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怪文書

 今朝、拙宅のポストに以下のような怪文書が投函されていた。

怪文書.jpg

 ここに書かれている内容自体ははっきりいってどうでもいい。その内容とは無関係に、この怪文書はぼくにとってきわめて不快であったので、そのことをここに明記しておきたい。

 第一に、拙宅のポストには「ポスティングお断り」と大書してあるのに、それを無視して投函されていたこと。この怪文書を作成・投函したものは、有権者であるぼくのライフスタイルなどより、このような怪文書を配布することが重要であると考えているらしい。

 第二に、この文書には、発行者や執筆者など、責任者の氏素性が一切記載されていないこと。書かれているのは、「NEWS VICTORY FOR XXX」なる怪しげなタイトルだけである。念のためにインターネットでも検索してみたが、この情報で発行者を特定することはできない。つまり、きわめて無責任な文書である。

 少なくともぼくは、このような不快な活動をする者がたとえ末端にでもいるような政党には、たとえどのようなすばらしい政策を主張しようとも、断じて投票する気はない。したがって、この怪文書との関連を疑われそうな政党は、自主的にこのような組織との無関係を表明し、真犯人の摘発に全面的に協力した方がよいのではないかと、老婆心ながら申し上げておく。

 この文書が公職選挙法に触れるのかどうか、現時点では確定できないが、ぼくはこの文書の違法性を確認するためにできる限りの努力をするつもりである。

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気骨の判決

 録画しておいた NHK スペシャル「気骨の判決」を鑑賞したが、よかったと思う。戦時中を題材としたドラマとしてもこれまでなかった切り口で、よく言われる翼賛体制の一端が実感できる。演出も人目をひく派手なシーンはほとんどなく舞台劇のような抑制の効いた演出だったが、このような心理の葛藤に重点をおいたドラマには似合っていた。役者も地味な役者ばかりだが手堅い演技。なにより、飄々とした風貌ながら信念を貫く主人公の判事を演じた小林薫が似合いすぎるほど似合っていた。名演というべきだろう。

 このブログでは最近 NHK の悪口ばかり書いているので、その分少し声を大きめにして褒めておきたい。見逃した方は、再放送などがあればご覧になることをお勧めします。


 その後 2 回観直した結果、もっと評価されるべき作品だと感じたので、もう少しほめておく。

 この作品、実を言うとストーリー自体はきわめて単純である。戦時中の翼賛体制下で行われた選挙が選挙違反かどうかという裁判で、時局に逆らって選挙違反であるという判決を出した判事が一人いたというだけの話だ。

 しかもその結末は冒頭のナレーションで予告されているので、結末がどうなるかというサスペンスはまったくない。また基本的に史実に基づいた話であるから、その判決のおかげで日本社会が変化したりはしなかったこともわかっている。裁判の成り行きに関しても、法廷物によくあるような、敵に罠を仕掛けてどんでん返しを起こすというようなスリルはまったくない。

 つまり、このドラマは本当にごく単純に主人公が職務を淡々と遂行していく過程を追って行くだけのドラマなのであり、そのような単純なストーリーを作品として成立させているのは、ほとんど役者の演技力だけなのである。

 ぼくが恥ずかしながら 3 回観て 3 回ともちょっと涙ぐんでしまったのは、「愚か者でかまわない」のシーンと「わたし自身の弱さだ」のシーンであるが、こういう台詞だってこの手のドラマではありがちな台詞であり、言い方次第では、粋がった若造の気取った台詞や、思想かぶれした偏屈オヤジの大人気ない台詞に聞こえても不思議はない。それがそう聞こえないのは、ストーリーや演出ではなく、ひとえに役者の持つ演技の力なのである。

 結果から見れば、劇中でも示唆されているように、主人公の判決は社会の流れを変えることはなかった。そういう意味では、主人公の行為は無意味なヒロイズムで社会を無駄に混乱させただけとも言える。それでもこういう人間がいてほしいと思えるのは、頭で作った思想ではなく、役者の演技がその身体性によって表現している思想に、観る者が共感するからなのだろう。

 小林薫は、そういったシリアスな演技だけでなくコミカルな演技もうまかった。ぼくが特に感心したのは、食事にトマトがないことを「なんとかならんもんかのう…」と嘆くシーン。実は、ここで主人公はトマトのことを嘆いてるのではなく、心ここにあらずで裁判のことを考えているのだ。でも、家族は主人公のトマト好きを知っているから、またいつものアレとしか思ってない。そのすれ違いの面白さを出したい場面なんだけど、小林薫は、裁判の事を一言も口に出すことなく、ほんのわずか声を荒げたり重々しくしたりするだけで、見事にそれを表現している。 

 主役の小林薫だけでなく、脇をかためる役者も優秀だったと思う。特に、鹿児島県知事で後に警視総監になる人物を演じた篠井英介や、司法大臣を演じた山本圭は、戦時中のドラマにありがちな居丈高に相手を怒鳴りつけるような演技を避けて、日本的な真綿で首を絞めるようなソフトな権力というものをうまく表現していた。

