裏自殺サイトを作ってみたい

 最近の硫化水素自殺のニュースを見てひっかかるのは、「硫化水素による自殺を防げ」みたいな言い方である。そもそも、悪いのは「自殺」であって「硫化水素による自殺」ではない。もちろん、硫化水素による自殺は、他人を巻き添えにするということはあるが、基本的には、どんな手段であっても自殺は悪なのであって、硫化水素による自殺さえなければ、他の手段による自殺はあってもよい、ということではないはずだ。

 とすれば、問題なのは、硫化水素のせいで自殺件数そのものが増えているのかということだろう。統計的な有意性は、しばらく時間がたって見ないと判定できないかもしれないが、ぼくはなんとなく、自殺件数自体はあまり変わっていなくて、自殺手段のうちで硫化水素を使ったものが増えているだけのような気がしてならない。

日本の年間自殺者数は約 3 万人程度らしいから、1 日当り 100 人程度は自殺していることになる。一方、硫化水素による自殺者数は、今のところ 3 日に 1 人程度であるらしい。追記:4月だけで見ると、1 日 2~3 人ぐらいらしい。)

 もしこの推定が正しいとすれば、硫化水素による自殺を防ぐのは簡単だ。硫化水素よりもっと安価で苦しまずに確実に死ねる方法の情報をバンバン流してやればいいのである。そう考えると、硫化水素による自殺だけを防ぐという運動には、あまり本質的な意味がないということになろう。

 実は、自殺サイト一般の話にしてもそうである。「人間が死ぬ確率が一番高い場所は病院だ」というジョークが示すように、本当に自殺サイトのせいで自殺者が増えているのか、それとも、もともと自殺志願者の分母は一定で、それが現代ではたまたま自殺サイトに集まってくるだけなのかだって、本当はそう簡単にはわからないはずである(もちろん、だからと言って、自殺サイトを擁護する気はないが(^^))。

(追記: と思ったら、案の定こんな発言を見つけた。「未成年の自殺率は、1950年代は10%だったが、この10年は2%程度で推移している。少年自殺は決して増えてないし、ネットはそれを助長しているとは思わない」)

 もっとも、人々がそういう発想に走りがちな理由は、ぼくにもわかるような気がする。たぶん、多くの人々は、自分たちの作っている社会が自殺者を生み出すような社会であるということを、あまり正面から認めたくないのである(もちろん、ぼくだって認めたくない)。だから、同じ自殺でも、何かわかりやすい悪役がいたり、人為的な対策がとれそうな種類のものほど、やっきになって騒ぎたくなるのだろう。

 しかし、あえて辛らつな言い方をすれば、こういうのは現実から目を背けることにもなっていると思う。もし単に自殺さえ防げればいいのなら、個人の自由など認めず、超監視社会にでもしてしまえばいいわけであるから、極論を言えば、もともと、自由な社会というのは、自殺する自由もある社会なのだ(もちろん、自殺教唆や自殺幇助は一応違法なことになっているが)。そういう自殺する自由のある社会で、多くの人が自分の意思で自殺しないことを選ぶからこそ、われわれは同じ社会でともに生きることにプライドを持てるのではないだろうか。

 なんか重すぎる話になってきたので、話を変えるが(^^)、ぼくがちょっとやって見たいと思うのは、「裏自殺サイト」を作ることである。たとえば、一見「自殺サイト」みたいに見えて、実はニセ情報ばかり掲載されているサイトとか。ほら、ブラックジャックとかで、死にたがってる患者をだましてプラシーボを飲ませたりするエピソードがあるでしょう。ああいうのをちょっとやってみたいわけ(^^)。 たとえば、「スタジオアルタ前で全裸で大股開きをしていると10秒以内に即死します」とか。誰も信じねえか(^^)。

 あるいは、硫化水素で死んだ人の死体や、後遺症が残った人の写真を集めたサイトとかもいい。専門家の話によれば、硫化水素で死ぬと、死体は結構悲惨なことになるらしいので、あえてそういうグロい写真をバンバン掲載して、自殺を思いとどまらせるわけ。もちろん、いくら善意とはいえ、おおっぴらにこんなことをしたら死体冒涜とか言われるだろうから、アングラでこっそりやるのである(^^)。

 ぼくは、誰もが褒めてくれるようなことって照れくさくてなかなかできないのだが、誰も知らないところで隠れてこっそりいいことをしてニヤニヤしたいという願望は結構あったりする。こういうのは、名誉欲とは言えないのだろうが、なんかある種のプライドを満たそうとする行為ではあるのだろう。それを素直に表に出さないところが、ぼくのいやらしいところなのかもしれない(^^)。

 いずれにせよ、本当の意味で他人を救うなんてことは、口で言うほど簡単なことじゃないと思う。そう言えば、元文化庁長官で心理学者の故河合隼雄氏がこんなことを書いていた。ある宗教家のところに自殺志願者が来たので、わざと自殺の方法を微に入り細にわたって教えてやると、その人は怖気づいて自殺をやめてしまった。これに味をしめた宗教家が、別の自殺志願者に対しても同じことをしたところ、今度は教えたとおりの方法で死んでしまったという(「こころの処方箋」)。

 この話について河合氏は、おそらく、一回目のときにはその宗教家は全身全霊をかけて語ったからうまくいったが、二回目のときには慢心して小手先だけで語ったから失敗したのだろう、というような解釈をしている。その解釈が妥当かどうかについてはいろんな意見があるだろうが、いずれにせよ、こういう話に比べると、自殺サイトをなくすかどうかなどというのは、極めて表層的で浅い話のようにぼくには思える。

 かの松本人志氏が、ガキの使いのトークであるミュージシャン(甲本ヒロトとの説あり)の自殺を思いとどまらせたという、ファンの間では有名な話がある。もちろん彼はトークの中で「自殺してはいけない」というような陳腐な説教をしたわけではない。ただ、彼がいつもしているような「すべらない話」をしただけである。

 この話でもわかるように、実際には、わかりやすい「自殺対策」よりも、社会全体をよくする政策努力とか、単純な失業対策とか、一人一人が自分の仕事を一生懸命やるとか、他人に対してできるだけ誠意を持って接するとかいうことの方が、本当の自殺対策になっているという可能性もあるのではないだろうか。

 実は、ぼくが二十代の頃に働いていた会社でも、同僚の女の子が自殺したことがある。ぼくはそのことを思い出すと、ひょっとしたら自分の言動によってはその子は死ななくてすんだかもしれない、と考えてしまうことがある。もちろん、そんないい子ぶったことを考えること自体が彼女に対する冒涜のようにも思われるので、あまり他人には言わないようにしているが。まあでも、そんな自分に偉そうなこと書く資格あんのかよという気もしてきたので、このへんで、この小文にもすっきりした結論をつけずに終わることにする(^^)。

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偶然の必然化戦法にはコストのシェアで対抗せよ

 タイトルからは想像つきにくいと思うけど、今回書きたいのは、例の「靖国」という映画の上映自粛問題とか、ちょっと前のプリンスホテルと日教組の問題とかについてである(^^)。

 ご存知の人も多いと思うが、どちらの問題も、右翼からの圧力を怖れて、民間企業が特定の客や商品の取り扱い避けたという話。それに対して、言論の自由を守るためにもっとがんばれという意見もあれば、責任は右翼およびその損害を防げない国にあるのであって、一民間企業が甘んじて損害を受ける義務などない、という意見もあるようだ。

