« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »

山下洋輔の様式美

キアズマ  山下洋輔の「キアズマ」を久しぶりに聴き直してみたら、以前とはまったく違う印象に聴こえたのでびっくりした。

 ぼくが初めて山下洋輔の音楽を聴いたのは高校生の頃。丁度レンタル・レコード屋というものが普及しだした頃で、小遣いの少ないぼくにもある程度自由に音楽が聴けるようになった時期だった。当時のぼくはもちろん YMO キッズで坂本龍一信者だったわけだが、SF 特に筒井康隆のファンでもあった。だから、筒井康隆があれほど褒めている山下洋輔とはなんぞや、という興味で借りてみたのである。

 ところが、聴いてみたらまったく理解できない。ただのデタラメとしか思えない。もちろん、「きっと既成のルールを破っているところが革新的なんだろうなあ」みたいに頭では理解できたが、こと音楽に関して、ぼくは理性で感性をねじ伏せることができないタチなので、感覚的によいと思えないものを聴き続ける気にはなれなかった。その後も、山下洋輔のエッセイは愛読したし、氏がたまに弾くフリージャズ以外のピアノは好きになったが、氏のフリージャズに関しては長いこと理解できないままであった。

 それから 30 年近くたって、ぼくの音楽的嗜好はずいぶんと変化した。かつてやはり理解できなかったブラック・ミュージックや現代音楽も、いつの間にか楽しんで聴けるようになっていた。だからこそ山下洋輔のフリージャズにももう一度チャレンジしてみようと思ったのだ。

 はたして、あれほどデタラメにしか聴こえなかった彼のピアノは、むしろある種の様式美を持つ音楽に聴こえるではないか。試しに、高橋アキの弾くクセナキスの「エオンタ」などと同じプレイリストに入れて聞き比べてみたのだが、クセナキスの人工的に作られた不協和音の響きに比べ、山下洋輔の響きは保守的にさえ聴こえた。作品構成的にも、クセナキスの脳内で一度対象化してからバラバラにしたような音楽に比べ、山下洋輔の音楽は身体性(彼の言葉で言えば「手癖」)に強く支配されているように聴こえた。

 もちろん、これはケナして言っているわけではない。むしろ、山下洋輔の音楽が、デタラメのためのデタラメではなく、当初から強固なスタイルを持っていたことの証であろう。このブログでも何度か書いているように、ぼくは芸術の価値は「発見」にあると思っているけれども、自己目的化したルールの破壊はさほど評価しない。その破壊が新たな美やスタイルの発見につながってこそ価値があると考える。だから、氏のピアノが破壊のための破壊ではなく、創造のための破壊であったことは、まさしく氏の偉大さを示すものだと思う。

 山下洋輔が「ブルーノート研究」において、小泉文夫のテトラコルド理論を援用してブルースを分析した事は有名だが、氏のスタイルにはその研究成果が結実しているのだから、今更驚くべきではないのだろう。かつて坂本龍一は山下洋輔を評して、「肉体的な部分が強調されていますけど、ぼくが聴くと知識のカタマリなんですよね」などと言っていた。その意味が、30 年近くたって、ようやくほんの少しだけわかったような気がしている。

(もちろん、クセナキスがスタイルのないデタラメだと言っているわけではない。彼には彼のスタイルがあると思う。為念。)

 音楽を長年聴いていると、こういう瞬間が何度か訪れる。それまで理解できなかった音楽の構造が、突然霧が晴れたように見えてきて、一音一音の意味がわかってくることが。ぼくはよく騙し絵に喩えるのだけれど、今まで老婆にしか見えなかった絵が、あるとき突如として美少女の絵に見えるようになり、その魅力に囚われることが。ぼくにとっては、新ウィーン楽派も印象派もブルースもみなそうだった。

 だから芸術批評に関しては、「聴いてつまらないものはつまらない」というような、素朴な直感主義的な態度は誤りで、自分が理解できない作品に対する批評には慎重であらねばならない、というのがぼくの持論なのだが、これはまた別の機会に。

| | トラックバック (0)

