野球の短期決戦におけるリスクとリターンのトレードオフ

 これも説明が面倒なので、大分前に予告しただけで放置してあったネタ。でも、これ以上ずるずる放置しておくと、野球のポストシーズンも終わって旬を過ぎてしまうので、このへんでがんばって仕上げてみよう。

 実は、幼馴染の友達に野球の記録マニアがいたおかげて、野球の記録分析には子供の頃から興味を持っていた。最近のセイバーメトリクスなどはあまりフォローしていないので、多少知識が古くなっているとは思うが、おそらく、平均的な日本人はもちろん、平均的な野球ファンとくらべても、野球の記録分析には詳しい方だと思う。

 そのようなぼくが長年思っていたことなのだが、従来の野球の記録分析手法には大きく欠けた部分がある。それは、扱われる統計量が平均値ばかりで、分散や偏差、あるいは、全体的な確率分布などがほとんど問題にされないことだ。

 もちろん、宇佐美徹也氏を筆頭とする野球記録研究者の方々は、それなりに立派な仕事をされてきたと思う。ただ、これまでは現代的な統計の知識自体が世の中にあまり普及していなかったので、そのような手法を取り入れる研究者自体が少なかっただろうし、もしいたとしても、そういう議論についてこれる読者も(とくにそういう記事が発表されるような媒体には)あまりいなかったのだろう。

 しかし、分散や偏差の分析が野球の戦略にとって重要でないはずがないのである。たとえば、野球の戦略に関する議論ではよく、バントで確実に点をとるか、それとも一発を狙って大量得点を期待するか、みたいなことが問題になるが、これはまさしく、分散(リスク)の小ささと平均値(リターン)の大きさのトレードオフの問題だ。同じような問題は、ちょっと考えるだけで枚挙に暇がない。しかし、これまでの野球記録分析の手法では、分散や偏差という概念がないため、このようなトレードオフの問題を量的に扱うことができず、定性的な議論しかできなかった。

 そのせいもあってか、このような場合にどのような戦略を選ぶかは、監督の好みや哲学の問題とされる傾向が強かった。もちろん、だからこそ、ファンの一人一人が自分の価値観や人生哲学を重ね合わせて議論を楽しめたという面もあるが、どちらがより正しい戦略かという問題に、論理的な回答が提示されることはなく、戦略の評価は主に結果だけで決められてきた。

 この小論では、野球においてリスクとリターンのトレードオフが問題となるような典型的な事例の一つを取り上げ、それを統計的なモデルに基づいて分析することにより、どちらがより正しい戦略かという問題に論理的な解を与える。それを一つの分析事例として読んでいただくことにより、野球記録分析において分散や偏差を考えることの利点を少しでも理解していただければ幸いである。


・おまけ

 以下の計算に使ったスプレッドシートを無料公開しちゃいます。以下の議論が理解できなくても心配ありません。防御率と標準偏差の数値を入力するだけで、シリーズの結果を予想できちゃいます。マクロも何にも使ってない単純なシートですから、この程度のシミュレーションだったら意外と簡単にできるということもおわかりいただけるでしょう。

 コピーや改変をしてもかまいませんが、自分で作ったとウソつくのだけはやめてください。こっちがウソつき扱いされてややこしいことになりますので。あと、シミュレーションの結果について、「これはコンピュータで予想したんだから間違いない」とかなんとか大袈裟なことを言うのも絶対にやめてください。ぼくがそんな大それた主張をこれっぽっちもしていないことは、以下の議論をちゃんと読んでいただいた方にはわかるはずです。

 以下の議論ではクライマックスシリーズのような 5 試合のシリーズを想定していますが、せっかくこの時期ですから、日本シリーズ用の 7 試合バージョンも作ってみました。

 このスプレッドシートがどのような理論モデルに基づいているのかを理解した上で正しく利用したい人は、ぜひぜひ、以下の小論を読んでくださいませ。それでは。


・短期決戦の戦略

 日本シリーズやクライマックスシリーズのような短期決戦において、戦略としてクローズアップされることが多いのは、先発投手の選択である。たとえば、エースにはエースを、二番手には二番手をぶつけるという戦略もあれば、西武黄金時代の森監督のように、あえてエースを2戦目に持ってくるというような戦略もあるようだ。ここでは、そのような戦略の是非を、単純なモデルによって考えてみよう。

 まず、試合数は 5 試合で、勝ち越したチームが優勝とする。各チームには投手が 5 人ずついて、それぞれが 1 試合ずつ登板するものとする。また、登板した投手は必ず完投し、投手交代はないものとする。そして、各試合の失点は、登板した投手の防御率だけで決まるとする。つまり、監督にできることは、各試合の先発投手を選ぶことだけで、それだけでシリーズ全体の結果が決まるという、極めてシンプルなモデルを考えるわけだ。

 失点が防御率で決まると言っても、防御率 2 点の投手はどの試合でも必ず 2 点しかとられないという意味ではない。それでは問題が単純になりすぎるし、リスクを論じることもできなくなる。そうではなくて、防御率 2 点の投手は、ある試合ではちょうど 2 点とられることもあるが、別の試合では完封することも大量点をとられることもあって、平均すれば 1 試合あたり 2 点とられるという風に考えるのだ。そうすれば、リスクの問題を論じることが可能になる。

・得失点の確率分布

 ここで問題となるのは、各試合の得失点がどのような確率分布をするのかということだ。ここでは便宜上、得失点は正規分布をするということにしておく。

(注:なぜ得失点の確率分布が問題になるのかという問題設定の意味自体がわからない人は、以下の議論をとばして「エース同士をぶつける戦略」から読んでくれてもかまわない。それでもこの小論の意義はある程度わかっていただけるはずである。) 

(注:実は、誰かが似たようなことを考えているに違いないと思って、インターネット上を探し回ってみたのだが、野球の得失点の確率分布について論じた記事は、ほとんど見つけることができなかった。しょうがないので、一生懸命自分で考えたわけだが、このこと自体が、野球の記録分析において、いかに分散や確率分布の分析がかるんじられているかということの、一つの例になっていると思う。)

 その根拠の一つは、中心極限定理だ。野球の1試合の得点は、各イニングの得点を合計することによって決まる。ということは、各イニングの得点がどのような確率分布をとったとしても、9 イニングの平均をとれば、中心極限定理によって、正規分布に近づくはずである。

 と言っても、たかだか 9 イニングでは、どこまで中心極限定理が効いてくるか、心もとないと思う人もいるだろう。そこで、各イニングの得失点の確率分布が正規分布にどれだけ近いかも検証しておこう。ここでもまず、打者の打率は全員同じ、結果は必ずアウトかホームランという、超シンプルなモデルを想定してみる。すると、各イニングの得点の確率分布は、打者が 3 回アウトになるまでに、何回ホームランを打てるかという分布になる。

 これはベルヌーイ過程の一種であり、二項分布幾何分布の中間のような分布になるのではないか、ということは多くの人に想像がつくだろう。学者というのは偉いもので、このような分布にもちゃんと名前がついていて、これを負の二項分布という。負の二項分布の計算法などは関連する文献を参照していただくことにして、このモデルに基づいて計算した各イニングの得失点分布は下のグラフのようになる。

 負の二項分布による得失点分布.jpg

 色分けされた線は、それぞれ、打率 0.1、0.2、0.3、0.4、0.5 の場合の得失点分布を表している。たとえば、打率 0.3 の場合なら、イニングの得点が 0 点である確率が 0.35 ぐらい、1 点である確率が 0.3 ぐらいというふうになる。こうしてぱっと見ただけでも、たとえば瘤がたくさんあるような、正規分布とかけ離れた分布ではないことがわかる。

 試しに、この負の二項分布とまったく同じ期待値と標準偏差を持つ正規分布でこの曲線を近似してみると、下のグラフのようになる。 

負の二項分布の正規分布近似.jpg 

 ご覧ののように、上のグラフとかなり似ていることがわかる。先に述べたように、1 試合当たりの得失点分布では、これにさらに中心極限定理が働くことを考えれば、得失点分布を正規分布で近似してもそれほど問題はないと思われる。ということで、以後の議論では、得失点分布が正規分布であると仮定する。

 なお、正規分布は実数上の連続分布であるが、実際の野球の得失点は自然数上の離散分布であるという問題もある。ここでは、計算を簡単にするため、得失点も実数であると仮定する。つまり、1.23 点対 1.45 点でチームAの勝ち、というようなことが起こり得るようなルールになっていると仮定する。

(注:確率過程論に詳しい方ならお気づきだと思うが、マルコフ過程などを使えば、単打や盗塁なども考慮に入れた、より精密なモデルを作ることも可能だ。しかし、仮にそうしたとしても、結論はおそらくこの負の二項分布のモデルとそう大差ないものと思われる。もちろん、学者さんとかならそのへんもっと論理的に詰めるのであろうが、ぼくは一介のアマチュアだし(^^)、そこまでやる能力や時間はないので、この程度のモデルで誤魔化しておくことにする。もし、マルコフ過程を使って得失点分布の計算をしたという奇特な方がいらしたら、ぜひ結果をご教授いただきたい。)

(注:実は、2007 年の大リーグのデータを利用して、正規性の検定などもやってみたのだが、残念ながら、危険率 5% 以内で正規分布であるとは言えなかった。この項目がなんとなく歯切れ悪く書いてあるのはそのせいでもある。もっとも、この小論でとりあげるのはかなり大雑把なモデルなので、瘤がいくつもあるような特異な分布でない限り、結論に大きな差はないと思われる。気になる人は、いろんな分布で試してみて欲しい。) 

2007年大リーグの得失点分布.jpg

・エース同士をぶつける戦略

 さて、基盤となるモデルが定まったところで、いよいよ、先発投手の選択が勝負の結果にどう影響するかを見てみよう。対戦するのはチームAとチームBの 2 チーム。チームAの投手は、防御率 1、2、3、4、5 点の 5 人。チームBはこれより少し弱くて、防御率 2、3、4、5、6 点の 5人がいるとしよう。そして、防御率の標準偏差は、すべて 1 点であるとする。

(注:あらかじめ白状しておくと、この標準偏差 1 点というのは、結果が極端に現れるように、わざと少なめに設定した数字である。2007 年の大リーグのデータを何チーム分か調べたところによれば、チーム得失点の標準偏差はだいたい 3 点ぐらいであった。また、先程の負の二項分布を見ればわかるように、実際にはおそらく、防御率の標準偏差も投手によって異なり、防御率が増えるにしたがって標準偏差も大きくなると思われる。現実の野球戦略に以後の議論を応用したいと思っている人は、そのような点も考慮していただきたい。)

 まず、エースにはエース、二番手には二番手をぶつけるというタイプの戦略の結果を考えてみよう。この戦略では、チームAの防御率 1 点の投手と、チームBの防御率 2 点の投手が対戦することになる。先に述べたように、もし偏差がなければ、この試合の結果は常に 2-1 になって、必ずチームAが勝つ。つまり、チームAの勝率が 100% になる。しかし、このモデルではどちらの防御率にも 1 点の偏差があるのでそうはならない。では、この試合のチームAの勝率はどうすれば計算できるだろうか。

