四次元の仕事場

 大変だ。ウチの仕事場は四次元空間につながっていることが判明した。なぜそれがわかったかというと、ゴミ袋 4 袋分のゴミをゴミ捨て場に捨て、ダンボール 4 箱分の本を倉庫に移動し、ダンボール 1 箱分の雑誌を処分したのに、いっこうに部屋が片付かないどころか、かえって狭くなったことに気づいたからだ。

 言うまでもなく、このような現象は三次元の物理学では説明できない。つまり、ウチの仕事場はドラえもんのポケットと同じように四次元空間につながっていて、無限にゴミや本が湧き出してくるようになっているのである。したがって、部屋が片付かないのは、ぼくのズボラさやだらしなさのせいでは断じてない。どうか誤解しないでいただきたい。

 …というか疲れた。

ニューヨーク・ヘルソニック・バレエ  余談だが、というか、この記事自体が余談のようなものだが、菊地成孔氏の新譜「ニューヨーク・ヘルソニック・バレエ」 がメチャメチャかっこいい。「菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラール」名義の作品はどれをとってもハズレなしの傑作ばかりだが、本作が最高傑作ではないか。

(時間があれば別にレビューを書くかも。ちなみに「導引」という曲は明らかに雅楽を意識したものであろう。ネット上では誰も指摘していないようなので書いておく。「嵐が丘」がスティーブ・ライヒなのは言うまでもないだろう。)

 2009 年は、坂本龍一、半野喜弘、菊地成孔というぼくのお気に入りのミュージシャンたちがそろって新譜を出し、そのどれも傑作だという、ぼくの音楽生活にとってはたいへん恵まれた年であった…、と年末には書くことになるであろう。

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坂本龍一×爆笑問題

 ついに「爆笑問題の日本の教養」に坂本龍一が登場。この番組に大学教授ではない通称「教授」が登場するのはもちろん初めてのこと。長年の教授ファンであり爆笑問題のファンでもあるぼくとしては、これを観ないわけにはいかないだろうということで、裏番組にも「人志松本の〇〇な話」とか観たい番組がたくさんあったにもかかわらず、最優先で録画する。

 実を言うと内心では、太田光が例の調子で教授に喧嘩をふっかけたらどうしよう、とまるで恋人を両親にひき会わせるときのようにドキドキしていたのだが*1、終わってみればそんなシーンはほとんどなく和気藹々と終了。

 太田光が教授にリスペクトを示してくれたのは、教授ファンのぼくとしては嬉しくもあったが、太田光ファンのぼくとしては少々物足りなく感じたのも事実。ファンなんて勝手なものである。ファン一般じゃなくてぼくが勝手なだけかもしれないが。

 番組中の教授の発言は、ぼくみたいな古参のファンはどこかで聞いたことのあるような話ばかりだったが、坂本龍一という人間について通り一遍のことしか知らない一般の方にとっては、ほどのよい紹介になっていたかもしれない。その辺は、ぼくみたいに距離感が近くなってしまうとかえって見えにくかったりする。

(*1 もちろん、教授のやっている ap bank とかを山形浩生が批判しているのを読んでいるときなんかも、同じようなドキドキを感じている。)

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十二音技法は調性からの解放ではない

 ここ数日ウェーベルンベルクの曲を集中的に聴き込んでいてふと得心したことがあったのでメモしておく。これは例によって、偏った嗜好の一音楽ファンによる個人的な意見であって、音楽界の定説と一致しているかどうか定かではないし、逆に、その筋ではとっくに常識化しているということもあり得る。そのつもりでお読みいただきたい。

 みなさんは十二音技法の音楽にどのようなイメージをお持ちだろうか。クラシックは聴くけど現代音楽には馴染みがないというような方は、調性音楽が規則にのっとった秩序ある音楽であるのに対し、十二音技法などを使ったゲンダイオンガクは規則もなにもないデタラメな音楽だと思っていたりしないだろうか。

 十二音技法というのは、簡単に言えば、調性にとらわれずに作曲するための作曲技法なのだが、一種の進歩史観とともに語られるイメージがあった。曰く、かつての作曲法は長調・短調の調性に厳格にしたがっていたが、歴史を経るにしたがって半音階や転調などの技法が多用されるようになり、最終的に到達したのが十二音技法である。これは、これまで縛られていた無用なルールからの解放である、云々。

 これはもちろん、ぼくが読んだ狭い範囲の音楽学や音楽評論の文献から勝手に抱いたイメージに過ぎないかもしれないが、こういうイメージは根本的に間違っていることに遅まきながら気がついた。十二音技法はむしろ調性音楽のアンチテーゼというべきものであって、ある意味、調性音楽以上に調性にとらわれた音楽であり、調性音楽以上にガチガチのルールに縛られた音楽であると。

 十二音技法というと、単に、特定の調の 7 つの音の変わりに 12 個の半音全部を使う方法ぐらいに思っている人もいるかも知れない。しかし、こういう認識では以下の議論は理解できないのでここで少し補足しておこう。

n

調性に収まる

確率(近似値)

