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「けいおん!」論序説

 最近このブログでちょくちょく「けいおん!」に言及しているのは、別に、サブカルチャーに理解のあるフリをしたいからでも、若者に媚を売りたいからでも、カルスタ的な興味からでもない。たまたま見て素直に気に入ったからである。

 私は実は最近のマンガやアニメについてはよく知らない。若い頃は確かにオタク第一世代の一人だったと思うが、最近ではオタクを名乗る資格があるかどうかも疑わしい程度にしか見ていない。

 私は世間で差別的なステレオタイプが流行ると、そのステレオタイプを自称したがる悪癖があるので、自分のことをオタクだとか引きこもりだとか草食系だとか言ってるけど、本物の人から見れば、お前なんかと一緒にされたくないよ、と言うかもしれない。

 だからゼロ年代のマンガやアニメを総括して何か言うほどの知識はないのだけれど、自分の見た範囲で言えば、これは旧世代の人には絶対作れない新世代の作品だ、と感じたのは「よつばと!」と「けいおん!」だけである。

 いつものように簡単に感想を書いて終わりにしないのも、それだけこの作品の歴史的意義を高く評価しているからだ。何か書くにしてもおいそれとは書けない。他の文化人や知識人がこの作品をどう論じているかもサーベイしてから書きたい。そんな面倒なこと滅多にしないのだが。

 吾妻ひでお御大がこの作品をフェティシズムだと言ったそうだ。確かにそう言いたくなるところはあるのだが、必ずしも性的なフェティシズムではないのだ(むしろこの作品では、性的な表現は極めて抑制されていて、それもこの作品を語る上で重要な論点なのだが、今回は省略)。その意味では「萌え」かどうかも怪しくて、むしろディティールへの愛とでも言った方がよいと思う。

 そう。この作品はディティールへの愛に溢れている。ちょっとした表情や仕草から、楽器や食器やお菓子、風景や季節感の表現に至るまで。だからそれが感じ取れない人にとっては、この作品は単に平凡な人物が平凡な日常を過ごすだけの作品でしかないだろう。しかしそれを感じ取れる人にとっては、この作品はキラキラとした輝きに満ちている。実際多くの人がそれを感じ取ったからこそ、これだけの人気を博したのだろう。

 Wikipedia の「空気系」の項目を見ると、物語性や恋愛の要素を排除していった結果として「空気」だけが残ったみたいな書き方をしている。だけど「けいおん!」に関して言えば、この説明はちょっと倒錯していて、ディティールの魅力を描くという目的が先にあって、そのために邪魔になる要素を相対的に抑制していったと言う方が正確だと思う。その証拠に、邪魔にならない範囲では、物語や成長の要素もちゃんと残っている。

 このようにディティールの魅力だけで作品を評価することに違和感を感じる人もいるかもしれない。でもかの宮崎駿御大だって、一番の魅力はキャラクターの生き生きした動きだと思う。二番目が腐海の生物に代表される奇怪な想像力。思想性やテーマ性は三番目ぐらいだろう。少なくとも、私が「未来少年コナン」を見て初めて宮崎駿を「発見」したときに、心を鷲掴みにされたのは、コナンが足の指で飛行機に掴まったり三角塔から飛び降りたりする動きの魅力だった。

 宮崎駿の映画で私が最も好きなのは「となりのトトロ」なのだが、この映画にも実はたいしたドラマはない。ただありふれた自然の魅力がキラキラと輝くように描かれているだけだ。だから極端に言えば、「けいおん!」は「となりのトトロ」の手法で描かれた女子高生の日常だと言えるかもしれない。

 もちろん、ディティールを生き生きと表現するための技術も無視できない。京都アニメーションの技術力は、ハルヒを見たときから高く評価していたのだが、「けいおん!」でその頂点に達した感じだ。おそらくデジタル的な製作手法や CG なども大幅に取り入れているのだろう。昔ながらのセルアニメでは絶対ありえないようなシーンが頻繁に出てくる。

 ただ、そういう最先端の技術をこれ見よがしにひけらかしたりせずに、従来のアニメ表現の文脈に自然に溶け込ませているのが京アニのいいところだ。だからパッと見には差がわかりにくいのだが、「けいおん!」を見た後で昔のテレビアニメとか見ると、ほとんどオモチャみたいに見えてしまう。そのぐらいの技術の差がある。

 だから、「けいおん!」の魅力は HD で見ないとわからない。ビットレートを落として録画したりすると、魅力が半減してしまう。これは従来の安っぽいアニメにはなかったことだ。山形浩生はかつてコンテンツにはふさわしい解像度があるはず、と書いていたが、その意味では「けいおん!」はまさに HD の容量を生かしたアニメだと思う。

 我田引水になるが、以前私はこのブログで、現代の個性偏重の風潮を批判する記事を書いたことがある。要約すればこんな主張だった。現代では「個性」が大切だと言われるが、市場で評価されるような「個性」は実は限られている。ほとんどの人の「個性」は、ホクロがあるとか片目がちょっと大きいみたいな、何の役にもたたないような単なるランダムな差異ばかりだ。しかし個人の私的な関係においては、そういうランダムな差異を愛しうるはずだし愛するべきだと。

 その観点からすると、「けいおん!」の登場人物はちっとも「個性的」ではない。描き分けは成されているけれど、あくまで「キャラ」的な類型の範囲にとどまっている。唯の絶対音感や紬の怪力などの特殊能力も、あくまで自分の友達にも居そうな範囲にとどまって、決してその能力を生かして経済的に成功したり世界を救ったりはしない。

 「けいおん!」の作り手は、どこか人工物めいた「個性」なんかに頼らずに、どこにでもいそうな平凡な人間を魅力的に描くという課題に挑戦して、見事に成功している。それが私を激しく感動させるのだ。

 さらに我田引水を重ねるが、私はこのブログで、山崎正和の「柔らかい個人主義の誕生」の影響を受けて「消費の美学」ということを言い続けてきた(最近「近代の復権」を読んでいたら、松尾匡氏も似たような主張をしていることに気づいたが、今回は省略)。正確には山崎氏の本を読んで欲しいが、思いっきり大雑把に要約すると、消費が生産の手段化していてはダメで、消費自体を目的とした消費の豊かさを追求すべき、という主張だ。

 その観点からすると、「けいおん!」の登場人物が最も大切にしているのは、なんと「お茶の時間」なのである。これはまさに山崎正和の言う消費のための消費に他ならない。もちろんバンドの練習やコンサートのような「生産的」な活動もしているのだが、彼らはそのために「消費」を犠牲にしたりはしない。そのように生産と消費のバランスのとれた生活を魅力的に描いていることも、私を激しく感動させる。

 こうやって見ると、私がこの作品を好きになるのは当然だし、自分の思想的一貫性を守るためにも、断固として褒めねばならない。褒めるべきだ。褒めます。

 希望的観測も含めて言うと、こういう作品を見て育った世代は、「個性」や「仕事」に対する変なこだわりを捨てて、それまでの世代には乗り越えられなかった壁も、軽々と乗り越えて行けるようになるかもしれない。そんな希望を感じさせる作品である。

 ほんの「序説」のつもりだったのに、随分長くなってしまった。学術書には「序説」というタイトルの本が多いが、その続編が書かれることは滅多にない。その理由を大学院まで行った友人に尋ねたら、「きっとみんな、『序説』を書いただけで力尽きちゃうんだろうね」と言っていた。そうならないようにしたいものだ。

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