認識と差別

 前にも書いたけど、人間の認識能力の限界から、自分に対する自己の認識と、他者からの認識の間には、必然的にずれが生じます。そして、完全な認識というものが不可能である以上、相手に自分をどういう表象として認識させるか、という問題が生じ、自己の認識させたい表象と、他者の認識する表象が一致しないところから、差別という問題が生まれてきます。

 人間は、常に「人間一般」として扱われたいわけでもなければ、常に「ありのままの自分」として扱われたいわけでもないので、何が差別になるかというのは、相手との関係性によって変わってきます。

 たとえば、国家対人間という関係では、多くの人が一律に人間一般として扱われることを望み、黒人だからとか、女性だからとか、なんとか党員やなんとか教徒だからとかで区別されることを望みません。これは、そもそも国家というような巨大かつ抽象的な存在が、一人一人の個性を正しく認識してそれに応じた扱いをすることなどほとんど不可能であり、なおかつ、国家は大きな権力を持っているので、わずかな認識のずれも大きな問題をひきおこすからだと考えられます。

 逆に、親しい友人同士の関係では、多くの人は、ありのままの自分の個性をできるだけ認識されることを望み、人間一般として扱われることを嫌います。これは、長期間関係を継続することより、他者的な視線が自己的な視線に近づくことによってはじめて可能になるものです。

 また、この両者の中間のような現象もあります。たとえば、コンビニの店員さんに品物を頼んだとき、「人間はみな平等だからお前の言うことを聞く義務はない」とか言う人や、逆に、「オレだって人間だからサボりたい日もあるよ」とか言う人はめったにいないわけで、こういう人は、自ら店員という役割を受け入れていて、それ以上もそれ以下も望んでいないわけです。

 あるいは、「自分は女性として扱われていない」と言って怒る人は、「女性」の中の「色気のないブス」というサブカテゴリーで認識されることはもちろん望んでいませんが、かと言って、「人間一般」というより大きなカテゴリーで認識されたいわけでもなく、あくまで「(男女関係の対象としての)女性」というカテゴリーで認識されたいわけです。

 こう書くと、いや私は、ありのままの自分が持つさまざまな属性の一つとして、「女性性」も認識されたいだけだ、と思う人もいるかもしれません。でも、現実の男女関係を見れば、まず異性かどうかで相手をフィルタリングすることからはじまり、つきあっていくうちに、だんだんとすべての個性を認めある関係に近づいていく、という方が多数派だと思いませんか? まあ、いったん友達になってから、たまたま相手が異性だということに気づいて関係を持つ、というようなほのぼのラブコメみたいな人も中にはいるようですが、それはあくまで少数派だと思います。というのも、そのような手順ではカップルができる確率が非常に低くなるからで、女性性が単なる生理学的性質を超えて表象される理由の一つがそこにあるわけです。

 ちなみに、フェミニズムの中にも、ジェンダーをなくそうとする一派と、逆に女性性を賛美し強調する一派がありますが、これも、もともと女性の中には、このように人間一般として認識されたいという欲望と、女性というカテゴリーで認識されたいという欲望の、両方のベクトルがあることの現れかもしれません。

 よく問題になる職場での性差別にも、細かく分析すると 2 種類のパターンがあります。たとえば、社員全員が一律の給料をもらっているのに、女性社員だけが一律に給料が安い、というのは、本来「社員一般」として認識すべきものを、「女性社員」というサブカテゴリーで認識している、ということです。逆に、能力主義の徹底した会社で、同じ能力を持った社員同士の間で女性だけ給料が安い、という場合には、本来「社員個人の能力」として認識しなければならないものを、「女性社員の能力」というより大きなカテゴリーで認識しているわけです。

 ところで、このような現象について、よく「女性は平均して能力が低いという誤った認識が差別の原因になっている」という主張がありますが、これは錯覚で、そのような認識が統計的・科学的に正しかろうが間違っていようが、能力主義の会社で個人の能力をできるだけ正しく評価しようとしないことは誤りなのです。でなかったら、身体障害者のように、公式に障害を認定されている人は、いかに能力があっても差別してよい、ということになってしまうでしょう。

 もちろん、間違った認識よりは正しい認識のほうがいいわけですから、もしあきらかに誤っていることがわかれば、それを正そうとするのはいいことには違いありません。しかし、人間の認識能力に限界がある以上、そのような誤認識が完全になくなることはあり得ない上に、これは、差別問題解消の必要条件ですらなく、逆に、もし認識が正しいことが証明されてしまったら、差別を容認するのか、という話にもなりかねないので、差別と闘う人が、この論点に拘泥することは賢明とは思えません。

 話を元に戻しますが、このように、差別と言う現象は、単に平等に扱わないということだけではなくて、自己の認識させたい表象と異なる表象を、他者が強制的に押し付けるという現象のすべてを含んでいると考えられます。