1

1.00

2

0.99

3

0.93

4

0.77

5

0.57

6

0.38

7

0.24

8

0.15

9

0.09

10

0.05

11

0.03

12

0.02

 実は、12 個の音から無作為にメロディを作ったんでは、意図しなくてもなんらかの調性を帯びてしまう可能性があるのだ。たとえば、n 個の音をランダムに選んでメロディを作ったとき、それが特定の調性に収まる確率は 7/12 の n 乗。調性は全部で 12 通りあるから、このどれかに収まる確率は(調性同士の相関関係を無視した近似値で) 1-(1-(7/12)^n)^12 程度になる。この確率を n=12 まで計算すると右表のようになる。

 ご覧のように、12 音の中から音を 5 個ランダムに選んでメロディを作っても、特定の調性に収まってしまう確率は 5 割以上ある(注:Excel で行った簡単なモンテカルロ法の結果によれば、5 割以上は少し言い過ぎで、実際には 0.45 ぐらいのようである)。しかも、調性に収まらない音が 1 個ぐらいなら経過音とみなせるし、さらに、メロディを前半・後半に分けたときにその両方が別々の調性に収まっていれば転調とみなせる。つまり、なんらかの意味で調性音楽とみなせる確率はこれよりさらに高くなるのである。

 だから、十二音技法では、メロディが万が一にも調性を帯びないように、いろんなルールを設定している。メロディの中で 12 個の音を 1 回ずつしか使ってはいけないとか、1 つの曲の中では、このようにして作ったメロディ(十二音技法では「音列」または「セリー」と呼ぶ)を、ある規則に基づいて変形したものしか使ってはいけないとか。要するに、12 個すべての音が完全に平等に使われるようなルールが設定されているわけである。先程ガチガチのルールで縛られたと形容したのが、決して誇張でないことがおわかりいただけると思う。
 
 でもよく考えてみると、もし本当に完全に調性から解放されたいなら、こんなややこしいルールなど設定しなくても、最初から十二平均律など使わなければいいのである。十二平均律はもともと調性音楽のための音階だ。長調の音階は自然倍音列から来たものだが、自然倍音列に忠実に従った純正律の周波数(の対数)は厳密に等間隔ではないので、移調に手間がかかる。そこで、自然倍音列との多少の誤差に目をつぶって 1 オクターブの周波数(の対数)を等間隔に 12 等分することにより、移調を簡単にしたものが十二平均律なのである。
 
 だから、もし調性からの解放だけが目的なら、12 等分にこだわる必要などなくて、5 等分や 7 等分や 13 等分でもいいわけだし、もっと言えば、等間隔にこだわる必要さえなくて、まるっきり不規則な周波数の音階を使ったっていいわけである。そうすれば、その音階からデタラメに音を選んでも、倍音関係になどならないのだから、そう簡単に調性感など生じないはずだ。
 
 つまり、調性感を出さないために十二音技法などを使わなくてはならないのは、互いに倍音関係にある音がたくさん含まれている平均律を使っているからなのである。いわば、右に傾いても左に傾いても「調性」の谷に転落してしまうような細い綱の上を、ぎりぎりのバランスをとりながら渡るための綱渡り術のようなもので、そもそもそんな綱の上を渡ろうとしなければ必要のない技術なのである。
 
 実際、十二音技法を使った音楽を聴いていて感じるのは、解放感というよりむしろ一種の緊張感なのであるが、それはおそらく、このぎりぎりのバランスをとることからくる緊張感なのである。解放感ということで言えば、むしろ、最近の旋法的な音楽の方がよっぽど解放的に聞こえるくらいだ。
 
 ここで参考までに、調性音楽と十二音技法のどちらが「解放的」かを、単純に数字で比較してみよう。同じ個数の音で作れる可能性のあるメロディの数を比較する。十二音技法のメロディは必ず 12 個の音から構成されるというルールなので、公平のため、調性音楽の方も使う音は 12 個とする。調性音楽は同じ音を繰り返し使ってよいから、作れるメロディの数は、

7 ^ 12 =  13841287201 =  1.38 * 10 ^ 10

 一方、十二音技法では、同じ音を繰り返し使ってはいけないというルールがあるから、作れるメロディの数は、

12 ! =  479001600 = 4.79 * 10 ^ 8

 つまり、意外かもしれないが長調で作れるメロディの方が 30 倍も多いのである。しかも、調性音楽では経過音や転調が可能なので実際に作れるメロディはこれよりさらに多いが、十二音技法では特定のメロディ(音列)を移調したものや時間的に反転させたものなどがすべて同じ音列の一種とみなされるので、使えるメロディという意味での可能性はさらに少なくなるのである。これを見ても、十二音技法が調性音楽より「解放的」などとはとても言えないことがわかるだろう。

 これを料理にたとえるなら、かつては、甘い料理としょっぱい料理は完全に別物であり、甘い料理に塩を入れたりしょっぱい料理に砂糖を入れたりすることはご法度だったものが、歴史が進むにつれて、甘い料理にちょっとだけ塩を入れたり、しょっぱい料理にちょっとだけ砂糖を入れたりする隠し味という技法が生まれ、最後に、甘くもしょっぱくもならないように砂糖と塩を混ぜ合わせる絶妙の比率が考案されたようなものだろう。

