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「けいおん!」論序説

 最近このブログでちょくちょく「けいおん!」に言及しているのは、別に、サブカルチャーに理解のあるフリをしたいからでも、若者に媚を売りたいからでも、カルスタ的な興味からでもない。たまたま見て素直に気に入ったからである。

 私は実は最近のマンガやアニメについてはよく知らない。若い頃は確かにオタク第一世代の一人だったと思うが、最近ではオタクを名乗る資格があるかどうかも疑わしい程度にしか見ていない。

 私は世間で差別的なステレオタイプが流行ると、そのステレオタイプを自称したがる悪癖があるので、自分のことをオタクだとか引きこもりだとか草食系だとか言ってるけど、本物の人から見れば、お前なんかと一緒にされたくないよ、と言うかもしれない。

 だからゼロ年代のマンガやアニメを総括して何か言うほどの知識はないのだけれど、自分の見た範囲で言えば、これは旧世代の人には絶対作れない新世代の作品だ、と感じたのは「よつばと!」と「けいおん!」だけである。

 いつものように簡単に感想を書いて終わりにしないのも、それだけこの作品の歴史的意義を高く評価しているからだ。何か書くにしてもおいそれとは書けない。他の文化人や知識人がこの作品をどう論じているかもサーベイしてから書きたい。そんな面倒なこと滅多にしないのだが。

 吾妻ひでお御大がこの作品をフェティシズムだと言ったそうだ。確かにそう言いたくなるところはあるのだが、必ずしも性的なフェティシズムではないのだ(むしろこの作品では、性的な表現は極めて抑制されていて、それもこの作品を語る上で重要な論点なのだが、今回は省略)。その意味では「萌え」かどうかも怪しくて、むしろディティールへの愛とでも言った方がよいと思う。

 そう。この作品はディティールへの愛に溢れている。ちょっとした表情や仕草から、楽器や食器やお菓子、風景や季節感の表現に至るまで。だからそれが感じ取れない人にとっては、この作品は単に平凡な人物が平凡な日常を過ごすだけの作品でしかないだろう。しかしそれを感じ取れる人にとっては、この作品はキラキラとした輝きに満ちている。実際多くの人がそれを感じ取ったからこそ、これだけの人気を博したのだろう。

 Wikipedia の「空気系」の項目を見ると、物語性や恋愛の要素を排除していった結果として「空気」だけが残ったみたいな書き方をしている。だけど「けいおん!」に関して言えば、この説明はちょっと倒錯していて、ディティールの魅力を描くという目的が先にあって、そのために邪魔になる要素を相対的に抑制していったと言う方が正確だと思う。その証拠に、邪魔にならない範囲では、物語や成長の要素もちゃんと残っている。

 このようにディティールの魅力だけで作品を評価することに違和感を感じる人もいるかもしれない。でもかの宮崎駿御大だって、一番の魅力はキャラクターの生き生きした動きだと思う。二番目が腐海の生物に代表される奇怪な想像力。思想性やテーマ性は三番目ぐらいだろう。少なくとも、私が「未来少年コナン」を見て初めて宮崎駿を「発見」したときに、心を鷲掴みにされたのは、コナンが足の指で飛行機に掴まったり三角塔から飛び降りたりする動きの魅力だった。

 宮崎駿の映画で私が最も好きなのは「となりのトトロ」なのだが、この映画にも実はたいしたドラマはない。ただありふれた自然の魅力がキラキラと輝くように描かれているだけだ。だから極端に言えば、「けいおん!」は「となりのトトロ」の手法で描かれた女子高生の日常だと言えるかもしれない。

 もちろん、ディティールを生き生きと表現するための技術も無視できない。京都アニメーションの技術力は、ハルヒを見たときから高く評価していたのだが、「けいおん!」でその頂点に達した感じだ。おそらくデジタル的な製作手法や CG なども大幅に取り入れているのだろう。昔ながらのセルアニメでは絶対ありえないようなシーンが頻繁に出てくる。

 ただ、そういう最先端の技術をこれ見よがしにひけらかしたりせずに、従来のアニメ表現の文脈に自然に溶け込ませているのが京アニのいいところだ。だからパッと見には差がわかりにくいのだが、「けいおん!」を見た後で昔のテレビアニメとか見ると、ほとんどオモチャみたいに見えてしまう。そのぐらいの技術の差がある。

