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「へうげもの」と消費の美学

へうげもの(1) (モーニングKC (1487)) 山田芳裕氏の「へうげもの」。マンガ夜話で採り上げていたのを観て以来ずっと気になっていたのだが、やっと読めた。ちなみにネットカフェの 6 時間パックでは 11 巻まで読みきれなかった。これはぼくにしては驚異的な遅さで、このマンガの内容がいかに濃いかがわかる。

 マンガ夜話では、わび数寄とかぶき者の中間にいる存在としての古田織部、というところに注目していたが、ぼくはむしろ、権力者と芸術家の中間にいる存在としての古田織部の描き方に興味を持った。

 これまでのマンガに採り上げられた芸術家は、孤高の人で世俗的な価値にはまったく興味がなかったり、あげくの果ては世捨て人だったりした。よしんば権力に関わることがあっても、それは美学とは無縁の不純な行為として扱われがちだった。権力者の方も、芸術に金を出すことは自らの権力を誇示する手段に過ぎず、真に芸術的価値感を理解する権力者が描かれることは多くなかった。つまり、芸術的価値感と世俗的価値観は相容れないものとして描かれるのが一つのパターンだったと思う。

 ところが、この作品の古田織部は、名物を入手するためには命がけで単身敵陣に乗り込むし、数寄の天下をとるためには権力闘争にも手を染める。いや、古田だけではない。千利休が秀吉に信長の暗殺を示唆したのは、信長の美学が利休の美学と相容れないためであるし、その後も千利休は自らの信じるわび数寄を日本に広めるためにこそ権力闘争に手を染めてゆく。他の武将たちにとっても、美学は単なる権力を誇示する手段ではなく、生き甲斐の一つであったりする。

 ぼくがこの作品から連想するのは、例によって山崎正和の「柔らかい個人主義の誕生」だ。このブログでも何度か言及しているように、この本は要するに「消費」の重要性を主張する本である。と言っても、寺島某などがろくに読みもせずに揶揄しているような、バブル的価値観や大量消費を擁護した本ではもちろんない。

 そもそも、この本は「消費」という概念の定義から説き起こすが、それは一般的な経済学の定義とは違っている。一般的な経済学でいう消費は、市場に流通する財・サービスのうち、他の財・サービスの生産(貯蓄/投資)以外に使われるものという感じだと思う。具体的には、労働者が労賃によって食料などを購入することが消費ということになる。

 この定義はもちろん経済学的な分析には適しているのだと思うが、視点を代えると必ずしも必然的な定義ではない。たとえば、労働者の食事は、労働を生産するための手段と見なすこともできるわけで、実際マルクス経済学ではこれを「労働力の再生産」などと呼んだりする。

 ところがこの論法を推し進めると、労働者の生存に必要な衣食住はもちろん、英気を養うための娯楽などもすべて「消費」ではなく「生産」と見なせることになり、人間の行為はほとんどが「生産」だということになってしまうのだ。だが、それでいいのだろうか。

 「生産」が「生産」の手段であり、その「生産」も「生産」の手段でしかないなら、最終的な目的はどこにあるのだろう。 ぼくらは、人生に究極の目的などないという事実から目を背けるために、「生産」に没頭したまま一生を終えるしかないのだろうか。

 山崎正和は、このような「生産」の手段ではない真の「消費」が存在すると言う。それは行為そのものの外見に現れる差ではなく、行為に対する行為者の態度の差だ。つまり、何かの手段として行われる行為は「生産」であり、行為そのものを目的として行われる行為は「消費」だと言うのである。そして、そのような真の「消費」の復権を主張する。

 たとえば、同じ食事でも、健康を維持し生産活動を行うために必要な栄養を摂取するための効率だけを目的にすれば「生産」となるが、栄養よりも味や雰囲気を重視し美しい食器を使い会話をしながら時間をかけて食事という行為を楽しむことを目的にすれば「消費」となるし、同じ仕事でも、金を稼ぐことだけを目的にやれば「生産」だが、仕事自体を楽しむことを目的にやれば「消費」となる、というわけだ。(最近の社会学では、こういうのを「インスツルメンタル」と「コンサマトリー」と呼んだりするようだが、山崎氏の定義はこれと奇しくも符合している。)

 もちろん「消費」の復権と言っても、「生産」をやめて「消費」をしろ、なんて単細胞なことを言ってるわけではない。定義からもわかるように、「生産」と「消費」は表裏一体であり、どちらも同じぐらい重要である。にもかかわらず、生産効率を追求した近代の時代精神に強く影響された現代人は、「消費」になりうる行為まで「生産」として行いがちであり、これが人の生を貧しくしている。ゆえに「生産」と「消費」のバランスを意識して取り戻す必要がある、というのが(ぼく流に要約した)山崎正和の主張である。

 おそらく、分業体制が確立される前の自給自足経済の時代には、生産と消費が同じ人間によって行われていたため、両者のバランスはある程度自然に保たれていたのだろう。 ところが、近代になって分業体制が確立されると、生産と消費を別の人間が行うようになり、その間を市場が媒介するようになった。市場は生産の質を貨幣によって数量化したので、生産効率の可視化が容易になり、歯止めのない生産効率追求が可能になった。

 一方、消費の質はむしろ貨幣によって隠蔽されたようだ(これもある種の「疎外」と呼べるかもしれない)。経済学者は消費の質を効用関数というブラックボックスに閉じ込めることによってやりすごした(実はそれこそが経済学が社会科学として成功した理由なのだが)ので、消費の質は文学や美学の中で間接的に論じられるだけであった。そのため、消費すら生産の手段として行う人間が増えたり、質の高い消費と大量消費やブランド志向が混同されたりした。

 ぼくは最近流行の「経済成長はもう限界」みたいな説にはまったく賛同しないが、この「生産」と「消費」のバランスが重要という説には強く説得力を感じる。これも最近流行のワーク・ライフ・バランスというのも似た主張だと思うが、この言葉には何か清貧をよしとするイメージがあるので、個人的には「生産」と「消費」のバランスという表現の方が好きだ。

 その点この「へうげもの」の登場人物は、まさに「消費」を軽視していない時代の人物という感じがするではないか。茶の湯一期一会の精神などはまさに山崎正和の言う「消費」そのものに思えるし、近代の効率主義に毒されていない昔の人が、現代人より豊かな消費文化を持っていたとしても不思議はあるまい。そういう意味で、「へうげもの」の人物造型には、これまでの歴史物になかった新しいリアリティを感じるのである。

 芸術を思想のプロパガンダ扱いするのが失礼なことは重々承知しているが、そのような理由もあって、ぼくはこの「へうげもの」や「パコと魔法の絵本」のような「消費の美学」を追及する作品は、つい手放しで応援したくなってしまうのである。

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