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統一球に関する噂

統一球の影響を受けにくい打法とは(東スポ)

引きつけて打つ打者、特に内外角のコースに関係なく引きつけて打つ打者の苦戦が目立っている。打率2割2分6厘と低迷している西武・片岡などはその典型例。内も外もほぼ体の正面でとらえている打者ほど押され負けている。逆に統一球の影響をほどんど感じさせないのが両リーグ断トツの22本塁打をマークする西武・中村やソフトバンク・内川、日本ハム・糸井などだ。
 中村はボールをさばくポイントがもともと前で統一球の影響を最も受けにくい打法。

 ・G小笠原“ドサクサ”先発落ち!怒りの原監督「職務怠慢」(ZAKZAK)

今季26本塁打の西武・中村のような統一球関係なしの打者は、投球を手元まで引きつけられるだけ引きつけ、体の回転で打っている。対照的に小笠原らはミートポイントが前にあり、手打ちになりやすいタイプ。

 ・【プロ野球】中村剛也、松田宣浩は、なぜ統一球でもホームランが打てるのか?(Sportiva)

さらに松田のバッティングを見ていて、ひとつ注目したいことがある。それはボールを手元まで呼び込み、最も力の伝わるポイントでコンパクトにとらえていることだ。

もちろん個人差はあるだろうが、統一球に屈しないスラッガーの要素として浮かび上がってきたのは、「引きつけ」「コンパクトなスイング」「押し込み」の3つ。これをものにした打者が、真のスラッガーの評価を得ることになるだろう

鈴木康友コーチ: ポイントが近く打っている今までのバッターってのは今年は苦労していると思うんですね。うちの中村とかそれからソフトバンクの松田君辺りは、逆にポイントを前にして思い切って引っ叩いてるバッターは今まで通りの結果は出ていると思う。

 -どっちやねん! あんたらええ加減にせえよ。

 統一球を打つのに、引き付けるのと前で捌くのとどっちが有利かだけならまだしも、中村や小笠原がどっちのタイプのバッターかに関する見解すら一致してないなんて、お粗末過ぎやしないか。

 専門家もわりと適当なことを言っているようなので、素人のいい加減な意見を書いてしまうが、打つポイントが前か後ろかの問題ではなくて、力(力積)をインパクトの瞬間に集中させるか、フォロースルーに分散させるかの違いじゃないのか。

 テレビで観ただけの感じだけど、小笠原も和田も(あるいは金森チルドレンも)、スイングスピードがトップからフォロースルーまであまり変わらないのが特徴に見える。だからあの詰まって上等のブチっという感じの打ち方になる。おそらくそのおかげで、ヒットにできるゾーンが広がって変化球対応し易くなるということだろう。だから常に引き付けて打っているわけじゃないと思う。

 逆に中村なんかは、もっとフワっと打っている感じで、インパクトの瞬間からフォロースルーにかけてスイングスピードがさらに加速しているように見える。それが前で捌いているような印象を与えているに過ぎないんじゃないか。

 ボールの反発(弾性)が減るということは、例えて言えば、パンチングボールがサンドバッグに変わるようなもので、パンチングボールのように軽くて弾力のある物は、強く叩いても揺れるけれど、サンドバッグのように重くて弾力の小さいものは、速いスピードで蹴るよりもゆっくり押した方が大きく揺れるでしょ。あれと同じことなんじゃないか。

 弾性が変わっても重さは変わらないんだから、飛ばすために必要な力やエネルギーが増えているわけじゃない。問題は力の与え方にあるはず。 衝撃がすぐ熱エネルギーに変わってしまうような打ち方では飛ばせない、ということだろう。

 「古田の方程式」や「Nanda」のあった頃なら、もう少しマシな分析が出てたと思うんだけどな。野球報道に限らず、マスコミ全体がオワコンになった感じが漂う今日この頃。学生がニュース見ないとか無理もないよ。ぼくですらニュース見るとかえってバカになりそうな気がするもの。

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rei harakami の思い出

 昨日からずっとハラカミさんの音楽を聴いているが、これほどワン・アンド・オンリーという言葉の似合う音楽家も珍しいと思う。

 普通のアーティストの音楽は、誰のどんな音楽の影響を受けているか、だいたい見えるものだ。これとこれを組み合わせて、さらにこれをプラスしたんだな、とか。もちろんそれが悪いというわけじゃないけど、虚仮威しの新しさに興醒めさすることもある。

