ブックオフで近代文学は学べない

 久しぶりにブックオフに行く。山崎正和氏の「不機嫌の時代」を読んでいたら、志賀直哉や永井荷風が読みたくてたまらなくなったからだ。どうせこういうブンガク書のたぐいは、ブックオフの百円均一コーナーに山ほど並んでいるだろう、と高をくくって近所のブックオフに行ったらびっくり。

 近代日本を代表する名文家として谷崎潤一郎や丸谷才一がこぞって賞賛する志賀直哉の本が、なんと一冊しか見つからない。日本情緒を描かせたら天下一品と言われる永井荷風にいたってはなんと一冊もない。

 仕方ないので、夏目漱石や森鴎外の本を少し買い込んでお茶を濁す。ここらの著者はすでに著作権切れしているので、大部分は青空文庫などで入手できるのだが、文庫本の方が風呂場で読んだりできて便利だからだ。でも、漱石の代表作はだいたい揃っていたが、鴎外に到ってはちょっとマイナーな作品になると置いていなかった。

 そんなわけで、現代日本のブックオフで近代日本の文学を揃えようとしても無理だ、というささやかな現実をはからずも学ぶことになった。もちろん、だからといってブックオフさんの商売のやり方にケチをつける気はない。おそらく、それが今の社会に合った合理的な品揃えなのだろう。ぼくが妙にブックオフに甘いと感じる人もいるかもしれないが、懸賞のサイコロを振ったらたまたまピンゾロが出て三百円の割引券を貰ったからでは断じてない。

 それはさておき、昔の古本屋はこうではなかったような気がする。何を隠そう、ぼくも高校生時代は古本屋通いが日課だった。高校まで 5km ぐらいの距離を自転車で通っていたが、通学路からちょっと寄り道をすれば行ける範囲の古本屋は多分ほとんど把握していたはずだ。もちろん、今はなき大盛堂や紀伊国屋も愛用していたし、休日には神田神保町にも足をのばし三省堂や書泉で時間をつぶすような子供だった。

 当時は、埃をかぶった古典ばかりが積み上げてある一角がどの古本屋にもあって、ブンガクの本なんて買おうと思えばいつでも買えるよ、という感じだった。だからぼくも、ありったけの古典を買い揃えて体系的に読破し、「今どきジョイスもフーコーも読んでないなんてどこの田舎者でございましょう。オホホホホ」と嘯いて川上未映子のような文学少女とヤリまくっていたかというとさにあらず、実際には娯楽小説ばかり買い漁っていたわけだが。

 考えてみると、当時の古本屋と今のブックオフは、業態は一緒でも、社会の中での位置づけはかなり異なっているのだろう。かつての古本屋は、極端に言えば一般庶民が行く場所ではなかった。近所にはかならず「街の本屋さん」的な新刊書店があって、一般庶民はそこで古本ではなく新刊書を買っていたのだ。わざわざ古本屋に行くような人は、学のある知識人か、ぼくのようなオタクのはしりみたいな奴ばかりだった。だから、古本屋にちょっと気取った本が置いてあるのは自然だったのだ。

 もう一つ言えそうな事は、昔は見栄で本を買う奴がたくさんいたということだろう。ぼくが学生の頃は、趣味は読書ですとか言いながら志賀直哉も太宰治も読んでないとは口に出せない、みたいな雰囲気がかろうじてまだあった。それは今で言えば、ロックが好きと言いつつツェッペリンもディープ・パープルも聴いた事がないとか(ぼくのことだ)、テクノやハウスが好きと言いつつクラブで踊ったことがないとか(これもぼくのことだ)、いうようなものだったろう。

 しつこいようだが、だからと言って、古典精神の衰退を嘆き、軽佻浮薄な娯楽の氾濫する現代日本の文化を批判し、卑しくも本屋と称するからには古典を一通り揃えるべきであるとか、若者もくだらないラノベやツンデレ萌え小説ばかりでなくもっと古典を読むべきであるとか主張したいわけではまったくない。今だって志賀直哉や永井荷風は Amazon のマーケットプレイスにでも注文すれば安く買えるし、多分その方が合理的だ。

 ただぼくは、自分が身近に感じた時代の変化を、多少のノスタルジーを込めて書き留めておきたかっただけである。

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箱舟に乗れなかった恐竜たち

 先日偶然に発見したのだが、国際子ども図書館のウェブサイトにある絵本ギャラリーというのが楽しい。18~20 世紀の世界各地の絵本を紹介していて、それだけでも興味深いのだが、単に絵本の画像やテキストを公開しているのではなく、Adobe Shockwave Flash を活用したインタラクティブなコンテンツになっているところが特徴。まるで紙芝居屋さんのように、本文を読み上げながらページをめくってくれるし、BGM の演奏もついているし、外国語の本も日本語訳で読み上げてくれる。大人も子供も楽しめそうなウェブサイトである。

 紹介されている絵本の数は山ほどあるので、ごく一部しか鑑賞していないが、その中でぼくの偏った興味にひっかかったのが「アメリカの絵本・黄金期への幕開け」というコーナーにある「ノアの箱舟のおはなし」という絵本だ。

 子供向けの絵本の癖に、訳文の中に「賃金」「可能性」「紛争」「軋轢」「秩序」「確立」などという固い言葉が頻出するのに笑ったのはぼくの職業病に過ぎないが、中でも面白かったのは、恐竜のエピソードである。

 この絵本によれば、ノアは箱舟の中に、あらゆる種の動物をひとつがいずつ乗船させようとするのだが、恐竜だけは大きすぎて船に乗せられなかった。恐竜が今日絶滅しているのはそのせいだという。

 ぼくが通っていた幼稚園は、キリスト教の教会が経営していたので、「ノアの箱舟のおはなし」は子供のころ折にふれて聞かされた。だから、ぼくは平均的な日本人よりは多少この話に詳しいと思うのだが、こんな恐竜のエピソードは初めて聞いた。それも無理のない話で、だいたい、聖書が書かれたときには、恐竜の化石なんてまだ発見されていなかったはずだ。だから、この部分は明らかに恐竜発見後の創作なのである。

(より厳密に言うと、化石自体の存在は知られていても、それが過去の生物の身体が石化したものであることも確定していなかったし、ましてや、恐竜という現存しない生物のものであるとも特定されていなかった。)

 そもそも、ノアに箱舟の作り方を教えたのは神様であり、動物を乗せろと指示したのも神様なのだから、この解釈だと、全知全能の神様が明らかにミスをしたということになってしまうと思うのだが、そういうソフィスト的なツッコミは別にしても、この部分の記述は現代人から見るといろいろと興味深い。

 この絵本が出版されたのは 1905 年。ダーウィンが「種の起源」を発表したのが 1859 年、ワトソンとクリックによる DNA 構造の発見は 1953 年であるから、この絵本が出版されたのは、ちょうど、進化論が各方面に議論を巻き起こしていたが、まだ完全には認められていなかった頃だろう。この絵本の説明は、進化論に頼らずに恐竜の存在や絶滅を説明する方法として、キリスト教徒が考えた解釈の一つらしい。

 そう言えば、この絵本の冒頭近くにも、箱舟の建造に携わっていた労働者が賃金の値上げを求めてストライキを起こした、なんていう記述があり、当時のキリスト教保守派の人たちの共産主義や社会主義に対する反感がそこはかとなく詠みこまれているように感じる。そんなこんなで、子供向けの絵本のくせに、いろいろと当時の世相を感じさせてくれる本なのである。

 もっとも、いわゆる創造論者の中には、今でもこういう議論をしている方々が珍しくないらしい。たとえば、創造論者が創造論的にいろんな質問に答えてくれる Answers in Genesis というサイトがあるが、ここでも "Were Dinosaurs on Noah’s Ark?" (ノアの箱舟には恐竜は乗っていたの?)という質問は現役だ。こういうのを読むと、キリスト教徒の、あらゆる物事をちゃんと教義に照らして論理的に説明しようとする執念はすごいなと思ってしまう。

 そう言えば、最近ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルでやっている「聖書の謎」「聖書の謎2」というシリーズにも、ノアの箱舟の「遺跡」を発見することや、モーセのエクソダスで海が割れた原因を科学的に説明することに執念を燃やす奇特な方々がたくさん出てきて、ぼくなんかは半分飽きれながらも毎回興味深く観ている。ぼくみたいな無神論者の日本人は、「宗教と科学は別物なんだから、そんな細かいことどーでもいーじゃん」みたいな感覚になりがちだが、彼らはもっと真剣なのである。

 ぼくは、民族性とか国民性に関する通俗的な説には懐疑的な方だが、こういうのを観ると、彼等のなんでも論理的に説明しようとする執念はやっぱり日本人にはないなあ、と感じてしまうのも事実なのである。

(ただ一言だけ言わせていただくなら、最近の創造論者のように、聖書のテキスト一字一句にこだわるという態度は、もともと破綻の可能性を秘めている。仮に、神やキリストの存在を認めたとしても、聖書そのものは神ではなく人間が書いたものだから、間違っている可能性があるし、仮に聖書が神の意思を忠実に反映していたとしても、何が正しい聖書であるかも、ニカイア公会議とかで人間が決めているのだから、その選択だって間違っている可能性がある。だから、いくら原典・テキスト忠実主義をとったとしても、人間の意志の介在を完全に排除することはできないのである。このへんについて彼らがどう考えているのか、ちょっと聞いてみたい気がする。)

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プライドと偏見

プライドと偏見 [DVD]  ジェーン・オースティンの古典「Pride and Prejudice」を映画化した「プライドと偏見」を鑑賞。ちなみに、原作は未読です。言葉を扱う職業の末端に連なるものとして、すこーし恥ずかしく思います。

 さて、何より印象に残ったのは、とにかく、映像やカット割りが凝っていること。特に、この監督は長回しにこだわりがあるらしく、その点ではスピルバーグ以上かもしれない。

 冒頭のシーンからして印象的だ。キーラ・ナイトレイ演ずる主人公のエリザベスが家に戻って来るところから映画は始まる。カメラは物干し場のあたりからずっとキーラを追い続ける。やがてキーラはドアの前まで来るが、中には入らず、そのままドアの前を通り過ぎる。そこでカメラはキーラを追うのをやめ、そのドアから家の中に入っていく。そしてしばらく家の中の様子を写してから向きを変え、入ってきたのとは別のドア越しに外を写す。すると、さっきドアの前を通り過ぎたキーラが庭を回ってちょうどカメラの前まで来ているのだ。これを全部ワンカットで撮っているのである。かっこいい。この瞬間に映画に引き込まれた。

 中盤の舞踏会のシーンなんかも圧巻だった。ダンスを終えたキーラが別の部屋に移動するのを追って移動を開始したカメラが、途中からキーラを追うのをやめて、あっちの部屋からこっちの部屋へと次々に移動し、その間にいろんな人物がフレーム・インしては小芝居をしてフレーム・アウトすることを繰り返し、最後にまたキーラのところに戻ってくる。それを全部ワンカットで撮っているというメチャメチャ長回しのシーンがある。舞踏会だからもちろん主要人物以外の役者も大勢うろうろしているわけで、一人でもヘマすればすべてが台無しである。完成した映像だけを見ると自然に見えるが、撮影にはさぞや手間がかかったに違いない。

 このような長回しのカット割りは、撮影に手間がかかるという意味で技術的に高度なだけではなく、ある種の雰囲気作りにも役立っている。頻繁なカットの切り替えは、映像の意味付けをはっきりさせストーリーを理解しやすくするが、逆に、映像がストーリー・テリングの都合だけで人工的に作られているような印象も与える。一方、長回しのカット割りは、現実に起こっている事件をドキュメンタリーで撮っているような臨場感を与える。また、カットの切り替えがあると、カットとカットの間のつながりが問題になるが、長回しにすれば、カットの間は最初からつながっているのだから、当然ながらつながりも自然になる。

 おそらく、このようにストーリーを性急に追わずに細部にこだわるような撮り方が、本作品のような古典にはふさわしいと、この監督は計算したのではないだろうか。そして、その計算は功を奏しているように見える。

 実際ぼくも、こんなふうにカット割りのことばかり気にしながら観ていたので、ストーリーの方は正直よく覚えていなかったりする。もっとも、ストーリー自体は、金持ちのイヤミな男が実はいい奴だったというありがちな話である。これはもちろん、古典だからしょうがないと思う。

 それでも最後まで退屈さを感じることがなかったのは、キーラ・ナイトレイの魅力も大きい。なにを隠そう、ぼくはああいうアヒル口で気の強そうな女性に弱いので、映画が終わるまでずっとキーラの顔だけを観ていても飽きなかったろう。まあ、そんな個人的な好みを知りたい人は誰もいないかもしれないが、彼女はこの演技でアカデミー賞の主演女優賞にノミネートされたらしいから、客観的に観てもいい演技だったのだろうと思う。派手さはないけど、丁寧に作られた好感の持てる映画だった。

 余談だが、この映画、レーティングは PG だが、性的なほのめかしは結構ある。たとえば、豚小屋に入ってきた雄豚の局部がなぜかみょーにはっきり写り、それを見たベネット夫人がニヤッとするシーン。あるいは、コリンズ師が説教の最中に「through intercourse」と言ってしまい、あわてて、「through the intercourse of friendship or civility」と言い直すシーンなどである。後者は、字幕では「交わりを通じて」と訳してあるが、その直後にわざわざ平静を装う女性の顔が挿入してあり、監督の意図は明白である。あまりに露骨にフロイト理論を踏襲しているきらいはあるが、おそらく、そういう暗示を通じて、当時の社会の性的な抑圧を表現したかったのだろう。

※ Wikipedia 英語版の「Long Take(長回し)」の項目を見ると、案の定、「Directors known for long takes(長回しで有名な監督)」に本作品の監督である Joe Wright が挙げられている。

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春琴抄

むかしむかし、あるところに一組のカップルがいました。

彼女の名前は春琴。そして、彼氏の名前は佐助。

春琴は、大阪のリッチな薬局の娘で、三味線のうまい天才美少女。

佐助は、その薬局に住み込みで働いていた見習い店員。

二人は、ごく普通とは言いがたい恋をして、ごく普通とは言いがたい結婚を…、

いや、なぜか結婚はしませんでした。

でも、なによりも変わっていたこと。それは、彼女はドS、彼氏はドMだったのです…。

 というわけで、ドS 春琴とドM佐助のド変態カップル物語「春琴抄」を読む。

春琴抄 (新潮文庫) 春琴はリッチで天才で美少女だったが、幼くして盲目になってしまう。その身の回りの世話をさせられたのが佐助。佐助はやがて春琴に憧れるようになり、それが嵩じて独学で三味線を習いだす。当初は隠れてこっそり練習していたのだが、家の者にバレてしまい、それがきっかけで春琴から直接三味線を教わることになる。春琴は教え方もドSであり、佐助はしばしば泣かされていたが、ドMだったのでそれも快感だったらしい。

 やがて年頃になった春琴は身ごもり子供を生む。子供の顔からすると、父親はどう見ても佐助なのだが、二人ともなぜかその事実を認めようとしない。二人は表向きはあくまで主人と使用人あるいは師匠と弟子という関係のまま実家を出て同棲し、奇妙な共同生活を始める…。

 このように、肉体関係までありながら、あくまで主人として振舞い、佐助を奴隷扱いするドS春琴と、そんな関係をすすんで受け入れ、嬉々として春琴に奉仕するドM佐助との、不思議な関係の描写がこの作品の読みどころである。

 春琴はドSと言ったが、ツンデレの気もあるようだ。例によって現代口語文にリライトして引用すると、こんな感じ。

 ある時、佐助が虫歯になったことがあった。夜になると、右のほっぺたがハンパなく腫れ上がり、耐えられないほど痛みだしたが、佐助は一生懸命ガマンして表情には出さず、うがいをして息がかからないように注意しながら(春琴は臭いに敏感だった)春琴の世話をしていた。

 やがて、春琴は布団に入って、肩を揉んでとか腰をさすってとか言い出した。佐助が言われた通りにマッサージをしていると、今度は「もういい。足を温めて」と言い出した。

 そこで、佐助は春琴の足元に横寝して、春琴の足の裏を自分の胸に当てた。すると、胸は冷えるのに(春琴は冷え性だった)、ほっぺたは床からの熱でますます火照り、そのせいで歯痛がますます激しくなってきた。耐えられなくなった佐助は、春琴の足の裏を胸の代わりにほっぺたに当ててみた。

 すると、そのほっぺたを春琴が思いっきり蹴っ飛ばした。思わす「あっ」と言って飛び上がる佐助に向かって、春琴は言った。

「もう温めなくていいよ! 胸で温めろとは言ったけど、誰も顔で温めろなんて言ってないよ。なんであたしを騙そうとするの?」

「あんたが歯痛らしいってことは、昼間の態度でだいたいわかってたよ。それに、右のひっぺたと左のほっぺたの温かさが違って腫れてることぐらい、足の裏だってわかるよ。」

「そんなに辛いんだったら、正直に言えばいいでしょ? あたしだって、ちょっとぐらいはあんたを労わる気持ちだってあるんだからね!」

「だいたい、いつもは忠実な奴隷ぶってるくせに、ご主人様の身体を使って歯を冷やそうとするなんて。ずうずうしいにもほどがあるよ!」

 ツンデレ属性の方、いかがでしょう。萌えましたか?

 そんな微妙な関係がずっと続くのかと思われたが、やがて、二人の間にはある恐ろしい事件が起こり、それをきっかけにして、二人は真実の愛を得る。あるいは、そう確信することになる。ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかわからない、不思議な余韻を残す終わり方である。

 余計な装飾はほとんどなく、あらすじだけを淡々と描いたような小説だが、実話に基づいているせいもあってか、最後まで一気に読まされた。 さっき書いたようにツンデレ的な要素もあるので、ひょっとすると今の子が読んでもそれなりに楽しめるかも。

 言い忘れたが、この小説は文体もちょっと変わっている。段落の区切り以外には改行がまったくない。読点もなく、句点もところどころ省略されている。それでも、ほとんど抵抗がなくすらすら読めるのはさすがで、この文体は機会があれば研究の対象にしたいところ。もっとも、読点はともかく、句点の省略には必ずしも必然性がないような気もするが。

追記:検索してみると、「春琴抄」が元祖ツンデレというのは、結構言い古されたネタらしい(^^)。なお、ここで使っている「ドM」「ドS」という用語は、かの天才芸人松本人志が流行らせた用法を踏襲しており、学術的に厳密な用法ではないことをお断りしておきます(^^)。

追記: 「実話に基づいているせいもあってか」などと書いてしまったが、作中に谷崎自身が登場してさも実話であるかのように語る、というスタイルをとっているのはあくまで虚構の設定であって、実際には完全に谷崎の創作らしい。また一つ無知を晒してしまった。なお、春琴のモデルではないかと言われている人物はいるらしい。あくまでモデルだが。

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谷崎はドM

今年から、今まで日記に書くのをためらっていたようなことも、あえて書くことにした。今までは、性生活的なことや奥さんとの関係なんかは書かないようにしてたんだよね。それは、奥さんがこの日記帳を盗み読みしてブチ切れるのが怖かったからなんだけど、今年からはそんなんでビビったりしないことにした。

この日記帳が書斎のどの引き出しに入ってるか、奥さんは知ってるはず。奥さんは昭和な家庭で育った人だから、昔風のどーとくを大事にするとこがあって、それがプライドだったりもするんで、まさか旦那の日記帳を盗み読みしたりはしないとは思うけどさ、そうとも限らないような気もするんだよね。今までと違って夫婦のエッチのこととかが出てくるようになったら、奥さんは旦那の秘密を知りたいという誘惑に勝てるのかなあ?