 そのためには、チームAとチームBの得点差の確率分布というものを考えればよい。得点差がプラスならチームAの勝ち、マイナスならチームBの勝ちであるから、得点差が 0 点より大きい確率と小さい確率がそれぞれチームAとチームBの勝率になる。好都合なことに、正規分布同士の差はやはり正規分布になるという定理があるから、得点差の分布も正規分布として計算できる。その結果は、下の表のようになる。

試合シアイ

チームA

チームB

差の分布

勝率

 

防御率

標準偏差

防御率

標準偏差

得失点差

標準偏差

チームA

チームB

1 1.00 1.00 2.00 1.00 -1.00 1.41 0.76 0.24
2 2.00 1.00 3.00 1.00 -1.00 1.41 0.76 0.24
3 3.00 1.00 4.00 1.00 -1.00 1.41 0.76 0.24
4 4.00 1.00 5.00 1.00 -1.00 1.41 0.76 0.24
5 5.00 1.00 6.00 1.00 -1.00 1.41 0.76 0.24

 このように、各試合の勝率が求まれば、5 試合で各チームが何勝ずつするかという確率の分布が計算できる。たとえば、1 試合目だけチームBが勝ち、以後の試合はすべてチームAが勝つ確率だったら、0.24×0.76×0.76×0.76×0.76=0.08 である。この確率を、考えられるあらゆる勝敗パターンについて計算して、それを勝数ごとに集計したものが勝数の確率分布になる(この戦略に限って言えば、どの試合も勝率が同じなので、確率分布は二項分布でも計算できる。ただし、このことは一般の戦略には当てはまらない)。このような計算も、手計算でやればかなりの重労働だが、幸いなことに今は文明の利器コンピュータというものがあって、Excel を使えばたいした手間もかからない。その結果は下の表のようになる。

 

チームA

チームB

勝数

確率

期待値

分散

確率

期待値

分散

0 0.00 0.00 0.01 0.25 0.00 0.36
1 0.01 0.01 0.10 0.40 0.40 0.02
2 0.08 0.16 0.26 0.25 0.51 0.16
3 0.25 0.76 0.16 0.08 0.24 0.26
4 0.40 1.60 0.02 0.01 0.05 0.10
5 0.25 1.27 0.36 0.00 0.00 0.01

 

勝ち越し率

平均勝数

標準偏差

勝ち越し率

平均勝数

標準偏差

  0.91 3.80 0.95 0.09 1.20 0.95


 説明するまでもないと思うが、3 勝以上で勝ち越しであるから、この分布から 3 勝以上の確率を合計すれば、シリーズの優勝確率が求められるわけである。この戦略の場合、チームAの優勝確率が 0.91、チームBの優勝確率が 0.09 である。それとは別に、各チームの平均勝数と勝数の標準偏差も計算しておいた。この 2 つの数字は、後で戦略同士を比較する際に重要な役割を果たすので、楽しみにしていただきたい。

・捨てゲームをつくる戦略

 このように、エース同士をぶつける戦略とは逆に、自チームのエースをあえて力の劣る投手にぶつけることによって、その試合の勝率を高めるという戦略も考えられる。ただしその場合には、相手チームのエースには逆に力の劣る投手しかぶつけられないことになるので、差し引きどっちが得かが問題になるわけだ。

 たとえば、シリーズ全体で 3 勝すれば優勝なのだから、自チームの上から 3 番目までの投手をなるべく力の差のある投手にぶつけ、残りの 2 試合は捨てゲームとする戦略を考えてみよう。この戦略における各試合の勝率を先程と同じように計算すると、下の表のようになる。

試合シアイ

チームA

チームB

差の分布

勝率

 

防御率

標準偏差

防御率

標準偏差

得失点差

標準偏差

チームA

チームB

1 1.00 1.00 4.00 1.00 -3.00 1.41 0.98 0.02
2 2.00 1.00 5.00 1.00 -3.00 1.41 0.98 0.02
3 3.00 1.00 6.00 1.00 -3.00 1.41 0.98 0.02
4 4.00 1.00 3.00 1.00 1.00 1.41 0.24 0.76
5 5.00 1.00 2.00 1.00 3.00 1.41 0.02 0.98


 ごらんのように、チームAの1、2、3 試合の勝率は 0.98 にまで高まった。その一方で、残り 2 試合の勝率は 3 割以下にまで下がってしまった。これがシリーズ全体の優勝確率にどう影響するだろうか。先程と同じように計算してみよう。

 

チームA

チームB

勝数

確率

期待値

分散

確率

期待値

分散

0 0.00 0.00 0.00 0.00 0.00 0.01
1 0.00 0.00 0.00 0.24 0.24 0.15
2 0.04 0.07 0.05 0.72 1.44 0.03
3 0.72 2.17 0.03 0.04 0.11 0.05
4 0.24 0.95 0.15 0.00 0.00 0.00
5 0.00 0.02 0.01 0.00 0.00 0.00

 

勝ち越し率

平均勝数

標準偏差

勝ち越し率

平均勝数

標準偏差

  0.96 3.21 0.50 0.04 1.79 0.50


 この戦略の場合、チームAの優勝確率は 0.96 になり、先程のエース同士をぶつける戦略よりも 5% ほど向上していることがわかる。

 これがもし、標準偏差(リスク)を考慮に入れていなかったらどうだろう。エース同士をぶつける戦略ではチームAが 5 戦全勝、捨てゲームと作る戦略ではチームAが 3 勝 2 敗。内容の違いはあるが、どちらもチームAが 100% 優勝することになる。つまり、このような戦略の差は、標準偏差(リスク)を考慮に入れることによってはじめて明らかになるのだ。そのことがはっきり示された。

・リスクとリターンのトレードオフ

 ここで注目してほしいのは、チームAの平均勝数である。エース同士をぶつける戦略では、平均勝数は 3.80 だったのに対し、捨てゲームを作る戦略では、平均勝数は 3.21 に下がっている。つまり、平均勝数が減っているにもかかわらず、優勝確率が増えているのである。なぜこのようなことが可能なのだろうか。

 その秘密は、標準偏差、つまり、リスクにある。エース同士をぶつける戦略では、勝数の標準偏差は 0.95 であったのに対し、捨てゲームを作る戦略では、標準偏差が 0.50 にまで減っている。つまり、この戦略は、リターンを犠牲にしてリスクを減らす戦略なのである。

 このへんの事情は、確率分布をグラフにして比べてみるともっとはっきりする。  

エース同士をぶつける戦略の確率分布.jpg

捨てゲームを作る戦略jpg.jpg

 ご覧のように、エース同士をぶつける戦略では、勝数のピークは捨てゲームを作る戦略より右にあるのだが、分布の裾がやや長い。そのため、2 勝以下の確率が結構高くなってしまっているのだ。逆に、捨てゲームを作る戦略では、勝数のピークは左にあるが、分布の裾が非常に短い。そのため、2 勝以下になる可能性がほとんどないわけである。

・弱者の戦略

 これまでは、主にチームAの立場で戦略を検討してきた。今度はチームB、つまり、やや実力に劣る側の立場にたって戦略を考えてみよう。チームBは、次のような戦略をとれば、優勝確率を 0.44 にまで高めることができる。

試合シアイ

チームA

チームB

差の分布

勝率

 

防御率

標準偏差

防御率

標準偏差

得失点差

標準偏差

チームA

チームB

1 1.00 1.00 5.00 1.00 -4.00 1.41 1.00 0.00
2 2.00 1.00 6.00 1.00 -4.00 1.41 1.00 0.00
3 3.00 1.00 2.00 1.00 1.00 1.41 0.24 0.76
4 4.00 1.00 3.00 1.00 1.00 1.41 0.24 0.76
5 5.00 1.00 4.00 1.00 1.00 1.41 0.24 0.76


 

チームA

チームB

勝数

確率

期待値

分散

確率

期待値

分散

0 0.00 0.00 0.00 0.01 0.00 0.07
1 0.00 0.00 0.01 0.13 0.13 0.22
2 0.44 0.88 0.22 0.41 0.83 0.03
3 0.41 1.24 0.03 0.44 1.32 0.22
4 0.13 0.52 0.22 0.00 0.01 0.01
5 0.01 0.07 0.07 0.00 0.00 0.00
 

勝ち越し率

平均勝数

標準偏差

勝ち越し率

平均勝数

標準偏差

  0.56 2.71 0.74 0.44 2.29 0.74


 これもある意味捨てゲームを作る戦略であるが、チームBの場合にはチームAほどリスクを減らすことはできない。

弱者の戦略.jpg

 弱いチームの場合、平均勝数を 3 勝以上(つまり右半分)の領域に持っていくことはできないのだから、平均勝数(リターン)を犠牲にして標準偏差(リスク)を減らすという戦略には意味がない。ここが、強者の戦略と弱者の戦略の根本的な違いである。

・まとめ

 長々とお付き合いいただいたが、いかがであろうか。もちろんここでは、極端に単純化されたモデルにおける、典型的な結果をいくつか示したにすぎない。しかし、野球において平均値(リターン)だけではなく偏差(リスク)を計算することの利点はある程度示せたのではないかと思うし、現実の短期決戦においてもリスクとリターンのトレードオフが生じていることの傍証にもなったであろう。

 もちろん、さらに考えるべきことはたくさんある。途中の注でも言及したが、得失点分布のより精密なモデルを作って実測データで検定してみるのもいいだろう。これはほとんど労力だけの問題だ。投手力だけではなく打力や守備力まで考慮に入れたモデルを作ってみるのも面白い。また、最適な投手起用法に関するもっと見通しのよい一般理論を考えるという課題もある。これはヒマなときにつらつらと考えてはいるが、まだアイデアがまとまっていない。もっとも、ぼくごときが余暇の範囲できることは限られているので、この記事をとっかかりにしてさらに考察を深めてくれる方がいらっしゃれば幸いである。

 ぼくがこの理論からまず連想するのは、西武ライオンズ黄金時代の森監督の戦略である。森監督は、日本シリーズに 8 回出場して 6 回優勝、6 回目までは 6 連勝を記録した、シリーズに強い監督として有名だったが、シリーズ第一戦ではなく第二戦にエースを登板させる癖があった。本人は、二戦目で勝ったほうが勢いに乗るんだとかなんとか言っていたが、ぼくはあまりその説明に説得力を感じていなかった。今にして思うと、実はエース同士の対決を回避して確実に 1 勝するという意味の方が大きかったのではないかと思う。

 もちろん、森監督以外の監督の投手起用法も、この分析法で分析してみれば、いろいろ興味深い事実が出てくるかもしれないので、機会があればやってみたいと思う。

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これぞ阪神好調の秘密?

