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伝統音楽は「現代音楽」を目指す

 伝統音楽の進むべき方向、将来のあるべき姿とは、どのようなものだろうか? 筆者は自分なりに長年折に触れて考え続けてきたのだが、最近ようやく一つの道筋が見えてきたので、それを世に問うてみたい。その趣旨自体は、他の伝統芸能や文化一般にも応用できるはずだが、話が散漫になるのを防ぐため、本稿では基本的に、筆者が比較的詳しい音楽分野に話を限定する。

 筆者は音楽の専門家でもなんでもなくて、アマチュア音楽愛好家にすぎないので、先行研究の体系的な調査などはしていない。だから、この記事に書いたようなことは、とっくに誰かが言ってることかもしれない。いや、きっと誰かが言ってるだろう。ただ、ネット上の音楽関係の記事をざっと眺めた範囲では、このような主張が一般に共有されているとは言いがたいように思う。だから、私のような素人が素人にわかるような文章で書いておく意味もあるんじゃないかと思う。

 以前に書いた「十二音技法は調性からの解放ではない」 は、この過疎ブログとしては驚くほど多くの方に読んでいただけたようで、筆者自身がびっくりしてるぐらいだが、これなんかも、たぶん同じようなことを考えてる専門家はたくさんいたと思う。ただ、それをわざわざ一般向けに書いた人はあまりいなかったのだろう。この記事でも同じような線を狙ってみたい。

・伝統は「保存」するだけでは守れない

 そもそも伝統を守るとはどういうことだろうか? 伝統音楽も一種の伝統であるから、まず伝統を守るという行為一般について、筆者の考えを述べておく。

 浅はかな保守主義者にありがちなのは、伝統はとにかく問答無用で守るべきという態度だ。伝統は伝統であるがゆえに正しい。伝統を疑ってはいけない。とにかく先人のやり方を完全に踏襲すればよい、というような態度。

 これがなぜダメかは、そもそもなぜ伝統に価値があるのかを思い出してみればわかる。伝統に価値があるのは、歴史の中で時間による淘汰を経ているからではなかったか? その「淘汰」を行ってきたのは誰か。他ならぬ各時代を生きる人々ではなかったか? 各時代の人々は、生活の中で絶えず「伝統」の再評価を続けてきた。それでも生き残っているからこそ、伝統には価値があるのではなかったか。

 つまり、逆説的であるが、多くの人が伝統の再評価を止め、問答無用で従うようになった瞬間から、伝統は価値を失い滅びの道を歩むのである。伝統を守るとは、同時代の人間が絶えず伝統の再評価を続けることなのだ。底の浅い保守主義者の多くは、この点を勘違いしているように思われる。

 たとえば、古代の美術品のような「モノ」だけなら、博物館のケースの中に陳列しておけば、「保存」することはできるだろう。しかし、伝統音楽のような古典芸能には、プレーヤーが必要である。

 言うまでもないことだが、プレーヤーは単なるコピーロボットでは意味がない。作品の価値を理解し、強く弾くべきところや早く弾くべきところを自分で判断できなければならない。そして、その判断を行っているのは、現代人の感性であり、頭脳であり、身体なのである。

 つまり、現代人が古典作品を再演するということは、必然的に現代人による作品の再評価・再解釈を伴うのである。再評価のない単なるコピーロボットによる演奏は、博物館のケースに「保存」された遺物と同じだ。それは最早生きた文化ではない。

・西洋音楽との「融合」に未来はあるか

 しかし当たり前の話だが、理屈はそうだとしても、具体的にどうすればいいかが難しいのだ。伝統音楽を現代的に再評価するとは、いったいどうすればいいのか。

 伝統音楽を「現代化」しようとする試みは、これまでも腐るほど行われてきた。ありがちなパターンは、西洋音楽を部分的に取り入れる方法である。伝統音楽の曲を西洋音楽の楽器で演奏するとか、逆に、伝統音楽の楽器で西洋音楽の曲を演奏するとか。

Boheme 80 年代後半~90 年代前半にはワールド・ミュージックのブームというのがあり、ワールド・フュージョンとかエスニック・フュージョンとか呼ばれる、伝統音楽と西洋音楽をより高次元で融合させるさまざまな試みが行われた。