奥さんはもともとネクラで、隠し事とか好きだからね。知ってることでも知らんぷりしたり、思ってることをあえて言わなかったりするのがいい人だと思ってたりするし。日記帳が入ってる引き出しの鍵は、秘密の場所に隠してあって、その場所もしょっちゅう変えてたりするんだけど、奥さんは詮索オタクだから、今までの隠し場所もみんなバレバレだったりするかも。もっとも、わざわざそんなことしなくたって、あんな鍵、簡単に合鍵つくれるけどね。

さっきは「今年からはそんなんでビビったりしないことにした」なーんて書いたけど、考えてみたら、実は前から怖がってなんかいなかったのかも。ってか、むしろ読まれることを期待してたりなんかしてね。だったら、なんで引き出しに鍵をかけたりその鍵をあっちこっちに隠したりしたのかって? それは、奥さんの詮索オタク心を満足させるためなのかもね。

だいたい、日記帳をわざと目立つ場所においといたりしたら、奥さんは「これはあたしに読ませるために書いた日記ね」と思って、書いてあることを信じないかもしれないでしょ。それどころか、「これとは別にホンモノの日記が隠してあるのね」と思うかも。

ぼくの大好きな郁子さんへ。君がこの日記を盗み読みしてるかどうかはわかんない。直接聞いても「人の日記をコッソリ読んだりなんかしません」って言うに決まってるから、聞いてもしょうがないし。でも、もし読んでるんだったら、これはウソ日記じゃなくて、ホントのことだけが書いてあるって信じてほしいんだよね。ってか、疑り深い人にこんなこと言ったら、余計怪しいと思うだろうから、これ以上は書かないでおくね。だいたい、この日記を読んでくれれば、ウソが書いてあるかどうかはわかるはずだし。

(中略)

前からしつこく書いてるけど、ぼくが奥さんのこと大好きだってのはホントだし、それは奥さんもわかってるはず。ただ、ぼくは奥さんみたいに底なしのエロエロじゃないので、その点では奥さんには勝てないんだよね。ぼくは今年 56 歳(奥さんは 45 歳)だから、まだまだ若いと思ってたけど、最近はエッチするともうどっと疲れがでちゃう。正直言って、週一回とか十日に一回ぐらいが限界。でも、奥さんは、心臓が悪いとか言ってるわりに、そのエロさはほとんどびょーき(そのくせ、こういう露骨なエロトークは大嫌いなんだけどさ)。これが困るんだよね。

旦那としては、奥さんを満足させられないのは申し訳ないと思うけどさ、かと言って、もし欲求不満を解消するために(なんて言うと「あたしの事どんだけエロいと思ってんのよ」ってきっと言うだろけど)奥さんが浮気したりしたら、ぼくは耐えらんない。そんなの想像しただけでジェラシーを感じちゃう。それに、奥さん本人の健康のことを考えても、あのエロエロ病はなんとかしたほうがいいんじゃないかな。

ぼくが困るのは、体力がどんどんなくなっていくこと。最近は一回エッチしすると、もうヘロヘロになっちゃって、その後丸一日使い物にならなくなっちゃう。でも、奥さんとエッチしたくないかっていうと、むしろ真逆。ぼくは、義務感で無理矢理勃たせてエッチしてるわけじゃ全然なくて、奥さんのことは大好きなの。

で、いよいよ奥さんに嫌われそうなこと書いちゃうけど、奥さんには、本人も気づいてない隠しアイテムがあるんだ。ぼくがもし童貞で他の女とエッチしたことがなかったら気づかなかったかもしれないけど、これでも若い頃は結構遊んでたからね。奥さんがもう滅多にいないぐらいの名器だってわかっちゃったんだよね。

奥さんがもし歌舞伎町のソープとかで働いてたら、きっと有名になって、パパがたくさんできたりして、そこらじゅうの男をトリコにしたかもしれないね。(あ、こんなこと奥さんには教えない方がいいかな。奥さんが自分でそれに気づいちゃうと、ぼくにとっては損だよね。でも、奥さんがこれを聞いたら、喜ぶかな? 恥ずかしがるかな? それとも、バカにされてると思うのかな? たぶん、怒ってるフリはするだろうけど、ひそかにプライドを感じるんじゃないかな)

ぼくは奥さんのアソコのことを考えただけで、ジェラシーで悶々としちゃう。このことがどっかの男にバレて、しかも、ぼくが奥さんを十分満足させてないことまでバレちゃったらどうなるのかしら。そう考えると不安だし、奥さんに悪いなとも思って、自分で自分が許せなくなっちゃう。

だからこそ、ぼくは刺激を得ようと思っていろいろがんばるわけ。たとえば、ぼくは目蓋が性感帯で、目をつぶって目蓋の上からキスされると感じるんだけど、そこを刺激してもらうとか。逆に、奥さんは脇の下が性感帯で、脇の下にキスされるのが好きなんだけど、ぼくが奥さんのそこを刺激することで、間接的に自分を刺激しようとしたり。

でも、奥さんはそういうのお願いしてもやってくれないんだよね。そういう「不自然なプレイ」は嫌で、普通なのがいいんだって。いくら普通にエッチするためにこそ、前戯が重要なんだと言っても、そういう変態チックなことだけはイヤっていうコダワリがあるみたい。

奥さんは、ぼくが足フェチだって知ってるし、自分の足がキレイだってことも知ってるのに(とても 45 歳のオバサンの足には見えない)、いや、知ってるからこそ、ぼくに足を見せようとしないんだよね。真夏のアホみたいに暑いときだって、ほとんどソックスとか履いてたりする。せめて足の甲にキスさしてくんない? と頼んでも、「ヤダ、きたないよ」とか「こんなとこ触るのおかしいでしょ?」とか言って聞いてくれないんだよ。だからぼくはますますヘタレな旦那になっちゃうわけ。

(中略)

ぼくは奥さんが着てる物を全部ひっぺがして、真っ裸のまま仰向けに寝かせて、蛍光灯とスタンドの光を思いっきり当ててやった。それから、地図を調べるみたいにして奥さんのカラダをチェックしだしたんだよね。そしたら、どこを探してもシミ一つないもんだから、もう見とれちゃって。

だってさ、ぼくは奥さんのハダカ全体をちゃんと見たのって初めてなんだよ。よその旦那はきっと、奥さんのカラダがどんななのか、足の裏のしわの数まで知ってるんだろうけどさ。ウチの奥さんは、ぼくにカラダを見せてくれたこと一回もないからね。そりゃあ、エッチのときにたまたま見れたところもあるけど、それだって上半身の一部だけで、エッチに必要ないところは一切見せてくれなかったんだから。ぼくはただ、手で触った感じから形を想像して、たぶんいいカラダなんだろうと思ってただけで。だからこそ、明るいところで見たいなあって前から思ってんだけど、期待通り、っていうか期待以上だったね。

(中略)

そしたら、奥さんはホントは寝てるんじゃなくて、寝たフリをしてるだけのような気がしてきた。っていうか、最初はホントに寝てたんだろうけど、途中で目が覚めたんだろうね。でも、あまりにみょーなことになってるんで呆れてしまい、自分が恥ずかしい格好にされてることもあって、寝たフリのままでいくことに決めたとかさ。これはぼくの単なる妄想かもしれないけど、でもぼくはそう思いたかったんだよね。こんなキレイな肌をしたカラダが、ラブドールみたいにぼくのされるがままになってるのに、実は本人意識があるんちゃうかって思うと、ぼくはメチャメチャ興奮しちゃうもんで。

でも、もしホントに寝てるんだったら、奥さんにこんなイタズラしたこと日記に書いたらマズいかも。奥さんがこの日記をコッソリ読んでることは間違いないから、こんなこと書いたら、酒を飲んでくれなくなっちゃうかも。でも、たぶんそうはならないよね。だって、そんなことしたら、日記を盗み読みしてることがバレバレになっちゃうもの。この日記さえ読まなければ、酔いつぶれてる間に何されたかなんて、奥さんにわかるはずないんだから。

(中略)

奥さんが爆睡してる(あるいは、爆睡してるフリをしている)のを確認して、ぼくは最後までヤルことヤっちゃうことに決めた。今日は奥さんに邪魔されなかったから、心の準備も完璧で、ぼくはすでに興奮でビンビンになってる。だから、自分でもびっくりするくらいイケてたね。いつもの情けない、ヘタレの旦那ではなくて、あのエロエロな奥さんにも勝てるぐらい。ぼくは、これからもちょくちょく奥さんを悪酔いさせてやろうと思ったね。

― 谷崎潤一郎「」より(新口語文風にリライト)


谷崎潤一郎 - Wikipedia  

谷崎 潤一郎(たにざきじゅんいちろう、Junichiro Tanizaki 1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、明治末期から第2次世界大戦後にかけて活動した小説家。耽美主義とされる作風で、『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し、文豪と称された。(中略)ノーベル文学賞の候補とされただけでなく、1964年には日本人で初めて全米芸術院米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された。

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工事の音がうるさい

 私の住んでいるマンションは、独身用のせいか入居者の入れ替わりが激しく、そのたびに内装工事が行われます。この工事の音が、うるさくて喉に刺さった魚の骨のように気になるのであります。

 今日なども、仕事をしようとすると、トカトントン、音楽を聴いていても、トカトントン、読書をしていても、トカトントン、仮眠をとっている最中にも、トカトントン。○○○ーをしようとしても、トカトントン。

 教えてください。この音は、なんなのでしょう。そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。私はいま、実際、この音のために身動きが出来なくなっています。どうか、誰か教えてください。

 なお最後にもう一言つけ加えさせていただくなら、私がこのブログを半分も書かぬうちに、もう、トカトントンが、さかんに聞こえて来ていたのです。こんなブログを書く、つまらなさ。それでも、我慢してとにかく、これだけ書きました。そうして、あんまりつまらないから、やけになってウソばっかり書いたような気がします。翻訳の仕事なんてないし、歯痛になったわけでもないんです。その他の事も、たいがいウソのようです。

 しかし、トカトントンだけは、ウソではないようです。読みかえさず、このまま投稿します。

気取った苦悩ではなく、単に疲れているだけです)

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統計学の有名教科書の誤りに気づく

 今は亡き小針あき宏氏の「確率・統計入門」という本は、この分野の教科書の中でも名著として知られている。ぼくもウン十年前の学生時代から愛読しているのだが、最近読み直していて、単なる誤植ではすまない、わりと重大な誤りがあることに気がついた。

 誤りを見つけたのは、いわゆる「確率変数の変換」についての記述。確率分布 p(x) を y = f(x) で変換した結果 q(y) は、f(x) の逆関数を x = φ(y) としたとき、

統計学の教科書の誤り-1.jpg

になるという命題(命題 2.6)においてである。これは、正規分布の一次結合が正規分布になるという定理や、χ2乗分布の導出などにも使われる重要な命題なのだが、よく考えるとおかしいのだ。

 この命題には、f(x) の条件として、単調で導関数が連続としか書かれていないのだが、もし f(x) が単調増加でなく単調減少だったら、φ(y) の導関数は常に負である。一方、p(φ(y)) は確率分布の定義上常に正であるから、この式のままだと、q(y) は常に負ということになってしまうのだ。これは明らかに矛盾である。

 この式の本来の意味から考えると、右辺に φ(y) の導関数をかけるのは、変数変換による区間の幅の拡大・縮小を補正するためなので、重要なのは絶対値であって符号は無視できるはずである。したがって、この式には、絶対値記号をつけて、

統計学の教科書の誤り-2.jpg

にしなければならないはずである。

 現に、「実用 統計用語事典」の「変数変換」の項目には、ちゃんと絶対値記号のついた式が書かれている。だから、ど素人のぼくの勝手な妄想に過ぎない、ということはないと思う(^^)。

 次のページには、この命題を多価関数に拡張した命題(命題 2.7)が出てくるが、もちろん、この式も、

統計学の教科書の誤り-3.jpg

でなければおかしいということになる。連続な多価関数なら、極値が一つはあるはずだから、単調増加の関数のみから構成されるということはあり得ない。少なくとも一つは単調減少の関数もあるはずだ。したがって、この絶対値の問題は、多価関数ではより重要になってくる。




 なぜかインターネット上には、このことを書いた記事があまり見当たらないのだが、やっと 1 つだけ見つけた(念のため魚拓)。書いたのは Stanislav Sykora という物理学者・物理化学者で、工学博士・学術博士号をお持ちの方らしいので、ぼくの駄文よりは権威があるだろう(^^)。 引用する。

The above analysis can be extended to monotonously decreasing transformations functions f(x) such that -f(x) is a legitimate Borel function (e.g., f(x) = e-x). In such a case, the differentials dx and dz in Eg.(5) are of opposite sign so that, in order to keep the pdf's positive, one needs to replace them by their absolute values. Consequently, Eq.(7) becomes

(摂訳)上の分析は、-f(x) が正しいボレル関数であるような単調減少の変換関数 f(x) (f(x)=e-x など)に拡張できる。その場合、式 (5) の微分 dx と dz は符号が異なるので、確率密度関数を正にするためには、これを絶対値に置き換える必要がある。したがって、式 (7) は、

確率密度関数の変換式.gif

となる。

ね、単調減少なら絶対値をとらなくてはいけないと。ぼくが書いたのとほとんど同じですね(式が割り算になっているのは、逆関数の微分を利用しているだけで、実質的には上の式と同じこと)。

 もっとちゃんと書いた日本語の資料も見つけた。こちらは日本女子大学の今野良彦先生が書いた講義資料の pdf ファイル

 こちらは、逆に累積分布関数を計算してそれを微分するという形をとっているので、論理的に明快になってますね。

これで信じてもらえたかな(^^)?




 もっとも、これだけならまだ誤植で済む話で、ぼくも大人気なく騒いだりはしない(^^)。実は、この後の例題で、正規分布を y = x^2 で変換することにより自由度 1 のχ2乗分布に変換するという話が出てくる。x^2 の逆関数は二価関数だから、当然のことながら負の導関数が出てくるはずなのだが、この本はここで思いっきりゴマカシをしているのである。

 この証明では、まず、

統計学の教科書の誤り-4.jpg

という式を提示し、これに dy = 2xdx という関係を代入することにより q(y) を求めている。これは、標準正規分布の確率密度関数が偶関数であるため、p(x) = p(-x) になっているという関係を利用したもので、一見すると問題なさそうに見えるが、実は、この式にウソがある。

 この式は微分形式で書かれているのでわかり難いのだが、実は、p(x) にかかっている dx と、p(-x) にかかっている dx は同じではない。y = x^2 の逆関数は二価関数だから、実際には、x1 = φ1(y) と x2 = φ2(y) という二つの関数に分かれているはずなのである。したがって、この式は本来なら、

統計学の教科書の誤り-5.jpg

 でなければいけないはずだ。つまり、上の式のように dx 同士足すことなどできないのである。

 実際には、この x1、x2 は、

統計学の教科書の誤り-6.jpg

であり、これを微分すると、

統計学の教科書の誤り-7.jpg

となる(この二つの導関数は、絶対値は同じで符号だけが違うということに注意されたい)。従って、上の式の dy を移項して導関数を作ったときには、

統計学の教科書の誤り-8.jpg

となるはずである。ここに、先に述べた p(x) = p(-x) という関係を代入すると、あら不思議(というか当然なのだが(^^))、

統計学の教科書の誤り-9.jpg

になってしまうのだ(^^)。

 つまり、この例題を、絶対値記号のないこの本の命題 2.7 に忠実に計算すれば、q(y) はゼロにならなくてはおかしいのであって、この本の証明でそうなっていないのは、微分形式の dx1、dx2 を同一視することにより、暗黙のうちに絶対値演算と同じことをして、二つの導関数の符号の違いを打ち消しているからなのである。にもかかわらず、命題 2.7 や 2.6 の式に絶対値記号を入れていないのは、単なる誤植とは言えないかなり重大な問題だと思う。

 この隠蔽操作が意図的なのか意図的でないのかはわからないが、初学者にとっては十分混乱の元になると思う。まあ、他人の間違いをあげつらうのが楽しいという感情がまったくないわけではないが(^^)、そういう初学者が運良く検索でこのページにたどりついてくれれば、少しは役に立つのではないかとも思うので、あえてここに明記しておく。

 ちなみに、薩摩順吉氏の「確率・統計」でも、やっぱり絶対値記号のない式(3.38)が記載されていて、その後に出てくる多価関数の応用例では、微妙に表現は違うが、やっぱりそこのところをゴマカシてある(^^)。

 もっとも、ウチにある小針本は 1991 年 1 月 16 日、薩摩本は1992 年 9 月 5 日発行なので、その後の増刷では訂正されているかもしれないし、そう信じたい(^^)。でも、その時点ですでに、薩摩本は第 8 刷、小針本は第 19 刷なのだから、それまでこんな間違いに誰も気づかないなんて、世の中どうなってるのか、みんな本当にちゃんと読んでるのかと思う。あれ? それを言うならオレもか(^^)。

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ちょっと補足

 ログを見て発見したんですけど、珍しく、ぼくなんかの文章を批評してくれた人がいたようで(^^)。(突然ですます調に戻る)

 ぼくの「芸術におけるアマチュアリズムの意義」という拙文に同意してくださってます。うれしいです。手品の種明かしの意義もそれと同じだというのには気づきませんでした。確かにそうだと思います。

(もっとも、これは以前にちょっと調べて知ったのだけれども、種明かし番組自体は、マジシャンの間でかなり問題になっているみたいで、そこには普通の芸術とは少々異なる微妙な問題があるようです。)

 でも、「「文章読本さん江」さん江」についてはちょっとだけ誤解があるような気がするので、そこだけ補足しときます。

「珍プレイ(好プレイ)集」のような形で、現に1980~90年代のにおいては、その「プロの凡プレイ」の方をこそ、あら探しされ、消費されていた。「せねばならなかった」ではなく、「すでにされていたこと」であった。著者に対してツッコミを入れるならば、その部分であろう。

 この方の論旨を正しく理解している自信は必ずしもないのですが、ぼくの想像では、この方はたぶん、斉藤さんの批判をプロの技術に対する批判ととらえ、ぼくの批判を、それに対する反批判として捕らえたんだろうと思うんです。

 この方が批評対象の「文章読本さん江」を読んだのかどうか、この文章だけではわかりませんが、たぶん読んでいないのではないかと思います。というのも、斉藤氏はあの本の中で、プロの文章技術そのものを批判しているわけでは必ずしもありません。氏が批判しているのは、むしろ、文章読本の著者がプロとアマを分けてヒエラルキーを作るという姿勢そのものなのです

 ぼくが批判したかったのは、このヒエラルキー自体を否定する主張であって、個別のプロに対する批評を批判したわけではありません。個別の作者に対する批評は、当然、プロ・アマ問わずやるべきだと考えています。そうでなければ、どう考えたって矛盾してますものね(^^)。その程度のことにぼくが気づいてないと思われたとすれば少々不本意であります。

 ぼくが言いたかったのは、別にプロを盲目的に神格化しなくたって権威のヒエラルキーというものは自然にできるし、その現象自体を否定する必要もないという、常識的に考えれば、ごく当たり前の話です(当たり前だと思うから少々きつい書き方をしているわけです)。もちろん、「芸術におけるアマチュアリズムの意義」でも、プロとアマの差は厳然としてある、にもかかわらずアマチュアリズムは重要であると言っているわけで、その点で主張は完全に一貫しています。

 だから、

青年期に確信した社会問題が、現に改善のために実践され、行われ、広く受け容れられている現状には鈍感であり、あたかも自分だけ(自分を含めた少数派だけ)が気付いている問題だと強く言いすぎてしまうこと。

というように、時代状況に相対的な批判をしているつもりは、本人的にはありません。もちろん、いまどき権威批判を得々としてやるのもアナクロだなあ、みたいな気持ちもまったくないわけではありませんが(でも、それにしてはこの本って若い子にも評判いいよね(^^))、批判の仕方自体が妥当であれば、それはそれでありだと思っています。

 もっとも、ぼく自身若い頃ポストモダンにかぶれて、そこからモダンに回帰したことは事実ですが(これもどっかに書いてます(^^))、だからこそ、そのへんには気を使って書いてるつもりなんで、そこんとこ一応よろしくお願いいたします。

(でも多分、ぼくの書き方も下手なんでしょうね(^^)。努力はしてるんですけど、まだまだ文章力も足りないし推敲する時間もないんで、生暖かい目で見逃してただきたいところではあります(^^)。)

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子供のころに好きだった絵本

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これは子供の本のクセに、ちょっと恋愛物みたいな感じで、子供心になんかドキドキした。


 なんで突然こんなレビューを始めたかというと、実は例の秋葉原通り魔事件のせい。こんなこと書くと、明日から誰もまわりに寄ってこなくなるかもしれないけど(^^)、あの犯人のプロフィールって、なんか結構自分と共通するものがあるんだよね。中学までは優等生だったけど、高校で進学校に入ったとたん落ちこぼれたとか、親と仲が悪かったとか、人付き合いが下手だとか、女性にもてないとか(^^)。

 でも、ぼく自身はどう考えてもそんなに世の中を恨んでいるわけじゃなくて、結構人生を楽しんで暮らしている。その違いはいったいどこにあるのかなあ、と考えてしまったんだよね。すると、どう考えても、自分が上等な人間だからとか人格的に立派だからではなくて、結局いろんな意味で幸運だったからとしか思えなかったんだ。

 特に、子供の頃にいろんな人の愛情を受けて育ったことが、結局はいまだに自分を世の中につなぎとめているような気がする。色川武大さんの「うらおもて人生録」には、子供の頃に人に愛されたり愛したりする経験をすることが重要だと書いてある。これは何も統計的な根拠があるわけではなくて、純粋な経験論なんだろうけど、今になって自分の内面を省みてみると、その意味がわかるような気がするのである。

 ぼくの通っていた幼稚園は、キリスト教の教会が経営していた幼稚園だった。もちろん、露骨な宗教教育を受けたわけではないんだけど、今考えると間接的な影響は大きかったのだろうと思う。その幼稚園には絵本がたくさんあって、その大部分が福音館の絵本だった(これも今考えると、キリスト教の幼稚園だったからなのだろう)。上で紹介した絵本に福音館の本が多いのはそのせいである。

 もちろん、だからと言って、幼稚園をみんなキリスト教の経営にしろとか、絵本普及運動をしろとか、国の予算で日本中に絵本を配れとか言いたいわけではない。いや、すぐにそういう安易な「対策」をしてお茶を濁そうとする最近の風潮には、むしろかなり批判的だ。もちろん、不幸な幼児期を送った人間の犯罪は許してやれと言ってるわけでもない。

 世の中の善悪を誰かの責任にして解決するのは、世の理であって絶対に必要なことではあるんだけど、同時に、善悪だけにこだわっているとかえって見えにくくなってしまうもう一つの理の世界がある。ぼくは今むしろ、そちらの方に目を向けたい気分になっているのである。

追記: ただ、ぼくは雇用の流動化には賛成だし、派遣は自分も昔やってたからなおさらそう思うけど、単に日雇い派遣をやめればいいとかいう問題じゃないと思ってる。まあでも、しばらくこういう短絡的な政治が続くんでしょう。それも歴史的に仕方のないことだとは思ってるけど(^^)。

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LibraryThing 日本語版用のブックマークレットを作ってみた

 LibraryThing 日本語版用のブックマークレットがなかったので作ってみました。

 LibraryThing に追加

 上のリンクをツールバーなどにドラッグすればOK。 

 今時間がないので、詳しい説明は省略。わかる人にはわかるよね(^^)。

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PLUTO 5

PLUTO 5―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (5) (ビッグコミックス) 「PLUTO 5」を購入。なんと、セブンイレブンの棚一段を完全占拠していたので、最近のマンガの中でも売れている方なのだろう。 ゲジヒトが○○○○したというネタでしばらくひっぱるのかと思ったら、そのネタは前フリにすぎなかったらしい。手塚原作キャラとしては、新たに○○○○○も登場するが、まだ登場しただけで、たいした見せ場はなし。

 この作品の成功の鍵は、「ロボットの心」をどれだけリアリティを持って描けるかだと思っているのだが、その関連で新たに出てきたキーワードが、「偏った感情の注入」。

 実はこれ、たまたま最近読んだベルクソンの自我論とか、それを批判的に引用している山崎正和氏の自我論とかに、ちょっと似てるんだよね。あと、「ほぼ日」で最近、脳科学者の池谷裕二さんの睡眠論連載してるんだけど、そこで知った「起きているときに活性化しているニューロンは 30% ぐらいなのだが、睡眠中で意識がないときには 100% 活性化している」という話も思い出した。

 そんなこともあって、これまで読んだ限りでは、浦沢氏の「ロボットの心」の描き方には、現代の哲学や AI 理論の水準を踏まえてもリアリティを感じさせるものがあるという気がしている。ぼくは、最近あまり SF を読んでいないので、ひょっとしたら先行作品があるのかもしれないし、誰か専門家のブレーンがついているのかもしれないが、ご自身で考えているとしたら、たいしたものだと思う。

 もちろん、まだ 5 巻目なので、今後の展開次第で駄作になってしまう可能性もあるのだが、5 巻読了時点でのぼくの期待値は堅調に推移、買い推奨である(^^)。

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ケータイ小説初体験

 ケータイ小説「恋空」を読んでみた(^^)。

 ケータイ小説について、賛否両論あることは知っていた。中高生には圧倒的な人気がある。しかし、従来の小説を読んできた人たちは、否定的な評価の人が多いらしい。その一方、新しい世代による新しい時代の小説として評価する人もいるようだ。どの評価が正しいのかは、つまるところ、読んで見なければわからない。それを確かめたくなったのだ。

 読了後、山田太一氏の「『オーケストラの少女』はひどい映画か?」というエッセイを思い出した。それは、指揮者の岩城宏之氏のエピソードに関するエッセイだ。岩城氏は、少年時代に「オーケストラの少女」を観て感動し、その影響で指揮者になったそうだ。ところが、大人になってからもう一度「オーケストラの少女」を観たところ、子供のときの記憶とは違って、どうしようもなくひどい映画としか思えなかった。それで氏はおおいに落ち込んでしまったという。