 正直言うと、ぼくはもともと、ドラマを観るときにはストーリーやカメラワークや演出ばかりが気になってしまうほうで、役者の演技に注目するタイプではなかった。だから、役者の演技が持つ力というものを、このドラマに改めて教えてもらったような気がしている。

 もちろん、そのように役者の演技力を信じてすべてを預けるような作り方を選んだのが、製作者側の英断であることも忘れてはならない。

 ちょっと想像しただけでわかるが、このドラマだって、やり方によってはいくらでもセンセーショナルに盛り上げられる題材である。戦時中のドラマだから、戦闘シーンや空襲から逃げ惑うシーンを入れたっておかしくないし、憲兵による暴力シーンを入れたっていいはずだ。しかし、そういうシーンのほとんどは戦時中の記録映像で代用されている。

 実は、ストーリー上最も盛り上がるのは国民学校の校長が自殺する処なのだが、なんとその自殺のシーンすら入っていない。あるのは、自殺したという情報を主人公が伝聞として聞かされるシーンだけである。このへんを見ても、そういうセンセーショナルなシーンを作り手が意図的に排除していることがよくわかる。

 そんなセンセーショナルなシーンなどなくても、優秀な役者をキャスティングして、その力量が十分に発揮されるような環境を用意してあげれば、十分に見ごたえのある作品ができるはずだ。そう見切って思い切ってすべてを役者に託した製作者たちにも拍手してあげたい。

 最近はドラマの視聴率も停滞気味だそうだが、こういうドラマならもっと観てみたい。頭で作った小賢しい思想を人気だけの俳優が口だけで囀るようなドラマではなく、思想を身体化して表現できる優秀な役者同士がぶつかりあうようなドラマを。しかし、そのようなドラマを制作できるテレビ局は限られているような気もする。

・NHK オンデマンドでも 8 月 26 日まで配信中のようです。

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十二音技法は調性からの解放ではない

 ここ数日ウェーベルンベルクの曲を集中的に聴き込んでいてふと得心したことがあったのでメモしておく。これは例によって、偏った嗜好の一音楽ファンによる個人的な意見であって、音楽界の定説と一致しているかどうか定かではないし、逆に、その筋ではとっくに常識化しているということもあり得る。そのつもりでお読みいただきたい。

 みなさんは十二音技法の音楽にどのようなイメージをお持ちだろうか。クラシックは聴くけど現代音楽には馴染みがないというような方は、調性音楽が規則にのっとった秩序ある音楽であるのに対し、十二音技法などを使ったゲンダイオンガクは規則もなにもないデタラメな音楽だと思っていたりしないだろうか。

 十二音技法というのは、簡単に言えば、調性にとらわれずに作曲するための作曲技法なのだが、一種の進歩史観とともに語られるイメージがあった。曰く、かつての作曲法は長調・短調の調性に厳格にしたがっていたが、歴史を経るにしたがって半音階や転調などの技法が多用されるようになり、最終的に到達したのが十二音技法である。これは、これまで縛られていた無用なルールからの解放である、云々。

 これはもちろん、ぼくが読んだ狭い範囲の音楽学や音楽評論の文献から勝手に抱いたイメージに過ぎないかもしれないが、こういうイメージは根本的に間違っていることに遅まきながら気がついた。十二音技法はむしろ調性音楽のアンチテーゼというべきものであって、ある意味、調性音楽以上に調性にとらわれた音楽であり、調性音楽以上にガチガチのルールに縛られた音楽であると。

 十二音技法というと、単に、特定の調の 7 つの音の変わりに 12 個の半音全部を使う方法ぐらいに思っている人もいるかも知れない。しかし、こういう認識では以下の議論は理解できないのでここで少し補足しておこう。

n

調性に収まる

確率(近似値)

1

1.00

2

0.99

3

0.93

4

0.77

5

0.57

6

0.38

7

0.24

8

0.15

9

0.09

10

0.05

11

0.03

12

0.02

 実は、12 個の音から無作為にメロディを作ったんでは、意図しなくてもなんらかの調性を帯びてしまう可能性があるのだ。たとえば、n 個の音をランダムに選んでメロディを作ったとき、それが特定の調性に収まる確率は 7/12 の n 乗。調性は全部で 12 通りあるから、このどれかに収まる確率は(調性同士の相関関係を無視した近似値で) 1-(1-(7/12)^n)^12 程度になる。この確率を n=12 まで計算すると右表のようになる。

 ご覧のように、12 音の中から音を 5 個ランダムに選んでメロディを作っても、特定の調性に収まってしまう確率は 5 割以上ある(注:Excel で行った簡単なモンテカルロ法の結果によれば、5 割以上は少し言い過ぎで、実際には 0.45 ぐらいのようである)。しかも、調性に収まらない音が 1 個ぐらいなら経過音とみなせるし、さらに、メロディを前半・後半に分けたときにその両方が別々の調性に収まっていれば転調とみなせる。つまり、なんらかの意味で調性音楽とみなせる確率はこれよりさらに高くなるのである。

