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Manafon

マナフォン デビッド・シルヴィアンの最新作。と言ってもリリースされたのは 1 年前だが。

 もともと分類しずらい音楽をやってきた人だが、ここまで来ると、もうどっから見てもロックでもジャズでもエレクトロニカでもない。「現代音楽」という呼び名が最もふさわしい。武満徹やモートン・フェルドマンの好きな人にお勧めしたくなる。

 特に、"The Department of Dead Letters" というインストの短い曲は武満っぽくて、本人にそう言っても否定しないんじゃなかろうか。(デビッドが武満のファンで生前交友もあったのは有名な話。)

 それでも、デビッドのボーカルが入っているだけで、あの懐かしい「デビッドの音楽」に聴こえるのは見事。だいたい、こういう無調っぽいバッキングトラックに合わせて歌うだけでも技術的には結構難しいはずなのに、ちっとも無理な感じがなくて自然に聴けるのは実はすごいことだと思う。

 もちろん、ゲンダイオンガクだからポップスより偉いなどと言う気は微塵もない。それだけジャンルに囚われない独創的な音楽だということが言いたいわけである。為念。

 もういっそ、 戦メリみたいに、武満徹の曲に勝手にデビッドのボーカルをのっけたカバーアルバムみたいなの出してくれないかな。聴いてみたくてたまらない。あなたならできます。You can do it!

追記: ぱっと聴いた感じでモートン・フェルドマンなんて書いたけど、調べてみたら、参加してるピアニストがジョン・ティルバリーという実際フェルドマンの作品を弾いてる人なのね。どうりでという感じ。だから現代音楽寄りだということは本人も意識してるんだろう。

追記: 渡辺亨氏も同じようなこと書いてた。パクリではありません。見てなかっただけです。悪しからず。

 日本人ミュージシャンが最も多数参加している曲。それにこういうタイトルをつけるのは皮肉か。ギターは単に平均律上で不協和音を弾いているわけではなく、調律自体を狂わせてる感じがする。プリペアド・ピアノならぬプリペアド・ギターという奴かもしれない。

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「黄金の日々」を観終わって

 以前言及した「黄金の日々」という大河ドラマの、時代劇チャンネルでの再放送が終了した。基本的な評価は前に書いた通りだが、子供の頃とは意見が変わったところもあるので、少し補足しておく。

 まず秀吉の描き方。庶民的で気さくな木下藤吉郎が、出世とともに非情な権力者である豊臣秀吉に変貌していく過程がこのドラマの見所なのだが、 実は権力が人を変えるというありがちな話ではなくて、秀吉には若い頃からそういう兆候があった、という伏線がちゃんと張ってあるのね。

 たとえば、比叡山焼き討ちの際に、延暦寺に助左が滞在しているということを知らされた秀吉が、意外とあっさり諦めるところとか、金ヶ崎から逃亡する際に、助左と一緒に舟に乗ることを誓った秀吉が、信長の存命を知ったとたんあっさり前言を翻すところとか。

 たぶん市川森一には、「こういう調子のいい人間はさあ、立場が変わるととたんに裏切るんだよねー」みたいな人間観があって、秀吉を最初からそういう人間として描いてるのね。そして、助左は若くて未熟だから、そういう人間の裏を見抜けなかっただけと描いている。これは子供の頃観たときにはまったく気づかなかったこと。

 次に助左の描き方。子供の頃は単純に善人として捉えていたけど、今見るとあまりに「純粋まっすぐ君」すぎてイヤミに感じるところもあった。

 たとえば、今井宗久の隠し子の桔梗を今井兼久が引き取らないというのを聞いた助左は、わざとらしく驚いたりするんだけど、お前さー、兼久と何年付き合ってるんだよ! あの兼久がおとなしく宗久の隠し子なんか引き取るわけねーだろ! カマトトぶりっ子もいい加減にしろ! とイラッとしてしまった。

 まあ、純粋まっすぐ君ならまっすぐ君でいいんだけど、その割に、ルソン壷の時とか朝鮮出兵の時には、結構マキャベリスティックに介入したりするでしょ。だから、そのへんの線引きが助左の中でどう引かれているのか、今一つ納得がいかなかった。利休の死だって何割かは助左の責任だろうに、責任を感じてる風もないし。石田三成には甘えっぱなしだし。

 女性関係もそう。美緒にも桔梗にも最後まで手を出さないんだけど、その理由がよくわからん。なんか深い理由があって独身を貫いているのかと思いきや、周囲に勧められるとあっさり桔梗にプロポーズしたりするでしょ。なんだよ、単に優柔不断なだけだったんかい! とつっこみたくなった。