 このエピソードについて、山田氏はこう言う(このエッセイを収録した本は処分してしまったので、細部はうろ覚え)。おそらく、「オーケストラの少女」は、たいていの大人にとってはひどい映画なのだろう。しかし、ひどい映画だからと言って、子供に見せない方がいいとは思わない。子供というものは、大人が名作だと思うような作品で成長することはあまりなく、むしろ、俗悪な作品こそが子供を成長させることが多いからだ。現に、「オーケストラの少女」は岩城氏を指揮者にしたではないか…。(念のために補足すると、このエッセイのポイントは、名作・俗悪という価値基準自体を変更せず、にもかかわらず子供にとって俗悪は必要だ、という論法になっていることである。)

 ぼく自身も人並み以上にそうだったが、子供というのは、実にくだらないことに熱中する生き物である。マンガやテレビ番組だけのことではない。サケブタやスーパーカー消しゴムのようなよくわからないグッズ収集もそう。ぼくなんかアホだから、もっともっとくだらないこともたくさんしている。チョークを食べる。舌を三つ折にする。消しゴムのかすをまるめて練り消しゴム状にする。牛乳瓶のフタについているセロハンに穴をあけ、その穴を徐々に広げていって、しまいにはその穴をくぐる。道に落ちている刀の形をした鉄片を拾い集める…。

 どれも、文化や芸術とはなんの関係もないし、社会的な影響力もない。でもおそらく、理由はよくわからないけど、当時のぼくにとっては必要なことだったのだろう。

 「恋空」も、確かに傑作とはいいがたい。ぼく自身もそれほど感動しなかったし、客観的に観ても、後の世になって名作として再評価されるということも、おそらくないだろう。

 ただぼくは、だからと言って、この小説をそんなにムキになって批判する気にもなれないのだ。別に誰も芥川賞や直木賞をやれと言ってるわけじゃない。書きたい子が書いて、読みたい子が読んでるだけのことではないか。やれ間違った知識が書いてあるとか揚げ足とりみたいなことを言ってる人もいるけど、そんなのは大した問題とは思えない。子供を騙して金を儲けているという批判もあるが、そういう人たちだって、子供達のやることについて行けない年寄りに受けそうなことを言って金を儲けているとも言える。

 また、文学的に新しい手法とまではいかないものの、現代的な感覚を感じるところはいくつかあった。たとえば、あのリズム感を重視した行間の空け方や改行の仕方などはなかなか面白い。恋愛や友達関係の大部分がメールやケータイの会話で進行するのも、伝統的な小説ではなかったことだろう。友達同士がすぐ裏切ったりウソをついたりするのも、その後わりとあっさり仲直りするのも、ぼくの世代の感覚からするとかなり違和感があるのだが、今の子にはそれなりにリアリティを感じられるらしい。だから、これがミヤダイ先生のよくおっしゃるカジョーリュードーセーってやつなのかなあ、なんて思ったりした(^^)。

 このような点から考えても、どちらが文学的にすぐれているかという話とは別にして、ケータイ小説が、従来の小説からは得られないなにかを、今の若い子たちに与えている、ということはありそうである。

もちろん、

ぼくだって、この小説ですごく感動したとは言えない…。

でも、

だからといって、やたらムキになって悪口を言う人も、

なんだかキモいと思ってしまったんだ…。

ただ…

ひとつだけ気になること。

それは、ぼくみたいなオヤジがこんなことを書くと、

若い子にモテたいという下心がミエミエだ、

と思われそうなことなんだ…。

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マル激・岡田斗司夫編

 今週の「マル激トーク・オン・ディマンド」のゲストは、渦中の人、岡田斗司夫さんであった。と言っても、収録したのは先週らしく、「いいめも」事件についてはなんの言及もなかったが、お話自体はなかなか面白かった。

 もっとも、後半の「見た目主義社会」の話は、申し訳ないけど、表層的であまり深みがないように感じた。面白かったのはやはり、前半のレコーディング・ダイエットの話である。実は、ぼくはまだ「いつまでもデブと思うなよ」という本自体を読んでいないのであるが、自分の禁煙体験と照らし合わせてみても、ハタと手を打つような発言がいろいろとあった。

 そこで以下、岡田式レコーディング・ダイエットについてぼく流の解釈を書こうと思うが、その前に、やはり一言書いておかねばなるまい。ここに書いてある岡田式レコーディング・ダイエットに関する説明は、あくまでぼくの勝手な解釈であって、岡田氏の提唱するレコーディング・ダイエットを正しく伝えているとは限りません。と、これでいいよね(^^)?

 ぼくは、30 代になってからタバコを吸い始め、5 年間ぐらい吸い続けてから禁煙に成功したという、少し珍しい喫煙歴を歩んだ人間なのだが、そのときに考えたのは、岡田氏と同じく、やはり人間の欲望の構造だった。

 そもそも、禁煙したい人間というのは、意識的・理性的にはタバコを止めたいと思っているのだが、無意識的・感性的にはタバコを吸いたいと思っているものだ。この状態を俯瞰して見ると、二つの矛盾する欲望を同時に抱いているということになる。

 この状態は、理性偏重の近代主義的な考え方からすれば、理性的な欲望の方が正しく、感性的な欲望の方は間違っているということになるのだろうが、ポストモダン的な考え方からすれば、どちらが正しいとも言えないはずである。

 したがって、徹底して近代主義的な人間の場合には、理性によって感性をねじ伏せるという形で禁煙に成功することもあるのだが、ポストモダン的な人間の場合には、タバコが吸えないのに長生きしてもつまらない、どうせ人間いつかは死ぬんだし、みたいな考え方に抵抗しきれないわけである。

 しかし、よくよく考えると、そもそも同じ人間が矛盾する欲望を同時に持っているということが論理矛盾なのであって、これは、意識と無意識を別の自己として認識していることによって擬似的に発生する現象にすぎないのである。

 元をたどれば、理性的な欲望も、感性的な欲望をより深く満足させるためにあるはずだし、感性的な欲望も、理性によって誘導できるはずなのだから、問題は、両者のフィードバック関係がうまく機能していないことなのである。したがって、このような矛盾は、無意識的な欲望と意識的な欲望の関係をよく整理して正しく捉えなおせば、解消できる可能性がある。

 たとえば、禁煙について言えば、そもそも、タバコを止める人はなぜみんな完全に「スパッ」と止めなくてはいけないと考えていて、一日一本だけなら吸っていいみたいな止め方をする人がいないのかが不思議である。

 実際には、無意識的な喫煙欲は、たまにはタバコを吸いたいという欲望かもしれないし、意識的な禁煙欲も、肺癌にならない程度にタバコを減らしたいという欲望かもしれない。だとすれば、完全に禁煙するかわりに、喫煙量を減らすことによって、意識的な欲望と無意識的欲望の両方を満たせる可能性があるはずだ。

 もちろん、タバコの場合には習慣性があるという事実も見逃せないが、これはおそらく、理性によって感性をねじ伏せるという近代的な自己モデルに囚われすぎているがゆえの勘違いだと思う。

 現にぼく自身も、禁煙成功後は、普段はまったくタバコを吸っていないが、たまに飲み会に行くときだけはタバコと 100 円ライターを買っていくことがある。これは前にもどこかで書いたけど、ぼくはあまり社交的な人間ではないため、同席した人と話が盛り上がらないことがあって、そういうときにも、タバコをぷかーっと吹かしているとなんとなくカッコがつくからである。(実は、これこそが、ぼくが喫煙時代に発見した、喫煙の最大の効用である(^^)。)

 もちろん、だからと言って、その日を境にタバコを吸いだしてしまうようなことはなくて、翌日からは何事もなかったように禁煙生活を続けられている。これこそ、自分の中の無意識的な欲望と意識的欲望の間の整理がついている証拠であろう。

 岡田氏の話の中でも、ぼくが最も感心したアイデアは、食事を残せばよいという話である。ぼく自身もダイエット中によく経験するのだが、たとえば、コンビニに弁当を買いに行って、カツ丼を発見し、一瞬食べたいと思ったものの、カロリー表示を見て諦めて、代わりにもっとカロリーの少ないソバ弁当にしたりすることがある。

 これも先ほどの禁煙の話と同じことで、カツ丼を食べたいというのが無意識的な欲望、ダイエットしたいというのが意識的な欲望なのだが、よくよく考えると、カツ丼を食べたいということと、コンビニで売っているカツ丼を一個全部食べたいということはイコールではない。実は、無意識は、ちょっとでもカツ丼の味を味わえれば満足するかもしれないし、そのちょっとは、実はソバ弁当一個よりカロリーが少ないかもしれないのである。

 そう考えると、カツ丼を一部だけ食べて後は捨ててしまえば、意識的な欲望と無意識的な欲望の両方が満足する可能性があるわけで、この発想はさすがに鋭いと思った。

 誰でも気がつくことだと思うが、このような考え方は、最近流行りの procrastination 対策にも応用できる。ここでも、仕事をサボってダラダラしたいという感性的な欲望と、早めに仕事を終わらせないと後でヒドイ目に合うよという理性的な欲望が対立しているように見えるわけだが、だからといって理性で感性をねじ伏せようとするから、長続きしないのであろう。最近流行のライフハックで提唱している ToDo リストの作成なども、要するに、自分の真の欲望を整理して正しく認識しなおすための技法であると考えられる。

 そういう意味で、理性的な欲望と感性的な欲望の関係を整理して、正しく自己認識し直すという手法自体は、いろんな分野に応用できるスキルであると思われる。こう考えると、このような方法が最近まで普及しなかったのはむしろ不思議なぐらいだが、おそらく、理性と感性を分けて考え、理性で感性をねじふせられる奴が偉いとする、近代的なパラダイムが発想の邪魔をしていたのだろうとぼくは思っている。

(読み直してみると、実はフロイト理論とあんまり言ってること変わらんような気も(^^)。)

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いいメモダイエット事件について

  知っている人は知っていると思うが、いいメモダイエット事件というのがあった。詳細は検索でもして調べていただきたい(ぼくもそれ以上のことは知らない)のだが、簡単にまとめれば、岡田斗司夫氏が「いつまでもデブと思うなよ」という本で説いたレコーディング・ダイエットという手法を勝手に利用した「いいメモ」というウェブサイト(ちなみに、このサイトに利用は無料だったらしい)ができたことに対し、岡田氏が著作権の侵害を主張したという事件だ。

 それに対し、ネット上では、アイデアは著作権で保護されないのではないか、といった批判が出ていたわけだが、今日になって、岡田氏のウェブサイトに、そういう批判に対する回答とも思われる記事がアップされていた。

 部分引用は禁じられているようなので、詳細は読んでいただくしかないが、岡田氏が防ぎたいと思っているのは、権利の侵害というよりも、自分の主張がねじまげられて伝えられることらしい、ということはわかったような気がした。もちろん、それはこの記事を額面どおり受け取った解釈で、本当は自分だけで利益を独占したいだけだろ、みたいな解釈をする人は当然いるだろうけど、議論を拡散させないために、ここではあえて額面通り受け取ることにする。

 ただ、その手段として、著作権侵害を主張することが妥当であるかどうかは、やっぱり別の話だと思う。それだったらまず、「あなたがたは私の意図を間違って伝えていますよ」ということを伝えて、訂正を依頼したほうがよかったのではないだろうか。もちろん、それはあくまで依頼であって法的な強制力があるわけではないから、相手が無視すればそれまでだが。

 でも、法的な強制力がなくてもできる、もっと現実的な方法だっていろいろあるはずで、たとえば、「岡田式レコーディング・ダイエット認定証」みたいなものを勝手に作って発行してしまうという手もある。この方法なら、公権力や相手の協力がなくても自分だけの責任で行え、なおかつ、相手が自分の考えを意図通り伝えているかどうかを明確にアピールできると思うのだが、いかがであろうか(^^)。

 もちろん、これはぼくの独創でもなんでもなくて、フランスのワインとか松坂牛とかでもさんざんやっている使い古された方法にすぎないから、岡田さんともあろう人が、それに気づいていないとも思えない。ぼくがこの事件に一番違和感を感じるのもそこで、きわどいパクリや便乗商品の歴史などさんざん知り尽くしているはずの岡田さんが、まるで「純粋まっすぐ君」のような主張をしていることである。だからやっぱり、体重が減ると思考回路にも影響があるのかしら、なんて思ったりもしてしまうのだが(^^)。

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Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms

Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms  「夕凪の街桜の国」がいつの間にか英訳されていたんですね。英題は「Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms」。そのまんま、という感じですが(^^)。

 書評などでもなかなか好評なようです。

ざっと読んでみたけど、みんなわりとこの作品のポイントをわかってくれてるみたいで安心しました(^^)。

 映画のほうはまだ未見ですが、どうでしょうか。あの絵の美しさをどう実写に置き換えるかがポイントなんでしょうけど。

(吉永さんのコメントはちょっとはずしてませんか? 失礼ですが、たぶん原作読んでないんじゃないかなあ? 少なくとも、読んでからコメントした方がいいよね。読んでこのコメントだったら、ちょっと感性を疑うというか、上記のアメリカ人たちに比べても読解力がないと思ってしまうなあ。このコメントを掲載した人はそう思わなかったのだろうか。。。(^^)

 上で紹介した David Welsh 氏も書いております(^^)。

The incalculable individual cost of the bombing of Hiroshima has been handled in drama and documentary, and one can’t argue that the act of examining that kind of horror is automatically a virtuous or courageous act. The critical element is any given work’s ability to move its audience.

 どんな芸術を鑑賞しても、ステロタイプな政治的なインプリケーションしか読み取れないのでは、芸術家として失格じゃないですか? とか言われちゃうぞ~(^^)。)

(追記: 舞台挨拶でも吉永さんのコメントを読み上げたらしいけど、真面目な話、あんまり反戦映画みたいな宣伝をしない方がいいと思うぞ。そもそも、そんな大雑把な表現はこの作品に対する冒涜でしかないし、こんな繊細な世界を作り上げた作者に対しても失礼だし。営業面でいったって、反戦映画なら見ようという人と、反戦映画ならいいやと思う人とどっちが多いかも微妙だろうし。だいたい、反戦映画なら見ようなどという人は、真にこの映画を観るべき人ではない。むしろ、そういう余計な先入観のない人や、先入観にとらわれない知的誠実さや柔軟な感性を持った人こそが見るべき映画なのに。)

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レコーディング用語事典

レコーディング用語事典―Sound & recording magazine presents 仕事の資料として「レコーディング用語事典―Sound & recording magazine presents」 というのを買ったが、仕事柄この手の用語集を大量に所有しているぼくの眼から見てもなかなかよい本である。

 まず、職業柄最も特筆したいのは、英文索引がついてること。日本の用語事典類には、これがついていないものが意外と多い。店頭でなら立ち読みできるから買う前に確認できるが、通販だとわからないので、一か八か買ってみてがっかりすること多し。

 また、「ハンディ版」と書いてあるように、本のサイズは小さいのに、活字が小さくて意外と収録語数が多い。概算で 1000 語ぐらいは載ってるのではないだろうか。サイズは、日本の新書よりは微妙に大きく、オライリーの「Poket Reference」というシリーズよりは少しだけ小さいぐらいなので、本棚でも場所をとらない。

 最後に、定価が安い。なんと 800 円。ぼくは、これの何倍もの値段で、これの何倍も内容の薄い本をたくさん買った経験があるので、これは特筆しておきたい。

 ちなみに、「サウンド&レコーディングマガジン」というのは、ぼくが学生だったうん十年前に毎月のように買っていた雑誌の一つ。そのころは DTM がやりたくてしかたがなかったのだが、機材が高くてロクなシステムが組めなかった。今は逆に、機材は買えるようになったが、買った機材をいじるヒマがない(^^)。 人生とはままならないものだ(^^)。

サラウンド入門 - その歴史、鑑賞方法から制作までサラウンドのすべて [Nowbooks4]  だから、この本もきっと、そういうびんぼーな音楽好きのために意識的に安く価格設定してあるんじゃないかと思う(^^)。がんばれ、リットーミュージック!

  これと一緒に買ったのが「サラウンド入門」。ドルビーとか DTS とか 5.1ch とか 7.1ch とかややこしくなってきた「サラウンド」について、どんなバカでもわかるんじゃないかと思うぐらい丁寧に書いてあってなかなかよい(^^)。ただ、唯一の欠点は、上記の本とは逆に、索引がついてないこと。いまどき DTP だったら索引つけるぐらい簡単なんだから、索引ぐらいつけようよ。それだけで使い勝手は全然違うんだからさ。

 わ~ら~って~ご~ら~んよ~、あ~る~いて~ご~ら~んよ~、み~ぎ~から、ひ~だりから~、さ~そ~われ~るさら~うんど~。

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もういまはいないぼくへ

 アイドル海川ひとみさんが「ハッスル」でプロレスをやっているビデオを発見。

 まあ、正直言って、キャットファイトを見るときのような、スケベな好奇心半分で見始めたわけなんですが (^^)、予想に反して、見てるうちにイライラしてきて、最後まで観るのがつらかった。

 と言っても、女の子を慰み者にして、なおかつそれを見世物にするのはよくないとか、そういうイイ子ちゃんブリっ子なことが言いたいわけではなくて (^^)、そもそも、こういう芝居にもはやまったく感情移入できない自分というのを発見してしまったのだ。

 つまり、海川とか眞鍋とかが本気で怒って、アナウンサーとかもそれに同調しているのを聞いていても、「えー、だって海川だって売れないアイドルの自分が少しでも名前を売りたいからわざわざプロレスの試合なんかに出たわけだろうし、ハッスルのほうだって話題性があるから出しただけでしょ? 眞鍋だってそれ知ってるくせに、なんで本気で怒ってるフリしてんの?」みたいな、そーゆー感想しか出てこないんだよね (^^)。

 でも、考えてみたら、子供の頃猪木とか馬場を見てた自分はそうじゃなかった。タイガー・ジェット・シンアブドーラ・ザ・ブッチャーは本当にルールを守らない悪い奴だなあと思っていたし、ベビーフェイスである猪木や馬場が、出せば反則をするのをわかっていながら、自分を引き立てるために、わざわざ彼等を呼んでいるなんてことにも、まったく思いがいたらなかった。それで、善玉が悪玉に勝つというドラマを、けっこう喜んで見てたんだよね。

(まあ、立花隆さんのような頭のいい人から見れば、ああいうものを楽しめるのは、頭の悪い証拠(注:出典が見あたらないので、正確な引用ではありません。二次引用は避けてください)なのだそうですが。。。(^^))

 まあ、そんなことはどうでもいいんだけど、ぼくがちょっと考えてしまったのは、こういう感受性の変化というのは、時代の変化のせいなのか、それとも、自分個人の成熟(老化と言うべきかもしれないが)なのか、ということなんだよね。 

 もちろん、「ハッスル」の興行が成立しているということは、これを楽しんでみている人も一定数いるということなんだろうけど、その人たちはいったいどういう見方をしているのか、というのがぼくにはよくわからないわけ。

 ぼくにも、かなり熱狂的なプロレスファンの友人がいるので、彼らが単純にそういう芝居に騙されている知性の低い人たちではなくて、むしろ、相当知性がないとできないような二重三重にひねくれた鑑賞の仕方をして楽しんでいる、ということはよく知っているつもりだが、彼らにとって、あれは「あり」なのか「なし」なのか、今度会ったら聞いてみたい。

(ひょっとしたら、あのどう見ても勝ち目のなさそうな海川が無理矢理勝ってしまう、というのが、プロレスとしては正統派の展開であって、負けてしまうのは邪道である、というような見方をするのかも。。。(^^))

 一方で、北田暁大さんが言うように、現代がどんどんベタなものを嫌う方向に向かっているのも確かなので、自分がああいうベタな芝居にはついていけなくなっているのはそのせいではないか、という気もするのである。

 ぼくがこのビデオを見てると、どうしても、「だって自分最初から出たくてでてるやん」「出れば負けるのわかってるやん」見たいな(浜ちゃんの)ツッコミの声が、どこかから幻聴のように聞こえてきてしまうんだよね (^^)。こういう芝居は、そういうツッコミ付きで見ないと、なんだか気持ち悪くて仕方がない。

 繰り返すが、それは感性が老化したせいなのか、それとも、正しい鑑賞の仕方がわかっていないせいなのか、それとも、やっぱりあれに感情移入しろということ自体に最初から無理があるのか、ぼくにはよくわからないのである。今後の研究課題としたい (^^)。

おまけ

 今のと微妙に関係があるようなないような話だが、サイゾー 4 月号の山形道場に「人類の大規模な宇宙進出はありえない」という原稿が載っていて、正直かなり意表をつかれた。(でも、意表をつかれたということは、すでに半分ぐらいその主張に説得されかけているということなんだよね。)

 山形さんは、「ポスト・ヒューマン誕生」という本を読んだ感想として書いているので、この文だけでは正確な真意はわからないのだが、読んでわかる範囲だと、1.人類の人口がこのまま増え続けるということはない。いずれ頭打ちになる、2.地球の環境も、多くの人が地球を捨てたくなるほど悪くなりそうもない、というような理由らしい。 (これは、そう「悟った」山形さん自身にも多少意外なことであったらしく、最後は「つまんないの。」と結んでいる (^^)。)

 前にも書いたけど、ぼくら子供の頃に「未知との遭遇 」 とか「E.T.」とか観ちゃった世代だし、その頃は、カール・セーガンみたいな学者までが、宇宙人のいる可能性について真面目に議論して SETI だのドレークの式だの言ってわけだからね。だから、ぼくらも、そういうのに影響を受けすぎている可能性はあって、一歩引いてみると、なんでそんなことを信じこんだりしたんだろう、という気もしないでもない (^^)。

 でも、やっぱり「宇宙人」がいるかどうかで、かなり結論は違ってくるような気がするんだけどなあ。もっとも、最近は、宇宙にいる知的生命は人間だけのようだ、というような議論もちらほらされているみたいだからなあ。つまんないの (^^)。

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佐藤信夫再読

レトリック感覚 思うところあって、故佐藤信夫氏の「レトリック感覚」「レトリック認識」「わざとらしさのレトリック 」「レトリックの記号論」を再読。なぜこの四冊かというと、たまたま以前からウチの本棚にあったからである。最初に買った「レトリック感覚」は講談社文庫版で、奥付を見ると「昭和 61 年 3 月 15 日の第一刷」となっている。だから、最初に読んだのはかれこれ 20 年も前だということになる。

 そんなわけで、20 年ぶりの再読だったわけだが、改めて名著だと再認識した。もちろん、当時読んだときもよい本だと思ったのだが、今になってみると、当時はまだまだ全然ちゃんと読めてなかったなあと感じるところが多々ある。

 特に感じたのは、佐藤氏のレトリック論は、実はきわめてポストモダン的だったんだなあということである。まあ、佐藤氏はバルトの「モードの体系」などを訳した人でもあるのだから、ポストモダンの影響を受けているのは、ある意味当たり前といえば当たり前なのだが、当時のぼくは、まったくそういうふうに捉えていなかったのだ。

 これは、ぼくが幼くてそういう論壇の事情などといったものに疎かったということもあるが、佐藤氏自身の文章のスタイルが、そういうことを匂わせなかったことも大きい。実際、佐藤氏の持つ学識からすれば、バルトその他を引用したり、デノテーション、コノテーション、ディスクールなどといったポストモダン/ニューアカ・ジャーゴンをちりばめたりして読者を煙に巻くといったことは、いとも容易だったはずである。