 中世以前のように、人間関係が固定されていた時代の差別は、この強制が権力によって行われるという形がほとんどだった思うのですが、近代になって、同じ人間同士の関係にも TPO によって異なる役割が持たされるようになると、差別問題ももう一段階複雑になってきます。

 たとえば、現代では、会社では上司と部下の関係であるもの同士が、アフターファイブには友人同士の関係になったり、男と女の関係 (^^) になったり、ということは珍しいことではありません。

 このような関係が流動化した時代になると、自己が認識されたい役割と、他者が認識する役割とのずれも、必然的に起こりやすくなるので、自分が認識されたい役割を、自らコード化して発信する必要が出てきます。たとえば、会社や学校の制服などもそうですし、普段はカジュアルな格好をしているが、仕事のときは背広を着るとか、女性の場合には、職場ではユニセックス的な色気を感じさせない服装をしているが、社交の場ではフェミニンな色っぽい服を着る、というようなことがあります。

 そして、コードというのは、より多くの人が共有ほど便利になるので、いったん社会的に確立されたコードは、必ずみんなが便乗して利用するようになり、コード自体が自律化するという現象が起こります。これは、コードの本来的な性質からそうなるのであって、もちろん、差別に利用されることもありますが、かならず差別につながるわけではありません。

 たとえば、「俺は確かにニンジンとキャベツと何と何を売っているが、自分の好きなものを売っていたらたまたまそうなっただけなので、決して八百屋ではない。だから、俺を絶対八百屋と呼ぶな」みたいな主張をわざわざする人がめったにいないのは、別に誰かに強制されてるからではなくて、そんなことをしても宣伝はしにくいし同業者組合にも入れてもらえないし、不便なだけでほとんど何のメリットもないからにすぎません。

 そして、このような社会的コードのやりとりが一般的になると、今度は、コードの誤認識という新たな問題が生じてきます。たとえば、別にそんな気はないのに、ちょっと開放的な格好をして会社に行ったらセクハラされたとか、逆に、挑発的な格好をしてるのにお目当ての相手が食いついてこないとか(こんな例ばっかりですいません)いうことが問題になります。

 さらに、このようなコードの誤認識もが一般的になると、これを逆に差別に利用する人もでてきます。つまり、わざと挑発されたふりをしてセクハラして居直ったりとか、わざと挑発的な格好をして、「場をわきまえなさい」とか言われると、「それは見るほうの目がヤらしいからです」とか言って逆に相手をイジメたりというような現象が派生してきて、ますます話がややこしくなるわけです。

 かつてような、権力を背景にして特定の役割を一方的に押し付ける、という形の差別は、少なくとも先進諸国では、かなり下火になったと言ってもよくて、現代ではむしろ、このようなコードの誤認識による一種の擬似差別が増えてきています。フェミニストなどがしばしば反発を買うのは、このような悪意のない誤認識と意図的な差別を、区別せずに糾弾したり、本人が自分の意思で選択している役割まで、それは自分の意思だと思いこまされているだけで、そのこと自体が権力の陰謀だとか言ったりするからで、そういうトラブルに疲れた人が、逆に保守化して役割の固定した社会に戻そうとしたりするのも、故のないことではありません。

 したがって、現代のような差別の混迷状況を打破するには、まず、権力をバックにした差別と、コードの誤認識による擬似差別をきちんと区別することが重要です。さらに、擬似差別については、まず、1.洗練されたコードの体系を確立して、社会全体で共有するよう努力すること、2.自分の認識されたい役割を、積極的にコードとして発信するようにすること、3.それでも発生する意図的でないコードの誤認識については、なるべく寛容になること、が必要でしょう。逆に、もっとも避けるべきなのは、自らは何のコードも発信しようとしないのに、誤認識されると、鬼の首をとったように相手を糾弾する、というような態度でしょう。

 ちなみに、ジェンダーというのは、男女関係における性役割、親子関係における性役割、職場における性役割、政治的な性役割などがすべて一体化したものだと考えられます。(間違った?)ジェンダーフリーというのは、この役割をすべてなくすことによって差別を解消しようという発想だと思われますが、これは、八百屋という職業をなくさなければ八百屋差別はなくならないとか、朝鮮文化をなくさなければ朝鮮人に対する差別はなくならないと言っているのと同じぐらい間違った発想だと思います。

 なぜなら、先にものべたように、女性には(もちろん男性にも)、人間一般として認識されたいという欲望と、女性という役割で認識されたいという欲望と、ありのままの自分として認識されたいという欲望のすべてがあるはずで、現代のような流動性の高い社会では、これらを TPO によって使い分けることによって、すべての役割のいいとこどりをすることが可能なはずだからです。

 考えてみれば、現代では中世のような階級制がなくなったと言っても、職場ではやっぱり他人からの命令を受けているわけで、実際に変わったのは、世襲制ではなく自分で職業を選べるようになったことや、職業的な役割はあくまで勤務時間だけで、中世の家来のように 24 時間 365 日体制ではなくなったことだけです。それでも、多くの人が十分に自由になったと感じているのだとすれば、性役割にも同じことが言えるはずです。