 昔のドラマには、こういう純情キャラが多かったので、リアルタイムでは気にしなかったけど、今見ると「こんな奴いるかあ?」という感じがする。キリスト教徒じゃないんだから、プラトニック・ラブというわけでもあるまいし。このへん下手なこと書くと、小谷野敦氏とかに怒られそうな気もするので、これ以上追求しないけど。

 その桔梗の死に方がまたひどい。助左にプロポーズされた翌日に死ぬって、ちょっとあざとくない? ぼくは、宮崎駿の言う「手塚治虫の『神の手』」みたいなものを感じてしまったよ。だから、助左が美緒と結ばれないのも、脚本家・市川森一の手練手管に見えてしまって、あまり印象はよくなかった。

 最後に今井兼久(宗薫)の描き方。子供の頃は単純な悪役としか思っていなかったが、今見ると共感できるところが多々あった。もちろん悪役は悪役なんだけど、記号的な悪役ではなく、ちゃんと人物造型された人間味のある悪役であった。

 特に、現実主義者の兼久から見ると、助左のいい子ぶりっ子が鼻についたんだろうなあ、というのは、ぼくにもよくわかったし、父親の今井宗久だって、別に聖人君子ではなくて暴君に近いところもあるので、父に愛されなかった息子が反発する気持ちもわかる。

 というわけで、いろいろとアラが見えたところもあったが、総合的に見れば、やはり大河ドラマ屈指の傑作には違いないと思った。

追記: 小谷野氏に誤字指摘されてしまった。即修正。

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ありがと!

 以前に紹介した、ベジエ曲線を高速に描画するアルゴリズムを Javascript で実装してくれた人がいるみたいで、その結果がこのページらしい。ぼくが口からデマカセを書いているわけではないことを、少なくとも地球上で一人は信じてくれたわけで、ちょっと嬉しいです。なにせ最近は人と違うことを書くとすぐトンデモ扱いされかねないご時世なので、こんな出来事でもないと、こういう自分で真剣に考えた記事を書く意欲が衰える一方なんですよね。

 もっとも、このアルゴリズム自体は 20 年も前に考案したものなので、今ではもっと優秀なアルゴリズムが存在するはずで、この記事がお目に止まったのは、ウェブ上で無料で読める日本語の文献が他に見当たらなかっただけでしょうけどね。

 この記事の末尾にもちらっと書いたけど、割り算の代わりのビットシフトもやらなくて済む方法があるので、考え方だけ簡単に書いておきましょうか。これも実はブレゼンハムのアルゴリズムの応用ですけど。意外と知られていないようだけど、ブレゼンハムのアルゴリズムの本質は分数計算でして、それを理解すればいろんなところに応用できるんですよ。

 たとえば、(0, 0) から (8, 3) に直線を描画する方法を考えてみましょう。この直線の傾きは 3/8 = 0.375 だから、x 座標を 1 ずつ増やしながら対応する y 座標を計算するには、y 座標に 0.375 を足しこんでいけばいいわけですよね。つまり、

x 座標ザヒョウ 0 1 2 3 4 5 6 7 8
y 座標ザヒョウ 0 0.375 0.75 1.125 1.5 1.875 2.25 2.625 3


 だけど、このやり方だと当然ながら浮動小数点数の計算が必要ですよね。だからまず、小数の代わりに分数で計算することを考えてみます。すると、

x 座標ザヒョウ 0 1 2 3 4 5 6 7 8
y 座標ザヒョウ 0 3/8 3/4 1+1/8 1+1/2 1+7/8 2+1/4 2+5/8 3


 これだとまだ割り算がたくさん必要なので、試しに約分をやめてみましょう。

x 座標ザヒョウ 0 1 2 3 4 5 6 7 8
y 座標ザヒョウ 0/8 3/8 6/8 9/8 12/8 15/8 18/8 21/8 24/8


 すると、y 座標の分母はすべて同じであることがわかります。まあ、足しこんでるのが同じ数(3/8)なんだから、考えてみりゃ当たり前なんだけど。だから実際には、分母を無視して分子の 3 だけ足しこんでいけば、すべての y 座標が計算できるわけですね。

 でも、9/8 を 1 + 1/8 にするには割り算が必要では、と思うかもしれませんが、実はこの割り算も回避する方法があります。この場合、傾き 3/8 は 1 より小さいわけだから、1 回足しこんだだけでは、どう転んでも 2 以上にはなりません。ということは、分子に 3 を足しこんだ結果を分母と比較して、分母より小さい場合にはそのまま、大きい場合には、分子から分母を引いて 1 繰り上げればいいわけ。つまり、

x 座標ザヒョウ   0 1 2 3 4 5 6 7 8
y 座標ザヒョウ 分子ブンシ 0 3 6 1 4 7 2 5 0
y 座標ザヒョウ 分母ブンボ 8 8 8 8 8 8 8 8 8
y 座標ザヒョウ 整数セイスウ 0 0 0 1 1 1 2 2 3


