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もっと再放送を!by出羽の守

 何かというと「欧米では」「アメリカでは」と外国を引き合いに出して日本をこき下ろす人のことを「出羽の守」と呼ぶそうだが、そういう人はぼくもあまり好きではない。もちろん、外国に本当に優れたところがあれば、それに学ぶことが悪いはずはないのだが、実際にはそうでもないことも多いからだ。昔はそういう文化人がたくさんいて、こっちも若くて純情可憐だから感心して聞いていたものだが、今思えばウソや誇張が少なからず混ざっていたと思う。

 たぶん、当時はインターネットがないのはもちろん、海外で暮らした人もそれほど多くなかったので、ウソや誇張があってもなかなかバレなかったのだ。そのため、出羽の守的な語り口が文化人の権威を高める道具として便利に使われていたのだろう。

 …とわざわざこんな前フリをしたのは、今回だけはあえて出羽の守をやりたいからである。ネタはテレビである。

 テレビ界が不況だと言われて久しい。それが世界同時不況のせいなのか、それとも、時代の必然なのか、いろんな意見があるとは思うが、それはひとまず保留する。ぼくが疑問なのは、あれだけ予算がない予算がないと言っているわりには、なぜもっと再放送を増やさないのか、ということである。

 欧米のテレビ局では、同じ週に同じ番組を何回も繰り返して放送することも珍しくない。というか、むしろそれが普通である。今はもう日本にいながらにして視聴できる海外局がたくさんあるので、知っている人も多いはずだ。

 たとえば、アメリカ発の CNNj の場合、「ファリード・ザガリアGPS 」や「ステート・オブ・ザ・ユニオン」のような週 1 回の番組なら、再放送を含めて週に 2 回ずつ放送する。「リビールド」のような月 1 回の番組は、再放送を含めて月に 7 回放送する。「アンダーソン・クーパー360°」や「ラリー・キング・ライブ」のようなライブの帯番組は、さすがに毎日 1 回ずつしか放送しないが、どっちにしろ帯だから毎日観れる。

 イギリス発の BBC ワールドはもっと極端だ。「ハード・トーク」 という討論番組は、ほぼ毎日放送のある帯番組に近いが、同じ内容を 1 日 3 回ずつ放送する。「アワ・ワールド 世界は今」 という週 1 回の番組は、再放送を含めて週に 7 回ずつ放送する。「ワールド・ディベート」 という月 1 回の番組は、再放送を含めて月に 5 回放送する。

 ディスカバリー・チャンネルナショナル・ジオグラフィック・チャンネルのような、ドキュメンタリー系のテレビ局になると、相対的にスペシャル番組が多く、1 回製作した番組を 1 年にわたって何回も繰り返し放送することが多い。もちろん、「怪しい伝説」のようなレギュラー番組もあるが、こちらもだいたい週 2 回ぐらいのペースで放送しているようだ。

 ひるがえって日本のテレビ局を見ると、週に 1 回しか放送しない番組が極めて多い。いや、ほとんどの番組がそうであると言ってもいいくらいだ。そして、これは番組の人気ともあまり関係がない。

 たとえば、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」という番組は、 ぼくにとって絶対に見なくてはならない番組だと言っても過言ではないが、いかんせん週に 1 回しか放送がない。ということは、この時間帯には他の番組は(チューナーをもう一台買うとかしない限り)絶対に観れないということなのである。

 ところが困ったことに、最近になって町山智浩氏が 「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」 という番組を始めた。町山氏のアメリカ関係のレポートは以前から高く評価しているので、この番組も面白いに違いないと確信しているのだが、なんと放送時間がちょうど「ガキの使い」の裏なのである。しかも、この番組にも再放送がない。ということは、ぼくはこんな面白そうな番組を永遠に観れないということなのである! こんな不条理があろうか。

 そういうのは個人的な事情だからひとまずおいて、日本と海外の番組編成になぜこのような明白な差があるかを考えてみると、おそらく、視聴者側の視聴習慣の違いなのである。思い切って単純化して言えば、日本の番組編成は、毎日決まった時間にテレビの前に座って、その時間に放送している番組のうちから観る番組を選択するような視聴者に適しているのに対して、海外の番組編成は、先に観る番組を決めて、その番組の放送時間に合わせてテレビの前に座ったり録画したりするような視聴者に適しているのである。

 ぼく自身も数年前から、テレビはほとんど録画でしか観なくなった。そうすると明らかに海外テレビ局の番組編成の方が便利であることが実感されるのだ。おそらく、そういう視聴者はぼく以外にも増えているはずで、それが日本のテレビ視聴率の長期低落傾向の一因にもなっているのではないだろうか。これをちゃんと立証するのはなかなか大変なので、あくまで想像だが。

 そういう前提に立てば、同じ番組の再放送を増やすということは、おそらくテレビ局自体の利益にもつながるはずなのだ。たとえば、「ガキの使い」の再放送を 1 回増やしたとする。その結果、今の放送時間の視聴率は少し減るかもしれないが、人気番組の放送枠がほとんどコストゼロでもう一つ増えることになるわけだ。両放送時間の合計視聴者数で考えても、まさか差し引きゼロということはないはずで、全体として少しは増えるだろう。もちろん、それより視聴者数の多い番組をもう一つ別に制作できればもっと視聴者を獲得できるわけだが、今のご時世にそれがそう簡単ではないことは明らか。さらに、制作費当たりの視聴数や利益率を考えれば、再放送の有利さがさらに増すのは言うまでもない。

 こう考えると、なぜ日本のテレビ局がもっと再放送を増やさないのか、不思議に思えてくるぐらいである。これは完全に下種の勘ぐりになってしまうが、その裏には、芸能界の構造問題みたいなものがあるのかもしれない。仮にテレビ局の利益だけ考えれば、再放送を増やした方が得だとしても、出演する芸能人の立場から考えれば、それによって仕事の場が減る可能性が高い。だから、あたかも年末の道路工事のように、無駄とわかっていてもやらざるをえない事なのかもしれない。

 あるいは、ひょっとすると、テレビ局の方々はぼくなんかよりもっと志が高くて、いつの日かまた視聴者がテレビの前に戻ってきて、ゴールデンタイムには必ずテレビの前で一家団欒をすごすという日が来ることを信じて、日夜邁進しているのかもしれない。プロのみなさんがそう考えているのだとすれば、ぼくなんかが何を言っても無駄だろうが、少なくともぼくには、そんな日が来ることはとうてい考えられないのだが。

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