 だから、「けいおん!」の魅力は HD で見ないとわからない。ビットレートを落として録画したりすると、魅力が半減してしまう。これは従来の安っぽいアニメにはなかったことだ。山形浩生はかつてコンテンツにはふさわしい解像度があるはず、と書いていたが、その意味では「けいおん!」はまさに HD の容量を生かしたアニメだと思う。

 我田引水になるが、以前私はこのブログで、現代の個性偏重の風潮を批判する記事を書いたことがある。要約すればこんな主張だった。現代では「個性」が大切だと言われるが、市場で評価されるような「個性」は実は限られている。ほとんどの人の「個性」は、ホクロがあるとか片目がちょっと大きいみたいな、何の役にもたたないような単なるランダムな差異ばかりだ。しかし個人の私的な関係においては、そういうランダムな差異を愛しうるはずだし愛するべきだと。

 その観点からすると、「けいおん!」の登場人物はちっとも「個性的」ではない。描き分けは成されているけれど、あくまで「キャラ」的な類型の範囲にとどまっている。唯の絶対音感や紬の怪力などの特殊能力も、あくまで自分の友達にも居そうな範囲にとどまって、決してその能力を生かして経済的に成功したり世界を救ったりはしない。

 「けいおん!」の作り手は、どこか人工物めいた「個性」なんかに頼らずに、どこにでもいそうな平凡な人間を魅力的に描くという課題に挑戦して、見事に成功している。それが私を激しく感動させるのだ。

 さらに我田引水を重ねるが、私はこのブログで、山崎正和の「柔らかい個人主義の誕生」の影響を受けて「消費の美学」ということを言い続けてきた(最近「近代の復権」を読んでいたら、松尾匡氏も似たような主張をしていることに気づいたが、今回は省略)。正確には山崎氏の本を読んで欲しいが、思いっきり大雑把に要約すると、消費が生産の手段化していてはダメで、消費自体を目的とした消費の豊かさを追求すべき、という主張だ。

 その観点からすると、「けいおん!」の登場人物が最も大切にしているのは、なんと「お茶の時間」なのである。これはまさに山崎正和の言う消費のための消費に他ならない。もちろんバンドの練習やコンサートのような「生産的」な活動もしているのだが、彼らはそのために「消費」を犠牲にしたりはしない。そのように生産と消費のバランスのとれた生活を魅力的に描いていることも、私を激しく感動させる。

 こうやって見ると、私がこの作品を好きになるのは当然だし、自分の思想的一貫性を守るためにも、断固として褒めねばならない。褒めるべきだ。褒めます。

 希望的観測も含めて言うと、こういう作品を見て育った世代は、「個性」や「仕事」に対する変なこだわりを捨てて、それまでの世代には乗り越えられなかった壁も、軽々と乗り越えて行けるようになるかもしれない。そんな希望を感じさせる作品である。

 ほんの「序説」のつもりだったのに、随分長くなってしまった。学術書には「序説」というタイトルの本が多いが、その続編が書かれることは滅多にない。その理由を大学院まで行った友人に尋ねたら、「きっとみんな、『序説』を書いただけで力尽きちゃうんだろうね」と言っていた。そうならないようにしたいものだ。

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ネオ・フェミニスト映画

Neo-Feminist Cinema: Girly Films, Chick Flicks, and Consumer Culture 著者はオタゴ大学で教鞭を取るれっきとしたフェミニスト。オタゴ大学という名前は恥ずかしながら初耳だったが、Wikipedia によると、ニュージーランドでも一二を争う研究水準の大学らしい。

 本書の多くは、いわゆるガーリー・フィルム(girly film)の分析に当てられているが、ただ漫然と分析しているわけではなく、確固とした意図がある。

 それは、俗に「ポスト・フェミニズム」と呼ばれる社会風潮を、「ネオ・フェミニズム」という思想として位置づけ、その思想がガーリー・フィルムの中にどう現れているかを調べることだ。

 ポスト・フェミニズムという用語に明確な定義はないが、フェミニズムが社会運動として最盛期を過ぎて以降の社会風潮を指す言葉として使われている。アカデミックなフェミニストにとっては、フェミニズムの本来の理想を忘れ、そのスローガンを好き勝手に解釈していいとこ取りしている一般女性に対する、苦々しい心情のこもった言葉でもあるようだ。