 この手の議論を見ていつも思うのは、そもそも、「責任」という概念の定義をはっきりさせないまま、責任があるとかないとか言ってることが多いということである。最近流行の「自己責任」に関する議論もそうで、そもそも「責任」という概念自体が共有できてないから、不毛な議論になってしまう。

責任とはアプリオリに決まっているものではない

 実は、かつて「責任論」というのが流行ったことがあって、その頃にもいろんな人(柄谷某とか奥村某とか)の責任論に目を通したが、正直、どれ一つとして納得のいくものはなかった。

 このような責任論の多くでは、そもそも、責任というのが何か物理法則か何かのようにアプリオリに決まっていて、人間がやるべきことは、どこに責任があるのかを発見することだけであるかのような論法になっている。ぼくに言わせれば、そもそもこの認識が間違い。そうではなく、責任とは、社会が決めるお約束なのである。

 本来なら、ここでぼく自身の「責任論」を展開しておくべきなのだろうが、残念ながらその余裕はない。しかし幸い、ぼくの考えを代弁してくれているような学者の方がいるので、今回はその権威に頼っておくことにする(^^)。 

「責任」とは、「権利」や「義務」と同じように「構成的な概念」であって、石や水のように客観的に存在しているものではない。それは、社会の中で人々がなんらかの(しばしば暗黙の)合意によって組み立てられていくものである。それをどう組み立てていくかは、社会にとっての重要な課題であるが、あらかじめ客観的に所与として存在しているわけではない。

-盛山和夫「リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

社会全体のコストを最小化する

 さて、誰に責任があるかはみんなで決めるものだ、という前提は納得いただいたことにする。問題は、じゃあそれをどうやって決めたらよいかということだが、一つ有力な考え方がある。それは、社会全体のコストを最小化するように決めれば、みんなが得するはずだという考え方である。

 たとえば、ある事件が起こると、世の中全体に 100 万円の損失が発生するとする。この事件を A さんが防げば 1 万円で防げるが、B さんが防げば 10 万円かかるとする。この場合、A さんに事件を防ぐ責任がある、ということにすれば、社会全体の損失が最小化されるはず、というわけだ。

 実は、以前にこんにゃくゼリーについての記事で紹介した「最安価損害回避者」というのも、基本的にはこの線にそった考え方だ。こんにゃくゼリーによる死亡事故を防ぐのに、メーカーがのどにつまらないこんにゃくゼリーを開発するためにかかるコストと、ユーザーがのどにつまらないように注意するコストを比べて、少ない方に責任があるとした方が、社会全体の損失は少なくてすむだろう。

 この考え方のいいところは、一律に製造者責任とか消費者の自己責任とかに決めるよりも、より合理的な責任の割り振り方を柔軟に考えられるというところにある。

問題は不平等である

 ただ、この考え方だと、社会全体のコストは最小化されるかもしれないが、実際にはそのコストは特定の人が負担することになるので、不公平になるのではないか、と思う人もいるだろう。

 たとえば、道に落ちているゴミを誰が拾うか、という問題を考えてみよう。これも、ゴミがあるのは捨てたヤツの責任だとか、いや道を管理している国や自治体の責任だとか、いろんな考え方がありうる。でもおそらく、社会的コストの最小化という観点から考えれば、たまたまそこに通りかかってゴミを見つけた人が拾うのが、最もコストが小さいのではないだろうか。

 ところが、この方式だと、ゴミが落ちていても拾わない人がたくさんいたり、ゴミが落ちている場所が偏っていたりすると、たいへん不公平なことになる。社会全体のコストを減らすために、特定の人だけが損をするということになってしまうからだ。それでは、多くの人はバカバカしくて協力をやめてしまうだろう。

 つまり、この方式がうまく機能するのは、ゴミ拾いコストの期待値が誰でもだいたい同じ場合。言い換えれば、誰でもゴミを見つける確率がほぼ同じで、しかも、見つけた人がみんなマジメに拾うような場合なのである。そのような状況であれば、昔からよく言われような「困ったときはお互い様」という論理が成り立つわけだ。

言論の自由にもコストがかかる

 さて、そろそろぼくが何を言いたいか勘付いた人もいると思うが(^^)、そもそも、「言論の自由」にもコストがかかる。自分と違う意見を聞けばたいていの人は不快だろうし、言論をいろんなメディアで流通させるのにも金がかかるし、大音量の拡声器でわめかれた日にゃ単純にうるさい。

 それでも、多くの人がそういうコスト負担に耐えているのはなぜか。まず、言論の自由を守ることは社会全体の利益になること。さらに、その利益は、一人一人が負担しているコストの合計より大きいはずだということ。そして最後に、そのコストは、特定に人だけが負担しているわけではなく、社会の全員がほぼ平等に負担しているはずだということだ。

 もうおわかりになったと思うが、この負担の平等が成り立たないようにすることこそが、街宣右翼の狙いなのである。つまり、本来は社会全体で平等に負担しているはずの「言論の自由」のためのコストを、特定の人や会社にだけ偏って負担させることによって不公平感を生み出し、コストを回避した方が得だと思わせようとしているわけである。

 国がもっと右翼に対する規制を厳しくすればいいという意見に対する疑問点もここにある。つまり、国が規制するのと、企業が我慢するのとでは、どっちが社会全体のコストが少ないかは微妙だと思うのだ。もともと彼らは、遵法闘争的な発想でやっているわけだから、特定の行為を禁止したらしたで、いくらでも別の嫌がらせの方法を考えてくるであろう。そして、それを防ぐためには禁止的な高コストがかかるかもしれない。

コストをシェアすればみんなが得する

 ところが、問題がコスト負担の不平等にある、というところに着目すれば、もっと簡単な解決法があることがわかる。要するに、コストを改めて社会全体でシェアすればよいのだ。

 これは、先ほどのゴミの例で言えば、国や自治体で清掃をする代わりに、一般市民にゴミを拾ってもらい、それに対して報酬を出すことに相当する。本当に国や自治体で清掃するより一般市民がゴミを拾うほうが低コストなら、この方が清掃費用が安くつくだろう。

 たとえば、「右翼保険」のようなものを作るなんていう手もある。右翼の被害に合いそうなホテルがみんなで保険料を積み立てておいて、実際に右翼の被害にあったホテルがそれを受け取るようにするのだ。もちろん、宿泊客に対しても、そのお金を原資にして宿泊料を値引きしたり、お詫びの品を配ったりすればよい。

 そうすれば、かえって得するから右翼に来て欲しいと思う客も出てくるだろうし、あのホテルにはよく日教組が来て宿泊料が安くなるからという評判になって、かえって客が増えるかもしれない(^^)。もちろん、そんなことになれば、右翼のもくろみは崩れて嫌がらせをすること自体が無意味になるだろう。

 もっとも、民間の保険だと、うちは保険料を払いたくないからやっぱり日教組なんて泊めないよ、というところも出てくるかもしれない。だから、理想的な方法は、そういうコスト負担を国が税金で補償することである。そもそも、言論の自由が守られれば国民全体が得するのだから、税金で補償したって悪いことはあるまい。もちろん、右翼の被害というものを適切に認定することにはいろいろ技術的な問題もあるだろうが、拡声器を使う場合には届出制にするとか、いくらでも方法はあると思う。

 まあ、このへんは半分冗談だが(^^)、重要なことは、言論の自由が守られれば国民全体が得するんだから、問題はコスト負担の不平等だけなんだ、という認識を国民全体で共有することである。そうすれば、闘うことを強制はできなくても、闘う人を励ましても罰は当たらないということはわかるはずだし、勇気がない人をけなす必要はないかもしれないが、勇気のある人には名誉という形の報酬を与えるということだってできるだろう。

 あのような事件について、企業よりも国に責任があると思う人は、少なくとも、国の規制を厳しくすることと、企業が我慢することと、どっちが低コストか、一度冷静に考えてみてほしいと思う。

 もちろんこれは、右翼の問題に限ったことではない。電車内で強姦されそうになっている人を乗客が助けるのと、車掌にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。バスの中で殴られている人を乗客が助けるのと、運転手にまかすのと、どっちが社会全体のコストが少なくてすむだろうか。かたくなに誰の責任かにこだわるより、コストをどうシェアするかを考えたほうが生産的ではないだろうか。

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粋に感じる?

