YouTube とレズビアン

 昨日の「英語でしゃべらナイト」では、なんと、かの YouTube の創始者スティーブ・チェンと、レズビアンを正面から取り上げて話題となった「L の世界」というドラマで主演したジェニファー・ビールスにインタビューしていた。

 NHK だから当たり障りのないことしか聞かないのかな~、と思っていたら、YouTube での違法行為の話とか、レズの話とかも、ちゃんと聞いてましたよ。NHK さんもなかなかやりますなあ(^^)。

 ちなみに、ジェニファー・ビールズにインタビューしたのはなぜか川島なお美で、英語はそこそこうまかったけど、自分だったらあんな役は引き受けないとか言っちゃったり、自分のフィアンセについてのろけたりとかして、内容はワリとグズグズだった(^^)。

 スティーブ・チェンは、インターネットの将来について鋭い予言とかするのかな~と思って観ていたら、まさか YouTube がこんな使われ方するとは思わなかったとか正直に言っちゃってて、ワリとふつーの兄ちゃんだった(^^)。

 興味のある人は再放送でもチェックしてみてくださいな。

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歳をとると腐ります

 まあ、自然の摂理ですから仕方のないことですが、人間歳だけは取るもんじゃないですね。若い人にはわからないかもしれませんが、アタシなんかもう 40 歳過ぎてから、記憶力がぜんぜんダメ。昔は、新しい芸能人の名前なんかでも、一回二回観ただけですぐ覚えられたもんですが、今じゃ、何回観ても覚えられない。それどころか、昔から覚えているはずの名前すら出てこない。多分、40 歳過ぎると、もう脳細胞が腐ってくるんじゃないかと思いますね。

 脳細胞だけじゃない。身体の方もヒドイもんですわ。ちょっと階段を上っただけですぐ息切れするし、ちょっとばかし長い時間歩いただけで、翌朝筋肉痛になってたりする。加齢臭もハンパじゃないですしね。もう、血管や筋肉なんかも腐ってるんじゃないですかねえ。

 あと、アタシも一応男性なんで、この歳になると気になってくるのが、男性機能というやつで。やっぱりああいうもんは、使っていれば大丈夫、使っていないと衰えるんだそうですが。アタシ、自慢じゃありませんが、あまり女性に縁がないもので、最近とんと使う機会がない。だから、あちらの方もいい加減腐って蜘蛛の巣が張ってるんじゃないかと思うんですけどね。

 え、何を言ってるんだ、そんなこと科学的にあり得ないだろうって? いやまあ、確かにアッシは無学ですが、これはものの例えってヤツで。え、似非科学が流行っているご時世に、そういう誤解を招くようなこと言うんじゃないって? あなた以外に誰か誤解した人がいるんですか。もしいたら、アタシの代わりに説明しといちゃくれませんか。え、そんなことを言ったら、40 歳以上の人が傷つくだろうって? いや、これはテメエのことを言ってるんですがね。そいつがいけないとなると、テメエでテメエのことを自慢しなくちゃならなくなりますわな。え、想像力が足りないって? いや、一応 40 歳以上の男性のほとんどは共感してくれるだろうと想像したんですけどね。間違ってましたかね。

 え、いんたぁねっとでオマエのぶろぐを炎上させてやるって? やれやれ。わかりました。じゃあ今後はあんまり目立つところでは言わないことにしますわ。なんだかややこしい世の中になっちまったもんだね、こりゃあ。。。

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太田光の鋭すぎる踏み込み

 「爆笑問題のニッポンの教養」を観てて、一瞬わが耳を疑った。ゲストは伊勢崎賢治。東ティモール、シエラレオネ、アフガニスタンなどの紛争処理を現場で指揮した、自称「紛争屋」さんだ。この人は、去年、マル激トーク・オン・ディマンドにも出演していて、それを観たときから面白い人だなあと思っていた。なにせ、机上の理論ではなく、実際に紛争のまっただなかに飛び込んで停戦や武装解除を実現してきた人だから、言葉に説得力がある。

 ところがなんと、こういう人に対して、太田光は、「あなた戦争が楽しいんでしょ?戦争がなかったら生きがいがないんでしょ?」てなことを言い放ったのである。

 ほとんど無礼すれすれ、いや、完全に無礼な発言に違いないのだが、伊勢崎氏は笑顔を崩さず、「いやあ、そのことは自分でも自覚してますよ。だから「紛争屋」なんて名乗っているわけでね」などとおだやかに返したのであった。

 ぼくはもちろんこのやりとりを聞いて驚いたのだが、決して不快な印象ではなかった。むしろ、太田のするどい踏み込みをギリギリで見切って受け流す伊勢崎という、一流の武道家同士の立会いを見たような気分だった。いいものを見せてもらいました、という感じ。

 もちろん、この質問のおかげで、視聴者は、リアリズムとロマンティシズムの間でバランスをとる伊勢崎の強靭なバランス感覚を感じ取ることができたであろう。ジャーナリストには、ときにこういう踏み込みが必要だが、たぶん、現在のテレビのインタビュアーで、あそこまで無礼な質問ができる人は、あと田原総一朗ぐらいしかいないのではないだろうか。

 いっそ、田原引退後は太田が朝生の司会をやればいいのではとも思ったが、よく考えると、太田が司会だったら、ゲストそっちのけで一人でしゃべりまくりそうだから、無理かもしらんね(^^)。

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ジャンクSPORTSの美学

 「ジャンクSPORTS」というのは、ご存知の方も多いと思うが、ダウンタウンの浜田雅功がメイン MC をつとめ、ゲストに迎えたトップアスリート達をヒナ壇芸人よろしくいじり倒すという番組である。

 ダウンタウンファンのぼくはもちろん、この番組自体好きでよく観ているのだが、中でも前から気になっているコーナーが一つある。それは、「スポーツ・ファンタスティック」の中の「ジャンクスポーツPR大作戦」 というコーナーである。

 これは、たとえばビーチバレーの浅尾・西堀ペアとか、F1 の鈴木亜久里のチームとかに、 ジャンクSPORTSの番組のロゴの入ったものを着用してもらったり、F1 のマシンにステッカーを貼らせてもらったりして、ジャンクSPORTSという番組をタダで宣伝してもらおうという、超ずーずーしい企画、のはずなのだが…(^^)。

 でも、冷静に考えると、平均視聴率 10% 程度を稼ぐジャンクSPORTSの方が、ビーチバレーや F1 レースの試合より、メディアとしてのリーチは大きいはずである。普通、広告というものは、リーチの小さいメディアがリーチの大きいメディアに出すものだが、この企画では、それが逆になっているのである。

