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Kindle のささやかな Tips 訂正編

 おれはやっぱりアホだ。その証拠にアホだ。というフレーズは筒井康隆のパクリだが、マジでそう言いたくなるような大ボケをやらかしてしまいましたよ。

 前に「Kindle のささやかな Tips」という記事の中で、Web のページを MOBI 形式に変換して Kindle で読む方法を紹介したんだけど、もっといい方法がありましたよ。

 それがこの「Send To Kindle」。Google Chrome の機能拡張なんだけど、Chrome に現在表示されているページをワンクリックで Kindle に送信できる。

 特筆すべきは、この機能拡張を使うと、Kindle と PC を USB ケーブルで接続する必要すらない、ということ。Amazon.com の Kindle Store で本を買ったときと同じように、ネットワーク経由で直接 Kindle に転送する仕組みになっている(だから、初期設定時に「Manage your Kindle」からメールアドレスを登録する必要がある)。Kindlegen では問題になる日本語の文字コードの問題もないようだ。

 Web で見かけた記事を後でじっくり Kindle で読みたい、というような目的だったら、おそらくこの方法が決定版じゃないですかね。

 唯一の欠点は、普段使っているブラウザが Chrome でないと意味がないことかな。FireFox にも似たような機能拡張がないかと探してみたけれど、見当たらなかった。

 Kindle のメールアドレスに第三者が送信できる機能は、今まであまり存在意義がわかっていなかったのだが、こうやって見ると結構いろんな応用が考えられそうだ。そもそもぼくがこの機能拡張の存在に気づいたのも、ふと「Kindle のメールアドレスに自動的に送信してくれる機能拡張ってとっくに誰か作ってそうだな」と思って検索してみたからだった。

 日本でもすでにいろんな人が紹介していますね。なんで今まで気づかなかったんだろうな。

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picnic album 2

picnic album 2 コトリンゴの新作「picnic album 2」を鑑賞。「picnic album 1」は邦楽のカバーだったが、こちらは洋楽のカバーである。

 最近はテレビの CM ソングなんかを聴いていても矢鱈とカバーが多いのだが、パターンはだいたい決まっている。スタイルを変えてジャズ風やボザノバ風やヒップホップ風にしてみるとか、楽器を変えて伝統楽器や電子楽器にしてみるとか。でもこのアルバムにはそういう安易な作品は一つもない。その発想力には改めて感心させられる。

 中でも見事なのはビョークの名曲をカバーした「Hyperballad」だろう。全編に流れるピアノのアルペジオは、おそらく手で弾いたものをサンプリングしてデジタル的に切り貼りしたものと思われるが、その有機性と無機性が入り混じった微妙な感じがこの曲によく合っている。お得意の控え目なパーカッションもバックに薄っすらと流れるモワっとした音も、すべてがハマるべき場所にハマった精巧な寄木細工のような傑作だ。

 生演奏をサンプリングして切り貼りして独特のグルーブ感を出すというのは、発想としてはヒップホップのブレーク・ビーツと同じなのだが、この程度のフレーズなら鼻歌交じりで弾けてしまうであろう超絶ピアニストのコトリンゴがあえてピアノでそれをやることろが、ファンとしてはぐっとくるのである。

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Church attendance

Gallup International indicates that 41%[1] of American citizens report they regularly attend religious services, compared to 15% of French citizens, 10% of UK citizens,[2] and 7.5% of Australian citizens.[3]

However, these numbers are open to dispute. ReligiousTolerance.org states:

"Church attendance data in the U.S. has been checked against actual values using two different techniques. The true figures show that only about 21% of Americans and 10% of Canadians actually go to church one or more times a week. Many Americans and Canadians tell pollsters that they have gone to church even though they have not. Whether this happens in other countries, with different cultures, is difficult to predict."