コロンボに憧れた頃

 「刑事コロンボ」の旧シリーズ全話がひかりTVで公開されたので、ヒマをみては鑑賞している。このドラマが日本で初めて放映されたのは、丁度ぼくが小学生の頃。当時のわが家は子供に対するチャンネル権の制限が厳しくて、自由に見せてもらえたのは夕方の再放送時間帯だけ。ゴールデンは親の見る大人向けの番組をよく意味もわからないまま一緒に見るという生活だった。そのぼくが初めて好きになった大人向けのドラマが「刑事コロンボ」だった。

 「憧れた」というのは決して大袈裟ではない。ぼくは何を隠そう、コロンボ風のコートを親にねだって買ってもらって、高校三年間それを着て毎日学校に通っていたのだ。今考えると馬鹿丸出しであるが、当時はそれが「かっこいい」と思っていたのである。ああいう見かけはイケてないけど能力があって、目立たないところで社会に貢献しているような人間になりたかったのね。だったら能力の方をマネすればいいものを、見かけだけマネするところが、形から入る子供の発想なんだけどさ。まあ言わば時代遅れのバンカラだったのね。 

 だから、コロンボが好きなことでは人後に落ちない自負があったのだが、観直してみると、自分の中のイメージほど傑作ばかりでもなかった。もちろん、最後のオチまで鮮明に記憶している「別れのワイン」「ニ枚のドガの絵」「溶ける糸」「権力の墓穴」あたりのエピソードは、今観てもよく出来てると思うのだが、それ以外のエピソードは、トリックが陳腐だったりプロットに無理があったり演出が冗長だったりするものもあった。

 よくコロンボの方が古畑任三郎より面白いとか言う人がいるけど、製作年代を無視して両作品を見比べてみると、完成度だけなら古畑と同等もしくは古畑の方が上と言ってもいいのではないだろうか。ただ、ぼくを含めてリアルタイムで観ていた世代は、コロンボがドラマ史上において成し遂げた革新をリアルタイムで経験しているので、その分記憶が美化されているのだと思う。もちろん、先駆者としての功績はいくら評価し過ぎてもし過ぎることはないが。

 改めて感じたのは、むしろ三谷幸喜の換骨奪胎のうまさである。古畑とコロンボの大きな違いは、国籍を除けば主人公の設定。ご存知の通り、コロンボというのは、見た目がイケてなくて腰が低くて人懐っこくて慇懃無礼でずうずうしい。その性格が捜査手法と密接に結びついているところがコロンボというフォーマットの斬新さだ。

 でもよく考えると、こういう人間は自己主張を尊ぶアメリカでは珍しいかもしれないが、自己主張を嫌い腹芸を尊ぶ日本ではさほど珍しくない。たとえば、同時代に日本で製作していた「特捜最前線」なんかに出てくる刑事だって、顔は一応二枚目だが貧乏たらしい奴ばかりで、必ずと言っていいほど人情派の刑事が容疑者を「落とす」くだりがあったりする。だから、コロンボみたいな人間が主人公のまま舞台だけ日本にしても、 靴をすり減らして捜査する人情派刑事の亜流にしか見えない可能性もあったと思う。

 そこで古畑のような人物を選び取ったところが三谷幸喜の力量だと思うのだ。古畑は洒落者で気取り屋で傍若無人で負けず嫌い。このような性格は、日本では異端であり、それが捜査手法に結びついてもいる。つまり、日本という舞台においてコロンボと同じ条件を見事に満たしているのだ。そこに三谷幸喜の人間観察眼の鋭さが現れていると思う。

 これを逆に考えると、ぼくら日本人はコロンボを微妙に誤解して観ていた可能性もある。たぶんアメリカ人から見ると、コロンボは日本人が思うよりずっとエキセントリックな人間なのだ。コロンボの製作者は、コロンボの人物造型にあたってはリアリティを無視した、現実にはあんな服装の刑事は許されないだろう、と言っている。でも日本人から見れば、コロンボは単に庶民派の刑事に見えないこともない。

 その誤解を助長したのが小池朝雄の吹き替えだろう。コロンボを演じたピーター・フォーク自身は、いかにも喜劇役者という感じのキンキン声であり、この声を聞きながら見ると、コロンボはなおさら変人に見える。一方、小池朝雄の声は低音で親しみ易く、この声を聞きながら見ると、コロンボは身近にいそうな草臥れたおじさんに見えてくる。