 大阪府知事の橋下さんが女性職員に「あんた」呼ばわりされたという例のニュースを YouTube で見ていて気になったのだが、橋下さんがその女性について「ぼくはいきにかんじましたね」とか言っているのを、その番組では「彼女は粋に感じましたね」とテロップを当てていた。これはどーみても「意気に感じましたね」の間違いだろ(^^)。ひょっとして、今の子は「意気に感じる」という表現を知らないのかな。

 これは類語辞典だけど、「意気に感じる」というのは、

http://thesaurus.weblio.jp/content/%E6%84%8F%E6%B0%97

意気に感じる:
(~に)熱く共感する ・
肝胆相照らす ・ (~の志に接して)燃える ハッスルする ・ (いたく)刺激される やる気になる ・ (演説を聴いて)しびれる

 一方、「粋」というのは、

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BF%E8&kind=jn&mode=0&base=1&row=0

(1)気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられる・こと(さま)。粋(すい)
野暮(やぼ)
「―な格好」「―な作り」
(2)人情・世情に通じているさま。
野暮
「―な計らい」
(3)遊里・遊興に精通していること。また、遊里・花柳界のこと。
「―筋」
(4)いろごとに関すること。

という意味であるが、文脈から考えて、橋下さんはあの女性に自然な色気を感じて「粋だねぇ~」と言いたかったわけではないと思う。たぶん(^^)。

(追記: ただ、上の辞書にもあるように、「粋」は「意気」から転じた言葉らしいので、それを知っててわざと書いている逆の意味で教養のある人もいるのかも知れない(^^)。)

 それにしても、昔はこういう言葉遣いにしてもなんにしても、テレビでやってるんだから正しいのだろう、などと鵜呑みにしていたものだが、最近はうっかり聞き流しているととんでもない間違いが混じっていたりするので油断がならない。また、ぼくのような一般人よりはるかに教養がおありになるはずのコメンテータの方々も同じビデオを見てるはずなのだが、何もツッコミを入れていなかったのも不思議。

 ところで、実を言うと、会社員時代はぼくもこういうことにうるさかった。ある会社では、就業時間後に社外から講師を呼んで研修みたいなことをすることが多かったのだが、出席しろとうるさく言われるわりには残業代は出ない。それを理不尽だと感じたぼくは「残業代が出ないなら出席する義務はないでしょう」とか社長に直談判してみた。すると社長の返事は「確かに義務ではないけど、出たほうがためになると思うぞ」みたいな感じ。じゃあいいやと思って問答無用で帰ってしまったことが何度かある。まだ 20 代の若造のぺーぺーのころからそんなクソ生意気な人間だったのである(^^)。 橋下さんが上司だったら、粋に、じゃなかった、意気に感じてくれるかな(^^)。

 これは前にも書いたような気がするが、ある会社の入社試験の面接で「デートの予定がある日に突然残業を頼まれたらどうしますか」と言われて「ケースバイケースです」と答えてしまったこともある。これも自分としてはかなり妥協した答えのつもりだったのだが、後で調べえると、やっぱり言ってはいけないことらしかった(^^)。

 まあでも、一応言い訳しとくと、仕事はちゃんとしてたんですよ。残業月 100 時間オーバーなんてしょっちゅうだったし。もっとも、残業代もきっちり貰ってましたが(^^)。


追記: これは、「武勇伝」をひけらかしているように感じる人もいるかもしれないが、本人の意識としては、むしろオリエンタルラジオ的な意味での「武勇伝」として書いてるつもりである(^^)。わかる人にはわかると思うが、ぼくは勇気があるというよりも、むしろ、空気や力関係を読む能力に重大な欠損があるのである。こういうことが平気でできてしまうのはそのせいであって、本人としては、別に勇気をふりしぼってる意識はないのである。いわば、SF に出てくる痛覚を麻痺させられた兵士みたいなもんで、見方によっては危なっかしいことこの上ない存在だと言えよう(^^)。

 あと、ぼくは社会的に地位のある人や目上の人には平気できついことを言えるのだが、そうでない人が相手になるととたんに弱気になる傾向がある。これもいいように言いすぎかもしれないが、それはたぶん、自分が傷つくことよりも相手を傷つけてしまうことを怖れる傾向があるせいだと思う。また、女性や子供にも弱いが、これは小学生の頃に同級生の女の子を泣かせてしまったことによるトラウマだと思う(^^)。そんなわけで、ぼくは基本的には気のよわーい人間なので、勘違いしてあんまりイジメないでほしい(^^)。

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ウ○コは美しいか?

ある保健団体にて

  • 保健団体職員 A: あーっ、すっきりした。今日も快便快便。
  • 保健団体職員 B: ぼくらがこうやって健康に暮らせるのも、老廃物を毎日規則正しくウ○コとして排泄しているおかげだよな。
  • 保健団体職員 A: そうそう。それにしては、ウ○コってなぜか軽んじられているよな。
  • 保健団体職員 B: その通りだな。なにかというと汚いとか臭いとか。
  • 保健団体職員 A: そうだ、この現状を変えるために、ウ○コの大切さを大々的にキャンペーンしようじゃないか。

ある鉄道会社の広告担当部署にて

  • 保健団体職員: すいません。電車内に広告を出したいんですが。
  • 鉄道会社職員: はいはい。どんな広告でございましょうか。
  • 保健団体職員: 一応、デザインはもうできてるんです。これなんですが。
  • 鉄道会社職員: ええー? なんですかこれ? ウ○コのドアップじゃないですか。
  • 保健団体職員: そうです。ウ○コの大切さを世の中に広くアピールしようというキャンペーンなんです。どうです、美しいでしょう。
  • 鉄道会社職員: ってあなた、こんなもん電車内に貼れるわけないじゃないですか。
  • 保健団体職員: え、なぜですか?
  • 鉄道会社職員: なぜってあなた。こんなもんを見たら、乗客が不快に思うじゃないですか。
  • 保健団体職員: ウ○コが不快? じゃああなたはウ○コをしないんですか。私に明日からウ○コをするなとでも言うんですか。人類はもう何百万年もウ○コをし続けてきた。その歴史と伝統を否定するのか。
  • 鉄道会社職員: いや、誰もそんなこと言ってませんよ。ウ○コをする人が不快なんじゃなくて、ウ○コの写真を公の場所に掲示することが不快だと言ってるんです。
  • 保健団体職員: 同じことだろう。あなたは自分以外の価値観を認められない保守的な人間に違いない。だから、心の中でウ○コをする人を差別しているのだ。これは、ウ○コをする全人類に対する差別であり、リベラルな価値観に対する挑戦だ。
  • 鉄道会社職員: えーっ? (さっきは歴史と伝統とか言ったくせに…)困ったなあ。あなたちょっと落ち着いてくださいよ。
  • 保健団体職員: いや、許せない。このことはマスコミ各社にリークしてやる。覚悟しておけ。

