バグはゲーテルの定理のせい?
伊東 乾の「常識の源流探訪」
ところがゲーデルの定理は、プログラムは必ず矛盾を含むことを主張する。
つまり「バグがないソフトはあり得ない」ということが、数学的に証明されているのが、ゲーデルの定理の別の表現法になります。こうなると、一見難解に見える数学の定理も、私たちの生活にグンと身近になってきます。
これは噴飯物でしょ。誰かつっこんでください。(ぼくは今それどころではないので(^^))。
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伊東 乾の「常識の源流探訪」
ところがゲーデルの定理は、プログラムは必ず矛盾を含むことを主張する。
つまり「バグがないソフトはあり得ない」ということが、数学的に証明されているのが、ゲーデルの定理の別の表現法になります。こうなると、一見難解に見える数学の定理も、私たちの生活にグンと身近になってきます。
これは噴飯物でしょ。誰かつっこんでください。(ぼくは今それどころではないので(^^))。
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LibraryThing 日本語版用のブックマークレットがなかったので作ってみました。
上のリンクをツールバーなどにドラッグすればOK。
今時間がないので、詳しい説明は省略。わかる人にはわかるよね(^^)。
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やっと今年の年賀状を発送しました。先に年賀状くれた方、遅くなってごめんなさい。本当は 7 日過ぎたら寒中見舞いにしなきゃいかんそうですが、勘弁してください (^^)。
今年の絵はこんな感じになりました。
例年はもっと明るい感じの絵なんですが、今年は、あまり明るすぎると世の中の気分に合わないような気がしたので、多少地味目にしつつ、2008年の扉を明けて前進するという前向きなメッセージを込めたつもりであります(^^)。
CG 作成に使ったのは、Art of Illusion と MakeHuman。どちらもフリーウェアです。
Art of Illusion は、汎用的な 3DCG ソフトで、今回初めて使ってみたのですが、インターフェースがわかりやすくて初心者向きだと思います。本当は、今年こそ Blender を習得しようと思ってたんだけど、面倒になって日和りました(^^)。
MakeHuman は、人体モデル専用のモデリングツールです。これはまだ開発途中なんだけど、かなりリアルな人体造形が可能ですね。実は性器の造形までできちゃうんだけど、さすがに今回はその機能は使ってません(^^)。ただ、プロポーションにはぼくの好みが反映されてます。
あと、ポーズのパラメータを決めるのにも、相当苦労しましたね。もちろん、人間の関節の構造からして不可能なポーズはとれないようになっているのですが、バランスをとって立っていられるかどうかみたいな、力学的な構造安定性まではチェックしてくれないので、せいぜい不自然にならないようにポージングしてみたつもりです。
でも、肩の関節なんて、ホントにパラメータが多すぎてわけわかんないですよ。そうか、この柔軟性が手塚一志先生のおっしゃっていたダブルスピン打法を可能にしているんだなー、と実感いたしました(^^)。
そんなわけで、今年もよろしくお願いいたします。
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昨日紹介した emo のプロフィール、たった一日で「議論が好きなエモエモしたボス」に変わっていた(^^)。
このシステムはたぶん、形態素解析はしていると思うが、その上の構文解析やセマンティクスまではやっていないと思うので(そんな技術があったら、もっと他のことに生かしているハズ(^^))、語尾の「するように」とかに反応しているだけじゃないかと思う。
だから、よくわかんないけど、たとえばこういう文体に変えてみたら、emo を騙せるんじゃないかしら? とかおもうんだけど、どうかなあ?(^^) 実はあんまり自信ないんだけど。
どうかなあ。どうかしら。わかんない。なんつったりして。あれかな。こうかな。どうかな。(^^)
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ブログの文章を勝手に分析して、書き手のプロフィールを作ってくれる emo というサービス。 早速登録してみました。結果を知りたい物好きな人は、この下のアイコンをクリック。
本人の感想としては、まあまだ 1 日分くらいしか分析していないにしては、意外とマトモなこと言ってるかなと思いました(^^)。
特に、
他人のことよりも自分の感情を優先するので、ときには冷酷な人だと思われることもあるでしょう。また内向的で、ココロにあるものをなかなかコトバにしないので、周りがフラストレーションを感じることも。
この部分はかなり当たっているかも知れない。自分でもちょっとドキッとしてしまいました(^^)。逆に、
他人の心理や感情を汲み取るのが得意で、どんな些細な変化も
敏感に察知します。
というのはどうなんかなと。私を個人的に知っている方々に聞いてみたいような気もします(聞きたくないような気もします)。
特筆したいのは「ココロの傾向」。ほら、やっぱりこんなに直感派じゃないですか! ぼくのこと理屈っぽいとか思っている人、認識を改めるように(^^)。
まあでも、こういう心理分析っぽい文章を考えるのにも、いろんなテクニックが入りそうですね。なんとなく誰もが気にしてそうな欠点をオブラートにくるんでゆるく指摘しつつ、決定的に相手の機嫌を悪くしないように適度なほめ言葉を付け加える。みたいな(^^)。
占い師とかも、当たるとか当たらないとかより、ホントはそういうテクニックの方が重要なんでしょうね。
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フィードリーダーとしては、かなり前から Google Reader を愛用しているのだが、このリーダーには一つ大きな問題がある。それは、FireFox のフィード管理機能と連携していないことだ。
FireFox には、表示中のページの中にある [RSS] のようなフィードアイコンをクリックすると、そのフィードを自動的にユーザーの好きなフィードリーダーに登録してくれる機能がある。しかし、登録できるリーダーの選択肢はあらかじめ決まっていて、Yahoo! や Blogline などは選べるのだが、その中に Google Reader は含まれていなかった。一応 Google という選択肢もあるのだが、ここから登録できるのは、iGoogle の方で、なぜか Google Reader には登録できなかったのだ。
しかし、こんな有名なリーダーが FireFox で使えないはずはない。なんとかなるはずだと検索してみたところ、このえむもじらさんの公開している記事を発見した。この記事によると、about:config 経由で直接選択肢を書き換えれば Google Reader を選択肢に入れることができるらしい。
「about:config」というのは、擬似 URL みたいなもので、この文字列を URL の代わりに FireFox のロケーションバーに入力すると、Firefox の内部設定が表示されるようになっていて、その中には、[オプション] などの GUI からは変更できない隠し設定のようなものも含まれているというわけだ。
フィードリーダーの選択肢を設定しているのは、browser.contentHandlers という名前の設定で、browser.contentHandlers.types.N.title が [オプション] に表示されるリーダーの名前、browser.contentHandlers.types.N.uri が、登録を行ったときに呼び出されるリーダーの URL になっている。(ただし、N は選択肢の番号になる。)
iGoogle だったら、この URL が、「http://www.google.co.jp/ig/add?feedurl=%s」になっているので、これを「http://www.google.com/reader/finder?q=%s」に書き換えれば、iGoogle の代わりに Google Reader に登録できるようになるというわけだ。
やってみると、この方法は見事に成功。そこでしばらくはこれを利用していたのだが、ある時から、この方法ではまた Google Reader に登録できなくなってしまった。どうやら、Google の方で、「http://www.google.com/reader/finder」という CGI を廃止してしまったらしい。
仕方がないので、試しに「http://www.google.co.jp/ig/add?feedurl=%s」の方に戻してみたところ、いつの間にか選択画面が表示されるようになっていて、そこからリーダーとして iGoogle と Google Reader の好きな方を選べるようになっていたので、しばらくはこの方法を利用していた。
ところが昨日になって、久しぶりに新しいフィードを登録しようとして驚いた。なんと、またしてもこの選択画面が表示されなくなっていて、iGoogle しか選べないようになっているではないか!