Mcmxc a.D. その中には優れた作品も多い。筆者自身も、Deep Forest Enigma なんかは愛聴したし、教授(坂本龍一)や細野さん(細野晴臣)のエスニック調の作品にも好きなものは多い。最近でも、久保田麻琴さんのやってる Blue Asia などは、アジアの伝統音楽を現代的な洗練されたアレンジで提供するという試みを続けている。

 このような試みの意義は、もちろん、決して過小評価すべきではない。しかし、これが伝統音楽の進むべき方向を示しているかというと、ちょっと違うような気がするのだ。単なる物珍しさを狙ったノベルティ作品は論外としても、より洗練された高度な融合音楽も、やはり、伝統音楽を西洋音楽に合わせて捻じ曲げることによって成り立っており、伝統音楽本来の潜在的な可能性を素直に伸ばしたものではないと思うのだ。

 もっと具体的に言うと、このような融合音楽の多くは基本的に、西洋の調性音楽の枠組みに伝統音楽の要素を組み込むことによって成り立っている。つまり、現代人の耳に慣れた調性音楽というオブラートで、伝統音楽の耳慣れなさを誤魔化しているのだ。生野菜にドレッシングやチーズをかけて食べさせているようなもので、野菜本来の味を全面的に生かしているとは言いがたい。

 これが伝統音楽の未来だとするなら、スタイルとしての伝統音楽自体はやはり衰退の道をたどり、西洋音楽のテクニックとしてのみ生き残ることになるのかもしれない。それが運命なのだろうか。

・現代音楽作曲家による伝統音楽の試み

 このように考えて、伝統音楽の未来について半ば悲観的になっていた筆者の蒙を啓いてくれたのは、やはり優れたアーティストによる具体的な作品であった。

 実は、伝統音楽の再評価という試みは、上記のようなポップスだけでなく、現代音楽の分野でも行われてきた。「現代音楽」と言っても、もちろん文字通りの現代の音楽という意味ではなく、クラッシックで言うところのいわゆる「ゲンダイオンガク」のことだ。

武満徹:秋庭歌一具  たとえば、武満徹という、日本を代表する現代音楽の作曲家がいるが、この人の作曲した「秋庭歌一具」という新作雅楽がある。 この曲は一瞬聴いた感じでは、伝統的な雅楽とあまり変わらないのだが、よくよく聴くと現代的な響きが取り入れられていることがわかる。

Tango:Zero Hour  あるいは、アストル・ピアソラという人がいる。 この人は現代音楽やジャズの素養をベースにして、モダン・タンゴを創始した人である。この人の作品も、私のような人間が一瞬聴いただけでは伝統的なタンゴと同じように聞こえるのだが、よく聴くとモダンな響きがあって、伝統的なタンゴとは異なることがわかる。

 あるいは、ルー・ハリソンアメリカン・ガムランなども、このような試みの一つに挙げてもいいかもしれない。

 先に挙げたポップス分野のワールド・ミュージックと、このような現代音楽作曲家による伝統音楽作品との、本質的な違いはなんだろうか。

・現代音楽の最先端は伝統音楽に近づいている

 その違いは、大雑把に言えば、「調性」をベースにしているかどうかにあると思う。ポップス分野のワールド・ミュージックの多くは、先に述べたように、調性自体を捨て去るところまでは行っていない。それに対して、現代音楽作曲家の伝統音楽作品は、調性自体を捨て去ることも厭わない。

 現代人の多くは、調性音楽に耳を慣らされているので、調性を音楽のグローバル・スタンダードのように感じがちだ。しかし、調性はもともと西洋ローカルな様式であって、坂本龍一の言を借りれば、「ヨーロッパの民族音楽」のスタイルに過ぎない。

 一般にはあまり知られていないかもしれないが、実は、調性音楽の相対化を最も積極的に行ってきたのは、他ならぬ 20 世紀以降の西洋音楽(=ゲンダイオンガク)の作曲家たちなのだ。その過程で現れた方法論こそが、新しい旋法音律の導入なのであり、これは西洋音楽を世界各地の民族音楽により近づけることになった。

