涼宮ハルヒは叙述トリックだった

 たまたまなんだけど、仕事しながら「涼宮ハルヒの憂鬱」のアニメを観てて、これこそ「個性の承認」より「個別性の承認」という話じゃないかと思ったですよ(^^)。

 いや、観る前は、もっとパロディとかいっぱい入ってたりして、ヲタクっぽいアニメなんだろな、と勝手に想像してちょっと敬遠してたんですよ。でも実際に観てみると、確かにツンデレ美少女とか巨乳とかメガネっ子とかメイド服とかヲタク受けする要素が確信犯的に散りばめられているし、ヤマトやガンダムのパロディっぽいシーンとかもあるんだけど、でもそれは作者の釣りにすぎなくてね。むしろ、もののよくわかったオトナが、ちょっとヲタクっぽい中高生に向けて書いてあげた、良心的なジュブナイルという感じがした。

 それでちょっと興味を持って検索してみると、「メタ萌え」と呼ばれる作品系列があって、エヴァンゲリオンとかうる星やつらのビューティフル・ドリーマーとかも似たようなモチーフになってるらしいのね。ぼくは実は、エヴァもビューティフル・ドリーマーも観てないので(^^)、そのへんまったく知らなかったんだけど、ライトノベル界もいつの間にか進化しているなあと思って、ちょっと感心した。

(でも、考えてみると、新井素子の「…絶句」とかもちょっとそんな感じだったよね。と思って検索してみたら、やっぱり同じような感想があった(^^)。でも、「絶句」は「ハルヒ」ほど「萌え」の相対化に自覚的ではなかったような気がするなあ。なにしろ読んだのがウン十年前なので(^^)、よく覚えてないですけど。ヒマがあったら読み直してみよう。)

 「ハルヒ」には、宇宙人や未来人や超能力者が平気で出てくるので、一見 SF っぽいんだけど、むしろ作品の核になってるのはミステリ的な発想だよね。だってよく考えると、あの作品の中で一番おかしな人間はハルヒじゃなくてキョンでしょ(^^)。身の回りであんなムチャクチャが起こっているのに、警察に訴えるでもなく親に相談するでもなく平然とやりすごすだけ。いつまでたっても朝比奈さんをくどくわけでもない。そんな人間が「常識人」のわきゃない(^^)。

 でも、この作品全体がキョンの一人称視点で語られていて、語り手自身が自分は常識人だ常識人だと言いながら、周囲のおかしな人間につっこみを入れまくっているから、観てる側からすると、キョンの非常識さに気づき難いしくみになってるんだよね。それが最終回になって、実はキョン自身も「不思議、大好き」だったと告白するというのは、完全にミステリの叙述トリックと一緒だなと思った。

 叙述トリックっていうのは、単に読者を騙すためのテクニックというだけではなくて、読者自身の深層心理や偏見や世界観を暴き本人に自覚させるための道具としても使える。そのことをぼくに教えてくれたのは、筒井康隆氏の「ロートレック荘事件」という作品なんだけど、この作品にもちょっとそういうところがあるんだよね。

 この作品はキョンに甘いと宇野常寛氏が言ってたけど、宇野氏自身も言うように、キョンが「信頼できない語り手」である可能性もあると思う。だって、超常現象を目撃してるのは、宇宙人や未来人や超能力者を自称する連中を除けばキョンだけだもんね。だから、最後になって、あれは全部夢でした、宇宙人も未来人も超能力者もいませんでした、って完全にちゃぶ台返しをする可能性もあると思う。「さあさあ、遊びの時間は終わりですよ。みんなおうちに帰りましょう」ってね。なんか、この作品の作者はそういう人のような気がする(^^)。

 だからまあ、同じ流行現象でも、前に読んだケータイ小説とは作品としての格が違うと思った。アニメとしての映像や演出のクオリティも高いしね。もっとも、上で書いたように、これはあくまでオトナがコドモに向けて作った作品だと思うので、一般のオトナが観て面白いと思うかどうかは多少疑問なのだけれども(^^)。

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PLUTO 5

PLUTO 5―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (5) (ビッグコミックス) 「PLUTO 5」を購入。なんと、セブンイレブンの棚一段を完全占拠していたので、最近のマンガの中でも売れている方なのだろう。 ゲジヒトが○○○○したというネタでしばらくひっぱるのかと思ったら、そのネタは前フリにすぎなかったらしい。手塚原作キャラとしては、新たに○○○○○も登場するが、まだ登場しただけで、たいした見せ場はなし。

 この作品の成功の鍵は、「ロボットの心」をどれだけリアリティを持って描けるかだと思っているのだが、その関連で新たに出てきたキーワードが、「偏った感情の注入」。

 実はこれ、たまたま最近読んだベルクソンの自我論とか、それを批判的に引用している山崎正和氏の自我論とかに、ちょっと似てるんだよね。あと、「ほぼ日」で最近、脳科学者の池谷裕二さんの睡眠論連載してるんだけど、そこで知った「起きているときに活性化しているニューロンは 30% ぐらいなのだが、睡眠中で意識がないときには 100% 活性化している」という話も思い出した。

 そんなこともあって、これまで読んだ限りでは、浦沢氏の「ロボットの心」の描き方には、現代の哲学や AI 理論の水準を踏まえてもリアリティを感じさせるものがあるという気がしている。ぼくは、最近あまり SF を読んでいないので、ひょっとしたら先行作品があるのかもしれないし、誰か専門家のブレーンがついているのかもしれないが、ご自身で考えているとしたら、たいしたものだと思う。

 もちろん、まだ 5 巻目なので、今後の展開次第で駄作になってしまう可能性もあるのだが、5 巻読了時点でのぼくの期待値は堅調に推移、買い推奨である(^^)。

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Homeless

完全にゾンビ扱いです(^^)。ようやるなあ~と思いつつ、大爆笑してしまいました(^^)。もちろん、これが笑えるのは、われわれが直視したくないある種の真実をついているからなんだよね。最後の台詞は "It's completely overrun with these things!" ですからね(^^)。その前のシーンに出てくるタウンミーティングでは、ホームレスをタイヤ代わりにすればリサイクルになるとか、もうメチャクチャな提案ばかりしてたりして。やってくれるよな~(^^)。

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Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms

Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms  「夕凪の街桜の国」がいつの間にか英訳されていたんですね。英題は「Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms」。そのまんま、という感じですが(^^)。

 書評などでもなかなか好評なようです。

ざっと読んでみたけど、みんなわりとこの作品のポイントをわかってくれてるみたいで安心しました(^^)。

 映画のほうはまだ未見ですが、どうでしょうか。あの絵の美しさをどう実写に置き換えるかがポイントなんでしょうけど。

(吉永さんのコメントはちょっとはずしてませんか? 失礼ですが、たぶん原作読んでないんじゃないかなあ? 少なくとも、読んでからコメントした方がいいよね。読んでこのコメントだったら、ちょっと感性を疑うというか、上記のアメリカ人たちに比べても読解力がないと思ってしまうなあ。このコメントを掲載した人はそう思わなかったのだろうか。。。(^^)

 上で紹介した David Welsh 氏も書いております(^^)。

The incalculable individual cost of the bombing of Hiroshima has been handled in drama and documentary, and one can’t argue that the act of examining that kind of horror is automatically a virtuous or courageous act. The critical element is any given work’s ability to move its audience.

 どんな芸術を鑑賞しても、ステロタイプな政治的なインプリケーションしか読み取れないのでは、芸術家として失格じゃないですか? とか言われちゃうぞ~(^^)。)

(追記: 舞台挨拶でも吉永さんのコメントを読み上げたらしいけど、真面目な話、あんまり反戦映画みたいな宣伝をしない方がいいと思うぞ。そもそも、そんな大雑把な表現はこの作品に対する冒涜でしかないし、こんな繊細な世界を作り上げた作者に対しても失礼だし。営業面でいったって、反戦映画なら見ようという人と、反戦映画ならいいやと思う人とどっちが多いかも微妙だろうし。だいたい、反戦映画なら見ようなどという人は、真にこの映画を観るべき人ではない。むしろ、そういう余計な先入観のない人や、先入観にとらわれない知的誠実さや柔軟な感性を持った人こそが見るべき映画なのに。)

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コナンとアルマゲドン

 早速オンデマンド TV でビデオ作品を何本か鑑賞する。いい作品は気合入れて集中してみたい方なのだが、そんな時間をとる余裕はないので、ながらで観ても後悔しないような作品を選ぶ。つまり、昔観た作品とか、B 級娯楽作品的な奴とか。

 未来少年コナンは、今見てもやっぱり名作であった。ひょっとして、子供の頃に見たから感動したのかも、という気もしないでもなかったのだが、プロット、アニメーション、人物描写、どれをとっても完成度が高い。なにより、この作品からは、宮崎駿の表現する欲望みたいなものがほとばしっていて、観るものを圧倒する力がある。宮崎駿はこの作品だけでも十分歴史に残ったであろう。

 昔見たときはそれほどでもなかったのだが、今見るとすごく感動するのは、モンスリーが改心するところである。モンスリーはちょっと西川史子さんに似てるのだが、そのモンスリー西川が浜田雅功なみのド S レプカに足の裏で顔をグリグリされながら喋るシーンがすごくいい(って、そういう意味じゃないよ (^^))。人間が変わる過程の模写というのは、物語がもつ最高の醍醐味の一つなのだが、この作品でそれが最もうまくいっているのがモンスリーなのである。

