PLUTO 5

PLUTO 5―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (5) (ビッグコミックス) 「PLUTO 5」を購入。なんと、セブンイレブンの棚一段を完全占拠していたので、最近のマンガの中でも売れている方なのだろう。 ゲジヒトが○○○○したというネタでしばらくひっぱるのかと思ったら、そのネタは前フリにすぎなかったらしい。手塚原作キャラとしては、新たに○○○○○も登場するが、まだ登場しただけで、たいした見せ場はなし。

 この作品の成功の鍵は、「ロボットの心」をどれだけリアリティを持って描けるかだと思っているのだが、その関連で新たに出てきたキーワードが、「偏った感情の注入」。

 実はこれ、たまたま最近読んだベルクソンの自我論とか、それを批判的に引用している山崎正和氏の自我論とかに、ちょっと似てるんだよね。あと、「ほぼ日」で最近、脳科学者の池谷裕二さんの睡眠論連載してるんだけど、そこで知った「起きているときに活性化しているニューロンは 30% ぐらいなのだが、睡眠中で意識がないときには 100% 活性化している」という話も思い出した。

 そんなこともあって、これまで読んだ限りでは、浦沢氏の「ロボットの心」の描き方には、現代の哲学や AI 理論の水準を踏まえてもリアリティを感じさせるものがあるという気がしている。ぼくは、最近あまり SF を読んでいないので、ひょっとしたら先行作品があるのかもしれないし、誰か専門家のブレーンがついているのかもしれないが、ご自身で考えているとしたら、たいしたものだと思う。

 もちろん、まだ 5 巻目なので、今後の展開次第で駄作になってしまう可能性もあるのだが、5 巻読了時点でのぼくの期待値は堅調に推移、買い推奨である(^^)。

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Homeless

完全にゾンビ扱いです(^^)。ようやるなあ~と思いつつ、大爆笑してしまいました(^^)。もちろん、これが笑えるのは、われわれが直視したくないある種の真実をついているからなんだよね。最後の台詞は "It's completely overrun with these things!" ですからね(^^)。その前のシーンに出てくるタウンミーティングでは、ホームレスをタイヤ代わりにすればリサイクルになるとか、もうメチャクチャな提案ばかりしてたりして。やってくれるよな~(^^)。

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Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms

Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms  「夕凪の街桜の国」がいつの間にか英訳されていたんですね。英題は「Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms」。そのまんま、という感じですが(^^)。

 書評などでもなかなか好評なようです。

ざっと読んでみたけど、みんなわりとこの作品のポイントをわかってくれてるみたいで安心しました(^^)。

 映画のほうはまだ未見ですが、どうでしょうか。あの絵の美しさをどう実写に置き換えるかがポイントなんでしょうけど。

(吉永さんのコメントはちょっとはずしてませんか? 失礼ですが、たぶん原作読んでないんじゃないかなあ? 少なくとも、読んでからコメントした方がいいよね。読んでこのコメントだったら、ちょっと感性を疑うというか、上記のアメリカ人たちに比べても読解力がないと思ってしまうなあ。このコメントを掲載した人はそう思わなかったのだろうか。。。(^^)

 上で紹介した David Welsh 氏も書いております(^^)。

The incalculable individual cost of the bombing of Hiroshima has been handled in drama and documentary, and one can’t argue that the act of examining that kind of horror is automatically a virtuous or courageous act. The critical element is any given work’s ability to move its audience.

 どんな芸術を鑑賞しても、ステロタイプな政治的なインプリケーションしか読み取れないのでは、芸術家として失格じゃないですか? とか言われちゃうぞ~(^^)。)

(追記: 舞台挨拶でも吉永さんのコメントを読み上げたらしいけど、真面目な話、あんまり反戦映画みたいな宣伝をしない方がいいと思うぞ。そもそも、そんな大雑把な表現はこの作品に対する冒涜でしかないし、こんな繊細な世界を作り上げた作者に対しても失礼だし。営業面でいったって、反戦映画なら見ようという人と、反戦映画ならいいやと思う人とどっちが多いかも微妙だろうし。だいたい、反戦映画なら見ようなどという人は、真にこの映画を観るべき人ではない。むしろ、そういう余計な先入観のない人や、先入観にとらわれない知的誠実さや柔軟な感性を持った人こそが見るべき映画なのに。)

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コナンとアルマゲドン

 早速オンデマンド TV でビデオ作品を何本か鑑賞する。いい作品は気合入れて集中してみたい方なのだが、そんな時間をとる余裕はないので、ながらで観ても後悔しないような作品を選ぶ。つまり、昔観た作品とか、B 級娯楽作品的な奴とか。

 未来少年コナンは、今見てもやっぱり名作であった。ひょっとして、子供の頃に見たから感動したのかも、という気もしないでもなかったのだが、プロット、アニメーション、人物描写、どれをとっても完成度が高い。なにより、この作品からは、宮崎駿の表現する欲望みたいなものがほとばしっていて、観るものを圧倒する力がある。宮崎駿はこの作品だけでも十分歴史に残ったであろう。