 だから、十二音技法では、メロディが万が一にも調性を帯びないように、いろんなルールを設定している。メロディの中で 12 個の音を 1 回ずつしか使ってはいけないとか、1 つの曲の中では、このようにして作ったメロディ(十二音技法では「音列」または「セリー」と呼ぶ)を、ある規則に基づいて変形したものしか使ってはいけないとか。要するに、12 個すべての音が完全に平等に使われるようなルールが設定されているわけである。先程ガチガチのルールで縛られたと形容したのが、決して誇張でないことがおわかりいただけると思う。
 
 でもよく考えてみると、もし本当に完全に調性から解放されたいなら、こんなややこしいルールなど設定しなくても、最初から十二平均律など使わなければいいのである。十二平均律はもともと調性音楽のための音階だ。長調の音階は自然倍音列から来たものだが、自然倍音列に忠実に従った純正律の周波数(の対数)は厳密に等間隔ではないので、移調に手間がかかる。そこで、自然倍音列との多少の誤差に目をつぶって 1 オクターブの周波数(の対数)を等間隔に 12 等分することにより、移調を簡単にしたものが十二平均律なのである。
 
 だから、もし調性からの解放だけが目的なら、12 等分にこだわる必要などなくて、5 等分や 7 等分や 13 等分でもいいわけだし、もっと言えば、等間隔にこだわる必要さえなくて、まるっきり不規則な周波数の音階を使ったっていいわけである。そうすれば、その音階からデタラメに音を選んでも、倍音関係になどならないのだから、そう簡単に調性感など生じないはずだ。
 
 つまり、調性感を出さないために十二音技法などを使わなくてはならないのは、互いに倍音関係にある音がたくさん含まれている平均律を使っているからなのである。いわば、右に傾いても左に傾いても「調性」の谷に転落してしまうような細い綱の上を、ぎりぎりのバランスをとりながら渡るための綱渡り術のようなもので、そもそもそんな綱の上を渡ろうとしなければ必要のない技術なのである。
 
 実際、十二音技法を使った音楽を聴いていて感じるのは、解放感というよりむしろ一種の緊張感なのであるが、それはおそらく、このぎりぎりのバランスをとることからくる緊張感なのである。解放感ということで言えば、むしろ、最近の旋法的な音楽の方がよっぽど解放的に聞こえるくらいだ。
 
 ここで参考までに、調性音楽と十二音技法のどちらが「解放的」かを、単純に数字で比較してみよう。同じ個数の音で作れる可能性のあるメロディの数を比較する。十二音技法のメロディは必ず 12 個の音から構成されるというルールなので、公平のため、調性音楽の方も使う音は 12 個とする。調性音楽は同じ音を繰り返し使ってよいから、作れるメロディの数は、

7 ^ 12 =  13841287201 =  1.38 * 10 ^ 10

 一方、十二音技法では、同じ音を繰り返し使ってはいけないというルールがあるから、作れるメロディの数は、

12 ! =  479001600 = 4.79 * 10 ^ 8

 つまり、意外かもしれないが長調で作れるメロディの方が 30 倍も多いのである。しかも、調性音楽では経過音や転調が可能なので実際に作れるメロディはこれよりさらに多いが、十二音技法では特定のメロディ(音列)を移調したものや時間的に反転させたものなどがすべて同じ音列の一種とみなされるので、使えるメロディという意味での可能性はさらに少なくなるのである。これを見ても、十二音技法が調性音楽より「解放的」などとはとても言えないことがわかるだろう。

 これを料理にたとえるなら、かつては、甘い料理としょっぱい料理は完全に別物であり、甘い料理に塩を入れたりしょっぱい料理に砂糖を入れたりすることはご法度だったものが、歴史が進むにつれて、甘い料理にちょっとだけ塩を入れたり、しょっぱい料理にちょっとだけ砂糖を入れたりする隠し味という技法が生まれ、最後に、甘くもしょっぱくもならないように砂糖と塩を混ぜ合わせる絶妙の比率が考案されたようなものだろう。

 想像しただけでわかるはずだが、このような料理は、あくまで「甘しょっぱさ」という独特の味を楽しむためのものであって、甘さやしょっぱさからの解放などではまったくない。もし本当に甘さやしょっぱさから解放されていれば、最初から砂糖も塩も入れないとか他の調味料を使うとかするはずなのだから。もちろん、この「甘しょっぱさ」という味は一つの重要な発明には違いないが、だからといって、この技法を使えば味付けを気にせず自由に料理ができるなんてことはないし、ましてや、この技法が以後あらゆる料理で使われるなんてことがあろうはずもない。