 アメリカ以外でコロンボファンが最も多いのが日本らしいが、その人気は実は微妙な誤解に支えられていたのではないだろうか。コロンボの日本版を製作した人たちは、おそらくその誤解まで計算に入れて、コロンボは日本で受けると判断した。その計算が小池朝雄という声優の選択にも反映されているのではなかろうか。と今にして思う。

| | トラックバック (0)

デス妻の魅力を教えよう

デスパレートな妻たち シーズン1 COMPLETE BOX [DVD]  最近のテレビドラマの中でぼくが最もハマっているのは、デス妻こと「デスパレートな妻たち」。アメリカでは大ヒットして社会現象にまでなった作品である。日本でも NHK で放映しているのだが、海外ドラマ・ブームの昨今にしては、意外と人気がないらしい。その理由は定かではないが、どうもタイトルの印象だけでありがちなホームドラマだと勘違いされているフシもあるので、ぼくがその魅力を簡単に紹介してみたい。

・辛口ホームドラマとしての面白さ

 デス妻のコンセプトは、大雑把に言ってしまえば、

辛口ホームドラマ + シットコム 

+ モダンホラー

である。

 辛口ホームドラマという言葉は、若い人にはひょっとしたら馴染みがないかもしれないが、日本では 1970 年代に確立されたジャンルで、山田太一脚本の「岸辺のアルバム」(1977 年)や橋田壽賀子脚本の「となりの芝生」(1976 年)などが代表作。それまでのホームドラマが類型的な「平和で楽しい家庭」を前提としていたのに対し、表面的には平和な家庭も一皮向くと家族はバラバラであるという実態を赤裸々に描いて衝撃を与えた。高度成長期の夢から覚めた日本人が足元を見つめ直した結果、必然的に現れたジャンルとも言える。

 ぼくがデス妻を観てまず連想したのが、日本のこういった辛口ホームドラマだった。典型的なのはブリーの家庭。ブリーは裕福で保守的な家庭に育った女性で、(おそらくはマーサ・スチュワートをモデルにしていると思われる)完璧な家事の腕を誇る「カリスマ主婦」だ。しかし、夫や子供はまさにそのブリーの完璧さに息苦しさを感じている。やがて夫は不倫したあげく変態趣味まで暴露され、息子も不良化してゲイであることをカミングアウトし…、という具合にブリーの家庭は崩壊してゆく。このストーリー展開は「辛口ホームドラマ」そのものだ。

 しかしデス妻が日本の辛口ホームドラマと違うのは、そこにシットコムの要素をプラスして、ブラック・ユーモア満点のドタバタ喜劇にしてしまっているところである。主人公の女性たちは、そのような深刻な状況をまさに「デスパレート」になって乗り切ってゆく。そのためには嘘や裏切りや犯罪も辞さない。その必死さが黒い笑いを呼ぶ。

 このドラマを観ていると、日米の共通点と同時に、日本では 1970 年代に流行ったジャンルがアメリカでは 2000 年代になって流行っているという時代のずれにも興味を感じる。ぼくはアメリカのホームドラマの歴史にさほど詳しいわけではないが、デス妻が影響を受けた作品としてよく指摘されるのがサム・メンデス監督の「アメリカン・ビューティー」。だがこれも 1999 年の作品である。他は「ステップフォード・ワイフ」や「ブルーベルベット」などが似た系列の作品とされているが、いずれも日本の辛口ホームドラマよりは後だ。

 もっとも、文学の世界に目を転じると、1960 年代頃にアップダイクとかイェーツとかチーバーとかいう作家たちが、そういう平和な郊外家庭の暗黒面を暴くことをテーマとした作品を書いていたらしい(恥ずかしながら読んでいないので「らしい」としか書けないのが辛いところ)ので、日本の辛口ホームドラマもひょっとするとそういう作品の影響を受けているのかもしれない。

(追記:「岸辺のアルバム」を観直してみたら、登場人物の一人が翻訳家志望で「アップダイクを読んでます」みたいな発言をしてるのね。だからたぶん影響は受けてるね。山田さんはそれを隠したくなかったからわざと台詞に入れたんだろね。) 