 昔見たときはそれほどでもなかったのだが、今見るとすごく感動するのは、モンスリーが改心するところである。モンスリーはちょっと西川史子さんに似てるのだが、そのモンスリー西川が浜田雅功なみのド S レプカに足の裏で顔をグリグリされながら喋るシーンがすごくいい(って、そういう意味じゃないよ (^^))。人間が変わる過程の模写というのは、物語がもつ最高の醍醐味の一つなのだが、この作品でそれが最もうまくいっているのがモンスリーなのである。

 モンスリーは、インダストリアに着く前の飛行艇の中で、すでに「コナンと行動をともにする」みたいな発言をしてはいるんだけど、実は、この時点ではまだ心が定まってなかったんだね。だから、インダストリアで墜落してレプカに身柄を確保された時点では、またレプカの下で働いてもいいかなぐらい思っていたと思う。ところが、ラオ博士の話を聴いているうちにもう一度心が揺れてきて、その後レプカと話し始めたときには、モンスリーは本気でレプカを説得する気になっていた。

 ところが、レプカと話していて足の裏でグリグリやられているうちに、彼女は自分自身の本当の気持ちに気づいてしまったんだろうね。冷静に計算すれば、あの場面であんな発言をして得なことはなにもないんだけど、彼女自身、自分の気持ちを言葉にしているうちに自己発見してしまったから、必然的にああいう発言になってしまったのだろう。あの場面は、そういう心の動きが、すごくうまく描かれていると思う。これは、子供のときに観たときには、あまり気づかなかったけど(^^)。

 あと、レプカの性格は、無駄にサディストすぎるところがあるんだけど、その無駄なサディストさで、作劇上の不自然さがカバーされているんだね(^^)。ギガントなんて、レプカがあんなド S じゃなかったら落ちてないでしょう(^^)。「うろたえるな!」って何回も言ってたけど、言ってる本人が一番のキレキャラなんだもの(^^)。

(テリットが死んだらしいことが一言で片付けられてるのは、なんか事情があるのかな? 無理やり台詞をカットしたようにも見えるんだけど、差別用語かなんか入ってたのかも)

 あと、B 級娯楽作品の方では、まだ観てなかったアルマゲドンを観たが、意外と楽しめた。もちろん、大傑作として持ち上げる気にはなれないが、それほどムキになってけなす気にもなれないな(^^)。少なくとも、インディペンデンス・デイよりはいいんじゃない(^^)? そんなことない(^^)?

 あの、ヒーロー役としてちょっとイカレた穴掘り屋を持ってきたり、恋愛と親子愛をからませたりするとこなんか、小技としてはなかなかうまくいってると思いますけどね。もっとも、あのマシンガンを打ちまくっちゃう奴は、いくらなんでもイカレすぎだと思ったけど(^^)。

 まあ、遊園地に行って人生が変わる奴はそうそういないだろうけど、遊園地には遊園地なりの価値があるからね(^^)。それを価値ゼロみたいに言う奴を観ると、ぼくみたいなひねくれ者はかえって反発したくなる(^^)。えーえー、確かに上がったり下がったりしてハラハラさせられるだけですけど、それが何か(^^)? そのコース設計に多少なりとも工夫があれば、入場料程度の価値はあるんでない?

(どうでもいいけど、左門豊作は、リンゴ落としたぐらいのこと、いつまでウジウジ気にしてんだよ~。ほんとキモい世界だよな(^^)。よくこんなキモいアニメがあんなメジャーになったもんだ(^^)。こんなの今だったらかんぜんにカルトだよな。当時は世の中全体がちょっとキモかったんだろうね(^^)。)

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ナポレオン獅子の時代

 前に、息抜きとして歴史の本を読むという話を書いたけど、最近の興味は主にフランス革命時代。この「ナポレオン獅子の時代」というのも、その過程で偶然見つけたマンガである。

 この作品は、一言で言えば「いい人」の一人も出てこないナポレオンとフランス革命の話。一昔前の感覚だと、ナポレオンが主人公だったら、ヒーローにするか逆に思いっきり悪役にするかどっちかだったろうけど、この作品ではどちらでもない。もちろん、それ以外の登場人物も、フーシェみたいな悪役が定番の人まで含めて、ことさら美化するでもなく貶めるでもなく描かれている。

 と言っても、ピカレスク・ロマンみたいなものではない。なぜかというと、帯に安彦良和さんが書いているように、この作品にはロマンがないから(^^)。かと言って、ハードボイルドでもない。なぜかというと、登場人物の誰一人として、ゴルゴ13みたいにクールではないから(^^)。強いて言えば、筒井康隆氏が書く歴史物に近いかもしれないが、あそこまで徹底して戯画化されてもいない。そういう意味で、この作品は新しい感覚の歴史物と言えるかもしれない。