これで八方塞か? しかしそんなはずはないと思い、再び検索して調べてみたところ、Google Reader にする登録するための CGI には、「http://www.google.com/reader/finder?q=%s」のほかに「http://www.google.com/reader/view/feed/%s」というのがあるということがわかった。
そこで、祈るような気持ちでこの方法を試したところ、見事成功。なんとかふたたび、FireFox から Google Reader に直接フィードを登録できるようになったというわけだ。まったく手間をかけさせやがるぜ(^^)。
まあ、この CGI は、Google が公式に API として公開しているわけではないようなので、勝手に使っている奴が悪いという論法も成り立つのであるが、それにしても、これほど影響範囲の広いインターフェースをあまり頻繁に変更するのもどうかと思う。Google も大企業になって少し天狗になってるのではないか?
そもそも、この Google Reader というソフトは、得に出来が悪いわけではないのに、なぜか当の Google からもマイナー扱いされている嫌いがある。ひょっとすると、開発部隊が Google 社内で傍流だとか嫌われ者だとか、なんかそういう事情があるのではないかと勘ぐりたくなってしまうのだが(^^)。
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PC 関係の王様のアイデアとも言うべきサンコーレアモノショップから、「サンコ- ゴロ寝 de スク アルミ」を購入。ノートパソコンを寝ながら操作できるという、ジダラクなわたくしにピッタリの商品である(^^)。どこかのブログで「ダメ人間養成ギブス」とか言っていたが、言いえて妙である。
(関係ないけど、王様のアイデアっていつの間にか閉店してたんですね。この Wikipedia の記事を見るまでしらなかったよ。まあ、ネットショッピングでいろいろ手に入る時代だから、無理もないか。)
使い方は、このページの写真を見た方がわかりやすいと思うが、仰向けになって寝そべった自分の身体の上にこの机をまたがらせて、その上にノートパソコンを置くという方式。机の手前側の縁にはゴムの滑り止めが付いているので、机の上面を 45 度程度まで傾けても、ノートパソコンは落下しないですむようになっている。
これまでも、寝転んだままノートパソコンで作業することはあったのだが、そのときには、ノートパソコンを床に置いて、うつ伏せになって操作する形をとっていた。やったことのある人にはわかると思うが、このやり方だと、肘の血行が悪くなって、だんだん肘がしびれてくる。だから、ときどき肘を床から解放して休ませなくてはならず、そんなに長時間は作業を続けられない。
この商品を使うと、仰向けになって作業ができるので、そのような問題は確かに解消される。逆にこの姿勢に問題があるとすれば、むしろ首の位置で、この写真のように、かなり大きめの枕を置いて首を持ち上げておかないと疲れる。幸い我が家にはテンピュールの枕があるので、これをベットの板にたてかけるような感じで置くと、ちょうどよいことがわかった。
予想外だったのは、ご覧のように、脚の可動箇所が左右に3箇所ずつもあるので、最適な形を決めるまでに結構手間がかかることだ。しかも、左右の脚が連動していないので、左右の形を合わせるのにも気を使う。一応、折りたたむと一枚の板になって、どこにでも収納できることになっているのだが、いったん折りたたんでしまうと、形を元に戻すのが面倒なので、結局、自分の気に入った形のまま置いてある。これだと、使っていないときには結構邪魔である(^^)。
と多少の不満はあるものの、寝たままパソコンで作業できるという謳い文句に偽りはないし、値段もたいしたことがないし、他にあまり類似の商品もないので、買ったことは後悔していない。特に、病気がちで起きるのが辛い在宅ワーカーの人なんかは、ダメモトで買ってみてもよいのではないだろうか。
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ケータイ小説「恋空」を読んでみた(^^)。
ケータイ小説について、賛否両論あることは知っていた。中高生には圧倒的な人気がある。しかし、従来の小説を読んできた人たちは、否定的な評価の人が多いらしい。その一方、新しい世代による新しい時代の小説として評価する人もいるようだ。どの評価が正しいのかは、つまるところ、読んで見なければわからない。それを確かめたくなったのだ。
読了後、山田太一氏の「『オーケストラの少女』はひどい映画か?」というエッセイを思い出した。それは、指揮者の岩城宏之氏のエピソードに関するエッセイだ。岩城氏は、少年時代に「オーケストラの少女」を観て感動し、その影響で指揮者になったそうだ。ところが、大人になってからもう一度「オーケストラの少女」を観たところ、子供のときの記憶とは違って、どうしようもなくひどい映画としか思えなかった。それで氏はおおいに落ち込んでしまったという。
このエピソードについて、山田氏はこう言う(このエッセイを収録した本は処分してしまったので、細部はうろ覚え)。おそらく、「オーケストラの少女」は、たいていの大人にとってはひどい映画なのだろう。しかし、ひどい映画だからと言って、子供に見せない方がいいとは思わない。子供というものは、大人が名作だと思うような作品で成長することはあまりなく、むしろ、俗悪な作品こそが子供を成長させることが多いからだ。現に、「オーケストラの少女」は岩城氏を指揮者にしたではないか…。(念のために補足すると、このエッセイのポイントは、名作・俗悪という価値基準自体を変更せず、にもかかわらず子供にとって俗悪は必要だ、という論法になっていることである。)
ぼく自身も人並み以上にそうだったが、子供というのは、実にくだらないことに熱中する生き物である。マンガやテレビ番組だけのことではない。サケブタやスーパーカー消しゴムのようなよくわからないグッズ収集もそう。ぼくなんかアホだから、もっともっとくだらないこともたくさんしている。チョークを食べる。舌を三つ折にする。消しゴムのかすをまるめて練り消しゴム状にする。牛乳瓶のフタについているセロハンに穴をあけ、その穴を徐々に広げていって、しまいにはその穴をくぐる。道に落ちている刀の形をした鉄片を拾い集める…。