 つまり、見かけ上は、ジャンクSPORTSが他のスポーツに宣伝してもらっているように見えるが、実質的には明らかに、ジャンクSPORTSの方が他のスポーツを宣伝することになっているのである。深読みかもしれないが、それをあえて、「宣伝してもらっている」と表現するところに、ぼくは番組スタッフの美学のようなものを感じて、心の中でニヤリとしてしまうのだ。

 もっと深読みすれば、このやり方は、いつも宣伝「してやって」いるのだから、という事実を免罪符にして、いざとなると芸能人やアスリートのプライバシーを暴き立てて食い物にしている、他の芸能マスコミやスポーツ・ジャーナリズムに対する批評にもなっていると思うのだ。

 このようなイエロージャーナリズムの問題点は、ルールというよりむしろ美学の欠如にあるので、論理的な言語では批判しにくいところがある。したがって、そのような美学のなさを批判するには、より美学のあるモデルと対比することが最も効果的なのである。

 そういう意味で、ジャンクSPORTSのスタッフの方々には、今後もぼくの深読みを裏切らないようにがんばっていただきたいものである(^^)。

(ダウンタウンのことを下品な芸人だと思っている人もいるようだが、この例でもわかるように、ぼくは、彼らには強い美学的なこだわりがあると思う。もちろん、それを美しいと感じられるかどうかは、人それぞれだと思うが(^^)。)

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妊娠はしていない

 今日、さる有名人が結婚したというニュースを見ていて気づいたんだけど、最近の有名人の結婚を報じる記事って、たいてい「妊娠はしていない」って書いてあると思わない(^^)? あれって多分、「できちゃった婚」が流行ったせいで、逆にできちゃった婚でないときにはそれを明示する、みたいな習慣ができたんだろうけど、ひいて見るとなんか変だよねえ(^^)。別に、赤の他人が妊娠してようがしてまいが、別にどーでもいいし、そんなの全国に報道しなきゃならないような大問題か(^^)?

 と思って、「妊娠はしていない」で検索してみたら、やっぱり同じようなことを思っている人がいましたね(^^)。

 まあ、こんなに他人の私生活に興味がないのは、ぼくが冷酷すぎるだけなのかもしれないけどさ(^^)、やっぱ、俗情との結託をあんまり大手をふって正当化してほしくないのよね~。報道する方も、少しは慎みを持ったらいかがでしょう。

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別に…

 そうそう、高橋幸宏さんの「A Day In The Next Life」に収録されてる「BETSUNI」っていう曲があってさー、ってそんなことが言いたいのではなかった(^^)。例の若手女優さんの話だった。

 ぼくは「パッチギ」も見てないし、この人のことほとんど何も知らなくて、YouTube で会見の動画とかを見ただけなのだが、正直なんか可愛そうになってしまった。

 たとえば、もしあの MC が浜田雅功だったら、「お前何やその態度は~!」と言いながら彼女につっかかって行って、どつき回していたであろう。さらに、どつきながら放送禁止用語を叫びまくって、ビデオが録画されていても放送できないようにするぐらいのことはしたかもしれない。その結果として、逆に彼女の名誉は守られたであろう。ところが、実際にはほとんど放置プレーだったわけだ。

 つまり、そういう気配りのできる本当のオトナというものが少なくなった結果として、若者は社会に出てすぐのときから成熟したオトナとして振舞うことを求められるようになっているわけだ。

 これはおそらく、世の中から年功序列の文化が薄れた結果、若者と年寄りがほとんど平等な条件で競争することを強いられるようになった結果なんだろうね。昔だったら、二十歳過ぎればオトナだとは言いつつも、実際にはまだまだ子供だからというんで甘えることが許される部分があった。

 それは、年寄りが無条件に尊敬されていたことの裏返しだ。だって、今のように、自分より年下の奴が上司で給料もたくさん貰っていることも珍しくない、というような社会では、若者だからといって、そんなに甘やかす気持ちになれないのも無理ないではないか。

 だけどさあ、オトナぶって偉そうにコメントしてる連中を見ると、お前ら自分が二十歳のころとか思い出して見ろよ、そんなにオトナだったか? 二十歳かそこらで、日本中で女王様だのなんとか会だの言われて、街を歩いていても当然「あ、○○会だ、クスクス…」みたいなことを言われたりしてただろうし、それでそんなに平然としてられるのか、と聞いてみたい気もするんだよね(^^)。少なくとも、ぼくにはとうてい無理だったろうね(^^)。

 それから、これはこの事件に限ったことではないが、芸能マスコミという奴はどうしてあんなに偽善的なんだろうね。誰かの飲酒事件のときにも書いたけど、「社会的な影響が大きい」とか言うのやめてくれよ~。お前らが面白がって報道するから影響が大きくなるんだろーが。ホントに影響が広がるのが嫌なら、報道しなけりゃいいんだからさあ(^^)。

 まあ、あんた方もそれでオマンマ食べてるんだろうから、報道するなとまでは言わないけど、せめて、「わたしらも、本当は視聴率がとれておいしいから報道してるだけですけどね」ぐらいの自虐ネタをかましてみたらどうだ(^^)。まるで自分たちは純粋に善意で行動してるんです、みたいな顔されると、正直ムカムカするんだよ。

 もちろん、ファンの人や映画を見に来た人、あるいは、同じ映画のスタッフが怒るのは当然だけどね。でもそれは、頑固な職人がやってる無愛想な寿司屋みたいなもんで、客が怒って二度と行かないとかいうのはわかるけど、客でもなんでもない奴が「あたしがあの職人シメてやるよ」とかいう話じゃねーだろ? そんな店、行かなきゃいいだけの話なんだからさ。もっとも、ぼく自身は、もったいぶった頑固職人の店より、誰にでもわけへだてなくスマイルしてくれるファミレスとかの方が好きだけどね(^^)。

 まあ、結論としては、怒るのはいいけど、怒る方ももっとオトナになれば? でないとみっともないよ、ってことだね。


 なんか最近の世の中って、近視眼的に見ると理屈は通ってるんだけど、ひいて見るとバランスがおかしい、みたいなことが多いよね。。。でも、そういうのを理屈で批判しようとすると、やろうと思えばできることはできるんだけど、すごく手間がかかるんで、ちょっとアイロニカルなレトリックでごまかしてみましたって感じなんだけど、ぼくはもともと理屈の人なんで、あんましうまくなかったかも(^^)。

