ああ朝青龍
播磨灘 vs 北道山みたいだったね(^^)。すごいひきつけあい。
最近あんまり相撲を見てなかった(実は今回も千秋楽しか見なかった)んだけど、あんないい相撲ばっかりだったら、逆に相撲人気は復活するのではないかと思ってしまった。(^^)
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播磨灘 vs 北道山みたいだったね(^^)。すごいひきつけあい。
最近あんまり相撲を見てなかった(実は今回も千秋楽しか見なかった)んだけど、あんないい相撲ばっかりだったら、逆に相撲人気は復活するのではないかと思ってしまった。(^^)
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実は、ここ数年あまり熱心に野球を見ていなかったのだが、今年のクライマックス・シリーズからアジア・シリーズまで久しぶりにちゃんと野球を見てみたら、いろいろと感じるものがあった。
ずっと見てきた人からすれば何を今更という感じだろうが、たとえば、荒木・井端の一二番コンビ。この二人は、往年の福本・蓑田とか柴田・高田とかに匹敵する、あるいは、ひょっとするとそれ以上の一二番コンビではなかろうか。また、マリーンズやファイターズにしても、長打力なんてほとんどないのに、しぶく小技を使って得点してくるし、野手の守備範囲もめっちゃ広い。
こういうのを見ていると、なんか、自分が長年見てきて少し飽きかけていた野球というものが、いつの間にか異質のゲームに進化しているような気がするんだよね。
たとえば、昔は、あんなにヒットエンドランなんて決まらなかったよね。ヒットエンドランという名前だけはあったけど、サイン出てもたいてい失敗で、何回に一回はライナーでダブルプレーだったでしょ。あと、昔は、外野手が間を抜かれて打球の処理にモタモタする間にランナー三塁なんてこと日常茶飯事だったけど、今はほとんどないでしょう。打者の足が遅いと、下手すりゃ外野の頭を越してもシングルヒットだったりするし。
ひょっとすると、日本の野球は、今までマンガやポップスみたいだったのが、だんだん純文学や現代音楽みたいなものになっていくのかもしれないね。そうすると、一般受けはしなくなるだろうけど、逆にコアなファンは増えるのかもしれない、という気もする。思いつきで書いてるだけだけど(^^)。
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亀田問題が一段落したかと思ったら、落合監督がタイミングよく燃料を投下してくれたみたいで、いろんな方が舌なめずりする音が聞こえるようである(^^)。さっそく落合批判を大々的にぶち上げた評論家の方もいるようだが、ぼくは基本的に落合采配支持である。
ぼくのスポーツ観についても何度も書いてるけど、スポーツは基本的に勝ち負け最優先の文化だと思う。人類の作った文化の中には、仕事とか芸術とか遊びとか恋愛とかいろいろあるけど、どれも必ずしも何が勝ちで何が負けなのかよくわからない世界だ。もちろん、だからこそ味わいがあるとも言えるのだけれども、不完全燃焼になりやすいところがあるのも事実である。
そのような人類のさまざまな文化に対して、あえて人工的に勝ち負けをはっきりさせ、勝ち負けだけを目指すところにスポーツの特色があり、それが他の文化にないものを補っているからこそ、独自の存在価値を持ち続けているのである。というのは、実はほとんど山崎正和氏の受け売りなんであるが(^^)。
この話はプロスポーツになると多少変わってきて、勝ち負けだけでなく興行収入というもう一つの目的にも配慮しなければならなくなるのは事実だ。しかし、前にも書いたように、興行に配慮しすぎた結果として、強くなくても人気がある方が儲かるようになってしまえば、スポーツは文化としては堕落し、プロレス的な娯楽になるしかないのである。
(玉木正之氏なんかは、また例によってホリエモンなんかにたとえているようだが、亀田問題でもわかるように、スポーツではむしろ、勝負より興行を優先させることが堕落につながるのであって、その堕落を防ぐためには、意識的に勝負を最優先にしなければならないのである。少なくとも、その程度は区別して論じてもらいたいものだ。)
したがって、プロスポーツがプロレス的な娯楽に変質しないためには、まずは勝つと言うことを最優先の目的にし、それに邪魔にならない範囲で興行面にも配慮するというバランスを維持する必要がある。これがぼくが落合采配を支持する基本的な理由である。
もちろん、これは原則論でしかないので、これだけでは納得しない人もいるだろう。そこで、落合采配を批判する方々にもう一つ言っておきたいことがある。それは、あんたら結局数字しか見てないんですか? ということだ。
パーフェクト・ゲームというのは、記録である。もちろん、スポーツにとって記録は重要だ。しかし、それはスポーツを観戦した結果を測定して一般化する一つの方法でしかない。スポーツを観戦するという行為の本来の意味は、必ずしも記録には残らない細部にこそあるはずではなかったのか。
これがもし、山井の球威の変化、岩瀬の調子、試合の流れなどすべてを考慮に入れた上で、交代してもそれほど勝率に変化があったとは言えないのではないか、だからあの継投策は間違いである、というならまだわかる。ところが、批判する人のほとんどは、結局、勝負と感動とどっちが大事か的なことしか言っていないのである。