どれも、文化や芸術とはなんの関係もないし、社会的な影響力もない。でもおそらく、理由はよくわからないけど、当時のぼくにとっては必要なことだったのだろう。
「恋空」も、確かに傑作とはいいがたい。ぼく自身もそれほど感動しなかったし、客観的に観ても、後の世になって名作として再評価されるということも、おそらくないだろう。
ただぼくは、だからと言って、この小説をそんなにムキになって批判する気にもなれないのだ。別に誰も芥川賞や直木賞をやれと言ってるわけじゃない。書きたい子が書いて、読みたい子が読んでるだけのことではないか。やれ間違った知識が書いてあるとか揚げ足とりみたいなことを言ってる人もいるけど、そんなのは大した問題とは思えない。子供を騙して金を儲けているという批判もあるが、そういう人たちだって、子供達のやることについて行けない年寄りに受けそうなことを言って金を儲けているとも言える。
また、文学的に新しい手法とまではいかないものの、現代的な感覚を感じるところはいくつかあった。たとえば、あのリズム感を重視した行間の空け方や改行の仕方などはなかなか面白い。恋愛や友達関係の大部分がメールやケータイの会話で進行するのも、伝統的な小説ではなかったことだろう。友達同士がすぐ裏切ったりウソをついたりするのも、その後わりとあっさり仲直りするのも、ぼくの世代の感覚からするとかなり違和感があるのだが、今の子にはそれなりにリアリティを感じられるらしい。だから、これがミヤダイ先生のよくおっしゃるカジョーリュードーセーってやつなのかなあ、なんて思ったりした(^^)。
このような点から考えても、どちらが文学的にすぐれているかという話とは別にして、ケータイ小説が、従来の小説からは得られないなにかを、今の若い子たちに与えている、ということはありそうである。
もちろん、
ぼくだって、この小説ですごく感動したとは言えない…。
でも、
だからといって、やたらムキになって悪口を言う人も、
なんだかキモいと思ってしまったんだ…。
ただ…
ひとつだけ気になること。
それは、ぼくみたいなオヤジがこんなことを書くと、
若い子にモテたいという下心がミエミエだ、
と思われそうなことなんだ…。
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veena という音楽情報サービスに登録してみた。iTunes のライブラリ・データをアップロードすると、それを自動で解析して、その人の好きなアーティストに関する情報を、インターネット上から自動で収集してくれるサービス。
収集できる情報も、普通の CD の新譜情報だけでなく、iTMS や Yahoo! オークションの新着情報も表示してくれるし、アーティスト関連のニュース、アーティスト自身のサイトなども表示してくれる。
ちょっと面白いのは、YouTube の関連クリップを表示する機能で、自分の好きなアーティストに関連するビデオクリップをランダムで再生してくれる、veena! ジュークボックスというサービスもある。
これまで新譜情報に関しては、amazon、HMV、iTMS などもろもろのサイトに登録してお知らせメールを受け取るようにしていたのだが、これからはこのサイトだけで済むかもしれない。しばらく使ってみるつもり。
ちなみに、ぼくのメンバーページはこちら。
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ぼくは、iTune に曲をとりこんだ時に、iTune 上でその曲のアーティスト名を勝手に編集してしまうことがよくあるのだが、最近、これが原因で問題が発生して、少し困っている。
ご存知のように、iTunes では、CD を挿入すると、曲名やアーティスト名などの情報をインターネットから自動的に取得するようになっていて、その曲を iTunes 上で mp3 化しても、その情報はそのまま引き継がれようになっている。また、iTMS からダウンロードした曲には、曲名やアーティスト名などの情報が最初からファイルに設定されている。
したがって、本来 iTunes では、ユーザーがわざわざ曲名やアーティスト名を入力する必要はほとんどない。ただ、このように自動で設定された情報をそのまま使っていると、iTunes のブラウザで特定のアーティストの曲だけを選択したときや、スマートプレイリストなどを作成したときに、必ずしも自分の意図どおりの曲が入ってこないことがある。
たとえば、安田成美の「風の谷のナウシカ」は、ぼくにとっては細野晴臣の曲なので、「[アーティスト] が [である] [細野晴臣]」というスマートプレイリストに入ってほしい。また、HASYMO と YMO とか、半野喜弘と Radiq のように、実質的には同じアーティストなのに、別の名前で曲を出していることもあるし、レイハラカミと Rei Harakami のように、表記上のゆらぎもある。だから、ぼくにとって、こういうアーティスト名の変更は、ほとんど当たり前のように行っていた作業だった。
ところが、最近になって、このようにアーティスト名を変更すると、iTunes のブラウザの中の [アーティスト名] の欄で、同じアーティストの曲が別項目として表示されるという現象が頻発するようになった。
当初は、なぜこのような現象が起こるのかさっぱりわからなかったのだが、いろいろ調べているうちに、iTunes 7.1 で追加された、「アーティストを並べ替え」という機能が原因であることがわかった。
これは、アーティスト名に一種の「ふりがな」を設定する機能で、iTunes 7.1 以降では、[アーティスト] 欄の並べ替えは、アーティスト名そのものではなく、このふりがなの方を基準にして行うようになったらしい。したがって、ユーザーが自分でアーティスト名を変更して同じにしても、この「アーティストを並べ替え」の方を変更しない限り、iTunes のブラウザでは別アーティストとして表示されてしまうらしいのである。
もちろん、この機能自体は、ユーザー側の表示の自由度を高めるという意味で、基本的にはよい機能だと思う。この機能があれば、たとえば、これまでは漢字のコード順に並べ替えられていた曲を、正しく読み仮名の順で並べ替えることも可能になる。
