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アメリカ人はなぜ福祉が嫌いか

Why Americans Hate Welfare: Race, Media, and the Politics of Antipoverty Policy (Studies in Communication, Media, and Public Opinion) 著者はプリンストン大学の政治学の准教授。カリフォルニア大学バークリー校で社会学の博士号をとり、イェール大学や UCLA でも教鞭を取ったというから、きっと優秀なのであろう。

 政治学者や社会学者というと、虚仮脅しの専門用語を散りばめながら好き勝手な意見を書き飛ばす評論家をイメージする人も多いと思うが、この本は、律儀なまでに社会調査と統計分析に基づいており、文科系の本にありがちな衒学的なごまかしはまったくない。 その点では安心して読める。

・アメリカ人は福祉が嫌い?

 アメリカ人の福祉嫌いは有名だ。アメリカの福祉は先進国中でも最低レベルにあるし、彼らの「社会主義」や「再配分」という言葉に対する拒否反応は強く、このブログでもネタにしたことがある。何より当のアメリカ人自身が、アメリカ人は福祉嫌いだと自認しており、そのことは本書の著者も認めている。

 では、その理由を説明したのが本書なのかというと、さにあらず。なんと著者は、アメリカ人は本当は福祉が嫌いではない、という。

 著者の分析によると、アメリカ人が嫌いなのは、貧乏人全般を助けることではなく、助けるに値しない怠け者の貧乏人(undeserving poor)を助けることなのだという(ちなみに、この undeserving poor という用語を最初に提唱したのは Michael Katz)。 つまりアメリカ人は、貧乏人の多くが助けるに値しない人だと思っているのだ。

・原因は人種的偏見

 ではそれは何故か。アメリカ特有の自己責任を重視する個人主義か。それとも、税金を他人に使われたくないという利己主義か。どちらもさほど大きな要因ではない、と著者はいう。最大の要因は、なんと、白人の黒人に対する偏見(stereotype)なのだという。

 そう聞くと、「要するに保守的な白人は黒人の得になることをしたくないわけね。人種差別は相変わらずだね」などと安易に解釈する人もいるかもしれないが、さにあらず。大多数の白人は、働く気のある真面目な黒人は喜んで支援したいと思っている。それを邪魔しているのが、「黒人は怠け者」という偏見なのだという。

 そもそもアメリカ人の多くは、福祉政策の受給者のほとんどが黒人だと思っているが、この認識自体が間違っている。確かに、貧困者中の黒人の比率は高いが、それはあくまで相対的なもの。元々アメリカの人口における黒人の比率がそれほど高くないのだから、いくら相対的な比率が高くても、貧困者が黒人ばかりなどということはあり得ないのだ。

 この誤った認識に、黒人は怠け者だという偏見と、怠け者は助けるに値しないという価値観が結びつくことにより、福祉政策に対する反感が生まれたというのだ。つまり、

  • 福祉政策の受給者は黒人ばかり(誤った認識)+
  • 黒人は怠け者ばかり(偏見)+
  • 怠け者は助ける価値なし(価値観)
  • = 福祉政策に対する反感

というわけだ。

 でも、黒人に対する全般的な差別意識が原因ではなくて、「黒人は怠け者」という偏見だけが原因だ、なんてどうして言える? と思う人もいるだろうが、そのへんは著者も綿密に調べている。

 たとえば、世論調査によって、福祉政策に対する反感と黒人に対するさまざまな偏見の相関関係を調べると、「黒人は怠け者」という偏見とは強い相関関係があるが、「黒人は無能」とか「黒人は暴力的」というような偏見とはほとんど相関関係がないという。また、福祉政策に対する反感をさらに細かく調べると、働き者の黒人だけが利益を受ける政策(マイノリティだけを対象とした職業訓練や奨学金など)に対する反感もあまり強くないという。

・無意識の洗脳

 では、「黒人は怠け者」という偏見はどのようにして生まれたのだろう。この偏見はもともと、白人が奴隷制を正当化するために生み出したものだが、現在のアメリカ人が依然としてそのような偏見を持ち続けている原因は、マスメディアだという。そして著者は一種のメディア・スタディを行うのだが、この部分がひょっとしたら一番面白いかもしれない。

 著者は、主要な報道雑誌3誌を選び、1950 年代~1990 年代に発行された雑誌の中から、貧困関係の記事をすべてピックアップした。そして、その記事中の写真に出てくる人物が、白人か黒人かを調べ、その比率を計算したのだ。

 その結果、雑誌記事の写真の選択にはさまざまな偏りがあることが判明する。まず、貧困者中の黒人の写真の比率が、実際の比率より明らかに高い。さらに、貧困者に同情的な記事と批判的な記事を分けてみると、同情的な記事には白人の写真が使われる率が高く、批判的な記事には黒人の写真が使われる率が高いのだそうだ。

 そう聞くと、「保守的なマスゴミの連中が、都合のいい人種的偏見を垂れ流して大衆を洗脳しているんだな」と思う人もいるかもしれない。しかし、それも違うと著者はいう。

 そもそも、アメリカのメディアはリベラル寄りで有名で、だからこそアン・コールターやラッシュ・リンボーにさんざん攻撃されたり、FOX ニュースが人気になったりしたわけだ。だから、2000 年以前はなおさらそうだったろう。

 著者は、研究対象となった雑誌の編集者についても実際に会って調べており、彼らがリベラルな人物であることを確認している。ただし、意識の上では、だ。

 このようなリベラルな人物であっても、無意識のうちに「黒人は怠け者」という偏見に影響されており、それが写真の選択に反映されている、と著者は言う。実際に彼らは、自分の選んだ写真にそのような偏りがあることすら気づいていなかった。

 実はこのような無意識的な人種的偏見を調べる心理学実験がある。その実験によれば、被験者を意識的な人種的偏見の強いグループと弱いグループに分けても、無意識的な偏見にはあまり差がないそうだ。

 そして、そのような無意識的な偏見の影響下で選ばれた写真が報道されることにより、社会全体の黒人に対する無意識的な偏見が強化されるというわけだ。まさに悪循環だ。

・正しい認識が重要

 ここまで読んで、「著者はそうまでして『白人は黒人を差別してない』と言いたいのか?」なんて思った人もいるかもしれないけど、多分違うと思う。著者はただ、現実をより正しく認識することが、より正しい解決を導くと思っているだけだ。

