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2010 年によく聴いたアルバム

 今年はメディア・サーバーとして使っていた HDD がクラッシュするという大事件があり、長年地道に MP3 化していた 1 万曲ぐらいのファイルが一瞬にして消滅してしまい、そのショックで以後数ヶ月あまり音楽を聴く気になれなかった。また、贔屓のアーティストが示し合わせたように 2009 年に新譜を出した反動か、贔屓のアーティストの新譜も少なかった(もっとも、菊地さんの「闘争のエチカ」とか半野さんの「BEAUTIFUL CRAZY」とか、まだ入手していない作品もあるが)。そんなこんなで、去年との重複が多くなっている。


1.シェーンベルク「弦楽四重奏のための協奏曲/シュテファン・ゲオルゲの「架空庭園の書」よりの15の詩 Op. 15シェーンベルク:弦楽四重奏のための協奏曲/シュテファン・ゲオルゲの「架空庭園の書」よりの15の詩 Op. 15

今年はシェーンベルクの魅力を再認識した年だった。特に「浄夜」と「月に憑かれたピエロ」の間の時期の曲がいい。「浄夜」以前は後期ロマン派とあまり変わらないし(「浄夜」というのは、武満徹で言えば「弦楽レクイエム」に似ている、などと書くといろんな人の不興を買いそうだが)、「月に憑かれたピエロ」以降は十二音技法が前面に出てくる。その間の自由な無調を試行錯誤している時期の微妙な感じが好き。中でもこの「架空庭園の書」は最高傑作ではないかと思う。最も、10 年前は「シェーンベルクなんてどこがいいのかわからない」と言っていた人間の言う事だから、10 年ぐらいたつとまた変わってる可能性もあるが。


2. ウェーベルン「Passacaglia / Symphony / Five Pieces
去年と重複。
3.デヴィッド・シルヴィアン「マナフォン

マナフォン  紹介済み


4.コトリンゴ「picnic album 1

picnic album 1  紹介済み


5.細野晴臣「紫式部 源氏物語

紫式部 源氏物語20 年以上前の作品。細野ファンのぼくは、もちろんリアルタイムで聴いているのだが、当時はあまり良さがよくわからなかった。今年聴き直してようやくこの作品の魅力に気づいた次第。純邦楽と西洋音楽の融合というと、邦楽器で西洋の曲を弾くみたいになりがちだが、この作品はまったく違う。純邦楽の構造をかなり深いレベルで理解して再構築している感じ。その結果、一見すると純邦楽のようで、よくよく聴くとまったく違うという不思議な作品に仕上がっている。これは武満徹の純邦楽作品に匹敵するレベルの高い仕事だと思う。長年細野ファンを自称していながら、この作品の魅力に 20 年以上も気づかなかった不明を細野さんに謝りたい気持ちだ。


6.シェーンベルク「月に憑かれたピエロ

シェーンベルクの代表作とされているが、実はそれほど好みではない。特にあのシュプレッヒ・シュテンメという奴がどうしても好きになれない。 あくまで批評ではなく好みの問題だと思うが。


7.バッハ「マタイ受難曲

Complete Bach;St Matthew Passi  去年と重複。


 8.菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラール「ニューヨーク・ヘルソニック・バレエ

ニューヨーク・ヘルソニック・バレエこの作品については、現代音楽とサルサの融合とかだけでなく、バレエのリズムを取り入れていることにも注目すべきだと思う。これは菊地さん自身が明言しているのに、それに言及したレビューが少ないのは可哀想だ。表題作の「New York Hell Sonic Ballet」が典型だが、普通に演奏すればありふれた現代音楽になってしまうところを、独特のリズムによって生命力を与えている。確かにバレエやコンテンポラリーダンスには独特のリズム感がある。一般的なダンス・ミュージックのリズムは、身体の慣性や固有振動数に身をゆだねる感じなのに対し、バレエのリズムは揺れを意思の力で無理矢理ピタッと止める感じだ。菊地さんの狙いは、この「バレエのリズムの再発見と再定位」にあったのではないか。


9.ウェーベルン「Symphony, Op 21 / Six Pieces, Op 6 / Concerto for Nine Instruments, Op 24」

去年と重複。


10.コトリンゴ「trick & tweet

trick & tweet佳作ではあるが、「songs in the birdcage」に比べるとややアベレージが低いことは否めない(もっともこれは、「songs in the birdcage」が傑作すぎるせいだが)。でも、「海の向こうに行った人」はとてもいい曲だと思うので、この曲だけでも機会を見つけて聴いてみて欲しい。

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サンタさんが来た!

