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理屈倒れと結果論の狭間で

 私は理解力に先天的な欠陥でもあるのか、何かを理解するのにすごく時間がかかる。その代わり、理解した後はかなり自信をもって語れるようになるのだが、そうなるまでに 10 年ぐらいかかったりする。これまで 40 数年生きてきたが、本当に心から悟ったと自信をもって言えることは、実は二つぐらいしかない。だから他の人はなぜあんなにいろんなことを自信をもって語れるのだろうと、不思議になったり嫉妬したりすることがある。

 そんな私だが、最近久しぶりに「悟った」と感じたことがある。それは、世の中は「理屈倒れ」と「結果論」の間を行ったり来たりしながら進む、ということだ。

 これは一見すると、よくある「理想主義」と「現実主義」の二元論と同じように感じられるかもしれない。実際、思想を観念的なものと現実的なものに分けるという点ではまったく同じなのだが、一つ大きく違う点がある。

 この二元論の場合、両者は必ずしも対等ではなく、多くの場合、理想主義にはロマンティシズムが、現実主義にはシニシズムが結び付けられていたりする。つまり、本当は理想主義の方がいいのだが、現実には不可能なので、仕方なく現実主義になる、みたいなニュアンスで語られることが多い。

 私が悟ったのは、この両者は、どちらか片方だけでは成立せず、どちらも必要だということだ。だから、どちらか一方の優位を主張したりするのは無意味なのである。「理想主義」と「現実主義」と言わずに、あえて「理屈倒れ」と「結果論」と表現するのは、そのニュアンスを伝えるためだ。

 なぜそう言えるのかを、ここで誰もが納得するように説明するのは無理だ。なにせ私が 10 年以上も考え続けて辿り着いた結論なのだから。まあでも、わかる人にはわかるかもしれない、という程度の大筋を強いて説明すればこうなる。

 そもそも、人間が現実を正確に認識することができれば、人類の抱えるあらゆる問題は消滅するだろう。「現実主義」の目指すところはそれだ。しかし、人間は原理的に現実そのものを認識することはできないのだ。人間はなんらかの観念を通してしか現実を認識できない。その意味で人間は「理想主義」を捨てられない。しかし観念と現実とが完全に一致することはなく、この両者にはかならずズレがある。したがって観念は絶えず現実によって修正されなければならない。

 自称「現実主義者」だって、実は現実そのものを認識してなどいない。主観的に現実だと思っている観念を信じているにすぎないのだ。逆に自称「理想主義者」も、現実から完全に背を向けることなどできない。

 これはおそらく、知性というものの本質的な限界に起因するものである。人類は歴史が始まったときから「理屈倒れ」と「結果論」の間を揺れ動いて来たし、おそらく歴史が終わるまでこの両者の間で行ったり来たりを続けることだろう。

 もっとも、だからと言って何も絶望する必要はない。観念と現実が完全に一致する日は永遠に来ないにせよ、この両者の間の距離を縮めるための知識は歴史的に蓄積されてきたし、たとえば最近流行のベイズ推定なんてのは、この両者の間の往復をスマートに無駄なくやるための方法論だとも言えよう。

 もちろん、このような認識がただちに何かを解決するわけではない。ただ、こう思っていれば、理想と現実とどっちが大事か、なんてのは擬似問題にすぎないことがわかるし、どちらを選ばねばならない、というような強迫観念からも解放される。そして世の中が実際に理屈倒れと結果論の間を揺れ動いていても、冷静に観察しながら判断することができるだろう。陳腐な言い方になるが、大事なのは、どちらか片方を選ぶことではなく、両者のバランスをとることなのである。

 現実と観念の対立はいたるところにあるので、少し強引に拡張すれば、実にさまざまな思想的二項対立がこの枠組みで捉えられることがわかる。「理想主義」と「現実主義」、「法治主義」と「人知主義」、「徳倫理学」と「帰結主義」、「運」と「実力」、「偶然」と「必然」、「能力主義」と「成果主義」なども、「理屈倒れ」と「結果論」の一種と考えられないこともない。

 最近、ファミリー劇場で「銀河英雄伝説」のアニメ版をやっているが、考えてみると、この作品も「理屈倒れ」と「結果論」の対立が軸になっている。(「銀英伝」の小説自体は刊行直後に読んでいるのだが、アニメの方は見たことがなくて、今回たまたまファミリー劇場でまとめて放映しているのを観た次第。)