- Church attendance (Wikipedia)

最近の日本語では、21% ぐらいだと「まれ」なことになるんでしょうかね。だとすると、今の日本には失業者など「非常にまれ」、だって身近で見たことないもん、とかいうのかな。まあいいや。

 ちなみに、中央部と両岸層じゃ 3 割ぐらい差があるのよん。

Rank
State
Percent
1
Alabama
58%
1
Louisiana
58%
1
South Carolina
58%
4
Mississippi
57%
5
Arkansas
55%
5
Utah
55%
7
Nebraska
53%
7
North Carolina
53%
9
Georgia
52%
9
Tennessee
52%

39
New York
33%
41
California
32%
41
Oregon
32%
41
Washington
32%
44
Maine
31%
44
Massachusetts
31%
46
Rhode Island
28%
47
Nevada
27%
48
New Hampshire
24%
48
Vermont
24%

-ReligionFacts

 余談だが、ぼくも日本は一神教ではないかもしれないが、だからといって必ずしも「宗教に寛容」とは言えないと思う。

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くまのがっこう ~ジャッキーとケイティ~

映画「くまのがっこう~ジャッキーとケイティ」オリジナル・ソングブック  子供向け映画のサウンドトラック。作曲がコトリンゴさんだというので聴いてみた。

 子供向けなので、シンセサイザーなんかを多用したかわいらしいアレンジを予想していたのだが、違った。パーカッションなどがごく控え目に使われているだけで、ほとんどピアノソロ中心の格調高い作品。

 全体の印象は、サティの「本日休演」や「パラード」なんかに近い。だから子供向けにしては高級すぎるぐらいだ。特に好きなトラックは「おはなばたけ~あめふり~ねつを出したケイティ」かな。軽快なテーマ曲が、途中でケージみたいになり、ドビュッシー風のモーダルな旋律で終わる。美しい。

 曲を聴く前に、ジャケットとネット上の説明だけを見て、親戚の小学生の子供にプレゼントしちゃったんだけど、実際に聴いてみたら、小学生にはちと高級すぎるかも、と思った。これを子供のうちから聴いていれば、将来は音感がよくなると思うけどね。その前に飽きられちゃうんじゃないかと心配。

 でも、子供相手だからといって、安易に仕事の水準を下げたり媚びたりしないコトリンゴさんのストイックな姿勢にはますます惚れてしまいましたよ。

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萌え系ギャグマンガって…

 MAG・ネットによると、巷では「萌え系ギャグマンガ」というものが流行っているそうな。なんでも、可愛い女子高生なんかが主人公で、シュールなギャグを連発するんだそうだが…。

 それって吾妻ひでおが 30 年も前にやってたことじゃん!

 「スクラップ学園」とか「チョコレート・デリンジャー」とか「ななこSOS」とか。そのまんまでしょ。

 やはり将来出版されるはずの日本マンガ大全集においては、偉大な吾妻先生に一巻を捧げる必要があるであろう。

 ※ 余談だが、しりあがり寿が冷静に分析的にしゃべっていたのが印象的であった。

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志賀直哉の変な小説

 志賀直哉というと、「城の崎にて」という病人が八つ当たりでヤモリを殺すだけのクソつまらない小説-というのは学生時代のぼくが思ったことだが-を書いた作家、という認識の人も決して少なくないと思うのだが、実は結構変な小説も書いている。

 たとえば「剃刀」という短編は、イライラした床屋が剃刀で客の首を切って殺してしまうという、統合失調症の被害妄想をそのまま具現化したような小説である。

 ぼくはちょっと被害妄想の気があるので、床屋で顔を剃られるたびに、「今この床屋さんが発狂したらぼくはここで死ぬんだろうな」みたいなことを考えてしまう。だからこの小説の背後にある感覚には割と親近感がある。

 もっと変なのは「范の犯罪」である。 これはナイフ投げの曲芸師の話で、彼は自分の妻を的にして、その身体ギリギリの当たるか当たらないかの場所にナイフを投げるという芸をして生計を立てている。普段は百発百中で長年ミスをしたことはなかった。