 これで、整数の加減算と比較だけで y 座標が計算できるわけです。ブレゼンハムのアルゴリズムって、コードを見るとややこしく見えるけど、本質的にはこれだけのことで、浮動小数点数の代わりに固定分母の分数を使って計算しているに過ぎません。

 まあ、実際には y 座標が 1 を越えた瞬間に繰り上げるのではなくて、0.5~1.5 の範囲に入った時点で繰り上げた方がきれいな線が描画できるので、その辺を微修正することが多いですけどね。これも要は座標を 1/2 ずらせばいいだけの話です。

 それを理解した上で、先のベジエ曲線のアルゴリズムを見ると、ここでも、足しこんでいる数の分母はすべて N の二乗で固定ですよね。だから同じ考え方でやれば、割り算を使わなくてできるはずなんです。

 ただ一つだけ考えなくちゃいけないことがあります。それは、足しこむ分数が 1 より大きくて、分母より分子の方が大きい場合にはどうするかということ。オリジナルのブレゼンハムのアルゴリズムでは、足しこむ数は直線の傾きなので、傾きが 1 より大きかったら x 座標と y 座標を入れ替えて計算すればいいわけです。でもベジエ曲線はパラメトリック曲線なので、この手は使えません。まあ、回避方法はいろいろあるので考えてみてください。

 だから、ブレゼンハムのアルゴリズムの考え方って、実はかなり応用範囲が広いってことです。まあ、ぼくみたいに多方面に応用した人は、世間広しと言えど、そんなにはいないと思いますが。

 実はこれ、ビットマップ画像の回転なんかにも応用できるんですよ。これを利用すれば、24 ビットフルカラーの画像をほとんど整数演算だけで回転させられます。精度もバイリニア法とほぼ同等でね。三角関数といえど、浮動小数点数で計算している限り、しょせんは実数ではなく有理数近似に過ぎない、ということを理解すれば、答えはすぐそこです。奇特な人は考えてみてください。

追記: 4 年も前にほとんど同じような内容の記事を書いていたことに気づいた。年だね。

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「嫌われ松子の一生」感想

嫌われ松子の一生 通常版 [DVD]  例によって強引に断定してしまうと、これは「つまらない人生って何?」という映画だ。

 この映画は、主人公の松子が 53 歳で殺されるところから始まる。松子の遺骨を引き取るため上京した弟は、息子に言う。松子の人生は「つまらない人生」だったと。

 そして映画は、松子の人生を、中島哲也独特の誇張された演出や特殊効果満載の映像で丁寧に振り返っていく。あなたはこれを観ても松子の人生が「つまらない人生」だったと言えますか? と観客に挑むように。

 もともと中島哲也の映画には、世間的にわかりやすい幸福や成功はほとんど描かれない。ハッピーエンドのように思われがちな「下妻物語」だって、言ってみれば、主人公が仕事をすっぽかすだけの話であって、主人公たちのその後の人生がどうなったかは必ずしもはっきり描かれていないし、「パコと魔法の絵本」に至っては、要するに病気の女の子が死んじゃうだけの話である。

 つまり、中島哲也という監督は、「幸福/不幸」「成功/失敗」といった世間的にわかりやすい基準では捉えきれない何かを描くことにずっと挑戦し続けてきた人なのである。

 と言っても、単に世俗的な価値観と異なる価値観による幸福や成功を描いた作品なら別に珍しくもない。金や権力がなくても、素敵なパートナーがいるとか楽しい家庭があるとか社会に貢献しているとか、そういう作品なら枚挙に暇がない。

 しかし、この映画の松子は、ほとんどいかなる価値観から見ても不幸だ。病弱の妹がいたせいで親の愛を十分に受けずに育ち、中学校の教師になるも不祥事を起こしてクビになり、できた彼氏は自称作家の DV 野郎で勝手に自殺し、その後できた愛人にも捨てられ、ソープで働いてナンバーワンになるも時流の変化でクビになり、ヒモを殺して刑務所行きになり、出所後できた彼氏がまた DV 野郎のヤクザで…、という松子の人生が「不幸」でないと思う人はそうはいないだろう。

 そのような松子の人生を中島哲也がどうやって魅力的に描いてみせたかは、観てのお楽しみということにするが、ぼくはこの映画を続けて 3 回観ても飽きなかった。それだけ力のある作品だと思う。