 ここで誤解しないで欲しいのだが、彼らのやったことは、よくある単なる文化相対主義にとどまらなかった。つまり、西洋の調性も民族音楽の旋法も、どっちも一つの価値観だよね、という場所にとどまらなかった。彼らはそれを超えて、調性と旋法を統一的に扱う理論や、まったく新しい旋法を生み出すための理論の創出が試みた。音律についてもそうである。西洋の純正律平均律と民族音楽のペロッグスレンドロを統一的に扱う理論や、まったく新しい音律を生み出すための理論の創出を試みた。それがたとえば、移調の限られた旋法であったり、ピッチクラス・セット理論であったり、微分音音階の理論だったりするわけだ。

 このように、西洋音楽と伝統音楽を統一的に扱えるより包括的な音楽理論をベースにしているため、先に挙げたような現代音楽作曲家による伝統音楽作品は、伝統音楽を調性音楽に合わせて捻じ曲げることなく、より現代的な豊かな響きを実現することに成功していると思われる。

・伝統音楽は「現代音楽」を目指せ

 ここまでくれば結論はおのずと見えてくる。伝統音楽を現代化するにはどうすればよいかについて、筆者自身はもちろん、たぶん多くの人も勘違いをしていたのだ。多くの人が、伝統音楽を現代化するには、西洋ローカルである調性音楽に擦り寄るしかないと思い込んでいた。しかしそんなことはなかったのだ。

 それは「西洋=新しい」「日本=古い」という後進国独特のコンプレックスの産物でしかなかった。このコンプレックスが、伝統を守るか西洋に擦り寄るかという、偽りの二項対立の中に私たちを閉じ込めてしまったのだ。

 考えても見て欲しい。たとえば江戸時代三百年の間、歌舞伎や長唄のアーティストたちは、単に伝統を守ることだけを考えていたんだろうか? そんなはずはない! 彼らは彼らなりに絶えず新しい可能性を求め、伝統の再評価を繰り返してきたはずだ。

 単に伝統を「保存」するのでもなく、西洋ローカルの調性音楽に擦り寄るのでもなく、伝統を再評価した上で新たな伝統音楽を生み出すことは可能である。それは先に挙げたような作品が証明している。あくまで比喩であるが、あえて図式化すれば次のようになる。

伝統音楽の未来.jpg

 そういうわけで、この記事のタイトルの「伝統音楽は『現代音楽』を目指す」には、伝統音楽に「ゲンダイオンガク」の成果を取り入れるべき、という意味と、伝統音楽を絶えず再評価して「現代の音楽」であり続けることを目指すべき、という意味と、二つの意味が込められている。

  

 ちなみに、上の動画は教授(坂本龍一)が主催している Commmons Schola という音楽全集の中の、アフリカの伝統音楽を紹介した「Traditional Music in Africa」 という巻の補講動画であるが、この動画の 13:40 あたりで分藤大翼先生が、「これは同時代の音楽なんだ」という話をしている。我田引水かもしれないが、これはまさに今私が書いたような話で、我が意を得たりという気持ちになった(この CD 自体も素晴らしい録音なので、アフリカの伝統音楽に興味を持つ方には是非お勧めしたい)。

 日本の伝統音楽も、是非「現代音楽」であり続けることを目指して欲しい。

・不毛な二項対立に終止符を

 ここまでは話をあえて音楽に限定してきたが、最後に少しだけ文化一般について書く。近年の日本は、グローバル化の影響を強く受けてきた。同時にその反動で、文化保守主義の勢力も強くなって来ているようだ。その結果、伝統文化対西洋文化という二項対立が、改めてクローズアップされている。

 しかし先ほど論じたように、このような二項対立は、もともと西洋コンプレックスによって生み出された偽りの対立であり、擬似問題にすぎない。もちろん、西洋コンプレックスの強かった時代には、このような問題設定は避けがたいものだったかもしれない。しかし、現代の日本人には、最早それほど抜きがたい西洋コンプレックスがあるとも思えない。

 現代の日本人になら、西洋文化に問答無用で追従するのでもなければ、伝統文化を問答無用で死守するのでもなく、伝統文化と西洋文化をフラットに捉え、守るべきものは守り、取り入れるべきものは取り入れるという、ある意味当たり前の態度がとれるはずだ。だから、伝統文化対西洋文化という不毛な二項対立で物事を論ずるのは、いい加減止めようではないか。

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