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箱舟に乗れなかった恐竜たち

 先日偶然に発見したのだが、国際子ども図書館のウェブサイトにある絵本ギャラリーというのが楽しい。18~20 世紀の世界各地の絵本を紹介していて、それだけでも興味深いのだが、単に絵本の画像やテキストを公開しているのではなく、Adobe Shockwave Flash を活用したインタラクティブなコンテンツになっているところが特徴。まるで紙芝居屋さんのように、本文を読み上げながらページをめくってくれるし、BGM の演奏もついているし、外国語の本も日本語訳で読み上げてくれる。大人も子供も楽しめそうなウェブサイトである。

 紹介されている絵本の数は山ほどあるので、ごく一部しか鑑賞していないが、その中でぼくの偏った興味にひっかかったのが「アメリカの絵本・黄金期への幕開け」というコーナーにある「ノアの箱舟のおはなし」という絵本だ。

 子供向けの絵本の癖に、訳文の中に「賃金」「可能性」「紛争」「軋轢」「秩序」「確立」などという固い言葉が頻出するのに笑ったのはぼくの職業病に過ぎないが、中でも面白かったのは、恐竜のエピソードである。

 この絵本によれば、ノアは箱舟の中に、あらゆる種の動物をひとつがいずつ乗船させようとするのだが、恐竜だけは大きすぎて船に乗せられなかった。恐竜が今日絶滅しているのはそのせいだという。

 ぼくが通っていた幼稚園は、キリスト教の教会が経営していたので、「ノアの箱舟のおはなし」は子供のころ折にふれて聞かされた。だから、ぼくは平均的な日本人よりは多少この話に詳しいと思うのだが、こんな恐竜のエピソードは初めて聞いた。それも無理のない話で、だいたい、聖書が書かれたときには、恐竜の化石なんてまだ発見されていなかったはずだ。だから、この部分は明らかに恐竜発見後の創作なのである。

(より厳密に言うと、化石自体の存在は知られていても、それが過去の生物の身体が石化したものであることも確定していなかったし、ましてや、恐竜という現存しない生物のものであるとも特定されていなかった。)

 そもそも、ノアに箱舟の作り方を教えたのは神様であり、動物を乗せろと指示したのも神様なのだから、この解釈だと、全知全能の神様が明らかにミスをしたということになってしまうと思うのだが、そういうソフィスト的なツッコミは別にしても、この部分の記述は現代人から見るといろいろと興味深い。

 この絵本が出版されたのは 1905 年。ダーウィンが「種の起源」を発表したのが 1859 年、ワトソンとクリックによる DNA 構造の発見は 1953 年であるから、この絵本が出版されたのは、ちょうど、進化論が各方面に議論を巻き起こしていたが、まだ完全には認められていなかった頃だろう。この絵本の説明は、進化論に頼らずに恐竜の存在や絶滅を説明する方法として、キリスト教徒が考えた解釈の一つらしい。

 そう言えば、この絵本の冒頭近くにも、箱舟の建造に携わっていた労働者が賃金の値上げを求めてストライキを起こした、なんていう記述があり、当時のキリスト教保守派の人たちの共産主義や社会主義に対する反感がそこはかとなく詠みこまれているように感じる。そんなこんなで、子供向けの絵本のくせに、いろいろと当時の世相を感じさせてくれる本なのである。

 もっとも、いわゆる創造論者の中には、今でもこういう議論をしている方々が珍しくないらしい。たとえば、創造論者が創造論的にいろんな質問に答えてくれる Answers in Genesis というサイトがあるが、ここでも "Were Dinosaurs on Noah’s Ark?" (ノアの箱舟には恐竜は乗っていたの?)という質問は現役だ。こういうのを読むと、キリスト教徒の、あらゆる物事をちゃんと教義に照らして論理的に説明しようとする執念はすごいなと思ってしまう。

 そう言えば、最近ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルでやっている「聖書の謎」「聖書の謎2」というシリーズにも、ノアの箱舟の「遺跡」を発見することや、モーセのエクソダスで海が割れた原因を科学的に説明することに執念を燃やす奇特な方々がたくさん出てきて、ぼくなんかは半分飽きれながらも毎回興味深く観ている。ぼくみたいな無神論者の日本人は、「宗教と科学は別物なんだから、そんな細かいことどーでもいーじゃん」みたいな感覚になりがちだが、彼らはもっと真剣なのである。

 ぼくは、民族性とか国民性に関する通俗的な説には懐疑的な方だが、こういうのを観ると、彼等のなんでも論理的に説明しようとする執念はやっぱり日本人にはないなあ、と感じてしまうのも事実なのである。