ただ問題は、このデータを編集する際に、アーティスト名とは違って、複数のトラックをまとめて変更できないことである。そのため、10 曲の「アーティストを並べ替え」を統一しようと思ったら、トラックを右クリックしてプロパティを選択してふりがなを記入してOKをクリックする、という作業を 10 回繰り返さなくてはならないのだ! これはさすがにシンドイ。
さらに困ったことに、この並べ替え情報は、iTunes 以外の汎用の mp3 エディタでは編集できない。ちゃんと調べたわけではないが、おそらくこの情報は、mp3 ファイル側ではなく、iTunes 側のデータベースで独自に管理しているのではないだろうか。
おそらく、このままずっと一括編集ができないままということはなく、将来のバージョンでは改善されるのだとは思うのだが、逆に、そもそもなぜ最初から一括編集ができる仕様にしなかったのかが不思議だ。アーティスト名や曲名は一括編集ができているのだから、そういう機能を実装するためのオブジェクトみたいなものは、すでに用意されているはずだと思うのだが(^^)。
とにかく、アップルには、はやくこの仕様を改善していただくことを望みたいが、それを待つまでもなく、何かこの問題を回避する方法をご存知の方がいたら、ぜひ教えてください(^^)。
追記: 実は、「アーティストを並べ替え」を一括で入力する方法があるそうです。原田伸二さんという方からメールでご教授いただきました。ありがとうございます。
たとえば、特定のアーティストの「アーティストを並べ替え」を統一しようと思ったら、まず、そのアーティストのどれか1曲だけを選択して、「アーティストを並べ替え」を入力します。
それから、再度その曲を選択して右クリックします。すると、コンテキストメニューの中に「並べ替えフィールドを適用」というサブメニューが表示されるので、ここから「同じアーティスト」を選択すれば、そのアーティストの「アーティストを並べ替え」が統一されるというわけです。
通常のコンテキストメニューを使ったやり方とはまるで違うので気づかなかったわけですが、これでも一応複数の曲を一括で変更することはできるわけですね(^^)。なぜ複数選択では入力できないのか、という疑問は、依然として残るわけですが(^^)。
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今週の「マル激トーク・オン・ディマンド」のゲストは、渦中の人、岡田斗司夫さんであった。と言っても、収録したのは先週らしく、「いいめも」事件についてはなんの言及もなかったが、お話自体はなかなか面白かった。
もっとも、後半の「見た目主義社会」の話は、申し訳ないけど、表層的であまり深みがないように感じた。面白かったのはやはり、前半のレコーディング・ダイエットの話である。実は、ぼくはまだ「いつまでもデブと思うなよ」という本自体を読んでいないのであるが、自分の禁煙体験と照らし合わせてみても、ハタと手を打つような発言がいろいろとあった。
そこで以下、岡田式レコーディング・ダイエットについてぼく流の解釈を書こうと思うが、その前に、やはり一言書いておかねばなるまい。ここに書いてある岡田式レコーディング・ダイエットに関する説明は、あくまでぼくの勝手な解釈であって、岡田氏の提唱するレコーディング・ダイエットを正しく伝えているとは限りません。と、これでいいよね(^^)?
ぼくは、30 代になってからタバコを吸い始め、5 年間ぐらい吸い続けてから禁煙に成功したという、少し珍しい喫煙歴を歩んだ人間なのだが、そのときに考えたのは、岡田氏と同じく、やはり人間の欲望の構造だった。
そもそも、禁煙したい人間というのは、意識的・理性的にはタバコを止めたいと思っているのだが、無意識的・感性的にはタバコを吸いたいと思っているものだ。この状態を俯瞰して見ると、二つの矛盾する欲望を同時に抱いているということになる。
この状態は、理性偏重の近代主義的な考え方からすれば、理性的な欲望の方が正しく、感性的な欲望の方は間違っているということになるのだろうが、ポストモダン的な考え方からすれば、どちらが正しいとも言えないはずである。
したがって、徹底して近代主義的な人間の場合には、理性によって感性をねじ伏せるという形で禁煙に成功することもあるのだが、ポストモダン的な人間の場合には、タバコが吸えないのに長生きしてもつまらない、どうせ人間いつかは死ぬんだし、みたいな考え方に抵抗しきれないわけである。
しかし、よくよく考えると、そもそも同じ人間が矛盾する欲望を同時に持っているということが論理矛盾なのであって、これは、意識と無意識を別の自己として認識していることによって擬似的に発生する現象にすぎないのである。
元をたどれば、理性的な欲望も、感性的な欲望をより深く満足させるためにあるはずだし、感性的な欲望も、理性によって誘導できるはずなのだから、問題は、両者のフィードバック関係がうまく機能していないことなのである。したがって、このような矛盾は、無意識的な欲望と意識的な欲望の関係をよく整理して正しく捉えなおせば、解消できる可能性がある。
たとえば、禁煙について言えば、そもそも、タバコを止める人はなぜみんな完全に「スパッ」と止めなくてはいけないと考えていて、一日一本だけなら吸っていいみたいな止め方をする人がいないのかが不思議である。
実際には、無意識的な喫煙欲は、たまにはタバコを吸いたいという欲望かもしれないし、意識的な禁煙欲も、肺癌にならない程度にタバコを減らしたいという欲望かもしれない。だとすれば、完全に禁煙するかわりに、喫煙量を減らすことによって、意識的な欲望と無意識的欲望の両方を満たせる可能性があるはずだ。
もちろん、タバコの場合には習慣性があるという事実も見逃せないが、これはおそらく、理性によって感性をねじ伏せるという近代的な自己モデルに囚われすぎているがゆえの勘違いだと思う。
現にぼく自身も、禁煙成功後は、普段はまったくタバコを吸っていないが、たまに飲み会に行くときだけはタバコと 100 円ライターを買っていくことがある。これは前にもどこかで書いたけど、ぼくはあまり社交的な人間ではないため、同席した人と話が盛り上がらないことがあって、そういうときにも、タバコをぷかーっと吹かしているとなんとなくカッコがつくからである。(実は、これこそが、ぼくが喫煙時代に発見した、喫煙の最大の効用である(^^)。)