ダンサー・イン・ザ・ダーク [DVD] 両方の作品を観た人はみんなそう思ったようだが、この映画はラース・フォン・トリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に似ている。主人公のオツムが弱そうなこと(もっとも、セルマは明らかにある種の障害者だが、松子は単に生き方が不器用としか言及されていない)、主人公は歌が好きなこと、主人公の主観による美化されたミュージカル・シーンが多用されるところ、など多くの共通点が見られる。

 ただ、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の場合、セルマの客観的な人生は不幸だが、主観的な脳内世界は美化されていて、その対比の落差がセルマの不幸を強調するために使われている感じさえする。一方、「嫌われ松子の一生」の場合、松子は客観的にも不幸だが、主観的にもちゃんと不幸を感じて生きていて(幸福を感じる瞬間もあるが)、むしろ観客の方が「松子、お前はよくがんばった」と松子の人生を肯定する仕組みになっている。その点で「嫌われ松子の一生」の方が救いのある作品になっているように思う。

 同じように DV の男に惚れた女性を描いた「自虐の詩」というマンガがあるが、ぼくは「嫌われ松子の一生」の方が好きだ。その理由もこの視点の違いにある。「自虐の詩」の場合、DV 被害者である主人公の女性が自分で自分のことを「しあわせ」だと言ってしまうが、これだと結局 DV が正当化されたのと同じことになってしまう。「嫌われ松子の一生」の場合、松子は主観的には不幸なままで、松子の人生を肯定するのは観客のメタ視点である。ゆえに DV そのものが単純に肯定されたことにはなっていないと思うのだ。

 最後に一言。ホームレスを苛めて喜んでいるようなクソガキどもは、必ずこの映画を観ておくように。これは命令である。

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いい加減な台詞萌え

 最近映画を観ていると、明らかに意図的に作られたと思われる「いい加減」な台詞にやたらと萌えてしまう。たとえば、

大日本人 通常盤 [DVD]正義? 正義ってのは、あのー、読んで字の通りですねえ。やっぱりあのー、正義ねえ。難しいなあ。まあ正義ってのは、あのー、正義正義ってこう質問しますけどもねえ。その正義ってのは、あのー、誰がそれを正義って言うかねえ、人の見方ありますんでねえ。みんなそれぞれ、自分が正しいと思うのが、それが正義だと思ってるしねえ。だから、人がこれだと言うことが、正義だっていうことはないんじゃないですか? この世の中には。はい。(「大日本人」)

あ、命ですか? まあ、この命って言うのもね、特に難しい問題なんですよねえ。これ命っていうのは、あのー、自分の命は今ここにありますけど、命っていうそのものは、やはりこの、先祖代々から続いてきているね、そういうつながりが命ですよねえ。自分が命だと言ったって、あの死んだって、そりゃ自分が死んだだけのことですからねえ。あのー、その自分が亡くなったっていうことは、あのー、大事ですけどねえ。あのー、もっと大事なことがあるんじゃないですか。えー、まあ生命ってのはもちろんあの大事ですけどね。あのー、生命そのものは、あのーやっぱり、あのー、殺したり、痛めたり。植物でもなんでもそうですよ、命は。動物でも。そういうものってのは、あのー、一番…(「大日本人」)

下妻物語 スタンダード・エディション [DVD]誰だってなんか背負ってんだよ。どっか痛いんだよ。だから泣くことは恥ずかしいことじゃない。だけど女はよ、人前で涙なんか流しじゃいけねえんだよ。同情されちまうからな。泣くときはよ、こうやって誰もいないところで泣きな。そして泣いたら泣いた分だけ強くなりな。(「下妻物語」)

才能があんのに、その才能を認めてくれてる人がいるっていうのに、何悩んでんだよ、ばーか。おめえが作んなきゃ、それ着たい人どーすんだよ。ジャスコで済ますしかねーじゃん。(「下妻物語」)

 こうやって見ても、どの台詞も実に「いい加減」である。一見もっともらしいことを言っているが、よくよく読むとほとんど中身がない。どっかで聞いたような台詞を適当に切り貼りして作ったのがまるわかりである。

 しかし、あえてそういう表現をする意図は必ずしも同じではない。「大日本人」の方は、おそらく、カメラを向けられると無理してもっともらしいことを言おうとしてしまう現代人に対する批評であり、若干の悪意がこもっている。「下妻物語」の方は、その反対に、友達に対する忠告には、別にもっともらしい名台詞は必要はなく、誠意がこもっていればよいのだ、という真実を表現している。