 ラインハルトは結果論の人だ。彼は専制下で生まれ、その制度を倒すことを志す人間なので、手続き的な正当性によってたつことは原理的にできない。だから結果で人々を納得させるしかない。もちろん彼にも理念や倫理はあるが、結果に結びつかないならそんなものは糞食らえだと思っているだろう。実際彼は、良く言えば臨機応変、悪く言えばごマキャベリスティックな行動も辞さない。(もっとも、マキャベリズムの方はオーベルシュタインが一手に引き受けているので、あまり目立たないが。)

 一方、ヤン・ウェンリーは理屈倒れの人だ。彼は民主主義制下で生まれ、その理念を守ることを志す人間なので、手続き的正当性を何よりも重視する。彼にも結果で人々を納得させるだけの能力は十分にあるが、彼はしばしば理念を守るために結果を犠牲にする。

 この両者の対立構造を極端に図式的に表現したのが例のバーミリオン星域会戦でる。私は 「銀英伝」の魅力は結局バーミリオンに尽きると思っているのだが、この両者の対立が「引き分け」に終わるところが、ある種普遍的な物語原型に結びついており、この物語が多くの人の琴線を捉えた理由ではないかと思う。

 今世の中は、震災や原発事故という大きな「結果」に直面した直後なので、「結果論」の方に大きく傾いているが、それは自然なことだ。そして時間がたてばまた「理屈倒れ」の方に傾いていくだろうが、それもまた自然なことだ。

 繰り返しになるが、大事なのは、どちらかを選ぶことではなく、両者の間のバランスをとることである。それさえわかっていれば、何も絶望することはないと思う。

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対 Bonanza 完全勝利 (香落ちだけど)

 白状すると、これは十回ぐらい「待った」をしている。やはりぼく程度の棋力では香落ちでちゃんと勝ちきるのは難しい。油断しているとすぐ綾つけられて逆転される。まあでも、こういうデタラメな戦法でも Bonanza に勝つことは可能だということを証明した意味はあるかなと思う。  

 自己流超急戦雀刺しという感じだが、角道を空けるための手数を省略して金の換わりに銀を上がったのが、駒を打ち込まれるキズになって後々苦労した。角道は結局あまり生かせなかったので、この手順はいらなかったかも。

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対 Bonanza 完全勝利 (角落ちだけど)

 ほぼ全駒。 飛車先の2筋ではなく3筋を伸ばすというのは、相手に角がないからこそできる強引な戦法だが、わりと綺麗に決まった。途中の飛車交換は危険かとも思ったが、打ち込まれた飛車を金銀でうまく封じ込められたので結果的には成功。

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対 Bonanza 完全勝利(飛車落ちだけど)

 玉以外全駒に成功。 戦法は石田流もどき+横歩取りとでも言うか。相手に飛車がないのをいいことに、中段飛車を活用して左右に戦線を拡大。隙を見て相手の駒を掠め取る戦法。

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対 Bonanza 完全勝利 (二枚落ちだけど)

 本当は全駒やりたかったけど、Bonanza は勝手に投了してしまうのでこのぐらいが限界のようだ。対 Bonanza の場合、定跡形できれいに指すより乱戦に持ち込んだ方が勝ちやすいような気がする。

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政治を良くするたった一つの方法

 ぼくはかなり前から(民主党に政権交代する前から)、政治の質を制度的に保証する方法は、最終的には一つしなかいのでは思っていた。それは、政治家の給料を上げることである。

 この方法を口にすることは、おそらくマスコミにとっても政治家自身にとっても、一種のタブーなのだろう。だから真面目に議論されている処すら見たことがないが、ぼくより頭がよくて常識もあり、いつもぼくのアホなアイデアに容赦なく突っ込みを入れてくれる友人に話したら、珍しく同意してくれたので、まったく現実性のない方法でもないのだと思う。

 ぼくがそういう確信に至った理路は、いずれ機会があれば詳しく説明するが、要は、今の政治の問題は政治家の思想よりも質にあるということだ。政治家の質は、かつては国民からの尊敬や役得や賄賂などによって担保されていたが、これらは時代の変化によりすべて消滅しつつある(そしてその方向性自体は正しい)。だから制度的なインセンティブによって質を担保する必要があるというわけ。

 ただ、この方法には一つ大きな問題がある。それは、政治家の給料を上げるのはいいとしても、どの程度上げればいいのかを決めるのが難しいということだ。

 政治家の給料にはもちろん市場原理は働かないし、成果主義的な発想に立つとしても、政治の成果を量的に評価すること自体が困難だ。

 そのあたりでぼくの思考は長年停滞していたのだが、やっと一つアイデアを思いついた。

 要するに、自己申告制にしてしまえばよいのではないか。

 つまり、選挙に立候補する人に、自分の希望年収を公表することを義務付けてしまうのである。その年収は 300 万円でも 10 億円でもかまわない。そしてもし当選したら、必ずその給料をもらえることにする。もちろん、有権者もその自己申告の年収込みで候補者を評価することになる。