 福祉政策への反発の原因が、「黒人は怠け者」という偏見であるならば、それを解消すれば、黒人の差別解消にも福祉政策の推進にも役立つかもしれない。また、そのような偏見の原因が、メディアの無意識的な偏向であるならば、それを改善すれば偏見もなくなるかもしれない。

 実際に著者の研究結果を受けて、一部の雑誌社では、記事中の写真の偏りをチェックする仕組みを導入したそうである。

 ちなみに、本書には話の流れで公民権運動の歴史を紹介する部分がある。全般にイデオロギー的にならないように努めて冷静に書かれた本だが、その部分の描写だけ微妙に力が入っていて、この人は実は公民権運動に結構思い入れがあるな、と感じた。勝手な想像かもしれないが。

・自己認識を覆す

 本書の読後感は、山岸俊男氏の一連の著作にちょっと似ている。山岸氏の本が、日本人が自らに対して持つ自己認識=「日本人は集団主義」を覆そうとしているのに対し、本書は、アメリカ人が自らに対して持つ自己認識=「アメリカ人は福祉が嫌い」を覆そうとしているわけだ。

 ただ大きく違うのは、山岸氏の使うのが主に心理学実験なのに対し、本書の著者の使うのは社会調査と統計分析であるということだ。

 著者の統計分析は極めて入念であり、考えうるさまざまな反論にも丹念に反証している。たとえば、世論調査ではキレイゴトを答えているだけで、本音は全然違うのでは、とか、写真が偏っているのは、貧困者全体を平均すると黒人は少なくても、ニュースになるような事例に関係する人には、実際に黒人が多かったのでは、とか。 

 そのため、著者の主張には説得力があり、適当に数字をひねくり回して珍説をでっち上げるような類の本とはレベルが違うという印象を受けた。

(ただ一応指摘しておくと、「貧困者は黒人ばかり」も「黒人は怠け者ばかり」もメディアの影響だとすると、メディアが変わっても「貧困者は怠け者ばかり」になるだけで、福祉政策に対する反感はなくならない可能性も否定できないと思う。これが日本の話だったらきっとそう思っただろう。アメリカの場合はもっと差別が根深いのかもしれないが。)

 あと本書は、人間の性は基本的に善であるという、極めて健全な人間観が底流にあり、その点でも山岸氏の著作に似ていると感じた。全体に快く読めたのはそのせいでもあろう。

・決めつけてはいけない

 本書を読んで強く感じたのは、国民性や民族性のようなものを、安易に決め付けてはいけないということ。私自身のアメリカ人に対する思い込みも少なからず影響を受けた。

 考えてみれば、ほんの数百年前には黒人奴隷の国だったアメリカが、奴隷解放や公民権運動を経て、今や黒人が大統領や国務長官になるところまで来た。

 あるいは、ほんの数百年前にはホーソーンの「緋文字」(読んでないけど)みたいなピューリタンの国だったアメリカが、性の解放を経てポルノ大国となり、SATC やデス妻みたいなドラマがゴールデンタイムに放映されるところまで来た。

 今は誰が見ても福祉後進国であるアメリカが、何十年何百年したら福祉先進国になっていないと誰が言えるだろうか。

 同じことは日本についても言えるだろう。日本人は日本がこんな国だと思い込んでいるが、その思い込みによって自らが縛られてはいないか。

 本書が出版されたのは、まだクリントン政権でアメリカが好景気だった 2000 年である。その後のオバマ大統領の誕生やティーパーティ-の台頭やリーマンショックなどにより、アメリカ人の意識はどう変化しただろう。 知りたいところである。

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表計算ソフトでオセロゲームを作る方法

 今回は年寄りの昔話。しかもかなり自慢が入っている。が、若い技術者のためになる教訓もちょっとぐらいは含まれているかもしれない。保証はしないが。

 かつて一度だけオセロゲームを開発したことがある。といっても、多くの人がイメージするような、マシン語ネイティブで動くスタンドアロンのアプリケーションではない。表計算ソフト上のマクロ言語で作ったのだ。

 私が勤めていた会社は、表計算とデータベースを組み合わせたようなソフトを開発していた。当時は統合ソフトなどと呼ばれていたが、今で言えば MS Office や OpenOffice のようなオフィス・スイートに当たる。このソフトには、Excel の Visual Basic に相当するようなマクロ言語が搭載されていて、ある程度の自動処理をユーザー自身がプログラムすることができた。

(ちなみに、私が科学技術シミュレーションのようなものでもつい Excel でやってしまうのは、このころの経験が影響している。いろんな事例を表計算に落とし込む癖が体に染み付いているのである。)

 後に開発にも参加させてもらうことになるのだが、入社当初は、主にテストやバグ出し、ユーザー向けのサンプル事例の作成などを担当していた。そして、そのマクロ言語の応用例としてオセロゲームを作ってみることになったのだ。

・絶望的な遅さ

 しかし、実際やってみると、途端に障害にぶち当たった。とにかく遅いのだ。

 まず試しにプロトタイプとして、盤面全体を走査して、ルール上駒を置けるマスを探すだけのプログラムを作ってみたのだが、遅い。なんとそれだけで数分単位の時間がかかってしまう。これでは思考ルーチンどころの話じゃない。

 携帯電話ですらリバーシが動いている時代の人には想像しずらいかもしれないが、当時の PC 環境はそれほど貧弱だった。まず CPU は 8086 で、クロック周波数は数 MHz。今のCPU の数千分の一程度である。メモリ空間は 1MB で、これも今の CPU の数千分の一。補助記憶装置は 1MB のフロッピーだけ。

 さらにマクロ言語固有の問題もあった。インタープリタだ。今の Java のようにその場でコンパイルするわけでもない。リアルタイムで文字列解析しながら動作する昔ながらのインタープリタ。だからなおさら遅かったのだ。

 普通ならここで諦めてしまうところだろうが、私は当時から障害があると逆に燃えるタイプだったので、なんとかしてやろうと試行錯誤を始めた。

・コードを書くばかりが能じゃない

 まず考えたのは、できるだけインタープリタの負荷を減らすこと。表計算ソフトだから、並べ替えとか抽出とか検索とかの機能はもとから装備されていて、それ自体はマシン語ネイティブで動作している。だから、マクロ言語でアルゴリズムを組む代わりに、そういう機能を呼び出してやれば、少しは速くなるのではないか。