 これは古典的なモノマネやパロディとは少し違う。モノマネやパロディでは、特定の人物などの思想や人格の偏りが誇張して表現されるが、上記のような「いい加減」な台詞で表現されているのは、むしろ台詞に込められた意味の表層性・意味の薄さなのである。

 意図はさまざまあれど、現代の映画にこういう表現が現れるのは偶然ではない。テレビから映画から小説からマンガにいたるありとあらゆるフィクションが氾濫する現代において、ぼくらは「もっともらしい台詞」や「名台詞」のたぐいに食傷しつくしているのだ。その一方で、自分が発言を求められると、一般庶民ですらどっかで聞いたような台詞を切り貼りして「もっともらしい」台詞をでっちあげてしまう悪癖から逃れられない。この手法は、そのような時代のリアリティを表現するために必然的に生まれたものと言える。

 と言っても、実際にこの手法を使いこなすのがそう簡単でないのは容易に想像がつく。知識や知性に欠ける人の台詞を作ろうと思ったら、台詞から知識や知性を感じさせる要素を排除すればよい。逆に真に知識や知性を感じさせる台詞を作ろうと思ったら、実際に知識や知性を身につけた人が真剣に考えればよいだけだ。

 しかし上記のような「いい加減」な台詞は、一見すると知識や知性を感じさせる要素を散りばめながら、全体としては無内容なものにしなければならない。しかも下手をすると、頭の悪い奴が本気で名台詞を考えようとして単に失敗しただけ、と思われかねない。だからぼくは、こういう手法を自在に使いこなせるクリエータを基本的に信頼している。

 たとえば「下妻物語」の場合、この台詞がもし中途半端な「名台詞」だったりしたら、ぼくはかえって引いてしまって感動できなかっただろうと思う。したがって結果としては、この台詞は陳腐な「名台詞」以上に名台詞になっているのだ。中島哲也という人は、そういう現代人の心の機微を実によくわかっている人である。 

 「大日本人」も「下妻物語」も海外で好意的に評価されたらしいが、このような微妙な表現が翻訳で伝わるのかどうか、ぼくはかなり懐疑的である。異なる言語の間をつなぐのは「意味」なので、翻訳者は基本的に、「原文→意味→訳文」というパターンで思考する癖がある。そのため、意味の薄い表現からさえも過剰に意味を読み取りがちで、原文より意味が通っていてわかりやすい訳文を作ってしまうことも珍しくない。原文で表現されているのが、実は「意味の薄さ」だということを正しく把握して、訳文に反映するのはかなりの高等技術だ。

 特に「大日本人」の方はかなりきわどい表現で、「ここには松本人志の正義や生命に対する哲学が現れている」なんて的外れな勘違いされても不思議はない。彼の真意は、「あのー、一番…」の後で容赦なくブチッと切る編集に明瞭に現れているわけであるが。

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フューグどトラドスの夜

 久しぶりに英語ネイティブの方と長時間話す機会があった。話す方は、相変わらず的確な言葉がなかなか出てこなくて苦労した(なぜか発音がよくて聞き取り易い、と褒められたが、これはまあ最大限のお世辞であろう)が、聞き取りの方は、かなり趣味的な言葉まで聞き取れたので少し自信がついた。

 彼の趣味について聞いているうちにバッハの話になり、The Well-Tempered Clavier とか Goldberg Variations とか St Matthew Passion なんていう言葉がポンポン出てきたのだが、一発で聞き取れたので、「実はぼくも The Well-Tempered Clavier Book 1 の No.1 だけは弾けるんですよ」なんて話をして内心得意になっていたら、思わぬところに落とし穴があった。

  • 「バッハはフューグなんかもいいですね」
  • 「フューグ? フューグって何?」
  • 「ほら、最初に出てきたメロディの後を、同じメロディが少し違う高さで追いかけてきて…」
  • 「ああ、フーガか!」

 日本人の英語学習者にとって、英語読みでない外来語は鬼門である。ウィーンとヴィエナなんてのは結構有名だと思うが、「フューグ」が「フーガ」を意味するという事実は、検索してもあまり出てこないので(なぜかワインのページばかり出てくる)、恥をかいた記念にここに記しておくことにしよう。

 彼とは Trados に関しても意気投合した。Trados のソフトウェアとしての質の低さは、ぼくも以前から気になっていたのだが、この話は、ぼくや彼のように、ソフトウェアを開発した経験があって、なおかつ、Trados を仕事で使った経験がある人間でないと、なかなか共感してもらえないのである。