 想像しただけでわかるはずだが、このような料理は、あくまで「甘しょっぱさ」という独特の味を楽しむためのものであって、甘さやしょっぱさからの解放などではまったくない。もし本当に甘さやしょっぱさから解放されていれば、最初から砂糖も塩も入れないとか他の調味料を使うとかするはずなのだから。もちろん、この「甘しょっぱさ」という味は一つの重要な発明には違いないが、だからといって、この技法を使えば味付けを気にせず自由に料理ができるなんてことはないし、ましてや、この技法が以後あらゆる料理で使われるなんてことがあろうはずもない。

 同様に、十二音技法も十二平均律を使ってあえて「無調感」を表現するための一つの手法に過ぎない。その「無調感」は確かに面白い感覚の一つではあるが、それが調性的な感覚より絶対的に優れているというわけではない。もちろん、以後の音楽がすべて十二音技法で作られるようになるなんてことはありえないし、実際にもそうなっていない。

 新ウィーン楽派の評価についてもそうである。新ウィーン楽派は十二音技法という技法だけで評価されがちだが、それはたぶん彼らの曲をロクに聴いたことのない人の評価なのであって、実際には十二音技法を発明する以前にも彼らは優れた曲を大量に書いている。彼らはもともと優れた音感を持った音楽家なのであり、その音感から生まれた技法を整理したらたまたま十二音技法になっていたということにすぎないのだろう。

 実は、新ウィーン楽派の曲の中でぼくが好きな曲も、十二音技法時代の曲よりも、それ以前の、無調ではあるけど十二音技法は使っていない時代の曲の方が多かったりする。先ほどの綱渡りの例えで言えば、無調時代の曲は左右にふらつきながら渡っているような感じなのに対し、十二音技法時代の曲は微動だにせずまっすぐ渡っているような感じなのだ。微動だにしない綱渡りは確かに美しいとは思うが、一回観れば十分という感じもしないでもない。逆に、ふらつきながら渡っている綱渡りを観る方がスリリングで飽きが来なかったりする。

 そんなわけで、十二音技法は、曲全体を支配する規則というよりも、あくまで平均律上で「無調感」を表現するための一つの手法としてとらえた方がよい、というのがぼくの現時点での結論である。今頃気づいたのか、と思ってる人もいるかもしれないが。

シェーンベルクは構造の手段を与えたのではなく、一つの方法-12 音技法-を作っただけであり、この方法の非構造的な性格のために、彼の追従者たちは、絶えず反抗的にならざるを得なかった。和音や調性を作らない音の組み合わせを考えなければならないのである。

ジョン・ケージ

おそらく、シェーンベルクという現象を測る真の尺度は、12 音からなるセリーを用いて半音階法の合理的組織化を実現したという事実よりも、むしろ、セリーの原理それ自体の設定であるように思われるからである。

ピエール・ブーレーズ

シェーンベルクたちが、なぜ最初に決めたセリー(音列)を繰り返さなくちゃいけないかっていうことは、とうとう僕には理解できていないんですよ。なぜそういう欲求を持ったか、いまだにわからないですよ。だってさ、結局、半音階なんてひどく目の粗いもので、バンッとやれば終わりでしょ? 一瞬で 12 個バンッと鳴らせばそれから発展しないわけよね。それは、12 個じゃなくても、あらゆる現代音楽は、システムを持っているという風に、セリーにしても言ってるけれど、その暴力的にノイズ化したジャン! というもので、もう、そこが最大値というかさ、表されちゃうわけで、一瞬で終わっちゃうでしょ? 後は、その中からいかに並べ替えするかっていうことしかない。

-坂本龍一

僕は柴田南雄さんの意見に近いんですけど、シェーンベルクは 12音技法を発見したんじゃなくて、12 音技法的な無調的な感覚を発見したのね。で、そこからそれを整理してみたら 12 音技法になっているわけです。その無調的な感覚性を 12 音技法にしたときには、その感覚自体は抽象化されて、ある意味捨象されているわけですね。12 音技法と 12 音技法的な作品というのは違うものだと思います。感覚の方は捨象されて技法は残るということは、すでに抽象化された技法自体で作品を作るっていうことに、あんまり意味がなくなってくる。

-坂本龍一

…このような、五度の関係の重視、すなわちドミナント関係の優位を認めるという事実は、無調音楽の理念と逆行する感を与えるが、そもそも十二平均律によって楽器や人声によって演奏される音楽において、自然倍音の関係、つまりオクターブや五度、長三度の優位を絶対に否定することは不可能なことである。シェーンベルクの無調音楽にあっては調性や三和音の機能的な体制は否定されるが、自然倍音列の教える諸音間の親近性や和音の音響能率の順位は、調性音楽であろうと十二音音楽であろうと必然的につきまとう音響物理現象の一部であり、シェーンベルクも五度の関係を初期の作品二十六に於いても取り入れたが、その後次第に積極的に認める方向に進み、晩年の《ナポレオンへのオード》の終結部などでは三和音の容認にまで及んでいる。

