Pyongyang Declarization

 11 月 8 日の NHK スペシャルの「秘録 日朝交渉~知られざる“核”の攻防~」を見ていたら、鳩山首相の国連演説の一部が引用されていて、聞いていたらちょっとずっこけてしまった。

 「平壌宣言」のことを「Pyongyang Declarization」と言ってしまっている。

 「平壌宣言」は「Pyongyang Declaration」 です。Declarization なんて英単語はありません。

 言い間違いかもしれないけど、普段 declaration という言葉を使い慣れていれば、口に出した瞬間に気づくと思うんですけどね。

 NHK もわざわざここをピックアップするなんて意地悪なと思うが、この官邸で公開しているビデオの 14:40 のあたりを聞いてもはっきりそう言っている。 

 ぼくは別に、日本の総理大臣にとって英語力が大事だとはまったく思っていないが、中途半端な英語力をひけらかそうとする態度は見てて恥ずかしく感じる。もっと「ぼくは英語なんてできませんが、それが何か?」という感じで堂々としてればいいのに。

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定額給付金もらうの忘れた

 麻生政権の目玉政策であった「定額給付金」。早く申請しなきゃと思いつつ、仕事にかまけてほったらかしていたら、ついに期限切れになってしまった。

 その間にリーマンショックは起こるは政権交代は起こるは、もはや定額給付金なんて政策があったことすら忘れている人も多いだろう。浮世とは誠にはかないものですな。

 まあいいや。世の中にはぼくなんかよりもっと困っている人がいるだろうから、そちらで有効に使ってくれ。そう言えば、あれは景気対策だったんだっけ? それとも家計支援だったんだっけ? 景気対策だったら、その分消費を増やさないといけないのかな。ショップ 99 にばかり行ってる場合じゃないね。

 そう言えば、定額給付金政策には反対なくせに金を貰うのはおかしい、とかなんとか変な屁理屈こねてたひょーろんかがいたなあ。おかげでそういう人には批判されなくて済みそうだ。別にわざとじゃないけど。 

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9.11~アメリカを変えた102分~

 昨日は 9 月 11 日。つまり 2001 年にアメリカ同時多発テロ事件があった日だった。事件後しばらくは、毎年この日になると「9.11」を振り返るテレビ番組をやっていたものだが、その後アメリカの政治の方向性がおかしくなってイラク戦争やらが起きたという嫌な思い出を忘れたいからか、それともその後のリーマンショックの方が今となってはよっぽど重大事件だからなのか、年を経るごとにそういう番組は少なくなってきて、今年なんかも日本のテレビ局ではあまりそういう番組は見当たらなかった。

 そんな中、アメリカに本社を置く「ヒストリー・チャンネル」では、地味に「9.11 特集」をやっていて、その手の番組にはぼくも食傷気味だったのであまり期待もせずに録画したのだが、予想外に面白かった番組があった。それが「9.11~アメリカを変えた102分~」である。

 これは簡単に言えば、9.11 の日に現地にいた一般人が撮影したビデオ映像を収集してつなぎ合わせ再編集したものにすぎないが、その再編集の仕方に一つだけ仕掛けがある。それは、あらゆる映像が実際の事件の経過にあわせて時系列に並べられているということだ。しかも時間スケールの伸縮もほとんどない。

 つまり、番組開始直後には、2001 年 9 月 11 日 8:46 頃の WTC 衝突直後の映像が流れ、番組開始 1 時間後ぐらいには、9:59 頃の南棟崩落時の映像が流れ、番組開始 1 時間半後には、10:28 頃の北棟崩落時の映像が流れる、という具合になっているのだ。したがって、観ている者はまるで事件をリアルタイムで体験しているような雰囲気を味わえる。

 こうやって説明してしまうと単純な仕掛けに思えるかもしれないが、実際に観てみると意外にいろんな発見がある。現場にいた人にとっては、WTC に飛行機が突っ込んだこととだけでなく、崩落したことも驚きだったこと。だから南棟崩落以前は、多くの人が崩落を前提とせずに行動していたこと。南棟が崩落してから北棟が崩落するまでの間に救助に当たっていた消防隊員がどれだけギリギリの状況で命がけの救助をしていたかということ。南棟崩落時点で、すでに「戦争をすべきだ」というようなぶっそうな発言をしている一般人がたくさんいること。かと思うと、あれだけ緊迫した状況のなかでもとぼけたジョークを飛ばしたりしているおっさんがいること。

 解説のテッシーこと手嶋龍一氏も言っていたが、通常のドキュメンタリーでは、事件に意味付けをするために、時系列に起こった事件をなんらかの文脈に基づいて再構成する。そのようなドキュメンタリーがたくさん作られることにより、事件がいろんな角度から多角的に意味付けされることになっている。そうやってぼくらは事件の「意味」を理解したつもりになる。

 ところがこの作品でやっていることはその正反対で、すでにありとあらゆる角度から、ある意味過剰に意味づけられた 9.11 という事件を、その意味付けの文脈から切り離して単純な時系列に戻しているのである。すると不思議なことに、そのような過剰な意味付けによって逆に見え難くなっている、事件のさまざまな様相が見えてくる。そして、ぼくらが普段どれほど意味の文脈に頼ってものを見ているかということや、どんなに多角的な文脈から意味付けしても取りこぼされるものがあるということを、改めてぼくらに気づかせてくれるのである。

 ハイデガーの言葉で言えば、ぼくらは常に世界を「配慮的気遣い」を通じて認識しているため、世界は「道具的存在」のような意味を持った存在として認識される。このようななにかの目的のためにモノを見るのではなく、見ること自体を目的としてモノを見ることを可能にするのが芸術の役割の一つである、というのは例によって山崎正和氏の受け売りだが、そのような立場にたてば、この作品は正しく芸術であると言えよう。

 この番組は、今月中に後 3 回くらいヒストリー・チャンネルで再放送されるようなので、興味をお持ちの方はご覧になってみてはいかがであろうか。

 エミー賞 4 部門ノミネート作品

  • Outstanding Nonfiction Special
  • Outstanding Picture Editing For Nonfiction Programming
  • Outstanding Sound Editing For Nonfiction Programming (Single Or Multi-Camera)
  • Outstanding Sound Mixing For Nonfiction Programming

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退廃芸術

退廃芸術(たいはいげいじゅつ、独:Entartete Kunst, 英:degenerate art)とは、ナチス近代美術を、道徳的・人種的に堕落したもので、ドイツの社会や民族感情を害するものであるとして禁止するために打ち出した芸術観である。

ナチスは「退廃した」近代美術に代わり、ロマン主義写実主義に即した英雄的で健康的な芸術、より分かりやすく因習的なスタイルの芸術を「大ドイツ芸術展」などを通じて公認芸術として賞賛した。これらの公認芸術を通してドイツ民族を賛美し、危機にある民族のモラルを国民に改めて示そうとした。一方近代美術は、ユダヤ人スラブ人など「東方の人種的に劣った血統」の芸術家たちが、都市生活の悪影響による病気のため古典的な規範から逸脱し、ありのままの自然や事実をゆがめて作った有害ながらくたと非難された。

近代芸術家らは芸術院や教職など公式な立場から追われ、ドイツ全国の美術館から作品が押収されて「退廃芸術展」など全国の展覧会で晒し者にされ、多くの芸術家がドイツ国外に逃れた。一方公認芸術は、「人種的に純粋な」芸術家たちが作る、人種的に純粋な「北方民族」的な芸術であり、人間観や社会観や描写のスタイルに歪曲や腐敗のない健康な芸術とされたが、その実態は農村の大家族や生活風景、北方人種的な裸体像が主流の、19世紀の因習的な絵画・彫刻の焼き直しにすぎなかった。

皮肉なことに、近代芸術を身体的・精神的な病気の表れである「退廃」だと論じる理論を構築した人物は、マックス・ノルダウというユダヤ人知識人であった。


ノルダウはこの理論を疑似科学的な根拠として用いながら、「世紀末芸術」や「世紀末」的文化状況の「倫理的堕落」に対して幾分俗物的な立場からの批判を行った。ノルダウはロンブローゾの理論に基づき、近代の芸術家もまたロンブローゾのいう「生来的犯罪人」同様、原始からの隔世遺伝的な退廃に冒され、身体的・精神的な異常を抱えていると断言した。彼にすれば、音楽文学視覚芸術などあらゆる形式の近代芸術には、精神的不調と堕落の症状が現れていると見えた。近代芸術家たちは身体の疲労と神経の興奮の両方に苦しめられているため、すべての近代芸術は規律風紀を欠き、首尾一貫した内容がなくなっているとした。ノルダウは特に印象派絵画、フランス文学の象徴主義、イギリス文学の唯美主義に攻撃を集中した。象徴主義の中の神秘主義思想は精神病理学的な産物であり、印象派画家のペインタリネス(絵画表面のありよう)は視覚皮質病気の兆候とされた。




- Wikipedia 退廃芸術

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a gift

 いまさら言うまでもないが、人間というのは不思議なものだ。人格などというものは、煎じ詰めれば、脳の組織が外界からの入力を受けて変化した結果にすぎない。身体性などと呼ばれるものを人格に含めたとしても、やっぱり、肉体の組織が外界からの入力を受けて変化した結果にすぎない。そのような変化は、人間が死ねば、当然のことながら、きれいさっぱり失われる。

 けれども、肉体が滅び人格が失われた後でも、その人格の記憶は人々の中に残る。記憶の中の人格は、その記憶の主の人格になにがしかの影響を与えるだろう。もちろん、その記憶の主もいつかは死ぬだろうが、その人格もまた、他の人々の記憶の中に受け継がれていく。

 このような記憶の中の人格は、なまじっかな「思想」などというものよりも、はるかに強く人間を突き動かす力を持っている。そういう意味で、オカルトでもなんでもなく、肉体が失われた後でも、人間の人格は人々の中に生き続ける。ぼくらは、過去の人格に導かれながら、未来に向かって歩いていく。この能力は、人間という脳が発達しすぎた生物に、自然界から与えられた素敵な贈り物なのかもしれない。

-「矢野顕子 - ひとつだけ (Guest Artist: 忌野清志郎) 」を聴きながら。

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日本列島はステークホルダーみんなの所有物です

…って言えば、保守派のみなさんにも納得していただけたんでないの(^^)。

…にしても、鳩山兄弟は発言が軽いな…。

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Nuclear-Free World

Just as we stood for freedom in the 20th century, we must stand together for the right of people everywhere to live free from fear in the 21st century. And as nuclear power -- as a nuclear power, as the only nuclear power to have used a nuclear weapon, the United States has a moral responsibility to act. We cannot succeed in this endeavor alone, but we can lead it, we can start it.
So today, I state clearly and with conviction America's commitment to seek the peace and security of a world without nuclear weapons. I'm not naive. This goal will not be reached quickly -- perhaps not in my lifetime. It will take patience and persistence. But now we, too, must ignore the voices who tell us that the world cannot change. We have to insist, "Yes, we can."

ちょうど、20世紀の私たちが自由のために闘ったように、21世紀の私たちは、世界中の誰もが恐怖に脅かされることなく暮らす権利のために、団結しなければなりません。核保有国、それも、核兵器を使用した経験を持つ唯一の核保有国として、アメリカには、行動を起こす道義的責任があります。もちろん、この困難な事業を、アメリカ一国だけで成功させることはできませんが、その先頭に立ち、口火を切ることはできるでしょう。ですから、私は今日ここに、アメリカが核兵器のない世界の平和と安全を追求するというお約束を、確信を持って明言したいと思います。もちろん、私は、この目標が、そうやすやすと達成できると思うほど幼稚ではありません。いやひょっとしたら、私が生きているうちには達成できないかもしれません。この目標を達成するには、忍耐と粘り強さが必要です。しかし、私たちはここでも、世界を変えることはできないという声を、無視しなくてはなりません。私たちは、断固として「われわれにはできる(Yes, we can)」と言わなくてはならないのです。

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CNN は当確出したよん

 みなさん Yes we can コールをしております。

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再分配は悪

 アメリカの大統領選まであとわずかとなり、両陣営の論戦というか過激な中傷合戦が続いている。ぼくもヒマさえあれば CNN などでチェックしているのだが、特にマケイン陣営の演説を聞いていてつくづく思うのは、アメリカ人ってのは心底「社会主義」や「再分配」が嫌いなんだなあということ。

 最近、マケイン陣営はオバマは社会主義者だというレッテル貼り攻撃をしているのだが、その中では、socialism とか redistribution とかいう言葉は完全に「悪」を表す言葉として使われているのだ。たとえば、

McCain: And that's the problem with Senator Obama's approach to our economy -- he's more interested in controlling wealth than creating it, with redistributing money instead of spreading opportunity.

マケイン: それがオバマ議員の経済に対するアプローチの問題点なのです。彼は富を生み出すことよりも富を規制することに、機会を増やすことよりお金を再分配することに興味があるのです。

McCain: Senator Obama is running to be redistributionist-in- chief. I'm running to be commander-in-chief.

マケイン: 私は最高司令官(=大統領)になるために立候補していますが、オバマ議員は最高再分配官になるために立候補しています。

Palin: And you have to really listen to our opponent's words. You have to hear what he is saying, because he's hiding his real agenda of redistributing your hard-earned money.

ペイリン: みなさんは対立候補の言葉をよくきかなくてはいけません。なぜなら、彼は、あなたが一生懸命稼いだお金を再分配するという真の政治目標を隠しているからです。

Palin: Now is not the time to experiment with socialism.

ペイリン: 今は社会主義の実験をしているときではありません。

Palin: I'm not going to call him a socialist, but as "Joe the Plumber" has suggested -- in fact, he came right out and said it -- it sounds like socialism to him. And he speaks for so many Americans, who are quite concerned now, after hearing, finally, what Barack Obama's true intentions are with his tax and economic plan. And that is to take more from small businesses, more from our families and then redistribute that according to his priorities.

ペイリン: 私はオバマ議員を社会主義者と呼ぶつもりはありませんが、「配管工のジョー」さん(ある番組の中でオバマの税制案について質問して有名になった人物)が指摘したように、ジョーさんには社会主義のように聞こえたことは事実です。ジョーさんは、オバマ議員の税制案や経済政策の真の意図について心配している多くのアメリカ人を代表しています。それは、中小企業やわたしたちの家族からより多くのお金をとって、それを彼の優先順位に従って再分配することなのです。

 もし日本人がこのような演説を聞けば、多くの人が違和感を感じることと思う。「オバマは再分配をしようとしていると。それはわかった。で?」って。つまり、再分配を批判するにしても、その方法や額の多少を問題にしようとするはずだ。

 しかし、アメリカ人にはこの「で?」がないのである。少なくともこの演説が受けるような共和党支持のアメリカ人にとっては、再分配そのものが「悪」なのだ。ここだけは、日本人とアメリカ人の感覚が決定的に違っていることを認めないわけにはいかない。

 ぼくも、アメリカ人が基本的に自由を好み政府の介入を嫌う人たちであるということぐらい、知識としては知っていたが、今回の大統領選の議論を聞いていて、それが改めて感覚的に身にしみた。もちろん、アメリカ人にも(特にインテリには)リベラルな人はたくさんいるが、庶民レベルでの社会主義や再分配に対する感覚的な反発は根強いのである。

(もちろん、日本人にだって、モノづくりが「善」でお金を動かすだけで儲けるのは「悪」だとかなんとか、いろんな固定観念があるわけで、アメリカ人だけがおかしいと言いたいわけではまったくない。為念。)

 オバマ氏が大統領に選ばれることは、アメリカ人の人種に対する意識、宗教に対する意識、社会主義や再分配に対する意識、いろんなものが変わり始めた証として捉えられるのかもしれない。大統領選の結果だけでなく、アメリカがこれからどこに向かおうとしているのかということから、しばらく目が離せそうにない。

追記: しまった、分配と配分を間違えた。ということで訂正しました(^^)。 お恥ずかしい。あと、オバマ氏の大統領としての資質については、必ずしも手放しで認めてるわけではないです。というか、まだよくわからないというのが正直なところ。確かに演説がうまい人だなとは思いますが、政策のすべてに必ずしも賛成なわけではありません。ただ、大統領選挙にとって政策がそれほど決定的かというと、必ずしもそうとも思ってないので(^^)。

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個性とはおおむね平凡なものです

 秋葉原の事件がらみで、はてな界隈では「承認欲求」の議論が盛り上がっていた。まあ、あの事件の犯人が本当に承認欲求に飢えていて、それが理由で事件を起こしたのかどうかはさておき、現代社会において承認欲求の問題が重要なことは間違いないと思う。でも、議論をちらちら横目で見ていると、ぼくなんかにはどうもいろいろと違和感を感じる部分があった。

 そもそも、承認という概念自体の定義がはっきりしないことが問題で、多くの人はマズローの欲求段階説を下敷きにしてるみたいなんだけど、この説自体が経験知を図式的に整理しただけで、それほど実存哲学的な深みがあるわけではない。だから、承認の欲求と呼べるものが人間にあるのは確かだと思うが、その細かい心理的なメカニズムや行動への現れ方については、必ずしもマズローが正しいとは思っていない。

 承認の欲求というのが、個として認められたい欲求だというのはその通りだと思うが、問題は、その「個」とは何かということ。ここで思ったのは、厳密には個性と個別性は別物なのに、その区別がついてないことが混乱の元になっているのではないかということである。

 個性という日本語は、現在では、他の人と比べて「変わって」いるとか、統計的な平均値からの偏差が大きいというニュアンスで使われることが多い。しかし、人間は一人一人みな違うというときの「個性」は、かならずしもそのような偏差が大きいことを意味しない。

 たとえば、真っ白い紙にランダムに点を打ち、それを碁盤目状に切り分けて、正方形の紙片をたくさん作ったとしよう。この紙片を1枚1枚仔細に比較すれば、おそらく、どれ1枚としてまったく同じ模様の紙はないだろう。しかし、遠くからぱっと見ただけだったら、どの紙片もほとんど同じように見えるはずである。

 この例でもわかるように、日常用語としての「個性」は、「個」の性質ではない。黒い紙片は白い背景の上に置けば目立つが、黒い背景の上に置けばまったく目立たなくなる。そういう意味で、黒い紙片が「個性的」なのは、白い背景という「全体性」に依存しているのであって、それ単体ではちっとも「個性的」ではない。しかし、後者の意味での「個性」は、全体がどうであろうと「個性」でありつづけるのである。

 実は、心理学用語としての個性(individuality)は、必ずしも日本語の日常用語のようなニュアンスではなく、むしろぼくが例で説明した意味に近いらしいのだが、ここでは混乱を避けるために、前者を「個性」、後者を「個別性」と呼ぶことにしよう。

 この分け方を前提としたとき、ぼくが考える承認欲求の承認の対象は、個性ではなく個別性なのである。言い換えれば、ほとんどの人は平凡な人間にすぎないのだが、にもかかわらず、まったく同じ人間は一人もおらず、一人一人が個別性を持っている。その個別性を愛でることが「承認」なのである。

 わかりやすい例で言えば、昔からよい家族を形容する「苦楽をともにする」という表現がある。最近では、「共に笑い共に誓い共に感じ共に選び共に泣き…」なんてヒット曲もありましたね。

 言うまでもないが、別に誰かが共に笑ったり泣いたりしてくれたからといって、経済的利益があるわけでもなければ、生理的欲求が満たされるわけでもない。しかし、多くの人は、自分が悲しんでいるときに一緒に悲しんでいくれ、喜んでいるときに一緒に喜んでくれる人がいるだけで、ある種の充実感を感じるのである。それはおそらく、自分の感情が「承認」されたと感じ、ひいては、ある意味自分の存在自体が「承認」されたと感じるからであろう。そしてそのためには、「個性的」に泣いたり笑ったりする必要などこれっぽっちもないのだ。

 あるいは、赤ん坊をかわいがるというのもそうだ。赤ん坊なんてのは、育てたからといって経済的な利益があるわけでもなければ、生理的な欲求が満たされるわけでもない。にもかかわらず、多くの親は赤ん坊の一挙手一投足を見て大喜びする。笑ったと言っては騒ぎ、泣いたと言っては騒ぐ。それはこれっぽっちも「個性的」なことではない。むしろ平凡極まりないことだ。にもかかわらず、人はそれを見て幸福感を味わうのである。これもある意味、親と子供が互いに「承認」し合うということであろう。

 「苦楽をともにする」という言い方に先人の知恵を感じるのは、「共通の目的のために協力する」というようなニュアンスとは微妙にずれた言い方をしているところである。実際、婚姻関係や家族関係は、わかりやすい目的を持ち目的合理的に行動するような機能集団ではない。もちろん、家族の「幸福」が目的だと言えないこともないのだが、じゃあ「幸福」ってなんだと言われたら、その正体は必ずしもはっきりしない。その正体が互いの「承認」にあることを見抜いた先人の知恵が「苦楽をともにする」という表現に現れているのではないだろうか。

 ぼくが最も違和感を感じたのは、結局、多くの人が市場価値や狭い意味での功利主義の枠組みで考えていて、承認される対象には市場価値に還元できるような価値がなければならないと思っているらしいことである。確かに、市場というのは本質的に普遍性を指向するので、一般に市場価値を生み出すのは「個性」であるか、そうでなければむしろ画一的な平凡さである。しかし、ある種の関係においては、「個性」ではなくむしろ平凡な「個別性」同士の共振が価値を生み出すことがあるのだ。

 逆に言うと、市場がこういう個別性の承認を提供するのは、おそらく原理的に難しいのではないかと思う。たとえば、金を払うとその人といっしょに泣いたり笑ったりして承認してくれる「有料承認サービス」みたいなものを作ったとしよう。でもよく考えると、そのサービスの「承認」は、金という普遍的価値に対してなされているだけなので、ちっとも個別性の承認にはなっていないのだ。もちろん、擬似的にそういう体験を提供する風俗店のようなものは星の数ほどあるが、ホステスに本気で惚れてしまえば幻滅するのは世の常だろう。逆に言えば、そのこと自体が人間にとっていかに個別性の承認が重要なものであるかを示しているとも言える。

 だから、市場で承認を得ようとすれば、むしろ個の方が普遍性に近づかなくてはならない。もちろん、それに挑戦して名声や権力を得ている人もたくさんいるわけで、そのこと自体を否定する気はない。しかし、それが可能なのは一部の人だけで、万人に心の平安をもたらす仕組みにはなり得ないと思う。現在の日本社会では、そういう「個性尊重」という名の下で行われる普遍化だけが「承認」だと思われすぎたために、本来の個別性の承認が軽視されすぎているのではないだろうか。

 ぼくは、市場経済を否定する気はまったくないが、個人がそういう個別性の承認をえる場は、市場以外の場所に確保すべきであると考える。もちろん、そういう「個別性」が価値を生み出す場というのは、家族関係や婚姻関係だけではないだろう。学生時代の利害関係のない友人関係などもそうだろうし、「あぶさん」的な飲み屋の人間関係だってそうだろうし、おそらく、「社交」と呼ばれるような関係の多くがそうなのではないだろうか。ただ、婚姻関係や家族関係には、そういう場を作るための仕掛けが伝統的に用意されているが、それ以外の場所では、そういう場を作る作法がひょっとしたら失われつつあるのかもしれない。

 実は、ぼくがこういうことを考える際に最も参考にしているのは、前にも言ったような気がするが、山崎正和氏の「社交する人間」である。山崎氏はなぜか一般に保守派と思われてるようなので、この本についても、どうせ伝統的な共同体に回帰することを勧めているんだろうと思う人もいるかもしれないが、まったく違う。むしろ、権力によって支配される組織でもなく、伝統的・情緒的な共同体でもない、第三の人間関係原理として「社交」というものを位置づけることにより、そういう反動を防ごうとしているとさえ言える。

 また、保守派の論客にありがちなひとりよがりなオレ様議論をしているわけでもなく、ちゃんとゲオルグ・ジンメル、フランシス・フクヤマ、マルセル・モース、ヨハン・ホイジンガ、クリフォード・ギアツ、ジェイン・ジェイコブス、アルバート・ハーシュマンなどの著作に依拠した議論をしているので、こういう問題に興味のある方には、ぜひ一読をお勧めする次第。その方が、ぼくの駄文なんかを読んでるより、よっぽど参考になるでしょう(^^)。

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子供のころに好きだった絵本

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これは子供の本のクセに、ちょっと恋愛物みたいな感じで、子供心になんかドキドキした。


 なんで突然こんなレビューを始めたかというと、実は例の秋葉原通り魔事件のせい。こんなこと書くと、明日から誰もまわりに寄ってこなくなるかもしれないけど(^^)、あの犯人のプロフィールって、なんか結構自分と共通するものがあるんだよね。中学までは優等生だったけど、高校で進学校に入ったとたん落ちこぼれたとか、親と仲が悪かったとか、人付き合いが下手だとか、女性にもてないとか(^^)。

 でも、ぼく自身はどう考えてもそんなに世の中を恨んでいるわけじゃなくて、結構人生を楽しんで暮らしている。その違いはいったいどこにあるのかなあ、と考えてしまったんだよね。すると、どう考えても、自分が上等な人間だからとか人格的に立派だからではなくて、結局いろんな意味で幸運だったからとしか思えなかったんだ。

 特に、子供の頃にいろんな人の愛情を受けて育ったことが、結局はいまだに自分を世の中につなぎとめているような気がする。色川武大さんの「うらおもて人生録」には、子供の頃に人に愛されたり愛したりする経験をすることが重要だと書いてある。これは何も統計的な根拠があるわけではなくて、純粋な経験論なんだろうけど、今になって自分の内面を省みてみると、その意味がわかるような気がするのである。

 ぼくの通っていた幼稚園は、キリスト教の教会が経営していた幼稚園だった。もちろん、露骨な宗教教育を受けたわけではないんだけど、今考えると間接的な影響は大きかったのだろうと思う。その幼稚園には絵本がたくさんあって、その大部分が福音館の絵本だった(これも今考えると、キリスト教の幼稚園だったからなのだろう)。上で紹介した絵本に福音館の本が多いのはそのせいである。

 もちろん、だからと言って、幼稚園をみんなキリスト教の経営にしろとか、絵本普及運動をしろとか、国の予算で日本中に絵本を配れとか言いたいわけではない。いや、すぐにそういう安易な「対策」をしてお茶を濁そうとする最近の風潮には、むしろかなり批判的だ。もちろん、不幸な幼児期を送った人間の犯罪は許してやれと言ってるわけでもない。

 世の中の善悪を誰かの責任にして解決するのは、世の理であって絶対に必要なことではあるんだけど、同時に、善悪だけにこだわっているとかえって見えにくくなってしまうもう一つの理の世界がある。ぼくは今むしろ、そちらの方に目を向けたい気分になっているのである。

追記: ただ、ぼくは雇用の流動化には賛成だし、派遣は自分も昔やってたからなおさらそう思うけど、単に日雇い派遣をやめればいいとかいう問題じゃないと思ってる。まあでも、しばらくこういう短絡的な政治が続くんでしょう。それも歴史的に仕方のないことだとは思ってるけど(^^)。

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もちろん自殺した本人が一番悪い

 自殺で誰が一番悪いかと言ったら、自殺した本人が一番悪い。尊敬する松本人志大先生に怒られたからというわけでは勿論ないが(^^)、最近の自殺事件に対するネット界の反応を見て、やっぱりこれは書いとくべきだと思った。これが大原則であって、前に書いたあれやこれやも、すべてこの前提を踏まえた先の話だ。それを忘れないでほしい。

 どうも最近は他人の文章を読んでもあまり想像力を働かせてくれない人が多いようなので、少しくどいたとえ話をする。たとえば、前回恥を忍んで自分の同僚が自殺した話を告白した。ひょっとして自分が彼女を助けられたかも、と考えてしまうということも書いた。

 しかし、冷静に考えれば、たとえタイムマシンで自殺の前の時間に戻れたとしても、おそらくぼくには彼女の自殺は防げないだろう。もちろん、自殺の現場で待ち伏せをしていて止めれば止められるだろうが、それはそういうタイミングを利用しているだけであって、単にいつか自殺するかもしれないことしか知らなければ、おそらく止めるのは難しいだろう。

 話の都合上ここから突然フィクションになるが(^^)、仮に、彼女がぼくに好意を持っていたとしよう。そしてなおかつ、ぼくには彼女が自殺するという予感があったとしよう。あなただったら、彼女の自殺を止めるためだけに彼女と付き合うだろうか? もちろん、まっとうな人間だったら、そんな不誠実なことできないだろうし、本当に好きでなかったら、そんなことしたって無駄だよね。かと言って、別に冷たくしてるわけでもないとすれば、好きでもないのに、突然過剰に優しくするのも変だよね(^^)。

 あるいは、あなたが誰かにお金を貸していたとする。そいつが期日になっても金を返さないので、きつく取立てようとしたら、そいつが「金を返せないので自殺します」とか言ったとしよう。あなたは、じゃあ返さなくていいよ、と言うだろうか?