 するとどうなるか。自分の能力に自信のある人は高い年収を申告するだろうが、それで結果を出せなければ大恥をかくことになろう。逆に能力より誠実さを売りにする人は、あえて安い年収を申告して有権者にアピールすることもできる。どちらを選ぶかは有権者の判断だ。

 この方法の利点は、人材配置の動的な最適化が可能になることである。

 そもそも、政治家にどの程度の人材が必要かは、相対的にしか決まらないものだ。高度成長期のように世の中が安定していて政治的課題が少ない時期には、政治家に優秀な人材を割り当てる必要はそれほどないかもしれないし、逆に動乱期で政治的課題が多い時期には、政治家にもっと優秀な人材を割り当てる必要があるかもしれない。 政治家・官僚・法律家・企業家その他のどこに優秀な人材を割り当てるべきかの優先順位も、相対的にしか決まらない。

 この方法なら、制度自体を変更することなく、その時代のニーズに応じた人材配置が可能になる。

 ついでに言うと、これは確か橋爪大三郎氏なども提案していたと思うが、得票数が次点の人にも一定の報酬を払ったほうがいいと思う。これはもちろん、二大政党制を前提として、常に主流派を脅かす勢力を確保するためである。これは当選者の申告額から一定割合を割り引いた金額でよいのではないか。

 あと、これはぼくではなくその友人のアイデアなのだが、政治家になんらかのテストを受けさせ、その結果を公開することを義務付けるのもいいと思う。もちろん、テストの成績が悪くても立候補できないわけではないので、参政権の侵害にはならない。資格試験ではなく単なる情報公開という位置づけである。

 素直に知性や教養のある人物を選んでもいいし、知性や教養には欠けるが、人柄のいい人物を選んでもいい。テストの成績をどう評価するかは、あくまで有権者に委ねるというわけだ。

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愛国心の欠如の自覚

 ぼくは「3.11」という言葉があまり好きではない。もちろん、いちいち「東日本大震災」と言うのは面倒なのでなんらかの略称が必要なのはわかるが、ことさらに「9.11」になぞらえた「3.11」という言葉を使うのが嫌いだ。

 もっと正確に言うと、そういう言葉を嬉々として使いたがる人たちが嫌いなのである。そういう人たちに限って、震災に自分勝手な歴史的・政治的な意味づけをして、自分の主張の道具として使おうとしている人だったりする。だからぼくは、単に「震災」とか「今回の震災」とか「東北の震災」と呼びたい。

 おっと冒頭からいきなり話がずれたが、今回の震災で強く自覚させられたことが一つある。それは、ぼくには「愛国心」がない、ということだ。

 震災についての言説でぼくが最も違和感を感じたのは、震災を「日本の悲劇」として捉えようとする人が多いことだった。もちろん、東北の震災が人類史上でもそう多くない規模の悲劇であることに異論はないが、ぼくはどうしてもヒューマニズムの観点から見てしまう。つまり「人類の悲劇」だと思ってしまうのだ。

 たとえば、インドネシアやハイチや四川で巨大な地震や津波があり、死者数だけで言えば東北の震災をはるかに超える(参照)被害があったのはつい数年前のことだ。ぼくはどうしても、このような震災も東北の震災と同じかそれ以上の悲劇だと感じてしまう。

 もちろん放射線や停電の問題に関しては、自分自身や身近な人間が直接的な被害を被っているので、その点では海外の災害より身近に感じるのは当然だ。またぼくは、日本という国に税金を納めたりいろんなサービスを受けたりしており、その点では他国人より日本人との間に強い利害関係を持っているのは間違いない。

 しかしそういう主体的なコミットメントを除いて素朴にどう感じるかを考えると、東北の人もハイチの人もインドネシアの人も同じぐらい可哀想だと感じている自分に気づく。

(余談だが、これはぼくが平均的な日本人よりは多少英語メディアに触れる機会が多いせいもあると思う。英語メディアでは東北の震災も大々的に報道したが、インドネシアやハイチや四川もそれと同じぐらい大々的に報道していたので、自然とシンパシーを抱いてしまうのである。これはダルフール問題などにも同じことが言えるだろう。)

 これは、ぼくが国家主義者でないため理屈で無理矢理そう思い込もうとしているわけではないし、こういう感じ方が正しい感じ方であり、日本人はみなそう感じるべきだと主張したいわけでもない。もちろんだからと言って自分の感じ方が間違いだとも思わない。ただ、自分がわりと自然にそういう感じ方をしてしまうのだということを、自分で再認識しただけのことである。