 しかし著者は、ポスト・フェミニズムを単なるフェミニズムに対する反動としてとらえるのではなく、ネオ・フェミニズムと言うべき確固とした思想として認めるべきだと言う。ネオ・フェミニズムは第二波フェミニズムとほぼ同時期に生まれた思想であり、第二波フェミニズムの理想の(すべてではないにせよ)一部を継承しているという。

 著者の言うネオ・フェミニズムの根幹にある思想(ネオ・フェミニスト・パラダイム)は以下のようなものだ。

  • 女性の経済的自立の重視
  • 女性の消費による自己実現の肯定
  • 女性性の肯定
  • 女性の性的快楽追求の肯定
  • 家制度の相対化
  • 女性同士の友情の重視
  • 社会変革よりも、個人主義的な自己実現を重視

 これらは現代の一般人からは割と当たり前に感じられると思うが、アカデミックなフェミニズムの理想とは必ずしも一致しない。

 しかし著者は、現実の一般女性の要求に応えて来たのは、第二波フェミニズムよりもネオ・フェミニズムの方だと主張する。もちろん、ネオ・フェミニズムにもさまざまな問題点があり、そこにこそアカデミックなフェミニストの出番があるとも言っているが。

 著者によると、そもそもガーリッシュな女性という存在自体が、ネオ・フェミニズムの産物なのだという。家父長制下での女性は、常に娘・妻・母といった家制度内での役割を強制されていた。そこから解放されることにより、初めて自立した個人としての女性が生まれた。妻や母といった役割に縛られない女性は、いつまでも思春期のように性的魅力や性的快楽を追及してよいことになった。その結果、生物学的年齢から切り離されたガーリッシュな女性というものが誕生したというのだ。だからこそネオ・フェミニスト映画は必然的にガーリー・フィルムになるというわけだ。

 著者がネオ・フェミニズムのキー・パーソンとしてかなりの紙幅を割いているのが、ヘレン・ガーリー・ブラウン(Helen Gurley Brown) という人物。私は恥ずかしながら知らなかったが、"Sex and the Single Girl" というベストセラーの著者であるばかりか、雑誌「コスモポリタン」の編集長を 30 年以上も勤め、世の女性に多大な影響を与えた人物だという。

 そう聞くと私などには、フェミニズムにとって極めて重要な人物に思えるのだが、実はアカデミックなフェミニストがこの人物に注目しだしたのは割と最近のことらしい。私が所有する二冊のフェミニズム辞典(12)にも載っていないし、Google Books や Google Scholar に "Helen Gurley Brown" "feminism" などと入力して検索しても、出てくるのは最近の文献ばかりである。それじゃあアカデミックなフェミニストと一般女性の意識が乖離するのも無理ないよ、と私なんかは思ってしまうのだが。

 著者の来歴もなかなか興味深い。著者はカリフォルニアの出身なのだが、両親ともフェミニストで、フェミニストにとって「有害」なポップ・カルチャーから隔離されて育ったのだそうだ。 そして研究者になってから研究対象として初めて本格的にポップ・カルチャーに接したという。

In the course of researching popular culture for women as part of my doctoral thesis in the 1980s, I was shocked to discover not the downtrodden housewives that I had been led to expect by feminism, but a group of lusty, independent females determined to have fun, to succeed and to develop a healthy bank account, while masquerading behind a girlish demeanor. Popular culture generally, and women's magazines in particular, were not lamenting woman's fate - rather there was a mood of celebration and heated anticipation about what the present offered and what the future might bring.