感動感動と言うけれど、一言で「感動」と言ってもいろいろあるはずだ。娯楽にたとえれば、単に記録をつぶされたと言って怒るのは、いわば、水戸黄門が印籠を出さないとか、ウルトラマンがスペシウム光線を出さないとか言って怒っているようなものにすぎない。
もちろん、ぼくだってそういうステレオタイプな感動を全否定する気はない。しかし、いやしくもスポーツ評論家を名乗る方々であれば、仮に批判するにしても、テーマやストーリー展開などすべて分析した上で、印籠やスペシウム光線のような定番を崩してまでやる必然性はなかった、と言うべきじゃないのか。その程度のこともできない「プロ」に、偉そうに他人の仕事にケチをつける資格があるのだろうか。
はっきり言うけど、ぼく自身は、あの落合監督のギリギリの采配を見て「感動」したし、チームのためにそれを素直に受け入れた山井を見て「感動」したし、プレッシャーの中きっちりパーフェクト・リレーを達成して見せた岩瀬に対しても「感動」した。「感動」は記録や数字の中だけにあるわけではないのだ。
そもそも、スポーツ・ジャーナリズムの役割というのは、勝つことだけを考えて全力でプレーする選手を観察して、そこから「感動」を「発見」することにあるのであって、選手にお約束のステロタイプな感動芝居を強制することには断じてない。そんなのでいいのだったら、何もわざわざスポーツなんかやらせずに、あらかじめシナリオのある芝居でもやらせときゃいいのだから。
だから、ぼくなんかにはむしろ、このような安易な批判が起こること自体が、スポーツ・ジャーナリズムの堕落を示していて、亀田問題なんかもその延長線上にあるように思えてしまうのだが、いかがであろうか。
(野村監督のコメントを「批判派」として紹介しているメディアが多いのだが、彼は、他の監督ならやらない采配だという趣旨のことを言っただけで、だから落合がすごいとも言っていないが、だからと言って落合はダメだとも言っていないのである。もちろん、本音では批判したいのかもしれないが、少なくとも、それを明言することは避けている。それを安直に「批判派」として引用してしまうところにも、スポーツマスコミの低劣さを感じる。だいたい、野村克也は、オールスターでイチローがピッチャーで出てきたときに松井に代打を出したぐらいで、空気読まない派の代表格のはずなのである(^^))
(追記:ぼくは野村さんの「敵は我に在り」も落合さんの「落合博満の超野球学」も読んでいるので、お二人の考え方はわりと知っているつもり。)
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お祭り騒ぎもようやく一息ついたようなので、封印していた亀田問題をもう一度だけ語ってみようかと思う(^^)。
大毅 vs 内藤戦後の世論の動向に関しては、一応 YouTube なんかでフォローしていたのだが、今回は、自分の気持ちと世論との間にそれほど乖離はなかった。そこに乖離が生じたのは、興毅がやった謝罪会見のときだった。
ぼくから見ると、あれでは謝罪になってないだろうと思えるのだが、なんと、世論の半分ぐらいはあれで亀田同情派に回ったらしく、しつこく質問していた記者のことを、やりすぎだとか何様だと思っているんだというような意見もあったという。
謝罪という行為の社会的機能や意味については、前にも書いたので繰り返さないが、ぼくから見ればやはり、なぜ反則を指示したかという説明は最低限必要なように思える。「興奮していたから」みたいな説明をしていたが、そんなのはお話にならない。試合中なんてほとんど興奮しているはずなのだから、じゃあお前は、また試合になったら同じ反則をするんだろう、と思われても仕方ないではないか。
そんなわけで、ぼくはどうも世論の変化に納得がいかなかった。これで納得する人というのは、いったい何を怒っていたのだろう。いままでとあの会見とで、興毅が変わったところと言えば、背広を着てやや丁寧な言葉遣い(それでも細かいところはタメ口だったが)をしたということだけだ。
つまり、世の中の大多数は、亀田家の態度が生意気だったから怒っていただけで、もう逆らいませんと世間様に対して恭順の意を表せば、それで十分に溜飲が下がるということらしいのである(^^)。 もしそうだとすると、結局、世間にとってもこれは勝ち負けの問題だということで、亀田家の勝てば官軍主義を笑えないと思うのだが。。。(^^)
まあ、この問題についてはこれ以上深入りしないが、この現象は、最近のいわゆる世論の「手のひら返し」の構造をよく示しているように思う。
もともと、亀田家に対する批判というのは、以下のような複数の論点を孕んでいた。
メディアに出始めのころは、もっぱら1の批判が中心だった。それが戦績を重ねるにつれ、2の批判が徐々に高まってゆく。最後に、大毅 vs 内藤戦に到って3の批判が加わることにより、批判派の数が臨界点を超え、最初の「手のひら返し」が起こった。逆に、謝罪会見ではたぶん、1を批判していた人をある程度納得させることに成功した。そのため、二度目の「手のひら返し」が起こった。
このような現象を、1の論点から批判派だった人から見ると、あいつらが悪い奴だなんてことは最初からわかってたことじゃないか、という風に見えるので、大毅 vs 内藤戦後に世論が手のひらを返したように見える。逆に、ぼくのように、2や3の論点の方を重視している人間からみると、反則で世論が反転するのは当然であり、謝罪会見で再度反転する方が「手のひら返し」に見えるわけである。