(ただ一言だけ言わせていただくなら、最近の創造論者のように、聖書のテキスト一字一句にこだわるという態度は、もともと破綻の可能性を秘めている。仮に、神やキリストの存在を認めたとしても、聖書そのものは神ではなく人間が書いたものだから、間違っている可能性があるし、仮に聖書が神の意思を忠実に反映していたとしても、何が正しい聖書であるかも、ニカイア公会議とかで人間が決めているのだから、その選択だって間違っている可能性がある。だから、いくら原典・テキスト忠実主義をとったとしても、人間の意志の介在を完全に排除することはできないのである。このへんについて彼らがどう考えているのか、ちょっと聞いてみたい気がする。)

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TSE2009

 TSE というのは、証券取引所でも英語のテストでもなく、Total Solar Eclipse、つまり皆既日食のこと。日食当日はどうせアクセスが集中するだろうと思って、インターネット中継を予定しているサイトを事前にありったけ調べておいたのだが、当日になったら案の定ほとんどのサーバーが過負荷でダウンしていたので、結局は NHK の地上波で日食を観ることになったのであった。

 そしたらその NHK がさー、と以下数十行 NHK の悪口をぶーたれようかと思っていたのだが、たまたま佐藤亜紀氏のブログを見たら、ぼくが頭の中で作っていた草稿とほとんど同じような内容をぼくよりずっとうまく書いているのを見つけてしまったので、とたんに書く気がなくなった。ぼくが何を書きたかったかを知りたい人は、佐藤氏のブログを参照のこと。

 とにかく、NHK は無理に番組を盛り上げようとするのをやめたらいいのにと思う。今回はまだ硫黄島や海上が晴れていたから救われたが、もしあらゆる中継地が悪天候だったら、あの番組はどうなっていたかと想像するとぞっとする。おそらく、番組がドッチラケに終わったという印象を打ち消すために、スタジオでは総力をあげてトークだけで番組を盛り上げようとしていたに違いない。そして、「日食はよく見えなかったけど、あの昼間の異様な暗さを見れただけでも十分感動しました」みたいな失笑もののコメントを連発したに違いないのだ。

 そもそも、そんな痛々しいコメントをしなければならないのも、無理に盛り上げようとするからだが、百歩譲って盛り上げようとすること自体はありだとしよう。でも、実際に期待通りのことが起こらなかった現実は認めようよ。見たかったのは何? 「目の前で欠けてゆく太陽」なんでしょ? それを見れなかったんだから、素直に「残念でしたね」でいいじゃん。ああいうのは、スポーツ中継と同じで、予定調和でないところがいいんだからさ。それに、ここはスポーツとは違って、いくら残念を連発しても、太陽や月が余計なプレッシャーを感じてダメになるとかいうことはないわけだし。

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近代口語文体の歴史年表

 現在の日本で使われている言文一致体と呼ばれる文体は、明治以降にできたものだと言われているが、その形成過程を調べる際に役立ちそうな年表を作ってみた。もともとは、自分の勉強のために作ったものだけど、誰かの役に立つかもしれないので公開する。

 この年表は、近代の口語文体で書かれた文学作品を、発表年順に並べた年表であり、以下のような特徴がある。

  1. 著名な文章読本などに引用・言及されている作品に限定した
    • 当代の読み巧者とされる人が、なんらかの意味で優れた文体もしくは典型的な文体で書かれていると認定した作品だけを収録している
  2. 発表年順に年表形式で並べた
    • 作品同士の影響関係や、社会情勢・国語政策などとの影響関係がわかりやすくなっている
  3. 著作権が切れている作品については、インターネット上のフリーで入手できるテキストにできるかぎりリンクを張った
    • 作品名だけの文学史年表と異なり、実際の文体をその場で確認できる

 興味のある方は、こちらのリンクをクリックしてみてほしい。

 これを作ってみて思ったのは、言文一致体というのは、長い歴史があるような気がしていたけど、実際には思ったより短期間で完成したらしいということ。

 いろんな見方があるとは思うが、この表を見た限りでは、大正 1~5 年くらいには、ほぼ現在の言文一致体の基本は完成したと言ってもよいのではないだろうか。この時期に、森鴎外や夏目漱石は「渋江抽斎」や「明暗」で自らの文体を完成させ、新世代の文体の使い手である谷崎潤一郎・芥川龍之介・志賀直哉も登場している。その後の新感覚派とかになると、もう既存の文体を破壊する方向に向かっている。