 サンタさんが来た! ピザーラの出前を頼んだら。

 派手にクラッカーを鳴らして、

「メリー・クリスマス! サンタさんですよー。クリスマス・プレゼントをどうぞ」

と言いながら景品の一つも渡してくれるのかと思いきや、そんな演出はまったくなくて、サンタにあるまじき「仕事なので仕方なくやってます」的なオーラを全身に漂わせながら、いつものように事務的にニュー スパイシーイタリアーナとトスカーナ風ラザニアとローステッドポテトを置いて去っていく、髭もない若々しいサンタなのであった。

 ああいう演出は、せめてノリノリでやってもらわないと、こっちまで寒々しい気持ちになるなあ。

 もっとも、ぼくが会社員時代に上司にああいうことを命令されても、やっぱりそんなにノリノリにはなれなかっただろう。と思うとつい「大変ですねえ」とエールを送ってしまうのだった。 

 やっぱ子供のいる家とかだったら、それなりに心温まる情景になったりするのかしら。

 さーて今日も深夜まで仕事だ。 夜中にコンビニに行ったら、またケーキやワインを安売りしてるかな。

神を忘れて、祝へよ X'mas time

ひとりひとりが 愛となれよ 

-「神を忘れて、祝へよ X'mas time

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JFK:アメリカを変えた3発の銃弾

Jfk: 3 Shots That Changed America [DVD] [Import] ヒストリー・チャンネルの番組(*1)。ケネディ大統領暗殺事件について、前に紹介した「9.11~アメリカを変えた102分~」 と同じ手法で描いている。つまり、現代の視点からのナレーションや再現映像などを交えず、当時撮影されたリアルタイムの映像だけを編集して時系列に並べた作品である。この手法が、前にも書いた通り、歴史的事件の当時の空気感や臨場感を伝えるのに極めて優れた手法であることを再認識させられる。

*1 当初「製作」と書いたのだが、調べて見ると、製作は「New Animal Productions」という会社でヒストリー・チャンネルは流通担当ということになっているようだ。

 娯楽番組の途中で割り込んでくる臨時ニュースの映像、事件を報道するスタジオの混乱ぶりがそのまま映っている映像などには、時代の雰囲気が強く反映されているし、当たり前だが、犯人がわかっていない段階では、犯人は極右だという人がいるかと思えば共産主義者だと言う人もいたりして、そのこと自体が当時の政治状況を教えてくれる。

 現代の視点から意味づけされた映像を観ると、ストーリーにとって意味のある部分だけに自然と注目してしまうものだが、こういう映像を観ると、そういう見方では捨象されてしまう細部に自然と目が行く。そこからいろんな発見が得られるのは、映像という多義的なメディアならではの特性だと言えよう。

 普通のドキュメンタリーは、主題を描くことが目的で、その手段として背景を描いていく。しかしこの作品では、主題はむしろ手段化していて、その背景となっている時代の空気を描くことこそが目的になっている。つまり、普通のドキュメンタリーとこの作品はいわばポジとネガの関係になっている。そう考えると、この手法には単なる意外性以上の積極的な意味を見出せるのではないだろうか。

 ぼくらは歴史を学ぶとき、代表的な事件をピックアップして、その間の因果関係を考える。ところがそうすることにより、逆に意思決定の前提となっている時代の空気は捨象されがちだ。たとえば、なぜ日本はあんな無謀な戦争に突入したのか、なぜドイツ人はあんな声がでかくて運がいいだけの小男に熱狂したのか、ということは、時代の空気を知らない者にとっては、単に愚かな事にしか思えなかったりする。しかし、そのようにタカをくくってしまうことが、歴史から正しく教訓を得る方法では多分ないだろう。