(拙訳)私は、1980 年代に博士論文の一環として女性向けの大衆文化を研究する過程で、 フェミニズムによって予期していた虐げられた主婦ではなく、少女のような振る舞いに隠れながら、人生を楽しみ成功し健全な貯蓄を育てる決意に満ちた、自立した活力ある女性を発見して衝撃を受けた。大衆文化全般、特に女性誌は、女性の運命を嘆いてなどいなかった。むしろそこには、現在が与えてくれるものや、未来がもたらす可能性に対する、お祝いの気分や過熱した期待があった。

 ではフェミニズムやポップ・カルチャーに対するアンビバレンツな感情を表明するのかと思うとそうでもなくて、以後なに食わぬ顔で価値中立的な分析を続ける。そして最終章まで来てから、堰を切ったようにフェミニズムの現状に対する批判の声を漏らすのだ。

A further strand of feminist analysis of post-feminism is typically haunted by the specter of second-wave feminism that failed to fulfill its promise to deliver a utopian existence to those who embraced its message; such analyses tend to produce a critique of the form of lament. Subtending the feminist lament is the lost dream of feminism that was whole, unmarred by the dirty business of everyday life and by the bitter and sectarian debates that have marked feminist inquiry since its inception.

(拙訳)一般に、フェミニストのポスト・フェミニズムに対する分析は、その主張を受け入れた人々に理想郷をもたらすという約束を守れなかった、第二波フェミニズムの亡霊にとりつかれている。そのような分析から生まれる批評は嘆き節の形になりがちだ。フェミニストの嘆き節に潜んでいるのは、日々の汚れた仕事や、その探求が始まったときからフェミニストを悩ませてきた激しい党派的な議論によって傷つけられる前の、失われたフェミニズムの夢である。

 だからひょっとすると、最初から批判ばかりでは同業者に読んでもらえないと思って、わざとこういう構成にしたのかもしれない。邪推かもしれないが。

 本書で論じているのは、主に以下のような映画である。

 フェミニズム批評というと、教条的にないものねだりの難癖をつけるような批評を連想する人も多いかもしれない。確かに本書にも「主人公が目指すのは、あくまで消費社会の中での個人的な自己実現であって、社会変革ではない」みたいな分析が頻繁に出てくるが、だからその作品が駄作だとか決め付けるのではなく、あくまで事実として指摘するだけという姿勢を貫いている。だから、このへんの作品が好きな人でも、それほど不快にならずに読めると思う。

 著者は「プリティ・ウーマン」をネオ・フェミニスト映画の元祖としている。女性の自立を扱った作品なんて、もっと前からあったじゃん。それこそ連続テレビ小説とか…、と一瞬思ったのだが、著者がこの作品を元祖とするには理由がある。一つは、主人公が娼婦であることで、これが処女性・純潔性から解放された性的快楽の肯定を意味する。もう一つは、主人公が着飾って「変身」することで、これが消費による自己実現を意味する、のだそうだ。

 他の映画もそれぞれメルクマールとしての意味がある。「ロミー & ミッシェル」は恋愛より女性同士の友情を重視した映画、「キューティ・ブロンド」は恋愛より仕事を重視した映画、「メイド・イン・マンハッタン」は人種問題を取り入れてヒスパニック系に訴えようとした映画、「プラダを着た悪魔」はいわゆる「ファッション・フィルム」の代表、「セックス・アンド・ザ・シティ・ザ・ムービー」はいわゆる「イベント・フィルム」の代表、「恋愛適齢期」は中年女性の少女性を肯定した映画、ということになる。

 では日本映画でネオ・フェミニスト映画と言える作品はなんだろう、と考えて真っ先に思い浮かんだのが「下妻物語」。この映画をフェミニズム的な観点からくさしていたフェミニストの人がいたけど、この著者の言うネオ・フェミニスト・パラダイムからすれば、まさに王道を行くような映画だろう。女性性の肯定、経済的自立、消費による自己実現、女性同士の友情、すべてある。性的快楽の肯定の要素は薄いけど、篠原涼子演じる桃子の母親が一応その役回りだとも言えるだろう。

 私はもともと著者の言うネオ・フェミニズムに近い考え方なので(微妙に違うところもあるが、その点についてはこのブログに何回も書いたので省略)、本書を読んで考えが変わることはほとんどなかったが、フェミニズムの現状やフェミニストが現代の文化をどう見ているかを確認するという意味では役に立った。また、分析の過程で出てきた映画業界やファッション業界の解説は、その方面に疎い私にとっては、素直に勉強になった。このへんの感想は、読む人の思想や知識によって違ってきそうだ。

 いずれにせよ、一般女性の文化を上から目線で切って捨てるのではなく、正面から受け止めようとするフェミニストが現れ始めたことは、フェミニズムの将来にとってもよいことだと思う。

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極私的「けいおん!」名台詞集

-和「こうやってニートができあがっていくのね…」-

第1期・第1話「廃部!