 そこから、自然主義の開祖的存在である国木田独歩まで遡っても約 20 年、言文一致体の開祖と言われる二葉亭四迷まで遡っても 30 年程度である。30 年というと短期間とは感じない人もいるかもしれないが、日本語の歴史が数千年もあることに比べれば一瞬だし、人間の寿命と比較しても一世代でじゅうぶん体験できる範囲だ。

 山崎正和氏も書いていたけれど、言語というのは不思議なものだ。言語が通じるためには言葉を共有する必要があるから、言語にとってルールを維持することは不可欠だ。しかし、言語は社会の中の諸々を記述するための道具だから、社会の変化に合わせて常に変化していかなくては役にたたなくなる。つまり、言語を扱う際には保守性と革新性の両方が必要なのである。

 そう考えれば、優れた文体を創造したいと願う者は、同時代の日本人に通じることだけを考えるのではなく、未来の日本人にまで通じるような言葉を書こうと努力すべきなのだろう。言うまでもないが、未来の日本人に通じさせるためには、現在の日本語の中から、一時的に流行している表現と未来に残る普遍性のある表現をより分ける必要がある。つまり、逆説的だが、新しいものを未来に伝えるためにこそ、単に流行を追うのとは一線を画す保守性が必要だということになる。言文一致体を作り出した先人たちの努力も、そういうものだったはずだ。

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髭のない世界

 仕事にかまけて伸ばしっぱなしだった無精髭を剃りながら、ふと考えた。なぜ人間にはこんなものが生えるのだろう。これは実は何かの病気だったんじゃないのか。今でこそ、男性のほどんどがこの病気にかかるようになったから誰も驚かないが、歴史上初めてこの「髭」という病気にかかった人間は、さぞや驚いたに違いない。。。

  • 「ちょっと貴史、顔どうしたの? 口のまわりにゴマ塩みたいなものがいっぱいくっついてるよ。」
  • 「え? どれどれ…うわっ、なんだこれ? (あわてて洗い落とそうとする)あれっ? とれない。とれないぞ。あ! これは毛だ! 顔から毛が生えてる! オレの顔、どうなっちゃったんだ?」

  • 「貴史くん。まだマスクしてるのね。風邪治らないの?」
  • 「う、うん。なんかたちの悪い風邪らしくて。」
  • 「なんかガーゼの間から黒いものが見えるけど。」
  • 「こ、これは、食事してたらゴマ塩がくっついちゃったんだよ。オレ不器用だから。」
  • 「なんだ、そうだったの。お大事にね。」
  • (どうしよう。顔から毛が生えたと思ったら、それが成長しだして、日に日に長くなってる。このままじゃマスクでも隠し切れなくなるぞ。こんな毛だらけの顔を典子ちゃんに見られたら、ぜったいに嫌われる。いや、それどころじゃないぞ。きっとみんなから怪物扱いされてイジメられる。どうしよう…)

  • 「先生、お願いです。なんとかしてください。」
  • 「しかし、調べたところ、この毛の組織は他の体毛と変わらないようだ。つまり、頭や股間に生えるべきものが、たまたま顔に生えてしまっただけとも言える。しかも、他に身体に不都合はないのだろう? ということは、これは必ずしも病気とは言えないのではないだろうか。」
  • 「何言ってるんですか。不都合はおお有りです。こんな顔じゃイジメられるし、一生結婚もできないに決まってます。」
  • 「それだって、他の人間がたまたま顔に毛が生えていないというだけのことじゃないか。自分と違うからと言って他人を蔑むのは、悪しき偏見であり差別だ。だから君が悪いんじゃない。もっと自分に誇りを持ちたまえ。」
  • 「でもこんな顔いやです。」
  • 「しょうがないなあ。そうだ、剃刀で毛を剃ってみたらどうだ。この成長速度なら、1日1回剃れば、そんなに目立たないと思うが。」

  • 「やーい、毛人間!」「化物!」「怪物!」「怪物でもいっちょまえに彼女がいるのかあ?」
  • 「気にすることないよ、貴史くん。ちゃんと剃ってれば、ぜんぜん気にならないもの。」
  • 「でも、それはしょせん、見た目をごまかしてるだけのことだよ。ぼくは典子ちゃんや他のみんなと同じ人間じゃない。怪物なんだ。」
  • 「そんな悲しいこと言わないでよ。貴史くんは貴史くんじゃないの。」
  • 「でも、もしぼくの子供ができたら、その子供もこんな怪物になるかもしれないんだよ。典子ちゃんはそれでもぼくと結婚してくれるかい?」
  • 「………」
  • 「もういい。死んでやるっ!」
  • 「あ、貴史くん! 誰かきてーっ!」 

