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UTAU と極私的残響考

UTAU(2枚組)  大貫妙子&坂本龍一のアルバム「UTAU」を聴いた。教授のピアノをバックにター坊が「歌う」だけのシンプルな作品で、曲も教授やター坊がこれまでに発表してきた曲(および童謡1曲)ばかり。ご両人の 30 年来のファンであるぼくとしては、馴染みのある、というより馴染みのありすぎる曲ばかりだったが、その割には新鮮な気持ちで聴くことができた。

 新鮮に感じた理由はいくつか考えられる。一つは、ター坊も言っているように、教授のピアノの奏法が歳とともに成熟してきていることだが、これはまた機会があれば語りたい。

 もう一つ大きかったのは、ピアノのミキシングで、非常に残響の豊かな音で録られているということ。教授(およびそのエンジニアのフェルナンド・アポンテ)は、近年どちらかというと残響を抑えたデッドなミキシングを好んできたのだが、「UTAU」では一転して残響成分の多いミキシングをしてきた。これは、同じ教授のピアノソロのアルバムである「/04」「/05」と聞き比べればよくわかる。

 断言はできないが、おそらくオンマイクとオフマイクの比率を変えるか何かしたのだと思う。かつて教授が故・加藤和彦の「ベル・エキセントリック」というアルバムの中でサティの曲を弾いた時も部屋鳴りが印象的な録音だったが、それをちょっと思い出した。

 このデッド音志向というのは、教授だけではなく、近年のポピュラー音楽界全体の傾向だったと思う。かつて残響は、生楽器を録音する際に自然に発生したものを拾ってミックスするというのが主流だった。それが 80 年代になるとデジタル・リバーブという便利な機械が発明される。コンピュータの理論的な計算により、狭い箱の中の残響も広大なホールの残響も自由自在にシミュレートする機械だ。その結果、80 年代の音楽にはやたらと残響が響き渡ることになった。

 ところが、この残響バブルは 90 年代になって一気に崩壊する。典型的なのはドラムの音で、80 年代には「パワーステーション・サウンド」などと言ってゲート・リバーブのかかった「バシッ」という感じのスネアドラムがカッコイイとされていたのが、90 年代後半の R&B ブームの頃になると「トン」という感じの乾いたスネアドラムが主流になる。

 このデッド化現象は、R&B というジャンルだけの現象ではなくて、さまざまなポピュラー音楽のジャンルで連動して起こったように思う。このへんは現場の録音エンジニアの方々に聞いてみればはっきりすると思うが、とにかく 90 年代後半以降、潮が退くようにリバーブきらきら音は流行らなくなり、デッドな音が主流になっていったのだ。そしてぼく自身の耳もその流れに連動してリバーブきらきら音をダサいと感じるようになっていった。たぶん世のポップス愛好家の多くもそうだったろう。

 この潮流はおそらく、いろんな時代の変化に影響を受けている。ロックからヒップホップや R&B へという音楽メインストリームの変化。エレクトロニカのように、生楽器とはほど遠い抽象的なサウンドを多用した音楽ジャンルの台頭。DTM や ProTools などの発達によりスタジオ録音が減ったこと。ウォークマンや iPod の流行によりヘッドホンでの音楽試聴が主流になったことなど。

 でも、そのような変化の下には共通する感性の変化があるはずだ。ぼく自身の感性を内省して考えると、それは結局「マルチトラック録音による空間シミュレーションのウソ臭さ」ではないかと思う。

 周知の通り、現代のポピュラー音楽の音源では、同時に演奏されているように聴こえる音も、実際には同時に録音されてはいない。マルチトラック録音といって、各楽器を別々のトラックに録音しているのだ。同じ楽器の音を複数のマイクで拾って複数のトラックに録音することさえある。そうやって全楽器のトラックがそろったら、それらをミキシングすることにより、左右2チャンネルのステレオ音源が完成する。

 楽器の定位や残響などは、このミキシングの段階で調節する。たとえば、あるトラックの左チャンネルの音量を多目にし右チャンネルの音量を少な目にすれば、その楽器はリスナー正面より左側にあるように聴こえるというように。さらに、その位置情報を元にデジタル・リバーブで残響を計算すれば、楽器が実際にその位置にあるときと同じ残響を人工的に合成することができる。

 しかし、この方法はシミュレーションとしては極めて粗雑である。これは何も美味しんぼ的ナチュラル原理主義で言っているのではなく、科学的に考えても極めて不完全なシミュレーションなのだ。

 まず、マルチトラック録音では、楽器ごとに勝手な位置にマイクを置いて録音するが、実は、マイクの位置によって変わるのは音量だけではない。音質も変わるのだ。オンマイク(楽器に近い)では低音域が減衰しないので低音域が相対的に強調され、オフマイク(楽器から遠い)では低音域が減衰するので高音域が相対的に強調される。したがって、音量だけで定位を決めても、同時に録音したときと同じ音質にはならないのだ。

 ちなみに最近の録音は、ほとんどの楽器がオンマイクで録音されているものが多く、どの楽器も耳元で鳴っているような音質になっているが、にも関わらず空間的には左右に離れて配置されている。これはこれでウソなのだが、ヘッドホンで聴くとあまり不自然ではない。

 また楽器は無限小の点ではなく大きさを持つ物体なので、どの方向から録るかでも音質は変わる。たとえば、ピアノの蓋を開けて箱の中にマイクを突っ込んで録るのと、演奏者の背後から離れて録るのでは、どう考えても同じ音にならないのは自明だろう。さらに細かいことを言えば、本当に全楽器を同時に録音すれば、ある楽器の音波が別の楽器に反射・共鳴するはずであるが、マルチトラック録音ではそういう楽器同士の干渉も無視されている。

 つまり、マルチトラック録音の音は、仮にすべての楽器が生楽器だったとしても、人工的な操作によって加工された音なのである。そのような音に、いかにも一緒に演奏して録音しました的な残響をこれまた人工的に添加しているがために、音全体がウソ臭くなってしまうのではないか。もちろんそこまで意識している人は少数だとしても、そのウソ臭さは無意識的に伝わってしまうのではないだろうか。

 前述の通り、すべての楽器が耳元で鳴っている現代のミキシングもある意味ウソである。しかしぼくらはそれを最初からウソだと思って聴いているから平気なのだと思う。つまり現代のポピュラー音楽の録音を聴くとき、ぼくらは生楽器の音をライン録り(マイクを経由せずケーブルを直結して録音すること)した電子楽器の音と同じように聴いている。生楽器も電子楽器も同じように人工的に空間に配置された音だと思って聴いている。だからニセの残響は邪魔なのである。

 そんなわけで残響が嫌いになっていたぼくが、なぜ「UTAU」の響きには魅力を感じたのだろうか。同時録音ではないにせよ少人数の編成でマルチトラックの不自然さを感じさせなかったことや、人工的なデジタル・リバーブではなく自然な部屋鳴りだったこともさることながら、教授・アポンテ組のミキシング・センスによるところが大きいのかもしれない。そのへんはまだ完全に解明できていないので、不用意な発言は慎みたいと思うが、残響というものがまた新しい意味づけとともに見直される時代が来ているのかもしれないと感じた。

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