 プログラマというのは、ついなんでもコードで書きたくなるものだが、私は当時からズボラだったので、書かなくて済むものを書かないことに抵抗はなかった。

 さらに徹底的にムダを省くことを考えた。最初のプロトタイプでは、ゲーム盤全体を走査していたが、よく考えると、実際に駒を置ける可能性のある場所は限られている。まず、すでに駒のあるマスには置けない。また、駒のあるマスから離れたマスにも置けない。置けるのは、すでに駒のあるマスに隣接するマスだけだ。だからそれ以外のマスを走査するのは時間のムダである。

・一石二鳥の合わせ技

 先のできるだけ表計算の機能を使うというアイデアと、このムダの省略というアイデアを組み合わせると、こんな方法が考えられる。

 まず盤上のマス目の一覧表を作る。並べ替えや抽出で処理しやすいように、各行が各マスと一対一対応するようにしておく。つまり盤面自体は縦横の二次元だが、それを一次元に展開してしまうのだ。そして各行に、そのマス目や隣接するマス目に駒が置かれているかどうかを記録しておく。たとえばこんな感じ。

そこに駒がある 隣に駒がある
1 1    
1 2    
1 3  
1 4  
1 5  
1 6    
1 7    
1 8    
2 1    
2 2    

 そしてこの表から、そこに駒がなくて隣に駒があるマス目だけを抽出し、そのマスだけを走査すれば、盤面全体を走査するより大幅に計算量を減らせるというわけだ。

・差分による効率化

 でも、逆にこの表を作ること自体に計算量がいるのでは? と思う人もいるかもしれない。

 確かに、一手指して盤面が変化するごとに、表全体を作り直していたのでは、計算量が多すぎてちっとも効率化にはならない。しかし、そんな必要はないのだ。

 なぜなら、盤上の駒の初期配置は決まっているし、一手指す度の変化も決まっているからだ。だから、初期配置に対応した表を作って保存しておいて、一手指す度に必要な行だけ更新すればいいのである。要するに「差分」の発想である。

 たとえば、(1, 4) に駒が置かれたら、(1, 4) に対応する行の「そこに駒がある」の列と、(1, 3)、(1, 5)、(2, 3)、(2, 4)、(2, 5) に対応する行の「隣に駒がある」の列に「○」を書けばよいだけだ。

 試しにこのアルゴリズムを実装してみると、予想通り、プログラムは劇的に速くなった。

 -がしかし、それはあくまで最初に作ったプロトタイプに比べたら、の話であった。しかも、できるのは単に盤上から駒を置けるマスを探すだけのこと。予定ではこの後で思考ルーチンを実装しなくてはならないのだ。やはり実用的な速度のプログラムを作ることは不可能なのだろうか?

・人間の思考法に学ぶ

 ここでヒントになったのは、人間の棋士の思考法だった。当時私は米長邦雄という棋士のファンだった(今では嫌いだが)。氏は当時、プロ棋士の思考法を一般人にもわかるように解説した本で人気を博していた。

 棋士は手を何百手も読む、とは当時から言われていた事だが、米長氏によると、その表現は正確ではないという。棋士が特定の局面で実際に読む手の種類は数手であり、その数手は「直感」で絞り込むのだと。数百手というのは、絞り込んだ後でその先の手を読む数なのだそうだ。

 コンピュータには「直感」はない。これがコンピュータと人間の最大の違いだ。だからコンピュータは人間には勝てないのだ、とよく言われる。当時は、ディープ・ブルーがカスパロフに勝ったり、あからが清水市代に勝ったりするはるか以前であるから、なおさらそう思われていた。

 しかし私は今にもまして無謀だったので、この人間の思考法をなんとかコンピュータに取り入れられないかと必死で考えた。そうすれば計算量を大幅に減らせるではないかと。

 そしてある日、ついに天啓が訪れた。

・逆転の発想

 それはまさに逆転の発想だった。それまで私は、

  1. まず盤上から駒を置けるマスを探す
  2. その中から駒を置きたいマスを選ぶ

という順序でばかり考えていた。しかし、よく考えると、

  1. まず盤上から駒を置きたいマスを選ぶ
  2. そのマスに実際に駒を置けるかどうか調べる

という順序でもいいのではないか、ということに気づいたのだ。つまり、置くマスを「直感」で選ぶのだ。

 何を言ってるんだお前は。盤上を走査もしないうちから、置きたいマスがわかるわけないだろう、と思った人もいるかもしれないが、そうでもないのだ。

 なぜかというと、オセロの場合、優先順位の高いマスは、ゲーム開始時からだいたい決まっていて、それほど変化しないからだ。最も優先順位が高いのは四隅のマスで、逆に最も優先順位が低いのはその隣のマス。四辺のマスも中央のマスよりやや優先順位が高い。

 将棋などの場合、置いた駒が移動したり消えたりするので、盤上のどこが有利かは絶えず変化するのが普通なのだが、オセロの場合には必ずしもそうではない。もちろん、上級者相手になると、相手にわざと隅を取らせるような高等戦術も必要になるが、初級者相手なら、この基本原則だけでそこそこ勝負になる。

 さらに都合のよいことに、ここで先ほど作った表が利用できる。まずこの表に、評価値用の列を追加する。そして各マスの大雑把な評価値を記入しておくのだ。たとえば、こんな具合だ。

そこに駒がある 隣に駒がある 評価値
1 1     100
1 2     0
1 3   80
1 4   90
1 5   90
1 6     80
1 7     0
1 8     100
2 1     0
2 2     10

 そして先程と同じように、置ける可能性のあるマスを抽出したら、今度は、その表を評価値の順序に並べ替える。

 そして評価値の高いマス目から順に実際に駒を置けるかどうかを調べ、置けるマスが1マスでも見つかったら、即座にそこに置いてしまうのだ! そうすれば、それ以降のマスを調べる時間まで省ける。

 自分で言うのもなんだが、このアイデアのすごいところは、高速化と思考ルーチンの実装という二つの課題をまとめて解決してしまったところにある。前のアルゴリズムにさらに思考ルーチンが加わっているのに、遅くなるどころかかえって速くなっているのだ。

・誰も知らない

 もちろん思考ルーチンなどと言っても、単にマス目に優先順位をつけているだけなので、本当の上級者には通用しない。しかし、オセロは囲碁将棋などと比べると子供の遊びだと軽く見られているようで、上級者の戦術を知っている人は意外と少ないようだ。

 そのせいか、このプログラムの評判は案外よかった。ある親会社の人は、さんざん苦戦した末、「このプログラムは案外頭がいいねえ」などと言ってくれた。大企業の管理職でおそらく一流大学出身で本当は頭のいい人に違いない。

