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ブックオフで近代文学は学べない

 久しぶりにブックオフに行く。山崎正和氏の「不機嫌の時代」を読んでいたら、志賀直哉や永井荷風が読みたくてたまらなくなったからだ。どうせこういうブンガク書のたぐいは、ブックオフの百円均一コーナーに山ほど並んでいるだろう、と高をくくって近所のブックオフに行ったらびっくり。

 近代日本を代表する名文家として谷崎潤一郎や丸谷才一がこぞって賞賛する志賀直哉の本が、なんと一冊しか見つからない。日本情緒を描かせたら天下一品と言われる永井荷風にいたってはなんと一冊もない。

 仕方ないので、夏目漱石や森鴎外の本を少し買い込んでお茶を濁す。ここらの著者はすでに著作権切れしているので、大部分は青空文庫などで入手できるのだが、文庫本の方が風呂場で読んだりできて便利だからだ。でも、漱石の代表作はだいたい揃っていたが、鴎外に到ってはちょっとマイナーな作品になると置いていなかった。

 そんなわけで、現代日本のブックオフで近代日本の文学を揃えようとしても無理だ、というささやかな現実をはからずも学ぶことになった。もちろん、だからといってブックオフさんの商売のやり方にケチをつける気はない。おそらく、それが今の社会に合った合理的な品揃えなのだろう。ぼくが妙にブックオフに甘いと感じる人もいるかもしれないが、懸賞のサイコロを振ったらたまたまピンゾロが出て三百円の割引券を貰ったからでは断じてない。

 それはさておき、昔の古本屋はこうではなかったような気がする。何を隠そう、ぼくも高校生時代は古本屋通いが日課だった。高校まで 5km ぐらいの距離を自転車で通っていたが、通学路からちょっと寄り道をすれば行ける範囲の古本屋は多分ほとんど把握していたはずだ。もちろん、今はなき大盛堂や紀伊国屋も愛用していたし、休日には神田神保町にも足をのばし三省堂や書泉で時間をつぶすような子供だった。

 当時は、埃をかぶった古典ばかりが積み上げてある一角がどの古本屋にもあって、ブンガクの本なんて買おうと思えばいつでも買えるよ、という感じだった。だからぼくも、ありったけの古典を買い揃えて体系的に読破し、「今どきジョイスもフーコーも読んでないなんてどこの田舎者でございましょう。オホホホホ」と嘯いて川上未映子のような文学少女とヤリまくっていたかというとさにあらず、実際には娯楽小説ばかり買い漁っていたわけだが。

 考えてみると、当時の古本屋と今のブックオフは、業態は一緒でも、社会の中での位置づけはかなり異なっているのだろう。かつての古本屋は、極端に言えば一般庶民が行く場所ではなかった。近所にはかならず「街の本屋さん」的な新刊書店があって、一般庶民はそこで古本ではなく新刊書を買っていたのだ。わざわざ古本屋に行くような人は、学のある知識人か、ぼくのようなオタクのはしりみたいな奴ばかりだった。だから、古本屋にちょっと気取った本が置いてあるのは自然だったのだ。

 もう一つ言えそうな事は、昔は見栄で本を買う奴がたくさんいたということだろう。ぼくが学生の頃は、趣味は読書ですとか言いながら志賀直哉も太宰治も読んでないとは口に出せない、みたいな雰囲気がかろうじてまだあった。それは今で言えば、ロックが好きと言いつつツェッペリンもディープ・パープルも聴いた事がないとか(ぼくのことだ)、テクノやハウスが好きと言いつつクラブで踊ったことがないとか(これもぼくのことだ)、いうようなものだったろう。

 しつこいようだが、だからと言って、古典精神の衰退を嘆き、軽佻浮薄な娯楽の氾濫する現代日本の文化を批判し、卑しくも本屋と称するからには古典を一通り揃えるべきであるとか、若者もくだらないラノベやツンデレ萌え小説ばかりでなくもっと古典を読むべきであるとか主張したいわけではまったくない。今だって志賀直哉や永井荷風は Amazon のマーケットプレイスにでも注文すれば安く買えるし、多分その方が合理的だ。

 ただぼくは、自分が身近に感じた時代の変化を、多少のノスタルジーを込めて書き留めておきたかっただけである。

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