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「大日本人/しんぼる」感想

ユングのサウンドトラック 菊地成孔の映画と映画音楽の本  白状するが、怖かったのだ。松本人志のファンであるということを公言してきたこのぼくが、つい最近まで「大日本人」も「しんぼる」も観なかったのは。怖気づいてしまったのだ。毀誉褒貶があまりに激しすぎ、しかも貶の方が目立つという世評に。観た結果、純粋に世評が間違っていると思えればいいけど、自分でもやはり駄作としか思えなかったらどうする。誰だって自分の尊敬する人物のダメなところなんて見たくない。そうだろう?

 勇気を振りしぼって鑑賞してみた結果は、まさに松本用語で言う「微妙」だった。貶す人が言うほど駄作ではないと思うが、それほど手放しで絶賛する気にもなれないというような。以下その微妙さをできる限り語ってみよう。以下ネタバレあり。

 そのために、ぼくとしては珍しく、菊地成孔氏の「ユングのサウンドトラック」まで読んでみた。これは菊地さんらしい愛のある批評で、実はぼくの意見とあまり変わらなかったりするので、ぼくの素人評など読みたくないという人は、上のリンクをクリックして菊地さんの本を買ってください。そうすればぼくにも小遣いが手に入るし。

大日本人 通常盤 [DVD] まず「大日本人」だが、前半のフェイク・ドキュメント部分はかなり気に入った。ぼくは菊池さんのように「屠殺」のイメージまでは読み取れなかったけれど、大佐藤の情けなさ、インタビュアーの興味本位さ、マネージャや家族の冷淡さ、一般庶民の無責任さ、などの描写が渾然一体となって、まさに松本人志だけの世界を作っている。CG 部分もハリウッド映画ほどの金はかけていないはずにもかかわらず妙なリアリティがあって面白かった。

 気になったのはやはり、ラストのスーパー・ジャスティスの部分だ。本当にあれが「正解」だったのか。あれがもし、ありがちな人情話的なラスト、たとえば、大佐藤が何かのきっかけで庶民の尊敬を勝ち取るとか、逆にそんなことで大佐藤の孤独は癒されない、みたいなラストだったら、大多数の観衆はそれなりに納得したことだろう。そんなことは松本人志にもわかっていたはずだ。だからこそ、そういうベタなオチをはずしたかっただけかもしれない。

 ぼくは「批評を拒否する意図的な戦略」みたいなゲンダイゲイジュツ的なヘリクツ解釈は嫌いなので、なんとか正面からこのラストの意味を読み取ろうとしたのだが、結局わからなかったというのが正直なところ。強いて言えば、あのミニコントによって、古典的な特撮ヒーローと松本の大日本人の描き方の差が対比されてわかりやすくなる、ということぐらいだ。

しんぼる [DVD] 次に「しんぼる」だが、これもチ○コ部屋からの脱出劇の部分はわりと単純に楽しんで観た。ラストが理に落ちすぎていて嫌だ、みたいな意見が多かったようだが、ぼくは単なる自動書記的なコラージュだと思って観ていたので、それほど拒否感はなかった。菊池さんはこれを「草間弥生が麻原彰晃になる」と表現していたが、もちろんそんな想像もしなかった。

 ただ、メキシコパートの「とってつけた」感は正直ひどいと思った。ラテン系の愛すべき親子が出てきて、てっきりアメリカン・ニュー・シネマ的あるいはニュー・シネマ・パラダイス的な人情劇が展開すると思いきや、単なるギャグの前フリでしかない、というのは肩透かしにも程がある。もしメキシコパートの人物たちがもっと生き生きと造型できて、それがメインのストーリーに有機的にからんでいくような展開だったら、もっと評価の高い作品になった可能性もあったと思う。

 このように両作品とも評価は「微妙」だったが、「やっぱり松本人志はテレビのお笑いがお似合い」とか「映画に手を出したのは身の程知らずだった」という風には思わなかった。なぜなら、どちらも単に凡庸な失敗作ではなく、仮に失敗作だとしても、他の誰にこのような失敗ができるだろう、と思わせるような非凡な失敗作だったからだ。

 もともと松本人志が嫌いな人ばかりでなく、ぼくや菊地氏のような松本人志のファンですら、彼の映画に対して評価が辛くなってしまうのは、逆に言えば、ぼくらがいかに松本人志の潜在的才能を高く見積もっているか、という事実の現われでもあると思う。観客というのは勝手なもので、松本人志がどういう映画を撮るべきか、誰もわかっていないにも関わらず、自らも想像していないような映画を撮ることを期待してしまう。そういう勝手な期待に応えるのは「しんどい」ことだとは思うが、これも天才に生まれついてしまった人間の宿命だと思って、ぜひとも応えて欲しいと思うし、そのためにも、決して映画を撮ることを止めないで欲しいと切に願う次第である。

 もっとも、松本人志という人は、天才でありながら実は努力家でもあって、過去のキャリアにおいても、仕事の過程で様々なスキルを習得してきたフシもあるので、映画監督としても密かにそういう計算をしているのかもしれない、とも思うのだ。たとえば、1 作目では CG 技術を学ぶために巨大ヒーローを登場させ、2 作目では海外ロケの技術を学ぶために外国人を出し、という風に。そのように勝手な期待を膨らませてしまうのも、やはり天才という存在の成せる業なのだろう。

 一つ心配なのは、菊地氏も書いているように、松本の周囲がイエスマンばかりになってしまったのではないか、ということ。ガキの使いのトークの緊張感を維持していたのは、浜田雅功が常にクールで、松本がつまらないボケをすると無視したりあげくの果てに舞台から帰ってしまったりすることだった。その浜田ですら最近は松本に甘くなっているようだが、松本の映画も浜田のベタの視点からチェックして貰ったりした方が、実はいいのかもしれない。

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