 そんな人に向かって、「いや、このプログラムは実は何も考えてなくて、最初に見つかったマスに置いているだけです」などとは言い出せず、ちょっと困ったのを今でも思い出す。

 このプログラムは結局、その会社が出版した事例集に付録として収録された。何の解説もなくソースコードだけが記載されたので、このプログラムが一見人工知能っぽく動いているのに、実際には何も考えていないことに気づいた人がどれほどいたか。そこに気づいたとしても、そんな方法を使わなければ、とても実用的な速度にならないことにまで気づいてくれた人がどれほどいたか。その本も今となってはほとんど入手不可能だ。

 このときに、自分でも不可能に思えたような課題の解決に成功したことは、私自身にとっても大きな自信となった。このことは、その後の私が、次第に「ベジエ曲線を整数の加減算だけで描画する方法」のような困難なアルゴリズムの開発に耽溺してゆくきっかけとなるのたが、それはまた別のお話。

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最近のイライラ

 最近なぜかイライラさせられることが多い。

・ひかり TV の録画が再生できない

 ひかり TV のセットトップボックスに録画機能がついた。STB に USB HDD を 外付けすれば録画できる仕組み。早速 1TB の HDD を購入してガンガン録画しまくっていた。

 ところが、まだ使い出して数ヶ月だというのに、録画した番組がスムーズに再生できなくなってしまう。どうやら HDD の不調らしい。のべ 300 番組ぐらい録画されているというのに。

 これが普通の PC の HDD だったら、PC の OS からマウントして診断・修復ツールなどを利用するところ。ところが、この HDD は STB が独自形式でフォーマットした HDD なので、PC 用のツールがまったく使えないのだ。Linux ですら不明なパーティション扱い。もちろん、STB 自体にも診断・修復機能などまったくなし。

 一応サポートにもメールしてみたが、例によってマニュアルからコピペしたような返事が来ただけ。診断ツールみたいなものはないかとか、中の録画データだけでも救出できないかとか、いろいろ聞いてみたけど、HDD はサポート外という冷たい答えが返ってくるだけ。

 別に番組にプロテクトや DRM をかけるのはいいけど、パーティションの形式まで独自にする必要ないんじゃないの。そんなに視聴者が信用できないかね。それができないなら、せめて診断ツールぐらい提供したらどうなんだ。イライラ。

・地デジのチューナーが気に入らない

 USB 接続の地デジチューナーを買ったのだが、気に入らない。特にソフト。

 たとえば、録画一覧・予約一覧・チャンネル一覧などが、なぜか再生用のウィンドウにオーバーラップして表示されるようになっている。そのため、このような一覧を表示する度に、番組の表示がプレビュー表示に切り替わってしまう。あのさー、そんなの別ウィンドウに表示すりゃいいじゃん!

 しかもなんと、録画した番組の再生も同じウィンドウなのだ! だから、録画した番組の内容をチェックしながら消去しようとすると、録画一覧→再生画面→録画一覧→再生画面みたいな頻繁な切り替えをしなきゃならんのだ。アホかー! 他にも、視聴中はなぜかクリップボードが無効になるとか、おかしな仕様が山のようにある。

 私は元ソフト屋のせいか、ハード屋さんの作ったソフトは何か違うと思うことが多い。偏見かもしれないが、ハード屋さんはソフト屋と違って、機能を物理的な実体と結びつけて考える傾向があるようだ。だから、表示画面は常に表示画面で、表示するものはなんでもそこに表示しなきゃいけない、みたいに考えるのではないか。

 モードや順序の束縛も多い。この機能はこのモードでしか呼び出せないとか、この機能はこの操作をした後でないと呼び出せないとか。ソフト屋なら、オブジェクト指向以後はモードレスが常識で、同じ機能をいろんな場所から柔軟に呼び出せるように作るのだが。

 あと、最初から Windows 7 以降を想定していて XP には完全対応していないのも不満。イライラ。

・PC の DVD ドライブが不調

 ノート PC の DVD ドライブがなぜか不調。DVD にアクセスしようとすると、突如 OS がむやみと重くなってほとんど使用不能になる。DVD ドライブを見ると、アクセス LED がつきっぱなしになっていたり、強制的にイジェクトすると、中のディスクがカラカラと空回りしていたりする。

 タスクマネージャでいろんなプロセスを殺してみても回復せず、結局 OS を再起動するまで直らない。この現象が仕事中に発生したりすると、それだけで十数分とられるので目も当てられない。

 仮想ドライブソフトをインストールしているので、それが iTunes か Kindle のドライバあたりとコンフリクトしているのではと疑っているが、正確な原因はまだ特定できていない。イライラ。

・Kindle がどんどん重くなる

 Kindle 3、購入した当初は軽快に動いていたのだが、中に保存した電子書籍が増えるにつれ、どんどん動きが重くなる。

 Kindle の場合、サンプルで中身を確認してから本を購入することができ、これが本屋で立ち読みをする感覚に近くて便利。だから気がつくとサンプルが山のように溜まって行く。

 ハイライトやメモを保存する機能も、当初は便利に使っていたのだが、しまいには保存に何分もかかるようになり、バカバカしくて使うのをやめてしまった。

 たしかに非力なハードウェアには違いないだろうが、こんなに遅いものだろうか。どうもソフトに問題がある気がしてならない。私が作ればこんなことには(以下略)。

 宣伝では何千冊保存できるとか言ってるけど、そんなに保存したら、とても耐えられないほど遅くなるんではなかろうか。なんとかしてくれ。イライラ。 

・鍵の交換に 2 万円もとられる

 部屋の鍵がしばらく前から不調で、何度も閉め出しの恐怖を味わう。それでも市販の鍵潤滑剤でだましだまし使っていたのだが、先日ついに、鍵が鍵穴から抜けなくなってしまう。しかたなく、Google Map で調べて最寄の鍵屋を呼ぶ。

 ところが、電話したときの見積もりでは、最高でも 1 万 5 千円程度と言っていたのに、来たとたん、これは抜くよりシリンダ交換した方がいい。2 万円弱で済みます。とか言いやがった。

 電話の話と違うし、鍵をろく調べもせず見ただけでわかるというアピールもなんか胡散臭いので、他の業者に変えたくなったが、急いでいたので結局 2 万円払ってしまう。なんか悔しい。イライラ。