 たとえば、政治的な性役割は完全になくしてもかまわないと思うし、職場における性役割も、特にセクシュアリティを売りにする職業を除いては、必要ないでしょう。でも、逆に男女関係における性役割は、まだまだ利用価値が残っているのではないでしょうか。(親子関係については、子供がいないので正直よくわからない(^^))。

 もちろん、伝統的な性役割の時代に合わなくなった部分を修正するのもよいでしょう。ただし、それは権力によってではなく、文化の自律的な進化の流れの中で行われるべきです。なぜなら、そのように自分の意思で選択できる役割と言うのは、権力ではなく文化の産物であって、文化の欠点を正すことは、文化を強制的に消滅させることではなく、よりよい文化を作ることによってのみ可能だからです。もちろん、文化の中から不当な権力が発生して、そこから本来の意味の差別が生まれることもあるので、それは監視しなくちゃいけませんけど。

 そう言えば、テコと呼ぶかコテと呼ぶかは地方によって違うのに、どちらかを強制するのはおかしいとか言っていた人がいましたが、確かに強制する必要はないかも知れませんが、逆に、どちらの名前も教えないとか、まったく別の名前を勝手に作って教えるとかしたら、それは教育ではなく洗脳になってしまうわけです(コードの恣意性というのはそういうものです)。ですから、「進歩的」な教育としてできるのは、せいぜい、現在はコテとテコの二種類の呼び方があることと、それぞれの長所と短所を教えた上で、将来は第三の呼び名が生まれるかもしれない、ということを示唆するぐらいでしかないわけです。もちろん、そういう教育を受けた子供が、大人になってから新しい呼び名を流行らせることはいっこうにかまいません。

 そのような流れの中から生まれた洗練された社会的コード体系があれば、さまざまな役割を自分の好きなように使い分けることが可能になるはずです。そして、そのような社会は、ジェンダーや役割のない社会よりも、はるかに豊かな生をもたらすのではないかと思うのです。

 実は、Amazon.co.jp のレビューで、小倉千賀子さんの本とか、加藤秀一さんの本を酷評したときから、こんなことを考えていたのですが、800 字の制限字数ではとても書ききれなかったので、代わりにここに書いてみた次第です。うまくかけてるといいんですが。

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「法と経済学」的に考えると

 森ビル回転ドア事故で、森ビル側の関係者が書類送検されたそうですが、この事件に対するちまたの意見は結構割れているようですね。

 こういうのを「法と経済学」的に考えると、どちらの責任にすれば、社会的費用が最小になるかが問題になるんですね。

 つまり、子供のしつけを厳しくしたり子供と歩くときには親が十分な注意を払ったり、というような手段で事故を回避するのにかかる費用と、ビル側が回転ドアに安全対策をして事故を回避する費用のどちらが小さいかによって、安く済むほう (これを、最安価損害回避者という) の対策をとったほうが、社会全体としては得をする、という発想をするわけです。

 このとき、もし、事故の前に加害者と被害者が取り引きをすることが可能で、その取り引き費用がゼロであるならば、どちらの責任にしたとしても、事前に取り引きが行われて、社会的費用最小の状態が実現する、という定理があって、これをコースの定理といいます。

 しかし、現実にはこのような取り引きが可能であるとは限らないので、そのときには、加害者側が最安価損害回避者である場合には過失責任ありとし、被害者側が最安価損害回避者である場合には過失責任なしとすればよい。そうすれば、ビル側も、簡単にできて効果の高い対策は進んでするようになるだろうし、歩行者側も、簡単にできる注意はするようになる。したがって、社会的費用最小の状態が実現する、というのが「法と経済学」的な解答になるわけです。

 こういう見方をすると、価値観の対立を相対化しつつ、いろんな方法を定量的に比較でき、いい意味での折衷案が作れるのがいいところだと思うのですね。(もちろん過信は禁物ですが)

 ただ、実際にはどちらが最安価損害回避者であるかはっきりしない場合も多く、また、情報や経済力の非対称性とか外部効果の有無とかを考慮に入れると、無過失責任という立場をとった方がよい場合もあるそうです。

 この事件の場合も、目分量で考えると、どちらが最安価損害回避者であるか、結構微妙な感じがするので、無過失責任として考えたほうがいいのでは、という気もしますが、専門外で情報も不足しているので、これ以上は踏み込まないことにします。

 参考文献:「「法と経済学」入門」小林 秀之 、神田 秀樹著

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自衛隊ってそういう意味だったのか

 日垣隆氏のやってる「ガッキィファイター」という有料メルマガの 1 月 23 日号に出てた、「イラクの自衛隊」の定義というのが、ちょっと面白かったです。

「これがほんとの自衛隊だ!」という自虐的冗句を先日、防衛庁で聞いた。

 これ以上の引用はフェアじゃないの思うので、知りたい人はメルマガ会員になりましょう。(^^)

