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一人称を「私」に変えた理由

 気づいた人がいるだろうか。このブログの一人称が、最近「ぼく」から「私」に変わったことを。これはいつもの気まぐれではなくて、かなり自覚的な方針変更である。その理由は二つ。

 一つは、ネット上での表現の問題。有名人やプロと無名の素人が平等に発言できるのがネットの特徴だが、この両者の表現のスタイルは違ってしかるべきだと、私は長年考えてきた。

 前にも書いたが、無名の素人の表現というのは、例えるなら、家の周囲を掃除したり水を撒いたりするようなものだと思う。なのにネット上では、掃除をする以上は全国掃除大会の優勝を目指すべきだ、みたいな議論が平気で行われていたりする。これは私から見ると、ずいぶんと異様で奇怪な現象に見える。

 では素人の表現はどうあるべきか。重要な点の一つとして、文脈への依存性があると思う。

 有名人やプロの表現は、表現者のアイデンティティという文脈に依存している。有名人やプロの言ったことは、内容とは必ずしも無関係に「あの人が言ったことだから信じる/信じない」という受け止め方をされるし、表現者自身もそういう受け止め方をされることを自覚的に引き受けている。

 しかし無名の素人はそうでない。無名人の表現は、その人個人のアイデンティティという文脈とは無関係に、内容だけで判断される(コテハンや筆名はとりあえず除外)。とすれば、無名人の表現において、アイデンティティを文脈として提示することに、必ずしも意味はないはずだ。

 そう考えると、「ぼく」という一人称には、「私」と比べると、明らかに余分なアイデンティティが情報として加わっていることが気になる。

 まず性別。最近は「ぼくっ娘」などというのも居るようだが、「紙切れなんかに私たちの未来は決められないぜー!」なんて言葉遣いをする田井中律ちゃんでさえ、一人称は「私」なのだ。だから「ぼく」という一人称が、現代日本において男性を連想させるというのは否定しがたい事実だ。

 そして年齢。これも団塊世代以降は、年配になっても「ぼく」を使い続ける人が増えたけれど、どちらかと言えば、若者もしくは若ぶりたい年寄りを連想させるのも事実だろう。(ちなみに、言語学専攻で修士を取った友人は、「わし」と言ってる奴は若い頃から「わし」だったに決まってる、と言っていたが、学会の通説なのか個人の説なのかは不明。今度詳しく聞いてみたい。)

 さらに言えば、「私」がフォーマルな一人称であるという教育を受けているにも関わらず「ぼく」を使い続ける心性から、反抗期的な幼児性やムード的な反社会性を感じ取る人すらいるかもしれない。

 つまり、「ぼく」という言葉を使った瞬間に、その発言には、特定の年代の男性の意見であるという余計な色がついてしまい、下手すると発言者の性格まで推測されてしまうのだ。

 もちろん、文脈からまったく独立した表現などというものは、存在しない絵空事だし、文脈から独立すればするほどよい、というわけでもない。逆に文脈に意識的に頼ることによって効果を挙げている表現も多い。

 しかし、自分の表現がどのような文脈に依存しているかには自覚的でありたい。そういう自覚こそが表現のスタイルに結びつくという事が、この歳になってようやくわかってきたのだ。上でも「田井中律」などというハイ・コンテキストな固有名詞をいきなり放り込んだりしているが、そういう遊びも、思いつきで自堕落にやるのではなく、意識してやりたいのである。

 無名なのに一人称が「ぼく」や「オレ」だったりするのは、表現スタイルとしてちぐはぐなのだ。名を伏せているくせに、なんでわざわざアイデンティティをアピールしているんだよ、という感じ。端的に言えば「寒い」。無名の表現にも、読み人知らずの和歌や二条河原の落書のような美学が欲しい。

 もう一つは、性の表現の問題。性の表現には TPO が重要だというのは、このブログに何度も書いた主張である。簡単に繰り返すと、性の表現は常に善でもなければ常に悪でもない。公的な場では性の表現を抑制し、私的な場では自由に表現するというような、使い分けが大事だ、と言ってきた。