 ちなみに、この作品では全編にわたってエレクトロニカ風の音楽が小さい音で流れているが、実はこれがいい効果になっている。これがもし、普通の劇的な映画音楽だったりしたら、そこからまた別の意味付けが発生して全然違う作品になっていたであろう。エレクトロニカという音楽にはこういう使い方があるんだ、というのも一つの発見であった。

(最近は、「クローズアップ現代」や「報道ステーション」でもエレクトロニカ風の音楽が多用されているが、これも一時期のように変に感情を煽るような音楽を使うよりはいい傾向だと思う。エレクトロニカの持つある種の距離感はやはり時代と共鳴する部分があるのだろう。)

 そう言えば、マンガ家のとり・みき氏が「愛のさかあがり」の中で書いていた。氏は大事件が起こると、いろんなテレビ局のワイドショーや報道を同時平行的に録画して、後で編集し直して楽しむんだそうだ。読んだ当時は何が面白いのか今一つピンと来なかったのだが、今はわかる。氏はたぶん、そういう後から意味づけされた映像からはこぼれ落ちてしまうディティールに当時から注目していたのだろう。

 今後もヒストリー・チャンネルには、この手法でいろんな番組を作って欲しいと思う。日本でもやったらどうか。あさま山荘事件よど号事件なんかは、当時の左翼的な時代の空気を知らないと理解しずらい事件だから、こういう手法に向いているのではないだろうか。今だったら、きっと Twitter のツイートなんかも引用されるんだろうね。テレビの報道映像に、それを観ながらつぶやいている人のツイートをオーバーラップさせたりして。あ、それだとニコニコ動画になっちゃうか。

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思っちゃったんだから仕方ない

 「パプリカ」の所長のモデルって、小室直樹だよねえ?

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剣菱最強伝説の謎

 今回は同世代の人だけに向けて書く。ぼくが幼少の頃「サケブタ」というものが流行したことがあった。漢字で書くと「酒蓋」。つまり日本酒のビンの蓋のことである。

 ビンの蓋は山高帽子のような形をしていて、帽子のつばにあたる部分が金属製の円盤、山(クラウン)にあたる部分がコルクないしプラスチックでできている。この山の部分を切り落とすと、ちょうどコインのような金属の円盤だけが残る。これを収集してゲームに使うのである。

 遊び方はこんな感じだった。一対一の対戦ゲームで、まず二人の子供がそれぞれ自分のサケブタ・コレクションの中から好きなものを代表として選び、先攻・後攻を決める。後攻の子は自分のサケブタを床に置き、先攻の子は自分のサケブタの縁を相手のサケブタの縁に上から強く押し付ける。すると後攻のサケブタは「パチン」という感じで跳ね飛ばされる。それが着地したときに、裏返っていれば後攻の負けで、その子のサケブタは先攻の子に没収される。裏返っていなければ、攻守を入れ替えてもう一度プレイする。これを決着がつくまで続ける。

 今考えると「それってそんなに面白いか?」という気もするが、子供がコレクション性のあるものに弱いのは万古不変の真実のようだ。そんなわけで、一時期は毎日のように近所の酒屋に行ってサケブタを貰ったり、あまつさえ、置いてある酒瓶から勝手にサケブタをくすねたりしていた。これは順法精神の欠如した昭和という野蛮もしくは古き良き時代の話であるから、現代のよい子のみんなは決してマネしてはいけない。

 今考えると不思議なことはもう一つあって、サケブタにはなぜか序列があったのだ。かすかな記憶を頼りに書くと、確かこんなだった。

  1. 剣菱(黒)
  2. 剣菱(赤)
  3. 菊正宗(縁がギザギザ)
  4. 菊正宗(縁がツルツル)

傍証を得ようと思って検索してみたところ、菊正宗についての証言は見当たらなかったが、剣菱が最強だったという証言はいくつか見つかった。

上の写真にもあるように「大関」「白雪」というお酒は一般的な銘柄だから希少価値は低いんですが、「剣菱」とか今まで見た事も聞いた事もないような銘柄の酒蓋を持っていると、それだけでみんなに自慢できたんですね。 