あるリベラル系のニュース番組にて

  •  ニュースキャスター: 某鉄道会社がウ○コのポスターを拒否したことは大変な騒ぎになっています。このことに対する抗議の意を示すために、広告主の保健団体は、この地で公開ウ○コ排泄イベントを開くことになっており、多くの人が見物に詰め掛けています。
  • リポーター: あなたはなぜこのイベントを見に来たんですか?
  • 見物客: ホントのこと言うと、わたしは、今までずっとウ○コを汚いものだと思い続けてきたんです。でも、よく考えたら、それってなんの根拠もないことじゃないですか。あの、よくわからないけど、きょ、きょーどーげんそーとか、ば、ばいお・ぽりてぃっくすとかゆーのに、そう思い込まされていただけじゃないかと思うんです。だから今日は、本当にウ○コが汚いかどうか、この目で確かめにきたんです。

(保健団体職員が一斉に排便する映像。一応モザイク付き)

  • リポーター: 実際に見てどう思いましたか?
  • 見物客: ぜんぜん汚くなかったです。みんなの前で堂々としてるのはむしろ美しかった。今までコソコソしてたから汚らしく見えたんですね。わたしは間違ってました。明日からウ○コを身体中にくっつけて歩きます。

あるふつーの家庭にて

  • 夫: あーっ、すっきりした。今日も快便快便。
  • 妻: あなたはホントにウ○コするの好きねえ。いっそ家中にウ○コの写真でも飾ったらどうかしら。
  • 夫: 何をバカなことを言ってるんだよ。あははははは…。
  • 妻: やーだ、冗談だってば。ほほほほほ…。

 あまり野暮な解説はしたくないのだが、この話の肝は要するに、何が快か不快かは、特に性的な行為に関しては、社会的文脈によって大きく変わるというところにある。ぼくは女子校生の短すぎるミニスカートが不快だ不快だといい続けているが、もちろん、ベットの中でぼくだけに見せてくれるのであれば、大歓迎なのである。そんなのは、矛盾でもなんでもなく当たり前のことである。くだんの祭りの人だって、年がら年中裸でいるわけでもあるまい。

 確かに、なぜそうなるのか、というメカニズムを説明することは簡単ではない(そういう理屈は、哲学者が「性の両義性」とか言って研究してるので、興味のある人は調べて欲しい)。しかし、多くの人は、説明はできなくても、性的にふるまうべき場所とそうでない場所を自然に区別することができる。

 もちろん、その区別が永遠普遍の真理ではなく、時代や社会によって変わりうるのも確かだ。しかし、くだんの祭りについて言えば、地元だけで合意の上でやっている分には、誰も文句を言う人もいなかったはずである。それをよその場所でも宣伝しようとすれば、地元以外の価値観と衝突する可能性がでてくるのは当然である。それを無条件に受け入れろというのは、むしろ、宣伝する側がよそ様に自分の価値観を押し付けているということになってしまうだろう。

 あの祭りの宣伝に問題がないと思う人は、たとえば、川崎のかなまら祭りのような祭りの写真を、鉄道構内に貼れると考えるだろうか。もしそれがダメだとするなら、いったいどこでその線引きをするのか。考えてみてもらいたい。

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「感動」は数字の中にあるわけではない

 亀田問題が一段落したかと思ったら、落合監督がタイミングよく燃料を投下してくれたみたいで、いろんな方が舌なめずりする音が聞こえるようである(^^)。さっそく落合批判を大々的にぶち上げた評論家の方もいるようだが、ぼくは基本的に落合采配支持である。

 ぼくのスポーツ観についても何度も書いてるけど、スポーツは基本的に勝ち負け最優先の文化だと思う。人類の作った文化の中には、仕事とか芸術とか遊びとか恋愛とかいろいろあるけど、どれも必ずしも何が勝ちで何が負けなのかよくわからない世界だ。もちろん、だからこそ味わいがあるとも言えるのだけれども、不完全燃焼になりやすいところがあるのも事実である。

 そのような人類のさまざまな文化に対して、あえて人工的に勝ち負けをはっきりさせ、勝ち負けだけを目指すところにスポーツの特色があり、それが他の文化にないものを補っているからこそ、独自の存在価値を持ち続けているのである。というのは、実はほとんど山崎正和氏の受け売りなんであるが(^^)。

 この話はプロスポーツになると多少変わってきて、勝ち負けだけでなく興行収入というもう一つの目的にも配慮しなければならなくなるのは事実だ。しかし、前にも書いたように、興行に配慮しすぎた結果として、強くなくても人気がある方が儲かるようになってしまえば、スポーツは文化としては堕落し、プロレス的な娯楽になるしかないのである。

(玉木正之氏なんかは、また例によってホリエモンなんかにたとえているようだが、亀田問題でもわかるように、スポーツではむしろ、勝負より興行を優先させることが堕落につながるのであって、その堕落を防ぐためには、意識的に勝負を最優先にしなければならないのである。少なくとも、その程度は区別して論じてもらいたいものだ。)

 したがって、プロスポーツがプロレス的な娯楽に変質しないためには、まずは勝つと言うことを最優先の目的にし、それに邪魔にならない範囲で興行面にも配慮するというバランスを維持する必要がある。これがぼくが落合采配を支持する基本的な理由である。

 もちろん、これは原則論でしかないので、これだけでは納得しない人もいるだろう。そこで、落合采配を批判する方々にもう一つ言っておきたいことがある。それは、あんたら結局数字しか見てないんですか? ということだ。

 パーフェクト・ゲームというのは、記録である。もちろん、スポーツにとって記録は重要だ。しかし、それはスポーツを観戦した結果を測定して一般化する一つの方法でしかない。スポーツを観戦するという行為の本来の意味は、必ずしも記録には残らない細部にこそあるはずではなかったのか。

 これがもし、山井の球威の変化、岩瀬の調子、試合の流れなどすべてを考慮に入れた上で、交代してもそれほど勝率に変化があったとは言えないのではないか、だからあの継投策は間違いである、というならまだわかる。ところが、批判する人のほとんどは、結局、勝負と感動とどっちが大事か的なことしか言っていないのである。

 感動感動と言うけれど、一言で「感動」と言ってもいろいろあるはずだ。娯楽にたとえれば、単に記録をつぶされたと言って怒るのは、いわば、水戸黄門が印籠を出さないとか、ウルトラマンがスペシウム光線を出さないとか言って怒っているようなものにすぎない。

 もちろん、ぼくだってそういうステレオタイプな感動を全否定する気はない。しかし、いやしくもスポーツ評論家を名乗る方々であれば、仮に批判するにしても、テーマやストーリー展開などすべて分析した上で、印籠やスペシウム光線のような定番を崩してまでやる必然性はなかった、と言うべきじゃないのか。その程度のこともできない「プロ」に、偉そうに他人の仕事にケチをつける資格があるのだろうか。