柴田南雄

しかし、調性音楽には、単に歴史的民族的な背景のほかに、三和音体制とドミナントの重視という、自然倍音列から導かれる自然の根拠があることは見逃せない。では、シェーンベルクは調性を放棄するとともにそれらをも全く無視したのであろうか、部分的にはそのように見える作品もあるが、すでに述べたように、初期の作品二十六の管楽五重奏曲の音列は、前半と後半が五度関係に立っており、この関係は es がやや優位に立つ第一主題と b がやや優位に立つ第二主題の関係にも及んでいるし、また中期以後の I6 を重視する音列は実作品中では当然、五度関係の重視を伴っている。したがって、ドミナント関係を彼が全く無視しているという非難は、彼の作品を真に知らないものの議論といわねばならない。その他の音程関係についても、自然倍音列の与える協和度の高低については決して無視されてはいない。むしろ、その点で十二音技法は一種の新古典主義という時代精神の影響下の産物とさえ言えると思う。

柴田南雄

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iTunes の保存先を NAS に設定すると楽曲のダウンロードができなくなることがある

 タイトルの通りである。iTunes でライブラリの保存先を NAS(ネットワーク接続ストレージ)に設定すると、iTunes Store から購入した楽曲がダウンロードできなくなることがある。

 原因もぼぼわかっていて、これは、NAS のファイル名と Windows のファイルシステムのファイル名との間の互換性が不完全なことが原因だ。NAS の場合、ローカルな OS のファイル・システムがそのまま使われる単純な拡張ドライブとは異なり、NAS 独自のファイル・サーバを稼動する必要がある。現在市販されている NAS の多くは、Windows のファイル・サーバの機能をエミュレーションするために、Linux Samba を利用している。そのため、Windows で使えるファイル名と NAS で使えるファイル名は完全に同じではないのである。

 具体的にどの環境でどの文字が使えないかは、いろいろ検索してみたが完全には解明できなかったので、当方の環境で確認できた結果だけ書く。当方で使っている NAS はバッファローの Linkstation シリーズの HD-HLAN120 という機種だが、この NAS では、波ダッシュ(Unicode U+301C)の含まれたフォルダ名やファイル名を作成することができない。しかし、Windows XP 上ではそういう名前も許されるので、iTunes Store からダウンロードしたファイルやフォルダの名前に波ダッシュが入っていると、ローカル・ドライブには保存できるのに、NAS に保存しようとするとエラーになってしまうのである。

(ちなみに、この波ダッシュというのは、Unicode と Windows の非互換性の問題に関していわくつきの文字らしくて、「波ダッシュ 全角チルダ 問題」などと入力して検索すると、多数のサイトがヒットする。)

 もちろん、この問題は、iTunes Store からダウンロードする際に限らず、ローカルなドライブから NAS にフォルダやファイルをコピーする際にも発生する可能性がある。ただ、Windows のシステムでは、そもそも波ダッシュという文字をキーボードから入力すること自体が難しいようになっているので、波ダッシュの含まれるファイル名やフォルダ名をわざわざ自分で作成することはめったにない。そのため、このような問題があまり顕在化しないだけである。

 この問題は、たとえば、次のようにすれば回避できる。

  1. iTunes のライブラリの保存先を、一時的にローカル・ドライブに変更する
  2. エラーになったダウンロードを再開する。今度はダウンロードできるはず。
  3. ダウンロードが完了したことを確認してから、ライブラリの保存先を本来の NAS に戻す。
  4. ローカル・ドライブにダウンロードされたファイルの名前を、NAS 上でも問題のない名前に変更する。(波ダッシュを全角チルダに書き換えるなど)
  5. 名前を変更したファイルを、NAS 上の本来の保存フォルダに、手作業でコピーする。
  6. iTunes の「フォルダをライブラリに追加」もしくは「ファイルをライブラリに追加」を使って、コピーしたファイルを改めてライブラリに取り込みなおす。

 実は、このトラブルについては、Apple のサポートにも報告したのだが、何回メールのやりとりをしても、見当はずれの回答をよこすばかりでラチがあかない。そもそも、Apple のサポートは、こういう問題が存在すること自体を認識していないらしい。仕方がないので、自分で調べた限りでは原因は上記の通りであって、回避方法も上記の通りなのだが、とどっちがサポートだかわからないような偉そうな説明をした上で、これは必ずしも御社の責任とは言えないが、わざわざそういうトラブルの原因となるようなファイル名を楽曲につけない方がいいのではないか? と一応意見しておいた。

 でも、現状の iTunes や iTunes Store を見る限り、いまだになんの対策も打たれていないようだし、インターネット上にもこの問題について解説したサイトが見当たらないので、ぼくと同じ問題にぶつかって悩んでいる人のために、ここに記しておくことにする。