 ハラカミさんの音楽には、そういう虚仮威しの下品さはまったくない。一聴しただけでは、むしろ懐かしい音という感じさえする。しかしよくよく聴いているうちに、これまでまったく聴いたことのない音楽であることがわかって慄然とするのである。

 これは多分ぼくのような音楽ずれした人間ほどそう思うのだが、だからと言って小難しい難解な音楽というわけでは決してなく、カジュアルなリスナーでもすっと入っていける親しみやすさがある。そこが彼の音楽のなんとも不思議なところだ。

 ぼくは以前ハラカミさんのことをエリック・サティに見立てたことがある。その時は単なる思いつきに過ぎなかったのだが、今考えるとこの見立ては案外うまい見立てのような気がしてきた。

 サティも、一聴すると親しみやすいが実はすごく捻った音楽を作った人であり、世俗的評価から超然としていたところも、音楽理論なんて知らないとか言っちゃうところも、ユーモアと諧謔を好んだところもレイ・ハラカミに似ている。

 もちろん、大作曲家サティに似ているからレイ・ハラカミも偉い、なんてアホなことを言いたいわけじゃない。レイ・ハラカミはレイ・ハラカミだから偉いのである。

 でも、訃報を聴いてレイ・ハラカミの名前を知ったけれど、彼の偉大さが今ひとつわからないというような人は、エリック・サティという補助線を引いて考えると多少は想像がつくかもしれない。余計なおせっかいではあるけれど。

 生前のハラカミさんは、決して「有名」とまでは言えなかったと思うけど、Twitter を眺めた限りでは、ぼくが思っていた以上に多くの人に愛されていたようだ。

 その割に「有名」ではなかったのはたぶん、ぼくも含めてファンはみんな、ハラカミ君を独り占めしておきたかったのだと思う。いやもっと正確に言えば、「有名」とか「商業的成功」とか、そういうものとは関係のない場所に、ハラカミ君をそっと置いておきたかったのだと思う。

 でもぼくは今それを少し後悔している。その巨大な才能からすれば、レイ・ハラカミはもっと世の中に知られてしかるべき音楽家だった。もしぼくらが彼をもっと有名にして、常に取り巻きがいるような地位に押し上げていたら、彼は死ななくてすんだかも…、なんてね。なにより彼自身がそんなことを望んでいないことを、みんな知っているのにね。

 普通は人が死ぬと可哀想だと思うものだが、不思議なことに、レイ・ハラカミの場合は悲しくはあっても可哀想だとは思わない。むしろ、彼はぼくのような愚か者がひしめく世界を見捨てて美しい世界に旅立ったのであって、彼に捨てられたぼくらの方が可哀想なんじゃないかと思えてくるのである。なぜ彼がいてもいいかなと思えるような世界にするために、もっと努力しなかったんだろう、なんてね。

 U-zhaan 氏の弔辞。

 最後に、いつも愛らしいハラカミさんの人柄の中で、僕がとっても好きだった一部分をハラカミさんに伝えておきたいです。

  ハラカミさんは、絶対に人を損得で判断しない方ですよね。誰もがつい反射的にしてしまいがらな「彼は役に立ちそうだから」 とか「知名度があるから」などというような考えを、一切持ち合わせていませんでした。地位も何もない若い僕にも、どんなアシスタントにも、たまたまそこにいた僕の友達にも、全くわけへだてなく尊敬を持って付き合っていました。

  「そんなの普通じゃん」ときっとハラカミさんは言うでしょう。ですが、ハラカミさんほど徹底してナチュラルにそれをできている 人を、僕は見たことがありません。人側関係の基準が本当にシンプルで、だからこそハラカミさんの周りにはハラカミさんのこと を好きで好きで仕方ない人が、老若男女関わらずいつも溢れていました。みんながハラカミさんを愛していました。

 ぼくは、美しい音楽を作る人は美しい心を持っている、なんて御伽噺はまったく信じていないし、他人の弔辞を額面通り真に受けるほど若くもないが、レイ・ハラカミに関しては、きっとこういう人だろうと、音楽を聴いただけで決め付けていたことに今気がついた。


追記: 過去の記事を検索してみたら、「Lust」がリリースされたときにもほとんど同じことを書いていたのに気づいた。ぼくはいつもそうで、自分でも言った事を忘れているのにまた同じことを言うのである。

