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調整がない?

<p><p><p><p><p><p><p><p><p>調整がない?</p></p></p></p></p></p></p></p></p><p><p><p><p><p><p><p><p><p>調整がない?</p></p></p></p></p></p></p></p></p>

 報道ステーションを見ていたら、盲目のピアニスト辻井伸行氏の受賞後初コンサートの特集をしていた。その中で、辻井氏が現代曲の練習をしている場面があって、「ちょうせいがないのでたいへん」というような発言をしていたのだが、テロップでは「調整(キー)がないので大変」という字をあてていた。

 この「ちょうせい」はもちろん「調整」ではなく「調性」なのだが、これだけなら単なる変換ミスと解釈できないこともない。しかし、その後にわざわざ「(キー)」などと挿入してあるので、かえって違和感を感じた。

 実は、この「調性」という日本語には、二種類の使い方がある。一つは、「この曲の調性はハ長調です」というような使い方で、この場合には、「この曲のキーはハ長調です」と言い換えてもまったくおかしいことはない。

 しかし、上の例のように、「この曲には調性がない」という意味で「この曲にはキーがない」とは言わないのである。少なくともぼくは、そういう用法をあまり見たことがない。この意味を英語で言いたい場合は普通、「この曲にはトーナリティ(tonality)がない」、もしくは、「この曲はアトーナル(atonal)である」と言うはずである。

 なぜこのような使い分けをするかは、意味を考えればわかる。曲に調性がある、というのは、その曲全体が特定の中心音を持つ音階(旋法)によって表現されていることを指す。したがって、調性を表現する音階にはさまざまな種類があり、それを区別するための名前が調である。調を最も特徴付けるのはその中心音なので、中心音が、1 オクターブの 12 音の中のどの音かによって調を識別する。だからこれをキーと呼ぶわけである。

 これはたとえば、「あの人の名前は山田です」という代わりに「あの人は山田です」と言ってもおかしくないが、「この村には人がいない」という代わりに「この村には名前がいない」といってはおかしい、というような話だと考えてもよいかもしれない。

 だから、このテロップを書いた人はたぶん、あまり音楽に詳しくないのではないかと思う。まあ、ぼくは自分もそれほど知識がある方ではないし、無知自体をそれほど悪く言う気はないが、わかっていないくせに誰にも確認せずに放送してしまうという根性はあまり好きになれないので、少々苦言を述べさせていただいた。

追記: 初稿を投稿してからいろいろ調べてみると、このキーという言葉の使い方は、実際にはかなりいい加減みたいなので、少し表現を和らげて書き改めた。英語の key も、特定の中心音を持つ音階を指すこともあれば、中心音そのものを指すこともあるみたいで、ネットを検索しても、"The music has no key " みたいな表現がまったくないわけでもないようだ。しかし、"The music is atonal" もしくは "has no tonality" という表現の方がはるかに多いようなので、やはりこの表現の方が一般的なのだろうし、誤解も少ないと思う。

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プライドと偏見

プライドと偏見 [DVD]  ジェーン・オースティンの古典「Pride and Prejudice」を映画化した「プライドと偏見」を鑑賞。ちなみに、原作は未読です。言葉を扱う職業の末端に連なるものとして、すこーし恥ずかしく思います。

 さて、何より印象に残ったのは、とにかく、映像やカット割りが凝っていること。特に、この監督は長回しにこだわりがあるらしく、その点ではスピルバーグ以上かもしれない。

 冒頭のシーンからして印象的だ。キーラ・ナイトレイ演ずる主人公のエリザベスが家に戻って来るところから映画は始まる。カメラは物干し場のあたりからずっとキーラを追い続ける。やがてキーラはドアの前まで来るが、中には入らず、そのままドアの前を通り過ぎる。そこでカメラはキーラを追うのをやめ、そのドアから家の中に入っていく。そしてしばらく家の中の様子を写してから向きを変え、入ってきたのとは別のドア越しに外を写す。すると、さっきドアの前を通り過ぎたキーラが庭を回ってちょうどカメラの前まで来ているのだ。これを全部ワンカットで撮っているのである。かっこいい。この瞬間に映画に引き込まれた。

