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詩の翻訳・メモ

 歌詩の翻訳なんてあまりやったことがないのだが、手遊びでやってみたら、意外と楽しくていろんな発見もあったのでメモしておく。あんまり企業秘密を暴露すると困る気もしないでもないのだが。

 まず、当たり前のことだが、実務翻訳で一般的な翻訳技法の一部がそのまま応用できる。

 たとえば、「I'm waiting ...」「I'm watching ...」を、「…をぼくは待ってる」「…をぼくは見ている」とせずに、「ぼくは待ってる。…を」「ぼくは見ている。…を」としたのは、「スラッシュ・リーディング」とか「頭から訳す」と呼ばれる手法の応用である。

 この手法には、同時通訳などの際に文章を最後まで聞かなくても翻訳を開始できるとか、修飾語と被修飾語が離れすぎないので読みやすい文章になるなどの、ある種実際的な利点だけでなく、もっと翻訳にとって本質的な利点がある。それは、原文の語順を尊重しやすいということだ。

 古典的な「英文解釈」では、英語の文法構造をできるだけ忠実に日本語の文法構造に置き換えることが、「正しい」翻訳とされてきた。けれども、最近の認知意味論や語用論なんかでは、文意を伝えるために、文法構造だけでなく語順も重要な役割を果たしていることが注目されているようだ。

 たとえば、情報を提示する際には、既知情報→未知情報の順序で提示されるという原則があって、これを end-focus とか end-weight とか言ったりする。

 英文和訳が難しい理由の一つは、英語では関係代名詞や分詞構文のような修飾節や修飾句は被修飾語の後ろに来るのに対し、日本語では修飾語は原則として被修飾語の前に来るということだ。したがって、文法構造を忠実に反映しようとすれば語順が反転するし、語順を忠実に反映しようとすれば文法構造を変えなければならないというトレードオフが生じやすい。

 文法構造と語順のどちらが重要かというのは、価値判断の問題なので、一律には決められない。文章一つ一つを文脈と照らし合わせて、その文章にとって文法構造と語順のどちらが重要かを判断しなければならない。

(前にも書いたような気がするが、翻訳がしたがうべき価値基準は、翻訳の種類(文芸翻訳か実務翻訳かなど)によっても違うし、訳す原文によっても違う。むしろ、特定の翻訳においてどのような価値基準が適切かを判断することこそが、翻訳者にとって最も重要な仕事だと言ってもよいくらいだ。)

 典型的な例として、代名詞や冠詞の問題がある。文章中にある対象が初めて登場したときには固有名詞や不定冠詞つきの名詞で表現し、それ以後の文では代名詞や定冠詞つきの名詞で受けるというのが英語の一般原則だが、文法構造だけを忠実に変換すると、このような語順が反転することも珍しくない。

 たとえば、翻訳調の文章でありがちなのが、「彼の無知無能には愛想がつきたので、Studio RAIN に絶交を申し渡した」みたいな文章で、代名詞の「彼」が対応する固有名詞の「Studio RAIN」より先に来てしまっている。

 おそらく原文では、接続詞 because や since で始まる理由を表す副詞節が主節を後ろから修飾していたので、副詞節の方の名詞が代名詞になっていたのだろう(主節を前から修飾する従節の名詞が代名詞になることもないではないが)。ところが、日本語には後ろから理由を修飾するような構文がないので、それを仕方なく前にもってきた。そのせいで語順が反転してしまったのだろう。

 言うまでもないが、こういう場合には、語順を入れ替えて「Studio RAIN  の無知無能には愛想がつきたので、彼に絶交を申し渡した」とした方が自然である。(もっと全体の語順を尊重したいのであれば、「Studio RAIN に絶交を申し渡したのは、彼の無知無能に愛想がつきたからだ。」みたいな構造にする手もある。)

 この詩の場合、「I'm waiting ...」「I'm watching ...」というフレーズの繰り返しによって全体のリズムを作っているのは明らかなので、その語順を尊重するために、倒置法を使ってまでこの部分を前に持ってきたわけである。