 考えてみると、ピカレスク・ロマンの登場人物なら、あえて悪の道を極めるところに自己陶酔を感じていたりするし、ハードボイルドの登場人物なら、あえて感情に流されず冷静さを保つところに自己陶酔を感じていたりするんだけど(^^)、このマンガの登場人物には、そういう自己陶酔みたいなものがなくて、もっとドライなんだよね。そこが現代的なのかもしれないという気がしないでもない(^^)。

(ちなみに、このマンガの中ではロベスピエールは「童貞」であり(^^)、サン・ジュストはテルミドールを生き延びてタリアンやポール・バラスの暗殺を図ることになっている。)

 もっとも、ぼくは最近マンガや娯楽小説をあまり読んでいないので、この作品が水準からどのくらい突出しているのかは、正直よくわからない。ひょっとすると、最近の作品ではこういう描き方が当たり前なのかもしれないし(^^)。

 また、人物の顔の描き分けがあんまりうまくないので、慣れないと誰が誰だか区別がつかないし、ストーリー的にも説明不足気味の点が多々あるように感じる。

 そういうわけで、個人的には大傑作という評価はしずらいのだが、佳作ではあると思う。少なくとも、最近マンガをあまり読んでないおじさんが読んでも、「そーかー、ナポレオンやフランス革命をこんな風に描くマンガが出てくる時代になったんだな~」ぐらいな感想は持っていただけるのではないかと思う(^^)。

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ロボットは子供を産まない機械

 「PLUTO 4」を読みながら、もしこのマンガの世界に、「女性は子供を産む機械」という発言をする政治家が現れたらどうなるかを考えてみた。

 この世界では、ロボットの人権が確立されているから、人間を機械に例えることが即ネガティブな価値をもつ主張したら、逆にロボットに対する差別になるだろう。「なぜ機械に例えられるのがそんなにイヤなんです? それは、あなたの中にあるロボットに対する差別心の現われじゃないですか?」などと、「ロボット権」運動家に抗議されるかもしれない。だから、せいぜい事実と違う、というような主張しかできないはずだが、もともと例え話なのだから、事実とは違うに決まっている。

 ひょっとしたら、逆に、人間の女性だけが子供を産めると暗に主張しているととられて、ロボットの女性から「ロボットが子供を産めない機械だからと言って差別するんですか?」と言って抗議されることも考えられる。現に作中では、ロボットであるはずのゲジヒトやイプシロンは、自分の身体を創った人間の科学者に対して、深い愛情を持つ存在として描かれている。

 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、この 4 巻では御茶ノ水博士の性格が掘り下げられていて、ほとんど虫愛ずる姫君みたいに、人間とロボットとを同等に扱う博愛主義者として描かれているのが面白かった。また、科学省長官であるはずの御茶ノ水博士でも、部品を入手できないので旧式のロボットは修理できない、という描写はなかなかリアルである。これが昔の SF だったら、こんな旧式のロボットを修理するのはお茶の子さいさい、みたいな話になっただろう。(ところで、御茶ノ水博士が修理する犬型ロボットはアイボそっくりだがアイボなんだろうか)

 ちょっとネタバレになりますが、この巻ではアトムがあっさり「死」んでしまいます。でも、手塚さんの原作では、ゲジヒトやヘラクレスの方が先にやられるんですよね。それで、アトムは天馬博士に 100 万馬力に改造されるんだけど、エネルギー過剰で暴走して海底に沈んじゃう。それを、プルートゥとイプシロンが協力して助ける、という展開になるのですが、この原作をどこまで尊重し、どこからはずしていくのか。浦沢さんの腕の見せ所ですね。

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ジパング予想・続

ジパング 26 (26) コンビニで「ジパング 26 (26)」を購入。いよいよサイパンで日米が最後の決戦に突入という展開。したがって、この巻単独で言えばそれほど面白くないのですが、まあ仕方ないでしょうね。

 前にこのブログで、核兵器は「みらい」に積んであるのではないかと予想してみたのですが、この巻を読む限りは、核兵器は大和に積んであるという雰囲気で進行しています。

 ただ、本当に大和に核兵器を積み込むシーンなどの模写はないので、まだ本当に大和に積んであるとは断言できないと思います。なにせここ数巻の展開は、いろんな伏線を張り巡らせている気配がプンプンで、草加がなぜ簡単に「みらい」の逃亡を許したのかも説明されていないし、草加が大和ではなく武蔵に乗っているところも怪しいと言えば怪しい。ですから、仮に「みらい」に搭載されていないとしても、なんらかのどんでん返しがあるものと思われます。ひょっとして、大和ではなく武蔵に積んであって、草加が一人で自爆するとか。。。(^^)

 また、このまま行くと、単に角松が実力で草加を阻止できるかどうかという技術論になってしまうので、それではやっぱりかわぐちさんらしくないと思うのです。やはり、角松や草加がお互いの価値観をギリギリで試されるような仕掛けが用意されているのではなければ、かわぐちかいじではないでしょう。期待して待ちたいと思います。(^^)