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爆笑問題のニッポンの教養スペシャル

 「爆笑問題のニッポンの教養スペシャル」見ました。爆笑問題が、慶応大学で大学の先生ばっか相手に討論をやるという超無謀企画(^^)。でも、けっこう面白かった。

 なにより、あのメンツ相手に、正面から堂々と飲み屋のオヤジみたいなしろーとの議論を仕掛ける太田光はすごいと思いました。いや、ほめてますほめてます(^^)。だって、ぼくなんか絶対そんなことできないもんね(^^)。

 ほらなんか、能力技術以前に男気みたいなもんで、かなわんなあ、と思うことってあるじゃない。なんか、やーさんみたいな評価の仕方でアレなんですけど(^^)。


 「太田総理」や「ニッポンの教養」を見てて面白いなと思うのは、太田光が、この手の番組にありがちな古典的かつ安易な手法、つまり、庶民の側に立って権威をこき下ろすという方法を、あえて封印していることである。明敏な彼は、そういう手法が一時代前の手法であって、現代にはもはや通用しないことを十分に悟っているのだ。もちろん、だからと言って、あの太田光が、単純に権威に媚びるという方法をとるわけもない。

 そこで彼が選んだのは、権威を持ち上げるでもなく否定するでもなく、あくまで一個の人間として誠実に権威と対峙するという、「第三の道」だった。おそらく彼は、一芸人である自分が、権威と市民との間でなんらかの役割を果たしうるとしたら、そういう形しかないはずだと、芸人としての直感で感じているのだと思う。

 もっとも、これはきわめて微妙なバランス感覚を必要とする方法で、逆にただのうっとおしいバカと思われかねない危険を常に負っている。今のところ彼は、絶妙のバランス感覚でこの危険な綱渡りを成功させているように見えるが。。。

 ぼくは正直、このような方法がどこまで成立しうるのか懐疑的な部分もあるのだが、ファンとしては彼の「蛮勇」を買って彼のやることを見守ってやりたいという気分なのである。よし太田、行けるところまで行ってみろ、骨は俺らが拾ってやる、と(^^)。

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「大日本人」予告映像

 いつのまにか、松本人志さん初監督の映画「大日本人」のウェブサイトができてますね。この予告編、気になりますねえ~(^^)。最後のシーンは石丸電気の裏ですよね。

 でも正直言うと、今回は、映画の出来よりも興行さえ成功してくれれば、という感じですね。また興行ですべって、「ごっつうええ感じ」のスペシャルの時みたいに、松っちゃんがすねちゃったら困るもんね (^^)。

 あんときも、番組の内容がどうこういうより、事前の告知が少なすぎたと思うんですよ。だって、けっこうなダウンタウンファンであるぼくですら、放送当日までそんな番組をやっているという事実に気づかなかったんですから。時間帯も普段テレビ観てる時間帯と違うし。たまたまザッピングしてたら、「あれ、ダウンタウンがコントをやっているぞ。しかもこれ、昔ごっつうええ感じでやってたやつじゃん。でも、よくよく観るとこんなの観た覚えないぞ。ひょっとして新作?」みたいな感じだったもんね (^^)。

 たけしさんの場合、最初の頃はたいして評価が高くなかったのに、しつこく撮り続けてあそこまで行ったわけだけど、松っちゃんの場合、性格からして、あんまり受けなかったらスネてやめちゃう可能性あるもんね。

 もちろん、誰が観ても傑作だったらいうことはないけど、とりあえず興行だけはそこそこうまく言って欲しい。こんな言い方は失礼かもしれないけど、正直な気持ち。

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追悼・植木等

 あの植木等さんが亡くなった。と言っても、ぼくなんか本当はリアルタイムで植木さんの仕事に触れた世代ではない。特に、植木さんの映画やシャボン玉ホリデーとかについては、小林信彦さんの本とかで読んだぐらいで、自分ではほとんど見たことがない。

 ただ、植木さんの音楽ついては、代表的な曲はほとんど知っていて、実際に愛聴してもていた。ぼくの音楽についての知識はかなりの部分坂本教授経由なのだが、これも実はそうで、さらに言えば大瀧詠一経由である。

 前にも書いたけど、ぼくは 10 代の頃、NHK FM でやっていた坂本龍一のサウンドストリート、通称サンストという番組を毎週欠かさずエアチェックしていた。その番組の中で、クレージーキャッツ・フリークとして有名な大瀧詠一さんをゲストに呼んで、クレージーキャッツ特集をやったことがあるのだ。これはかなりインパクトがあって、その時にエアチェックしたテープは繰り返し擦り切れるまで聴いた。

 中でも特に気に入ったのは、「だまって俺について来い」という曲。これはナンセンス・ソングとしてもきわめて完成度が高く、なおかつ、高度成長期の日本のある種の雰囲気をも現代に伝える名曲だと思うので、若いみなさんも、機会があればぜひ一度聴いてみていただきたい。歌詞だけなら、「だまって俺について来い ハナ肇とクレイジーキャッツ 歌詞情報」とかで読むことができる。この歌詞を読んだだけでも、いかに偉大な曲かがわかっていただけると思う (^^)。

(実際のレコードを聴くと、「み~ろよ~」のところで突然声楽的な歌い方になっているが、植木氏が実際に声楽を習っていたのも有名な話。初期のヒット曲「はいそれまでよ」のイントロなんかにもその素養が生かされている。)

 ちなみに、同じくクレージーキャッツ・フリークであるマンガ家のとり・みき氏は、この曲をネタにして丸々マンガ一本書いていて、曲題をそのまま単行本のタイトルにまでしている(なぜか amazon.co.jp には登録されていないが)。このマンガも曲に負けず劣らずバカバカしくて面白いので、ヒマな人は古本屋で探してみてください。

 そう言えば、ここでは触れなかったが、クレージーキャッツのほとんどの曲に詩を提供している青島幸男氏も昨年末に亡くなっている。宮崎駿氏は、手塚治虫が亡くなった時に「昭和が終わったと感じた」と言っていたが、ぼくは今日、今さらながら改めて昭和が終わったと感じた。それくらい、昭和の一時代の空気を体現していた人たちだったんじゃないかという気がする。

 合掌。

 余談になるが、ナンセンス・ソングと言えば、ぼくが最近気に入っているのは、言うまでもなく、ムーディ勝山の「右から来たものを左へ受け流すの歌」である (^^)。この曲なんかも、「だまって俺について来い」などと比較してみると、なかなか興味深いものがある。