 このブログにも何度か書いたはずだが、ぼくは昔のサヨクの人みたいに愛国心が悪だとはまったく思っていない。人間には愛国心を持つ自由があるし、それにことさらケチをつける気もない。でも、愛国心を国家が個人に強制したり、国民が他の国民に強制したりする権利はないとも思っているのだ。

 そういう意味で、震災後の日本人が精神的に団結するのが当然だ、みたいな言説の氾濫には多少の不安を覚えている。もちろん節電とか募金とかできる範囲の協力はしているのだが、感情的な一体感を人間性の評価に直結されたりしそうなのが嫌なのである。

 「日の君」などは、単なる形式だから強制されてもいいと思っているが、そこに心が籠もっているかを問わるのはまっぴらだ。だって実際、心なんかこれっぽっちも籠めていないからね。だから、リベラル派だと思っていた小田嶋隆までが「形式よりも心が大事」みたいなことを書いているのを読んだときはかなりゾッとした。

(ちなみに、ぼくの小田嶋隆に対する評価は、内田樹などとは比べ物にならないほど高い。特に、彼の文章を書く手つきに感じられる距離感のとり方みたいなものは、極めて高度な技術であり、内田樹などにはまったくないものである。)

 ぼくは自分の政治的立場をはっきりさせること自体あまりいいことだとは思っていない「旗色不鮮明主義者」なのだけれど、ぼく以外にも同じような肩身の狭さを感じている人がいるかもしれないので、そういう人間の存在も許されるはずだということをここに明記しておきたい。

(前にも説明したような気がするけど、記事が見当たらないので一応補足する。旗色を鮮明にするのが正義だと思っている人が多いようだが、ぼくは逆だと思う。一般庶民にとって、旗色を鮮明にするのは自分のためであり、社会のためにはむしろ害になると思う。だから社会のためにあえて旗色を不鮮明にするのが「旗色不鮮明主義」である。なお、旗色不鮮明主義は日和見主義ともまったく違う。日和見主義は信念自体を周囲に合わせて変えることだが、旗色不鮮明主義は、信念はしっかり持ちつつ、それを右・左とか保守・革新とかの単純化された分類として自ら表現しないことである。だからわざわざ「旗色」とか「不鮮明」とかいう言葉を使っているのだ。言い換えれば、自分の信念を素直に表現して、それが他人から左右保守革新どのように分類されようと知ったことではないということ。ああ長くなった。機会があれば改めて説明することにしよう。)

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内田樹の不思議

 ネット上の発言の劣化について

 別にこの発言単独で見れば、それほど間違ってるとは思わないのだが…

 おまえがゆーな!

とこれほど突っ込みたくなる発言も珍しい。

 経済学者とかの主張を、なんの証拠も示さずオレ様理論で全否定してきた内田先生が何をおっしゃいますやら。それとも自分は匿名ではなく実名だから何を言ってもいいとでも?

 前から不思議なのだが、内田先生はなぜいつも自分が過去ににやってきたことを後から全否定しだすのだろうか。健忘症なのか自虐的なのかよくわからない。

 ぼくは内田先生の言うことを基本的に信用していないので、ブックマークとかで見かけても極力読まないようにしている(最近はタイトルを読んだだけで、これは内田先生の記事だな、と察知できるようになってきた)が、たまに間違えて読んでしまうことがあって、そのたびに、

 おまえがゆーな!

と思ってしまうのだから、わざとやってるとしか思えない。

 これは確か 10 年近く前にこのブログを始めた直後にも書いたはずだが、ぼく自身は「いい加減なことは自信なさそうに書くべき」という主張で、わりとその通り実践してきたつもり。

 一方、「どうせ書く以上は自信を持って断定すべき」という主張の人も結構いて、その代表格が内田樹ではないかと思っていたのだが。

 内田先生が今後断定口調を止めるのかどうか見てみたい気もするが、実際にはそこまで暇じゃないので多分もう見ないだろうけどね。やれやれ。ばかばかしい。

 ここまでやられて、自分が内田樹にバカにされていると思わない読者ってどんな人なんだ。マゾなのか。私のような愚か者は、内田先生にバカにされるのは当然です。好きなだけ踏みつけて下さい。グリグリ。みたいな SM プレイでもやってんのか。付き合ってられん。 言論の場とやらがあるとしたら、内田はさらにその上にいる神だから何をやってもいい、と言ってるのと同じことだぞ。わかってんのか。

 内田がもし本気でこういうことを主張したいなら、これまでブログに垂れ流してきた断定口調の思い付きをすべて訂正して謝罪しろ。そうでなくて誰が信用する? これは断定するけど、絶対にやるはずがない。 つまり、この記事自体がまさに捨て台詞の呪詛にすぎない。

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