 ハラカミさんの音楽は、決して俗っぽくない。超俗的である。にもかかわらず、決して難解でも高踏的でもない。極めて親しみやすい響きがある。そこが不思議なところ。

 そういう意味では、ちょっとサティに似てるかもしれませんね。ポップスはサティから始まったみたいなことを言ってた人がたしかいたけど、ハラカミさんは、制度化してしまったポップスの世界に現れた現代のサティ、なのかも知れません(^^)。

Red Curb」を聴いて興奮して Amazon のレビューを投稿したのは、もう 7 年も前なんだね。たった 7 年という気もするが。。。

レイハラカミという名前はずっと気になっていたのですが、不覚にも最近まで聴くのをサボっていて、先日、これまたずっと気になっていた某日立の CM の「あなた」のメチャメチャ格好いいアレンジをやったのが彼だと知って、あわててまとめて聴いた次第です。

彼の場合、エレクトロニカと言っても、生楽器でも成立するような音楽を単に電子音でやっているだけではもちろんないし、かと言って、極端な不協和音があったり、調性がひたすら拡散していったり、単調なミニマルフレーズが延々続くわけでもありません。ただ、彼の音楽は、コード進行にしてもリズムにしても、聴き手の「次はこう来るだろうな」という瞬間瞬間の予想を、常に微妙に裏切っていくのです。

ですから、確かに「癒し系」的な要素もあるのですが、他の癒し系作品のように、作品の持つヒーリング世界にリスナーを引き込んでいくのではなく、むしろ、リスナーの感情のさざなみを打ち消し中和していくことによって、結果的に頭の中を真っ白にしていく感じなのです。脳ミソの関節を全部はずされてグニャグニャにされてしまった感じ、と言っては言いすぎでしょうか。

ハラカミさんの音楽は、半野喜弘さんの重厚な和音とも、竹村延和さんのジャジーな感じとも違い、一見ポップでとっつきやすい音楽ですが、その奥には、まるで整体やマッサージにはまったときのような不思議な中毒性を秘めています。ぜひ一度おためしあれ。

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絶句

 小松左京や顔デカおばちゃんの訃報だけでも十分ショックだというのに、あのレイ・ハラカミまで亡くなったとは。なんという日だ。  Red Curb

 「Red Curb」は、エレクトロニカという狭いジャンルの話ではなく、日本のポップス史上に残る名盤だと思う。やはり天才過ぎたがゆえに、天国の神様からお呼びがかかったのであろうか。無神論者だけどそう思いたい。

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久しぶりにシビれる発言を見た

僕ね、直感がないんですよ。第一感というヤツがね。局面をひとめ見て、この一手、なんて浮かばない。閃かないんです。

- 藤井猛(「Sports Graphic Number 2011年 8/4号」)

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Z80 で乗算

 本当は Z80 より 8086 の方が得意なのだが。

   ORG  8000H
   LD   H,200    ;H = 掛ける数
   LD   L,220    ;L = 掛けられる数

   LD   IX,0     ;IX に計算結果が入る
   LD   E,L      ;掛けられる数の下位を E
   LD   D,0      ;掛けられる数の上位を D

J1:BIT  0,H      ;最下位ビットをテスト
   JP   Z,J2     ;ビットが立っていなければスキップ

   ADD  IX,DE    ;掛けられる数を加算

J2:SLA  E        ;下位をシフト。最上位はキャリーに
   RL   D        ;上位をシフト。最下位はキャリーから
   SRL  H        ;掛ける数をシフト
   JP   NZ,J1    ;掛ける数がゼロになったら終わり

   HALT
   END 

 一応シミュレータでは動作した。確か乗算器もこれに近いロジックだったはず。

(余談だけど、このシミュレータの Vector にある方はバージョンが古くて、一部の命令が正しく動かないので、作者のホームページからダウンロードした方がよい。)

 8086 だとジャンプがむやみと遅かったイメージがあったので、ジャンプを使わずに SBC A,A でマスクを作って AND をとるなんて方法も考えたけど、Z80 は意外とジャンプが速いようなので素直にジャンプにしてみた。

 これならさすがに、ループで 255 回足し算を繰り返すとかよりは速いだろう。8 ビット固定だから、展開すればもっと速くなるけどね。実用ではなくロジックを示すのが目的なので見やすさを優先した。

 サイクル数は目の子で大雑把に勘定しただけ。シミュレータにサイクル数を計算する機能がついていればいいと思うのだが、今時 Z80 でもないからねえ。検索しても資料もなかなか出てこない。ぼくが最後に Z80 を手がけたのも、かれこれ 20 年近く前で、しかも組み込み用途だった。 

 念のために書いておくけど、これは特殊な裏技でもなんでもなくて、ある意味最も標準的な方法である。だからこれを知らない奴がもしいたら、そいつは少なくともこの分野に関してはド素人と断定して間違いない。

 関係ないけど「エロバリ」がんばれ! 我欲の天罰だとか言ってる糞馬鹿に負けるな! 応援するぞ!