 個人的には、巻末のかわぐちさんのインタビューがちょっと面白かったです。人間には怠惰な時間が必要とかいう話、すっごく共感しました (^^)。ほら、一時期、余暇とかまで有意義に過ごすのが偉いみたいな話が流行ったじゃないですか。ああいうのってなんか違うような気がして。ぼくなんか、正月とか、ダラダラしないと正月のような気がしないんだけど、みなさんはいかがでしょうか (^^)。あと、神というのは、死んだ人間のためにあるのではなく、生きている人間が自分の生を意味づけるためにあるという話もまったく同感。この考えを靖国参拝の問題に結びつけるとどうなるのか、なんて今さら焼けぼっくいに火をつけるようなことはしませんが。。。(^^)

付記: 正確には、「有意義に過ごすのが悪い」ではなく、「人間にとっては怠惰な時間も有意義であるはずだ」と言うべきだね (^^)。ここでは怠惰な時間が持つ価値というものを積極的に主張しているわけである。

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田中圭一初体験

 久しぶりにコンビニで「サイゾー」を買ってしまう。いつの間にか爆笑問題の連載がなくなっていてガッカリ。この連載がないと、この雑誌もかなり魅力が減ることを再認識。M2 もこの号で連載終了とか。この二人、ほんとうに仲いいんだろうか。どうもお互いに戦略的な思惑で結びついているだけ、という気がしないでもないのですが、まあ実はそういうのはたいして興味ないからどうでもいいっす (^^)。特集はジャニーズと天皇制だけど、どっちもたいして興味なし (^^)。もっとも、キムタクだけはなんだかんだ言ってカッコいいよなー、と見るたび思ってしまうんだよね (^^)。山形道場は本人も一枚かんでいる著作権延長の話。

 というわけで、今回買ってよかったと思ったのは、噂に聞く田中圭一氏のマンガを初めて読めたこと。いや~、ほんと手塚さんそっくりだね~。こりゃ夏目さんも真っ青だね。いや、夏目さんだったら、「これは丸ペンを使っていたころの初期の手塚の絵ではなく、かぶらペンに変えてからの後期の手塚である」とかなんとか言うのかな (^^)。「夏目の目」でやってほしいですね (^^)。

 まあでも、こういう人が出てきたのは、ある意味、手塚時代が終わった証拠かもしれないですね。昔のマンガ家は多かれ少なかれみんな手塚さんの影響を受けていたから、その頃に手塚さんのマネをしたとしても、何のインパクトもなかったでしょうからね。こうやって手塚調というのを一つの様式美として受け取れるというのも、没後ある程度時間がたって、それだけ手塚治虫を相対化して見れるようになったせいなのでしょう。

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サウスパーク・マトリックス

 めっちゃよくできてるね。これ。

 なんかかわいいなあ (^^)。

 リローデッドもあるでよ (^^)。

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クロスゲーム

クロスゲーム (2) コンビニにあだち充さんの「クロスゲーム」が売られていたので、3 巻までまとめ買いして一気に読みました。あだち充さんは、「みゆき」の頃から結構好きで読んでいましたが、基本線は相変わらずという感じです (^^)。

 ただ、主人公の小学生時代から始まるという話は、初めてかもしれないですね。もっとも、子供なのは見かけだけで、台詞自体はあまり小学生には思えないですが (^^)。主人公の幼馴染が死ぬところは、「タッチ」を想い出させます。こういう、少し引いた描き方で泣かせるのは、相変わらずうまいです。

 幼馴染の妹は、みょーに主人公にキツく当たるという設定になっているんだけど、これはひょっとして、今流行の「ツンデレ」とかいうのを意識しているのでしょうか(^^)。たぶん、この二人がだんだん仲良くなってくんでしょうね(^^)。

クロスゲーム (3)  捨てゴマが多くて、説明的な台詞が少ないのに、展開が自然に頭に入る「あだち節」は健在。この「あだち節」を継承したマンガ家っているのかな。最近のマンガ界に疎いのでわからないけど。たぶん、ストーリーよりなにより、この「あだち節」があだち充最大の武器だと思うのですが。いまだに誰も継承してないとすれば、ちょっともったいない気もします。

 「160 km のストレートが投げられる男」という台詞のところで出てくるのは、ヤクルトの 53 番、五十嵐亮太さんでしょうねね。彼はまだ 158 km までしか投げてないはずですが(^^)。

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芸術マンガについて

茶箱広重 COCORO〈心〉」というのは、かわぐちかいじ氏があの大ヒット作「沈黙の艦隊」の直後に手がけたものも、あまり評判になることもなく短期間で連載中断してしまった作品ですが、今日コンビニに行ったら、「ダ・ヴィンチ VS かわぐちかいじ」とかいうタイトルで再版されたものが売っていたので、また「ダ・ヴィンチ・コード」に便乗してあざといな~、と思いつつも、値段も手ごろだったのでつい買ってしまいました(^^)。

 芸術をテーマにしたマンガというのは、けっこうたくさんありますが、どれも芸術の価値をいかに表現するかで苦労してると思うんですね。

 これがスポーツなんかだったら、消える魔球がほんとうに投げられるかどうかはさておき、もしボールが消えたら打てないだろうなあ、ということは誰にもわかるからまだいいのです。