 ちなみに、当方でこの問題が発生した楽曲には、以下のようなものがある。

アルバム名の「ヒーリング」と「バリ」の間が波ダッシュ 

アルバム名の「ヒーリング」と「インド」の間が波ダッシュ 

「ファム・ファタール~妖婦」という曲の「ファム・ファタール」と「妖婦」の間が波ダッシュ

これは波ダッシュではないが、「映画「8½」 ~ それから‥‥ (ワルツ)より」という曲の「½」の字が使えない

どなたかのご参考になれば幸いである。

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REBECCA の最高傑作は POISON である。異論は認めない。

POISON  なぜか無性に REBECCA を聴きたくなる。何を隠そう、ぼくもかつて REBECCA のファンだった時期があったのだ。もちろん CD もほとんどすべて所有していたのだが、何かのきっかけて売り払ってしまって、今はもう手元には一枚もない。

 しかたなくダウンロードのできるサイトを探しまわる。iTMS にはなかったが mora にあった。iTunes で聴けないのは不本意だが、どうしても聴きたくてたまらないという欲望に勝てず、何曲かダウンロードしてしまう。

 こういう若い頃好きだった作品って、年をとってから改めて鑑賞すると、幻滅させられることも多いのだが、REBECCA に関してはそんなことはなかった。もちろん、この時代の音楽の常として、リバーブがかかりすぎだとかスネアドラムの音が異様にうるさいとかいうような不満はあるが、そんな些細な不満はふっとばすだけの力のある作品である。

 REBECCA の曲というと、「フレンズ」とか「LONELY BUTTEFLY」とかが一般には有名なようだが、ぼくに言わせれば、REBECCA の最高傑作は間違いなく「MOON」である。異論は認めない。 土橋安騎夫のちょっとひねったメロディライン、NOKKO の歌詞と歌唱、バイオリンの音がゲート・ディレイできゅんきゅんきゅんと飛んでいく間奏部のアレンジ、すべてが完璧である。

 このバンドのアルバムとしての最高傑作も、この「MOON」が収録された「POISON」であろう。これも異論は認めない。このアルバムは、REBECCA の最高傑作というだけでなく、1980 年代の J-POP (という言葉はまだなかったのだが)の中でもベスト 5 ぐらいに入る作品ではないだろうか。まあ、YMO とかは J-POP には含めないとすると、80 年代でこれを超える作品って、サザンオールスターズの「KAMAKURA」ぐらいしか思いつかない。

 最近、80 年代はカスだみたいなことを言う人が多くて、ぼく自身もなんとなくそんな気分になっていたのだが、どうしてどうして、やっぱりいい作品はあったのだ。その事実を確認できてよかった。これで今夜はぐっすり眠れそうだ。

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音楽の新しい座標軸

 ちかごろよく、エレクトロニカの音楽史的な位置づけについて考える。単に、電子音やノイズを多用した音楽というだけなら、これまでにもたくさんあった。クラシックや現代音楽に分類される音楽で言えば、電子音楽とかミュジーク・コンクレートと呼ばれるものがそうであるし、ポップスに分類される音楽で言えば、テクノポップなどがそうであった。

 しかし、エレクトロニカはこのいずれとも違う。もちろん手法的には共通する部分は多々あるのだが、なんというか思想が違うのである。その思想の違いをうまく説明する方法を考えていて、一つの図式を思いついた。これも誰かがとっくに言っていそうな話ではあるが、一介のアマチュアとしては先行研究の調査とかしてるひまもないので、例によって思いつきを垂れ流させていただくことにする。

新しい音楽の座標軸.JPG

 この図式では、音楽のジャンルを 2 つの座標軸で分類している。そのうち縦軸の方は、楽音/非楽音という軸になっているが、これは音楽学で一般的に使われる用語と同じ。楽音というのは音程のある音で、非楽音は音程のない音である。楽音の典型は言うまでもなく楽器の音である。

 横軸の方は、ぼくが勝手に考えた分類で、あまり一般的ではないかもしれないので、少し詳しく説明しよう。

 まず、具体的というのは、音が現実世界の具体的な何かに強く関連付けられていることを指す。たとえば、ピアノの音は、ピアノという現実世界のものに関連付けられていて、ぼくらはピアノの音を聴くと反射的にピアノを思い浮かべる。もちろん、ピアノ以外の楽器の音もそうだ。

 しかし、こういう音は楽器音だけではない。ぼくらが生活の中で聞き慣れている音の中にも、現実の物や現象を強く想起させるものが少なくない。たとえば、海の潮騒の音やカメラのシャッター音などがそうである。ここでは、このような音を具体的な音と呼ぶことにする。

 一方、抽象的というのは、これと反対に、現実世界との関連性が薄く、現実の何かを想起させる力の弱い音を指す。これは定義からして必然的に、現実世界の音よりも、音楽でしか使われない音が多くなる。たとえば、テクノポップで使われるシンセサイザの音であるとか、エレクトロニカで使われるパルス音やグリッチ音がそうである。

 ここで、シンセサイザの音は、シンセサイザという楽器を想起させるから具体的ではないのかとか、逆に、伝統的な楽器だって音楽という目的にしか使えないのだから、抽象的な音に含めるべきではないのかとか思う人もいるかもしれない。