 関係ないけど、蜂谷はやっぱり糸谷なのか。あんなにモデルまるわかりで大丈夫か。

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けいおん見立てごっこ

・「ドカベン」の場合

唯 - 岩鬼

澪 - 里中

律 - 山田

紬 - 微笑

梓 - 殿馬

・「1・2の三四郎」の場合

唯 - 岩清水

澪 - 馬之助

律 - 三四郎

紬 - 虎吉

梓 - 参豪

・「紅い牙」の場合

唯 - ラン

澪 - イワン

律 - 桐生

紬 - 由里

梓 - ワタル

・「ナポレオン -獅子の時代-」の場合

唯 - ミュラ

澪 - ナポレオン

律 - ランヌ

紬 - ベルティエ

梓 - ブーリエンヌ

・「銀河英雄伝説」の場合

唯 - ポプラン

澪 - ヤン

律 - キャゼルヌ

紬 - フレデリカ

梓 - ユリアン

・「アルスラーン戦記」の場合

唯 - アルスラーン

澪 - ダリューン

律 - ナルサス

紬 - ファランギース

梓 - ギーヴ

・「七瀬ふたたび」の場合

唯 - ヘニーデ姫

澪 - 火田七瀬

律 - 岩淵恒夫

紬 - 漁藤子

梓 - ノリオ

・「麻雀放浪記」の場合

唯 - 上州虎

澪 - ドサ健

律 - 出目徳

紬 - 女衒の達

梓 - 坊や哲

・「デスパレートな妻たち」の場合

唯 - スーザン

澪 - リネット

律 - ギャビー(ガブリエル)

紬 - ブリー

梓 - キャサリン

・「ウルトラシリーズ」の場合

唯 - ウルトラマンジャック(新マン)

澪 - ウルトラセブン

律 - ウルトラマン(初代)

紬 - ウルトラマンエース

梓 - ウルトラマンタロウ

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創作都市伝説

 ある一人暮らしの女性の部屋で留守電の呼び出し音が鳴った。

 彼女は仕事で疲れていたし、レンタルした映画を鑑賞している最中だったので、出ないで放置することにした。

 「ただいま電話に出ることができません。ピーという発信音のあとにお名前とご用件をお話しください。」

 一瞬の間があって、相手の声が聞こえた。聞き覚えのない男の声だった。

 「殺してやる…」

 なんて悪趣味な、一瞬そう思ったものの、彼女は気を取り直して映画の鑑賞を続けた。

 しばらくすると、再び呼び出し音が鳴った。

  「ただいま電話に出ることができません。ピーという発信音のあとにお名前とご用件をお話しください。」

  「殺してやる…」

 さすがに少し不気味に感じた彼女は、映画の鑑賞を続けながら頭の隅で考えた。

 確か非通知は着信拒否の設定になっていたはずだから、留守電のメモリーには相手の電話番号が残っているはず。このまま逃げられると思ったら大間違いだからね。明日になったら警察に通報してやる。

 映画が終わったので、彼女は留守電のメモリーを表示してみた。見覚えのある番号だった。

 『これ、あたしの携帯電話の番号だ…』

 携帯は確か、帰宅して真っ先に寝室の充電器にセットしたはずだけど、そう思った瞬間、またあの男の声がした。

 「気がついたかい?」

 振り向いた彼女が最後に見たものは、片方の手に彼女の携帯を持ち、もう片方の手に包丁を持った男の姿だった。



付記: アメリカで有名な都市伝説 "The Babysitter and the Man Upstairs" を日本の住宅事情に合わせてアレンジしてみました、という感じ。誰でも思いつきそうな話だけど、検索してみたら意外と同種の話が見当たらないので書いてみました。もし先例があったらごめんなさい。先例がない場合は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス で再配布可能ということでよろしく。

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お中元大作戦

 例の風評被害の件だが。自分で食べるのは平気でも、人に贈るのは失礼みたいに考える人が多いみたいだけど、気にせずどんどん送りつければいいのではないか。

 別に食べる食べないは本人の勝手で、食べなくても生産者の利益は変わらないわけだし。

 相手が機嫌を損ねたらどうするかって? これは当人のキャラとか相手との関係にもよるが、「ぼく世間知らずでニュースとか見てないんでよくわかりません」「どうでした? 福島の桃。美味しかったでしょう!」みたいな顔して知らんぷりしてれば、面と向かって文句は言えないだろう。