 はっきり言うけど、ぼく自身は、あの落合監督のギリギリの采配を見て「感動」したし、チームのためにそれを素直に受け入れた山井を見て「感動」したし、プレッシャーの中きっちりパーフェクト・リレーを達成して見せた岩瀬に対しても「感動」した。「感動」は記録や数字の中だけにあるわけではないのだ。

 そもそも、スポーツ・ジャーナリズムの役割というのは、勝つことだけを考えて全力でプレーする選手を観察して、そこから「感動」を「発見」することにあるのであって、選手にお約束のステロタイプな感動芝居を強制することには断じてない。そんなのでいいのだったら、何もわざわざスポーツなんかやらせずに、あらかじめシナリオのある芝居でもやらせときゃいいのだから。

 だから、ぼくなんかにはむしろ、このような安易な批判が起こること自体が、スポーツ・ジャーナリズムの堕落を示していて、亀田問題なんかもその延長線上にあるように思えてしまうのだが、いかがであろうか。

(野村監督のコメントを「批判派」として紹介しているメディアが多いのだが、彼は、他の監督ならやらない采配だという趣旨のことを言っただけで、だから落合がすごいとも言っていないが、だからと言って落合はダメだとも言っていないのである。もちろん、本音では批判したいのかもしれないが、少なくとも、それを明言することは避けている。それを安直に「批判派」として引用してしまうところにも、スポーツマスコミの低劣さを感じる。だいたい、野村克也は、オールスターでイチローがピッチャーで出てきたときに松井に代打を出したぐらいで、空気読まない派の代表格のはずなのである(^^))

(追記:ぼくは野村さんの「敵は我に在り」も落合さんの「落合博満の超野球学」も読んでいるので、お二人の考え方はわりと知っているつもり。)

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手のひら返しの構造

 お祭り騒ぎもようやく一息ついたようなので、封印していた亀田問題をもう一度だけ語ってみようかと思う(^^)。

 大毅 vs 内藤戦後の世論の動向に関しては、一応 YouTube なんかでフォローしていたのだが、今回は、自分の気持ちと世論との間にそれほど乖離はなかった。そこに乖離が生じたのは、興毅がやった謝罪会見のときだった。

 ぼくから見ると、あれでは謝罪になってないだろうと思えるのだが、なんと、世論の半分ぐらいはあれで亀田同情派に回ったらしく、しつこく質問していた記者のことを、やりすぎだとか何様だと思っているんだというような意見もあったという。

 謝罪という行為の社会的機能や意味については、前にも書いたので繰り返さないが、ぼくから見ればやはり、なぜ反則を指示したかという説明は最低限必要なように思える。「興奮していたから」みたいな説明をしていたが、そんなのはお話にならない。試合中なんてほとんど興奮しているはずなのだから、じゃあお前は、また試合になったら同じ反則をするんだろう、と思われても仕方ないではないか。

 そんなわけで、ぼくはどうも世論の変化に納得がいかなかった。これで納得する人というのは、いったい何を怒っていたのだろう。いままでとあの会見とで、興毅が変わったところと言えば、背広を着てやや丁寧な言葉遣い(それでも細かいところはタメ口だったが)をしたということだけだ。

 つまり、世の中の大多数は、亀田家の態度が生意気だったから怒っていただけで、もう逆らいませんと世間様に対して恭順の意を表せば、それで十分に溜飲が下がるということらしいのである(^^)。 もしそうだとすると、結局、世間にとってもこれは勝ち負けの問題だということで、亀田家の勝てば官軍主義を笑えないと思うのだが。。。(^^)

 まあ、この問題についてはこれ以上深入りしないが、この現象は、最近のいわゆる世論の「手のひら返し」の構造をよく示しているように思う。

 もともと、亀田家に対する批判というのは、以下のような複数の論点を孕んでいた。

  1. 亀田家の人間の態度の悪さに対する倫理的な批判(モラル問題)
  2. 恣意的なマッチメイク、八百長、偏った報道などによる作られたヒーロー批判(虚像問題)
  3. 反則行為やその指示に対する批判(ルール違反問題)

 メディアに出始めのころは、もっぱら1の批判が中心だった。それが戦績を重ねるにつれ、2の批判が徐々に高まってゆく。最後に、大毅 vs 内藤戦に到って3の批判が加わることにより、批判派の数が臨界点を超え、最初の「手のひら返し」が起こった。逆に、謝罪会見ではたぶん、1を批判していた人をある程度納得させることに成功した。そのため、二度目の「手のひら返し」が起こった。

 このような現象を、1の論点から批判派だった人から見ると、あいつらが悪い奴だなんてことは最初からわかってたことじゃないか、という風に見えるので、大毅 vs 内藤戦後に世論が手のひらを返したように見える。逆に、ぼくのように、2や3の論点の方を重視している人間からみると、反則で世論が反転するのは当然であり、謝罪会見で再度反転する方が「手のひら返し」に見えるわけである。

 つまり、マスコミなんかでは世論が移り気だみたいなことを安直に言うけど、たぶん、一人一人の一般庶民から見れば、自分のプリンシプルや倫理感覚にしたがって、首尾一貫した判断をしているだけなのである。ところが、そのプリンシプル自体がかなり多様化しているため、結果的に、ある臨界点を越えるような出来事があったときに、世論が一気に反転するように見えるだけなのだ。

 むしろ、かつてはあまりこういう現象が起こらなかったこと自体が、かつての世論が、マスコミや識者の誘導に流されていたことを示しているのだろう。そういう意味で、このような「手のひら返し」現象は、マスコミや識者がしたり顔で言っているような、世論の衆愚化を示しているわけでは決してなく、むしろ、世論の多様化やメディア・リテラシーの向上を示しているのだと、ぼくは思っている。

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バイオ燃料批判本格化か

 以前、アメリカの ABC で放送したエタノール懐疑論を紹介したことがあったが、バイオ燃料批判もやや本格化してきた模様。

バイオ燃料は世界中で飢餓を増長、国連専門家が警告(CNN)

ジュネーブ大学とソルボンヌ大学で教授を務めるジーグラー氏は25日、国連人権委員会で、食料ではなく農業副産物から燃料を作り出せる技術が確立するまで、バイオ燃料の生産に猶予期間を設けるよう主張。翌26日に開いた記者会見で、「農地をバイオ燃料のために捧げることは、人類に対する犯罪だと言える。一刻も早く、世界中で起こっている飢餓による大量虐殺を阻止しなければならない」と述べた。

食糧をエネルギーに、この転換は正しいのか(東洋経済)

 論者は、かのジェフリー・サックス氏。

 世界の食糧需要の増加、トウモロコシなどの食糧用から燃料用への転換、大きな気候変動という“三つの脅威”がそれぞれ重なり合って、数年前に予想されていた以上に世界の食糧の需給は逼迫し、価格上昇を招いている。

  しかし残念なことに、今までのところ、こうした農業の変化に取り組むため、積極的に指導力を発揮した国はない。むしろ逆に、そうした動きを加速する政策が見られるのだ。たとえばアメリカでは、トウモロコシや大豆を燃料生産に転換させるために巨額の補助金を出しているが、こうした政策は方向が間違っているといわざるをえない。

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「メロンパンのうた」について

 コンビニの有線でかわいい女の子がメロンパンの不条理について切々と歌っていたのが気になって、早速検索してみたところ、こういうことらしい。この中で言及している、YouTube にアップされたプロモーションビデオというのが下の動画。このビデオ自体も、「みんなの歌」や「ポンキッキ」みたいな子供番組風で、なかなかよくできてるよね。