 (はなしの持っていき方によっては、会費をまけてくれることもあるみたい。)

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いのちのねだん

 今、小島寛之氏の書いた「確率的発想法」という本を読んでいるのですが、その中に、生命の市場価値、つまり、ぶっちゃけて言えば「いのちのねだん」をどうやって計算すればよいか、という話が出てきます。

 人非人扱いされる前に、なぜそんなものを計算しなくてはならないかをあわてて説明しておくと(^^)、たとえば化学物質などが環境に与える影響を考えるときに、リスクとベネフィットを量的に評価して比較しないと、社会に利益ももたらすけれども同時に危険も与える、というものと、なんの利益もなくて危険だけを与えるものとの間で、優先順位づけが正しくできなくなるからです。したがって、生命のリスクを評価するためには、いのちの値段を計算する必要がある、というわけです。

 著者は、このいのちの値段の計算方法について、先行研究をいろいろとりあげて批判していて、非常に面白いのですが、それは違うのでは、と思うところもいくつかあります。

 たとえば、著者は、中西準子氏の「損失余命」(失われる余命の平均値) を生命リスクの尺度とする考え方について、「4万人の命が 8.8 時間ずつ縮むことと、平均余命 40 年の人が一人死亡することを同列に扱えるだろうか」という批判をしています。

 でも、この問題は、余命と効用の関係を線形だとみなしていることから生まれているのであって、限界効用逓減型の関係を仮定して、損失余命の代わりに余命の効用を尺度にすれば、解決できるのではないでしょうか。

 つまり、上の例で言えば、余命 40 年の人が余命 0 年になる (つまり死亡する) ことの不効用は、39 年と 364 日と 15.2 時間になることの不効用を 4 万倍したものよりはるかに大きい、と考えればよいわけです。この仮定は、おそらく、多くの人の常識的感覚と一致しているのではないかと思うのですが、いかがでしょう。

 もっとも、平均余命自体が死亡率から逆算されているものだとすると、不効用の平均値はいったいどうやって計算したらよいのか、という問題はあって(^^)、ひょっとすると、著者が本当に言いたいのはそういうことなのかも知れません。でも、だとしても、それは生の一回性というような思想的問題ではなく、技術的な問題と言うべきでしょう。

 さらに、著者は、自動車の与える生命リスクを計算するのに、ホフマン方式と呼ばれるものと、宇沢弘文氏が「自動車の社会的費用」で提唱したものとを比較しています。前者は、「その人が生きていたとしたら稼いだはずの所得」から計算するのですが、宇沢氏は、「もともと決して失われてはならず、法的に保証されているものに、貨幣的な価値などを計上することは原理的に誤っている」と考え、自動車がないのと同レベルのリスクの状態に回復するための費用から計算していて、著者は、この宇沢方式の方を支持します。

 でも、ぼくはこの議論にも論点のすり替えがあるような気がします。つまり、確かに、他人が勝手に人の生命を奪うことは、いくら金を払おうが決して許されないでしょうが、自分の意思で、一定の対価の下に生命のリスクを犯すことは、本人の自由だという面があるはずだからです。

 これはなにも、生命に限らず、普通に市場で取引されているモノだって同じことであって、市場価格と同額の金を置いていけば、所有者の意思を無視してモノを盗んでもいい、ということにはなっていないわけです。モノの価格は市場で決まりますが、特定の所有者がその価格で売るかどうかは本人の勝手なのであって、安物だけど、思い出の品だからいくらもらっても売らない、なんてことはいくらでもあるわけです。

 現実社会では、所有者が生命そのものを売りに出す市場というものは存在しないわけですが、たとえば、格闘家や F1 レーサーやスタントマンを職業に選ぶ人などは、間接的に生命リスクを取り引きをしているのではないでしょうか。そして、そのように所有者が自分の意思で選択する価格を「いのちのねだん」とみなすことは、現在のリベラリズムと整合的なのではないでしょうか。ただ、実際にこれを定量的に計算をしようとすると、直接的な市場がないために、技術的に困難である、ということはあると思うのですが。

 つまり、ホフマン方式の本質的な問題点は、周囲に与える外部効果だけしか計算してなくて (しかも、親しい人たちに与える精神的な影響なども考慮していない)、生命の所有者自身が生命をリスクにさらすことの不効用を計算に入れていない、ということであって、生命のリスクを前提としていること自体ではないのではないでしょうか。

 もともと、このような方法の利点は、できるだけ制約条件を少なくして、自由度の多いパラメータ空間の中で最適解を探せるところにあるのですから、生命のリスクを増やすことを完全に禁じ手にしてしまう (=制約条件にする) のは、ときに自らの意思で生命のリスクを犯すことが許されている社会の中で、必要以上に制約を厳しくして、ローカルミニマムから脱出できない事態を招くことになりはしませんか。