つまり、マスコミなんかでは世論が移り気だみたいなことを安直に言うけど、たぶん、一人一人の一般庶民から見れば、自分のプリンシプルや倫理感覚にしたがって、首尾一貫した判断をしているだけなのである。ところが、そのプリンシプル自体がかなり多様化しているため、結果的に、ある臨界点を越えるような出来事があったときに、世論が一気に反転するように見えるだけなのだ。
むしろ、かつてはあまりこういう現象が起こらなかったこと自体が、かつての世論が、マスコミや識者の誘導に流されていたことを示しているのだろう。そういう意味で、このような「手のひら返し」現象は、マスコミや識者がしたり顔で言っているような、世論の衆愚化を示しているわけでは決してなく、むしろ、世論の多様化やメディア・リテラシーの向上を示しているのだと、ぼくは思っている。
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「ジャンクSPORTS」というのは、ご存知の方も多いと思うが、ダウンタウンの浜田雅功がメイン MC をつとめ、ゲストに迎えたトップアスリート達をヒナ壇芸人よろしくいじり倒すという番組である。
ダウンタウンファンのぼくはもちろん、この番組自体好きでよく観ているのだが、中でも前から気になっているコーナーが一つある。それは、「スポーツ・ファンタスティック」の中の「ジャンクスポーツPR大作戦」 というコーナーである。
これは、たとえばビーチバレーの浅尾・西堀ペアとか、F1 の鈴木亜久里のチームとかに、 ジャンクSPORTSの番組のロゴの入ったものを着用してもらったり、F1 のマシンにステッカーを貼らせてもらったりして、ジャンクSPORTSという番組をタダで宣伝してもらおうという、超ずーずーしい企画、のはずなのだが…(^^)。
でも、冷静に考えると、平均視聴率 10% 程度を稼ぐジャンクSPORTSの方が、ビーチバレーや F1 レースの試合より、メディアとしてのリーチは大きいはずである。普通、広告というものは、リーチの小さいメディアがリーチの大きいメディアに出すものだが、この企画では、それが逆になっているのである。
つまり、見かけ上は、ジャンクSPORTSが他のスポーツに宣伝してもらっているように見えるが、実質的には明らかに、ジャンクSPORTSの方が他のスポーツを宣伝することになっているのである。深読みかもしれないが、それをあえて、「宣伝してもらっている」と表現するところに、ぼくは番組スタッフの美学のようなものを感じて、心の中でニヤリとしてしまうのだ。
もっと深読みすれば、このやり方は、いつも宣伝「してやって」いるのだから、という事実を免罪符にして、いざとなると芸能人やアスリートのプライバシーを暴き立てて食い物にしている、他の芸能マスコミやスポーツ・ジャーナリズムに対する批評にもなっていると思うのだ。
このようなイエロージャーナリズムの問題点は、ルールというよりむしろ美学の欠如にあるので、論理的な言語では批判しにくいところがある。したがって、そのような美学のなさを批判するには、より美学のあるモデルと対比することが最も効果的なのである。
そういう意味で、ジャンクSPORTSのスタッフの方々には、今後もぼくの深読みを裏切らないようにがんばっていただきたいものである(^^)。
(ダウンタウンのことを下品な芸人だと思っている人もいるようだが、この例でもわかるように、ぼくは、彼らには強い美学的なこだわりがあると思う。もちろん、それを美しいと感じられるかどうかは、人それぞれだと思うが(^^)。)
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プロ野球の存在意義は、その街の人々の暮らしが少し彩られたり、単調な生活がちょっとだけ豊かになることに他ならない。
いいなあ。謙虚さと責任感の微妙なバランスをわかっていないと、こういう発言はできませんよね。
こういう発言を自然にできる人、好きです (^^)。
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甲子園は時間がなくてほとんど観れなかったので、ハンカチ王子とかの話題についていけなくてちょっと口惜しく思っている最近の私です (^^)。
そのかわりと言ってはなんですが、女子バレーのワールド・グランプリはわりと観てます。国内の V リーグとかはまったく観ていないのですが、柳本ジャパンはメグ・カナのころから観ているので (メグちゃんはどうしちゃったのかな (^^))、だんだん愛着が出てきましたね。
なんか、このチームはうまいことキャラが立ってますよね。テンちゃんというめちゃ背の低い天才セッターがいて、シンちゃん (ユニフォームにまで SHIN と書いてあるけど (^^)) というこれまた背の低いアタッカーがいて、かおる姫という美形でアタックもできるリベロがいて、カナやスギという背の高いレフト、センターがいて、という感じで。
外国のチームを見ると、わりとみんな背が高くてパワーがあって、という感じなので、なんか、明訓高校対大リーガーの試合を見てるみたいで面白いです。
また、みんなの顔もいい感じに引き締まってきましたよね。ぼくもこんなたるんだ顔ではいけない、もっとしぼらないと、と反省しています。。。^_^;
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亀田問題については、当事者に対する毀誉褒貶とは別に、時代の変化みたいなものも感じる。やくみつる氏、勝谷誠彦氏など、亀田親子の礼儀や態度を批判する向きは多いが、たとえばこれが 30 年ぐらい前だったらどうだろう。