もちろん、だからと言って、その日を境にタバコを吸いだしてしまうようなことはなくて、翌日からは何事もなかったように禁煙生活を続けられている。これこそ、自分の中の無意識的な欲望と意識的欲望の間の整理がついている証拠であろう。
岡田氏の話の中でも、ぼくが最も感心したアイデアは、食事を残せばよいという話である。ぼく自身もダイエット中によく経験するのだが、たとえば、コンビニに弁当を買いに行って、カツ丼を発見し、一瞬食べたいと思ったものの、カロリー表示を見て諦めて、代わりにもっとカロリーの少ないソバ弁当にしたりすることがある。
これも先ほどの禁煙の話と同じことで、カツ丼を食べたいというのが無意識的な欲望、ダイエットしたいというのが意識的な欲望なのだが、よくよく考えると、カツ丼を食べたいということと、コンビニで売っているカツ丼を一個全部食べたいということはイコールではない。実は、無意識は、ちょっとでもカツ丼の味を味わえれば満足するかもしれないし、そのちょっとは、実はソバ弁当一個よりカロリーが少ないかもしれないのである。
そう考えると、カツ丼を一部だけ食べて後は捨ててしまえば、意識的な欲望と無意識的な欲望の両方が満足する可能性があるわけで、この発想はさすがに鋭いと思った。
誰でも気がつくことだと思うが、このような考え方は、最近流行りの procrastination 対策にも応用できる。ここでも、仕事をサボってダラダラしたいという感性的な欲望と、早めに仕事を終わらせないと後でヒドイ目に合うよという理性的な欲望が対立しているように見えるわけだが、だからといって理性で感性をねじ伏せようとするから、長続きしないのであろう。最近流行のライフハックで提唱している ToDo リストの作成なども、要するに、自分の真の欲望を整理して正しく認識しなおすための技法であると考えられる。
そういう意味で、理性的な欲望と感性的な欲望の関係を整理して、正しく自己認識し直すという手法自体は、いろんな分野に応用できるスキルであると思われる。こう考えると、このような方法が最近まで普及しなかったのはむしろ不思議なぐらいだが、おそらく、理性と感性を分けて考え、理性で感性をねじふせられる奴が偉いとする、近代的なパラダイムが発想の邪魔をしていたのだろうとぼくは思っている。
(読み直してみると、実はフロイト理論とあんまり言ってること変わらんような気も(^^)。)
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コンビニの有線でかわいい女の子がメロンパンの不条理について切々と歌っていたのが気になって、早速検索してみたところ、こういうことらしい。この中で言及している、YouTube にアップされたプロモーションビデオというのが下の動画。このビデオ自体も、「みんなの歌」や「ポンキッキ」みたいな子供番組風で、なかなかよくできてるよね。
ところで、このビデオを検索してる途中で偶然見つけてしまったんだけど、早速この歌詞が嘉門達夫の何かのパクリだみたいに言ってる人がいて、うんざりしてしまった。
この手の安易なパクリ指摘については、以前にもくだくだ書いたので繰り返さないけど、そもそも、こんなものはアイデアというほどの話じゃなくて、誰でも思いつくようなことでしょ? それをいちいちパクリだとかっていうのは、「パンダは何食ってんだ、パンだ」という洒落は林家三平のパクリだから絶対に言ってはいけない、とか言うようなもんであって、そんなもんぜんぜん意味ないんですよ。
著作権を絶対化するな、という話は、いろんな人がもっと理論的に精緻に述べているので、興味のある人は調べて欲しいけど、こんなの、そういう理屈以前に、直感的におかしいと思わんか? そういうイジワルな風紀委員みたいな行動パターン、いい加減やめてくれよな~。ホントに息苦しくて窒息しそうになる。
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知っている人は知っていると思うが、いいメモダイエット事件というのがあった。詳細は検索でもして調べていただきたい(ぼくもそれ以上のことは知らない)のだが、簡単にまとめれば、岡田斗司夫氏が「いつまでもデブと思うなよ」という本で説いたレコーディング・ダイエットという手法を勝手に利用した「いいメモ」というウェブサイト(ちなみに、このサイトに利用は無料だったらしい)ができたことに対し、岡田氏が著作権の侵害を主張したという事件だ。
それに対し、ネット上では、アイデアは著作権で保護されないのではないか、といった批判が出ていたわけだが、今日になって、岡田氏のウェブサイトに、そういう批判に対する回答とも思われる記事がアップされていた。
部分引用は禁じられているようなので、詳細は読んでいただくしかないが、岡田氏が防ぎたいと思っているのは、権利の侵害というよりも、自分の主張がねじまげられて伝えられることらしい、ということはわかったような気がした。もちろん、それはこの記事を額面どおり受け取った解釈で、本当は自分だけで利益を独占したいだけだろ、みたいな解釈をする人は当然いるだろうけど、議論を拡散させないために、ここではあえて額面通り受け取ることにする。
ただ、その手段として、著作権侵害を主張することが妥当であるかどうかは、やっぱり別の話だと思う。それだったらまず、「あなたがたは私の意図を間違って伝えていますよ」ということを伝えて、訂正を依頼したほうがよかったのではないだろうか。もちろん、それはあくまで依頼であって法的な強制力があるわけではないから、相手が無視すればそれまでだが。
でも、法的な強制力がなくてもできる、もっと現実的な方法だっていろいろあるはずで、たとえば、「岡田式レコーディング・ダイエット認定証」みたいなものを勝手に作って発行してしまうという手もある。この方法なら、公権力や相手の協力がなくても自分だけの責任で行え、なおかつ、相手が自分の考えを意図通り伝えているかどうかを明確にアピールできると思うのだが、いかがであろうか(^^)。
