« Kindle のささやかな Tips | トップページ | 「大聖堂」ってわりといいかも »

田原総一朗を超えてゆけ

 飯田泰之や津田大介が出演するというので、朝まで生テレビ「激論!日本は本当にダメな国なのか?!」を観た。

 番組冒頭では「日本に漂う閉塞感を打破する」的なことを唄っていたのだが、実際には朝生の議論の方がよっぽど閉塞感が漂っていてウンザリしてしまった。とにかく声のデカイ論客が言いたいことを言いっぱなしにするだけで、議論が深まるということがまったくない。こういう傾向は一時期マシになったような気がしていたのだが、いつの間にかすっかり元に戻っている。

 年寄り連中は「日本の若者はなぜもっと怒らないのか」みたいなお決まりの台詞を性懲りもなく繰り返していたけど、ぼくは番組中の年寄り世代と若者世代の丁度中間ぐらいの世代なので、野次馬的に思うのだが、こういう声のデカくてずうずうしい奴が言いたいことを言いっぱなしにしてるだけで、さも何か偉いことをしている気になっているという年寄り連中の議論自体に、若者はウンザリしてるんじゃないだろうか。

 去年の年末に、「田原総一朗の遺言」という田原がテレビ東京時代に製作したドキュメンタリーを特集した番組を観たのだが、ざっくり言えば彼の手法は当時からあまり変わっていないと思った。要するに彼はハプニング的なものにしかリアリティを感じない人なのであり、だからこそドキュメンタリーでもヤラセ的な演出で被写体を追い込むし、ディベート番組でも挑発的な発言で論客を追い込む。

 確かに、冷戦時代・55 年体制時代は、右翼対左翼とか保守対革新とかいうわかりやすい枠組みがあって、多くの論客がそういうステレオタイプな枠組みの中で発言をしていた。だからこそ、そういう枠組みを壊してホンネを引き出す田原的な手法は一定の意味を持った。そのこと自体ぼくは高く評価すべきだと思っている。

 でもその時代はもう終わった。いくらホンネでも言いっぱなしではいつまでたっても議論は深まらない。今はそこから一歩踏み込んで、細かい議論を辛抱強く重ねながら合意を形成していかなければならない時代だろう。

 「田原総一朗の遺言」にはゲストで森達也が出演していたのだが、彼のこんな発言が印象に残った。

 やっぱりね、社会よりも個っていう部分に視点が行っている分だけ、時代を伝えるという意味合いにおいては、価値は微妙です。作品としての価値はね。

 だから本来は、こうやって田原総一朗をドキュメンタリストとして持ち上げちゃダメなんですよ。持ち上げるって事は、つまりいかに今のメディアがダメなのかってことですからね。今のメディアがダメだから、田原さんのドキュメンタリーが価値を持っちゃううわけで。本来こんなの価値をもっちゃダメだ、っていうぐらいの時代状況になってなきゃいけない。

 ぼくは森達也とは必ずしも意見が合うわけじゃないんだけど、これを田原の目の前で、しかも田原を持ち上げる番組のなかで、平然と言ってのける森達也はやっぱり偉いと思った。

 だからまあ、結論としては、宮崎哲弥はとっとと田原から朝生の司会を奪い取れ、っていうことかな。

|

« Kindle のささやかな Tips | トップページ | 「大聖堂」ってわりといいかも »

テレビ」カテゴリの記事

コメント

日本の実力者は、問題解決の能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
これはちょうど、我が国の神様のようなものか。
自己の意思は示すことはないが、その祟りは恐ろしい。
だから、民は閉塞感に襲われることになる。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでいる。

総理大臣もくるくると変わる。
雉も鳴かずば打たれまい。
個人選びが、個人の意思選びになっていない。
日本人の個人には意思がなく、この国にも意思がない。

意思はなくても恣意がある。
だから、個人の恣意を警戒しなくてはならない。
個人主義は、利己主義 (恣意主義) と間違えられることが多い。
だから、当然、自由のはき違えも起こる。

意思のあるところに方法はある。(Where there’s a will, there’s a way).
意思がなければ、解決方法もない。
問題解決の能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
無為無策でいれば、閉塞感に襲われる。

腹案はあるが成案がない。
成案のある人たちが集まって話し合いをすれば議論になる。
成案のない人たちが集まって、議論をすれば喧嘩になる。
成案・意思には筋があるが、腹案・恣意には文章がなく筋がない。
が、そこで恣意の摺合せをすれば談合になる。
談合を行えば、話の筋を考えることなく決定を行うことが可能になる。

理想があり、それに対する成案を用意しなければ、現実を動かすことに対する人々の協力を得ることも難しい。それは、意思決定に支障が生ずるからである。
そして、無力感にさいなまれることになる。
ここにおいて、人々は耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶことになる。

投稿: noga | 2011.02.08 11:06

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/67762/50785073

この記事へのトラックバック一覧です: 田原総一朗を超えてゆけ:

« Kindle のささやかな Tips | トップページ | 「大聖堂」ってわりといいかも »