 ところがこの曲芸師は、ある日とうとう妻にナイフを当てて殺してしまう。当初は過失かと思われたが、やがて曲芸師夫婦は夫婦仲が悪く、事故の前の晩にも喧嘩をしていたことがわかった。果たしてこの事件は過失か故意か、というのがこの小説の趣向である。

 クライマックスは曲芸師の范が裁判官の前で証言をするシーンである。范は、自分でも過失か故意かわからないと宣言して開き直ってしまうのだ。

「私はその晩どうしても自分は無罪にならなければならぬと決心しました。第一にこの凶行には何一つ客観的な証拠のないという事が非常に心丈夫に感ぜられました。勿論皆は二人の平常の不和は知っている、だから私は故殺と疑われる事は仕方がない。しかし自分が何処までも過失だと我を張ってしまえばそれまでだ。平常の不和は人々に推察はさすかも知れないが、それが証拠となることはあるまい。結局自分は証拠不十分で無罪になると思ったのです。そこで、私は静かに出来事を心に繰り返しながら、出来るだけ自然にそれが過失と思えるよう申立ての下拵えを腹でして見たのです。ところがその内、何故、あれを自身故殺と思うのだろうか、という疑問が起こって来たのです。前晩殺すという事を考えた、それだけが果たして、あれを故殺と自身でも決める理由になるだろうかと思ったのです。段々に自分ながら分からなくなって来ました。私は急に興奮して来ました。もうじっとしていられないほど興奮して来たのです。愉快でならなくなりました。何か大きな声で叫びたいような気がして来ました」

「お前は自分で過失と思えるようになったというのか?」

「いいえ、そうはまだ思えません。ただ自分にもどっちか全く分からなくなったからです。私はもう何も彼も正直にいって、それで無罪になれると思ったからです。ただ今の私にとっては無罪になろうというのが総てです。その目的のためには、自分を欺いて、過失と我を張るよりは、どっちか分からないといっても、自分に正直でいられる事の方が遥かに強いと考えたのです。私はもう過失だとは決して断言しません。そのかわり、故意の仕業だと申す事も決してありません。で、私にはもうどんな場合にも自白という事はなくなったと思えたからです。」

(志賀直哉「小僧の神様―他十篇」より)

 こういう事件が実際にあったら、状況証拠で殺人認定されそうな気もするが(法律に詳しい人に教えて欲しい)、まあこの小説はあくまで一種の思考実験として読むべきなのだろう。

  実はこの作品については、山崎正和が「不機嫌の時代」の中で精緻な分析をしている。

不機嫌の時代 不機嫌からの精神史的考察 (講談社学術文庫)結局、物語は一応、范に無罪の決定がくだされることで終わるのであるが、いふまでもなく、作者にとつての真の関心事はこの事件をめぐる法的な判断ではなかつたであらう。問題は、人間にとつて思ふことも、実行することも、さらには思つて実行することも行動の主体性を作らないとすれば、いつたい人間の主体とはどのような仕方であり得るのか、といふことであつたはずである。具体的にいへば、単なる実行と願望のあひだに決心の一瞬といふものがあるとすれば、それはどのやうにして作られ、どのやうな感触として与へるものか、といふことがこの作品の主題であつたと考へられる。

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大相撲と亀田と民主主義

 大相撲の八百長問題を見ていると、いろんなことを連想する。

 まずボクシングの亀田問題。あれもさんざん八百長とか言われたものだが、亀田に対する批判に比べると、大相撲の八百長に対しては、わりと甘いというか同情的な人が多いような気がするのは、気のせいだろうか。

 相撲は危険なスポーツだから八百長でもしないと身体がもたない、みたいな主張もあるけど、危険度で言えば、ボクシングだって相当危険なわけだし。どう見ても同じ基準で論じられてるようには見えない。 いや、別にダブルスタンダードだとか言って揚足をとってドヤ顔したいわけじゃなくて、多分そこにボクシングと大相撲の「文化」の違いみたいなものが現れてるんだろうと思うんだよね。