 検索してて偶然見つけただけなんだけど、野球を統計的に科学するというセイバーメトリクスの提唱者の一人で、「ベースボール革命―21世紀への野球理論」という本の著者でもあるクレイグ・R. ライトという人が、阪神タイガースに協力しているって Wikipedia の英語版になにげなく書いてあるんだけど、ホントなんすか?(^^)

 もっとも、他の場所を探しても、この Wikipedia のページ(とそれをそのまま引用しているページ)以外のどこにもそんなことは見当たらないので、イマイチ怪しいところもあるんだけど。でも、岡田監督が顔に似合わず(^^)セイバーメトリクスの支持者の一人であるという噂はちらほらあるようだし、本当なのかもね。

 あのバレンタイン監督もセイバーメトリクスの支持者らしいし、これからの野球監督は数学もできないとダメ、みたいな時代になってくのかも知れないね(^^)。まあ、野球マンガとかだと、こういうのは最終的に根性論や精神論に負けることになってるんだけど(^^)。

 そうそう。これはさらに余談ですが、「リスクと期待値のトレードオフ」というのは、実は野球の世界にも存在します。こないだ Excel でいろいろ数字をいじくりまわしているうちに典型的な例を見つけたんで、今度ヒマがあったらご紹介しますね。

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ああ朝青龍

 播磨灘 vs 北道山みたいだったね(^^)。すごいひきつけあい。

 最近あんまり相撲を見てなかった(実は今回も千秋楽しか見なかった)んだけど、あんないい相撲ばっかりだったら、逆に相撲人気は復活するのではないかと思ってしまった。(^^)

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野球は純文学化するかも?

 実は、ここ数年あまり熱心に野球を見ていなかったのだが、今年のクライマックス・シリーズからアジア・シリーズまで久しぶりにちゃんと野球を見てみたら、いろいろと感じるものがあった。

 ずっと見てきた人からすれば何を今更という感じだろうが、たとえば、荒木・井端の一二番コンビ。この二人は、往年の福本・蓑田とか柴田・高田とかに匹敵する、あるいは、ひょっとするとそれ以上の一二番コンビではなかろうか。また、マリーンズやファイターズにしても、長打力なんてほとんどないのに、しぶく小技を使って得点してくるし、野手の守備範囲もめっちゃ広い。

 こういうのを見ていると、なんか、自分が長年見てきて少し飽きかけていた野球というものが、いつの間にか異質のゲームに進化しているような気がするんだよね。

 たとえば、昔は、あんなにヒットエンドランなんて決まらなかったよね。ヒットエンドランという名前だけはあったけど、サイン出てもたいてい失敗で、何回に一回はライナーでダブルプレーだったでしょ。あと、昔は、外野手が間を抜かれて打球の処理にモタモタする間にランナー三塁なんてこと日常茶飯事だったけど、今はほとんどないでしょう。打者の足が遅いと、下手すりゃ外野の頭を越してもシングルヒットだったりするし。

 ひょっとすると、日本の野球は、今までマンガやポップスみたいだったのが、だんだん純文学や現代音楽みたいなものになっていくのかもしれないね。そうすると、一般受けはしなくなるだろうけど、逆にコアなファンは増えるのかもしれない、という気もする。思いつきで書いてるだけだけど(^^)。

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「感動」は数字の中にあるわけではない

 亀田問題が一段落したかと思ったら、落合監督がタイミングよく燃料を投下してくれたみたいで、いろんな方が舌なめずりする音が聞こえるようである(^^)。さっそく落合批判を大々的にぶち上げた評論家の方もいるようだが、ぼくは基本的に落合采配支持である。

 ぼくのスポーツ観についても何度も書いてるけど、スポーツは基本的に勝ち負け最優先の文化だと思う。人類の作った文化の中には、仕事とか芸術とか遊びとか恋愛とかいろいろあるけど、どれも必ずしも何が勝ちで何が負けなのかよくわからない世界だ。もちろん、だからこそ味わいがあるとも言えるのだけれども、不完全燃焼になりやすいところがあるのも事実である。

 そのような人類のさまざまな文化に対して、あえて人工的に勝ち負けをはっきりさせ、勝ち負けだけを目指すところにスポーツの特色があり、それが他の文化にないものを補っているからこそ、独自の存在価値を持ち続けているのである。というのは、実はほとんど山崎正和氏の受け売りなんであるが(^^)。

 この話はプロスポーツになると多少変わってきて、勝ち負けだけでなく興行収入というもう一つの目的にも配慮しなければならなくなるのは事実だ。しかし、前にも書いたように、興行に配慮しすぎた結果として、強くなくても人気がある方が儲かるようになってしまえば、スポーツは文化としては堕落し、プロレス的な娯楽になるしかないのである。

(玉木正之氏なんかは、また例によってホリエモンなんかにたとえているようだが、亀田問題でもわかるように、スポーツではむしろ、勝負より興行を優先させることが堕落につながるのであって、その堕落を防ぐためには、意識的に勝負を最優先にしなければならないのである。少なくとも、その程度は区別して論じてもらいたいものだ。)

 したがって、プロスポーツがプロレス的な娯楽に変質しないためには、まずは勝つと言うことを最優先の目的にし、それに邪魔にならない範囲で興行面にも配慮するというバランスを維持する必要がある。これがぼくが落合采配を支持する基本的な理由である。

 もちろん、これは原則論でしかないので、これだけでは納得しない人もいるだろう。そこで、落合采配を批判する方々にもう一つ言っておきたいことがある。それは、あんたら結局数字しか見てないんですか? ということだ。

 パーフェクト・ゲームというのは、記録である。もちろん、スポーツにとって記録は重要だ。しかし、それはスポーツを観戦した結果を測定して一般化する一つの方法でしかない。スポーツを観戦するという行為の本来の意味は、必ずしも記録には残らない細部にこそあるはずではなかったのか。

 これがもし、山井の球威の変化、岩瀬の調子、試合の流れなどすべてを考慮に入れた上で、交代してもそれほど勝率に変化があったとは言えないのではないか、だからあの継投策は間違いである、というならまだわかる。ところが、批判する人のほとんどは、結局、勝負と感動とどっちが大事か的なことしか言っていないのである。

 感動感動と言うけれど、一言で「感動」と言ってもいろいろあるはずだ。娯楽にたとえれば、単に記録をつぶされたと言って怒るのは、いわば、水戸黄門が印籠を出さないとか、ウルトラマンがスペシウム光線を出さないとか言って怒っているようなものにすぎない。

 もちろん、ぼくだってそういうステレオタイプな感動を全否定する気はない。しかし、いやしくもスポーツ評論家を名乗る方々であれば、仮に批判するにしても、テーマやストーリー展開などすべて分析した上で、印籠やスペシウム光線のような定番を崩してまでやる必然性はなかった、と言うべきじゃないのか。その程度のこともできない「プロ」に、偉そうに他人の仕事にケチをつける資格があるのだろうか。

 はっきり言うけど、ぼく自身は、あの落合監督のギリギリの采配を見て「感動」したし、チームのためにそれを素直に受け入れた山井を見て「感動」したし、プレッシャーの中きっちりパーフェクト・リレーを達成して見せた岩瀬に対しても「感動」した。「感動」は記録や数字の中だけにあるわけではないのだ。

 そもそも、スポーツ・ジャーナリズムの役割というのは、勝つことだけを考えて全力でプレーする選手を観察して、そこから「感動」を「発見」することにあるのであって、選手にお約束のステロタイプな感動芝居を強制することには断じてない。そんなのでいいのだったら、何もわざわざスポーツなんかやらせずに、あらかじめシナリオのある芝居でもやらせときゃいいのだから。

 だから、ぼくなんかにはむしろ、このような安易な批判が起こること自体が、スポーツ・ジャーナリズムの堕落を示していて、亀田問題なんかもその延長線上にあるように思えてしまうのだが、いかがであろうか。

(野村監督のコメントを「批判派」として紹介しているメディアが多いのだが、彼は、他の監督ならやらない采配だという趣旨のことを言っただけで、だから落合がすごいとも言っていないが、だからと言って落合はダメだとも言っていないのである。もちろん、本音では批判したいのかもしれないが、少なくとも、それを明言することは避けている。それを安直に「批判派」として引用してしまうところにも、スポーツマスコミの低劣さを感じる。だいたい、野村克也は、オールスターでイチローがピッチャーで出てきたときに松井に代打を出したぐらいで、空気読まない派の代表格のはずなのである(^^))

(追記:ぼくは野村さんの「敵は我に在り」も落合さんの「落合博満の超野球学」も読んでいるので、お二人の考え方はわりと知っているつもり。)

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手のひら返しの構造

 お祭り騒ぎもようやく一息ついたようなので、封印していた亀田問題をもう一度だけ語ってみようかと思う(^^)。

 大毅 vs 内藤戦後の世論の動向に関しては、一応 YouTube なんかでフォローしていたのだが、今回は、自分の気持ちと世論との間にそれほど乖離はなかった。そこに乖離が生じたのは、興毅がやった謝罪会見のときだった。

 ぼくから見ると、あれでは謝罪になってないだろうと思えるのだが、なんと、世論の半分ぐらいはあれで亀田同情派に回ったらしく、しつこく質問していた記者のことを、やりすぎだとか何様だと思っているんだというような意見もあったという。

 謝罪という行為の社会的機能や意味については、前にも書いたので繰り返さないが、ぼくから見ればやはり、なぜ反則を指示したかという説明は最低限必要なように思える。「興奮していたから」みたいな説明をしていたが、そんなのはお話にならない。試合中なんてほとんど興奮しているはずなのだから、じゃあお前は、また試合になったら同じ反則をするんだろう、と思われても仕方ないではないか。

 そんなわけで、ぼくはどうも世論の変化に納得がいかなかった。これで納得する人というのは、いったい何を怒っていたのだろう。いままでとあの会見とで、興毅が変わったところと言えば、背広を着てやや丁寧な言葉遣い(それでも細かいところはタメ口だったが)をしたということだけだ。

 つまり、世の中の大多数は、亀田家の態度が生意気だったから怒っていただけで、もう逆らいませんと世間様に対して恭順の意を表せば、それで十分に溜飲が下がるということらしいのである(^^)。 もしそうだとすると、結局、世間にとってもこれは勝ち負けの問題だということで、亀田家の勝てば官軍主義を笑えないと思うのだが。。。(^^)

 まあ、この問題についてはこれ以上深入りしないが、この現象は、最近のいわゆる世論の「手のひら返し」の構造をよく示しているように思う。

 もともと、亀田家に対する批判というのは、以下のような複数の論点を孕んでいた。

  1. 亀田家の人間の態度の悪さに対する倫理的な批判(モラル問題)
  2. 恣意的なマッチメイク、八百長、偏った報道などによる作られたヒーロー批判(虚像問題)
  3. 反則行為やその指示に対する批判(ルール違反問題)

 メディアに出始めのころは、もっぱら1の批判が中心だった。それが戦績を重ねるにつれ、2の批判が徐々に高まってゆく。最後に、大毅 vs 内藤戦に到って3の批判が加わることにより、批判派の数が臨界点を超え、最初の「手のひら返し」が起こった。逆に、謝罪会見ではたぶん、1を批判していた人をある程度納得させることに成功した。そのため、二度目の「手のひら返し」が起こった。

 このような現象を、1の論点から批判派だった人から見ると、あいつらが悪い奴だなんてことは最初からわかってたことじゃないか、という風に見えるので、大毅 vs 内藤戦後に世論が手のひらを返したように見える。逆に、ぼくのように、2や3の論点の方を重視している人間からみると、反則で世論が反転するのは当然であり、謝罪会見で再度反転する方が「手のひら返し」に見えるわけである。