 にもかかわらず、佐藤氏は、用語系も伝統的な修辞学のものを踏襲し、表現もできるだけ平易なものを使い、考え方としてのみ、ポストモダン的なエッセンスをもりこむようにしている。「記号論」所収の「金で買えると言う意味」などというエッセイもそうで、ここでも佐藤氏は、お金を記号とみなすという、当時流行のソシュールの主張を紹介しつつも、それとは一線を画す独自の論を張っている。

レトリック認識 佐藤氏がそのようなスタイルをとらなかった理由が、学者としての美学なのか処世術なのかは定かでないが、そのおかげで、この本は、ぼくのようなど素人でも気軽に読めるような間口の広さと、20 年たっても古びない普遍性を持つことができたことは間違いないだろう。

 だから、このような本を読んでつくづく感じるのは、たとえモダンであろうとポストモダンであろうと、単に流行にのって踊っていただけではなく、佐藤氏のように自分の頭できちんとものを考えていた人の仕事は、やっぱり時代を超えて残るのだなあということである。

  ぼくは普段、ポストモダン的な思想に対して批判的であることが多いが、その態度は、世代的な経験からくるところが大きい。ぼくらの世代は、10 代の多感な時期にニューアカ/ポストモダン・ブームを経験し、20 代でオウム事件や「ゴー宣」ブームを経験した、つまり、ポストモダンから入ってモダンに回帰した世代である。

 そのため、ポストモダン的なものに対しては、いい意味でも悪い意味でも思い入れが強すぎるところがあって、実は他のどの世代よりもポストモダンの影響を強く受けているくせに、単に「モダンはダメダメ」とか言うだけで、何の対案も示せないような人たちには、反射的に反発してしまう傾向があるのだ。

(ちなみに、これはぼくと同年代の思想家・評論家の多くに共通する特徴でもあると思う。ご本人にとっては不本意かもしれないから、名前を挙げるのはやめておくが)。

レトリックの記号論 しかし、素直になってよく思い返してみれば、ポストモダン的な仕事の中にも、佐藤氏の仕事のように、単にモダンを否定するなどというレベルを超えた、ぼくらの思考の血肉となって残ったものもたくさんあったはずなのである。そういう意味で、ぼくは、誰かさんのように、「80 年代はカスだった」というふうに切り捨てる気には、必ずしもなれない。

 最近の若い子を見ると、そういうポストモダン的な素養がほとんどなくて、単にベタにモダンな人が多いように見えて、それはそれで問題だなあという気もするのである。その一方で、ポストモダンの劣化コピーみたいなスピリチュアルなんちゃらとかオカルトとかに惹かれる人も多いようで、なんか両極端に二分されてるような印象がある。これは、前の世代に対する過剰な順応と反発の現われなのかもしれないけれど。

 まあ、若者なんていつの時代もそうかもしれなくて、ポストモダン・ブームにはまっていたころのぼくらだって、年長世代から見たら、きっとすごく危うく見えたに違いないんだよね (^^)。だからまあ、これはそれこそ、坂道で踏むブレーキみたいなもので、大多数の若い子には無視されることを覚悟で言っているわけだけど、そういう若い子には、こういう良質なポストモダンの成果というものを、少し味わってみてほしいなあと、最近ちょっと思うようになってきたのだ (^^)。

 ちなみに、「感覚」と「認識」は、レトリック全般について体系的にのべた本で、「わざとらしさ」はレトリックを多用する作家数人についての作家論、「記号論」はすこしくだけたエッセイ集(と言っても、作家の書くエッセイよりはもちろん理論的だが)という感じ。だから、言葉の仕事に関わる人は、「感覚」と「認識」だけでも読んでおくといいんじゃないかな。

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インテリジェンス 武器なき戦争

インテリジェンス 武器なき戦争インテリジェンス 武器なき戦争」手嶋 龍一、佐藤 優

 えーと、この本は、要するに、テッシーとラスプーチンの二人が男同士気持ち悪く褒めあってる本です。じゃなかった、要するに、「インテリジェンス」の本ですね。ですから、そりゃあもううんざりするくらいにインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスインテリジェンスって書いてあります (^^)。

 と言っても、それほど体系的に解説してあるわけではなくて、実例を通してなんとなくインテリジェンスというものがわかるようになっている、という感じですけど、ぼくみたいな素人にとっては、その実例だけでも結構面白いんですよね。

 たとえば、大韓航空機事件の直後に後藤田さんのやった情報操作はインテリジェンスとしてダメダメだとか、北朝鮮のミサイル発射を官邸は事前に予知していたなんてつまんねえうそつくんじゃねーよばーか、みたいな話とか (^^)。

(ロシアの女性は週 16 回がノルマ、とかいう話もあったなあ (^^))

 さらに、そういうエピソードを通じて、日本のインテリジェンスのどこに問題があるかも、なんとなくわかるような仕掛けになっていますね。

 でも、具体的なインテリジェンスの技術については、ほとんど何も書いてないんですよね。佐藤さんなんか、「秘密情報の 98% は公開情報を整理することがら得られるという」とか書いてるんだけど、実際にこの本に出てる例は、情報源とコネがあってそこから漏れてきた、みたいな話ばっかりなんだよね (^^)。

 ぼくなんか何か自分の仕事に役立つようなこと載ってないかな、みたいなスケベ心もあったんだけど、そういう意味ではあまり役にたつ感じはしませんでした。まあ、そう簡単に教えられる話でもないんでしょうが。でも、ヒントぐらいはあったかな。あったということにしておこう。でないとアホだと思われるかもしれん (^^)。

 ところで、この本に載ってる「X55」の話って、結構重大な問題じゃないですか? なんで世間ではたいして話題になってないんでしょう。え、それこそがインテリジェンスじゃないか、空気読めって? す、すびばせん<m(__)m>。

 まあでも、このお二人の本はなかなか面白そうなので、もうちょっと他の本も読んでみよぉっと。

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ぷれじでんとふぁみりぃ?

 うー、さっきコンビニで「プレジデント Family」とかいう雑誌を見てドン引きしてしまった。思わず「ぷれじでんとふぁみりぃ?」って声を出してつぶやいちゃいましたよ (^^)。いや、題名だけで、中身はまったく読んでないんですけどね。「TBS「報道テロ」全記録 」を見つけたときの三倍ぐらい引いた (^^)。やはり、言葉の表現というのは大事かもしれない (^^)。

 なんかでも、コンビニだけで情報収集してると、とんでもなく片寄った思想が形成される可能性もあるような気がしてきた (^^)。

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うぇぶせれぶ 25

 あの Forbes 誌が、「Web Celeb 25」、つまり、ウェブ上で影響力のある有名人ベスト 25 人を発表。日本じゃよくネット・アイドルとか言うけど、ウェブ・セレブというのは初めて聞く言葉ですね。でも、正直知らない人ばっかりです (^^)。トップの女の子は the girl next door という感じでちょっと可愛いですね(あ、この子が YouTube で有名な lonlygirl15 か。噂には聞いてたけど初めて見た (^^))。これから、どんな方々なのか研究してみようと思います (^^)。

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もっといい Drupal 本はないのかよお

Drupal: Creating Blogs, Forums, Portals, And Community Websites  前に書いたように、新しく契約したホスティング・サービスはかなりハイスペックで、やたらといろんな CMS(Content Management System の略)をインストールできるようになっていました。ちなみに、名前を挙げると、

DragonflyCivicSpaceDrupal E107GeeklogJetboxJoomlaMamboPHPNukePostNukeTypo3XoopsphpWebSite

という感じ。このへんはいわゆる純粋な CMS ですが、他にもブログ系が WordPress を含む 8 種類、グループウェア系が eGroupWare を含む 4 種類、Wiki 系が MediaWiki を含む 3 種類という感じで、とにかくてんこ盛りに入っています。

 もっとも、こういうシステムはみんなオープンソースで、かつ、Linux、Apache、MySQL、PHP の組み合わせで動く、いわゆる LAMP というやつなので、実際には、LinuxApacheMySQLPHP が使える環境さえあれば、誰でも無料で利用できるんですけどね (^^)。

 でも、実際に自分でインストールするのは結構面倒くさいし、いろいろトラブったりすることも多いので、自動でセッティングできるのはやはり便利には違いありません。

(話はそれますが、中小企業や SOHO レベルのウェブサイト構築だったら、たぶん、このへんのシステムを組み合わせれば楽勝でいけますよね。だから、MS 系のサーバーとか導入するのは損だと思うぞ~、なんつったりして (^^))

 というわけで、いろんな CMS を片っ端から試した結果、とりあえず Drupal が一番面白そうに見えたので(Joomla というのもなかなかよさそうだけど、残念ながらインストールに失敗しました。こういうことがあるから、このホスティング・サービスもいまいちお勧めしきれないんですよね。会社の名前を出していないのはそのためです。)、Drupal を使ってサイトを再構築してみることにしたんですが、付属のヘルプやオンラインのハンドプックを読んでもいまいち仕組みよくわかりません。そこで、Packt 社のウェブサイトから電子書籍で入手できる Drupal: Creating Blogs, Forums, Portals, And Community Websites という本を購入してみたんですね。

 でも、読んでみてがっかり。だって、Drupal の肝と言うべき taxonomy の説明がたった 1 章だけで、しかも、vocabulary や term を追加する方法は書いてあるけど、特定の term の story だけを表示するノードが「?q=taxonomy/term/1/」とかになることすら書いてないんですよ。それじゃ意味ないでしょ (^^)。初心者向けにしても、玄関から入口の土間に入ったぐらいで終わってる感じ。なんでこんな本が Amazon.com で星4つになってるのか、さっぱり理解できません。

 しかも、そんなこと言ってるうちに Drupal 5.0 が出ちゃったから、すでに内容古くなってるし。金返せ~(^^)。

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ダウンタウンの「擬似ヤラセ」に見る「演技する精神」

 山崎正和氏の「演技する精神」を久しぶりに読み返していたら、この本の理論を援用して、ダウンタウンの「擬似ヤラセ」の面白さがうまく説明できることに気づいた。(われながらいったいどういう連想回路をしているのかと思うが…(^^))

 「擬似ヤラセ」というのは、ダウンタウンがよくやるある種の企画に対して、ぼくが勝手につけた名前で、「ガキの使いやあらへんで」という番組の「板尾が来た」というシリーズがその代表例である。この企画について、番組を観た事のない人のために簡単に説明すると、こんな感じである。

ダウンタウンとスタッフが楽屋で打ち合わせをしていると(外でロケをしていると、etc.)、板尾創路が予告もなくやってきて、新しい企画を考えたから(偶然カメラに映ったから、etc.)金をくれと言い出す。 あまりに理不尽な言い分なのでダウンタウンとスタッフは抵抗するが、板尾のごり押しに負けて、しぶしぶ金を払ってしまう。

 こういうのを完全にドキュメンタリー調でやるのだが、板尾が貧乏で金に汚い人間だという設定はもちろんウソである。この映像がもし、本当に板尾が貧乏で金に汚い人間だということを信じさせようとして作っているのならヤラセそのものだが、この企画の場合、話が大袈裟すぎたり不自然すぎたりして、視聴者は観ているうちにこれはウソだと気づくような仕掛けになっている。

 つまり、普通のヤラセが、ウソを信じさせるとい目的のために作られた映像だとすれば、この「擬似ヤラセ」は、ウソを信じさせるとい目的をカッコに入れて、映像の作り方だけを忠実にマネた模倣なのである。

 さて、山崎理論によれば、模倣というのは、行動の目的をカッコに入れることによって、見るものの注意を行動の目的から過程に移す効果があるという。

 この擬似ヤラセを見た視聴者も、それがウソだと気づいた時点で、この映像が語ろうとする「目的」から映像そのものへと、強制的に注意を向けさせられることになる。そして、怖ろしいことに気づかされることになるのだ。

 この企画の映像はいかにもウソっぽい映像だが、よく考えてみると、板尾がスタジオやロケ地に来てそういう行動をとったということ自体はウソでもなんでもない。「本当」の映像との違いは、板尾が現実的な要請に基づいて自発的に行動をしているか、事前に打ち合わせをした上でその通りに行動しているかだけにすぎない。しかも、番組の中では、打ち合わせのシーンを流すわけでもなけでば、「板尾は金に困っています」というテロップやナレーションが入るわけでもなく(最近はテロップを入れることもあるようだ。無粋なことである)、板尾の行動を淡々と流しているだけである。ということは、実は、

 あの映像自体はウソでもなんでもなく、まごうことなき真実なのである!

 お気づきの通り、この構造は、印象操作を行うために編集されたニュース映像などとまったく同じである。つまり、この擬似ヤラセは、テレビ映像というものの本質的な欺瞞性を、凡百のメディア論なんかよりはるかに鮮やかに暴いてしまっているのである。これが、この企画のアイデアが第一にすごい点である。

 さらに、このアイデアにはもう一つの効果がある。この企画を、擬似ヤラセではなく、純粋なフィクションとしてやったときのことを想像してほしい。板尾が貧乏なタレントの役、ダウンタウンが冠番組を持っている売れっ子タレントの役をやっているコントだと考えてみるのだ。

 我々がフィクションを観るときには、たとえコントであっても、登場人物に感情移入して観ようとするものだ。したがって、板尾が貧乏だという設定はフィクションだとわかっていても、「もし板尾が本当に貧乏だとしたら」という仮定のもとで観ることになるだろう。そうすると、貧乏人が必死でやっていることを笑いものにしていいのかとか、ダウンタウンは売れてるからって傲慢じゃないのかとかいう、余計な想念が湧き上がってきて、素直に笑えないに違いない。

 しかし、この擬似ヤラセの場合、視聴者はそれがウソだと気づいた時点で(松ちゃんが「ガキの使い」のトークで激怒していたように、本気にしてしまう視聴者もいるようだが)、「板尾が貧乏かどうか」という問い自体が無意味になり、板尾が貧乏だとは仮定としてですらも思えなくなるのだ。その結果、登場人物の行動だけに注意が集中するようになり、追いつめられた人間の行動のおかしさ、みたいなものを純粋に笑えるようになるのである。前に書いた、「ウソなんだけど、本当よりも真実を語ってしまう」というのはそういうことである。

 余談になるが、ぼくがダウンタウンのこの手の擬似ヤラセ企画を観たのは、かれこれ十年も前にやっていた「ごっつええ感じ」という番組が最初である。ちょうどまだ「電波少年」などもやっていた頃で、猿岩石のヤラセ疑惑などが話題になっていた時期でもあった。したがって、その企画を見たとき、なんとすごい発想かと思い、松本人志という人はまごうことなき天才であると確信したのであるが、そのころはまだ、何がすごいかを理屈で説明することはできなかった。それを十年以上たってやっと理論化できたので、余は満足である (^^)。

 もっとも、松本人志という人の頭の中には、このような高度なお笑い方程式がまだまだたくさん隠されていると思う。ぼくか松ちゃんのどちらかが死ぬまでの間に、なんとかその全貌を明らかにしたいというのがぼくの密かな野望である (^^)。(なお、文中の敬称を一部略させていただきました。)

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田中圭一初体験

 久しぶりにコンビニで「サイゾー」を買ってしまう。いつの間にか爆笑問題の連載がなくなっていてガッカリ。この連載がないと、この雑誌もかなり魅力が減ることを再認識。M2 もこの号で連載終了とか。この二人、ほんとうに仲いいんだろうか。どうもお互いに戦略的な思惑で結びついているだけ、という気がしないでもないのですが、まあ実はそういうのはたいして興味ないからどうでもいいっす (^^)。特集はジャニーズと天皇制だけど、どっちもたいして興味なし (^^)。もっとも、キムタクだけはなんだかんだ言ってカッコいいよなー、と見るたび思ってしまうんだよね (^^)。山形道場は本人も一枚かんでいる著作権延長の話。

 というわけで、今回買ってよかったと思ったのは、噂に聞く田中圭一氏のマンガを初めて読めたこと。いや~、ほんと手塚さんそっくりだね~。こりゃ夏目さんも真っ青だね。いや、夏目さんだったら、「これは丸ペンを使っていたころの初期の手塚の絵ではなく、かぶらペンに変えてからの後期の手塚である」とかなんとか言うのかな (^^)。「夏目の目」でやってほしいですね (^^)。

 まあでも、こういう人が出てきたのは、ある意味、手塚時代が終わった証拠かもしれないですね。昔のマンガ家は多かれ少なかれみんな手塚さんの影響を受けていたから、その頃に手塚さんのマネをしたとしても、何のインパクトもなかったでしょうからね。こうやって手塚調というのを一つの様式美として受け取れるというのも、没後ある程度時間がたって、それだけ手塚治虫を相対化して見れるようになったせいなのでしょう。

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谷川俊太郎が聞く、武満徹の素顔

 「谷川俊太郎が聞く、武満徹の素顔」を購入。坂本教授のインタビューが載っているという話を聞いて購入したのですが、全体としてもいい本でした。

 武満徹という音楽家は、すでに神格化されてしまっているので、批評もやたら持ち上げる批評が多いのですが、このインタビュー集は、生前の武満さんの友人でもある谷川さんが聴き手であるにもかかわらず、武満さんを一方的に持ち上げるだけではない、いろんな人の率直な意見が聞けています。そこがすごくよいですね。

 前書きを読んでみると、武満徹全集の付録として行われたインタビューがもとになっているらしいですね。ぼくは全集を買ってないので知らなかったのですが (^^)。全集というのは主役を持ち上げがちですから、そう考えるとなおさら優れた企画だったと思うし、谷川さんの聞き方もうまかったんだろうなあと思います。

 教授はいつもそうですが、いろんなこと配慮しつつも嘘のない率直な物言いをしていて、武満徹の音楽は百年後も残るだろうとか、でも武満作のポップスは少し「甘い」とか、まったく同感だなあと思いました。高橋悠治さんのインタビューも、「音楽より人が好きだった」と批判的なところはありつつも愛情が感じられていい感じです。 小澤征爾さんのインタビューは、武満さんの海外進出時の事情が垣間見えて面白いし、娘さんの真樹さんインタビューは、家族だからこそ言えるいろんな欠点なども率直に語っていて微笑ましいです。

 個人的には、前に紹介した「武満徹-没後 10 年、鳴り響く音楽」 よりずっと面白かったですね。

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高橋悠治と安倍晋三の共通点とは

 Amazon で高橋悠治さんの「クセナキス:ピアノ作品集(紙ジャケット仕様)」の「関連商品」を見ていたら、最後の最後に、安倍晋三さんの「美しい国」が出てきたので、思いっきりズッコケてしまった。。。

 高橋悠治と安倍晋三にいったいどんな接点があんのよ? と思って Google で検索してみたら、「9 月 21 日が誕生日の人」だって (^^)。

 まあ、世の中には、批判目的で本を買う人もいるからなあ。ぼくはぜったいそんな面倒くさいことしないけど (^^)。だからこそ、読みたくもないつまらない本を心ならずも読まされてしまったときには、怒りのレビューを書いてしまったりもするわけですが。。。

 もっとも、つまらない本ならつまらないなりに 5 分で読み飛ばしてきっちり一行コメントを言う、みたいな人の方が、ホントは出世するんだよね (^^)。そういう才能を持って生まれたかったという気もしないでもないような気もしないでもないような、まあ、たいしてどうでもいいか (^^)。 

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西洋音楽史―「クラシック」の黄昏

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 「西洋音楽史―「クラシック」の黄昏」岡田暁生著

 この本の特長は、著者自身が前書きで書いている通りです。つまり、バロックから印象派、バッハからドビュッシーまでが「クラシック」だと思っている、いわゆる「ふつーのクラシックファン」を対象として、「クラシック」の歴史については時代性や地域性によって相対化し、その前後の歴史については、「クラシック」との関連付けによって語った本です。そのもくろみは完全に成功していて、私程度の「ふつーのクラシックファン」にとって、極めて読みやすい本になっています。

 たとえば、バロック時代の音楽界をカトリック文化圏とプロテスタント文化圏に分けることによってバッハを反主流派に位置づけたり、古典派とロマン派の違いをフランス革命以後の社会の大衆化と結びつけたり、印象派とマーラー・シェーンベルクとの違いをフランス音楽とドイツ音楽の違いとして整理したりするところなんかは、音楽史を音楽だけの歴史としてとらえてきた人にとっては新鮮なんじゃないでしょうか。

 バロック以前の音楽についても、当初はグレゴリオ聖歌をアレンジするための副旋律にすぎなかったものが、だんだん副旋律の方がメインになっていって、グレゴリオ聖歌の方は単なる「口実」として申し訳程度になっていく、という過程の説明などはたいへん興味深いです。

 現代音楽については、いわゆる「ゲンダイオンガク」だけを西洋音楽の正統な継承者としてとらえるのではなく、前衛的なゲンダイオンガク、古典的なクラッシック、アングロサクソン系のポップスという 3 つの流れをまとめて西洋音楽の末裔ととらえるべきであると主張していて、これもうなずけます。

 もちろん、この本のアプローチはあくまで一つの方法にすぎず、特に細かい楽理のことなんかについては柴田南雄さんの「西洋音楽史―印象派以後」ような音楽家の方が書かれた本の方が面白いと思いますが、西洋音楽史の入門書としては、多くの方に勧められる本じゃないでしょうか。

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プラネットアースといやいやえん

アトランティス  一部で評判らしい「プラネット・アース」を今日初めて見ましたが、いいですね。コンセプト的には、リュック・ベッソンの「アトランティス」みたいな感じかな。従来型のテレビ・ドキュメンタリーというのは、基本的に事実の希求力に依存していて、映像の美しさとかはつけたしなんだけど、この作品では、映像美の方に主眼があるのね。だから、映像のクオリティとか、どういうカットをどんな順番でつなぐかとかに、すごく神経を使っている。

 そのカットのつなぎ方も、論理的なつなぎ方じゃないのね。一般的なドキュメンタリーは、説明したい事実が先にあって、その事実を説明するためにはどういうふうにカットをつなげばよいか、という発想で作られるので、カットのつなぎ方も論理的・説明的になる。でもこの作品では、もっと感覚的なつなぎ方をしている。今回は一応「草原」というのが基本テーマになっているんだけど、それも「草つながり」という感じのゆるい枠組みでしかない。

 まあこういう現象は、ドキュメンタリーだけのことじゃないかもしれないですね。フィクションの娯楽映画の世界でも、昔は論理的にカットを構成していくのが普通だったのを、もっと生理的・感覚的な次元で構成して成功したのが宮崎駿とかリュック・ベッソンとかいう人たちだったわけで、そういう現象とある意味パラレルなのかもしれないです。

いやいやえん―童話  今回で一番印象的だったのは、やっぱりゾウ対ライオンの対決ですね (^^)。ぼくはこれを観て、「ぐりとぐら」で有名な中川李枝子さんの「いやいやえん」という絵本を思いだしてしまいました。この絵本の中に、子供たちが積み木で船をつくってくじらとりに行く、というエピソードがあるんだけど、船が完成したときに、船の名前をどうするかで喧嘩になっちゃうの。動物の中で一番強いのはゾウだから「ゾウ」という名前がいい、という子供と、いやライオンの方が強いから「ライオン」がいいという子供の間で。それで結局「ぞうとらいおん丸」とかいう名前になるんです (^^)。