 モンスリーは、インダストリアに着く前の飛行艇の中で、すでに「コナンと行動をともにする」みたいな発言をしてはいるんだけど、実は、この時点ではまだ心が定まってなかったんだね。だから、インダストリアで墜落してレプカに身柄を確保された時点では、またレプカの下で働いてもいいかなぐらい思っていたと思う。ところが、ラオ博士の話を聴いているうちにもう一度心が揺れてきて、その後レプカと話し始めたときには、モンスリーは本気でレプカを説得する気になっていた。

 ところが、レプカと話していて足の裏でグリグリやられているうちに、彼女は自分自身の本当の気持ちに気づいてしまったんだろうね。冷静に計算すれば、あの場面であんな発言をして得なことはなにもないんだけど、彼女自身、自分の気持ちを言葉にしているうちに自己発見してしまったから、必然的にああいう発言になってしまったのだろう。あの場面は、そういう心の動きが、すごくうまく描かれていると思う。これは、子供のときに観たときには、あまり気づかなかったけど(^^)。

 あと、レプカの性格は、無駄にサディストすぎるところがあるんだけど、その無駄なサディストさで、作劇上の不自然さがカバーされているんだね(^^)。ギガントなんて、レプカがあんなド S じゃなかったら落ちてないでしょう(^^)。「うろたえるな!」って何回も言ってたけど、言ってる本人が一番のキレキャラなんだもの(^^)。

(テリットが死んだらしいことが一言で片付けられてるのは、なんか事情があるのかな? 無理やり台詞をカットしたようにも見えるんだけど、差別用語かなんか入ってたのかも)

 あと、B 級娯楽作品の方では、まだ観てなかったアルマゲドンを観たが、意外と楽しめた。もちろん、大傑作として持ち上げる気にはなれないが、それほどムキになってけなす気にもなれないな(^^)。少なくとも、インディペンデンス・デイよりはいいんじゃない(^^)? そんなことない(^^)?

 あの、ヒーロー役としてちょっとイカレた穴掘り屋を持ってきたり、恋愛と親子愛をからませたりするとこなんか、小技としてはなかなかうまくいってると思いますけどね。もっとも、あのマシンガンを打ちまくっちゃう奴は、いくらなんでもイカレすぎだと思ったけど(^^)。

 まあ、遊園地に行って人生が変わる奴はそうそういないだろうけど、遊園地には遊園地なりの価値があるからね(^^)。それを価値ゼロみたいに言う奴を観ると、ぼくみたいなひねくれ者はかえって反発したくなる(^^)。えーえー、確かに上がったり下がったりしてハラハラさせられるだけですけど、それが何か(^^)? そのコース設計に多少なりとも工夫があれば、入場料程度の価値はあるんでない?

(どうでもいいけど、左門豊作は、リンゴ落としたぐらいのこと、いつまでウジウジ気にしてんだよ~。ほんとキモい世界だよな(^^)。よくこんなキモいアニメがあんなメジャーになったもんだ(^^)。こんなの今だったらかんぜんにカルトだよな。当時は世の中全体がちょっとキモかったんだろうね(^^)。)

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ナポレオン獅子の時代

 前に、息抜きとして歴史の本を読むという話を書いたけど、最近の興味は主にフランス革命時代。この「ナポレオン獅子の時代」というのも、その過程で偶然見つけたマンガである。

 この作品は、一言で言えば「いい人」の一人も出てこないナポレオンとフランス革命の話。一昔前の感覚だと、ナポレオンが主人公だったら、ヒーローにするか逆に思いっきり悪役にするかどっちかだったろうけど、この作品ではどちらでもない。もちろん、それ以外の登場人物も、フーシェみたいな悪役が定番の人まで含めて、ことさら美化するでもなく貶めるでもなく描かれている。

 と言っても、ピカレスク・ロマンみたいなものではない。なぜかというと、帯に安彦良和さんが書いているように、この作品にはロマンがないから(^^)。かと言って、ハードボイルドでもない。なぜかというと、登場人物の誰一人として、ゴルゴ13みたいにクールではないから(^^)。強いて言えば、筒井康隆氏が書く歴史物に近いかもしれないが、あそこまで徹底して戯画化されてもいない。そういう意味で、この作品は新しい感覚の歴史物と言えるかもしれない。

 考えてみると、ピカレスク・ロマンの登場人物なら、あえて悪の道を極めるところに自己陶酔を感じていたりするし、ハードボイルドの登場人物なら、あえて感情に流されず冷静さを保つところに自己陶酔を感じていたりするんだけど(^^)、このマンガの登場人物には、そういう自己陶酔みたいなものがなくて、もっとドライなんだよね。そこが現代的なのかもしれないという気がしないでもない(^^)。

(ちなみに、このマンガの中ではロベスピエールは「童貞」であり(^^)、サン・ジュストはテルミドールを生き延びてタリアンやポール・バラスの暗殺を図ることになっている。)

 もっとも、ぼくは最近マンガや娯楽小説をあまり読んでいないので、この作品が水準からどのくらい突出しているのかは、正直よくわからない。ひょっとすると、最近の作品ではこういう描き方が当たり前なのかもしれないし(^^)。

 また、人物の顔の描き分けがあんまりうまくないので、慣れないと誰が誰だか区別がつかないし、ストーリー的にも説明不足気味の点が多々あるように感じる。

 そういうわけで、個人的には大傑作という評価はしずらいのだが、佳作ではあると思う。少なくとも、最近マンガをあまり読んでないおじさんが読んでも、「そーかー、ナポレオンやフランス革命をこんな風に描くマンガが出てくる時代になったんだな~」ぐらいな感想は持っていただけるのではないかと思う(^^)。

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ロボットは子供を産まない機械

 「PLUTO 4」を読みながら、もしこのマンガの世界に、「女性は子供を産む機械」という発言をする政治家が現れたらどうなるかを考えてみた。

 この世界では、ロボットの人権が確立されているから、人間を機械に例えることが即ネガティブな価値をもつ主張したら、逆にロボットに対する差別になるだろう。「なぜ機械に例えられるのがそんなにイヤなんです? それは、あなたの中にあるロボットに対する差別心の現われじゃないですか?」などと、「ロボット権」運動家に抗議されるかもしれない。だから、せいぜい事実と違う、というような主張しかできないはずだが、もともと例え話なのだから、事実とは違うに決まっている。

 ひょっとしたら、逆に、人間の女性だけが子供を産めると暗に主張しているととられて、ロボットの女性から「ロボットが子供を産めない機械だからと言って差別するんですか?」と言って抗議されることも考えられる。現に作中では、ロボットであるはずのゲジヒトやイプシロンは、自分の身体を創った人間の科学者に対して、深い愛情を持つ存在として描かれている。

 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、この 4 巻では御茶ノ水博士の性格が掘り下げられていて、ほとんど虫愛ずる姫君みたいに、人間とロボットとを同等に扱う博愛主義者として描かれているのが面白かった。また、科学省長官であるはずの御茶ノ水博士でも、部品を入手できないので旧式のロボットは修理できない、という描写はなかなかリアルである。これが昔の SF だったら、こんな旧式のロボットを修理するのはお茶の子さいさい、みたいな話になっただろう。(ところで、御茶ノ水博士が修理する犬型ロボットはアイボそっくりだがアイボなんだろうか)

 ちょっとネタバレになりますが、この巻ではアトムがあっさり「死」んでしまいます。でも、手塚さんの原作では、ゲジヒトやヘラクレスの方が先にやられるんですよね。それで、アトムは天馬博士に 100 万馬力に改造されるんだけど、エネルギー過剰で暴走して海底に沈んじゃう。それを、プルートゥとイプシロンが協力して助ける、という展開になるのですが、この原作をどこまで尊重し、どこからはずしていくのか。浦沢さんの腕の見せ所ですね。

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ジパング予想・続

ジパング 26 (26) コンビニで「ジパング 26 (26)」を購入。いよいよサイパンで日米が最後の決戦に突入という展開。したがって、この巻単独で言えばそれほど面白くないのですが、まあ仕方ないでしょうね。

 前にこのブログで、核兵器は「みらい」に積んであるのではないかと予想してみたのですが、この巻を読む限りは、核兵器は大和に積んであるという雰囲気で進行しています。

 ただ、本当に大和に核兵器を積み込むシーンなどの模写はないので、まだ本当に大和に積んであるとは断言できないと思います。なにせここ数巻の展開は、いろんな伏線を張り巡らせている気配がプンプンで、草加がなぜ簡単に「みらい」の逃亡を許したのかも説明されていないし、草加が大和ではなく武蔵に乗っているところも怪しいと言えば怪しい。ですから、仮に「みらい」に搭載されていないとしても、なんらかのどんでん返しがあるものと思われます。ひょっとして、大和ではなく武蔵に積んであって、草加が一人で自爆するとか。。。(^^)

 また、このまま行くと、単に角松が実力で草加を阻止できるかどうかという技術論になってしまうので、それではやっぱりかわぐちさんらしくないと思うのです。やはり、角松や草加がお互いの価値観をギリギリで試されるような仕掛けが用意されているのではなければ、かわぐちかいじではないでしょう。期待して待ちたいと思います。(^^)

 個人的には、巻末のかわぐちさんのインタビューがちょっと面白かったです。人間には怠惰な時間が必要とかいう話、すっごく共感しました (^^)。ほら、一時期、余暇とかまで有意義に過ごすのが偉いみたいな話が流行ったじゃないですか。ああいうのってなんか違うような気がして。ぼくなんか、正月とか、ダラダラしないと正月のような気がしないんだけど、みなさんはいかがでしょうか (^^)。あと、神というのは、死んだ人間のためにあるのではなく、生きている人間が自分の生を意味づけるためにあるという話もまったく同感。この考えを靖国参拝の問題に結びつけるとどうなるのか、なんて今さら焼けぼっくいに火をつけるようなことはしませんが。。。(^^)

