幸せになる曲

 ちょっとおめでたいことがあったので、ぼくがテンションを上げたいときに聴いているとっておきのプレイリストを公開。

For Real Amel Larrieux
にちよ待ち コトリンゴ
Life Pudding 遊佐未森
たしかな偶然 遊佐未森
tiey tiey tea コトリンゴ
ふわふわsong (original) コトリンゴ
バロンの歌 野見祐二
子猫物語(インスト・ヴァージョン) 坂本龍一
ASSEMBLY 矢野顕子
夢のヒヨコ 矢野顕子
遊佐未森
パンパース「赤ちゃんのおしり」-Vocal /1983 坂本龍一
0の丘∞の空 遊佐未森
風のプリズム 広末涼子
空耳の丘 [Full Scale Version] 遊佐未森

 

 みんな、幸せになろうね(^^)。(遂行文の例)

| | トラックバック (0)

veena!

 veena という音楽情報サービスに登録してみた。iTunes のライブラリ・データをアップロードすると、それを自動で解析して、その人の好きなアーティストに関する情報を、インターネット上から自動で収集してくれるサービス。

 収集できる情報も、普通の CD の新譜情報だけでなく、iTMS や Yahoo! オークションの新着情報も表示してくれるし、アーティスト関連のニュース、アーティスト自身のサイトなども表示してくれる。

 ちょっと面白いのは、YouTube の関連クリップを表示する機能で、自分の好きなアーティストに関連するビデオクリップをランダムで再生してくれる、veena! ジュークボックスというサービスもある。

 これまで新譜情報に関しては、amazon、HMV、iTMS などもろもろのサイトに登録してお知らせメールを受け取るようにしていたのだが、これからはこのサイトだけで済むかもしれない。しばらく使ってみるつもり。 

 ちなみに、ぼくのメンバーページはこちら

| | トラックバック (0)

菊地成孔にはまり中

大停電の夜に オリジナル・サウンドトラック  「cure jazz」が気に入ったので、菊地成孔氏の作品を(iTunesで)立て続けに購入。購入したのは現在のところ「大停電の夜に オリジナル・サウンドトラック」、「パビリオン山椒魚 オリジナル・サウンドトラック」、「南米のエリザベス・テーラー」の 3 枚。 「大停電の…」だけはワリと普通で今一つ物足りなかったが、「山椒魚」と「南米」はどちらもかなり気に入った。

 とにかく引き出しの多い人で、ジャズっぽい作品、細野晴臣的とも言えるエスニックなエキゾティシズムを感じさせる作品、フレンチポップス風の作品など、どれもそれなりによいのだが、個人的に特に気に入ったのは、ジャズと現代音楽の中間的な手法を使った作品群。

 たとえば、「南米」収録の「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」は、初期の武満徹みたいな作風で、途中で入ってくるリズムセクションがなかったら、武満徹の作品ですよと言ってもバレないんじゃないかと思うぐらい(^^)。と言っても、決して猿マネではなく、きちんと手法として咀嚼した上で独自の作品として成立させている。

(Enigma がオルフの「カルミナ・ブラーナ」をネタにしたとき、日本でも誰か武満徹リミックスとかやればいいのに、とか思ったんだけど、ようやくそういう人が出てきたとも言えますね(^^))

 また、「山椒魚」収録の「映画女優は体操服の夢を見る」は、新ウィーン楽派のアルバン・ベルク、あるいは、その遠い継承者である(とぼくが勝手に思っている(^^))半野喜弘を彷彿とさせるような作風で、これもかなり完成度が高い。

 ちなみに、「山椒魚」には、エレクトロニカ風の音作りをした作品も何作かあるので、そういう意味でも半野氏と共通点があるなと思って調べてみたら、菊地氏と半野氏は実際に競演したこともあるらしい。さもあらんという感じである。

 ぼくは正直、ジャズという音楽ジャンルはもう袋小路なんではないかと思っていたのですが、こんな人がいるんだったら、認識を改めねばならないと思いました(^^)。 この人はたぶん、ジャズをスタイルとしてではなく、あくまで手法として捉えているんでしょう。だから、純粋にジャズをやる場合でも、惰性でやってる感じがしないように新鮮に響かせることもできるし、ジャズ的な手法を自由に他の手法と組み合わせることもできるんでしょう。そういう知的な距離感があるところがいいですね。

 菊池さんといい半野さんといい、こういう現代音楽的な手法をポップス的な手法と組み合わせて使いこなせる人がどんどん出てきたようで、頼もしい限りです。しかも彼ら新世代のアーティストには、これはゲンダイオンガク的な手法なんだぜぇ~すごいだろ~控えおろう、というようなカッコつけや権威主義がなく、単にこの手法が自分の表現に必要だから使うんだ、という率直さを保っているところがいい。今後の音楽シーンがますます楽しみになってきました。

| | トラックバック (1)

cure jazz

cure jazz  「cure jazz」というのは、1 年ぐらい前にちょっと評判になった作品で、個性派ボーカリストとして知られる UA を、ジャズ畑のサックス・プレーヤーにして音楽評論家でもある菊池成孔氏がプロデュースしたという話題作。リリース直後からショッピング・カートに放り込んであったのだが、実際に購入したのは数日前。きっかけになったのは、「爆笑問題の日本の教養」の音楽を菊池氏が担当していることを知ったからであった(そんなんばっか(^^))。

 そんなわけなので、正直ぼくは、これまであまり菊池氏の音楽を聴いたこともなかったのだが、一聴して感心したのは、ポピュラー音楽プロデューサーとしての氏のバランス感覚のよさである。

 これはぼくの偏見もおおいに含まれていると思って読んで欲しいのだが(^^)、ジャズ畑の人というのは、だいたいロックやフォークのようなポップスを馬鹿にしていて、ジャズはそういうポップスより一段高級な音楽だというプライドを持っている人が多い。だから、他人のプロデュースをする際にも、ジャズというスタイルに固執するか、逆に開き直って、売れているポップスを真似したりするのだが、それが心からいいと思ってやっていないので、ポップスとしては二級品になってしまうことが多い。