 子供の頃はなんとなく、ライオンの方が肉食だから強いんだろうと思っていたんだけど、やっぱり一対一だとゾウに勝てないんだね。まあ、何トンもあるゾウの体重を支えている足で「ゾウキック」とかされたら痛そうだもんね。ストンピングとかされた日にゃ、内臓破裂で即死だろうし (^^)。

(そういう長年の疑問を解決してくれたシーンですが、撮影するのは大変だったらしいです。ライオンがゾウを狙うのは、夜中に水場に来たときなんだけど、灯りがあるところには近寄ってこない。そこで、赤外線ライトを照明にして赤外線カメラで撮影する。赤外線は動物だけでなく人間にも見えないから、撮影する方もモニター越しでないと真っ暗闇で何にも見えない状態。その状態でライオンがうろつきまわる中をじっと待ち続けるわけですね。決定的瞬間を捉えるまでには1年以上かかったとか。)

(あと、リュック・ベッソンの「アトランティス」を観る方は、ある程度大きな画面のディスプレイで見ることをお勧めします。ぼくも最初映画館で見たときは結構感動したんですが、後でレンタルビデオで見直したときはぜんぜんよくなくて、なんでだろうと考えていて気づいたんですけど、15 インチぐらいのちっちゃい画面で観てたせいなんですね。だからこれはもともとそういう映画なんです。)

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エロコト

エロコト 2006年 11月号 [雑誌]  坂本龍一編集、「エロい女は、その存在そのものがエコである。」がキャッチフレーズの「エロコト」という雑誌をコンビニの女性誌のコーナーで発見。中を見ると、大人のオモチャの写真とかもバンバン載ってんだけど、成人雑誌コーナーじゃなくていいんだろうか (^^)。

 これからの世の中は、エロスがもっと積極的に表現されるだろうし、されるべきだ、ということは、ぼくも前から思ってたし、このブログのどっかにも書いたはずなので、問題意識としては近いかもしれない。と言っても、今さら性の解放とかタブーの消滅とかフリーセックスとかそんなことを言ってるんではなくて、あくまで表現の問題なので、お間違えのないよう (^^)。

 大雑把に言うと、伝統社会というのは、どこでどのように性を表現し、どこでどのように性行為を行うべきかというのがだいたい決まっていたと思うんだよね。それが、性の解放によって、性行為も性の表現も個人の自由ということになった。その結果、本来は異性のコミニュケーションの手段だったはずの性の表現が、性行為と切り離されて独立した商品として流通するようになり、逆に、コミニュケーションとしてのエロをいつどこでどのように表現すべきかという文化とかスキルとかが失われてしまった、というのが現状だと思うの。だから、現代という時代に合ったエロスの表現を再構築しよう、ということじゃないかな。

 表現で重要なのは TPO だから、逆に、学校や職場みたいなところでは、意味もなくお色気を出さないで欲しいんですよね。特に女子高生は、むやみと短いスカートをはくのをやめてほしい。まあ、ぼく自身はあんまり女子高生とかと遭遇しない生活をしているからいいけど、男子高校生とか高校の先生とかはかわいそうだよね。ぼくが今の時代に高校生だったら、絶対欲求不満でおかしくなって何かよからぬことをしてたと思うんだけど (^^)。

(なんか、そういうときの説教も偽善的で、自分は興味ないけどはしたないからやめなさいとか、逆に、自分は本当は見たいんだけど規則だからやめなさいとか言ったりするでしょ。そうじゃなくて、男はみんなスケベで劣情を催してしまうからやめなさい、って素直に言えばいいと思うんだよね。それが一番合理的かつ説得的な説明でしょう (^^)。)

 でも、この雑誌を作ってる人たちが、そこまで自覚的なのかどうかはよくわかんないですね。性行為を奨励してんのか、性の表現を奨励してるのかも不分明だし。単に、「ソトコト」を読むようなマジメっぽい子たちをもっとスケベにしよう、というあざとい陰謀のような気もしないでもない (^^)。

 しかし、最近の教授はドスケベさを隠さなくなりましたね (^^)。なんかこの雑誌も、自分のドスケベさを正当化するためにやってるような気もしないでもないけど。 でもマジメな話、教授みたいにスケベな人って、案外少ないんだと思うんですよね。特に男はスケベ自慢したがるから (^^)、実態がわかりずらいところあるけど。ほんと、みんながみんな教授みたいにスケベになれると思ったら、その考えは甘いと思うぞ (^^)。

 そういう意味では、エロい表現というのは、スケベでない人にもやさしくなくちゃいけないと思うのね。でないと、単なる 60 年代的なオブセッションと変わらなくなっちゃうから (^^)。そのへんにもっと自覚的であってほしいと、個人的には思います。

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武満徹-没後 10 年、鳴り響く音楽

武満徹 「武満徹

 「KAWADE 道の手帖」というシリーズの武満特集。収録された文章の半分ぐらいが再録なので、本格的なマニアに受けるかどうかは疑問ですが、ぼく程度のファンにとっては結構面白かったです。

 珍しく武満さんの映画音楽にスポットを当てた青山真治さんと大友良英さんの対談とか、武満さんが微妙に空回りしてるのが微笑ましいデビッド・シルビアンとの対談とかが読みどころかな。佐々木敦さんや大谷能生さんなど、いわゆるクラッシック畑でない人の論考がフィーチャーされているのもなかなか興味深いです。

 高橋悠治さん(これも再録だけど)は相変わらず皮肉っぽいこと書いてますね。おそらく、この本のなかでも最も武満さんの音楽の本質に鋭く切り込んだ論評なんだろうけど、ぼくは高橋さん自身の音楽の理想がどこにあるのか、いまいちわからないので、なんとなく、実現性があるかどうかもわからない陽炎のような理想に照らして人をクサしてるような気もするんですが、どうなんでしょう (^^)。

 まあ、武満さんにしても、かつて「武満徹をぶっ殺せ」というビラを配って歩いたという坂本龍一にしても、能書きも多いけど、能書きの何倍も行動する人でもあったわけで、それこそが、ぼくが彼らを愛する点でもあるのです。

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知的ストレッチ入門

知的ストレッチ入門―すいすい読める書けるアイデアが出る 「知的ストレッチ入門」日垣隆著

 今をときめくジャーナリストの日垣隆さんが、梅棹忠夫さんの「知的生産の技術」とか、渡部昇一さんの「知的生活の方法」とかとタメはって、「21 世紀版『知的生産の技術』をめざしました(はじめに)」と言うふれこみの本なんですが、ごめんなさい。正直やや期待はずれだったかな~。まあ、ぼくは日垣氏に対しては要求水準が高いので余計そう思うのかも知れないけど。

 まず内容が少ないですよね。大きい字・スカスカの字組で 220 ページしかないのに、値段は 1300 円。文庫や新書にすればもっと薄っぺらな本になって 500 円ぐらいで買えたのでは。その上、どっかで読んだ覚えのある内容が多い。ぼくは日垣さんのメルマガを購読していて、単行本もけっこう読んでいるのでそう思うのかもしれないけど、再録とか使いまわしのネタとかがかなり多いのでしょう。ブログ論とか新聞論とか脱線も多いし。

 また、方法論としてもあまり体系的ではないですよね。日垣氏自身の仕事のノウハウを断片的にエッセイ風に紹介しているという感じで。表題になっている「知的ストレッチ」というのも、少しずつストレッチしていればいつの間にかキャパが増えているという例え話だけで、具体的にどうすればよいのかはあんまりよくわかりません。

 帯には、「この本であなたの知的生産力は 100 倍になる!」とあるんですが、大袈裟すぎません? まあ、ぼくと日垣氏の生産力に 100 倍の差があることを認めるにやぶさかではありませんが (^^)、この本のノウハウをすべて実行できたとしても、それで日垣氏の生産力に追いつけるとはとても思えません。「オレとお前の差が 100 倍? 何ふざけたこと言ってんだ。1000 倍だよ」って言われるかも知れないけど (^^)。

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「文章読本さん江」さん江

    文章読本さん江」斎藤 美奈子

    文章読本さん江 この本は、谷崎潤一郎以来の「文章読本」の歴史をカルスタ的に分析した本である。カルスタと聞くと、文化の裏側に勝手に権力や階級の影響を読み取って、そのモデルを牽強付会的に正当化するというイメージを持つ人も多いと思うが、この本もその癖から逃れていない。

     たとえば、第2章の「階層を生む装置」では、文章読本には目に見えない階層構造が隠れれているといい、本多勝一氏の「日本語の作文技術」を槍玉にあげる。斉藤氏によれば、本多読本は文章読本の「民主化」を目指しているはずなのに、実際には「文学作品 > 新聞記事 > 素人作文」というヒエラルキーが隠れているという。このこと自体、本多氏が文中で明言しているわけではなく、本多氏の引用文の傾向から斎藤氏が勝手に読み取っているに過ぎないのだが、このくだりの決め台詞を読むともっと驚く。

   

もしも田中克彦のことば通りの文章をめざすなら、本多勝一は駄文の山の投書欄から草の根をわけても「名文」を探し出し、名文が目白押しだろう高名な文章家の著書からねじり鉢巻で<ヘドの出そうな文章>を発掘してくるべきだったのだ。たとえそれが、日常の読書感覚とは食いちがうことになったとしてもね。

     はあ? って感じである。じゃあ、草野球選手向けの野球の入門書を書くときには、プロ野球選手をお手本にしたらいかんのかね? 草野球の選手の中から草の根をわけても「名選手」を探し出し、好プレーが目白押しだろうプロ野球選手のプレーからねじり鉢幕で凡プレーを発掘しないと、野球選手のヒエラルキー化に加担してることになんのかい? そんなことをしたって、斉藤美奈子みたいなひねくれ者に変なつっこみを入れられない、という以外の何の意味がある?

     斉藤氏は、印刷言語が珍重されるのは「印刷言語至上主義」のせいだと言いたいらしいが、そうだろうか。むしろ、言語を印刷して流通させるにはコストがかかるという経済原理の要請にすぎないのではないか? 本来、印刷言語だから珍重されるのではなく、いい文章だから印刷されるというだけのことだろう。印刷されているのだからいい文章に違いない、というシグナリングはその副産物にすぎない。

     また、斎藤氏は、文章読本の著者は劇場型の印刷言語にしか相手にしておらず、手紙のような対面型の文章を無視していると言いつつ、その後で、野口英世の母シカの手紙を賞賛する文章読本を揶揄している。この例自体が、文章読本は手紙文を無視しているという主張の反論になっていると思うのだが、そのことはあっさり無視である。

   

        いっぽうでは技術の必要性を口を酸っぱくしていうくせに、野口シカの手紙といい、南極観測隊員の手紙といい、なぜ技術論を根底からくつがえすような文章が賞賛されるのだろうか。(中略)誤解をおそれずにいおう。シカのつたない手紙をありがたがるのは、珍獣を愛でるのと同じ発想なのである。つまりは差別の裏返し。    

     え~? じゃあ南極観測隊員も珍獣扱いで差別されてるのかい、というつっこみはさておくとしても、これは単純に、いくら技術があっても誠意がなければダメだって言いたいだけじゃないの? じゃあ、草野球で下手だけど一生懸命プレーした子供を褒めたら、子供を差別してることになんのかい? 

     また、先ほど書いたように、斎藤氏は本多勝一氏の文章のヒエラルキー化を批判しているにもかかわらず、「素人のエッセイは片腹痛し」という主張(これも本多氏が文中で明言しているわけではなく、斎藤氏が勝手に深読みしているだけだが)にはなぜか賛同していて、アマチュアの文章修行を揶揄している。

   

アマチュアの文章マニアは、なぜ片腹痛いのか。それは彼女らが、文章界のヒエラルキーを疑うどころか無批判に受けいれて、その内部での出世をいじましく画策しているように見えるからだ。組織の論理に忠実なサラリーマン的というか、小役人的というのか、つまり貧乏くさいわけ。こういうのにちょうどいい表現があったっけな。そうそう、奴隷根性、だ。

     じゃあ、草野球の選手がプロの真似をするのも、野球界のヒエラルキーを無批判に受けいれて、その内部での出世をいじましく画策する行為なのかい。この人は、庶民によりそうようなポーズをとっているが、実は庶民文化というものを根本的に理解していないようだ。だからこそ、こんな暴言も飛び出すのだろう。

   

アマチュアの強みは、プロの凡庸な文章作法をゲリラ的に破壊することにある。ところが彼らは、既存の階層構造を肯定し、その内側でのステップアップをめざす。ここに文章修行界のパラドクスがある。文章読本はプロの手になる印刷言語をお手本として提示する。読者はそこで「プロの技」を学び、いずれは自分もプロにと夢想するだろう。だが皮肉にも、その教えに従っている限り、プロのライターになるのはむずかしいのだ。

     つまり、草野球の選手がいくらプロのマネなんかしても、どうせプロにはなれないんだから無駄無駄、素人は素人にしかできない野球をしなきゃ、という発想であるが、この「いずれは自分もプロにと夢想するだろう」というのも、斎藤氏が勝手に決め付けているに過ぎないのである。プロの真似をしてはいけない理由が、それではプロになれないから、というのだったら、プロを絶対化しているのは斎藤氏のほうではないか。こういうのをマッチポンプと言うのである。

     さすがに自分の類型化が強引にすぎると自分でも気づいたのか、途中でこんなことも書いている。

   

こうしてみると、文章界のヒエラルキーは、単純なピラミッド構造ではなく、さまざまななじれやゆがみをふくんでいるように思われる。

    そんなの当たり前じゃん。それを無理矢理単純化しようとしたのはあんたでしょーが、と言いたくなるが、実はこのへんはまだマシな方である。

     第1章の「サムライの帝国」などは、文章読本の著者はみんな「ご機嫌」だといって茶化してみたり、有名な文章読本を派閥の対立抗争になぞらえてみたり、ほとんど芸能週刊誌のゴシップ記事レベルのつっこみである。こういうのも、作家や文壇の権威が確立している時代だったらそれなりに意味があったかも知れないが、今みたいな本音むき出しの時代に読んだってしらけるだけだろう。

     結局、この本で一番読みごたえがあったのは、第3章の「作文教育の暴走」であった。ここでは、いったん文章読本から離れて、明治以来の学校での作文教育の変遷を振り返り、改めて文章読本をその流れの中に位置づけている。自分が疎い話題のせいもあろうが、この部分は単純に勉強になって面白かった。

     ひょっとすると、前半部のつっこみ芸は、著者のサービス精神の産物で、この興味深いがとっつきにくい部分まで読者を引きずり込むための計算なのかもしれない。しかし、だとすれば、読者は相当になめられているわけで、そういう読者をなめたサービス精神は不快以外のなにものでもない。

     著者自身の文体論は、第4章の最後になってようやく出てくる。それは要するに「文は服なり」という言葉に集約されるが、この考え方自体には賛成である。ただ斎藤氏の場合、そういう風に考えれば、これまでの文章読本のヒエラルキー志向を打破できるかのように思っているふしがあるが、その見方は甘いと思う。

     斎藤氏は、ファッションの世界では「縦の序列」より「横の多様性」が重要になると考えているようだが、そんな単純に割り切れるはずがない。フォーマルにはフォーマル、カジュアルにはカジュアルの序列があるというだけのことであって、むしろ、文章の世界なんて目じゃないくらい残酷なまでに「カッコイイ」と「ダサい」に分けられてしまうのがファッションの世界ではなかったか。ファッションの歴史がカジュアル化の歴史だということと、縦の序列がなくなってしまうということも全然違うことであって、実際には、高級ファッションがカジュアル化して消滅するのではなく、カジュアルが高級ファッション化するのである。それは、ビンテージのジーンズが何万円もすること一つをとってみてもわかることだ。

     そういう意味で、いくらファッションになぞらえてみたところで、よりカッコイイ文章を求める意思というものが否定できるわけがない。もし斎藤氏がそう考えているとしたら、氏は外見より内面が重要だと信じる近代主義者だといういうことになろう。しかし、言うまでもなく、外見はときに内面と同等もしくはそれ以上に重要なのである。それこそがポストモダニズムの残した数少ない有益な教訓の一つではなかったか。

     そんなわけで、この本は文章読本のカタログとしてはそこそこ役に立つし、勉強になるところもあれば、幾分の卓見も含まれているのであるが、全体的に読んでいて非常にイライラさせられる本であった。これだけの学習能力のある著者なのだから、低次元のつっこみ芸に走らず、正面から研究対象に切り込んだ方がよいものが書けるのではないかと思うのだが、いかがであろうか。

    付記: 著者が最近の高橋源一郎氏との対談で「やっぱり教養は大事よね」みたいなことを言っていたが、これを読んでさもありなんという感じがした。こういう単純な世界観の持ち主だからこそ、簡単に反動化するのであろう。

付記: 「猫のあしおと・流」さんの批判にお答えしてちょっと補足

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アラブとイスラエル

アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図  時節柄、中東紛争についておさらいしようと思って、放送大学でもおなじみの高橋和夫さんの「アラブとイスラエル」を読んでみました。 とりたてて奇をてらったことを書いてあるわけではないのですが、事実の取捨選択や配置がなかなか巧みであたまに入りやすかったです。

 この本は、著者自身が書いているように、いろんな出来事の国際政治的な位置づけに力を入れているみたいで、たとえば、トルーマンがイスラエルを承認したのはユダヤ人の多いニューヨーク州選挙の直前だったからだとか、アイゼンハワーがスエズ動乱で反イスラエル側になったのは、ちょうどハンガリー事件があったからだとか、パパブッシュがイスラエルへの債務保証を保留して和平会議に参加させられたのは、湾岸戦争で勝ったからだとか、そういう政治的な影響関係がわかりやすく解説してあります。

 ただ、イスラエル建国の過程の説明は、ちょっとあっさりし過ぎていると思う人もいるかもしれませんね。イギリスの三枚舌外交とか言われた「サイクス・ピコ協定」とか「マクドナルド白書」とかの話も出てきませんし、第一次中東戦争の説明も 5 ページぐらいで終わってしまうので、知らない人には、わりと簡単に国ができたしまったような印象を与えるかもしれませんね。

 また、これは出版されたのが 1992 年なので仕方ないのですが、中東和平会議が開かれる直前で話が終わっているので、その後のオスロ合意、ラビン暗殺、シャロン政権誕生、みたいな過程はいっさい書かれていません。

 したがって、読み終わった後で、また別の本を読みたくなる人も多いと思いますが、この問題について興味のある人が、初めて読む本としては、わりとお勧めできるのではないかと思います。

 まあしかし、こうやって改めて読んでみると、アメリカやイスラエルの行動にももちろん一貫性はないけど、アラブ側のプレーヤーも機会主義者ばっかりという感じですよね。ヨルダンの「黒い 9 月」では PLO を支援したのに、レバノン内戦では PLO に敵対するキリスト教徒側を支援したシリアのアサド大統領とか、PLO を支援するイランに戦争をふっかけて身動き取れないようにしたくせに、湾岸戦争ではアラブの大義を訴えたイラクのフセイン大統領とか、シリアと共同戦線を持ちかけたのに、自分だけ裏切ってイスラエルと和平してしまったエジプトのサダト大統領とか。。。

 つまり、「ワード・ポリティックス」のできるプレーヤーがいないと、結局「パワー・ポリティックス」で力の強いヤツが勝つだけ、みたいな感じもするのですよね。トルコのケマル・アタテュルクみたいなヤツがいれば、少しは事態は違っていたかも。アラブ人は誇り高いっていうけど、どうしてこうなってしまうのか。。。もっと頑張れ、やればできる子やから、という気もしてしまうのです (^^)。

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ジパング予想

ジパング 24 (24)  「ジパング (24) 」を読了したので、座興として、現時点でわかっている材料だけを元に、今後の展開を予想してみます。

ネタバレ注意

 現時点での状況は、

  • 完成したとおぼしき「原爆」がサイパンに到着
    • だが、飛行機に搭載したり、弾頭として使うには大きすぎる 。
    • 草加はいったいどうやって使うつもりなのか
  • 角松たちは、「みらい」奪還を試みている
    • だが、燃料が十分ではない
    • 奪還したとしても、その後どうするのか
  • 草加は、角松たちが不穏な動きをしていることを承知しているようだ
    • そのわりに警戒がゆるすぎる

 さらに、かわぐちかいじという人は、登場人物をジレンマに追い込むのが好きである。

 以上を加味した上での私の予想は、

草加は、角松が自らの手で核を撃たざるを得ない状況に、角松を追い込もうとしているのではないか

というもの。だとすれば、「みらい」にはすでに原爆が積んであるのかもしれません。

 もちろん、この読みはわりと素直な読みなので、当たったとしても、実際にはもう一ひねり二ひねりあるものと思われますが。結果は、刮目して待て!(^^)

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歴史と理論の関係についてのちょっとした考察

 若者は歴史を憎む、みたいな言い方があります。若者は年寄りに比べて歴史を知らないし、経験も少ない。したがって、経験や古い知識について年寄りと競っても、圧倒的に分が悪い。だからこそ、若者は年寄りが知らない新しいものを好むのだと。

 もちろん、これついては逆のことも言えて、年寄りは、新しい知識について若者と競ってもアドバンテージがない、むしろ、体力がない分不利である。だからこそ、年寄りは若者に対してアドバンテージを誇れる歴史を好むのだと。

 まあ、こういう言い方はどちらも一面的であって、ほんとうは、歴史を知るためにも新しい知識は必要ですし、新しい知識を知るためにも歴史は必要である、というのが正しいのでしょう。

 実は今、岩田規久男さんの「日本経済を学ぶ」という本を読んでいます。この本は、それこそ日本経済の歴史を、最新の経済理論でブラッシュアップするというような本なのですが、その中に、ちょっと面白い例がありました。

 よく、日本の会社は株主を軽視しているといわれますが、岩田さんは、必ずしもそうではなかったのではないか、というのです。なぜかというと、実は、高度成長期の日本の株価は、平均すれば年率 17% で上昇していた。したがって、株主は、インカムゲインは少なくても、キャピタルゲインで見れば十分に報われていた。株主を軽視するというのは、あくまで現場の経営者の主観にすぎない、というものです。

 この仮説の妥当性についてはここでは論じないとして、ここで言いたいのは、実は、こういう仮説は、ただ漫然と歴史を見直すだけでは出てこないということです。

 なぜかというと、そもそも、昔の株価理論では、株価は配当利回りと金利の裁定で決まる、言い換えれば、株価は配当利回りが金利に一致するような水準に収束すると言われていました。したがって、インカムゲインは少なくても、キャピタルゲインは多いというような現象は、理論的にはあり得ない話で、株主に価値を還元するには、配当利回りを増やすしかない。

 現に、昔の奥村宏さんの本とかはそういう感じで書いてあって、日本の会社は配当利回りが低いにも関わらず、株式の持ち合いによる高株価経営でどんどん株価が上がっている。これこそがまさに法人資本主義の異常性の現れであって、それを打破するためには、日本の会社はもっと配当率を上げて株主に価値を還元しなくてはならない、みたいなことが言われていたわけです。

