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「パコと魔法の絵本」感想~深読み編

 この映画の演出意図はかなり明快で、それほど誤読の余地はないと思うのだが、ネットを検索してみると意外といろんな解釈があるようなので、ぼくの考える正しい解釈を記しておく。以下ネタバレなので注意。また、あまり図式的に解釈されると興ざめするという人も読まない方がいいかも。

 前回の記事で、作り手は大貫の行為を手段や結果論にしたくなかった、とかなり断定的に書いたが、これはちょっと注意して作品を観れば自明のはず。この作品は、年老いた堀米が大貫の甥の息子(姪孫っていうの?)に語る、という形式で展開されているが、その中で、大貫が死んだと早とちりする姪孫に対して、堀米が「死んだほうがよかった?」とか「真実がお気に召すかどうか」とかいう皮肉っぽい発言をわざわざしてるでしょ。これは明らかに、「この作品にとって、誰が死んだとかそういう結果が重要なんじゃないんですよ」という作り手のマニフェストだろう。

 そういう作り手の意志は、人物造型にも現れている。「パコと魔法の絵本」という題名にも関わらず、この映画の主人公はパコちゃんではなく大貫の方だ。大貫はちゃんと過去の歴史まで造型されたキャラクターだが、パコちゃんにはどんな過去があるかもまったくわからない。大貫の人格を反射・屈折させるために半ば人工的に作られた記号的キャラクターなのだ。

 大貫は大企業の会長で社会を弱肉強食の競争とみなし他人に心を許さない。つまり、ある種の目的志向や成果主義を具象化した存在として描かれている。その目的志向や成果主義を無化する存在として生まれたのがパコちゃんだ。記憶が失われるということは、その人に対して与えた影響がすべてリセットされるということだ。実際、パコちゃんは大貫に殴られたことすら記憶していない。

 したがって、大貫がパコちゃんに対してできることは、今現在目の前にいる彼女を喜ばせることしかないのだ。その結果、大貫は宿痾であった目的志向や成果主義から解放される。大貫はパコちゃんの心に残ることを願うが、たぶん最後まで大貫の願いはかなわないまま物語は終わる。でもその代わり彼は「みんなのこころに残りました」というわけだ。こう書いてしまうと、図式的過ぎて自分でも嫌になるが、そのぐらい作り手の意図は明快だということだ。

 この映画には登場人物の後日談がない、と宇多丸氏は指摘しているけれど、ぼくはそれも意図的だと思う。だいたい、みんなで芝居をしたぐらいで人生が変わるなんて、子供向けの童話ならいいかもしれないが、大人にとってはウソっぽい話で、中島哲也だってきっと、「その程度で簡単に人生なんて変わりゃしねーよ」ぐらいのことを思ってると思う。実際、年老いた堀米も昔とたいして変わらない人間として描かれているし、大貫も相変わらず堀米に嫌われたままだ。

 この映画の作り手が描きたかったのは、人生を変えるための手段やその結果ではなく、あくまで「そんな人たちの人生にもあるはずのすばらしい時間」だったのだ。そういう地に足のついた視点を維持しているからこそ、この映画は子供ではなく大人のための童話になり得ている。宇多丸氏がこの映画に入り込めなかったのは、宇多丸氏がぼくなんかよりはるかにロマンチストだからなのかも知れないね。

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「パコと魔法の絵本」感想

パコと魔法の絵本 通常版 [DVD]  「大人のための童話」という言葉がこれほど似合う作品も珍しい。舞台劇的なクサい芝居を逆手にとって、斜に構えたオトナの心にいつの間にか忍び込んでくる演出力は豪腕としか言いようがない。「演技というのは現実に近ければいいというものではない」という意味のことを山崎正和氏は「演技する精神」の中に書いているのだが、それをちょっと思い出した。

 まあ、これだけ演出力があればそれだけでも十分賞賛に値すると思うが、テーマやストーリーを重視する立場からは、古臭い人情劇を演出力で強引に見せているだけ、という評価も当然あるだろう。でもぼくは、この中島哲也監督の演出には、単なる手練手管を超えたものを感じている。宮崎駿監督にとって、アクションシーンが単なる演出ではなく、彼が大切にしている躍動する生命力の表現であるように、中島哲也監督の画面の美しさは、彼の思想の表現に近いものだと思うのである。

 実際、ストーリーで泣かせることだけ考えれば(以下ネタバレ)、大貫が死ぬかわりにパコちゃんが生き残り記憶を取り戻す、という話にした方がよっぽど泣けたはずで、作り手だって当然そんなことはわかっていたはずだ。しかし本編ではパコちゃんが死んで大貫が生き残る。そこに作り手の意志がはっきり示されている。

 作り手は、大貫の行為をパコちゃんを助けるための単なる手段にしたくなかった。パコちゃんが助かったから大貫のやったことは正しかった、という単なる結果論にしたくなかった。パコちゃんが助かろうが助かるまいが、パコちゃんと大貫(と他の患者たち)が共有した時間が素晴らしいものだったという事実は変わらない。だからこそガマ王子とザリガニ魔人の対決はあれほど美しく描かれなくてはならなかったのである。

 昔話は登場人物たちが「末永く幸せに暮らしましたとさ」で終わるものが多いが、その「幸せに暮らす」というのが具体的にどういうことであるのかは描かれない。しかし現代人にとってはむしろそれが問題なのだ、というような指摘をしたのは確か村上龍氏だったと記憶するが、中島監督はそれを描くことに挑戦し続けている人だと思う。