 同様に、十二音技法も十二平均律を使ってあえて「無調感」を表現するための一つの手法に過ぎない。その「無調感」は確かに面白い感覚の一つではあるが、それが調性的な感覚より絶対的に優れているというわけではない。もちろん、以後の音楽がすべて十二音技法で作られるようになるなんてことはありえないし、実際にもそうなっていない。

 新ウィーン楽派の評価についてもそうである。新ウィーン楽派は十二音技法という技法だけで評価されがちだが、それはたぶん彼らの曲をロクに聴いたことのない人の評価なのであって、実際には十二音技法を発明する以前にも彼らは優れた曲を大量に書いている。彼らはもともと優れた音感を持った音楽家なのであり、その音感から生まれた技法を整理したらたまたま十二音技法になっていたということにすぎないのだろう。

 実は、新ウィーン楽派の曲の中でぼくが好きな曲も、十二音技法時代の曲よりも、それ以前の、無調ではあるけど十二音技法は使っていない時代の曲の方が多かったりする。先ほどの綱渡りの例えで言えば、無調時代の曲は左右にふらつきながら渡っているような感じなのに対し、十二音技法時代の曲は微動だにせずまっすぐ渡っているような感じなのだ。微動だにしない綱渡りは確かに美しいとは思うが、一回観れば十分という感じもしないでもない。逆に、ふらつきながら渡っている綱渡りを観る方がスリリングで飽きが来なかったりする。

 そんなわけで、十二音技法は、曲全体を支配する規則というよりも、あくまで平均律上で「無調感」を表現するための一つの手法としてとらえた方がよい、というのがぼくの現時点での結論である。今頃気づいたのか、と思ってる人もいるかもしれないが。

シェーンベルクは構造の手段を与えたのではなく、一つの方法-12 音技法-を作っただけであり、この方法の非構造的な性格のために、彼の追従者たちは、絶えず反抗的にならざるを得なかった。和音や調性を作らない音の組み合わせを考えなければならないのである。

ジョン・ケージ

おそらく、シェーンベルクという現象を測る真の尺度は、12 音からなるセリーを用いて半音階法の合理的組織化を実現したという事実よりも、むしろ、セリーの原理それ自体の設定であるように思われるからである。

ピエール・ブーレーズ

シェーンベルクたちが、なぜ最初に決めたセリー(音列)を繰り返さなくちゃいけないかっていうことは、とうとう僕には理解できていないんですよ。なぜそういう欲求を持ったか、いまだにわからないですよ。だってさ、結局、半音階なんてひどく目の粗いもので、バンッとやれば終わりでしょ? 一瞬で 12 個バンッと鳴らせばそれから発展しないわけよね。それは、12 個じゃなくても、あらゆる現代音楽は、システムを持っているという風に、セリーにしても言ってるけれど、その暴力的にノイズ化したジャン! というもので、もう、そこが最大値というかさ、表されちゃうわけで、一瞬で終わっちゃうでしょ? 後は、その中からいかに並べ替えするかっていうことしかない。

-坂本龍一

僕は柴田南雄さんの意見に近いんですけど、シェーンベルクは 12音技法を発見したんじゃなくて、12 音技法的な無調的な感覚を発見したのね。で、そこからそれを整理してみたら 12 音技法になっているわけです。その無調的な感覚性を 12 音技法にしたときには、その感覚自体は抽象化されて、ある意味捨象されているわけですね。12 音技法と 12 音技法的な作品というのは違うものだと思います。感覚の方は捨象されて技法は残るということは、すでに抽象化された技法自体で作品を作るっていうことに、あんまり意味がなくなってくる。

-坂本龍一

…このような、五度の関係の重視、すなわちドミナント関係の優位を認めるという事実は、無調音楽の理念と逆行する感を与えるが、そもそも十二平均律によって楽器や人声によって演奏される音楽において、自然倍音の関係、つまりオクターブや五度、長三度の優位を絶対に否定することは不可能なことである。シェーンベルクの無調音楽にあっては調性や三和音の機能的な体制は否定されるが、自然倍音列の教える諸音間の親近性や和音の音響能率の順位は、調性音楽であろうと十二音音楽であろうと必然的につきまとう音響物理現象の一部であり、シェーンベルクも五度の関係を初期の作品二十六に於いても取り入れたが、その後次第に積極的に認める方向に進み、晩年の《ナポレオンへのオード》の終結部などでは三和音の容認にまで及んでいる。

柴田南雄

しかし、調性音楽には、単に歴史的民族的な背景のほかに、三和音体制とドミナントの重視という、自然倍音列から導かれる自然の根拠があることは見逃せない。では、シェーンベルクは調性を放棄するとともにそれらをも全く無視したのであろうか、部分的にはそのように見える作品もあるが、すでに述べたように、初期の作品二十六の管楽五重奏曲の音列は、前半と後半が五度関係に立っており、この関係は es がやや優位に立つ第一主題と b がやや優位に立つ第二主題の関係にも及んでいるし、また中期以後の I6 を重視する音列は実作品中では当然、五度関係の重視を伴っている。したがって、ドミナント関係を彼が全く無視しているという非難は、彼の作品を真に知らないものの議論といわねばならない。その他の音程関係についても、自然倍音列の与える協和度の高低については決して無視されてはいない。むしろ、その点で十二音技法は一種の新古典主義という時代精神の影響下の産物とさえ言えると思う。