らんぷの下 ところが、芸術の場合、その価値をもっとも端的に物語っているのは作品自身であり、それを言葉で語り直すのは美術の専門家だってかなり苦労することなわけです。しかも、本当に作品があればまだしも、多くの芸術マンガでは、架空の作品の魅力を語らなくてはならないわけですからね。

 だから結局、なにがスゴいんだかよくわからないけど他の登場人物にスゴイいとかなんとか言わせてごまかすとか、やたらウンチクを多くして教養でごまかすとか、あるいは、人間ドラマの方に焦点をあてるということになりがちですよね。

 特に、対象とする芸術が絵画である場合、マンガ自体も絵画による表現なので、作品自体を絵としてマンガの中に描かなくてはならない。そうすると、いくら登場人物が感心してみせても、「これがそんなたいした絵か?」と思ってシラけてしまうことが少なくありません。

火の鳥 鳳凰編  ぼくが知る限り、絵画をテーマにしたマンガでもっとも成功しているのは、「茶箱広重」や「らんぷの下」など一ノ関圭氏の一連の作品じゃないかと思うのですが、 これはなんと言っても東京芸術大学油絵科卒という作者の、圧倒的な画力と美術界に対する知識に支えられているからこその成功だと思うのです。

 あと、 思いつくのは「火の鳥 鳳凰編」とか。 まあ、あれは純粋に芸術がテーマとは言えないかもしれませんが、「火の鳥」シリーズの中ではわりと好きな作品であることは確か。

  かわぐちかいじ氏の「COCORO〈心〉」も、大成功だとは思わないのですが、なかなか意欲的な冒険作だと思いました。きっと、天下をとったときじゃないとやりにくいことをあえてやったんでしょうね。特に、ダ・ビンチの子供時代の模写は好きですね。おそらくこれが「瑠璃の波風」なんかの習作として機能してるんじゃないかなあ、と勝手に想像してしまいました。

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軽井沢シンドロームSPROUT

軽井沢シンドロームSPROUT episode1 (1)  へぇー、あの「軽井沢シンドローム」の続編なんてやってたんですね。まったく知らんかったです。

 いや、鴨川ツバメさんみたいに、普段は八頭身なのにギャグになると二頭身になる手法は誰が開発したのかな、とか考えてて、そういや、たがみよしひさ氏はその正反対だったなあ、なんて思い出して、検索してしまっただけなのですが(^^)。

 たがみ氏の場合、マンガの内容にはたいした影響は受けてないんですが、絵のセンスとか若者風俗の描き方とかにはかなり衝撃を受けましたね。まあ、ある意味ナンクリとかのマンガ版にすぎないのかもしんないけど、当時の少年マンガって、今考えると信じられないほどファッション要素皆無でしたからね。女の子はほとんどみんなオカッパだったりとか(^^)。だから、ウルフカットの女の子が主人公だったりすると、それだけで「おおっ」とか思っちゃう(^^)。あの都会でも田舎でもないオシャレな軽井沢の描き方とかも新しかったね。ぼくなんかあれで、軽井沢ってすごくいいとこなのかと思っちゃったもの(^^)。

 そんなわけで、個人的には、たがみ氏はマンガ表現史的には結構重要な作家ではないか、という気がしているのですが。夏目さんあたりのご意見を一度聞いてみたいものです。

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「ダメおやじ」と父権

 おお、「「ダメおやじ」がギャグだった時代」というページに、まさにワタクシの疑問の答えが。

「ダメおやじ」が始まった1970年に父権が失墜した、とも受け止められますが、実はそうではないでしょう。あまりにも残酷で、小馬鹿にされた「ダメおやじ」というギャグマンガが成立する背景には、「こんな親父、いるワケない」という前提があります。父権という権力が残っているからこそ、とんでもないダメ父が笑える存在になるのであって、父権が失墜してしまった今なら、ひたすら寒々とするだけでギャグにも何にもならない。連載一回目の1ページ目の肩には、編集部が書いたこんなあおり文句が掲載されています。「なにをやってもバカにされ、おやじの権威はメッタメタ!!」。……おやじの権威が存在していたことを裏付ける何よりの証拠ではありませんか。

 なるほど! 確かにそうに違いない!