 しかしよく考えると、この主張と「ぼく」という一人称は整合していない。この論法で言えば、公的な場では性を連想させない「私」という一人称を使い、性を連想させる「ぼく」を使うのは私的な場に限定すべき、ということになるはずではないか。考えてみれば当然だが、私はつい最近までここに考えが及ばなかった。反省せねばなるまい。

 検索してみると、斉藤美奈子さんが似たようなことを書いていたらしい。原文を読んだわけではないのでこれ以上の論評は避けるが、おそらく斉藤さんの主張はかなり正しいのだろう。このブログでは斉藤さんを酷評したこともあるが、そんなこととは無関係に、正しいものは正しいと認めたい。当たり前だけど。

 念のために言っておくが、私は、あらゆる場面で「ぼく」より「私」を使う方が正しい、と言っているわけではない。私は今後も、私的な場では「ぼく」を使い続けるだろう。ただそれは、無名の素人の表現や公的な場での表現にはふさわしくない、と言っているだけである。

 このように文脈を使い分けるという意識が芽生えたのは、おそらく、年齢に関係があるんだと思う。

 子供にはおそらく文脈の意識はないし、文脈を識別する能力すらないかもしれない。子供の前には、あらゆる情報が同一線上に、あるいは、大人とは違う距離感で並んでいる。大人には理解できないものが子供に流行したりするのも、おそらくそのせいだ。

 「そんなのかんけーねー!」が一過性の流行なのか長期的に残る文化なのか、子供には区別がつかない。もちろん、大人だってすべて正確に予想できるわけではないし、私だってよく間違えるけれど。

 女子学生の超ミニスカートにも同じことが言えるかもしれない。彼らにはおそらく、自分の服装がどのような文脈で解釈されるかという意識がない、もしくは、大人とは違う文脈で解釈しているのだろう。その証拠に、大多数の女子学生は、大人になるとミニスカートを止めてしまう。もちろん、だからと言ってリベラルぶって野放しにしていいというわけではなく、だからこそ大人の世界の文脈を辛抱強く教えるべきだと思うのだが、これはまた別の話。

 私がこの歳まで「ぼく」という表現を使い続けた背景にも、無自覚な自堕落な相対主義みたいなものがあったと思う。つまり、一人称なんてどうせ時代や場所によって変わるんだから、こだわったってしょうがない。使いたいものを自然に使えばよい、みたいな発想だ。

 故・星新一氏は、自分の文章が古びるのを避けるため、時代を感じさせる言葉を極力使わないようにしていた。たとえば、貨幣価値だって変わる可能性があるから、「100 円」を「安い金」に書き換える、なんてことすらしていたそうだ。

 正直この話を初めて聞いた頃は、あまり共感できなかった。どんなに頑張ったって、今の古文や古英語みたいになってしまえば自然には読めなくなるんだし、そもそも、死後の読者のことなんてどうでもいいじゃん、とか。

 でも最近になってようやく少しわかるような気がしてきた。たぶん、星氏が求めていたのは、死後の名声なんかじゃないのだ。少しでも文脈依存性をなくし普遍性に近づくということなんだ。

 前にもちらっと書いたことがあるが、最新の流行はすべて「新しい」と思われがちだ。でも実は、それが一過性の流行で終わってしまうなら、新しくはないのだ。だって、未来に残らないのだから。それは絶えず「過去」に過ぎ去ってしまう「現在」の一部でしかない。未来に残る普遍性のある変化こそが、本当に新しいのだ。ここに保守と革新の接点がある。

 古いものすべてを盲目的に有難がっているような保守や、新しいものすべてを盲目的に有難がっているような革新は、実はどうでもよい。未来に残る普遍的な価値を求めているのであれば、保守と革新に本質的な差はない。探す方向が違うだけだ。

 そういう意味で、「私」と「ぼく」の使い分けは、単なる伝統回帰でもないし、一過性の流行への追従でもない。それを超える普遍性があると、私は考える。

 たぶんこういうことは、もっと頭のいい人なら、別に他人に教わらなくても自分で考えてもっと若いうちから実践していることなのだと思う。そのへんの成長が私は異様に遅いということは、自分でもわかっている。これを読んだ若い人は、私のような年寄りにならないように、若いうちからそういうことを考えておくとよいと思う。

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