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コメントしないという美学

 ネット上によく見られる言動で、前から醜悪だと思っている事が一つある。

 社会の変化が激しく予測の難しい昨今、社会的評価の高かった人物や団体の評価が、突然転落することは珍しくない。我々はここ十年そういった例を数え切れないほど見てきた。 したがって、自分がブログなどで高く評価していた相手の社会的評価が、突然転落することも珍しくない。

 そういうとき、今まで自分が評価していた相手を、口を極めて罵り出す人がいる。これが実に醜悪だと思う。

 なぜ醜悪なのか。そもそも批評という行為には、相手のため、社会のため、自分のためという三つの側面があるが、そういう罵倒は主に自分のためでしかないからだ。

 そのような相手の社会的な評価は、すでに十分下がっているので、自分がそれに賛同しても、屋上屋を架すことにしかならない場合が多い。つまりたいして社会のためにはならない。

 なのにこれ見よがしに罵倒して見せるのは、自分のためなのだ。私はこんな奴の仲間じゃありませんよ。一緒にしないでください。迷惑です。エンガチョ。

 罵倒の言葉が過剰になりがちなのは、そういう利己的な動機を無意識的に自覚していて隠そうとするからだろう。私は自分の評価なんか気にしていません、あくまで正義感からです、とアピールしたいわけだ。実に醜悪である。

 私自身も、このブログで高く評価した相手が、後で犯罪者になったり、評価できない仕事をしてしまったり、過激な思想に染まったり、トンデモな主張をしだしたり、ネットで喧嘩を売りまくって総スカンに合ったり、という経験をしてきた。

 このブログは過疎ブログなので、そんな人は多くないと思うが、私がそういう相手に対して今どう思っているかが気になる人も中にはいるかもしれない。

 しかし、私は必要がない限り、そういう相手についてわざわざコメントはしない。そういうコメントは醜くて汚くて卑しいと思っているからだ。

 私がそういうことを気にするようになったのには、きっかけがある。

 かれこれ 20 年ほど前であろうか。芸能人の「ホモ疑惑」が話題になったことがある。そのとき、ある芸能人はわざわざ記者会見を開いて「ホモ疑惑」を否定したのだ。

 表向きは、自分がゲイではないという「事実」を発表しただけかもしれない。しかし、そのためにわざわざ記者会見をすること自体が、ゲイに対する差別的なメッセージを発していた。

 つまり、言っている内容自体は間違っていなくても、あえてコメントするという行為自体がネガティブなメッセージになることがあるのだ。しかも内容自体は間違っていないので、形式的には差別ではないという言い訳が成り立つわけである。実に卑劣な行為だ。

 人の倫理や美学は、コメントの内容だけでなく、あえてコメントするという行為の選択にも現れるということは、そのとき学んだ。 

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