 それでも文句を言ってくる奴がいたら、いい機会とばかりに小一時間説教し、それでも納得しない奴とは、いい機会とばかりに絶交してしまえばよい。

 ぼくは例年、贈答とかまったくしない人間なのだが、今年はなんか無性に贈りたくなってきた。やっぱ天邪鬼かな。

 CS 局で偶然聞いて妙に気に入ってしまった曲。アレンジが Portishead に似すぎてるのがちょっと…だけど、でもいい曲。90 年代にこんなの出してたのね。知らんかった。

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ぼくは年収二万円であることが判明しました

稼ぐ人はなぜ、長財布を使うのか? 

私がそこまで財布の力を信じる理由の一つに、財布にまつわるある不思議な法則があります。 それが、「年収200倍の法則」。 「財布の購入価格×200」の数字が、ちょうど持ち主の年収(経営者の場合は可処分所得)を表してしまうというものです。

せっかく隠してたのにぃ!

確かに、お金はあまり大事にしてないな。掃除すると、よく小銭が落ちてるし。

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爆問学問 - 上野千鶴子編

 爆問学問の上野千鶴子編、久々に面白かった。今頃何を言ってるの、という感じだが、録画でついさっき見たもので。

 最近比較的大人しかった太田にスイッチが入っちゃった感じで、しかも、いつもは仲裁に回る田中までが対決姿勢になっちゃったもんだから、さあ大変。阿川尚之編に匹敵する雰囲気の悪さになっちゃた。

 おそらく、本当はもっと長時間の議論だったものを編集で無理矢理短くしたらしく、なぜそんなに怒っているのか正確に伝わらない部分も多々あるけれど、個人的には勝手に脳内補完してニヤニヤして納得した。

 フェミニズムに関する自分の考えはこれまでも何度か書いたし、不十分な情報に基づいて議論しても生産的でないので今回は省くとして、個人的に一番感動したのは以下の台詞:

上野: じゃあお笑いの世界ってのはそういう…

太田: そういう世界なんです。それが基本なんです。人と人との違いを笑うのが笑いの基本ですよ。人と人とが違うってことが笑いなんですよ。

上野: 違いをね、笑っていい違いとそうじゃない違いありますよね?

太田: ないです。全部笑っていいんです。

 素晴らしい! ここには太田光の笑いに対する信念と覚悟が現われている。 「人を傷つける笑いはよくないと思います」みたいな、一見耳障りがよくて実は何も考えてない意見を言って得々としている連中にぜひ聞かせてやりたい。

 太田様、ぼくはやっぱりあなたについていきます。

追記: ぼくが勝手に太田光を代弁すると彼に迷惑がかかるかもしれないので、自分の考えとして書くけど。

 言うまでもないけど、「笑っていい違いと笑ってはいけない違い」があるのではなく、笑っていい社会的文脈と笑ってはいけない社会的文脈、笑っていい関係と笑ってはいけない関係、笑っていい状況と笑ってはいけない状況があるのだ。

 たとえば、家族や友人に対して「あいつはノロマだから」と言えば相手を傷つけない笑いになりうるが、いじめっ子がいじめられっ子に「やーいノロマ」と言えば相手は確実に傷つくだろう。最もタブーとされている身体障害ですら、相手を傷つけない笑いになりうるのは、障害者コントの人や乙武君の自虐ネタが証明している。

 こんな事いちいち説明するのはかえって失礼な気もするけど、(お笑いとは)畑違いとは言え元大学教授の人ですら平気でそういう発言をしているので、わからない人も意外と少なくないのかもしれないので、蛇足ながら付記しておく。この発言を聞いただけでも、上野さんは少なくとも笑いに関しては何もわかっていない、とぼくには断言できる。(上野さんに関しては、他にもいろいろ言えると思ってるけど、面倒なので今回は省略)。

 それにしても、はてなあたりの記事を読んでると、何をどの程度説明すれば何割ぐらいの人が理解してくれるのか、不安になってくるので困る。なんかちょっとしたネタを思いついても、ブログの数十行ぐらいで書いても誤解されるだけで損だな、と思うと書く気もなくなる。まあ、書かなくても誰も困らないと思うが。