 中盤の舞踏会のシーンなんかも圧巻だった。ダンスを終えたキーラが別の部屋に移動するのを追って移動を開始したカメラが、途中からキーラを追うのをやめて、あっちの部屋からこっちの部屋へと次々に移動し、その間にいろんな人物がフレーム・インしては小芝居をしてフレーム・アウトすることを繰り返し、最後にまたキーラのところに戻ってくる。それを全部ワンカットで撮っているというメチャメチャ長回しのシーンがある。舞踏会だからもちろん主要人物以外の役者も大勢うろうろしているわけで、一人でもヘマすればすべてが台無しである。完成した映像だけを見ると自然に見えるが、撮影にはさぞや手間がかかったに違いない。

 このような長回しのカット割りは、撮影に手間がかかるという意味で技術的に高度なだけではなく、ある種の雰囲気作りにも役立っている。頻繁なカットの切り替えは、映像の意味付けをはっきりさせストーリーを理解しやすくするが、逆に、映像がストーリー・テリングの都合だけで人工的に作られているような印象も与える。一方、長回しのカット割りは、現実に起こっている事件をドキュメンタリーで撮っているような臨場感を与える。また、カットの切り替えがあると、カットとカットの間のつながりが問題になるが、長回しにすれば、カットの間は最初からつながっているのだから、当然ながらつながりも自然になる。

 おそらく、このようにストーリーを性急に追わずに細部にこだわるような撮り方が、本作品のような古典にはふさわしいと、この監督は計算したのではないだろうか。そして、その計算は功を奏しているように見える。

 実際ぼくも、こんなふうにカット割りのことばかり気にしながら観ていたので、ストーリーの方は正直よく覚えていなかったりする。もっとも、ストーリー自体は、金持ちのイヤミな男が実はいい奴だったというありがちな話である。これはもちろん、古典だからしょうがないと思う。

 それでも最後まで退屈さを感じることがなかったのは、キーラ・ナイトレイの魅力も大きい。なにを隠そう、ぼくはああいうアヒル口で気の強そうな女性に弱いので、映画が終わるまでずっとキーラの顔だけを観ていても飽きなかったろう。まあ、そんな個人的な好みを知りたい人は誰もいないかもしれないが、彼女はこの演技でアカデミー賞の主演女優賞にノミネートされたらしいから、客観的に観てもいい演技だったのだろうと思う。派手さはないけど、丁寧に作られた好感の持てる映画だった。

 余談だが、この映画、レーティングは PG だが、性的なほのめかしは結構ある。たとえば、豚小屋に入ってきた雄豚の局部がなぜかみょーにはっきり写り、それを見たベネット夫人がニヤッとするシーン。あるいは、コリンズ師が説教の最中に「through intercourse」と言ってしまい、あわてて、「through the intercourse of friendship or civility」と言い直すシーンなどである。後者は、字幕では「交わりを通じて」と訳してあるが、その直後にわざわざ平静を装う女性の顔が挿入してあり、監督の意図は明白である。あまりに露骨にフロイト理論を踏襲しているきらいはあるが、おそらく、そういう暗示を通じて、当時の社会の性的な抑圧を表現したかったのだろう。

※ Wikipedia 英語版の「Long Take(長回し)」の項目を見ると、案の定、「Directors known for long takes(長回しで有名な監督)」に本作品の監督である Joe Wright が挙げられている。

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伝記の美化について

 「その時歴史が動いた」の「板垣死すとも、自由は死せず~日本に国会を誕生させた不朽の名言~」を NHK オンデマンドで観たのだが、観終わったら、なんか笑っちゃうぐらい索漠とした気分になってしまった。

 だって、美化しようとしすぎなんだもん。

 そもそも、板垣の人生自体そんなにドラマがないらしい。征韓論に敗れて下野した後は、政治結社作ったり地道に啓蒙活動や講演活動したりしてるだけ。だから、この番組をいくら見ていても、板垣の名台詞や劇的な行動なんて一つも出てこない。