-律「ゴロゴロしてるだけでいいから!」-

第1期・第1話「廃部!

-唯「隊長! 律っちゃん隊員がいません!」-

第1期・第3話「特訓!

-憂「掃除しようとしてくれたり、飾り付けようとしてくれたり」-

第1期・第7話「クリスマス!

-紬「マンボウの真似でした」-

第1期・第7話「クリスマス!

-澪「ごめんな。あの先生ちょっと変なんだ」-

第1期・第9話「新入部員!

-さわ子「何って、猫耳だけど?」-

第1期・第9話「新入部員!

-憂「ゴロゴロしてるお姉ちゃん、かわいいよ~」-

第1期・第10話「また合宿!

-紬「実はこれ、タクアンなの」-

第1期・最終回「軽音!

-憂「あずさ2号!」-

第1期・最終回「軽音!

-律「みんな唯が大好きだよ」-

第1期・最終回「軽音!

-律「おかしーし」-

第1期・番外編「冬の日!

-唯「マシュマロ豆乳鍋とか、チョコカレー鍋とかはどうかな」-

第1期・番外編「冬の日!
 「冬の日!」あずにゃん.wmv.GIF「冬の日!」りっちゃん.wmv.GIF

-唯「鼻にピーナッツ入れたくなる可愛さだよ」-

第2期・第2話「整頓!

-唯「こうやって暗いところで、輝け律ちゃん作戦を考えているんだよ」-

第2期・第3話「ドラマー!

-律「ぶおんけ! 東北地方に生息する妖怪の名前だーっ!」-

 第2期・第5話「お留守番!

-唯「エリザベス、今夜はギー太と一夜を共にするんだ」-

第2期・第6話「梅雨!

-梓「私のはムスタングだから、むったん」-

第2期・第6話「梅雨!
 「進路!」和.wmv.GIF
 「進路!」澪.wmv.GIF「進路!」りっちゃん.wmv.GIF

-唯「私も大人になったら大人になるのかなあ」-

第2期・第10話「先生!

-唯「クーラーがあれば、もっとクールな演奏ができます!」-

第2期・第11話「暑い!

-唯「じゃあ私は、パープルアルゼンチンで」-

第2期・第13話「残暑見舞い!

-澪「いいんだ。ちょっとくらいは楽しいこと考えていいんだ」-

第2期・番外編「計画!」

-律「お姉ちゃん今どんなパンツはいてるの?」-

第2期・第14話「夏期講習!

-紬「もしかして、価格破壊ってこういうこと?」-

第2期・第14話「夏期講習!

「夏期講習!」りっちゃん.wmv.GIF

-梓「カムバック、あたし!」-

第2期・第16話「先輩!

-唯「今日のケーキもフェルマータだねえ」-

第2期・第16話「先輩!

-梓「見つめないで、もうすぐあげるから」-

第2期・第17話「部室がない!

-澪「アライグマが洗った恋と、キリンりんりんどっちが見たい?」-

第2期・第17話「部室がない!

-澪「パパの仕事の都合で、イルクーツクに移住することになってさ」-

第2期・第18話「主役!

-律「そもそもなんだよこの話!」-

第2期・第18話「主役!

-唯「今夜は寝かさないぞ、子猫ちゃん」-

第2期・第19話「ロミジュリ!
 「またまた学園祭!」唯.wmv.GIF

-律「人生の無駄使いかな」-

第2期・第23話「放課後!
 「卒業!」あずにゃん.wmv.GIF

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イギリスから売掛金を回収する方法

 ウチのようなスモール・ビジネスが海外の企業と取引する際に、まず考えなくてはならないのは売掛金の回収方法だ。

 これがある程度規模の大きい企業なら、海外に支社があったり現地の法律事務所と契約していたりするから、法的手段に訴えることも容易だろうし、取引金額自体が大きいから、その一部を回収費用に当てることも可能だろう。