付記: 正確には、「有意義に過ごすのが悪い」ではなく、「人間にとっては怠惰な時間も有意義であるはずだ」と言うべきだね (^^)。ここでは怠惰な時間が持つ価値というものを積極的に主張しているわけである。

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田中圭一初体験

 久しぶりにコンビニで「サイゾー」を買ってしまう。いつの間にか爆笑問題の連載がなくなっていてガッカリ。この連載がないと、この雑誌もかなり魅力が減ることを再認識。M2 もこの号で連載終了とか。この二人、ほんとうに仲いいんだろうか。どうもお互いに戦略的な思惑で結びついているだけ、という気がしないでもないのですが、まあ実はそういうのはたいして興味ないからどうでもいいっす (^^)。特集はジャニーズと天皇制だけど、どっちもたいして興味なし (^^)。もっとも、キムタクだけはなんだかんだ言ってカッコいいよなー、と見るたび思ってしまうんだよね (^^)。山形道場は本人も一枚かんでいる著作権延長の話。

 というわけで、今回買ってよかったと思ったのは、噂に聞く田中圭一氏のマンガを初めて読めたこと。いや~、ほんと手塚さんそっくりだね~。こりゃ夏目さんも真っ青だね。いや、夏目さんだったら、「これは丸ペンを使っていたころの初期の手塚の絵ではなく、かぶらペンに変えてからの後期の手塚である」とかなんとか言うのかな (^^)。「夏目の目」でやってほしいですね (^^)。

 まあでも、こういう人が出てきたのは、ある意味、手塚時代が終わった証拠かもしれないですね。昔のマンガ家は多かれ少なかれみんな手塚さんの影響を受けていたから、その頃に手塚さんのマネをしたとしても、何のインパクトもなかったでしょうからね。こうやって手塚調というのを一つの様式美として受け取れるというのも、没後ある程度時間がたって、それだけ手塚治虫を相対化して見れるようになったせいなのでしょう。

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サウスパーク・マトリックス

 めっちゃよくできてるね。これ。

 なんかかわいいなあ (^^)。

 リローデッドもあるでよ (^^)。

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クロスゲーム

クロスゲーム (2) コンビニにあだち充さんの「クロスゲーム」が売られていたので、3 巻までまとめ買いして一気に読みました。あだち充さんは、「みゆき」の頃から結構好きで読んでいましたが、基本線は相変わらずという感じです (^^)。

 ただ、主人公の小学生時代から始まるという話は、初めてかもしれないですね。もっとも、子供なのは見かけだけで、台詞自体はあまり小学生には思えないですが (^^)。主人公の幼馴染が死ぬところは、「タッチ」を想い出させます。こういう、少し引いた描き方で泣かせるのは、相変わらずうまいです。

 幼馴染の妹は、みょーに主人公にキツく当たるという設定になっているんだけど、これはひょっとして、今流行の「ツンデレ」とかいうのを意識しているのでしょうか(^^)。たぶん、この二人がだんだん仲良くなってくんでしょうね(^^)。

クロスゲーム (3)  捨てゴマが多くて、説明的な台詞が少ないのに、展開が自然に頭に入る「あだち節」は健在。この「あだち節」を継承したマンガ家っているのかな。最近のマンガ界に疎いのでわからないけど。たぶん、ストーリーよりなにより、この「あだち節」があだち充最大の武器だと思うのですが。いまだに誰も継承してないとすれば、ちょっともったいない気もします。

 「160 km のストレートが投げられる男」という台詞のところで出てくるのは、ヤクルトの 53 番、五十嵐亮太さんでしょうねね。彼はまだ 158 km までしか投げてないはずですが(^^)。

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芸術マンガについて

茶箱広重 COCORO〈心〉」というのは、かわぐちかいじ氏があの大ヒット作「沈黙の艦隊」の直後に手がけたものも、あまり評判になることもなく短期間で連載中断してしまった作品ですが、今日コンビニに行ったら、「ダ・ヴィンチ VS かわぐちかいじ」とかいうタイトルで再版されたものが売っていたので、また「ダ・ヴィンチ・コード」に便乗してあざといな~、と思いつつも、値段も手ごろだったのでつい買ってしまいました(^^)。

 芸術をテーマにしたマンガというのは、けっこうたくさんありますが、どれも芸術の価値をいかに表現するかで苦労してると思うんですね。

 これがスポーツなんかだったら、消える魔球がほんとうに投げられるかどうかはさておき、もしボールが消えたら打てないだろうなあ、ということは誰にもわかるからまだいいのです。

らんぷの下 ところが、芸術の場合、その価値をもっとも端的に物語っているのは作品自身であり、それを言葉で語り直すのは美術の専門家だってかなり苦労することなわけです。しかも、本当に作品があればまだしも、多くの芸術マンガでは、架空の作品の魅力を語らなくてはならないわけですからね。

 だから結局、なにがスゴいんだかよくわからないけど他の登場人物にスゴイいとかなんとか言わせてごまかすとか、やたらウンチクを多くして教養でごまかすとか、あるいは、人間ドラマの方に焦点をあてるということになりがちですよね。

 特に、対象とする芸術が絵画である場合、マンガ自体も絵画による表現なので、作品自体を絵としてマンガの中に描かなくてはならない。そうすると、いくら登場人物が感心してみせても、「これがそんなたいした絵か?」と思ってシラけてしまうことが少なくありません。

火の鳥 鳳凰編  ぼくが知る限り、絵画をテーマにしたマンガでもっとも成功しているのは、「茶箱広重」や「らんぷの下」など一ノ関圭氏の一連の作品じゃないかと思うのですが、 これはなんと言っても東京芸術大学油絵科卒という作者の、圧倒的な画力と美術界に対する知識に支えられているからこその成功だと思うのです。

 あと、 思いつくのは「火の鳥 鳳凰編」とか。 まあ、あれは純粋に芸術がテーマとは言えないかもしれませんが、「火の鳥」シリーズの中ではわりと好きな作品であることは確か。

  かわぐちかいじ氏の「COCORO〈心〉」も、大成功だとは思わないのですが、なかなか意欲的な冒険作だと思いました。きっと、天下をとったときじゃないとやりにくいことをあえてやったんでしょうね。特に、ダ・ビンチの子供時代の模写は好きですね。おそらくこれが「瑠璃の波風」なんかの習作として機能してるんじゃないかなあ、と勝手に想像してしまいました。

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軽井沢シンドロームSPROUT

軽井沢シンドロームSPROUT episode1 (1)  へぇー、あの「軽井沢シンドローム」の続編なんてやってたんですね。まったく知らんかったです。

 いや、鴨川ツバメさんみたいに、普段は八頭身なのにギャグになると二頭身になる手法は誰が開発したのかな、とか考えてて、そういや、たがみよしひさ氏はその正反対だったなあ、なんて思い出して、検索してしまっただけなのですが(^^)。

 たがみ氏の場合、マンガの内容にはたいした影響は受けてないんですが、絵のセンスとか若者風俗の描き方とかにはかなり衝撃を受けましたね。まあ、ある意味ナンクリとかのマンガ版にすぎないのかもしんないけど、当時の少年マンガって、今考えると信じられないほどファッション要素皆無でしたからね。女の子はほとんどみんなオカッパだったりとか(^^)。だから、ウルフカットの女の子が主人公だったりすると、それだけで「おおっ」とか思っちゃう(^^)。あの都会でも田舎でもないオシャレな軽井沢の描き方とかも新しかったね。ぼくなんかあれで、軽井沢ってすごくいいとこなのかと思っちゃったもの(^^)。

 そんなわけで、個人的には、たがみ氏はマンガ表現史的には結構重要な作家ではないか、という気がしているのですが。夏目さんあたりのご意見を一度聞いてみたいものです。

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「ダメおやじ」と父権

 おお、「「ダメおやじ」がギャグだった時代」というページに、まさにワタクシの疑問の答えが。

「ダメおやじ」が始まった1970年に父権が失墜した、とも受け止められますが、実はそうではないでしょう。あまりにも残酷で、小馬鹿にされた「ダメおやじ」というギャグマンガが成立する背景には、「こんな親父、いるワケない」という前提があります。父権という権力が残っているからこそ、とんでもないダメ父が笑える存在になるのであって、父権が失墜してしまった今なら、ひたすら寒々とするだけでギャグにも何にもならない。連載一回目の1ページ目の肩には、編集部が書いたこんなあおり文句が掲載されています。「なにをやってもバカにされ、おやじの権威はメッタメタ!!」。……おやじの権威が存在していたことを裏付ける何よりの証拠ではありませんか。

 なるほど! 確かにそうに違いない!