 どちらも、なんだか得体の知れないものについて唄っているという点では共通している。しかし、「右から来たものを左へ受け流すの歌」の場合、右からきたものがなんなのかという答えは最初から用意されていなくて、その空虚なオチを生かすように全体が計算ずくで構成されているように思える。それに対し、「だまって俺について来い」の場合、計算なのか本気なのかわからないところがあって、本当にそんな人間がいてもいいじゃないか、というような真面目な主張のように聞こえないこともない (^^)。そこがいい意味である種の深みになっている。

 どうもぼくには、ここらへんに時代の差が現れているような気がするのだが、緻密な分析をするには、もう少し時間が必要なようだ (^^)。

追記: 

 なんかまた、植木さんをネタにして、高度成長時代は今よりよかったみたいな話を書いてる人たちがいるけど、あの時代を極端に美化するのはいい加減やめてほしい。ほんと、そんなバラ色の時代ちゃうぞ (^^)。

 ぼくのこの小文もそうだけど、昔を美化して懐かしむのが好きだというのは、たぶん歳をとった人間に共通する習性にすぎなくて、それは、客観的な評価とは別物ですから。だから、そろそろ、高度成長時代の負の側面もちゃんと語った方がいいと思うぞ。

 たとえば戦争。当時はもちろん冷戦真っ只中で、もちろん核軍縮なんかもなくて、いつ核戦争が起きて人類が滅びてもおかしくないと言われながら暮らしてたことを知ってるか? 実際、キューバ危機みたいに核戦争寸前まで行ったこともあった。今は 9.11 やイラク戦争程度(あえて程度と言うが)で大騒ぎしているけど、当時は、中東やアフリカでは日常茶飯事のようにホンモノの戦争が行われていたんだ。ベトナム戦争はもちろん、第四次まであった中東戦争、イラン・イラク戦争、第三次まであった印パ戦争。

 たとえば公害。水俣病・カネミ油症・イタイイタイ病・四日市喘息なんてムチャクチャな公害がかなりの長期間放置されていた。国や企業の対応だって、今よりはるかにひどかったんだぞ。そもそも、環境基準そのものが今よりぜんぜん低レベルで、今みたいに晴れてる日に東京から富士山が見えるなんて考えられないほど空気も汚かったんだ。

 たとえば差別。男女差別も学歴差別も当たり前。部落差別だって今みたいになんちゃって差別じゃなかった。今の子は、実力さえあれば、低学歴でも女性でもやっていけると思ってる人も多いだろうけど、そんなのは夢のまた夢みたいな時代。今みたいな再チャレンジどころか、大学入試で一生が決まると言われていたんだよ。

 誰もが夢を見れる時代とか言ってる人がいたけど、そりゃテレビや洗濯機や冷蔵庫を買って、マイホームを持ってみたいなのが「夢」だというならそうだろうけどね。自分の好きな職業についてやりがいのある仕事をするという意味で言えば、今の方がずっと自由だよ。信じられない人は、「ふぞろいの林檎たち」でも観てくれ (^^)。

 たとえば情報。国や大企業が情報を隠すなんて日常茶飯事。今みたいにそれをインターネットで告発するなんてできなかったんだからね。今みたいに、一市民の告発で国や企業が動くなんて考えられない。多くの一般庶民は国や大企業やマスコミの言うなりで、騙されていることに気づく機会すらなかったんだ。

 もちろん、今よりいいところだって少しはあったでしょうよ。でも、今の若い子がタイムマシンであの時代に戻ったら、やっぱり今の方がいいと思う人も多いと思うよ。そういうことを、もうちょっと宣伝した方がいいんじゃないか (^^)。

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もういまはいないぼくへ

 アイドル海川ひとみさんが「ハッスル」でプロレスをやっているビデオを発見。

 まあ、正直言って、キャットファイトを見るときのような、スケベな好奇心半分で見始めたわけなんですが (^^)、予想に反して、見てるうちにイライラしてきて、最後まで観るのがつらかった。

 と言っても、女の子を慰み者にして、なおかつそれを見世物にするのはよくないとか、そういうイイ子ちゃんブリっ子なことが言いたいわけではなくて (^^)、そもそも、こういう芝居にもはやまったく感情移入できない自分というのを発見してしまったのだ。

 つまり、海川とか眞鍋とかが本気で怒って、アナウンサーとかもそれに同調しているのを聞いていても、「えー、だって海川だって売れないアイドルの自分が少しでも名前を売りたいからわざわざプロレスの試合なんかに出たわけだろうし、ハッスルのほうだって話題性があるから出しただけでしょ? 眞鍋だってそれ知ってるくせに、なんで本気で怒ってるフリしてんの?」みたいな、そーゆー感想しか出てこないんだよね (^^)。

 でも、考えてみたら、子供の頃猪木とか馬場を見てた自分はそうじゃなかった。タイガー・ジェット・シンアブドーラ・ザ・ブッチャーは本当にルールを守らない悪い奴だなあと思っていたし、ベビーフェイスである猪木や馬場が、出せば反則をするのをわかっていながら、自分を引き立てるために、わざわざ彼等を呼んでいるなんてことにも、まったく思いがいたらなかった。それで、善玉が悪玉に勝つというドラマを、けっこう喜んで見てたんだよね。

(まあ、立花隆さんのような頭のいい人から見れば、ああいうものを楽しめるのは、頭の悪い証拠(注:出典が見あたらないので、正確な引用ではありません。二次引用は避けてください)なのだそうですが。。。(^^))

 まあ、そんなことはどうでもいいんだけど、ぼくがちょっと考えてしまったのは、こういう感受性の変化というのは、時代の変化のせいなのか、それとも、自分個人の成熟(老化と言うべきかもしれないが)なのか、ということなんだよね。 

 もちろん、「ハッスル」の興行が成立しているということは、これを楽しんでみている人も一定数いるということなんだろうけど、その人たちはいったいどういう見方をしているのか、というのがぼくにはよくわからないわけ。

 ぼくにも、かなり熱狂的なプロレスファンの友人がいるので、彼らが単純にそういう芝居に騙されている知性の低い人たちではなくて、むしろ、相当知性がないとできないような二重三重にひねくれた鑑賞の仕方をして楽しんでいる、ということはよく知っているつもりだが、彼らにとって、あれは「あり」なのか「なし」なのか、今度会ったら聞いてみたい。

(ひょっとしたら、あのどう見ても勝ち目のなさそうな海川が無理矢理勝ってしまう、というのが、プロレスとしては正統派の展開であって、負けてしまうのは邪道である、というような見方をするのかも。。。(^^))

 一方で、北田暁大さんが言うように、現代がどんどんベタなものを嫌う方向に向かっているのも確かなので、自分がああいうベタな芝居にはついていけなくなっているのはそのせいではないか、という気もするのである。