・出前の人の日本語が変

 最近、出前が時間に遅れることが多い。それはまあいいのだが、遅れることを電話で予告する際に、「遅れますが、よろしいですか?」とか言う人がいる。

 いやいやいや。「よろしいですか?」では、最初から遅れることが前提みたいじゃないか。あなたは事前の約束を破っているわけだから、まず謝罪の意を表すべきだし、待って欲しいとしても、それが当然のように言うのではなく、相手に選択の余地を与える言い方をすべきだろう。

 昔の人なら、こういうときに「誠に申し訳ありませんが、お待ちいただけないでしょうか?」と依頼の形で言ったものである。

 英語には敬語がないと思ってる人もいるみたいだけど、英語だって、"I was wondering if you could..." みたいに、相手に選択肢を与える言い方はちゃんとある。

 こういう言い方をされると、「いーや、よろしくありません!」とかスネたくなるのだが、最近はそんな気力もないので、黙って受け流してしまうことが多い。

 ただ、いきなり「よろしいですか?」と言われても、反射的に適切な応答が出てこないので、つい「え、いや、まあ、別にいいですけど…」みたいになってしまうのがなんか情けない。イライラ。


実は、仕事関係でイライラすることも多いのだが、当然こんなところには書けない。イライラ。

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一人称を「私」に変えた理由

 気づいた人がいるだろうか。このブログの一人称が、最近「ぼく」から「私」に変わったことを。これはいつもの気まぐれではなくて、かなり自覚的な方針変更である。その理由は二つ。

 一つは、ネット上での表現の問題。有名人やプロと無名の素人が平等に発言できるのがネットの特徴だが、この両者の表現のスタイルは違ってしかるべきだと、私は長年考えてきた。

 前にも書いたが、無名の素人の表現というのは、例えるなら、家の周囲を掃除したり水を撒いたりするようなものだと思う。なのにネット上では、掃除をする以上は全国掃除大会の優勝を目指すべきだ、みたいな議論が平気で行われていたりする。これは私から見ると、ずいぶんと異様で奇怪な現象に見える。

 では素人の表現はどうあるべきか。重要な点の一つとして、文脈への依存性があると思う。

 有名人やプロの表現は、表現者のアイデンティティという文脈に依存している。有名人やプロの言ったことは、内容とは必ずしも無関係に「あの人が言ったことだから信じる/信じない」という受け止め方をされるし、表現者自身もそういう受け止め方をされることを自覚的に引き受けている。

 しかし無名の素人はそうでない。無名人の表現は、その人個人のアイデンティティという文脈とは無関係に、内容だけで判断される(コテハンや筆名はとりあえず除外)。とすれば、無名人の表現において、アイデンティティを文脈として提示することに、必ずしも意味はないはずだ。

 そう考えると、「ぼく」という一人称には、「私」と比べると、明らかに余分なアイデンティティが情報として加わっていることが気になる。

 まず性別。最近は「ぼくっ娘」などというのも居るようだが、「紙切れなんかに私たちの未来は決められないぜー!」なんて言葉遣いをする田井中律ちゃんでさえ、一人称は「私」なのだ。だから「ぼく」という一人称が、現代日本において男性を連想させるというのは否定しがたい事実だ。

 そして年齢。これも団塊世代以降は、年配になっても「ぼく」を使い続ける人が増えたけれど、どちらかと言えば、若者もしくは若ぶりたい年寄りを連想させるのも事実だろう。(ちなみに、言語学専攻で修士を取った友人は、「わし」と言ってる奴は若い頃から「わし」だったに決まってる、と言っていたが、学会の通説なのか個人の説なのかは不明。今度詳しく聞いてみたい。)

 さらに言えば、「私」がフォーマルな一人称であるという教育を受けているにも関わらず「ぼく」を使い続ける心性から、反抗期的な幼児性やムード的な反社会性を感じ取る人すらいるかもしれない。

 つまり、「ぼく」という言葉を使った瞬間に、その発言には、特定の年代の男性の意見であるという余計な色がついてしまい、下手すると発言者の性格まで推測されてしまうのだ。

 もちろん、文脈からまったく独立した表現などというものは、存在しない絵空事だし、文脈から独立すればするほどよい、というわけでもない。逆に文脈に意識的に頼ることによって効果を挙げている表現も多い。

 しかし、自分の表現がどのような文脈に依存しているかには自覚的でありたい。そういう自覚こそが表現のスタイルに結びつくという事が、この歳になってようやくわかってきたのだ。上でも「田井中律」などというハイ・コンテキストな固有名詞をいきなり放り込んだりしているが、そういう遊びも、思いつきで自堕落にやるのではなく、意識してやりたいのである。

 無名なのに一人称が「ぼく」や「オレ」だったりするのは、表現スタイルとしてちぐはぐなのだ。名を伏せているくせに、なんでわざわざアイデンティティをアピールしているんだよ、という感じ。端的に言えば「寒い」。無名の表現にも、読み人知らずの和歌や二条河原の落書のような美学が欲しい。

 もう一つは、性の表現の問題。性の表現には TPO が重要だというのは、このブログに何度も書いた主張である。簡単に繰り返すと、性の表現は常に善でもなければ常に悪でもない。公的な場では性の表現を抑制し、私的な場では自由に表現するというような、使い分けが大事だ、と言ってきた。

 しかしよく考えると、この主張と「ぼく」という一人称は整合していない。この論法で言えば、公的な場では性を連想させない「私」という一人称を使い、性を連想させる「ぼく」を使うのは私的な場に限定すべき、ということになるはずではないか。考えてみれば当然だが、私はつい最近までここに考えが及ばなかった。反省せねばなるまい。

 検索してみると、斉藤美奈子さんが似たようなことを書いていたらしい。原文を読んだわけではないのでこれ以上の論評は避けるが、おそらく斉藤さんの主張はかなり正しいのだろう。このブログでは斉藤さんを酷評したこともあるが、そんなこととは無関係に、正しいものは正しいと認めたい。当たり前だけど。

 念のために言っておくが、私は、あらゆる場面で「ぼく」より「私」を使う方が正しい、と言っているわけではない。私は今後も、私的な場では「ぼく」を使い続けるだろう。ただそれは、無名の素人の表現や公的な場での表現にはふさわしくない、と言っているだけである。

 このように文脈を使い分けるという意識が芽生えたのは、おそらく、年齢に関係があるんだと思う。

 子供にはおそらく文脈の意識はないし、文脈を識別する能力すらないかもしれない。子供の前には、あらゆる情報が同一線上に、あるいは、大人とは違う距離感で並んでいる。大人には理解できないものが子供に流行したりするのも、おそらくそのせいだ。