もちろん、これはぼくの独創でもなんでもなくて、フランスのワインとか松坂牛とかでもさんざんやっている使い古された方法にすぎないから、岡田さんともあろう人が、それに気づいていないとも思えない。ぼくがこの事件に一番違和感を感じるのもそこで、きわどいパクリや便乗商品の歴史などさんざん知り尽くしているはずの岡田さんが、まるで「純粋まっすぐ君」のような主張をしていることである。だからやっぱり、体重が減ると思考回路にも影響があるのかしら、なんて思ったりもしてしまうのだが(^^)。
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柄にもなく初音ミクの記事など書いたところ、各所でリンクしていただいたらしく、突然トラフィックが増えてしまい、たくさんの方に読んでいただけるのは誠にありがたいことですと建前的にお礼を書きつつ、心の中ではややプレッシャーを感じている Studio RAIN です(^^)。
もっとも、あの記事は必ずしも意をつくしたものとは言いがたく、特に、アマチュアリズムの意義については、一般に意義があると思われている例をあげただけで、なぜ意義があるのかについての価値論な説明を省いているので、あれだけではアマチュアリズムの意義について納得できない読者も多かろうと思う。そこで、芸術一般におけるアマチュアリズムの意義について、少し補足しておきたい。
初音ミクがらみの CGM に関する議論を眺めてみると、CGM の存在意義の判定基準として、CGM はプロの商業作品に匹敵するような芸術的価値を生み出せるか否か、ということをなんの疑いもなく尺度にしている方が多いように思われる。また、これより多少 CGM の意義を積極的に評価している人でも、それはあくまである種の遊びとしての価値であって、プロの芸術とはまったく無関係である、と認識している方が多いように思われる。
しかし、ぼくが認識する、芸術におけるアマチュアリズムの意義というのは、このどちらでもない。 アマチュアリズムの意義は、アマチュアが自ら芸術作品の製作に携わるというその行為自体にあり、結果として生まれてくる作品の質には関係がない(あえてわざわざ「下手糞な」と書いたのはそのためだ)。
また、アマチュアが芸術作品の製作に携わるという行為は、アマチュアの鑑賞力を高めることにつながり、その結果、プロの芸術家がより質の高い作品を生み出す誘引になるはずである。したがって、アマチュアリズムは決してプロの芸術と無関係ではなく、プロの芸術を含む芸術文化全体に貢献するはずだ。これがぼくの主張である。
たとえば、厳密な意味では芸術とは違うが、スポーツについて考えてみよう。プロ野球の商業的価値が、観客の存在によって生み出されていることは言うまでもないが、観客が試合をどれだけ楽しめるかが、観客が持つ野球の知識に依存していることは明らかだろう。もし、遅い球より速い球の方が打ちにくいとか、ど真ん中の球よりコーナーぎりぎりいっぱいの球の方が打ちにくいという知識がなければ、投手と打者の間のかけひきを楽しめないのはほとんど自明だ。
しかし、実はこのような知識も、単に知識として知っているだけでは十分とは言えないのである。実際のスポーツはすべて応用問題であって、真ん中の速い球とコーナーの遅い球ではどっちが有効か、といった複雑な問題の集合体だ。このような問題に答えを与えるのは、実際に試合の中で体験しているプレーヤーの肉体感覚以外にない。
したがって、そのような技術的な問題を観客が本当に理解しようと思ったら、たとえバッティングセンターでもよいから、120 km の球を打ってみるといった経験が必要なのである。そのような経験があってはじめて、それより 30 km も速い球を打つのがどれだけ難しいかということが、実感としてわかってくるはずだ。
つまり、プロ野球というのは、あくまでも、草野球やバッティングセンターで下手なプレーを続けているアマチュア・プレーヤーの延長線上にあり、そのようなアマチュアリズムが存在するからこそ、存在意義を失われずにいられるのだと考えられる。したがって、プロスポーツの価値も、アマチュアスポーツの価値も、スポーツ文化全体の中で考えてこそ、初めて適切に位置づけられるのである。
芸術を鑑賞するという行為の意味は、スポーツよりは少し説明が難しいが、ぼくはやはり、作り手の製作過程を追体験することが鍵だと考えている。たとえば、音楽にしてもそうだ。ぼく自身も子供の頃はそうだったが、今では音楽に一家言あって、オーケストラのどのパートでもきちんと聞き分けられる人でも、かつては、パートの聞き分けができない時期もあったはずである。
ところが、そのような段階で認識されている楽音というのは、単なるフーリエ変換のスペクトルのようなものにすぎないので、対位法やコードとメロディの絡み合いの面白さなどわかるはずもない。そのようなスペクトルからさまざまなパートを聞き分けることによって、初めて音楽の面白さがわかってくるわけだ。つまり、音楽を鑑賞するということは、音楽が製作される過程を逆算して追体験することと同じなのである。
(直接スペクトルを操作して創作を行うという、スペクトル楽派のような方法論が存在することも知っているが、たとえこのような音楽であっても、鑑賞者にとっては、やはり製作者がロジカルに行っている製作過程を追体験することが重要であるとぼくは考えている。)
だからこそ、音楽の鑑賞力を高めるためには、楽器を操ってみたり、作曲の真似事をしてみたりして、自ら製作の過程に携わってみることが決定的に重要なのである。 ぼく自身も、(最近は忙しくてやっていないが)キーボード演奏や DTM を趣味にしていたことがある。もちろん、他人様にお聞かせできるような水準の作品はほとんど生まれなかったが、このような経験によって、芸術を見る眼は明らかに変わったことを実感している。
このように考えると、芸術におけるアマチュアリズムの重要性というのは、ほとんど自明なようにも思えるのだが、なぜその重要性が多くの人から忘れられてしまったのだろうか。それはおそらく、産業革命以降の社会の分業化に理由があると考えられる。
もともと、中世以前の社会では、生産者と消費者の区別は、それほど明確ではなかったはずである。王侯貴族はともかく、一般庶民にとっては生活必需品のほとんどが自家製でまかなわれ、市場で購入されるのは、一部の特殊な商品だけであったに違いない。
