ばす評論家をイメージする人も多いと思うが、この本は、律儀なまでに社会調査と統計分析に基づいており、文科系の本にありがちな衒学的なごまかしはまったくない。 その点では安心して読める。

・アメリカ人は福祉が嫌い?

 アメリカ人の福祉嫌いは有名だ。アメリカの福祉は先進国中でも最低レベルにあるし、彼らの「社会主義」や「再配分」という言葉に対する拒否反応は強く、このブログでもネタにしたことがある。何より当のアメリカ人自身が、アメリカ人は福祉嫌いだと自認しており、そのことは本書の著者も認めている。

 では、その理由を説明したのが本書なのかというと、さにあらず。なんと著者は、アメリカ人は本当は福祉が嫌いではない、という。

 著者の分析によると、アメリカ人が嫌いなのは、貧乏人全般を助けることではなく、助けるに値しない怠け者の貧乏人(undeserving poor)を助けることなのだという(ちなみに、この undeserving poor という用語を最初に提唱したのは Michael Katz)。 つまりアメリカ人は、貧乏人の多くが助けるに値しない人だと思っているのだ。

・原因は人種的偏見

 ではそれは何故か。アメリカ特有の自己責任を重視する個人主義か。それとも、税金を他人に使われたくないという利己主義か。どちらもさほど大きな要因ではない、と著者はいう。最大の要因は、なんと、白人の黒人に対する偏見(stereotype)なのだという。

 そう聞くと、「要するに保守的な白人は黒人の得になることをしたくないわけね。人種差別は相変わらずだね」などと安易に解釈する人もいるかもしれないが、さにあらず。大多数の白人は、働く気のある真面目な黒人は喜んで支援したいと思っている。それを邪魔しているのが、「黒人は怠け者」という偏見なのだという。

 そもそもアメリカ人の多くは、福祉政策の受給者のほとんどが黒人だと思っているが、この認識自体が間違っている。確かに、貧困者中の黒人の比率は高いが、それはあくまで相対的なもの。元々アメリカの人口における黒人の比率がそれほど高くないのだから、いくら相対的な比率が高くても、貧困者が黒人ばかりなどということはあり得ないのだ。

 この誤った認識に、黒人は怠け者だという偏見と、怠け者は助けるに値しないという価値観が結びつくことにより、福祉政策に対する反感が生まれたというのだ。つまり、

  • 福祉政策の受給者は黒人ばかり(誤った認識)+
  • 黒人は怠け者ばかり(偏見)+
  • 怠け者は助ける価値なし(価値観)
  • = 福祉政策に対する反感

というわけだ。

 でも、黒人に対する全般的な差別意識が原因ではなくて、「黒人は怠け者」という偏見だけが原因だ、なんてどうして言える? と思う人もいるだろうが、そのへんは著者も綿密に調べている。

 たとえば、世論調査によって、福祉政策に対する反感と黒人に対するさまざまな偏見の相関関係を調べると、「黒人は怠け者」という偏見とは強い相関関係があるが、「黒人は無能」とか「黒人は暴力的」というような偏見とはほとんど相関関係がないという。また、福祉政策に対する反感をさらに細かく調べると、働き者の黒人だけが利益を受ける政策(マイノリティだけを対象とした職業訓練や奨学金など)に対する反感もあまり強くないという。

・無意識の洗脳

 では、「黒人は怠け者」という偏見はどのようにして生まれたのだろう。この偏見はもともと、白人が奴隷制を正当化するために生み出したものだが、現在のアメリカ人が依然としてそのような偏見を持ち続けている原因は、マスメディアだという。そして著者は一種のメディア・スタディを行うのだが、この部分がひょっとしたら一番面白いかもしれない。

 著者は、主要な報道雑誌3誌を選び、1950 年代~1990 年代に発行された雑誌の中から、貧困関係の記事をすべてピックアップした。そして、その記事中の写真に出てくる人物が、白人か黒人かを調べ、その比率を計算したのだ。