 ところがこの作品の場合、 スタイルとしては完全なコンボジャズそのものだし、取り上げている曲も半分ぐらいがジャズのスタンダードだったりするのだが、プロディースの方法論としては、一般的なポップスの方法論が踏襲されているのである。

 そのため、作品全体としては、いわゆる「どジャズ」や「どブルース」になっていないし、もちろん、手垢の付いた「フュージョン」にもなっていない。つまり、あくまでジャズでありながら、ジャズというスタイルに安易に寄りかかることなく、幅広いリスナーに対して希求力を持つような、自立した表現になっているのである。そこに、ポップス全般を幅広く批評してきた菊池氏のバランス感覚を感じる。

 たとえば、ありがちなジャズの録音では、ライブ感覚を重視するので、(たとえ実際には同録ではないとしても)同録に聴こえるようなとり方をすることが多い。しかし、この作品では、売れ線のポップスと同じような、マルチトラック・レコーディングとその後の編集による音作りが行われている。それはたとえば、「Ordinary fool」という曲のピアノにかかっているロング・ディレイなどを聴けばよくわかるだろう。

 もちろん、そのようなプロデュース・ワークを成立させているのが、UA の半端でない歌唱力であることも忘れてはならない。彼女のような、本来ジャズ畑出身ではないシンガーがスタンダードなどを歌うと、下手糞なジャズになってしまうか、自分のスタイルに引き付けすぎてしまってジャズでなくなってしまうことが多いのだが、彼女の場合、ジャズシンガーのスタイルを真似ようとするわけでもなく、自分の得意なスタイルで誤魔化そうとするのでもなく、歌が本来表現したかったものを忠実に表現しようとしているように見える。そのような姿勢が、このような奇跡的な瑞々しさを生み出す原動力になっているのであろう。

 スタイルに安易に寄りかかることが、いかに芸術をダメにするか、逆に、スタイルに依存しない自立した表現を志すことが、いかに瑞々しい作品を生み出すかということを、これほど端的に表している作品もあまりないと思う。幅広いリスナーに一聴をお勧めしたい。

 ちなみに、ぼくが一番気に入った曲は、「Music on the planet where dawn never breaks」で、こういう曲がもっと多かったら、ぼく個人の評価はもっと高くなっていたと思うが、それではやっぱり、セールス的に問題なのかもしれない(^^)。

| | トラックバック (0)

Ballads for the Atomic Age

BALLADS FOR THE ATOMIC AGE Radiq こと半野喜弘氏のニューアルバム「BALLADS FOR THE ATOMIC AGE」、これも遅まきながら入手。

 これはたぶん、半野氏の Radiq 名義の作品の中では、もっとも出来がよいのではないだろうか。半野氏が Radiq というプロジェクトで追求してきたスタイルが、かなり完成に近づいているのではないかという印象を受けた。

 Radiq 名義の作品が他の半野作品と最も違うところは、リズム隊である。半野氏は、確かにヒップホップやドラムンベースも手がけているのだが、これまでの作品では、ドラムやベースをあまり前面には出していなかった。特に、ブラック・ミュージック的なベースラインへのこだわりは、ほとんど感じられなかったと言ってよい。

 その半野さんが、この Radiq というプロジェクトでは、ブラック・ミュージック的なヒップなリズム隊に、律儀なまでに固執している。当初はそれが、半野さん独特のデカンダンスな和声感覚や官能的な音色と、いまひとつ噛み合っていないようにも思えたのだが、ここに来て、それがいわば半野式ブラック・ミュージックともいうべき、一つのスタイルとして結晶しつつあるようだ。

 これまで、半野氏の Rqdiq 名義の作品に関しては、中途半端なほめ方をしてきたぼくだが(それはあくまで、ぼくの半野氏に対する期待水準が半端でなく高いからであって、そんなことを言いつつも、どの作品もちゃんと購入して愛聴しているのであるが(^^))、この作品については、「Lido 」と「Angelus」の次ぐらいにはお勧めできるのではないかと思う。

 ただ、一つだけ後悔していのは、他の作品はすべて CD で購入しているのに、この作品だけ iTMS で購入してしまったこと(忙しかったんです(^^))。エレクトロニカ作品は一般にそうなのだが、特に半野さんの作品では、音色の官能性が芸術的な強度を支えており、その美しさは、iTMS の 128kbps のビットレートでは必ずしも十分に再現できないのである。

 ビットレート 128 kbps と 200 kbps 超では、女性にたとえて言えば、ティーンエイジャーの肌と 30 代の熟女の肌ぐらいの質感の差がある(^^)。その差は、普通のロックなんかではあまり問題にならないのだが、半野氏のような音楽では、ほとんど致命的な差となって感じられてしまうのである。

(ちなみに、前回とりあげたレイ・ハラカミ氏なんかは、エレクトロニカ・アーティストでありながら、あまり音色にこだわりのない珍しい人で、彼の作品は、128 kbps で聴いてもそれほど音楽の強度が低下する感じはしない。ただ、「EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK」のように、他のアーティストのトラックと並べて聴くと、彼のトラックだけなんとなく浮いて聴こえるのも確かなのだが(^^))

 だから、これから半野氏の作品を購入しようと思っている方は、なるべく iTMS で買わずに、CD を買うようにして欲しいと思う。ぼく自身も、もう一度 CD を買い直そうと思ってるぐらいで(^^)、そうでないと、彼の真価は理解できないと思う。

| | トラックバック (0)

yanokami

yanokami  エレクトロニカの鬼才レイ・ハラカミが、御大矢野顕子と組んで作ったユニット yanokami のアルバム「yanokami 」を、遅まきながら入手。