 しかし、うちのようなスモール・ビジネスでは、法的手段に訴える金や時間もバカにならないし、可能だとしても取引金額と比べたら明らかに割に合わない場合が多い。

 ところが、英米など一部の先進国には、このような問題を解決する極めて便利なシステムがある。それが Collection Agency (債権回収業者)である。

  Collection Agency は債権回収を代行してくれる会社だ。報酬は債権額の一定割合(通常 3 割程度)なので、回収したせいでかえって損するようなことはない。しかも完全成功報酬の会社が多い。つまり債権回収に失敗した場合には、報酬を払わなくてもよいのだ。そして、催促の手紙を書くことから裁判まで回収に必要なことはすべてやってくれる。

 国によって法制度が異なるので、どの国にも通じる一般論はないが、私は以前、イギリスのある Collection Agency を使って売掛金の回収に成功したことがあるので、そのときの手順を参考までに紹介しよう。

1.業界団体を探す

 まず大事なことは、ある程度信頼できる Collection Agency を見つけることだ。そのためには、業界団体の名簿から探すのが手っ取り早い。こういう団体には倫理規定みたいなのがあって、あまりひどい会社は除名されるようになっているから、ゼロから探すよりはリスクが少ないだろう。

 イギリスの場合、CSA (Credit Service Association) という債権回収業者の業界団体があるので、まずそのウェブサイト(http://www.csa-uk.com/welcome) の UK Member List というページを開く。

 このページでは、債権回収業者をサービスや地域別に検索できるようになっているので、[Search by Service] から [Business to Business Debt Collection] を選び、[Search by Region] から回収先の企業に最も近い地域を選んで、[Search] をクリックする。

 すると、検索条件に該当する Collection Agency の一覧が表示される。この一覧だけでもかなりの情報が入手できるが、ほとんどの会社にウェブサイトへのリンクが記載されているので、詳しくは該当企業のウェブサイトで調べたほうがよい。

2.業者を選ぶ

 各社のウェブサイトを調べて、さまざまな条件を比較し、自分のニーズに最も合った債権回収業者を選ぶ。私の場合は、以下のような条件に留意した。

  • 料金体系
    • 料金体系をウェブサイトに公開している業者と要見積の業者がある。当然公開している業者の方が安心感がある。料金はだいたい債権額の三割程度で業者によってそれほど差はないが、完全成功報酬であるかどうかは要チェックだ。
  • 回収手段
    • 事務的な回収しかできない業者と、弁護士がいていざとなったら裁判までやってくれる業者とがある。Skip Trace と言って、逃亡した債務者の捜索までしてくれる業者もある。
  • 国際取引
    • 国外の顧客を受け入れることを明示している業者も少なくない。明示していなくても、頼めばやってくれるかもしれないが。
  • ネットサービス
    • 連絡がネットだけで済むか、電話や手紙が必要かも重要な点。メールの方がコストも安いし、私のような会話の苦手な人間にとっては、メールの方が誤解が少ないし証拠も残るので安心感がある。
  • 歴史
    • あまり歴史の浅い業者は避けた方が無難。

3.依頼フォームを送信する

  ネットサービスの充実している業者の場合、オンラインで回収の依頼ができる。ウェブサイト上のフォームに債権の詳細を記入して送信するだけだ。必要があればメールのログなどを添付する。

4.応答を待つ

 あとは相手からの応答をじっと待つだけである。私の場合、フォーム受信確認の自動送信メールが来た後、一週間ほどなんの連絡もなかった。

 このような業者を利用するのは初めてだったので、本当にちゃんと話が進んでいるのか心配になりかけたころ、回収先の企業から売掛金全額が振り込まれてきた。

 実にあっけなかった。それまで何百回メールを出しても埒が開かなかった相手だったので、こんなに簡単なのかと思って拍子抜けしたのを覚えている。

 後は、規定の料金をクレジットカードで支払うだけ。なんの後腐れもなく取引は終了した。

・参考文献

Collection Techniques for a Small Business  債権回収テクニック全般に関する資料は JETRO のウェブサイトを含めて多数あるが、スモール・ビジネスの海外債権を対象とした資料となると実に少ない。

 そういった中で、この Collection Techniques for a Small Business という本は数少ない例外である。もともとアメリカのスモール・ビジネスを対象にした本だが、イギリスでもかなりの部分が通用する。

 内容も、Collection Agency ばかりでなく、信用管理・催促・小額訴訟の方法まで幅広く網羅されているし、Collection Agency に関しても、その仕組・選び方・使い方など、上では紹介しきれなかったことまで詳述されている。 是非参考にされたし。