 ところで、このビデオを検索してる途中で偶然見つけてしまったんだけど、早速この歌詞が嘉門達夫の何かのパクリだみたいに言ってる人がいて、うんざりしてしまった。

 この手の安易なパクリ指摘については、以前にもくだくだ書いたので繰り返さないけど、そもそも、こんなものはアイデアというほどの話じゃなくて、誰でも思いつくようなことでしょ? それをいちいちパクリだとかっていうのは、「パンダは何食ってんだ、パンだ」という洒落は林家三平のパクリだから絶対に言ってはいけない、とか言うようなもんであって、そんなもんぜんぜん意味ないんですよ。

 著作権を絶対化するな、という話は、いろんな人がもっと理論的に精緻に述べているので、興味のある人は調べて欲しいけど、こんなの、そういう理屈以前に、直感的におかしいと思わんか? そういうイジワルな風紀委員みたいな行動パターン、いい加減やめてくれよな~。ホントに息苦しくて窒息しそうになる。

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いいメモダイエット事件について

  知っている人は知っていると思うが、いいメモダイエット事件というのがあった。詳細は検索でもして調べていただきたい(ぼくもそれ以上のことは知らない)のだが、簡単にまとめれば、岡田斗司夫氏が「いつまでもデブと思うなよ」という本で説いたレコーディング・ダイエットという手法を勝手に利用した「いいメモ」というウェブサイト(ちなみに、このサイトに利用は無料だったらしい)ができたことに対し、岡田氏が著作権の侵害を主張したという事件だ。

 それに対し、ネット上では、アイデアは著作権で保護されないのではないか、といった批判が出ていたわけだが、今日になって、岡田氏のウェブサイトに、そういう批判に対する回答とも思われる記事がアップされていた。

 部分引用は禁じられているようなので、詳細は読んでいただくしかないが、岡田氏が防ぎたいと思っているのは、権利の侵害というよりも、自分の主張がねじまげられて伝えられることらしい、ということはわかったような気がした。もちろん、それはこの記事を額面どおり受け取った解釈で、本当は自分だけで利益を独占したいだけだろ、みたいな解釈をする人は当然いるだろうけど、議論を拡散させないために、ここではあえて額面通り受け取ることにする。

 ただ、その手段として、著作権侵害を主張することが妥当であるかどうかは、やっぱり別の話だと思う。それだったらまず、「あなたがたは私の意図を間違って伝えていますよ」ということを伝えて、訂正を依頼したほうがよかったのではないだろうか。もちろん、それはあくまで依頼であって法的な強制力があるわけではないから、相手が無視すればそれまでだが。

 でも、法的な強制力がなくてもできる、もっと現実的な方法だっていろいろあるはずで、たとえば、「岡田式レコーディング・ダイエット認定証」みたいなものを勝手に作って発行してしまうという手もある。この方法なら、公権力や相手の協力がなくても自分だけの責任で行え、なおかつ、相手が自分の考えを意図通り伝えているかどうかを明確にアピールできると思うのだが、いかがであろうか(^^)。

 もちろん、これはぼくの独創でもなんでもなくて、フランスのワインとか松坂牛とかでもさんざんやっている使い古された方法にすぎないから、岡田さんともあろう人が、それに気づいていないとも思えない。ぼくがこの事件に一番違和感を感じるのもそこで、きわどいパクリや便乗商品の歴史などさんざん知り尽くしているはずの岡田さんが、まるで「純粋まっすぐ君」のような主張をしていることである。だからやっぱり、体重が減ると思考回路にも影響があるのかしら、なんて思ったりもしてしまうのだが(^^)。

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芸術におけるアマチュアリズムの意義

 柄にもなく初音ミクの記事など書いたところ、各所でリンクしていただいたらしく、突然トラフィックが増えてしまい、たくさんの方に読んでいただけるのは誠にありがたいことですと建前的にお礼を書きつつ、心の中ではややプレッシャーを感じている Studio RAIN です(^^)。

 もっとも、あの記事は必ずしも意をつくしたものとは言いがたく、特に、アマチュアリズムの意義については、一般に意義があると思われている例をあげただけで、なぜ意義があるのかについての価値論な説明を省いているので、あれだけではアマチュアリズムの意義について納得できない読者も多かろうと思う。そこで、芸術一般におけるアマチュアリズムの意義について、少し補足しておきたい。

 初音ミクがらみの CGM に関する議論を眺めてみると、CGM の存在意義の判定基準として、CGM はプロの商業作品に匹敵するような芸術的価値を生み出せるか否か、ということをなんの疑いもなく尺度にしている方が多いように思われる。また、これより多少 CGM の意義を積極的に評価している人でも、それはあくまである種の遊びとしての価値であって、プロの芸術とはまったく無関係である、と認識している方が多いように思われる。

 しかし、ぼくが認識する、芸術におけるアマチュアリズムの意義というのは、このどちらでもない。 アマチュアリズムの意義は、アマチュアが自ら芸術作品の製作に携わるというその行為自体にあり、結果として生まれてくる作品の質には関係がない(あえてわざわざ「下手糞な」と書いたのはそのためだ)。

 また、アマチュアが芸術作品の製作に携わるという行為は、アマチュアの鑑賞力を高めることにつながり、その結果、プロの芸術家がより質の高い作品を生み出す誘引になるはずである。したがって、アマチュアリズムは決してプロの芸術と無関係ではなく、プロの芸術を含む芸術文化全体に貢献するはずだ。これがぼくの主張である。

 たとえば、厳密な意味では芸術とは違うが、スポーツについて考えてみよう。プロ野球の商業的価値が、観客の存在によって生み出されていることは言うまでもないが、観客が試合をどれだけ楽しめるかが、観客が持つ野球の知識に依存していることは明らかだろう。もし、遅い球より速い球の方が打ちにくいとか、ど真ん中の球よりコーナーぎりぎりいっぱいの球の方が打ちにくいという知識がなければ、投手と打者の間のかけひきを楽しめないのはほとんど自明だ。

 しかし、実はこのような知識も、単に知識として知っているだけでは十分とは言えないのである。実際のスポーツはすべて応用問題であって、真ん中の速い球とコーナーの遅い球ではどっちが有効か、といった複雑な問題の集合体だ。このような問題に答えを与えるのは、実際に試合の中で体験しているプレーヤーの肉体感覚以外にない。

 したがって、そのような技術的な問題を観客が本当に理解しようと思ったら、たとえバッティングセンターでもよいから、120 km の球を打ってみるといった経験が必要なのである。そのような経験があってはじめて、それより 30 km も速い球を打つのがどれだけ難しいかということが、実感としてわかってくるはずだ。

 つまり、プロ野球というのは、あくまでも、草野球やバッティングセンターで下手なプレーを続けているアマチュア・プレーヤーの延長線上にあり、そのようなアマチュアリズムが存在するからこそ、存在意義を失われずにいられるのだと考えられる。したがって、プロスポーツの価値も、アマチュアスポーツの価値も、スポーツ文化全体の中で考えてこそ、初めて適切に位置づけられるのである。

 芸術を鑑賞するという行為の意味は、スポーツよりは少し説明が難しいが、ぼくはやはり、作り手の製作過程を追体験することが鍵だと考えている。たとえば、音楽にしてもそうだ。ぼく自身も子供の頃はそうだったが、今では音楽に一家言あって、オーケストラのどのパートでもきちんと聞き分けられる人でも、かつては、パートの聞き分けができない時期もあったはずである。