 その結果、雑誌記事の写真の選択にはさまざまな偏りがあることが判明する。まず、貧困者中の黒人の写真の比率が、実際の比率より明らかに高い。さらに、貧困者に同情的な記事と批判的な記事を分けてみると、同情的な記事には白人の写真が使われる率が高く、批判的な記事には黒人の写真が使われる率が高いのだそうだ。

 そう聞くと、「保守的なマスゴミの連中が、都合のいい人種的偏見を垂れ流して大衆を洗脳しているんだな」と思う人もいるかもしれない。しかし、それも違うと著者はいう。

 そもそも、アメリカのメディアはリベラル寄りで有名で、だからこそアン・コールターやラッシュ・リンボーにさんざん攻撃されたり、FOX ニュースが人気になったりしたわけだ。だから、2000 年以前はなおさらそうだったろう。

 著者は、研究対象となった雑誌の編集者についても実際に会って調べており、彼らがリベラルな人物であることを確認している。ただし、意識の上では、だ。

 このようなリベラルな人物であっても、無意識のうちに「黒人は怠け者」という偏見に影響されており、それが写真の選択に反映されている、と著者は言う。実際に彼らは、自分の選んだ写真にそのような偏りがあることすら気づいていなかった。

 実はこのような無意識的な人種的偏見を調べる心理学実験がある。その実験によれば、被験者を意識的な人種的偏見の強いグループと弱いグループに分けても、無意識的な偏見にはあまり差がないそうだ。

 そして、そのような無意識的な偏見の影響下で選ばれた写真が報道されることにより、社会全体の黒人に対する無意識的な偏見が強化されるというわけだ。まさに悪循環だ。

・正しい認識が重要

 ここまで読んで、「著者はそうまでして『白人は黒人を差別してない』と言いたいのか?」なんて思った人もいるかもしれないけど、多分違うと思う。著者はただ、現実をより正しく認識することが、より正しい解決を導くと思っているだけだ。

 福祉政策への反発の原因が、「黒人は怠け者」という偏見であるならば、それを解消すれば、黒人の差別解消にも福祉政策の推進にも役立つかもしれない。また、そのような偏見の原因が、メディアの無意識的な偏向であるならば、それを改善すれば偏見もなくなるかもしれない。

 実際に著者の研究結果を受けて、一部の雑誌社では、記事中の写真の偏りをチェックする仕組みを導入したそうである。

 ちなみに、本書には話の流れで公民権運動の歴史を紹介する部分がある。全般にイデオロギー的にならないように努めて冷静に書かれた本だが、その部分の描写だけ微妙に力が入っていて、この人は実は公民権運動に結構思い入れがあるな、と感じた。勝手な想像かもしれないが。

・自己認識を覆す

 本書の読後感は、山岸俊男氏の一連の著作にちょっと似ている。山岸氏の本が、日本人が自らに対して持つ自己認識=「日本人は集団主義」を覆そうとしているのに対し、本書は、アメリカ人が自らに対して持つ自己認識=「アメリカ人は福祉が嫌い」を覆そうとしているわけだ。

 ただ大きく違うのは、山岸氏の使うのが主に心理学実験なのに対し、本書の著者の使うのは社会調査と統計分析であるということだ。

 著者の統計分析は極めて入念であり、考えうるさまざまな反論にも丹念に反証している。たとえば、世論調査ではキレイゴトを答えているだけで、本音は全然違うのでは、とか、写真が偏っているのは、貧困者全体を平均すると黒人は少なくても、ニュースになるような事例に関係する人には、実際に黒人が多かったのでは、とか。 

 そのため、著者の主張には説得力があり、適当に数字をひねくり回して珍説をでっち上げるような類の本とはレベルが違うという印象を受けた。

(ただ一応指摘しておくと、「貧困者は黒人ばかり」も「黒人は怠け者ばかり」もメディアの影響だとすると、メディアが変わっても「貧困者は怠け者ばかり」になるだけで、福祉政策に対する反感はなくならない可能性も否定できないと思う。これが日本の話だったらきっとそう思っただろう。アメリカの場合はもっと差別が根深いのかもしれないが。)