・免責

 この記事は、個人的な一事例を紹介したに過ぎず、同じ方法による成功を保証するものではまったくない。参考にされる方はくれぐれも自己責任で。

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内なるキリスト教徒

 市川森一が亡くなった。私は氏の大ファンとまでは言えないが、気になる脚本家の一人であったのは間違いない。

 もちろん、氏がウルトラシリーズの脚本家であることは、子供の頃は知らなかった。子供という生き物は、バイトの兄ちゃんがやってる着ぐるみの特撮ヒーローと握手できただけで死ぬほど感激したりするくせに、作品の作り手にはほとんど関心がないものだ。そういうことを意識しだすのは、だいたい思春期に入ってからだろう。

 大河ドラマ「黄金の日日」が放映されたのは、私が中学一年生のときだから、少しは市川森一という名前も意識していたと思う。しかし、このときはまだ、思い入れはほとんどなかった。

 市川森一という名前が私の中に決定的に刻み込まれたのは、ウルトラセブンに関するあるムック本を友達から借りて読んだときだ。記憶を元に検索すると、おそらく朝日ソノラマのファンタスティック・コレクションというシリーズの中の「SF ヒーローのすばらしき世界 ウルトラセブン」だろう。

 この本はおそらく、ウルトラセブンを大人の視点で再評価するというムーブメントのきっかけになった本の一つではないかと思う。インターネットなどもちろんなく、ビデオもまだ入手しにくい時代に、全エピソード(例の12話は除く)のあらすじが再現されている上に、今や伝説となった「ノンマルトの使者」のほぼ完全なシナリオや満田かずほ氏の自筆原稿なども収録された、今考えても質の高いムックだった。(おそらく池田憲章氏の功績であろう)

 この本を読んで、「ひとりぼっちの地球人」と「盗まれたウルトラアイ」の脚本を書いたのが、「黄金の日日」と同じ人物であるということに気づいたとき、市川森一の名前は私にとって永遠に忘れられない名前となったのだった。

 氏の作品には独特の肌合いがある。ロマンティックなのだけれど、感情的にドロドロベタベタしたところはあまりなく、どこか突き放したようなドライな距離感がある。氏がキリスト教徒であるという事は、後になって知ったのだが、そう考えると腑に落ちるところは多い。

 氏の作品は「裏切り」がテーマになることが多い、というのは前にもちらっと書いた。しかし考えてみると、その裏切りの動機が問われることはほとんどない。マゼラン星人はなぜマヤを裏切ったのか。説明は何もない。「他の星を侵略するような星の倫理観なんてそんなもの」とかいくらでも理由はつけられると思うのだが。あるいは、秀吉はなぜ助左を裏切ったのか。権力の魔力というような解釈が多いが、劇中ではっきりした説明はない。

 氏の作品において、「裏切り」は不条理な運命のように現れ、その動機が問われることはない。問われるのは常に、裏切られた側の意思であり倫理なのだ。これは、善人にも悪人にもそれぞれ事情があるんだから、お互い話せばわかるはず、みたいな日本的義理人情の世界とは明らかに異質であり、ここに、キリスト教的世界観の影響を見出すのはあながち深読みではないと思う。

 これも前にちらっと書いたが、私の通っていた幼稚園はプロテスタントの教会が経営していた。そのため、クリスマスが来るとキリスト生誕の劇をやり、イースターが来ると卵に色を塗って飾り、週末には日曜学校に通い、暇さえあれば福音館書店の絵本を読み、というような環境で幼年時代を過ごした。

 今では無神論者で世俗的ヒューマニストを自称しているが、身体化され無意識的反射的に表れる倫理観には、拭いがたくキリスト教的な倫理観が刻印されているという自覚がある。もちろん、正規の宗教教育を受け意識的にキリスト教徒になった人と同一視はできないだろうが。私が市川森一氏の作品を好きなのは、私の中に潜むキリスト教徒を刺激されるせいもあるんだと思う。

 実相寺昭雄も去り、市川森一も去った。自分の幼年期を豊かにしてくれた方々が避けようもなくこの世を去っていく歳になり、彼らから渡されたバトンの重さを意識せざるおえない今日この頃。