 ぼくがこのビデオを見てると、どうしても、「だって自分最初から出たくてでてるやん」「出れば負けるのわかってるやん」見たいな(浜ちゃんの)ツッコミの声が、どこかから幻聴のように聞こえてきてしまうんだよね (^^)。こういう芝居は、そういうツッコミ付きで見ないと、なんだか気持ち悪くて仕方がない。

 繰り返すが、それは感性が老化したせいなのか、それとも、正しい鑑賞の仕方がわかっていないせいなのか、それとも、やっぱりあれに感情移入しろということ自体に最初から無理があるのか、ぼくにはよくわからないのである。今後の研究課題としたい (^^)。

おまけ

 今のと微妙に関係があるようなないような話だが、サイゾー 4 月号の山形道場に「人類の大規模な宇宙進出はありえない」という原稿が載っていて、正直かなり意表をつかれた。(でも、意表をつかれたということは、すでに半分ぐらいその主張に説得されかけているということなんだよね。)

 山形さんは、「ポスト・ヒューマン誕生」という本を読んだ感想として書いているので、この文だけでは正確な真意はわからないのだが、読んでわかる範囲だと、1.人類の人口がこのまま増え続けるということはない。いずれ頭打ちになる、2.地球の環境も、多くの人が地球を捨てたくなるほど悪くなりそうもない、というような理由らしい。 (これは、そう「悟った」山形さん自身にも多少意外なことであったらしく、最後は「つまんないの。」と結んでいる (^^)。)

 前にも書いたけど、ぼくら子供の頃に「未知との遭遇 」 とか「E.T.」とか観ちゃった世代だし、その頃は、カール・セーガンみたいな学者までが、宇宙人のいる可能性について真面目に議論して SETI だのドレークの式だの言ってわけだからね。だから、ぼくらも、そういうのに影響を受けすぎている可能性はあって、一歩引いてみると、なんでそんなことを信じこんだりしたんだろう、という気もしないでもない (^^)。

 でも、やっぱり「宇宙人」がいるかどうかで、かなり結論は違ってくるような気がするんだけどなあ。もっとも、最近は、宇宙にいる知的生命は人間だけのようだ、というような議論もちらほらされているみたいだからなあ。つまんないの (^^)。

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がんばれ、くりいむしちゅー!

 今日ちょっと気になったのはこの記事。

 「やりたい放題の細木数子に“包囲網”が敷かれ始めた!!

と言っても、よく読むと、細木サンといっしょに番組をやっているくりいむしちゅーが番組を降りたがっている、というだけの話なのだけれど、結構うれしかった (^^)。というのも、くりいむしちゅーは前からワリと好きな芸人で、あの細木サンと番組をやっているのだけが玉に瑕だな~、とずっと思っていたので (^^)。くりいむしちゅー、ここでつっぱり通せれば芸人としての格もワンランクアップだぞ (^^)。がんばれ!

 まあでも、細木サンは数字取れるんだからしょうがないんだろうなあ、と思いつつこのニュースに対する mixi のコメントを見たら、ほとんど 100 対 1 ぐらい(筆者のぱっと見推定)の比率でアンチ細木派が圧倒的だったので驚いた。やっぱり、あの人の番組が好きな層というのは、自分も若者に説教したくてしょうがない中高年層なんだろうね~。

 いや、別にぼくは若者に媚びるわけじゃないし、そういう説教オバサンみたいなのがいてテレビに出ててもいいと思いますよ。ただ、ぼくはあの人が出てる番組の演出が嫌いなの。あの、いかにもナマイキそうな女子高生とかが、細木にやり込められて一言も言い返せないでシュンとしてるみたいな演出が。そんなことありえね~だろ~!(^^) あれは、そういうふうにした方が、あの番組を見てる視聴者層に受けるという判断なんだろうけど、見てるとほんとジンマシンが出そうになる。

 そういうわけで、実際ほとんど見てないんで、たまたま見てしまった(^^)範囲でしか知らないんだけど、一番あきれたのは、ミスター・マリックと競演してたとき。ほら、ミスター・マリックがいろんな番組のロケ現場に突然現れて、手品のタネを見破ったら賞金いくら、とかいうシリーズあるじゃないですか。あれで細木サンの番組に乗り込んだときが、もうムチャクチャだった。

 まあ、細木サンがタネを見破るだけなら、まだあってもおかしくないと思うんですよ。でも、細木サンはなんとその後、「今度は私からマリックさんに挑戦します」とか言って、いろいろ道具ひっぱり出してきてマジックやっちゃうんですよ (^^)。そんなの、事前に準備してなきゃできっこないじゃん (^^)。それで、最後にマリックの手品のタネを見破って、さすが細木サン、すごいすごいだって。なんじゃそりゃ (^^)。

視聴者をナメるのもいい加減にしろ 

 あれを見たら、細木の番組を作っているスタッフが、いかに視聴者の知能レベルをバカにしきっているかがよ~くわかった。正直ムシズが走る。

 だから、ぼくは細木サン個人が嫌いというより、あの人の番組を見ていると、ああいう人物をスターにしたてあげてしまうテレビ界のイヤらしい構造がありありと透けて見えてしまうので、それでうんざりしてしまう、という感じなんだよね。

 いい忘れたけど、「ガキの使い」の「ピカデリー梅田」は、あきらかに細木番組を意識してるよね (^^)。ダウンタウンにしては、正直すぎるぐらいのパロディだけど、大好きです (^^)。

追記: なお、「人生経験の豊富な人」の説教が好きな方には、雀聖・阿佐田哲也(色川武大)氏が、一度地獄に落ちた人の視点から、きれいごとではない「愛」を説いた、「うらおもて人生録」という本をお勧めしておく。

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ダウンタウンの「擬似ヤラセ」に見る「演技する精神」

 山崎正和氏の「演技する精神」を久しぶりに読み返していたら、この本の理論を援用して、ダウンタウンの「擬似ヤラセ」の面白さがうまく説明できることに気づいた。(われながらいったいどういう連想回路をしているのかと思うが…(^^))

 「擬似ヤラセ」というのは、ダウンタウンがよくやるある種の企画に対して、ぼくが勝手につけた名前で、「ガキの使いやあらへんで」という番組の「板尾が来た」というシリーズがその代表例である。この企画について、番組を観た事のない人のために簡単に説明すると、こんな感じである。

ダウンタウンとスタッフが楽屋で打ち合わせをしていると(外でロケをしていると、etc.)、板尾創路が予告もなくやってきて、新しい企画を考えたから(偶然カメラに映ったから、etc.)金をくれと言い出す。 あまりに理不尽な言い分なのでダウンタウンとスタッフは抵抗するが、板尾のごり押しに負けて、しぶしぶ金を払ってしまう。