 さらに面白いのは、日本のホームドラマはもともとアメリカのホームドラマの影響を受けて生まれたものらしいという話である。真偽の程は知らないが、進駐軍がアメリカのリベラルな家庭のよさを日本人に教えるために、意図的にアメリカのホームドラマを日本に輸入したという説がある。まあこういうことを書くと、じゃあ小津安二郎はどうなんだとか言う人が絶対いるので、あまり深入りしたくないのだが。

 そう考えると、アメリカの影響を受けた日本のホームドラマが先に辛口に目覚め、それに数十年遅れてアメリカのホームドラマが辛口に目覚めたというような、微妙に捩れた歴史になっているのかもしれない。いずれにせよ、日米のホームドラマの歴史をカルスタ的に研究すると、日米の家庭文化の変化や影響関係を分析する上でも面白い切り口が見えるのではないかと思う。

・アメリカ社会の問題が透けて見える面白さ

 このドラマがぼくのような日本人の興味を引くもう一つの点は、そこにアメリカの社会や文化が透けて見えることである。

 このドラマの主人公は 4 人の女性なのだが、この 4 人にはアメリカの現在の社会の構成が露骨に反映されている。キリスト教保守派で共和党支持のブリー。リベラル派でおそらくは民主党支持のリネット。貧乏なヒスパニック家庭出身で元スーパー・モデルのガブリエル(愛称ギャビー)。

 残るスーザンは、おそらく、他の 3 人だけではドラマ全体が暗くなってしまうので、雰囲気を明るくするためのほのぼのコメディ担当という位置づけだろう。ちなみにこのスーザンは、日本の少女漫画とかによく出てくる「ドジっ娘」キャラそのままである。よくアメリカ人は日本人のように未熟な女性は好まず、成熟した女性を好むとか言うけど、少なくともこういう「ドジっ娘」が好きな男性はアメリカにもたくさんいるらしい、ということが、スーザンを見るとよくわかる。

 この 4 人には、誰が善人役で誰が悪人役というような区別はなく、全員がそれぞれに悩みを抱えている。ブリーはいかにも保守派的な悩み、リネットはいかにもリベラル派的な悩みという具合に。そしてそこに、今日のアメリカの家庭が抱える考え付く限りの問題が叩き込まれている。夫婦関係の問題、性的嗜好の不一致の問題、フェミニズム的な問題、性的マイノリティの問題、離婚の問題、養子の問題、家庭内暴力の問題、児童虐待の問題、等等。

 だから、多様な視聴者が自分の政治的立場や好みに合わせてキャラクターに感情移入することができる仕組みになっている。ぼくなんかは、やっぱりなんだかんだ言ってリネットに感情移入してしまい、リネットとトムは仲良いのになんで幸せになれないのかなー、とやきもきしながら見ているが、ブリーの家庭崩壊なんかはわりと冷淡に突き放して見てしまったりする。

 このようにアメリカの典型的な層を代表するキャラクターを満遍なく登場させるのは、もちろん、全米の視聴者を対象とする巨大ネットワークの政治的な配慮という面もあるだろう。脚本を書いているマーク・チェリーは共和党支持でリバタリアンでゲイだとかいう噂もある。また、アメリカでこのドラマを最も熱狂的に観ているのは、実はキリスト教保守層だという説もあって、どこかの教会関係者が、「クリスチャンがなんでこんな背徳的なドラマに熱狂するんだ」と嘆いてたりもした。そんなわけで、このドラマは共和党的なドラマだと言う人(冷泉さんとか)もいたりするけど、少なくともそういう政治的偏向をあまり気にしないで観れる作りにはなっていると思う。

(ちなみに、このマーク・チェリーは最近、イーディ役のニコレット・シェリダンに「暴行、ジェンダーに関する差別、不当解雇、性別、性的嗜好と年齢に基づいた差別」で告訴されたりして騒動になっている。)

 宗教保守層がこのドラマに熱狂する裏には、そういう平和な家庭に潜む暗黒面を最も身近に感じているのが彼等だという事実が反映されていると思われるが、そのへんもいろいろ想像すると面白い。