当時欲しかったのは「黒松剣菱」。普通のオレンジ色のマークではなく黒でマークが書いてあり「特級」と書いてあるレア物でした。初めてゲットしたときはうれしかったな~

それでも影で暫くブームは続き、「酒蓋は背が高い程強いらしい、特に剣菱は」と聞きつければ、何を置いても欲しかった。

つまりこの「剣菱最強伝説」は、ぼくの周囲の子供だけではなく、かなり広い範囲に広まっていた伝説だったらしいのだ。

 なぜこんな伝説が広まったのだろう。理由はいくつか考えられる。

  • 剣菱の蓋は物理的に他の蓋と違っていて、実際に裏返りにくかった(実際に強い説)
  • 剣菱という酒自体が希少または高価で、蓋も入手しにくかった(希少価値説)
  • 剣菱の蓋はデザインがかっこよかった(カッコイイ説)
  • 単なる都市伝説で特に意味はない(都市伝説説)

 自分の感じだと、「実際に強い説」はちょっと怪しくて、「希少価値説」と「カッコイイ説」によりそういう思い込みが自然発生し、その結果として「都市伝説説」になったのではないかという気がするが、確証はない。

 こんなことを調べていったい何の役にたつのか、言ってる本人もまったく定かでないが、これだって一つの文化だったわけだし、何か意外な歴史秘話に結びついていないとも限らない。実は、オウム事件の原因はサケブタによる少年時代のトラウマだった、なんてことはないと思うが、どなたか物好きな方が調べて教えていただけると嬉しい。もちろんアイデア料などを請求する気はまったくないし、リンクを張ってもらえばアフィリエイト料でウヒウヒなんて下種な事はこれっぽっちも考えてませんので。そうでもないか。

 ちなみに、黒が赤より珍重されたのは、フェミニズムも知らない野蛮な昭和の時代の間違ったジェンダー意識によるものだと思われる。したがって現代のよい子はうかつにマネしてはいけない。

追記: わ、リンカーンとネタカブリしてもうた。書いたのは見る前です。でもなんかサブい。

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「3 月のライオン」の細部力

3月のライオン (1) (ジェッツコミックス) 最近あまりマンガを読んでいないせいもあるだろうけど、久しぶりにいいマンガを読ませてもらったという感じ。評判は目にしていたが、また柳の下の泥鰌狙いの将棋物か、と軽く見ていた。申し訳ない。

 もっとも、レビューを見てもピンと来なかったのは無理もない。このマンガの何処がいいかを言葉で説明するのはなかなか難しいのだ。個別の要素を考えれば、それほど斬新なわけではない。将棋を題材にしたマンガなら、それこそこのマンガの中でもパロディにされている「月下の棋士」や「ハチワンダイバー」などがあるし、勝負に人情話を絡めたマンガだって「あぶさん」などがある。主人公の桐山零は、家族と死別して中学生でプロ棋士になった孤独な少年。もちろん現実にそんな人間がいたらかなり珍しいだろうが、マンガの主人公としてはそれほど突出しているわけでもない。では何がスゴイか。

 前にこのブログでひぐちアサのマンガを褒めたときに、表現の「ビット数が多い」というような言い方をしたが、このマンガもそれに近いと思う。つまり細部の描写に際立った力があるのだ。

 たとえば零が世話になっている川本家の描写。このマンガでは、川本姉妹がどんな料理を作っているかとか、お菓子の包み紙を手製のイモ版で印刷しているといった、細かい描写が執拗になされる。これはストーリーのことだけを考えれば冗長なのだが、実はこの描写のおかげで、川本家で零がどれだけ癒されているかが、実感として読者に伝わってくるのだ。これが下手なマンガ家だったら、「零は川本家にいると癒される」と台詞やナレーションで薄っぺらに説明してしまうところだろう。あるいは島田開八段の描写。島田の世話をひきうけた零が、胃痛持ちの島田のために、うどんを作ったり枕元にお茶を用意したりという描写がこれまた執拗になされる。そのおかげで胃痛をおして闘っている島田の必死さやそれを気遣う零の心情が実感として読者に伝わってくる。