 これらはいずれも重要な論点であり、詳細な議論は別の機会に譲りたい。ただ、一つ言える事は、具体的か抽象的かは相対的な問題で、初めて聴いたときは抽象的な音も、聴き慣れるうちに具体的な音に変わるし、具体的な音も、コンテキストを置き換えることによって抽象的な音に変わるということだ。この座標軸は、そのうちのどちらの方向性を相対的に強調しているかで決めることにする。

 もう一つ興味深い問題を提起するのは、サンプリング音である。サンプリング音そのものは、現実の音を録音したものであるから、具体的なものや現象を想起させる具体的な音であることが多い。ところが、サンプリング音を加工したり別のコンテキストに置き換えたりすると、抽象的な音に変換することが可能なのである。

 たとえば、オーケストラ・ヒットなどと呼ばれる効果音がある。これは、実際のオーケストラの演奏をサンプリングして、その一部だけを切り取った音である。これを元のコンテキストとは無関係な場所で鳴らすと、もはやオーケストラの音には聞こえない。何か得体の知れない効果音に聞こえるようになる。一時期のヒップホップなどで多用されていたので、ご存知の方も多いと思う。このようなサンプリング音も抽象的な音の一種と言える。

 さて、この座標軸に基づいて音楽のジャンルを分類すると、上図のようエレクトロニカの位置づけがはっきりする。エレクトロニカは、楽音よりも非楽音を多用するという点で電子音楽やテクノポップとは異なり、具体的な音ではなく抽象的な音を多用するという点でミュジーク・コンクレートとも異なる。

 これまで、テクノポップやエレクトロニカを他のジャンルから分かつものは、デジタルなテクノロジであると一般には思われがちであった。しかし、現代の技術では、デジタルなテクノロジを使ってアコースティック楽器の音をそのまま出すことも可能であるから、テクノロジによる分類がなんら本質的でないことは自明だ。音楽の手法として本質的なのは、むしろ、ここで挙げた具体的/抽象的という軸なのであり、この軸を導入すれば、これまで混同されがちであったジャンルの本質的な差異がはっきりと浮かびあがるのである。

 この図式から観ると、エレクトロニカに近いのは、強いて言えば未来派であることがわかる。たとえば、未来派の主導者の一人であるルイージ・ルッソロの発明した「楽器」にイントナルモーリなるものがあるが、これは楽音ではなく非楽音を発生させる機械であった。

 未来派は 20 世紀初頭に起こった音楽ムーブメントだが、ファシズムに加担したりしたこともあってか、後を継ぐものもなく尻つぼみで終わってしまったらしい。現代のエレクトロニカがその思想を継承していると考えるのも一興かもしれない。

 ちなみに、この図式を思いついたきっかけは、リュク・フェラーリの「Archives sauve'es des Eaux(水から救出されたアーカイヴ)」という曲を聴いたことだった。 リュク・フェラーリは、一般にはミュジーク・コンクレートに分類されるアーティストだが、ぼくにはこの曲はどうしてもエレクトロニカにしか聴こえない。しかし、リュクの昔の曲はそうではないのだ。その違いはどこにあるのだろう、と考えているうちにこういう結論になった。

 リュクの昔の曲で使われている音は、同じサンプリング音でも、現実を想起させる力が強い音ばかりだが、この曲で使われている音は、オーケストラ・ヒットのように、あまり現実を想起させないように加工されている。それがエレクトロニカっぽく聴こえる最大の要因だと気づいたのだ。

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a gift

 いまさら言うまでもないが、人間というのは不思議なものだ。人格などというものは、煎じ詰めれば、脳の組織が外界からの入力を受けて変化した結果にすぎない。身体性などと呼ばれるものを人格に含めたとしても、やっぱり、肉体の組織が外界からの入力を受けて変化した結果にすぎない。そのような変化は、人間が死ねば、当然のことながら、きれいさっぱり失われる。

 けれども、肉体が滅び人格が失われた後でも、その人格の記憶は人々の中に残る。記憶の中の人格は、その記憶の主の人格になにがしかの影響を与えるだろう。もちろん、その記憶の主もいつかは死ぬだろうが、その人格もまた、他の人々の記憶の中に受け継がれていく。

 このような記憶の中の人格は、なまじっかな「思想」などというものよりも、はるかに強く人間を突き動かす力を持っている。そういう意味で、オカルトでもなんでもなく、肉体が失われた後でも、人間の人格は人々の中に生き続ける。ぼくらは、過去の人格に導かれながら、未来に向かって歩いていく。この能力は、人間という脳が発達しすぎた生物に、自然界から与えられた素敵な贈り物なのかもしれない。

-「矢野顕子 - ひとつだけ (Guest Artist: 忌野清志郎) 」を聴きながら。

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SHE9700 を買う

PHILIPS イヤフォン SHE9700  前にも書いたことがあるが、ぼくは Etymotic Reserch という会社の高音質イヤホンを愛用している。でも、いい加減な性格なので、長持ちさせられた例がない。寝ながら音楽を聴いていて、そのまま眠りに落ちてしまい、身体の下敷きにしてしまったり、床の上に放り出しておいたのを、気づかずに踏んづけてしまったりするのだ。