柴田南雄

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もっと再放送を!by出羽の守

 何かというと「欧米では」「アメリカでは」と外国を引き合いに出して日本をこき下ろす人のことを「出羽の守」と呼ぶそうだが、そういう人はぼくもあまり好きではない。もちろん、外国に本当に優れたところがあれば、それに学ぶことが悪いはずはないのだが、実際にはそうでもないことも多いからだ。昔はそういう文化人がたくさんいて、こっちも若くて純情可憐だから感心して聞いていたものだが、今思えばウソや誇張が少なからず混ざっていたと思う。

 たぶん、当時はインターネットがないのはもちろん、海外で暮らした人もそれほど多くなかったので、ウソや誇張があってもなかなかバレなかったのだ。そのため、出羽の守的な語り口が文化人の権威を高める道具として便利に使われていたのだろう。

 …とわざわざこんな前フリをしたのは、今回だけはあえて出羽の守をやりたいからである。ネタはテレビである。

 テレビ界が不況だと言われて久しい。それが世界同時不況のせいなのか、それとも、時代の必然なのか、いろんな意見があるとは思うが、それはひとまず保留する。ぼくが疑問なのは、あれだけ予算がない予算がないと言っているわりには、なぜもっと再放送を増やさないのか、ということである。

 欧米のテレビ局では、同じ週に同じ番組を何回も繰り返して放送することも珍しくない。というか、むしろそれが普通である。今はもう日本にいながらにして視聴できる海外局がたくさんあるので、知っている人も多いはずだ。

 たとえば、アメリカ発の CNNj の場合、「ファリード・ザガリアGPS 」や「ステート・オブ・ザ・ユニオン」のような週 1 回の番組なら、再放送を含めて週に 2 回ずつ放送する。「リビールド」のような月 1 回の番組は、再放送を含めて月に 7 回放送する。「アンダーソン・クーパー360°」や「ラリー・キング・ライブ」のようなライブの帯番組は、さすがに毎日 1 回ずつしか放送しないが、どっちにしろ帯だから毎日観れる。

 イギリス発の BBC ワールドはもっと極端だ。「ハード・トーク」 という討論番組は、ほぼ毎日放送のある帯番組に近いが、同じ内容を 1 日 3 回ずつ放送する。「アワ・ワールド 世界は今」 という週 1 回の番組は、再放送を含めて週に 7 回ずつ放送する。「ワールド・ディベート」 という月 1 回の番組は、再放送を含めて月に 5 回放送する。

 ディスカバリー・チャンネルナショナル・ジオグラフィック・チャンネルのような、ドキュメンタリー系のテレビ局になると、相対的にスペシャル番組が多く、1 回製作した番組を 1 年にわたって何回も繰り返し放送することが多い。もちろん、「怪しい伝説」のようなレギュラー番組もあるが、こちらもだいたい週 2 回ぐらいのペースで放送しているようだ。

 ひるがえって日本のテレビ局を見ると、週に 1 回しか放送しない番組が極めて多い。いや、ほとんどの番組がそうであると言ってもいいくらいだ。そして、これは番組の人気ともあまり関係がない。

 たとえば、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」という番組は、 ぼくにとって絶対に見なくてはならない番組だと言っても過言ではないが、いかんせん週に 1 回しか放送がない。ということは、この時間帯には他の番組は(チューナーをもう一台買うとかしない限り)絶対に観れないということなのである。

 ところが困ったことに、最近になって町山智浩氏が 「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」 という番組を始めた。町山氏のアメリカ関係のレポートは以前から高く評価しているので、この番組も面白いに違いないと確信しているのだが、なんと放送時間がちょうど「ガキの使い」の裏なのである。しかも、この番組にも再放送がない。ということは、ぼくはこんな面白そうな番組を永遠に観れないということなのである! こんな不条理があろうか。

 そういうのは個人的な事情だからひとまずおいて、日本と海外の番組編成になぜこのような明白な差があるかを考えてみると、おそらく、視聴者側の視聴習慣の違いなのである。思い切って単純化して言えば、日本の番組編成は、毎日決まった時間にテレビの前に座って、その時間に放送している番組のうちから観る番組を選択するような視聴者に適しているのに対して、海外の番組編成は、先に観る番組を決めて、その番組の放送時間に合わせてテレビの前に座ったり録画したりするような視聴者に適しているのである。