 そーか、かつては「父権」なんてものがあったのだなあ。すっかり忘れていたよ(^^)。

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PLUTO

PLUTO (1)  かの浦沢直樹さんが、手塚御大の鉄腕アトムの中の「地上最大のロボット」(「鉄腕アトム (13)」所収)というエピソードを元に描いた「PLUTO」。

  手塚原作の基本プロットは踏襲しているのですが、細部を微妙にずらしつつ、いろいろと思わせぶりな伏線を敷いてくるので、原作を知っている者にとっても、どこで原作を裏切ってくるのかという楽しみを与えてくれます。ぼくも原作を忘れかけていたので、eBookJapan で買って読み比べちゃいました。

  他にも、「日本人のモグリ医者」や「白いライオン」が出てきたり、ノース 2 号を雇った作曲家が曲を書いた映画が「月は無慈悲な夜の女王」だったり、「ルーズベルト」がテディ・ベアだったりと、いろいろとヲタク心をくすぐる仕掛けも満載です。

 ノース 2 号やブランドが「死」ぬときのエピソードなんかは、エンターテイナーとしての浦沢さんの力量が見事に発揮されていて、安心して泣かせてもらえます。また、差別主義者の描き方なんかも、うまいなあと感心させられます。

PLUTO (2) ビッグコミックス でも、この作品で一番魅力的なのは、なんといっても、ロボットたちの描き方だと思うんですね。古典的な SF でよくあったような、論理的な思考力はあっても情緒がわからない(^^)、みたいな描き方でもなく、かと言って、まったく人間と何が違うのかわからないような描き方でもなく、人間のように夢も見れば涙も流せば怒りもするけれども、どこか微妙に人間とは違う、みたいな感じをうまく描いていて、非常にリアルです。ロボットは本当は食事をする必要がないんだけど、人間のことをよりよく理解するために、あえて人間のマネをしている、なんていう設定もうまいですよね。

 まあ、ぼくは最近の SF をあまり読んでいないので、他のロボット描写の例をあまりよく知らないのですが、強いて言えば「ブレードランナー 」に近いでしょうか。もっとも、あれは厳密にはロボットじゃなくてレプリカントとかいうやつですけど。

PLUTO 3―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (3) こういうロボット像がぼくらの感性をゆさぶるのは、たぶん、ぼくら自身が人間としてのアイデンティティに不安を持っているからだと思うんですね。パソコンやインターネットやケータイに囲まれて暮らし、世の中でおこるさまざまな非人間的な事件や犯罪に接しながら、誰もが人間とはなんだろうと自問自答しているような時代。この作品は、そういうぼくらの心を、ときには癒し、ときにはいらだたせながら、人間とは何かと考えさせる力を持っています。 考えてみれば、手塚さんの鉄腕アトムも、まさにそういう作品でしたよね。

 ここまでのところでは、ゲジヒト刑事はどうやら人間を殺しているらしい、と読者に思わせるような伏線を張りまくっていますが、これをどう裏切ってくれるのか。今後の展開が楽しみです。

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ブランドと七瀬

 今頃になって「PLUTO」にはまっている私です(^^)。ブランドの「死」は泣けますね。このアイデアのヒントは「七瀬ふたたび」じゃないかと思うんですが、違うかなあ。あれも、筒井さんの作品にしては、珍しく泣けましたね(^^)。他にもこういうアイデアあったかなあ。思い出せないや。

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祝・女子高生アニメ化

女子高生 7 (7)  性懲りもなく大島永遠さんの「女子高生」の 7 巻を購入。6 巻あたりからちょっと飽きてきたにもかかわらず、またもや確信犯的な下ネタに数回にわたって大爆笑させられてしまう。なんと、この 4 月からアニメ化されるそうで、愛読者であった私も鼻が高い(^^)。案の定時間帯は深夜であるが。

 このマンガを見て時代の変化を感じるのは、昔はマニアックと言われるマンガ家がやっていたようなサブカルギャグが、普通の女子高生を主人公にして成立してしまっているところである。つまり、何がメインカルチャーで何がサブカルかがよくわからない時代になっている(宮台さんの言う「島宇宙化」ってヤツでしょうか)、ということが、こういうところにも現れてるんだね。

High School Girls: Volume 1 (High School Girls) 余談であるが、女子高生というのはすごいもので、このブログに貼ったアマゾン・アフィリエイトのリンクの中で、ダントツでクリック数が多いのは、この「女子高生」の英訳本である(^^)。 もっとも、私がアマゾンのレビューに書いたように、そういう興味でこの本を読むと、期待に反してロリコンが「治って」しまうこと請け合いであるが(^^)。

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Maid in Japan

 あのロイターが、こんなダジャレネタを。。。(^^)

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メモ

 あのー、なんていうか、カレーの中にジャガイモが入っていたからと言って、「カレーはルーでジャガイモを隠蔽しようとしている」などと言い募るのは滑稽だし、もちろん「ジャガイモの復権」などを訴える必要もないし、ましてや、それが「カレーとポテトフライが同じぐらい美味しい」という主張の証明にもならないでしょう? ポテトフライの価値は、カレーとは別にそれ自体として論じなければならないわけで。どうもそういう感じがします。だいたい、カレーは確かに美味いけど、カレーを無視しては料理の批評は成立しない、と言うほど神格化されてますかねえ?

 さらにに言えば、もちろん、カレーやポテトフライを離れて、「ジャガイモ料理」という切り口で研究すること自体はかまわないと思うんだけど、そもそも、この人の「ジャガイモ」の分類自体がおかしくて、それはジャガイモじゃなくてサツマイモじゃないか、みたいなところが多々あるような気がするんだよね。これについては後できっちり書きますけど。

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マンガと映画

 ただ、マンガと映画の表現技法が必ずしも同列には論じられない、というのはホントですよ。実は、高校の文化祭で、一回だけ映画のコンテを描いたことがあります。ぼくはマンガは描いたことがあったんだけど、コンテなんてはじめてだったから、マンガのコマ割りみたいなもんだろうと思ってやったら、大失敗。完成した映画を見て、かなりヘコんだもの。数年前に同窓会でビデオテープもらったけど、いまだに見る気がしません (^^)。コンテを描く前に、OB で映画を撮ってる人が来てレクチャーしてくれたんだけど、その教えが、とにかくアップを使え、という変な教えで (^^)。ぼくは純情だったから真に受けてアップばっかりにしたんで、そのせいもあると思うけど。今思えば、あれはかなり高度な技法で、初心者においそれと使いこなせるもんじゃなかったと思いますね。前にも書いたけど、アップで有名な実相時昭雄さんが撮った初期のウルトラマンだって、今見るとあまり成功してないと思うもん。閑話休題。とにかく、そういうマンガ独自の表現技法に対する評論がないんだとすれば、それはやったほうがいいかもしれないとは思います。でも、夏目さんなんかはけっこうそういうことも書いてるし、たぶん、実作者だったらみんな気づいてることですよね。あと、リアルならいいってもんじゃないというのも常識。一時、写真に吹き出しをつけてマンガにするのが流行ったことがあったけど、みんなつまんなかったでしょ? だからこそ、トゥーンレンダリングみたいな技法が流行るわけだし、大友さんだって、ちゃ~んとデフォルメはしてますよ。そういうのも実作者はみんなわかってるでしょう。だから、問題はそういうことじゃないと思うのだな (^^)。そのうちもっとちゃんと書きます。

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予告

 またコンビニで「サイゾー」を買ってしまいました。なぜか「テヅカ・イズ・デッド」の特集みたいなのをやってて、唐沢俊一さんが酷評を書いてました。ぼくも (忙しくてフロやトイレでしか読めないので、なかなかすすまないが (^^))2/3 ぐらいまで読み進めたところなんですが、もーしわけない、わりと唐沢さんの意見に近いです (^^)。でも、違うポイントもいくつかあるので、読み終わったらレビューを書いてみようかと思ってます。あと、山形さんの愛のムチとサヨク宣言も面白かった (^^)。ぼくも「ドゥルーズの哲学」だけは読んでみたけど、なんかピンとこなかったんだよね~。まあ、理科系の人間から観ると、文科系の人の数学の解釈って、なんか違和感を感じることが多いんで、そのせいかもしれないけど。

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ヒストリエ3

 待望の「ヒストリエ 3 」が出たので、早速購入したけど、相変わらず面白いです。

 この巻では、奴隷として売られたエウメネスが、とある村に行き着いて…、という展開で、友人たちとの別れや、村人たちとの交流が見せ場。

 一時、SF 作家が歴史物を書くのが流行ったことがあったけど、あれと同じで、時代差を異化効果として利用する面と、逆に、現代を舞台にすると描きにくい普遍的な人間性のドラマを描くという面とを、うまく組み合わせているところがこの作品の魅力かもしれません。

 「文化が違う!」なんていいう台詞はたぶん創作でしょうけど、きっと人類は昔からそんなこと言ってたんだろうな~、という感じがして笑えます (^^)。

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自己選択の果て

 「生物都市」で思い出しましたけど、ぼくは最近、人間のありとあらゆる属性が選択可能になっていった場合、その極限にはどういう世界が到来するのか、ということをよく思考実験として考えるんですが、おそらく「生物都市」みたいな世界になるんじゃないかという気がするんですね(^^)。

 自己選択の自由が広がると、人間がより個性的になると思う人もいるかもしれませんが、それはおそらく錯覚で、知的能力から肉体的能力から容姿から遺伝子からすべて選択可能 (それが具体的にどのようなテクノロジーで可能になるか、という問題は保留します。あくまで思考実験ですから(^^)) になれば、むしろ、個人の自我よりも環境のほうが個体差を決める境界条件として効いてくるようになるはずです。そうすると、人間の自我はだんだん溶解していって、個人の属性も社会システムの構造によって決まる、というふうになっていくのではないでしょうか。

 (これは、今流行りの「ソフトな管理」とか、そんなことを言ってるわけじゃなくて、もっと本質的に、自由が増せば増すほど、実は、主体的な自我というものは必然的に消滅していくであろうということを言っているのです。為念。それはまあ、考えようによっては「己の欲するところに従って則を超えず」みたいな一種の理想状態なのかもしれないんだけど、それがよーわからんと言っておるわけです(^^))