(今奥村さんの本が手元にないので、このへんは記憶だけで書いてます。もし誤った表現があれば、お知らせいただければ幸いです。)

 ところが、最近のファイナンス理論では、余剰利益を配当として株主に還元せずに内部留保したとしても、その分株価が上がるはずなので、株主の損得には関係ない、ということになり、株価を評価する指標としても、配当利回りよりも PER が重視されるようになりました。この岩田さんのような仮説は、そういう理論をふまえたときに、初めて意味を持ってくるわけです。

 つまり、歴史というのは、まず最初は、同時代の人間の記録を元に導き出されるわけですが、言うまでもないく、同時代の人間が主観的に認識している世界というのが、本当にその時代の「真の姿」を映しているとは限らないわけですね。だから、歴史というのは、常に最新の理論をふまえた上で見直されなければならないのでしょう。

 これは余談ですが、テレビとかで年配の評論家の方を見ると、もっと最新の経済学とか勉強すればいいのに、と思うことが少なくありません。おそらく、彼らの若い頃は、経済学を勉強するには「資本論」や「一般理論」を全巻読破しなくちゃいけなくて、しかも、そういう経済学は現場の役にはたたない、みたいなことが言われていた時代だったんだろうと思います。でも、今はもうそういう時代じゃない。ちょっと学部生向きの経済学のテキストでも読んでみれば、今の経済学が、単に難解さを競うだけで、現場の役にたたないような学問ではないことは、すぐわかるはずだと思うんですが (^^)。

追記: 別に、昭和天皇のメモについて含むところがあるわけではありません。たまたまのタイミングです。為念。(^^)

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動物化する 19 世紀

芸術をかりに二流の理性に高めたところで、その戦果はしれたものであり、所詮は理性そのものの営みである学問の地位を脅かすことはできない。自尊心の強い芸術家が安直に誇りを満足させようとすれば、自分を感性の側に置いて、積極的に理性に対する反逆の旗を挙げたくなるのは当然だといえるだろう。しかも、この欲望は時代の個人主義的な風潮に裏打ちされ、実際の芸術活動のなかで一種のイデオロギー的な力を持つことになった。理性は普遍的なものであって社会の日常生活を支配しているが、感性は個性的なものであって、通俗の日常生活に反逆する拠り所になると信じられた。その際、芸術至上主義者は、感性もまた生理現象として普遍的なものであり、感性的な熱狂はかえって個性を動物的な一般性のなかに埋没させてしまうかもしれない、ということを忘れていたのである。

(「人生としての芸術」山崎正和) 読み返していてなんとなくメモ。

 英会話の先生の話だと、インド英語は、他の国のネイティブにとっても聞き取りづらいらしいですね。concentrate する必要があるって言ってました。最近は、インドからオーストラリアにテレマーケティングの電話がかかってくることもあるそうです。日本で言えば、東京に東北弁や九州弁のセールスの電話がくるようなもんですよね。

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ばーか

 久しぶりに「ランク王国」を見たのだが、グラビア・ランキングの半分ぐらいが中学生の写真集じゃねーか。

 ばっかじゃねえの。こういうのこそ、儲かりさえすれば何やってもいいのかよって言いたいよ。

 世も末だ。

  あと、「彼氏にしたい職業ベスト 10」とかで、「IT 関係」が 5 位ぐらいに入ってたけど、ギャグとしてならともかく、マジメに自分で自分のことを IT 関係だとかいうやつに、ロクな奴はいないと思うぞ(^_^;。「ネットの仕事やってます」とかさ。何だよ、ネットの仕事って。

 そういうこと面と向かって言われると、なんか、すっごくバカにされてるような気分になってくるんだよね~(^_^;。

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クロスゲーム

クロスゲーム (2) コンビニにあだち充さんの「クロスゲーム」が売られていたので、3 巻までまとめ買いして一気に読みました。あだち充さんは、「みゆき」の頃から結構好きで読んでいましたが、基本線は相変わらずという感じです (^^)。

 ただ、主人公の小学生時代から始まるという話は、初めてかもしれないですね。もっとも、子供なのは見かけだけで、台詞自体はあまり小学生には思えないですが (^^)。主人公の幼馴染が死ぬところは、「タッチ」を想い出させます。こういう、少し引いた描き方で泣かせるのは、相変わらずうまいです。

 幼馴染の妹は、みょーに主人公にキツく当たるという設定になっているんだけど、これはひょっとして、今流行の「ツンデレ」とかいうのを意識しているのでしょうか(^^)。たぶん、この二人がだんだん仲良くなってくんでしょうね(^^)。

クロスゲーム (3)  捨てゴマが多くて、説明的な台詞が少ないのに、展開が自然に頭に入る「あだち節」は健在。この「あだち節」を継承したマンガ家っているのかな。最近のマンガ界に疎いのでわからないけど。たぶん、ストーリーよりなにより、この「あだち節」があだち充最大の武器だと思うのですが。いまだに誰も継承してないとすれば、ちょっともったいない気もします。

 「160 km のストレートが投げられる男」という台詞のところで出てくるのは、ヤクルトの 53 番、五十嵐亮太さんでしょうねね。彼はまだ 158 km までしか投げてないはずですが(^^)。

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町人たち

 これはまた、辛辣なのか屈折した愛情なのか、びみょーな意見ですねえ(^^)。

 これを見て、星新一さんが書いた「町人たち」っていうショート・ショートを思い出しました。これは要するに、忠臣蔵の時代の町人は、実はあの事件を今風に言えばそれこそ劇場型の事件として楽しんでいたんだ、ということを、星さんらしくクールな筆致でさらっと書いた小説なんだけど。

 星さんはこの着想が気に入ったと見えて、同じようなテーマで普通の時代小説も書いてます。たしか、「殿さまの日」かなんかに収録されてたと思うけど。題名は忘れました。

 実はぼくも、今になってホリエモンに対して感じるのは、「若い」ってことなんですよね(^^)。彼にある種の鋭さがあったのは確かでしょう。それが脆さと紙一重だったとしても。まあ、あんな偽計取引とかを平気でやってしまうのは、どーみてもダメダメなんだけど。

 でも、若くて才能のあるヤツって、たいていそうなんですよね。伝記モノとか読んでも、よくよく考えるとつっこみどころ満載で、一歩間違えばどうなっていたかわからないような人って、結構多いと思うんです。もちろん、伝記モノでは、そこで道を間違えなかったのが、彼の真に偉いところだ、みたいなまとめかたをされるんだけど、ホントにそうなのかなあ(^^)。ぼくは、単に運がよかっただけ、というような人も多かったのではないかと思います。たまたまそこで、ふところが広くてものわかりのよい大人に出会えたから、道を間違えずにすんだ、みたいな(^^)。

 mixi なんかも若い子が多いじゃないですか。そうすると、そういう若者ならではの感受性の鋭敏さみたいなものが、危なっかしく思うと同時に、だからこそすごく可愛かったりするんですよね(^^)。まあ、そんなことを感じること自体が、自分がいかに歳をとったかってことなんだろうけど(^^)。

 きっと糸井さんも、よくよく考えると、自分も昔はただのイケイケだったところもあったよなあ、とか感じるところもあるんじゃないでしょうか。考えすぎだったらごめんなさい<m(__)m>。

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芸術マンガについて

茶箱広重 COCORO〈心〉」というのは、かわぐちかいじ氏があの大ヒット作「沈黙の艦隊」の直後に手がけたものも、あまり評判になることもなく短期間で連載中断してしまった作品ですが、今日コンビニに行ったら、「ダ・ヴィンチ VS かわぐちかいじ」とかいうタイトルで再版されたものが売っていたので、また「ダ・ヴィンチ・コード」に便乗してあざといな~、と思いつつも、値段も手ごろだったのでつい買ってしまいました(^^)。

 芸術をテーマにしたマンガというのは、けっこうたくさんありますが、どれも芸術の価値をいかに表現するかで苦労してると思うんですね。

 これがスポーツなんかだったら、消える魔球がほんとうに投げられるかどうかはさておき、もしボールが消えたら打てないだろうなあ、ということは誰にもわかるからまだいいのです。

らんぷの下 ところが、芸術の場合、その価値をもっとも端的に物語っているのは作品自身であり、それを言葉で語り直すのは美術の専門家だってかなり苦労することなわけです。しかも、本当に作品があればまだしも、多くの芸術マンガでは、架空の作品の魅力を語らなくてはならないわけですからね。

 だから結局、なにがスゴいんだかよくわからないけど他の登場人物にスゴイいとかなんとか言わせてごまかすとか、やたらウンチクを多くして教養でごまかすとか、あるいは、人間ドラマの方に焦点をあてるということになりがちですよね。

 特に、対象とする芸術が絵画である場合、マンガ自体も絵画による表現なので、作品自体を絵としてマンガの中に描かなくてはならない。そうすると、いくら登場人物が感心してみせても、「これがそんなたいした絵か?」と思ってシラけてしまうことが少なくありません。

火の鳥 鳳凰編  ぼくが知る限り、絵画をテーマにしたマンガでもっとも成功しているのは、「茶箱広重」や「らんぷの下」など一ノ関圭氏の一連の作品じゃないかと思うのですが、 これはなんと言っても東京芸術大学油絵科卒という作者の、圧倒的な画力と美術界に対する知識に支えられているからこその成功だと思うのです。

 あと、 思いつくのは「火の鳥 鳳凰編」とか。 まあ、あれは純粋に芸術がテーマとは言えないかもしれませんが、「火の鳥」シリーズの中ではわりと好きな作品であることは確か。

  かわぐちかいじ氏の「COCORO〈心〉」も、大成功だとは思わないのですが、なかなか意欲的な冒険作だと思いました。きっと、天下をとったときじゃないとやりにくいことをあえてやったんでしょうね。特に、ダ・ビンチの子供時代の模写は好きですね。おそらくこれが「瑠璃の波風」なんかの習作として機能してるんじゃないかなあ、と勝手に想像してしまいました。

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愛することをおそれてはいけません

STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2006年 07月号 [雑誌]   山形浩生氏が「愛国心」について書いているという情報を得て、それが読みたいがだけのために「STUDIO VOICE 2006年 07月号」を購入(^^)。 (しかも古本)

 結論だけ言えば、やはり山形氏は山形氏で、期待を裏切ることはなかった。もっとも、制限字数がかなり厳しいので、真意が伝わりにくいところもあると思うが。

 「愛国心」については、いつかもっときっちり論じてみたいのだけれども、残念ながら、今はとてもそんなヒマはない。 でも、いい機会だから少しだけ書いておこう。

  たとえば、この「論座 2006年 07月号」の特集でも、「愛は強制できない」みたいなことを書いている人がいるけど、これは、半分正しくて半分間違っていると思う。 ただ、この本の中で猪瀬さんがいみじくも言ってるように、「愛国心」という言葉はへんな手垢がつきすぎているので、かわりに、たとえば「自然を愛する心」で考えてみよう。

 自然を愛する子供を育てたいと思った大人はどうするか。普通は、うさぎの世話なんかをさせてみたりするわけだ (うさぎの旗に向かって毎日敬礼をさせたり、うさぎを讃える歌を歌わせたりする人はあまりいない(^^))。そうすると、確かに子供はほんとに自然が好きになったりする。

 でも、これは愛を強制していることになるのか、といえばノーだろう。おそらく、この「自然への愛」というのは、もともと子供の中にあったもので、うさぎの世話をさせるという行為は、それを自ら発見する機会を与えたに過ぎない。

 じゃあ、うさぎの世話をさせるなんてのは無意味なのかと言えば、それも違う。愛を発見する機会というのは、それ自体が貴重なものであるはずだ。これは、よい芸術に触れる機会などを考えていただければ、同意していただけるだろう。

 つまり、もともと、「愛」を教えるということは、自らの中にある「愛」に気づく機会を与える、ということと同義なのであり、それ以上でも以下でもないのである。

 これを逆に見ると、教育という行為は、意図するかしないかは別にして、すべて何かを「愛」する機会を与えてしまうものなのである。仮に、「うさぎの世話」という行為を、純粋にうさぎを世話するスキルを教育する手段として位置づけたとしても、教わった子供の多くは、勝手にそこに「愛」を見出してしまうものなのだ。

論座 2006年 07月号 [雑誌] もし、完全に価値中立的な教育などというものを志向するなら、逆に、このうさぎは単なる教材に過ぎず、決して愛してはならない、などということを無理矢理教え込む必要が出てくる。

 ちょっと待て、お前の論法でいけば、もともと自分の中に「愛」がなければそうはならないだろう、と思う人もいるかもしれないが、本来、教育というものは、人類にとってなんらかの価値のある知識を教える行為であるから、そこに「愛」が見出される確率は高いのである。

 つまり、厳密な意味で言えば、教育の内容を選択した時点で、そこには必ずある種の価値判断が入り込むのであり、副作用として、必然的に何かに対する「愛」を教えてしまうのだと考えねばならないのである。

 うーん、もう時間がないや。続きはまた今度。。。

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フェミニズム事典

フェミニズム事典  リサ・タトルの「フェミニズム事典」を入手。全体的な雰囲気は、前に紹介したマギー・ハムの「フェミニズム理論辞典」にそっくり (出版社も同じ)。ただ、こっちの方が、断然訳が読みやすいです。

 項目もこちらの方がやや細かいのかな。巻末の索引なんかも、人物名、団体名、書名などに分類されていて親切 (もちろん、通しの索引もある)。定価も、こっちの方が 1500 円も安いです(^^)。

 ただ、1991 年初版なので、それ以降の新しい言葉はさすがに出てないですね。ダナ・ハラウェイとかサイボーグ・フェミニズムは、「フェミニズム理論辞典」の方には出てましたけど、この「フェミニズム事典」にはまったく出てないです。

 ですから、最新のフェミニズム用語について知りたいという人以外は、まずこっちを先に買った方がいいんじゃないですかねえ。

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エレクトロニクス用語辞典

エレクトロニクス用語辞典  電波新聞社の「エレクトロニクス用語辞典」を購入したのですが、これはいろんな意味で惜しい本でした。

 まず、せっかく各項目に英語訳が併記してあるのに、英文索引がついてない。したがって、英文和訳にはほとんど使えません。

 また、なぜか主要部分とは別に、「組み込み用語解説集」が付録でついているのですが、両方通しの索引がないので、どっちに載っているかわからない言葉を調べる場合には、二回調べなきゃならない。これはまったく労力のムダ。

 説明自体は読みやすくて親切なので、あと英文索引と通しの索引さえつけてくれれば、何段階も商品価値が上がったはずなのに、そのひと手間を惜しんだばかりに、いま一つ使いにくくなっている残念な本です。

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フェミニズム理論辞典

フェミニズム理論辞典  ちょっとフェミニズム関係の用語を調べたくて、マギー・ハムの「フェミニズム理論辞典」を購入(リサ・タトルのも注文したのですが、まだ手に入らない)。理論辞典というだけあって、説明は詳しいですが、厚さの割に収録語数は多くありません。いわゆる中項目主義ですね。

 だから、たとえば、ダナ・ハラウェイは載ってるけど、サイボーグ・フェミニズムは載ってないとか、第一波、第二波は載ってるのに、第三波は載ってないとか、Misogyny は載ってるのに Misandry は載ってないとか、載ってる用語にやや偏りがあって、調べもの向きというより勉強向き。

 訳は、昔の「学者訳」に比べればがんばってるとは思うけど、ぼくなんかから見ると、やっぱり、あともう一工夫すればもっと読みやすくなるのになあ、と思ってしまいますね。だから、最近の本みたいな読みやすさを期待すると、ちょっと読みにくく感じるかもしれません。もちろん、これは内容の難しさとは別の話ですよ。まったく同じ内容でも、もっと読みやすく書けるはずだという話。いちおうその道の「専門家」に言わせてもらえれば(^^)。

 なんか手前ミソになるけど、訳文のことだけで言えば、こういう本も、プロの翻訳者に下訳をさせて、学者さんが監修するというやり方の方が、絶対いい訳ができると思うんですけどねえ。翻訳って、ほんのちょっとしたテクニックでずいぶん読みやすくなるんですけど、そういうのって、数訳さないとなかなか身につかない。でも、学者さんはそんなことしてるヒマないでしょ? てか、そんな修行をしてるヒマあったら、もっと本業の教育や研究に精出してほしいし(^^)。

 これは偏見かもしれないけど、学者さんってもともと頭がいいから、逆に読みやすい文章を書く意欲が低い人が多いんじゃないかという気もしないでもないんですけど。ぼくは頭よくないからよくわかんないけど、ひょっとすると、学者さんはとっちらかった文書を読んでも、素早く行間を読んだりして理解できてしまうから、それ以上わかりやすく整理しようという意欲がおきないのかもしれない。そんなことないかな(^^)。まあ、このへんは邪推。

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機械工学用語辞典

 「機械工学用語辞典」という本を購入。同じ表題の本が技報堂出版さんからも出てますが、買ったのは理工学社さんの方。

 結論から言うと、悪い本ではないと思うのですが、残念ながら翻訳者向きではありません。収録語数は多いわりには、実務翻訳者がひっかかるようなマイナーな用語はあまり載ってません。実務翻訳者がひっかかるような用語というのは、たとえば、English thread (イギリス人ばかり集まる掲示板?) とか、top hat rail (帽子をかぶったレール?) みたいなヤツね(^^)。

 まあ、こういうのが専門家からみればトリビアルな用語なんでしょうけど、そのトリビアルな用語を訳せるかどうかが、実務翻訳者にとっては結構重要なのです。 もっとも、これを書いた人は、翻訳者のために書いたわけじゃないんだろうから、ないものねだりだというのはわかってますけど(^^)。

 語義の説明は丁寧で、内容もしっかりしているようですから、勉強用に使うにはいい本なのかもしれないけど、それにしても、値段とのバランスが少々悪いように感じます。

 そういうわけなので、翻訳者の方には、勉強用に買うのでなければ、お勧めしません。この本を買う金があったら、まずは、日外アソシエーツさんの「機械・工学17万語 CD 」か、日刊工業新聞社さんの「機械用語大辞典 [CD-ROM]」を買うべきでしょうね。 収録語数をとるなら前者、説明の詳しさをとるなら後者。

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萌えよ!シリーズ

サッカー!警察!クルマ!戦車まで!

手当たりしだいに萌やしま~す!

だって。なんでそんなものまで萌やす必要があるのじゃ(^^)! しかもパンツ見えてる(^^)!

オレ、この会社の雑誌に取材されたことあるんだよな~(^^)。別にいいけど。

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Computer Graphics Dictionary

 「Computer Graphics Dictionary」という CG 関係の用語辞典を購入しましたが、これはなかなかお勧め。この分野には次から次へ新しい用語が出現しているのに、翻訳点数はむしろ減っている感じで、いい用語集が極めて少ないのですが、この本は収録語数も多いし、それでいてつまらない用語で水増しされている感もなく、新語や重要な用語が的確に網羅されているようです。

 たとえば、ぼくが「辞書にない英語」に書いたような以下の用語も収録されていました。

 これ、日本語訳でないかなあ。でも、出てもきっとあんま売れないんだろうね。。。(^^)

  ちなみに、定価は高いですが、ユーズドで買ったので、$2.98 しか払ってないです(^^)。

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MAXIMAで描く物理の世界

 竹内薫さんが「MAXIMAで描く物理の世界」という本を書くらしいです。これはぜひ読みたい。竹内ファンのみなさん、みんなでプレッシャーをかけましょう(^^)。

 Mathematica や Maple じゃなくて、MAXIMA なとこがいいじゃないですか(^^)。

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PLUTO

PLUTO (1)  かの浦沢直樹さんが、手塚御大の鉄腕アトムの中の「地上最大のロボット」(「鉄腕アトム (13)」所収)というエピソードを元に描いた「PLUTO」。

  手塚原作の基本プロットは踏襲しているのですが、細部を微妙にずらしつつ、いろいろと思わせぶりな伏線を敷いてくるので、原作を知っている者にとっても、どこで原作を裏切ってくるのかという楽しみを与えてくれます。ぼくも原作を忘れかけていたので、eBookJapan で買って読み比べちゃいました。

  他にも、「日本人のモグリ医者」や「白いライオン」が出てきたり、ノース 2 号を雇った作曲家が曲を書いた映画が「月は無慈悲な夜の女王」だったり、「ルーズベルト」がテディ・ベアだったりと、いろいろとヲタク心をくすぐる仕掛けも満載です。

 ノース 2 号やブランドが「死」ぬときのエピソードなんかは、エンターテイナーとしての浦沢さんの力量が見事に発揮されていて、安心して泣かせてもらえます。また、差別主義者の描き方なんかも、うまいなあと感心させられます。

PLUTO (2) ビッグコミックス でも、この作品で一番魅力的なのは、なんといっても、ロボットたちの描き方だと思うんですね。古典的な SF でよくあったような、論理的な思考力はあっても情緒がわからない(^^)、みたいな描き方でもなく、かと言って、まったく人間と何が違うのかわからないような描き方でもなく、人間のように夢も見れば涙も流せば怒りもするけれども、どこか微妙に人間とは違う、みたいな感じをうまく描いていて、非常にリアルです。ロボットは本当は食事をする必要がないんだけど、人間のことをよりよく理解するために、あえて人間のマネをしている、なんていう設定もうまいですよね。

 まあ、ぼくは最近の SF をあまり読んでいないので、他のロボット描写の例をあまりよく知らないのですが、強いて言えば「ブレードランナー 」に近いでしょうか。もっとも、あれは厳密にはロボットじゃなくてレプリカントとかいうやつですけど。

PLUTO 3―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (3) こういうロボット像がぼくらの感性をゆさぶるのは、たぶん、ぼくら自身が人間としてのアイデンティティに不安を持っているからだと思うんですね。パソコンやインターネットやケータイに囲まれて暮らし、世の中でおこるさまざまな非人間的な事件や犯罪に接しながら、誰もが人間とはなんだろうと自問自答しているような時代。この作品は、そういうぼくらの心を、ときには癒し、ときにはいらだたせながら、人間とは何かと考えさせる力を持っています。 考えてみれば、手塚さんの鉄腕アトムも、まさにそういう作品でしたよね。

 ここまでのところでは、ゲジヒト刑事はどうやら人間を殺しているらしい、と読者に思わせるような伏線を張りまくっていますが、これをどう裏切ってくれるのか。今後の展開が楽しみです。

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ブランドと七瀬

 今頃になって「PLUTO」にはまっている私です(^^)。ブランドの「死」は泣けますね。このアイデアのヒントは「七瀬ふたたび」じゃないかと思うんですが、違うかなあ。あれも、筒井さんの作品にしては、珍しく泣けましたね(^^)。他にもこういうアイデアあったかなあ。思い出せないや。