 もともとぼくがハラカミさんに注目したのは、日立の CM でかかっていた小坂明子の「あなた」の斬新なアレンジからだった。だから、彼が、エレクトロニカだけでなく、歌モノをアレンジする際にも特異なセンスを発揮することは知っていた。

 一方の矢野アッコちゃんも、ジャズの素養をベースにしたピアノで、既存のポップスを再解釈することを得意としているので、この二人が協力すればどんなものができるか、想像するだけで期待に胸が高鳴るというものだ。

 聴いてみた結果は、ほぼ期待通りだった。曲自体は、基本的に、アッコちゃん自身の曲や、アッコちゃんが好んでカバーする細野(晴臣)さんなんかの曲のカバーで、バッキングトラックをハラカミさんが作って、そこにアッコちゃんが唄とピアノをのっけるという形。

 したがって、どれもよく知っている曲ばかりのはずなのだが、驚いたことに、まったく違う曲に聴こえてしまうのである。つまり、それほどユニークな和声感覚によるリハーモナイズが成されているということで、鬼才レイ・ハラカミの面目躍如だと言える。

 しかもすごいのは、 それが難解な前衛作品になっているわけではなく、ポップスとして成立しているところである。もちろん、そんなコードに合わせて平然とピアノを弾き唄を歌うというのも、アッコちゃんだからこそできる技であることも忘れてはならないが。

 ぼくもそれなりにたくさんポップスを聴いてきた人間なのだが、少なくともぼくは、こんな歌モノのポップスを今まで聴いたことがなくて、これはある意味革命的な作品だと思うのだが、エレクトロニカから音楽に入ったような最近の子だと、ワリとふつーに聴けてしまって、あろうことか物足りなく思う子すらいるらしい(まあ、別段に悪いことではないが(^^))。

 確かに、ハラカミさんの仕事をずっと追ってきた人間から見れば、それほど突出した作品ではなく、想定の範囲内とも言えるのだが、歌モノポップスの歴史というものも考え合わせると、やはり見逃せないエポック・メーキングな作品だと言えるのではないだろうか。

 そんなわけで、このアルバムは、エレクトロニカが好きな人よりも、歌モノのポップスが好きで、しかも、最近個性的な作品に出会えなくて物足りないと思っている人にお勧めした方がよいかもしれない。歌モノポップスという概念が確実に進化しつつあることを実感できる一枚になるはずである。

| | トラックバック (1)

Top albums music quilt

 

Last.fm に scrobble されたアルバムのジャケットをキルト状に表示するウジェット。

| | トラックバック (0)

「アーティストを並べ替え」の困った仕様

     ぼくは、iTune に曲をとりこんだ時に、iTune 上でその曲のアーティスト名を勝手に編集してしまうことがよくあるのだが、最近、これが原因で問題が発生して、少し困っている。

     ご存知のように、iTunes では、CD を挿入すると、曲名やアーティスト名などの情報をインターネットから自動的に取得するようになっていて、その曲を iTunes 上で mp3 化しても、その情報はそのまま引き継がれようになっている。また、iTMS からダウンロードした曲には、曲名やアーティスト名などの情報が最初からファイルに設定されている。

     したがって、本来 iTunes では、ユーザーがわざわざ曲名やアーティスト名を入力する必要はほとんどない。ただ、このように自動で設定された情報をそのまま使っていると、iTunes のブラウザで特定のアーティストの曲だけを選択したときや、スマートプレイリストなどを作成したときに、必ずしも自分の意図どおりの曲が入ってこないことがある。

     たとえば、安田成美の「風の谷のナウシカ」は、ぼくにとっては細野晴臣の曲なので、「[アーティスト] が [である] [細野晴臣]」というスマートプレイリストに入ってほしい。また、HASYMO と YMO とか、半野喜弘と Radiq のように、実質的には同じアーティストなのに、別の名前で曲を出していることもあるし、レイハラカミと Rei Harakami のように、表記上のゆらぎもある。だから、ぼくにとって、こういうアーティスト名の変更は、ほとんど当たり前のように行っていた作業だった。

     ところが、最近になって、このようにアーティスト名を変更すると、iTunes のブラウザの中の [アーティスト名] の欄で、同じアーティストの曲が別項目として表示されるという現象が頻発するようになった。

     当初は、なぜこのような現象が起こるのかさっぱりわからなかったのだが、いろいろ調べているうちに、iTunes 7.1 で追加された、「アーティストを並べ替え」という機能が原因であることがわかった。

     これは、アーティスト名に一種の「ふりがな」を設定する機能で、iTunes 7.1 以降では、[アーティスト] 欄の並べ替えは、アーティスト名そのものではなく、このふりがなの方を基準にして行うようになったらしい。したがって、ユーザーが自分でアーティスト名を変更して同じにしても、この「アーティストを並べ替え」の方を変更しない限り、iTunes のブラウザでは別アーティストとして表示されてしまうらしいのである。

     もちろん、この機能自体は、ユーザー側の表示の自由度を高めるという意味で、基本的にはよい機能だと思う。この機能があれば、たとえば、これまでは漢字のコード順に並べ替えられていた曲を、正しく読み仮名の順で並べ替えることも可能になる。

     ただ問題は、このデータを編集する際に、アーティスト名とは違って、複数のトラックをまとめて変更できないことである。そのため、10 曲の「アーティストを並べ替え」を統一しようと思ったら、トラックを右クリックしてプロパティを選択してふりがなを記入してOKをクリックする、という作業を 10 回繰り返さなくてはならないのだ! これはさすがにシンドイ。

     さらに困ったことに、この並べ替え情報は、iTunes 以外の汎用の mp3 エディタでは編集できない。ちゃんと調べたわけではないが、おそらくこの情報は、mp3 ファイル側ではなく、iTunes 側のデータベースで独自に管理しているのではないだろうか。

