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十二音技法は調性からの解放ではない

 ここ数日ウェーベルンベルクの曲を集中的に聴き込んでいてふと得心したことがあったのでメモしておく。これは例によって、偏った嗜好の一音楽ファンによる個人的な意見であって、音楽界の定説と一致しているかどうか定かではないし、逆に、その筋ではとっくに常識化しているということもあり得る。そのつもりでお読みいただきたい。

 みなさんは十二音技法の音楽にどのようなイメージをお持ちだろうか。クラシックは聴くけど現代音楽には馴染みがないというような方は、調性音楽が規則にのっとった秩序ある音楽であるのに対し、十二音技法などを使ったゲンダイオンガクは規則もなにもないデタラメな音楽だと思っていたりしないだろうか。

 十二音技法というのは、簡単に言えば、調性にとらわれずに作曲するための作曲技法なのだが、一種の進歩史観とともに語られるイメージがあった。曰く、かつての作曲法は長調・短調の調性に厳格にしたがっていたが、歴史を経るにしたがって半音階や転調などの技法が多用されるようになり、最終的に到達したのが十二音技法である。これは、これまで縛られていた無用なルールからの解放である、云々。

 これはもちろん、ぼくが読んだ狭い範囲の音楽学や音楽評論の文献から勝手に抱いたイメージに過ぎないかもしれないが、こういうイメージは根本的に間違っていることに遅まきながら気がついた。十二音技法はむしろ調性音楽のアンチテーゼというべきものであって、ある意味、調性音楽以上に調性にとらわれた音楽であり、調性音楽以上にガチガチのルールに縛られた音楽であると。

 十二音技法というと、単に、特定の調の 7 つの音の変わりに 12 個の半音全部を使う方法ぐらいに思っている人もいるかも知れない。しかし、こういう認識では以下の議論は理解できないのでここで少し補足しておこう。

n

調性に収まる

確率(近似値)

1

1.00

2

0.99

3

0.93

4

0.77

5

0.57

6

0.38

7

0.24

8

0.15

9

0.09

10

0.05

11

0.03

12

0.02

 実は、12 個の音から無作為にメロディを作ったんでは、意図しなくてもなんらかの調性を帯びてしまう可能性があるのだ。たとえば、n 個の音をランダムに選んでメロディを作ったとき、それが特定の調性に収まる確率は 7/12 の n 乗。調性は全部で 12 通りあるから、このどれかに収まる確率は(調性同士の相関関係を無視した近似値で) 1-(1-(7/12)^n)^12 程度になる。この確率を n=12 まで計算すると右表のようになる。

 ご覧のように、12 音の中から音を 5 個ランダムに選んでメロディを作っても、特定の調性に収まってしまう確率は 5 割以上ある(注:Excel で行った簡単なモンテカルロ法の結果によれば、5 割以上は少し言い過ぎで、実際には 0.45 ぐらいのようである)。しかも、調性に収まらない音が 1 個ぐらいなら経過音とみなせるし、さらに、メロディを前半・後半に分けたときにその両方が別々の調性に収まっていれば転調とみなせる。つまり、なんらかの意味で調性音楽とみなせる確率はこれよりさらに高くなるのである。

 だから、十二音技法では、メロディが万が一にも調性を帯びないように、いろんなルールを設定している。メロディの中で 12 個の音を 1 回ずつしか使ってはいけないとか、1 つの曲の中では、このようにして作ったメロディ(十二音技法では「音列」または「セリー」と呼ぶ)を、ある規則に基づいて変形したものしか使ってはいけないとか。要するに、12 個すべての音が完全に平等に使われるようなルールが設定されているわけである。先程ガチガチのルールで縛られたと形容したのが、決して誇張でないことがおわかりいただけると思う。
 
 でもよく考えてみると、もし本当に完全に調性から解放されたいなら、こんなややこしいルールなど設定しなくても、最初から十二平均律など使わなければいいのである。十二平均律はもともと調性音楽のための音階だ。長調の音階は自然倍音列から来たものだが、自然倍音列に忠実に従った純正律の周波数(の対数)は厳密に等間隔ではないので、移調に手間がかかる。そこで、自然倍音列との多少の誤差に目をつぶって 1 オクターブの周波数(の対数)を等間隔に 12 等分することにより、移調を簡単にしたものが十二平均律なのである。
 
