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早過ぎたひと 世紀の伊達男 加藤和彦

 NHK BS の「ハイビジョン特集」で放送していた、故・加藤和彦氏の特集番組はわりとよかった。

 加藤氏については、YMO からの流れで、ミカバンドやヨーロッパ三部作など一通り聴いてはいたが、断片的な知識しなかなったので、その人生を時代背景とともに眺めるのは、それだけでも興味深い体験だった。リアルタイムで聴いた世代ではないが、時代背景からすれば頭抜けて突出した人物であったことはよくわかった。

 特に、震災以降の「ぜいたくは敵だ」みたいな雰囲気の中で、こういう享楽主義的な人物にスポットを当てた番組制作者の勇気には拍手を送りたい。意図的かどうかは知らないけれど。

 私は前から消費の美学ということを主張しているので、こういう人物の美学に学びたいと常々思っているのだけれど、現実の自分はファッションとは無縁で仕事人間からなかなか脱却できず情けない。

 ちなみに、加藤氏に対する追悼文の中で、私がもっとも共感したのは、菊池成孔氏のこれ

 ジャジーに溢れかえっていたと思い込んでいたコード進行はシャンソンやフォーク並みに少なく(しつこいようですが、コード進行が多いから偉いとかいう事では決してありません)、深淵かつ軽い、欧米の粋な短編小説のごとき水準にあると思っていた歌詞は、当時の雑誌広告のボディ・コピーのように薄っぺらで、つまりこれはよくある皮肉ですが、故人が牽引した日本の未来は、故人の作品をして「石田純一のテーマソングみたいに聴こえてしまうなあ。ああ。何と言う事だ」と思わせるに充分なものだったのです。再び念のため。石田純一さんが嫌いだとか好きだとかいう話ではありません。というか、端的に好きですが、あの「あの頃、マリー・ローランサン」が、<ちょっと気を許すと>、というエクスキューズ付きで、とはいえ、石田純一のテーマソングに聴こえてしまうのはマズい。と、文字通り、タイムマシンに何事かを嘆願する様な気分でした。

 こうしてワタシは、今よりも遥かに妄想癖が強く、神格化のハードルが低かった16歳当時の自分が作り上げた偶像を地にそっと置きなおすと同時に、自分の未来に向けての可能性をひとつ切断し、修正を余儀なくされたのです。妄想による神格化は、言うまでもなく自己愛の反映です。自己愛の反映によって対象を歪めてしまう。という、ありきたりな罪をワタシは犯し、静かに、小さく罰されたのでした。ワタシに、そしてあらゆる対象に対して、同じ罪を犯す10代のリスナーも数多くいる事でしょう。ワタシに申し上げられるのは、しかしこの程度の罪と罰は、むしろ人生を豊かにすると言うことです。

 そう言えば、菊池成孔がなぜかロンブーの田村淳と対談している番組も見てしまったのだが、これもなかなか面白かった。

 世代的には近いが、菊池氏の少年時代も加藤氏とは別の意味で私などには想像もつかない。私も高校時代は、歌舞伎町の区役所通りをチャリンコで通り抜けて通学していたのだが、歌舞伎町っぽい出来事など何一つなかったし。 菊池氏が酒場で荒くれ男の喧嘩を眺めていた頃、私が眺めていたのはもっぱら家族間の喧嘩だったし。

 菊池氏は、ご自身を含めてバブル世代は特殊だと言っていたが、私には自分がバブル世代だという自覚もあまりない。高卒後 2 浪中にバイトで入った会社でプログラミングに目覚め、そのままバイトしながら 7 年かかって夜間大学を卒業し、新卒一括採用など一度も経験したことのない人間にとって、バブルというのはほとんど別世界の出来事でしかなかった。だから、バブル世代などと一緒くたにされるのはかなり不本意なのだ。

 まあこれはバブル世代に限らず何世代だってそうだろうけど。世代論というのはあくまで類型化に過ぎず、個別にはいくらでも例外はあるものである。 

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