     おそらく、このままずっと一括編集ができないままということはなく、将来のバージョンでは改善されるのだとは思うのだが、逆に、そもそもなぜ最初から一括編集ができる仕様にしなかったのかが不思議だ。アーティスト名や曲名は一括編集ができているのだから、そういう機能を実装するためのオブジェクトみたいなものは、すでに用意されているはずだと思うのだが(^^)。

     とにかく、アップルには、はやくこの仕様を改善していただくことを望みたいが、それを待つまでもなく、何かこの問題を回避する方法をご存知の方がいたら、ぜひ教えてください(^^)。

追記: 実は、「アーティストを並べ替え」を一括で入力する方法があるそうです。原田伸二さんという方からメールでご教授いただきました。ありがとうございます。

 たとえば、特定のアーティストの「アーティストを並べ替え」を統一しようと思ったら、まず、そのアーティストのどれか1曲だけを選択して、「アーティストを並べ替え」を入力します。

 それから、再度その曲を選択して右クリックします。すると、コンテキストメニューの中に「並べ替えフィールドを適用」というサブメニューが表示されるので、ここから「同じアーティスト」を選択すれば、そのアーティストの「アーティストを並べ替え」が統一されるというわけです。

 通常のコンテキストメニューを使ったやり方とはまるで違うので気づかなかったわけですが、これでも一応複数の曲を一括で変更することはできるわけですね(^^)。なぜ複数選択では入力できないのか、という疑問は、依然として残るわけですが(^^)。

| | トラックバック (0)

KAOSSILATOR

 コルグの新製品 KAOSSILATOR。「いままでなかった手のひらサイズの超コンパクト・サイズ・シンセサイザー」とか言ってるけど、この手のアナログ入力デバイスなんて昔からあったじゃん。シンセには何十年も前からホイールやジョイスティックとか付いていて、ビブラートやピッチベンドなんかに使えたし、テルミンなんて雑誌の付録にまでなっちゃうような時代に、タッチパネルで演奏ができるぐらいで、何を大騒ぎしてるのかな~、と最初に目にしたときは思っていた(^^)。

 ところが、YouTube にアップロードされていたデモを見て、思いっきり認識を改めた。

 何よりもやられたっ!と思ったのは、スケールが設定できること。見ればわかるように、そのおかげで、たいして音楽の知識がない人でも、適当に指を左右に動かしているだけで、それっぽいソロのアドリブができてしまうのである。

 確かに、これはデジタルのタッチパネルでしかできない機能だ。コルグさん、ごめんなさい。私があさはかでした<(_ _)>。

 昔は、即興的なアドリブというのは、高度な音楽センスを必要とする技術だったのだが、ジャズ畑からバークリーメソッドという方法論がでてきて、コードに合わせて決まるアヴェイラブル・ノート・スケールというスケールを上がったり下がったりしていれば、誰でもそれっぽいアドリブができるようになったという歴史がある。

 もっとも、誰でもできると言っても、この理論はそれなりに複雑なので、使いこなすためには、スケールを構成する音程を覚え、スケールとコードの関係を覚え、それを瞬時に思い出して弾く練習をしという具合に、かなり「お勉強」をしなくてはならない。だからこそ、バークリー帰りのジャズ・ミュージシャンがもてはやされたりしたわけだが、一方で、あまりにもバークリーの権威が強くなりすぎて、ジャズというと誰がやっても同じようなアドリブになってしまうという弊害も出た。

 だが、こういう製品があれば、そういうスケールを憶えて弾けるようになる必要すらなくなるわけだ。もっとも、コードとスケールの関係だけは憶える必要がありそうだが、伴奏を MIDI で同期しているような場合だったら、MIDI 信号で自動的にプログラム・チェンジしてしまえばよいのだから、それすら憶える必要がなくなるだろう。

(でも、写真で見ると、MIDI 端子が見当たらないな~(^^)。MIDI でのスケールやキーの変更は絶対できた方がいいと思うけど、どうなのかな。)

 ぼくなんかは、理論を「お勉強」するだけで創造性がなくてもできるようなことは、どんどん機械にやらせてしまえばいいと思っているので、こういう製品は大歓迎である。もちろん、こんなものでそれほど高級な音楽ができるとも思えないが、こういう製品のおかげで、素人でもそれっぽいアドリブができるようになれば、今まで単に理論を憶えて演奏していただけの音楽家は、いやでも理論だけではできない創造性を発揮せざるおえなくなるであろう。それは、結果的に、音楽全体のレベル向上につながると思うのだ。

 それに、高級な音楽ができないと言っても、ダンス・パフォーマンスなんかと組み合わせれば、それなりに面白いことができそうなきはする。ただ、この形だと、動きながらでは演奏しにくいだろうから、Wii のリモコンなんかで演奏できればもっと使い勝手がよくなるのではないだろうか。っていうか、これってそのまま Wii のソフトにはできないのかな? Wii のスペックをよく知らないのでわからないけど(^^)。

| | トラックバック (0)

EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK

EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK(DVD付)  士郎正宗原作、ジョン・ウープロデュース、ミウッチャ・プラダ衣装デザインのアニメーション映画「EX MACHNA」のサウンドトラック(「EX MACHINA ORIGINAL SOUNDTRACK」)を購入。

 と言っても、ぼくは映画の方は観てなくて、今のところそれほど観る気もないのであるが(^^)、このサントラ、参加アーティストがハンパでなくすごいのである。

 細野晴臣(監修)、HASYMO(≒YMO)、半野喜弘、Rei Harakami、Tei Towa、Cornelius、Aoki Takamasa、m-flo、etc.