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鷲巣様の打ち回しに対する疑問

 変な風邪をひいてしまって、寝込み中。各所にご迷惑をかけて申し訳ない。

 1日12時間以上寝続けたりしたんだが、寝続けるのにも限界があるし、かと言って頭が痛くて難しい本とか読めないので、もっぱら気楽に楽しめる動画とかを見ていた。

 それで「アカギ」のアニメを鑑賞していたら、今まで見逃していたことに気づいた。

 かの有名な、鷲巣様がドラ12の手をテンパるんだけど上がり損なう局がある。聴牌時点での牌姿はこう。

6萬7萬8萬1筒3筒7筒8筒9筒2索2索2索7索8索9索

 ここで鷲巣様は3筒を切ってヤミテンに受けて、その後2索にドラがのりまくってドラ12になる。だけど、この打ち回し、よく考えると変じゃない?

 だって、2索を一枚切ってカン2筒に受ければ、9萬引きでの三色や4筒引きでの両面待ちへの手変わりもある。

 実際その直後に鷲巣様は4筒を引いてるんだよね。だから、結果的にはこういう形で受けられた。

 6萬7萬8萬3筒4筒7筒8筒9筒2索2索7索8索9索

この形ならヤミでも上がれる。もっとも、3筒4筒はどちらもガラス牌だから、出上がりは見込めないが、三色への手変わりを待ちながら回すことはできる。

 しかも、後で鈴木が2筒をカンしていることからわかるように、2筒での差し込みはいつでも可能だった。だから、アカギに追いつかれたときの保険もあった。

 そして、さらに数巡後に5筒も引いているから、結果的にはツモ平和ドラ2の親満を上がっていた。4千オールで 400 cc の血を抜けたわけだ。

 さらに遡ると、こういう手の段階があった。

 5萬7萬7萬8萬1筒3筒7筒8筒2索2索5索7索8索9索

ここで鷲巣様は5萬を切るんだけど、これもかなり疑問だ。

 三色関連面子は動かさないと決め、雀頭も2索に固定するとすると、整理できる面子は5萬7萬1筒3筒5索。この中でも5萬7萬を切るのは一番最後じゃないのか。第一候補は5索、面子落としなら1筒3筒が先だろう。

 確かに、5萬7萬7萬8萬6萬待ちが被っているという欠点はあるが、1筒3筒より真ん中寄りだからその後の発展性が高い。しかも、鈴木があれだけ2筒をガメているのだから、2筒をつもる確率がかなり低いことはこの時点でも見えていたはず。1筒が黒牌という利点もあるが、7萬も黒牌なので、その点でもほぼ同等だ。

 仮にここで5索を切ると、その後2索を引くので、こんな手になる。

5萬7萬7萬8萬1筒3筒7筒8筒2索2索2索7索8索9索

 さらに1筒3筒の面子を落として行けば、その後6萬9筒を引くので、こうなっていた。

5萬6萬7萬7萬8萬7筒8筒9筒2索2索2索7索8索9索

ここから2索を切れば、メンピン高め三色の理想形になる。しかも、その後ドラが2つのった段階でアカギは9萬を切っている。つまり、

5萬6萬7萬7萬8萬9萬7筒8筒9筒2索2索7索8索9索

という面前平和三色ドラ4の親倍満直撃だった可能性すらあったのだ! 2400 cc の血を抜かれれば、事前に輸血していようとなかろうと、即死だ。もちろん、実際にこういう展開になればアカギは別の牌を切っていただろうが。

 でも、そういう結果論は別にしても、どう見てもこの方が筋のいい打ち回しだと思うのだが。

 まあ、結果論で言えば、2索を切らなかったおかげでドラ12になるわけだから、鷲巣様の方が正しかったのかも知れないけど、劇中ではなぜそういう打ち回しをしたのかの説明がない。

アカギ―闇に降り立った天才 (第11巻) (近代麻雀コミックス) 「そうじゃろそうじゃろ。貴様らのようなクズの考えることは、所詮そんなものよ。そのような小賢しい考えなど、この神の化身、鷲巣巌には通用せんのじゃ。」

 ああ、鷲巣様の高笑いが聞こえる。。。これは幻聴か。トローチ飲んで寝よう。

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