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宗教からよむ「アメリカ」

宗教からよむ「アメリカ」  森孝一氏の「宗教からよむ「アメリカ」」、ずっと積ん読だったけど、やっと読めました。よい本です。

 この本は、題名が示すとおり、アメリカの宗教について論じた本で、「アメリカの見えない国教」という概念を軸にして、アメリカの宗教を読み解くという構成になっています。そのため、モルモン教やアーミッシュから福音派や原理主義までさまざまな教派が出てきますが、単なる教派のカタログ的な説明に堕することなく、アメリカ全体の宗教的構造のようなものを描き出すことに成功しています。

 アメリカのことをよく知らない私達日本人が抱く素朴な疑問、たとえば、

  • アメリカは政教分離の国なのに、なぜキリスト教の影響力が強いのか
  • アメリカは自由を標榜する国なのに、なぜ他の国に対してはあんなにおせっかいなのか
  • アメリカは高度な科学力を持つ文明国なのに、なぜ進化論を教えるかどうかでもめたりするのか
  • アメリカは民主主義の先進国のはずなのに、なぜあんな○○っぽい人が大統領になれるのか

に対する答えは、半分ぐらいこの本に書いてあると言っても過言ではありません。 特に、第 3 章の「アメリカのファンダメンタリズム」は、9.11 以降のアメリカを読み解くためには必読といえるでしょう。

 この本を読むと、帝国とか覇権国家とか言って揶揄されるアメリカを動かしているのも、当たり前ですが、夢もあれば悩みもある普通の人々であることがよくわかります。 池内恵氏の「現代アラブの社会思想」が、イスラム原理主義者が実はそれほど素朴な人たちではないということを書いた本だとするなら、この本は、覇権国家アメリカの市民も、実は結構素朴な人たちであるということを書いた本だと言ってもよいかもしれません。

 もちろん、だからと言って、(宗教がテロリズムを免罪しないのと同じように)彼らの罪が免罪されるわけではないでしょう。しかし、彼らを批判するにしても、少なくともこの本に書いてあるぐらいのことを知った上で批判しなければ、その批判の矢が、彼らの心の底まで届くことはないでしょう。そういう意味で、対話による問題解決を信じる人なら、なおのこと、この本の内容ぐらいはおさえておくべきだと思います。

 なお、この本の初版は 1996 年ですが、著者が 2003 年に出した「「ジョージ・ブッシュ」のアタマの中身―アメリカ「超保守派」の世界観」では、この本の問題意識を敷衍して現ブッシュ政権を論じています。題名も装丁も軽薄な本ですが、他のブッシュ本とは一味違う出来になっていて、こちらもお勧めです。

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「性愛論」再読

 橋爪大三郎氏の「性愛論」の再読を終了。やはり、優れた論考だとは思うものの、出版から 10 年もたってから再読すると、少々物足りないところも出てきますね。

 最も限界を感じるのは、この論文で描いているのは、あくまで、「性空間」が「権力空間」や「言語空間」と交わったところに生じた投影像にすぎず、「性空間」そのものを律する自律的な論理までは説明しきれていないということですね。もちろん、明晰な著者のことですから、論理的な明晰さの水準を維持するために、あえてそういう方法論をとったのだとは思いますが。

 ただ、おそらくそのせいで、性の機能論的ないし目的合理的な側面が強調され、欲望論的ないし消費論的な側面が軽視されているようにも見えます。たとえば、

こうした生殖技術の発展によって、多くの女性たちが妊娠→出産することをやめ、代わりの方法で子供をうるようになったらなら(機能的性別が無化されたなら)、性別がイデオロギーにすぎなかったことが、誰の目にも明らかになる(無出産社会の到来)。そして、幾世代か経るあいだには、性分化が変容し、性別それ自体が解体に向かうであろう 。

などという記述は、まるで、1 個食べるだけで身体に必要なあらゆる栄養を補給できる万能食品ができたら、誰も手の込んだ料理など食べなくなる、というような論法と同じように聞こえます。もちろん、その後にはちゃんと、

そして、昔ながらの男性/女性として行動する人々は、古典的な性別を生きるという、一種のライフスタイルを選択したという意味になる。男女の性別は、これまで自動的に人びとにそなわるものだった。それが無出産社会では、古典的な性別として、選択の対象になるのである。

と書いてあって、単純に性が消滅するわけではないことを示唆してはいますが。ただ、「解体」とかいう表現だと、どうしてもだんだん性別がフェードアウトして無くなっていくような印象がありますよね。

 でもぼくは、確かにそのような社会になれば、職場のような機能集団や目的合理的な力学の働く場においては、性の表現は抑制されて中性化されていくと思いますが、逆に、コンサマトリーな力学の働くある種の場においては、むしろ、セクシュアリティが過剰に表現されるようになると思います。

 これは、先ほどの食事の例で言えば、残業のときにはカロリーメイトやサプリメントばっかり食べている人も、休日になるとグルメなレストランに行ったりするようなものです。ぼくは、たとえば最近の「エロカワ」や「見せ下着」みたいなものも、こういう変化の兆候ではないかと思っているのです。

 もちろん、機能的な制約が弱くなれば、その分、性表現のバラツキは大きくなるでしょうし、そういう意味では「多様化」するでしょうが、だからといって単純にホワイトノイズのような分布になるのではなく、むしろ、偏りも大きく分散も大きい、つまり、裾野も広いが頂上も高い山が2つある、というような分布になると思います。

 料理だって、伝統の制約がなくなった結果、和洋中の手法をごちゃまぜにする料理人もたくさん出てきましたが、だからといって、和洋中それぞれのアイデンティティが消滅するわけではなく、むしろ、よりそれぞれの特徴が強調されるようになっていってるでしょう? それと同じことだと思います。

 もっとも、こういう論法はどこまで言ってもアナロジーでしかないところが難点で、このような現象に内在する論理を説明するには、「性空間論」というより、必ずしも目的合理性では語れない「消費」という現象を語るための「消費空間論」みたいなものが必要だと思うんですよね。それをうまく進化論や創発性の理論とくっつけられないかな、なんていう妄想はしてるんですけどね。。。(^^)

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光のオンライン書店

光技術総合事典 仕事がらみで、光学関係の書籍を探していて見つけた「光のオンライン書店」。光学の専門書・雑誌を出しているオプトロニクス社で運営している、光学関係の本ばかりを集めたオンライン書店なのですが、かなり充実しています。

 amazon.co.jp の場合、分類が大雑把だったり、ときには間違っていたり (多変量解析の本が「微積分・解析」に分類されてたりするけど、普通統計学でしょ(^^)) するので、非常に専門性の高い本だと、書名がわかってないとなかなか探せなかったりします。でも、このサイトぐらい分類が細かいと、探しやすいですよね。

 実際、「速解・光サイエンス辞典」とか「光技術総合事典」とかは、アマゾンではちゃんと分類されてないので、普通に探してもなかなか出てきません。

 もっとも、どの本も馬鹿高いので、ホントに買うかどうかは、まだ検討中。。。(^^)

(10 万円くらいの仕事で、1 万円以上する資料をバカバカ買ってたら、完全に赤字だもんね (^^))

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早く買いたい「日本語大シソーラス」

日本語大シソーラス―類語検索大辞典―日本語大シソーラス V2 通常製品  日本語で初めての本格的シソーラスという世評も高い、あの「日本語大シソーラス」に、待望の CD-ROM 版が登場。ということで、早速購入しようと思ったのですが、ロゴヴィスタのホームページを見たら、「ダウンロード製品近日公開予定」と書いてあるじゃありませんか。

 パッケージとか余計なマニュアルとかあってもどうせ邪魔なだけだし、こっちの方がかなり安いよな。ということで購入を思いとどまっているのですが、 肝心のダウンロード製品がなかなか公開されません。ロゴヴィスタさん、待ちきれないよぉ(^^)。

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なんだかなあ。。。

 コンビニで見かけたプレイボーイの表紙が、なんとあの入江紗綾だった。前から思ってたんだけど、撮る奴も撮る奴だけど、撮らせる親も親だ。いったい何を考えているのか。これがすっごく貧乏で金に困って、ということなら認めないでもないが、けっこうリッチだったりしてみろ。他のジュニアアイドルの親もそう。みんながみんな貧乏だなんてはずはない。それでロリコンの犯罪が増えて困るとか言ったって、自己矛盾もはなはだしい。

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やられた!

 キャサリン・ブラックリッジのあの本(残念ながら、ここに書けるような書名ではないので、興味ある人は検索してみてください。でも、内容は真面目な本なんですよ(^^))。いつの間にかベストセラーになってるじゃないですか。ぼくもどっかに売り込もうと思って、密かに狙ってたのになあ。。。(^^)でも、その手の本なら、実は他にもいろいろ目をつけているのはあるのだよ(^^)。早く売り込まなきゃね(^^)。

 ところで、原書には、思いっきり見えちゃってる写真があって、著者自身も序文で、この写真は日本語版ではカットされるかも知れない、みたいなこと書いてるんだけど、実際はどうなったのかなあ(^^)。

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資料が来ない。。。

 16 日に注文した資料がまだ届かないよお。。。月曜日に来ても遅いんだけどなあ。。。

 amazon.co.jp のマーケットプレイスは、人によって発送の迅速さに差があるんだよね。早い人はメッチャ早くて、amazon に新品を注文するより早いくらいだけど、遅いときは 4、5 日かかる。

 だから、仕事の資料を頼むのは、結構バクチなんだよね。わかってんだけど(^^)。

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タダで読める統計学の本

 絶版になった統計学の本を電子化して無料で公開しているサイトを発見。鹿児島大学さんの企画らしいです。素晴らしい。どんどん利用しませう。

 あの伏見康治先生の「確率論及統計論」とか、タグチメソッドの田口玄一先生の「統計解析」とかもありますよ。

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で、でかい

 このヤケクソのような大きさが好きです (^^)。もっとも、ぼくは原典を読んでないので、なんのことだかよくわからないのですが (^^)。(きっと、検索すれば出てるんだろうね。)

 ついでに、最近の噂より、

○○が、「ホテルルワンダ」主人公の英雄的な努力の基盤となっている行動原理としてここで絶賛している「職業の倫理」というのは、正しくは「商業の倫理」だ。金を持っていれば、だれにでもわけへだてなく財やサービスを提供するという(もちろんブランド維持のために他の条件を満たさないと客として認めない、という手口はあるが、まあ例外ではある)。さて、これがすばらしいことだというのは事実。ただそれは、○○が一方でときどき批判してみせるグローバリゼーションだの大企業だのと直結した行動倫理でもあることはお忘れなく。少しでも安く材料を調達してコストを下げることで、一人でも多くの顧客に財やサービスを提供すべし、という商業および産業資本主義の持つすばらしい平等化へのドライブこそが、一方では○○の嫌いなマクドナルドやウォールマートの原動力でもある。(○○は引用者が伏字にした)

というのは、まったくその通りだと思うんですが、これに気づいてない人が意外と多いんですよね。

 アンチ・グローバル化論者も、「お金より大切なものがある」論者も、少なくとも、このお金や商業主義が孕むある種の「矛盾」を意識しないと、単なる反動になってしまって、オルタナティブにはなりえないと思うのです。

 結局、「お金では買えないもの」というのは、他人とは絶対に交換したくないモノ、あるいは、特定の集団の間でだけ交換したいモノであって、そういうものを求める心というのは、おそらく、「自我の欲望」みたいなものから生まれていると思うのです。

 前にも書いたけど、人間はたぶんこの「自我の欲望」を完全に捨てることはできないんだろうけど、だからと言って、そんなに手放しで美化できるもんでもないと思うのですね。

 「金でカタがつくならむしろ簡単だ。金でカタをつけないと、もっと大変なことになるのだ」と、亡くなった阿佐田哲也氏もよく言っておりました (^^)。もっとも、そういう大変なことが意外と好きだったりするのが、人間の面白さだとは思うんですけどね (^^)。

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MIT めっちゃ太っ腹

 驚きました。MIT でやっている OpenCourseWare というサイトで、なんと、Gilbert Strang 先生の Calculus という微積分のテキストを、一冊まるまる全部タダで公開しちゃってるじゃないですか。なんという太っ腹 (^^)。

 この人の "Linear Algebra and Its Applications" (邦訳「線形代数とその応用」) というのは、日本でも名著としてちょっと有名で、ぼくも愛読してるんですが、このテキストも面白そう。だいたい、これだって、普通に買えば一万円ぐらいする本なんですからねえ。びんぼー学生のみなさん、どんどん利用しましょう (^^)。

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メモ

 あのー、なんていうか、カレーの中にジャガイモが入っていたからと言って、「カレーはルーでジャガイモを隠蔽しようとしている」などと言い募るのは滑稽だし、もちろん「ジャガイモの復権」などを訴える必要もないし、ましてや、それが「カレーとポテトフライが同じぐらい美味しい」という主張の証明にもならないでしょう? ポテトフライの価値は、カレーとは別にそれ自体として論じなければならないわけで。どうもそういう感じがします。だいたい、カレーは確かに美味いけど、カレーを無視しては料理の批評は成立しない、と言うほど神格化されてますかねえ?

 さらにに言えば、もちろん、カレーやポテトフライを離れて、「ジャガイモ料理」という切り口で研究すること自体はかまわないと思うんだけど、そもそも、この人の「ジャガイモ」の分類自体がおかしくて、それはジャガイモじゃなくてサツマイモじゃないか、みたいなところが多々あるような気がするんだよね。これについては後できっちり書きますけど。

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デジタル週刊現代

 「ポスト」だけじゃなくて、「週刊現代」も電子書籍で買えるようになってたんですね。このサイトは、1 冊まるごとだけじゃなくて、記事単位でも購入できるのでけっこう便利です。

(しっかし、「パンツをはいたサル」ならわかるけど、「パンツをはいた純一郎」じゃそのまんまじゃん (^^)。ひょっとして、純一郎はパンツをはいていなかった∴「サル=純一郎」っていうことかしら (^^)?)

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マンガと映画

 ただ、マンガと映画の表現技法が必ずしも同列には論じられない、というのはホントですよ。実は、高校の文化祭で、一回だけ映画のコンテを描いたことがあります。ぼくはマンガは描いたことがあったんだけど、コンテなんてはじめてだったから、マンガのコマ割りみたいなもんだろうと思ってやったら、大失敗。完成した映画を見て、かなりヘコんだもの。数年前に同窓会でビデオテープもらったけど、いまだに見る気がしません (^^)。コンテを描く前に、OB で映画を撮ってる人が来てレクチャーしてくれたんだけど、その教えが、とにかくアップを使え、という変な教えで (^^)。ぼくは純情だったから真に受けてアップばっかりにしたんで、そのせいもあると思うけど。今思えば、あれはかなり高度な技法で、初心者においそれと使いこなせるもんじゃなかったと思いますね。前にも書いたけど、アップで有名な実相時昭雄さんが撮った初期のウルトラマンだって、今見るとあまり成功してないと思うもん。閑話休題。とにかく、そういうマンガ独自の表現技法に対する評論がないんだとすれば、それはやったほうがいいかもしれないとは思います。でも、夏目さんなんかはけっこうそういうことも書いてるし、たぶん、実作者だったらみんな気づいてることですよね。あと、リアルならいいってもんじゃないというのも常識。一時、写真に吹き出しをつけてマンガにするのが流行ったことがあったけど、みんなつまんなかったでしょ? だからこそ、トゥーンレンダリングみたいな技法が流行るわけだし、大友さんだって、ちゃ~んとデフォルメはしてますよ。そういうのも実作者はみんなわかってるでしょう。だから、問題はそういうことじゃないと思うのだな (^^)。そのうちもっとちゃんと書きます。

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山形≒山崎/芸術論

 この山形浩生氏の芸術論、しばらく前に掲載された直後に読んで以来ずっと思っていたのですが、山崎正和氏の芸術論にすごく似てるんですよね。特に、「芸術・変身・遊戯」という本に収録されている「人生としての芸術」という論文は、サルトルの台詞を枕にした導入部からしてそっくりです。疑う人もいるかもしれないので、ちょっと引用してみましょうか。

いったい、もし「百万人の飢えた子供」が本当に重大な現実であるならば、なにゆえにその前で意味を問われるのが、ほかならぬ文学や芸術だというのだろう。百万人の餓死者の前でまず意味を問われるのは、政治であり宗教であり科学技術であり、ひいでは人類の存在全体の是非ではないであろうか。自分がたまたま文学者だからまず文学を責めるといえば誠実そうに聞こえるが、むしろそういう責任の持ち方そのものが裏返した思い上がりの産物といえる。なぜなら、「文学者」というものが、たとえば政治家や技術者や飢えた子供が存在するのと同じ意味で、たしかにこの世にあるといいきれるのかどうか、まずそれから反省してみなければならないからである。潔癖症のサルトルもけっして園芸術をとりあげて、それが百万人の子供にとってなんの意味があるかとは訊ねなかった。暗黙のうちに彼は文学を園芸術よりも有意義なものと考えているのだろうが、果たしてこの文学者の自負の念はそれほど当然のものだといえるのだろうか。ありもしない法力が自分の身に備わっていると信じこんで、その法力によって世界が救えないと嘆いている迷信家を、私たちはふつう、人生に誠実な人とは呼ばないのである。

質問の中身を僅かばかり変えてみればことはあきらかなのであって、サルトルはむしろ、「庭先の一輪のバラの栽培にとって、文学にはなんの意味があるか」とでも訊ねてみるべきだったのである。そうすれば、文学や芸術の意味というものはなにも百万の餓死者を持ち出すまでもなく、そのような些細なものの前でもすでに十分疑わしい、ということがわかったはずであった。

ね、似てるでしょ (^^)?

 もちろん、山崎氏がコリングウッドやフィードラーを引用して論じているのに対し、山形氏が引用しているのはピンカーだし、なにせ書かれた時期がうん十年も違うので、援用される概念も違っているのですが、結論はそれほど違わないように私には思えました。

私たちは言葉であれ身振りであれ、あるいは音や形体であれ、なにかによって自分を表現したときに、はじめて自分が何を感じているのかを明確に自覚することができるのである。表現とは、俗に信じられているように、あらかじめ内にあるものを外に出す行為ではない。むしろ、外にひとつのかたちを作ることによって、逆に自分の内部に何ものかを発見する行為なのである。

 おそらく偶然の一致でしょうけど、頭のいい人というのは、途中の過程は違っても、結局は同じような結論に達するのだなあ、と感心した次第です。もっとも、ご本人方にとっては不本意な感想かもしれないので、あまり目立たないようにこっそり書いておきます (^^)。物好きな人は読み比べてみてくださいませ。

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ヒストリエ3

 待望の「ヒストリエ 3 」が出たので、早速購入したけど、相変わらず面白いです。

 この巻では、奴隷として売られたエウメネスが、とある村に行き着いて…、という展開で、友人たちとの別れや、村人たちとの交流が見せ場。

 一時、SF 作家が歴史物を書くのが流行ったことがあったけど、あれと同じで、時代差を異化効果として利用する面と、逆に、現代を舞台にすると描きにくい普遍的な人間性のドラマを描くという面とを、うまく組み合わせているところがこの作品の魅力かもしれません。

 「文化が違う!」なんていいう台詞はたぶん創作でしょうけど、きっと人類は昔からそんなこと言ってたんだろうな~、という感じがして笑えます (^^)。

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「萌える男」と「脱オタクファッションガイド」

萌える男」本田透著

 この本は、一言で言えば、「萌える男」は恋愛資本主義社会の崩壊が必然的に生み出したものであり、萌えは正しい、という主張をあの手この手で述べたもので、その情熱的な口調にはつい引き込まれますが、全体に萌えを正当化しようとするあまりの強引な論法が目立つように思います。

 そもそも、著者は十把一絡げに恋愛資本主義と言っていますが、受験産業と裏口入学が違うように、恋愛や性そのものを商品化することと、その手段を商品化することとは同じではありません。たとえ、受験産業発展のために学歴を持ち上げるような動きがあったり、塾や予備校に金をかければかけるほど合格率が上がるという事実があったとしても、それだけで受験が無意味になったとは言えないように、恋愛の手段がいくら商品化されても、それだけで世の恋愛のすべてが功利主義的になったとは言えないでしょう。著者は、男性が「萌える男」と「萌えない男」に二極分化したと主張していますが、ひょっとすると、恋愛市場からドロップアウトした著者には、その中間の普通の男女の存在が見えていないのではないかと危惧します。

 また本書では、萌えの意義を、1.恋愛資本主義社会から締め出された人々を個人的・精神的に救済する、2.萌えから生み出された思想を恋愛資本主義社会にフィードバックする、という 2 点において評価しているようですが、この両者は必ずしも両立しないはずです。著者は萌えをストライキのようなものだと言っていますが、たとえストライキだったとしても、本人がそれで精神的に自足できるのであれば、それほど社会に影響を与えるとは思えません。そもそも、萌えの対象となる商品だって、市場から供給されているのですから、そういう意味では、「萌える男」だってしっかり資本主義社会に組み込まれているのであって、そんな奴は丁重にほっとかれるだけでしょう。逆に、ストライキのせいで本人が餓死しそうになれば、社会から救済の手がのびるかもしれませんが、その場合、萌えによって個人的救済が果たされるという1の主張には当てはまらないことになります。著者は、このどちらをよしとしているのでしょうか。

 実は、一夫一婦制の崩壊や性の商品化が社会を不安定化するという著者の認識自体は私も共有するところなのですが、「萌える男」がそのような状況に影響を与えうるとすれば、それは、萌えに自閉することよりも、萌えの志を持ったまま現実社会の中で闘うことによってではないでしょうか。もちろん、本書自体をそのような試みとして見ることもできるでしょうが、このような書き方だと、むしろ、より多くの若者を自閉の方向に導いてしまうことが危惧されます。そういう意味では、本書より、「脱オタクファッションガイド」に見られるような「健全オタク路線」の方が評価できると私は思います。

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Supplements for Strength-Power Athletics

 Supplements for Strength-Power Athletics

 スポーツ選手、それも、瞬発力系のスポーツ向けのサプリメントの解説本です。たまたまこの手の洋書をまとめて読む機会があって偶然見つけたのですが、わりとお勧めできる本だと思いました。

 だいたい、この手の本には、ごくわずかな証拠を頼りに、仮説の綱渡りを繰り返して結論を出している本も少なくないのですが、この本では、信頼できる複数の臨床試験において有効と認められたサプリメントしか推薦していません。また、個々のサプリメントについて、過去にどのような研究結果が出ているのかを、ネガティブな結果を含めて逐一記載してあるので、実際にどの程度の効果が期待できるのか、読者が自分で判断することができます。

 それでいて、大リーグのマグワイア選手が使っていたとされるアンドロステンジオンという薬は、ほとんど効果もなければ副作用もない、みたいなことをキチンと書いてあるところも、科学者的な良心を感じさせます。(実際には、同じステロイド系の薬でもかなり作用に幅があるらしい)

 英語も比較的平明で読みやすく、全体の構成も、サプリメントごとに、「概要」「作用メカニズム」「効能の根拠」「使用法」「注意」みたいな感じで統一されているので、自分の関心のあるところだけ飛ばし読みすることも可能です。