 もちろんその答えは、貸した金の金額、あなた自身の経済的余裕、その相手との関係、いろんなものに依存するだろう。しかし、一般論としては、そう言われたからって簡単に借金の返済を免除する人はあまりいないだろうし、それで本当に相手が自殺したとしても、(違法な取立てとかをしていない限り)自分が悪いと真剣に思う人もそんなにいないだろう。

 結局、マトモな人間なら、わざわざ他人を自殺させようとして行動しているはずはないのであって、相手が自殺しようとしまいと、もともとその人なりのルールや倫理の範囲で行動しているはずなのである。したがって、常識的に考えれば、行動をそう簡単に大きく「改善」できるはずがないのだ。ああしておけばよかった、というのは、多くの場合結果論なのである。

 もちろん、可能性だけで言うなら、もっと影響力のある人間になれとか、借金を踏み倒されてもいいぐらいの経済力や度量を持てとか、そもそも貧乏人のいない社会を作ればいいんだとか、いくらでも言えるだろう。身近な人の自殺を経験した人が、自分の意思でそういう道を志すのもいいことだ。でも、それを万人に対して要求できるだろうか。他人に対してそういう過大な要求をする資格のある人間がどれほどいるか。冷静に考えればわかるはずである。

 つまるところ、自殺をしないということは、社会の基本ルールに組み込まれていて、多くの人はそれを前提にして生きている。自殺というのは、第一義的には、そのルールに対する裏切りという意味で罪なのだ。

 自殺の責任は、特に犯罪行為とか極端にアンモラルな行為とかがない限りは、まず本人。周囲の人や社会の責任はその次である。仮に自殺した人が誰かにイジメられていたとしても、それは自殺したから悪なのではなくて、イジメという行為自体がもともと悪なのであり、自殺したかしないかは結果論にすぎない。でなかったら、自殺しない奴はイジメてもいいことになってしまうではないか。

 前に社会全体に責任があるともとれるようなことを書いたのは、あくまで、この原則を踏まえた上で、それを超越したレベルの話として書いたことだ。その動機としては、最近の世の中が、あまりにも「悪者探し」や「悪者叩き」に急ぎすぎることに対する警戒心があった。安易に他人のせいにして安心するよりも、まず自分にできることは何かと考えて、自分の向上心の動機付けにした方が、世の中よくなるんじゃないの、と言いたかったわけだ。

(これを書いていて突然思いついたのだが、もっと現実的な「対策」として、成人に健康診断を義務付けるように、年に1回ぐらいメンタルヘルスの診断を義務付けるという方法もあるのではないかと思った。(^^))

 だから、ああいう言説が逆に、自殺した人の周囲を安易に叩くための言説として利用されたりするのは、ぼくにとっては不本意だ。もちろん、自分の周辺の人間が自殺したのに、そのことに何の思いも馳せないような人間は好きになれない。しかし、そういうことは、一人一人が自分の倫理観に照らして考えればよいのであって、赤の他人が安易に言うことではないと思う。

 自殺の話に限らず、最近のネット上の文章は、一見すると正義感で書いてるように見えて、実は、自分の自尊心を満たしたいとか、他人をバッシングしてカタルシスを得たいとか、そういう動機で書かれているものが多いような気がする。もちろん、別にどんな動機で書いても、書かれている内容が正論であればよいのだが、そういう文章は、強引な断定をテンションで無理やり押し切るような文章になりがちである。それが当たり前だと思うのは、ある種の倫理的退廃だと思う。

 もちろん、ぼくだって半分以上は自分のために書いているわけだが(^^)、だからこそ、あんまり偉そうになったり断定的になったりしすぎないように、一応工夫して書いているつもりである。でも、最近の若い子には、あんまりそういう配慮とかも全然伝わっていないような気がしてきて、ちょっと気持ちが萎えているところなんである(^^)。

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裏自殺サイトを作ってみたい

     最近の硫化水素自殺のニュースを見てひっかかるのは、「硫化水素による自殺を防げ」みたいな言い方である。そもそも、悪いのは「自殺」であって「硫化水素による自殺」ではない。もちろん、硫化水素による自殺は、他人を巻き添えにするということはあるが、基本的には、どんな手段であっても自殺は悪なのであって、硫化水素による自殺さえなければ、他の手段による自殺はあってもよい、ということではないはずだ。

     とすれば、問題なのは、硫化水素のせいで自殺件数そのものが増えているのかということだろう。統計的な有意性は、しばらく時間がたって見ないと判定できないかもしれないが、ぼくはなんとなく、自殺件数自体はあまり変わっていなくて、自殺手段のうちで硫化水素を使ったものが増えているだけのような気がしてならない。

    日本の年間自殺者数は約 3 万人程度らしいから、1 日当り 100 人程度は自殺していることになる。一方、硫化水素による自殺者数は、今のところ 3 日に 1 人程度であるらしい。追記:4月だけで見ると、1 日 2~3 人ぐらいらしい。)

(2008.6.20 追記:この記事によると、「5月末現在ですでに489件発生し、自殺した人の数は517人」とのことなので、やはり月 3 人ちょっとぐらいのようだ。これが、1 日当り 100 人程度の自殺者をさらに増やしているのかどうかは、まだよくわからない。

     もしこの推定が正しいとすれば、硫化水素による自殺を防ぐのは簡単だ。硫化水素よりもっと安価で苦しまずに確実に死ねる方法の情報をバンバン流してやればいいのである。そう考えると、硫化水素による自殺だけを防ぐという運動には、あまり本質的な意味がないということになろう。

     実は、自殺サイト一般の話にしてもそうである。「人間が死ぬ確率が一番高い場所は病院だ」というジョークが示すように、本当に自殺サイトのせいで自殺者が増えているのか、それとも、もともと自殺志願者の分母は一定で、それが現代ではたまたま自殺サイトに集まってくるだけなのかだって、本当はそう簡単にはわからないはずである(もちろん、だからと言って、自殺サイトを擁護する気はないが(^^))。

    (追記: と思ったら、案の定こんな発言を見つけた。「未成年の自殺率は、1950年代は10%だったが、この10年は2%程度で推移している。少年自殺は決して増えてないし、ネットはそれを助長しているとは思わない」)


     もっとも、人々がそういう発想に走りがちな理由は、ぼくにもわかるような気がする。たぶん、多くの人々は、自分たちの作っている社会が自殺者を生み出すような社会であるということを、あまり正面から認めたくないのである(もちろん、ぼくだって認めたくない)。だから、同じ自殺でも、何かわかりやすい悪役がいたり、人為的な対策がとれそうな種類のものほど、やっきになって騒ぎたくなるのだろう。

     しかし、あえて辛らつな言い方をすれば、こういうのは現実から目を背けることにもなっていると思う。もし単に自殺さえ防げればいいのなら、個人の自由など認めず、超監視社会にでもしてしまえばいいわけであるから、極論を言えば、もともと、自由な社会というのは、自殺する自由もある社会なのだ(もちろん、自殺教唆や自殺幇助は一応違法なことになっているが)。そういう自殺する自由のある社会で、多くの人が自分の意思で自殺しないことを選ぶからこそ、われわれは同じ社会でともに生きることにプライドを持てるのではないだろうか。

     なんか重すぎる話になってきたので、話を変えるが(^^)、ぼくがちょっとやって見たいと思うのは、「裏自殺サイト」を作ることである。たとえば、一見「自殺サイト」みたいに見えて、実はニセ情報ばかり掲載されているサイトとか。ほら、ブラックジャックとかで、死にたがってる患者をだましてプラシーボを飲ませたりするエピソードがあるでしょう。ああいうのをちょっとやってみたいわけ(^^)。 たとえば、「スタジオアルタ前で全裸で大股開きをしていると10秒以内に即死します」とか。誰も信じねえか(^^)。

     あるいは、硫化水素で死んだ人の死体や、後遺症が残った人の写真を集めたサイトとかもいい。専門家の話によれば、硫化水素で死ぬと、死体は結構悲惨なことになるらしいので、あえてそういうグロい写真をバンバン掲載して、自殺を思いとどまらせるわけ。もちろん、いくら善意とはいえ、おおっぴらにこんなことをしたら死体冒涜とか言われるだろうから、アングラでこっそりやるのである(^^)。

     ぼくは、誰もが褒めてくれるようなことって照れくさくてなかなかできないのだが、誰も知らないところで隠れてこっそりいいことをしてニヤニヤしたいという願望は結構あったりする。こういうのは、名誉欲とは言えないのだろうが、なんかある種のプライドを満たそうとする行為ではあるのだろう。それを素直に表に出さないところが、ぼくのいやらしいところなのかもしれない(^^)。

     いずれにせよ、本当の意味で他人を救うなんてことは、口で言うほど簡単なことじゃないと思う。そう言えば、元文化庁長官で心理学者の故河合隼雄氏がこんなことを書いていた。ある宗教家のところに自殺志願者が来たので、わざと自殺の方法を微に入り細にわたって教えてやると、その人は怖気づいて自殺をやめてしまった。これに味をしめた宗教家が、別の自殺志願者に対しても同じことをしたところ、今度は教えたとおりの方法で死んでしまったという(「こころの処方箋」)。

     この話について河合氏は、おそらく、一回目のときにはその宗教家は全身全霊をかけて語ったからうまくいったが、二回目のときには慢心して小手先だけで語ったから失敗したのだろう、というような解釈をしている。その解釈が妥当かどうかについてはいろんな意見があるだろうが、いずれにせよ、こういう話に比べると、自殺サイトをなくすかどうかなどというのは、極めて表層的で浅い話のようにぼくには思える。

     かの松本人志氏が、ガキの使いのトークであるミュージシャン(甲本ヒロトとの説あり)の自殺を思いとどまらせたという、ファンの間では有名な話がある。もちろん彼はトークの中で「自殺してはいけない」というような陳腐な説教をしたわけではない。ただ、彼がいつもしているような「すべらない話」をしただけである。

     この話でもわかるように、実際には、わかりやすい「自殺対策」よりも、社会全体をよくする政策努力とか、単純な失業対策とか、一人一人が自分の仕事を一生懸命やるとか、他人に対してできるだけ誠意を持って接するとかいうことの方が、本当の自殺対策になっているという可能性もあるのではないだろうか。

     実は、ぼくが二十代の頃に働いていた会社でも、同僚の女の子が自殺したことがある。ぼくはそのことを思い出すと、ひょっとしたら自分の言動によってはその子は死ななくてすんだかもしれない、と考えてしまうことがある。もちろん、そんないい子ぶったことを考えること自体が彼女に対する冒涜のようにも思われるので、あまり他人には言わないようにしているが。まあでも、そんな自分に偉そうなこと書く資格あんのかよという気もしてきたので、このへんで、この小文にもすっきりした結論をつけずに終わることにする(^^)。

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偶然の必然化戦法にはコストのシェアで対抗せよ

 タイトルからは想像つきにくいと思うけど、今回書きたいのは、例の「靖国」という映画の上映自粛問題とか、ちょっと前のプリンスホテルと日教組の問題とかについてである(^^)。

 ご存知の人も多いと思うが、どちらの問題も、右翼からの圧力を怖れて、民間企業が特定の客や商品の取り扱い避けたという話。それに対して、言論の自由を守るためにもっとがんばれという意見もあれば、責任は右翼およびその損害を防げない国にあるのであって、一民間企業が甘んじて損害を受ける義務などない、という意見もあるようだ。

 この手の議論を見ていつも思うのは、そもそも、「責任」という概念の定義をはっきりさせないまま、責任があるとかないとか言ってることが多いということである。最近流行の「自己責任」に関する議論もそうで、そもそも「責任」という概念自体が共有できてないから、不毛な議論になってしまう。

責任とはアプリオリに決まっているものではない

 実は、かつて「責任論」というのが流行ったことがあって、その頃にもいろんな人(柄谷某とか奥村某とか)の責任論に目を通したが、正直、どれ一つとして納得のいくものはなかった。

 このような責任論の多くでは、そもそも、責任というのが何か物理法則か何かのようにアプリオリに決まっていて、人間がやるべきことは、どこに責任があるのかを発見することだけであるかのような論法になっている。ぼくに言わせれば、そもそもこの認識が間違い。そうではなく、責任とは、社会が決めるお約束なのである。

 本来なら、ここでぼく自身の「責任論」を展開しておくべきなのだろうが、残念ながらその余裕はない。しかし幸い、ぼくの考えを代弁してくれているような学者の方がいるので、今回はその権威に頼っておくことにする(^^)。 

「責任」とは、「権利」や「義務」と同じように「構成的な概念」であって、石や水のように客観的に存在しているものではない。それは、社会の中で人々がなんらかの(しばしば暗黙の)合意によって組み立てられていくものである。それをどう組み立てていくかは、社会にとっての重要な課題であるが、あらかじめ客観的に所与として存在しているわけではない。

-盛山和夫「リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

社会全体のコストを最小化する

 さて、誰に責任があるかはみんなで決めるものだ、という前提は納得いただいたことにする。問題は、じゃあそれをどうやって決めたらよいかということだが、一つ有力な考え方がある。それは、社会全体のコストを最小化するように決めれば、みんなが得するはずだという考え方である。

 たとえば、ある事件が起こると、世の中全体に 100 万円の損失が発生するとする。この事件を A さんが防げば 1 万円で防げるが、B さんが防げば 10 万円かかるとする。この場合、A さんに事件を防ぐ責任がある、ということにすれば、社会全体の損失が最小化されるはず、というわけだ。

 実は、以前にこんにゃくゼリーについての記事で紹介した「最安価損害回避者」というのも、基本的にはこの線にそった考え方だ。こんにゃくゼリーによる死亡事故を防ぐのに、メーカーがのどにつまらないこんにゃくゼリーを開発するためにかかるコストと、ユーザーがのどにつまらないように注意するコストを比べて、少ない方に責任があるとした方が、社会全体の損失は少なくてすむだろう。

 この考え方のいいところは、一律に製造者責任とか消費者の自己責任とかに決めるよりも、より合理的な責任の割り振り方を柔軟に考えられるというところにある。

問題は不平等である

 ただ、この考え方だと、社会全体のコストは最小化されるかもしれないが、実際にはそのコストは特定の人が負担することになるので、不公平になるのではないか、と思う人もいるだろう。

 たとえば、道に落ちているゴミを誰が拾うか、という問題を考えてみよう。これも、ゴミがあるのは捨てたヤツの責任だとか、いや道を管理している国や自治体の責任だとか、いろんな考え方がありうる。でもおそらく、社会的コストの最小化という観点から考えれば、たまたまそこに通りかかってゴミを見つけた人が拾うのが、最もコストが小さいのではないだろうか。

 ところが、この方式だと、ゴミが落ちていても拾わない人がたくさんいたり、ゴミが落ちている場所が偏っていたりすると、たいへん不公平なことになる。社会全体のコストを減らすために、特定の人だけが損をするということになってしまうからだ。それでは、多くの人はバカバカしくて協力をやめてしまうだろう。

 つまり、この方式がうまく機能するのは、ゴミ拾いコストの期待値が誰でもだいたい同じ場合。言い換えれば、誰でもゴミを見つける確率がほぼ同じで、しかも、見つけた人がみんなマジメに拾うような場合なのである。そのような状況であれば、昔からよく言われような「困ったときはお互い様」という論理が成り立つわけだ。

言論の自由にもコストがかかる

 さて、そろそろぼくが何を言いたいか勘付いた人もいると思うが(^^)、そもそも、「言論の自由」にもコストがかかる。自分と違う意見を聞けばたいていの人は不快だろうし、言論をいろんなメディアで流通させるのにも金がかかるし、大音量の拡声器でわめかれた日にゃ単純にうるさい。

 それでも、多くの人がそういうコスト負担に耐えているのはなぜか。まず、言論の自由を守ることは社会全体の利益になること。さらに、その利益は、一人一人が負担しているコストの合計より大きいはずだということ。そして最後に、そのコストは、特定に人だけが負担しているわけではなく、社会の全員がほぼ平等に負担しているはずだということだ。

 もうおわかりになったと思うが、この負担の平等が成り立たないようにすることこそが、街宣右翼の狙いなのである。つまり、本来は社会全体で平等に負担しているはずの「言論の自由」のためのコストを、特定の人や会社にだけ偏って負担させることによって不公平感を生み出し、コストを回避した方が得だと思わせようとしているわけである。

 国がもっと右翼に対する規制を厳しくすればいいという意見に対する疑問点もここにある。つまり、国が規制するのと、企業が我慢するのとでは、どっちが社会全体のコストが少ないかは微妙だと思うのだ。もともと彼らは、遵法闘争的な発想でやっているわけだから、特定の行為を禁止したらしたで、いくらでも別の嫌がらせの方法を考えてくるであろう。そして、それを防ぐためには禁止的な高コストがかかるかもしれない。

コストをシェアすればみんなが得する

 ところが、問題がコスト負担の不平等にある、というところに着目すれば、もっと簡単な解決法があることがわかる。要するに、コストを改めて社会全体でシェアすればよいのだ。

 これは、先ほどのゴミの例で言えば、国や自治体で清掃をする代わりに、一般市民にゴミを拾ってもらい、それに対して報酬を出すことに相当する。本当に国や自治体で清掃するより一般市民がゴミを拾うほうが低コストなら、この方が清掃費用が安くつくだろう。

 たとえば、「右翼保険」のようなものを作るなんていう手もある。右翼の被害に合いそうなホテルがみんなで保険料を積み立てておいて、実際に右翼の被害にあったホテルがそれを受け取るようにするのだ。もちろん、宿泊客に対しても、そのお金を原資にして宿泊料を値引きしたり、お詫びの品を配ったりすればよい。

 そうすれば、かえって得するから右翼に来て欲しいと思う客も出てくるだろうし、あのホテルにはよく日教組が来て宿泊料が安くなるからという評判になって、かえって客が増えるかもしれない(^^)。もちろん、そんなことになれば、右翼のもくろみは崩れて嫌がらせをすること自体が無意味になるだろう。

 もっとも、民間の保険だと、うちは保険料を払いたくないからやっぱり日教組なんて泊めないよ、というところも出てくるかもしれない。だから、理想的な方法は、そういうコスト負担を国が税金で補償することである。そもそも、言論の自由が守られれば国民全体が得するのだから、税金で補償したって悪いことはあるまい。もちろん、右翼の被害というものを適切に認定することにはいろいろ技術的な問題もあるだろうが、拡声器を使う場合には届出制にするとか、いくらでも方法はあると思う。

 まあ、このへんは半分冗談だが(^^)、重要なことは、言論の自由が守られれば国民全体が得するんだから、問題はコスト負担の不平等だけなんだ、という認識を国民全体で共有することである。そうすれば、闘うことを強制はできなくても、闘う人を励ましても罰は当たらないということはわかるはずだし、勇気がない人をけなす必要はないかもしれないが、勇気のある人には名誉という形の報酬を与えるということだってできるだろう。

 あのような事件について、企業よりも国に責任があると思う人は、少なくとも、国の規制を厳しくすることと、企業が我慢することと、どっちが低コストか、一度冷静に考えてみてほしいと思う。

 もちろんこれは、右翼の問題に限ったことではない。電車内で強姦されそうになっている人を乗客が助けるのと、車掌にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。バスの中で殴られている人を乗客が助けるのと、運転手にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。かたくなに誰の責任かにこだわるより、コストをどうシェアするかを考えたほうが生産的ではないだろうか。

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粋に感じる?

 大阪府知事の橋下さんが女性職員に「あんた」呼ばわりされたという例のニュースを YouTube で見ていて気になったのだが、橋下さんがその女性について「ぼくはいきにかんじましたね」とか言っているのを、その番組では「彼女は粋に感じましたね」とテロップを当てていた。これはどーみても「意気に感じましたね」の間違いだろ(^^)。ひょっとして、今の子は「意気に感じる」という表現を知らないのかな。

 これは類語辞典だけど、「意気に感じる」というのは、

http://thesaurus.weblio.jp/content/%E6%84%8F%E6%B0%97

意気に感じる:
(~に)熱く共感する ・
肝胆相照らす ・ (~の志に接して)燃える ハッスルする ・ (いたく)刺激される やる気になる ・ (演説を聴いて)しびれる

 一方、「粋」というのは、

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BF%E8&kind=jn&mode=0&base=1&row=0

(1)気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられる・こと(さま)。粋(すい)
野暮(やぼ)
「―な格好」「―な作り」
(2)人情・世情に通じているさま。
野暮
「―な計らい」
(3)遊里・遊興に精通していること。また、遊里・花柳界のこと。
「―筋」
(4)いろごとに関すること。

という意味であるが、文脈から考えて、橋下さんはあの女性に自然な色気を感じて「粋だねぇ~」と言いたかったわけではないと思う。たぶん(^^)。

(追記: ただ、上の辞書にもあるように、「粋」は「意気」から転じた言葉らしいので、それを知っててわざと書いている逆の意味で教養のある人もいるのかも知れない(^^)。)

 それにしても、昔はこういう言葉遣いにしてもなんにしても、テレビでやってるんだから正しいのだろう、などと鵜呑みにしていたものだが、最近はうっかり聞き流しているととんでもない間違いが混じっていたりするので油断がならない。また、ぼくのような一般人よりはるかに教養がおありになるはずのコメンテータの方々も同じビデオを見てるはずなのだが、何もツッコミを入れていなかったのも不思議。

 ところで、実を言うと、会社員時代はぼくもこういうことにうるさかった。ある会社では、就業時間後に社外から講師を呼んで研修みたいなことをすることが多かったのだが、出席しろとうるさく言われるわりには残業代は出ない。それを理不尽だと感じたぼくは「残業代が出ないなら出席する義務はないでしょう」とか社長に直談判してみた。すると社長の返事は「確かに義務ではないけど、出たほうがためになると思うぞ」みたいな感じ。じゃあいいやと思って問答無用で帰ってしまったことが何度かある。まだ 20 代の若造のぺーぺーのころからそんなクソ生意気な人間だったのである(^^)。 橋下さんが上司だったら、粋に、じゃなかった、意気に感じてくれるかな(^^)。

 これは前にも書いたような気がするが、ある会社の入社試験の面接で「デートの予定がある日に突然残業を頼まれたらどうしますか」と言われて「ケースバイケースです」と答えてしまったこともある。これも自分としてはかなり妥協した答えのつもりだったのだが、後で調べえると、やっぱり言ってはいけないことらしかった(^^)。

 まあでも、一応言い訳しとくと、仕事はちゃんとしてたんですよ。残業月 100 時間オーバーなんてしょっちゅうだったし。もっとも、残業代もきっちり貰ってましたが(^^)。


追記: これは、「武勇伝」をひけらかしているように感じる人もいるかもしれないが、本人の意識としては、むしろオリエンタルラジオ的な意味での「武勇伝」として書いてるつもりである(^^)。わかる人にはわかると思うが、ぼくは勇気があるというよりも、むしろ、空気や力関係を読む能力に重大な欠損があるのである。こういうことが平気でできてしまうのはそのせいであって、本人としては、別に勇気をふりしぼってる意識はないのである。いわば、SF に出てくる痛覚を麻痺させられた兵士みたいなもんで、見方によっては危なっかしいことこの上ない存在だと言えよう(^^)。

 あと、ぼくは社会的に地位のある人や目上の人には平気できついことを言えるのだが、そうでない人が相手になるととたんに弱気になる傾向がある。これもいいように言いすぎかもしれないが、それはたぶん、自分が傷つくことよりも相手を傷つけてしまうことを怖れる傾向があるせいだと思う。また、女性や子供にも弱いが、これは小学生の頃に同級生の女の子を泣かせてしまったことによるトラウマだと思う(^^)。そんなわけで、ぼくは基本的には気のよわーい人間なので、勘違いしてあんまりイジメないでほしい(^^)。

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ウ○コは美しいか?