30 年前、つまり、ぼくらが子供の頃はまだ、公立の小学校に行くと、みょーに汚い服を着てきたり、あまりお風呂に入っていないらしく、近寄ると体臭のする子供とかがいたものである。そういう子供に対しては、(子供同士のイジメとかはあっても) 少なくともタテマエ上は、汚いとか臭いとか言ってはいけないことになっていた。
銭湯に行けば、身体中に派手な絵の描いてある (吉田戦車流に言えば「絵人間」) 人が、ぶっきらぼうな口調でいきなり話しかけてくることもあった。そういう人には、決して口答えせず、適当に話を合わせることになっていた。道端に汚い格好で座って、通行人がお金を投げてくれるのをひたすら待っている人もいた。そういう人に対して、「道端に座ってはいけません」とかお説教する人はいなかった。もちろん、なんとか狩りなどの獲物にする子供も。
つまり、あのころはまだ、世の中には解決しようのない矛盾というものがあるという意識を、みんなが共有していた。したがって、そのような矛盾の犠牲者と見られる人に対しては、一般人と同じ常識を適用しないという暗黙のルールがあった。
もちろんこれは、考えようによっては立派な差別である。しかし、社会に解決しようのない大きな不平等があるという認識のもとでは、その犠牲者を平等に扱わず、区別して扱うことこそが、より正義にかなっていると多くの人が考えたのだった。
(高度成長時代は一億層中流で、今よりもっと平等だったんじゃないの、とか思っている若い人。実際は、そんな単純な話じゃなかったんですよ。あの当時は、もっと歴然と差別されている人がいて、それ以外の人に限って建前上平等、というような社会だった。さらに言えば、その平等とされている人たちの間でも、はっきりと暗黙の序列みたいなものが決まっていたのです。それがそんなによい時代だったのか、知りもしないのに単純に憧れてほしくないですね。少なくともぼくは、今のほうがずっといい時代だと思います。)
たとえば、「あしたのジョー」だって、明らかに年上の丹下段平や白木葉子に対して「おっさんよぉ」「あんたって人は」みたいなタメ口をきいていたわけだが、それを無礼だと批判する人はいなかった。もちろん、当時だってそういう行為自体は十分無礼だったのだが、無礼だと言うこと自体が無意味だという時代状況があったわけだ。
このような時代だったら、西成区に育ち解体業を営むというあの人に対しても、多くの人が、自分とは違う世界に住む違う人種であり、自分と同じ常識が通用しなくても当たり前と思ったのではなかろうか。また、そういう人がひょんなことで有名人になったりすることがあっても、周囲の大人たちが緩衝地帯になって、そういう常識の違いによるボロが出ないようにしたであろう。 当時の有名人で、死後になってさまざまな奇行が判明した人も数多い。
ひるがえって現代では、あのようなおっさんに対しても、多くの人が自分と同じ土俵に立っていると考えて批判しているわけである。これはある意味、世の中の人はみな同じルールの下で平等である、という意識の現れであるから、基本的には社会の進歩と言ってよいのだろうと思う。
ただ、一つだけ気になるのは、本当に現代の日本社会は、それほど平等になっているのだろうかということ。解決しようのない社会の歪み、差別、不平等、みたいなものは、本当に無視できるほど小さくなったのか。
たとえば、ぼくは自分が別に不幸だとは思っていないが、大企業やアカデミズムの世界に対するコンプレックスや僻みというものはいまだにあって、学者さんとかの非現実的な発言にムカつくことがある。終身雇用は日本が世界に誇るセーフティネットだ? じょーだんじゃねえ! そんなのは大企業だけに通用する話。中小企業でいくら終身雇用を標榜したって、会社自体がいつ潰れるかわかんねぇんだから意味ねえんだよ! そんなことすらわからずに、利いた風な口叩くんじゃねーよ、タコ! みたいな (^^)。
ぼくは、詳しい事情がわからないから確たることは言えないのだが、あの親子やあの業界を批判する際にも、ひょっとしてそれと同じことをしてやしないだろうか、という想像力だけは持っておきたいと思うのである。
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たとえば、チンチロリンだって、大バリしたときに限ってピンゾロを出すとかいうヤツがいたら、いくら「サイコロには一から六の目があるんだから、ピンばっかり揃うことだってあらーな」みたいなことを言ったって、やっぱりグラサイだろうぐらいのことは思われるわけである。しかも、サイコロは持参してよくて、相手には改める権利もない、みたいなルールになっていれば。
プロの博打場では、そういうトラブルがおこらないように、いろんな作法が決められていると聞くが、博打場と同じような方々が仕切っているらしいあの競技において、そういう対策がまったくなされていないというのは、やっぱり、ダンナ衆だと思ってナメられているのだろうか (^^)。
※映像は記事とは無関係です。
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そもそも、スポーツ・ジャーナリズムというものには、他のジャーナリズムと比べて、根本的に異質な点があると思う。ニュース・ショー番組などでも、スポーツのコーナーになると、明らかにトーンが変わるのがその証拠だ。スポーツ・ジャーナリズムというのは、許しがたい悪事や悲惨な事件の報道が「ケ」だとすれば、それと対照的な「ハレ」の役割を担わされているのである。
なぜ、スポーツ・ジャーナリズムがそのような役割を担うことが可能なのかというと、スポーツという分野自体が、人工的に純化された世界だからだと思う。