 ぼくがいまだによくわからないのは、マンガと同じで、果たして人類は、本当にそういう状態になることを望むのだろうか、ということなんですね。前に書いた、経済原則と愛情原則という話も、ある意味、自我とシステムとの闘いであるとも言えます。この両者の相克がどう高次元で調和しうるのか、というのは、最近一番興味のあるテーマですね。

 昨今のナショナリズム、アンチ・グローバリズム、アンチ市場主義などにしても、政治や経済の問題のように言われてますが、本質的には自我の問題で、「選択の自由」に疲れた自我が、「俺たちはもう選択なんかしたくない」「選択や交換によって変わらない確固とした自我の基盤になるものが欲しいんだ!」と叫んでいるだけのことではないか、という気もするのです(^^)。

 今散歩しながらふと思ったのですが、ぐるっと一巡すると、逆にシステムの創発性みたいなものを維持するために、システムの方から個人に対して乱数で個性を割り当てる、みたいな世界になるのかもしれませんね(^^)。

 あるいは、「キャラ選択画面」みたいなのが出てきて (どこに?)、定期的に自分の意思で自分のキャラを選択させられるとか(^^)。「明日からは、頭はいいけど病弱で気が弱くて引っ込み思案、というキャラで生活してください」みたいな(^^)。

(絵だけ見ると、「遊星からの物体 X」とか「リヴァイアサン」みたいなのだと思うかもしれないけど、ぜんぜん違いますから(^^))

 

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奇談

 CM で初めて映画化されたって知ったんだけど、「生命の木」って、「妖怪ハンター」の初期シリーズ中の話ですよね。すぐ連載打ち切りになっちゃったヤツ(^^)。なつかしい。「生物都市」とかもフル CG でやらないのかなあ(^^)。(この時代のマンガなら結構詳しいぞ(^^))

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Princess Nori or Princess Claris

 今さっき NHK に出てた、Princess Nori が子供の頃描いた絵って、どー見ても「カリオストロの城」ですよねぇ。じゃ、Mr.Kuroda はルパン三世だったのか(^^)。いいのかなあ、あんなの放送しちゃって(^^)。

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萌えるダイエット

 「もえたん」にはじまる「実用萌えシリーズ」の新作は「萌えるダイエット」らしいです(^^)。

 でも、この目次見ると、実用目的とゆーより、ほとんどネタ化してません? 「アニメを見ながら踏み台昇降!」とか、「 萌え歌ウォーキングで有酸素運動!」とか、とてもマジメに言ってるとは思えないですよね(^^)。

 ってゆーか、外でふつーに運動しろぉっ! ってゆーつっこみを待ってませんか? この人たち(^^)。

 そーやってなんでもすぐネタにするから、北田先生に怒られるんです。ってそーゆーことじゃないか(^^)。

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痛すぎて笑えない…

 卯月妙子氏の「実録企画モノ」というマンガ、電子書籍で買えるようになったので読んでみました。

 これは要するに、企画モノ AV 女優 (それも、NG 無し、つまり、SM スカトロなんでも OK を売りにする) である作者が、業界の内幕や私生活を露悪的に描いたマンガなのだが、特筆すべきは作者の壊れ方のすさまじさ。

 そもそも、いかに企画モノといえど、AV 女優となればそこそこ儲かるはずだし、マンガの腕も、素人の手慰みなどというレベルではなく、美大でデザインを専攻したという本格派。その上、文章も書けば、自分で AV の監督や編集までしてしまう。つまり、この人かなりの才人なのである。

 にもかかわらず、生活はビンボーだというから驚いてしまうのだが、なぜかというと、彼女の旦那がヒモどころか一種の山師で、彼女が稼いだ金を片っ端からあやしげな企画に使ってしまうからなのだという(本人は「企画モノ夫婦」だと自虐的に書いている)。

 しかし、このマンガを読んだ限りでは、彼女がなぜそこまでして旦那に貢ぐのかもよくわからないし、単なる企画モノでなく、わざわざ SM やスカトロばかりやる理由もイマイチ納得できない。

 自分の経験則からすると、こういう生き方をする人は、確かにある種「ピュア」で「お人よし」であることが多いのだけれど、このマンガからは、そのピュアな心と壊れた行動を結びつける手かがりが感じ取れないのである。

 普通、自虐的なユーモアというのは、ダメとわかっていてもやってしまうその気持ちわかるなあ、というような読者の共感を誘うことが多いのだが、この作品の場合、むしろ、笑いでバリアーを張って、読者がそれ以上近づこうとするのを拒絶されている感じがする。したがって、本当に笑っていいのか戸惑うような感じが最後まで抜けなかった。(作者のホームページに出ているプロフィールによれば、子供の頃から精神分裂病の発症歴があったのだというので、そのせいかもしれない。)

 もちろん、業界の内幕を垣間見れたという意味では、まったくつまらなかったわけでもないのだが、痛々しすぎて読んでいてつらいというのが正直なところ。こういう言い方は、作者にとってはかえって不本意で失礼なのだろうけど、そういうふうにしか思えなかったのだからしょうがない。一応謝っておきます。ごめんね。

 (こういう作品については、ぜひ天才松本人志氏の評価を仰ぎたいところ。もし松ちゃんが評価するんであれば、ぼくもちょっと考え直してみるけど(^^))

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夕凪の街桜の国

 こうの史代さんの「夕凪の街桜の国」を読了。糸井さんがあれだけ褒めているだけあって、よい作品でした。さりげなくいろんな伏線が張られているので、一回読んだだけでは完全には理解できず、何度も読み返しましたが、そのたびにジワジワと染みてくるものがありますね。

 「夕凪の街」の主人公は、広島で被爆した女性。一命はとりとめたものの、避難する途中で多くの人を見殺しにし、死体を踏みつけ、死体から下駄を奪い、川に浮いた死体に瓦礫を投げつける。それから十年たった今でも、自分が「死ねばいい」人間だと感じながら生きている。

 「桜の国」は、「夕凪の街」の主人公の弟の娘の物語。彼女の母は原爆症で夭折し、弟も喘息持ちなので、原爆の影響ではないかと怖れている。

 などと書くと、極めて特殊な状況を描いた作品だと感じられるかも知れない。しかし、不謹慎を承知で言えば、ぼくが今生きているのだって、広島や長崎や東京大空襲でぼくの両親の代わりに死んでくれた人たちのおかげだ、とも言えるかも知れない。あるいは、外地で戦って死んだ日本兵のおかげかも知れないし、その日本兵に殺されたアジアやアメリカやヨーロッパの人たちのおかげかも知れない。もっと言えば、明治維新の時に戊辰戦争で死んだ人たちのおかげかも知れないし、織田信長や足利尊氏や源頼朝に殺された人たちのおかげかも知れないわけである。

 これは、法律的な「責任」などとは別次元の問題であるから、そんなの自分とは関係ない、と言って「忘れてしまう」ことだってできる。しかし、それらすべてを、自分で「選んだ」ものであるかのように引き受ければ、その人の生はもっと豊かになるかも知れない。この作品が語りかけているのは、そういうことのように、私には想える。

(余談ですが、「日の君」問題について、ぼくがどうもひっかかるのもそのへんでありまして、確かに「日の君」は血に汚れていますが、だからと言って捨ててしまえばいい、というのは、あまりにも安易な選択なのではないか、むしろ、血に汚れた「日の君」だからこそ、ぼくらはあえて背負ってゆくべきなのではないか、と思ってしまうのです。まあ、この問題については、いずれきっちり論じてみたいと思います。)

 もう一つ忘れてならないのは、この人の絵のうまさですね。大友克洋さんみたいなうまさは、理解されやすいのですが、こういううまさは一般にはやや気づかれにくいので、強調しておきたいです。

 実は、ぼくは以前、自分はそこそこ絵がうまいと思っていて、漫研なんかにも入っていて、将来マンガ家になってもいいなと思っていたクチなのですが、そんないい気な妄想を木っ端微塵に打ち砕いたのが、高野文子さんの「絶対安全剃刀」という単行本。ぼくは、これを読んで初めて、本当の才能というものを理解したわけですが、ちょっとそのときに近い衝撃を受けましたね。

 手塚さんはたしか、「マンガの描き方」かなんかで、なるべくスクリーントーンは使うな、とおっしゃっていられたと記憶していますが、最近のマンガは、良かれ悪しかれ、トーンがないと成立しないような絵が多いですよね。でも、この作品では、トーンは一切使われておらず、陰影はすべて手描きのアミで表現されています。生半可な画力の人がこれをやると、汚くなってしまうだけなのですが、この作品のアミは実に繊細で美しいです。原爆ドームを全面に描いたページや、原爆スラムの昔と今を見開きで並べたページなんか、そのまま額に入れて飾っておきたいぐらいですね。人物の描線もすごくきれいで、決して描きこみすぎず、最小限の線で人物の内面まで表現しきっていて、ぼく、こういう絵にすっごくあこがれてたんですよね~。

 いや、単に技術だけのことではありません。この人の絵には、人物から背景から小道具の一つ一つに至るまで、作者のいとおしみが込められており、絵そのものが、世界に対する作者の愛情の表現になっているのです。だからこそ、重いテーマでありながら、読後感はさわやかなのでしょう。

 原爆がテーマではありますが、単に原爆は怖いとか、戦争はいやだとか、そういうことだけを描いた作品ではありませんので、毛嫌いせずに、一読されてはいかがでしょうか。

‐原爆と聞けば逃げ回ってばかりだった二年前までのわたしがいちばん知りたかった事を、描こうとしました。自分にとってもそうであった、と気付いてくれる貴方にいつかこの作品が出逢い、桜のように強く優しく育てられる事を、心から願ってやみません。‐(「あとがき」より)