 こういうのを完全にドキュメンタリー調でやるのだが、板尾が貧乏で金に汚い人間だという設定はもちろんウソである。この映像がもし、本当に板尾が貧乏で金に汚い人間だということを信じさせようとして作っているのならヤラセそのものだが、この企画の場合、話が大袈裟すぎたり不自然すぎたりして、視聴者は観ているうちにこれはウソだと気づくような仕掛けになっている。

 つまり、普通のヤラセが、ウソを信じさせるとい目的のために作られた映像だとすれば、この「擬似ヤラセ」は、ウソを信じさせるとい目的をカッコに入れて、映像の作り方だけを忠実にマネた模倣なのである。

 さて、山崎理論によれば、模倣というのは、行動の目的をカッコに入れることによって、見るものの注意を行動の目的から過程に移す効果があるという。

 この擬似ヤラセを見た視聴者も、それがウソだと気づいた時点で、この映像が語ろうとする「目的」から映像そのものへと、強制的に注意を向けさせられることになる。そして、怖ろしいことに気づかされることになるのだ。

 この企画の映像はいかにもウソっぽい映像だが、よく考えてみると、板尾がスタジオやロケ地に来てそういう行動をとったということ自体はウソでもなんでもない。「本当」の映像との違いは、板尾が現実的な要請に基づいて自発的に行動をしているか、事前に打ち合わせをした上でその通りに行動しているかだけにすぎない。しかも、番組の中では、打ち合わせのシーンを流すわけでもなけでば、「板尾は金に困っています」というテロップやナレーションが入るわけでもなく(最近はテロップを入れることもあるようだ。無粋なことである)、板尾の行動を淡々と流しているだけである。ということは、実は、

 あの映像自体はウソでもなんでもなく、まごうことなき真実なのである!

 お気づきの通り、この構造は、印象操作を行うために編集されたニュース映像などとまったく同じである。つまり、この擬似ヤラセは、テレビ映像というものの本質的な欺瞞性を、凡百のメディア論なんかよりはるかに鮮やかに暴いてしまっているのである。これが、この企画のアイデアが第一にすごい点である。

 さらに、このアイデアにはもう一つの効果がある。この企画を、擬似ヤラセではなく、純粋なフィクションとしてやったときのことを想像してほしい。板尾が貧乏なタレントの役、ダウンタウンが冠番組を持っている売れっ子タレントの役をやっているコントだと考えてみるのだ。

 我々がフィクションを観るときには、たとえコントであっても、登場人物に感情移入して観ようとするものだ。したがって、板尾が貧乏だという設定はフィクションだとわかっていても、「もし板尾が本当に貧乏だとしたら」という仮定のもとで観ることになるだろう。そうすると、貧乏人が必死でやっていることを笑いものにしていいのかとか、ダウンタウンは売れてるからって傲慢じゃないのかとかいう、余計な想念が湧き上がってきて、素直に笑えないに違いない。

 しかし、この擬似ヤラセの場合、視聴者はそれがウソだと気づいた時点で(松ちゃんが「ガキの使い」のトークで激怒していたように、本気にしてしまう視聴者もいるようだが)、「板尾が貧乏かどうか」という問い自体が無意味になり、板尾が貧乏だとは仮定としてですらも思えなくなるのだ。その結果、登場人物の行動だけに注意が集中するようになり、追いつめられた人間の行動のおかしさ、みたいなものを純粋に笑えるようになるのである。前に書いた、「ウソなんだけど、本当よりも真実を語ってしまう」というのはそういうことである。

 余談になるが、ぼくがダウンタウンのこの手の擬似ヤラセ企画を観たのは、かれこれ十年も前にやっていた「ごっつええ感じ」という番組が最初である。ちょうどまだ「電波少年」などもやっていた頃で、猿岩石のヤラセ疑惑などが話題になっていた時期でもあった。したがって、その企画を見たとき、なんとすごい発想かと思い、松本人志という人はまごうことなき天才であると確信したのであるが、そのころはまだ、何がすごいかを理屈で説明することはできなかった。それを十年以上たってやっと理論化できたので、余は満足である (^^)。

 もっとも、松本人志という人の頭の中には、このような高度なお笑い方程式がまだまだたくさん隠されていると思う。ぼくか松ちゃんのどちらかが死ぬまでの間に、なんとかその全貌を明らかにしたいというのがぼくの密かな野望である (^^)。(なお、文中の敬称を一部略させていただきました。)

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怪しいものではありません

 松本人志さんという人のいうことにはしばしば感心させられるが、先週 (先々週かな?) の「HEY!HEY!HEY!」でも名言があった。ゲストの小林麻央が、「わたしよく鼻が詰まってるって言われるんですけど、ホントは詰まってないですから」みたいなことを言ったとき、松っちゃんが「鼻が詰まってるか詰まってないかを決めるのは、そっちじゃなくて、こっちだから」とピシリ。さらに、「よく、私は怪しいものではありませんとか言う人がいるけど、怪しいか怪しくないかを決めるのはこっちだから」とバッサリ。

 念のために勝手に補足させてもらえば、これは「本当に悪人か悪人でないかは、周囲の人間が勝手に決めることじゃない」という命題と表裏一体のものとして解釈すべき命題である。言い換えれば、「悪さ」は客観的に判定すべきだが、「怪しさ」はあくまで主観の問題なのだということだ。

 たとえば、日本には、「黒づくめの覆面を着て出歩いてはいけない」というような法律があるわけではないので、どんな格好をして歩いても自由と言えば自由である。しかし、それを見た人がどう思うかだって、当然のことながら、見るほうの自由なのであって、そんな格好をしていれば、怪しい奴と思われても文句は言えない。もちろん、「怪しい」からと言って、殴ったりするのは法律的に許されないが、友だちにならないとか、法律的に許される範囲で「非好意的」に遇する自由はあるわけだ。だから、分別のある人は、よほどの理由がない限り、わざわざそんな格好はしないわけである。

 もちろん、相手が家族や友人だったら話は別で、逆に、知り合いなのに見かけだけで怪しいと決めるなんて薄情だ、ということになるだろう。しかし、そういう信頼関係のない相手に対して、見かけを無視してどんな格好をした人をも平等に扱えなどと要求するのは無理な話というものである。そんなことが可能だったら、制服やファッションなどというものは、とっくに世の中からなくなっているはずだ。