 だから、もし調性からの解放だけが目的なら、12 等分にこだわる必要などなくて、5 等分や 7 等分や 13 等分でもいいわけだし、もっと言えば、等間隔にこだわる必要さえなくて、まるっきり不規則な周波数の音階を使ったっていいわけである。そうすれば、その音階からデタラメに音を選んでも、倍音関係になどならないのだから、そう簡単に調性感など生じないはずだ。
 
 つまり、調性感を出さないために十二音技法などを使わなくてはならないのは、互いに倍音関係にある音がたくさん含まれている平均律を使っているからなのである。いわば、右に傾いても左に傾いても「調性」の谷に転落してしまうような細い綱の上を、ぎりぎりのバランスをとりながら渡るための綱渡り術のようなもので、そもそもそんな綱の上を渡ろうとしなければ必要のない技術なのである。
 
 実際、十二音技法を使った音楽を聴いていて感じるのは、解放感というよりむしろ一種の緊張感なのであるが、それはおそらく、このぎりぎりのバランスをとることからくる緊張感なのである。解放感ということで言えば、むしろ、最近の旋法的な音楽の方がよっぽど解放的に聞こえるくらいだ。
 
 ここで参考までに、調性音楽と十二音技法のどちらが「解放的」かを、単純に数字で比較してみよう。同じ個数の音で作れる可能性のあるメロディの数を比較する。十二音技法のメロディは必ず 12 個の音から構成されるというルールなので、公平のため、調性音楽の方も使う音は 12 個とする。調性音楽は同じ音を繰り返し使ってよいから、作れるメロディの数は、

7 ^ 12 =  13841287201 =  1.38 * 10 ^ 10

 一方、十二音技法では、同じ音を繰り返し使ってはいけないというルールがあるから、作れるメロディの数は、

12 ! =  479001600 = 4.79 * 10 ^ 8

 つまり、意外かもしれないが長調で作れるメロディの方が 30 倍も多いのである。しかも、調性音楽では経過音や転調が可能なので実際に作れるメロディはこれよりさらに多いが、十二音技法では特定のメロディ(音列)を移調したものや時間的に反転させたものなどがすべて同じ音列の一種とみなされるので、使えるメロディという意味での可能性はさらに少なくなるのである。これを見ても、十二音技法が調性音楽より「解放的」などとはとても言えないことがわかるだろう。

 これを料理にたとえるなら、かつては、甘い料理としょっぱい料理は完全に別物であり、甘い料理に塩を入れたりしょっぱい料理に砂糖を入れたりすることはご法度だったものが、歴史が進むにつれて、甘い料理にちょっとだけ塩を入れたり、しょっぱい料理にちょっとだけ砂糖を入れたりする隠し味という技法が生まれ、最後に、甘くもしょっぱくもならないように砂糖と塩を混ぜ合わせる絶妙の比率が考案されたようなものだろう。

 想像しただけでわかるはずだが、このような料理は、あくまで「甘しょっぱさ」という独特の味を楽しむためのものであって、甘さやしょっぱさからの解放などではまったくない。もし本当に甘さやしょっぱさから解放されていれば、最初から砂糖も塩も入れないとか他の調味料を使うとかするはずなのだから。もちろん、この「甘しょっぱさ」という味は一つの重要な発明には違いないが、だからといって、この技法を使えば味付けを気にせず自由に料理ができるなんてことはないし、ましてや、この技法が以後あらゆる料理で使われるなんてことがあろうはずもない。

 同様に、十二音技法も十二平均律を使ってあえて「無調感」を表現するための一つの手法に過ぎない。その「無調感」は確かに面白い感覚の一つではあるが、それが調性的な感覚より絶対的に優れているというわけではない。もちろん、以後の音楽がすべて十二音技法で作られるようになるなんてことはありえないし、実際にもそうなっていない。

 新ウィーン楽派の評価についてもそうである。新ウィーン楽派は十二音技法という技法だけで評価されがちだが、それはたぶん彼らの曲をロクに聴いたことのない人の評価なのであって、実際には十二音技法を発明する以前にも彼らは優れた曲を大量に書いている。彼らはもともと優れた音感を持った音楽家なのであり、その音感から生まれた技法を整理したらたまたま十二音技法になっていたということにすぎないのだろう。