 最も、実際には、環境破壊による生命のリスクというのは、個人が選んで買うことが困難な場合が多いので、平均値とかで評価してしまうと、その人固有の生命リスク評価額より安い価格で強制的に買わされるというようなことが起こりえます。したがって、そういう事態がリベラリズムの原理に照らして不当なのは間違いないでしょう。でもそれは、あくまで本人の意思を無視して強制されるところに問題があるのであって、何があっても生命のリスクを犯してはならない、ということとは違うと思うのですが。

 なんか、ケチばっかりつけてるみたいですが、全体としては、非常に密度高くアイデアがつまっていて、いろんな考えを触発される面白い本です。もうちょっと読みこなしたら、きちんとレビューしてみたいと思います。

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やっぱり「次はイラン」?

 ブッシュ政権はやはりイランとの戦争を狙っているらしい、というニューヨーカーの記事が出ています。筆者は、ピューリッツァ賞受賞者にして、ベトナム戦争におけるソンミ村虐殺や、イラク戦争におけるアブ・グレイブ囚人虐待のスクープで有名なシーモア・ハーシュホワイトハウス側は、これを「極めて不正確な記事」だと言っているそうです。

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米極右評論家吼える

 最近、アメリカのサブカル保守派みたいなのに興味があって (どんな興味かは言わないけど)、デビット・ブロック氏のやっている「Media Matters for America」というサイトをよくチェックするのだけれど、そんな極右評論家の一人、アン・カルターが新春早々吼えまくったらしいです(^^)。これ、けっこう笑える (笑えないか) ので訳してみました。かなり誇張した訳だけど、だいたいこんな感じだと思うんだよね。仕事じゃないのでチェックもいい加減です(^^)。間違ってたら教えてください。

  • カルターさんの見方だと、いったいどうなったら、 (イラクへの) 侵略が間違っいだったってことになるんですか?
  • それはいい質問ね。私だって、もし、米軍が何もしないでほっつき回ってるだけで、その結果、イラク全体がファルージャみたいになってしまったら、失敗だ、時間の無駄だったって思ったでしょうよ。でもこれは戦争なのよ。だったら勝つしかないわよ。結局その街 (ファルージャか?) を制圧しさえすればいいんだから。もし米軍が誰も殺さずにパトロールしてるだけで、6、7 年も決着がつかないなんてことになったらどうするの? もう「民間人の犠牲者」って言葉にはウンザリだわ。私は、全世界への見せしめとして、アメリカは今すぐ北朝鮮を核攻撃するべきだと思うわ。
  • では、北朝鮮に核爆弾を落としたら、次はどこの国を侵略すればいいんですか?
  • イランかしらね。もっとも、イランはイラクよりはマシだけど (誤訳かも(^^))。でも、たぶん必要ないでしょうね。私が北朝鮮を核攻撃しろって言うのは、オルブライト前国務長官がステキな和平協定を結んだにもかかわらず、彼らがその 6 秒後には大慌てで核兵器を作り出したからよ。北朝鮮の脅威はバカにならないわ。私は、純粋に世界への見せしめとして、北朝鮮を核攻撃したら面白いと思うの。
  • その次は、メッカなんていかがでしょうか?
  • 真面目な話、中東の他の国は、アフガニスタンとイラクの次ぐらいね。あいつらみんなブッシュの手下みたいなもんだから、アメリカが本気だってことをわかってるはずよ。アメリカには、いくらリベラルの連中がギャアギャア騒ごうが、ニューヨークタイムズの投書マニアがアメリカの恥だと言おうが、断固信念を貫くことのできる大統領がいるんだから。
  • カルターさんは、ホントはヒラリー・クリントンが好きなんじゃないですか?
  • うーん、そうじゃないわ。ジョン・ケリーもそうだけど、私は、他人の威光で成り上がろうとする奴なんかに興味ないわ。ヒラリーはフェミじゃないように見えるけど、ホントはフェミよ。フェミニストっていうのは、みんな「私は強い女なの」っていうフリをするんだけど、ホントはひ弱でミジメな奴らなの。
  • ビル・クリントンについて、忘れてはならないのは何だと思います?
  • そうね、「彼はステキな強姦魔でした」ってことかしら。これだけは忘れてはならないと思うわ。
  • 黒人保守派についてはどう思いますか?
  • ゲイの結婚論議が盛んなころにテレビに出ていた黒人の保守派は、よく「ホモなんて地獄に落ちろ!」みたいな、白人の保守派ですら言わないことを言ってたわ。それを見て、私は、黒人を保守派にできれば、アン・カルター軍団ができるようなものだって気づいたの。彼らは、PC (差別語狩りみたいなもの) なんか屁とも思っちゃいないわ。面白いでしょ。それでいて、彼らはまぎれもなく保守なんだもの。私は、黒人保守派に講演することになってるの。これは、私の今年唯一の無料講演だって決めてるんだけど、黒人教会でゲイの結婚について講演するのよ。彼らは変な理論にかぶれたりしないからね。実は、ゲイの結婚に一番反対してるのは、黒人、ヒスパニック、高齢者、ブルーカラー、つまり、民主党を支えている 4 大支持層なの。
  • ニューヨークでは、クリスマスをどのように過ごしましたか?
  • あら、今年のクリスマスは楽しかったわ。だって、「メリークリスマス」って言うだけで、「クソッタレ」って言うのと同じことになるんだもの。もう誰にでも「メリークリスマス」って言ったわ。タクシーの運転手やその辺の通行人まで、相手かまわずね。そうすると、みんなは「ハッピーホリデー」って応えるの。だから、ニューヨークで「メリークリスマス」っていうのは、すっごく挑発的な行為なのよ。