 調べてみればわかるが、この会社のイヤホンは、イヤホンのくせに iPod の下位機種本体より高価だったりする。だから、壊してしまったときの精神的ショックは大きい。どのくらい大きいかというと、好きな異性に振られたときぐらい、と言っては言いすぎだが、姪っ子にあげたプレゼントがあまり受けなかったときぐらいの大きさだ。あれ、それじゃたいしたことないか。

 まあとにかく、2 代目のイヤホンを壊してしまったときには、さすがにすぐ 3 代目を買う気にはなれなかった。仕方ないので、しばらくは SHOP99 で買った 99 円のイヤホンなどで我慢していたのだが、もちろんこれは音質を云々できるようなレベルの製品ではない。

 そこで、ここまで安くなくてもいいけど、壊してもお気に入りのシャツにコーヒーをこぼしたときくらいの精神的ショックで済む程度の値段で買えて、しかも、そこそこ音質のいいイヤホンはないかなあ、と物色していたら、ネット上で妙に評判のいいイヤホンを見つけた。それが今回購入した PHILIPS のイヤフォン SHE9700 である。

 早速聴いてみると、確かに、この価格帯では信じられないほど高音質だ。特に低音が素晴らしく、音の輪郭がくっきりしていてまったくぼやけていない。一時期の R&B のようにバスドラが極端に強調された音楽を聴いても、ほとんどビリつくこともない。

 前にも書いたように、イヤホンやヘッドホンは低音が重要だというのがぼくの持論。高音はイコライザなどで調節して誤魔化すこともできるが、低音の音像がぼやけているものは、いくらブーストしてもまともな音にはならない。その意味で、この製品はぼくの好みにぴったりである。

 もちろん、Etymotic Reserch 社などの高価格帯の製品に比べれば、特に中高音域の音質が若干劣ることは否定できない。しかし、値段が 10 分の 1 程度であることを考えれば、驚異的なコスト・パフォーマンスであると言えよう。

 というわけで、ぼくもこの製品に対する世間の高評価に心から一票を加えたい。特に、安価で高音質のイヤホンを探している人、持ち歩くのだからオーディオマニアが買うような高級品はいらないけど、iPod の付属のしょぼいイヤホンよりはちょっとマシなものが欲しいと思っているような人には最適だと思う。

 購入された方に一つ忠告。イヤピースは大きさの違うものが 3 種類付属しているが、必ず全部の大きさを試してみることをお勧めする。なぜなら、単に装着感だけの問題ではなく、音質も変化するからだ。ぼくが試したところでは、少しきつくても大き目のイヤピースにした方が、中高音域のこもった感じがなくなって音質がよくなる。ぼく自身はまだ試していないが、Amazon のレビューによれば、サードパーティ製のイヤピースに交換する手もあるらしい。

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今年よく聴いたアルバム

 なんか、年末のブログにはこういう記事をのっけるのが定番なようなので。なお、順位は Last.fm の視聴回数データから集計したものなので、必ずしも、今年発売されたアルバムとは限らないので注意。

1.PianaEphemeral

Ephemeral 最近とみに流行の兆しの見られる、エレクトロニカをベースにした唄物ポップス。この手の作品としては、Bjork Vespertine が嚆矢であり、なおかつ完成度も高いのであるが、このアルバムもそれにひけをとらない完成度だと思う。Piana というアーテストはこのアルバムで初めて知ったのだが、まだ 30 歳ぐらいの可愛らしい女性で、完成度の高さとのギャップにちょっと驚いた。みなさんも侮らずに聴いてみてほしい。この人の作品の場合、日本的なある種の「カワイイ」感じが、海外のアーティストにはあまり見られない個性になっている。


2.Pupafloating pupa

floating pupa  これもエレクトロニカをベースにした唄物ポップスだが、大御所の高橋ユキヒロを初めとし、高野寛、原田知世といった超豪華メンバーのバンドによるもの。さすがに大ベテランだけあって、派手さはないものの、聴けば聴くほど味がでるようなスルメのような仕上がりになっている。コードワークなどもロマンチックであり、ぼんやり聴いているとエレクトロニカであることを忘れてしまうほど。 エレクトロニカ・ポップスの一つの到達点を示した作品。


3.Yellow Magic Orchestra「LONDONYMO-YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 15/6 08-

LONDONYMO-YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 15/6 08- 言わずと知れた YMO が、Massive Attack に招待されて行ったロンドンでのライブ公演の模様を収録。収録曲は、YMO、HASYMOSketch Show、3 人のソロアルバムなどからとったもので、新曲はないのだが、すべてエレクトロニカ的にリアレンジされている。全体に肩から力の抜けた感じなのに、悪い意味で枯れた感じではまったくなく、依然として現代的な感性を感じさせるところが非常によい。 やはり、世界的に見ても突出した個性をもったバンドであると再認識。


4.Ryoji IkedaDataplex

  ほとんどパルス音だけから構成された超ミニマルなエレクトロニカ。 この人は音の使い方が極めてストイックで、Raster Norton の Alva Noto などに比べてもさらにミニマルなのだが、それが逆に表現に力を与えているところがすごい。