本来、人生には明確な目的はない。多くの人は、そこに生きがいという目的を想定することによって、快楽や充実感を得ようとするが、生きがいには絶対的な正さの証明があるわけではないので、多くの人は人生の意味付けに悩みながら生きることになる。もちろん、そこから人生の味わいのようなものも生まれるわけであるが、そのことが、人間の日常を不明瞭なものにしている原因でもある。
ところが、スポーツの世界では、目的はルールにしたがって勝つということに単純化されているし、競技自体が、現実的な目的に直接役立たないものが多いので、何のために勝つのかという意味を問うことも無意味化されている。その結果、スポーツの選手は、目的自体の意味や価値について悩むことなく、目的を実現するための努力だけに純粋に専念できることになる。おそらく、だからこそ、スポーツを観戦する人は、「ケ」の日常の不明瞭さから解放され、「ハレ」の爽快感を味わうことができるのである。
(このへんの立論は、筆者のオリジナルではなく、山崎正和氏の説を参考にしている。オリジナルを知りたい人は「近代の擁護」などを参照。ただし、細かいところは筆者流にアレンジしており、その部分についての文責は筆者が負うものとする。)
スポーツ・ジャーナリズムがさらに特異なところは、基本的に、報道が試合の結果に影響を与えることはないということである。
これが政治だったら、どの政治家をどのような論調でどのぐらいの頻度で取り上げるかというのは、政治の結果にまで影響を与える可能性がある。ビジネスにしても、どの企業のどんな製品をとりあげるかで、企業の業績に影響を与える可能性がある。事件報道ですら、取り上げ方によっては、当事者の人生そのものに影響を与える可能性がある。したがって、ジャーナリストは、嫌でも公正さやバランスというものを意識せざるを得ない。意識しなければ、報道は信用性を失い、単なる宣伝と化してしまうからだ。
ところが、スポーツの場合には、試合の結果は客観的なルールによって決まり、報道のされ方によって影響を受けることはほとんどない。「なんとか選手強いっ!」といくら連呼しても、そのせいでその選手が試合に勝つことはない。この事実と、先にのべた、スポーツ・ジャーナリズムが持つ「ハレ」の役割を考え合わせると、おそらく、スポーツ報道を多少大袈裟に行うことが正当化されるのであろう。
この姿勢は、おそらく、アマチュア・スポーツについてはかなりの程度で正しいのだが、プロスポーツになると、事情が微妙に変わってくる。
なぜなら、プロスポーツでは、お金という別の目的 があるので、アマチュア・スポーツのようには、勝つことだけを目的にしにくいからだ。もちろん、多くのスポーツでは、勝つことによってのみ金が手に入るというような仕組みを作ることによって、選手に金銭面でも勝つインセンティブを与え、そのことによって、スポーツに内在する独自の価値論理を守ろうとしている。
しかし、ここで忘れてはならないのは、いくらそのような仕組みを作ったとしても、選手に分配する金の原資は、結局は興行収入で得るしかないということだ。言うまでもないことだが、この興行収入というのは、必ずしも選手の実力だけで決まるものではなく、ルックスやパフォーマンスなどによって左右されがちな「人気」であるとか、資金力がものを言う「宣伝」とかに大きな影響を受ける。
この話にこれ以上深入りすることは避けるが、要するに、プロスポーツというものは、もともと、スポーツと興行の危ういバランスの上に成り立っているビジネスであり、当事者がこのバランスを常に意識していなければ、容易に破綻して単なる見世物に堕してしまう危険を孕んだ文化であるということだ。
同じことは、スポーツ・ジャーナリズムにも言える。スポーツ報道は、確かに試合の結果には影響を与えないかもしれないが、興行の結果には大いに影響を与えうる。つまり、スポーツ・ジャーナリズムが、いくら事実を選択的に報道しているだけであっても、それが結果として、文化としてのプロスポーツをスポイルする可能性はあるのである。
たとえば、実力のない選手を報道によって人気者にしてしまえば、その選手は、一番強い選手より大きな収入を得られるようになる可能性がある。そのような選手がたくさん登場すれば、実力より人気を大事にする選手が増え、勝つことだけを目的とするというスポーツの純粋性は破壊されることになろう。また、興行側は、そのような選手を「勝たせる」ことによって興行収入を増やし、関係者全員を豊かにするという誘惑にかられることになるだろう。
もっとも、本来、スポーツ・ジャーナリズムはスポーツがなければ成り立たないことを考えれば、このような危険を回避することはそれほど難しいことではない。スポーツ・ジャーナリストが、目先の欲望にとらわれず、自分たちの存在を支えているスポーツという文化に対し、正しい認識と愛情をもって、自らペンを律すればよいだけの話だ。そして、この問題には、それ以外に特効薬はないと思う。
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ぼくはボクシングのことはよく知らない。試合を見た回数も数えるほどで、もちろん、リングサイドで見たことなど一度もない。ボクシング以外の格闘技のことも、それほど詳しいとはいえない。友人に格闘技好きがいるし、格闘マンガも結構好きなので、言葉だけは多少知っているが、その程度のものである。
そういう人間ですら、昨日のボクシングの試合では、いろんなことを考えさせられたので、少し感想を書いてみたい。もちろん、これは素人の意見に過ぎず、思いっきり的外れかもしれないことをお断りしておく。