 ストーリーからトップダウン式に細部の描写をひねり出すのではなく、細部の描写からボトムアップ式に作品全体を積み上げていくというやり方は、他のジャンルで言えば、山田太一や宮崎駿などもそうである。特に宮崎駿は、全体のストーリーは破綻していても細部の迫力だけで押し切ってしまうというのはよく言われることだ。しかしマンガというジャンルは、どちらかというと目先の新しさを追求しがちなジャンルだったはずで、こういう作家が出てくること自体がジャンルの成熟を示す現象なのかもしれない。

 こういう腕力のある人なら、何を描いても一定水準はクリアできるはずなので、これまだ評判の「ハチミツとクローバー」も機会があればぜひ読んでみたいと思う。 

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BBC ディベートでの根岸発言

二酸化炭素をリサイクル ノーベル座談会で根岸さん提唱 - asahi.com

 BBC で見た。こんな感じだった。

  • Q: Has science not given the answer yet to climate change?
  • Negishi: No. But I think, it's gonna be scientists, I hope it's gonna be a bunch of chemists who provides the correct answers.
  • Q: Do you have any idea what that correct answer might be?
  • Negishi: I think I do.
  • Q: Let's hear it.
  • Negishi: OK.. So I think some of the major problems that I can think of today in addition to climate change, we have food shortage problems and then energy issues that can trigger ugly wars, all these are organic chemical problems. And the key, the center of all these things is carbon dioxide as we all know, but the world should learn that carbon dioxide was a major source of organic compounds, all these things. And it should never be viewed as something to be hated.
  • Q: You suggest recycle.
  • Negishi: For eternal sustainability, the only way is to use it, recycle it, and use it over and over and over again.
  • 司会: 科学はまだ気候変動の解決に到っていないのですか?
  • 根岸:まだですね。でも「正しい解答」をもたらすのは科学者だと思っていますし、それが化学者だといいですね。
  • 司会:あなたにはその「正しい解答」のアイデアがありますか?
  • 根岸:あると思いますよ。
  • 司会:ぜひ聞かせてください。
  • 根岸:いいですよ。気候変動以外に今日私たちが思いつく問題として、食糧不足の問題や醜い戦争を引き起こすエネルギー問題などがありますが、これらはすべて有機化学の問題です。その中心にあるのは、みなさんご存知の二酸化炭素ですが、この二酸化炭素が身の回りの有機化合物の主な供給源だということを知るべきです。だから嫌われ者扱いすべきではありません。
  • 司会:リサイクルを提案しているのですか?
  • 根岸:永遠の持続可能性に到る唯一の方法は、二酸化炭素を使い、リサイクルし、繰り返し繰り返し使うことなのです。

 聞き取り違ってたらごめん。

 根岸さんは東洋の賢人という感じで、わりと控え目な印象。目立ってたのはマリオ・バルガス・リョサだね。中国問題についてロシアの物理学者とかなり熱く議論してた。

 エアコンが故障したので、デロンギのオイルヒーターを衝動買いしてしまった私。寒さが身にしみるね。今年ももうすぐ終わりか。

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UTAU と極私的残響考

UTAU(2枚組)  大貫妙子&坂本龍一のアルバム「UTAU」を聴いた。教授のピアノをバックにター坊が「歌う」だけのシンプルな作品で、曲も教授やター坊がこれまでに発表してきた曲(および童謡1曲)ばかり。ご両人の 30 年来のファンであるぼくとしては、馴染みのある、というより馴染みのありすぎる曲ばかりだったが、その割には新鮮な気持ちで聴くことができた。