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柴田昌弘氏の再評価を望む

 この歳になると、何を見ても、「こういうの前にもあったよ」とか「ありがちなパターンだね」とか思ってしまって、よーするに可愛げがなくなってくるのですが(^^)、現在上映中の「HINOKIO」という映画のあらすじを読んで、またしても、柴田昌弘氏の「ラブ・シンクロイド」というマンガを思い出してしまいました。

 「ラブ・シンクロイド」というのは、異星人の作ったアンドロイドに(感覚から運動神経まで)無理矢理同期させられてしまった地球人の少年の話で、その結果、少年は地球にいながらにして異星にいるのと同じような状態になってしまう。しかも、その星は実は、女性しかいない星で、そのアンドロイドを作ったのも、少年に一目惚れした異星人の少女だった。かつてはその星にも男性がいたのだが、今では男性を想起させるようなものを作ること自体がタブーになっていて、二人はその星の治安当局に追われることになる。そして、逃げ込んだ地下のダンジョンで、男性復活を企むグループに出会い、男性復活運動みたいなものに巻き込まれていく…という、一種の SF ラブコメ・アクションみたいな話なのですが、壮大なストーリー、正統少年漫画的なキャラクターの造形、メカフェチ的なリアリティのあるメカの描き込み、ややサービス精神の範囲を逸脱したスケベさ、のわりには保守的な恋愛観(^^)、みたいなものが絶妙の配分で融合した独特な世界を形作っていました。(フェミニストの方には怒られそうなところもあるけど(^^))

 最近、昔の漫画家の再評価が盛んなようですが、この柴田さんなんかも、再評価されてよい一人ではないかと思いますね。特に、「ブルー・ソネット」は漫画史的にもかなり大きな影響のあった作品だと思います。超能力者を利用して世界制覇を企む集団(^^)と、それを阻止しようとして戦う超能力者やサイボーグのバトルを描いた作品なのですが、阿蘇山を噴火させてしまったり船一隻爆破してしまったり、とにかくスケールが大きくかつ細部の描きこみが緻密で、マンガ(しかも少女マンガ)でここまでやれるのか、というカルチャーショックがありました。これだけスケールの大きいマンガは、その後も、「沈黙の艦隊」ぐらいまでなかったんじゃないかなあ。もちろん、今となってはたくさんありますけど。

 この作品を連載していたのは、たしかぼくが高校生ぐらいのころで、修学旅行中にも作品の続きが気になって、京都の本屋に飛び込んで「花とゆめ」を立ち読みしたことを覚えています(やってることがバカです)。

 「ブルー・ソネット」自体は、なんだかちょっと尻つぼみで終わってしまったんだけど、その頃の柴田氏は、他にもコンピュータの脳を持つ美少女を主人公にした「フェザータッチ・オペレーション」という SF ラブコメとか、傑作を連発しておりました(もちろん、柴田氏は今でも現役でご活躍中で、作品は英訳(あきらかにメイドフェチを意識してますね(^^))なんかもされています。)。

 いちおう、マンガ夜話にもリクエスト出しといたんだけど、まだ取り上げられてないみたいですね(^^)。

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コンビニにサイゾーが

 近くのコンビニで「ザイゾー」を売っていたので買ってみました(昨日は「Windows 100%」を買ったし、前には「週刊東洋経済」を買ったこともあるし、コンビニで売る雑誌もだんだんマニアックになってきたような気がしますね(^^))。もっとも、サイゾーに連載している山形浩生さん自身は、サイゾーはグラビアしか読まないとか書いてたけど(いいのか(^^)?)。

 月刊誌なので、今頃になって少女監禁ネタとかが話題になってるんだけど、その中でも、「オタキング」岡田斗司夫氏が「mixi 日記」で書いてる意見が面白かったので、ちょっと引用。

ずいぶん昔だけど、連続幼女殺害事件、いわゆる宮崎勤事件の時にも思ったんだけど、「こんな奴はオタクじゃない!」とか、「こいつはオタクでダメな奴だけど、俺は違う!」とか、そういうの、無駄だと思う。もう、はっきり認めようよ。「萌え」という感情は、「鬼畜」と表裏一体の関係にあるんだよね?

(中略)

同じように「僕たち善良なオタク」だって、いつ「鬼畜」へと裏返るかもわからない。そのギリギリまで妄想を高める、高度な精神的ゲームをやっているわけじゃない? その中で、ゲームのルールや主旨を取り違える奴が出てきても、そりゃ仕方ないよ。いろいろ報じられてるけど、それに対して「いや、あんな奴は特別で」って言えるのは、一回だけだと思うよ。もう無理。その防衛線は。少なくとも、「こういう監禁事件と、萌え系ゲームは関係ない!」とは、もう言い張れないと思う。じゃあどの辺を防衛線にするのか、そして、その意見をどいつに代表して言わせるのか。そういう政治的な判断が、そろそろ僕たちには必要なんじゃない?

 やっぱり、いまだに表現の自由論とか振り回している人にくらべると、岡田さんははるかにアタマがいいですね。

 相関関係が立証されていない、という意見もあるけど、立証されるまで待っていられないということだってあるんで、そんなことを言うなら、首相の靖国参拝と戦争の間には有意な相関がないから首相は靖国に行ってよいとか、あるいは、ギャルゲー禁止論とファシズムの間には有意な相関がないからギャルゲー禁止論を唱える人はファッショじゃない、みたいなことだって言えなくもない。だから、すぐに法的規制に走るのは勇み足だとしても、少なくとも、そこに何かしら関係があるのでは、ということを論ずる価値はあると思うのです。

 よく言われるけど、今の時代の特徴っていうのは、文化的な規制力が弱まって、あらゆる価値観が同一平面上に配置されてしまったことだと思うんですね(宮台さん風に言えば、「島宇宙化」ってことになるのかしら。使い方間違ってたらゴメンなさい)。もちろん、そのおかげで多様な価値が許容されているわけだけれど、それが、反社会的な価値観が温存される土壌にもなっている。そして、それをコントロールしようとすると、法的に規制するしかない、みたいになっちゃってるわけです。

 もちろん、市場での淘汰というのもあるんだけど、前にも書いたように、市場の競争というのは消費者の価値観に対してはわりと中立的であって、競争に適応的でない価値観を持つ生産者は淘汰されるんだけど、特定の価値観を持つ消費者を淘汰するような方向にはあまり働かない。もちろん、フォーディズムによる大量生産時代には、生産者の都合で消費者が淘汰されるということもけっこうあったと思いますが、多品種少量生産の時代になると、そういう傾向はますますなくなってきている。その一方で、市場外での文化的な淘汰力というのはむしろゆるくなって、淘汰よりも棲み分けでやりすごすような方向に向かっている。

 だから、法的な規制を防ぐためには、逆に、文化的な淘汰の力を強化する、つまり「やっぱり鬼畜って変じゃない?」みたいなことをもっと言論の場ではっきり言う必要があると思うんです。それによって、鬼畜がメジャーな感性なのかマイナーな感性なのか、いい鬼畜とわるい鬼畜の違いはどこかをはっきりさせる。マイナーな価値観だということがはっきりしていれば、それでも俺には鬼畜しかない、みたいな人しか入ってこないだろうし、そういう人にはそれなりの覚悟や理論武装があるはずだから、かえって安全かも知れない。

 これは半分冗談だけど、たとえば、鬼畜の好きな人が集まって、「全日本鬼畜連盟」みたいな自主団体を作り、「鬼畜免許」を発行するというのはどうでしょう。そして、正しい鬼畜道を歩んでいる人だけが鬼畜グッズを買えるようにするわけ(^^)。もちろん、鬼畜免許は定期的に更新し、そのたびに鬼畜のダークサイドに堕ちた人の実録映画とかを観てもらいます(^^)。

 なんか矛盾したことを言ってるように聞こえるかも知れないけど、一応ちゃんと考えてるつもりです。つまり、成熟社会においては、思想信条の自由があるから、鬼畜の人だからと言って政治的権利が奪われることはないし、市場も価値中立的だから、コンビニで商品が売ってもらえなかったりすることもない。だからこそ、言論の場では忌憚なく批判し合うことができるわけです。逆に、前近代社会では、そういう役割分化が未熟で、言論の場の対立がそのまま権力闘争の場や市場に持ち込まれてしまうおそれがあるので、言論が抑圧的にならないように気を使わなくちゃならなくなる。

 こういう役割分化した社会で、言論の場で価値形成を図らなかったら、いったいどこで価値形成を図ればいいのか、っていう話ですよね。まったく淘汰圧のない社会では、あらゆる個人的な欲望が自堕落な成長を遂げてしまい、他者との衝突、それも猟奇犯罪のような最悪の衝突を生んで、初めてその奇怪さに気づくようなことになりがちなのではないでしょうか。それを考えれば、言論の場での適度な淘汰圧というのは、やっぱり必要だと思います。

 そのために求められるのは、決して差別や社会的地位の低下を意図するものではなく、むしろ、個人の価値形成を助けるような、率直な批判の言葉だと思うので、そういう時代にふさわしい批判言語というものを考えてみたいですね。

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「ナニワ金融道」電子書籍化

 「ツマんどるな」で一世を風靡した「ナニワ金融道」もついに電子書籍化。個人的には、こういう絵はあんまり好みではないのですが、この漫画に限っては、この絵だったからこそあれだけのインパクトがあったということも否定できないと思う。ソープに沈められた娘が陰毛を拾っているシーンなんか、今でも鮮明に目に浮かぶもんね。