 そんな中で唯一劇的と言えるのが、暴漢に襲われたときに言った「板垣死すとも、自由は死せず」という名台詞だ。でも、実はその事件でも板垣は死んでない。重症を負っただけで一命をとりとめたのである。もちろん、人の死を願っているわけではないが、ドラマとしてはなんとなくしまらない結末であることは否定できない。

 この回を観ていると、そんな盛り上がりのない板垣の人生を、なんとか劇的な話に仕立てようとする製作側の必死の努力が伝わってきて、痛々しいほどである。今日の「その時」の感動的な後日談をエンディングのところで紹介するのがこの番組のお約束だが、この回で紹介されたのは、板垣が療養に行ったら横断幕を掲げて待っていたみたいな実にショボイ話。つまり、そんな話ぐらいしかネタが見つからないほど、盛り上がりのない人生だったということだろう。

 もちろん、人生にドラマが少なかったり、劇的な行動や名台詞がなかったりしたからと言って、板垣が悪いわけではないし、本人の人間としての評価が下がるわけでもない。ただ、もともと劇的でないものを、テレビ的な都合で無理に劇的に演出しようとするから、観てるほうはなんかシラケてしまうだけである。

 さらに気になるのは、板垣に対する批判的な視点がまるでないということ。自由民権運動だって、自由という崇高な理想を目指すという建前以外に、薩長閥との権力闘争みたいな面がないわけはない。また、板垣が国会開設に果たした役割だって、どの程度のものだったかよくわからない。国会が開かれるのは時代の必然という面だってあろう。

 この番組の場合、そういう板垣に対する批判的な視点からの論評がなく、ひたすら板垣が偉い人のように描かれているので、かえってウソ臭く感じてしまうという面も否定できない。

 ぼくはこの番組を観て、偉人の伝記を美化することの是非について考えてしまった。この番組は、「子供に見せたい番組」みたいなアンケートだと決まって上位にランキングされる番組なので、お子さん方もたくさん観ているのだろう。だからこそ、サンタクロースの存在については子供にウソをつくことが許されるように、多少はキレイ事であっても許されるという考え方なのかもしれない。

 しかし、ぼくはそういう考え方に少し疑問を抱きつつある。ロールモデルとして偉人を求めるというのは、子供の普遍的な心理のように一般には思われがちだが、ちゃんとした学問的根拠があるのだろうか。ひょっとしたら、近代固有の時代精神の産物ということはないであろうか、などと思ったりもするのである。

 今はどうか知らないけど、ぼくらが子供だった時代に、子供向けの伝記の主人公として人気があった人物に、野口英世がいる。知っている人は知っていると思うが、この野口という人は、実は、借金魔で酒好き女好きの相当だらしない人物だった。なにせ、留学のためにみんなが集めてくれた金を、全部遊びに使い果たして留学できなくなりそうになり、ある人物に泣きついて金を出してもらったという、ちょっと呆れてしまうようなエピソードもある人なのである。

 この話をぼくに教えてくれたのは、星新一氏の「明治の人物誌」という本だった。たぶん、読んだのはまだ未成年の頃だったと思うが、そんな影の面を知ったからといって、ただちに野口英世に幻滅したり大嫌いになったりしたかというと、そんなことはなかった。むしろ、人間味があって面白い人だと思った。

 もちろん、これだけの根拠で結論に飛びつく気はないが、ぼくはやはり、子供にもできるだけ真実を伝えるにこしたことはないような気がしてならない。なんだか、いつの間にかリビジョニスト批判みたいな結論になっているが、特にそういう意図があるわけではない。まったくないわけでもないが。

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REBECCA の最高傑作は POISON である。異論は認めない。

POISON  なぜか無性に REBECCA を聴きたくなる。何を隠そう、ぼくもかつて REBECCA のファンだった時期があったのだ。もちろん CD もほとんどすべて所有していたのだが、何かのきっかけて売り払ってしまって、今はもう手元には一枚もない。