 つまり、マスコミなんかでは世論が移り気だみたいなことを安直に言うけど、たぶん、一人一人の一般庶民から見れば、自分のプリンシプルや倫理感覚にしたがって、首尾一貫した判断をしているだけなのである。ところが、そのプリンシプル自体がかなり多様化しているため、結果的に、ある臨界点を越えるような出来事があったときに、世論が一気に反転するように見えるだけなのだ。

 むしろ、かつてはあまりこういう現象が起こらなかったこと自体が、かつての世論が、マスコミや識者の誘導に流されていたことを示しているのだろう。そういう意味で、このような「手のひら返し」現象は、マスコミや識者がしたり顔で言っているような、世論の衆愚化を示しているわけでは決してなく、むしろ、世論の多様化やメディア・リテラシーの向上を示しているのだと、ぼくは思っている。

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ジャンクSPORTSの美学

 「ジャンクSPORTS」というのは、ご存知の方も多いと思うが、ダウンタウンの浜田雅功がメイン MC をつとめ、ゲストに迎えたトップアスリート達をヒナ壇芸人よろしくいじり倒すという番組である。

 ダウンタウンファンのぼくはもちろん、この番組自体好きでよく観ているのだが、中でも前から気になっているコーナーが一つある。それは、「スポーツ・ファンタスティック」の中の「ジャンクスポーツPR大作戦」 というコーナーである。

 これは、たとえばビーチバレーの浅尾・西堀ペアとか、F1 の鈴木亜久里のチームとかに、 ジャンクSPORTSの番組のロゴの入ったものを着用してもらったり、F1 のマシンにステッカーを貼らせてもらったりして、ジャンクSPORTSという番組をタダで宣伝してもらおうという、超ずーずーしい企画、のはずなのだが…(^^)。

 でも、冷静に考えると、平均視聴率 10% 程度を稼ぐジャンクSPORTSの方が、ビーチバレーや F1 レースの試合より、メディアとしてのリーチは大きいはずである。普通、広告というものは、リーチの小さいメディアがリーチの大きいメディアに出すものだが、この企画では、それが逆になっているのである。

 つまり、見かけ上は、ジャンクSPORTSが他のスポーツに宣伝してもらっているように見えるが、実質的には明らかに、ジャンクSPORTSの方が他のスポーツを宣伝することになっているのである。深読みかもしれないが、それをあえて、「宣伝してもらっている」と表現するところに、ぼくは番組スタッフの美学のようなものを感じて、心の中でニヤリとしてしまうのだ。

 もっと深読みすれば、このやり方は、いつも宣伝「してやって」いるのだから、という事実を免罪符にして、いざとなると芸能人やアスリートのプライバシーを暴き立てて食い物にしている、他の芸能マスコミやスポーツ・ジャーナリズムに対する批評にもなっていると思うのだ。

 このようなイエロージャーナリズムの問題点は、ルールというよりむしろ美学の欠如にあるので、論理的な言語では批判しにくいところがある。したがって、そのような美学のなさを批判するには、より美学のあるモデルと対比することが最も効果的なのである。

 そういう意味で、ジャンクSPORTSのスタッフの方々には、今後もぼくの深読みを裏切らないようにがんばっていただきたいものである(^^)。

(ダウンタウンのことを下品な芸人だと思っている人もいるようだが、この例でもわかるように、ぼくは、彼らには強い美学的なこだわりがあると思う。もちろん、それを美しいと感じられるかどうかは、人それぞれだと思うが(^^)。)

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プロ野球の存在意義

プロ野球の存在意義は、その街の人々の暮らしが少し彩られたり、単調な生活がちょっとだけ豊かになることに他ならない。

 いいなあ。謙虚さと責任感の微妙なバランスをわかっていないと、こういう発言はできませんよね。

 こういう発言を自然にできる人、好きです (^^)。

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キャラが立ってきた柳本ジャパン

 甲子園は時間がなくてほとんど観れなかったので、ハンカチ王子とかの話題についていけなくてちょっと口惜しく思っている最近の私です (^^)。

 そのかわりと言ってはなんですが、女子バレーのワールド・グランプリはわりと観てます。国内の V リーグとかはまったく観ていないのですが、柳本ジャパンはメグ・カナのころから観ているので (メグちゃんはどうしちゃったのかな (^^))、だんだん愛着が出てきましたね。

 なんか、このチームはうまいことキャラが立ってますよね。テンちゃんというめちゃ背の低い天才セッターがいて、シンちゃん (ユニフォームにまで SHIN と書いてあるけど (^^)) というこれまた背の低いアタッカーがいて、かおる姫という美形でアタックもできるリベロがいて、カナやスギという背の高いレフト、センターがいて、という感じで。

 外国のチームを見ると、わりとみんな背が高くてパワーがあって、という感じなので、なんか、明訓高校対大リーガーの試合を見てるみたいで面白いです。

 また、みんなの顔もいい感じに引き締まってきましたよね。ぼくもこんなたるんだ顔ではいけない、もっとしぼらないと、と反省しています。。。^_^;

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哀れむ差別、批判する平等

 亀田問題については、当事者に対する毀誉褒貶とは別に、時代の変化みたいなものも感じる。やくみつる氏、勝谷誠彦氏など、亀田親子の礼儀や態度を批判する向きは多いが、たとえばこれが 30 年ぐらい前だったらどうだろう。

 30 年前、つまり、ぼくらが子供の頃はまだ、公立の小学校に行くと、みょーに汚い服を着てきたり、あまりお風呂に入っていないらしく、近寄ると体臭のする子供とかがいたものである。そういう子供に対しては、(子供同士のイジメとかはあっても) 少なくともタテマエ上は、汚いとか臭いとか言ってはいけないことになっていた。

 銭湯に行けば、身体中に派手な絵の描いてある (吉田戦車流に言えば「絵人間」) 人が、ぶっきらぼうな口調でいきなり話しかけてくることもあった。そういう人には、決して口答えせず、適当に話を合わせることになっていた。道端に汚い格好で座って、通行人がお金を投げてくれるのをひたすら待っている人もいた。そういう人に対して、「道端に座ってはいけません」とかお説教する人はいなかった。もちろん、なんとか狩りなどの獲物にする子供も。

 つまり、あのころはまだ、世の中には解決しようのない矛盾というものがあるという意識を、みんなが共有していた。したがって、そのような矛盾の犠牲者と見られる人に対しては、一般人と同じ常識を適用しないという暗黙のルールがあった。

 もちろんこれは、考えようによっては立派な差別である。しかし、社会に解決しようのない大きな不平等があるという認識のもとでは、その犠牲者を平等に扱わず、区別して扱うことこそが、より正義にかなっていると多くの人が考えたのだった。

(高度成長時代は一億層中流で、今よりもっと平等だったんじゃないの、とか思っている若い人。実際は、そんな単純な話じゃなかったんですよ。あの当時は、もっと歴然と差別されている人がいて、それ以外の人に限って建前上平等、というような社会だった。さらに言えば、その平等とされている人たちの間でも、はっきりと暗黙の序列みたいなものが決まっていたのです。それがそんなによい時代だったのか、知りもしないのに単純に憧れてほしくないですね。少なくともぼくは、今のほうがずっといい時代だと思います。)

 たとえば、「あしたのジョー」だって、明らかに年上の丹下段平や白木葉子に対して「おっさんよぉ」「あんたって人は」みたいなタメ口をきいていたわけだが、それを無礼だと批判する人はいなかった。もちろん、当時だってそういう行為自体は十分無礼だったのだが、無礼だと言うこと自体が無意味だという時代状況があったわけだ。

 このような時代だったら、西成区に育ち解体業を営むというあの人に対しても、多くの人が、自分とは違う世界に住む違う人種であり、自分と同じ常識が通用しなくても当たり前と思ったのではなかろうか。また、そういう人がひょんなことで有名人になったりすることがあっても、周囲の大人たちが緩衝地帯になって、そういう常識の違いによるボロが出ないようにしたであろう。 当時の有名人で、死後になってさまざまな奇行が判明した人も数多い。

 ひるがえって現代では、あのようなおっさんに対しても、多くの人が自分と同じ土俵に立っていると考えて批判しているわけである。これはある意味、世の中の人はみな同じルールの下で平等である、という意識の現れであるから、基本的には社会の進歩と言ってよいのだろうと思う。

 ただ、一つだけ気になるのは、本当に現代の日本社会は、それほど平等になっているのだろうかということ。解決しようのない社会の歪み、差別、不平等、みたいなものは、本当に無視できるほど小さくなったのか。

 たとえば、ぼくは自分が別に不幸だとは思っていないが、大企業やアカデミズムの世界に対するコンプレックスや僻みというものはいまだにあって、学者さんとかの非現実的な発言にムカつくことがある。終身雇用は日本が世界に誇るセーフティネットだ? じょーだんじゃねえ! そんなのは大企業だけに通用する話。中小企業でいくら終身雇用を標榜したって、会社自体がいつ潰れるかわかんねぇんだから意味ねえんだよ! そんなことすらわからずに、利いた風な口叩くんじゃねーよ、タコ! みたいな (^^)。

 ぼくは、詳しい事情がわからないから確たることは言えないのだが、あの親子やあの業界を批判する際にも、ひょっとしてそれと同じことをしてやしないだろうか、という想像力だけは持っておきたいと思うのである。

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偶然の証明

 たとえば、チンチロリンだって、大バリしたときに限ってピンゾロを出すとかいうヤツがいたら、いくら「サイコロには一から六の目があるんだから、ピンばっかり揃うことだってあらーな」みたいなことを言ったって、やっぱりグラサイだろうぐらいのことは思われるわけである。しかも、サイコロは持参してよくて、相手には改める権利もない、みたいなルールになっていれば。

 プロの博打場では、そういうトラブルがおこらないように、いろんな作法が決められていると聞くが、博打場と同じような方々が仕切っているらしいあの競技において、そういう対策がまったくなされていないというのは、やっぱり、ダンナ衆だと思ってナメられているのだろうか (^^)。

※映像は記事とは無関係です。

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報道と宣伝のはざまで

 そもそも、スポーツ・ジャーナリズムというものには、他のジャーナリズムと比べて、根本的に異質な点があると思う。ニュース・ショー番組などでも、スポーツのコーナーになると、明らかにトーンが変わるのがその証拠だ。スポーツ・ジャーナリズムというのは、許しがたい悪事や悲惨な事件の報道が「ケ」だとすれば、それと対照的な「ハレ」の役割を担わされているのである。

 なぜ、スポーツ・ジャーナリズムがそのような役割を担うことが可能なのかというと、スポーツという分野自体が、人工的に純化された世界だからだと思う。

 本来、人生には明確な目的はない。多くの人は、そこに生きがいという目的を想定することによって、快楽や充実感を得ようとするが、生きがいには絶対的な正さの証明があるわけではないので、多くの人は人生の意味付けに悩みながら生きることになる。もちろん、そこから人生の味わいのようなものも生まれるわけであるが、そのことが、人間の日常を不明瞭なものにしている原因でもある。