 ちなみに、この服を着ればぜったい怪しく見えない服、などというものが完成することもありえない。なぜなら、そんな服ができれば、怪しい奴はこぞってその服を着るようになるから、じきに、その服こそが一番怪しいということになるに決まっているから。つまり、怪しく見えないような格好をするのだって、けっこう個々人の日々の努力のたまものなのである。一番簡単な方法は、多数派に合わせること。だからこそ、服装には常に流行があるのである。

 また、その覆面が親の形見なので、親の命日にはどうしても着用したいとか、これを新しい革命的なファッションとして流行らせたいとか、何かしら特別な理由があれば、絶対にダメとは言えない。しかし、あえてそういうことをするからには、事前に周囲の人に事情を説明しておくとか、怪しい奴と思われてもいい覚悟をして着続けるとか、それなりの努力が必要なわけである。

 なぜ今日になってわざわざこんなことを書くのか、勘のいい人だったらすでに気づいていると思うが、残念ながら、勘のよくない人にもわかるように説明するほどの時間はない。悪しからず。

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What is Integrity?

 メンバーが不祥事を起こしたので、野球チームを解散すると言っていた監督が、ファンの意向を受けて解散を取り消したという出来事がありました。この出来事については、mixi なんかでも、かなり斜めから見てる人が多いみたいですけど (^^)、正直、ぼくもこうなるような気はしてたんですよね~(^^)。でも、何か釈然としないものがあるので、自分の頭の中を整理するためにも、少し考えてみたいと思います。

 まず、この監督の真意はおいといて、客観的に球団や監督に責任があったかを考えて見ましょう。ぼくは基本的に責任はない、もしくは、あっても極めて微量であると思います。なぜなら、あれはあくまでメンバー個人の私的な行動にすぎないからです。一般の会社についてもそうですが、社員が会社の職務として行っていた行動の結果について会社が責任を負うのは当然でしょうが、社員の私的な行動にまで責任を負う必要はないと思います。

 責任というのは権限から発生するものだから、もし会社が社員の私的な行動にまで責任を持たねばならないのなら、必然的に、会社は社員の私的な行動まで束縛する権利を持ってよい、ということになってしまいます。これは、リベラルな社会において、原則的にあってはならないことでありましょう。先ごろ、NHK の記者が放火をしたということで、NHK の上司が謝罪していましたが、ぼくは、同じ理由でこの謝罪も不要だったと思っています。話がそれましたが。

 次に、この監督の対応についてですが、彼の意図をあれこれ詮索しても水掛論になるだけなので、彼が単純に翻意した場合と、最初から撤回するつもりで解散を表明した場合と、両方考えてみることにします。

 まず、単純に翻意しただけの場合ですが、もともと責任はないという私の立場からすると、ない責任を認めてしまった最初の発言が間違いだったということになります。その意味で、球団の監督としては思慮が浅かったという批判は当然成り立ちます。

 ただ、人材というのは希少な資源なので、あらゆるポジションに最高の人材を求めても仕方ないんで、適材適所に人材が割当てられていることが重要なのです。つまり、組織の長は、その組織の運営に必要十分なだけの思慮があればいいわけです。そういう意味では、結果オーライにせよ、球団は無事存続しそうなわけで、彼は監督としての責任を一応果たしているとも言えるわけです。もちろん逆に、責任があるという立場からすれば、どうやって責任をとるかの意思表示もなく、発言を撤回したことが批判されるべきでありましょう。

 次に、最初から撤回するつもりで解散表明した場合ですが、確かにあざとい印象はありますが、先と同じ理由で、やはり結果責任としては彼は一応監督としての責任を果たしていると言えます。ただ、この場合に問題なのは、彼が一度は自ら責任を認めていることです。それが一時の気の迷いでなく、すべて意図的だとするなら、彼は本当は自分に責任があると思っているのか、それともいないのか。

 もし、本当は責任がないと思っているのに、わざと責任があると言ったのなら、責任をとらないという行動は正当化されますが、心にもないウソを言ったきわめて不誠実な人だということになるはずですし、逆に、もし本当に責任があると思っていたのだとすると、彼は、本来とるべき責任を、ポピュリズム的な大衆扇動によってないことにしてしまったインチキな人だということになるはずです。

 いずれにせよ、この場合、彼は、責任の所在をはっきりさせ、とるべき責任は引き受け、とるべきでない責任は正しく拒否して組織を守るといった思想よりも、結果オーライで関係者を納得させられればそれでよいのだ、という思想を優先する人だということになります。これは、通俗社会学的に言えば、まさしく空気=ニューマ支配の思想ですよね (^^)。

 おそらく、彼の言動が反発を招いたのは、まさにこの点が理由なのではないでしょうか。私も含め、多くの人が、彼の言動の中にニューマ支配の影を感じ、そこに、視聴率 100% 男の姿を重ね合わせて、結局は空気を自由に操れるヤツが一番偉いのだ、というような主張の臭いを嗅ぎ取ったのだと思うのです。

 ただ、責任というのは、あくまで、思想ではなく行動に対して課せられるものであり、私はもともと責任はないという立場ですから、仮に彼がそういう思想を持っていたとしても、それだけでは、彼という人間に対する個人的評価を変える理由にはなっても、彼の行動を批判する理由にはならないんですよね。もちろん逆に、責任があるという立場からすれば、あるはずの責任をないことにしてしまった点については、当然批判されるべきでしょうが。

 結論として言えることは、関係者がこの結末に納得しているなら、外部のものがわざわざひっくり返そうとするほどの理由はないだろうということです。 ただ、それとは別の話として、彼に対する個人的評価を変える人がいても、それも仕方ないだろうと。そういう感じです。

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松本人志をもっと追い込んでみよう

 第二日本テレビで、松ちゃんの新作コント「ザッサー」を観る。その感想は微妙。少なくとも、大爆笑するという感じではない。「ザッサー」を後 5 回ぐらい繰り返して、岡崎機長がもっとメチャクチャになると面白かったと思うのだが、本格的に面白くなりかけたところで終わってしまったという感じ。長さがちょっと中途半端なのかもしれない。

 とは言え、これを観てある種の期待感が出てきたのも事実。最近、常に新鮮な驚きを提供してくれた松ちゃんも、そろそろ安定期に入ったのかなあ、と思いかけていたのだが、追い込めばまだまだ何かが出てきそうな気がしてきた。「トカゲのおっさん」にしろ、初めて観たときはなんじゃこりゃと思っていたのが、だんだん麻薬のようにハマっていったのだから、このまま新作を作り続ければ、また何かとんでもないものが出てくるかもしれない。