 「そんなのかんけーねー!」が一過性の流行なのか長期的に残る文化なのか、子供には区別がつかない。もちろん、大人だってすべて正確に予想できるわけではないし、私だってよく間違えるけれど。

 女子学生の超ミニスカートにも同じことが言えるかもしれない。彼らにはおそらく、自分の服装がどのような文脈で解釈されるかという意識がない、もしくは、大人とは違う文脈で解釈しているのだろう。その証拠に、大多数の女子学生は、大人になるとミニスカートを止めてしまう。もちろん、だからと言ってリベラルぶって野放しにしていいというわけではなく、だからこそ大人の世界の文脈を辛抱強く教えるべきだと思うのだが、これはまた別の話。

 私がこの歳まで「ぼく」という表現を使い続けた背景にも、無自覚な自堕落な相対主義みたいなものがあったと思う。つまり、一人称なんてどうせ時代や場所によって変わるんだから、こだわったってしょうがない。使いたいものを自然に使えばよい、みたいな発想だ。

 故・星新一氏は、自分の文章が古びるのを避けるため、時代を感じさせる言葉を極力使わないようにしていた。たとえば、貨幣価値だって変わる可能性があるから、「100 円」を「安い金」に書き換える、なんてことすらしていたそうだ。

 正直この話を初めて聞いた頃は、あまり共感できなかった。どんなに頑張ったって、今の古文や古英語みたいになってしまえば自然には読めなくなるんだし、そもそも、死後の読者のことなんてどうでもいいじゃん、とか。

 でも最近になってようやく少しわかるような気がしてきた。たぶん、星氏が求めていたのは、死後の名声なんかじゃないのだ。少しでも文脈依存性をなくし普遍性に近づくということなんだ。

 前にもちらっと書いたことがあるが、最新の流行はすべて「新しい」と思われがちだ。でも実は、それが一過性の流行で終わってしまうなら、新しくはないのだ。だって、未来に残らないのだから。それは絶えず「過去」に過ぎ去ってしまう「現在」の一部でしかない。未来に残る普遍性のある変化こそが、本当に新しいのだ。ここに保守と革新の接点がある。

 古いものすべてを盲目的に有難がっているような保守や、新しいものすべてを盲目的に有難がっているような革新は、実はどうでもよい。未来に残る普遍的な価値を求めているのであれば、保守と革新に本質的な差はない。探す方向が違うだけだ。

 そういう意味で、「私」と「ぼく」の使い分けは、単なる伝統回帰でもないし、一過性の流行への追従でもない。それを超える普遍性があると、私は考える。

 たぶんこういうことは、もっと頭のいい人なら、別に他人に教わらなくても自分で考えてもっと若いうちから実践していることなのだと思う。そのへんの成長が私は異様に遅いということは、自分でもわかっている。これを読んだ若い人は、私のような年寄りにならないように、若いうちからそういうことを考えておくとよいと思う。

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楽観主義バイアス - 不合理に楽天的な脳

The Optimism Bias: A Tour of the Irrationally Positive Brain  著者(現職母校)は心理学と神経科学の専門家で、心理学実験をしながら脳を fMRI で観察するみたいな研究が得意らしい。邦訳はまだないようだ。

 著者が言いたい事は、前書きに集約されている。 つまり、

  1. 人間は生まれつき楽観的である
  2. その楽観性は人間にとって必要である。

 この本で言う「楽観性」は、単に陽性だとか外向的だとかいう意味ではない。未来を予想する際に、自分にとって良い事が起きる確率を、実際の確率よりも高く見積もるという、極めて具体的な性質を指している。このような性質は、将来計画の精度を下げるので、一見するとデメリットが大きいように思える。しかし、それでも楽観性は人間にとって必要だというのが著者の主張だ。

 これを読んで私が即座に連想したのは、故・戸田正直氏の「感情―人を動かしている適応プログラム」という本。初めて読んだのは 20 年以上も前だが、今でも私が影響を受けた本ベスト10ぐらいには入る本である。

 戸田氏の本は、簡単に言えば、感情の合理性を主張した本である。感情というのは理性に比べて不合理だと思われがちだが、感情だって進化の結果獲得したものであるから、本来は環境に適応したものであった。ところが人類は、進化が追いつかないほど急速に環境を変化させてしまったので、現代では感情は不合理になってしまったというのだ。このような感情の合理性を、戸田氏は「野生合理性」と呼んだ。

 こういう発想は、現代ではそれほど珍しくもないのだろうが、当時はまだ、理性=合理・感性=非合理みたいな近代主義的な通念がまかり通っていたので、この発想の転換にはかなりの衝撃を受けた。

 最近の行動経済学なんかでも、人間は不合理だ不合理だと言い募っているようだが、それだけではさほど面白くない。そういう不合理もメタレベルでは合理的であるというモデルが構築できないとあまり意味はないと思うし、そのへんが行動経済学と進化心理学の接点になるんだろうと思う。

 個人の効用最大化みたいな直感的な合理性と、進化論的なメタレベルの合理性がどういう関係になっているのかを、対象化して認識することは、個人の生き方にとっても、社会のあり方にとっても、少なからぬ知見を与えることだろう。

 そんなわけで、この前書きを読んだ私は、かなり期待して本文を読んだのだが、その期待は半分満たされ半分裏切られた。確かに、前者の「楽観性は生まれつきのものである」という主張には十分な証拠が提示されているが、後者の「楽観性は人間にとって必要である」という主張は必ずしも説得的ではない。

 なぜかと言うと、楽観性が有益な例は多数挙げられているけれども、それはあくまで単発的な例であって、体系的にモデル化されていないからだ。たとえば、ストレートを待てば7割の確率でヒットを打てるが、カーブを待てば3割の確率でヒットを打てるというとき、カーブを待っていてヒットを打った例ばかり挙げられても、それだけではカーブを待つ事が合理的だとは言えない。

 確かに、楽天的な人間の方が健康で長生きするというような統計データも示されているが、それがどういうメカニズムによるものかは説明しきれていない。楽天的でないと不安とストレスで病気になるからだ、みたいな説明もあるが、それを言うなら、そもそもなぜ人類は不安やストレスで病気になるような生物に進化したかを問わなくてはならないだろう。

 もし著者が、「感情」でいうところの「野生合理性」みたいなモデルを(仮説でもいいから)提示できていれば、この本はもっと哲学的なインパクトを持てただろう。そう考えると多少物足りないところはある。