 あと本書は、人間の性は基本的に善であるという、極めて健全な人間観が底流にあり、その点でも山岸氏の著作に似ていると感じた。全体に快く読めたのはそのせいでもあろう。

・決めつけてはいけない

 本書を読んで強く感じたのは、国民性や民族性のようなものを、安易に決め付けてはいけないということ。私自身のアメリカ人に対する思い込みも少なからず影響を受けた。

 考えてみれば、ほんの数百年前には黒人奴隷の国だったアメリカが、奴隷解放や公民権運動を経て、今や黒人が大統領や国務長官になるところまで来た。

 あるいは、ほんの数百年前にはホーソーンの「緋文字」(読んでないけど)みたいなピューリタンの国だったアメリカが、性の解放を経てポルノ大国となり、SATC やデス妻みたいなドラマがゴールデンタイムに放映されるところまで来た。

 今は誰が見ても福祉後進国であるアメリカが、何十年何百年したら福祉先進国になっていないと誰が言えるだろうか。

 同じことは日本についても言えるだろう。日本人は日本がこんな国だと思い込んでいるが、その思い込みによって自らが縛られてはいないか。

 本書が出版されたのは、まだクリントン政権でアメリカが好景気だった 2000 年である。その後のオバマ大統領の誕生やティーパーティ-の台頭やリーマンショックなどにより、アメリカ人の意識はどう変化しただろう。 知りたいところである。

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楽観主義バイアス - 不合理に楽天的な脳

The Optimism Bias: A Tour of the Irrationally Positive Brain  著者(現職母校)は心理学と神経科学の専門家で、心理学実験をしながら脳を fMRI で観察するみたいな研究が得意らしい。邦訳はまだないようだ。

 著者が言いたい事は、前書きに集約されている。 つまり、

  1. 人間は生まれつき楽観的である
  2. その楽観性は人間にとって必要である。

 この本で言う「楽観性」は、単に陽性だとか外向的だとかいう意味ではない。未来を予想する際に、自分にとって良い事が起きる確率を、実際の確率よりも高く見積もるという、極めて具体的な性質を指している。このような性質は、将来計画の精度を下げるので、一見するとデメリットが大きいように思える。しかし、それでも楽観性は人間にとって必要だというのが著者の主張だ。

 これを読んで私が即座に連想したのは、故・戸田正直氏の「感情―人を動かしている適応プログラム」という本。初めて読んだのは 20 年以上も前だが、今でも私が影響を受けた本ベスト10ぐらいには入る本である。

 戸田氏の本は、簡単に言えば、感情の合理性を主張した本である。感情というのは理性に比べて不合理だと思われがちだが、感情だって進化の結果獲得したものであるから、本来は環境に適応したものであった。ところが人類は、進化が追いつかないほど急速に環境を変化させてしまったので、現代では感情は不合理になってしまったというのだ。このような感情の合理性を、戸田氏は「野生合理性」と呼んだ。

 こういう発想は、現代ではそれほど珍しくもないのだろうが、当時はまだ、理性=合理・感性=非合理みたいな近代主義的な通念がまかり通っていたので、この発想の転換にはかなりの衝撃を受けた。

 最近の行動経済学なんかでも、人間は不合理だ不合理だと言い募っているようだが、それだけではさほど面白くない。そういう不合理もメタレベルでは合理的であるというモデルが構築できないとあまり意味はないと思うし、そのへんが行動経済学と進化心理学の接点になるんだろうと思う。

 個人の効用最大化みたいな直感的な合理性と、進化論的なメタレベルの合理性がどういう関係になっているのかを、対象化して認識することは、個人の生き方にとっても、社会のあり方にとっても、少なからぬ知見を与えることだろう。