 新鮮に感じた理由はいくつか考えられる。一つは、ター坊も言っているように、教授のピアノの奏法が歳とともに成熟してきていることだが、これはまた機会があれば語りたい。

 もう一つ大きかったのは、ピアノのミキシングで、非常に残響の豊かな音で録られているということ。教授(およびそのエンジニアのフェルナンド・アポンテ)は、近年どちらかというと残響を抑えたデッドなミキシングを好んできたのだが、「UTAU」では一転して残響成分の多いミキシングをしてきた。これは、同じ教授のピアノソロのアルバムである「/04」「/05」と聞き比べればよくわかる。

 断言はできないが、おそらくオンマイクとオフマイクの比率を変えるか何かしたのだと思う。かつて教授が故・加藤和彦の「ベル・エキセントリック」というアルバムの中でサティの曲を弾いた時も部屋鳴りが印象的な録音だったが、それをちょっと思い出した。

 このデッド音志向というのは、教授だけではなく、近年のポピュラー音楽界全体の傾向だったと思う。かつて残響は、生楽器を録音する際に自然に発生したものを拾ってミックスするというのが主流だった。それが 80 年代になるとデジタル・リバーブという便利な機械が発明される。コンピュータの理論的な計算により、狭い箱の中の残響も広大なホールの残響も自由自在にシミュレートする機械だ。その結果、80 年代の音楽にはやたらと残響が響き渡ることになった。

 ところが、この残響バブルは 90 年代になって一気に崩壊する。典型的なのはドラムの音で、80 年代には「パワーステーション・サウンド」などと言ってゲート・リバーブのかかった「バシッ」という感じのスネアドラムがカッコイイとされていたのが、90 年代後半の R&B ブームの頃になると「トン」という感じの乾いたスネアドラムが主流になる。

 このデッド化現象は、R&B というジャンルだけの現象ではなくて、さまざまなポピュラー音楽のジャンルで連動して起こったように思う。このへんは現場の録音エンジニアの方々に聞いてみればはっきりすると思うが、とにかく 90 年代後半以降、潮が退くようにリバーブきらきら音は流行らなくなり、デッドな音が主流になっていったのだ。そしてぼく自身の耳もその流れに連動してリバーブきらきら音をダサいと感じるようになっていった。たぶん世のポップス愛好家の多くもそうだったろう。

 この潮流はおそらく、いろんな時代の変化に影響を受けている。ロックからヒップホップや R&B へという音楽メインストリームの変化。エレクトロニカのように、生楽器とはほど遠い抽象的なサウンドを多用した音楽ジャンルの台頭。DTM や ProTools などの発達によりスタジオ録音が減ったこと。ウォークマンや iPod の流行によりヘッドホンでの音楽試聴が主流になったことなど。

 でも、そのような変化の下には共通する感性の変化があるはずだ。ぼく自身の感性を内省して考えると、それは結局「マルチトラック録音による空間シミュレーションのウソ臭さ」ではないかと思う。

 周知の通り、現代のポピュラー音楽の音源では、同時に演奏されているように聴こえる音も、実際には同時に録音されてはいない。マルチトラック録音といって、各楽器を別々のトラックに録音しているのだ。同じ楽器の音を複数のマイクで拾って複数のトラックに録音することさえある。そうやって全楽器のトラックがそろったら、それらをミキシングすることにより、左右2チャンネルのステレオ音源が完成する。

 楽器の定位や残響などは、このミキシングの段階で調節する。たとえば、あるトラックの左チャンネルの音量を多目にし右チャンネルの音量を少な目にすれば、その楽器はリスナー正面より左側にあるように聴こえるというように。さらに、その位置情報を元にデジタル・リバーブで残響を計算すれば、楽器が実際にその位置にあるときと同じ残響を人工的に合成することができる。

 しかし、この方法はシミュレーションとしては極めて粗雑である。これは何も美味しんぼ的ナチュラル原理主義で言っているのではなく、科学的に考えても極めて不完全なシミュレーションなのだ。

 まず、マルチトラック録音では、楽器ごとに勝手な位置にマイクを置いて録音するが、実は、マイクの位置によって変わるのは音量だけではない。音質も変わるのだ。オンマイク(楽器に近い)では低音域が減衰しないので低音域が相対的に強調され、オフマイク(楽器から遠い)では低音域が減衰するので高音域が相対的に強調される。したがって、音量だけで定位を決めても、同時に録音したときと同じ音質にはならないのだ。