 ぼく自身も数年前から、テレビはほとんど録画でしか観なくなった。そうすると明らかに海外テレビ局の番組編成の方が便利であることが実感されるのだ。おそらく、そういう視聴者はぼく以外にも増えているはずで、それが日本のテレビ視聴率の長期低落傾向の一因にもなっているのではないだろうか。これをちゃんと立証するのはなかなか大変なので、あくまで想像だが。

 そういう前提に立てば、同じ番組の再放送を増やすということは、おそらくテレビ局自体の利益にもつながるはずなのだ。たとえば、「ガキの使い」の再放送を 1 回増やしたとする。その結果、今の放送時間の視聴率は少し減るかもしれないが、人気番組の放送枠がほとんどコストゼロでもう一つ増えることになるわけだ。両放送時間の合計視聴者数で考えても、まさか差し引きゼロということはないはずで、全体として少しは増えるだろう。もちろん、それより視聴者数の多い番組をもう一つ別に制作できればもっと視聴者を獲得できるわけだが、今のご時世にそれがそう簡単ではないことは明らか。さらに、制作費当たりの視聴数や利益率を考えれば、再放送の有利さがさらに増すのは言うまでもない。

 こう考えると、なぜ日本のテレビ局がもっと再放送を増やさないのか、不思議に思えてくるぐらいである。これは完全に下種の勘ぐりになってしまうが、その裏には、芸能界の構造問題みたいなものがあるのかもしれない。仮にテレビ局の利益だけ考えれば、再放送を増やした方が得だとしても、出演する芸能人の立場から考えれば、それによって仕事の場が減る可能性が高い。だから、あたかも年末の道路工事のように、無駄とわかっていてもやらざるをえない事なのかもしれない。

 あるいは、ひょっとすると、テレビ局の方々はぼくなんかよりもっと志が高くて、いつの日かまた視聴者がテレビの前に戻ってきて、ゴールデンタイムには必ずテレビの前で一家団欒をすごすという日が来ることを信じて、日夜邁進しているのかもしれない。プロのみなさんがそう考えているのだとすれば、ぼくなんかが何を言っても無駄だろうが、少なくともぼくには、そんな日が来ることはとうてい考えられないのだが。

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コミケでの不快なできごと

 この間友達がある作家の熱烈なファンになって、もちろんその作家の本を大量に購入した後で、その人の作品をマンガ化してコミケで売ろう、と言い出した。その友達は漫画家志望だったが、オリジナルの作品はあまり成功せず、二次創作の売上を生活費の足しにしていた。
 それで、その作家の本を出している出版社の人にこっそりとマンガ化してコミケで売っていいかな? と相談したら、気のいいバイトの女の子が少しだったら目をつぶるよと言ってくれた。書面で正式に許可は出せないということだったので、その子との口約束だけでお茶を濁した。
 それであまりおおっぴらに売ってはいけないから、こそこそとコミケにブースを出して、その作家の本の購入代金も回収できないくらいの同人誌をちょこっとだけ売ったわけだ。
 ちなみにその作家は最近あまり本を出していなくて、副業で暮らしているという感じだった。
 するとまず、出版社の人と称する連中がえらい剣幕でブースに押しかけてきた。
 さらに、突然作家と称するどう考えても年下の女の子が出てきて、私たちに説教しはじめた。こういうことをしてもらったら困る、作品には著作権や隣接権がある、などなど。
 私たちはいちおう事情を言った。この子は、あなたの大ファンで本も大量に買っているんです。その子があなたへの愛情を込めて書いた特別な作品なんです。どうしてもだめでしょうか? いくらか印税もお支払いしますから……。
 その作家には言わなかったが、もっと書くと実はその作品はその子の亡くなった妹に捧げる作品でもあった。人にはいろいろな事情があるものだ。
 しかし、作家は言った。ばかみたいにまじめな顔でだ。
「こういうことを一度許してしまいますと、きりがなくなるのです」
 いったい何のきりなのかよくわからないが、作家の人がそこまで大ごとと感じるならまあしかたない、とみな怒るでもなくブースをたたんでコミケを出た。そして道ばたで楽しく同人誌を読みながらしゃべった。
 もしもその作家がもうちょっと頭がよかったら、私たちのちょっと異様な年齢層やルックスや話し方を見てすぐに、みなが同人界でかなりの人脈を持っているということがわかるはずだ。それがオタクというもので、本屋さんに行けばそういう本が山ほど出ているし、きっと作家とか名のつく人はみんなそういう本の一冊くらいは持っているのだろうが、結局は本ではだめで、その人自身の目がそれを見ることができるかどうかにすべてはかかっている。成功する作家は、必ずそういうことがわかっているものだ。
 そしてその瞬間に、彼女はまた著作権侵害が起こるすべてのリスクとひきかえに、そのオタクたちが口コミで広めてくれるかもしれなかった大勢の読者を全部失ったわけだ。
 作家でここ数年の出版点数がゼロ、という状況はけっこう深刻である。
 その深刻さが回避されるかもしれない、ほんの一瞬のチャンスをみごとに彼女は失ったのである。そして多分あの作家はもうおしまいだろう、と思う。失業するか、商売換えしているだろう。
 これが、ようするに、現在の文壇で起こっていることの縮図である。
 それでいちいち裁判だの和解だのでお金をかけているのだから、もうけが出るはずがない。ファンこそが宝であり、読者も人間。そのことがわかっていないで杓子定規に法律を適用しようとしてみんな失敗するのだ。それで、口をそろえて言うのは「不況だから」「文学のわかる読者が減ったから」「もっと前衛的な作品にしてみたら」「作風を変えてみたら」「作品はいいのにファンがつかない」などなどである。

