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大相撲と亀田と民主主義

 大相撲の八百長問題を見ていると、いろんなことを連想する。

 まずボクシングの亀田問題。あれもさんざん八百長とか言われたものだが、亀田に対する批判に比べると、大相撲の八百長に対しては、わりと甘いというか同情的な人が多いような気がするのは、気のせいだろうか。

 相撲は危険なスポーツだから八百長でもしないと身体がもたない、みたいな主張もあるけど、危険度で言えば、ボクシングだって相当危険なわけだし。どう見ても同じ基準で論じられてるようには見えない。 いや、別にダブルスタンダードだとか言って揚足をとってドヤ顔したいわけじゃなくて、多分そこにボクシングと大相撲の「文化」の違いみたいなものが現れてるんだろうと思うんだよね。

 あと、飛躍していると思うかもしれないけど、政治も連想する。なぜかというと、実は、スポーツにおける八百長の問題と、民主主義における政治家の質の問題は、構造的によく似ているから。

 そもそもスポーツの八百長がなぜ悪いかというと、真剣勝負を売りにしているにも関わらず、実際には真剣にプレーされていないからだろう。看板に偽りあり。不当表示。なぜかここだけ小田嶋隆調。

 だけど真剣かどうかは内面の問題だから、客観的な基準で判定するのは難しい。勝負なんだから当然負けることはあるし、勝つために最善を尽くしているかどうかだって、何が最善かの判断自体が人によって違うのだから基準にはならない。むしろ、ある人は速攻相撲を目指し別の人は技巧相撲を目指しという、その違い自体がスポーツの面白さだったりする。

 政治もこれとよく似ていて、何が正しい政策かという客観的な基準はないに等しい。有権者が望む結果が出なかったとしても、その政治家は主観的には一生懸命やっていて、単に能力が伴わなかっただけかもしれない。あるいは、その政治家は主観的には正しいと思っていて、単にその判断基準となっている思想が間違っているだけかもしれない。

 実際、政治の世界にも八百長的なものは存在する。贈収賄は言うまでもないが、特定の利益団体の支持で当選した政治家が、有権者全体の利益ではなく、その団体の利益だけを考えて政治をするなんてのも、(そういうことが「もしあれば」と一応書いておく)八百長ではないにしろ無気力相撲みたいなものだろう。これは無気力相撲と同じく、合法的な手続きの範囲で行われるので、真剣でないことを客観的に立証することは難しい。

(もちろん、「ヤバイ経済学」のように、統計的な偏りから偶然でないことを示すことは可能かもしれないが、この方法では、どの政策が有権者全体のためになっていないかとか、どの取り組みが八百長かを個別に特定することはできない。 )

 そう考えると、政治腐敗とか「政治と金の問題」に対する解決策の考え方を、そのまま大相撲にも応用することができる。その解決策は、だいたい以下のように分類できるだろう。

・法

 外面的な行動を法的なルールによって規制するやり方。政治の場合なら、賄賂の授受を違法化して厳しく罰する。相撲の場合なら、金銭やメールのやりとりを禁じて処罰することになろう。

 この方法は、外面的な行動だけを問題にするので、客観的な判定はしやすいのだが、外面によって内面を規制しようとする方法なので、抜け道が生まれたりして形骸化しやすい。

・倫理

 内面的な倫理に訴えるやり方。政治の場合なら、政治家に対し「もっと有権者全体のことを考えて真面目に政治をしろ」と主に言葉によって訴える。相撲の場合なら、力士に対し「八百長なんかするな。もっと真剣に相撲をとれ」と言葉によって訴える。

 この方法は、成功すれば根本的な解決になるが、内面を直接対象とするので、一律に方法論化したり成果を客観的に判定したりすることは難しい。

・評価

 これは倫理と少し似ているが、政治家や力士側の倫理よりも、それを評価する有権者や客の側の倫理に訴えるやり方。政治の場合なら、小沢さんがよく言ってるように、政治資金の流れだけを透明化して、それをどう判断するかは有権者の審判に任せる。相撲の場合、金銭やメールのやりとりを透明化して、それをどう評価するかは客に任せるということになる。その結果、相撲の観客が減れば、力士も真剣に相撲をとらざるをえなくなるだろう、というわけ。

 この方法では、有権者や客に責任が転嫁されるので、有権者の質が低ければいつまでたっても政治はよくならないし、客の質が低ければ相撲の質もよくならない。ただ、それが当事者の合意によってなされているという形式的な正当化はしやすくなる。

・制度

 これは評価と少し似ているが、評価が倫理にうまく連動しない原因を、制度的な構造に求めるやり方。政治の場合なら、選挙制度を改革して中選挙区制を小選挙区制にするような感じ。相撲の場合なら、ギリギリでも勝ち越せば給金を維持できるというような報酬制度を改革して、勝数や勝った相手の強さと収入が連動するような制度にする。

 この方法は、内面的な真剣さをわかりやすい利益(インセンティブ)によって担保する方法である。したがって、うまく行けば成功率は高い。この方法の問題は、強いて言えば、「金目当ての真剣さなんてニセモノだ」というような思想的な批判がありうることであろう。

 どうだろう。こうやって政治と比べてみることは、八百長問題の相対化にも少しは役立つのではないだろうか。

 もっとも、必ずしも政治とスポーツが同じ解決法をとるべきだとは思わないし、スポーツの中でもボクシングと相撲が同じ解決法をとるべきだとも思わない。

 政治に関してはぼくも有権者の一人なので、自分だったら「制度」や「評価」を中心に選ぶと思うが、相撲に関しては「相撲を愛している」と堂々と言えるほどのファンではないことは自覚している。相撲のあるべき姿は、相撲界の方々や相撲愛好家の方々が、自らの意思で選択すべきことだろう。

 だからぼくは、こうやって分析してみただけで、結論を出さずに筆を措くことにする。

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