 ぼくなどは、このメンバーを見ただけでワクワクしてしまうのであるが、実際の音も、期待を裏切らないできであった。特に、HASYMO や細野さん名義の作品は、Sketch Show などに比べると、基本線は同じエレクトロニカでありながら、かつてのトロピカル三部作時代を髣髴とさせるようなエスニック風味のリズムが導入されているのが、彼らの今後の方向性を占う上でも興味深い。

 ちょっと面白いのは、このアルバム、エレクトロニカのファン層にはおおむね好評のようなのだが、あくまでアニメが好きでそのサントラとして買った層には、必ずしも評価が高くないらしいことである(^^)。

 もちろん、音だけ聴くとよくても映像に合っていない、というような理由も考えられないではないが、このメンバーのほとんどが単独でも映画音楽を手がけている方々で、中には映画音楽で賞をとっている方までいるので、あまりそういうことも考えにくいのだが。。。

 まあ、映像を見てもいないのにアニメファンの音楽嗜好の問題に触れることはあえて避けるが(^^)、単体のアルバムとして聴けば、上記アーティストのファンやエレクトロニカのファンには安心してお勧めできる作品だろうと思う。

| | トラックバック (0)

「メロンパンのうた」について

 コンビニの有線でかわいい女の子がメロンパンの不条理について切々と歌っていたのが気になって、早速検索してみたところ、こういうことらしい。この中で言及している、YouTube にアップされたプロモーションビデオというのが下の動画。このビデオ自体も、「みんなの歌」や「ポンキッキ」みたいな子供番組風で、なかなかよくできてるよね。

 ところで、このビデオを検索してる途中で偶然見つけてしまったんだけど、早速この歌詞が嘉門達夫の何かのパクリだみたいに言ってる人がいて、うんざりしてしまった。

 この手の安易なパクリ指摘については、以前にもくだくだ書いたので繰り返さないけど、そもそも、こんなものはアイデアというほどの話じゃなくて、誰でも思いつくようなことでしょ? それをいちいちパクリだとかっていうのは、「パンダは何食ってんだ、パンだ」という洒落は林家三平のパクリだから絶対に言ってはいけない、とか言うようなもんであって、そんなもんぜんぜん意味ないんですよ。

 著作権を絶対化するな、という話は、いろんな人がもっと理論的に精緻に述べているので、興味のある人は調べて欲しいけど、こんなの、そういう理屈以前に、直感的におかしいと思わんか? そういうイジワルな風紀委員みたいな行動パターン、いい加減やめてくれよな~。ホントに息苦しくて窒息しそうになる。

| | トラックバック (0)

芸術におけるアマチュアリズムの意義

 柄にもなく初音ミクの記事など書いたところ、各所でリンクしていただいたらしく、突然トラフィックが増えてしまい、たくさんの方に読んでいただけるのは誠にありがたいことですと建前的にお礼を書きつつ、心の中ではややプレッシャーを感じている Studio RAIN です(^^)。

 もっとも、あの記事は必ずしも意をつくしたものとは言いがたく、特に、アマチュアリズムの意義については、一般に意義があると思われている例をあげただけで、なぜ意義があるのかについての価値論な説明を省いているので、あれだけではアマチュアリズムの意義について納得できない読者も多かろうと思う。そこで、芸術一般におけるアマチュアリズムの意義について、少し補足しておきたい。

 初音ミクがらみの CGM に関する議論を眺めてみると、CGM の存在意義の判定基準として、CGM はプロの商業作品に匹敵するような芸術的価値を生み出せるか否か、ということをなんの疑いもなく尺度にしている方が多いように思われる。また、これより多少 CGM の意義を積極的に評価している人でも、それはあくまである種の遊びとしての価値であって、プロの芸術とはまったく無関係である、と認識している方が多いように思われる。

 しかし、ぼくが認識する、芸術におけるアマチュアリズムの意義というのは、このどちらでもない。 アマチュアリズムの意義は、アマチュアが自ら芸術作品の製作に携わるというその行為自体にあり、結果として生まれてくる作品の質には関係がない(あえてわざわざ「下手糞な」と書いたのはそのためだ)。

 また、アマチュアが芸術作品の製作に携わるという行為は、アマチュアの鑑賞力を高めることにつながり、その結果、プロの芸術家がより質の高い作品を生み出す誘引になるはずである。したがって、アマチュアリズムは決してプロの芸術と無関係ではなく、プロの芸術を含む芸術文化全体に貢献するはずだ。これがぼくの主張である。

 たとえば、厳密な意味では芸術とは違うが、スポーツについて考えてみよう。プロ野球の商業的価値が、観客の存在によって生み出されていることは言うまでもないが、観客が試合をどれだけ楽しめるかが、観客が持つ野球の知識に依存していることは明らかだろう。もし、遅い球より速い球の方が打ちにくいとか、ど真ん中の球よりコーナーぎりぎりいっぱいの球の方が打ちにくいという知識がなければ、投手と打者の間のかけひきを楽しめないのはほとんど自明だ。

 しかし、実はこのような知識も、単に知識として知っているだけでは十分とは言えないのである。実際のスポーツはすべて応用問題であって、真ん中の速い球とコーナーの遅い球ではどっちが有効か、といった複雑な問題の集合体だ。このような問題に答えを与えるのは、実際に試合の中で体験しているプレーヤーの肉体感覚以外にない。

 したがって、そのような技術的な問題を観客が本当に理解しようと思ったら、たとえバッティングセンターでもよいから、120 km の球を打ってみるといった経験が必要なのである。そのような経験があってはじめて、それより 30 km も速い球を打つのがどれだけ難しいかということが、実感としてわかってくるはずだ。

 つまり、プロ野球というのは、あくまでも、草野球やバッティングセンターで下手なプレーを続けているアマチュア・プレーヤーの延長線上にあり、そのようなアマチュアリズムが存在するからこそ、存在意義を失われずにいられるのだと考えられる。したがって、プロスポーツの価値も、アマチュアスポーツの価値も、スポーツ文化全体の中で考えてこそ、初めて適切に位置づけられるのである。