 そーか、かつては「父権」なんてものがあったのだなあ。すっかり忘れていたよ(^^)。

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PLUTO

PLUTO (1)  かの浦沢直樹さんが、手塚御大の鉄腕アトムの中の「地上最大のロボット」(「鉄腕アトム (13)」所収)というエピソードを元に描いた「PLUTO」。

  手塚原作の基本プロットは踏襲しているのですが、細部を微妙にずらしつつ、いろいろと思わせぶりな伏線を敷いてくるので、原作を知っている者にとっても、どこで原作を裏切ってくるのかという楽しみを与えてくれます。ぼくも原作を忘れかけていたので、eBookJapan で買って読み比べちゃいました。

  他にも、「日本人のモグリ医者」や「白いライオン」が出てきたり、ノース 2 号を雇った作曲家が曲を書いた映画が「月は無慈悲な夜の女王」だったり、「ルーズベルト」がテディ・ベアだったりと、いろいろとヲタク心をくすぐる仕掛けも満載です。

 ノース 2 号やブランドが「死」ぬときのエピソードなんかは、エンターテイナーとしての浦沢さんの力量が見事に発揮されていて、安心して泣かせてもらえます。また、差別主義者の描き方なんかも、うまいなあと感心させられます。

PLUTO (2) ビッグコミックス でも、この作品で一番魅力的なのは、なんといっても、ロボットたちの描き方だと思うんですね。古典的な SF でよくあったような、論理的な思考力はあっても情緒がわからない(^^)、みたいな描き方でもなく、かと言って、まったく人間と何が違うのかわからないような描き方でもなく、人間のように夢も見れば涙も流せば怒りもするけれども、どこか微妙に人間とは違う、みたいな感じをうまく描いていて、非常にリアルです。ロボットは本当は食事をする必要がないんだけど、人間のことをよりよく理解するために、あえて人間のマネをしている、なんていう設定もうまいですよね。

 まあ、ぼくは最近の SF をあまり読んでいないので、他のロボット描写の例をあまりよく知らないのですが、強いて言えば「ブレードランナー 」に近いでしょうか。もっとも、あれは厳密にはロボットじゃなくてレプリカントとかいうやつですけど。

PLUTO 3―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (3) こういうロボット像がぼくらの感性をゆさぶるのは、たぶん、ぼくら自身が人間としてのアイデンティティに不安を持っているからだと思うんですね。パソコンやインターネットやケータイに囲まれて暮らし、世の中でおこるさまざまな非人間的な事件や犯罪に接しながら、誰もが人間とはなんだろうと自問自答しているような時代。この作品は、そういうぼくらの心を、ときには癒し、ときにはいらだたせながら、人間とは何かと考えさせる力を持っています。 考えてみれば、手塚さんの鉄腕アトムも、まさにそういう作品でしたよね。

 ここまでのところでは、ゲジヒト刑事はどうやら人間を殺しているらしい、と読者に思わせるような伏線を張りまくっていますが、これをどう裏切ってくれるのか。今後の展開が楽しみです。

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ブランドと七瀬

 今頃になって「PLUTO」にはまっている私です(^^)。ブランドの「死」は泣けますね。このアイデアのヒントは「七瀬ふたたび」じゃないかと思うんですが、違うかなあ。あれも、筒井さんの作品にしては、珍しく泣けましたね(^^)。他にもこういうアイデアあったかなあ。思い出せないや。

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祝・女子高生アニメ化

女子高生 7 (7)  性懲りもなく大島永遠さんの「女子高生」の 7 巻を購入。6 巻あたりからちょっと飽きてきたにもかかわらず、またもや確信犯的な下ネタに数回にわたって大爆笑させられてしまう。なんと、この 4 月からアニメ化されるそうで、愛読者であった私も鼻が高い(^^)。案の定時間帯は深夜であるが。

 このマンガを見て時代の変化を感じるのは、昔はマニアックと言われるマンガ家がやっていたようなサブカルギャグが、普通の女子高生を主人公にして成立してしまっているところである。つまり、何がメインカルチャーで何がサブカルかがよくわからない時代になっている(宮台さんの言う「島宇宙化」ってヤツでしょうか)、ということが、こういうところにも現れてるんだね。

High School Girls: Volume 1 (High School Girls) 余談であるが、女子高生というのはすごいもので、このブログに貼ったアマゾン・アフィリエイトのリンクの中で、ダントツでクリック数が多いのは、この「女子高生」の英訳本である(^^)。 もっとも、私がアマゾンのレビューに書いたように、そういう興味でこの本を読むと、期待に反してロリコンが「治って」しまうこと請け合いであるが(^^)。

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Maid in Japan

 あのロイターが、こんなダジャレネタを。。。(^^)

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メモ

 あのー、なんていうか、カレーの中にジャガイモが入っていたからと言って、「カレーはルーでジャガイモを隠蔽しようとしている」などと言い募るのは滑稽だし、もちろん「ジャガイモの復権」などを訴える必要もないし、ましてや、それが「カレーとポテトフライが同じぐらい美味しい」という主張の証明にもならないでしょう? ポテトフライの価値は、カレーとは別にそれ自体として論じなければならないわけで。どうもそういう感じがします。だいたい、カレーは確かに美味いけど、カレーを無視しては料理の批評は成立しない、と言うほど神格化されてますかねえ?