5.AutisticiVolume Objects

 
  こちらは、サンプリング音やノイズの多いアンビエント寄りのエレクトロニカ。西洋人はこういう構造の見えにくい茫漠とした音楽は苦手だったはずなのだが、最近は Fennesz を初めとしてうまい人がどんどん増えてきた。この作品なんか、コーネリアスが作ったと言われても納得してしまうぐらいある種日本人的な感性が感じられる。

6.Anton Webern「Webern: Passacaglia, Symphony, Five Pieces

  新ウィーン楽派のウェーベルンの代表作。 ウェーベルンは音響的には大好きなのだが、いかんせん短い曲が多いので、聴いていてもなかなか満腹感が出てこない。その点、このバッサカリアは 10 分ぐらいあるのでいい。

7.CarolineMurmurs


8.SawakoMadoromi

Madoromi  この人のスタイルもアンビエント寄りのエレクトロニカだが、音の選び方に、あまり他のアーティストにはない独特の個性がある。エレクトロニカというのは、どうしても部屋に引き篭もって作ってるような暗い感じになりがちなのだが、この人の音には、陽光の下で日向ぼっこしているときのような大らかなのどかさがある。そこがいい。この人もむしろ海外で高評価されているらしい。

9.moskitooDrape


 この人も実は、日本人の女性でアンビエント寄りのエレクトロニカを作っている人。エレクトロニカは日本人女性に向いているのであろうか?


10.細野晴臣細野晴臣 アーカイヴス vol.1

細野晴臣 アーカイヴス vol.1  大御所細野晴臣のお蔵だし作品集。お蔵出しということで、質の方はどうかなと思うとさにあらず。もちろん、ソロアルバムのようなコンセプト的な統一感はないが、作品の質はどれもきわめて高いことに驚かされる。細野さんが常にていねいな仕事をされていることがよくわかるアルバム。


 こうしてみると、今年はエレクトロニカをベースにしたポップスを中心に聴いた年だったらしい。数年前は、こんなものを好んで聴く奴はちょっとビョーキなんじゃないだろうかと思っていた(確かブログにも書いた)のだが、すっかりポップスの一手法として定着しつつあるようだ。

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lowercase はうるさい

 前回紹介した 12k レーベルのアーティストの中でも、ある意味もっとも突出した作風を持つのは、リチャード・シャルティエ(Richard Chartier)であろう。シャルティエのスタイルは、lowercase とか micorosound とか呼ばれている。音量の極めて小さい音を確信犯的に使うスタイルである。まあ、口で説明するより、下記のウェブサイトのサンプルを聴いてもらった方がてっとり早いだろう。

 これはもちろん、デジタル技術なしではあり得なかったスタイルだ。アナログレコードやカセットテープだったら、こんな音はダストノイズやヒスノイズに埋もれてしまう。だいたい、ノイズを相対的に抑制するために、ダイナミックレンジぎりぎりのレベルで録音するというのが一般的な録音テクニックなのに、そのルールに完全に逆らっている。もしアナログの時代にこんな作品を市場に出していたら、「金返せ」という苦情が殺到したに違いない。デジタルですら無問題とはいえなくて、たとえば、この Of Surfaces という曲のサンプルなんか、 少なくともぼくには、いくら集中して聴いても何も聴こえない。だからきっと、ウェブサイトに苦情を送った人もいるに違いない。

 では、このスタイルが一般人には理解できない超難解なスタイルかというと、必ずしもそうは感じない。この細かいノイズの変化は意外と官能的なものを感じさせたりして魅力的なのである。特に、ヘッドフォンなんかで聴いていると、結構夢中になって聴いてしまう。

 逆に、スピーカーで聴いていると、トラックに記録された音よりも、周囲の音の方が気になってくるという効果もある。PC の冷却ファンの音、HDD のモーター音、エアコンの音、冷蔵庫の音、窓外の人や車の音のような、普段は背景化されている音が、突然に前景化されて注意をひくようになるのだ。

 伝統的な西洋音楽は、楽音とノイズの二分法の上に成り立っていた。楽音は前景化、ノイズは背景化されやすい音であった。そして、楽音以外の背景音は、単なる邪魔者として扱われていた。lowercase は、ノイズに強制的に注意を向けさせることで、背景音を前景化させる。と同時に、ノイズを「無音」から切り離し、間接的に真の「無音」を意識させることにも成功している。そういう意味で、シャルティエの音楽は、ジョン・ケージの 4 分 33 秒の思想を引き継いでいるとも言えるだろう。

 ただ、シャルティエの作品は、仕事中に聴くのには向かない。なぜかというと、聞き流すことができないからだ。シャルティエの曲を他の曲と一緒にプレイリストに入れて聴いていると、シャルティエの曲が始まったとたん、集中力がすべて曲の方に持って行かれてしまうのだ。そういう意味で、lowercase や microsound は、音量は極めて小さいにもかかわらず、なまじっかなハード・ロックなどより、はるかに「うるさい」音楽なのである。

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