 ところが、スポーツの世界では、目的はルールにしたがって勝つということに単純化されているし、競技自体が、現実的な目的に直接役立たないものが多いので、何のために勝つのかという意味を問うことも無意味化されている。その結果、スポーツの選手は、目的自体の意味や価値について悩むことなく、目的を実現するための努力だけに純粋に専念できることになる。おそらく、だからこそ、スポーツを観戦する人は、「ケ」の日常の不明瞭さから解放され、「ハレ」の爽快感を味わうことができるのである。

(このへんの立論は、筆者のオリジナルではなく、山崎正和氏の説を参考にしている。オリジナルを知りたい人は「近代の擁護」などを参照。ただし、細かいところは筆者流にアレンジしており、その部分についての文責は筆者が負うものとする。)

 スポーツ・ジャーナリズムがさらに特異なところは、基本的に、報道が試合の結果に影響を与えることはないということである。

 これが政治だったら、どの政治家をどのような論調でどのぐらいの頻度で取り上げるかというのは、政治の結果にまで影響を与える可能性がある。ビジネスにしても、どの企業のどんな製品をとりあげるかで、企業の業績に影響を与える可能性がある。事件報道ですら、取り上げ方によっては、当事者の人生そのものに影響を与える可能性がある。したがって、ジャーナリストは、嫌でも公正さやバランスというものを意識せざるを得ない。意識しなければ、報道は信用性を失い、単なる宣伝と化してしまうからだ。

 ところが、スポーツの場合には、試合の結果は客観的なルールによって決まり、報道のされ方によって影響を受けることはほとんどない。「なんとか選手強いっ!」といくら連呼しても、そのせいでその選手が試合に勝つことはない。この事実と、先にのべた、スポーツ・ジャーナリズムが持つ「ハレ」の役割を考え合わせると、おそらく、スポーツ報道を多少大袈裟に行うことが正当化されるのであろう。

 この姿勢は、おそらく、アマチュア・スポーツについてはかなりの程度で正しいのだが、プロスポーツになると、事情が微妙に変わってくる。

 なぜなら、プロスポーツでは、お金という別の目的 があるので、アマチュア・スポーツのようには、勝つことだけを目的にしにくいからだ。もちろん、多くのスポーツでは、勝つことによってのみ金が手に入るというような仕組みを作ることによって、選手に金銭面でも勝つインセンティブを与え、そのことによって、スポーツに内在する独自の価値論理を守ろうとしている。

 しかし、ここで忘れてはならないのは、いくらそのような仕組みを作ったとしても、選手に分配する金の原資は、結局は興行収入で得るしかないということだ。言うまでもないことだが、この興行収入というのは、必ずしも選手の実力だけで決まるものではなく、ルックスやパフォーマンスなどによって左右されがちな「人気」であるとか、資金力がものを言う「宣伝」とかに大きな影響を受ける。

 この話にこれ以上深入りすることは避けるが、要するに、プロスポーツというものは、もともと、スポーツと興行の危ういバランスの上に成り立っているビジネスであり、当事者がこのバランスを常に意識していなければ、容易に破綻して単なる見世物に堕してしまう危険を孕んだ文化であるということだ。

 同じことは、スポーツ・ジャーナリズムにも言える。スポーツ報道は、確かに試合の結果には影響を与えないかもしれないが、興行の結果には大いに影響を与えうる。つまり、スポーツ・ジャーナリズムが、いくら事実を選択的に報道しているだけであっても、それが結果として、文化としてのプロスポーツをスポイルする可能性はあるのである。

 たとえば、実力のない選手を報道によって人気者にしてしまえば、その選手は、一番強い選手より大きな収入を得られるようになる可能性がある。そのような選手がたくさん登場すれば、実力より人気を大事にする選手が増え、勝つことだけを目的とするというスポーツの純粋性は破壊されることになろう。また、興行側は、そのような選手を「勝たせる」ことによって興行収入を増やし、関係者全員を豊かにするという誘惑にかられることになるだろう。

 もっとも、本来、スポーツ・ジャーナリズムはスポーツがなければ成り立たないことを考えれば、このような危険を回避することはそれほど難しいことではない。スポーツ・ジャーナリストが、目先の欲望にとらわれず、自分たちの存在を支えているスポーツという文化に対し、正しい認識と愛情をもって、自らペンを律すればよいだけの話だ。そして、この問題には、それ以外に特効薬はないと思う。

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ボクシング素人の妄想

 ぼくはボクシングのことはよく知らない。試合を見た回数も数えるほどで、もちろん、リングサイドで見たことなど一度もない。ボクシング以外の格闘技のことも、それほど詳しいとはいえない。友人に格闘技好きがいるし、格闘マンガも結構好きなので、言葉だけは多少知っているが、その程度のものである。

 そういう人間ですら、昨日のボクシングの試合では、いろんなことを考えさせられたので、少し感想を書いてみたい。もちろん、これは素人の意見に過ぎず、思いっきり的外れかもしれないことをお断りしておく。

 まず、ボクシングの判定について、こんなことを考えた。

 たとえば、メチャクチャに打たれ強いボクサーがいたとする。こいつは、どんな強打をくらっても、何回打たれても、まったくダメージを受けない。ただし、自分のパンチの威力やスピード、防御のテクニックなどはイマイチだとする。

 そうすると、このボクサーは、KO するまで続けるというルールだったら、かなりの高率で勝つと思われるが、逆に、判定にもちこまれれば、かなりの高率で負けるだろう。自分は相手に「有効打」を浴びせられず、相手の「有効打」はたくさん浴びてしまうわけだから。でも、その「有効打」は、実は彼にとっては有効打でもなんでもないのである。これっておかしくないか?

 ボクシングというのは、本来、相手が闘えなくなるまでダメージを与えることを目的とする、格闘技の中でもやや特異な種目だ。レスリングなら、必ずしも相手に与えたダメージが大きくなくても、なんとが固めを決めて一瞬にして逆転勝というようなことが可能だ。柔道でも、相手より疲れている選手が、一本を決めて勝つということはありうる。つまり、こういう種目では、もともと、相手にダメージを与えることよりも、技を決めるということに高い価値がおかれているわけだ。(もちろん、防具なしでやっていたときには、そういう技はすべて必殺に近い技だったのであろうが。)

 それに対して、ボクシングは、本来、技を決めることは手段に過ぎず、相手に与えたダメージによって評価される種目だったはずである。ところが、判定になると、一転してこの本来の価値基準ではなく、決めた技によって評価されることになるのだ。最後にはフラフラになっていたヤツが、判定で勝つということに対する違和感の理由は、ここにあるのだろう。

 では、相手に与えたダメージそのものを、見ているだけで客観的に判定する方法があるのかというと、それはよくわからない。専門家ならある程度わかるのだろうか。それとも、そんなものを判定しようとすると、なおさら判定が主観的になって不正確になってしまうのだろうか。

 もちろん、ヤオチョウだとかなんだとかいう話があることも知っているが、ここではあえてボクシングのルールの本質についてだけ考えてみた。ひょっとしたら、あの対戦相手は、自分が勝てないことは承知の上で、相手に最も恥をかかせる負け方というのを考えていたのかもしれない。

追記: などと勝手なことを書いていたら、早速こんな記事が。

一般的に、ダメージに基づくクリーンヒット(有効打)の数が重視され、そこに差がない場合は次に手数や攻勢点が評価対象となる。

ということで、ダメージがなければ「有効打」にはならないらしい (^^)。

でも、もしそうだとするとですよ、やっぱり、中盤に日本人が一生懸命打っていたパンチは効いていなくて、ベネズエラ人がポコポコ打っていたパンチの方が効いていた、ということになりませんか。でなけりゃ、あそこまで差はつかないんじゃないですか。となると、やっぱり中盤でそんなに差がつくの判定がおかしいということに。。。(^^)。

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What is Integrity?

 メンバーが不祥事を起こしたので、野球チームを解散すると言っていた監督が、ファンの意向を受けて解散を取り消したという出来事がありました。この出来事については、mixi なんかでも、かなり斜めから見てる人が多いみたいですけど (^^)、正直、ぼくもこうなるような気はしてたんですよね~(^^)。でも、何か釈然としないものがあるので、自分の頭の中を整理するためにも、少し考えてみたいと思います。

 まず、この監督の真意はおいといて、客観的に球団や監督に責任があったかを考えて見ましょう。ぼくは基本的に責任はない、もしくは、あっても極めて微量であると思います。なぜなら、あれはあくまでメンバー個人の私的な行動にすぎないからです。一般の会社についてもそうですが、社員が会社の職務として行っていた行動の結果について会社が責任を負うのは当然でしょうが、社員の私的な行動にまで責任を負う必要はないと思います。

 責任というのは権限から発生するものだから、もし会社が社員の私的な行動にまで責任を持たねばならないのなら、必然的に、会社は社員の私的な行動まで束縛する権利を持ってよい、ということになってしまいます。これは、リベラルな社会において、原則的にあってはならないことでありましょう。先ごろ、NHK の記者が放火をしたということで、NHK の上司が謝罪していましたが、ぼくは、同じ理由でこの謝罪も不要だったと思っています。話がそれましたが。

 次に、この監督の対応についてですが、彼の意図をあれこれ詮索しても水掛論になるだけなので、彼が単純に翻意した場合と、最初から撤回するつもりで解散を表明した場合と、両方考えてみることにします。

 まず、単純に翻意しただけの場合ですが、もともと責任はないという私の立場からすると、ない責任を認めてしまった最初の発言が間違いだったということになります。その意味で、球団の監督としては思慮が浅かったという批判は当然成り立ちます。

 ただ、人材というのは希少な資源なので、あらゆるポジションに最高の人材を求めても仕方ないんで、適材適所に人材が割当てられていることが重要なのです。つまり、組織の長は、その組織の運営に必要十分なだけの思慮があればいいわけです。そういう意味では、結果オーライにせよ、球団は無事存続しそうなわけで、彼は監督としての責任を一応果たしているとも言えるわけです。もちろん逆に、責任があるという立場からすれば、どうやって責任をとるかの意思表示もなく、発言を撤回したことが批判されるべきでありましょう。

 次に、最初から撤回するつもりで解散表明した場合ですが、確かにあざとい印象はありますが、先と同じ理由で、やはり結果責任としては彼は一応監督としての責任を果たしていると言えます。ただ、この場合に問題なのは、彼が一度は自ら責任を認めていることです。それが一時の気の迷いでなく、すべて意図的だとするなら、彼は本当は自分に責任があると思っているのか、それともいないのか。

 もし、本当は責任がないと思っているのに、わざと責任があると言ったのなら、責任をとらないという行動は正当化されますが、心にもないウソを言ったきわめて不誠実な人だということになるはずですし、逆に、もし本当に責任があると思っていたのだとすると、彼は、本来とるべき責任を、ポピュリズム的な大衆扇動によってないことにしてしまったインチキな人だということになるはずです。

 いずれにせよ、この場合、彼は、責任の所在をはっきりさせ、とるべき責任は引き受け、とるべきでない責任は正しく拒否して組織を守るといった思想よりも、結果オーライで関係者を納得させられればそれでよいのだ、という思想を優先する人だということになります。これは、通俗社会学的に言えば、まさしく空気=ニューマ支配の思想ですよね (^^)。