 芸術を鑑賞するという行為の意味は、スポーツよりは少し説明が難しいが、ぼくはやはり、作り手の製作過程を追体験することが鍵だと考えている。たとえば、音楽にしてもそうだ。ぼく自身も子供の頃はそうだったが、今では音楽に一家言あって、オーケストラのどのパートでもきちんと聞き分けられる人でも、かつては、パートの聞き分けができない時期もあったはずである。

 ところが、そのような段階で認識されている楽音というのは、単なるフーリエ変換のスペクトルのようなものにすぎないので、対位法やコードとメロディの絡み合いの面白さなどわかるはずもない。そのようなスペクトルからさまざまなパートを聞き分けることによって、初めて音楽の面白さがわかってくるわけだ。つまり、音楽を鑑賞するということは、音楽が製作される過程を逆算して追体験することと同じなのである。

(直接スペクトルを操作して創作を行うという、スペクトル楽派のような方法論が存在することも知っているが、たとえこのような音楽であっても、鑑賞者にとっては、やはり製作者がロジカルに行っている製作過程を追体験することが重要であるとぼくは考えている。)

 だからこそ、音楽の鑑賞力を高めるためには、楽器を操ってみたり、作曲の真似事をしてみたりして、自ら製作の過程に携わってみることが決定的に重要なのである。 ぼく自身も、(最近は忙しくてやっていないが)キーボード演奏や DTM を趣味にしていたことがある。もちろん、他人様にお聞かせできるような水準の作品はほとんど生まれなかったが、このような経験によって、芸術を見る眼は明らかに変わったことを実感している。

 このように考えると、芸術におけるアマチュアリズムの重要性というのは、ほとんど自明なようにも思えるのだが、なぜその重要性が多くの人から忘れられてしまったのだろうか。それはおそらく、産業革命以降の社会の分業化に理由があると考えられる。

 もともと、中世以前の社会では、生産者と消費者の区別は、それほど明確ではなかったはずである。王侯貴族はともかく、一般庶民にとっては生活必需品のほとんどが自家製でまかなわれ、市場で購入されるのは、一部の特殊な商品だけであったに違いない。

 「大草原の小さな家」シリーズの前半なども、時代的には中世とは言えないが、生活必需品のほとんどがが自家製であったことがうかがえる。中でも印象深いのは、この家のお父さんがバイオリンの演奏を愛好し、その演奏を一家で楽しんでいることであり、この頃には、芸術もまさに自家製であったことがうかがえるのである。

 その後、産業革命や分業化により、生産者と消費者は商品ごとにはっきりと分かれることになったが、芸術分野においてプロとアマチュアが明確に分化したのも、おそらくこのときではなかっただろうか。さらに決定的な出来事は、複製芸術の普及である。これにより、少数の天才芸術家が作り出した作品を、多くの一般大衆が購入して鑑賞するということが可能になり、芸術作品が市場で他の商品と同じように流通するようになったわけだ。それとともに、自家製芸術に対するニーズも失われていったのだろう。

 しかし、勘のいい人はすでにお気づきのように、芸術作品と他の商品では、その効用の認識過程に決定的な違いがある。芸術作品では、先に述べたように、製作の過程を追体験することによって効用が生み出されるが、一般の商品はそうではない。たとえば、歯ブラシの価値を知るために、歯ブラシの製造工程を知る必要があるかと言ったら、そんなことはまるでないわけで、歯ブラシの価値は使ってみて便利かどうかだけでほぼ決まる。

 それが証拠に、歯ブラシ界には、下手糞だけれども趣味で歯ブラシを作り続けるアマチュア歯ブラシ職人などほとんどいないし、そのようなアマチュアの存在に業界が依存しているなどという話も聞いたことがない。つまり、歯ブラシ業界は、実用的な歯ブラシの使用価値だけで十分存続しうるのであって、そこが、スポーツや芸術と根本的に異なるところなのである。 

 もちろん、工芸品などになると、生産過程を知ることによってさらなる付加価値がわかってくるということもあるのだが、それはむしろ、使う側の見方の問題で、使う側があえて、商品を単なる道具ではなく芸術作品として認識しているということになるわけだ。

 つまり、芸術活動は本来、完全には生産側と消費側に分離できないはずなのだが、近代以降、擬似的に一般商品と同じように扱われるようになった。その結果として、芸術におけるアマチュアリズムの意義が、軽視されるようになったのではないかと考えられるわけである。

 このことにはもちろん功罪があって、だからこそ、多くの庶民が天才芸術家の作品に直接触れることができるようになったわけだが、その一方で、鑑賞力の低下による商業芸術の通俗化を招くことにもなった。たとえば、家元制をとっているような伝統芸能では、現在でも製作と鑑賞が分業化されていないところが多々ある。もちろん、それが商業的な成功をもたらしているとは言いがたいかもしれないが、だからこそ通俗に堕することが防がれているとも言える。

 ぼくは必ずしも Web2.0 マンセー派ではないのだが、CGM というものを、近代以降軽視されていたアマチュアリズムの復権として位置づけることは可能ではないかと思うのだ。おそらく、多くの人が指摘するように、CGM で生み出される作品のほとんどはくだらない作品であるに違いない。しかし、それを恐れる必要はないのであって、くだらない作品を生み出すという活動の集積こそが、芸術文化全体を下支えし、結果としてより高度な芸術作品の誕生に貢献するのはずなのである。

 ちなみに、初音ミクを開発したクリプトン・フューチャー・メディア社長の伊藤博之氏もぼくと同じような歴史観をお持ちのようなので、最後に引用させてもらうことにする。

 人間はそもそもプロシューマだと思うんです。原始時代から、自分たちでモノを作り、消費しているわけですから。しかし、個人ですべてを行うのは効率が悪いので、分業が進み、都市が形成され、経済システムが構築されました。

  ただ、この一連の人間社会の発展は、CGM(消費者生成メディア)の登場で折れ曲がったような印象を持っています。そもそもプロシューマだった人間が、生産者と消費者に分かれ、なぜかそこには大きな溝までできてしまっています。