 さらにに言えば、もちろん、カレーやポテトフライを離れて、「ジャガイモ料理」という切り口で研究すること自体はかまわないと思うんだけど、そもそも、この人の「ジャガイモ」の分類自体がおかしくて、それはジャガイモじゃなくてサツマイモじゃないか、みたいなところが多々あるような気がするんだよね。これについては後できっちり書きますけど。

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マンガと映画

 ただ、マンガと映画の表現技法が必ずしも同列には論じられない、というのはホントですよ。実は、高校の文化祭で、一回だけ映画のコンテを描いたことがあります。ぼくはマンガは描いたことがあったんだけど、コンテなんてはじめてだったから、マンガのコマ割りみたいなもんだろうと思ってやったら、大失敗。完成した映画を見て、かなりヘコんだもの。数年前に同窓会でビデオテープもらったけど、いまだに見る気がしません (^^)。コンテを描く前に、OB で映画を撮ってる人が来てレクチャーしてくれたんだけど、その教えが、とにかくアップを使え、という変な教えで (^^)。ぼくは純情だったから真に受けてアップばっかりにしたんで、そのせいもあると思うけど。今思えば、あれはかなり高度な技法で、初心者においそれと使いこなせるもんじゃなかったと思いますね。前にも書いたけど、アップで有名な実相時昭雄さんが撮った初期のウルトラマンだって、今見るとあまり成功してないと思うもん。閑話休題。とにかく、そういうマンガ独自の表現技法に対する評論がないんだとすれば、それはやったほうがいいかもしれないとは思います。でも、夏目さんなんかはけっこうそういうことも書いてるし、たぶん、実作者だったらみんな気づいてることですよね。あと、リアルならいいってもんじゃないというのも常識。一時、写真に吹き出しをつけてマンガにするのが流行ったことがあったけど、みんなつまんなかったでしょ? だからこそ、トゥーンレンダリングみたいな技法が流行るわけだし、大友さんだって、ちゃ~んとデフォルメはしてますよ。そういうのも実作者はみんなわかってるでしょう。だから、問題はそういうことじゃないと思うのだな (^^)。そのうちもっとちゃんと書きます。

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予告

 またコンビニで「サイゾー」を買ってしまいました。なぜか「テヅカ・イズ・デッド」の特集みたいなのをやってて、唐沢俊一さんが酷評を書いてました。ぼくも (忙しくてフロやトイレでしか読めないので、なかなかすすまないが (^^))2/3 ぐらいまで読み進めたところなんですが、もーしわけない、わりと唐沢さんの意見に近いです (^^)。でも、違うポイントもいくつかあるので、読み終わったらレビューを書いてみようかと思ってます。あと、山形さんの愛のムチとサヨク宣言も面白かった (^^)。ぼくも「ドゥルーズの哲学」だけは読んでみたけど、なんかピンとこなかったんだよね~。まあ、理科系の人間から観ると、文科系の人の数学の解釈って、なんか違和感を感じることが多いんで、そのせいかもしれないけど。

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ヒストリエ3

 待望の「ヒストリエ 3 」が出たので、早速購入したけど、相変わらず面白いです。

 この巻では、奴隷として売られたエウメネスが、とある村に行き着いて…、という展開で、友人たちとの別れや、村人たちとの交流が見せ場。

 一時、SF 作家が歴史物を書くのが流行ったことがあったけど、あれと同じで、時代差を異化効果として利用する面と、逆に、現代を舞台にすると描きにくい普遍的な人間性のドラマを描くという面とを、うまく組み合わせているところがこの作品の魅力かもしれません。

 「文化が違う!」なんていいう台詞はたぶん創作でしょうけど、きっと人類は昔からそんなこと言ってたんだろうな~、という感じがして笑えます (^^)。

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自己選択の果て

 「生物都市」で思い出しましたけど、ぼくは最近、人間のありとあらゆる属性が選択可能になっていった場合、その極限にはどういう世界が到来するのか、ということをよく思考実験として考えるんですが、おそらく「生物都市」みたいな世界になるんじゃないかという気がするんですね(^^)。

 自己選択の自由が広がると、人間がより個性的になると思う人もいるかもしれませんが、それはおそらく錯覚で、知的能力から肉体的能力から容姿から遺伝子からすべて選択可能 (それが具体的にどのようなテクノロジーで可能になるか、という問題は保留します。あくまで思考実験ですから(^^)) になれば、むしろ、個人の自我よりも環境のほうが個体差を決める境界条件として効いてくるようになるはずです。そうすると、人間の自我はだんだん溶解していって、個人の属性も社会システムの構造によって決まる、というふうになっていくのではないでしょうか。

 (これは、今流行りの「ソフトな管理」とか、そんなことを言ってるわけじゃなくて、もっと本質的に、自由が増せば増すほど、実は、主体的な自我というものは必然的に消滅していくであろうということを言っているのです。為念。それはまあ、考えようによっては「己の欲するところに従って則を超えず」みたいな一種の理想状態なのかもしれないんだけど、それがよーわからんと言っておるわけです(^^))

 ぼくがいまだによくわからないのは、マンガと同じで、果たして人類は、本当にそういう状態になることを望むのだろうか、ということなんですね。前に書いた、経済原則と愛情原則という話も、ある意味、自我とシステムとの闘いであるとも言えます。この両者の相克がどう高次元で調和しうるのか、というのは、最近一番興味のあるテーマですね。