 とは言え、著者が提示しているさまざまな事例は、それだけでも十分興味深く考えさせられる。巻末の参考文献を見ると、2000 年以降の論文が結構多いので、そう感じるのは、必ずしも私が無知なせいだけではないと思う。

 例えば「楽観的な鳥」の話。「楽観的な鳥」というのが本当にいるのだそうだ。鳥が楽観的なんてどうやってわかるのかと思うが、それを調べる巧妙な実験があるのだ。さらに面白いのは、同じ種の鳥でも住む環境によって楽観性は違うのだという。なんと、幸せな環境の鳥は楽観主義者になり、不幸せな環境の鳥は現実主義者になるのだそうだ。「貧すりゃ鈍す」は鳥にすらあるということらしい。

 あるいは、過去の記憶と未来の想像には同じ脳の回路が使われているという話。記憶にとって海馬が重要な役割を果たしているのは有名だが、海馬を損傷すると、過去の記憶ができなくなるだけでなく、未来を想像することもできなくなるのだそうだ。

 私は、保守派と革新派は実は思考パターンはよく似ていて、革新派が未来に理想を求めるのに対し、保守派は過去に理想を求めているだけだ、みたいなことを考えたことがあるので、このあたりはすごく腑に落ちる話であった。

 だから、特にこの分野に詳しくない一般の人にとっては、こういう事例を読むだけでもある程度楽しめるのではないかと思う。

 私自身もいろんなことを考えさせられた。私はどちらかと言うと、物事を正確に表現しようとするあまり他人の意欲に水を掛けてしまうタイプなので、少し反省すべきかと思ったり。先日の津波で逃げそこなった人たちについても、○○バイアスとかさんざ言われていたけど、そういうバイアスもそう簡単に不合理とは断定できないのではと思ったり。原発事故の際にも、楽観論ばかり主張した学者が後でさんざ批判されていたけど、(もちろん批判すべきところは多々あろうけど)ある程度の楽観性は必要だったんじゃないかと思ったり。

 結論としては、贅沢を言えば多少詰めの甘いところはあるものの、いろいろ考える材料を与えてくれたという意味では、読んでよかったと思える本であった。

 文体は学者とは思えないほど口語的でキビキビしている。英語を読みなれていない人にもお勧めできる文体である。ただし、不必要なエピソードで水増ししているような感じもあって、飛行機事故やバスケットボールや 9.11 やヒットラーのソビエト侵攻やシドニーのオペラハウスの話をあんなに長く書く必要があるのか、という気はちょっとするが、それもご愛嬌で済む範囲だろう。

 

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コメントしないという美学

 ネット上によく見られる言動で、前から醜悪だと思っている事が一つある。

 社会の変化が激しく予測の難しい昨今、社会的評価の高かった人物や団体の評価が、突然転落することは珍しくない。我々はここ十年そういった例を数え切れないほど見てきた。 したがって、自分がブログなどで高く評価していた相手の社会的評価が、突然転落することも珍しくない。

 そういうとき、今まで自分が評価していた相手を、口を極めて罵り出す人がいる。これが実に醜悪だと思う。

 なぜ醜悪なのか。そもそも批評という行為には、相手のため、社会のため、自分のためという三つの側面があるが、そういう罵倒は主に自分のためでしかないからだ。

 そのような相手の社会的な評価は、すでに十分下がっているので、自分がそれに賛同しても、屋上屋を架すことにしかならない場合が多い。つまりたいして社会のためにはならない。

 なのにこれ見よがしに罵倒して見せるのは、自分のためなのだ。私はこんな奴の仲間じゃありませんよ。一緒にしないでください。迷惑です。エンガチョ。

 罵倒の言葉が過剰になりがちなのは、そういう利己的な動機を無意識的に自覚していて隠そうとするからだろう。私は自分の評価なんか気にしていません、あくまで正義感からです、とアピールしたいわけだ。実に醜悪である。

 私自身も、このブログで高く評価した相手が、後で犯罪者になったり、評価できない仕事をしてしまったり、過激な思想に染まったり、トンデモな主張をしだしたり、ネットで喧嘩を売りまくって総スカンに合ったり、という経験をしてきた。

 このブログは過疎ブログなので、そんな人は多くないと思うが、私がそういう相手に対して今どう思っているかが気になる人も中にはいるかもしれない。

 しかし、私は必要がない限り、そういう相手についてわざわざコメントはしない。そういうコメントは醜くて汚くて卑しいと思っているからだ。

 私がそういうことを気にするようになったのには、きっかけがある。

 かれこれ 20 年ほど前であろうか。芸能人の「ホモ疑惑」が話題になったことがある。そのとき、ある芸能人はわざわざ記者会見を開いて「ホモ疑惑」を否定したのだ。

 表向きは、自分がゲイではないという「事実」を発表しただけかもしれない。しかし、そのためにわざわざ記者会見をすること自体が、ゲイに対する差別的なメッセージを発していた。

 つまり、言っている内容自体は間違っていなくても、あえてコメントするという行為自体がネガティブなメッセージになることがあるのだ。しかも内容自体は間違っていないので、形式的には差別ではないという言い訳が成り立つわけである。実に卑劣な行為だ。

 人の倫理や美学は、コメントの内容だけでなく、あえてコメントするという行為の選択にも現れるということは、そのとき学んだ。 

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極私的ガキ使トークベスト

 松本人志大文化祭を記念して。

 今だから言えるが、震災後一時精神のバランスがおかしくなりかけた時期があった。連日のように津波や原発の悲惨な映像を見続け、真偽不明の雑多な情報を収集し続けたせいだ。

 このままではやばい、と感じたときにやったのが、ガキの使いの DVD を借りてきて片っ端から観る事だった。効果はてきめん。松ちゃんの飛躍した笑いの世界は、過剰な現実に溺れかけていた脳をリセットし、精神の平衡感覚を取り戻すのに最適だった。

 そのとき作ったトーク作品データベースを元に、ガキ使トークのベスト 10 を挙げてみる。


番外 ゴリラとおっさん

 これは、ネタ自体は単純で、喋ったのはゴリラかおっさんか、というだけの話なんだけど、客の読みをはずす方向をイジるだけで、あれだけの爆笑をとれるダウンタウンの技術に戦慄させられる。よく剣豪物とかで、弱いと思ったらハンデ付きで戦っていたことがわかって、本気を出したらどれだけ強いか想像して恐怖するみたいな話があるけど、そういう感じ。ちなみに、去年の M-1 でパンクブーブーがやったネタは、おそらくこのトークをヒントにしたんじゃないかと思うんだけど、違ったらゴメン。 