ある保健団体にて

  • 保健団体職員 A: あーっ、すっきりした。今日も快便快便。
  • 保健団体職員 B: ぼくらがこうやって健康に暮らせるのも、老廃物を毎日規則正しくウ○コとして排泄しているおかげだよな。
  • 保健団体職員 A: そうそう。それにしては、ウ○コってなぜか軽んじられているよな。
  • 保健団体職員 B: その通りだな。なにかというと汚いとか臭いとか。
  • 保健団体職員 A: そうだ、この現状を変えるために、ウ○コの大切さを大々的にキャンペーンしようじゃないか。

ある鉄道会社の広告担当部署にて

  • 保健団体職員: すいません。電車内に広告を出したいんですが。
  • 鉄道会社職員: はいはい。どんな広告でございましょうか。
  • 保健団体職員: 一応、デザインはもうできてるんです。これなんですが。
  • 鉄道会社職員: ええー? なんですかこれ? ウ○コのドアップじゃないですか。
  • 保健団体職員: そうです。ウ○コの大切さを世の中に広くアピールしようというキャンペーンなんです。どうです、美しいでしょう。
  • 鉄道会社職員: ってあなた、こんなもん電車内に貼れるわけないじゃないですか。
  • 保健団体職員: え、なぜですか?
  • 鉄道会社職員: なぜってあなた。こんなもんを見たら、乗客が不快に思うじゃないですか。
  • 保健団体職員: ウ○コが不快? じゃああなたはウ○コをしないんですか。私に明日からウ○コをするなとでも言うんですか。人類はもう何百万年もウ○コをし続けてきた。その歴史と伝統を否定するのか。
  • 鉄道会社職員: いや、誰もそんなこと言ってませんよ。ウ○コをする人が不快なんじゃなくて、ウ○コの写真を公の場所に掲示することが不快だと言ってるんです。
  • 保健団体職員: 同じことだろう。あなたは自分以外の価値観を認められない保守的な人間に違いない。だから、心の中でウ○コをする人を差別しているのだ。これは、ウ○コをする全人類に対する差別であり、リベラルな価値観に対する挑戦だ。
  • 鉄道会社職員: えーっ? (さっきは歴史と伝統とか言ったくせに…)困ったなあ。あなたちょっと落ち着いてくださいよ。
  • 保健団体職員: いや、許せない。このことはマスコミ各社にリークしてやる。覚悟しておけ。

あるリベラル系のニュース番組にて

  •  ニュースキャスター: 某鉄道会社がウ○コのポスターを拒否したことは大変な騒ぎになっています。このことに対する抗議の意を示すために、広告主の保健団体は、この地で公開ウ○コ排泄イベントを開くことになっており、多くの人が見物に詰め掛けています。
  • リポーター: あなたはなぜこのイベントを見に来たんですか?
  • 見物客: ホントのこと言うと、わたしは、今までずっとウ○コを汚いものだと思い続けてきたんです。でも、よく考えたら、それってなんの根拠もないことじゃないですか。あの、よくわからないけど、きょ、きょーどーげんそーとか、ば、ばいお・ぽりてぃっくすとかゆーのに、そう思い込まされていただけじゃないかと思うんです。だから今日は、本当にウ○コが汚いかどうか、この目で確かめにきたんです。

(保健団体職員が一斉に排便する映像。一応モザイク付き)

  • リポーター: 実際に見てどう思いましたか?
  • 見物客: ぜんぜん汚くなかったです。みんなの前で堂々としてるのはむしろ美しかった。今までコソコソしてたから汚らしく見えたんですね。わたしは間違ってました。明日からウ○コを身体中にくっつけて歩きます。

あるふつーの家庭にて

  • 夫: あーっ、すっきりした。今日も快便快便。
  • 妻: あなたはホントにウ○コするの好きねえ。いっそ家中にウ○コの写真でも飾ったらどうかしら。
  • 夫: 何をバカなことを言ってるんだよ。あははははは…。
  • 妻: やーだ、冗談だってば。ほほほほほ…。

 あまり野暮な解説はしたくないのだが、この話の肝は要するに、何が快か不快かは、特に性的な行為に関しては、社会的文脈によって大きく変わるというところにある。ぼくは女子校生の短すぎるミニスカートが不快だ不快だといい続けているが、もちろん、ベットの中でぼくだけに見せてくれるのであれば、大歓迎なのである。そんなのは、矛盾でもなんでもなく当たり前のことである。くだんの祭りの人だって、年がら年中裸でいるわけでもあるまい。

 確かに、なぜそうなるのか、というメカニズムを説明することは簡単ではない(そういう理屈は、哲学者が「性の両義性」とか言って研究してるので、興味のある人は調べて欲しい)。しかし、多くの人は、説明はできなくても、性的にふるまうべき場所とそうでない場所を自然に区別することができる。

 もちろん、その区別が永遠普遍の真理ではなく、時代や社会によって変わりうるのも確かだ。しかし、くだんの祭りについて言えば、地元だけで合意の上でやっている分には、誰も文句を言う人もいなかったはずである。それをよその場所でも宣伝しようとすれば、地元以外の価値観と衝突する可能性がでてくるのは当然である。それを無条件に受け入れろというのは、むしろ、宣伝する側がよそ様に自分の価値観を押し付けているということになってしまうだろう。

 あの祭りの宣伝に問題がないと思う人は、たとえば、川崎のかなまら祭りのような祭りの写真を、鉄道構内に貼れると考えるだろうか。もしそれがダメだとするなら、いったいどこでその線引きをするのか。考えてみてもらいたい。

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「感動」は数字の中にあるわけではない

 亀田問題が一段落したかと思ったら、落合監督がタイミングよく燃料を投下してくれたみたいで、いろんな方が舌なめずりする音が聞こえるようである(^^)。さっそく落合批判を大々的にぶち上げた評論家の方もいるようだが、ぼくは基本的に落合采配支持である。

 ぼくのスポーツ観についても何度も書いてるけど、スポーツは基本的に勝ち負け最優先の文化だと思う。人類の作った文化の中には、仕事とか芸術とか遊びとか恋愛とかいろいろあるけど、どれも必ずしも何が勝ちで何が負けなのかよくわからない世界だ。もちろん、だからこそ味わいがあるとも言えるのだけれども、不完全燃焼になりやすいところがあるのも事実である。

 そのような人類のさまざまな文化に対して、あえて人工的に勝ち負けをはっきりさせ、勝ち負けだけを目指すところにスポーツの特色があり、それが他の文化にないものを補っているからこそ、独自の存在価値を持ち続けているのである。というのは、実はほとんど山崎正和氏の受け売りなんであるが(^^)。

 この話はプロスポーツになると多少変わってきて、勝ち負けだけでなく興行収入というもう一つの目的にも配慮しなければならなくなるのは事実だ。しかし、前にも書いたように、興行に配慮しすぎた結果として、強くなくても人気がある方が儲かるようになってしまえば、スポーツは文化としては堕落し、プロレス的な娯楽になるしかないのである。

(玉木正之氏なんかは、また例によってホリエモンなんかにたとえているようだが、亀田問題でもわかるように、スポーツではむしろ、勝負より興行を優先させることが堕落につながるのであって、その堕落を防ぐためには、意識的に勝負を最優先にしなければならないのである。少なくとも、その程度は区別して論じてもらいたいものだ。)

 したがって、プロスポーツがプロレス的な娯楽に変質しないためには、まずは勝つと言うことを最優先の目的にし、それに邪魔にならない範囲で興行面にも配慮するというバランスを維持する必要がある。これがぼくが落合采配を支持する基本的な理由である。

 もちろん、これは原則論でしかないので、これだけでは納得しない人もいるだろう。そこで、落合采配を批判する方々にもう一つ言っておきたいことがある。それは、あんたら結局数字しか見てないんですか? ということだ。

 パーフェクト・ゲームというのは、記録である。もちろん、スポーツにとって記録は重要だ。しかし、それはスポーツを観戦した結果を測定して一般化する一つの方法でしかない。スポーツを観戦するという行為の本来の意味は、必ずしも記録には残らない細部にこそあるはずではなかったのか。

 これがもし、山井の球威の変化、岩瀬の調子、試合の流れなどすべてを考慮に入れた上で、交代してもそれほど勝率に変化があったとは言えないのではないか、だからあの継投策は間違いである、というならまだわかる。ところが、批判する人のほとんどは、結局、勝負と感動とどっちが大事か的なことしか言っていないのである。

 感動感動と言うけれど、一言で「感動」と言ってもいろいろあるはずだ。娯楽にたとえれば、単に記録をつぶされたと言って怒るのは、いわば、水戸黄門が印籠を出さないとか、ウルトラマンがスペシウム光線を出さないとか言って怒っているようなものにすぎない。

 もちろん、ぼくだってそういうステレオタイプな感動を全否定する気はない。しかし、いやしくもスポーツ評論家を名乗る方々であれば、仮に批判するにしても、テーマやストーリー展開などすべて分析した上で、印籠やスペシウム光線のような定番を崩してまでやる必然性はなかった、と言うべきじゃないのか。その程度のこともできない「プロ」に、偉そうに他人の仕事にケチをつける資格があるのだろうか。

 はっきり言うけど、ぼく自身は、あの落合監督のギリギリの采配を見て「感動」したし、チームのためにそれを素直に受け入れた山井を見て「感動」したし、プレッシャーの中きっちりパーフェクト・リレーを達成して見せた岩瀬に対しても「感動」した。「感動」は記録や数字の中だけにあるわけではないのだ。

 そもそも、スポーツ・ジャーナリズムの役割というのは、勝つことだけを考えて全力でプレーする選手を観察して、そこから「感動」を「発見」することにあるのであって、選手にお約束のステロタイプな感動芝居を強制することには断じてない。そんなのでいいのだったら、何もわざわざスポーツなんかやらせずに、あらかじめシナリオのある芝居でもやらせときゃいいのだから。

 だから、ぼくなんかにはむしろ、このような安易な批判が起こること自体が、スポーツ・ジャーナリズムの堕落を示していて、亀田問題なんかもその延長線上にあるように思えてしまうのだが、いかがであろうか。

(野村監督のコメントを「批判派」として紹介しているメディアが多いのだが、彼は、他の監督ならやらない采配だという趣旨のことを言っただけで、だから落合がすごいとも言っていないが、だからと言って落合はダメだとも言っていないのである。もちろん、本音では批判したいのかもしれないが、少なくとも、それを明言することは避けている。それを安直に「批判派」として引用してしまうところにも、スポーツマスコミの低劣さを感じる。だいたい、野村克也は、オールスターでイチローがピッチャーで出てきたときに松井に代打を出したぐらいで、空気読まない派の代表格のはずなのである(^^))

(追記:ぼくは野村さんの「敵は我に在り」も落合さんの「落合博満の超野球学」も読んでいるので、お二人の考え方はわりと知っているつもり。)

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手のひら返しの構造

 お祭り騒ぎもようやく一息ついたようなので、封印していた亀田問題をもう一度だけ語ってみようかと思う(^^)。

 大毅 vs 内藤戦後の世論の動向に関しては、一応 YouTube なんかでフォローしていたのだが、今回は、自分の気持ちと世論との間にそれほど乖離はなかった。そこに乖離が生じたのは、興毅がやった謝罪会見のときだった。

 ぼくから見ると、あれでは謝罪になってないだろうと思えるのだが、なんと、世論の半分ぐらいはあれで亀田同情派に回ったらしく、しつこく質問していた記者のことを、やりすぎだとか何様だと思っているんだというような意見もあったという。

 謝罪という行為の社会的機能や意味については、前にも書いたので繰り返さないが、ぼくから見ればやはり、なぜ反則を指示したかという説明は最低限必要なように思える。「興奮していたから」みたいな説明をしていたが、そんなのはお話にならない。試合中なんてほとんど興奮しているはずなのだから、じゃあお前は、また試合になったら同じ反則をするんだろう、と思われても仕方ないではないか。

 そんなわけで、ぼくはどうも世論の変化に納得がいかなかった。これで納得する人というのは、いったい何を怒っていたのだろう。いままでとあの会見とで、興毅が変わったところと言えば、背広を着てやや丁寧な言葉遣い(それでも細かいところはタメ口だったが)をしたということだけだ。

 つまり、世の中の大多数は、亀田家の態度が生意気だったから怒っていただけで、もう逆らいませんと世間様に対して恭順の意を表せば、それで十分に溜飲が下がるということらしいのである(^^)。 もしそうだとすると、結局、世間にとってもこれは勝ち負けの問題だということで、亀田家の勝てば官軍主義を笑えないと思うのだが。。。(^^)

 まあ、この問題についてはこれ以上深入りしないが、この現象は、最近のいわゆる世論の「手のひら返し」の構造をよく示しているように思う。

 もともと、亀田家に対する批判というのは、以下のような複数の論点を孕んでいた。

  1. 亀田家の人間の態度の悪さに対する倫理的な批判(モラル問題)
  2. 恣意的なマッチメイク、八百長、偏った報道などによる作られたヒーロー批判(虚像問題)
  3. 反則行為やその指示に対する批判(ルール違反問題)

 メディアに出始めのころは、もっぱら1の批判が中心だった。それが戦績を重ねるにつれ、2の批判が徐々に高まってゆく。最後に、大毅 vs 内藤戦に到って3の批判が加わることにより、批判派の数が臨界点を超え、最初の「手のひら返し」が起こった。逆に、謝罪会見ではたぶん、1を批判していた人をある程度納得させることに成功した。そのため、二度目の「手のひら返し」が起こった。

 このような現象を、1の論点から批判派だった人から見ると、あいつらが悪い奴だなんてことは最初からわかってたことじゃないか、という風に見えるので、大毅 vs 内藤戦後に世論が手のひらを返したように見える。逆に、ぼくのように、2や3の論点の方を重視している人間からみると、反則で世論が反転するのは当然であり、謝罪会見で再度反転する方が「手のひら返し」に見えるわけである。

 つまり、マスコミなんかでは世論が移り気だみたいなことを安直に言うけど、たぶん、一人一人の一般庶民から見れば、自分のプリンシプルや倫理感覚にしたがって、首尾一貫した判断をしているだけなのである。ところが、そのプリンシプル自体がかなり多様化しているため、結果的に、ある臨界点を越えるような出来事があったときに、世論が一気に反転するように見えるだけなのだ。

 むしろ、かつてはあまりこういう現象が起こらなかったこと自体が、かつての世論が、マスコミや識者の誘導に流されていたことを示しているのだろう。そういう意味で、このような「手のひら返し」現象は、マスコミや識者がしたり顔で言っているような、世論の衆愚化を示しているわけでは決してなく、むしろ、世論の多様化やメディア・リテラシーの向上を示しているのだと、ぼくは思っている。

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バイオ燃料批判本格化か

 以前、アメリカの ABC で放送したエタノール懐疑論を紹介したことがあったが、バイオ燃料批判もやや本格化してきた模様。

バイオ燃料は世界中で飢餓を増長、国連専門家が警告(CNN)

ジュネーブ大学とソルボンヌ大学で教授を務めるジーグラー氏は25日、国連人権委員会で、食料ではなく農業副産物から燃料を作り出せる技術が確立するまで、バイオ燃料の生産に猶予期間を設けるよう主張。翌26日に開いた記者会見で、「農地をバイオ燃料のために捧げることは、人類に対する犯罪だと言える。一刻も早く、世界中で起こっている飢餓による大量虐殺を阻止しなければならない」と述べた。

食糧をエネルギーに、この転換は正しいのか(東洋経済)

 論者は、かのジェフリー・サックス氏。

 世界の食糧需要の増加、トウモロコシなどの食糧用から燃料用への転換、大きな気候変動という“三つの脅威”がそれぞれ重なり合って、数年前に予想されていた以上に世界の食糧の需給は逼迫し、価格上昇を招いている。

  しかし残念なことに、今までのところ、こうした農業の変化に取り組むため、積極的に指導力を発揮した国はない。むしろ逆に、そうした動きを加速する政策が見られるのだ。たとえばアメリカでは、トウモロコシや大豆を燃料生産に転換させるために巨額の補助金を出しているが、こうした政策は方向が間違っているといわざるをえない。

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「メロンパンのうた」について

 コンビニの有線でかわいい女の子がメロンパンの不条理について切々と歌っていたのが気になって、早速検索してみたところ、こういうことらしい。この中で言及している、YouTube にアップされたプロモーションビデオというのが下の動画。このビデオ自体も、「みんなの歌」や「ポンキッキ」みたいな子供番組風で、なかなかよくできてるよね。

 ところで、このビデオを検索してる途中で偶然見つけてしまったんだけど、早速この歌詞が嘉門達夫の何かのパクリだみたいに言ってる人がいて、うんざりしてしまった。

 この手の安易なパクリ指摘については、以前にもくだくだ書いたので繰り返さないけど、そもそも、こんなものはアイデアというほどの話じゃなくて、誰でも思いつくようなことでしょ? それをいちいちパクリだとかっていうのは、「パンダは何食ってんだ、パンだ」という洒落は林家三平のパクリだから絶対に言ってはいけない、とか言うようなもんであって、そんなもんぜんぜん意味ないんですよ。

 著作権を絶対化するな、という話は、いろんな人がもっと理論的に精緻に述べているので、興味のある人は調べて欲しいけど、こんなの、そういう理屈以前に、直感的におかしいと思わんか? そういうイジワルな風紀委員みたいな行動パターン、いい加減やめてくれよな~。ホントに息苦しくて窒息しそうになる。

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いいメモダイエット事件について

  知っている人は知っていると思うが、いいメモダイエット事件というのがあった。詳細は検索でもして調べていただきたい(ぼくもそれ以上のことは知らない)のだが、簡単にまとめれば、岡田斗司夫氏が「いつまでもデブと思うなよ」という本で説いたレコーディング・ダイエットという手法を勝手に利用した「いいメモ」というウェブサイト(ちなみに、このサイトに利用は無料だったらしい)ができたことに対し、岡田氏が著作権の侵害を主張したという事件だ。

 それに対し、ネット上では、アイデアは著作権で保護されないのではないか、といった批判が出ていたわけだが、今日になって、岡田氏のウェブサイトに、そういう批判に対する回答とも思われる記事がアップされていた。

 部分引用は禁じられているようなので、詳細は読んでいただくしかないが、岡田氏が防ぎたいと思っているのは、権利の侵害というよりも、自分の主張がねじまげられて伝えられることらしい、ということはわかったような気がした。もちろん、それはこの記事を額面どおり受け取った解釈で、本当は自分だけで利益を独占したいだけだろ、みたいな解釈をする人は当然いるだろうけど、議論を拡散させないために、ここではあえて額面通り受け取ることにする。

 ただ、その手段として、著作権侵害を主張することが妥当であるかどうかは、やっぱり別の話だと思う。それだったらまず、「あなたがたは私の意図を間違って伝えていますよ」ということを伝えて、訂正を依頼したほうがよかったのではないだろうか。もちろん、それはあくまで依頼であって法的な強制力があるわけではないから、相手が無視すればそれまでだが。

 でも、法的な強制力がなくてもできる、もっと現実的な方法だっていろいろあるはずで、たとえば、「岡田式レコーディング・ダイエット認定証」みたいなものを勝手に作って発行してしまうという手もある。この方法なら、公権力や相手の協力がなくても自分だけの責任で行え、なおかつ、相手が自分の考えを意図通り伝えているかどうかを明確にアピールできると思うのだが、いかがであろうか(^^)。

 もちろん、これはぼくの独創でもなんでもなくて、フランスのワインとか松坂牛とかでもさんざんやっている使い古された方法にすぎないから、岡田さんともあろう人が、それに気づいていないとも思えない。ぼくがこの事件に一番違和感を感じるのもそこで、きわどいパクリや便乗商品の歴史などさんざん知り尽くしているはずの岡田さんが、まるで「純粋まっすぐ君」のような主張をしていることである。だからやっぱり、体重が減ると思考回路にも影響があるのかしら、なんて思ったりもしてしまうのだが(^^)。

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芸術におけるアマチュアリズムの意義

 柄にもなく初音ミクの記事など書いたところ、各所でリンクしていただいたらしく、突然トラフィックが増えてしまい、たくさんの方に読んでいただけるのは誠にありがたいことですと建前的にお礼を書きつつ、心の中ではややプレッシャーを感じている Studio RAIN です(^^)。

 もっとも、あの記事は必ずしも意をつくしたものとは言いがたく、特に、アマチュアリズムの意義については、一般に意義があると思われている例をあげただけで、なぜ意義があるのかについての価値論な説明を省いているので、あれだけではアマチュアリズムの意義について納得できない読者も多かろうと思う。そこで、芸術一般におけるアマチュアリズムの意義について、少し補足しておきたい。

 初音ミクがらみの CGM に関する議論を眺めてみると、CGM の存在意義の判定基準として、CGM はプロの商業作品に匹敵するような芸術的価値を生み出せるか否か、ということをなんの疑いもなく尺度にしている方が多いように思われる。また、これより多少 CGM の意義を積極的に評価している人でも、それはあくまである種の遊びとしての価値であって、プロの芸術とはまったく無関係である、と認識している方が多いように思われる。

 しかし、ぼくが認識する、芸術におけるアマチュアリズムの意義というのは、このどちらでもない。 アマチュアリズムの意義は、アマチュアが自ら芸術作品の製作に携わるというその行為自体にあり、結果として生まれてくる作品の質には関係がない(あえてわざわざ「下手糞な」と書いたのはそのためだ)。

 また、アマチュアが芸術作品の製作に携わるという行為は、アマチュアの鑑賞力を高めることにつながり、その結果、プロの芸術家がより質の高い作品を生み出す誘引になるはずである。したがって、アマチュアリズムは決してプロの芸術と無関係ではなく、プロの芸術を含む芸術文化全体に貢献するはずだ。これがぼくの主張である。

 たとえば、厳密な意味では芸術とは違うが、スポーツについて考えてみよう。プロ野球の商業的価値が、観客の存在によって生み出されていることは言うまでもないが、観客が試合をどれだけ楽しめるかが、観客が持つ野球の知識に依存していることは明らかだろう。もし、遅い球より速い球の方が打ちにくいとか、ど真ん中の球よりコーナーぎりぎりいっぱいの球の方が打ちにくいという知識がなければ、投手と打者の間のかけひきを楽しめないのはほとんど自明だ。

 しかし、実はこのような知識も、単に知識として知っているだけでは十分とは言えないのである。実際のスポーツはすべて応用問題であって、真ん中の速い球とコーナーの遅い球ではどっちが有効か、といった複雑な問題の集合体だ。このような問題に答えを与えるのは、実際に試合の中で体験しているプレーヤーの肉体感覚以外にない。

 したがって、そのような技術的な問題を観客が本当に理解しようと思ったら、たとえバッティングセンターでもよいから、120 km の球を打ってみるといった経験が必要なのである。そのような経験があってはじめて、それより 30 km も速い球を打つのがどれだけ難しいかということが、実感としてわかってくるはずだ。

 つまり、プロ野球というのは、あくまでも、草野球やバッティングセンターで下手なプレーを続けているアマチュア・プレーヤーの延長線上にあり、そのようなアマチュアリズムが存在するからこそ、存在意義を失われずにいられるのだと考えられる。したがって、プロスポーツの価値も、アマチュアスポーツの価値も、スポーツ文化全体の中で考えてこそ、初めて適切に位置づけられるのである。

 芸術を鑑賞するという行為の意味は、スポーツよりは少し説明が難しいが、ぼくはやはり、作り手の製作過程を追体験することが鍵だと考えている。たとえば、音楽にしてもそうだ。ぼく自身も子供の頃はそうだったが、今では音楽に一家言あって、オーケストラのどのパートでもきちんと聞き分けられる人でも、かつては、パートの聞き分けができない時期もあったはずである。

 ところが、そのような段階で認識されている楽音というのは、単なるフーリエ変換のスペクトルのようなものにすぎないので、対位法やコードとメロディの絡み合いの面白さなどわかるはずもない。そのようなスペクトルからさまざまなパートを聞き分けることによって、初めて音楽の面白さがわかってくるわけだ。つまり、音楽を鑑賞するということは、音楽が製作される過程を逆算して追体験することと同じなのである。

(直接スペクトルを操作して創作を行うという、スペクトル楽派のような方法論が存在することも知っているが、たとえこのような音楽であっても、鑑賞者にとっては、やはり製作者がロジカルに行っている製作過程を追体験することが重要であるとぼくは考えている。)

 だからこそ、音楽の鑑賞力を高めるためには、楽器を操ってみたり、作曲の真似事をしてみたりして、自ら製作の過程に携わってみることが決定的に重要なのである。 ぼく自身も、(最近は忙しくてやっていないが)キーボード演奏や DTM を趣味にしていたことがある。もちろん、他人様にお聞かせできるような水準の作品はほとんど生まれなかったが、このような経験によって、芸術を見る眼は明らかに変わったことを実感している。

 このように考えると、芸術におけるアマチュアリズムの重要性というのは、ほとんど自明なようにも思えるのだが、なぜその重要性が多くの人から忘れられてしまったのだろうか。それはおそらく、産業革命以降の社会の分業化に理由があると考えられる。

 もともと、中世以前の社会では、生産者と消費者の区別は、それほど明確ではなかったはずである。王侯貴族はともかく、一般庶民にとっては生活必需品のほとんどが自家製でまかなわれ、市場で購入されるのは、一部の特殊な商品だけであったに違いない。

 「大草原の小さな家」シリーズの前半なども、時代的には中世とは言えないが、生活必需品のほとんどがが自家製であったことがうかがえる。中でも印象深いのは、この家のお父さんがバイオリンの演奏を愛好し、その演奏を一家で楽しんでいることであり、この頃には、芸術もまさに自家製であったことがうかがえるのである。

 その後、産業革命や分業化により、生産者と消費者は商品ごとにはっきりと分かれることになったが、芸術分野においてプロとアマチュアが明確に分化したのも、おそらくこのときではなかっただろうか。さらに決定的な出来事は、複製芸術の普及である。これにより、少数の天才芸術家が作り出した作品を、多くの一般大衆が購入して鑑賞するということが可能になり、芸術作品が市場で他の商品と同じように流通するようになったわけだ。それとともに、自家製芸術に対するニーズも失われていったのだろう。

 しかし、勘のいい人はすでにお気づきのように、芸術作品と他の商品では、その効用の認識過程に決定的な違いがある。芸術作品では、先に述べたように、製作の過程を追体験することによって効用が生み出されるが、一般の商品はそうではない。たとえば、歯ブラシの価値を知るために、歯ブラシの製造工程を知る必要があるかと言ったら、そんなことはまるでないわけで、歯ブラシの価値は使ってみて便利かどうかだけでほぼ決まる。

 それが証拠に、歯ブラシ界には、下手糞だけれども趣味で歯ブラシを作り続けるアマチュア歯ブラシ職人などほとんどいないし、そのようなアマチュアの存在に業界が依存しているなどという話も聞いたことがない。つまり、歯ブラシ業界は、実用的な歯ブラシの使用価値だけで十分存続しうるのであって、そこが、スポーツや芸術と根本的に異なるところなのである。 

 もちろん、工芸品などになると、生産過程を知ることによってさらなる付加価値がわかってくるということもあるのだが、それはむしろ、使う側の見方の問題で、使う側があえて、商品を単なる道具ではなく芸術作品として認識しているということになるわけだ。

 つまり、芸術活動は本来、完全には生産側と消費側に分離できないはずなのだが、近代以降、擬似的に一般商品と同じように扱われるようになった。その結果として、芸術におけるアマチュアリズムの意義が、軽視されるようになったのではないかと考えられるわけである。

 このことにはもちろん功罪があって、だからこそ、多くの庶民が天才芸術家の作品に直接触れることができるようになったわけだが、その一方で、鑑賞力の低下による商業芸術の通俗化を招くことにもなった。たとえば、家元制をとっているような伝統芸能では、現在でも製作と鑑賞が分業化されていないところが多々ある。もちろん、それが商業的な成功をもたらしているとは言いがたいかもしれないが、だからこそ通俗に堕することが防がれているとも言える。

 ぼくは必ずしも Web2.0 マンセー派ではないのだが、CGM というものを、近代以降軽視されていたアマチュアリズムの復権として位置づけることは可能ではないかと思うのだ。おそらく、多くの人が指摘するように、CGM で生み出される作品のほとんどはくだらない作品であるに違いない。しかし、それを恐れる必要はないのであって、くだらない作品を生み出すという活動の集積こそが、芸術文化全体を下支えし、結果としてより高度な芸術作品の誕生に貢献するのはずなのである。

 ちなみに、初音ミクを開発したクリプトン・フューチャー・メディア社長の伊藤博之氏もぼくと同じような歴史観をお持ちのようなので、最後に引用させてもらうことにする。

 人間はそもそもプロシューマだと思うんです。原始時代から、自分たちでモノを作り、消費しているわけですから。しかし、個人ですべてを行うのは効率が悪いので、分業が進み、都市が形成され、経済システムが構築されました。

  ただ、この一連の人間社会の発展は、CGM(消費者生成メディア)の登場で折れ曲がったような印象を持っています。そもそもプロシューマだった人間が、生産者と消費者に分かれ、なぜかそこには大きな溝までできてしまっています。

 その違和感が顕在化し始めており、CGMの登場をきっかけとして、人類の歴史をさかのぼるというような動きが生まれているのではないでしょうか。例えば、著作権というテーマで考えれば、「クリエイティブコモンズ」のようなものができ、生産者と消費者の切り分けを気にせずに著作物を活用していこうというような流れです。

 こうした流れは都市の見直し、さらには経済システムの見直しというところまで進むのではないでしょうか。おそらくCGMの本質は、「みんなで何かを作って楽しいよね」というところにあるのではなく、社会全体の在り方を変えていくというところにあると、わたしは思っています。

(追記: 以前に斉藤美奈子氏の「文章読本さん江」を批判したときにも同じような論法でアマチュアリズムを擁護していたのを思い出したのでリンクしておく。歯切れが悪く見えるかもしれないけど、このように、意外としつこく首尾一貫してるのである(^^)。)

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初音ミクの意義について

 久しぶりにはてなを除いてみたら、初音ミク現象を批判して叩かれてる人を見つけた。文章の妙なところに力が入っていたり、オタク嫌いが露骨に表明されていたりするところは、華麗にスルーするにしても(^^)、ぼくもやはり、論旨にいろいろと納得がいかないところがあるので、なるべく他の意見と重複しないように指摘してみたい。

 まず気づくのは、この人のツールの評価基準というのが、あまりに「芸術的意義」に偏りすぎていることだ。端的にそれが現れているのは、「想定外の使用法が生まれなければだめだ」という発言だ。

 しかし、ちょっと冷静に考えてみればわかるはずだが、直接的に芸術的価値を生み出すツールだけが芸術的価値に貢献するとは限らない。たとえば、デジタル音楽の最も基本的なツールであるシーケンサーにしろハードディスクレコーダーにしろ、基本的にはメーカーの想定内の使い方しかされていないが、それで十分に製作の効率化や低コスト化に役立っている。

 この人は、効率化や低コスト化なんて芸術的価値とは関係ないと考えているのかもしれないが、実際には、効率化や低コスト化による無駄な負担の減少は、間接的に芸術家のクリエイティビティを向上させ、結果としてより優れた芸術の誕生に貢献しているはずであり、その比率はおそらく、この人が挙げているようなギミック的な使い方の貢献度よりよっぽど大きいはずなのである。

 たとえば、写真家の荒木経惟氏はコンパクトカメラを愛用していたそうだが、その理由は、画質がいいとか面白い効果があるとかいうものではなく、単に気軽に撮れるからということだったはずだ。しかし、その気軽に撮れるということが、間接的に芸術的価値を生み出したのだろう。

 同じように、人件費もかからず生身の人間では耐えられないような酷使にも耐えられるボーカロイドは、習作やプリプロダクションの低コスト化によって技術を向上させることに役立つだろうし、実作品においても、ボーカルを低コスト化した分他のパートに金をかけることによって作品全体の質を向上させるといった柔軟性をも可能にするだろう。

 次に気づくのは、この人のアマチュアリズムの軽視である。そもそも、芸術という文化は、製作・鑑賞・批評の三つがあってはじめて成立するのであって、その意味で、下手糞なアマチュアが作品を作るという行為にも、十分な芸術的な意義がある。なぜなら、自ら作るという過程を経ることで、はじめて見えてくるものがあるからだ。

 でなければ、小中学生に下手糞な絵や作文を書かせることになんの意味があるというのだ。教育ではなく、単に才能のない人間を振り落とすためだけのシステムだ、ということになってしまうではないか? あるいは、年寄り連中が下手糞な俳句や川柳を作って楽しんでいるのは何の意味があるというのだ。単なる自己満足でしかないとでも言うのかな?