 あと、飛躍していると思うかもしれないけど、政治も連想する。なぜかというと、実は、スポーツにおける八百長の問題と、民主主義における政治家の質の問題は、構造的によく似ているから。

 そもそもスポーツの八百長がなぜ悪いかというと、真剣勝負を売りにしているにも関わらず、実際には真剣にプレーされていないからだろう。看板に偽りあり。不当表示。なぜかここだけ小田嶋隆調。

 だけど真剣かどうかは内面の問題だから、客観的な基準で判定するのは難しい。勝負なんだから当然負けることはあるし、勝つために最善を尽くしているかどうかだって、何が最善かの判断自体が人によって違うのだから基準にはならない。むしろ、ある人は速攻相撲を目指し別の人は技巧相撲を目指しという、その違い自体がスポーツの面白さだったりする。

 政治もこれとよく似ていて、何が正しい政策かという客観的な基準はないに等しい。有権者が望む結果が出なかったとしても、その政治家は主観的には一生懸命やっていて、単に能力が伴わなかっただけかもしれない。あるいは、その政治家は主観的には正しいと思っていて、単にその判断基準となっている思想が間違っているだけかもしれない。

 実際、政治の世界にも八百長的なものは存在する。贈収賄は言うまでもないが、特定の利益団体の支持で当選した政治家が、有権者全体の利益ではなく、その団体の利益だけを考えて政治をするなんてのも、(そういうことが「もしあれば」と一応書いておく)八百長ではないにしろ無気力相撲みたいなものだろう。これは無気力相撲と同じく、合法的な手続きの範囲で行われるので、真剣でないことを客観的に立証することは難しい。

(もちろん、「ヤバイ経済学」のように、統計的な偏りから偶然でないことを示すことは可能かもしれないが、この方法では、どの政策が有権者全体のためになっていないかとか、どの取り組みが八百長かを個別に特定することはできない。 )

 そう考えると、政治腐敗とか「政治と金の問題」に対する解決策の考え方を、そのまま大相撲にも応用することができる。その解決策は、だいたい以下のように分類できるだろう。

・法

 外面的な行動を法的なルールによって規制するやり方。政治の場合なら、賄賂の授受を違法化して厳しく罰する。相撲の場合なら、金銭やメールのやりとりを禁じて処罰することになろう。

 この方法は、外面的な行動だけを問題にするので、客観的な判定はしやすいのだが、外面によって内面を規制しようとする方法なので、抜け道が生まれたりして形骸化しやすい。

・倫理

 内面的な倫理に訴えるやり方。政治の場合なら、政治家に対し「もっと有権者全体のことを考えて真面目に政治をしろ」と主に言葉によって訴える。相撲の場合なら、力士に対し「八百長なんかするな。もっと真剣に相撲をとれ」と言葉によって訴える。

 この方法は、成功すれば根本的な解決になるが、内面を直接対象とするので、一律に方法論化したり成果を客観的に判定したりすることは難しい。

・評価

 これは倫理と少し似ているが、政治家や力士側の倫理よりも、それを評価する有権者や客の側の倫理に訴えるやり方。政治の場合なら、小沢さんがよく言ってるように、政治資金の流れだけを透明化して、それをどう判断するかは有権者の審判に任せる。相撲の場合、金銭やメールのやりとりを透明化して、それをどう評価するかは客に任せるということになる。その結果、相撲の観客が減れば、力士も真剣に相撲をとらざるをえなくなるだろう、というわけ。

 この方法では、有権者や客に責任が転嫁されるので、有権者の質が低ければいつまでたっても政治はよくならないし、客の質が低ければ相撲の質もよくならない。ただ、それが当事者の合意によってなされているという形式的な正当化はしやすくなる。

・制度

 これは評価と少し似ているが、評価が倫理にうまく連動しない原因を、制度的な構造に求めるやり方。政治の場合なら、選挙制度を改革して中選挙区制を小選挙区制にするような感じ。相撲の場合なら、ギリギリでも勝ち越せば給金を維持できるというような報酬制度を改革して、勝数や勝った相手の強さと収入が連動するような制度にする。