  • 「いやー、ごめんごめん貴史。お前のこと怪物扱いしたけど、考えてみたら、顔に毛が生えてるだけのことじゃないか。」
  • 「そうそう。オレも最初は気持ち悪かったけど、慣れてきたら気に入っちゃって。最近は剃り方を工夫するのがマイブームになってるよ。」
  • 「オレもだよ。見てくれ。この鼻の下の毛だけ残して、後は全部剃るってのはどうだい?」
  • 「うーん、なんか偉そうだなあ。演説で大衆を扇動し、戦争に駆り立てる政治家みたいな顔に見えるぞ。」
  • 「なんだそりゃ。見た目だけで人のこと決め付けるなよ。」
  • 「あはははは…」
  • 「あはははは…」

 この話を作品化したい方は、事前にご一報ください。ロイヤリティなどはご相談に応じさせていただきます。

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iTunes の保存先を NAS に設定すると楽曲のダウンロードができなくなることがある

 タイトルの通りである。iTunes でライブラリの保存先を NAS(ネットワーク接続ストレージ)に設定すると、iTunes Store から購入した楽曲がダウンロードできなくなることがある。

 原因もぼぼわかっていて、これは、NAS のファイル名と Windows のファイルシステムのファイル名との間の互換性が不完全なことが原因だ。NAS の場合、ローカルな OS のファイル・システムがそのまま使われる単純な拡張ドライブとは異なり、NAS 独自のファイル・サーバを稼動する必要がある。現在市販されている NAS の多くは、Windows のファイル・サーバの機能をエミュレーションするために、Linux Samba を利用している。そのため、Windows で使えるファイル名と NAS で使えるファイル名は完全に同じではないのである。

 具体的にどの環境でどの文字が使えないかは、いろいろ検索してみたが完全には解明できなかったので、当方の環境で確認できた結果だけ書く。当方で使っている NAS はバッファローの Linkstation シリーズの HD-HLAN120 という機種だが、この NAS では、波ダッシュ(Unicode U+301C)の含まれたフォルダ名やファイル名を作成することができない。しかし、Windows XP 上ではそういう名前も許されるので、iTunes Store からダウンロードしたファイルやフォルダの名前に波ダッシュが入っていると、ローカル・ドライブには保存できるのに、NAS に保存しようとするとエラーになってしまうのである。

(ちなみに、この波ダッシュというのは、Unicode と Windows の非互換性の問題に関していわくつきの文字らしくて、「波ダッシュ 全角チルダ 問題」などと入力して検索すると、多数のサイトがヒットする。)

 もちろん、この問題は、iTunes Store からダウンロードする際に限らず、ローカルなドライブから NAS にフォルダやファイルをコピーする際にも発生する可能性がある。ただ、Windows のシステムでは、そもそも波ダッシュという文字をキーボードから入力すること自体が難しいようになっているので、波ダッシュの含まれるファイル名やフォルダ名をわざわざ自分で作成することはめったにない。そのため、このような問題があまり顕在化しないだけである。

 この問題は、たとえば、次のようにすれば回避できる。

  1. iTunes のライブラリの保存先を、一時的にローカル・ドライブに変更する
  2. エラーになったダウンロードを再開する。今度はダウンロードできるはず。
  3. ダウンロードが完了したことを確認してから、ライブラリの保存先を本来の NAS に戻す。
  4. ローカル・ドライブにダウンロードされたファイルの名前を、NAS 上でも問題のない名前に変更する。(波ダッシュを全角チルダに書き換えるなど)
  5. 名前を変更したファイルを、NAS 上の本来の保存フォルダに、手作業でコピーする。
  6. iTunes の「フォルダをライブラリに追加」もしくは「ファイルをライブラリに追加」を使って、コピーしたファイルを改めてライブラリに取り込みなおす。

 実は、このトラブルについては、Apple のサポートにも報告したのだが、何回メールのやりとりをしても、見当はずれの回答をよこすばかりでラチがあかない。そもそも、Apple のサポートは、こういう問題が存在すること自体を認識していないらしい。仕方がないので、自分で調べた限りでは原因は上記の通りであって、回避方法も上記の通りなのだが、とどっちがサポートだかわからないような偉そうな説明をした上で、これは必ずしも御社の責任とは言えないが、わざわざそういうトラブルの原因となるようなファイル名を楽曲につけない方がいいのではないか? と一応意見しておいた。

 でも、現状の iTunes や iTunes Store を見る限り、いまだになんの対策も打たれていないようだし、インターネット上にもこの問題について解説したサイトが見当たらないので、ぼくと同じ問題にぶつかって悩んでいる人のために、ここに記しておくことにする。