 その違和感が顕在化し始めており、CGMの登場をきっかけとして、人類の歴史をさかのぼるというような動きが生まれているのではないでしょうか。例えば、著作権というテーマで考えれば、「クリエイティブコモンズ」のようなものができ、生産者と消費者の切り分けを気にせずに著作物を活用していこうというような流れです。

 こうした流れは都市の見直し、さらには経済システムの見直しというところまで進むのではないでしょうか。おそらくCGMの本質は、「みんなで何かを作って楽しいよね」というところにあるのではなく、社会全体の在り方を変えていくというところにあると、わたしは思っています。

(追記: 以前に斉藤美奈子氏の「文章読本さん江」を批判したときにも同じような論法でアマチュアリズムを擁護していたのを思い出したのでリンクしておく。歯切れが悪く見えるかもしれないけど、このように、意外としつこく首尾一貫してるのである(^^)。)

| | トラックバック (0)

初音ミクの意義について

 久しぶりにはてなを除いてみたら、初音ミク現象を批判して叩かれてる人を見つけた。文章の妙なところに力が入っていたり、オタク嫌いが露骨に表明されていたりするところは、華麗にスルーするにしても(^^)、ぼくもやはり、論旨にいろいろと納得がいかないところがあるので、なるべく他の意見と重複しないように指摘してみたい。

 まず気づくのは、この人のツールの評価基準というのが、あまりに「芸術的意義」に偏りすぎていることだ。端的にそれが現れているのは、「想定外の使用法が生まれなければだめだ」という発言だ。

 しかし、ちょっと冷静に考えてみればわかるはずだが、直接的に芸術的価値を生み出すツールだけが芸術的価値に貢献するとは限らない。たとえば、デジタル音楽の最も基本的なツールであるシーケンサーにしろハードディスクレコーダーにしろ、基本的にはメーカーの想定内の使い方しかされていないが、それで十分に製作の効率化や低コスト化に役立っている。

 この人は、効率化や低コスト化なんて芸術的価値とは関係ないと考えているのかもしれないが、実際には、効率化や低コスト化による無駄な負担の減少は、間接的に芸術家のクリエイティビティを向上させ、結果としてより優れた芸術の誕生に貢献しているはずであり、その比率はおそらく、この人が挙げているようなギミック的な使い方の貢献度よりよっぽど大きいはずなのである。

 たとえば、写真家の荒木経惟氏はコンパクトカメラを愛用していたそうだが、その理由は、画質がいいとか面白い効果があるとかいうものではなく、単に気軽に撮れるからということだったはずだ。しかし、その気軽に撮れるということが、間接的に芸術的価値を生み出したのだろう。

 同じように、人件費もかからず生身の人間では耐えられないような酷使にも耐えられるボーカロイドは、習作やプリプロダクションの低コスト化によって技術を向上させることに役立つだろうし、実作品においても、ボーカルを低コスト化した分他のパートに金をかけることによって作品全体の質を向上させるといった柔軟性をも可能にするだろう。

 次に気づくのは、この人のアマチュアリズムの軽視である。そもそも、芸術という文化は、製作・鑑賞・批評の三つがあってはじめて成立するのであって、その意味で、下手糞なアマチュアが作品を作るという行為にも、十分な芸術的な意義がある。なぜなら、自ら作るという過程を経ることで、はじめて見えてくるものがあるからだ。

 でなければ、小中学生に下手糞な絵や作文を書かせることになんの意味があるというのだ。教育ではなく、単に才能のない人間を振り落とすためだけのシステムだ、ということになってしまうではないか? あるいは、年寄り連中が下手糞な俳句や川柳を作って楽しんでいるのは何の意味があるというのだ。単なる自己満足でしかないとでも言うのかな?

 このように、プロの商業芸術だけでなく芸術文化全体を視野に入れれば、アマチュアでも手軽にボーカルの入った DTM を製作することを可能にするボーカロイドは、芸術文化に対して十分な貢献ができると言えよう。

 最後に、この人が言ってるような芸術的価値を生み出す可能性だって、まったくないとは言えないんじゃないかな。技術の詳細を調べていないのでアレなんだが(^^)。

 たとえば、「Last Emperor」のサントラに収録されていて、いまや坂本龍一の代表曲にもなっている Rain という曲があって、これはわりと有名な話だと思うけど、教授はよくこの曲について、「最初はシンセ(Proteus かなんか)のストリングスが入っていたんだけど、ベルトルッチが嫌だというんで生のストリングスに差し替えた。でも、絶対にシンセの方がよかった」みたいなことを言っていた。

 これは、シンセの音が個性的だからというような理由ではなく、シンセの方が下手なオーケストラよりもアタックやリリースを自由に調節できてリズム感が出るからだ、というような理由だったはず。もちろん、生で録音した素材をサウンド・エディットで修正することも可能だろうけど、ボーカロイドの方がずっと効率的に同じようなことができる可能性はあるだろう。

(ご存じない方もいるかもしれないが、映画音楽なんかでは、プロが本格的にシンセ・ストリングスを使った作品は結構いろいろある。PSY・S の松浦雅也氏が手がけた「スウィート・ホーム」のサントラなんかも、すべてフェアライトで作ったらしい。これなんかも、よく聴くと生でないことはわかるが、必ずしもそのせいで質が低下しているという気はしない。「Shadow's Trap」なんていう曲では、むしろ、機械ならではのアタックの早さが効果的に生かされている。あるいは、野見祐二氏の手がけた「耳をすませば」なんかも、サントラの方は生だが、イメージアルバム の方はたぶん基本的にシンセ・ストリングスである(「地球屋にて」などは除く)。久石譲氏も「Kids Return」とか「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体」なんかは多分ほとんどシンセ。細野晴臣氏の「銀河鉄道の夜」もおそらくほとんどシンセだろう。)