 おそらく、彼の言動が反発を招いたのは、まさにこの点が理由なのではないでしょうか。私も含め、多くの人が、彼の言動の中にニューマ支配の影を感じ、そこに、視聴率 100% 男の姿を重ね合わせて、結局は空気を自由に操れるヤツが一番偉いのだ、というような主張の臭いを嗅ぎ取ったのだと思うのです。

 ただ、責任というのは、あくまで、思想ではなく行動に対して課せられるものであり、私はもともと責任はないという立場ですから、仮に彼がそういう思想を持っていたとしても、それだけでは、彼という人間に対する個人的評価を変える理由にはなっても、彼の行動を批判する理由にはならないんですよね。もちろん逆に、責任があるという立場からすれば、あるはずの責任をないことにしてしまった点については、当然批判されるべきでしょうが。

 結論として言えることは、関係者がこの結末に納得しているなら、外部のものがわざわざひっくり返そうとするほどの理由はないだろうということです。 ただ、それとは別の話として、彼に対する個人的評価を変える人がいても、それも仕方ないだろうと。そういう感じです。

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負けてる…

 せっかくあえて見ないで寝たのに…。やっぱ次からちゃんと見よう。

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見るべきか、あえて見ないでおくべきか…

 サッカーどうしようかなあ。ぼくが見るとなぜかたいてい負けるんだよなあ。と迷っているワタシ。

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裏技

 Wikipedia の裏技

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インターネットで野球を楽しむ

 チーム   再生ソフト    情報量
 福岡ソフトバンクホークス インターネット中継  Windos Media Player  ビデオ 100kbps 
 広島東洋カープ RCC ラジオ  Real Player  ラジオ  
 西武ライオンズ 文化放送  Windos Media Player  ラジオ  
 読売ジャイアンツ ラジオニッポン    ラジオ  
 楽天イーグルス 楽天イーグルス.TV    ビデオ  
 阪神タイガース Tigers-net.com    ビデオ  

まだあるかな。パリーグの試合が見れるようになったのはありがたいですね。

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世界一

 祝、世界一! これで日本人は今後三年間、「野球は日本が世界一だ」と称したり、「いやー、一回勝った位で世界一なんて思ってませんよ」なんて謙遜したりして楽しめるわけだ(^^)。

 今江や川崎にも名誉挽回のチャンスがあったりして、メキシコがアメリカに勝って以来、どうもちょっとできすぎているような気もしますが(^^)。

 でも、バランスのとれたいいチームでしたよね。楽しませてもらいました<m(__)m>。

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Wikipedia は素早い

 Wikipedia の WBC の項目には、早くも「疑惑の判定」の項目が。このリアルタイム性が Wikipedia の強みですね。英語ページには、ビデオキャプチャまでアップロードされてるけど、よく見ると、日本語のキャプションが入ってて、明らかに日本のテレビの映像。ってことは、日本人で英語に堪能な方がアップロードしたのかもね(^^)。 (じゃなくて、在日韓国人の方かなあ? ハングルまったく読めないので、よくわかりません。すみません。<m(__)m>)

 なんと、日本語版のほうには、ボブ・デービッドソンという項目までできちゃってるし(^^)。 英語版にもよく見ると  Bob davidson umpire というのがありますね。日本語版の方が基本的には詳しい(^^)けど、英語版には、1992 年のワールドシリーズで起きた "Phantom Triple Play" というのが載ってます。

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\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/

 \(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/ 今度こそ文句なしだね!

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え、うそ。

 そんなことってあるの(^^)? うれしいことはうれしいけど、なんか拍子抜けという気も。これで優勝しても、イマイチ本当に世界一になった気になれない、みたいなことないのかなあ(^^)。でもまあ、ぜひ韓国には雪辱してもらいたいですね(^^)。

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………。

 この負け方は悔しいね。岩村、今江、藤川あたりは、夜も眠れないだろうねえ…。

 もう次は 100 万点差つけて勝て! 誰にも文句言わせるな!

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WBC 疑惑の判定

 WBC の疑惑の判定についても、米紙をいくつかチェックしてみましたが、それほど何が何でもアメリカ贔屓でもなくて、やっぱり疑惑の判定だと書いてるものが多かったです。ただ一つ気になったのは、ワシントンポスト紙の、

A television replay appeared to show Nishioka tagging up after the catch. However, it was a split-screen shot from two cameras, with no way to prove the twin screens were in sync.

テレビの再生で見ると、西岡のタッチアップは捕球後のように見える。ただし、これは 2 つのカメラの映像を合成したニ分割画面なので、2 つの画面が同期している保証はない。

(Washingtom Post, 3/13)

というところ。えーっ? そんなのありぃ? と思ったのは、私だけでしょうか(^^)。

 たしか、電子の進む速度は結構遅いけど、電気信号自体は光速で進むんですよね。だったら、別に同期してなくても、人間が認識できるほどの差はでないんじゃないの、ふつう。(それとも、昔のカセットテレコみたいに、録画ヘッドを再生ヘッドがちょっとずれてて…、みたいな話かなあ。昔のオーディオ少年少女は、これを利用してエコーを作るとかやったんだよね(^^)。)

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カーリング娘。

 いつのまにか「。」までついている「カーリング娘。」(^^)。ぼくはマリリンよりスキップのあゆちゃんですね(^^)。などとついワルノリするのがぼくのケーハクなところ。

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国境を越えた美

 荒川静香選手、金メダルおめでとうございます。ぼくは鈍感なんで、友人に言われて気づいたんですが、「荒川選手の何が素晴らしいかと言って、これまで日本人は体型の面で西洋人とはハンデがある、といわれ続けて来た種目で、まさにその美しさで西洋人以上に評価されている、そのことが素晴らしいんだ」って言うんですよね。なるほど、確かにその通りだなあと思って。

 そういう意味では、イチロー選手が世界記録を更新したときと同じような感動がありましたね。どちらも、単に西洋人の猿真似をしたんじゃなくて、逆に、自分らしさを極限まで極めた結果として、国境を越えた普遍性を獲得したということですから。これは、陳腐な伝統主義とも安易な世界標準への追従とも違う素晴らしさだと思います。拍手。

 ワールドカップやオリンピックでの同国人に対する応援を、プチなんとやらとか言って揶揄する人もいるし、もちろん、そういう面もなくはないんでしょうが、国際共通のルールの元で競争して勝つということは、国民性・民族性を超えた普遍性に近づくということでもあるんで、だからこそ同じ国民・民族の心を打つ、ということもあるのではないでしょうか。と、今回改めて感じましたね。

(表彰台に並んでいるのを見たら、荒川さんはスルツカヤよりサーシャ・コーエンよりも背が高いんですね。)

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期待は高く、でも距離感をわきまえて

     そろそろだと思っていましたが、オリンピックの日本選手に「期待しすぎ」という論調が出てきましたね(^^)。でも、ぼくは、期待すること自体が悪いんじゃないと思うんです。

     関係者はともかく、一般の人たちが期待するのは、お笑い用語で言えば「前フリ」みたいなもので、応援という行為を楽しむための準備なんです。この準備があるからこそ、期待通りになれば喜び、期待を超えればさらに驚き、期待を裏切られればがっかりする、というような落差を楽しめる。だから、応援する方から見れば、期待してナンボ、というところがあるんですね。

     どーせダメでしょ、とかクールに思いながら応援してても、盛り上がらないじゃないですか。だいたい、株やギャンブルや天気予報じゃないんだから、オリンピックのメダルの数なんて、「正確」に予想したってたいした意味ないでしょ? (^^)

     ぼくがむしろ問題だと思っているのは、ただ応援してるだけの野次馬で、なんら利害関係などなく、個人的に選手に協力したりしているわけでもないのに、「期待」通りの演技を見せられなかった選手を過度にバッシングするというような風潮です。「応援してやったのに」とかさ (^^)。ぼくに言わせれば、それは単なる勘違い。ぼくら野次馬は、勝手に期待して勝手にがっかりしていればよいのです。それが野次馬なりの美学というものだと思う。

     かつては、そういう何か勘違いしたような報道も多かったので、それが嫌いでしょうがなかったけれど、最近はむしろそういう傾向は減ってきたように感じます。(松岡さんなんかも、応援はすごいけど、ダメだった選手をムチ打つようなことは絶対にしないでしょ?)その距離感がわきまえられるのだったら、期待や応援はどんどんしたらいいと思うのだ。

    (カーリングって、ルールがわかってくると、結構面白いですね。よく「あれがスポーツか?」とか言ってネタにされるけど、あのスイーピングがかなりの重労働で、腰を痛める人もいるんだって。)

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ほめすぎ (^^)

 「辞書にない英語」のアクセス解析を見て、みょーなとこからアクセスがあるなと思って調べてみたら、ジャンク SPORTS で有名な、株好き競輪選手長塚氏のオフィシャルサイトこんな記事が… (この方、株の本まで出しちゃったんですね (^^))。でも、はっきり言ってほめすぎです (^^)。

ポイント 否定的な言葉はもっとほめろというサイン。(「大人養成講座石原 壮一郎著)

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Supplements for Strength-Power Athletics

 Supplements for Strength-Power Athletics

 スポーツ選手、それも、瞬発力系のスポーツ向けのサプリメントの解説本です。たまたまこの手の洋書をまとめて読む機会があって偶然見つけたのですが、わりとお勧めできる本だと思いました。

 だいたい、この手の本には、ごくわずかな証拠を頼りに、仮説の綱渡りを繰り返して結論を出している本も少なくないのですが、この本では、信頼できる複数の臨床試験において有効と認められたサプリメントしか推薦していません。また、個々のサプリメントについて、過去にどのような研究結果が出ているのかを、ネガティブな結果を含めて逐一記載してあるので、実際にどの程度の効果が期待できるのか、読者が自分で判断することができます。

 それでいて、大リーグのマグワイア選手が使っていたとされるアンドロステンジオンという薬は、ほとんど効果もなければ副作用もない、みたいなことをキチンと書いてあるところも、科学者的な良心を感じさせます。(実際には、同じステロイド系の薬でもかなり作用に幅があるらしい)

 英語も比較的平明で読みやすく、全体の構成も、サプリメントごとに、「概要」「作用メカニズム」「効能の根拠」「使用法」「注意」みたいな感じで統一されているので、自分の関心のあるところだけ飛ばし読みすることも可能です。

 ちなみに、同じ著者による姉妹編として、持久系スポーツ向けの「Supplements for Endurance Athletes」という本も出ています。

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公共性にもいろいろある

 世論の動向を見て日和っていると思われるのもなんなので、私がなぜ LF 問題ではどちらかというとライブドア寄りの立場をとったのに、阪神上場問題については中立的な立場をとっている理由を補足しておきます。

 そもそも、どちらの問題においても、単純に市場原理に任せられない理由として、「公共性」という言葉がキーワードになっていまよね。簡単に言えば、私は、放送界と野球界では公共性のあり方が違うので、公共性を担保するため方法も違うと思っているということです。