まず、ボクシングの判定について、こんなことを考えた。
たとえば、メチャクチャに打たれ強いボクサーがいたとする。こいつは、どんな強打をくらっても、何回打たれても、まったくダメージを受けない。ただし、自分のパンチの威力やスピード、防御のテクニックなどはイマイチだとする。
そうすると、このボクサーは、KO するまで続けるというルールだったら、かなりの高率で勝つと思われるが、逆に、判定にもちこまれれば、かなりの高率で負けるだろう。自分は相手に「有効打」を浴びせられず、相手の「有効打」はたくさん浴びてしまうわけだから。でも、その「有効打」は、実は彼にとっては有効打でもなんでもないのである。これっておかしくないか?
ボクシングというのは、本来、相手が闘えなくなるまでダメージを与えることを目的とする、格闘技の中でもやや特異な種目だ。レスリングなら、必ずしも相手に与えたダメージが大きくなくても、なんとが固めを決めて一瞬にして逆転勝というようなことが可能だ。柔道でも、相手より疲れている選手が、一本を決めて勝つということはありうる。つまり、こういう種目では、もともと、相手にダメージを与えることよりも、技を決めるということに高い価値がおかれているわけだ。(もちろん、防具なしでやっていたときには、そういう技はすべて必殺に近い技だったのであろうが。)
それに対して、ボクシングは、本来、技を決めることは手段に過ぎず、相手に与えたダメージによって評価される種目だったはずである。ところが、判定になると、一転してこの本来の価値基準ではなく、決めた技によって評価されることになるのだ。最後にはフラフラになっていたヤツが、判定で勝つということに対する違和感の理由は、ここにあるのだろう。
では、相手に与えたダメージそのものを、見ているだけで客観的に判定する方法があるのかというと、それはよくわからない。専門家ならある程度わかるのだろうか。それとも、そんなものを判定しようとすると、なおさら判定が主観的になって不正確になってしまうのだろうか。
もちろん、ヤオチョウだとかなんだとかいう話があることも知っているが、ここではあえてボクシングのルールの本質についてだけ考えてみた。ひょっとしたら、あの対戦相手は、自分が勝てないことは承知の上で、相手に最も恥をかかせる負け方というのを考えていたのかもしれない。
追記: などと勝手なことを書いていたら、早速こんな記事が。
一般的に、ダメージに基づくクリーンヒット(有効打)の数が重視され、そこに差がない場合は次に手数や攻勢点が評価対象となる。
ということで、ダメージがなければ「有効打」にはならないらしい (^^)。
でも、もしそうだとするとですよ、やっぱり、中盤に日本人が一生懸命打っていたパンチは効いていなくて、ベネズエラ人がポコポコ打っていたパンチの方が効いていた、ということになりませんか。でなけりゃ、あそこまで差はつかないんじゃないですか。となると、やっぱり中盤でそんなに差がつくの判定がおかしいということに。。。(^^)。
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メンバーが不祥事を起こしたので、野球チームを解散すると言っていた監督が、ファンの意向を受けて解散を取り消したという出来事がありました。この出来事については、mixi なんかでも、かなり斜めから見てる人が多いみたいですけど (^^)、正直、ぼくもこうなるような気はしてたんですよね~(^^)。でも、何か釈然としないものがあるので、自分の頭の中を整理するためにも、少し考えてみたいと思います。
まず、この監督の真意はおいといて、客観的に球団や監督に責任があったかを考えて見ましょう。ぼくは基本的に責任はない、もしくは、あっても極めて微量であると思います。なぜなら、あれはあくまでメンバー個人の私的な行動にすぎないからです。一般の会社についてもそうですが、社員が会社の職務として行っていた行動の結果について会社が責任を負うのは当然でしょうが、社員の私的な行動にまで責任を負う必要はないと思います。
責任というのは権限から発生するものだから、もし会社が社員の私的な行動にまで責任を持たねばならないのなら、必然的に、会社は社員の私的な行動まで束縛する権利を持ってよい、ということになってしまいます。これは、リベラルな社会において、原則的にあってはならないことでありましょう。先ごろ、NHK の記者が放火をしたということで、NHK の上司が謝罪していましたが、ぼくは、同じ理由でこの謝罪も不要だったと思っています。話がそれましたが。
次に、この監督の対応についてですが、彼の意図をあれこれ詮索しても水掛論になるだけなので、彼が単純に翻意した場合と、最初から撤回するつもりで解散を表明した場合と、両方考えてみることにします。
まず、単純に翻意しただけの場合ですが、もともと責任はないという私の立場からすると、ない責任を認めてしまった最初の発言が間違いだったということになります。その意味で、球団の監督としては思慮が浅かったという批判は当然成り立ちます。
ただ、人材というのは希少な資源なので、あらゆるポジションに最高の人材を求めても仕方ないんで、適材適所に人材が割当てられていることが重要なのです。つまり、組織の長は、その組織の運営に必要十分なだけの思慮があればいいわけです。そういう意味では、結果オーライにせよ、球団は無事存続しそうなわけで、彼は監督としての責任を一応果たしているとも言えるわけです。もちろん逆に、責任があるという立場からすれば、どうやって責任をとるかの意思表示もなく、発言を撤回したことが批判されるべきでありましょう。