 実は、新ウィーン楽派の曲の中でぼくが好きな曲も、十二音技法時代の曲よりも、それ以前の、無調ではあるけど十二音技法は使っていない時代の曲の方が多かったりする。先ほどの綱渡りの例えで言えば、無調時代の曲は左右にふらつきながら渡っているような感じなのに対し、十二音技法時代の曲は微動だにせずまっすぐ渡っているような感じなのだ。微動だにしない綱渡りは確かに美しいとは思うが、一回観れば十分という感じもしないでもない。逆に、ふらつきながら渡っている綱渡りを観る方がスリリングで飽きが来なかったりする。

 そんなわけで、十二音技法は、曲全体を支配する規則というよりも、あくまで平均律上で「無調感」を表現するための一つの手法としてとらえた方がよい、というのがぼくの現時点での結論である。今頃気づいたのか、と思ってる人もいるかもしれないが。

シェーンベルクは構造の手段を与えたのではなく、一つの方法-12 音技法-を作っただけであり、この方法の非構造的な性格のために、彼の追従者たちは、絶えず反抗的にならざるを得なかった。和音や調性を作らない音の組み合わせを考えなければならないのである。

ジョン・ケージ

おそらく、シェーンベルクという現象を測る真の尺度は、12 音からなるセリーを用いて半音階法の合理的組織化を実現したという事実よりも、むしろ、セリーの原理それ自体の設定であるように思われるからである。

ピエール・ブーレーズ

シェーンベルクたちが、なぜ最初に決めたセリー(音列)を繰り返さなくちゃいけないかっていうことは、とうとう僕には理解できていないんですよ。なぜそういう欲求を持ったか、いまだにわからないですよ。だってさ、結局、半音階なんてひどく目の粗いもので、バンッとやれば終わりでしょ? 一瞬で 12 個バンッと鳴らせばそれから発展しないわけよね。それは、12 個じゃなくても、あらゆる現代音楽は、システムを持っているという風に、セリーにしても言ってるけれど、その暴力的にノイズ化したジャン! というもので、もう、そこが最大値というかさ、表されちゃうわけで、一瞬で終わっちゃうでしょ? 後は、その中からいかに並べ替えするかっていうことしかない。

-坂本龍一

僕は柴田南雄さんの意見に近いんですけど、シェーンベルクは 12音技法を発見したんじゃなくて、12 音技法的な無調的な感覚を発見したのね。で、そこからそれを整理してみたら 12 音技法になっているわけです。その無調的な感覚性を 12 音技法にしたときには、その感覚自体は抽象化されて、ある意味捨象されているわけですね。12 音技法と 12 音技法的な作品というのは違うものだと思います。感覚の方は捨象されて技法は残るということは、すでに抽象化された技法自体で作品を作るっていうことに、あんまり意味がなくなってくる。

-坂本龍一

…このような、五度の関係の重視、すなわちドミナント関係の優位を認めるという事実は、無調音楽の理念と逆行する感を与えるが、そもそも十二平均律によって楽器や人声によって演奏される音楽において、自然倍音の関係、つまりオクターブや五度、長三度の優位を絶対に否定することは不可能なことである。シェーンベルクの無調音楽にあっては調性や三和音の機能的な体制は否定されるが、自然倍音列の教える諸音間の親近性や和音の音響能率の順位は、調性音楽であろうと十二音音楽であろうと必然的につきまとう音響物理現象の一部であり、シェーンベルクも五度の関係を初期の作品二十六に於いても取り入れたが、その後次第に積極的に認める方向に進み、晩年の《ナポレオンへのオード》の終結部などでは三和音の容認にまで及んでいる。

柴田南雄

しかし、調性音楽には、単に歴史的民族的な背景のほかに、三和音体制とドミナントの重視という、自然倍音列から導かれる自然の根拠があることは見逃せない。では、シェーンベルクは調性を放棄するとともにそれらをも全く無視したのであろうか、部分的にはそのように見える作品もあるが、すでに述べたように、初期の作品二十六の管楽五重奏曲の音列は、前半と後半が五度関係に立っており、この関係は es がやや優位に立つ第一主題と b がやや優位に立つ第二主題の関係にも及んでいるし、また中期以後の I6 を重視する音列は実作品中では当然、五度関係の重視を伴っている。したがって、ドミナント関係を彼が全く無視しているという非難は、彼の作品を真に知らないものの議論といわねばならない。その他の音程関係についても、自然倍音列の与える協和度の高低については決して無視されてはいない。むしろ、その点で十二音技法は一種の新古典主義という時代精神の影響下の産物とさえ言えると思う。

柴田南雄

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