 放送界の場合、公共性が重視される主な理由は、地上波のチャンネル数が有限かつ少数だということにあります。そのため、各チャンネルの使用権を独占している放送局は、そのチャンネルが特定の個人・企業・政治団体などのために使われないようにする必要があるわけです。

 けれども、「放送と通信の融合」が本格的に実現して、チャンネル数の制約がなくなってしまえば、個別の放送局の公共性にはばらつきがあっても、システム全体として公共性を担保することができるだろうと思うのです。それが、放送界については、市場的な解決策が有効であろうと考えている理由です。

 一方、野球界の公共性というのは、放送界のそれとは違って、主に外部効果の大きさに起因しています。詳細は前に一度書いたことがあるので、物好きな人は探してみてほしいのですが、私は、野球界の公共性を制度的に担保するためには、野球界全体での利益分配方法からはじまってかなりドラスティックな改革が必要ではないかと考えており、単に個別の球団を市場化するだけではたいした効果がないし、弊害も多いだろうと考えているのです。

 たとえば、仮に株をファンに分けるにしても、必ずしも上場する必要はなくて、地元の住民限定で私募するみたいなことをすれば、地域密着にも役立つだろうし、さらに、地方自治体や地元の商店街の業者さんなんかに優先的に持ってもらえば、球団と地域の利害を一体化させる(外部効果を内部化する)のに役立つかもしれない。今現在のことはともかく、将来的には、そういう方向性の方が理想的ではないかと思っています。

 ついでに言えば、一般論ではなく個別論としも、フジテレビという会社(だけではないけど)が、自分で言うほど公共性を重んじている会社だとはとうてい思えなかった、というのも私がライブドア寄りに立った理由の一つではあります。

 私は、もしメディアにとっての公共性ということを本当に厳しく追及するのであれば、放送局は番組制作会社とも出版社ともレコード会社とも版権管理会社とも資本関係を持たずに、単に放送時間を切り売りするというメディアの役割に徹しなければおかしいと思うんですね。

 現在のように、放送局が映画会社や出版社と組んで「XX 製作委員会」などというものを作り、製作した映画をニュース番組の枠内で宣伝するなどというのは、それこそ公共メディアの私物化以外の何者でもないんじゃないですか。

 ただ、私はそういう問題点も、将来的には多チャンネル化や市場化によって解決されうると思っているので、そういう個別論にはあまりこだわらず、制度的な原理原則を重視する立場に立ったわけです。

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上場がいいとは必ずしも思わない、が…

 ぼくは、堀江さんや村上さんが言うように、球団を上場することが制度的によい結果を保証するかについては (LF 問題のときとは違って) わりと懐疑的なんですけど、少なくとも、現在プロ野球機構側にいる方々が、球団上場という案が原理的に間違っている、というような批判をするのは、いくらなんでも変だと思うんですね。

 だって、どこの馬の骨かもわからない投機家が大株主になって、日本の貴重な公共財であるところの野球文化を破壊する可能性がある、ということであれば、何も、球団単体での上場に限らず、親会社が上場されていてもそういう可能性は十分あるわけでしょう。現に、村上さんの登場により、そういうことが危ぶまれているんじゃないですか?

 だから、そういうことを言い出すと、そもそも上場企業たる阪神電鉄が球団を持っていること自体が間違いだ、ということになってしまうわけで、上場企業は一切球団を持てない、ということにしなければ筋が通らないはずです。

 確かに、野球協約の第 28 条や第 31 条は (日本プロ野球機構のサイトには野球協約が見当たらないのに、選手会のサイトには公開されているというのも、両者の意識の違いを表しているようで面白いですね(^^))、明らかに球団がプライベート・カンパニーであることを前提としているように読めますが、村上さんの言うように、持株会社にしてしまえば、このような規定は技術的にクリアできてしまうんですよね。だって、そのような持株会社と、現阪神電鉄のような上場された親会社の間に、際立って形式的な違いがあるわけではないのですから。

 したがって、もし日本球界や阪神球団がこれまでうまくやってこれた(かどうかも必ずしも万人が納得はしないとは思いますが) とすれば、それは制度よりも、日本球界の文化や伝統であるとか、阪神電鉄の社内文化の連続性みたいなもののおかげなんだから、もし上場に反対するのであれば、その事実性に立脚して、だから今の体制をむやみ変えるべきではない、というふうに主張すべきだと思うのです。

(あのー、ぼくは、制度より文化的連続性が優先されるべきだ、などとは、一言も言ってませんからね。もし反対するのであれば、そういう論法でなければ筋が通らないはずだ、と言っているだけです。誤解のないように。)

 また、そういった文化的な遺産もいい加減食い潰されかけている現在において、新しい制度的な提案をするというのは、決して悪いことではないのだから、そういう人を「偽善者」呼ばわりするなどというのは明らかに行き過ぎで、程度の低い誹謗中傷合戦を誘発するだけでしょう。ま、それが狙いなのかもしれないけど(^^)。

 もっとも、現在のように、事実性において球界を半私物化している方々に対抗するための武器として、上場が役立つことは否定できないと思いますが、その武器は、野球界にとって、必ずしもよい方向にだけではなく、悪い方向にも使われうるんで、繰り返しになりますが、純粋に制度の問題としては、必ずしもよい結果を保証しないのではないかな、と今のところは思っています。

 逆に、制度的な良し悪しなんてどうでもよくて、ただ今現在その「武器」を使いたいだけなんだ、という意見もあるかもしれませんけど、その場合には、その「武器」を持つ奴が、事実性として野球界の味方なのか敵なのか、ということが問題になってくるわけですよね。ぼくには、さすがにそこまでは責任持てないので、なんだか煮え切らない言い方で逃げておくことにします(^^)。

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試割バット

 試し割り専用のバットなんてあるんですね。知らなかった。

おいおい、「野球用バットとして絶対に使用しないでください。」とまで書いてあるよ。なんか興ざめ(^^)。

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はあ?

 あのー、asahi.com さま、毎度ケチつけて恐縮なんですけど…(でも、それだけいつも見てるってことですからね。産経さんなんか、何か特別な理由がない限り読みませんから。)。この「『四球より打たれたほうがまし』に異論 神大教授が分析」っていう記事、ちょっとひどくないですか?

 そもそも、この人、この通説(というか格言と言ったほうがよいと思うが)の意味自体わかってないですよねえ。もともと、この格言で問題にしてるのは、ピッチャーの意識であって、結果だけではないはず。

 つまり、ピッチャーには勝負するのと逃げるのの 2 つの選択肢があって、逃げれば四球を出す確率が高いけど、勝負したからといって必ずしも打たれるとは限らないし、むしろ、意外と討ち取れる確率が高いから、勝負したほうがいいよ、ていうことでしょう? そりゃ、結果だけ見れば、安打だって四球だって同じランナー一塁なのだから、その後の展開に大差ないのはむしろ当たり前でしょう。

 だから、この格言を本当に検証しようと思ったら、ピッチャーが勝負にいった場合と逃げた場合で分けて統計をとらなきゃダメでしょう。つまり、

勝負:安打の確率=Ha、四球の確率=Ba、討ち取る確率=Oa

逃げる:安打の確率=Hn、四球の確率=Bn、討ち取る確率=On

としたとき、Ha+Ba < Hn+Bn だったら、この格言は正しいし、逆だったら間違ってる、ってことじゃないですか? もっとも、実際には、勝負と逃げるのと、そんなにはっきり分けられるわけでもないだろうし、そんな統計をとること自体難しいだろうけど(でも、「トリビアの種」だったらやりそう(^^))。

 ぼくの言ってること、おかしいかなあ。まあ、この先生も行動ファイナンスの大家らしいですけど、少なくとも、この研究についてはピントずれてると思うんですけどねえ。

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ビジネスはプラスサム・ゲーム(を目指す)

 「ほぼ日」には、糸井さんが週一回エッセイのようなものを掲載する「ダーリンコラム」というコーナーがあって愛読しているのですが、今週の「勝負に全力を尽くす、そのやり方」という話には、ちょっと考えさせられたのでコメントしてみます。

 ぼくがこういう話でいつも考えるのは、それはゼロサム・ゲームかそうでないか、そうでないとすれば、社会全体のパイは大きくなる(プラスサム・ゲーム)か、ということなんですね。ゼロサム・ゲームなら、やる以上は勝つことを目指すしかないし、それができないなら、最初から参加しないほうがいい。プラスサム・ゲームなら、単に勝つだけでなく、どうしたらより社会全体のパイを増やせるか、ということを考えなくてはなりません。そういう観点からすると、まず、スポーツとビジネスは分けて考えたほうがいいと思います。

 スポーツの利得行列には、一見すると勝ちと負けの 2 つの値しかなくて、そういう意味では、完全にゼロサム・ゲームのように見えます。でも、よく考えると、いくら試合に勝っても怪我をしたら損だとか、試合に負けてもその分勉強した方が実社会では得をするとか、観客にとっては、同じ試合でも面白い試合とつまらない試合があるとか、他にもいろんな利得があるように思えてきます。

 けれども、糸井さん自身も冷静に指摘しているように、スポーツの場合、プレーヤーがいかにもゼロサム・ゲームである「かのように」プレーすることが重要で、そうでないと、観客にとっての面白さとか、プレーヤーに身につく身体的なスキルのような、スポーツの「名目上の利得行列」にはカウントされない利得もかえって低下してしまうという特徴があります。

 スポーツというのは、何か勝ち負け以外の価値を体現しているわけではないので、剛速球で討ち取るのと、配球で討ち取るのでは、どっちが正しいか、などということを一義的に決めることはできないのです。だって、もしできるなら、最初からスピードガンで測定して速いほうが勝ち、ということにしてしまえばいいわけですからね。つまり、そういうことは、プレーヤーや観客個人が、胸の内で密かに感じとればいいのであって、そういう多義的な解釈が可能なのも、スポーツが名目上勝ち負けだけに特化しているからこそなんですね。そこに、スポーツ独特の逆説があります。

 ですから、外部から見たときのスポーツの利得を向上させるには、プレーヤー自身の価値観に変更をせまるよりも、F1 のレギュレーションのように、ルール自体を変更する方が適切である、ということになるわけです。

 これが、プロスポーツになると、少し事情が変わってきます。なぜなら、プロと名のつく以上、明らかに勝ち負けだけでなく、収益とか人気というものも利得の中にカウントされてくるからです。昔はよく、プロスポーツはアマから見ると不純である、と言われたものですが、この「不純」というのは、よく考えると、アマのように勝ち負けだけに特化せず、勝ち負け以外のこともいろいろ考えなくてはならないので、「純粋ではない」という意味だったのですね。それが今では、純粋でないことがかえって奨励されているように見えるのは、ちょっと皮肉なことだと思います。

 一方、ビジネスの方は、本来プラスサム・ゲームを目指すものであって、それが社会全体のパイを増やすという前提の下に、存在を許されているわけです。ですから、ゲームのルール自体にも、うまく社会全体のパイを増やすような方向に誘導するインセンティブを組み込むべきであるし、プレーヤー自身も、自分の利得を増やすだけでなく、社会全体のパイを増やすようなプレーを尊び、そうでないプレーを避けるというような価値観・倫理観を持つ必要があります。