 ちなみに、同じ著者による姉妹編として、持久系スポーツ向けの「Supplements for Endurance Athletes」という本も出ています。

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なか見検索

 ついに、amazon.co.jp でも、本の内容を直接検索できるサービスを開始したようです。このサービス、本家アメリカの amazon.com ではかなり前からやっていたもので、翻訳者にとってはひじょうに重宝するサービスです。

 たとえば、意味のわからない英単語や熟語に遭遇し、ウェブ検索でもヒントが見つからないときには、amazon で検索をかけてみるわけです。そうすると、本文の中にその単語や熟語が出てくる本が見つかるので、その本がどんな分野の本かを見るだけでもヒントになるし、最悪、問題の言葉が一番よく出てくる本を買って読んでみればよいわけです。もっとも、さすがに辞書や事典のような本については、このサービスはやっていないようですが(^^)。

 ちなみに、Google Print というのもこれと似たサービスで、こちらには複数の書店へのリンクが貼られています。

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Dictionary of British Education

 私立の学校を public school と呼んだりするイギリスのわけのわからない教育制度を読み解くのに絶好の辞書を発見しました。これを読んだら、"level 1" みたいな用語法に対する疑問が氷解しました。

 ちなみに、eBooks.com という店に行くと、この本の電子書籍版が手に入ります。この店は、amazon.com みたいに、購入してからダウンロードできるまでの間にタイムラグがないので、お急ぎの方にはお勧めです(もっとも、amazon.com のリンクから買ってもらったほうが、ぼく個人は儲かるのですが(^^)。

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航空英和辞典

 偶然見つけたんだけど、この「航空英和辞典」っていうやつ、妙に翻訳者の購買欲をそそりますね。だいたい、こういう現場の人が作った辞書には、普通の辞書に載ってない情報が含まれていることが多いのです。カバーに書いてあるタイトルは「航空英和辞」なのに、説明のテキストでは「航空英和辞」になってるところも、なんだかすごい(^^)。でも、Amazon.co.jp とかで検索しても出てこないんですよね。直販でないと買えないのかなあ。

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バーナンキ氏の記事

 Foreign Policy という雑誌のサイトに、バーナンキ氏関係の記事がやたらと出てますね。バブル崩壊の時の日銀の対応は、世界恐慌のときのアメリカの対応にそっくりだ、みたいなことも書いてます。それじゃ、日本は 60 年遅れかいっ(^^)、みたいな。

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こんどは IH 調理器ですか…

 「やっぱりあぶない、IH調理器」 という本が結構話題になっているようですが、失礼ながら、著者のお名前を拝見すると (って、ここだけ敬語にしてもダメか(^^))、つい眉に唾をつけたくなってしまうのは私だけでしょうか。まあ、週刊金曜日とかでは、かなり前から電磁波の問題をひつこく言ってきてましたからねえ。その延長ということなのかなあ。

 もっとも、ぼくも IH 調理器は愛用しているので、本当に危険なら、ぜひ教えてもらいたいところではあるのです。だって、ホットプレートよりは全然加熱が早いし、それでいてガスよりは火の調節が簡単で (火事とかの) 危険も少ないですもん。その上、タイマーも使えるから、時間を決めて煮物を煮込むのとかも楽だし。

 やっぱりここは、日垣隆大先生にご登場あそばして、ぜひ真相を明らかにしていただきたいですねえ(^^)。

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Zinio Textbook

 雑誌を電子化してオンラインで販売している Zinio というサイトがあって、わりとよく利用しているのですが、このサイトが Mc-Graw Hill と組んで、大学生用の教科書の電子化を始めたようです。気が付かなかったけど、今年の 8 月頃からやっていたようですね。こういう教科書とか見ると、ついワクワクしちゃいますよね。

 フォーマットが、Adobe Reader でも Microsoft Reader でもない独自フォーマットなので、他の電子書籍ショップではあまり買えない本も多いようです。

 このフォーマットのいいところは、表示イメージが印刷版に忠実なことでしょうかね。そういう意味では、MS よりは Adobe に近いです。あと、操作が直感的で、本当にページをめくってるような感じで読めること。拡大縮小もワンクリックで非常にシンプル。それでいて、テキスト検索もできるし、目次にはハイパーリンクが埋め込まれていて、ワンクリックで対応するページに飛べます。

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萌えるダイエット

 「もえたん」にはじまる「実用萌えシリーズ」の新作は「萌えるダイエット」らしいです(^^)。

 でも、この目次見ると、実用目的とゆーより、ほとんどネタ化してません? 「アニメを見ながら踏み台昇降!」とか、「 萌え歌ウォーキングで有酸素運動!」とか、とてもマジメに言ってるとは思えないですよね(^^)。

 ってゆーか、外でふつーに運動しろぉっ! ってゆーつっこみを待ってませんか? この人たち(^^)。

 そーやってなんでもすぐネタにするから、北田先生に怒られるんです。ってそーゆーことじゃないか(^^)。

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辛口≠悪口

 最近、どうも朝日の書評欄の質が低下してきたような気がします(書評欄だけじゃないだろう、という意見はさておき(^^))。山形浩生さんが書いていたころがなつかしい。

 山形氏の書評は、口調は乱暴に見えても、抑えるところはきちっと抑えているので、たとえ自分が個人的に好きな作家をけなされても、あんまり腹がたたない。むしろ、そういう見方もあるよな、と納得させられてしまいます。

 これは、松ちゃんの映画評とかもそうで、ぼくは宮崎駿監督が大好きなのですが、いくら松ちゃんに「『千と千尋の神隠し』は星 0 個だ」と酷評されても、あんまり腹がたたないのね。

 これは単に、ぼくが山形浩生や松本人志のファンであるからだけではなくて、彼らの批評には、辛口批評が抑えるべき基本ポイントみたいなものが抑えられているからだと思います。いま具体的に説明してるヒマはないけど。

 これは単なる印象批評ですが(^^)、最近は、こういう辛口批評の表面だけをマネして、そういう基本ポイントを押さえられていない、言い換えれば、辛口と悪口の区別のつかない粗雑な批評が増えているような気がします。素人ならまだいいですけど、プロだったら、そういうところこそ意識しないとダメだと思うよ。

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Amazon.com の Digital Locker は更新が遅すぎる

 Amazon.com で電子書籍を購入したのだが、2 時間以上たってるのに、Digital Locker のボタンが有効にならない。FAQ には、"After you purchase your e-book, there is a delay of up to 60 minutes before the e-book link is created in your Digital Locker." って書いてあるのに(^^)。

 っていうか、そもそも、購入してから利用できるまでに時差がある理由がわからん。他の書店では、クレジット・カードの認証が済めば即ダウンロードできるところもたくさんあるのに。電子書籍の利点には、購入してすぐ利用できるということもあるはずのに、なんでこんなシステムになっているのか。

 これじゃ、締め切り直前で今すぐ資料が欲しい、みたいな時には、amazon のデジタル・ダウンロードは危なくて使えないね。

後記: 結局、ダウンロードできたのは 4 時間も後でした。すぐに読みたかったのにぃ。仕事入ってきちゃったから、しばらく読めなくなっちゃったじゃねえかよぉ。ぷんぷん(さとう珠緒の顔で)。

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GLITTER を読んでみた

 亀和田武氏ご推薦のファッション雑誌「GLITTER」を読んでみたが、モデルがガイジンばっかりで、見事に生活感がない。こんなに生活感がないのが今の子の好みなのかと思ってショックであった。また婚期が遠くなった、ってそういう問題じゃないけれども(^^)。

 「LEON」を読んだときにも思ったのだが、ぼくはお金持ちに対する反感とか嫉妬心とかはほとんどない方だと思うのだが、どーしても、こういう世界には身体がついていけないのである。なにせ、吾妻ひでおの「チョッキン」とか、水島新司の「銭っ子」とか、松本零士の「男おいどん」とか、いしいひさいちの「バイト君」とかを読んで育った世代ですからね。やっぱり、こういう華やかな世界よりも、上田晋也が「ぺろーん」とか言ってたり、濱口おさむが「やったどー」とか叫んでいるのを見てるほうが、どーしても心がやすらぐんですよねー(^^)。(そういや、こういうびんぼー番組ってテレ朝ばっかだね(^^)。)

(松本零士というと、「宇宙戦艦ヤマト」のイメージで捉えている人も多いかもしれないが、彼の本領はむしろ、「男おいどん」をはじめとする四畳半モノとか、同じ宇宙モノでも「キャプテン・ハーロック」とか「銀河鉄道 999」とかの方にあって、「ヤマト」は彼としては異色の作品なのである。)

(水島新司というと、たまにコンビニで買ってしまうドカベンのプロ野球編でどーしても違和感があるのが、超高額所得者であるはずの山田太郎が、いまだにボロ長屋に住んでいることである。ってゆーか、2005 年現在、東京近郊であんな長屋の見られるところって、かなり少ないぞ(^^)。それにしても、40 代になって三冠王をとったり親子対決をしたりしていたあぶさんは、いまだに現役を続けているのだろうか。。。)

(いしいひさいち御大は、一時ホームページのほうに「バイト君」の新作を掲載したりしていて、けっこう面白かったのであるが、現在こういう世界に共感するびんぼー学生がどれだけいるのか、とも思うのである。もっとも、「銭金」とか見てると、ある種のネオびんぼーフリーターみたいなのは結構いるようであるが(^^)。)

 言っておくが、これはあくまで、肉体に染みこんだ感性の問題であって、決して私に向上心が欠如しているからではない。文句あるか。

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ニコラを読んでみた

 そうそう、Novelty Seeker の本領を発揮して、日垣隆をあっさり寄り切った実力で知られる新垣結衣を擁する格闘集団、じゃなかった、ファッション雑誌「ニコラ」を読んでみましたが、けっこうなかるちゃーしょっくでした(^^)。

 まあ、子供のいる人はいまさらこんなんで驚かないんだろうけどね。だから、子供がいてオヤジ化する面もあるけど、子供がいるおかげで現代の流行についていける面もあるよね(^^)。

 しっかし、こういう女性誌に載っている男性タレントのインタビューを同性が読むと、みょーに気恥ずかしいのはなぜだろうか。。。(^^)

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激安雑誌店

 どわっ! なんだこの安さは! Froogle あたりをゴチャゴチャと検索していて見つけたこの MagsForeLess という店、メチャメチャな値段をつけているぞ。

  • Maxim 12 issues/year - $3.43 (つまり、1 冊あたり約 30 円)
  • Forbes 26 issues/year - $4.94 (つまり、1 冊あたり約 20 円)
  • GQ 12 issues/year - #3.94 (つまり、1 冊あたり約 40 円)

中にはぜんぜん安くないのもあるが、この値段はすごい。

 発送先は米国内だけのようだが、幸いまだ米国内の Mail Forwarding Service と契約してるので、その点はクリアできそう。

 気になるのは、Epinions のこの店に対するレビューが極端に賛否両論に分かれていることだが、たいした金額でもないし、人身御供になってみようかなあ(^^)、と思案中…。

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統計用語集 2 冊

 統計関係の用語集を 2 冊購入。どちらもわりとよさそうなのでご紹介。

 朝倉書店の「統計科学辞典は、ケンブリッジの「The Cambridge Dictionary of Statistics」を和訳したもの。もとがブランド品なためか、内容はしっかりしているようです。収録語数約3000語、英文索引付き。2002 年刊で、最近の用語が追加されているところもよし。値段が高いのがタマにキズ。

 東京図書の「すぐわかる統計用語」は、著者自身が「知ったかぶりをするための本」と言っているとおり、説明がしろーと向けのところがよいです。勉強にあまり時間をかけられない実務翻訳者にとっては、こういう本がありがたいのですね(^^)。収録語数約500~1000語?、英文索引付き。

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痛すぎて笑えない…

 卯月妙子氏の「実録企画モノ」というマンガ、電子書籍で買えるようになったので読んでみました。

 これは要するに、企画モノ AV 女優 (それも、NG 無し、つまり、SM スカトロなんでも OK を売りにする) である作者が、業界の内幕や私生活を露悪的に描いたマンガなのだが、特筆すべきは作者の壊れ方のすさまじさ。

 そもそも、いかに企画モノといえど、AV 女優となればそこそこ儲かるはずだし、マンガの腕も、素人の手慰みなどというレベルではなく、美大でデザインを専攻したという本格派。その上、文章も書けば、自分で AV の監督や編集までしてしまう。つまり、この人かなりの才人なのである。

 にもかかわらず、生活はビンボーだというから驚いてしまうのだが、なぜかというと、彼女の旦那がヒモどころか一種の山師で、彼女が稼いだ金を片っ端からあやしげな企画に使ってしまうからなのだという(本人は「企画モノ夫婦」だと自虐的に書いている)。

 しかし、このマンガを読んだ限りでは、彼女がなぜそこまでして旦那に貢ぐのかもよくわからないし、単なる企画モノでなく、わざわざ SM やスカトロばかりやる理由もイマイチ納得できない。

 自分の経験則からすると、こういう生き方をする人は、確かにある種「ピュア」で「お人よし」であることが多いのだけれど、このマンガからは、そのピュアな心と壊れた行動を結びつける手かがりが感じ取れないのである。

 普通、自虐的なユーモアというのは、ダメとわかっていてもやってしまうその気持ちわかるなあ、というような読者の共感を誘うことが多いのだが、この作品の場合、むしろ、笑いでバリアーを張って、読者がそれ以上近づこうとするのを拒絶されている感じがする。したがって、本当に笑っていいのか戸惑うような感じが最後まで抜けなかった。(作者のホームページに出ているプロフィールによれば、子供の頃から精神分裂病の発症歴があったのだというので、そのせいかもしれない。)

 もちろん、業界の内幕を垣間見れたという意味では、まったくつまらなかったわけでもないのだが、痛々しすぎて読んでいてつらいというのが正直なところ。こういう言い方は、作者にとってはかえって不本意で失礼なのだろうけど、そういうふうにしか思えなかったのだからしょうがない。一応謝っておきます。ごめんね。

 (こういう作品については、ぜひ天才松本人志氏の評価を仰ぎたいところ。もし松ちゃんが評価するんであれば、ぼくもちょっと考え直してみるけど(^^))

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Spin の語源は?

 先日紹介した「仁義なき英国タブロイド伝説」という本には、spin という英語の語源について、「『スピン』には回転する、かき回す、という意味から転じて『情報操作』という意味がある。」と書いてあって、そんなものかと思っていたのですが、今、Wikipediaspin という項目を見たら、"Significant Progress In the News" の略だとか書いてあるじゃありませんか。

 あわてて、手持ちの語源辞書とかインターネット上の語源辞書とかもチェックしてみたのですが、類似の記述は見当たりません。いったいどっちがホントなんでしょう。別に、だからと言って夜眠れなくなるほどではありませんが(春日三球・照代って知ってる(^^)?)、ちょっと気になっちゃいますね。

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おもしろくて、ためになる

仁義なき英国タブロイド伝説」山本浩著

 題名の通り、イギリスのタブロイド紙事情について書かれた本です。筆致は基本的にクールで、ときどき皮肉なツッコミは入るものの、大上段に振りかぶったジャーナリズム論などはほとんどなく、淡々と事実を記したという感じ。でも、その事実自体が、イギリスのタブロイド紙事情に詳さほど詳しくない私のような者にとっては滅法面白くて、あっと言う間に読み終えてしまいました。もちろん、私もタブロイド紙の悪名についてはいろいろと聞きかじってはいたのですが、このように真正面から取り組んだ和書は、あまりなかったような気がします。

 王室潜入ルポ、ダイアナ妃をめぐる報道合戦、ベッカム夫人ビクトリアの誘拐未遂報道、ブレアとメディア王ルパート・マードックの微妙な関係、ブレア政権のスポークスマンとして辣腕をふるったアレスター・キャンベルの権勢と転落の物語、そして、イラク戦争をめぐる報道合戦と誤報騒ぎなど、硬軟織り交ぜたネタは、ゴシップ的な興味で読んでももちろん面白いし、ジャーナリズムやイギリスの文化について真面目に考えたい人にも、興味深い材料を提供してくれるでしょう。中ほどに挿入されている「タブロイド小史」の登場人物も、実に傑物ぞろいで楽しめます。

 特に印象的だったのは、ある保守系のタブロイド紙が、警察の人種差別捜査を批判するキャンペーンを張ったときのエピソードです。その新聞は、「真犯人」を名指しで記事にするなど、かなりアンフェアすれすれのことをやりながら、ついに政府や警察を動かして、責任者に謝罪させたということです。つまり、イギリスの読者には、タブロイド紙に対するシニカルな態度があるので、タブロイド紙はかえって自由な取材活動ができ、そのおかげで、ときに大きな成果を挙げることができる、という逆説があるようなのです。もちろん、それを全面的に肯定できるかどうかは微妙な問題ですが、ジャーナリズムと読者の関係を考える上で面白い材料を提供してくれているのは確かでしょう。

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Blank Slate

 突然思い出したけど、"Blank Slate" を「空白の石版か」っていうのは、どうなんでしょうねえ。これって、英語圏でよく使われる一種の慣用句なんだけど、もろ直訳してますよね。あと、"Embracing Defeat" を「敗北を抱きしめて」っていうのどうなんかなあと思ったんですよね。enbrace っていうのは、新しい思想や宗教などを「受け入れる」という意味でわりと普通に使われる言葉で、別に比喩表現じゃないでしょう? っていうか、まあ、もともとは比喩表現だったんだろうけど、今ではその比喩性はほとんど失われているのでは? まあいいや。人の揚げ足取りばっかりしてると、自分が墓穴掘るからね(^^)。やめようやめよう。

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Devastating bomb dropped on Japan

 Children's History of the 20th Centuryという子供向けの歴史の本にのっている、1945 年 8 月 6 日の記事。

At 8:15 a.m. this morning an American bomber plane called Enola Gay released its solitary bomb over the city of Hiroshima in Japan, and a new era in warfare began. As a result of a single atomic explosion, an estimated 80,000 people were killed instantly, and much of Hiroshima has simply ceased to exist. The people at the center of the blast have been completely vaporized, with charred shadows their only remains. Radiation levels in the area are dangerously high. A mushroom-shaped cloud of smoke and dust rising 5 miles (8 km) in the air above the city is all that can be seen. Relying on the explosive power of an atomic reaction, the atom bomb has been developed by an international team of scientists in the United States in a top-secret operation code-named the "Manhattan Project." The US launched the attack after Japan failed to surrender unconditionally, although rumors persist that this unprecedented use of nuclear weapons was unnecessary. What is clear now is thatJapan will either have to surrender or face further nuclear attacks. The Allies believe the attack will lead to an end to the war.

(拙訳) 今朝午前 8 時 15 分、エノラゲイという名のアメリカの爆撃機が、日本の広島市上空で、たった 1 個の爆弾を投下したとき、戦争史は新時代の幕を開けた。この一回の原子爆発で、約 80,000 の人が即死し、広島市のほとんどがあっさり消滅した。爆心地の人々は、焼け焦げた影だけを残し、完全に蒸発した。現在、この地域の放射線レベルは、危険域まで上昇しており、見えるのは、広島市上空 5 マイル (8 km) まで舞い上った、キノコ形をした煙と塵の雲だけである。原子爆弾というのは、原子反応の爆発力を利用した爆弾で、「マンハッタン計画」というコードネームを持つアメリカの極秘プロジェクトの中で、国際的な科学者のチームにより開発された。アメリカは、日本が無条件降伏に応じないのを見て、このような未曾有の兵器を使う必要はないのではないか、という根強い世評の残る中、攻撃に踏み切った。もはや、日本が降伏しなければ、さらなる核攻撃に直面することは明らかである。連合国は、この攻撃が戦争に終止符を打つことを信じている。

(注: この歴史書は、同時代の新聞記事の形式をとっているので、昔のことであるにもかかわらず現在形で書いてある。)

この本は洋書にしてはわりとニュートラルかな? もっとも、出版社はイギリスなので、そのせいかも。

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シャーロック・ホームズの神学

 "The Theology of Sherlock Holmes" (「シャーロック・ホームズの神学」) などという HP を見つけたんですが、案の定「ボスコム谷の秘密」を最初に取り上げてますね(^^)。

This entire dialogue proceeds on assumptions of a Biblical reality including an assumed final judgment beyond the grave. The mingled justice and mercy in the exchange reflect clearly the defining characteristics of God himself and demonstrate that Holmes and his contemporaries lived in a culture where such realities were taken for granted. "There is one lawgiver, who is able to save and to destroy: who art thou that judgest another?" James 4:12.

(拙訳)この対話は、最後の審判などをはじめとする聖書的なリアリティを前提にして進められています。この正義と慈悲の入り混じったやりとりは、明確に(キリスト教の)神を特徴づける性格を反映しており、ホームズやその同時代人が、そのようなリアリティを当然のものと考えるような文化の中で暮らしていたことを示しています。「しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか(「ヤコブの手紙」第4章12節)」。

(最後の聖書の引用の訳は、「著作権フリー聖書」による。)

でも、予定説の話は出てこないなあ。解釈違うのかなあ(^^)。

 (関係ないけど、この HP の主催者は、純潔運動やってる人みたい。宗教右派なのかなあ。)

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シャーロック・ホームズ(について)の思い出

 山岡洋一氏がやっている「翻訳通信」という Web 雑誌で、仁木めぐみさんが「私的ミステリ通信」という連載をしていて、その中に、「シャーロック・ホームズカルトクイズ」みたいなのが載っていたので、早速やってみたら、10 問中 8 問も正解してしまいました(^^)。

 仁木さんは、「7問~9問、ホームズ・マニアでしょう。周辺書や関連書が出ていないか、いつもチェックされているのでは?」などと書いているのですが、そんなことないです(^^)。ホームズが好きだったのはかなり小さいころで、でも、子供の頃に凝っていた事って、歳をとっても意外と覚えてるものですよね。

 もともと、小学生の頃は、ホームズよりもルパン(ルパン三世じゃなくて、ルブランの書いたアルセーヌ・ルパンの方ね)が好きで、近所の図書館で全巻読破した覚えがあります。ホームズを読んだのは、たしか、中学校の図書館でじゃなかったかなあ。「フッフー」とかいうパイプをふかす擬音が随所に挿入されてて、独特の訳だったけど、わりと読みやすかったような気がします。その後は SF の方に行ってしまったんで、ホームズ・ルパン以外のミステリの名作って、意外と読んでないんですけどね(^^)。

 今、ホームズで一番印象に残っている台詞は、"The Boscombe Valley Mystery" の最後に出てくる、

"There, but for the grace of God, goes Sharlock Holmes."

(「神の恩寵がなければ、お前も同じような罪を犯していたのだぞ、シャーロック・ホームズよ。」)

というやつ。たぶん、ホームズのような「正義の味方」がそんな台詞を言ったところが、子供心に印象的だったのだと思いますが、今考えると、これはキリスト教の予定説 (predestination) の表れなんじゃないかと思いますね。

 これに限らず、子供の頃読んだ翻訳物で納得いかなかったところが、文化の違いが原因だったということは結構あるような気がします。今またホームズを読み直したら、いろいろと新しい発見があるかも(^^)。

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