 さらに「empty」という言葉の繰り返しも意図的であると判断したので、それが際立つように語順を入れ替えた。よく読むとわかると思うが、実は「ドックで」の「で」と「船の上で」の「で」は意味が違い、ドックで待っているのは「ぼく」だし、船の上で休んでいるのは「カモメ」なのだが、韻を踏んだ感じになるように、あえて同じ形に訳している。

 幸いなことに、日本語では助詞の「てにをは」さえあっていれば、語順をどう入れ替えても意味が通じる。そういう意味では、主語→述語の語順を滅多に変更できない英語よりも、語順の自由度が高いと言ってもよいと思う。日本語のほとんど唯一と言ってよい語順的制約は、述語が最後になければならないということだ。

 しかし、「ぼくは待ってる。…を」のような倒置法を使えば、その述語を最後に持ってくるという制約さえなくなるわけである。もちろんこれは、詩の翻訳だからこそできることで、ぼくが普段やってるマニュアルなんかでは、「アイコンをクリックしてください」を「クリックしてください。アイコンを。」と訳すわけにはいかない。それは実務翻訳には実務翻訳にふさわしい文体の制約があるからだ。

 そういう意味では、詩の方が文体的自由度は高いと言えるだろう。詩の翻訳で難しいのは、たぶん、表現の自由度が高い分、詩としての文学的・芸術的完成度を高くしなくてはならないということだろう。そのへん、詩の翻訳を専門とする方は、まだまだぼくなんかが知らないノウハウをたくさん持っているだろうと推察する。

 訳語に関しては、なるべく気取らない平凡な訳語を意識的に選択するように努めた。翻訳者にありがちな悪癖として、つい高級そうな文語・雅語を多用したがる傾向がある。これには、自分が言葉を知らないと思われたくないとか、自分がいかに言葉を知っているかをひけらかしたいとか、なんとなくそのほうが訳文カッコよく見えるといった理由があると思われるが、言うまでもなく、平易な文章はできるだけ平易に訳すことが正しい。

(もっとも、これも場合によりけりで、たとえばマーケティング系の宣伝文などでは、原文以上に気取った表現の訳文が要求されることも珍しくない。宣伝文の目的は宣伝だから、宣伝効果を最大化することが原文への忠実度より優先されるのである。あるいは、「Good Morning」の真意が「よい朝」ではないように、宣伝効果を最大化することこそが隠れた原文の意図である、と言ってもよい。こういう翻訳はあまり性格に合わないので、なるべく引き受けないようにしているが。これも前述した価値基準が翻訳の種類によって変わる現象の一例であって、たとえば、同じ文でも「日米の広告文化比較論」みたいな本に掲載するためだったら、なるべく原文に「忠実に」訳す方が正しいということになるだろう。そういう意味でも、特定の原文には唯一絶対に正しい翻訳が一対一対応で存在するというのは幻想なのである。) 

 たとえば、「2階に上がる」と「フロア2に上昇する」では、意味は同じと言えないこともないが、ニュアンスはまったく違ってしまう。前者は普通の人間の日常的な発言だが、後者はまるで SF 映画に出てくるロボットの発言みたいに聞こえるだろう。

 個人的には、だいたい、古英語の単語は大和言葉に訳し、ラテン語や外来語起源の単語は漢語に訳すようにしている。もちろん、これは厳密な対応関係ではないが、大雑把な直感的対応関係としてはそれほど間違っていないと思う。

 David はしばしば難しい言葉を使う人だが、この詩に関しては難しい言葉は一切ないので、できるだけ平易に訳すのが正しいと判断した。

 そういう意味で、唯一気取った言葉を使ったのは「白無垢の花嫁衣装」のところだが、これは口調がわりと自然だったのと、「無垢」と次の行の「無私」が韻を踏んでいる感じになって都合がいいと思ったからである。

 ちなみに、タイトルの言葉を「福は内」と訳したのは、もちろん節分限定のお遊びで、David が日本の節分を意識していたかどうかは定かではない。でも訳してみたら意外とハマっているので、自分ではこれはこれでアリかなと思っているのだが、いかがだろうか。 

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