 昨今のナショナリズム、アンチ・グローバリズム、アンチ市場主義などにしても、政治や経済の問題のように言われてますが、本質的には自我の問題で、「選択の自由」に疲れた自我が、「俺たちはもう選択なんかしたくない」「選択や交換によって変わらない確固とした自我の基盤になるものが欲しいんだ!」と叫んでいるだけのことではないか、という気もするのです(^^)。

 今散歩しながらふと思ったのですが、ぐるっと一巡すると、逆にシステムの創発性みたいなものを維持するために、システムの方から個人に対して乱数で個性を割り当てる、みたいな世界になるのかもしれませんね(^^)。

 あるいは、「キャラ選択画面」みたいなのが出てきて (どこに?)、定期的に自分の意思で自分のキャラを選択させられるとか(^^)。「明日からは、頭はいいけど病弱で気が弱くて引っ込み思案、というキャラで生活してください」みたいな(^^)。

(絵だけ見ると、「遊星からの物体 X」とか「リヴァイアサン」みたいなのだと思うかもしれないけど、ぜんぜん違いますから(^^))

 

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奇談

 CM で初めて映画化されたって知ったんだけど、「生命の木」って、「妖怪ハンター」の初期シリーズ中の話ですよね。すぐ連載打ち切りになっちゃったヤツ(^^)。なつかしい。「生物都市」とかもフル CG でやらないのかなあ(^^)。(この時代のマンガなら結構詳しいぞ(^^))

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Princess Nori or Princess Claris

 今さっき NHK に出てた、Princess Nori が子供の頃描いた絵って、どー見ても「カリオストロの城」ですよねぇ。じゃ、Mr.Kuroda はルパン三世だったのか(^^)。いいのかなあ、あんなの放送しちゃって(^^)。

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萌えるダイエット

 「もえたん」にはじまる「実用萌えシリーズ」の新作は「萌えるダイエット」らしいです(^^)。

 でも、この目次見ると、実用目的とゆーより、ほとんどネタ化してません? 「アニメを見ながら踏み台昇降!」とか、「 萌え歌ウォーキングで有酸素運動!」とか、とてもマジメに言ってるとは思えないですよね(^^)。

 ってゆーか、外でふつーに運動しろぉっ! ってゆーつっこみを待ってませんか? この人たち(^^)。

 そーやってなんでもすぐネタにするから、北田先生に怒られるんです。ってそーゆーことじゃないか(^^)。

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痛すぎて笑えない…

 卯月妙子氏の「実録企画モノ」というマンガ、電子書籍で買えるようになったので読んでみました。

 これは要するに、企画モノ AV 女優 (それも、NG 無し、つまり、SM スカトロなんでも OK を売りにする) である作者が、業界の内幕や私生活を露悪的に描いたマンガなのだが、特筆すべきは作者の壊れ方のすさまじさ。

 そもそも、いかに企画モノといえど、AV 女優となればそこそこ儲かるはずだし、マンガの腕も、素人の手慰みなどというレベルではなく、美大でデザインを専攻したという本格派。その上、文章も書けば、自分で AV の監督や編集までしてしまう。つまり、この人かなりの才人なのである。

 にもかかわらず、生活はビンボーだというから驚いてしまうのだが、なぜかというと、彼女の旦那がヒモどころか一種の山師で、彼女が稼いだ金を片っ端からあやしげな企画に使ってしまうからなのだという(本人は「企画モノ夫婦」だと自虐的に書いている)。

 しかし、このマンガを読んだ限りでは、彼女がなぜそこまでして旦那に貢ぐのかもよくわからないし、単なる企画モノでなく、わざわざ SM やスカトロばかりやる理由もイマイチ納得できない。

 自分の経験則からすると、こういう生き方をする人は、確かにある種「ピュア」で「お人よし」であることが多いのだけれど、このマンガからは、そのピュアな心と壊れた行動を結びつける手かがりが感じ取れないのである。

 普通、自虐的なユーモアというのは、ダメとわかっていてもやってしまうその気持ちわかるなあ、というような読者の共感を誘うことが多いのだが、この作品の場合、むしろ、笑いでバリアーを張って、読者がそれ以上近づこうとするのを拒絶されている感じがする。したがって、本当に笑っていいのか戸惑うような感じが最後まで抜けなかった。(作者のホームページに出ているプロフィールによれば、子供の頃から精神分裂病の発症歴があったのだというので、そのせいかもしれない。)

 もちろん、業界の内幕を垣間見れたという意味では、まったくつまらなかったわけでもないのだが、痛々しすぎて読んでいてつらいというのが正直なところ。こういう言い方は、作者にとってはかえって不本意で失礼なのだろうけど、そういうふうにしか思えなかったのだからしょうがない。一応謝っておきます。ごめんね。

 (こういう作品については、ぜひ天才松本人志氏の評価を仰ぎたいところ。もし松ちゃんが評価するんであれば、ぼくもちょっと考え直してみるけど(^^))

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