 この方法は、内面的な真剣さをわかりやすい利益(インセンティブ)によって担保する方法である。したがって、うまく行けば成功率は高い。この方法の問題は、強いて言えば、「金目当ての真剣さなんてニセモノだ」というような思想的な批判がありうることであろう。

 どうだろう。こうやって政治と比べてみることは、八百長問題の相対化にも少しは役立つのではないだろうか。

 もっとも、必ずしも政治とスポーツが同じ解決法をとるべきだとは思わないし、スポーツの中でもボクシングと相撲が同じ解決法をとるべきだとも思わない。

 政治に関してはぼくも有権者の一人なので、自分だったら「制度」や「評価」を中心に選ぶと思うが、相撲に関しては「相撲を愛している」と堂々と言えるほどのファンではないことは自覚している。相撲のあるべき姿は、相撲界の方々や相撲愛好家の方々が、自らの意思で選択すべきことだろう。

 だからぼくは、こうやって分析してみただけで、結論を出さずに筆を措くことにする。

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「大聖堂」ってわりといいかも

 NHK の BShi で始まった歴史ドラマ「大聖堂」。ケン・フォレットの "The Pillars of the Earth" という小説をかのリドリー・スコットが中心となってドラマ化した作品。まだ 8 回シリーズの 1 回目を観ただけだけど、なかなか面白そうだ。

 まず単純にイギリス中世史の勉強になる。ぼくは世界史にあまり詳しくないので、一応ちょっとだけ調べてみたが、そもそも、このドラマの舞台となっているイギリスの「無政府時代The Anarchy)」を映像化した作品自体があまりないようだ。

 場所と時代が最も近い作品として「冬のライオン」という映画があるが、この作品に登場するヘンリー2世は「大聖堂」に登場する女帝モードの息子に当たるので、これもちょっとだけ時代がずれている。アーサー王伝説やバイキングや十字軍の映画は山ほどあるようだが。

 物語はヘンリー1世が海難事故(ホワイトシップの遭難)で世継ぎを失うところから始まる。そこでヘンリー1世は娘のモードを後継者にして、家臣に忠誠を誓わせる。この状況は豊臣秀吉が死ぬ間際とちょっと似ていて、淀君に当たるのがモード、徳川家康に当たるのがスティーブンという感じ。彼らは以後王位の継承をめぐって抗争を繰り広げることになる。

 個人的に興味深かったのは教会権力の描き方。 ほら、日本には宗教権力が強かった時代とか、宗教権力と世俗権力の二重構造の時代とか、あんまないでしょう? だから宗教権力が実際に日常生活のなかでどう働いていたのかとか、当時の人たちが自明視していた世界観とか、いまひとつイメージがわかないんだよね。天皇と将軍の関係とも違うみたいだし。

 たとえば、この作品の冒頭には、彼女にフラれて逆ギレした貴族が、主人公の建築士に約束した金を払わないで殺そうとするシーンがある。そのとき建築士の嫁さんが「神様が見ていますよ」的なことを叫ぶのね。そうすると貴族は殺害を思いとどまったりする。あるいは、建築士が出会った謎めいた女性が、建築士の家族に薬をあげただけで「魔女だ」「生死は神様のおぼしめし」「薬は罪」とか言われたりして。そのへんが面白いね。もちろん「無政府時代」の原因となった王座の継承権争いにも教会がからんでいる。

 まあこの作品がどこまで史実に忠実か、ぼくの知識ではわからないけれど、歴史に興味があってこのへんの歴史に疎い人には、それだけでも面白がってもらえるんじゃないかな。

 演出は最近の海外ドラマの演出に似ている。つまり、カットを短く短く切ってスピーディーにストーリーを展開するやり方。だから退屈ではないけれど、短時間に大量の情報が詰め込まれているので、集中して観ていないと伏線を見落としたりする。ぼくも一回ではわからない処が何箇所かあった。これは岡田斗司夫が言うように、ビデオで繰り返し再生することを前提とした演出法なんだろうね。