(中略)

 というわけで、いつのまに作家は商売人になってしまったのだろう? と思いつつ、二度とあの作家の本は買わないということで、私たちには痛くもかゆくもなく丸く収まった問題だったのだが、いっしょにいた三十四歳の男の子が「まあ、当然といえば当然か」とつぶやいたのが気になった。そうか、この世代はもうそういうことに慣れているんだなあ、と思ったのだ。いいときの日本を知らないんだなあ。


※この話はフィクションです。コミケとか行った事ないので、伝聞情報と想像だけで書いてます。間違ってたらごめんなさい。あと、こんなパロディを書いたのは、単にあるところで盛り上がっている事件を相対化してみたかっただけで、誰かを明確に批判する意図はあまりありません。心の中では密かに批判的だったりしますが。

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ブックオフで近代文学は学べない

 久しぶりにブックオフに行く。山崎正和氏の「不機嫌の時代」を読んでいたら、志賀直哉や永井荷風が読みたくてたまらなくなったからだ。どうせこういうブンガク書のたぐいは、ブックオフの百円均一コーナーに山ほど並んでいるだろう、と高をくくって近所のブックオフに行ったらびっくり。

 近代日本を代表する名文家として谷崎潤一郎や丸谷才一がこぞって賞賛する志賀直哉の本が、なんと一冊しか見つからない。日本情緒を描かせたら天下一品と言われる永井荷風にいたってはなんと一冊もない。

 仕方ないので、夏目漱石や森鴎外の本を少し買い込んでお茶を濁す。ここらの著者はすでに著作権切れしているので、大部分は青空文庫などで入手できるのだが、文庫本の方が風呂場で読んだりできて便利だからだ。でも、漱石の代表作はだいたい揃っていたが、鴎外に到ってはちょっとマイナーな作品になると置いていなかった。

 そんなわけで、現代日本のブックオフで近代日本の文学を揃えようとしても無理だ、というささやかな現実をはからずも学ぶことになった。もちろん、だからといってブックオフさんの商売のやり方にケチをつける気はない。おそらく、それが今の社会に合った合理的な品揃えなのだろう。ぼくが妙にブックオフに甘いと感じる人もいるかもしれないが、懸賞のサイコロを振ったらたまたまピンゾロが出て三百円の割引券を貰ったからでは断じてない。

 それはさておき、昔の古本屋はこうではなかったような気がする。何を隠そう、ぼくも高校生時代は古本屋通いが日課だった。高校まで 5km ぐらいの距離を自転車で通っていたが、通学路からちょっと寄り道をすれば行ける範囲の古本屋は多分ほとんど把握していたはずだ。もちろん、今はなき大盛堂や紀伊国屋も愛用していたし、休日には神田神保町にも足をのばし三省堂や書泉で時間をつぶすような子供だった。

 当時は、埃をかぶった古典ばかりが積み上げてある一角がどの古本屋にもあって、ブンガクの本なんて買おうと思えばいつでも買えるよ、という感じだった。だからぼくも、ありったけの古典を買い揃えて体系的に読破し、「今どきジョイスもフーコーも読んでないなんてどこの田舎者でございましょう。オホホホホ」と嘯いて川上未映子のような文学少女とヤリまくっていたかというとさにあらず、実際には娯楽小説ばかり買い漁っていたわけだが。

 考えてみると、当時の古本屋と今のブックオフは、業態は一緒でも、社会の中での位置づけはかなり異なっているのだろう。かつての古本屋は、極端に言えば一般庶民が行く場所ではなかった。近所にはかならず「街の本屋さん」的な新刊書店があって、一般庶民はそこで古本ではなく新刊書を買っていたのだ。わざわざ古本屋に行くような人は、学のある知識人か、ぼくのようなオタクのはしりみたいな奴ばかりだった。だから、古本屋にちょっと気取った本が置いてあるのは自然だったのだ。

 もう一つ言えそうな事は、昔は見栄で本を買う奴がたくさんいたということだろう。ぼくが学生の頃は、趣味は読書ですとか言いながら志賀直哉も太宰治も読んでないとは口に出せない、みたいな雰囲気がかろうじてまだあった。それは今で言えば、ロックが好きと言いつつツェッペリンもディープ・パープルも聴いた事がないとか(ぼくのことだ)、テクノやハウスが好きと言いつつクラブで踊ったことがないとか(これもぼくのことだ)、いうようなものだったろう。