 そんなわけで、この前書きを読んだ私は、かなり期待して本文を読んだのだが、その期待は半分満たされ半分裏切られた。確かに、前者の「楽観性は生まれつきのものである」という主張には十分な証拠が提示されているが、後者の「楽観性は人間にとって必要である」という主張は必ずしも説得的ではない。

 なぜかと言うと、楽観性が有益な例は多数挙げられているけれども、それはあくまで単発的な例であって、体系的にモデル化されていないからだ。たとえば、ストレートを待てば7割の確率でヒットを打てるが、カーブを待てば3割の確率でヒットを打てるというとき、カーブを待っていてヒットを打った例ばかり挙げられても、それだけではカーブを待つ事が合理的だとは言えない。

 確かに、楽天的な人間の方が健康で長生きするというような統計データも示されているが、それがどういうメカニズムによるものかは説明しきれていない。楽天的でないと不安とストレスで病気になるからだ、みたいな説明もあるが、それを言うなら、そもそもなぜ人類は不安やストレスで病気になるような生物に進化したかを問わなくてはならないだろう。

 もし著者が、「感情」でいうところの「野生合理性」みたいなモデルを(仮説でもいいから)提示できていれば、この本はもっと哲学的なインパクトを持てただろう。そう考えると多少物足りないところはある。

 とは言え、著者が提示しているさまざまな事例は、それだけでも十分興味深く考えさせられる。巻末の参考文献を見ると、2000 年以降の論文が結構多いので、そう感じるのは、必ずしも私が無知なせいだけではないと思う。

 例えば「楽観的な鳥」の話。「楽観的な鳥」というのが本当にいるのだそうだ。鳥が楽観的なんてどうやってわかるのかと思うが、それを調べる巧妙な実験があるのだ。さらに面白いのは、同じ種の鳥でも住む環境によって楽観性は違うのだという。なんと、幸せな環境の鳥は楽観主義者になり、不幸せな環境の鳥は現実主義者になるのだそうだ。「貧すりゃ鈍す」は鳥にすらあるということらしい。

 あるいは、過去の記憶と未来の想像には同じ脳の回路が使われているという話。記憶にとって海馬が重要な役割を果たしているのは有名だが、海馬を損傷すると、過去の記憶ができなくなるだけでなく、未来を想像することもできなくなるのだそうだ。

 私は、保守派と革新派は実は思考パターンはよく似ていて、革新派が未来に理想を求めるのに対し、保守派は過去に理想を求めているだけだ、みたいなことを考えたことがあるので、このあたりはすごく腑に落ちる話であった。

 だから、特にこの分野に詳しくない一般の人にとっては、こういう事例を読むだけでもある程度楽しめるのではないかと思う。

 私自身もいろんなことを考えさせられた。私はどちらかと言うと、物事を正確に表現しようとするあまり他人の意欲に水を掛けてしまうタイプなので、少し反省すべきかと思ったり。先日の津波で逃げそこなった人たちについても、○○バイアスとかさんざ言われていたけど、そういうバイアスもそう簡単に不合理とは断定できないのではと思ったり。原発事故の際にも、楽観論ばかり主張した学者が後でさんざ批判されていたけど、(もちろん批判すべきところは多々あろうけど)ある程度の楽観性は必要だったんじゃないかと思ったり。

 結論としては、贅沢を言えば多少詰めの甘いところはあるものの、いろいろ考える材料を与えてくれたという意味では、読んでよかったと思える本であった。

 文体は学者とは思えないほど口語的でキビキビしている。英語を読みなれていない人にもお勧めできる文体である。ただし、不必要なエピソードで水増ししているような感じもあって、飛行機事故やバスケットボールや 9.11 やヒットラーのソビエト侵攻やシドニーのオペラハウスの話をあんなに長く書く必要があるのか、という気はちょっとするが、それもご愛嬌で済む範囲だろう。

 

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マイクロブラックホールといえば…

極小ブラックホールが日々地球を通り抜けている説

マイクロブラックホールと言えば、石原藤夫先生の「ブラックホール惑星」「タイムマシン惑星」でしょう!