 しかたなくダウンロードのできるサイトを探しまわる。iTMS にはなかったが mora にあった。iTunes で聴けないのは不本意だが、どうしても聴きたくてたまらないという欲望に勝てず、何曲かダウンロードしてしまう。

 こういう若い頃好きだった作品って、年をとってから改めて鑑賞すると、幻滅させられることも多いのだが、REBECCA に関してはそんなことはなかった。もちろん、この時代の音楽の常として、リバーブがかかりすぎだとかスネアドラムの音が異様にうるさいとかいうような不満はあるが、そんな些細な不満はふっとばすだけの力のある作品である。

 REBECCA の曲というと、「フレンズ」とか「LONELY BUTTEFLY」とかが一般には有名なようだが、ぼくに言わせれば、REBECCA の最高傑作は間違いなく「MOON」である。異論は認めない。 土橋安騎夫のちょっとひねったメロディライン、NOKKO の歌詞と歌唱、バイオリンの音がゲート・ディレイできゅんきゅんきゅんと飛んでいく間奏部のアレンジ、すべてが完璧である。

 このバンドのアルバムとしての最高傑作も、この「MOON」が収録された「POISON」であろう。これも異論は認めない。このアルバムは、REBECCA の最高傑作というだけでなく、1980 年代の J-POP (という言葉はまだなかったのだが)の中でもベスト 5 ぐらいに入る作品ではないだろうか。まあ、YMO とかは J-POP には含めないとすると、80 年代でこれを超える作品って、サザンオールスターズの「KAMAKURA」ぐらいしか思いつかない。

 最近、80 年代はカスだみたいなことを言う人が多くて、ぼく自身もなんとなくそんな気分になっていたのだが、どうしてどうして、やっぱりいい作品はあったのだ。その事実を確認できてよかった。これで今夜はぐっすり眠れそうだ。

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音楽の新しい座標軸

 ちかごろよく、エレクトロニカの音楽史的な位置づけについて考える。単に、電子音やノイズを多用した音楽というだけなら、これまでにもたくさんあった。クラシックや現代音楽に分類される音楽で言えば、電子音楽とかミュジーク・コンクレートと呼ばれるものがそうであるし、ポップスに分類される音楽で言えば、テクノポップなどがそうであった。

 しかし、エレクトロニカはこのいずれとも違う。もちろん手法的には共通する部分は多々あるのだが、なんというか思想が違うのである。その思想の違いをうまく説明する方法を考えていて、一つの図式を思いついた。これも誰かがとっくに言っていそうな話ではあるが、一介のアマチュアとしては先行研究の調査とかしてるひまもないので、例によって思いつきを垂れ流させていただくことにする。

新しい音楽の座標軸.JPG

 この図式では、音楽のジャンルを 2 つの座標軸で分類している。そのうち縦軸の方は、楽音/非楽音という軸になっているが、これは音楽学で一般的に使われる用語と同じ。楽音というのは音程のある音で、非楽音は音程のない音である。楽音の典型は言うまでもなく楽器の音である。

 横軸の方は、ぼくが勝手に考えた分類で、あまり一般的ではないかもしれないので、少し詳しく説明しよう。

 まず、具体的というのは、音が現実世界の具体的な何かに強く関連付けられていることを指す。たとえば、ピアノの音は、ピアノという現実世界のものに関連付けられていて、ぼくらはピアノの音を聴くと反射的にピアノを思い浮かべる。もちろん、ピアノ以外の楽器の音もそうだ。

 しかし、こういう音は楽器音だけではない。ぼくらが生活の中で聞き慣れている音の中にも、現実の物や現象を強く想起させるものが少なくない。たとえば、海の潮騒の音やカメラのシャッター音などがそうである。ここでは、このような音を具体的な音と呼ぶことにする。