 ところが、そのような段階で認識されている楽音というのは、単なるフーリエ変換のスペクトルのようなものにすぎないので、対位法やコードとメロディの絡み合いの面白さなどわかるはずもない。そのようなスペクトルからさまざまなパートを聞き分けることによって、初めて音楽の面白さがわかってくるわけだ。つまり、音楽を鑑賞するということは、音楽が製作される過程を逆算して追体験することと同じなのである。

(直接スペクトルを操作して創作を行うという、スペクトル楽派のような方法論が存在することも知っているが、たとえこのような音楽であっても、鑑賞者にとっては、やはり製作者がロジカルに行っている製作過程を追体験することが重要であるとぼくは考えている。)

 だからこそ、音楽の鑑賞力を高めるためには、楽器を操ってみたり、作曲の真似事をしてみたりして、自ら製作の過程に携わってみることが決定的に重要なのである。 ぼく自身も、(最近は忙しくてやっていないが)キーボード演奏や DTM を趣味にしていたことがある。もちろん、他人様にお聞かせできるような水準の作品はほとんど生まれなかったが、このような経験によって、芸術を見る眼は明らかに変わったことを実感している。

 このように考えると、芸術におけるアマチュアリズムの重要性というのは、ほとんど自明なようにも思えるのだが、なぜその重要性が多くの人から忘れられてしまったのだろうか。それはおそらく、産業革命以降の社会の分業化に理由があると考えられる。

 もともと、中世以前の社会では、生産者と消費者の区別は、それほど明確ではなかったはずである。王侯貴族はともかく、一般庶民にとっては生活必需品のほとんどが自家製でまかなわれ、市場で購入されるのは、一部の特殊な商品だけであったに違いない。

 「大草原の小さな家」シリーズの前半なども、時代的には中世とは言えないが、生活必需品のほとんどがが自家製であったことがうかがえる。中でも印象深いのは、この家のお父さんがバイオリンの演奏を愛好し、その演奏を一家で楽しんでいることであり、この頃には、芸術もまさに自家製であったことがうかがえるのである。

 その後、産業革命や分業化により、生産者と消費者は商品ごとにはっきりと分かれることになったが、芸術分野においてプロとアマチュアが明確に分化したのも、おそらくこのときではなかっただろうか。さらに決定的な出来事は、複製芸術の普及である。これにより、少数の天才芸術家が作り出した作品を、多くの一般大衆が購入して鑑賞するということが可能になり、芸術作品が市場で他の商品と同じように流通するようになったわけだ。それとともに、自家製芸術に対するニーズも失われていったのだろう。

 しかし、勘のいい人はすでにお気づきのように、芸術作品と他の商品では、その効用の認識過程に決定的な違いがある。芸術作品では、先に述べたように、製作の過程を追体験することによって効用が生み出されるが、一般の商品はそうではない。たとえば、歯ブラシの価値を知るために、歯ブラシの製造工程を知る必要があるかと言ったら、そんなことはまるでないわけで、歯ブラシの価値は使ってみて便利かどうかだけでほぼ決まる。

 それが証拠に、歯ブラシ界には、下手糞だけれども趣味で歯ブラシを作り続けるアマチュア歯ブラシ職人などほとんどいないし、そのようなアマチュアの存在に業界が依存しているなどという話も聞いたことがない。つまり、歯ブラシ業界は、実用的な歯ブラシの使用価値だけで十分存続しうるのであって、そこが、スポーツや芸術と根本的に異なるところなのである。 

 もちろん、工芸品などになると、生産過程を知ることによってさらなる付加価値がわかってくるということもあるのだが、それはむしろ、使う側の見方の問題で、使う側があえて、商品を単なる道具ではなく芸術作品として認識しているということになるわけだ。

 つまり、芸術活動は本来、完全には生産側と消費側に分離できないはずなのだが、近代以降、擬似的に一般商品と同じように扱われるようになった。その結果として、芸術におけるアマチュアリズムの意義が、軽視されるようになったのではないかと考えられるわけである。

 このことにはもちろん功罪があって、だからこそ、多くの庶民が天才芸術家の作品に直接触れることができるようになったわけだが、その一方で、鑑賞力の低下による商業芸術の通俗化を招くことにもなった。たとえば、家元制をとっているような伝統芸能では、現在でも製作と鑑賞が分業化されていないところが多々ある。もちろん、それが商業的な成功をもたらしているとは言いがたいかもしれないが、だからこそ通俗に堕することが防がれているとも言える。

 ぼくは必ずしも Web2.0 マンセー派ではないのだが、CGM というものを、近代以降軽視されていたアマチュアリズムの復権として位置づけることは可能ではないかと思うのだ。おそらく、多くの人が指摘するように、CGM で生み出される作品のほとんどはくだらない作品であるに違いない。しかし、それを恐れる必要はないのであって、くだらない作品を生み出すという活動の集積こそが、芸術文化全体を下支えし、結果としてより高度な芸術作品の誕生に貢献するのはずなのである。

 ちなみに、初音ミクを開発したクリプトン・フューチャー・メディア社長の伊藤博之氏もぼくと同じような歴史観をお持ちのようなので、最後に引用させてもらうことにする。

 人間はそもそもプロシューマだと思うんです。原始時代から、自分たちでモノを作り、消費しているわけですから。しかし、個人ですべてを行うのは効率が悪いので、分業が進み、都市が形成され、経済システムが構築されました。

  ただ、この一連の人間社会の発展は、CGM(消費者生成メディア)の登場で折れ曲がったような印象を持っています。そもそもプロシューマだった人間が、生産者と消費者に分かれ、なぜかそこには大きな溝までできてしまっています。

 その違和感が顕在化し始めており、CGMの登場をきっかけとして、人類の歴史をさかのぼるというような動きが生まれているのではないでしょうか。例えば、著作権というテーマで考えれば、「クリエイティブコモンズ」のようなものができ、生産者と消費者の切り分けを気にせずに著作物を活用していこうというような流れです。

 こうした流れは都市の見直し、さらには経済システムの見直しというところまで進むのではないでしょうか。おそらくCGMの本質は、「みんなで何かを作って楽しいよね」というところにあるのではなく、社会全体の在り方を変えていくというところにあると、わたしは思っています。

(追記: 以前に斉藤美奈子氏の「文章読本さん江」を批判したときにも同じような論法でアマチュアリズムを擁護していたのを思い出したのでリンクしておく。歯切れが悪く見えるかもしれないけど、このように、意外としつこく首尾一貫してるのである(^^)。)

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初音ミクの意義について

 久しぶりにはてなを除いてみたら、初音ミク現象を批判して叩かれてる人を見つけた。文章の妙なところに力が入っていたり、オタク嫌いが露骨に表明されていたりするところは、華麗にスルーするにしても(^^)、ぼくもやはり、論旨にいろいろと納得がいかないところがあるので、なるべく他の意見と重複しないように指摘してみたい。

 まず気づくのは、この人のツールの評価基準というのが、あまりに「芸術的意義」に偏りすぎていることだ。端的にそれが現れているのは、「想定外の使用法が生まれなければだめだ」という発言だ。