「大草原の小さな家」シリーズの前半なども、時代的には中世とは言えないが、生活必需品のほとんどがが自家製であったことがうかがえる。中でも印象深いのは、この家のお父さんがバイオリンの演奏を愛好し、その演奏を一家で楽しんでいることであり、この頃には、芸術もまさに自家製であったことがうかがえるのである。
その後、産業革命や分業化により、生産者と消費者は商品ごとにはっきりと分かれることになったが、芸術分野においてプロとアマチュアが明確に分化したのも、おそらくこのときではなかっただろうか。さらに決定的な出来事は、複製芸術の普及である。これにより、少数の天才芸術家が作り出した作品を、多くの一般大衆が購入して鑑賞するということが可能になり、芸術作品が市場で他の商品と同じように流通するようになったわけだ。それとともに、自家製芸術に対するニーズも失われていったのだろう。
しかし、勘のいい人はすでにお気づきのように、芸術作品と他の商品では、その効用の認識過程に決定的な違いがある。芸術作品では、先に述べたように、製作の過程を追体験することによって効用が生み出されるが、一般の商品はそうではない。たとえば、歯ブラシの価値を知るために、歯ブラシの製造工程を知る必要があるかと言ったら、そんなことはまるでないわけで、歯ブラシの価値は使ってみて便利かどうかだけでほぼ決まる。
それが証拠に、歯ブラシ界には、下手糞だけれども趣味で歯ブラシを作り続けるアマチュア歯ブラシ職人などほとんどいないし、そのようなアマチュアの存在に業界が依存しているなどという話も聞いたことがない。つまり、歯ブラシ業界は、実用的な歯ブラシの使用価値だけで十分存続しうるのであって、そこが、スポーツや芸術と根本的に異なるところなのである。
もちろん、工芸品などになると、生産過程を知ることによってさらなる付加価値がわかってくるということもあるのだが、それはむしろ、使う側の見方の問題で、使う側があえて、商品を単なる道具ではなく芸術作品として認識しているということになるわけだ。
つまり、芸術活動は本来、完全には生産側と消費側に分離できないはずなのだが、近代以降、擬似的に一般商品と同じように扱われるようになった。その結果として、芸術におけるアマチュアリズムの意義が、軽視されるようになったのではないかと考えられるわけである。
このことにはもちろん功罪があって、だからこそ、多くの庶民が天才芸術家の作品に直接触れることができるようになったわけだが、その一方で、鑑賞力の低下による商業芸術の通俗化を招くことにもなった。たとえば、家元制をとっているような伝統芸能では、現在でも製作と鑑賞が分業化されていないところが多々ある。もちろん、それが商業的な成功をもたらしているとは言いがたいかもしれないが、だからこそ通俗に堕することが防がれているとも言える。
ぼくは必ずしも Web2.0 マンセー派ではないのだが、CGM というものを、近代以降軽視されていたアマチュアリズムの復権として位置づけることは可能ではないかと思うのだ。おそらく、多くの人が指摘するように、CGM で生み出される作品のほとんどはくだらない作品であるに違いない。しかし、それを恐れる必要はないのであって、くだらない作品を生み出すという活動の集積こそが、芸術文化全体を下支えし、結果としてより高度な芸術作品の誕生に貢献するのはずなのである。
ちなみに、初音ミクを開発したクリプトン・フューチャー・メディア社長の伊藤博之氏もぼくと同じような歴史観をお持ちのようなので、最後に引用させてもらうことにする。
人間はそもそもプロシューマだと思うんです。原始時代から、自分たちでモノを作り、消費しているわけですから。しかし、個人ですべてを行うのは効率が悪いので、分業が進み、都市が形成され、経済システムが構築されました。
ただ、この一連の人間社会の発展は、CGM(消費者生成メディア)の登場で折れ曲がったような印象を持っています。そもそもプロシューマだった人間が、生産者と消費者に分かれ、なぜかそこには大きな溝までできてしまっています。
その違和感が顕在化し始めており、CGMの登場をきっかけとして、人類の歴史をさかのぼるというような動きが生まれているのではないでしょうか。例えば、著作権というテーマで考えれば、「クリエイティブコモンズ」のようなものができ、生産者と消費者の切り分けを気にせずに著作物を活用していこうというような流れです。
こうした流れは都市の見直し、さらには経済システムの見直しというところまで進むのではないでしょうか。おそらくCGMの本質は、「みんなで何かを作って楽しいよね」というところにあるのではなく、社会全体の在り方を変えていくというところにあると、わたしは思っています。
(追記: 以前に斉藤美奈子氏の「文章読本さん江」を批判したときにも同じような論法でアマチュアリズムを擁護していたのを思い出したのでリンクしておく。歯切れが悪く見えるかもしれないけど、このように、意外としつこく首尾一貫してるのである(^^)。)
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「ジャンクSPORTS」というのは、ご存知の方も多いと思うが、ダウンタウンの浜田雅功がメイン MC をつとめ、ゲストに迎えたトップアスリート達をヒナ壇芸人よろしくいじり倒すという番組である。
ダウンタウンファンのぼくはもちろん、この番組自体好きでよく観ているのだが、中でも前から気になっているコーナーが一つある。それは、「スポーツ・ファンタスティック」の中の「ジャンクスポーツPR大作戦」 というコーナーである。
これは、たとえばビーチバレーの浅尾・西堀ペアとか、F1 の鈴木亜久里のチームとかに、 ジャンクSPORTSの番組のロゴの入ったものを着用してもらったり、F1 のマシンにステッカーを貼らせてもらったりして、ジャンクSPORTSという番組をタダで宣伝してもらおうという、超ずーずーしい企画、のはずなのだが…(^^)。
でも、冷静に考えると、平均視聴率 10% 程度を稼ぐジャンクSPORTSの方が、ビーチバレーや F1 レースの試合より、メディアとしてのリーチは大きいはずである。普通、広告というものは、リーチの小さいメディアがリーチの大きいメディアに出すものだが、この企画では、それが逆になっているのである。