・ストーリーが読めない面白さ

 最近の海外ドラマはみんなそうらしいけど、このドラマも本当にストーリーの先が読めなくて、ストーリー展開を追うだけでも十分に楽しめる作りになっている。

 先ほど、モダンホラーの要素がプラスされていると書いたけれど、このドラマには、各シーズンごとに必ず得体の知れない謎の人物(もしくは家族)が登場することになっていて、その正体を知りたいというサスペンスがシーズン全体のストーリーを引っ張る原動力になっている。

 しかも、単にいきあたりばったりに話を展開しているわけではなくて、ちゃんと伏線も張ってあって破綻せずに辻褄が合っている(ように見える)のがすごいところ。具体的に書くとネタバレになってしまうので、これ以上は書けないが。

 おそらく、スタッフが大勢でブレストをやっていろんなアイデアをひねり出しておいてから、後で時間をかけてストーリーの矛盾点を潰していって辻褄を合わせるというような、演繹法的な手法で作っているのではないだろうか。先に着地点を定めて、そこから逆算してストーリーを組み立てるというような帰納法的な手法では、とてもこのようなストーリーは作れないと思う。もしできるとしたら、この脚本家は大天才か、もしくは、ちょっと頭がおかしいかのどちらかだろう。

・人物造型が意外にしっかりしているという面白さ

 そのようにストーリー展開を重視すると、その分人物造型がご都合主義的になりがちだが、このドラマは、人物造型も意外にしっかりしている。

 ぼくが特に感心するのは、イーディのような悪役キャラの人物造型。イーディは他の 4 人とは違って割とはっきりと悪役として描かれたキャラクターだが、単なる記号的な悪役ではなく、どういう過去があってそういう人間になったかが説得力を持って描かれている。子供の頃いじめられっ子だったとか、男性運が悪くて男性不信になり、その反動でセックス依存症的になったとか。

 一番泣けるのは、イーディがスーザンと一緒にマーサの散骨に行くシーン。マーサが唯一の友人だと思っていた嫌われ者のイーディは、スーザンが散骨に付き合ってくれたことに感動して泣いてしまうのだ。ここでイーディは初めて弱みを見せる。その瞬間、本当に嫌な女だと思っていたイーディがちょっと可愛く見えてしまうのが見事。もっとも、その変化はスーザンの下心が明らかになった時点で跡形もなく消え去ってしまうが。

 そういう人物造型の片鱗はこのドラマの随所に垣間見える。たとえば、ギャビーは金や名誉に意地汚くてそのためには手段を選ばないし、嫉妬深くて独占欲が強くすぐ意地を張る女性なのだが、相手が弱者になるとほろりと人情派の一面を見せる。そういう人物造型が、貧乏なヒスパニック出身の元スーパー・モデルという設定に説得力を与えているのである。

 このドラマに出てくる人物は、基本的にどこかおかしな人間ばかりなのだが、人物造型がしっかりしているので、意外と呆れることなく感情移入し続けることができるのだ。

・Sex and the City が好きな人にお勧め

  ここまで読んでいただければ想像がつくと思うが、この作品は、アメリカではホームドラマというより、むしろ「Sex and the City」と同じ系統の作品と見なされている。 実際、新旧価値観の軋轢をシニカルなコメディとして描いたという点で両者は良く似ている。ただ、SATC の舞台がアメリカでも最も進歩的なニューヨークだったのに対し、デス妻の舞台がアメリカでも最も保守的な郊外=サバービアであることが顕著な相違点であり、それがドラマのブラックさに反映されていると言えよう。

 そのような意味で、このドラマは「Sex and the City」のファンには特にお勧めである。

追記:あと、日本で人気がないのは吹き替えのせいだという意見もあるようだ。ぼくは字幕でしか観ていないので定かでないが、スーザンが萬田久子さんだと聞くと、確かにちょっと違うかなとは思う。 吹き替えでしか観たことない人は、ぜひ一度テリー・ハッチャーの声で聞いてみて欲しい。

※参考リンク(面白そうなものだけ厳選)

| | トラックバック (0)

Youtube チャンネルやめました

 例の YouTube チャンネルの件、いろいろ調べていくと、やっぱり著作隣接権とか法的な問題アリアリみたいなのでやめました。だから、最近の記事に貼り付けた動画も再生できなくなります。悪しからず。

