« フューグどトラドスの夜 | トップページ | 「嫌われ松子の一生」感想 »

いい加減な台詞萌え

 最近映画を観ていると、明らかに意図的に作られたと思われる「いい加減」な台詞にやたらと萌えてしまう。たとえば、

大日本人 通常盤 [DVD]正義? 正義ってのは、あのー、読んで字の通りですねえ。やっぱりあのー、正義ねえ。難しいなあ。まあ正義ってのは、あのー、正義正義ってこう質問しますけどもねえ。その正義ってのは、あのー、誰がそれを正義って言うかねえ、人の見方ありますんでねえ。みんなそれぞれ、自分が正しいと思うのが、それが正義だと思ってるしねえ。だから、人がこれだと言うことが、正義だっていうことはないんじゃないですか? この世の中には。はい。(「大日本人」)

あ、命ですか? まあ、この命って言うのもね、特に難しい問題なんですよねえ。これ命っていうのは、あのー、自分の命は今ここにありますけど、命っていうそのものは、やはりこの、先祖代々から続いてきているね、そういうつながりが命ですよねえ。自分が命だと言ったって、あの死んだって、そりゃ自分が死んだだけのことですからねえ。あのー、その自分が亡くなったっていうことは、あのー、大事ですけどねえ。あのー、もっと大事なことがあるんじゃないですか。えー、まあ生命ってのはもちろんあの大事ですけどね。あのー、生命そのものは、あのーやっぱり、あのー、殺したり、痛めたり。植物でもなんでもそうですよ、命は。動物でも。そういうものってのは、あのー、一番…(「大日本人」)

下妻物語 スタンダード・エディション [DVD]誰だってなんか背負ってんだよ。どっか痛いんだよ。だから泣くことは恥ずかしいことじゃない。だけど女はよ、人前で涙なんか流しじゃいけねえんだよ。同情されちまうからな。泣くときはよ、こうやって誰もいないところで泣きな。そして泣いたら泣いた分だけ強くなりな。(「下妻物語」)

才能があんのに、その才能を認めてくれてる人がいるっていうのに、何悩んでんだよ、ばーか。おめえが作んなきゃ、それ着たい人どーすんだよ。ジャスコで済ますしかねーじゃん。(「下妻物語」)

 こうやって見ても、どの台詞も実に「いい加減」である。一見もっともらしいことを言っているが、よくよく読むとほとんど中身がない。どっかで聞いたような台詞を適当に切り貼りして作ったのがまるわかりである。

 しかし、あえてそういう表現をする意図は必ずしも同じではない。「大日本人」の方は、おそらく、カメラを向けられると無理してもっともらしいことを言おうとしてしまう現代人に対する批評であり、若干の悪意がこもっている。「下妻物語」の方は、その反対に、友達に対する忠告には、別にもっともらしい名台詞は必要はなく、誠意がこもっていればよいのだ、という真実を表現している。

 これは古典的なモノマネやパロディとは少し違う。モノマネやパロディでは、特定の人物などの思想や人格の偏りが誇張して表現されるが、上記のような「いい加減」な台詞で表現されているのは、むしろ台詞に込められた意味の表層性・意味の薄さなのである。

 意図はさまざまあれど、現代の映画にこういう表現が現れるのは偶然ではない。テレビから映画から小説からマンガにいたるありとあらゆるフィクションが氾濫する現代において、ぼくらは「もっともらしい台詞」や「名台詞」のたぐいに食傷しつくしているのだ。その一方で、自分が発言を求められると、一般庶民ですらどっかで聞いたような台詞を切り貼りして「もっともらしい」台詞をでっちあげてしまう悪癖から逃れられない。この手法は、そのような時代のリアリティを表現するために必然的に生まれたものと言える。

 と言っても、実際にこの手法を使いこなすのがそう簡単でないのは容易に想像がつく。知識や知性に欠ける人の台詞を作ろうと思ったら、台詞から知識や知性を感じさせる要素を排除すればよい。逆に真に知識や知性を感じさせる台詞を作ろうと思ったら、実際に知識や知性を身につけた人が真剣に考えればよいだけだ。

 しかし上記のような「いい加減」な台詞は、一見すると知識や知性を感じさせる要素を散りばめながら、全体としては無内容なものにしなければならない。しかも下手をすると、頭の悪い奴が本気で名台詞を考えようとして単に失敗しただけ、と思われかねない。だからぼくは、こういう手法を自在に使いこなせるクリエータを基本的に信頼している。

 たとえば「下妻物語」の場合、この台詞がもし中途半端な「名台詞」だったりしたら、ぼくはかえって引いてしまって感動できなかっただろうと思う。したがって結果としては、この台詞は陳腐な「名台詞」以上に名台詞になっているのだ。中島哲也という人は、そういう現代人の心の機微を実によくわかっている人である。 

 「大日本人」も「下妻物語」も海外で好意的に評価されたらしいが、このような微妙な表現が翻訳で伝わるのかどうか、ぼくはかなり懐疑的である。異なる言語の間をつなぐのは「意味」なので、翻訳者は基本的に、「原文→意味→訳文」というパターンで思考する癖がある。そのため、意味の薄い表現からさえも過剰に意味を読み取りがちで、原文より意味が通っていてわかりやすい訳文を作ってしまうことも珍しくない。原文で表現されているのが、実は「意味の薄さ」だということを正しく把握して、訳文に反映するのはかなりの高等技術だ。

 特に「大日本人」の方はかなりきわどい表現で、「ここには松本人志の正義や生命に対する哲学が現れている」なんて的外れな勘違いされても不思議はない。彼の真意は、「あのー、一番…」の後で容赦なくブチッと切る編集に明瞭に現れているわけであるが。

|

« フューグどトラドスの夜 | トップページ | 「嫌われ松子の一生」感想 »

文化・芸術」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/67762/49481764

この記事へのトラックバック一覧です: いい加減な台詞萌え:

« フューグどトラドスの夜 | トップページ | 「嫌われ松子の一生」感想 »