 ソフトウェアを開発した経験があっても、Trados を使った経験がなければ、Trados の質の低さがわからないのは言うまでもない。しかし、Trados を使った経験があっても、ソフトウェアを開発した経験がないと、このソフトの技術的なレベルの低さには気づきにくいのである。

 Trados というのは、CAT ツールや翻訳メモリ・ツールのデファクト・スタンダードで、この市場を事実上独占しているので、他のツールと使用感を比較される機会が少ないのである。したがって、UI の使い勝手が悪かったり処理速度が遅かったりエラーが多かったりしても、そんなものだろうと見過ごされがちなのだ。

 ところが、ぼくや彼のように、現場でソフトウェアを開発した経験があると、このようなソフトウェアを実現するにはどのようなプログラムを書けばよいか、だいたい想像できるので、「えー? なんでそんな UI なの?」とか「この程度の処理にこんな時間かかるなんてありえねー」とか「いくらなんでもエラー多すぎ」とかわかってしまうのである。

  • 「Trados ってのは、素人の学生が趣味で作ったようなソフトですね」
  • 「そうそう、その通り!」
 長年の主張に格好の賛同者を得たぼくは、これからは Trados の質の低さについて、もっと自信を持って主張していくことにしよう、と心に誓ったのであった。

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「大日本人/しんぼる」感想

ユングのサウンドトラック 菊地成孔の映画と映画音楽の本  白状するが、怖かったのだ。松本人志のファンであるということを公言してきたこのぼくが、つい最近まで「大日本人」も「しんぼる」も観なかったのは。怖気づいてしまったのだ。毀誉褒貶があまりに激しすぎ、しかも貶の方が目立つという世評に。観た結果、純粋に世評が間違っていると思えればいいけど、自分でもやはり駄作としか思えなかったらどうする。誰だって自分の尊敬する人物のダメなところなんて見たくない。そうだろう?

 勇気を振りしぼって鑑賞してみた結果は、まさに松本用語で言う「微妙」だった。貶す人が言うほど駄作ではないと思うが、それほど手放しで絶賛する気にもなれないというような。以下その微妙さをできる限り語ってみよう。以下ネタバレあり。

 そのために、ぼくとしては珍しく、菊地成孔氏の「ユングのサウンドトラック」まで読んでみた。これは菊地さんらしい愛のある批評で、実はぼくの意見とあまり変わらなかったりするので、ぼくの素人評など読みたくないという人は、上のリンクをクリックして菊地さんの本を買ってください。そうすればぼくにも小遣いが手に入るし。

大日本人 通常盤 [DVD] まず「大日本人」だが、前半のフェイク・ドキュメント部分はかなり気に入った。ぼくは菊池さんのように「屠殺」のイメージまでは読み取れなかったけれど、大佐藤の情けなさ、インタビュアーの興味本位さ、マネージャや家族の冷淡さ、一般庶民の無責任さ、などの描写が渾然一体となって、まさに松本人志だけの世界を作っている。CG 部分もハリウッド映画ほどの金はかけていないはずにもかかわらず妙なリアリティがあって面白かった。

 気になったのはやはり、ラストのスーパー・ジャスティスの部分だ。本当にあれが「正解」だったのか。あれがもし、ありがちな人情話的なラスト、たとえば、大佐藤が何かのきっかけで庶民の尊敬を勝ち取るとか、逆にそんなことで大佐藤の孤独は癒されない、みたいなラストだったら、大多数の観衆はそれなりに納得したことだろう。そんなことは松本人志にもわかっていたはずだ。だからこそ、そういうベタなオチをはずしたかっただけかもしれない。

 ぼくは「批評を拒否する意図的な戦略」みたいなゲンダイゲイジュツ的なヘリクツ解釈は嫌いなので、なんとか正面からこのラストの意味を読み取ろうとしたのだが、結局わからなかったというのが正直なところ。強いて言えば、あのミニコントによって、古典的な特撮ヒーローと松本の大日本人の描き方の差が対比されてわかりやすくなる、ということぐらいだ。

しんぼる [DVD] 次に「しんぼる」だが、これもチ○コ部屋からの脱出劇の部分はわりと単純に楽しんで観た。ラストが理に落ちすぎていて嫌だ、みたいな意見が多かったようだが、ぼくは単なる自動書記的なコラージュだと思って観ていたので、それほど拒否感はなかった。菊池さんはこれを「草間弥生が麻原彰晃になる」と表現していたが、もちろんそんな想像もしなかった。