 しつこいようだが、だからと言って、古典精神の衰退を嘆き、軽佻浮薄な娯楽の氾濫する現代日本の文化を批判し、卑しくも本屋と称するからには古典を一通り揃えるべきであるとか、若者もくだらないラノベやツンデレ萌え小説ばかりでなくもっと古典を読むべきであるとか主張したいわけではまったくない。今だって志賀直哉や永井荷風は Amazon のマーケットプレイスにでも注文すれば安く買えるし、多分その方が合理的だ。

 ただぼくは、自分が身近に感じた時代の変化を、多少のノスタルジーを込めて書き留めておきたかっただけである。

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award-winning はなぜ訳しにくいのか

 英和翻訳を長年やっていると、頻出する語句や成句については訳し方のパターンが確立されてくるものだが、訳そうとするたびにうまい訳が思いつかなくて悩むような言葉もいくつかある。以前に紹介した decompression という単語もそうだった。今回は、award-winning という単語を取り上げてみたい。

 award-winning というのは、見た通り、award と winning を組み合わせた合成語であり、その意味もこの二つの単語の意味から類推される通りである。award は「賞」を意味する名詞、win は「獲得する」を意味する動詞であるから、award-winning は「賞を獲得した」という意味になる。

 この単語がよく使われるのは広告文で、宣伝したい商品や企業を表す言葉を修飾する形容詞として、award-winning product とか award-winning company のようなフレーズの中で使われる。

 このフレーズ、もちろん意味だけを考えれば何も難しいことはない。「賞を受賞したことのある製品」あるいは「賞を受賞したことのある会社」という意味だ。しかし、このフレーズを現実の文章の一部として訳そうとすると、どうもうまくいかないのである。

 実際に例を挙げてみよう。以下は、ある企業のウェブサイトの宣伝文を元にして創作した例文である。

 Foo utility combines the award-winning security technologies from Company Inc., including A, B and C, to provide complete protection for your PC.

 この文を素直に訳せば以下のようになるだろう。

Foo ユーティリティは、カンパニー社の A・B・C といった賞を受賞したセキュリティ技術を組み合わせることにより、PC を完全に保護します。

 でも、こんな広告文を実際に見たことある? なんかひっかかるよねえ。そう。「賞を受賞した」の部分が何かすわりが悪いと思わない?

 少なくとも、ぼくの語感からすると、この「賞を受賞した」は何か気持ち悪くて仕方がない。でも、その理由は必ずしも論理的にうまく説明できない。「賞」の字が重複しているせいだと思うかもしれないが、「受賞した」だけにしたり「賞を獲得した」に変えたりしても、この違和感は解消されない。

 違和感の原因として一つ考えられるのは、受賞した賞についての具体的説明が何もないことである。たとえば、「アカデミー賞を受賞した作品」「権威ある賞を受賞した製品」「数々の受賞歴に輝く企業」みたいな表現ならば、日本のメディアでも腐るほど目にする表現であって、何も違和感などない。

 ただ、award-winning という単語自体には、「権威ある」とか「数々の」という意味は含まれていないから、実際には業界お手盛りのくだらない賞かもしれないし、賞を獲った回数だって一度きりかもしれないのである。だから、何も考えずにこんな風に訳すと単なるウソになってしまう可能性がある。

 仕方ないので、ぼくはこの単語を訳すとき、実際にその広告の対象となっている企業や製品について調べて、それが本当に権威ある賞だったら「権威ある賞を受賞した」、複数の賞を受賞していたら「数々の受賞歴に輝く」などと訳すようにしている。

 また逆に「賞」という言葉にこだわるのをやめて、「賞を獲得できるほど評価の高い」という意味だけ汲み取って、「好評の」などと訳すこともある。いずれにせよ、なんとなくうしろめたい気持ちを抱きながら。

 おそらくマーケティング関係の英文を専門に訳している人は、こんな単語の訳し方はとっくに手法として確立しているに違いないし、そうでなくても単純にぼくが無知・無能なだけということも十分ありえるが、少なくともぼくは、この単語のうまい訳し方をいまだに思いつかないので、恥を忍んでここに晒してみた。

 ひょっとしたら、この違和感の裏には、英語圏と日本の文化差が潜んでいるのかもしれない。たとえば、英語圏では賞はすべて権威のあるものであって、賞をとっただけで十分評価に値するが、日本では賞にはそれほどの権威がなく、より具体的な記述がないとほめ言葉として成立しない、とかなんとか。

 もちろんこの説は単なる思いつきにすぎないが、訳しにくい理由がはっきりとわからないと、上記のような回避方法を選択するにしても今ひとつ自信がもてないので困るのだ。どなたか学のある方が研究してくれないだろうか。

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