ブラックホールをお茶漬けに入れて食べるとか、ぶっとびの発想がてんこ盛りの超ハード SF。石原先生は当時から、マイクロブラックホールは単なる妄想ではなくてちゃんと理論物理学的な根拠があるのです、とおっしゃられていたが。

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志賀直哉の変な小説

 志賀直哉というと、「城の崎にて」という病人が八つ当たりでヤモリを殺すだけのクソつまらない小説-というのは学生時代のぼくが思ったことだが-を書いた作家、という認識の人も決して少なくないと思うのだが、実は結構変な小説も書いている。

 たとえば「剃刀」という短編は、イライラした床屋が剃刀で客の首を切って殺してしまうという、統合失調症の被害妄想をそのまま具現化したような小説である。

 ぼくはちょっと被害妄想の気があるので、床屋で顔を剃られるたびに、「今この床屋さんが発狂したらぼくはここで死ぬんだろうな」みたいなことを考えてしまう。だからこの小説の背後にある感覚には割と親近感がある。

 もっと変なのは「范の犯罪」である。 これはナイフ投げの曲芸師の話で、彼は自分の妻を的にして、その身体ギリギリの当たるか当たらないかの場所にナイフを投げるという芸をして生計を立てている。普段は百発百中で長年ミスをしたことはなかった。

 ところがこの曲芸師は、ある日とうとう妻にナイフを当てて殺してしまう。当初は過失かと思われたが、やがて曲芸師夫婦は夫婦仲が悪く、事故の前の晩にも喧嘩をしていたことがわかった。果たしてこの事件は過失か故意か、というのがこの小説の趣向である。

 クライマックスは曲芸師の范が裁判官の前で証言をするシーンである。范は、自分でも過失か故意かわからないと宣言して開き直ってしまうのだ。

「私はその晩どうしても自分は無罪にならなければならぬと決心しました。第一にこの凶行には何一つ客観的な証拠のないという事が非常に心丈夫に感ぜられました。勿論皆は二人の平常の不和は知っている、だから私は故殺と疑われる事は仕方がない。しかし自分が何処までも過失だと我を張ってしまえばそれまでだ。平常の不和は人々に推察はさすかも知れないが、それが証拠となることはあるまい。結局自分は証拠不十分で無罪になると思ったのです。そこで、私は静かに出来事を心に繰り返しながら、出来るだけ自然にそれが過失と思えるよう申立ての下拵えを腹でして見たのです。ところがその内、何故、あれを自身故殺と思うのだろうか、という疑問が起こって来たのです。前晩殺すという事を考えた、それだけが果たして、あれを故殺と自身でも決める理由になるだろうかと思ったのです。段々に自分ながら分からなくなって来ました。私は急に興奮して来ました。もうじっとしていられないほど興奮して来たのです。愉快でならなくなりました。何か大きな声で叫びたいような気がして来ました」

「お前は自分で過失と思えるようになったというのか?」

「いいえ、そうはまだ思えません。ただ自分にもどっちか全く分からなくなったからです。私はもう何も彼も正直にいって、それで無罪になれると思ったからです。ただ今の私にとっては無罪になろうというのが総てです。その目的のためには、自分を欺いて、過失と我を張るよりは、どっちか分からないといっても、自分に正直でいられる事の方が遥かに強いと考えたのです。私はもう過失だとは決して断言しません。そのかわり、故意の仕業だと申す事も決してありません。で、私にはもうどんな場合にも自白という事はなくなったと思えたからです。」

(志賀直哉「小僧の神様―他十篇」より)

 こういう事件が実際にあったら、状況証拠で殺人認定されそうな気もするが(法律に詳しい人に教えて欲しい)、まあこの小説はあくまで一種の思考実験として読むべきなのだろう。