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制度ではなく文化の問題として

 例の監禁事件について検索すると、批判の矛先を成人コミックとかエロゲーとかに向ける動きをけん制するような意見が多いようですね。

 ぼくも、エロに対しても表現の自由は守られるべきだ、という意見にはまったく賛成です(もちろん、レーティングとかはきちっとやったほうがよいと思いますが、ここではその話は省略)。ただ、最近の「そういうの」を見ると、あまりにロリコンや鬼畜が多すぎるのではないか、と感じるのはぼくだけではないと思うし、だとすれば、それに対してなんの批評も行われない、というのは、やっぱりおかしなことではないでしょうか。

 つまり、特定の文化活動を制度的に規制する、ということと、言論というフィールドの中で批判する、ということは、本来別次元の行為であるはずなのに、批判が高じて規制に結びつくことを怖れるあまり、まっとうな批判までが忌避される傾向になってしまっては、本末転倒だということです。

 ええかっこしいと思われるのはいやなのですが、ぼくは、こんなにロリや鬼畜ばかりが過激化する傾向には、なにかしら不健全なものを感じるし、それを体系的に文化批評として述べる人は、やっぱり必要だと思うのです。

 たとえば、食文化についてであれば、仮に、ジャンクフードばかり食べている人がいたとしても、法律的には許されるわけですが、それはそれとして、そんな食生活はやっぱり身体に悪いんじゃないか、というような批評はあっていいはずだし、あるべきでしょう? それと同じことだと思うのですね。

 もちろん、ジャンクフード派の方も、あまり健康オタクみたいになるとかえって不健全だから、たまにはジャンクフードも食べたほうがいいんだとか、一日一回と決めて食べればほとんど害はないとか、大いに反論すればいい。そういう議論の中で、ジャンクフード的なものにも、それにふさわしいニッチというものが決まってくるのだと思うのです。

 ポモ時代に俗流文化相対主義が流行ったころには、あらゆる文化批判を禁じ手のように言う人もいましたが、文化のバイアビリティというものは、言論の自由の下での相互批判によって、常に試されるべきであると思います。

 もちろん、それが性的マイノリティの抑圧につながるとか、いろんな問題はあると思いますが、性的マイノリティの方たちだって、無条件に存在を肯定されるのではなく、相互批判という文化的な闘争の中で、自分たちが反社会的な存在でないことを自らアピールすべき(健全なサドと危険なサドとはここが違う、みたいに(^^))だと思うのですが、いかがでしょう。

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売れ続ける「失踪日記」

 Amazon.co.jp のトップセラーリストを見る限り、吾妻さんの「失踪日記」はずいぶん息長く売れ続けているようですね。あの池田信夫氏が読んだというのにも随分驚いたのですが、ついに日垣隆氏まで読んだらしいです。

 池田氏は、「私にも、他人事とは思えない部分がある。現代人の抱える不安をギャグとして表現しているところが、多くの人々の密かな共感を呼んでいるのではないか。」などと評していて、ちょっと意外でした。

 アマゾンのカスタマーレビューなどを見ても、けっこうシリアスな読み方をしている人が多いようなのですが、ぼくは、吾妻さんが、「いつもどおり普通に書いただけ」みたいなことを言ってるのが、謙遜でもなんでもなく本音だと思うなあ。それがこんなに受けるということは、かつてはぼくら吾妻ふぁんだけがかかっていた「びょーき」が、一般の人にも感染しはじめてるのかもしれない、なんつったりして(^^)。

 逆に日垣氏は、「この本を読んでぐったりする人は、生命力が落ちているのかもしれません。正しく笑い飛ばしてあげましょう。」(「ガッキィファイター」2005 年5月10 日号)と書いていましたが、ぼくもそう思う(^^)。

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「寄生獣」電子書籍化

 岩明均氏の名作「寄生獣」が、ついに電子書籍化されたようです。SF のもつ思弁性と娯楽性のバランスのとれた傑作として定評ある作品なので、未読の方は、この機会に一読されてみてはいかがでしょうか。

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12 億の反日

 China Daily という中国の英字新聞の漫画欄を発見。言葉はよくわからないが、日本ネタばっかりだ、ということだけはわかる(^^)。なんて、(^^) マークを書いてみたけど、笑い事じゃないよね。

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代表作

 ついに、Yomiuri On-Line にまで、「失踪日記」の記事が(^^)。

 ただ、この「吾妻ひでおはついに『不条理日記』を超えた!」という大げさなアオリには、小うるさいファンとしてはちょっと異を唱えたいです(^^)。

 そもそも、「不条理日記」とジャンルが違うし、確かに星雲賞(これってネビュラ賞の直訳なんだろうね(^^))はとったけど、「不条理日記」が不条理ものとしても必ずしもベストとも思いません。

 やはり、ファンとしては、「ローリング・アンビバレンツ・ホールド」あたりを読まずして吾妻氏を語るな、ぐらいのことは言っておきましょう(^^)。

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「失踪日記」入手!

 そうそう、吾妻さんの「失踪日記」、やっと手に入りました(^^)。

 たしかに、ホームレスの生活とか、アル中患者の生活とかを、こんな風に淡々と描いたマンガと言うのは、前代未聞なんでしょうねえ。また、だからこそ、社会の矛盾とかいうドキュメンタリー的な切り口からは絶対に見えてこない、人間性の側面を描き出すことにも成功していると思います。

 ただ、ぼくのような昔からの吾妻ファンにとっては、これは往年のあじま調そのものであって、むしろ、それが健在であることに感激したという感じですね。もともと、吾妻さんはエッセイマンガがうまいですし、びんぼーネタや奇人変人ネタは得意中の得意ですからね。だから、吾妻さんならこの程度のものは描けて不思議はまったくない、という感じがむしろしました。

 あと、ビッグマイナーと言われた時代のマンガ家生活の裏話も描いてあったのが、ファンにとっては掘り出し物でしたね。なんであんなに出来不出来があったのか、どの作品を本気で描いてて、どの作品を投げてたのか、よくわかりました(^^)。

 突然思い出したけど、ぼくは、並んだりするのが嫌いなので、サイン会とかほとんど行ったことがないのですが、紀伊国屋でやった吾妻さんのサイン会だけは行ったことがあるんですよね。

 サイン会慣れしてないものだから、隣のアドホックでわざわざ色紙を買って行ったら、色紙はダメですって言われて、でも好きな作品はすでにほとんど購入済みだったから(^^)、たいして好きでもない「格闘ファミリー」かなんかをその場で買って吾妻さんに渡したら、他の人はサインだけなのに、何も言わずにちょこちょこっとイラスト描いてくれたんですよね。

 意外とやさしい吾妻さん、ホントに復活おめでとうございます。

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無防備な批評家

 くらたまさんの話題作「だめんず・うぉ~か~」が電子書籍になったので、読んでみました。すでに、くらたま批判みたいなのをたくさん目にしていたせいか、かなり身構えながら読んでいたので、逆にわりと楽しんで読めましたね。

 良くも悪くも、作者の怨念が生で出ているのがこの作品の特徴で、週刊誌的な俗情を煽るには効果的なんだけど、作者自身を相対化するような視線には欠けていることは否めません。もちろん、そういう男運の悪さを普遍的な人間性や社会構造に対する考察に結びつけていれば、また別種の作品になったのでしょう。ただ、そういう作品を傑作にするには、かなり強靭な分析能力とか批判精神とかが必要なんで、この作者がそこまでできるかどうかは未知数ですからね。

 また、これはあくまで実話だと思って読んでいるからそこそこ読めるのであって、完全なフィクションだったらたいして面白くもないわけですが、まあ、そういう「だめんず・うぉーかー」みたいな人が存在する、ということを世間に知らしめるためのドキュメンタリーだと思えば、一応存在価値はあるんじゃないですかね。

 ただ、くらたまさん自身が自分の屈折に対してあまり意識的でないところが、他人からみればつっつきやすいところではあるんで、ぼくなんかも、だめんずよりも、むしろ、うぉーかーの人たちやくらたまさん自身の精神構造に興味を持ってしまいました(^^)。

 ただまあ、そのへんで似非精神分析みたいなことをして血祭りにあげるのも大人気ないというか、わりと、酒場の愚痴的にさらっと流しておけばいいレベルの作品ではないかと思いましたけどね(^^)。

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「沈黙の艦隊」電子書籍化

 かわぐちかいじ氏の傑作マンガ「沈黙の艦隊」がついに電子書籍化されたようです。

 マンガというのは、字だけの本より場所をとるので、あまり長期間保存しておけず、読んだらすぐ処分してしまうことが多いので、それだけに、電子書籍化はありがたいです。

 売るほうの立場からしても、展示スペースをとらない分、どの商品を入荷すれば最も利益率が高いかみたいなことをあまり気にしなくてよいという利点もあるんじゃないですかね。リアルの店で、こんなに昔の本ばかり置いたら、その分、現在の売れ線の本を置くスペースがなくなって、売り上げに影響するでしょうからねえ。

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「失踪日記」が読みたいっ!