 一方、抽象的というのは、これと反対に、現実世界との関連性が薄く、現実の何かを想起させる力の弱い音を指す。これは定義からして必然的に、現実世界の音よりも、音楽でしか使われない音が多くなる。たとえば、テクノポップで使われるシンセサイザの音であるとか、エレクトロニカで使われるパルス音やグリッチ音がそうである。

 ここで、シンセサイザの音は、シンセサイザという楽器を想起させるから具体的ではないのかとか、逆に、伝統的な楽器だって音楽という目的にしか使えないのだから、抽象的な音に含めるべきではないのかとか思う人もいるかもしれない。

 これらはいずれも重要な論点であり、詳細な議論は別の機会に譲りたい。ただ、一つ言える事は、具体的か抽象的かは相対的な問題で、初めて聴いたときは抽象的な音も、聴き慣れるうちに具体的な音に変わるし、具体的な音も、コンテキストを置き換えることによって抽象的な音に変わるということだ。この座標軸は、そのうちのどちらの方向性を相対的に強調しているかで決めることにする。

 もう一つ興味深い問題を提起するのは、サンプリング音である。サンプリング音そのものは、現実の音を録音したものであるから、具体的なものや現象を想起させる具体的な音であることが多い。ところが、サンプリング音を加工したり別のコンテキストに置き換えたりすると、抽象的な音に変換することが可能なのである。

 たとえば、オーケストラ・ヒットなどと呼ばれる効果音がある。これは、実際のオーケストラの演奏をサンプリングして、その一部だけを切り取った音である。これを元のコンテキストとは無関係な場所で鳴らすと、もはやオーケストラの音には聞こえない。何か得体の知れない効果音に聞こえるようになる。一時期のヒップホップなどで多用されていたので、ご存知の方も多いと思う。このようなサンプリング音も抽象的な音の一種と言える。

 さて、この座標軸に基づいて音楽のジャンルを分類すると、上図のようエレクトロニカの位置づけがはっきりする。エレクトロニカは、楽音よりも非楽音を多用するという点で電子音楽やテクノポップとは異なり、具体的な音ではなく抽象的な音を多用するという点でミュジーク・コンクレートとも異なる。

 これまで、テクノポップやエレクトロニカを他のジャンルから分かつものは、デジタルなテクノロジであると一般には思われがちであった。しかし、現代の技術では、デジタルなテクノロジを使ってアコースティック楽器の音をそのまま出すことも可能であるから、テクノロジによる分類がなんら本質的でないことは自明だ。音楽の手法として本質的なのは、むしろ、ここで挙げた具体的/抽象的という軸なのであり、この軸を導入すれば、これまで混同されがちであったジャンルの本質的な差異がはっきりと浮かびあがるのである。

 この図式から観ると、エレクトロニカに近いのは、強いて言えば未来派であることがわかる。たとえば、未来派の主導者の一人であるルイージ・ルッソロの発明した「楽器」にイントナルモーリなるものがあるが、これは楽音ではなく非楽音を発生させる機械であった。

 未来派は 20 世紀初頭に起こった音楽ムーブメントだが、ファシズムに加担したりしたこともあってか、後を継ぐものもなく尻つぼみで終わってしまったらしい。現代のエレクトロニカがその思想を継承していると考えるのも一興かもしれない。

 ちなみに、この図式を思いついたきっかけは、リュク・フェラーリの「Archives sauve'es des Eaux(水から救出されたアーカイヴ)」という曲を聴いたことだった。 リュク・フェラーリは、一般にはミュジーク・コンクレートに分類されるアーティストだが、ぼくにはこの曲はどうしてもエレクトロニカにしか聴こえない。しかし、リュクの昔の曲はそうではないのだ。その違いはどこにあるのだろう、と考えているうちにこういう結論になった。

 リュクの昔の曲で使われている音は、同じサンプリング音でも、現実を想起させる力が強い音ばかりだが、この曲で使われている音は、オーケストラ・ヒットのように、あまり現実を想起させないように加工されている。それがエレクトロニカっぽく聴こえる最大の要因だと気づいたのだ。

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退廃芸術

退廃芸術(たいはいげいじゅつ、独:Entartete Kunst, 英:degenerate art)とは、ナチス近代美術を、道徳的・人種的に堕落したもので、ドイツの社会や民族感情を害するものであるとして禁止するために打ち出した芸術観である。

ナチスは「退廃した」近代美術に代わり、ロマン主義写実主義に即した英雄的で健康的な芸術、より分かりやすく因習的なスタイルの芸術を「大ドイツ芸術展」などを通じて公認芸術として賞賛した。これらの公認芸術を通してドイツ民族を賛美し、危機にある民族のモラルを国民に改めて示そうとした。一方近代美術は、ユダヤ人スラブ人など「東方の人種的に劣った血統」の芸術家たちが、都市生活の悪影響による病気のため古典的な規範から逸脱し、ありのままの自然や事実をゆがめて作った有害ながらくたと非難された。

近代芸術家らは芸術院や教職など公式な立場から追われ、ドイツ全国の美術館から作品が押収されて「退廃芸術展」など全国の展覧会で晒し者にされ、多くの芸術家がドイツ国外に逃れた。一方公認芸術は、「人種的に純粋な」芸術家たちが作る、人種的に純粋な「北方民族」的な芸術であり、人間観や社会観や描写のスタイルに歪曲や腐敗のない健康な芸術とされたが、その実態は農村の大家族や生活風景、北方人種的な裸体像が主流の、19世紀の因習的な絵画・彫刻の焼き直しにすぎなかった。

皮肉なことに、近代芸術を身体的・精神的な病気の表れである「退廃」だと論じる理論を構築した人物は、マックス・ノルダウというユダヤ人知識人であった。


ノルダウはこの理論を疑似科学的な根拠として用いながら、「世紀末芸術」や「世紀末」的文化状況の「倫理的堕落」に対して幾分俗物的な立場からの批判を行った。ノルダウはロンブローゾの理論に基づき、近代の芸術家もまたロンブローゾのいう「生来的犯罪人」同様、原始からの隔世遺伝的な退廃に冒され、身体的・精神的な異常を抱えていると断言した。彼にすれば、音楽文学視覚芸術などあらゆる形式の近代芸術には、精神的不調と堕落の症状が現れていると見えた。近代芸術家たちは身体の疲労と神経の興奮の両方に苦しめられているため、すべての近代芸術は規律風紀を欠き、首尾一貫した内容がなくなっているとした。ノルダウは特に印象派絵画、フランス文学の象徴主義、イギリス文学の唯美主義に攻撃を集中した。象徴主義の中の神秘主義思想は精神病理学的な産物であり、印象派画家のペインタリネス(絵画表面のありよう)は視覚皮質病気の兆候とされた。




- Wikipedia 退廃芸術

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春琴抄

むかしむかし、あるところに一組のカップルがいました。

彼女の名前は春琴。そして、彼氏の名前は佐助。

春琴は、大阪のリッチな薬局の娘で、三味線のうまい天才美少女。

佐助は、その薬局に住み込みで働いていた見習い店員。

二人は、ごく普通とは言いがたい恋をして、ごく普通とは言いがたい結婚を…、

いや、なぜか結婚はしませんでした。

でも、なによりも変わっていたこと。それは、彼女はドS、彼氏はドMだったのです…。

 というわけで、ドS 春琴とドM佐助のド変態カップル物語「春琴抄」を読む。

春琴抄 (新潮文庫) 春琴はリッチで天才で美少女だったが、幼くして盲目になってしまう。その身の回りの世話をさせられたのが佐助。佐助はやがて春琴に憧れるようになり、それが嵩じて独学で三味線を習いだす。当初は隠れてこっそり練習していたのだが、家の者にバレてしまい、それがきっかけで春琴から直接三味線を教わることになる。春琴は教え方もドSであり、佐助はしばしば泣かされていたが、ドMだったのでそれも快感だったらしい。

 やがて年頃になった春琴は身ごもり子供を生む。子供の顔からすると、父親はどう見ても佐助なのだが、二人ともなぜかその事実を認めようとしない。二人は表向きはあくまで主人と使用人あるいは師匠と弟子という関係のまま実家を出て同棲し、奇妙な共同生活を始める…。

 このように、肉体関係までありながら、あくまで主人として振舞い、佐助を奴隷扱いするドS春琴と、そんな関係をすすんで受け入れ、嬉々として春琴に奉仕するドM佐助との、不思議な関係の描写がこの作品の読みどころである。

 春琴はドSと言ったが、ツンデレの気もあるようだ。例によって現代口語文にリライトして引用すると、こんな感じ。

 ある時、佐助が虫歯になったことがあった。夜になると、右のほっぺたがハンパなく腫れ上がり、耐えられないほど痛みだしたが、佐助は一生懸命ガマンして表情には出さず、うがいをして息がかからないように注意しながら(春琴は臭いに敏感だった)春琴の世話をしていた。

 やがて、春琴は布団に入って、肩を揉んでとか腰をさすってとか言い出した。佐助が言われた通りにマッサージをしていると、今度は「もういい。足を温めて」と言い出した。

 そこで、佐助は春琴の足元に横寝して、春琴の足の裏を自分の胸に当てた。すると、胸は冷えるのに(春琴は冷え性だった)、ほっぺたは床からの熱でますます火照り、そのせいで歯痛がますます激しくなってきた。耐えられなくなった佐助は、春琴の足の裏を胸の代わりにほっぺたに当ててみた。

 すると、そのほっぺたを春琴が思いっきり蹴っ飛ばした。思わす「あっ」と言って飛び上がる佐助に向かって、春琴は言った。

「もう温めなくていいよ! 胸で温めろとは言ったけど、誰も顔で温めろなんて言ってないよ。なんであたしを騙そうとするの?」

「あんたが歯痛らしいってことは、昼間の態度でだいたいわかってたよ。それに、右のひっぺたと左のほっぺたの温かさが違って腫れてることぐらい、足の裏だってわかるよ。」

「そんなに辛いんだったら、正直に言えばいいでしょ? あたしだって、ちょっとぐらいはあんたを労わる気持ちだってあるんだからね!」

「だいたい、いつもは忠実な奴隷ぶってるくせに、ご主人様の身体を使って歯を冷やそうとするなんて。ずうずうしいにもほどがあるよ!」

 ツンデレ属性の方、いかがでしょう。萌えましたか?

 そんな微妙な関係がずっと続くのかと思われたが、やがて、二人の間にはある恐ろしい事件が起こり、それをきっかけにして、二人は真実の愛を得る。あるいは、そう確信することになる。ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかわからない、不思議な余韻を残す終わり方である。

 余計な装飾はほとんどなく、あらすじだけを淡々と描いたような小説だが、実話に基づいているせいもあってか、最後まで一気に読まされた。 さっき書いたようにツンデレ的な要素もあるので、ひょっとすると今の子が読んでもそれなりに楽しめるかも。

 言い忘れたが、この小説は文体もちょっと変わっている。段落の区切り以外には改行がまったくない。読点もなく、句点もところどころ省略されている。それでも、ほとんど抵抗がなくすらすら読めるのはさすがで、この文体は機会があれば研究の対象にしたいところ。もっとも、読点はともかく、句点の省略には必ずしも必然性がないような気もするが。

追記:検索してみると、「春琴抄」が元祖ツンデレというのは、結構言い古されたネタらしい(^^)。なお、ここで使っている「ドM」「ドS」という用語は、かの天才芸人松本人志が流行らせた用法を踏襲しており、学術的に厳密な用法ではないことをお断りしておきます(^^)。

追記: 「実話に基づいているせいもあってか」などと書いてしまったが、作中に谷崎自身が登場してさも実話であるかのように語る、というスタイルをとっているのはあくまで虚構の設定であって、実際には完全に谷崎の創作らしい。また一つ無知を晒してしまった。なお、春琴のモデルではないかと言われている人物はいるらしい。あくまでモデルだが。

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