つまり、見かけ上は、ジャンクSPORTSが他のスポーツに宣伝してもらっているように見えるが、実質的には明らかに、ジャンクSPORTSの方が他のスポーツを宣伝することになっているのである。深読みかもしれないが、それをあえて、「宣伝してもらっている」と表現するところに、ぼくは番組スタッフの美学のようなものを感じて、心の中でニヤリとしてしまうのだ。
もっと深読みすれば、このやり方は、いつも宣伝「してやって」いるのだから、という事実を免罪符にして、いざとなると芸能人やアスリートのプライバシーを暴き立てて食い物にしている、他の芸能マスコミやスポーツ・ジャーナリズムに対する批評にもなっていると思うのだ。
このようなイエロージャーナリズムの問題点は、ルールというよりむしろ美学の欠如にあるので、論理的な言語では批判しにくいところがある。したがって、そのような美学のなさを批判するには、より美学のあるモデルと対比することが最も効果的なのである。
そういう意味で、ジャンクSPORTSのスタッフの方々には、今後もぼくの深読みを裏切らないようにがんばっていただきたいものである(^^)。
(ダウンタウンのことを下品な芸人だと思っている人もいるようだが、この例でもわかるように、ぼくは、彼らには強い美学的なこだわりがあると思う。もちろん、それを美しいと感じられるかどうかは、人それぞれだと思うが(^^)。)
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久しぶりにはてなを除いてみたら、初音ミク現象を批判して叩かれてる人を見つけた。文章の妙なところに力が入っていたり、オタク嫌いが露骨に表明されていたりするところは、華麗にスルーするにしても(^^)、ぼくもやはり、論旨にいろいろと納得がいかないところがあるので、なるべく他の意見と重複しないように指摘してみたい。
まず気づくのは、この人のツールの評価基準というのが、あまりに「芸術的意義」に偏りすぎていることだ。端的にそれが現れているのは、「想定外の使用法が生まれなければだめだ」という発言だ。
しかし、ちょっと冷静に考えてみればわかるはずだが、直接的に芸術的価値を生み出すツールだけが芸術的価値に貢献するとは限らない。たとえば、デジタル音楽の最も基本的なツールであるシーケンサーにしろハードディスクレコーダーにしろ、基本的にはメーカーの想定内の使い方しかされていないが、それで十分に製作の効率化や低コスト化に役立っている。
この人は、効率化や低コスト化なんて芸術的価値とは関係ないと考えているのかもしれないが、実際には、効率化や低コスト化による無駄な負担の減少は、間接的に芸術家のクリエイティビティを向上させ、結果としてより優れた芸術の誕生に貢献しているはずであり、その比率はおそらく、この人が挙げているようなギミック的な使い方の貢献度よりよっぽど大きいはずなのである。
たとえば、写真家の荒木経惟氏はコンパクトカメラを愛用していたそうだが、その理由は、画質がいいとか面白い効果があるとかいうものではなく、単に気軽に撮れるからということだったはずだ。しかし、その気軽に撮れるということが、間接的に芸術的価値を生み出したのだろう。
同じように、人件費もかからず生身の人間では耐えられないような酷使にも耐えられるボーカロイドは、習作やプリプロダクションの低コスト化によって技術を向上させることに役立つだろうし、実作品においても、ボーカルを低コスト化した分他のパートに金をかけることによって作品全体の質を向上させるといった柔軟性をも可能にするだろう。
次に気づくのは、この人のアマチュアリズムの軽視である。そもそも、芸術という文化は、製作・鑑賞・批評の三つがあってはじめて成立するのであって、その意味で、下手糞なアマチュアが作品を作るという行為にも、十分な芸術的な意義がある。なぜなら、自ら作るという過程を経ることで、はじめて見えてくるものがあるからだ。
でなければ、小中学生に下手糞な絵や作文を書かせることになんの意味があるというのだ。教育ではなく、単に才能のない人間を振り落とすためだけのシステムだ、ということになってしまうではないか? あるいは、年寄り連中が下手糞な俳句や川柳を作って楽しんでいるのは何の意味があるというのだ。単なる自己満足でしかないとでも言うのかな?
このように、プロの商業芸術だけでなく芸術文化全体を視野に入れれば、アマチュアでも手軽にボーカルの入った DTM を製作することを可能にするボーカロイドは、芸術文化に対して十分な貢献ができると言えよう。
最後に、この人が言ってるような芸術的価値を生み出す可能性だって、まったくないとは言えないんじゃないかな。技術の詳細を調べていないのでアレなんだが(^^)。
たとえば、「Last Emperor」のサントラに収録されていて、いまや坂本龍一の代表曲にもなっている Rain という曲があって、これはわりと有名な話だと思うけど、教授はよくこの曲について、「最初はシンセ(Proteus かなんか)のストリングスが入っていたんだけど、ベルトルッチが嫌だというんで生のストリングスに差し替えた。でも、絶対にシンセの方がよかった」みたいなことを言っていた。
これは、シンセの音が個性的だからというような理由ではなく、シンセの方が下手なオーケストラよりもアタックやリリースを自由に調節できてリズム感が出るからだ、というような理由だったはず。もちろん、生で録音した素材をサウンド・エディットで修正することも可能だろうけど、ボーカロイドの方がずっと効率的に同じようなことができる可能性はあるだろう。
(ご存じない方もいるかもしれないが、映画音楽なんかでは、プロが本格的にシンセ・ストリングスを使った作品は結構いろいろある。PSY・S の松浦雅也氏が手がけた「スウィート・ホーム」のサントラなんかも、すべてフェアライトで作ったらしい。これなんかも、よく聴くと生でないことはわかるが、必ずしもそのせいで質が低下しているという気はしない。「Shadow's Trap」なんていう曲では、むしろ、機械ならではのアタックの早さが効果的に生かされている。あるいは、野見祐二氏の手がけた「耳をすませば」なんかも、サントラの方は生だが、イメージアルバム の方はたぶん基本的にシンセ・ストリングスである(「地球屋にて」などは除く)。久石譲氏も「Kids Return」とか「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体」なんかは多分ほとんどシンセ。細野晴臣氏の「