10.懸賞の車のカギ(「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!11」収録)

 ガキ使トーク自体に対するアンチテーゼと言うべきネタ。当たり前のことを喋ってるだけなのに、こんなに笑えるという事実自体がまたおかしい。一回しか使えない手だが。 

9.巨大竜巻の中心は?(「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!11」収録)

 松ちゃんはよく「絵が浮かぶ」ことの重要性を強調するのだが、このネタも、理由はよくわからないけど絵を思い浮かべると何故か笑ってしまうという系統のネタ。こういう奇怪なイメージは松っちゃんの独壇場だろう。 意識より無意識に訴えかけてくるタイプの笑いである。

8.分別ゴミの秘処理(「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!13」収録)

 分別ゴミの処理方法は?という問いに対して、まとめて燃やしてますと言うだけの、はちゃめちゃナンセンス系のネタ。質問のマジメさと回答のハチャメチャさの落差の大きさに笑ってしまう。

7.電化製品は神頼み(収録 DVD 不明)

 電化製品はすべて神頼みで動作しているという、はちゃめちゃナンセンス系のネタ。思いっきり無茶な設定をしておいて、その設定に力技で強引にリアリティを持たせ、落差で笑わせるというのも松ちゃんの得意技だが、「神頼み」というのは無茶の度合いが桁違い((c)スチャダラパー)なのでその分笑いのインパクトも大きい。

6.松本流ドーピング対策(「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 9 」収録)

 ドーピング検査にひっかからない方法は?という問いに対して、ゴリ押しで無視すればよいと言うだけの、はちゃめちゃナンセンス系のネタ。このネタが好きなのは、はちゃめちゃなんだけど、世の中意外とこういう風に動いているよな、と感じさせる変なリアリティがあること。ぼくなんかは、このトークを観ていると、憎まれっ子世にはばかるを地で行く某アルファブロガー(内田樹に非ず。内田の論敵の方)が「ノンノンノンノン」と言ってる図を思い浮かべてしまう。

5.松本激怒!?(「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで !! 4 」収録)

 怒りを笑いに変えるという、松ちゃん得意の芸風の代表作。松ちゃんの怒り芸の特徴は、単純な相手を批判するだけではなくて、怒っている自分自身をも笑う一歩引いた視点があること。このトークでも、相手の反応に呆れて「はっはっはっはっは」と笑って見せるあたりとか、「子供がいるかもしれないぞ」あたりの芸が絶妙である。

4.「ドンマイ」を最後に使ったシチュエーション(「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!13」収録)

 これは多分、先にオチを考えてから、逆算して前フリを考えたパターンだと思うが、その場で瞬間的に考えたとは思えないほど構成が見事。松っちゃんは発想ばかりが注目されがちだが、実は構成力も半端じゃないことがよくわかるトーク。

3.宇宙刑事(「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで !! 4 」収録)

 SF・ファンタジー系の話を日常のあるあるネタで落とすのも松ちゃんの得意技の一つだが、このトークのすごいところは、アドリブだけで話を転がしていって、最後の最後にまるで台本があるかのような大オチをひねり出しているところである。このトークの唯一の穴は、途中でナスターシャがフランス人だと言ってしまったところだが、そんな瑕瑾など忘れさせるほどオチが決まっている。

2.道にワカメが…その謎深き理由(「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで !! 5 」収録)

 初期のシュール系のトークではこれが一番完成度が高いと思う。何か正体不明の対象について、思わせぶりにディティールの描写を積み重ねていくというのは、以降松っちゃんがたびたび使う手法となるのだが、その芸はこの時点でほとんど完成していることがわかる。思わせぶりでさんざん引っ張った末に、最後にちゃぶ台返しして落とすタイミングが絶妙。

1.悪魔の靴(収録 DVD 不明)

 これも SF・ファンタジー系の話を日常のあるあるネタで落とすパターンだが、オチの完成度が桁違い。悪魔の靴の先が丸まっている理由は? という問いに対する答なのだが、「悪魔はものすごく悪いから」という理由付けにちゃんと筋が通っている上に、その理由付けと悪魔の悪行のセコさから来るおかしさが自然に結びついている。こんなネタをアドリブで生み出すのは、天才だけが成し得る奇跡の技としか言いようがない。

次点:「ボケとツッコミ」、「絶対笑わない男 松本」、「浜田がしたいいこと」、「「山はいいなあ~」登山グッズ購入法」など


 自分が昔好きだった作品を後で鑑賞し直すと、記憶が美化されていることに気づいてがっかりすることも多いのだが、ガキ使のトークに関してはそれはほとんどなかった。

 リアルタイムで観ていたときには、若い頃のダウンタウンは切れ切れだったのに、歳をとるにつれ次第に切れ味が落ちていったようなイメージがあったのだが、見直してみたら、必ずしもそうではなかった。

 むしろ若い頃のダウンタウンは、才能は突出しているものの芸には荒削りなところが残っていて、歳をとるにつれて芸の完成度が増していることがわかる。実際のトーク芸のピークは 40 歳前後だったのではないか。

 おそらく、リアルタイムで切れ味が落ちたように感じたのは、観客の側が松ちゃんの発想法に慣れて来て、贅沢な期待をするようになったせいだったのだろう。

 MHK に関しても、小田嶋氏をはじめ評価が辛い人が多いみたいだけど、ぼくはそう簡単に判断できないと思っている。松ちゃんの作品は、初見ではつまらなくても、後からじわじわ面白くなったり、何年もたってから見直したらやっぱり面白かったりすることが多いからだ。

(まあ、ぼくは最近むしろ、小田嶋氏の鑑識眼に眉唾をつけはじめているので、あまり影響はされないが。こないだのとってつけたような TPP 批判とかもひどかったし、いまだに内田樹のインチキさが見抜けないのも問題。王様は裸だといいたいなら、まず内田に言ったらどうなんだ。)

 ファインアートに対してはそういう態度をとる人でも、お笑いに対しては一回見てつまらないものはつまらないと簡単に判断してしまうのは、単にお笑いに対する偏見だろうと思う。

 ぼくはたとえば、現代音楽について、自分で理解できないというだけの理由で頭でっかちの自己満足だとか言って貶す人を信用しないし、逆に、アカデミックに評価されているというだけの理由で評価する人も信用しない。このへんの態度は、批評という営みの根幹に関わることだと思っている。

 まあこのへんの話については、簡単には書きつくせないので、またの機会に。

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