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岸辺のアルバム - 34 年目の発見

 週刊現代の「懐かしのテレビドラマベスト100」で、山田太一脚本の「岸辺のアルバム」が 1 位になったらしい、という風の噂を聞き、改めて「岸辺のアルバム」を観直してみた。この作品はまだ DVD 化されていないらしいが、TBS オンデマンドから配信されているので、観る方法はいろいろある。

 ぼくが思うに、山田太一と宮崎駿には一つ共通点がある。二人とも、テーマやストーリーからトップダウンでディテールをひねり出すのではなく、ディテールからボトムアップでストーリーを積み上げていくタイプの作家なのだ。

 これはもちろん、この二人に限った話ではない。特定の価値観や思想を押し付けるために作られた説教臭い教訓話が飽きられ、より感覚的なものが求められるようになったのは、おそらく学生運動衰退以降の一般的な潮流であり、この二人もその流れの中にいるということだろう。

 「岸辺のアルバム」にも、そういう山田太一の個性が遺憾なく発揮されている。このドラマはある家族の崩壊を描いた作品だが、その原因が誰のどの行為かと問われても、明快に指摘できないのである。少なくとも作者は、特定の人物や行為を犯人として指差すことはしていない。

 もちろんどの家族も聖人君子ではなく、それぞれに欠点を抱えているが、それは誰にでもある程度の欠点であり、ささやかなイザコザを抱えながらも「平和な家庭」が維持されてもおかしくない程度の家庭なのだ。

 ところが劇中では、家族間のほんの小さな不満や行き違いが徐々に積み重なり、心の内圧が徐々に高まっていき、ある日とうとう臨界点を超えて爆発してしまう。

 この作品の値打ちは、そういう日常の中のモヤモヤした違和感が澱のように溜まって行く過程を、1 クール 15 回かけて描ききったところにあると思う。これは昨今のジェットコースター的な脚本とはまったく対照的である。

 今回改めて感心したのは、息子の国広富之が爆発して家族の実態を暴露した後の、父親の杉浦直樹の描写。自分自身が中年になったせいもあると思うが、息子に殴り返された怪我を隠すために眼帯を探すところとか、妻が浮気したのを知って突然自分も浮気しようとするところとか、そういう中年男の情け無さにいちいちリアリティがあって感心させられる。

 しかしもっと決定的な見落としがあった。本作品の最後のクライマックスは、八千草薫と杉浦直樹の夫婦が、家族の「アルバム」を救出しようとして、洪水で流失しかかっている家に飛び込むシーンである。全編を通じて控え目な昭和の女性を演じてきた妻は、ここで初めて夫を真っ向から批判するのだ。そして自らも正直な心情を吐露する。

  • 「アルバムが大事だって言ったわね。アルバムが大事でも、本当の繁や律子や私は大事じゃないんだわ。あのキレイ事のアルバムと、この家が大事なんだわ。…贅沢かもしれないけど…寂しかったのよ。寂しかったの。」
  • 「…則子!」

 このシーンを観て、ぼくは初めて八千草薫の役名が「則子」であることに気づいたのだが、改めて考えてみると、劇中で登場人物がこの名前を呼んだのは、おそらくこれが最初なのである。

  それまで杉浦直樹は「お前」とか「おい」としか呼んでいなかったし、子供たちはもちろん「お母さん」と呼んでいた。面白いことに、浮気相手の竹脇無我ですら、彼女のことを「田島さん」とか「奥さん」とか「あなた」としか呼んでいないのである(これが作者が意図的であることの傍証になると思う)。

 つまりこの作品は、性的役割期待に従って生きてきた控え目な昭和の女性が、固有名詞を持った人格を取り戻す話とも言えるのだ。象徴主義的ないしフェミニズム批評的な解釈をすれば。

 劇中ではこの後の会話は省略され、後のシーンで八千草薫が竹脇無我にもらったプレゼントを捨てることにより、二人が和解したことが示唆されるのだが、正直初めて観た時は、この件は説明不足のように思えた。

 でもこのように解釈すれば、「則子!」の一言は、説明不足どころか、実に雄弁にいろんなことを語っていることがわかる。省略の効いた見事な作劇術ではないか。山田太一のファンだとか言いながら、こんな大事なことに 34 年も気づかなかったのは不覚である。

 これはおそらく、専門の研究書などを読めば、(もし正しければ)とっくに誰かが指摘している事だと思うが、ぼくは学者さんのように先行研究のサーベイをする根性がないので、思いつきで書くことをお許しいただきたい。正確なところを知りたい方は、専門書をお読みください。 

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