 この人は CGM に懐疑的なようだが、たとえそこからシリアスな芸術は生まれなかったとしても、「帰って来たヨッパライ」みたいな一種の冗談音楽ができてヒットするなんていう可能性はあながちないとは言えないのではないだろうか。それだって、ある種の芸術的成果だと思うのだが。

 そんなわけで、ボーカロイドは、オタク的なコンテキストを離れても、十分に技術的・芸術的意義があるのではないかとぼくは思うのだが、いかがであろうか(^^)。

(追記: アクセスが多かったので、補足記事を書きました。「芸術におけるアマチュアリズムの意義」参照。)

| | トラックバック (0)

songs in the birdcage

songs in the birdcage

  もう3ヶ月も前から出てたのに、紹介するのが遅くなってすいません。以前からプッシュしていたコトリンゴさんのファースト・アルバム「songs in the birdcage」、予想通り傑作でした。捨て曲は一曲もないし、全体的な統一感も高いです。

 ぼくはいまだに、この人の音楽をうまく表現する言葉を見つけられないでいるのですが、今回は、100 円ショップで見つけた掘り出し物のコップや茶碗みたいな感じかもしれない、と言ってみます(^^)。

 なんか、でっかいハートマークがついてたりして、一見気やすい雰囲気が漂っているんだけど、よくよく見ると、そのハートマークがなんとか焼きとかのすごい職人芸の賜物だったりするの(^^)。

 でも、普段使っていると、そんなもったいぶった感じはちっともしなくて、日常生活の中にしっかり溶け込んでしまうんだけど、そういうコップや茶碗で食事をしているだけで、いつの間にか生活の幸福レベルが一段階上がっている、みたいな(^^)。

 使われてる技術はすごいんだけど、桐の箱に入れてしまっておきたい、みたいな感じはぜんぜんしなくて、見てると、赤ちゃんとかにも使わせたくてたまらなくなるの。われちゃったらわれちゃったでかまわないよ。また作るから、みたいに言ってくれそうな感じがして。そこがいいんだよね(^^)。

 「rattlebox」なんて、ドビュッシーの前奏曲集に入っててもおかしくないような曲なんだけど、不思議なことに、ぜんぜんそういうかしこまった感じがしないんだよね。なんか、幼稚園でピアノを弾いてるおねえさんをよくよく見たらビル・エバンスだった、みたいな(^^)。そんな感じ。

 まあ、芸術を人格に結びつけるのはあまり好きではないんだけど、やっぱりこのへんは、彼女の人格の賜物ではないんでしょうか。いっぺん会ってみたい感じのする人ですね(^^)。

 うーん、やっぱりあんまりうまく伝わらんかったかな(^^)。とにかく、お金のある人は、ぜひ一度どこかできいてみてくださいな(^^)。

| | トラックバック (0)

初音ミク

 今話題のボーカロイド「初音ミク」を YouTube で聴いてみたけど、確かにすごいね(^^)。

 下の製作工程を見てなるほどと思ったんだけど、MIDI データを持っているんだから、もともと単純なテキスト読み上げソフトより利用できる情報が多いわけだよね。イントネーションは音階から生成できるし、アクセントとかはベロシティから生成できるわけだから。

 そこまで計算して商品化を考えたのだとすれば、なかなか頭いいなあと思いました。

(後、知らない人もいるかもしれないので、一応 JASRAC のインタラクティブ配信のページを紹介しときますね(^^)。)

| | トラックバック (3)

レコーディング用語事典

レコーディング用語事典―Sound & recording magazine presents 仕事の資料として「レコーディング用語事典―Sound & recording magazine presents」 というのを買ったが、仕事柄この手の用語集を大量に所有しているぼくの眼から見てもなかなかよい本である。

 まず、職業柄最も特筆したいのは、英文索引がついてること。日本の用語事典類には、これがついていないものが意外と多い。店頭でなら立ち読みできるから買う前に確認できるが、通販だとわからないので、一か八か買ってみてがっかりすること多し。

 また、「ハンディ版」と書いてあるように、本のサイズは小さいのに、活字が小さくて意外と収録語数が多い。概算で 1000 語ぐらいは載ってるのではないだろうか。サイズは、日本の新書よりは微妙に大きく、オライリーの「Poket Reference」というシリーズよりは少しだけ小さいぐらいなので、本棚でも場所をとらない。

 最後に、定価が安い。なんと 800 円。ぼくは、これの何倍もの値段で、これの何倍も内容の薄い本をたくさん買った経験があるので、これは特筆しておきたい。

 ちなみに、「サウンド&レコーディングマガジン」というのは、ぼくが学生だったうん十年前に毎月のように買っていた雑誌の一つ。そのころは DTM がやりたくてしかたがなかったのだが、機材が高くてロクなシステムが組めなかった。今は逆に、機材は買えるようになったが、買った機材をいじるヒマがない(^^)。 人生とはままならないものだ(^^)。

サラウンド入門 - その歴史、鑑賞方法から制作までサラウンドのすべて [Nowbooks4]  だから、この本もきっと、そういうびんぼーな音楽好きのために意識的に安く価格設定してあるんじゃないかと思う(^^)。がんばれ、リットーミュージック!

  これと一緒に買ったのが「サラウンド入門」。ドルビーとか DTS とか 5.1ch とか 7.1ch とかややこしくなってきた「サラウンド」について、どんなバカでもわかるんじゃないかと思うぐらい丁寧に書いてあってなかなかよい(^^)。ただ、唯一の欠点は、上記の本とは逆に、索引がついてないこと。いまどき DTP だったら索引つけるぐらい簡単なんだから、索引ぐらいつけようよ。それだけで使い勝手は全然違うんだからさ。

 わ~ら~って~ご~ら~んよ~、あ~る~いて~ご~ら~んよ~、み~ぎ~から、ひ~だりから~、さ~そ~われ~るさら~うんど~。

| | トラックバック (0)