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研究開発というリスク投資

 例の青色ダイオードの和解のニュースを見て思ったのですが、この問題の難しいところは、企業内での発明の場合、発明に対する、技術者の努力や才能の「寄与度」みたいなものを数値化するのが難しい、ということですよね。

 こういう問題は、どちらかが総取りするのが正しい、というような答えにはなりっこないので、ステークホルダーが協力関係を維持できるような分配方法を考えるしかないわけです。

 たとえば、簡単のために、ステークホルダーが資本家と技術者の 2 人しかいないとすると、

  1.  資本家が投資意欲を失わないだけの十分なリターンを与える
  2.  技術者が開発意欲を失わないだけの十分なインセンティブを与える

という 2 つの要件を満たすようなインセンティブ設計を考える、ということだと思うんですね。

 このような場合、資本家はリスクテイカーで、あえて研究開発というリスクの大きい投資をして、その分大きなリターンを得ようとしている。逆に、技術者はヘッジャーで、企業に所属することによって、研究開発という成果のバラツキの大きい仕事に対して一定の給料をもらうという形で、リスクのヘッジをしているわけです。

 したがって、形式的に言えば、両者は事前にこのような認識の上にたって雇用契約に合意しているはずだから、残りの収益は資本家側が総取りしてもおかしくないわけで、それが問題となるのは、

  1. 技術者に対するインセンティブとして、あえて報酬の一部を成果に連動させている
  2. 資本家・技術者双方の事前の予想を超えたアブノーマルなリターンが得られた

のどちらか(もしくは、この両方)の場合だけだと思うのです。

 そうすると、リターンがどのくらい大きかったらアブノーマルかということが問題になるわけですが、これは、CAPM のようなモデルを使えば、リスクの大きさとリターンの大きさの平均的な関係というのを、ある程度はじき出すことができるので、類似の研究プロジェクトの平均的なリスクから、平均的なリターンを求め、その範囲を著しく超えた分については、アブノーマルであると判断することができると思うのです。そうすると、このアブノーマル分については、技術者に還元したとしても、資本家の投資意欲は失われないはずですし、技術者がリスクヘッジのために払ったプレミアが高すぎたと感じることもないでしょう。

 もちろん、これだってそんなに厳密に計算できるわけじゃないでしょうが、5 % というのもたいして根拠のある数字ではないみたいなので、それよりマシな可能性はあるんじゃないかと思うんですけど。

 思いつきなので、はずしてたらごめんなさい。また時間があれば、改めて考えて見ます。

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公共財としてのプロ野球存続論

 今日のサンプロで、プロ野球特集をやっていたので、プロ野球再編問題について、自分なりにいろいろ考えてみたのですが、結局、重要なポイントは次の3つに尽きると思うのです。

  • 野球というサービスは、一種の公共財の性格を持っている

 現在のところ、球団の収入は、主に、球場の入場料、放映権料、関連グッズの売り上げなどから来ているようですが、実際のプロ野球のファンというのは、このようなモノに金を払っている人に限定されていないはずで、たとえば、野球は大好きだけれども、ほとんど球場には行かず、新聞のスポーツ欄やテレビのスポーツニュースだけで楽しんでいるという人もたくさんいるはずです。(私自身、野球はけっこう好きですが、ナイター中継だってたまにしか見ないし、球場に足を運ぶのは数年に一回ぐらいです。)

 もし、こういう人たちに、プロ野球存続のために月 100 円だけ払ってくれみたいなことを言ったら、払う気のある人は少なくないと思うんですね。仮にそういう人が全国で1千万人いれば、それだけで年 100 億円ぐらいにはなります。

 つまり、プロ野球というサービスには、公共経済学で言うところの「非排除性」や「非競合性」があるため、潜在的な需要よりも少ない対価しか回収できていないと考えられるのです。このような財について、市場メカニズムに供給をまかせておけば、必ず過少供給になる、というのが経済学の教えるところです。

 実際にやっていけないから、球団の数を減らすしかない、というような主張をする人は、このような野球の公共財的性格を無視しているのであって、野球と言うサービスの最適供給量は、もちろん、限りなく増やすのはムリとしても、そんなに少なくはないと思うのです。