 ネットというのは、とーとつに何かがブレークしていたりするので驚くのですが、Amazon.co.jp をのぞいたら、吾妻ひでおさんの「失踪日記 」がいきなり売り上げベストテンに入っていました。

 私は、何を隠そう、子供のころはかなりのアズマニアだったのですが(ある意味、オタクのはしりだったのだと思いますが、最近はすっかりマンガにも SF にもご無沙汰しています(^^))、吾妻氏が書かなくなってから、こんな生活をしていたことも、その後みごとに復活したことも、まったく知りませんでした。

 しかも、これが老大家の手すさびという感じではなく、かなり傑作らしいのです。あの吾妻ファンをもって任じるとりみき氏が言うのですから、結構信憑性高いのでしょう。

 これは自分の十代を清算する意味でも読まねば、と思うのですが、Amazon も bk1 もみんな品切れ。いったいどーなってんの? 全盛期ですら、こんなに売れたことないんじゃ(^^)?

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宮崎駿の原点

 NHK で地味に「未来少年コナン」の再放送をやっていますね。時間的に見づらい時間なので、あんまり見てませんが、なつかしい。

 そもそも、ぼくが初めて宮崎駿という名前を認識したのは、ナウシカでもカリオストロでもなく、この番組でした。それも、最初は、いかにも NHK 的な人畜無害な名作劇場路線だと勝手に思いこんでいて、たいして期待もしないで見ていたのでした。

 ところが、まず、飛行機の羽根に足の指で掴まるというシーンに一撃をくらい、次に、百叩きされたお尻に水をかけたら蒸発するというシーンに追い討ちをかけられ、最後に、ビルの上から飛び降りても足がしびれただけというシーンにとどめをさされたのでした。

 今でこそ神格化されて、エコロジーがらみで語られたりして、その分いろんな批判も受けている宮崎氏ですが、ぼくにとっては、最初からそういう人でした。もちろん、その後の作品も魅力的なのですが、登場人物の生命力という意味では、今見てもこの作品が随一のような気がします(「ハウル」は未見)。 

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デジタルなリアリズム

 最近ちょっと、ひぐちアサさんのマンガにはまっています。はまっているというより、好奇心かもしれません。この人はなんでこういうマンガを描くのだろう、という。

 正直、昔の少女漫画と同じで、キャラの書き分けがわかりづらかったり、フキ出しが誰が喋っているのかわかりずらかったりするところはあります(ただし、背景を細かく書き込んでいるところは好感が持てる)。でも、それでもなんか惹かれるものがあるんですよね。それはなんなのか。

 ぼくが昔読んでいたような、ふつーのエンターテイメント作品は、人間に対する通俗的な思い込みを前提にして、それに応えたり裏切ったりすることで、読者に訴えかけていくものが多かったと思うのです。ところが、この人の作品からは、あまりそういう通俗的な人間観が感じられない。そこが、ちょっとハードボイルド的な文学性を感じさせるというか。

 まあ、ひょっとしたら、この世代が単にぼくらの世代とは違う人間観を持っているだけなのかも知れないけど(^^)、まるで異性人がこっそり人間を観察して描いたマンガのような感じさえします。

 強引にこじつけると、テクノを通過した打ち込み音楽が、グルーブクォンタイズなどを駆使して、微妙なタメやハネまで再現するようになり、逆に生身のドラマーもその影響を受けて、よりタイトで人間にしかできないようなドラミングを目指すようになったのと似たものを感じます。そういう、いったんすべて解体した後に再構築されたデジタルなリアリズムというか。ちょっとホメすぎかな~。でも、この人は、そういう期待を抱かせるものを持っていると思うので、がんばってほしいです(^^)。

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インクレディブル

 「Mr.インクレディブル」って、なんか、藤子不二雄氏の「中年スーパーマン佐江内氏」に似てる、と思ってしまうのは、私だけでしょうか(つっても予告編しか見ていないのだが(^^))。まあ、ありがちな発想だし、アメリカ人がこんなマイナーなマンガを読んでるとしたら、その方が偉いという気もしますが。

 ブログも、ネタがないと、つい無理矢理ネタを考えようとしたりしてしまうところがよくないですね。(^^) 

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歴史を動かす人、動かされる人

 ビデオに撮りためてあった「新撰組」を数回分見直してみました。

 このドラマで1つ印象的なのは、他の歴史物ではわりといい役に描かれることが多い、勝海舟と西郷隆盛がかなり悪役になっていることですよね。それに対して、新撰組の連中は、人を斬ったりもしたけれど、根はいいヤツなんだ、という感じに描かれている。

 つまり、歴史を動かす人=ヤな奴、歴史に動かされる人=イイ奴、という図式ですね。

 これは、かわぐちかいじ氏の「ジパング」なんかでもそうで、このマンガでは、歴史を俯瞰で見てよりよい方向に動かそうとする人たちと、歴史の内側にいてその中で最善をつくそうとする人たちとの間の葛藤、というのが、よりはっきりと1つのテーマになっていますね。

 これは多分偶然の一致ではなくて、それこそ時代がそういうものを求めているということがあるんだと思うんですね。それはもちろん、単純な進歩史観の終焉とか、一種のリビジョニズムの影響とか、いろんなことがあるんでしょうけど。

 昔、宮崎駿氏が、「歴史を動かすのは悪人だ」という発言をしていて、そのときはまったくピンとこなかったんですけど、歳をとるにつれて、だんだん何が言いたかったのかわかるような気がしてきました。まあ、それを誤解を招かないように説明しようとすると、なかなか難しいのですが(^^)。

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「ヒストリエ」に注目

 あの「寄生獣」の岩明均氏がまた傑作をものしつつある、という噂を聞いて、早速その「ヒストリエ」1,2 巻を取り寄せてみました。まだたった 2 巻なので、断定するのは早すぎると思いますが、確かに、傑作を予感させるものがあると思います。

 帯に「アレキサンダー大王の書記官エウメネスの波乱に満ちた生涯!」とある通り、歴史物なのですが、まず、その古代人たちの人間性の描き方がうまい。殺人・拷問・強姦・差別があたり前の世界を眉一つ動かさずやりすごす人たちの描写は、「寄生獣」における寄生生物の非人間性の描写を彷彿とさせます。また、彼らの言葉が、完全に現代日本人の話し言葉であるのも、彼らに対する感情移入を容易にすると同時に、彼らの感性の異質さを際立たせるという二重の効果を挙げています。

 アリストテレスの逃亡を助けながら、故郷に帰ってくるというところから、子供時代の回想シーンに入っていく導入部もよく、さまざまな伏線を張り巡らせながら進んでいく展開には思わず引き込まれます。まだ、この先どうなるのかわかりませんが、今後も目が離せない作品になりそうです。

 余談ですが、「トリビアの泉」にも出てきた、「 『流氷の天使』クリオネのエサの食べ方 」は、ホント寄生獣そっくりなので、興味のある方はぜひ映像を探して見てください。きっとビックラこきますよ。(^^)

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女子高生と High School Girls はどう違うか?

 別にヒット数向上を狙っているわけではなくて(と言いつつ少しは狙っているが(^^))、あの大島永遠さんの「女子高生」の英訳版を読んだというお話です。

 まず驚いたのは、普通、縦書きのマンガを横書きの言葉に訳す際には、読む順序が逆にならないように、裏焼きにして左右を反転させ、左開きにするのことが多いのですが、この本は右開きのまま。

 また、描き文字なんかも、日本語の描き文字をきちんと消さずに、上から英語の描き文字を重ね描きしてあったりします。注意書きには、「原書に忠実に」みたいなことが書いてあるのですが、ちょっと手抜きっぽい感じ。

 もっとも、描き文字の差し替えがかなり大変な作業だということは理解できるので、これからは、最初から多言語出版を意識して、描き文字だけ別レイヤーに書いて後から合成する、みたいな方法が主流になるのかもしれません。(たぶん、Comic Studio みたいなのを使えば簡単にできるでしょう。)

 翻訳者のはしくれとしては、やはり、原作に散りばめられているコギャル用語がどう訳されているか、というところに一番興味があったのですが、たとえば、「ハブる」なんかにしても、"push out" とか "leave out" とか、わりと普通に訳してありました。

 以下に示すように、他にも、明らかに原書とニュアンスの違うところが散見されました。(ただし、原書は処分してしまって手元にないので、日本語の方は記憶で書いてます。)

  • 日「熊っぽい? フィーリングでしゃべんなよ。
  • 英 "Beastly? What's that supposed to mean?"
  • 日「カンベンしてよ。男を見る目まで落ちちゃうのかよ。
  • 英 "Serious? Your standards are that low?"
  • 日「結局、彼らはカラオケ部に入った(帰宅部とも言う)
  • 英 "So in the end, we didn't join any club and went to karaoke instead."
  • 「(RPG 風に)絵里子は協調性を身に付けた!
  • 英 "Eriko resorting to conformity."

 このマンガはもともとカルチャーギャップ・ギャグの一種で、女子高生の世界と言う、近そうで遠い「異文化」を楽しむマンガだと思うのですが、この英訳版では、そういう微妙なニュアンスはやや失われて、ただのおばかな高校生の話みたいになってしまっているような気がします。もっとも、英語国民にとって、日本は最初から異文化なので、この「近そうで遠い」感じを出すのが非常に難しい、ということは理解できますが。

 裏表紙の紹介文にも、"As the student body comes of age we witness their search for love, sexual controversy and the rivalry between cliques." などと書いてあって、明らかにふつーの青春コメディみたいに捉えられてますよね。

 とはいえ、アイドル "Hottie" 小田切センセイ直伝の「元素記号の覚え方」が訳してあったところはかなり笑えました。もっとも、ここを訳さないと、この話の後半ほとんど成立しないですもんね。かなりがんばったんでしょうねえ。(^^)

 というわけで、日本人がわざわざ英訳版で読む意味はあまりないような気がしますが、物好きな人はどうぞ。

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