 ただ、メキシコパートの「とってつけた」感は正直ひどいと思った。ラテン系の愛すべき親子が出てきて、てっきりアメリカン・ニュー・シネマ的あるいはニュー・シネマ・パラダイス的な人情劇が展開すると思いきや、単なるギャグの前フリでしかない、というのは肩透かしにも程がある。もしメキシコパートの人物たちがもっと生き生きと造型できて、それがメインのストーリーに有機的にからんでいくような展開だったら、もっと評価の高い作品になった可能性もあったと思う。

 このように両作品とも評価は「微妙」だったが、「やっぱり松本人志はテレビのお笑いがお似合い」とか「映画に手を出したのは身の程知らずだった」という風には思わなかった。なぜなら、どちらも単に凡庸な失敗作ではなく、仮に失敗作だとしても、他の誰にこのような失敗ができるだろう、と思わせるような非凡な失敗作だったからだ。

 もともと松本人志が嫌いな人ばかりでなく、ぼくや菊地氏のような松本人志のファンですら、彼の映画に対して評価が辛くなってしまうのは、逆に言えば、ぼくらがいかに松本人志の潜在的才能を高く見積もっているか、という事実の現われでもあると思う。観客というのは勝手なもので、松本人志がどういう映画を撮るべきか、誰もわかっていないにも関わらず、自らも想像していないような映画を撮ることを期待してしまう。そういう勝手な期待に応えるのは「しんどい」ことだとは思うが、これも天才に生まれついてしまった人間の宿命だと思って、ぜひとも応えて欲しいと思うし、そのためにも、決して映画を撮ることを止めないで欲しいと切に願う次第である。

 もっとも、松本人志という人は、天才でありながら実は努力家でもあって、過去のキャリアにおいても、仕事の過程で様々なスキルを習得してきたフシもあるので、映画監督としても密かにそういう計算をしているのかもしれない、とも思うのだ。たとえば、1 作目では CG 技術を学ぶために巨大ヒーローを登場させ、2 作目では海外ロケの技術を学ぶために外国人を出し、という風に。そのように勝手な期待を膨らませてしまうのも、やはり天才という存在の成せる業なのだろう。

 一つ心配なのは、菊地氏も書いているように、松本の周囲がイエスマンばかりになってしまったのではないか、ということ。ガキの使いのトークの緊張感を維持していたのは、浜田雅功が常にクールで、松本がつまらないボケをすると無視したりあげくの果てに舞台から帰ってしまったりすることだった。その浜田ですら最近は松本に甘くなっているようだが、松本の映画も浜田のベタの視点からチェックして貰ったりした方が、実はいいのかもしれない。

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「へうげもの」と消費の美学

へうげもの(1) (モーニングKC (1487)) 山田芳裕氏の「へうげもの」。マンガ夜話で採り上げていたのを観て以来ずっと気になっていたのだが、やっと読めた。ちなみにネットカフェの 6 時間パックでは 11 巻まで読みきれなかった。これはぼくにしては驚異的な遅さで、このマンガの内容がいかに濃いかがわかる。

 マンガ夜話では、わび数寄とかぶき者の中間にいる存在としての古田織部、というところに注目していたが、ぼくはむしろ、権力者と芸術家の中間にいる存在としての古田織部の描き方に興味を持った。

 これまでのマンガに採り上げられた芸術家は、孤高の人で世俗的な価値にはまったく興味がなかったり、あげくの果ては世捨て人だったりした。よしんば権力に関わることがあっても、それは美学とは無縁の不純な行為として扱われがちだった。権力者の方も、芸術に金を出すことは自らの権力を誇示する手段に過ぎず、真に芸術的価値感を理解する権力者が描かれることは多くなかった。つまり、芸術的価値感と世俗的価値観は相容れないものとして描かれるのが一つのパターンだったと思う。

 ところが、この作品の古田織部は、名物を入手するためには命がけで単身敵陣に乗り込むし、数寄の天下をとるためには権力闘争にも手を染める。いや、古田だけではない。千利休が秀吉に信長の暗殺を示唆したのは、信長の美学が利休の美学と相容れないためであるし、その後も千利休は自らの信じるわび数寄を日本に広めるためにこそ権力闘争に手を染めてゆく。他の武将たちにとっても、美学は単なる権力を誇示する手段ではなく、生き甲斐の一つであったりする。

 ぼくがこの作品から連想するのは、例によって山崎正和の「柔らかい個人主義の誕生」だ。このブログでも何度か言及しているように、この本は要するに「消費」の重要性を主張する本である。と言っても、寺島某などがろくに読みもせずに揶揄しているような、バブル的価値観や大量消費を擁護した本ではもちろんない。