 この見地から考えられる対策としては、薄く広く金を徴収する方法を考えるということがあります。具体的には、有料のインターネット中継であるとか、情報提供サービスなどが有力な選択肢として挙げられるでしょう。

  • 野球というサービスは、外部効果が大きい

 野球というサービスは、実際に球団に入る金以外にも、さまざまなところに経済効果をもたらしています。たとえば、近所の飲食店街などは、球団があるとないとではかなり売り上げが違うでしょうし、スポーツ新聞などのメディアの収入も、プロ野球の人気に大きく依存しているはずです。

 このように、市場を介さずに間接的に与える影響を、経済学では「外部効果」と言います。つまり、ここにも、実際に対価は払っていないが、球団の存在によって得をしている人がいるわけです。

 このような、野球の公共財的な性質と、外部効果考え合わせると、地域密着という解が出てきます。

 極端に言えば、地方税から球団に直接補助金を出せば、非排除性の問題もある程度解消されるわけですが、そこまで行かなくても、たとえば、地方自治体が所有する球場をレンタルする際に、そのレンタル料を安くする、などという方法も考えられます。(もちろん、これは、間接的に税金で球団を支えているのと同じことになるわけです。)

 もちろん、球団の関連会社が、積極的にこの外部効果(この場合はシナジーと言った方がよいかも知れませんが)を利用して、複合的に事業を展開する、という手もあります。

  • 球団同士を競合する企業と見なすべきではない

 そもそも、野球というサービスの品質は、各球団が、自分だけの努力で生み出せるものではありません。

 もちろん、ゲームが面白いかどうかは、プレイヤー同士が互いにどれだけ切磋琢磨しあうかにかかっていますから、その意味で、ゲームプレイヤーとしての球団同士が馴れ合いになってはいけません。

 けれども、企業経営のレベルで考えれば、球団同士は、競合するというよりも、むしろ相互に依存し合っているわけで、特定の球団が、自分の球団を強くし、収入を増やそうとして行う行為が、プロ野球界全体の収入というパイを縮小する可能性は十分あるわけです。

 つまり、球団同士は、同じマーケットで競合する企業と言うよりも、同じ企業の中で競い合うライバル社員のようなものだと考えるべきです。

(ついでに言えば、昨今の誤った「成果主義」の導入によるトラブルも、根は同じような誤解から来ているものと思われますし、そもそも、企業同士の競争だって、社会全体のパイを増やすということを目標に、独占禁止法などの制約のもとに行われているわけです。)

 したがって、球団の目標は、あくまで球界全体の収入を増やすことであって、球団間の収入差は、あくまでそのためのインセンティブと位置づけるべきです。

 このような見地から考えられる対策としては、ドラフト改革などによる戦力均衡であるとか、あるいは、収入の分配方式の変更などが挙げられるでしょう。

 別に、とりたてて新しいことを言っているわけではなくて、基本理念を整理してみただけのことですが、球団経営を広告料として持ち出しでやっていくことが困難になった以上、こういう方向性になるのは当然と言えるでしょう。

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配当 vs 内部留保

 この記事

生保協会は「株主の利益をより重視し、米国並みの30%以上の配当性向を目指すべきだ」と主張している。

とか書いてあるんですけど、どうなんでしょう。

 たしか、最近のファイナンス理論だと、配当を行う代わりに内部留保すれば、その分インカムゲインは減るけれど、代わりに、株価が上がってキャピタルゲインが増えるから、どっちでも同じだ、ってことになってたんじゃないかしら?

 しかも、配当は権利確定日の近辺だけ株を所有してれば受け取れるけど、内部留保はそうじゃないから、むしろ、内部留保のほうが健全な株価形成につながる、という考え方もあると思うんですが。

 もちろん、経営者が効率的に運用できるあてのない資本であれば、株主に還元したほうがよいわけだけれど、それは、自社株購入とかといっしょで、一種の減資という位置づけだったと思うんですが。

 この生保協会の人は、そういうことも承知の上で、現在の日本の株式市場はまだまだ完全市場とは程遠いので、そういう処置が必要である、という意味で言っているのか、それとも、単に考え方が古いのか、よくわかりません(^^)。はずしてたらごめんなさい(^^)。

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明石歩道橋事故に対する疑問

 あの明石の歩道橋事故について、警察、警備会社、明石市の3者の過失を認定する判決が出たそうです。私は、この事故について、細かい事実関係も知らないし、法律の専門家でもなければ警備の専門家でもないので、的外れかも知れませんが、少々疑問があるので書いてみようと思います。

 そもそも、責任というものは、何かアプリオリに存在するものではなくて、リスクとコストのバランスを考えたときに、社会的便益が最大化された(あるいは負の便益が最小化された)状態を実現するための、インセンティブだと考えるべきだと思うんですよね。