 というわけで、必ずしも 100% 満足したわけではないのだが、もっともっと松本人志を追い込んで、新作コントを作り続けさせるために、とりあえず「ザッサー」は「戦略的」に褒めておくことにした (^^)。松ちゃんは自分でも M だと公言しているのだから、こういう言い方をしても許してくれると思うのだが。

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着信御礼!ケータイ大喜利

 「前科者」の板尾創路を起用したところは、NHK としては英断だと思うけど、投稿がいまいち面白くなかったな~(^^)。残念。

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いつまで続く市川結婚論争

 驚いた。まだやってるよ、市川寛子既婚 vs 未婚論争(^^)。別に既婚だろーが未婚だろーが、きみと結婚してくれるわけじゃないんだから、どっちでもいいだろ、って誰かつっこんであげればいいのに(^^)。てか、そんなに執着があるんなら、今すぐプロポーズしてみれば? そうすりゃ教えてくれるかもしれないよ(^^)。

 まあいいや。見てるとなんかもののあわれを感じてしまうので、ほっとこうっと。ほどほどにね。

   

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太田光の本気

 「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」を初めて見たが、ちょっと感動してしまった。何に感動したかというと、太田光が本気なこと。 

 これまでにも、朝ナマや TV タックルのようなテレビ討論番組はあったが、そのような番組に出演する人はほとんどが評論家などであった。しかし、太田光は評論家ではなく、あくまで芸能人である。

 そもそも、評論家と芸能人とでは、対象とするマーケットが違う。評論家というのは、タダでテレビを観ている何百万の人ではなく、お金を払って本を買ってくれたり講演を聴いてくれたりする数万人のマーケットがあれば成立する商売である。つまり、芸能人に比べればニッチな存在で、必ずしも万人に好かれる必要はない。評論家がテレビに出るときには、あくまで、番組の中で専門知識のない一般人や対立した意見をもつ他の評論家とからんだときに、相乗効果として視聴率をとれればいいのであって、その評論家一人だけで視聴率をとれる必要は必ずしもないのである。

 逆に、芸能人というのは、評論家とは違って、たいした目的意識もなくひまつぶしでテレビを観ている何百万・何千万という人の多くに好かれる必要がある。したがって、芸能人にとって、政治的信条などを明確にすることは必ずしも得ではない。また、あまり精緻な思想信条などを披瀝するより、素朴な感性に訴えかけた方が、一般庶民から見ると親しみが持てるということもある。

 つまり、太田光のようなメジャーな芸能人にとって、番組内で政治的な主張をするということはかなりリスキーな行為だったはずだ。もちろん、「爆笑問題のススメ」ではかなりラディカルな主張をすることもあったが、あれはあくまで深夜番組だったし、「スタメン」なんかでも、田中、阿川、橋本などにより、一定のブレーキがかかっていた。

 しかし、この番組での彼は、ほとんど茶化すこともなく、靖国参拝問題のようなセンシティブな問題にも真っ向から自分の意見をぶつけている(もちろん、ナベツネさんの思惑とかいろいろあるのかも知れないが、それを利用するのもある種のマーケティングであろう(^^))。だからといって、知識人という高みに立つこともなく、逆に、道化と言う立場に逃げることもしない。自分の無知をさらす危険もいとわず、自分は無知かもしれないが、一人の人間として現在はこう思う、ということをきわめて誠実に語ろうとしている。もちろん、彼には彼なりの読みがあり、今の時代ならこれでいけるという計算もあるのであろうが、それでもリスキーなことには違いない。そのリスクをとってでも自らに誠実であろうとする姿勢が、感動を呼ぶのである。

 もちろん、ぼくだって、彼の主張にすべて賛成なわけではないが、政治家に試験を義務付けるという案はけっこういいと思う。というのも、これとよく似た案をある友人が主張して、雑談のネタとして二人で検討してみたことがあるのである。試験で政治家を決めると言うと非民主的に聞こえるかも知れないが、要は、情報公開の一種だと考えればいいのだ。番組内では足切りを主張していたが、足切りなんかしなくても、山本一太議員や甘利明議員のように(実話)イラク問題で激論を交わしていた政治家が、イラクの正確な場所すら知らないということが情報として公開されれば、有権者はその政治家に投票することを少しためらうであろう。そのように有権者に対して投票の判断材料を与えるための、情報公開制度の一種であると考えればよいと思う。

 「爆笑問題のススメ」が終わって少し寂しい思いをしていたのだが、あの太田光の本気の顔を見るために、来週から毎週この番組を観てしまいそうだ。

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どこまで行くのか Paris Hilton

 すでに各所で話題になっている、Paris Hilton 嬢の衝撃映像。Playboy 創業者 Hugh Hefner の誕生パーティでのことらしいが、どうしてこうなってしまうのか。日本でも例のプライベート・○○○・ビデオが発売されてしまったようだし。ああ、どこまで行くのか Paris Hilton。彼女に比べれば、バブル青田嬢なんかまだまだかわいいものだと感じてしまう(^^)。

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職人 VS 技術者

 爆笑問題が文部科学大臣賞を貰ったというニュース、喜ばしいことだと思う一方で、お笑い界に与えた影響力という意味で言えば、こういう賞は、先にダウンタウンが貰っていなければおかしいというような気がしないでもありません。

 もっとも、お堅いお役所としては、やっぱりダウンタウンに賞をあげるのは現実的に難しくて、爆笑問題だってよくがんばった方なんでしょうけどね(^^)。まあ、これで太田さんが飼いならされて舌鋒が鈍ったりしないことを祈りたいと思います(^^)。

 爆笑問題とダウンタウンというのは、単体で見れば技量にそれほど遜色があるとは思わないんだけど、日本のお笑い界に与えた影響は圧倒的にダウンタウンの方が大きいですよね。これはぼくの勝手な理論ですけど、その違いは、松本人志と太田光の資質の違いに由来すると思うんです。

 言わば、松本人志という人は技術者型で、太田光は職人型なんですよね。それが典型的に現れるのは、「ベタなネタ」の扱い方。

 ダウンタウンは、あえてベタなネタをやる、という技をよく使いますけど、この場合、あのダウンタウンがあんなベタなネタをやっている、というちょっとヒネった笑いになる。一方、太田光もベタな下ネタとかをしつこく言い続けることがあるんだけど、こちらの場合には、太田はまたあんなベタなネタばっかりやりやがって、しょうがねえなあ、みたいな笑いになる。

 つまり、ダウンタウンの技の多くは、ダウンタウン個人から独立した普遍性のある技術になっているので、後輩とかにもわりと簡単