 このように、プロの商業芸術だけでなく芸術文化全体を視野に入れれば、アマチュアでも手軽にボーカルの入った DTM を製作することを可能にするボーカロイドは、芸術文化に対して十分な貢献ができると言えよう。

 最後に、この人が言ってるような芸術的価値を生み出す可能性だって、まったくないとは言えないんじゃないかな。技術の詳細を調べていないのでアレなんだが(^^)。

 たとえば、「Last Emperor」のサントラに収録されていて、いまや坂本龍一の代表曲にもなっている Rain という曲があって、これはわりと有名な話だと思うけど、教授はよくこの曲について、「最初はシンセ(Proteus かなんか)のストリングスが入っていたんだけど、ベルトルッチが嫌だというんで生のストリングスに差し替えた。でも、絶対にシンセの方がよかった」みたいなことを言っていた。

 これは、シンセの音が個性的だからというような理由ではなく、シンセの方が下手なオーケストラよりもアタックやリリースを自由に調節できてリズム感が出るからだ、というような理由だったはず。もちろん、生で録音した素材をサウンド・エディットで修正することも可能だろうけど、ボーカロイドの方がずっと効率的に同じようなことができる可能性はあるだろう。

(ご存じない方もいるかもしれないが、映画音楽なんかでは、プロが本格的にシンセ・ストリングスを使った作品は結構いろいろある。PSY・S の松浦雅也氏が手がけた「スウィート・ホーム」のサントラなんかも、すべてフェアライトで作ったらしい。これなんかも、よく聴くと生でないことはわかるが、必ずしもそのせいで質が低下しているという気はしない。「Shadow's Trap」なんていう曲では、むしろ、機械ならではのアタックの早さが効果的に生かされている。あるいは、野見祐二氏の手がけた「耳をすませば」なんかも、サントラの方は生だが、イメージアルバム の方はたぶん基本的にシンセ・ストリングスである(「地球屋にて」などは除く)。久石譲氏も「Kids Return」とか「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体」なんかは多分ほとんどシンセ。細野晴臣氏の「銀河鉄道の夜」もおそらくほとんどシンセだろう。)

 この人は CGM に懐疑的なようだが、たとえそこからシリアスな芸術は生まれなかったとしても、「帰って来たヨッパライ」みたいな一種の冗談音楽ができてヒットするなんていう可能性はあながちないとは言えないのではないだろうか。それだって、ある種の芸術的成果だと思うのだが。

 そんなわけで、ボーカロイドは、オタク的なコンテキストを離れても、十分に技術的・芸術的意義があるのではないかとぼくは思うのだが、いかがであろうか(^^)。

(追記: アクセスが多かったので、補足記事を書きました。「芸術におけるアマチュアリズムの意義」参照。)

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ゴアさんとブッシュさんは大差ない

 ゴアさんがノーベル平和賞を受賞したというので、日本のマスコミもなんとなくゴアさんえらいえらいという雰囲気になっているようだが、ぼくはそういう現象をどうしてもあまり素直な眼で見ることができない。というのは、ゴアさんがブッシュさんに負けた 2001 年の大統領選のときのことを思い出してしまうからだ。

 あのとき、日本のマスコミはなんと言っていたか。ほとんどが、ゴアもブッシュも政策には大差ないと言っていたのだ。信じられない人は、新聞の縮刷版でもひっくりかえしてみるといい。その後、この二人がどのような道を歩んだかは、みなさんご存知の通りだ。

(もちろんそこには、冷戦の終了による共産主義の衰退とか、ネオコン/ネオリベの台頭とかにより、保守とリベラルの違いが見えにくくなっていたという背景があるのは確かなのだが)

 念のために言っておくが、ブッシュさんもゴアさんも、当選してから、あるいは、落選してから豹変したというわけでは必ずしもない。ぼくは、当時まだ若くてマジメだったから(というより、不健全な懐疑の精神に満ち満ちていたから(^^))、選挙中に両者の公約をチェックしてみたことがあるのだが、京都議定書の離脱だとか同性愛者に対するなんちゃらであるとか、その後ブッシュさんが物議をかもすことになる政策の多くは、当時からちゃんと公約に書いてあった。だからぼくは、後になって京都議定書の離脱とかで大騒ぎしているマスコミを見るたびに、「けっ、何を今頃騒いでやんでえ」とせせら笑っていたものである(性格悪くてすいません)。

 そういうわけで、以来ぼくは、日本のマスコミの海外報道というものを、あまり信用しなくなった。また、ぼくは当時からゴアさん支持だったのだが、今頃になって、ゴアはえらい、ブッシュは○○、みたいなステロタイプなイメージを喧伝している日本のマスコミの尻馬に乗る気にもあまりなれないのである(^^)。

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アルメニア人大虐殺

 恥ずかしながらぼくも知らなかったのだが、第一次世界大戦の頃にトルコ人によるアルメニア人虐殺という事件があったそうな。しかし、トルコ政府はこれを認めておらず、「歴史認識」に関する論争が長いこと続いているんだとか。

 で、これも日本ではあまり報道されてないから書くけど、先日、アメリカの下院が、この事件を「大虐殺(genocide)」と認定する決議案を承認したんだそうだ。

(特に、朝日が完全に無視してるのは不思議だ。読売や日経には一応出てるのに。こういうことするから、変に勘繰られるんじゃないのか)

 トルコという国は、イスラム教徒の多い国家であるにもかかわらず、イラク戦争でアメリカ軍に飛行場を提供したりして、多大な協力をしている。なのにそのアメリカにこういう決議を出されたんで、大激怒しているらしい。さらに、イラク北部に住むクルド人に対する迫害の問題もからんだりして、なんだかややこしいことになっているらしい。

 日本人なら誰でも、どっかで聞いたような話だな~、と思うだろうね(^^)。いろいろ考えさせられるけど、面倒だからここには書かない(^^)。

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妊娠はしていない

 今日、さる有名人が結婚したというニュースを見ていて気づいたんだけど、最近の有名人の結婚を報じる記事って、たいてい「妊娠はしていない」って書いてあると思わない(^^)? あれって多分、「できちゃった婚」が流行ったせいで、逆にできちゃった婚でないときにはそれを明示する、みたいな習慣ができたんだろうけど、ひいて見るとなんか変だよねえ(^^)。別に、赤の他人が妊娠してようがしてまいが、別にどーでもいいし、そんなの全国に報道しなきゃならないような大問題か(^^)?

 と思って、「妊娠はしていない」で検索してみたら、やっぱり同じようなことを思っている人がいましたね(^^)。

 まあ、こんなに他人の私生活に興味がないのは、ぼくが冷酷すぎるだけなのかもしれないけどさ(^^)、やっぱ、俗情との結託をあんまり大手をふって正当化してほしくないのよね~。報道する方も、少しは慎みを持ったらいかがでしょう。

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「べき」と「たい」の心理学

 言うまでもなく、人間の行動には、「べき」と「たい」がある。「べき」な行動というのは、何らかの目的を実現するための手段としての行動、「たい」な行動というのは、行動自体が欲望の対象であるようなコンサマトリー(消費的)な行動と言い換えてもよい。

 ところが、山崎正和氏もよく言うように、実際には、「べき」と「たい」はそんなにきっちりわかれているわけではない。たいていの行動は、「べき」であると同時に「たい」でもあったりする。ここが問題だ。

 仕事をする人は、金を稼ぐという目的のために仕事をす「べき」だとも思っているが、同時に、やりがいのある仕事をし「たい」とも思っている。政治運動をする人は、世の中をよくするために政治運動をす「べき」だとも思っているが、同時に、仲間を増やして政敵の悪口を言い合ったりして、そういう運動自体を楽しみ「たい」とも思っていたりする。

 人間には良心というものがあるから、自分がなんらかの行動を起こし「たい」と思い立ったときにも、その行動をす「べき」なのか、という検討はたいていの人がするものである。

 ところが、一端その行動をす「べき」であるという結論が出てしまうと、人間はしばしば、その行動が、もともと自分がし「たい」行動であったということを忘れてしまう。いや、忘れてしまうというより、無意識のうちに目を背けようとするのある。そして、「べき」であるという事実を名目にして、「たい」の欲望を思う存分満たそうとするようになるのである。

 その結果、周囲から見ると、本来の「べき」の目的合理性ではとうてい説明できないような、過剰な行動が観察されることになる。しかもやっている本人は、それはあくまで「たい」ではなく「べき」の行動だと思っているから始末が悪い。

(ダウンタウンがよく言うつっこみで、「お前それ言いたいだけやろ!」というのがあるが、このいうところにも、彼らの人間観察眼の鋭さが現れていると思う。)

 政治運動などを見ていても、周囲から見ると、「そこまでやるかあ?」と思って「ひいて」しまうような運動が多々あるが、そういう現象の裏に働いている心理的メカニズムは、たぶんこのようなものではないかと推察される。

 この問題が難しいのは、単純に「たい」であるから「べき」ではない、とも言えないし、「たい」と「べき」をくっつけるべきではない、とも言えないことである。むしろ、「たい」と「べき」がくっついた状態というのは、社会的意義と本人のやりがいが理想的に結びついた状態とも言えるのだから。

 もちろん、周囲から評価する際には、単純に「たい」の部分を無視して「べき」の部分だけで評価する、というようにすればいいわけである。しかし、やっている本人にとっては、やっぱり、「べき」だけでなく「たい」の部分も重要なのであるから、なかなかそう突き放して客観的に見ることも難しいのだろう。

 そう考えると、本人にとってもっとも有効な処方箋は、その行動がもともと「べき」であると同時に「たい」でもあるということを、自分自身で自覚することだと思う。その自覚があれば、自分の行動が本当に「べき」の目的に合理的であるか、それとも、「たい」の欲望を満たすことだけが暴走しているかを、ある程度自覚的に制御することも可能だろう。

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専門家に対する敬意とは何か

(あるいは「『説明責任』とは何か」)

  • はい、Studio RAIN ですが。
  • もしもし、こちら鰓層証券のものですが。未公開株のご案内でお電話差し上げたのですが。お客様は未公開株ってご存知でしょうか。
  • 一応、それなりには知っているつもりですが。。。
  • たとえば、どのようなことをご存知ですか?
  • ええと、よく詐欺のネタに使われるとか。。。
  • ああ、みなさんそうおっしゃいます。でも、それは、マスコミがそういう事例ばかり選んで報道しているだけで、お客様はご存知ないかもしれませんが、本当は、未公開株で大もうけしている方もたくさんいらっしゃるんですよ。
  • 本当ですか?
  • ええ。たとえば、ニュースキャスターで有名な奮立さん。実は、あの方も、絶叫産業の未公開株で○○億円儲けられたんですよ。
  • え? そうなんですか?
  • はい。でも、そういうことテレビで言っちゃうと、申し込みが殺到して、自分が買えなくなっちゃうでしょう? だから、黙っているだけなんですよ。
  • 本当ですかねえ。。。
  • お客様は、Web2.0 ってお聞きになったことありますか?
  • ええ、一応。
  • でも、ピロリテクノロジーという会社のことなんかご存知ないでしょう?
  • いや、知ってますよ。
  • おや、どの程度のことをご存知でしょう?
  • え、ハルキゲニアのウェブサイトをやっている会社でしょう?
  • さすがですね。でもそれだけではありません。あの会社、あまり知られていませんが、実はオピバニアのウェブサイトもやっていまして、これで面白いように儲かっているんですよ。ご存知でしたか?
  • いや、それは初耳です。。。
  • 今、Web2.0 の会社はどこも大儲けでして。今日お勧めするヘリコバクターシステムも、前期の経常利益○○億円で、上場すればすぐ値段が3倍になるのは確実と言われています。
  • え、そうなんですか? じゃあ、発行株数はいくらですか? 一株益は?
  • それは残念ながら、守秘義務がありまして、発行株数だけはお教えできないんですけど。
  • ええっ? なんですか、そりゃ? それに、Web2.0 なんて一時的な流行じゃないですか。今後どれだけ長続きするかなんて、わからないでしょう?
  • お客さん。。。私は、この商売をやって二十年ですよ。あなたは、その私より株のことがわかるとおっしゃるんですか?
  • いや、そういうわけではありませんが。でも、これは私にとっても重要な決断ですから、一応株に詳しい友達にも相談してみようと思うんです。
  • お客さんのお友達ねえ。。。正直言わせてもらいますけど、たぶん、お客さんのお友達には、この株の価値はわからないと思いますよ。
  • ええっ?
  • お客さんって、年収どのくらいですか?
  • え? なんでそんなこと言わなくちゃいけないんですか?
  • だいたい○○万円ぐらいじゃないんですか?
  • うーん、まあ、もうちょっと多いかなあ。。。
  • 私、お客様とお話していてわかります。お客様は才能のある人です。本当はもっと稼げるはずなんです。でも、なぜそれだけしか稼げないかわかりますか?
  • いや、わかりませんけど。。。
  • こういう重大な決断を、自分だけの力でスパっとできないからです。そして、自分と同じ負け組の友人とばかり付き合っているからです。一流の人は、みんな一流の人としか付き合いません。これは、お客様の人生が変わるチャンスなんです。
  • あのお、ぼく別にそんなに人生変えたいと思ってませんから。お話はそれだけですか? 今そんなに時間がないんで、失礼しますね。有益なお話、ありがとうございました。 (ガチャン)

※この話は、自分の実体験をいくつか組み合わせて作ったフィクションです。

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アダルト番組:障害者向け字幕や手話に助成金

このニュースにはかなり頭にきた。残念ながら詳しく論じているヒマはないが、何が問題なのかさっぱりわからない。一番ムカついたのはこのコメント。

放送評論家、松尾羊一さんの話 視覚・聴覚障害者も楽しめる番組編成は重要だが、CSのアダルト専門放送という限定的な番組にどれだけニーズがあるのか、把握したうえで助成を決めたのか疑問が残る。「障害者への理解」を極端に強調する行為は、裏返せば障害者への差別意識の表れ。(機構が)「助成するのはお堅い番組だけではない」とアピールするため、点数稼ぎを狙ったとも勘ぐりたくなる。

バッカじゃねーの? 後で時間ができたら論じたい。

 全然関係ないけど、ブラザーの MFC-410CN は、なぜインク切れしただけで、PC-FAX まで送れなくなるのだ。このドライバはバカですか? イライライライラ。(そうだ、はっぴいえんどのゆでめんを聴こう(^^))

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Outfoxed: Rupert Murdoch's War on News

Outfoxed: Rupert Murdoch's War on News (Full)  ニューズ・コーポレーション DJ を買収するらしいというので、マードック氏について勉強しようと思って取り出したのが、ずっと積読(じゃなくて積視聴か?)だったこの「Outfoxed」というビデオ。Outfox というのは、もともと「裏をかく」というような意味だが、この題名ではそれを FOX テレビ(もしくは、FOX ニュース・チャンネル)の FOX にひっかけている。FOX テレビというのは、言わずと知れた米 4 大ネットワークの 1 つで、ここで放映しているニュース番組には保守寄りのバイアスがかかっているというので問題になっていることはご存知の通り。

 最初に購入したときには、マードック氏の経歴とか政界とのコネクションとかについて描いているのかと思っていたのだが、実際に観てみると、そういう話はほとんどなくて、むしろ、FOX ニュースがイラク戦争や大統領選挙のときに、どのような印象操作を行っているかを示す実例が中心だった。

 たとえば、"Some people say..." というような表現を使うことによって、 ニュースに製作者側の意見を忍び込ませる、というような印象操作テクニックがコメンテーターによって語られた後に、実際に "Some people say..." という表現が使われている FOX ニュースのビデオクリップの例をイヤというほど並べる、という感じ。

 これは、The Daily Show なんかでもよくやる手だし、最近では、YouTube なんかに投稿された一般の方が編集したビデオ(MAD っていうらしいですね)にもよく見られる手法であるが、実際の番組の雰囲気を短時間で効果的に伝えてくれる。( もっとも、これだって一種の印象操作なので、その点には注意が必要。)

 一番おかしかったのは、「子供の教育に悪いので(正確には、有名人が子供の悪い模範になっているとか言うなら、まず自分自身が)、"shut up" と言って他人の発言をさえぎるのはやめろ」と言われたビル・オライリー氏が、「私は 6 年間で 1 回しか "shut up" と言っていない」(よく聞き取れないけど、たぶんこう言ってるんだと思う)とか言い返した後に、ビル・オライリーが "shut up" と言ってる映像が山ほど挿入されてたところ (^^)。

 この例でもわかるように、実は、このビデオの主役は、ルパート・マードック氏というより、むしろビル・オライリー氏である。ビル・オライリー氏の横柄な態度や断定口調は、み○も○た氏などを彷彿とさせるところがあり、こういう手法が決してよその国だけの話ではないと感じさせる(^^)。もちろん、ビル・オライリー氏とみ○も○た氏では思想的バックグランドはかなり違うだろうけど。

Hannity & Colmes みたいに、わざと弱気なリベラル・コメンテータを入れて、両論併記を装う手法って、日本にもあったっけ? ぼくは日テレとかフジとかのニュースをあまり見ないのでわからないのだけど(^^)。そう言えば、こないだ News 23 で桜井よしこさんと姜尚中さんがいっしょに出てたけど、あれもそういう手法かなあ、とか言ったら殴られるか(^^)。橋本徹はただの変人だろうしなあ(^^))

 ある 9.11 犠牲者遺族の人なんかは、ビル・オライリー氏がテロリストを悪者にしようとしてるのに逆らって、政府の責任を追及しようとしたがために、9.11 陰謀説論者のレッテルを貼られてしまっていた。本編中でアル・フランケン氏も言っているが、これなんかは印象操作どころか、単なるウソではないかと思うのだが(^^)。

 Wikipedia の英語版の記事によれば、この作品にも FOX 側からの批判があって、本編中で元 FOX のディレクターとか言ってる人たちが経歴詐称だとかいう疑惑もあるらしい。だけど、ぼくのような日本人から見れば、そんなのは、たとえ本当だとしても、たいした問題じゃないと思う。FOX がどういう編集を行っているかは、コメントの信憑性がどうあれ、作品中に引用された大量のビデオクリップ自体が雄弁に語っている。

 そもそも、日本人にとっては、FOX ニュースの映像を見る機会がほとんどない。FOX のドラマなんかは BS でもやっているが、ぼくの知る限り、FOX ニュースについては、一部がインターネットなどで見れるのみである。したがって、このビデオは、悪名高い「FOX ニュースの印象操作」を、日本にいながらにして観れる機会を提供してくれる貴重な作品と言える。また、リージョン・フリーなので、リージョン 1 用の DVD プレーヤを購入する必要もない。残念ながら日本語の字幕はないが。

 最近は反米が流行りのようだが、このビデオを見たら、このような放送が行われている環境で、個人がどこまで冷静な判断力を維持できるか心もとなく思う方もいるのではないだろうか。だとすれば、これは必ずしも他人事ではなく、アメリカ人を笑っていれば済むような話ではない。こういうビデオを観ることは、アメリカの抱える問題を、海の向こうの傲慢な人たちだけの問題ではなく、自分たちと地続きのより身近な問題として捉えるためにも役立つはずである。

(余談だが、サウスパークとかデイリー・ショーとかの面白さだって、本当はこういう政治やメディアにおける保守とリベラルの対立の歴史とかを知らないと理解できないのである(^^))

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台風一過

台風も過ぎたことだし、これでいよいよ夏かな?
と思ったら、来週も雨ばっかみたいですね(^^)。
オリジン弁当行ってこよっと(^^)。

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核に関するいくつかの真実

 久間発言についての「New York Post」の社説。New York Post というのは、Fox テレビと同じく、ルパート・マードックのやってるニューズ・コーポレーションの発行するタブロイド紙で、かなり保守色が強いと言われています(日本で言えば夕刊フジみたいなものだと言ったらマズいかな(^^))。

 そのためか、かなり日本人の神経を逆なでする内容になっているので、まず大きく深呼吸して、覚悟を決めてから読んでね(^^)。


Some Nuclear Truths

New York Post
09 Jul 2007

核に関するいくつかの真実

太平洋戦争を終わらせた1945年の出来事について、日本の首脳部の一員が、記憶にある限りで初めて真実を語った。
そして、その発言は、彼の仕事、そしておそらくは政治キャリアまでもを犠牲とすることになった。
久間章生氏は、先週、日本の防衛大臣の職を辞することを強いられた。それは、久間氏が講演で、なぜアメリカが広島・長崎に原子爆弾を落としたかを理解できると述べた数日後のことだった。
「私は、原爆投下が戦争を終わらせと理解している。そして、それはしょうがないことだったと考えている(訳注:日本語の原文を引用するかわりに、わざと英語から直訳してみた)」と、久間氏は言った。ちなみに、久間氏は長崎出身だった。
さらに、久間氏は次のように言い添えた。「実際、この攻撃は2つの都市に大きな災厄を引き起こしたが、戦争が速やかに終結したことにより、日本は、北方領土の一部をソビエト連邦に奪われなくて済んだ。ソビエト連邦は、長崎に原爆が投下された日に宣戦布告して、日本が占領していた満州に侵攻した。」
そして案の定、政治的な大混乱が巻き起こった。
久間氏の発言は、歴史的には正しいのだが、日本の歴史修正主義者が考える第2次世界大戦における核兵器の役割とは完全に矛盾する。もちろん、日本人の核アレルギーを刺激したことは言うまでもない。
怒りに満ちた糾弾のただ中で、久間氏は謝罪を試みると同時に、公式に非難を受け入れた。しかし、抗議の声が絶えることはなかった。
久間氏は、覚悟を決めて火曜日に辞任した。それは、国政選挙に直面するその月になって、世論調査の支持率が30パーセント以下に急落したことに苦しむ安倍晋三首相にとっては、相当に有難いことだった。
もちろん、戦時中の問題で、日本が独自の見解を維持し続けているのは、原爆投下のことだけではない
ついこの3月には、安倍首相自身が、20万人のアジア人「従軍慰安婦」(訳注:という表現は正しくないとかなんとかいう議論があるのは知っているが、ここは慣例にしたがった)が性奴隷になることを、日本軍が強制したことはなかった、という主張により、国際的な批判に直面した。
久間氏の発言が、日本人の神経を逆撫でしたのは、日本がまさに、北朝鮮の大量破壊兵器の脅威による地域的な核問題を直視し始めたときでもあった。
それはまた、日中間に古くからあるライバル意識がよみがえりつつあるときであり、また、日本が世界的な経済大国としての役割にふさわしい安全保障体制をとることを求める声が高まりつつあるときでもあった。
それが現実のものになれば、日本が核武装する日も遠くないだろう
したがって、アメリカ人は、60年以上も前に使った武器について、罪や恥の意識を感じる必要はない
同じように、久間氏も、政治的には不評だろうが、否定できない真実を話したからといって、罪や恥の意識を感じる必要はないのである。

(太字、強調は訳者による)


ぼくはどっちかというと親米派なので、別に日本人の反米意識を煽ろうと思って訳したわけではありません。ただ、少なくともアメリカ人の一部にはこういう考えの人たちがいて、それはタブロイドとは言え新聞にさえのるぐらいのものである、という事実は冷静に認識しておいたほうがよいのではないかと思ったものですから。

特に注目すべきなのは、太字で強調したところでもわかるように、この記事では、久間発言に反発する人たちが、歴史修正主義者といっしょくたにされていることでしょう。これは、平和主義者の方々や、広島や長崎の方々にとってはたいへん不本意なことかもしれませんが。

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結局はバランス

 こういう問題って、製造者責任 VS 自己責任みたいな構図で語られがちだけど、結局はバランスの問題だと思うんですよね。

 極端な話、コンビニの誰もが手の届く棚で「食べれば即死の青酸カリキャンデー」みたいなのを売って、間違ってそれ買って食べて死んだ人がいたとしたら、いくらパッケージに毒だって書いてあるじゃないかって言ったって、自己責任ってわけにはいかないだろうと誰でも思いますわな (^^)。

 前にも書いたけど、「法と経済学」という分野には、「最安価損害回避者」という考え方があります。これは要するに、最も低コストで損害を回避できるのは誰かということ。

 こんにゃくゼリーの問題なら、国、製造業者、保育園、親などの中で、最も低コストで窒息事故を回避できるのは誰かを考えるわけです。

 そして、その人の責任ということにすれば、その人には損害を回避するインセンティブが生じるので、社会全体として最も低コストで損害を回避でき、結果的にみんなが得するだろうというわけ。

 だからたとえば、製造業者がちょっとこんにゃくゼリーの形を変えただけで死亡率を大幅に下げられるというのだったら、それはやったほうがいいだろうし、逆に親の躾とか言ったって、毎日 8 時間ずつの訓練を 3 年間続けないとこんにゃくゼリーを安全に食べられるようにはなりませんとかいうんだったら、コストがかかりすぎてバカバカしいからやめたほうがいいわけ (^^)。

 ただし、厳密には「コースの定理」というのがあって、「取引費用」がゼロだったら、結局だれの責任にしてもいっしょです、という話もあります (^^)。

 たとえば、とにかくなにがなんでも製造者責任で、裁判になれば必ず製造者が賠償金をとられるとします。そして、実際には、親がしつけをした方が安上がりだったとします。

 そうすると、製造業者は、裁判に負けるのは最初からわかっているわけだからから、損害を最小化しようと考えたら、問題が起こる前に、事前に親に金を出して親に躾をしてもらうはずなんだよね。だから、誰の責任にしても結局同じだっていう話になるわけ。

 これが、親がイジワルで、自分で自主的に躾をするのにかかる人件費より、はるかに高い金額を製造業者に要求したりすると、この話は成立しないんだよね。取引費用がゼロってのは、要するにそういうことです。

 まあそんなわけで、なんでも自己責任にしてとか企業側の言いなりになってとか怒ってるインテリさんもいるようですが、ぼくは、この話に素直に憤慨する人たちの感覚のほうが、バランス感覚があって健全な気がするんですけどね (^^)。

 こんにゃくゼリーの改良が簡単にできるならやればいい。危険性を告知するのもいいでしょ。でも、完全禁止は行きすぎだろう、みたいな線が平均的ですよね。たぶん、コストを厳密に計算しても、そんな感じになるんじゃないですか?