 このような事故の場合、主催者側の責任をゼロだとすると、主催者にとっては、まったく警備を行わないことが最適の選択になってしまいますから(主催者側のモラル・ハザード)、これがまずいのは間違いないでしょう。しかし、逆にすべてを主催者側の責任にしてしまうと、今度は、歩行者の側にモラル・ハザードが発生する可能性がでてきます。

 歩行者は、実際に被害に会う側なのだから、モラル・ハザードなど起こるわけがない、と思う人もいるかもしれませんが、歩行者と言っても、歩道橋の橋の部分にいる人と階段にいる人、あるいは、大人と子供とでは、それぞれリスクが異なっているわけで、前者の不注意で後者に被害が及ぶということがありえるわけですから、やはり、モラル・ハザードの発生する可能性はあるんですよね。

 したがって、主催者側に全責任を負わせると、社会的な負の便益はかえって増大する可能性があるので、主催者と歩行者のそれぞれに応分の責任負担を求めるべきだ、ということになるはずです。

(ただ、何万人もいる歩行者に、実際にどのように責任を分担させるかというのは難しい問題で、いっそその場にいた人全員の連帯責任にしてしまって抑止効果を狙うとか、いろんな考え方があると思うのですが、ここでは保留します。)

 ここで問題なのは、その応分の責任のレベル(注意義務)をどうやって決めるかということです。

 たとえば、道路に画鋲をばらまいていいか、というような問題なら、危険が明白な上に、そんなことをして得する人はだれもいないので、あえて法律で定めなくても、常識的な判断に任せておいてもよいでしょう。

 しかし、階段の傾斜角度は何度にすべきか、というような問題になると、話は変わってきます。おそらく、階段の傾斜角度と事故のリスクの関係は、ゆるやかな増加関数になっているはずで、少なくとも、29度までは極めて安全だが、30度を超えると突然危険になる、などというふうにはなっていないはずです。

 このような問題の場合、「いろいろ研究した結果、30度が最もコストとリスクのバランスのとれた数値であることが判明した。しかるに、この階段は31度であるから、設計者が悪い」というようなやり方をすると、誤差範囲の問題もあるし、その「いろいろ研究」するコストを誰が負担するのかという問題ももでてきます。

 もし、このような一種の法の遡及適用を当然のこととすれば、サービス提供者側にとっては、過剰品質が最適の選択である、ということになるでしょう。花火大会で言えば、本来もっと気軽に開催できるはずの花火大会が、必要以上に金のかかるイベントになり、おいそれとは開催できないものになってしまうかも知れません。

 逆に、遡及適用をしないことを当然とすれば、サービス提供者側にとっては、過少品質が最適の選択であるということになるでしょう。花火大会で言えば、本来もっと気楽に参加できるはずの花火大会が、某関西地方の祭りのような、命知らずの人だけが命がけで参加するイベントになってしまうかもしれません。

 つまり、いずれにしても、社会的便益最適の状態からはかえって遠ざかってしまのであって、このような場合には、あらかじめ人為的に標準を決めておくべきであり、当事者よりも、むしろ、必要な法整備を怠った国や立法府の責任を問うべきかもしれないのです。

 明石の事件に戻ると、主催者側の責任については、だいたい次の 3 通りの考え方があると思われます。

  1. とにかく、犠牲者が出たのだから、主催者になんらかの落ち度があるはずだ。
  2. どの程度の警備が妥当なのかはよくわからないが、少なくとも、それよりはるかに劣っていたのは間違いない。
  3. 主催者もそれなりの努力はしているが、十分な警備の水準に達していない。

 この 1 は、先に述べたとおり、考え方としておかしいと思うのです。また 2 は、問題先送りの感はありますが、少なくとも、この事件に限って言えば、妥当な判断かも知れません。

 問題は 3 の場合です。このような場合にどの程度の警備が妥当かということについて、どこまで明解な線が引けるのでしょうか? この記事には、「十分な警備」という言葉が繰り返し登場しますが、どの程度の警備で十分かは、歩行者がどのくらい注意を払ってくれるかに依存するはずです。それがもし、歩行者の不注意は予見できたはず、というような論法であれば、歩行者を動物の群れ扱いしてるようなものであって、歩行者側のモラル・ハザードを助長にすることになりかねません。もちろん、少なくとも「過剰な警備」でなかったことは間違いないのでしょうが、だからと言って、職務上の懲罰とか責任者のリコールとかではなく、「刑事責任」を問うことが本当に妥当なのでしょうか。

 まあ、専門家の方がやっていることですから、そんなこんなも考えた上のことであると信じたいですが、少なくとも、この記事を読んだ限りでは、どのような考え方で責任を認定したのかよくわからなかったので、いちおう書いてみました。

 たいへん痛ましい事故であれば、なおのこと、手軽なスケープゴートを見つけてハイおしまい、みたいなことにならないことを祈りたいと思います。

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