 ちなみに最近の録音は、ほとんどの楽器がオンマイクで録音されているものが多く、どの楽器も耳元で鳴っているような音質になっているが、にも関わらず空間的には左右に離れて配置されている。これはこれでウソなのだが、ヘッドホンで聴くとあまり不自然ではない。

 また楽器は無限小の点ではなく大きさを持つ物体なので、どの方向から録るかでも音質は変わる。たとえば、ピアノの蓋を開けて箱の中にマイクを突っ込んで録るのと、演奏者の背後から離れて録るのでは、どう考えても同じ音にならないのは自明だろう。さらに細かいことを言えば、本当に全楽器を同時に録音すれば、ある楽器の音波が別の楽器に反射・共鳴するはずであるが、マルチトラック録音ではそういう楽器同士の干渉も無視されている。

 つまり、マルチトラック録音の音は、仮にすべての楽器が生楽器だったとしても、人工的な操作によって加工された音なのである。そのような音に、いかにも一緒に演奏して録音しました的な残響をこれまた人工的に添加しているがために、音全体がウソ臭くなってしまうのではないか。もちろんそこまで意識している人は少数だとしても、そのウソ臭さは無意識的に伝わってしまうのではないだろうか。

 前述の通り、すべての楽器が耳元で鳴っている現代のミキシングもある意味ウソである。しかしぼくらはそれを最初からウソだと思って聴いているから平気なのだと思う。つまり現代のポピュラー音楽の録音を聴くとき、ぼくらは生楽器の音をライン録り(マイクを経由せずケーブルを直結して録音すること)した電子楽器の音と同じように聴いている。生楽器も電子楽器も同じように人工的に空間に配置された音だと思って聴いている。だからニセの残響は邪魔なのである。

 そんなわけで残響が嫌いになっていたぼくが、なぜ「UTAU」の響きには魅力を感じたのだろうか。同時録音ではないにせよ少人数の編成でマルチトラックの不自然さを感じさせなかったことや、人工的なデジタル・リバーブではなく自然な部屋鳴りだったこともさることながら、教授・アポンテ組のミキシング・センスによるところが大きいのかもしれない。そのへんはまだ完全に解明できていないので、不用意な発言は慎みたいと思うが、残響というものがまた新しい意味づけとともに見直される時代が来ているのかもしれないと感じた。

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しつこいようだけど、スケベだからこそエロを見たくないのだ

 この主張はぼくの長年の持論で、このブログにも繰り返し書いているんだけど、小島慶子のような聡明な人間までが未だに誤解しているようなのでもう一度書く。

 ぼくがミニスカートの女子高生を見たくないのは、ぼくがスケベで女子高生の生足を見ると発情して勃起してしまうからです。

 ぼくがポルノのゾーニングを主張するのも、ぼくがスケベでポルノを見ると発情して勃起してしまうからです。

 こんなの改めて説明するまでもない当たり前の話だと思うんだけどね。もしぼくに性欲がなかったら、仮に女子高生が裸で歩いてたってなんとも思わないに決まっている。スケベだからこそそこに特別なものを感じてしまうのだ。

 小難しい言葉で言えば性の両義性って奴ね。これも前に書いた

 だから、本人に嫌らしい気持ちがあるかどうかとか、そんなことはまーったく関係ない。本人がどう思っていようが、こっちは勃起するんだから。

 まあ、そういう誤解があるのもわかるよ。つまりこれまでそういう問題を誤魔化して「みだらだ」とか「はしたない」とか、要するに本人の属性であるかのように表現してきた歴史があるからね。でも、その説明ははっきり言って誤魔化しだし、いい加減やめた方がいいと思う。

 そのことも前にちゃんと書いている。

(なんか、そういうときの説教も偽善的で、自分は興味ないけどはしたないからやめなさいとか、逆に、自分は本当は見たいんだけど規則だからやめなさいとか言ったりするでしょ。そうじゃなくて、男はみんなスケベで劣情を催してしまうからやめなさい、って素直に言えばいいと思うんだよね。それが一番合理的かつ説得的な説明でしょう (^^)。)