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アダルト・フード・コーナーを作ろう!

 困るんだよね~。ぼく、こんにゃくゼリー大好きなんだよね~。なんですぐ規制しようとすんのかな~。正月になると、毎年のように餅を咽喉に詰まらせて亡くなる人がいるけど、なんで餅禁止運動とか起こらないのかな~。やっぱ、伝統の力ってやつですかあ? 不公平だな~。

 こうなったらいっそ、死んでも文句言いませんという一筆を客からとってから売ったらどうかね。あるいは、ソフトウェアみたいに、このパッケージを開くと、免責条項に同意したとみなします、みたいにしちゃうとか。

 それとも、ビデオ屋みたいに、「アダルト・フード・コーナー」とか作って、「ここで売ってる食品を食べると死ぬ可能性があります」ってでかでかと書いちゃうとかしたらどうかね。(^^)

 ここまで妥協してるんだからさ~、こんにゃくゼリーぐらい食べさせてよ。ねっ? ねっ?(^^)

追記: 日本人は、アメリカの牛肉にはあれだけ大騒ぎするのに、なんで中国の食品その他にはこんなに甘いんだろう。(^^)

追記: mixi のこのニュースに対するコメント見てたら、ほとんどの人が規制に反対してたので安心した (^^)。 こんにゃくゼリーは、美容にいいとかだけではなく、普通のゼリーや寒天のゼリーとかと食感が違っていておいしいのである。この食品は日本が世界に誇るべき素晴らしい発明だと思う。開発者の方々には最大限の敬意を表したい。

追記: こんなの見つけた。「気道異物に対する救急隊員並びに市民による異物除去の検討

これによると、

気道異物による推定死亡者数(全国総数/年) 約2,700

気道異物のうちの餅の割合 18.5%

ということは、餅で死ぬ人は、500/年くらいかな? こんにゃくゼリーによる死亡数よりずっと多いんじゃない?

 このような由々しき事態に対し、餅が発明されて以来何百年もの間、行政当局はなんら有効な対策を打てていない。

 なぜかというと、日本の保守派政治家は、農村地帯を支持層としているので、日本の代表的な農作物である米を原料とした食品の消費を妨げるような政策をとることができないのである。

 また、文化的保守主義を標榜する彼らにとって、日本の伝統食品である餅を否定することは、日本文化を否定することにもなるため、彼ら独特の非論理的な思考によって感情的に反発している面もある。

 また、平均的な消費者も、弱者である老人の視点に立てない自己中心的な人間が多いため、自分にとってはおいしく、なおかつさしたる危険は無い、というエゴイスティックな理由により、行政の不作為を追認してしまう人間が多いのである。そのような人間には、いわゆるネット右翼が多いとも言われている。なんという嘆かわしい世情であろうか。

 餅に対する、老人の危険/効用比と若者の危険/効用比はまったく異なっており、老人にとって、餅は百害合って一利なしの食品だと言うべきなのに。

 たとえ老人が、自分の意思で餅を食べることを選んだとしても、それは真の意味で老人の意思とは言えない。なぜなら、現代人はみなマスメディアによって洗脳されているからである。もちろん、日本のマスメディアも、利権集団たる農協などの支配下にあるため、日本人はみな、たいして美味しくもなく健康にもよくない餅を、さも素晴らしい食品のように思い込まされているだけなのである。

 したがって、少なくとも老人に対しては、餅は毒物と同等に扱われるべきであり、老人に餅を与えた人間、老人がいる家庭に餅を売った小売店、老人が存在する可能性のある国で餅を製造した製造業者などは、すべて殺人罪に問われるべきであろう。

 パッケージに警告を入れるなどというのはごまかしであり、抜本的な対策とは言いがたい。老人が認知症になって警告を理解できない可能性もあるし、パッケージから取り出した餅を、第三者が本人に知らせず食べさせてしまう可能性もある。このような政策でことたれりとするのは、真に弱者たる老人の立場を理解していない証拠である。

 真に老人を救うための抜本的な対策としては、餅の製造・販売の全面禁止と、それに違反したものに対する厳罰しかありえない。このような自明な結論が理解できないのは、人間性か知性に根本的な欠陥がある人間だけであろう。

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みのもんたにするぐらいなら、太田光にしなさい!

 ニュース 23 のキャスター候補としてみのもんたが挙がっているという話を聞いて、心底ウンザリしてしまった。まあ、筑紫氏がやめてもいないうちからこんな話をするのも、人間としてどうかと思っていたのだが、すでに話題になってしまっているならこの際言ってしまおう。

 みのもんたにするぐらいなら、太田光にしなさい。どっちにしろいい加減なことしか言えないんだったら、自分がいい加減なことを言っているという自覚がちゃんとあって、それをギャグにして笑いがとれる太田光のほうがはるかにましです。

 もちろん、太田光がキャスターでは普通のニュース・ショーにはなりえないので、TBS は覚悟を決めて、日本の Daily Show を目指すのです。ちゃんと作家さんとかも集めて。Daily Show はバカにしないでちゃんと研究しといたほうがいいぞ。なぜあれが受けるのかが理解できなければ、新しい時代のニュース番組などつくれっこないと思うぞ。

 だいたい、護憲派最大のスターである太田光を、日テレやフジや Will みたいな保守メディアにばっかりとられているテレ朝や TBS は何をやっているのか。そのくせ細木みたいな半分○○○人間を持ち上げて。そんなことしかできないんだったらとっとと三木谷氏にとられてしまえ!

 いっそ、筑紫さんが自分から太田光に禅譲してくれないかしら (^^)。そしたら、太田さんも久世さんのときみたいに感激して引き受けるんじゃないかしら (^^)。

 でも、なんだかんだ言って、筑紫さんが見れないと、それはそれで物足りないんだよね (^^)。タモリ倶楽部とかといっしょで、あのグダグダのりとかカミカミしゃべりとかを聞いてると、なんかほっとするという効用は確かにあるのだ (^^)。だからまあ、とりあえずは復帰してほしいんだけどさ。

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ABC がエタノール懐疑論を放送

 ABC の「20/20」という番組で、エタノール懐疑論を放送していたらしい。その内容が、ABC のウェブサイトにまとめられていたので、和訳して紹介しよう。


「トウモロコシの神」に子供たちを捧げよ

エタノールはそれほどの奇跡ではないかもしれない

2007年5月2日

ジョン・ストッセル、アンドリュー・G・サリヴァン

ガソリン価格は、需要の大きい夏場が近づくにつれて急上昇しており、一部のガソリンスタンドでは1ガロン当たり4ドルに達するだろうと、ブルームバーグのニュースでは予測している。

このガソリン価格の高騰とともに、アメリカは、エネルギー源を分散して、外国産の石油に対する依存を減らすべきであるという声も高まっている。しかし、エタノールはクリーンであり、エネルギー危機すらきれいに燃やしてしまう解決策であると吹聴する政治家の言うことを、あまり信じ込まないほうがいい。

ガソリン価格が「過去最高」に達した? これについて、メディアが言っていることを信じていてはいけません。 ほとんどの記者は、インフレ調整を忘れています。ガソリン価格は、1920年代や1980年代の方が高かったのです。 この続きは、「Myths, Lies, and Downright Stupidity(神話、嘘、ただのバカ)」でお読みください。この本はこちらでお買い求めください。

奇跡的な解決策?

その答えがエタノールだという説は、一つの神話である。エタノールは、今度の選挙戦において、共和党と民主党の両方候補の主張が一致している論点の一つだ。ジョン・マケイン上院議員(共和党・アリゾナ州)、および、前ニューヨーク市長ルディ・ジュリアーニ氏は、ともにトウモロコシを原料とする燃料に対する支持を表明しているし、ヒラリー・クリントン上院議員(民主党・ニューヨーク州)、バラク・オバマ上院議員(民主党・イリノイ州)、および、ジョン・エドワーズ前上院議員も、エタノールの生産に対し、政府から補助金を出したいと考えている。前マサチューセッツ州知事のミット・ロムニー氏は、「エタノールの経済的重要性は、今後ますます高まります」と言っている。

このような政治家にとってエタノールが重要なのは、彼ら自身の言によれば、エタノールが、地球温暖化を遅らせ、環境を保護し、アメリカの外国産の石油に対する依存を低下させる、クリーンで再生可能なエネルギー源だからだ。 しかも、エタノールはトウモロコシから作られ、そのトウモロコシはわれわれが育てているのだから、きわめて自然だというわけで、なんだかよさそうな話に聞こえる。

だが、もしエタノールがそんなにいいのならば、それに補助金を出したり、消費を義務化したりする必要はないはずだ。ケイトー研究所のジェリー・テイラー氏は、「現代の経済において、何かを市場に出すことによって利益をあげられるならば、政府が頭に銃を突き付ける必要はないはずだ」と言っている。

にもかかわらず、エタノール生産者は、自分たちの製品を売るために、政府の補助金を必要とする。と言うのも、補助金がなければ、エタノールはガソリンより高くついてしまうからだ。さらに、評論家は、エネルギー価格や外交政策や環境の観点からエタノールがアメリカの利益になる、という説も神話にすぎないと指摘している。

エタノールの生産過程

ジェリー・テイラー氏は、「20/20」(ABCの番組)のインタビューにおいて、「エタノールの生産時には、肥料を作り、トラクターを走らせ、サイロを建て、トウモロコシを処理工場に運び、処理工場を動かために、大量の化石燃料を必要とする」ということを思い出させてくれた。さらに、エタノールを運ぶのにもエネルギーが必要だ。エタノールは劣化するので、石油のようにパイプラインで輸送することはできない。したがって、エタノールを使うということは、その供給のために、汚染を撒き散らすトラックを今まで以上に走らせなくてはならないということを意味する。

このような理由で、最近の研究の多くでは、エタノールを生産するには、エタノールを燃やしたときに得られるのと同じくらいのエネルギーが必要だと言われている。「エタノールの純エネルギー収支はほとんどゼロです」とテイラー氏は言う。

その上、エタノール車からの排気は、環境に対してもクリーンではない。スタンフォード大学の大気科学者であるマーク・Z・ジェーコブソン氏によると、エタノールへの切り替えは、気候変動の問題をなんら解決しないばかりか、公衆衛生にとっても、エタノール車の排気ガスはガソリン車の排気ガスよりも悪い可能性があるという。

エタノール車の排気の方が、ホルムアルデヒドやアセトアルデヒドなどの発癌性の化学物質を多く含んでいるし、エタノール車は、人々の免疫系を弱めて肺損傷を引き起こす大気中のオゾン濃度(スモッグの主成分)を高める、とジェーコブソン氏は言っている。

さらに、エタノールを作るためのトウモロコシ生産の増加は、さらなる肥料や農薬の使用につながるので、これがさらなる温室効果ガスを発生させるだろう。

政治家はなぜエタノールが好きなのか?

では、エタノールがちっとも安くなく、環境にもよくないとすれば、なぜ政治家にそれほど人気があるのだろうか。

「大統領になりたい人たちが、トウモロコシ・エタノール政策を支持することになんの不思議もありません」とテイラー氏は言う。「最初の党員集会が行われたのは、アイオワ州です。このアイオワ州の予備選挙では、トウモロコシの神に子供たちを捧げる気がなければ、得票数の1パーセント以上を獲得することはできないのです。」

中西部の有権者とうまくやりたいと思ったら、トウモロコシの生産者と仲良くする必要があるということを、大統領候補は知っているのだ。大統領候補は、エタノールに対する補助金の支給を推進することにより、中西部州の重要な選挙区の有権者を喜ばせながら、いかにも環境に優しい人のような顔ができるし、アメリカが「エネルギー自給」という聖地に向かっていると、有権者に信じこませることもできる。

インディアナ州のエバン・バイ上院議員は、ABCのインタビューに対し、「わが国は、輸入石油への依存度を、どんどんどんどん増やしてきました。これは健全ではありません」とぼやいた。

「でも、エタノール政策は、パウロに金を払うためにペテロから金を盗む(訳注:「無意味なやりくりをする」という意味の慣用句)のと同じことではありませんか? 私たちみんながペテロで、トウモロコシ生産者がパウロなんですよ」と尋ると、バイ氏は「現状では、中東のシャイフに金を払うために、わたしたちの金が盗まれているんです」と言った。「アメリカ中西部の農場にアメリカの燃料を生産してもらう方が、理にかなっていると思いませんか?」

エタノールは何の役に立つのか?

だが、エタノールは、アメリカの外国産石油に対する依存症を治してはくれない。米国科学アカデミーの会報に発表された調査によれば、アメリカのトウモロコシのすべてをエタノールに変えても、アメリカのガソリン需要の12パーセントしか満たさないと言う。

中東諸国が、アメリカへの石油供給を止めただけで、アメリカは人質をとられたも同然だ、というような議論は無意味であるとテイラー氏は言う。「アメリカが中東諸国に人質をとられているですって? 中東諸国の歳入の80~90パーセントは石油の売り上げから来てるんですよ。彼らは石油を売らずにはいられないんです。他に売る物がないんだから。」

テイラー氏は正しい。たとえOPECがアメリカに石油を売ることを拒否したとても、世界中の石油は最終的には同じプールに流れ込むのだ。アメリカの敵も、別の誰かには石油を売るだろうし、その誰かはまた別の誰かにその石油を売るだろうし、結局そのまた別の誰かがアメリカに石油を売るだろう。

ある燃料源が、高価で、環境に優しくなく、アメリカの外交政策の役にも立たないのならば、それを生産するための費用を払うことを納税者に強制する理由はない。

テイラー氏は言う。「これは、トウモロコシを買う人からお金をとって、そのお金を、トウモロコシを育てたりエタノールを作ったりして生計をたてている人にあげることを目的とした、露骨な所得移転政策なんですよ。それだけのことです。」


ちなみに、ジョン・ストッセルというのはこういう人で、ケイトー研究所というのはこういう研究所であるということは、言っておいたほうがいいかも知れませんね(^^)。ただし、この内容が3大ネットワークで放送されたということもお忘れないように。あとは、読んだ人の判断におまかせします(^^)。

ぼく的には、こういう意見がもっと出てこない方が不思議ですけどね。ここに挙げられていない論点も、まだたくさんあると思うのですが。

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なんでバイオガソリンでCO2が削減されるのか、さっぱりわからん

 なんか言ってることおかしくないですか? それとも、オレの頭がおかしいのだろうか。。。(^^)

 今日は山二つ超えた役所までチャリンコで往復して疲れたので、一晩寝てから考え直してみよう (^^)。

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VA Tech & Gun Control

 先週のアメリカのメディアは、VA Tech Massacre (or Shooting)、つまり、バージニア工科大学の銃乱射事件のニュースで持ちきりであった。ぼくは、 CNN Pipeline ABC News Now の画面を2つ並べて観ていた(このへんもIP放送のいいところ(^^))のだが、どちらも事件が起こった月曜日から水曜日ぐらいまで、ほとんど一日中この事件のニュースばかりやっていた。どこかのえらい人が、社会面に出るような事件報道を延々とやるのは日本のテレビだけだ、とか言っていたけど、このぐらいの事件になると、さすがに違うようである (^^)。

 ぼくが一番気にしていたのは、この事件が銃規制の問題にどのような影響を与えるのかということだが、どうやら、精神疾患歴のある人に対する銃販売の規制を強化する、あたりに落ち着きそうで、全面的な銃禁止などという方向に行くことは、自民党が共産主義を主張するぐらい有り得ない話のようだ (^^)。

 どうも、犯人に精神疾患歴があったことが、銃規制に反対する側にとっては、逆に逃げ道になった感もある。犯人が NBC に送ったビデオが公開される前は、社会から isolate (疎外)された人たちを inclusion (包摂)するような社会にしなくてはいけません、みたいな議論を真面目にしていて、個人的にはちょっとひいてしまったのだが (^^)、あのビデオを観てからは、さすがにそんな議論をする気も吹っ飛んでしまったらしく、あまりやらなくなった。

 それにしても、アメリカという国にとって、銃規制の問題は相当根深い問題らしい。ぼくはこの問題に詳しいわけでもなんでもなくて、チャールトン・ヘストンが会長だった全米ライフル協会のロビイングのおかげで銃規制ができないのだ、みたいなステレオタイプな認識しかないので、これはあくまで印象批評にすぎないのだけれど、今回のニュース報道を見ていた限りでは、どうもそういう表層的な話だけではないような気がした。

 方向性はほとんど正反対だし、たとえとしては不穏当かもしれないが、合衆国憲法修正第2条は、ほとんど日本人にとっての憲法第九条みたいなものかもしれないと思った。つまり、彼らにとっては、合衆国憲法修正第2条を変える事は、アメリカと言う国のよって立つ理念的な基盤を変えてしまうことなのだ。だから、ちょっとやそっと小賢しい理屈を並べても、そう簡単に意見が変わることはないのではないかと思う。要するに、一種のタブーなのである。

 どうでもいい話だが、前にこの問題をニューヨーク在住のペンパルと議論していて、ぼくが冗談で、「『十戒』には『Violence begets violence』みたいなことは書いてないらしいな」みたいなことを書いたら、えらく受けてくれた。だからこれは多分、ぼくがこれまで英語で書いた冗談の中でも、一番上出来なのではないかと思う。(そんなのが上出来なのかって言われそうだが(^^))。

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追悼・植木等

 あの植木等さんが亡くなった。と言っても、ぼくなんか本当はリアルタイムで植木さんの仕事に触れた世代ではない。特に、植木さんの映画やシャボン玉ホリデーとかについては、小林信彦さんの本とかで読んだぐらいで、自分ではほとんど見たことがない。

 ただ、植木さんの音楽ついては、代表的な曲はほとんど知っていて、実際に愛聴してもていた。ぼくの音楽についての知識はかなりの部分坂本教授経由なのだが、これも実はそうで、さらに言えば大瀧詠一経由である。

 前にも書いたけど、ぼくは 10 代の頃、NHK FM でやっていた坂本龍一のサウンドストリート、通称サンストという番組を毎週欠かさずエアチェックしていた。その番組の中で、クレージーキャッツ・フリークとして有名な大瀧詠一さんをゲストに呼んで、クレージーキャッツ特集をやったことがあるのだ。これはかなりインパクトがあって、その時にエアチェックしたテープは繰り返し擦り切れるまで聴いた。

 中でも特に気に入ったのは、「だまって俺について来い」という曲。これはナンセンス・ソングとしてもきわめて完成度が高く、なおかつ、高度成長期の日本のある種の雰囲気をも現代に伝える名曲だと思うので、若いみなさんも、機会があればぜひ一度聴いてみていただきたい。歌詞だけなら、「だまって俺について来い ハナ肇とクレイジーキャッツ 歌詞情報」とかで読むことができる。この歌詞を読んだだけでも、いかに偉大な曲かがわかっていただけると思う (^^)。

(実際のレコードを聴くと、「み~ろよ~」のところで突然声楽的な歌い方になっているが、植木氏が実際に声楽を習っていたのも有名な話。初期のヒット曲「はいそれまでよ」のイントロなんかにもその素養が生かされている。)

 ちなみに、同じくクレージーキャッツ・フリークであるマンガ家のとり・みき氏は、この曲をネタにして丸々マンガ一本書いていて、曲題をそのまま単行本のタイトルにまでしている(なぜか amazon.co.jp には登録されていないが)。このマンガも曲に負けず劣らずバカバカしくて面白いので、ヒマな人は古本屋で探してみてください。

 そう言えば、ここでは触れなかったが、クレージーキャッツのほとんどの曲に詩を提供している青島幸男氏も昨年末に亡くなっている。宮崎駿氏は、手塚治虫が亡くなった時に「昭和が終わったと感じた」と言っていたが、ぼくは今日、今さらながら改めて昭和が終わったと感じた。それくらい、昭和の一時代の空気を体現していた人たちだったんじゃないかという気がする。

 合掌。

 余談になるが、ナンセンス・ソングと言えば、ぼくが最近気に入っているのは、言うまでもなく、ムーディ勝山の「右から来たものを左へ受け流すの歌」である (^^)。この曲なんかも、「だまって俺について来い」などと比較してみると、なかなか興味深いものがある。

 どちらも、なんだか得体の知れないものについて唄っているという点では共通している。しかし、「右から来たものを左へ受け流すの歌」の場合、右からきたものがなんなのかという答えは最初から用意されていなくて、その空虚なオチを生かすように全体が計算ずくで構成されているように思える。それに対し、「だまって俺について来い」の場合、計算なのか本気なのかわからないところがあって、本当にそんな人間がいてもいいじゃないか、というような真面目な主張のように聞こえないこともない (^^)。そこがいい意味である種の深みになっている。

 どうもぼくには、ここらへんに時代の差が現れているような気がするのだが、緻密な分析をするには、もう少し時間が必要なようだ (^^)。

追記: 

 なんかまた、植木さんをネタにして、高度成長時代は今よりよかったみたいな話を書いてる人たちがいるけど、あの時代を極端に美化するのはいい加減やめてほしい。ほんと、そんなバラ色の時代ちゃうぞ (^^)。

 ぼくのこの小文もそうだけど、昔を美化して懐かしむのが好きだというのは、たぶん歳をとった人間に共通する習性にすぎなくて、それは、客観的な評価とは別物ですから。だから、そろそろ、高度成長時代の負の側面もちゃんと語った方がいいと思うぞ。

 たとえば戦争。当時はもちろん冷戦真っ只中で、もちろん核軍縮なんかもなくて、いつ核戦争が起きて人類が滅びてもおかしくないと言われながら暮らしてたことを知ってるか? 実際、キューバ危機みたいに核戦争寸前まで行ったこともあった。今は 9.11 やイラク戦争程度(あえて程度と言うが)で大騒ぎしているけど、当時は、中東やアフリカでは日常茶飯事のようにホンモノの戦争が行われていたんだ。ベトナム戦争はもちろん、第四次まであった中東戦争、イラン・イラク戦争、第三次まであった印パ戦争。

 たとえば公害。水俣病・カネミ油症・イタイイタイ病・四日市喘息なんてムチャクチャな公害がかなりの長期間放置されていた。国や企業の対応だって、今よりはるかにひどかったんだぞ。そもそも、環境基準そのものが今よりぜんぜん低レベルで、今みたいに晴れてる日に東京から富士山が見えるなんて考えられないほど空気も汚かったんだ。

 たとえば差別。男女差別も学歴差別も当たり前。部落差別だって今みたいになんちゃって差別じゃなかった。今の子は、実力さえあれば、低学歴でも女性でもやっていけると思ってる人も多いだろうけど、そんなのは夢のまた夢みたいな時代。今みたいな再チャレンジどころか、大学入試で一生が決まると言われていたんだよ。

 誰もが夢を見れる時代とか言ってる人がいたけど、そりゃテレビや洗濯機や冷蔵庫を買って、マイホームを持ってみたいなのが「夢」だというならそうだろうけどね。自分の好きな職業についてやりがいのある仕事をするという意味で言えば、今の方がずっと自由だよ。信じられない人は、「ふぞろいの林檎たち」でも観てくれ (^^)。

 たとえば情報。国や大企業が情報を隠すなんて日常茶飯事。今みたいにそれをインターネットで告発するなんてできなかったんだからね。今みたいに、一市民の告発で国や企業が動くなんて考えられない。多くの一般庶民は国や大企業やマスコミの言うなりで、騙されていることに気づく機会すらなかったんだ。

 もちろん、今よりいいところだって少しはあったでしょうよ。でも、今の若い子がタイムマシンであの時代に戻ったら、やっぱり今の方がいいと思う人も多いと思うよ。そういうことを、もうちょっと宣伝した方がいいんじゃないか (^^)。

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作りたくても作れないって、どういうこと?

 昨晩の朝生は、パネラー全員が女性で、これは朝生史上初めてのことだそうだ (^^)。もっとも、だからといって、議論の質に影響があったという感じは、いい意味でも悪い意味でも別にしなかったな (^^)。

 でもどうなんだろ、10 年ぐらい前だったら、やっぱりこうはいかなかったんじゃないかな (^^)。少なくとも、大高未貴さんとか雨宮処凛さんみたいな論客を女性の中から探すのは難しかっただろう。これは別段彼女達を高く評価しているという意味ではなくて、むしろ純粋な論客としての評価は正直高いとはいえないわけだけど、それは普段の男ばっかりでむさ苦しい朝生でも同じことだよね。ただ、ああいう論客が出てきたということは、男性論壇と女性論壇がある種相似形になってきたことの一つの証明にはなると思うのだ。

 少子化問題については、ぼくの知る限り、そもそも、価値観の変化のせいなのか環境のせいなのか、という論争にすらきちんとした決着がついていないはずなんだよね。環境のせいだと主張する方々は、よく「子供を作りたくても作れない人がたくさんいる」ということを強調するが、ぼくはこの「作りたくても作れない」という言い方にはある種のごまかしがあると思う。

 この言葉を使っている人がイメージしているのは、たぶん、収入が生活費だけでギリギリで、子供を作ると生活費すら不足してしまう、というような家庭なのだと思う。でも、こういうイメージでは、よく考えると、何も定義したことになってないのである。

 たとえば、収入は人並み以上にあるのに、毎日高級寿司やフランス料理ばかり食べていて、着る物もブランド品ばかり買っているために、生活費だけで収入を使い切ってしまって、それ以上支出を増やせないし、生活を落とすのも嫌だから子供を作れないという家庭があったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れないのか、作れるのに作らないのか、どっちだ?

 そんなのは極端すぎるって? じゃあ、質素な生活をしているのに、収入が人並み以下なので子供を作れない家庭を考えて見ましょう。でも、「1ヶ月1万円節約生活」みたいなメチャメチャな節約をして生活費を切り詰めたり、副業やパートを増やして過労死寸前まで働いたら、ギリギリ子供を作れるようになったとする。この家庭は、子供を作りたくても作れなかったのか、作れるのに作らなかったのか、どっちだ?