 ちなみに、当方でこの問題が発生した楽曲には、以下のようなものがある。

アルバム名の「ヒーリング」と「バリ」の間が波ダッシュ 

アルバム名の「ヒーリング」と「インド」の間が波ダッシュ 

「ファム・ファタール~妖婦」という曲の「ファム・ファタール」と「妖婦」の間が波ダッシュ

これは波ダッシュではないが、「映画「8½」 ~ それから‥‥ (ワルツ)より」という曲の「½」の字が使えない

どなたかのご参考になれば幸いである。

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続・伝記の美化について

 NHK は伝記を美化しすぎではないか、という話を先日書いたばかりなのだが、またしても NHK を観ていて同じことを思ってしまった。そう、「クローズアップ現代」の「無頼棋士の遺した言葉」である。

 取り上げられたのは、先ごろ亡くなった囲碁棋士の藤沢秀行。知っている人も多いと思うが、この人は棋士としては偉大だったが、私生活の方は品行方正とはほど遠い人だった(その一端は Wikipedia の記事でもわかる)。

 たとえば、藤沢氏と付き合いのあった将棋棋士の米長邦雄は、こんなエピソードを書いている(前にもちらっと書いたように、ぼくはかつて米長の著書を愛読していたのだが、将棋連盟会長になって以後のこの人の言動には愛想がつきたので、あえて敬称は略す)。

 ある日の早朝、米長の家に藤沢氏が予告もなく訪ねてきた。家に入れてしまうと酒を付き合わされることは確実で、朝っぱらから酒が入ってはいろいろと差し支えると考えた米長は、仕方なく居留守をつかおうとした。すると、藤沢氏は、近所中に響き渡るような大声で叫んだ。

「お○○○ー! 米長はおるかあっ! お○○○ー!」

 世間体を考えた米長は、さすがに居留守をやめて藤沢氏を家に迎え入れざるおえなかったという。ちなみに、伏字になっているのは、沖縄では湖の名前にもなっているが関東地方では口に出すことをはばかられる例の四文字言葉であることは言うまでもない。

 藤沢氏が四文字言葉を叫ぶのは、なにもこのときに限ったことではなく、ほとんど口癖のように言っていたらしい。女性棋士が集まる部屋にあやまって闖入した藤沢氏が、「なんだ、この部屋には腐ったお○○○しかいないじゃないか」と言ったとか言わないとかいう話もある。

 もちろん、「クローズアップ現代」の放送では、こんなエピソードは何一つ紹介されていない。それ以外の品行方正とは言いがたい酒・博打・女関係の行動の数々も、冒頭で軽くほのめかされただけで、具体的には何一つ触れられなかった。そのため、番組中の藤沢氏は、囲碁道を究め弟子の育成に尽力した聖人君子のように描かれている。

 しかし、考えてみると、四文字言葉が口癖だったなんてことは、そもそも放送コードにひっかかるから、NHK では放送のしようがないのである。つまり、あまりにも品行方正からほど遠い人物は、NHK というメディアの特性として、特にそういう意図がなくても、必然的に美化せざるおえないという事情があるようなのだ。

(そう言えば、なぜダウンタウンは二人とも毒舌なのに、浜ちゃんより松ちゃんの方が憎まれるかという話を思い出した。松ちゃんが言うには、浜田の毒舌は過激すぎてそもそも放送できない。だから、オンエアではすべてカットされる。しかし、浜田の毒舌につられて言った松本の毒舌はすべて放送されてしまう。だから、オンエアでは自分ばかりが毒舌を言っているように見えてしまうのだそうだ。もちろんこれは冗談半分の説明だが、妙に筋が通っていて印象に残った。)

 しかし、これで藤沢秀行の人物像がバランスよく伝わったと言えるだろうか。もちろん、たった 30 分の番組で完全な人物像を伝えるなんて、もとより無理な話ではあるのだが、二つの極端な面のうちの片方しか伝えないのでは、デフォルメとしてもバランスを欠いているだろう。この番組の場合、対象が亡くなったばかりの一個人だからまだいいが、これがもし旧日本軍の実像とかだったら、美化しすぎという批判は免れまい。

 ぼく個人としても、藤沢秀行について最も興味があるのは、そのような両極端の性格が、どのようにして一つの人格に統合されているのだろうか、ということだ。そこにこそ、藤沢秀行という人格の秘密が隠されているはずだし、それを追求するのがドキュメンタリーというものだろう。しかし、そのようなドキュメンタリーを製作する上で、NHK というメディアは、出発点からハンデを抱えているようだ。

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