 しかし、ちょっと冷静に考えてみればわかるはずだが、直接的に芸術的価値を生み出すツールだけが芸術的価値に貢献するとは限らない。たとえば、デジタル音楽の最も基本的なツールであるシーケンサーにしろハードディスクレコーダーにしろ、基本的にはメーカーの想定内の使い方しかされていないが、それで十分に製作の効率化や低コスト化に役立っている。

 この人は、効率化や低コスト化なんて芸術的価値とは関係ないと考えているのかもしれないが、実際には、効率化や低コスト化による無駄な負担の減少は、間接的に芸術家のクリエイティビティを向上させ、結果としてより優れた芸術の誕生に貢献しているはずであり、その比率はおそらく、この人が挙げているようなギミック的な使い方の貢献度よりよっぽど大きいはずなのである。

 たとえば、写真家の荒木経惟氏はコンパクトカメラを愛用していたそうだが、その理由は、画質がいいとか面白い効果があるとかいうものではなく、単に気軽に撮れるからということだったはずだ。しかし、その気軽に撮れるということが、間接的に芸術的価値を生み出したのだろう。

 同じように、人件費もかからず生身の人間では耐えられないような酷使にも耐えられるボーカロイドは、習作やプリプロダクションの低コスト化によって技術を向上させることに役立つだろうし、実作品においても、ボーカルを低コスト化した分他のパートに金をかけることによって作品全体の質を向上させるといった柔軟性をも可能にするだろう。

 次に気づくのは、この人のアマチュアリズムの軽視である。そもそも、芸術という文化は、製作・鑑賞・批評の三つがあってはじめて成立するのであって、その意味で、下手糞なアマチュアが作品を作るという行為にも、十分な芸術的な意義がある。なぜなら、自ら作るという過程を経ることで、はじめて見えてくるものがあるからだ。

 でなければ、小中学生に下手糞な絵や作文を書かせることになんの意味があるというのだ。教育ではなく、単に才能のない人間を振り落とすためだけのシステムだ、ということになってしまうではないか? あるいは、年寄り連中が下手糞な俳句や川柳を作って楽しんでいるのは何の意味があるというのだ。単なる自己満足でしかないとでも言うのかな?

 このように、プロの商業芸術だけでなく芸術文化全体を視野に入れれば、アマチュアでも手軽にボーカルの入った DTM を製作することを可能にするボーカロイドは、芸術文化に対して十分な貢献ができると言えよう。

 最後に、この人が言ってるような芸術的価値を生み出す可能性だって、まったくないとは言えないんじゃないかな。技術の詳細を調べていないのでアレなんだが(^^)。

 たとえば、「Last Emperor」のサントラに収録されていて、いまや坂本龍一の代表曲にもなっている Rain という曲があって、これはわりと有名な話だと思うけど、教授はよくこの曲について、「最初はシンセ(Proteus かなんか)のストリングスが入っていたんだけど、ベルトルッチが嫌だというんで生のストリングスに差し替えた。でも、絶対にシンセの方がよかった」みたいなことを言っていた。

 これは、シンセの音が個性的だからというような理由ではなく、シンセの方が下手なオーケストラよりもアタックやリリースを自由に調節できてリズム感が出るからだ、というような理由だったはず。もちろん、生で録音した素材をサウンド・エディットで修正することも可能だろうけど、ボーカロイドの方がずっと効率的に同じようなことができる可能性はあるだろう。

(ご存じない方もいるかもしれないが、映画音楽なんかでは、プロが本格的にシンセ・ストリングスを使った作品は結構いろいろある。PSY・S の松浦雅也氏が手がけた「スウィート・ホーム」のサントラなんかも、すべてフェアライトで作ったらしい。これなんかも、よく聴くと生でないことはわかるが、必ずしもそのせいで質が低下しているという気はしない。「Shadow's Trap」なんていう曲では、むしろ、機械ならではのアタックの早さが効果的に生かされている。あるいは、野見祐二氏の手がけた「耳をすませば」なんかも、サントラの方は生だが、イメージアルバム の方はたぶん基本的にシンセ・ストリングスである(「地球屋にて」などは除く)。久石譲氏も「Kids Return」とか「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体」なんかは多分ほとんどシンセ。細野晴臣氏の「銀河鉄道の夜」もおそらくほとんどシンセだろう。)

 この人は CGM に懐疑的なようだが、たとえそこからシリアスな芸術は生まれなかったとしても、「帰って来たヨッパライ」みたいな一種の冗談音楽ができてヒットするなんていう可能性はあながちないとは言えないのではないだろうか。それだって、ある種の芸術的成果だと思うのだが。

 そんなわけで、ボーカロイドは、オタク的なコンテキストを離れても、十分に技術的・芸術的意義があるのではないかとぼくは思うのだが、いかがであろうか(^^)。

(追記: アクセスが多かったので、補足記事を書きました。「芸術におけるアマチュアリズムの意義」参照。)

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ゴアさんとブッシュさんは大差ない

 ゴアさんがノーベル平和賞を受賞したというので、日本のマスコミもなんとなくゴアさんえらいえらいという雰囲気になっているようだが、ぼくはそういう現象をどうしてもあまり素直な眼で見ることができない。というのは、ゴアさんがブッシュさんに負けた 2001 年の大統領選のときのことを思い出してしまうからだ。

 あのとき、日本のマスコミはなんと言っていたか。ほとんどが、ゴアもブッシュも政策には大差ないと言っていたのだ。信じられない人は、新聞の縮刷版でもひっくりかえしてみるといい。その後、この二人がどのような道を歩んだかは、みなさんご存知の通りだ。

(もちろんそこには、冷戦の終了による共産主義の衰退とか、ネオコン/ネオリベの台頭とかにより、保守とリベラルの違いが見えにくくなっていたという背景があるのは確かなのだが)

 念のために言っておくが、ブッシュさんもゴアさんも、当選してから、あるいは、落選してから豹変したというわけでは必ずしもない。ぼくは、当時まだ若くてマジメだったから(というより、不健全な懐疑の精神に満ち満ちていたから(^^))、選挙中に両者の公約をチェックしてみたことがあるのだが、京都議定書の離脱だとか同性愛者に対するなんちゃらであるとか、その後ブッシュさんが物議をかもすことになる政策の多くは、当時からちゃんと公約に書いてあった。だからぼくは、後になって京都議定書の離脱とかで大騒ぎしているマスコミを見るたびに、「けっ、何を今頃騒いでやんでえ」とせせら笑っていたものである(性格悪くてすいません)。

 そういうわけで、以来ぼくは、日本のマスコミの海外報道というものを、あまり信用しなくなった。また、ぼくは当時からゴアさん支持だったのだが、今頃になって、ゴアはえらい、ブッシュは○○、みたいなステロタイプなイメージを喧伝している日本のマスコミの尻馬に乗る気にもあまりなれないのである(^^)。

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アルメニア人大虐殺

 恥ずかしながらぼくも知らなかったのだが、第一次世界大戦の頃にトルコ人によるアルメニア人虐殺という事件があったそうな。しかし、トルコ政府はこれを認めておらず、「歴史認識」に関する論争が長いこと続いているんだとか。

 で、これも日本ではあまり報道されてないから書くけど、先日、アメリカの下院が、この事件を「大虐殺(genocide)」と認定する決議案を承認したんだそうだ。

(特に、朝日が完全に無視してるのは不思議だ。読売や日経には一応出てるのに。こういうことするから、変に勘繰られるんじゃないのか)

 トルコという国は、イスラム教徒の多い国家であるにもかかわらず、イラク戦争でアメリカ軍に飛