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山下洋輔の様式美

キアズマ  山下洋輔の「キアズマ」を久しぶりに聴き直してみたら、以前とはまったく違う印象に聴こえたのでびっくりした。

 ぼくが初めて山下洋輔の音楽を聴いたのは高校生の頃。丁度レンタル・レコード屋というものが普及しだした頃で、小遣いの少ないぼくにもある程度自由に音楽が聴けるようになった時期だった。当時のぼくはもちろん YMO キッズで坂本龍一信者だったわけだが、SF 特に筒井康隆のファンでもあった。だから、筒井康隆があれほど褒めている山下洋輔とはなんぞや、という興味で借りてみたのである。

 ところが、聴いてみたらまったく理解できない。ただのデタラメとしか思えない。もちろん、「きっと既成のルールを破っているところが革新的なんだろうなあ」みたいに頭では理解できたが、こと音楽に関して、ぼくは理性で感性をねじ伏せることができないタチなので、感覚的によいと思えないものを聴き続ける気にはなれなかった。その後も、山下洋輔のエッセイは愛読したし、氏がたまに弾くフリージャズ以外のピアノは好きになったが、氏のフリージャズに関しては長いこと理解できないままであった。

 それから 30 年近くたって、ぼくの音楽的嗜好はずいぶんと変化した。かつてやはり理解できなかったブラック・ミュージックや現代音楽も、いつの間にか楽しんで聴けるようになっていた。だからこそ山下洋輔のフリージャズにももう一度チャレンジしてみようと思ったのだ。

 はたして、あれほどデタラメにしか聴こえなかった彼のピアノは、むしろある種の様式美を持つ音楽に聴こえるではないか。試しに、高橋アキの弾くクセナキスの「エオンタ」などと同じプレイリストに入れて聞き比べてみたのだが、クセナキスの人工的に作られた不協和音の響きに比べ、山下洋輔の響きは保守的にさえ聴こえた。作品構成的にも、クセナキスの脳内で一度対象化してからバラバラにしたような音楽に比べ、山下洋輔の音楽は身体性(彼の言葉で言えば「手癖」)に強く支配されているように聴こえた。

 もちろん、これはケナして言っているわけではない。むしろ、山下洋輔の音楽が、デタラメのためのデタラメではなく、当初から強固なスタイルを持っていたことの証であろう。このブログでも何度か書いているように、ぼくは芸術の価値は「発見」にあると思っているけれども、自己目的化したルールの破壊はさほど評価しない。その破壊が新たな美やスタイルの発見につながってこそ価値があると考える。だから、氏のピアノが破壊のための破壊ではなく、創造のための破壊であったことは、まさしく氏の偉大さを示すものだと思う。

 山下洋輔が「ブルーノート研究」において、小泉文夫のテトラコルド理論を援用してブルースを分析した事は有名だが、氏のスタイルにはその研究成果が結実しているのだから、今更驚くべきではないのだろう。かつて坂本龍一は山下洋輔を評して、「肉体的な部分が強調されていますけど、ぼくが聴くと知識のカタマリなんですよね」などと言っていた。その意味が、30 年近くたって、ようやくほんの少しだけわかったような気がしている。

(もちろん、クセナキスがスタイルのないデタラメだと言っているわけではない。彼には彼のスタイルがあると思う。為念。)

 音楽を長年聴いていると、こういう瞬間が何度か訪れる。それまで理解できなかった音楽の構造が、突然霧が晴れたように見えてきて、一音一音の意味がわかってくることが。ぼくはよく騙し絵に喩えるのだけれど、今まで老婆にしか見えなかった絵が、あるとき突如として美少女の絵に見えるようになり、その魅力に囚われることが。ぼくにとっては、新ウィーン楽派も印象派もブルースもみなそうだった。

 だから芸術批評に関しては、「聴いてつまらないものはつまらない」というような、素朴な直感主義的な態度は誤りで、自分が理解できない作品に対する批評には慎重であらねばならない、というのがぼくの持論なのだが、これはまた別の機会に。

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