 というわけで、宇多丸氏の酷評も聞いたけれど、ぼくはやっぱり中島哲也が好きです、と改めて宣言しておく。

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「下妻物語」と「古畑任三郎」の共通点

下妻物語 スタンダード・エディション [DVD]  「下妻物語」をレンタルで観直したら、初見時に重大なことを見逃していたのに気づいた。これを書くと自分の恥を晒すことになるが、検索してみると意外と指摘している人が少ないようなので書いておく。以下ネタバレになるので、「下妻物語」を観た人だけ読んでね。

 例の「貴族の森」という店でイチゴがモモコに思い出話をするシーンがあるよね。最初のイチゴとアケミの出会いの話は実写で再現され、その後の「ヒミコ伝説」はアニメで再現される。でも、この映画は全体にマンガ的な演出なので、冒頭から順を追って観てると、これも単にギャグなんだろう、と見過ごしてしまう。

 ところが、ラストまで観ると、実はこの「ヒミコ伝説」はイチゴの作り話であることがわかる。そして振り返ってみると、実写とアニメはデタラメに混在しているわけではなく、実話部分は実写、虚構部分はアニメ、という風にちゃんと使い分けられていることがわかるのね。つまり、「ヒミコ伝説」が虚構という伏線はちゃんと張られているんだけど、ギャグによってうまく隠蔽されてるわけ。そんなこと言われなくてもわかってるって? すみません。

警部補 古畑任三郎 1st DVD-BOX  この手法は、三谷幸喜が「古畑任三郎」でやっている手法とよく似ている。古畑は倒叙物ミステリなので、古畑が真相を知るための手掛かりを、伏線として視聴者に提示しなくてはならない。でも、なんの芸もなく提示したのでは伏線がバレバレになってしまうので、うまく伏線と気づかれないように提示しなくてはならない。

 そこで三谷氏がよく使うのが、伏線をギャグで隠蔽するという手法なんだよね。手掛かりになるのは、だいたいにおいて不自然な行動なんだけど、ギャグにしてしまえば行動の不自然が見過ごされ易くなるというわけ。

 ぼくはミステリマニアではないので、他にこういう手法を多用した作品があるかどうか定かではないが、この手法を意識的に多用できるのがコメディ作家・三谷幸喜ならではの強みである、ということは言えると思う。

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「大奥」感想

大奥 (第1巻) (JETS COMICS (4301)) 映画化されたりして話題になっている、よしながふみ氏の「大奥」というマンガ。ネットカフェで 5 巻まで読破してきたが、勝手に想像していたほど面白くはなかった。

 男女のジェンダーを入れ替えるというのは、SF では割とありがちなアイデアで、特に社会構築主義的な発想で観念的にジェンダーを相対化するような作品を今さら読まされてもさして新味はない。今やるなら、かつて世界中のどこにも存在したことのないようなジェンダーを構築してみせるとか、ジェンダーが入れ替わる途中経過のメカニズムをリアルに見せるとか、そのぐらいまでやらないと想像の範囲内の作品になってしまうと思うのだ。

 5 巻まで読んだ限りでは、よしなが氏の世界観が社会構築主義なのか本質主義なのか、必ずしも定かではない。ただ、ぼく自身は真実はその中間にあると思っているので、露骨な社会構築主義や本質主義で図式的に世界を切り捨てるような作品には興味はなくて、芸術家にはその中間の微妙なところを描いて欲しいと思っているわけである。

 その点この「大奥」はどうか。少なくとも家光~綱吉の段階では、生物学的にもジェンダー的にも(男性優位社会基準の)「女性」である人間が、男性の仕事である将軍職を無理にやっている、という風にしか見えない。でもそれだけだと、要するに「リボンの騎士」とかと同じになってしまうわけよね。

 本当にジェンダーが逆転して女性が権力を持ったのであれば、女性は男性に色気で媚びる必要はなくなるわけだから、ファッションなんかにも影響が現れるのでは? 現実にも 60 年代のミニスカートの流行はフェミニズムと強く結びついていたわけだしね。でもこの作品ではファッションとかはそのままなんだよね。たとえば、この作品とちょっと設定の似ている柴田昌弘の「ラブ・シンクロイド」なんかには、筋肉質で色気のカケラもないような女性がたくさん出てくるんだけど、こっちの方がリアリティを感じる。

 もっとも、この作品の設定には、そういうメカニズムを書く意図の片鱗が見えてはいるんだよね。最近の進化生物学なんかでは、性差を精子と卵子の生産コストの差によって説明することが多いので、男性の数が減ることにより男女の役割が逆転するという設定は、かなりいいところを突いてる気がする。でも、その設定は今のところまだ十分に生かされていないように思う。

 実際、5 巻で本格的に登場する吉宗になると、ジェンダー的にもかなり(男性優位社会基準の)「男性」に近づいているフシもあるので、このまま幕末あたりまで時代が進むと、生物学的には女性なんだけどジェンダー的には(男性優位社会基準の)「男性」であるような徳川慶喜とかが出てくるのかもしれない。あるいは、男性とも女性とも言えないような中間的なジェンダーになるというのでもいい。その途中のメカニズムを説得力を持って描ければかなり面白い作品になる可能性は十分ある。

 そういう意味でも、少なくとも 5 巻の段階では、傑作の片鱗は見えるけれども、まだ傑作とまでは言いがたい感じがした。今後の展開に期待したい。

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