 もうちょっと論理的に(あるいは経済学的に)考えると、子供を作るという行為には、「子供を愛する喜び」というような「効用」と、生活費の負担増、養育の労力などの「不効用」があって、効用が不効用を上回った場合に子供を作るということになる。

 そう考えれば、前者は不効用は小さいが効用もそれ以上に小さいので「作れるのに作らない人」、後者は不効用は大きいが効用がそれ以上に大きいので「作りたくても作れなかった人」、というふうにもいえそうな気がしてくる。したがって、効用が一定以上に大きいのに、不効用がそれを上回って大きい人のことを、「作りたくても作れない人」と呼べばいいと思うかもしれない。

 でも、よく考えると、こう置き換えたって、やっぱり何も定義したことにはなっていないのである。たとえば、子供の顔を見るのは大好きだが、世話をするのはそれ以上に大嫌いという人だって、この区分に当てはまるわけだが、こんな人が「作りたくても作れない人」だと思いますか? 

 じゃあ、精神的な効用と金銭的な効用を分けたら、と思うかもしれないが、精神的な効用と金銭的な効用は市場で容易に交換できるのだから、これだって同じことなのである。たとえば、「世話をするのが大嫌い」を「世話をする人を雇う金がない」と言い換えれば、形式的には、精神的な不効用ではなく金銭的な不効用になってしまうわけである。

 要するに、「子供を作りたい」などというのは個人の主観なので、第三者がその「作りたさ」の量だけを客観的に測定することは難しいし、「作りたい」と「作りたくない」の閾値を絶対的に決めることもできない。

 さらに本質的なことは、そもそも、子供を持つ喜びというものを、効用と不効用に単純に分けることができるのかいうことである。親がどれだけ不効用に耐えられるかということ自体が愛情の証であって、子供にとってはその愛情こそがもっとも必要なものかもしれないし、親にとっては、子供が自らの愛情を受け入れるということこそが子を持つことの最大の喜びかもしれないのである。だとすれば、不効用=効用という等式が成り立つことになりかねない。

 これがまた個人同士の関係であれば、個人の主観でもって、スポ根的に「お前には本当に子供を作りたいという気持ちがない! だから支援はしない!」とか言うこともできるかもしれない。しかし、政府が政策として支援を行う場合には、そんなわけにはいかないのである。したがって、政策論としては、「本当に子供を作りたいけど作れない人」だけに支援を行うことなど、おそらく不可能である。

 だからぼくは、「作りたくても作れない人」という言い方は、リベラル系の方々が、「自分達は個人の主体的な選択を尊重しますよ」というポーズを示すための、あるいは、少子化対策の名の元に所得再配分政策を行うための、一種のごまかしに過ぎないと思っている。 

 「作りたくても作れない」派の人は、某大臣の「女性にがんばっていただくしかない」みたいな発言がお気に召さないようだけれども、このように考えれば、少子化対策には、

  1. 政策によって、子供を作るという行為の不効用を減らし効用を増やす
  2. 子供を作る人の効用関数、つまり、価値観自体を変えることによって、子供を作るという行為の不効用を減らし効用を増やす

のどちらかしかない。これは、いずれにせよ、子供を作る人を優遇し、作らない人を相対的に冷遇するということなのであって(子供を作ろうが作るまいがまったく損得のない、完全に価値ニュートラルな社会、などというものも、おそらく定義不能である)、少子化対策をすると決めた以上は、口でなんと言おうが、やることはいっしょなのである。

 もちろん、実際の政策によっては、副次的な効果として、低所得層と高所得層、嫡出子と非嫡出子、初等教育と高等教育などの間で差が出るというようながあることは十分に考えられるし、そのへんがまさに政策としての考えどころではある。

 しかし、少子化対策の本質が、子供を作る人を合法的に贔屓する、ということに変わりはないのであって、それを肯定できないならば、むしろ、ぼくのように少子化対策そのものに否定的な立場をとるべきなのである。 

 本当は、保守とリベラルが対立しているのだって、むしろ、この副次的効果として何を選ぶかの方であるはずなのに、それをまるで、少子化対策としてどっちがより効果的か、という問題のように言うのは、論点のすり替えであろう。

 1 と 2 の違いにしても、リベラル系の方々は、なんとなく 1 の方がお好きなようだけど、そんなに単純にどちらがよいと決め付けられる話であろうか。極端な話、どんなに子供が嫌いな人だって、その不効用を上回るインセンティブを与えれば子供を作る可能性はあるわけだけど、子供一人当たり 10 億円ぐらいの補助金を出すというような政策が(予算のことは除いて考えても)「よい政策」だと思う? 「10 億円くれるなら子供を作ってやらあ」、みたいな家庭の子供が本当に幸せになると思う?

 政策目標自体の是非はさておき、それが正しいことを前提とすれば、それを実現するために、個人にインセンティブを与えるよりも、個人の価値観そのものを変えた方が、低コストで政策目標が実現できるし、社会に不自然なひずみを与えることも少ない、とも言えるんじゃないの? だとすれば、その政策目標にそった発言を大臣がすることだって、そんなに悪いことなのかと思うんですけどね。

 価値中立的に考えるために、たとえば、環境保護のためにレジ袋の使用量を減らすという政策目標を考えてみよう。もちろん、この場合、レジ袋に課税するというような具体的な政策をとるのが本筋だろう。でも、そのようなときに、大臣が「みなさん、なるべく家から買い物袋を持ってくるようにしてください」と言うのが、そんなにいけないことか。世論調査をしたら、半数以上の人が「家から買い物袋を持ってくるようにしている」と答えたときに、「それは健全だ」と言ってはそんなにいけないのか。

 もちろん、ぼくだったら、こういう場合にでも、「それは政府にとってありがたいことです」とかなんとかもっとへりくだった言い方をするだろう。でも、そんなのは言い方だけの問題で、本音はいっしょなのだ。要するに、政策目標を実現するために、その目標にとって都合のいい価値観を持った個人を増やしたいのである。それがそんなに悪いことだろうか?

 そりゃあ、隣組なんかがあった時代だったら、大臣がこういう発言をしただけで、買い物袋を持ってこない人は村八分に合って、町内会の行事に呼んでもらえなかったり、お醤油を貸してもらえなかったり、泥棒が入っても通報してもらえなかったりするかもしれない。

 でも、今はそんな時代じゃないでしょう? 大臣がいくらそんな発言をしたからって、そんなの無視すりゃいいだけで (^^)、買い物袋を持たない自由が即なくなるわけじゃないでしょう?

 だからぼくには、正直そんなことでなぜ大騒ぎしなくてはならないのか、いまだによくわからないんだよね (^^)。 

(あと、渡辺昇一さんの「大地と種」理論は今回初めて聞いたんだけど、ちょっと驚いたね。そんなの、Y 染色体理論より非科学的だし、ある意味、それこそ「女性は子供を産む機械」と言ってることいっしょだと思うんだけどなあ。機械だと駄目だけど大地なら平気なのかよ、と思ってちょっと呆れてしまった。これはもう相当なめられた発言だと思うぞ (^^)。)

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ポストモダンの亡霊を排す

 若い世代はあまり知らないのかもしれないが、ぼくらポスト・ポストモダン/ニューアカ/フェミニズム世代(「クーリエ・ジャポン」の記事によると、アメリカはもう「ポスト・フェミニズム」らしいぞ(^^))からすると、この手の議論は正直もううんざりという感じなんだよね。

 もちろん、この手の議論というのは、特定の価値を賞賛すると、それ以外の価値を相対的に貶めることになる。だから、多様な価値を尊重するためには、特定の価値を賞賛してはならないってやつね。やれ、「立派なご両親が揃っていてよかったね」というのは母子家庭に対する差別であるとか、「五体満足な赤ちゃんでよかったね」というのは障害児に対する差別であるとか、「ミスコン」はブスに対する差別だとか、もうさんざ聞かされたよ。

 でも、ぼくの中ではこの手の議論はとっくに終わっているし、ポストモダンを通過した多くの人たちの間でも、とっくに終わった議論だったはずだ。

 結論から言ってしまえば、価値相対主義というのは、価値の否定とは違う。そもそも、人間はなんの価値観を持たずに生きていくことなどできやしない。民主主義の価値相対主義というのは、個人が自由に価値形成を行った結果として、ある種進化論的・弁証法的によりすぐれた価値に到達することを狙いとしているのであって、そのために、権力によって特定の価値観を一方的に押し付けるのは(なるべく)やめましょう、ということにすぎない。だから、あらゆる価値を平準化してなくしてしまいましょう、というのとは、ほとんど正反対の思想なのである。

 そして、人間同士が価値形成を行うためには、当然のことながら、何が自分にとって価値があるかを他人に対して表現することが必要なのである。批評だってなんだって、そのために存在しているのだ。(もっとも、実際には、権力闘争や個人のストレス解消のためだとでも思っている人も多いようだが (^^)。)

 「五体満足な赤ちゃんでよかったね」と言ってはいけないと主張する人たちは、じゃあ自分が明日から障害者になってもいいと思っているのか? 世の中の人が全員障害者になった方がいいと思っているのか? そうじゃないだろう? だとすれば、否定するのはそういった価値観そのものではなく、あくまで表現の問題にすぎないはずだ。

 もちろん、障害者の目の前でわざわざそういうことを言う必要はないだろう。でも、いついかなるところでもそういう発言をしてはいけない、などという主張は、市民同士の自由な価値形成そのものを疎外することになってしまう。

 市民同士の関係ではそうだとしても、政治権力者がそれを口にするのは、権力による価値観の押し付けになるのではないか、というのも極論である。そもそも「権力による強制」とは何か、というのがなかなか難しい問題で、フーコーのようにむやみと拡大解釈する人がいることももちろん知っている (^^)。

 しかし現実的には、ある種のインセンティブによって、特定の価値観を促進しようという法律は、健康増進法とか動物愛護法とかいくらでもあるのだ。だから、民主主義運用の現実に即して考えれば、完全な強制は許されなくても、ある程度のインセンティブによる誘導は許される、と考えるしかない。

(「タバコを吸うのはよくない」とか「動物をいじめてはいけない」みたいな価値観を、政治権力によって促進しようとしている人たちが、一方では「子供をたくさん作った方がいい」という価値観の促進に反対している、と決め付けるわけではもちろんないが (^^))

 少子化対策というのが、民主主義的な手続きにのっとった国民的合意である以上、それを推進する人間が、その価値観にコミットするのはむしろ当然のことである。また、特定の価値観に対するある種のインセンティブとして働くような発言を全否定することも極論だと思う。ただ、もちろん表現の巧拙というのはある。

 ちなみに、ぼく自身は、「少子化対策もいいけど」という記事でも書いたように、少子化対策よりもむしろ移民を促進したほうがいいという立場だし、「伝統の在り処」や「文化は制度化では守れない」 でも書いたように、天皇制はなくなってもいいとか言ってるような人間ですから、実際には、現政権の考え方とかかなり距離があると思うんですよ (^^)。

 でも、ぼくは筋金入りの価値相対論者なので (^^)、そういう個人の価値観によって、主張の是非を判定されるのは嫌なのね。だから、そういうエクスキューズをあえて最後に持ってきた次第。

 もしこの問題が純粋に表現だけの問題であるならば、表現の問題に相応しい取り上げ方の軽重というものがあるはずだし、逆に、表現に現れた価値観や思想の方が問題であるというのなら、徹底的に価値観の戦いを繰り広げればよいのである。けれども、(たぶんそのような論戦になれば泥沼になり足並みが乱れることをおそれているのだろうけど)実際には、あえて思想論には踏み込まず、あくまで表現の問題であるが、表現の問題はすご~~~~~~く重要なんだよ、という論法によって、無理矢理当事者を引きずり下ろそうとしているように見える。この問題について、最も「不健全」に感じるのはその点である。

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ロボットは子供を産まない機械

 「PLUTO 4」を読みながら、もしこのマンガの世界に、「女性は子供を産む機械」という発言をする政治家が現れたらどうなるかを考えてみた。

 この世界では、ロボットの人権が確立されているから、人間を機械に例えることが即ネガティブな価値をもつ主張したら、逆にロボットに対する差別になるだろう。「なぜ機械に例えられるのがそんなにイヤなんです? それは、あなたの中にあるロボットに対する差別心の現われじゃないですか?」などと、「ロボット権」運動家に抗議されるかもしれない。だから、せいぜい事実と違う、というような主張しかできないはずだが、もともと例え話なのだから、事実とは違うに決まっている。

 ひょっとしたら、逆に、人間の女性だけが子供を産めると暗に主張しているととられて、ロボットの女性から「ロボットが子供を産めない機械だからと言って差別するんですか?」と言って抗議されることも考えられる。現に作中では、ロボットであるはずのゲジヒトやイプシロンは、自分の身体を創った人間の科学者に対して、深い愛情を持つ存在として描かれている。

 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、この 4 巻では御茶ノ水博士の性格が掘り下げられていて、ほとんど虫愛ずる姫君みたいに、人間とロボットとを同等に扱う博愛主義者として描かれているのが面白かった。また、科学省長官であるはずの御茶ノ水博士でも、部品を入手できないので旧式のロボットは修理できない、という描写はなかなかリアルである。これが昔の SF だったら、こんな旧式のロボットを修理するのはお茶の子さいさい、みたいな話になっただろう。(ところで、御茶ノ水博士が修理する犬型ロボットはアイボそっくりだがアイボなんだろうか)

 ちょっとネタバレになりますが、この巻ではアトムがあっさり「死」んでしまいます。でも、手塚さんの原作では、ゲジヒトやヘラクレスの方が先にやられるんですよね。それで、アトムは天馬博士に 100 万馬力に改造されるんだけど、エネルギー過剰で暴走して海底に沈んじゃう。それを、プルートゥとイプシロンが協力して助ける、という展開になるのですが、この原作をどこまで尊重し、どこからはずしていくのか。浦沢さんの腕の見せ所ですね。

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うぇぶせれぶ 25

 あの Forbes 誌が、「Web Celeb 25」、つまり、ウェブ上で影響力のある有名人ベスト 25 人を発表。日本じゃよくネット・アイドルとか言うけど、ウェブ・セレブというのは初めて聞く言葉ですね。でも、正直知らない人ばっかりです (^^)。トップの女の子は the girl next door という感じでちょっと可愛いですね(あ、この子が YouTube で有名な lonlygirl15 か。噂には聞いてたけど初めて見た (^^))。これから、どんな方々なのか研究してみようと思います (^^)。

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マックスウェルの悪魔が実現?

 あの「マックスウェルの悪魔」が人工的に作られた、とロイターが報じていたんですね。驚き。

 作ったのは、エジンバラ大学のデビッド・リー教授。太陽エネルギーで動く「ナノマシーン」によって、特定方向に運動する分子だけを捕まえることに成功したんだとか。

 これって、太陽エネルギーを使うから、エントロピー増大の法則には反しないことになるのかなあ。そのへんがよくわからない。誰か解説してください (^^)。

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脳科学関係ニュースをいくつか

 脳科学関係で面白いニュースがいくつかあったので、簡単に要約してご紹介。

パーキンソン病に針治療が効くかも?(news@nature.com)

 パーキンソン病というのは、脳内のドーパミンレベルの低下に関係すると言われているが、このドーパミンレベルの低下針治療によってが抑制できることを、韓国の研究者がマウスの実験で実証したという。

 その実験の概略はこうである。まず、マウスに MPTP という物質を注射して、ドーパミンを生成する細胞を殺す。その後、マウスを 3 つのグループに分け、それぞれ異なる治療を施して、ドーパミンレベルの低下を観察する。

 1 番目のグループには、筋肉の動きに関係のあるツボだとされる、ヒザの裏と足の上に 2 日に 1 回針を打つ。2 番目のグループには、ツボとは関係のないところに針を打つ。3 番目のグループにはなにもしない。

 一週間後、2 番目と 3 番目のグループでは、ドーパミンレベルは半減したが、1 番目のグループでは、約 8 割程度が残ったという。

 もっとも、韓国ではすでにパーキンソン病の治療に針治療を取り入れているところがあり、薬物の効果を長続きさせる程度の効果は期待できるが、有為な差が出るほどのサンプル数はなく、それで「治る」とはまだとても言えないとのこと。

 また、この方法をパーキンソン病の治療に応用するには、かなり早期に診断して病気を発見する必要があるという。なぜなら、パーキンソン病の症状が現れるころにはすでにドーパミンのレベルはかなり低下しているので、それから低下を抑制しても遅いからだ。

 とは言え、この研究が、針治療の科学的根拠を解明する上で重要であることは、専門家も認めているという。

 マイケル・J・フォックスもびっくり?

「幻肢痛」がバーチャル・リアリティで治る?(National Geographic) 

 「幻肢痛」というのは、四肢の切断手術を受けた患者がしばしば経験する症状で、患者は、あたかも失われた手足がまだ存在していて、ありえない形に捻じ曲がっていたり、指が掌に食い込んでいたりするような感覚とともに、激しい痛みを覚えるのだという。

 この症状については、16 世紀頃から知られているが、その原因はまだはっきり解明されておらず、鎮痛剤や脳に電極を埋め込んで刺激するなどの療法がとられてきた。

 カリフォルニア大学のラマチャンドランによれば、そもそも幻肢痛が知覚神経終末に起因すると考えるのが間違いなのだという。彼によれば、真の原因は脳にある。脳の中には、失われた四肢からの信号を受け取るはずの場所があり、四肢が失われることによって、その場所は身体の別の部分からの信号を間違って受け取るようになる。そのため、顔の動きなどが痛みとして感じられるのだという。そして彼は、この理論を元に、鏡を使った治療法を考案していた。

 このラマチャンドランの治療法をバーチャル・リアリティを使ってより発展させたのが、ミシガン大学のペティファーである。彼の治療法では、まず、患者にヘッドマウント・ディスプレイとデータグローブを装着させる。ディスプレイには仮想現実が映し出されるので、患者には、その世界の中で、データグローブを使って仮想的な運動をしてもらう。

 その運動は、現実の世界では、もちろんまだ存在している方の四肢によって行われるのだが、仮想現実の中では、あたかも失われた四肢が行っているように変換されて表示される。

 ペティファーの研究によれば、この治療を受けた 5 人の患者は、その後 2 日間程度にわたって症状が緩和されたという。

 ラマチャンドランによれは、彼やペティファーの研究は、脳神経学界に 50 年以上も続いてきた、脳と身体が固定的に結びついているという概念を覆すものだという。そして、「幻肢痛」以外の神経学的な機能不全も、このような方法で「リセット」できる可能性があると主張している。

 いやー、まるで「マトリックス」の世界ですなあ。「そこにスプーンはない」ではなく「そこに四肢はない」ですよ (^^)。

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2ちゃんねると仮差押え

 知っている人は知っていると思いますが、現在あの「2ちゃんねる」について、差し押さえ・破産申し立て騒動が起きています。

 この騒動についての報道は、なぜか、ほとんどがフジサンケイでやっている ZAKZAK というサイトからのものです(同じグループのリアルの新聞である「夕刊フジ」にも掲載されているらしいが、こちらは未読)。 その主な記事は以下の通り。

  1. ユーザーショック…2ちゃんねる、再来週にも強制執行
  2. “閉鎖騒動”2ちゃんねる、史上最大のネット暴動
  3. 2Ch管理人に破産申し立て…35歳被害者が手続き
  4. 2ちゃんねる断末魔、お粗末抗弁…ひろゆき勘違い問答

  この 4 の記事では、ひろゆきの「差し押さえというのは債権額だけが対象なのだから、全財産が差し押さえというのはおかしい」という言葉が紹介され、それに対して ZAKZAK が「ひろゆきは差し押さえと仮差押えの違いもわかっていない」というような反論を掲載しています。ぼくは ひろゆきに味方する気もないですし、ZAKZAK さんに他意があるわけでもないのですが、この記事は少々変だと思いました。

 実は、ぼくは仮差押えというものを実際に申請してみたことがあって、そのときにかなりいろんな本を読んで勉強したので、仮差押えについては、専門家とはとうてい言えないにしても、一般の方よりは多少詳しいつもりです。

 この記事に書いてある「動産の場合、仮差し押さえ対象の特定は不要だ。西村氏は不動産がないとされるため、結果的に仮差し押さえ命令が下りれば、対象は西村氏の全財産に及ぶことになるのだ。」というのは確かに間違いではありません。

 ただそれは、差押えの申し立てのときに、どの財産とどの財産を差押えるかをいちいち指定しなくてよい、というだけのことで、実際には「動産仮差押命令の執行申立書」にはちゃんと「請求金額」を書かなくてはなりませんし、強制執行の時には、執行官はその金額に合わせて適当に差押え物件を見繕うわけで、有無を言わせず全財産根こそぎ持っていくわけでわありません。

 ですから、「全財産が対象になる」とは言えても、1の記事のように「全財産が仮差し押さえされる」というのはやはり言い過ぎでしょう。もちろん、ひろゆき氏の所有する動産が差し押さえ請求額より少なければ、結果的にそのすべてが差押えられるということはあり得ますが、ひろゆき氏の財産が動産だけとは考えられないので、やはり「全財産」という表現は誇大表現のそしりを免れないでしょう。

 ついでに言えば、4 の記事では「そもそも「閉鎖」という憶測は2Chなどネット上で喧伝されたもので、夕刊フジ(13日付)報道では閉鎖について一切言及していない。」と言っていますが、1 の記事では「執行されれば掲示板の機能が一時停止するのは必至だ」などと書いているのですから、一字一句正確ではないとしても、「『2ちゃんねる閉鎖』って書」いていないというのは少々無理な抗弁ではないでしょうか。

 あと、仮差押えの場合には、正式の差し押さえと違って、保証金を供託しなくちゃならないんですよね。これは、疎明(強制執行が正当であることの大雑把な証明。仮差押えは、正式な裁判を経ないで行われるので、疎な証明、すなわち疎明と呼ばれる)の信憑性にもよりますが、差し押さえ債権額の二割程度が相場だと言われています。だから、請求金額が 500 万円なら、100 万円ぐらいの保証金を積み立てなきゃいけないんです。

 だから、仮差押えって実際にやると結構大変なんですよ (^^)。その上、あっちこっち飛び回って疎明のための資料を集めなきゃならないし(登記なんて1枚謄本とるだけで千円とかとられるんだよ)裁判所の職員に書類の不備をネチネチいびられたりするしさ (^^)。ぼくももっと簡単だったらいいと思うんですけどねえ。

 しかし、フジサンケイの人は、よっぽど2ちゃんねるが嫌いなんでしょうね。この記事の書き方も、ひろゆきの挑発に対してかなりムキになっている様子がうかがえますよね (^^)。

 もちろん、ぼくも2ちゃんねるは決して好きではありませんが、そういう好みの問題だけで言えば、たいして公共性もないような芸能人や一般市民のプライバシーを暴き立てて金を稼いでいるイエロージャーナリズムだって決して好きではないのであって、ぼくのような第三者から見れば、どっちもどっちだという気もしないでもありません。

 イエロージャーナリズムにたずさわっている方々は、われわれは匿名で書き込んでいる2ちゃんねらーのように無責任ではない、と言うかもしれないけれど、その手のメディアで記者の実名で記事が書かれていることはほとんどないし、実際に名誉毀損などで裁判になったときに慰謝料を払うのも、記者個人ではなく出版社や新聞社で、その慰謝料だって販売部数の増加による利益でチャラになってたりするわけじゃないですか。だから、そんなに偉そうに言える立場なのかなあ、という気もしますけどね。

 まあでも、仮差押えとかごちゃごちゃやってさんざ苦労した人間の立場からすれば、「払わせる法律がないから払わなくていい」みたいなひろゆきの発言は言語道断で許しがたいのは確か。だから、これでも基本的には訴えた側を支持しているんです。ただ、こういう記事を書く人があんまりムキになると返って墓穴を掘ると思うんで、ちょっと指摘させていただいた次第。

参考文献:「仮差押実務の手引き」二瓶修著

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ハチ公バスとバラバラ殺人

 この記事は、アクセス数稼ぎと思われてもしかたがないし、深刻な問題を軽薄な取り上げ方をして不愉快だと思う方もいるでしょう。あらかじめ謝っておきますので、そういうものを読みたくない方は、どうかここでタブを閉じてくださいませ。

 実は、最近世間を騒がせている二つのバラバラ事件の起こったあたりには、私の親戚や友人が住んでいるので、電話でもあったときに話のネタにしてやろうと思って、仕事の合間に場所を調べていたら、変なことに気づいてしまいました。というのは、この2箇所、どちらも渋谷区コミュニティバス、通称「ハチ公バス」の「春の小川ルート」の通り道にあるのです。

 この運行経路図を見てもらうとわかるのですが、富ヶ谷の事件現場は「富ヶ谷」の停留所のホントにすぐそばですし、幡ヶ谷の事件現場は「笹塚中学」の近くで、「幡代」からもそう離れていません。つまり、まるで二箇所の殺人現場を結ぶようにバスが走っているのです。

 これが推理小説だったら、この事実からなにか怖ろしい真相を暴きだすんでしょうが、私の場合、これ以上なにもありません。ただ、「バラバラ殺人」という怖ろしげな事件と、「ハチ公バス」とか「春の小川ルート」という暢気な名前の取り合わせが面白かったから書いてみただけです。ごめんなさい<m(__)m>。

 本当は、あんまり被害者のプライバシーを暴くのはやめませんか、という記事をアップしようかと思っていたのですが、すでに小田嶋さんとかも同じ趣旨で書いてて、特に付け加えることもないので、その記事はボツにしようかと思ってます。暢気すぎ?