  実はこの作品については、山崎正和が「不機嫌の時代」の中で精緻な分析をしている。

不機嫌の時代 不機嫌からの精神史的考察 (講談社学術文庫)結局、物語は一応、范に無罪の決定がくだされることで終わるのであるが、いふまでもなく、作者にとつての真の関心事はこの事件をめぐる法的な判断ではなかつたであらう。問題は、人間にとつて思ふことも、実行することも、さらには思つて実行することも行動の主体性を作らないとすれば、いつたい人間の主体とはどのような仕方であり得るのか、といふことであつたはずである。具体的にいへば、単なる実行と願望のあひだに決心の一瞬といふものがあるとすれば、それはどのやうにして作られ、どのやうな感触として与へるものか、といふことがこの作品の主題であつたと考へられる。

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「大奥」感想

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301)) 映画化されたりして話題になっている、よしながふみ氏の「大奥」というマンガ。ネットカフェで 5 巻まで読破してきたが、勝手に想像していたほど面白くはなかった。

 男女のジェンダーを入れ替えるというのは、SF では割とありがちなアイデアで、特に社会構築主義的な発想で観念的にジェンダーを相対化するような作品を今さら読まされてもさして新味はない。今やるなら、かつて世界中のどこにも存在したことのないようなジェンダーを構築してみせるとか、ジェンダーが入れ替わる途中経過のメカニズムをリアルに見せるとか、そのぐらいまでやらないと想像の範囲内の作品になってしまうと思うのだ。

 5 巻まで読んだ限りでは、よしなが氏の世界観が社会構築主義なのか本質主義なのか、必ずしも定かではない。ただ、ぼく自身は真実はその中間にあると思っているので、露骨な社会構築主義や本質主義で図式的に世界を切り捨てるような作品には興味はなくて、芸術家にはその中間の微妙なところを描いて欲しいと思っているわけである。

 その点この「大奥」はどうか。少なくとも家光~綱吉の段階では、生物学的にもジェンダー的にも(男性優位社会基準の)「女性」である人間が、男性の仕事である将軍職を無理にやっている、という風にしか見えない。でもそれだけだと、要するに「リボンの騎士」とかと同じになってしまうわけよね。

 本当にジェンダーが逆転して女性が権力を持ったのであれば、女性は男性に色気で媚びる必要はなくなるわけだから、ファッションなんかにも影響が現れるのでは? 現実にも 60 年代のミニスカートの流行はフェミニズムと強く結びついていたわけだしね。でもこの作品ではファッションとかはそのままなんだよね。たとえば、この作品とちょっと設定の似ている柴田昌弘の「ラブ・シンクロイド」なんかには、筋肉質で色気のカケラもないような女性がたくさん出てくるんだけど、こっちの方がリアリティを感じる。

 もっとも、この作品の設定には、そういうメカニズムを書く意図の片鱗が見えてはいるんだよね。最近の進化生物学なんかでは、性差を精子と卵子の生産コストの差によって説明することが多いので、男性の数が減ることにより男女の役割が逆転するという設定は、かなりいいところを突いてる気がする。でも、その設定は今のところまだ十分に生かされていないように思う。

 実際、5 巻で本格的に登場する吉宗になると、ジェンダー的にもかなり(男性優位社会基準の)「男性」に近づいているフシもあるので、このまま幕末あたりまで時代が進むと、生物学的には女性なんだけどジェンダー的には(男性優位社会基準の)「男性」であるような徳川慶喜とかが出てくるのかもしれない。あるいは、男性とも女性とも言えないような中間的なジェンダーになるというのでもいい。その途中のメカニズムを説得力を持って描ければかなり面白い作品になる可能性は十分ある。

 そういう意味でも、少なくとも 5 巻の段階では、傑作の片鱗は見えるけれども、まだ傑作とまでは言いがたい感じがした。今後の展開に期待したい。

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ブックオフで近代文学は学べない

 久しぶりにブックオフに行く。山崎正和氏の「不機嫌の時代」を読んでいたら、志賀直哉や永井荷風が読みたくてたまらなくなったからだ。どうせこういうブンガク書のたぐいは、ブックオフの百円均一コーナーに山ほど並んでいるだろう、と高をくくって近所のブックオフに行ったらびっくり。