次に、最初から撤回するつもりで解散表明した場合ですが、確かにあざとい印象はありますが、先と同じ理由で、やはり結果責任としては彼は一応監督としての責任を果たしていると言えます。ただ、この場合に問題なのは、彼が一度は自ら責任を認めていることです。それが一時の気の迷いでなく、すべて意図的だとするなら、彼は本当は自分に責任があると思っているのか、それともいないのか。
もし、本当は責任がないと思っているのに、わざと責任があると言ったのなら、責任をとらないという行動は正当化されますが、心にもないウソを言ったきわめて不誠実な人だということになるはずですし、逆に、もし本当に責任があると思っていたのだとすると、彼は、本来とるべき責任を、ポピュリズム的な大衆扇動によってないことにしてしまったインチキな人だということになるはずです。
いずれにせよ、この場合、彼は、責任の所在をはっきりさせ、とるべき責任は引き受け、とるべきでない責任は正しく拒否して組織を守るといった思想よりも、結果オーライで関係者を納得させられればそれでよいのだ、という思想を優先する人だということになります。これは、通俗社会学的に言えば、まさしく空気=ニューマ支配の思想ですよね (^^)。
おそらく、彼の言動が反発を招いたのは、まさにこの点が理由なのではないでしょうか。私も含め、多くの人が、彼の言動の中にニューマ支配の影を感じ、そこに、視聴率 100% 男の姿を重ね合わせて、結局は空気を自由に操れるヤツが一番偉いのだ、というような主張の臭いを嗅ぎ取ったのだと思うのです。
ただ、責任というのは、あくまで、思想ではなく行動に対して課せられるものであり、私はもともと責任はないという立場ですから、仮に彼がそういう思想を持っていたとしても、それだけでは、彼という人間に対する個人的評価を変える理由にはなっても、彼の行動を批判する理由にはならないんですよね。もちろん逆に、責任があるという立場からすれば、あるはずの責任をないことにしてしまった点については、当然批判されるべきでしょうが。
結論として言えることは、関係者がこの結末に納得しているなら、外部のものがわざわざひっくり返そうとするほどの理由はないだろうということです。 ただ、それとは別の話として、彼に対する個人的評価を変える人がいても、それも仕方ないだろうと。そういう感じです。
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| チーム | 再生ソフト | 情報量 | ||
| 福岡ソフトバンクホークス | インターネット中継 | Windos Media Player | ビデオ | 100kbps |
| 広島東洋カープ | RCC ラジオ | Real Player | ラジオ | |
| 西武ライオンズ | 文化放送 | Windos Media Player | ラジオ | |
| 読売ジャイアンツ | ラジオニッポン | ラジオ | ||
| 楽天イーグルス | 楽天イーグルス.TV | ビデオ | ||
| 阪神タイガース | Tigers-net.com | ビデオ |
まだあるかな。パリーグの試合が見れるようになったのはありがたいですね。
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祝、世界一! これで日本人は今後三年間、「野球は日本が世界一だ」と称したり、「いやー、一回勝った位で世界一なんて思ってませんよ」なんて謙遜したりして楽しめるわけだ(^^)。
今江や川崎にも名誉挽回のチャンスがあったりして、メキシコがアメリカに勝って以来、どうもちょっとできすぎているような気もしますが(^^)。
でも、バランスのとれたいいチームでしたよね。楽しませてもらいました<m(__)m>。
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Wikipedia の WBC の項目には、早くも「疑惑の判定」の項目が。このリアルタイム性が Wikipedia の強みですね。英語ページには、ビデオキャプチャまでアップロードされてるけど、よく見ると、日本語のキャプションが入ってて、明らかに日本のテレビの映像。ってことは、日本人で英語に堪能な方がアップロードしたのかもね(^^)。 (じゃなくて、在日韓国人の方かなあ? ハングルまったく読めないので、よくわかりません。すみません。<m(__)m>)
なんと、日本語版のほうには、ボブ・デービッドソンという項目までできちゃってるし(^^)。 英語版にもよく見ると Bob davidson umpire というのがありますね。日本語版の方が基本的には詳しい(^^)けど、英語版には、1992 年のワールドシリーズで起きた "Phantom Triple Play" というのが載ってます。
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A television replay appeared to show Nishioka tagging up after the catch. However, it was a split-screen shot from two cameras, with no way to prove the twin screens were in sync.