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iPhone 紹介動画

 サンフランシスコの Mac World でやっている iPhone のデモ映像らしい。

 か、かっこいい…。

追記: Slashdot の記事によると、向こうではかなり辛辣な意見も多いという。まあ、500 ドル弱というのが少々お高いのは確か。でも、タッチパネルだけでボタンがまったくなくて、指のゼスチャでスクロールやズームができるところなんて、やっぱりかっこいいと思ってしまう。スクロールが全画面切り替えじゃなくて、ドット単位でアニメーションしてるところなんかもいいよね。ああいう細かいところが意外と使い勝手に影響するのだけれど、それを思いついて実装できる人はなかなかいない。ぼくもジョブスの Reality distortion field に巻き込まれてしまったかも (^^)。 

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成長させない治療

 ある障害児について、両親が面倒を見やすくするために、「成長させない治療」を受けさせている、という話がアメリカでちょっと話題になっているようです。 ただし、両親自身は、この治療は子ども自身の QOL を高めるためであると主張しているようです。

 コメントしてる時間がないので、ニュース・ソースだけリンクしときます。

encephalopathy というのは、普通の辞書にはあまり載っていませんが、「脳症」「脳障害」のこと。ちなみに、BSE の E もこの encephalopathy です。static encephalopathy というのは、脳がまったく成長しない病気で、「非進行性脳症」と訳されているようです

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#define SEIJIN_NENREI 20

 昨晩「スタメン」をぼんやりと見ていたら、例の成人年齢の引き下げ案についてあれこれ議論していました。宮崎哲弥氏は、どうせ法律ごとに成人の線引きは異なっているし、その方が合理的だという意見。それに対して、成人という区切りを重視する派は、その方が本人に成人としての自覚を持たせるきっかけになるという意見が多いようでした。

 しかし、考えてみると、単に自覚を持たせるだけだったら、何も法律で決めなくても、それこそ慣習とか儀式とかの方がよほど効果的なような気がします。もちろん、儀式を行うこと自体を法制化するという考え方もあるけど、20 才になったらバンジージャンプをしなければならないなんていう法律を作ったりしたら、それこそ人権侵害になりかねないですよね。そう考えると、宮崎氏の考え方の方に分があるような気がしました。

 むしろ、ぼくのようなソフト屋が思ったのは、「成人」という言葉を特定の法律で定義することによって、法律がよりモジュール化されポータブルになるという効用はないのだろうか、ということでした。

 ソフト屋的な発想からすると、特定のコード(法律)が適用される年齢を、コードにじかに何歳と書きこんでしまうのは、イミディエイトとかリテラルとか言って、ポータビリティの観点からして最も嫌われる行為なんですよね。こういう時、ソフト屋だったら、

#define SEIJIN_NENREI 20

#define isSeijin(n) ((n)>=SEIJIN_NENREI)

とかいうマクロをどっかのコードで定義しておいて、他のコードでは必ずそれを引用するようにしたり、あるいは、

static int sSeijinNenrei = 20;

bool isSeijin( int n )

{

return ( n >= sSeijinNenrei );

}

みたいな関数をどっかのコードで定義しておいて、他のコードからは必ずこれを呼び出すようにしたりするでしょう。

(実は、白田秀彰さんの「インターネットの法と慣習」では、こういうソフトウェア工学的な用語を使って英米法と大陸法の違いが説明してあるので、こんなことを考えたのは、それを読んだ影響もあります。)

 これは、例の教育基本法に関する論争のときにも思ったことなのですが、たとえば、教育基本法が「基本」であるということは、いったいどのような制度によって保証されているのでしょうか。

 現代のコンピュータの場合、メモリ空間や IO 空間に対するアクセスを制限する機能が用意されていて、OS のコードにはそういう空間にアクセスする権限が与えられていますが、アプリケーションからそういう空間にアクセスしようとすると、例外(一種のエラー)が発生してアクセスできないようになっています。したがって、いったん OS を起動してしまえば、アプリケーションが OS を無視して勝手にハードウェアにアクセスすることはできず、アプリケーションがハードウェアに依存しないことが自動的に保証されるんですよね。

 法律の場合も、憲法と他の法律の関係は、そういうふうになっていますよね。いわゆる違憲立法審査とか憲法判断とかいうのは、そういう憲法を無視したアクセスに対する例外処理に見立てることができるでしょう。それが実際に効果的に機能しているかどうかは別にして。

  でも、それ以外の各法同士の関係はどうなっているのかというのが、ぼくのような素人の素朴な疑問なわけです。もし、憲法だけが特権的なレイヤーで、他の法律がすべて横並びという構造だとすると、何かと不便なのではないか。それより、各法同士も何段階かの階層構造になっていた方が、見通しがよくなるのではないか、とかね (^^)。

 冒頭の成人年齢の問題にしても、成人の定義を決める「成人法」みたいなのを作っておいて、他の法律では、特に必要がない限り、成人の定義は「成人法」に従う、みたいにしておけば、法体系全体の見通しがよくなるし、成人の定義を変えたくなったら、「成人法」さえ改正すればよいということになるから、法律のバージョンアップも容易になるはず。

 というわけで、ぼくは基本的には宮崎説に賛成なのですが、法律のソフトウェア工学的な構造を改善するためには、成人年齢というのを特定のモジュールで定義する意味もあるのではないか、という立場です。もちろんこれは、完全なしろーと談義ですけど、法律にソフトウェア工学的な発想を持ち込むというのは、あながち的外れでもないのではないかなあ、と密かに思ってたりします (^^)。

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ヨーロッパ最後の封建国家が民主化へ

 無知で今日までまったく知らなかったのだが、「ヨーロッパ最後の封建国家」と呼ばれていた島が、民主化されることになったらしい。

 その島というのは、イギリス海峡のチャンネル諸島の一つであるサーク島。なんと、エリザベス一世の時代に領主に与えられた権利を、そのままずっと引き継いできたらしい。日本で言えば、江戸時代以前の体制でずっと暮らしていたようなものだよね。

 それをなぜ今さら変えることにしたかというと、圧制に耐えかねた住民が自由を求めて一斉に蜂起したとかいうことではまったくなくて (^^)、たまたまサーク島の隣にあるブレッチョウ島という小さい島に住んでいた、新聞社などを経営して有名なデビッド&フレデリック・バークレイ卿という双子の実業家が、その体制はヨーロッパ人権条約に反しているのではないかと指摘したから、というはなはだ散文的な理由だという。

 それで封建領主側も条約に反しないようにいろいろ調節を図ったのだがうまくいかず、最終的に住民投票にかけた結果、民主的な議会を設立することになったんだとか。

 イギリスのことに詳しいとはとても言えないぼくだけど、なんだかとても面白い国だとは思う (^^)。 なお、映像だけ見てるとのどかで牧歌的な島に見えるかもしれませんが、実はタックスヘイブンとしても有名な島であるということも申しそえておきます。

余談: たまたま正月に読んだ白田秀彰さんの「インターネットの法と慣習 」 にも、英米の慣習法の起源のお話が出ていて、そんなのは法学部の人にとっては常識らしいのですが、ぼくのような素人にとってはかなり興味深かったです。法と慣習の関係というのも、自分なりに整理しようと思ってヒマを見てはいろいろと理屈をこねているのですが、なかなかすっきりと理解できません。白田さんは、法制度をシステム論的に語れる数少ない人だと思っているので、今後もご活躍を期待しております。もっとも、全体として見ると、やはり本書の原型である HotWired でやっていたウェブ連載の方が内容がディープで面白かったですね。もちろん、これはあくまで個人的な好みであって、白田さんや出版社サイドにはまたいろんな思惑があるんでしょうけど。

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70% → 47%

 共和党支持者のイラク戦争支持率が、一ヶ月で 70% → 47% に急落したらしいっす。

(詳しい結果はこちら)

 やっぱ例のレポートが原因なのかなあ。しかし、最近のブッシュさんは、目に見えて落ち込んでますよね (^^)。見てると、ほんとにコイツはただのおっさんだなあとか思っちゃう。ただのおっさんであるオレが言うのもなんだが (^^)。

 関係ないけど、こういう統計データにちゃんと誤差範囲 (margin of error) が書いてあるのはいいよね。日本でもやればいいのに。

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「議論してもいいか」という変な議論

 しばらく前に、○○○について議論していいかいけないか、という変な議論が流行ってましたよね。「Will」の中でも、何人かの論客が、これは言論封殺だ、とか言って怒ってるんだけど、それは変じゃないかなあ。

 だいたい、言論の自由という原則からすれば、そんなの議論していいに決まってますよね (^^)。でも、議論してはいけない、と言っている人たちだって、別に口で言ってるだけなんだから、その「議論してはいけない」という発言だって、言論の自由からすればしていいに決まってるじゃないですか (^^)。だから、お互いに言論の自由を行使してるだけの話だと思うんだけど (^^)。

 これがまた、加藤某氏みたいに、家でも焼かれたんなら話は別ですよ。そういう、言論以外の暴力的な手段に訴えられたんなら、それは言論封殺と言えるかもしれません。でも、たかが反対意見を言われたり、メディアで発言する機会が少なかったぐらいで、何が言論封殺だか (^^)。

 そんなことを言えば、左翼やハト派の人たちだって、そんな発言をするだけで北朝鮮や中国を利することになるからそんな発言はやめろ、みたいなことはしょっちゅう言われているし、その思想のおかげで明らかにメディアへの露出が減ったりしてるんだから、お互い様だと思うんですけどね (^^)。

 大臣の職にある者が、その発言に対して責任をとわれるのも、単なる職責の問題で、言論の自由とは関係ない話ですよね。政治家同士が議論するのもそうで、その議論がどんな影響を及ぼしたかについて、有権者が判断して責任をとらせるのは当然の話でしょう。逆に、一般市民が議論していいとかいけないとかいうことについては、大臣に指図される方がおかしいしね。だから、変な議論だなあと思った (^^)。本当に議論したいなら、自らの職や政治生命や名誉をかけてでも、堂々と議論すればいいだけの話でしょ? 違うかなあ?

 議論が盛り上がらなかった本当の原因は、ハト派や左派だけじゃなくて、保守派でも親米派は○○○に反対の人が多いからでしょ? それを言論封殺だとか言ってしまうのも、なんかカルト的な臭いがしてしまうんだけど (^^)。

 あと、「Will」には○○三原則の「持ち込ませない」だけは変えるべきだみたいな意見が結構多かったけど、これもあまりピンとこなかった。だって、「持ち込ませない」をやめたからって、金正日さんがいきなり、「○○三原則が変わったから、今度入港する軍艦には○○○が搭載されているかもしれないぞ。気をつけろ」とか思うか (^^)? そんなことないと思うんだよね~。だとすれば、少なくとも対北朝鮮については意味のない政策だと思うんですけどねえ (^^)。 表面的には○○国家の体裁を維持しつつ、実質的には抑止力を行使できるというのは、外交的にはきわめて都合のよい状態ではないかと思うのですが。タカ派のみなさんはそうは思わないのかなあ (^^)。

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Real SuperPass にアルジャジーラ英語版登場!

 前から加入してときどき見ていた Real SuperPass Europe のチャンネルに、いつの間にか、例のアルジャジーラの英語版が追加されていたので、早速チェック。

 調べてみると、イギリス版、オランダ版、イタリア版、フランス版、スペイン版、ドイツ版など、ヨーロッパのエディションにはだいたい同じように追加されているようですね。 一方、よく読めないけど、アジア太平洋版、中国版、韓国版、香港版、台湾版、ラテンアメリカ版、ブラジル版などには追加されていないようです。もちろん、アメリカ版にも (^^)。 このへん、ヨーロッパとアメリカの意識の違いが垣間見えるような気がして面白いですね (^^)。

 ちょっと見た感じだと、演出とか構成とかは、かなり CNN International や BBC World を意識しているみたいで(音楽なんか、ほとんど日本のテレビ番組の中で著作権問題を回避するためにでっちあげた曲みたいで笑ってしまうが (^^))逆に言えば、欧米のメディアを見慣れている人にとって、それほど違和感なく視聴できるようになっているようです。

 一方、取り上げる主題は CNN や BBC とは大違い。コンゴの選挙、レバノンの反政府運動、ベトナムの台風、フィジーのクーデターなど、欧米や日本のメディアではあまり大きく扱われないニュースをバンバンやっています。これははっきり言って面白い。

 たまたま、NASA で働いていてスター・トレックの宇宙船の名前にまでなったという、エジプト人の地質学者 Farouk El-Baz という人のインタビューをやってたんですけど、アラブ人が NASA で働いていて差別されませんでしたかみたいな質問をされると、「そこは実力されあればそれなりに評価されるのがアメリカのいいところ」みたいに、アメリカに行って成功した日本人と同じようなことを言ってたのがおかしかったです。こういうのを見ると、まだまだ普遍主義にも希望はあるなと思いますね (^^)。

 英語に関しても、少なくともメインのキャスターの方々はわりと聴き取りやすい英語で話す人が多いですね。現地リポーターや討論会のコメンテータなどは、ちょっと訛っていてぼくなんかには聞き取りづらい人も多いですが。

 というわけで、反米派の人や欧米のメディアを信用できない人にはお勧めです (^^)。これを見る人が増えたら、欧米の世論形成にもかなり影響を与えるんじゃないですかねえ。アメリカ人はハナからあまり見る気がないようですが (^^)。

 あと、調べてみると、Real SuperPass のほか VDC とか JumpTV などのアグリゲータ・サイト経由でも視聴できるようですね。 アグリゲータというのは、既存のテレビチャンネルを集積してインターネット上で公開するサイトのこと。

 VDC は、アメリカ国内の放送を中心としたアグリゲータで、視聴もアメリカ国内に限定されているようです。CBS とか NBC のサイトと同様、IP アドレスの所在地チェックがかかります。 

 JumpTV については今回初めて知ったのですが、アジア、アフリカ、ラテンアメリカといった非西欧圏の放送が低価格で視聴できる、なかなか便利そうなサイトです。イラクやイランの英語放送局もあるので、そのうち機会があれば見てみようと思います。

 しかし、ホリエモン騒動からほんの 1 年あまりの間に、「通信と放送の融合」が着実に進行しておりますね。アメリカでは自社サイトはもちろん、iTMS や Amazon などでも番組が買えるようになったし、日本でも Gyao や Yahoo! は相当視聴者を増やしたでしょう。ついでに言えば、日本での TOB の件数も過去最大を記録したとのこと。

 「放送と通信の融合なんて無理」とか「TOB は日本の企業文化に合わない」とか言っていた方々に、この事態をいったいどー説明すんのかと聞いてみたいような気もしますね。もっとも、当時そう言っていた人と今「放送と通信の融合」や TOB を推進している人たちが同一人物である保証もないので、そういう大人気ないことはやめておきますが (^^)

 まあ、時代状況の変化を鋭敏に察知して、それに応じた戦略をとるというのは、経営者として優秀な証拠であって別に恥ずべきことではないと思うんです。むしろ、自分の信念にこだわったせいで時代からとりのこされ、会社をつぶしてしまい、多くのステークホルダーに迷惑をかける方が、経営者としては恥でしょう。

 だから、口ではいくら反発していても、時代状況が変わればこうなるだろうというのは、別に大方の予想通りなんだよね。だからこそ、別にたいした信念もないくせに、誰かさんの意を受けててきとーなコメントをしている方々にはぼくもムカついたわけですが (^^)。ホリエモンにもうちょっとマトモな倫理観があれば、こういう連中をのさばらせなくてすんだかもしれないのになあ (^^)。まあいいや。 みなさんせいぜいお稼ぎくださいませ。

追記: 偶然ですが、現在発売中の「クーリエ・ジャポン」の 12.21 号に、「英語版アルジャジーラのアンカーマンはユダヤ系米国人」という記事が載っていました。なかなか面白い記事です。

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筑紫哲也vsホリエモンにびっくり!

 報ステから何気なく News23 に切り替えたら、ホリエモンが生でしゃべっていてびっくり。もっとも、昨日のサンプロに出たという話は聞いてはいた。風邪で寝込んでいたので観てないけど。

 さらに、ホリエモンがしゃべっていることがまた、あまりにも具体性がないのでびっくり。もっとも、具体的なことをしゃべってしまえば、お前何も知らないとかいいながら結構知ってるやんけ~、ということになるのだから、しゃべれないのも無理はないが (^^)。

 じゃあなんで出てきたのか、と言うと、これはもう一部の人の同情を買うためとしか思えない。言ってることがほとんどカルトの教祖みたいで、これはもう完全に、具体的な事実を検討する能力には欠けていて、信じるか信じないかだけで物事を決めるような「信者」向けのメッセージであろう。こいつほんとに、なんかカルトみたいなの作る気じゃないか? (^^)

 さらに、筑紫さんのツッコミがあまりに甘いのでびっくり。もっとも、こういう質問をするなら出演しない、みたいな事前の協議があったのかもしれないが、それにしても(<-これ、筑紫さんの口癖)、こんなにホリエモンの言いたい放題を垂れ流したら、またオウムの時みたいに非難されやしないかと、他人事ながら心配になった (^^)。

 あと、先入観抜きに見ても、ホリエモンの発言は質が落ちているよね。たぶん、ブレーンが変わったか、いなくなったんだろうね。誰が入れ知恵してたんだろう。別にどーでもいいけど (^^)。 それとも、わざとバカだと思わせるという高度な作戦なのかな? 裁判に勝てさえすればバカと思われてもいい企業家というのも、ど~かと思うが (^^)。

追記: コンビニで見かけた「日経エンタテイメント」で「2006 年ヒット総まくり」という特集をやっていたので、つい買ってしまう。こういう、リアルタイムで情報を追っていない人間でも知ったかぶりができてしまうような企画は、ぼく大好きです (^^)。「06 年に離婚した主なカップル」でいしだ壱成とTAKUYAの相手が匿名になっているのは素人だからいいとして、平松愛里さんの相手まで「音楽プロデューサー」になっているのが気になりました。これって清水信之さんでしょ? みんな知ってるし、たぶん本人達も隠してないと思うのですが。。。(^^)。信之さんは昔キーボード・マガジンかなんかに連載してて、愛読してたんですよね。ベイビーフェイスとか紹介してて、べんきょーになりました。

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ニュース速報

 中間選挙の結果を受けて、ラムズフェルド氏が切られるようです。

 -やっぱね (^^)。

 CNN でブッシュ氏の記者会見を見てるんだけど、相当うろたえてしてますね。 2ちゃんねる風に言えば「ブッシュ、必死だな」という感じ。

 この人はすぐ顔に出るよね~。そこが一部の人にとっては可愛いのかな (^^)?

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「イジメられっ子は悪くない」が…

 最近のいじめに関する議論を読んでいると、「いじめは悪い」派と「いじめられる方も悪い」派の両極端に分かれているところが気になります。以前は「いじめられる方も悪い」派がわりと優勢だった記憶があって、それに比べれば議論が健全になったとは言えると思うのですが、今度はちょっと逆の極端にふれすぎてる気もするのですね。

 たとえば、泥棒に入る方と入られる方では、泥棒に入る方が悪いに決まっていますが、だからと言って、みんな鍵を閉めなくていいということにはならないでしょう? 「誰も鍵を閉めなくても泥棒に入られないのが理想の社会なのだから、鍵を閉めろなんてことは絶対に言うべきじゃない」なんていう主張は、極論だと思う人が多いはずなんですよね。でも、昨今のいじめに関する議論は、それに近いものになってないでしょうか。

 もちろん、いじめる方といじめられる方では、どんな理由があるにせよ、いじめる方が「悪い」に決まっています。先生も見てみぬフリをしている同級生も、止めさせられるものなら止めさせた方がいいに決まっています。

 でも、いじめる奴が悪いとか見てみぬフリをする奴が悪いとか言ってればいじめがなくなるんなら、とっくになくなってるはずだと思うんですよ。だから、それはそれとして、やっぱり子供にもいじめと闘う最低限の方法ぐらいは身につけさせる努力をした方がよいと思うのです。結局は、それがいじめを減らす最も効果的な抑止力にもなるだろうし、自殺したりする子供を減らすことにもなるでしょう。それは、従来の家庭観からすれば、親の役割ということになるんでしょうけど。

 ここで大事なのは、「悪い」のはあくまでいじめる方であっていじめられているわが子ではない、という態度を崩さないことです。安易に「自分にも悪いところあるんじゃないの」みたいなことを言ってはいけません。人間には誰しも欠点があるものであって、それはいじめを正当化化する理由には決してならないのですから。でも、世の中に出てもそういういやな奴はたくさんいるのだから、今のうちにそういう奴らと闘う方法は覚えておいた方がいいと思うんだけど。少しがんばってみない? という感じで言うべきだと思います。

 もちろん、その後も定期的に状況の変化や子供の精神状態をモニタして、精神的にへしおれそうになっていると思えばフォローし、いじめの域をこえて犯罪みたいになっていればしかるべきところに訴えるというように、適切なアフターケアをする必要があります。

 ただ、こういうことを言われてすぐに納得するような親なら、言われる前からマトモな対処をしているはずなので、実際には、こういう主張をすることによって救われるのもごく一部の子供でしかないんですよね。そう考えると、やはり、先生とは独立した権限を持ったカウンセラーを導入するといった制度的な対策も必要ではないかと思います。

 あと、某有名人の痴漢事件があったときに、女子高生があんな短いスカートをはいているのが悪いと言って叩かれてた人がいましたけど、あれも同じような話だと思うのね。もちろん、どんな短いスカートをはいていようが、痴漢する方が「悪い」に決まってるんだけど、それはそれとして、やっぱり女子高生のスカートは短すぎるだろ、という批判はあっていいはずであってね。ぼくもよくしてる主張だけど (^^)。

 まあなんか、いろんな意味で極論の流行る世の中だな、と思います。 


(以下、mixi の投稿から転載)

いや、ぼくはわりと同感ですけど (^^)。ただ、支配・被支配の関係を基盤としている、というより、正統化されない支配・被支配の関係を作り出そうとする行為、と言った方が正しような気がしますけど。

つまり、教師は確かに生徒に対して権力を持ってますけど、この権力が、正統化された範囲で正しく行使されている分には、別にイジメにはならないわけでしょう。

授業中の私語をやめさせるとか、遅刻した生徒を叱るとかいうのは、教師の職務を遂行するために与えられた正統な権限の行使であって、その範囲を守っていればイジメにはなりませんよね。

ところが、自分の気に食わない生徒は内申書の点を悪くしてやろうみたいな教師がいると、生徒は本来必要もないのにその教師の機嫌をとらなくてはならなくなるわけで、こういうのがまさに、正統化されない支配・被支配の関係を作り出そうとする行為であり、イジメそのものだと思うのです。

生徒同士の関係でもそうで、本来生徒同士の間には正統な権力関係はないはずですよね。そこに腕力の差とか人気の差とかによって権力関係を作り出そうとするのがイジメだと思うんです。

したがって、「移動」によって関係を解消するという方法ももちろん、そういう正統化されない権力を無化する一つの方法ではあるんですが、それだけが唯一の方法ではないと思うんですね。

たとえば、「シカト」みたいな関係性攻撃が、なぜイジメの手段として機能するかといえば、イジメられる方にも相手と仲良くしたいという気持ちがあるからなんですよね。だから、そんなバカなことをするアホとは付き合う必要がない、と割り切れれば、別に無視されたって平気なはずなんですよ。

つまり、民主的な社会における権力というのは、相互承認によってのみ正統化されるわけですから、当事者の一方が承認しなければ無化できるはずなんですよね。

だから、ぼくが前から言っているのは、親とか教師とかが子供に「仲良くしなさい」と言うのをやめたらどうかということなんです。

だって、自由な社会において、個人が誰と仲良くし誰とは仲良くしないかということは、個人の自由意志で決めてよいことのはずなんですよ。それを、「仲良くしなくてはならない」という命令にしてしまうからこそ、意図的に仲良くしないことが関係性攻撃として機能してしまうわけでしょう。

もちろん、暴力とかカツアゲとかはまた別の話で、こういうのはれっきとした犯罪ですから、法律にしたがって処罰すればいいだけの話ですよね。

会社の場合でも、上司が部下を評価する権限をもつこと自体は正統ですよね。たとえ、その評価がときに間違っていたとしても、意図的なものでなければ、必ずしもそこに不当な権力があるということにはならない。

問題なのは、その評価権限を、自分の私的な権力を強化するために不当に利用するということですよね。たとえば、ゴルフに付き合わないとか引越しの手伝いに来ないとかいう理由で、考課を悪くするとか。

そういう意味で、成果主義というのは、そういう不当な裁量を紛れ込ませにくくする一つの方法ではあるけれども、それもやはり唯一の方法ではない、というように思いますね。

(ぼくは、完全な成果主義というのは、企業のリスクヘッジ機能を無化しまうのであまり意味がないと思っています。)

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がんばれマイケル

 マイケル・J・フォックスがこの CM のせいでラッシュ・リンボーとかにイジメられてるんだそうだ。

 まあ、ぼくはもともとプロ・ライフ派でもないし、ES 細胞が倫理的にどうこういう主張にもあまり共感していないのだが。

 どっちにしろ、相手がラッシュ・リンボーじゃねえ、とか言っちゃおしまいか (^^)。

 マイケルは相変わらず童顔ですね。あんまり痛々しくなく、わりと元気そうでよかった。

 その後の CBS のインタビューも発見。これは CBS が自分でアップロードしてるから、著作権的にも無問題です (^^)。

 なんか胸を打たれますね。あ、オレはこういう芸風ではなかったのだが (^^)。

(ノーカット完全版を見たい方はこちら。別のビデオの中で言ってたけど、このケイティ・クーリックのお父さんもパーキンソン病なんだって。)

 「マネしてる」ってのはこれのことね。

 イヤなやっちゃな~ (^^)。ビル・オライリーがみょーに中立的なコメントをしていて変だと思っていたのだが (^^)、さすがにかばいきれなかったんだろうね (^^)。(つまり、中立でも十分かばっている (^^))


 検索してみたら、日本語ではあまりこのニュースを扱ったページがないようなので、背景を簡単に解説しときますね。

 まず、マイケル・J・フォックスさんというのは、言わずと知れた「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で有名な俳優さんなのですが、若くしてパーキンソン病にかかってしまったんですね。それで、パーキンソン病の治療研究を精力的に支援するようになって、財団までつくっちゃった。さらに、最近話題の胚性幹細胞(ES 細胞)というのが、パーキンソン病の治療にも役立つかもしれないというので、その研究も支援しようとしたわけです。

(注:ビデオの中では stem cell と言っているが、厳密には、stem cell だけだと単なる「幹細胞」であり、embryonic stem cell で「胚性幹細胞」になる。)

 ところが、この ES 細胞というのは、人間の受精卵から取り出さなくてはならない(そうしなくても済む方法も研究されているが)ので、妊娠中絶とかにも反対している、共和党支持層・保守派・宗教右派・プロライフ派の一部からするとじょーだんじゃないということで、州法などで研究を禁止しようとする政治家も出てきた。そこで、マイケルは ES 細胞の研究を支持する民主党候補の CM に出演したんですね。

(注:マイケルは別に党派的な人ではなく、ES 細胞の研究を支持する共和党の候補も支援している。)

 それに噛み付いたのが、右翼的な過激発言で人気を博している、ラジオ・ディスクジョッキーのラッシュ・リンボーさんというわけ。

 ところが、リンボーさんも、単に ES 細胞の研究を批判するだけならまだよかったんでしょうが、この CM のマイケルは、わざと薬を飲まないとかして、意図的に同情を買おうとする演技をしているんだなんて言っちゃって、あまつさえ、マイケルが震えているしぐさのマネまでしちゃったからさーたいへん。ということですな。簡単に言えば (^^)。

 ちなみに、ビル・オライリーさんというのは、保守的な発言で有名なニュース・キャスターで、悪名高いフォックス・ニュース・チャンネルでホストをしてる人です。

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憎いし苦痛

 そ、それは気づかんかった。ま、まけた orz。

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Platform Shoes

 欧米のメディアがキム・ジョンイルを紹介するときに、必ず Platform Shoes を愛用している、とか言うのがおかしくてたまらん (^^)。おっと、でも笑い事じゃないですよね。

 早速、日本も核保有する危険があるとか言われてますね。 (あんまりおおっぴらには言われないけど、日本の保守派が原発にこだわる理由の一つはこれなんだろうね (^^))。

 なんか、8 番目の核保有国といってる人と、9 番目の核保有国といってる人がいるみたいだけど、その違いはイランを入れるか入れないかなあ? まさか、イスラエルじゃないよねえ (^^)。

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ごめんよ、ジョージ・クルーニー

 ちょっと古い記事だけど、ガーディアンはワシントン・ポストとほとんど正反対のこと言ってますね。

 (この表題はもちとん、「ダルフールに最終的に必要なのは西側の軍隊だ」ではなくて「ダルフールに西側の軍隊を送るのは最後の手段だ」ってことですね (^^)。)