 近代日本を代表する名文家として谷崎潤一郎や丸谷才一がこぞって賞賛する志賀直哉の本が、なんと一冊しか見つからない。日本情緒を描かせたら天下一品と言われる永井荷風にいたってはなんと一冊もない。

 仕方ないので、夏目漱石や森鴎外の本を少し買い込んでお茶を濁す。ここらの著者はすでに著作権切れしているので、大部分は青空文庫などで入手できるのだが、文庫本の方が風呂場で読んだりできて便利だからだ。でも、漱石の代表作はだいたい揃っていたが、鴎外に到ってはちょっとマイナーな作品になると置いていなかった。

 そんなわけで、現代日本のブックオフで近代日本の文学を揃えようとしても無理だ、というささやかな現実をはからずも学ぶことになった。もちろん、だからといってブックオフさんの商売のやり方にケチをつける気はない。おそらく、それが今の社会に合った合理的な品揃えなのだろう。ぼくが妙にブックオフに甘いと感じる人もいるかもしれないが、懸賞のサイコロを振ったらたまたまピンゾロが出て三百円の割引券を貰ったからでは断じてない。

 それはさておき、昔の古本屋はこうではなかったような気がする。何を隠そう、ぼくも高校生時代は古本屋通いが日課だった。高校まで 5km ぐらいの距離を自転車で通っていたが、通学路からちょっと寄り道をすれば行ける範囲の古本屋は多分ほとんど把握していたはずだ。もちろん、今はなき大盛堂や紀伊国屋も愛用していたし、休日には神田神保町にも足をのばし三省堂や書泉で時間をつぶすような子供だった。

 当時は、埃をかぶった古典ばかりが積み上げてある一角がどの古本屋にもあって、ブンガクの本なんて買おうと思えばいつでも買えるよ、という感じだった。だからぼくも、ありったけの古典を買い揃えて体系的に読破し、「今どきジョイスもフーコーも読んでないなんてどこの田舎者でございましょう。オホホホホ」と嘯いて川上未映子のような文学少女とヤリまくっていたかというとさにあらず、実際には娯楽小説ばかり買い漁っていたわけだが。

 考えてみると、当時の古本屋と今のブックオフは、業態は一緒でも、社会の中での位置づけはかなり異なっているのだろう。かつての古本屋は、極端に言えば一般庶民が行く場所ではなかった。近所にはかならず「街の本屋さん」的な新刊書店があって、一般庶民はそこで古本ではなく新刊書を買っていたのだ。わざわざ古本屋に行くような人は、学のある知識人か、ぼくのようなオタクのはしりみたいな奴ばかりだった。だから、古本屋にちょっと気取った本が置いてあるのは自然だったのだ。

 もう一つ言えそうな事は、昔は見栄で本を買う奴がたくさんいたということだろう。ぼくが学生の頃は、趣味は読書ですとか言いながら志賀直哉も太宰治も読んでないとは口に出せない、みたいな雰囲気がかろうじてまだあった。それは今で言えば、ロックが好きと言いつつツェッペリンもディープ・パープルも聴いた事がないとか(ぼくのことだ)、テクノやハウスが好きと言いつつクラブで踊ったことがないとか(これもぼくのことだ)、いうようなものだったろう。

 しつこいようだが、だからと言って、古典精神の衰退を嘆き、軽佻浮薄な娯楽の氾濫する現代日本の文化を批判し、卑しくも本屋と称するからには古典を一通り揃えるべきであるとか、若者もくだらないラノベやツンデレ萌え小説ばかりでなくもっと古典を読むべきであるとか主張したいわけではまったくない。今だって志賀直哉や永井荷風は Amazon のマーケットプレイスにでも注文すれば安く買えるし、多分その方が合理的だ。

 ただぼくは、自分が身近に感じた時代の変化を、多少のノスタルジーを込めて書き留めておきたかっただけである。

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