テレビの再生で見ると、西岡のタッチアップは捕球後のように見える。ただし、これは 2 つのカメラの映像を合成したニ分割画面なので、2 つの画面が同期している保証はない。
というところ。えーっ? そんなのありぃ? と思ったのは、私だけでしょうか(^^)。
たしか、電子の進む速度は結構遅いけど、電気信号自体は光速で進むんですよね。だったら、別に同期してなくても、人間が認識できるほどの差はでないんじゃないの、ふつう。(それとも、昔のカセットテレコみたいに、録画ヘッドを再生ヘッドがちょっとずれてて…、みたいな話かなあ。昔のオーディオ少年少女は、これを利用してエコーを作るとかやったんだよね(^^)。)
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荒川静香選手、金メダルおめでとうございます。ぼくは鈍感なんで、友人に言われて気づいたんですが、「荒川選手の何が素晴らしいかと言って、これまで日本人は体型の面で西洋人とはハンデがある、といわれ続けて来た種目で、まさにその美しさで西洋人以上に評価されている、そのことが素晴らしいんだ」って言うんですよね。なるほど、確かにその通りだなあと思って。
そういう意味では、イチロー選手が世界記録を更新したときと同じような感動がありましたね。どちらも、単に西洋人の猿真似をしたんじゃなくて、逆に、自分らしさを極限まで極めた結果として、国境を越えた普遍性を獲得したということですから。これは、陳腐な伝統主義とも安易な世界標準への追従とも違う素晴らしさだと思います。拍手。
ワールドカップやオリンピックでの同国人に対する応援を、プチなんとやらとか言って揶揄する人もいるし、もちろん、そういう面もなくはないんでしょうが、国際共通のルールの元で競争して勝つということは、国民性・民族性を超えた普遍性に近づくということでもあるんで、だからこそ同じ国民・民族の心を打つ、ということもあるのではないでしょうか。と、今回改めて感じましたね。
(表彰台に並んでいるのを見たら、荒川さんはスルツカヤよりサーシャ・コーエンよりも背が高いんですね。)
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そろそろだと思っていましたが、オリンピックの日本選手に「期待しすぎ」という論調が出てきましたね(^^)。でも、ぼくは、期待すること自体が悪いんじゃないと思うんです。
関係者はともかく、一般の人たちが期待するのは、お笑い用語で言えば「前フリ」みたいなもので、応援という行為を楽しむための準備なんです。この準備があるからこそ、期待通りになれば喜び、期待を超えればさらに驚き、期待を裏切られればがっかりする、というような落差を楽しめる。だから、応援する方から見れば、期待してナンボ、というところがあるんですね。
どーせダメでしょ、とかクールに思いながら応援してても、盛り上がらないじゃないですか。だいたい、株やギャンブルや天気予報じゃないんだから、オリンピックのメダルの数なんて、「正確」に予想したってたいした意味ないでしょ? (^^)
ぼくがむしろ問題だと思っているのは、ただ応援してるだけの野次馬で、なんら利害関係などなく、個人的に選手に協力したりしているわけでもないのに、「期待」通りの演技を見せられなかった選手を過度にバッシングするというような風潮です。「応援してやったのに」とかさ (^^)。ぼくに言わせれば、それは単なる勘違い。ぼくら野次馬は、勝手に期待して勝手にがっかりしていればよいのです。それが野次馬なりの美学というものだと思う。
かつては、そういう何か勘違いしたような報道も多かったので、それが嫌いでしょうがなかったけれど、最近はむしろそういう傾向は減ってきたように感じます。(松岡さんなんかも、応援はすごいけど、ダメだった選手をムチ打つようなことは絶対にしないでしょ?)その距離感がわきまえられるのだったら、期待や応援はどんどんしたらいいと思うのだ。
(カーリングって、ルールがわかってくると、結構面白いですね。よく「あれがスポーツか?」とか言ってネタにされるけど、あのスイーピングがかなりの重労働で、腰を痛める人もいるんだって。)
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「辞書にない英語」のアクセス解析を見て、みょーなとこからアクセスがあるなと思って調べてみたら、ジャンク SPORTS で有名な、株好き競輪選手長塚氏のオフィシャルサイトにこんな記事が… (この方、株の本まで出しちゃったんですね (^^))。でも、はっきり言ってほめすぎです (^^)。
ポイント 否定的な言葉はもっとほめろというサイン。(「大人養成講座
」 石原 壮一郎著)
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