Sorry George Clooney, but the last thing Darfur needs is western troops

The Guardian
19 Sep 2006


 スーダンの西部地方にあるダルフールに国連軍を送り込むことを求める、最近の運動の盛り上がりの周囲には、偽善とは言わないまでも、非現実的な雰囲気が漂っている。俳優ジョージ・クルーニーは、国連の安全保障理事会の壇上に上がり行動を訴えた。トニー・ブレアも、この問題に飛びついて他の EU 指導者に手紙を出した。世界の多くの都市では、迫りくる大量虐殺を警告する抗議団体によって、「世界ダルフールの日」が開催された。けれども、イラクやアフガニスタンへの介入によって痛い目に合った西側の政府が、またさらに別のイスラム国家に対して軍事力を行使するなどということが、本当に可能だろうか。

 西側の団体は、ハルツーム政権を転覆させる運動を長いこと続けてきた。アメリカのキリスト教右派や親イスラエル派の人々は、この政権をイスラム原理主義政権であると主張していた。人権擁護運動家は、奴隷制の問題をとりあげ、アラブ人の略奪者は、政府の支援を受けながら、日常的にアフリカ人を誘拐して、生きた所有物として利用していることを示唆していた。クリントン政権は、かつてウサマ・ビンラディンがそこに住んでいたという理由で、スーダンをテロ支援国家として挙げていた。

 このような背景に鑑みれば、3 年前にダルフールで内戦が勃発したときに、公平な報道を期待することは最初から困難であった。この地域には、さまざまな部族や地域の対立が渦巻き、政府側に立つ者と反政府側に立つ者が入り混じっているにもかかわらず、農民と遊牧民とを敵対関係に追い込んだ不平不満は、アラブ人対アフリカ人という単純すぎる図式で紹介されたのである。

 非対称の戦争でありがちなように、反乱軍の攻撃に対するスーダン政府の実力行使が、過剰反応だったことは確かである。ハルツームによって組織され武装された、ジャンジャウィードと呼ばれる民兵組織は、一般市民とゲリラ戦士の区別をしなかった。彼らは、小屋を燃やし、女性を犯し、何万もの一般市民をチャド国境の外側やダルフール内の難民キャンプに強制的に追いやった。けれども、実際には反乱軍も残虐行為を行っていたのである。この事実は、編集者の多くが好む白黒はっきしりた単純な倫理観を揺るがすので、ほとんど報告されていないが。

 多くの戦争では、政府側は情報操作を行い、メディアは真実を追究する(ことが多い)。ところが、ダルフール問題についてはこの逆であり、各国政府の方がより真実をつかんでいるのに、メディアが情報操作を行ったのだ。ダルフールでの殺人を大量虐殺として描こうとする努力にもかかわらず、この説には国連も EU も同調しなかった。これは、彼らの道徳的な視野が狭いためではなく、残虐な内戦と、意図的な民族浄化政策の違いを理解していたからだ。ダルフールは、ルワンダではないのだ。アメリカだけは、この大量虐殺説を受け入れたようだが、それは、説得されたというより国内のロビー運動に譲歩しただけだろう。国際法のもとでダルフールに強制的に介入するには、実際に大量虐殺が発覚することが必要なので、ワシントンが実際に介入に乗り出すことは決してなかった。

 その代わり、アメリカは、西側政府がアフリカ連合(AU)にハルツームと反乱軍の間の和平会談を仲介させることを支援した。この努力は、5 月に作成された、ジャンジャウィードが反乱軍より先に武装解除するという合意に実を結んだ。この合意はさらに、反乱軍の指導者たちに、この地域を自ら統治する権限を与えていた。なのになんということか、反乱軍うち 2 つのグループは、この調印を拒んだのである。したがって、公平なレポートはすべて、この夏の戦争再燃の責任のほとんどは、政治指導者がエリトレアの首都アスマラの安全地帯で口げんかをしている間に、戦場指令官が派閥に分裂してしまった反乱軍の方にあるとしている。

 彼らが、和平協定の条件が不十分だったと主張することには、正当な理由があるかもしれない。難民家族の中には、ハルツームは金銭的な補償を払うべきだと言う者もいる。また、この和平協定には強制手段がないので、村に戻って再建しようとする人々を守ることができないだろうと言う者もいる。しかし、正しい対応は、戦争を再開することではなく、さらに対話を続けることである。アフリカや西側の外交家は、反乱軍に再考を求めようとしているが、反乱軍同士の確執にうんざりしている。ダルフールについてのブレアの手紙にしても、ほとんどのメディアが事態を一方的にしか見ようとしていないにもかかわらず、反乱軍とハルツームの両方に圧力をかけること求めるように注意を払っている。

 ダルフールに国際平和監視団を派遣して、キャンプの避難民を保護することは不可欠であった。 2 年前、ハルツーム政府はこれを受け入れ、AU が 7,000人の軍隊を配備することを認めた。けれども、今年の初めになって、AU は資金やヘリコプターその他の装備不足のため、西側政府と歩調を合わせて、国連に主導権を引き継ぐことを求めるようになった。これこそが、今現在、議論すべき点である。西側でスーダンに軍隊を派遣したい国など、どこにもないのだ。レバノンへの国連軍の増援が行われるまでには何週もかかったし、アフガニスタンでは、NATO 諸国のほとんどが、失敗しつつある戦争に軍隊を送ることを躊躇している。実際には、たとえ国連軍を送ったとしても、現在の AU 軍にインドやバングラデシュあたりからの増援を加えただけのものになるだろう。

 つまり、国連介入を求めて騒いでいる者たちが実際に論じているのは、バッチを付け替えることに過ぎないのである。AU の軍隊にアフリカの問題を処理させることには、象徴的、文化的、政治的な価値がある。アフリカ各国政府は能力以上の負担を強いられているが、国連には、部隊を派遣した政府に助成金を出すための確立されたシステムがある。皮肉なことに、アメリカは強硬な措置を求めているにもかかわらず、ブッシュによる AU への資金提供の要請を拒絶したのは米議会であった。

 残虐行為に関与した罪で、国際法廷にスーダンの指導者たちを告発するという試みについてはどうだろうか。スーダンの大統領オマル・アル・バシールが、国連軍の派遣を阻止した理由の一つは、自分の逮捕を恐れたからだと言われている。オマル大統領は、たとえ国連軍の 9 割がアフリカ人だったとしても、その中に、自分とダルフール出身の副大統領を捉えよという西側の命を受けた逮捕部隊が含まれている可能性があると考えるかもしれない。そのため、ハルツームに国連軍の受け入れを求めた先日の安全保障理事会の決議では、国際裁判に言及することを注意深く避けているし、先週の EU 声明もまた同様である。

 実際には、今週の国連協議の結論は、現在のアフリカ連合軍でも新しい国連軍でもなく、その中間の妥協案になる可能性がある。その結果、アフリカ人が指揮する AU 軍であるが、国連の委任を受け安全保障理事会に対する責任を持つ部隊になるかもしれない。その派遣部隊にはアフリカ人以外の人が含まれるかもしれないが、その権限は現在のものとほとんど変わらないものになるだろう。これは、たった数日の奮闘の結果としては、賢明な結論であろう。

 もちろん、疑念は至る所に残っている。ハルツーム政権はアメリカに裏切られたと感じているだろう。ハルツームでは、イスラム法を無視して南部の分離独立のための住民投票を行うという和平協定が実現すれば、アメリカの制裁が解かれるだろうと期待していた。なぜなら、その結果できた新政府は挙国一致の政府であり、その中には南部のキリスト教徒や非イスラム教徒も含まれているので、ハルツームが原理主義者やイスラム教徒の政権ではないことを証明することができるだろうと思っていたからだ。テロリズムに関しては、この 10 年の間、ワシントンは何の証拠も提示できていない。

 その間も、ハルツーム政府は、反乱軍の村に対する無差別爆撃や過度の実力行使をやめていないと、ハルツーム・ウォッチャーの多くは疑っている。けれども、AU であろうが国連であろうが、外国の平和維持軍が、ダルフールの広大な地形全体を監視することは不可能である。スーダンの司令官たちの規律は、スーダン政府自身が維持する必要があるのだ。とは言え、AU 軍を拡大するという折衷案は、国連軍という名前になるかどうかにかわらわず、最善の選択肢である。「何かしなくては」派は怒るだろうが、スーダンにハルツームの同意なしで外国の軍隊を派遣すれば、悲惨以外のなにものでもない結果になるだろう。


 きりのいいところがなかったので、全訳になってしまった (^^)。ガーディアンは、実際には一方的な虐殺ではなく内戦なのだと言ってますね。まあ、ぼくなんかもダルフールについて知ったのは BBC とかだったりするから、マスコミにバイアスがかかっていると言われると、とくに反論できる材料はないんだよね (^^)。まあ、いろいろ情報をつき合わせて分析した方がよいんでしょうね、こういう問題は。

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ヨーロッパ人を救ったわれわれが、なぜアフリカ人を救わないのか?

 ダルフール問題に関するワシントン・ポスト紙の社説を部分訳。

We Saved Europeans. Why Not Africans?

The Washington Post
02 Oct 2006

 この外交的なドタバタの中で見失われているのは現実性だ。第一に、アメリカが仲介したダルフールとの和平協定は、調印される可能性はほとんどなく、もはや無効であるということ。第二に、スーダンはダルフールでの殺人を止めるという公使との約束を、すべて破っているということ。第三に、スーダンに対する国連決議は、中国が同意しそうにないということ。中国は、原油の 7 パーセントはスーダンに負っており、また中国には、アメリカは、スーダンの問題より、イランや北朝鮮の問題で中国の協力を得ることを優先するだろう、という読みがあるはず。第四に、もはや制裁では間に合わないということ。もし中国が奇跡的に妥協したとしても、制裁の効果が現れるまでには数ヶ月はかかるだろう。そしてその頃には、スーダンはダルフールでの二度目の大量虐殺を終えているだろう。

 けれども、ハルツーム(スーダンの首都)が理解できる言葉が一つだけあることを、歴史が証明している。それは、確実な脅威、すなわち実力行使である。 2001 年 9 月 11 日の直後、ブッシュ大統領がテロリストをかくまう国に対して警告を行ったとき、スーダンは、1998 年のアメリカによるハルツーム空爆を思い出したのか、突然テロ対策に協力し始めたではないか。今こそ、スーダンに対してふたたび強硬に出るときである。

 アメリカは、すみやかな外交的協議の後、1 週間以内に無条件で国連軍の配備を受け入れなければ軍事的解決策をとる、という国連決議を強く求め、スーダンに最後通牒を突きつけるべきである。この決議は、国連加盟国による単独もしくは集団での強制を正統化するものとなり、国際社会は、スーダンが態度を軟化するまで軍事的圧力を加え続けることになる。

 アメリカは、できれば NATO の協力とアフリカの政治的な支持のもとに、スーダンの飛行場、飛行機などの軍備を叩く。この攻撃により、スーダンが原油を輸出するポートスーダンを封鎖することができるだろう。その後、アメリカおよび NATO の支援のもと、必要があれば強制的に国連軍を配備する。

 もし国連の支持を得ることに失敗したら、アメリカは国連の支持なしでも行動するべきである。不可能だと思う人もいるかもしれないが、そんなことはない。1999 年のコソボでは、アメリカは国連の承認を受けることなく、より小規模な人道的な危機(約一万人が殺害)とより手ごわい敵と闘うために行動したではないか。あのときアメリカは、NATO の支援をうけつつ、スロボダン・ミロシェビッチが不本意ながらも同意するまで、セルビアの軍事目標を空爆した。この戦闘で死亡したアメリカ人は、ただの一人もいなかった。多くの国はアメリカが国際法に違反したといって抗議したが、その後国連はコソボを統治するために監視団を配備し、事実上 NATO の武力行使を遡って正統化した。

 そんなことは、現在の世界情勢では考えられないと思う人もいるかもしれない。確かに、国際世論は 1999 年ほど寛大ではなくなった。イラク戦争や捕虜虐待のスキャンダルは、他国に対し、アメリカの動機や正当性に対する疑念を植えつけた。その中には、今後、特にイスラム政権に対する、アメリカのいかなる武力行使にも反対しようとする者もいる。たとえそれが、純粋に一般市民のイスラム教徒に対する大量虐殺を止めさせるためであってもである。また、スーダンは、ダルフールにアフリカ人以外の軍隊が来れば、アルカイダの攻撃を受けるだろうと脅している。スーダンは、長期間にわたってウサマ・ビンラディンやその会社を受けいれてきたので、これもありえないことではない。しかし、この上アメリカが他の国からのテロリズムによる抑止を許せば、とんでもない前例をつくることになる。大量虐殺を目の前にしてそんなことを許せば、単に臆病だというだけでなく、人道に反する。

 また、米軍にはこれ以上の任務は無理だ、と主張する者もいるだろう。確かに、アメリカの地上軍は、戦線を広げすぎている。けれども、空爆作戦や海上封鎖の負担がかかるのは、比較的余力のある空軍や海軍であるし、近くのジブチにいる 1,500 人のアメリカ兵を活用することも可能だ。

 また、国連や関係する地域団体の同意がなければ、アメリカは国際法に違反することになると主張する者もいるだろう。そうかもしれない。しかし、安全保障理事会は最近、「保護する責任」を定める新しい国際基準を成文化した。この基準では、大量虐殺や人道に反する罪を平和的な手段で止めさせることに失敗したときに、国連加盟国に対し、強制を含む断固たる行動をとることを求めている。

 この大量虐殺は、もう 3 年も続いており、平和的な手段はすでに失敗している。スーダン政府は、二回目の虐殺を始めようと手薬煉をひいている。真の問題は、アメリカは、ヨーロッパ人を救うためにコソボでやったように、アフリカ人を救うためにダルフールで軍事力を行使するべきか、ということなのである。


 アフリカ関連のニュースは情報量が少ないので、たまに調べるといろいろ勉強になります。恥ずかしながら、中国が原油の 7% をスーダンに負っているなんてことも知らなかったですね。「保護する責任」なんて言葉も知らなかった。これは今後の国際社会の重要なキーワードになるかもしれませんね。

 しかし、もしこの記事にあるとおり、中国が国連決議を拒否し、アメリカや NATO が単独で行動したら、日本は、あるいは、われわれ個人は、それを支持すべきなのか。悩ましい問題ですね。もしこれを支持すれば、イラク戦争は国連決議を経ていないからダメだ、という主張をしていた人は論理整合性を失い、単なるご都合主義になりかねない。かと言って支持しなければ、どうやって大虐殺を止めるのかという深刻な問題をつきつけられる。少なくとも、その現実から目を背けるべきではないと思います。

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愛動物心、あるいは、公然動物虐待

 文芸春秋に呉智英氏の坂東「子猫殺し」眞砂子擁護論が載っているという噂をきいて、たまたまコンビニに文芸春秋が置いてあったのでそこだけ立ち読みしてみたら、ぼくの「続々・子猫殺し」と同じく動物裁判の話をネタにしていたので少々冷や汗が出た。もちろん、ぼくがパクったわけではまったくない。確認したわけではないが、おそらく、書いた日付はぼくの方が先だと思う。当然、呉氏がこんなブログを読んでいるわけもないので、単なる偶然の一致であろう。

 もっとも、内容的には、特に新しい論点が出ているわけではなかった。1.あくまで人間の都合として考えるのが原則、2.動物の権利=獣権には無理がある、というのが主な論点で、現行の動物愛護法の理念に疑念を呈しているが、おおむねぼくも賛成である。

 これに対して、現行の動物愛護法は、動物の権利など主張しておらず、それこそ人間の都合そのものではないか、という反論をしていた人がいたので、ぼくも改めて動物愛護法の条文をチェックしてみた。

第1章 総則

(目的)

第1条 この法律は、動物の虐待の防止、動物の適正な取扱いその他動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止することを目的とする。

 つまり、動物愛護の気風を育てれば、生命尊重や平和に結びつくので、人間のためにもなるという主張らしいのだが、この主張、何かに似ていないだろうか。

 そう、これは文字通り、愛国心ならぬ「愛動物心」のススメなのである。愛国心論争においては、愛国心自体が悪いわけではないが、愛国心を強制することはできないとか、何が愛国心のある行為かは他人が勝手に決められないという主張が多かったはずだが、「愛動物心」になると、愛動物心のない行為を他人が勝手に定義して罰則付きの法律で強制することにも抵抗はないのだろうか。

 この問題は、猥褻法の議論にも少し似ていると思う。猥褻法の議論でも、「確かに公然猥褻は多くの人にとって不快かもしれないが、だからといって刑法で罰する必要はない」という主張があったはずである。 同じように、動物の虐待が多くの人にとって不快だからといって、法律で禁ずる必要があるとは限らない。仮に禁ずるとしたって、行為自体を禁ずるのではなく、そういう行為を見たくない人が見なくてすむ権利さえ守られれば十分なのではないか。

 公然猥褻を刑法で罰しないという主張の根拠となるのは、被害者がいないことである。そして、動物の権利を認めないという前提に立てば、自分の飼っている動物の虐待にも、直接の被害者はいない。強いて被害者を挙げれば、見て不快に思う第三者ということになるが、その権利を守ることだけが目的なら、行為自体を禁ずる必要はないのである。

 繰り返しになるが、坂東氏のやったことは、たとえて言えば、

「人間はみなセ○○スをしなければ生きていけないのに、現代人はみな人前では○器を隠して暮らしている。しかしわたしは、自分がセ○○スをしているという事実から目をそむけないために、堂々と○器をさらけ出して歩くことにしている」

とか

「人間はみなウ○コをしなければ生きていけないのに、現代人はみな人前では自分はウ○コなんかしないというような顔をして暮らしている。しかしわたしは、自分がウ○コをするという事実から目をそむけないために、毎日自分のしたウ○コを皿にのせてナイフで切って断面を観察することにしている(注)」

というような主張を新聞に載せるようなものである。もちろん、部分的には真実を含んでいるが、一読して不快であり、全体として多くの人が共感し説得されるとはとても思えない主張である。したがって、こういう主張を新聞に載せたこと自体は愚かなこととしか言いようがない。

 ただ、しつこいようだが、だからといって、そういう行為を法律で禁ずる必要があるかというのは、また別の話だと思うのである。

 猥褻を法律で禁じた結果日本で起こったのは、猥褻概念の形骸化であり、法律にさえ違反していなければなんでもありという性的モラルのさらなる退廃ではなかったか。愛国心を強制した結果戦前の日本に起こったのは、愛国心の形骸化と、危険なファナティズムの蔓延ではなかったか。愛動物心の強制や公然動物虐待の禁止が、同じような自体を招くことは、真の動物好きの方々にとってすら本意ではないはずである。

注: 筒井康隆氏は、「最高級有機質肥料」という小説を書くために実際にこういうことをしたらしい。ファンの間では有名なエピソードである。

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Be prepared to go back to the Stone Age

 9.11 の直後、パキスタンのムシャラフ大統領が、当時の米国務副長官アーミテージさんに「協力しろ。さもないと、石器時代に戻るまで爆撃するぞ」と脅されたそうで (^^)。24 日に CBS の「60 ミニッツ」でやるみたいです。

 正確には、"Be prepared to be bombed. Be prepared to go back to the stone age." かな。 "Be prepared" というのは、もちろん、「準備しろ」じゃなくて「覚悟しろ」というニュアンスですね。アクション映画とかでもよく出てくる表現です。

 一方、アーミテージさんは、強く言ったのは確かだけど、軍事力で脅すようなことはしてない、だいたい自分にはそんな権限はない、みたいなこと言ってるようです。

 小泉さんは「ジョーモン時代に戻る覚悟があるか」とか言われなかったのかなあ (^^)。

付記: 牛丼祭りの日、いちおう吉野家の前まで言ってみたのですが、けっこうな行列ができていたので、あっさり挫折しましたです (^^)。根性無しで申し訳ないです (^^)。

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乙武くんときっこさん

 なんか、秋篠宮妃の紀子さんに男の子が生まれた件にからんで、ネット上でもいろいろ騒動がおきているようですね。「五体不満足」で有名なスポーツ・ジャーナリストの乙武くんのブログが炎上したり、耐震偽装疑惑の追及で有名になった「きっこの日記」に記載された批判記事が、数時間後に削除されたことが話題になったり。

 ぼく自身は、前にも書いたけど、天皇制自体あってもなくてもよいと思っている方なので、このニュースを聞いたときの嬉しさは、一般庶民の家に赤ちゃんが生まれたことを知ったときと大差ないし、ましてや、男の子だったから嬉しいなどという気持ちはほとんどありません。

 ただ、それはあくまでぼく個人の価値観であって、ぼくは同時に、天皇制を愛している方々の価値観にもそれなりの敬意を払っているので、わざわざ彼らの価値観を批判するような発言をするつもりはないのです。これは、例えて言えば、自分はイスラム教徒でないので豚を食べることに躊躇はないが、わざわざイスラム教徒の前で豚を虐待したりはしない、というのと同じことです。

 そういう立場からすると、きっこの日記のように、真偽も定かでないような情報を理由に天皇家やそれを祝う人々に罵詈雑言を浴びせるのはどうかと思いますね。だれから見ても明らかな悪人ならともかく、単に自分と価値観が違う相手を批判するのに、相手に対してまったく敬意がないという態度は人間として不遜でしょう。もちろん、情報のソースなどを明示していないことや、数時間だけ掲載して削除理由も履歴も残さず削除するようなやり方も無責任としか言いようがありません。

(ついでに言えば、この記事の中で、この件を非難しないヤツを腰抜け扱いしているのも、正直「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 のビフなみにムカつきますね (^^)。まあ、ぼくはあの映画でちゃんと学習しましたので、"Nobody calls me chicken (or yellow)" なんて言ってつっかかったりしないですけどね (^^)。)

 では、乙武くんはどうかと言うと、彼の記事にも、天皇制もしくは男系相続を支持している人たちを批判するニュアンスが感じられるので、その点において、批判した相手から逆批判を受けるのは、ある程度仕方ないと思います(もちろん、だからと言って身体障害を嘲笑したりする表現が許されるわけではないのは当然です)。

 しかし、そんなぼくでも、天皇家の慶事を喜ばないのは日本人としておかしい、というような批判は、ちょっと行き過ぎだと感じます。

 このブログでも何度か書いたように、象徴天皇制は、制度と言うより文化に近いものだと思います。文化というのは、制度と違って、権力によって強制されることなく存続するところにこそ価値があります。

 この手の議論でどうもよく錯覚が見られるのは、文化の存続と価値の関係です。つまり、現在から見れば、

存続している → 価値がある

という図式が成り立ちますが、同時代から見れば、あくまで

価値がある → 存続させる

なのであって、各時代の人がそういう意思決定をしているからこそ、上の式だって成立するのだということを忘れてはなりません。

 したがって、天皇制に対する支持が、権力によって強制されることなく、人々の主体的な意思によって存続するという限りにおいて、ぼくも天皇制を支持する方々に対し一定の敬意を払うつもりですが、もしこれが強制されるようになったら、ぼくはむしろ天皇制廃止を訴えることでしょう。

 ですから、天皇制を支持する方々が天皇制に対する支持を広げようと思う際にも、超越的な文化決定論を押し付けるのではなく、天皇制が持つ内在的な価値をこそ主張すべきであるし、その価値を評価しない人に対しても寛容であるべきだと思うのです。そのことは、天皇制を支持することと、決して矛盾しないはずです。

(権力によって強制されることなく、それ自身の価値のみによって存続している伝統文化なんて、民謡や伝統工芸をはじめいくらでもあります。そういう文化を支持する方々が、「伝統は存続するがゆえに価値がある」みたいな超越論に訴えたり、「この文化の価値がわからないやつは日本人じゃない」みたいに恫喝したりしている、という話はあまり聞いたことがありません。だから、天皇制が本当に日本人にとって必要な文化であるなら、それ自体の魅力だけで存続できないはずがないと思うんですよね。なのになぜ、「ぼくがこんな立派な人間になれたのも、天皇制によって精神的支柱が得られたおかげなんですよ。つらいときにも、陛下のことを考えると、もりもり力がわいてきちゃうんだよね。いいぞー、天皇制は。君も支持しない?」みたいな言い方をする人がいないのか。そのへんが、天皇制を支持する方々に対して、ぼくがどうしてもうさん臭さを感じてしまう点なんですよね (^^))

追記: ちなみに、同じことは「愛国心」の教育についても言えます。つまり、愛国心を押し付けるのでもなく、愛国心についてはまったく触れないのでもなく、「国家には価値がある」という事実を知識として伝える、という立場がありうるはずだと思うのです。大雑把に言えば、ぼくもその立場ですし、山形さんが言いたかったのも、そういうことなんじゃないかと思うんですけど (^^)。

追記: ある友人が、「どの生命の誕生も同じように喜ばしい」という主張をしているのが、他ならぬ乙武くんであることの重みをもっと考えるべきだ、と言っていたことも付記しておきます。

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ポスダック

 なんか、政治家に株価をつけるポスダックとかいうシステムがあるらしいですね。

 この記事によると、元は韓国で生まれたシステムで、日本でも導入の準備をしているらしいのですが。。。でも、この説明を読んでも、何がいいのかイマイチわからないんですよね。

 そもそも、証券市場での証券の価格って、別に投資家が恣意的に決めてるわけじゃなくて、ちゃんと理論的な適正価格というものがあるんですよね (そう思ってない人も多いみたいだけど)。株式や債券は、定期的にキャッシュフローを産み出すので、それを「現在の価値」に割り引いて合計したものが妥当な価格だということになってるし、商品先物なら、商品自体がキャッシュフローを産み出すわけじゃないけど、実際に商品と交換したときの商品自体の価格が先物の価値の裏づけになっている。為替はちょっと難しいけど、一応購買力平価とか金利平価とかが根拠になっています。

 でも、政治家は別に直接キャッシュ・フローを産み出すわけじゃないし、政治家自身をキロ何円で切り売りできるでもなし (^^)、政治家の適正価格っていったいなんなのか。しかも、これを読むと、投資に使う電子マネーは、そのサイト以外では使えないという。そうなると、なおさら、恣意的な値段しかつかないんじゃないのでしょうか。

 まあ、難しく考えず、世論調査を盛り上げるための趣向だと考えればいいのかもしれないけど、なまじこういうシステムをとると、それこそケインズの美人投票とかどっちの料理ショーとかといっしょで、投資家は無自分自身の意見よりも無難な多数意見にのっかろうとするから、かえってポピュリズムを煽りかねないと思うんですけどねえ。

 そう考えると、わざわざこういうシステムにする意味がよくわからない。まあ、toto とかといっしょで、有権者に政治に興味を持たせるという意味ぐらいはあるかもしれませんが。

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な、なんでいまごろ?

 小泉さんがいまごろになって、加藤紘一実家放火事件に言及。な、なんでいまごろ (^^)?

 朝日の若宮さんが書いた「放火への沈黙 「テロとの戦い」はどうした」への答えなのかなあ。

 じゃ、若宮さんはなんでいまごろ。。。?

 ま、いずれにせよ、言及しないよりはよいことだと思いますが。。。

 なんか、この事件に対する世間の扱いって、軽すぎないか?

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キャラが立ってきた柳本ジャパン

 甲子園は時間がなくてほとんど観れなかったので、ハンカチ王子とかの話題についていけなくてちょっと口惜しく思っている最近の私です (^^)。

 そのかわりと言ってはなんですが、女子バレーのワールド・グランプリはわりと観てます。国内の V リーグとかはまったく観ていないのですが、柳本ジャパンはメグ・カナのころから観ているので (メグちゃんはどうしちゃったのかな (^^))、だんだん愛着が出てきましたね。

 なんか、このチームはうまいことキャラが立ってますよね。テンちゃんというめちゃ背の低い天才セッターがいて、シンちゃん (ユニフォームにまで SHIN と書いてあるけど (^^)) というこれまた背の低いア