 俳優陣には、以前紹介した「プライドと偏見」にも出演していた、マシュー・マクファディンドナルド・サザーランドがいる。マシュー・マクファディンはトム・ハンクス的な煮え切らない表情が魅力的で、だんだん好きになってきてしまった。ドナルド・サザーランドも大滝秀治的な存在感があっていいね。

 ただ、この邦題は失敗だったと思う。この邦題のおかげで、ぼくは放送直前まで、「美の巨人たち」や「日曜美術館」みたいな美術番組だと思い込んでいた。まあ小説の方の邦題だから勝手に変えられないのはわかるけど。今でも美術番組だと思ってる人がいるかもしれないので、注意喚起しておく。

参考資料:

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田原総一朗を超えてゆけ

 飯田泰之や津田大介が出演するというので、朝まで生テレビ「激論!日本は本当にダメな国なのか?!」を観た。

 番組冒頭では「日本に漂う閉塞感を打破する」的なことを唄っていたのだが、実際には朝生の議論の方がよっぽど閉塞感が漂っていてウンザリしてしまった。とにかく声のデカイ論客が言いたいことを言いっぱなしにするだけで、議論が深まるということがまったくない。こういう傾向は一時期マシになったような気がしていたのだが、いつの間にかすっかり元に戻っている。

 年寄り連中は「日本の若者はなぜもっと怒らないのか」みたいなお決まりの台詞を性懲りもなく繰り返していたけど、ぼくは番組中の年寄り世代と若者世代の丁度中間ぐらいの世代なので、野次馬的に思うのだが、こういう声のデカくてずうずうしい奴が言いたいことを言いっぱなしにしてるだけで、さも何か偉いことをしている気になっているという年寄り連中の議論自体に、若者はウンザリしてるんじゃないだろうか。

 去年の年末に、「田原総一朗の遺言」という田原がテレビ東京時代に製作したドキュメンタリーを特集した番組を観たのだが、ざっくり言えば彼の手法は当時からあまり変わっていないと思った。要するに彼はハプニング的なものにしかリアリティを感じない人なのであり、だからこそドキュメンタリーでもヤラセ的な演出で被写体を追い込むし、ディベート番組でも挑発的な発言で論客を追い込む。

 確かに、冷戦時代・55 年体制時代は、右翼対左翼とか保守対革新とかいうわかりやすい枠組みがあって、多くの論客がそういうステレオタイプな枠組みの中で発言をしていた。だからこそ、そういう枠組みを壊してホンネを引き出す田原的な手法は一定の意味を持った。そのこと自体ぼくは高く評価すべきだと思っている。

 でもその時代はもう終わった。いくらホンネでも言いっぱなしではいつまでたっても議論は深まらない。今はそこから一歩踏み込んで、細かい議論を辛抱強く重ねながら合意を形成していかなければならない時代だろう。

 「田原総一朗の遺言」にはゲストで森達也が出演していたのだが、彼のこんな発言が印象に残った。

 やっぱりね、社会よりも個っていう部分に視点が行っている分だけ、時代を伝えるという意味合いにおいては、価値は微妙です。作品としての価値はね。

 だから本来は、こうやって田原総一朗をドキュメンタリストとして持ち上げちゃダメなんですよ。持ち上げるって事は、つまりいかに今のメディアがダメなのかってことですからね。今のメディアがダメだから、田原さんのドキュメンタリーが価値を持っちゃううわけで。本来こんなの価値をもっちゃダメだ、っていうぐらいの時代状況になってなきゃいけない。

 ぼくは森達也とは必ずしも意見が合うわけじゃないんだけど、これを田原の目の前で、しかも田原を持ち上げる番組のなかで、平然と言ってのける森達也はやっぱり偉いと思った。

 だからまあ、結論としては、宮崎哲弥はとっとと田原から朝生の司会を奪い取れ、っていうことかな。

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