 スポーツと違って、ビジネスの利得行列の値は勝ちと負けだけではないので、極端に言えば、ビジネスでは必ずしも「勝つ」必要すらない。実際、シェアトップでなくても十分存続できて、社会にとって存在価値のある企業はいくらでもあるわけですからね。

 もちろん、社会全体のパイを増やしつつ、他のプレーヤーの誰にも損をさせないという「パレート最適」みたいなプレーをするのが理想ですが、他の競争相手には損をさせても、社会全体のパイが増えればまあ合格、逆に、競争相手に損をさせた上、社会全体にも不利益を与えるようなプレーは最悪、ということが一応はいえるでしょう。

 糸井さんが例に挙げている選挙にしても、政策に対する認識を深化させるような政策論争などは、もちろんパイを大きくする競争に含まれるだろうし、相手の批判にしても、政治家としての信頼性に関わる根拠ある批判などは大いに奨励すべきでしょう。逆に、根拠のないデマや中傷、政治と無関係な私生活の暴露などは、パイを小さくする競争に含まれそうです。もっとも、こういう行為が実際にどういう効果をもたらすかは、「観客」の見る目にも関わってくるので、一概には言えませんが。

 ぼく自身は、他人の足をひっぱらなければやっていけないような仕事なら、とっとと辞めてやる、と滑稽なぐらいに思いつめてやってきたし、株の取り引きをするときですら、ゼロサム・ゲームになりがちなデイ・トレードは避けて(同じ短期取引でも、証券会社のディーラーの方がやられているようなのは、かえって株価の安定に貢献していると思いますが)、長期ホールドに勤めてきた方なので、糸井さんのような社会的影響力のある人に、そういうことが子供っぽいみたいな書き方をされると、少々心外ではあるのです(^^)。

 まあ、ぼくはわりと付き合いが狭い方なので、断言はできませんが、少なくともぼくの周囲の人は、そんなに勝つことだけを考えているようには思えないし、たとえば、ホリエモン騒動があれだけ大きくなったのだって、いかに世の中に、勝つことだけを潔しとしない人が多いかということを示していると思うのですが(もっとも、あの事件については、ぼくは今でも、ホリエモンの仕掛けたことはゼロサム・ゲームではなかったと思っていますが)、いかがでしょう(^^)。

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手ヒレ

 これも知っている人にとっては何をいまごろ騒いでんの、という話なんでしょうけど、足ヒレならぬ手ヒレみたいなもの(アクアグローブ)があるんですね。もっとも、速く泳ぐためというよりは、エクササイズ用品みたいな扱いだけど。ここ数年、海にもプールにも行ってなかったんで、すっかり情報に疎くなっている(^^)。

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にわかバレーファン

 ご多分に漏れず、にわかバレーファンと化しております。アテネの時は、いいところまで来るんだけど結局ダメ、みたいなパターンが多かったので、応援してる方も今ひとつノリきれなかったんだけど、今のチームは、一回失敗すると次回は必ず切り返してくるので、観てる方もつい力が入っちゃうんですよね~。でも、みんな強くなったね~。えらいな~。

 でも、ルールも昔とは違うし、戦術もずいぶん進化してるみたいなので、実況を聴いていてもよくわからないこと(リベロだのブロードだの(^^))が多い。ということで、早速あちこち検索しておべんきょーしました(^^)。

 当たり前の話だけど、奥が深いですよね。よくこんなややこしいことできるよなあ。

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ビジネスとしての競争、スポーツとしての競争

 今日のサンプロの特集はまたプロ野球ネタでしたね。プロ野球の問題について一つ思うのは、ビジネスとしての競争と、スポーツとしての競争を分けて考えたほうがいいのではないか、ということです。

 もともと、スポーツというのは、さまざまな文化活動の中でも、かなり特殊なアクティビティで、本質的に、わざと制約をもうけて手足を縛ってする競争なんですね。

 そもそも、スポーツのルール自体がそういうもので、単に速く移動するとか物を遠くに投げるとかいう目的のためなら、他にもっと合理的な方法がたくさんあるところを、わざわざこういうフォームで投げなくてはならないとか、こういうボールとバットを使わなくてはいけないとか、いろんな制約条件をもうけて、条件付き最適化の競争をする。それがスポーツの面白さなんですね。

 だから、結局金のあるヤツが勝つとか、素質だけで決まってしまうとかいうふうになると、なんかシラケてしまい、文化としての価値が下がってしまうわけです。

 一方、ビジネスというのは、イノベーションという言葉が尊ばれることからもわかるように、むしろ、手段を選ばないところに本領があるアクティビティで、なるべく制約の少ない中で、より大きな収益を生み出す競争をすることにより、社会全体のパイを大きくするところに価値があるわけです。

 もう一つ、重要なことは、ビジネスにおける価値(収益)というのは、各プレイヤーが独立して生み出しているのに対して、スポーツにおける価値というのは、全プレイヤーが共同で生み出しているという点です。

 したがって、ビジネスにおいては、ある程度企業間の格差が生まれても、全体としての収益が増えていればよい(もちろん、福祉の問題とかなんとかは別ですよ、為念)という考え方もできるのに対し、スポーツにおいて、あまりチーム間やプレイヤー間に格差ができてしまうと、それだけで文化としての価値が下がってしまうという違いがあります。

 ところが、プロ野球には、スポーツとしての側面とビジネスとしての側面の両面があって、この両面に競争という言葉が現れるので、この二つの競争を、同じものとして捉えがちなのではないでしょうか。そこに、プロ野球問題を混乱させている一つの理由があるように感じるのです。

 つまり、ビジネスとして、できるだけ多く客を集めるとか、関連商品をたくさん売るとかの活動については、球団ごとの独立採算にして、より努力をした球団ほど収益が大きくなるようにする、ということは、球界全体のパイを大きくするためにも合理的だと思うんです。

 でも、そのビジネスとしての競争を、スポーツとしての競争にリンクさせて、ビジネスの競争に成功した球団ほど、チーム力強化につぎ込める金も多くなる、というふうにすることは、文化としてのプロ野球界全体の価値を高めるためには、必ずしも合理的ではないんですね。

 そうすると、一つ考えられるのは、興行収入については独立採算のままにするが、チーム力強化のために使える資金は、なるべくどのチームも差がないようにして、その金額は、プロ野球界全体の収益に連動させるようにするというような方法です。

 実際、アメリカの大リーグでは、それに近い制度になっているようですが、そのことの意味っていうのは、こういうことだと思うんですね。つまり、ビジネスとしての競争と、スポーツとしての競争は別なんだということ。

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公共財としてのプロ野球存続論

 今日のサンプロで、プロ野球特集をやっていたので、プロ野球再編問題について、自分なりにいろいろ考えてみたのですが、結局、重要なポイントは次の3つに尽きると思うのです。

  • 野球というサービスは、一種の公共財の性格を持っている

 現在のところ、球団の収入は、主に、球場の入場料、放映権料、関連グッズの売り上げなどから来ているようですが、実際のプロ野球のファンというのは、このようなモノに金を払っている人に限定されていないはずで、たとえば、野球は大好きだけれども、ほとんど球場には行かず、新聞のスポーツ欄やテレビのスポーツニュースだけで楽しんでいるという人もたくさんいるはずです。(私自身、野球はけっこう好きですが、ナイター中継だってたまにしか見ないし、球場に足を運ぶのは数年に一回ぐらいです。)

 もし、こういう人たちに、プロ野球存続のために月 100 円だけ払ってくれみたいなことを言ったら、払う気のある人は少なくないと思うんですね。仮にそういう人が全国で1千万人いれば、それだけで年 100 億円ぐらいにはなります。

 つまり、プロ野球というサービスには、公共経済学で言うところの「非排除性」や「非競合性」があるため、潜在的な需要よりも少ない対価しか回収できていないと考えられるのです。このような財について、市場メカニズムに供給をまかせておけば、必ず過少供給になる、というのが経済学の教えるところです。

 実際にやっていけないから、球団の数を減らすしかない、というような主張をする人は、このような野球の公共財的性格を無視しているのであって、野球と言うサービスの最適供給量は、もちろん、限りなく増やすのはムリとしても、そんなに少なくはないと思うのです。

 この見地から考えられる対策としては、薄く広く金を徴収する方法を考えるということがあります。具体的には、有料のインターネット中継であるとか、情報提供サービスなどが有力な選択肢として挙げられるでしょう。

  • 野球というサービスは、外部効果が大きい

 野球というサービスは、実際に球団に入る金以外にも、さまざまなところに経済効果をもたらしています。たとえば、近所の飲食店街などは、球団があるとないとではかなり売り上げが違うでしょうし、スポーツ新聞などのメディアの収入も、プロ野球の人気に大きく依存しているはずです。

 このように、市場を介さずに間接的に与える影響を、経済学では「外部効果」と言います。つまり、ここにも、実際に対価は払っていないが、球団の存在によって得をしている人がいるわけです。

 このような、野球の公共財的な性質と、外部効果考え合わせると、地域密着という解が出てきます。

 極端に言えば、地方税から球団に直接補助金を出せば、非排除性の問題もある程度解消されるわけですが、そこまで行かなくても、たとえば、地方自治体が所有する球場をレンタルする際に、そのレンタル料を安くする、などという方法も考えられます。(もちろん、これは、間接的に税金で球団を支えているのと同じことになるわけです。)

 もちろん、球団の関連会社が、積極的にこの外部効果(この場合はシナジーと言った方がよいかも知れませんが)を利用して、複合的に事業を展開する、という手もあります。

  • 球団同士を競合する企業と見なすべきではない

 そもそも、野球というサービスの品質は、各球団が、自分だけの努力で生み出せるものではありません。

 もちろん、ゲームが面白いかどうかは、プレイヤー同士が互いにどれだけ切磋琢磨しあうかにかかっていますから、その意味で、ゲームプレイヤーとしての球団同士が馴れ合いになってはいけません。

 けれども、企業経営のレベルで考えれば、球団同士は、競合するというよりも、むしろ相互に依存し合っているわけで、特定の球団が、自分の球団を強くし、収入を増やそうとして行う行為が、プロ野球界全体の収入というパイを縮小する可能性は十分あるわけです。

 つまり、球団同士は、同じマーケットで競合する企業と言うよりも、同じ企業の中で競い合うライバル社員のようなものだと考えるべきです。

(ついでに言えば、昨今の誤った「成果主義」の導入によるトラブルも、根は同じような誤解から来ているものと思われますし、そもそも、企業同士の競争だって、社会全体のパイを増やすということを目標に、独占禁止法などの制約のもとに行われているわけです。)

 したがって、球団の目標は、あくまで球界全体の収入を増やすことであって、球団間の収入差は、あくまでそのためのインセンティブと位置づけるべきです。

 このような見地から考えられる対策としては、ドラフト改革などによる戦力均衡であるとか、あるいは、収入の分配方式の変更などが挙げられるでしょう。

 別に、とりたてて新しいことを言っているわけではなくて、基本理念を整理してみただけのことですが、球団経営を広告料として持ち出しでやっていくことが困難になった以上、こういう方向性になるのは当然と言えるでしょう。

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