この記事を書いたのは 2006 年 10 月 5 日。昨日今日言い出したことではない。

 だからそういうずれた主張でドヤ顔するのはいい加減やめて欲しい。そういう議論の段階はもう終わっている。普段はしないが、特別に署名もつけておいてあげよう。

保住有信

 さーて、仕事終わったら DMM でエロ動画みよっと。

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picnic album 1

picnic album 1  コトリンゴさんがまたやってくれました。彼女初のカバーアルバム「picnic album 1」。素晴らしいです。

  このアルバムは、アレンジでちょっと目先を変えてみましたというような平凡なカバー・アルバムとはまったく異なり、コトリンゴさんの作家性がはっきり現れた「コトリンゴさんの作品」と呼んでいいものになっています。ですから、原曲を知っている人も知らない人も共に楽しめるはずです。 是非聴いてみてください。

 彼女の作曲センスの素晴らしさは十分承知していましたが、こうやって他人の曲に伴奏をつけているのを聴くと、メロディに対する和声のボイシングを考えるセンス自体に非凡な個性のあることがはっきりとわかります。

 バークリー音楽大学出身の彼女であればそんなことは当然と思われるかもしれませんが、彼女のボイシングには、凡庸なジャズやフュージョンのようにテンションを増やすとかコードを代理コードに置き換えるといったパターンとは異なる質の繊細さがあるような気がします。その違いを楽理的に正確に表現することはぼくの手に余りますが、教授が注目したのも、おそらくその辺のセンスだったのではないでしょうか。

 スピッツの「渚」などは、ピアノとチェロとパーカッションだけという極めてシンプルな編成ですが、コトリンゴさんの弾くビアノの分散和音のアルペジオを聴いているだけで十分に気持ちいい。徳澤青弦さんのチェロが奏でる「きゅるきゅるきゅる」というクジラの鳴き声のようなギミックも見事にハマっています。加藤和彦の「悲しくてやりきれない」で聴かれるディレイのかかったピアノの音も、武満徹の「雨の樹」みたいでいいですね。

 ぼくみたいな偏った趣味の人間が変な褒め方をして営業妨害になるといけないので、念のために言っておきますが、「恋とマシンガン」や「う、ふ、ふ、ふ、」などはわりと普通のポップスに近いアレンジだし、「AXIA~かなしいことり~」や「ノーサイド」などはピアノの弾き語りに近いアレンジなので、カジュアルなリスナーにも抵抗なく聴けるんじゃないでしょうか。

 教授が全面的に支援したファースト・アルバムの「songs in the birdcage」は紛れもなく傑作でしたが、その後のアルバムは、教授の庇護下を離れて作風の幅を広げようとしているのはわかるんですが、必ずしもうまく行っていないように思え多少心配していました。でも、その懸念はこのアルバムで完全に払拭されたと思います。

 思えば、教授がニューヨークに移住した後の大貫妙子さんも教授の影響を払拭するのに苦労していたフシがありますが、その後日本アカデミー賞最優秀音楽賞も受賞し、今や日本のポップス界を代表する押しも押されもせぬ音楽家となりました。コトリンゴさんも 20 年後には必ずそうなっているだろうとぼくは確信します。迷惑かもしれませんが、ぼくは今後もあなたについていて行きます。多分ぼくの方が先に死ぬでしょうが。

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4 万円の資料

 日本規格協会の運営する JSA Web Store から約 4 万円の資料を取り寄せる。たった 20 数ページの規格。対訳版なので日本語分をあわせても 50 ページ程度。1 ページ 千円近い。

 最近はこういうことは滅多にやらないのだが、ぜひとも日本規格協会様の訳語に合わせて欲しい、というクライアント様の強いご意向により、このような次第になったわけで御座います。

 資料代も合わせて請求してよいとの仰せでは御座いますが、これでクライアント様がトンズラなされたり致しますと、痛すぎる出費となりますゆえ、今からハラハラしているわたくしであることよ。まことに趣きのあることであるなあ。いとおかし。

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