 そもそも、この本は「消費」という概念の定義から説き起こすが、それは一般的な経済学の定義とは違っている。一般的な経済学でいう消費は、市場に流通する財・サービスのうち、他の財・サービスの生産(貯蓄/投資)以外に使われるものという感じだと思う。具体的には、労働者が労賃によって食料などを購入することが消費ということになる。

 この定義はもちろん経済学的な分析には適しているのだと思うが、視点を代えると必ずしも必然的な定義ではない。たとえば、労働者の食事は、労働を生産するための手段と見なすこともできるわけで、実際マルクス経済学ではこれを「労働力の再生産」などと呼んだりする。

 ところがこの論法を推し進めると、労働者の生存に必要な衣食住はもちろん、英気を養うための娯楽などもすべて「消費」ではなく「生産」と見なせることになり、人間の行為はほとんどが「生産」だということになってしまうのだ。だが、それでいいのだろうか。

 「生産」が「生産」の手段であり、その「生産」も「生産」の手段でしかないなら、最終的な目的はどこにあるのだろう。 ぼくらは、人生に究極の目的などないという事実から目を背けるために、「生産」に没頭したまま一生を終えるしかないのだろうか。

 山崎正和は、このような「生産」の手段ではない真の「消費」が存在すると言う。それは行為そのものの外見に現れる差ではなく、行為に対する行為者の態度の差だ。つまり、何かの手段として行われる行為は「生産」であり、行為そのものを目的として行われる行為は「消費」だと言うのである。そして、そのような真の「消費」の復権を主張する。

 たとえば、同じ食事でも、健康を維持し生産活動を行うために必要な栄養を摂取するための効率だけを目的にすれば「生産」となるが、栄養よりも味や雰囲気を重視し美しい食器を使い会話をしながら時間をかけて食事という行為を楽しむことを目的にすれば「消費」となるし、同じ仕事でも、金を稼ぐことだけを目的にやれば「生産」だが、仕事自体を楽しむことを目的にやれば「消費」となる、というわけだ。(最近の社会学では、こういうのを「インスツルメンタル」と「コンサマトリー」と呼んだりするようだが、山崎氏の定義はこれと奇しくも符合している。)

 もちろん「消費」の復権と言っても、「生産」をやめて「消費」をしろ、なんて単細胞なことを言ってるわけではない。定義からもわかるように、「生産」と「消費」は表裏一体であり、どちらも同じぐらい重要である。にもかかわらず、生産効率を追求した近代の時代精神に強く影響された現代人は、「消費」になりうる行為まで「生産」として行いがちであり、これが人の生を貧しくしている。ゆえに「生産」と「消費」のバランスを意識して取り戻す必要がある、というのが(ぼく流に要約した)山崎正和の主張である。

 おそらく、分業体制が確立される前の自給自足経済の時代には、生産と消費が同じ人間によって行われていたため、両者のバランスはある程度自然に保たれていたのだろう。 ところが、近代になって分業体制が確立されると、生産と消費を別の人間が行うようになり、その間を市場が媒介するようになった。市場は生産の質を貨幣によって数量化したので、生産効率の可視化が容易になり、歯止めのない生産効率追求が可能になった。

 一方、消費の質はむしろ貨幣によって隠蔽されたようだ(これもある種の「疎外」と呼べるかもしれない)。経済学者は消費の質を効用関数というブラックボックスに閉じ込めることによってやりすごした(実はそれこそが経済学が社会科学として成功した理由なのだが)ので、消費の質は文学や美学の中で間接的に論じられるだけであった。そのため、消費すら生産の手段として行う人間が増えたり、質の高い消費と大量消費やブランド志向が混同されたりした。

 ぼくは最近流行の「経済成長はもう限界」みたいな説にはまったく賛同しないが、この「生産」と「消費」のバランスが重要という説には強く説得力を感じる。これも最近流行のワーク・ライフ・バランスというのも似た主張だと思うが、この言葉には何か清貧をよしとするイメージがあるので、個人的には「生産」と「消費」のバランスという表現の方が好きだ。

 その点この「へうげもの」の登場人物は、まさに「消費」を軽視していない時代の人物という感じがするではないか。茶の湯一期一会の精神などはまさに山崎正和の言う「消費」そのものに思えるし、近代の効率主義に毒されていない昔の人が、現代人より豊かな消費文化を持っていたとしても不思議はあるまい。そういう意味で、「へうげもの」の人物造型には、これまでの歴史物になかった新しいリアリティを感じるのである。

 芸術を思想のプロパガンダ扱いするのが失礼なことは重々承知しているが、そのような理由もあって、ぼくはこの「へうげもの」や「パコと魔法の絵本」のような「消費の美学」を追及する作品は、つい手放しで応援したくなってしまうのである。

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