 でも、音楽について議論するときに、ああやって実際に聞き比べられると非常に便利なんだけどね。音楽を言葉で表現するにはどうしても限界があるから。

 特に、この曲はあの曲の影響を受けてる、というような音楽史的な位置づけの議論なんかは、その曲を実際に聴いたことのある人間にしか理解できないから、どうしてもオタクの知識自慢みたいになっちゃう。

 そういう知識自慢合戦みたいなのは個人的にはあまり好きじゃない。知識を提示するのは、あくまで価値観の共有が目的。だから、そのために役立つ必然性のあるものだけを提示したい。

 そういう意味では、ああやって動画を貼り付けて論ずるのはわかり易いし、ウェブにしかできないウェブの特性を生かした方法でもある。

 この方法は、社会全体の平均的な音楽教養レベルみたいなものを向上させるためにも、優れた方法だと思う。

 昔はこういう方法はなかったから、とにかく大量にレコードを聴いていて知識のある奴が偉くて、そいつらが言うことには簡単に反論できなかった。聞いた事もないような名前を出されて「あんなのたいしたことないよ。××の方がずっといい」などと言われるとグウの音も出なかった。

 そういうくだらない議論を減らして、もっと純粋に音楽の良さを議論することを可能にするという意味で、非常に優れた方法だと思ったんだがなあ。

 まあ正直言うと、損するのが放送局とか大手レコード会社とかそういう大企業だけだったら、ぼくもそんなに気にしないんだけどね。でも、想像するに、そういう権利侵害によって一番損するのは、インディーズで細々と音楽を作っていて権利団体にも入っていない著作者とか、マイナーな作曲家の音楽ばかり演奏している良心的な演奏者とか、そういう人たちなんだよね。だからやめた。

 近い将来、そういう法的問題がすべてクリアされて、著作者や演奏者にもちゃんと利益が還元されるようになり、オタク的な知識自慢の不毛な議論ではなく、音楽的価値観を共有するため有意義な議論が、自由にできる社会になることを期待したい。音楽の著作者や実演者の方々と、ぼくのような愛好家が手を取り合って音楽文化を豊かにしていくような社会に。

| | トラックバック (0)

iPad 初体験

 昨日は、20 代の頃からお世話になっているハッカー(敬称)の先輩と久しぶりに飲んだのだが、その先輩が例の iPad を持ってきていたので、目の前で使うところを見せてもらった。

 確かに、外観はスタイリッシュでかっこいいし、タッチパネル操作も便利そうで、手元に置いておきたい気持ちはわかった。

 ただ、その人は優秀な技術者だけあって、欠点も冷静に把握していた。ファイルシステムを隠蔽してるのはどうなのとか、Windows PC だと USB 経由では充電できないとか、インターフェースが少ないのでタブレット PC としての応用範囲は狭いのではないかとか、単純に手で持ちにくいとか。

 もちろん魅力的な製品ではあるが、個人的には 5 万円出す価値はないかなあと感じた。ぼくの場合、用途はどうせ電子書籍を読むとかに限られそうなので、それだったら 100 ドル台になった Kindle で十分かなと。でもこれが 2 万円ぐらいになったら買うかもしれない。

 たぶん主なターゲットは、ケータイより大きな画面でインターネットにアクセスとかしたいけど、パソコンの操作は覚えたくないし、テレビのリモコンで操作するのもかったるいというような、カジュアルなユーザーではなかろうか。すでにノート PC やスマートフォンを持ってて使えている人が、追加購入するほどの魅力には今一つ欠けている気がする。

 さらに、せっかくの機会なので、最新の技術動向について質問攻めにする。こっちは最近勉強不足なので、完全に師と不肖の弟子状態。Scala 言語とか CAP 定理とか、聞いた事もなかった単語についていろいろ教わる。

 でも、それより何より印象に残ったのは、その人の○○が○○○○の○○だったという話で、世の中意外と狭いもんだなあと感じた。ここに書けるような話ではないが。

 久しぶりに飲んだせいか、いまだに頭がぼーっとしている。ビールとサワー系合わせてジョッキ 5 杯ぐらいしか飲んでいないはずなのだが。もともとさほど強くなかったが、年を重ねるにつれて加速度的に弱くなっている模様。

| | トラックバック (0)

« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »