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「麻雀放浪記」感想

麻雀放浪記 [DVD]  言わずと知れた雀聖・阿佐田哲也の原作を、イラストレータの和田誠氏がメガホンをとって映画化した作品。

 一見して、ずいぶん敷居の高い映画だなあと思った。麻雀を知らないとわからないならまだしも、原作を読んでいないとわからないシーンが山ほどあるような気がするのだが。

 たとえば、まゆみが唇をぺろっとなめるのはドサ健への「通し」だとか、出目徳が天気の話をするのは天和積みのサインだとか、ぼくは原作を暗記するほど読んでいるのでわかるのだが、本編の中ではそういう行動の意味の解説がまったくない。

 おそらく、いちいち図解するとマンガ的になってしまうので、完全に理解できなくても雰囲気さえ伝わればいい、という考え方なのだろう。「闘牌伝説アカギ」なんかとはある意味正反対の方法論である。まあ、アカギはアカギで津嘉山正種の怪演が面白かったりして結構好きなのだが。

 題材から考えると、ヤクザ映画のように迫力で押す画面を想像しがちだが、カメラワークも意外とアップが少なくて引きが多く、全体に上品な映像に仕上がっている。ドサ健が怒鳴っているシーンや出目徳が死にそうなシーンでカメラがふっと隣室のまゆみに切り替わったりして、ちょっと距離感のあるシャイな感じの演出なんだよね。

 出目徳役の高品格は、世評通りの名演技で感服した。真田広之の坊や哲はそう悪くないが、ぼくの中のイメージからすると美男子すぎる。鹿賀丈史のドサ健は意外と似合っていたが、やっぱりちょっと軽すぎる感じがした。

 ただ、正直ぼくは原作を読み込みすぎているので、原作を読んでいない人がこの映画をどう評価するのか、逆にあまり想像がつかなかった。もちろん、原作に対する冒涜であるとか、そういう印象をまったく受けなかったことは保証する。

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We are the one?

 昨日の鳩山氏の演説を聞いて以来、一番気になってるのがこのフレーズ。ぶっちゃけ、この定冠詞いるか? 「われわれは一体である」という意味なら「We are one」でいいはずだよねえ。まあこれだけだとすわりが悪いから、普通は「We are one and the same」みたいに後ろに付け足すことが多いような気がするけど。

 逆にこの「one」に定冠詞をつけた場合、数詞の「1」ではなく、いわゆる「不定代名詞」になって、文脈から自明な何かを表すか、もしくは、後ろから関係代名詞かなんかで修飾する構文になるのが普通だと思うんだけど。

 ほら、映画「マトリックス」でネオが「the one」って呼ばれてるんだけど、字幕では「救世主」になってるでしょ? あれも「説明しなくても誰もが知ってる人」を意味するわけで、普通はそうなるんだよね。

 この標語が日中韓首脳会談のときに壁に掲げられていたというんだけど、ホントかなあ? ぼくはこの人の英語力を前から少し疑っているので、どうも鳩山さんが引用するとき間違えただけのような気がしてならないんだけど。

 それとも、首脳会談の標語を書いた人が間違えたのか。あるいは、「われわれは一体である」ではなくて、「俺たち最高!」みたいな意味を表そうとしたのか。

 まあ、つまらない揚げ足取りは好きじゃないけど、ネットを検索しても、あまりこの件について指摘している人がいないので書いてみました。いや、お前のほうが間違ってるぞ! 無知無能の癖して偉そうなこと書いてんじゃねえ! みたいなご指摘がありましたらメールください。速やかに訂正しますので。

追記: 同意見の方々

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「2012」の真価がわかった!

 ローランド・エメリッヒ監督の「2012 」という映画。観た直後は軽く否定的な程度の印象だったのだが、その後日が経つにつれじわじわとボディーブローのように効いてきて、この映画が思ったよりスゴイ映画であることがわかってきた。

 何がスゴイって、この映画を観た後しばらくは、何を観ても「2012」よりはマシだと思えてしまうことである。「ヘイフラワーとキルトシュー」しかり「ハチワンダイバー」しかり。昨日も「エイリアンVS.プレデター」を観直したのだが、初見のときはなんだかつまんない映画だなあとしか思ってなかったのに、昨日は「これだって『2012』に比べればよっぽどマジメに作ってあるよなあ」と少し好感を持ってしまった。恐るべし「2012」!

 この映画がなぜここまでぼくをムカつかせるのか、少しマジメに考えてみた。エメリッヒが嫌いな人がよく口にする批判に「アメリカ万歳」や「家族万歳」が嫌だ、というのがあって、ぼくも「インデペンデンス・デイ」の頃は似たような印象を持っていたのだが、「2012」を観てそれは違うと確信した。彼は「アメリカ万歳」も「家族万歳」もヒューマニズムも心から信じてはいない。ただそれが観客に受けるからとってつけたように取り入れてるだけだ。

 考えてみてほしい。もしエメリッヒの訴えたいものが素朴な「アメリカ万歳」や「家族万歳」であっても、彼が心からそのテーマを信じているなら、たとえ素朴ではあってもそれなりに人の心を動かす映画になったはずだ。 同じように揶揄されがちなマイケル・ベイ監督の「アルマゲドン」だって、素朴な家族愛や自己犠牲を臆面もなく謳い上げた映画だが、いくらなんでも「2012」ほど後味は悪くない。ぼくは岡田斗司夫氏の言う「バカマンガ」的なものを決して否定はしないが、それも作り手が魂を込めて真摯に作っていればこそだ。おざなりに作られた「バカマンガ」ほどつまらないものはない。

 逆にもしエメリッヒがヒューマニズムやロマンティシズムを信じていないなら、ぼくが冗談でチラッと書いたように、エゴイズム剥き出しの政府首脳や富裕層がなりふりかまわず生き残ろうとするところを露骨に描いた、シニカルな作品ないしブラックユーモア作品にもできたはずだ。そうすればこの作品とは別の意味で人に訴えかける力を持つことができただろう。あるいは、人類存続のためには止む終えない決断があるという主張だって、かわぐちかいじの「ジパング」のように本気で書けば、それなりに説得力を持ったはずである。

 エメリッヒの場合はそのどちらでもなくて、自分が信じてもいないヒューマニズムやロマンティシズムを、「どーせ客はこういうのが好きなんでしょ」とうまみ調味料のようにお手軽に振りかけているだけだ。だからこそ吐き気がするほど醜悪な作品になってしまうのである。これをライムスター宇多丸氏は「事務的」と表現していたが、ぼくが見た中では最も的確な評だと思った。

 ちなみに、こんなストーリーでもアメリカ人には受けるんでしょう、みたいなことを言っている人もいるが、IMDB や Amazon.com のレビューを見れば、英語圏の人も別に納得していないことがわかる。以下はオーストリア人のレビューらしいが、気に入ったので引用する。

Roland Emmerich artfully manages to make watching the end of the world in monumental pictures a thoroughly boring experience. Why? Because this film never touches you in any way. The main characters remain shallow throughout the whole 158 minutes. Some are just not interesting, others are so overdrawn (Yuri, Tamara) that you just can't think of them as real people. The story does not develop and lead to something you did not expect. There is no flow. Ridiculous action scenes alternate with pathetic, kitschy good-bye talks that fail to catch you because NO actual human being would ever talk or act in the ways depicted here. There is no realism at all in virtually any scene of the film so how could you manage to connect to it? -

ローランド・エメリッヒは、記念碑的映画の中で世界の終末を鑑賞するという体験を、見事なまでに徹底的に退屈な体験に変えることに成功している。なぜか。それは、この映画がいかなる意味でも観客の心に触れてこないからだ。主な登場人物は全158分の間薄っぺらいまま。一部は単につまらない人間で、それ以外(ユーリ、タマラ)は誇張されすぎて現実の人間とは思えない。物語は予想通りに展開するだけで勢いもない。ばかげたアクションシーンと交互に表れる感傷的で低俗な別れの会話も観客の心に触れることはない。なぜなら、現実の人間はこの映画に描かれたように会話したり行動したりなどしないからだ。この映画には事実上どのシーンにも現実性がまったくない。そんな映画のどこに愛着が持てるというのか?

 このレビューは、今日現在で 822 人中の 2 位だから、少なくとも英語圏ではこれに同感する人が決して少なくないということがわかる。

 この映画に関しては、考えれば考えるほど嫌なことに気づいてしまう。たとえば、主人公はなぜかロマンティストだということになっていて、副主人公のインド人学者は主人公の書いた小説に影響を受けて、方舟の扉を開くという「英断」を下すことになっている。しかしその主人公が実際にやっているのは、抜け駆けして自分と家族を助けようとすることだけだ。いったいこいつのどこがロマンティストなのだ?

 そしてネットやラジオで陰謀論を垂れ流しているおっちゃん。彼はいいキャラなのだが、よく考えると、こいつがいるおかげで主人公のエゴイスティックな行動が目立たなくなっているのである。こんな災害に直面していて、しかも方舟計画みたいな陰謀が進行中であることを知っていたら、別に「ロマンティスト」でなくてもマトモな倫理観のある奴だったら周囲の人間に教えようとするはずだ。でもこの主人公の場合、おっちゃんを探すことがそういう行動をとらない言い訳になっているのである。

 それでも誤魔化しきれないのは空港のシーンで、あれだけ大勢の人が集まっていたら、真実を話す機会はいくらでもあったはずだ。しかしこの主人公がやったのは、ロシア人富豪を見つけてその飛行機に便乗することでしかなかった。

 大統領が方舟に乗らなかったのは、後味を悪くしないための意図的なシナリオだろうと書いたが、よく考えたらもっと嫌な意図があることに気づいた。つまり、あの状況で政府首脳がいつの間にかいなくなっていたら、いくら一般庶民がバカだと言っても、政府が何か企んでいることに気づくはずだ。そして政府首脳をつるし上げる暴動が起こったり、方舟のっとり計画が組織されたっておかしくない。だけど、大統領が目の前にいて「何も手段はありません。祈りましょう」みたいなことを言えば、少なくともそういう暴動が起こらなかったことの言い訳にはなる、というわけ。

 もっとも、いくら大統領が一人で残ったって、世界中の政府首脳や富裕層がごっそりいなくなってるのに、誰も気づかないなんてことは現実にはあり得ないけどね。仮に一般庶民が気づかなかったとしても、方舟に乗れる連中のすぐ下で働いてるのに置いてきぼりにされた連中とかが、全員おとなしく秘密を守るなんてことがあるわけない。そういう意味でも、この映画はちっともリアルじゃないんだけどね。

 つまり、この映画のストーリーはすべて、主人公たちは一生懸命やったが仕方なくああいう状況になりました、だから五月蝿いこと言わないでください、という形作りなんだよね。「形作り」というのは将棋用語で、負けは見えてるけど、いきなり投了するとやる気を疑われるので、きりのいいところまで指す、という意味。

 初見のときは、この映画はこの監督の過去の作品に比べれば比較的マシ、と書いたのだが、取り消させてもらいますわ。これだったら「インデペンデンス・デイ」の方がまだマシです。もっとも、ぼくがここでいくら喚いたって、当のエメリッヒは毛ほどの痛痒も感じてないだろう。「いろいろ言うけど、ちゃんと興行利益上がってんじゃん。映画なんてそんなもんだよ」と。それを想像するとますますムカつく。

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